| 【全巻セット】黄昏色の詠使い 全10巻セット〈豪華特典版〉 (富士見ファンタジア文庫) | |
| 細音 啓 | |
| (2014) | |
【全巻セット】
黄昏色の詠使い
全10巻セット〈豪華特典版〉
細音 啓

富士見ファンタジア文庫




黄昏色の詠使い
イヴは夜明けに微笑んで
細音 啓

富士見ファンタジア文庫
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口絵・本文イラスト 竹岡美穂
序奏 『虹と夜の交叉 ──始まりの、そのさらに前──』
1
じりじりと、拷問の如く照りつける太陽光。カーテンを閉めても遮断しきれぬ熱波。窓枠は、手を触れるだけで火傷するほど熱を帯びている。
教室の外、校庭に至っては陽炎たちの舞踏会。初夏というにはあまりに暑い。いや、ここまでくるといっそ熱いと喩えるべきか。
......いい加減、うちの学校も冷房設備を調えてほしいのに。
天井で頼りなげに稼働している送風機。それを横目で捉えつつ、ジェシカ・レビンディア教師は疲れ混じりの吐息を洩らした。
暑さのせいか、それとも夏の長期休暇がもう迫ってきているせいなのか。教壇の上から眺める生徒たちは、例外なく机の上で伸びきってしまっていた。夏休みの前の一斉試験も済み、授業に一番身が入らない時期であることは確かだが。
「ところで、みんなは何色を専攻するかもう決めた?」
汗で額に張りついた前髪を手で払い、ジェシカは腕を組んだ。教壇を下り、席の最前列に座る生徒へと歩み寄る。
「ゼッセル君は?」
うつらうつらと船を漕いでいた生徒の肩を叩く。目が覚めたらしく、当の生徒が慌てたように頭をかく。
「や、やだなあ先生、赤に決まってるじゃないですか!」
照れ隠しのつもりか、頰を紅潮させたままその生徒は大声で返してきた。
「言うと思った。ゼッセル君はずっと前から赤が好きね」
「見た目に一番派手じゃないすか。火、使った名詠なんてめちゃくちゃかっこいいし」
手振りを交えて説明する生徒の後ろで──
「懲りねえなぁ。そんなこと言っておまえこの前、焚き火に手突っ込んで火傷じゃん」
ゼッセルの後ろに座る、眼鏡をかけた生徒が茶化す。教室の至るところからくすくすと響く笑い声。
「じゃ、じゃあミラー君は何色にするの?」
口げんかを始めそうになった二人を押しとどめながらジェシカが聞くと、その生徒は眼鏡の位置を直しながら。
「『生命はその身体の内に海を含む』──青ですね。生命は水から生まれた。その水から物を取り出すというのが非常に意味深いものだと思うので」
ミラー君、キミだってそう言って、この前プールで溺れかけてなかったかしら。内心の苦笑を隠しつつ、その背後に座る女子生徒へと視線を向けた。
「エンネ、あなたは?」
「わ、わたしですか」
声をうわずらせ、少女が恥ずかしそうに顔を赤らめる。
「ええ。あなたは何色を専門に勉強したいの」
「わ......わたしはそのぉ......白です......有翼馬を詠んでみたいから......」
有翼馬といえば白色名詠式の中でも相当に上の難易度になる。おとなしくてひっこみがちの少女だが、しっかりと自分の目標を定めているところが彼女らしい。事実、今回の一斉試験でも彼女は上位成績者に食い込んでいたはずだ。
「エンネならきっと詠べるわよ。その気持ちを大切にね。上達に一番大切なことが『詠び出したい』っていう気持ちなんだから」
顔を赤らめたままの少女がこくりと頷くのを見て、ジェシカはさらに同じ問いをクラスの生徒に聞いて回った。
一人を残した時点で、一番多かったのは最初に声の上がった赤色、二番目が青という順番だった。三番目にほぼ同順で緑と黄色。逆にあまり声の上がらなかったものが白。ミドルスクールに見られる典型的な人気順と言っていい。
──さて残り一人。だけど......この一人が問題なのよね。
他の生徒もそれが分かっているらしく、いくぶんざわざわと騒ぎ出す。
最後尾、教室の端に座る少女に視線をやる。濡れ羽色の髪を肩まで伸ばした、思春期の女性にしてはあまりに細い体つきの少女。
「イブマリー、あなたは......その......あれだっけ?」
「はい」
イブマリー。そう呼ばれた少女がさも当然とばかりに首肯する。
「わたしがしたいのは『夜色名詠』です」
その途端、彼女を取り巻く周囲が一斉に歓声を上げた。
「うわっ、相変わらずその決まり文句かよ!」
「まだ言ってるの、頑固ねイブちゃん」
とにかく大声を上げる者、友人同士笑い合う者。反応はそれぞれだが、それに共通しているのはイブマリーという少女の発言を小馬鹿にしている点だ。
「はいはい、みんな少しは落ち着きなさい」
ざわついた教室を鎮め、ジェシカは再度少女へと向き直った。
「......ねえイブマリー、他の色に興味はないの?」
「ありません」
少女がわずかにまぶたを揺らす。そんな色の名詠式などハイスクールの選択色にはない。というよりも、そんな色の名詠自体がこの世界に存在しないのだ。
──エルファンド名詠学舎。それがこの学校の正式名称である。
その名の通り、この学校の生徒たちは『名詠式』と呼ばれる技術を会得することを目標にしている。名詠、すなわち相手の名を詠うこと。出会いたい物、詠び出したい物を心に描き、その名を賛美することで自分の下へと招き寄せる技術。その特徴は『色分け』だ。
人が目で捉える自然世界の『色』とはすなわち、可視光線の波。つまり同色の物質は、同波長の光エネルギーを有していることになる。一言で言うなれば、その共通項を利用し、物体の転送を行う技術が名詠式である。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。
一般に、名詠式とは五色の音色から成り立つとされている。可視光線の基礎となる七色の中から四色、そしてそれに白を加えた五色が名詠色として存在する。
現状、その五色以外の名詠式は式として成立していない。世界中の研究者が挑み、それでもなお、この五色以外の名詠式の確立は不可能とされているのが現実。
それなのにこの少女は、ミドルスクールに入った時から自分の主張を一向に変えようとしないのだ。夜色名詠という名の主張を。
「......そう。でも、自分のやりたいことがはっきりしてるというのは素敵よ、イブマリー」
あれだけクラス中から茶化されたというのに、この少女はまるで動じていない。それだけを評価するならばこの生徒は非常に大人びているのだが、自分の主張を絶対に変えようとしない点はまだまだ子供のようにも見える。総じてとらえどころのない生徒だ。
夜色名詠とは何なのか。担任として何度か彼女の話を聞こうとはしているが、彼女はどうにも要領を得ない答えしか返さない。
ふと教室に響き渡る、五時限目終了の鐘。
最後の授業が終わったことに胸をなで下ろす。身体を溶かされるような暑さに耐える必要が無くなったのと、この少女の相手をしなくて済むという理由でだ。
「今日はここまでにしましょう。わたし今日は会議なの。今すぐ出なきゃいけないからホームルームは無し、掃除当番以外は下校していいわよ。当番、今日はイブマリーとビィだったわよね」
下校の準備でにわかにざわめき出す教室。その様子をしばし見つめた後、ジェシカは教室の扉へとつま先を向けた。
2
閑かな、人の吐息の響かぬ教室。下校の刻を告げる鐘だけが鼓膜をゆらし、窓から射し込む熱い夕陽だけが視界を埋める。
壊れかけの、錆びた釘が覗く木製のロッカーに箒をしまう。
微風に揺れる髪をおさえることも無く、少女は独り、窓の外の光景を眺めていた。
──うわっ、相変わらずその決まり文句かよ!
──まだ言ってるの、頑固ねイブちゃん。
いつも。いつもそうだ。
からかわれてばかり。馬鹿にされてばかり。教室のクラスメイトも担任教師も......いえ、周りに映る誰もが自分を笑い、そして通り過ぎていく。
「......噓じゃない」
ぽつりと呟く。悔しいとは思わなかった。とうに、罵倒も嘲笑も聞き慣れたから。
誰にも理解されなくて構わない。理解される、受け入れられることを望む方が間違いなんだ。
とぼとぼと、教室の隅、カーテンの揺れる窓辺へと向かう。
「──綺麗な夕陽」
校舎の二階。それほど高い場所から眺めているわけではない。だがそれでも、少女はこの窓から眺める景色が好きだった。
眩しいほどに輝く夕陽。見る者を照らし祝福する──自分の目指す『夜色』とあまりに真逆のもの。......そう、きっと、自分には出来ないことだからこそ憧れるのだろう。
でも。それでもわたしは──
不意に、微風に撫でられ少女はまぶたを閉じた。
夕陽の熱を攫う心地よい風。その風に、しばし身を委ね......
「──Isa Yer sherienaxeoi pel」
独り言のように呟き、少女が吐息を洩らす。
「miqvy elmeinehhevirgia-c-fifsia」
吐息、否。

夕暮の風に踊るそれは、歌だった。
zette ovanYer bezarabearcsolituqs
Lears necktele ravience Shadir Isa jesqusi xinfears togapeg ilmei shel
jes kless qusimedolialef cirkus,medolialef zarabel
Hir sinka I,bekwistWeR muasririsiaharmonelef twispel
Yer shesaria stiglef xeoipeg pel
U dalostasiadremrenIsa daboemafotondoremren
O univa smthes hypne
endeYears besti ......
歌の終詩を目前にし、だが少女の奏は唐突に止んだ。
口をつぐみ、ゆっくりと少女が振り返る。
「......最後まで聴きたかったのに」
がらんとした空虚な教室。いつの間にか、自分のすぐ後ろの席に見覚えのある少年が座っていた。
「すごく澄んだ歌だね。ちょっと悲しげな旋律だけど、今まで聴いたどんな曲より繊細で綺麗だった。君が創った歌かい?」
......あなたなんかに言う必要ないでしょ。
応えることすら煩わしく、相手から即座に背を向ける。が──
「ねえイブマリー。理論構築はできているのかい?」
その一言で、無意識のうちに足が止まった。
「理論?」
オウム返しに呟くと、相手は片眉をつり上げてみせた。
「夜色名詠のさ。まさか既存の色のままで通すつもりかい?」
「あなたにそれを言っても仕方ないでしょう、カインツ」
カインツ・アーウィンケル。クラスの中でこれと言って特に目立ったポジションではない生徒だ。成績も学年で中位程度。友人も多いようだが、かといってクラスの代表格という立場でもない。彼とこうして話すのもせいぜい二回か三回目だろう。
「つれないなぁ」
茶なのか金なのか。どちらとも言えぬ髪を少年が微かに揺らせる。それから目を逸らし、彼が手にした物を凝視する。
「今日はビィがわたしと一緒の掃除当番だったと思ったけど、なんであなたがここにいて箒を持ってるの?」
「代わってあげたのさ。彼明日の発表担当だから、今から図書館に籠もって缶詰だって。でも来るのが遅かったみたいだね。君に全部やらせちゃったようで」
箒を無造作に放り投げるカインツ。窓枠に手をつき、外を向いたまま彼が肩をすくめる。もっとも、自分の方は彼のそんな仕草に付き合うつもりはないが。
「......話は終わり? じゃあわたしは」
これで帰る。
そう言い捨てるより早く、彼の方がじっとこちらを見つめてきた。
「触媒は何を使うのかい」
──触媒?
触媒とは名詠式に必要不可欠な道具だ。名詠対象との波長交換を行うためになくてはならない代替物質。名詠と名の付く以上、夜色名詠だって何かを触媒にする必要がある。この少年はそれが何かと聞いてきていることになるのだが......
「あなた、なんでそんなこと気になるの」
他人から今まで聞かれたことはせいぜい、「夜色名詠とはなんだ」といった程度。理論構築の進行具合や触媒で使う物質といった細部など、担任教師にすら聞かれたことがない。
と。詰問する自分から目を逸らすようにそっぽを向き、彼は窓枠越しに階下を指さした。
「今回の一斉試験の結果だけど、一階の中央通路にその結果が貼り出されてた。五科目総合で成績優秀者に君が載ってたよ」
五科目とはとどのつまり、五つの名詠色を指す。名詠の触媒列記から始まり、有名な名詠実験の成功例・失敗例の原因推測などが出題される。範囲指定はされず、日頃どれだけ名詠式に熱心であるかが問われる試験である。
「それがどうかしたの?」
「しかも、上位学年をさしおいて一位だった」
「偶然て、怖いわね」
その瞬間。彼の口の端がつり上がった。
「違うね。君が点を落とし忘れていたからだ」
毒を含むように。彼の口調がいくぶん強いものになる。視線そのものは窓の外、学舎の校庭を向いたまま。なのに、直接目を向けられるよりも鋭い圧迫感。
「その気になれば毎回その順位がとれるんだ。いつもは点を抑えてるに過ぎない。ところが今回は試験の点数を落とし忘れた。違うかい?」
「冗談。勝手に持ち上げてもらうのは迷惑よ。そんな訳の分からないことする人いるわけないでしょ」
吐き捨てるものの相手の表情に揺らぎはない。そのくらいの反論はとっくに予想してたとでも言いたげな──対峙する自分からしてみれば癪に障ることこの上ない──余裕。
「いるんじゃないかな。現にボクがそうだしね」
「......あなたが?」
「ちなみにボクの場合、試験問題の半数だけ解いてあとは白紙で提出してる。時々先生から問い詰められるけど、そこらへんはいくらでも誤魔化しが利くからね」
──意味が分からない。何のために。
「ん? たぶん君と同じ理由だと思うけどね」
「......わたしと同じ?」
「年度末までの試験。その点数合計で上位成績を取ると王立研究所からスカウトがくる」
続きを促すその前に、少年は自分の方から言葉を継いできた。
「確かに将来は安定だけど、研究所付属のハイスクールに行ったところでまず待っているのは、お偉方の助手。悪い言い方をすれば下働き。そんな窮屈な真似はまっぴらごめんだ。君もそれが嫌なんじゃないかと思ったんだけど」
彼の白い制服が夕陽に紅く染まる──そんなどうでもいいことすら気づくほど、自分がその少年を見つめていることに気づき、イブマリーは我にかえった。
......いつの間にか胸の鼓動が大きくなっている。
自分の動悸が彼に届いている錯覚すら感じ、イブマリーは胸を無理やりに押さえつけた。
そうしなければ、この少年にあたかも心の奥まで見透かされてしまいそうな錯覚を覚えたから。
「つまり君は、将来の安泰を放棄してでも成し遂げたいことがあるということだ。となると、夜色名詠式とやらも信じざるを得ないだろう?」
「......そうだとして、何が言いたいの」
ゆっくりと、彼が視線を向けてくる。
今の今までその言葉だけを待っていたんだ。そんな声音で。
「君が夜色名詠士になりたいように、ボクにも目標があるんだ」
いたずらっぽい表情から一転、はにかんだような、照れたような──普段教室で見せない表情を彼が浮かべる。
それを眺めるうちに、奇妙な、自分自身にすら理解できぬ気持ちを覚えた。
〝君が夜色名詠士になりたいように〟
そう告げた彼の双眸に、それを馬鹿にするような光が一切灯っていなかったからだ。
クラスの友人や教師。今まで見てきた全ての他人は、呆れ半分に唇を苦笑へと歪ませていた。なのに、この少年にはそれが無い。
──あなた、本気でわたしの言ってること信じてるっていうの?
今の今まで鬱陶しいとしか思わなかったはずなのに。ゆっくりと、少しずつ動悸が速まっていく。それも不愉快な動悸ではなく、安らかで穏やかな鼓動。
「目標があるって......どういうこと?」
乾いた唇で、かろうじてその単語だけは紡ぐ。
「お、ようやく興味をもってくれたみたいだね」
「......もったいぶるなら言わなくてもいいわよ」
「あ、待って待って」
こちらが顔を背けようとする前に、彼の方は苦笑を押し殺しながら慌てて答えてきた。
「ボクが目指すのは虹色名詠式なんだ」
「虹色?」
聞き覚えのない単語、思わず口に出して反芻してしまう。
「うん。別に、君みたいに新しい名詠式を構築しようというわけじゃない。『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。五色全てをマスターする。全部あわされば虹色みたいだろ? それがボクの目標」
「無謀ね」
溜め息一つ、大仰に肩をすくめてみせる。
何を言うかと思えば。まさかそんな突拍子もないことを言ってくるとは思わなかった。
一つの名詠色を極めるのにすら標準で十年以上かかるとされている。仮に赤を習得したとしても、次の青で今までのノウハウが全く通じないというのが名詠式の特徴だ。
名詠という分野で一括りにされているとはいえ、一色ごとにその理論体系はまったくの別物。彼自身の発言である「理論構築、まさか既存の色のままで通すつもりかい?」という言葉にも当然その意味が込められている。
たとえ十年で一つ極めたとしても、その頃には当然体力も脳の働きも弱まっている。現状では三色極めるのが限界とされているほどだ。
「仮に出来たとしても、その頃にはいいおじいさんになってるのが関の山よ」
揶揄混じりに微笑する。
「そうかい? 君の挑戦と良い勝負だと思うんだけどなぁ」
「わたしはおばあさんにはならないわよ。どうせその前に死ぬから」
感情のまま吐き捨て──
......しまった。
その直後、イブマリーはそれを後悔した。
......わたし、なんてバカなことをしたんだ。
誰にも伝えるつもりのなかったことを、ただの発作的な感情だけで呟いてしまうなんて。
苦々しく表情が歪んでいるのが自分でもわかる。あまりの失態に、その表情を隠す気にもなれなかった。
「イブマリー......まさか本気じゃないよね」
先とは属性を異にする彼の視線。
目を逸らそうとして、だができなかった。身体の一挙一動に至るまで少年の視線が刺さる。鋭い刃と同じ。無理に抜こうとすればかえって出血を強めてしまう。
噓をついても良かった。あるいは、たとえ噓と看破したところで、この少年ならばそれ以上追及してこないということもわかっていた。
だがそれでも──
「わたしの家系、代々身体が弱いの。みんな早死にしてる。わたしのお母さんも、わたしを産んですぐ死んじゃった。......わたしもきっとそう。あなたみたいに五色全部マスターしようなんて考えたこともなかった」
気づいた時には口唇からその言葉が洩れていた。
一欠片の偽りもない、飾りようのない本音。喋っている自分でも止められなかった。
──初めてだったからだ。
目の前に、自分の言葉の一つひとつに耳を傾けてくれる少年がいた。
夜色名詠のこと。自分のこと。初めて、自分の話を真剣に聞いてくれる人がいた。
教室の生徒も担任教師も、周囲の大人も。自分の言うことを子供の空言として誰一人相手にしてくれなかった。だけどこの少年は──
「......ホント言うとね。わたしも既に病気が発症してるみたい。もう時間がない。だから、せめて最後に何かしたいの」
そう──夜色名詠はそのためのもの。
不意に、彼が視線をわずかに背けた。
......ばか。正直すぎるのよ。
皮肉だ。自分の目が濡れていることに気づいたのは彼のその素振りからだった。
──わたし、なに泣いてるんだろう。悲しいから?
違う。なんだろうこの気持ち。いえ。そもそもわたし、普段ならこんなとこで絶対泣いたりしないのに。
わずかに吐息をこぼし、制服の袖を目の端にあてる。
「......理論構築できてるかって訊いたわよね。半分くらいは頭の中で見えてきてる。触媒もチャネルの方も。まだ幻想みたいなものだけどね」
こぼれた分の涙をぬぐうと、彼の方も視線を戻してきた。
「イブマリー。一つ訊いていいかな......君、夜色名詠で何を詠び出したいんだ」
「ひみつ」
くすりと、我知らずのうちに洩れる笑み。つくり笑いは得意ではない。自然に、その少年に向かってイブマリーは微笑んでいた。
「ねえ。間に合うと思う?」
何が間に合うのか。とは彼は聞き返してこなかった。
「わたしが生きているうちに。誰もしたことがない、誰も見たことがない新しい名詠を完成できると思う?」
一歩だけ、その少年に近づく。
結局のところ、彼も自分と同じだった。噓がつけない。すぐに表情に出る。
躊躇わずに肯定したところで、それがただの憐れみとしか映らないことを少年は理解している。分かっているから容易に頷くことができない。否定することもできない。
頷くことも、首を横に振ることもしないまま時間だけが経過し──
「ボクと勝負しないか?」
唐突に彼は言ってきた。
「......え?」
「君が夜色名詠を完成させる前にボクは五色を極める。あと二十年、いや、十年以内にやってみせる。だから君も約束してくれ。君が生きてるうちに夜色名詠を完成させてボクに見せるって」
十年で全ての名詠式をマスターなどできるわけがない。この本人が誰よりもその難しさを理解しているはずなのに。
......頑固ね。
この少年は間違いなく馬鹿だ。どうしようもないくらい意固地な堅物だ。
吹き出しそうになるのをイブマリーは必死でこらえた。
──でも、そういう無謀な挑戦は嫌いじゃない。自分もそうだから。
その言葉を心の奥底で押し止めたまま。
「......もし完成したら」
つなげようとした言葉の前に、胸の内から何かがこみ上げてきた。
喉の奥が熱い。熱くて苦い。
泣いたせいだ。そう思った途端、またしずくが頰を伝っていく。
......一番最初に見てくれる?
少年が頷くのを見て、少女はもう一度涙をぬぐった。
遠い、離い将来。しかし──
約束をかわした二人は対照的な道を往くことになる。
一人は二十代にして史上初の試みに成功、その名は瞬く間に世界中に知られ、生きながらにして神格化される。今なお、彼に弟子入りを志願する者は年間百を超えるという。
もう一人。同じく、世界初の試みに挑んだ者。
しかしその成否は知られていない。目的を達成できたかどうかは誰も知らない。弟子入りする者もいないまま、世界に名を残すこともないまま。
誰の目にも触れられず世界を放浪し、彼女は大陸のどこかで没したとされる。
一奏 『赤と夜の練習歌』
1
「おーいクルル、どれにするか決まったぁ?」
雑貨売り場の片隅から、まったく反対側の隅にいる自分に向けてミオが声を張り上げてくる。
......もう、そんな大声出さなくても聞こえてるわよ。
小走りにやってくる友人に半ば呆れたまなざしを送り、クルーエル・ソフィネットは首を横に振ってみせた。
それほど広い売り場でもなく人で混雑しているわけでもない。ミオに向けて肩をすくめてみせると、その本人は左手に抱えた緑色の画用紙を掲げた。
「えへへ。あたしこれに決めたの。ちょうど良い大きさだと思わない?」
紙の色に似た、モスグリーン色の瞳で彼女が見つめてくる。ミオ・レンティア──小柄な背丈と可愛らしい幼顔が特徴の少女だ。自分と同じ十六歳だが、外見の印象とのんびりした口調ゆえそれより一つか二つ幼く見える。
「まだ悩んでるのよ。画用紙も一度候補に考えたんだけどね」
「画用紙いいと思うな。使い終わっても折り紙できるから」
無邪気な笑顔のまま金色のショートボブを揺らせるミオ。
「カエル詠び出した紙で折り紙するの......? わたしはそれちょっとヤだなぁ。なんかべとべとしてそうだもん」
「じゃあクルルは何にするのよ」
それが問題なのよね。顔にかかった長髪を振りはらうふりをして、かみつくように言ってくるミオから目を逸らした。
自分たちの通う名詠学校。そのスクール生による競演会まであと四日。
競演会──生徒それぞれが各自、自分の詠び出せる最高の物を名詠し、その技術を競い合う。著名な名詠士も審査員として大勢招かれる一大イベントである。自分たち低学年にはもっぱらお祭り騒ぎだが、最上級生にとっては進路を左右する重大な場でもあるらしい。
「うん、やっぱりこれでいいよ」
さんざん迷ったあげく、クルーエルは売り籠から赤い絵の具チューブをつまみあげた。
「えー。絵の具なんて学校でいつも使ってるじゃん」
不満そうにミオが頰を膨らませる。
ハイスクールへの進学時点で、生徒は自分の専攻色を決めている。ミオは緑。クルーエルは赤。今回の競演会もその色で名詠を行うのだが、問題は何を触媒として用いるか。ミオが緑色名詠の触媒として緑の画用紙を選んだように、赤色名詠の場合も、とにかく赤い物質であれば触媒としての機能をもつ。
それゆえ自分は赤色の塗料を選んだのが──どうもそれがミオには不満だったらしい。
「いつも使ってるからこそ安心して使えるのよ。いろんな人が見に来るんでしょ。失敗して何も詠べないってのが一番恥ずかしいもん」
「むぅ。それはそうだけどさぁ。なんか物足りなくない?」
肩をいからせながら、彼女。......ミオって時々変なところでこだわるなぁ。
「いいのよ別に。まだ大したもの名詠できるわけじゃないしね」
不満を口にする友人を後目にカウンターへ向かう。
「ほら、帰って明日の宿題の答え合わせするんでしょ。いま迷ってたら時間もったいないじゃない」
「でもなんかなぁ......」
まだ頰を膨らませる少女の腕を取り、クルーエルは彼女を引きずるように歩き出した。
「ぶつぶつ言わない。さっさと帰るわよ」







見渡す限り延々と続く歩道を歩くこと半時間近く。ようやく視界の端に目的の場所が浮かび上がってきた。
トレミア・アカデミー。トレミア天立研究所付属の名詠式専修学校として、世界有数の知名度を誇る。初等部から高等部まで備え、その敷地面積・施設設備も他の専修校より頭二つ抜けている巨大学校だ。
「ねえねえ、クルルぅ」
画用紙を小脇に抱えながら、ミオが猫なで声ですり寄ってくる。こんな時、彼女の次の台詞はおおかた予想がついていた。
「家帰るの面倒だからさぁ、今日クルルの家泊まっていっちゃだめ?」
──やっぱりいつものことだ。
「はいはい、ご飯作るの手伝ってね」
頷く代わりに、両手に抱えた買い物袋を持ち上げる。
クルーエルは元々地方の出身だ。トレミア・アカデミー進学を機に、今はその学園の寮に入って一人暮らし。ミオの方は自宅から毎日学校に通っているが、その通学時間は往復で優に四時間を超えるらしい。夜遅い時など、自分の部屋で寝泊まりするのがお決まりと化している。
「......でもさぁ、なんでこんなに暑いのかなぁ」
隣を歩くミオが前ぶれなく口をとがらせる。その額にうっすらと小粒の汗。
「夏だからでしょ」
どう返答していいか分からず、クルーエルはごく当たり障りのないことを口にした。
ミオの気持ちも分からなくはない。太陽の熱を吸収し、靴の裏から足を焦がす舗装路面。時おり吹く風も乾燥しきっていて吸い込めば喉を渇かすだけ。
本当は自分だって額の汗を拭いたい。両手が買い物袋で塞がっているから我慢してるのであって、片腕が空いていてハンカチをもつ余裕のあるミオはまだましな方だろう。
「もうすぐ夏休みってのは嬉しいけどね。クルルはなにか予定ある?」
──数秒考え、思い浮かんだのは両親の顔だった。
「たぶん田舎に帰るかしら。手紙とかは送ってるけど、やっぱり顔見せないと安心できないみたい」
「安心かぁ。そうだよね。親の方はやっぱり心配しちゃうんだよ」
「でもわたしだってもう十六よ。心配されすぎるのもなんか悔しくない?」
言いながら、道なりに出来た木陰に入り込む。汗で服がしめってくるのが気持ち悪い。
......厚手の上着を着込んできたのが失敗だったかな。
下はズボン。自分はスカートが嫌いだからこれはしょうがないが、上はシャツ一枚でくれば良かった。
「親御さん、成績が心配なんじゃないの?」
にやりと、ミオが悪戯っぽくこちらの表情を覗き込んでくる。
「クルル今回の一斉テストどうだった? ヤマが外れたとかぼやいてたじゃん」
「......あー、それは聞かないで」
逃げるように、クルーエルは隣の少女から顔を背けた。
長期休暇の前に行われる一斉試験。クルーエルの結果は四学年の合計千六百人中、千三百七十位だった。一年生四百一名の中では二百とんで五位。試験前日に友人と集まって予想したヤマがことごとく外れ、試験はほぼ白紙。自分より下の順位の連中も似たようなものだ。
......でもそう言えば。教室中が試験結果に悲鳴を上げる中、この少女だけは笑顔で成績表を受け取っていた気が。
「ミオはどうだったの?」
「あたし? 前と同じくらいだったよ。ぎりぎり二桁。学年だと二番だったかな」
「うわっ、裏切り者! 前と同じだったぁ? なんでそんなできるのよ」
あまりのことに思わず声が上がる。が、当の本人は飄々とした面持ちのまま。
「え。だって今回の簡単だったよ。資料集の炎色反応覚えてるだけで三問はいけたもの」
......あの資料集って、言語辞書よりぶ厚かった気がするんだけれど。
気楽な声音のミオだが、その巻末まで読み通してるのは一年生では彼女ぐらいのものだろう。
「えへへ。だってさ、そうしないとお小遣い下げられちゃうんだもん」
「......今度おごりなさいよ」
まったく、世渡り上手な性格ですこと。
呆れ半分に彼女から顔を逸らす。が、そうするやいなや彼女の方が自分の前方へと回り込み、こちらの顔を覗き込んできた。
「でもねでもね。勉強してるのはホントだよ。あたしカイ様に憧れてるから」
「カイ様って......あの虹色名詠士のこと?」
伝説にも等しい名詠士の名に、少女が火照った顔を一層赤らめながら頷く。
「だって、信じられる? まだ二十後半。あたしたちより十ちょっと違うだけなのに全部の名詠色をマスターしちゃった人だよ。写真で見ただけだけどすごいかっこよかったな。いつか会ってみたいのよね。ああっ......もし叶うのならいつか弟子に──」
脳裏に描いた光景に目を輝かせるミオ。......やれやれ。苦笑の吐息をこっそりと洩らすが、本人はそれに気づかぬまま既に妄想の世界に入ってしまっているようだった。
「はいはい、わかったから少し──」
終わりそうにない独り言を止めようとした矢先。
目の前二十メートルほど先、ちょうど二股に分かれている場所に見慣れない相手が立っていることに気づいた。
幼い子供。遠目にしかわからないが自分たちより年上ということはあるまい。深い紫色の髪、葡萄色というやつだろうか。トレミアの制服ではなく、私服。子供用の黒コートを着ているから余計に目立つ。真夏のこの時期にあんな暑そうな格好──だがそれ以上に気になるのは、その肩になにか鳥のようなものを乗せてるように見えることだが......
「あれ。あの子誰だろうね」
さすがにミオも気づいたらしい。荷物の軽い彼女が小走りに近づいていく。
「ねえキミ、どうしたの。ここ一応学校の敷地内だよ」
「え......あ、はい。えっと、僕ですか?」
驚いたように聞き返してくる少年。二股の道路に目がいくあまり、今の今まで自分たちのことに気づいていなかったらしい。幼げな、性別の判断がつきにくい柔和な顔立ち。
子供......よね、どう見ても。
クルーエルが見た限り、十二か三。背はちょうどミオと並ぶほど。
『道がわからない。学生寮はこの方向だと聞いてはいたが、二股になっているとは言われていなかった。一体どちらに進むべきか』
そう答えたのは少年ではなく──
「わわっ、アーマ。いきなり喋っちゃだめって言ったのに!」
肩に乗せた生き物の口を少年が慌てて塞ぐ。鳥ではなかった。少年の髪と似た黒紫色だが、もっとおどろおどろしい色の皮膚。というより鱗。その外見は......
「とかげ?」
叫ぶミオの声が裏返る。その声に、肩に乗る謎の生き物が目を細めた。
『トカゲなどではない。小娘、我を知らんのか?』
呆気にとられた表情で、ミオが首を横に振る。知るわけがない。第一、外見からしてトカゲ以外他に思い当たるものがなかった。もっとも、大きさが子猫ほどあって自分のことを我などと呼ぶトカゲはクルーエルも初めてだったが。
「あぁっ、アーマのバカぁ。あれだけ喋っちゃだめって言ったのにぃ!」
『気にするなネイト。この小娘たちもお前と同じ趣味があるらしい。我が話したところで大したことではない』
同じ趣味? 一瞬何を指しているか戸惑ったが、つまり。
「ねえキミ。こいつもしかして名詠生物?」
爬虫類らしきものから少年へと視線を移す。と、かすかに少年の表情がやわらいだ。
「え、ええ。そうです。僕が名詠したわけじゃないけど。......ああそっか、お二人とも名詠の勉強されてる人たちだったんですね。アーマが喋ったら普通の人は驚くので」
照れ隠しのためか、恥ずかしそうに少年が後ろ頭をかく。
......いや、十分驚いたわよ。
喉まで出かけたその言葉をクルーエルは無理やりのみこんだ。
生物を名詠する難度そのものはそれほど高くはないが、人の言語まで解するほど高位な生物を詠び出すとなると話は別。難易度で言うと上から二つ目──第二音階名詠あたりに相当するはずだ。ハイスクールの教師でさえこの名詠には手こずると言われている。それほど稀少な名詠生物をほいほいと連れて歩く子供が、この世界にどれほどいるのか。
しかしそれはそれ。自分たちが気にしても仕方ないだろう。
「で、ネイト君だっけ? 肩のそいつが言うには寮を探してるとか」
おい小娘、我をそいつ呼ばわ──とまで言いかけたトカゲの口を少年が再度塞ぐ。
「あ、はい。ネイトって呼び捨てでいいです。別の学校から転校してきて今日ここに着いたんだけど、寮がどこにあるのかわかんなくなっちゃって......」
「んとね、ならこの先が寮であってるよ。女子寮と男子寮に分かれてるから二股なんだ」
画用紙を持ったまま、ミオが左手を持ち上げる。
「こっちが女子寮。反対の右が男子寮になってるよ」
「そっかぁ、ありがとうございます!」
頭を下げる少年にミオが微笑む。
「どういたしまして。あたしミオ。こっちがクル──」
「クルーエルよ。同じ学校ならまた会うかもしれないね」
言いかけたミオを遮るように、クルーエルは口早に応えた。
ミオのことだ。どうせわたしのことを『クルル』として紹介するつもりだったのだろう。ミオに呼ばれるときはその愛称でも別に構わないのだが、他人に紹介される時ぐらいちゃんとした名前で呼ばれたい。というよりも本音は、そのクルルという愛称が自分には幼すぎて不釣り合いな気がするからだが。

「ミオさんとクルーエルさんですか。ホント助かりました! じゃあ、とりあえず行ってみますね。ほら、行くよアーマ」
『小娘、とりあえず礼は言っておく』
......何が悲しくてトカゲに小娘小娘言われなくちゃいけないんだろう。
文句の一つもつけたいところだが、それこそトカゲ相手に説教も何もあるまい。
内心の不満を胸の奥で押し殺し、頭を下げる少年に向かってクルーエルはかるく頷いてみせた。
2
「遅くなってごめん。ミオ、交代ー」
大分待たせちゃったかな。湿った髪にタオルをあてながらクルーエルはバスルームから声を張り上げた。脱衣所の時計を一瞥。げ、もうこんな時間......ちょっとゆっくりしすぎたかな。
夕食後、先にシャワーを譲ってもらったのだが、昼に汗をかいたせいでついつい長湯になってしまった。
「ん、ミオー?」
返事がない。脱衣所から出てすぐのダイニングにいるはずなのに。扉を開け覗き込んだ先。そこに、テーブルに肘をついた姿勢で部屋の天井を見上げる少女の姿。
「なんだいるじゃん。......って、聞いてる?」
視線をふさぐように彼女の正面に回り込むと、ようやくミオは口を開いた。
「ねえクルル。あれ、本当に名詠式で出したのかなぁ」
だがどうも反応が鈍い。独り言のように夢現な表情で呟く彼女。
「『あれ』って?」
「今日会った子いたじゃない。あの子の肩に乗ってたトカゲだよ」
考え事をしていたらしい。そういえばそうだ。考え事をしている時のミオは周りが見えなくなることが割と多い。
「あのトカゲ、紫というか黒というかよくわかんない色してたよね。何色の名詠式したらあんなの出せるんだろうかなって」
「......まあ、そうだね」
今思い出すと確かにそうかもしれない。形容しにくい色。無理に当てはめるとするならば赤か青だろうが、どちらだとしてもあまり合点のいくものではない。赤にも青にも出せぬ、奇妙な深みを持つ色合いだった。
「まあ何色だったとしても、わたしはあんな生意気トカゲなんか詠び出したくないけどね」
髪を拭きながら苦笑する。
「やっぱり鳥よ、鳥。あんな気持ち悪い爬虫類なんかより断然いいよね」
すると、今まで無表情に近かったミオがにやりと口の端をつり上げた。
「競演会、一番人気が鳥なんだって。三百人くらい鳥狙いらしいから全然目立たないよ」
「うっ......それほんと?」
「少なくとも去年はそうだったみたいだよ」
マグカップに口をつけながら空とぼけたように、ミオ。素知らぬ顔で言ってくるということは、彼女は別の物を名詠する気なのか。
「ミオは何にするの?」
「まだ考え中。生き物を出そうとは思ってるけど、小さいものをたくさん出すか、何か大きいのを一つ出すかで迷ってるの」
緑の生き物で何か大きいのっていたかな。気にはなったが、彼女の方からそれを言わないということは本番までのお楽しみということか。
「ていうかミオ、さっさと入らないとお風呂冷めちゃうよ」
「む。そう言えばそうだった。クルル出てくるの遅い!」
「とっくに出てたわよ。ぼうっとしてたそっちが気づかなかっただけ。文句言う暇があったらさっさと入ってきなさい」
ぐずるミオの背中をバスルームまで押していく。わたし明日は部活動の朝練があるんだから、早いところあなたがシャワー入ってくれないとこっちも困るのよ。
「タイムリミット十分。時間になったら電気消すからね」
「え......なにそれ、ずるっ......ちょっとクル──」
何やら言ってくる少女を無視し、クルーエルは脱衣所の扉を閉めた。
3
「お疲れさまでした。じゃ、お先に失礼します」
朝のホームルームを告げる予鈴が鳴り響く。部活動の先輩に挨拶を終え、クルーエルは一年生の校舎へと全速力で駆け出した。
トレミア・アカデミーの敷地規模は他校の平均面積の三倍。部室から一年生校舎までの距離も徒歩で優に半時間を要する。
「うわっ。もうこんな時間......」
腕時計を一瞥、ホームルーム開始まであと二分。
乱れた息のまま校舎の階段を駆け上り──自分のクラスである「一─B」というボードが視界に飛び込んできた。扉の取っ手に手をかけ、走ってきた勢いそのままに扉を開く。
力余って地震が起きたかのような震えが扉を揺らすものの、今さらそれを気にするクラスメイトはいない。これぐらい急がないと間に合わないことを全員がとうに承知済みなのだ。
「おはよクルル。なかなかの好タイム。先月の平均より七秒早いね」
苦笑混じりで、ストップウォッチ片手にミオが気楽に告げてくる。
「......こっちはそんな余裕ないわよ。先生は? まだ来てない?」
「ん、まだ来てないよ。今日は間に合ったみたいだね」
「今日も、よ」
何やら言いたげなミオから目をそらし、手元の鞄を開ける。スポーツドリンクを取り出し口をつけようとした矢先、眼前の扉が開いた。
若葉色のスーツを着た、陽に眩しく輝く金髪を肩まで伸ばした女性がゆっくりとした足取りで教室に入ってくる。担任のケイト教師だ。
「みんなおはよう。......あらクルーエル、今日は遅刻しなかったのね」
教師のやんわりとした皮肉。一瞬頰が引きつったのが自分でも分かった。
「と、当然ですよ?」
平静を装いながら席に腰掛ける。
対して、ケイト教師の方は意味ありげに肩をすくめてみせた。
──わたし......悪くないのに。
自分は毎日誰よりも早く校舎に来ている自信がある。ただ部活の朝練習が予鈴ギリギリまであるせいで、遅刻数クラス一という不名誉な称号を手にしてしまっているのだ。
「明日も期待してるわ。......ええと、見たところ他の子はみんな来てるみたいね」
苦笑を押し殺しながら教室内の生徒人数を数える教師。
「今日は特に連絡もないかな。五時限目に触媒実験をするから、昼食後に第一実験室に集合ってことだけ忘れないでね......ところで」
軽く咳払いして、ケイト教師は言葉を句切った。
「もうすぐ夏休みだけれどその前に、この『一─B』に転校生が入ることになりました。十三歳。このクラスでは最年少になりますね」
クラスの空気が途端に熱を帯びた。隣の席に座る男子生徒が軽く驚嘆の声を上げる。少し離れた席、普段ぼんやりとした表情のミオもさすがに驚いているらしい。
もともと名詠式は義務教育ではない。十二歳までは皆一様に普通の勉強を学び、それから各自、何を学びたいかを決める。名詠学校というのも一つの専門学校に過ぎない。
そのため年齢に上限下限はなく、ミドルスクール三年・ハイスクール四年の課程を終えれば名詠士という資格への挑戦権を得るというわけだ。十三歳でハイスクールということは、十歳から普通の学校と名詠学校のダブルスクールをこなしてきたのだろうか。例が無いという程ではないが、間違いなく珍しい方の類に属する。
「とにかくみんなに紹介するわ。ネイト君入ってきて」
......ん、ネイト? どこかで聞いた気が。
扉を開け、トレミア・アカデミーの白制服を着た少年が入ってきた。
深い紫色の髪をした、まさに十三歳ほどの身長の少年。緊張のためややひきつっているが、まだ幼さの残る顔立ちをしているのがわかる。自分の視線と彼の瞳が重なり──
「あれ、ネイト君?」
クルーエルが口を開くより先、教室の隅に座っていたミオが奇声を上げた。彼の方は突然の名指しに一瞬驚いたらしいが、ややあって。
「あ......えと......もしかしてミオさん?」
「うん。覚えててくれたんだね。あ、クルルもいるよ」
「クルル?」
ぽかんとした表情のネイトに対し、ミオの方がこっちを指さしてきた。──ミオのばか。
ため息ついでに思わず肩を落とす。昨日わざわざクルーエルと言ったのに、それが一瞬で徒労に終わってしまった。
「......おはよ。ネイト」
「あ、クルーエルさん。おはようございます」
丁重に挨拶してくれるのはありがたかったが、おかげでクラスメイトの視線がこちらに向いてしまった。
「──ねえちょっとクルーエル、あの子と知り合いなの? 結構あの子カワイイじゃない」
背後の座席の友人が意味ありげに背中をペンでつついてくる。左右からも「へえ。まさかクルーエルが年下に手を出すなんて意外」だの。......恥ずかしいことこの上ない。
「あら。ミオもクルーエルも、ネイト君と知り合い?」
一連の会話に、ケイト教師が頭に疑問符を浮かべる。
「昨日、寮のそばで会ったんですよ」
間髪入れずミオが口を開いた。
「なるほど。知り合いがいて良かったわ。あ、でもネイト君。他の子は君のこと知らないと思うから自己紹介いいかな」
「あ......は、はい」
姿勢を正し、壇上の少年が頭を下げる。
「えっ......と。ネイト・イェレミーアスと言います。ずっと地元の方に通ってたんですけど、親が昔この学校の出身だったので、いつかはこの学校に来たいなって......」
ぽんと少年の肩に手を乗せ、教師が教室内を見回す。
「一時限目の講義までまだ時間あるわね。何か彼に訊きたいことがある人いるかしら。一人一人が個別に訊くと答えるのも大変だろうし、何かあれば今ここでね」
「あー! はいはいっ! 質問!」
勢いよく手が上がる、さっきペンでつついてきた女友達のエイダだ。
「えっとぉ、キミは名詠式だと何色が専攻なの?」
その問いに──ふと、その少年は隣にいる担任教師と目を見合わせた。
「あ......あの......僕のは......少し普通のと違ってて」
困ったように口を開けたままの少年に、ケイト教師が先を促す。
「夜色名詠ていうのを......その......勉強してるんです」
言いづらそうにうつむきながら、少年はその単語を口にした。
「ヨル?」
首をかしげるというより、呆けたような表情でエイダが反芻する。
「朝と夜、の夜です。黒っぽい青というか紫っていうか。そんな色の名詠式です」
「ネイト君のいたとこだと、そんな色も教えてくれてたの?」
呆気にとられたようなエイダに、おずおずと彼が口を開く。
「えと、たぶんどこも教えてないと思います......母のオリジナルなので」
オリジナル。その単語にエイダが小さく感嘆の吐息を洩らした。
「つまり、新しい名詠色ってこと?」
が、当の本人は慌てたように腕を振ってきた。
「そ、そんなすごいものじゃないです。申請もしてませんし。......それに、僕自身がまだ全然......できないですから」
尻窄みに声が小さくなっていく。まあ転校したてなのだから仕方ないかな。
頰杖をついたままクルーエルがくすりとしたところで、ちょうどホームルーム時間終了の鐘が聞こえてきた。
4
太陽がゆっくりと天頂へと昇っていく。それに併せ、じりじりと上昇していく部屋の気温。蒸し風呂を思わせる、肌にベタつく暑さ。今頃、冷房の効いた学内のカフェテリアは講義のない生徒や教員で一杯だろう。講義さえ無ければ自分もそこで、優雅にアイスティーでも頼んでくつろいでいるはずだった。
──まあ、講義が無ければの仮定なんだけど。
洩れそうになる嘆息を、クルーエルは喉の奥にむりやり押し戻した。
名詠を学ぶ学校においては午前中は基礎知識課程。午後に実際の演習課題が課される。ハイスクール一年生はほぼ一年間かけ、ここで名詠実践の基礎を学ぶことになるわけだ。
「みんな揃ったかしら?」
服の上から白衣を羽織ったケイト教師の声が実験室に響き渡る。
基本的に名詠の実験は四人一組で行う。
名詠者一名、記録係一名。それと緊急時に備えての補助役が二人。
クルーエルの女子パートナーはミオ、男子はアルセム──大柄な体格におっとりとした性格の、黄色名詠を専攻する生徒だ。それとネイト。新入生、しかも正体不明の名詠式を勉強中だということでいくつかの班と奪い合いになったが、面識があるということでミオが半ば強引に引っ張ることに成功したのだ。
「さ、誰からやるか決めるわよ」
くじを作り終え班の三人にひかせていく。実験と言っても要は自分の色の名詠をこなすだけ。今日の場合、三日後に迫った競演会の予行練習に近い。
「あ、あたし二番だ」
のほほんとした口調で、ミオ。
「俺が三番だな」
「僕は四番みたいです」
続いてアルセム、ネイト。......ということは。
「......あーあ、わたし一番か」
「最初って緊張するのよね」
返事代わりに、いたずらっぽく笑うミオにクルーエルは肩をすくめてみせた。
テーブルの隅に置いてある絵の具の山から赤のチューブを抜き出す。名詠式は触媒に触れていなければならない。しぶしぶとチューブから絵の具を出し、それを左手の指先に塗っていく。
......初心者用の触媒としては比較的使いやすいんだけど、指に絵の具を塗りつけるのだけは何度やっても気持ち悪いのよね。
「ネイト、準備できたよ」
ストップウォッチを持ったネイトに目配せしてみせる。
「はい。始めてください」
言われると同時、クルーエルは目を閉じた。
脳裏に名詠物をイメージする。名詠物を左手に持つ想像構築。
紅い、鮮血よりも深い色の花弁。
何よりも完全なその美の内に、触れただけで零れ落ちる儚さを併せ持つ。
「──sheon lefped-l-cluerien-c-soan」
情愛、誇り、可憐。
数多くの言葉で表されるその花を脳裏に描いた。
YeR be oratorLom nehhe
lor bestiredi endekele-l-lovier
Lor pridiarigveshilovi,kele ledg
〈讃来歌〉。
自分が思い描く物を詠び招く際に用いられる、セラフェノ音語による賛美歌。
詠び招く物の名を讃え、誘う。──名詠式の名はそれが起因だ。音として外部に情報を発生、名詠門を緩め開放を誘う。
ゆっくりと目を開ける。既に、左手に付着した塗料が紅く輝きだしていた。
可視光線のエネルギー化。
すなわち赤の塗料が持つエネルギー波長と、今から名詠しようとする物の波長との同調現象。この共通エネルギー波長を媒介に目的の物を詠ぶ──これが名詠式の仕組みである。
名詠門が開いている時間は長くない。まばたきもせずクルーエルは左手に灯る紅い光を見据えた。徐々に光が強まり......不意に、ガラスが砕けるかのように光が破裂した。
それが意味するものは、名詠門完全開放の瞬間。
──『Keinez』──
破裂した光が細分化し消えていく。おそるおそる左手を開く。ふわりと、指の隙間から真紅の花唇がこぼれ落ちた。
「あ......」
安堵に、今まで凍りついていた吐息が洩れる。
左手に生まれた──一輪の真紅の花。
「おお、花かぁ! 綺麗だね。これ何の花?」
ミオが小さく拍手。
「アマリリスっていうの。わたし昔からこの花好きだから」
そっけなく言ったつもりだったが、ついつい顔がほころんでしまう。
「ジャスト三十秒。クルーエルさんすごいです」
ネイトから時間の止まったストップウォッチを受け取る。競演会での持ち時間はおよそ一分前後。三十秒ならばまず安全圏と言える。
二番手のミオは、昨日買った緑の画用紙を触媒に小さなカメを詠び出した。費やした時間は五十五秒。当初は二匹同時に出そうとしたが集中力が切れて急遽一匹にしたらしい。三番手のアルセムはカナリアに挑戦。だが鳥はカメや花と違って動的な生物であるため、想像構築の段階が難しい。二分経過した時点で彼の方がギブアップした。
「ネイトいいわよ」
台紙とストップウォッチを引き継ぎ、クルーエルは目の前の相手に向かって合図した。
「あ、はい。やってみますね」
見たところ、ネイトも絵の具を使用するらしい。
夜色名詠。学校の教科書にその断片すら記されていない名詠式。内心クルーエルも半信半疑ではあったが、どうやら彼は本気らしい。黒系統の絵の具をパレットで混ぜ、それを指先に付着させていく。
何やら後ろの方が騒がしい。ふと気づき周囲を見やると、なんと他の班全てが一時的に手を休めて自分たちの班に注目していた。
これだけの視線だ。これでは彼の方も集中できやしないだろうに。
あなたたちは自分の作業続けなさいよ──もう少し早くに気づいていればそう口にできたのだが、あいにく既にネイトは名詠式の方に移ってしまっていた。
「──cartlef dimi-l-shadi denca-c-dowa」
YeR be oratorLom nehhe
lor bestibluci endebranousi-l-symphoeki
O shesairaqersonie Laspha─
ざわりと周囲の空気が変わった。その理由は推察するまでもない。この少年が何を詠ぼうとしているのか分からないからだ。
少し名詠式に詳しくなれば、相手が唱える〈讃来歌〉からその名詠物を推測できる。クルーエルも既にミドルスクールで三年分、名詠式に関しては下積みがある。身近な物や生物ならばその〈讃来歌〉を聴いて判別できる。そのはずが。
暗くて、雄々しくて、それに憫しい?
ネイトが今名詠しようとしている物の正体がまるで読めなかった。周囲の者も同じだ。訝しむように、ネイトの手に生まれる光をただじっと凝視し続けている。
黒い光。あるいは影と呼称した方が適切なのかもしれない。少年の手に昏い影が生まれた。実験室に射し込む西日に触れ、なおも消えることのない影。太陽を否定する澱んだ夜。
......これは。
にわかに信じられるものではないが、確かにこの少年は夜を名詠しようとしていた。
影が大きく、強くなっていく。球状に収束していき......
そして。夜が弾けた。
幽かな、窓を開ければその風鳴りだけで消えてしまうほど微細な声で少年が呟く。
──『Ezel』──
その瞬間、部屋が黒煙で充満した。
詠び出されたものは固体ではなく──
「え? 何、コレ! ちょっ......息苦......」
ミオの悲鳴に続き、男女問わず苦悶の声が上がる。
名詠されたのはただの、なんの変哲もない煙だった。
「え......そんな......こんなはずじゃ......?」
狂乱の中、茫然とするネイトの声だけが鮮明に聞こえた。
なにか高度な生物を名詠しようとして、それが暴発したということか。初級者が最も陥りやすい事故だ。
物が燃焼した時に出る粉塵だが、息をしようとすればするほど煙を吸って咳き込んでしまう。目を刺す痛みにまぶたを開けていられない。もしこれが火事に出る煙と同じ物ならば、これはおそらく一酸化炭素と二酸化窒素。炭素を含む物質を不完全燃焼させた時に出る物質で、吸い続ければ呼吸器官と中枢神経系に障害を来す。
窓を開けないと!
確か左手に窓があったはず。が。すぐに思い直した。いや、鍵を開けている暇はない。目をつむったまま窓の位置を脳裏に浮かべる。立ち上がり、今まで腰かけていた椅子を右手に摑む。
......わたし、弁償なんかしないわよ!
躊躇せず、クルーエルはその椅子を窓ガラスに向かって投げつけた。
5
「だいぶ遅くなっちゃったな......」
頭上に瞬く星を一瞥し、クルーエルは足どりを速めた。部活動の練習が終わってから学園内の購買部へ。医療品や雑貨を買い足していたら随分と遅くなってしまった。
......まだちょっと痛いかも。
右手に巻かれた包帯をさすると電気が走ったような痺れがくる。数時間前、ガラスを割った際にその破片で受けた傷。日常生活には支障ないが、医務室に行ったらやけに念入りに包帯を巻かれてしまった。

多目的ホールから一年生の校舎まで徒歩でおよそ十分。図書館や体育館などがその間に立ち並んでいるが、いずれも既に消灯済み。朝早くから開く分閉館は早い。
昼の間に火照った身体に夜の冷風が心地良い。肺の奥まで染み渡っていく冷たく澄んだ空気。このまま風を浴びていたくなるような気分にさせる清澄感。
......そういえばネイトどうしてるかな。
ふと想起し、クルーエルは視界を頭上から歩道へと戻した。
あの後──
自分が窓ガラスを割ってすぐ、実験室に充満していた粉塵はあっさりとどこかへ消えてしまった。もともと名詠式の失敗で詠び寄せた不安定な物だから、今考えるとそれも予想してしかるべきだったかもしれない。
それでも、クラスメイトの中には少数だが喉を痛めた者や目を痛めた者もいた。
実験室も部屋の壁という壁が煤け、一年分の汚れがついたかのような有様だった。自分やミオを含め残った生徒たちで片づけはしたが、その後一時間ほどネイトはずっと謝り続けていた。ケイト教師に。学園長に。クラス全員に。そして、窓ガラスを割って手を傷つけたクルーエルに。
名詠のミスというのは仕方がない。まだ十三歳。転校当日。しかもあれだけ多くのクラスメイトに名詠を凝視され続けて。成功しろという方が無茶だ。そう弁護もしたのだが、やはりそう簡単に立ち直れるものではない。全ての授業が終わった放課後まで、ネイトはずっとうつむきっぱなしだった。
徐々に一年生の校舎が見えてくる。例の実験室は立ち入り禁止になっているため既に消灯。明かりがついているのは医務室、職員室、それに警備員室だけだろう。
そう。明かりがついているのはそれぐらいのはずだった。だが。
......あれって、うちのクラス?
三階の、奥から二番目の教室。カーテンが閉められているが、その隙間を通して部屋の照明が外に洩れてきている。誰だろう。
「......まさかね」
その呟きは風に乗り、光と共に夜へと消えた。







「ネイト、それ取ってくれる」
母の視線が、額縁に飾ってある一枚の写真へと向いていた。
「これ?」
背伸びしても届かない、天井近くの壁に飾られた写真。椅子の上に立ってようやく、精一杯のばした指先が写真の縁に触れた。
──この写真、なんだろう。
写真と言ったって誰かが写っているわけではない。これといった風景でもない、写真の画像全体が真っ黒。石炭を近距離で写すとこんな感じの写真が撮れるかもしれないが、そんな写真を撮る理由は思い浮かばない。ピントがずれたのだろうか。でもそれならわざわざこうしてとっておく必要は無い。以前から気になっていたものだった。
「はい、母さん」
床に臥せたままの母親へと持っていく。が、母はそれを受け取ろうとはしなかった。
「......母さん?」
「ネイト、その写真あなたにあげる」
寝たままの体勢で、母が布団をわずかに持ち上げる。
「これ......なんの写真?」
「あなたが練習している名詠の、とっておきの触媒よ」
珍しいことに。本当に珍しいことに、そう言ってくる母の表情は優しげだった。ふだん体調の良い時でも、母が表情を緩めることは滅多にないのに。
「でも、何も写ってないよ?」
「夜に撮ったものだからわかりにくいけど、火を写した写真なの」
火。一面真っ黒なのに、これが? 喉元まで出かかった言葉をネイトは慌てて押し戻した。自分の母は、一度として噓や冗談の類を口にしたことがなかったから。
「ネイト、あなたにまだ教えてない名詠があったわ」
それを知ってか知らずか、天井を見つめていた瞳を母が閉じた。
「これはあなたのための名詠式。だからネイト、あなたにだけ教えてあげる」







『なぜ、我を詠び出そうとした?』
耳元で聞こえる声。詰問ではない。ただ、純粋な疑念の声が鼓膜に響く。
『お前の母でさえ我を詠び出すのに幾年月をかけたのか、忘れたわけではないだろう。現状のお前が適うものではないだろうに』
机にうつ伏せたまま聞き流す。が、相手はそれを意にも介せず続けてきた。
『我がいた寮とこの学舎。距離にしておよそ二千メートルほどか。だが距離の大小は名詠にさほど関係ない。我を名詠によって招くことそのものが至難だとは知っているはず』
......そんなのわかってるよ。
口に出す気もなく、心の中だけでネイトは吐息を洩らした。
でも挑戦してみたかった。自分ができる名詠なんて両手で数えられる。だからこそ、どんどん新しい名詠式に挑戦してみたかった。
「僕、母さんと約束したもの。アーマも知ってるでしょ? 母さんと約束した人に、僕が夜色名詠を見せるんだって」
言霊であるかのように、その一言は相手を沈黙させた。
「ねえアーマ、母さんはそんなにすごかったの?」
『......そうだな』
自分以外誰にも悟られぬほど微かではあるが、珍しくこの名詠生物の声音がやわらいだ。懐かしむように、愛おしむように。もっとも、その当人は気づいていないだろうが。
『我が認めた唯一の名詠者だ。少なくとも、才能という点に関してはお前の遥か上を行っていたな』
──まだ僕は、この名詠生物に認められていない。
言葉の裏に潜む真意。それは紛れもない、隠しようのない事実。しかしそれでも、言葉に出来ない悔しさが胸の奥に溢れ出す。
『だが。才のそれを補うために我がお前のそばにいることを忘れるな』
その声に突き動かされるように。ネイトは顔を持ち上げた。目の前に、鼻先が触れるほどの距離にアーマがいた。机に乗っているわけでも肩に乗っているわけでもなく。背中に折りたたんでいる翼を拡げて虚空に漂う名詠生物。
「キミが飛んでるの久しぶりに見たよ」
『地を這い続けるのもいいが、飛び方を忘れそうでな』
「無理しないでね。飛んでられるのは四十秒が限界なんでしょ?」
名詠生物の、真剣な物言いとは裏腹の不格好な浮遊に吹き出しそうになる。
「......でも。僕は母さんみたいにはうまくいかないってことは、やっぱり他の人に迷惑をかけちゃうんだね。今日だってクルーエルさんに......」
『昨日の小娘か。しかし聞いた限り、その程度の傷ならあの小娘にはどうということもない気がするがな』
ここらへんがやはり名詠生物なのだろう。自分が気にしているのは外見的な傷だけではない。責任、償いも含めてのことだ。
「ううん。アーマにはわかんないだろうけど──」
「だから、気にしてないから平気よ。もともとわたしが勝手に窓割っただけだしね。そこの生意気トカゲに言われるのは癪だけど」
「そうそう。気にしてないから......えっ?」
不意に入り込んできたのは女性の、それも聞き覚えのある声。慌ててふり向いたネイトのすぐ正面。
教室の扉に寄りかかるように、右手に包帯を巻いた少女が立っていた。
「やっぱりキミか」
もしやと思って来てみたら案の定だ。苦笑の吐息を洩らし、クルーエルはネイトの正面の席まで歩み寄った。
「あ......あの......ご──」
あっというまに畏縮し、とまどいながらも少年が口を開こうとする。その前に、クルーエルは人差し指でそっと相手の額に触れてやった。
「もう謝らなくていいわ。今日ずっと謝ってたじゃない。謝られっぱなしでこっちが申し訳なく思っちゃうよ」
「は、はい......」
頷きはするもののやはりまだ声が硬い。見つめるのも気の毒かな。あてもなく視線をずらすと、机に乗っているトカゲと目があった。
『小娘。何度も言うが我は生意気トカゲなどではなくだな──』
「じゃあ飛びトカゲね」
『飛んでるのを見ておいてまだトカゲか......』
間髪入れず口にする。と、諦めたらしくトカゲががっくりとうなだれた。どこか人間に似たその仕草が妙に可笑しい。
「ところで、盗み聞きするつもりはなかったんだけどさ」
一人教室でうつ伏せている彼にどう声をかけるか迷ってるうちに、両者の話が耳に入ってしまった。すねているようにも見える名詠生物を指さしながら。
「こいつ、ネイトのお母さんが詠び出したって聞いちゃって」
「......はい。アーマを詠び出したのも、夜色名詠を一から理論構築したのも。僕の名詠式は全部母さんが遺したものです」
実のところ、それがクルーエルにとって腑に落ちない点だった。
夜色名詠。机に寝そべる名詠生物だって、こ憎たらしいけれど相当高度な知能を持っている。これだけの名詠ができるほど名詠式が完成しているのに、なぜ六番目の名詠色として認定がなされないんだろう。
「母さん、夜色名詠をほとんど人に見せませんでしたから。夜色名詠を新しい名詠色として申請する意思も最初からなかったらしいです」
名誉欲が無かったということなのか。でもそれじゃあ何のためにわざわざ。
「約束、って聞きました」
座っていたままのネイトが立ち上がった。窓枠に手をかけ、自身と外とを遮る窓ガラスを見つめる。
「僕自身名前も教えてもらってないけど、とにかくある人と約束をしたからと言ってました。名詠式は母さんに少しずつ習ってたけど......一年前に母さんは......」
部屋の明かりのせいで外の景色などほとんど映らないはず。彼が見ているのはおそらく、ガラスに映る自分の虚像。
「夜色名詠を勉強していればいつか必ずその人と会える。そう母さんに言われたから、どうせなら僕も母さんが通っていたこの学校で勉強しようと思って」
恥ずかしがり屋で控えめという、今までこの少年に対して抱いていたイメージ。それが間違いだったことにクルーエルはようやく気づいた。
まだ十三歳なのに地元を離れ一人でこの学校に。土地勘もなく知り合いもいないだろうし、周りは全員自分より年上の生徒。──ただ、母親との約束のためだけに。
......同じ立場だったとして、わたしに同じことができるかな。
少なくとも自分がこの年頃にはまだ、友達と遊ぶぐらいしか頭にはなかったはずなのに。
「──すごいね」
吐き出した吐息と共に、無意識のうちに言葉が口をついて出た。
「キミは、すごいよ」
「え......すご......?」
あまりに唐突だったので彼を困惑させてしまったらしい。でも構わない。どうせわたしの、ただの独り言のようなものなんだから。
「わたしが名詠士になろうとしたのは、ただ単純に『なんか面白そう』だからだったんだ」
椅子に腰かけ、クルーエルは足を持ち上げて膝をかかえた。
──くだらない。なんてどうしようもない理由なんだろう。
「特にしたいってこともなかったし、今もないんだ。普通さ、ハイスクールまで来た人ってみんな名詠士になりたくてきちんと努力してる人たちなんだよね。でもわたし、名詠士になりたいかどうかもまだわかんないの」
何も決まらぬまま、成績が良かった分野のハイスクールへ通うことを選んだ。
それがたまたま名詠式だった──本当に、理由はそれだけだった。
名詠式を利用し、運搬など転送業を営む者。あるいは純粋に名詠式の理論を探究する者。名詠士の資格を持つ者と言えど、実際に携わる職種は多岐に渡る。自分のクラスメイトが何のために名詠士を目指すのかはわからない。わからないけれど、みんなそれぞれに目標を持って頑張っているのだけは嫌でも感じる。
そんな中、自分はそのどれにも当て嵌まらない。ただ気楽に講義を受け、その一日一日を誤魔化して過ごしている。それがいつばれるか、怖くて仕方ない。
ミオにも両親にも告げていない本音......いや違う、告げられないだけ。真剣に頑張っている人の前でそんなことを言う勇気を持てないだけかもしれない。
「わたしの進む道は本当にこれでいいのかなって。もっと別の道があったんじゃないかっていつも考えちゃう」
笑おうとして、だが窓に映る自分の表情は引きつったままだった。
自嘲じみた感情が胸を圧迫する。自分には、ミオが眩しく映るときがある。名詠士になりたくて、そして事実彼女はそのための努力を欠かしていない。
......あの子に比べて、わたし何をしてるんだろう。
「結局、わたし器用貧乏なんだよね。何でも少しはできるけど、その分飽きっぽくて全部中途半端なの」
何もやろうとしないままハイスクールに来た。そして何も果たせないまま卒業してしまいそう──入学してまだ半年なのに、ずっとこんなことばかり考えていた。
不安なのに、だけど何一つとして身が入らない。昔はそんな自分自身に対する怒りもあった。けど、それもとうに燃え尽きた。
「そんなっ......そんなことないですよ!」
にわかに。振り絞るように少年が首を振ってきた。
「クルーエルさんは絶対、名詠士が似合うと思います。今日の名詠とっても素敵だったもの!」
「......ううん。あれはやろうと思えばみんなできるよ」
つくり笑いのままクルーエルはやんわりと言い返した。小生物、しかも動かない物の名詠は難しくもなんともない。名詠士を目指そうとしてハイスクールに来ている者ならばおよそ誰にでも扱えるレベルなのだから。
的を射たはずの反論に、だが眼前の少年はおずおずしながら。
「......あれは、クルーエルさんだからこそ素敵だったと思います」
「──え?」
それってどういう意味なんだろう。聞き返すより早く。
「あの、そのぉ......こうやって本人に言うのもなんですが......クルーエルさんが詠び出したあの真っ赤な花、あれ、すごいクルーエルさんに似合うと思いました」
もじもじと下を向きながら、それこそ真紅の花に負けないほど顔を真っ赤にして目の前の少年は言ってきた。花が似合う──わたしが?
「あ、いえ。......ごめんなさい......別に変な意味で言ったわけじゃなくて、ただ純粋にそう思ったからで......」
黙ったままの自分を見て怒っていると判断したらしい。その姿に、ようやくクルーエルは我にかえった。
何ということはない。ただあまりに唐突に、しかもストレートに褒められたからこっちも固まってしまっていただけだ。なんと返せばいいか分からず、頭が真っ白になっていた。
「え、ああ。うん。わかってるから平気。ちょっとぼうっとしてただけ」
慌てて手を横に振る。まったくもって恥ずかしい。相手はまだ十三歳。わたしの方が動揺してどうするんだろう。
「......でも、ありがとうね」
窓に映る自分の微笑みは、きっと愛想笑いなんかじゃない。
まさか、こんな真剣に自分を応援してくれるなんて考えもしなかった。
言葉を取り繕うこともない、あまりに単純で不器用で──でも、素直な応援。だからこそ、自分も素直に嬉しかった。
......わたしだって、何か頑張った方がいいのかな。
何か本気で打ち込めるもの。すぐに見つかるとは思えない。けどだからこそ、その何かを見つけるまでは。その何かを見つけるまでは、名詠式を頑張ってみるのも悪くない。
「キミを見習って、わたしもちょっとだけ頑張った方がいいのかな」
立ち上がって彼の傍に立つ。窓を開けると、カーテンの隙間を縫って心地よい風が髪を揺らした。
「み、見習うだなんてそんな......」
あたふたと首を振る少年。
その様子に、思わず笑い混じりの吐息を洩らしてしまった。
「ううん。キミは誇っていいと思うよ。それだけ一途なところ見せられちゃうとさ、聞いてたわたしの方が恥ずかしくなっちゃった」
......なんか、妬けちゃうなぁ。
自分とまるで正反対。明確な意志を持って一心に前を向いている少年。
......わたしにも、こんなひたむきな時期があったのかな。
恋愛とかそういう感情抜きで、わたし、この子と一緒にいたいかもしれない。
それはきっと、彼の目指す道がとても眩しかったからなのだろう。目を逸らしたくなるような刺々しさじゃない。傍にいて──応援したくなるような眩しさ。
一度ゆっくりとまばたきし、クルーエルはネイトの方に振り向いた。
「さて、そろそろ帰ろ。学校の中だけどあんまり夜遅いと危ないよ。送っていくから」
「え、でもクルーエルさんこそ女性ですし」
からかうつもりの眼差しで含み笑いをこぼすが、少年の方はいたって真剣な表情だった。
だけどまだ十三歳。女のわたしより背も低いし体格だって華奢だ。わたしを守るのはもう少し経ってからね。お姫さまを守ろうとするには、キミはまだちょっとだけ頼りないんだから。
「あら。わたしいつも部活動で鍛えてるのよ」
「部活動?」
「護身術。一人暮らしするんならって、ミドルスクールの時から親に習わされたのよ」
そう言って、包帯の巻いてある右手で彼の手を摑んだ。
「さ、さっさと帰りましょ」
「く、クルーエルさん。右手右手! 怪我してるんだからダメですよ!」
ネイトが慌てて手を放そうとするのを、こちらから無理やりにぎゅっと摑んだ。
「これ? 痛くないわよ。医務の先生が大げさに巻いてくれただけだもの」
本当は痛い。でもそんなちっぽけな痛みなんかより、彼と手をつないでいたかった。







夕焼けが姿を消し、代わりに夜の帳が降りきった時間。
閉館直前の来賓受付所に、枯れ草色のコートを羽織った男が入ってきた。
照明に照らされ、穏やかで均整のとれた顔立ちが浮かび上がる。
「失礼。学園長は既にご帰宅でしょうか?」
金か茶か、どちらとも判断しかねる色の髪がゆれる。
──ん、どこかで見たことがある顔だな。
内心の訝しさを隠したまま、受付兼警備員の男は事務的な対応を心がけた。
「少々お待ちください。いえ、まだ職員室にいらっしゃると思います。ですがそろそろ学園外の方が入校できる時刻が過ぎてしまうので、長引くようであればまた後日ということになってしまいますが。よろしければお名前とご用件を」
「......いえ。では、大した用ではないので明日の放課後にでもまた寄らせて頂きます。『カイが来た』とだけお伝えください」
言葉が終わるやいなや、その男がコートをひるがえす。
「わかりました」
その男が見えなくなるまで見送り、受付の男は来賓受付の窓を閉めた。
誰だっけかな。思い出せないけど、でもどっかで見たことある顔だったような。
二奏 『集まる者の交声曲』
1
校舎の窓の外、小鳥が群れをなして羽ばたいていくのが見える。ホームルームが始まるまであと半時間ほど。まだ他の生徒は部活の朝練習をしている時刻。さすがにこの時間では教室に集まっているクラスメイトも数が少ない。
「お、どうしたのクルル。今日は随分早いね」
ミオは数少ない例外の一人だ。クラスの誰よりも早く教室に来て、毎朝こっそりと自習に励んでいるらしい。本人はそれを隠しているつもりらしいが、あいにくクラス周知の事実だったりする。
「朝練あったけど休んじゃった。考えてみたら競演会も近いしね。昨日の怪我も早く治さないといけないし」
「そうだね。で、クルル結局鳥にするの? そろそろ練習しとかないと大変だよ」
「うーん。昨日寝るまでずっと考えてたけど思いつかなかったのよね」
そろそろ決めないとまずいというのはクルーエルも百も承知だ。だがミオに指摘されるまで鳥しか頭になかったから、他のアイデアをまったく用意していなかった。
......鳥がだめなら、昨日試してみた花あたりかな。
腕を組んだまま迷っているうちにまた一人、教室に生徒が入ってきた。
葡萄色の髪の、幼い顔つきの少年。一番小さいサイズの制服なのにまだ袖の寸法が大きいようで、ところどころが皺になってしまっている。
「おはよーネイト君」
「あ、おはようございます。クルーエルさん、ミオさん」
「おはよ。早いのね」
あっそう言えば。そう呟き、ミオが読みかけの参考書を閉じる。
「学校来る途中ね、三年生とか四年生の上級生がネイト君らしき子の噂してたよ」
その言葉に、少年の方がしゅんとした表情で。
「......そうですよね。実験室、煤だらけにしちゃったし」
「あああ、違うの違うの!」
逆の反応を想定していたのか、珍しくミオが苦笑する。
「ほら、ネイト君まだ十三歳じゃない。その年でハイスクールはやっぱ珍しいんだよ」
「そうなんですか?」
きょとんとしたようにネイトの声音が上がる。
「うん。それに、夜色名詠だっけ。それも誰か噂してた気がするよ」
ケイト教師は当然知ってるから、他の教師も知っているはず。別の教師がホームルームの時間、何かの折にでも担任する生徒に話したのだろう。
ミオの話が終わるより先。黒革の手提げ鞄を片手に持ったまま、その少年はふと、昨日より一層幼げな表情になっていた。焦点の定まらないふらふらとした、瞼の重そうな顔。
......なんだか眠そうね。
ぼぅっと見つめると、その当人と視線が重なった。
「転校してきたばかりですから、その......やっぱり緊張しちゃって寝れませんでした」
いかにも睡眠不足といった糸目でネイトが恥ずかしそうに頭をかく。
「へいきへいき。ケイト先生優しいから遅刻しても怒らないよ。今度からゆっくりおいで」
「こらこら、怪しげなこと吹き込まないの」
にこやかな顔つきで不謹慎な発言をするあたりがミオらしい。軽く彼女の頭をこづき、クルーエルは鞄の中身を机に移動させる作業を再開した。
一限目の講義開始の鐘が校舎に鳴り響く。
が、教室の壇上に教師の姿は無く、クラスメイトの姿も数えるほど。
競演会まであと二日。一斉試験も終わっているので、ホームルームの時間さえ除けば全時限が生徒の裁量に委ねられているのだ。校庭で名詠練習や触媒の買い出し、図書館で理論の勉強。現に、クラスの大半は鐘と同時に教室外へと飛び出していった。
何気なく教室を見回す。何もせずじっとしているのは自分とミオぐらいか。
「ミオはどうするの?」
その本人はと言えば、机によりかかるようにして天井を見上げていた。
「んとねー詠びたいものは決まったから、いまは触媒を何にしようかなって」
「あれ、画用紙は?」
「少し考え直し。もっと良い触媒探さないと名詠が失敗しちゃいそうなんだもん」
高度な名詠にはそれ相応の触媒が必要になる。やはり何かしでかす気なのだろう。
......でもまあミオのことだし、今聞いてもどうせ教えてくれないのよね。
「触媒、適当に調合してみる?」
「うん。でもクルルは名詠何にするか決まってないんじゃないの? 付きあってもらって大丈夫?」
「じっと考えてるより、何かしながらの方がいいアイデア出そうだから構わないわよ」
ネイトはどうするつもりなのだろう。もし特に予定が無ければ一緒に。そう思い彼の席の方に目をやったものの、彼の姿は既にそこには無かった。
「ネイト君もう行っちゃったのかな。せっかく誘おうと思ったのに」
「いいわよ。行きましょ」
クルーエルは廊下につま先を向けた。慌てて横に並んでくるミオ。階段を下りながらこちらを見上げてくる。
「あれ、案外クルル冷たい?」
「べつに。たぶんネイト、先に行ってると思うわよ」
昨日の夜、ネイトを男子寮に送っていく帰り。競演会について話すうち、触媒どうしようか迷ってるんです──ぽつりと彼がこぼしたのを思い出したのだ。けれどそんなこと言えば、それこそミオにあれこれと尋問されるのは目に見えている。隣の友人から逃げるように、クルーエルは足早に廊下を進んでいった。
実験室があるのは一階の最北だ。室内に保管された化学薬品の中に陽に当たると変質してしまうものがあるので、この教室だけは真夏でも陽が射さない場所にある。うだるような暑さから一転、通路を吹く風に肌寒さを感じる。
第一実験室から第三実験室までが隣接。その中で、一番奥の第三実験室だけ教室から照明の光が廊下に洩れていた。
こっそり覗くと、白い制服に身を包んだ少年が一人。
──ほらね、いたでしょ。
視線だけで話しかけると、ミオはぷいと顔を背けてしまった。
「すねないの。さっさと入るわよ」
扉を開ける。と、すぐに彼の方がこちらへ顔を向けてきた。
「あ、クルーエルさん。ミオさんも」
声に出す代わりに軽く手を振ってみせる。六人がけの机の上に、ネイトは一人で黙々と実験道具を用意していた。
机の上に載っているだけでも三角フラスコ五つ。試験管十本にメスシリンダー二つ。ピペットに天秤にガスバーナー、あげくの果てには顕微鏡まで。他にも様々な試薬が固体から液体まで二十種類ほど机の隅に。......キミって、やっぱり頑張り屋さんなんだね。
準備の念の入れように思わず舌を巻く。
「なにか触媒のアイデアあるの?」
ガスバーナーを触りながらミオが顔を上げた。
名詠に用いる触媒は、自然に存在する物と人工的に作り出した触媒の二つに大別される。前者においては何が優れた触媒か大方研究し尽くされているのだが、人工的な触媒は組み合わせ次第でそれこそ無限に近い数が作れる。
「えへへ......全然ないです」
試薬を混ぜ合わせながらあっさりとネイトが首を振る。
「とにかく適当にやってみようかなって」
でもその方がこっちも都合がいい。何かビジョンが定まっているなら自分たちがうろちょろすると彼も集中できず迷惑になるところ。特にしたいものが決まっていないのなら、自分たちがいても平気よね。
「わたしたちも一緒にやっていいかな? こっちも何か良い触媒探そうって話だったの」
「それはもちろんですけど......こっちも先客がいまして」
先客? 疑問符を浮かばせると、ネイトは視線だけで机の陰を指し示してきた。
『む......小娘』
椅子の上にちょこんと、いつもの生意気トカゲの姿。
「あれ、なんでアーマがここにいるの」
驚いたというより、ただただ不思議といった口調のミオ。
『今日もまた昨日のようなことがあっては、こいつの母に顔向けが出来んからな』
「さっき教室で鞄開けてみたら、いつの間にか潜り込んでたんですぅ......」
疲れ果てたようにネイトが肩を落とす。教科書を取ろうとして鞄を開けたら中には巨大なトカゲ。そんなの想像したくもない。ネイトが自分たちにも告げずそそくさと実験室に籠もったわけがようやく分かった。
「あなた触媒に詳しいの?」
首の代わりに、相手はごつごつとした尾を左右に振ってきた。
『いや全く。名詠式そのものなら少しは分かるが、名詠生物は触媒にまで関与してないからな』
「だめじゃん」
相手にも伝わるように、これでもかと大げさに嘆息してみせる。
......あなた一体、何のためについてきたのよ。
2
「さて、どこで試そうかしら」
フラスコを抱えたままクルーエルは周囲を見回した。
いくつかそれらしい触媒を調合したものの、名詠の方に実使用しなければ触媒の出来は分からない。問題は練習の場選びだ。周囲に障害物の無い、ある程度広い空間──
「ネイトは明後日の競演会、名詠するやつもう決めてる?」
「それなんですよねぇ」
両手にビーカーを抱えた少年が振り返る。
「夜色名詠って黒っぽい色の物しか詠べないから、こういうお披露目には向いてないんです。僕が名詠したことあるのはせいぜい黒蛇とかカラス、あとはコウモリなので......」
「......たしかに、それはそうかもね」
彼が言ってきた生き物は、どれもあまりお目にかかりたくないものが多い。
「ネイト、そこにしよっか」
フラスコで塞がった両手の代わりに視線で敷地の隅にある草地を指す。細いが背の高い木々が植えられた空間。見晴らしの良い場ではネイトの夜色名詠が人目を集めてしまう恐れがある。周囲の視線から隠れるにはちょうどいいだろう。
夜色名詠とやらを使う一年生がいるという話は既に学園中に伝わっている。昨日の実験室のハプニングの件もある。なるべく目立たぬよう練習しなければ。
「あと残ってるのは、まだ試したことないけど黒馬あたりです」
思いついたようにネイトがふり向く。
......ふむ。やや考えた末、クルーエルは頷いてみせた。
「それいいかもね。試してみない?」
黒蛇やらコウモリなどより断然良い。黒馬ならば競演会でも十分通用するだろう。せっかく色々と触媒を作ったのだ。だめで元々、挑戦しがいがある。
「そうですね。せっかくだしやってみます」
「こっちはいいよ」
記録紙片手にペンを回してみせる。触媒はクルーエルとネイトが五つ、ミオが七つ調合した。一番多いという理由でミオは後回し。待っている間彼女には、あの口うるさい名詠生物を遠くでかまっていてもらうことになっている。
「じゃあ、やってみますね」
フラスコの栓を抜き、ネイトが中身の液体を自分の周囲に撒いていく。緑の芝生が黒く染まるのを確認し、彼はそっと目を閉じた。
風に混じる夜色名詠の〈讃来歌〉。
名詠詩を構成するセラフェノ音語を聴く限り──お、今度はわかる。ちゃんとした黒馬の〈讃来歌〉だ。白色名詠で白馬を詠ぶ時に聞いた〈讃来歌〉とほぼ同じ。見たところきちんと集中も出来ている。
触媒と被名詠物が同調し、黒い名詠門が光を呑みこむように浮かび上がる。ここまで来たらあと一息。がんばれ、こぶしを握ってその様子を見つめ──
──それと同瞬。
何かが、名詠を続ける彼めがけて飛来した。
「ネイト!」
しゃがむよう警告する余裕もなく、名を呼ぶと同時にクルーエルはネイトを突き飛ばした。間髪入れず、紅い飛来物が自分たちの頭上を通過する。
「だいじょうぶ?」
ネイトがこくりと頷くのを確認し、クルーエルは今の相手へと視線を向けた。五メートルほど先の距離に制服姿の生徒。黄土色の短髪をした大柄な男子だ。制服の袖と襟に真紅のラインが四つ──最上級生、専攻色は赤か。
「いまの、なんですか」
「そんな睨むなよ。名詠が暴走してそっちいっちまっただけだろうが」
視界をずらさず視線だけを移す。飛来物が衝突した木の表面が黒く焦げている。
「いま名詠したのは火炎でしょ」
「一年にしては詳しいな。お前も赤の専攻か」
「話を逸らさないで」
嘲るような口調にこちらも語気を強めた。
火炎の名詠。火以外の物を触媒にして、そこから火を名詠する技術である。本来は絵の具のような低級触媒から火を詠び出し、その火自身を触媒にしてそこからさらに高度な名詠を行うために生み出されたもの。しかし手慣れた者が使えば、今のように相手に向かって火炎を投げつけることも難しくはない。
「いまの、ネイトを狙って投げたわね」
「勝手に決めつけんなよ。証拠でもあるってのか」
両手を制服の衣囊に隠したまま嘯いてくる。
だがこちらとて、その程度のことを言ってくるのは予想済みだ。
「火炎の名詠は、周囲の人間と最低十メートル空けないとやっちゃいけないって決まり忘れた? ミドルスクールでも習う初歩の初歩よ。どちらにしろ非はそっち」
相手の表情がかすかに歪む。が、うすら寒い笑みに変化はなかった。
「噂の夜色名詠士とやらなら、これぐらい躱せるだろ」
......なるほど、そういうこと。
〝学校来る途中ね、三年生とか四年生の上級生がネイト君らしき子の噂してたよ〟
──今朝のミオが言っていた通りだ。ネイトの噂。まさかこんな意味だったとは。
「競演会、負けるのが怖いの?」
「出る杭は打っておかないとな」
空とぼけるかとも思ったが、相手は存外あっさりと認めてきた。
競演会には著名な名詠士も多く集まる。今年卒業の四年生にとってはこの競演会が最後の機会。その場で好印象を与えられれば、彼らへの弟子入り、あるいはそれを志願する際の有力な足がかりになる。だが今年は競演会に弱冠十三歳、しかも正体不明の名詠色を扱うネイトが出る。名詠自体の結果はどうであれ、夜色名詠が彼らゲストの目を引くであろうことは容易に想像できる。
──そんなつまらない事を懼れているのか、この男は。
「情けないわね。正面から勝負しようとは思わなかったの」
「ん? だから正面から勝負しにきたのさ」
ゆっくりと、芝居じみた仕草で相手が両の手を制服の外へ。
「夜色名詠見習いさん、ちょいと勝負といこう。負けた方は競演会に出ない。もちろん受けてくれるよな?」
「なっ......!」
あまりに場違いな、それでいて恐ろしい発言に声が詰まった。
「馬鹿じゃない! ネイトはまだ十三よ。そんなのできるわけないじゃない!」
恐る恐る立ち上がる少年を背で庇う。ネイト本人は相手の言葉の意味すら分からなかっただろう。
名詠士間で用いられる『勝負』という言葉。
これが暗に示すものはすなわち──決闘だ。
名詠士同士が一対一で互いの技量を競うものだが、それは見習い名詠士がおいそれとやっていいものではない。攻撃的な名詠生物、あるいは火炎などによる相手への攻撃も可能。大怪我はもちろんのこと、最悪の事故に至る場合すらありうる。
「あいにく、そっちに拒否権はないんだよ」
相手の右手が紅く灯る。腕を隠していたのは、その手に触媒を握っていたことを悟られないためだったのか。
いや、重要なのはそれじゃない──まさか、冗談でしょ? 本気で?
が、相手の瞳に狂気の色が迸っているのにクルーエルは背筋が凍った。この男子は本気だ。躊躇無く右手の炎を放ってくる。
その悪寒は即座に現実になった。訳も分からぬまま立ちつくす少年めがけ、子供の頭ほどある火炎が迫る。
「ネイトっ!」
間に合う?
炎の直線上にいるネイトを突き飛ばそうとした矢先。
──その火炎が、横から飛んできた水飛沫によって搔き消された。
「感心しないな」
火と水が混じり合う音に重なり、聞き覚えの無い声が割り込んでくる。
「学生同士の『勝負』には学園長の許可の下、名詠士の資格を持つ者が一人以上立ち会った上で許されるものだ。許可無しでやっていいものじゃない。そもそもそれ以前に、彼女たちは決闘など望んでないように思えるんだけどね」
すぐ耳元で聞こえてくる声に振り向いた。自分たちからわずか数歩離れただけの距離に、枯れ草色のコートを羽織った中背の男。
まだ若い、おそらく二十代後半。遠目にも目立つ端整な目鼻立ちをした人物だが、クルーエルは会った記憶が無い。こうして学園内にいるということは教師なのだろうか。
「......教師か?」
男子の言葉に棘が混じる。
「いや。一応ここの学校の先輩ではあるけどね」
それを気にした風もなく、淡々とコートの男が返す。
「事情も知らない奴は引っ込んでろ」
「事情は知らないけど、どう見てもキミの方が突っかかってるように見えるな」
「あー......いきなり出しゃばってくれた挙げ句にお説教ですか......お前────すっっげぇウザぃんだよ!」
叫ぶなり、対峙する男子生徒の手が赤光を放つ。
あまりに唐突。宣言も無しに一方的に攻撃を仕掛けるのは、たとえ決闘といえど許可されていない。それを平気で──
眼前に迫る火炎に、名詠士のコートがさながらマントの如くひるがえる。
「教師ではないけど一つだけアドバイスしておこう」
その火炎が彼の髪先の直前で止まる。避けようともせず、なんと彼はその火炎を素手で受け止めてしまっていた。
「牽制として火炎は確かに有効だけれど、名詠士同士の『勝負』においてそれは安易に使うべきじゃない」
右手に衝突した火炎はいまだ燃えさかっている。にもかかわらず、大火傷のはずの名詠士は火炎を摑んだまま右手を上に持ち上げた。火傷していない......つまり火炎の持つ熱エネルギーが何か別のことに使われてる?
「相手が赤色名詠士の場合、それを逆に利用されてしまうから。......こういうふうにね」
火が輝き出す。これは名詠の際の、光? 周囲の空間を全て覆うような光量。あまりの眩しさにクルーエルはまぶたを閉じた。
何かが着地する音が鼓膜に響く。続けて届く荒い呼気。なにか巨大なものが自分たちのすぐそばに......
「あ......あ......?」
声にもならない呟きをネイトが洩らす。
彼のすぐ真横、手を伸ばせば届くところに真紅の毛並を持つ獅子が名詠されていた。体高だけでネイトの肩ほどもある。体長は優に二メートルを超えている。尾の先に灯った火。背に生えた二枚の翼も赤。その中で、琥珀色の瞳が異様に目立つ。
──赤獅子。実物を見たのはクルーエルもはじめてだ。
「......なっ! ふ......っざけるな......てめえ、さっき水出してたじゃねえか! 『Ruguz』だけじゃなく『Keinez』も使えるってのかよ!」
怒りか驚愕か。男子生徒が肩先を戦かせる。が、あまりにも拙い遠吠えだった。彼が名詠を終えてしまった時点で勝負はついてしまっていたからだ。
今から生徒が名詠を試みようとしてもマンティコアが襲いかかる方が早い。今の一瞬で事実上の王手がかけられていた。
「......で、続けるかい?」
それが脅迫というより確認であることを彼の口調が物語っている。
圧倒的。あえて相手の色で勝負し実力の差を理解させてしまった。相手の投げてきた火炎を触媒として逆に利用し、〈讃来歌〉無しで赤獅子などという大物を名詠するなんて並の力量じゃない。今のをやれと言われて実際にできる者が、たとえ教師を含めたとしてこの学園内にどれだけいるだろう。
舌打ちし、剣呑な眼差しながらも相手がきびすを返す。
それを見送り──
戻れ。彼の呟きに、脇に控えた獅子が赤光の中に消えていく。
「す、すいませんでした。あの、あ、ありがとうございます」
「お礼なら、最初に君を助けてくれた彼女の方にもね」

慌ててネイトが頭を下げる。それを見て、その名詠士は片目をつむってみせた。
「お、二人とも休んじゃって。終わったの? 案外早かったね」
夜色トカゲを左肘に乗せたミオがこちらへとやってくる。口を開くより先、クルーエルは手元のフラスコを振ってみせた。太陽の熱でやや蒸発してしまったものの、まだほとんど減っていない。
「それがさ、まだ一個も終わってないのよ」
「へ?」
「勘ちがい上級生に言いがかりつけられたの。そいつ挙げ句の果てに『勝負』だとか言ってきたのよ。おかげで大分時間くっちゃった」
「......二人とも無傷ってことは......勝ったの?」
ミオがまじまじと見つめてくる。それに対し、慌てたようにネイトがかぶりを振る。
「ち、ちがいます。クルーエルさんが僕のこと庇ってくれたんです」
『むぅ。小娘を褒めるべきかネイトを窘めるべきか迷う線だな』
なんか妙なことに苦心しているトカゲをほうっておいて、と。
「わたし何もしてないわよ。知らない人が助けてくれたの」
「別の人?」
唐突な内容のせいかミオが疑問符を頭に浮かべる。
「黄緑色っぽいコートを羽織った人です。すごかったですよ。赤と青の二色をマスターしてるみたいだったし。名前は教えてもらえなかったけど、有名な人だと思います」
まだ興奮冷めやらぬらしく、ネイトの口調がいつもより早い。
ふと。それを聞きミオが芝生に座り込んだ。
「黄緑......つまり枯れ草色のコート......複数の名詠色をマスター......」
「ミオどうしたの?」
腕を組んだ姿勢でミオがこちらを見上げてくる。
「一人、もっっのすごく有名な人で心当たりあるんだけど。でもまさかそんなはずないなって思っただけ。いくら何でもあの人がいるわけないしね」
「誰のこと?」
聞くも、彼女の方はううんと首を振ってきた。
「気にしないで。さ、さっさと続きしちゃお。あたしとアーマも見ててあげるから」







懐かしいな......
陽の落ち始めた時刻。実験室の窓から射し込む西日に、彼はそっと目を細めた。
わずかに漂う薬品の匂い、見覚えある実験器具も前とほとんど変わっていない。学生時代、最も多くの時間を費やしたであろう場所。図書館で借りてきた本を片手に次から次へと触媒を作り、片っ端から名詠に試してみる。学校生活に特別な思い入れはない。しかしそれでもこの場所は懐かしいと思える。
「カインツ君」
自分の名を呼ぶ声に、実験室の扉側へとふり向いた。
「まったく、まさかこんなとこにいるなんて。学園長が探してたわよ」
眼鏡をかけた女性が扉の片隅に。彼女が歩くごとにラベンダー色の髪がふわりと揺れる。
「お久しぶりですジェシカ先生。......っと、今は教師長でしたっけ」
かつての恩師に向かい、彼は軽く会釈した。
「やめてよもう。虹色名詠士様にそんなことされたらあなたのファンに恨まれるわ」
本気か冗談か、どちらともとれる声音に苦笑する。
「ボクはボクですよ。これでも、エルファンド学舎の時から何も変わってないつもりでいますから」
その言葉に噓はなかった。生活習慣はあの時から何一つ変えてない。性格も言葉遣いも。
外見だってそうだ。顔立ちもかつてのままの輪郭に限りなく近い。初対面の人間で自分の歳をあてた者はいないほどだ。
「そう言えば、学園長が探していたと」
話題を戻す。と、彼女は何やら落ち込み気味に首を振った。
「......ああ、そうだったわね。わたしも最近、物忘れでだめだわ。そろそろ引退かな」
「まさか。むしろ今からが頑張りどころですよ」
以前会った時よりも恩師は目元がくぼんでしまった気がする。時間の経過を感じ、それとなく視線を逸らした。
「肝心の件だけど、学園長は四年生棟の先にある資料館で待ってるって言ってたわよ。地下一階のセントラルだって」
「はい。ところで気になったのですが、どうもこの部屋煤けてませんか?」
視線を逸らした先で目につき、つい気になっていた。
「この前、ここで火煙を詠び出しちゃった子がいたらしいのよ。転校してきたばかりの子だし、まだ十三歳らしいから失敗も仕方ないのかな」
火煙──赤色名詠? 説明に半ば頷きかけたものの、カインツはふと周囲を見回した。部屋全体がくすんでいる。だがそれ以外この教室に異常はない。それが気にかかる。部屋全体を燻らせるほどの煙を出す火事ならば、当然この部屋全体が火に炙られたはず。
なのに、煤けてはいるものの焼け焦げた形跡がまるで見当たらない。なぜこの部屋は、煙が付着しただけで、焼けなかったのか。
──本当にこれは火煙だったのか?
「どうかしたの?」
ジェシカ教師が訝しげに覗き込んでくる。
......おっとそうだった。今はそんなこと考えてる暇はなかったんだっけ。
「いえ。ちょっと思い出に浸ってまして。懐かしいなと思って」
いかにもありがちな作り事。自分で言って恥ずかしくなるが、理由づけとしては妥当な線だろう。
「ところで──明後日、競演会ですよね。ボクも見学させてもらってもいいですか」
「こっちから聞こうとしてたところよ。誰が断るもんですか。あ、でも一応学園長には伝えておいた方がいいけどね」
競演会は全生徒が出席する。これで、この煤を出した生徒もこの目で確かめられる。
焦点を再び天井へ。どうにも気になる。火煙と無理やりに解釈しても文句は付かないのだろうが、なにか胸がざわつく。
「じゃあボクもそろそろ行ってきます。学園長を長々と待たせるのもなんですしね」
3
三年生校舎を通過し四年生校舎の方角へと向かう、コート姿の男。
「......あいつはさっきの?」
一目見るなり、ベンドレルは通路の脇に設置してある噴水に身を隠した。
枯れ草色のコート、間違いない。ついさっき邪魔してくれた名詠士。あの野郎、暢気に学園内をふらつきやがって。
だが、あの男はどこに行く気なのか。
ベンドレルが訝しんだ矢先、その男の靴先が進行方向を変えた。四年生校舎を回り込むように、その裏側へと。
......ちょっと待て。そっちは資料館の方向だぞ?
万年施錠されたままの開かずの建物。資料館と言えば聞こえはいいが要は物置に過ぎない。生徒はハイスクール時代の四年間に一度入るかどうか。それも、教師に頼まれて何かを取ってこさせられるぐらいしか入る機会がない。
眉根を寄せながら後ろをつけていく。十分距離をとっているからあの名詠士も気づくはずがない。赤錆びた扉の前でコートのゆらぎが止まる。その扉に手をかけ、数秒。扉同士が軋み音を立てながら、徐々に二つに割れていった。薄暗い資料館の中へと男が姿を消す。
......開いてる?
鍵を使って開けた仕草はなかった。つまり既に誰かが中にいるということになるが。
だがなぜ、あの男がこの学校の資料館に入る必要がある?







「あぁぁ。やっぱ無理だったぁ」
ネイトが悲鳴を上げた。そのまま芝生にぺたんと腰を下ろしてため息をつく。
「馬は難しいです。そもそも僕、本物の馬なんて一度か二度しか見たことないし......」
『言い訳だな』
ミオの肩に乗ったままアーマが目を細める。トカゲと呼ばないからなのか、この名詠生物はミオになついているようだった。ミオもミオで、普段カエルやらカメやらを名詠して見慣れているらしく、そっち系には耐性があるらしい。もっとも、いくら名詠学校の生徒とはいえ、トカゲを肩に乗せて平然としていられる女の子はミオぐらいなのだろうが。
『名詠とは未だ見ぬ物を招くことに意義がある。自分が見たことのある物ならば、その気さえあればいつでも会えるということだ。その程度の物を詠び出せずにいては困る』
おそるおそる、説教口調のトカゲにクルーエルは指先でつんと触れてみた。岩肌を擦るようなざらっとした触感。それと、氷をつまんだ時にも似た冷気。
「ねえ、あなた実は高度な生き物ってやつ?」
『どういう点でだ?』
存外興味を持ったらしく、相手が鼻先をこちらへと向ける。
「しゃべれるってことは、結構すごい生き物なのかなって」
『一応その類の端くれだな。とはいえ』
ミオからネイトの肩に飛び移りながら、そのトカゲは微妙な言い回しをした。
『名詠の難度こそ低くとも言葉を解する生物はいる。その逆、真精──もっとも難易度の高い生物たちの中にも言葉を用いない類がいる。その区分をあまりあてにしない方が良い、とだけ言っておく』
言葉を話すイコール「すごい生物」ではない。と言いたいのだろう。でもその言葉を借りるなら、それこそあなた、ただのお喋りトカゲになっちゃうんだけどなあ。
「......だいぶ時間たっちゃったね」
背を伸ばした影を見つめながら、ミオ。
校舎のせいで地平線は見えないが、それでも校舎の隙間からこぼれる光が紅いのは分かる。正確には分からないがそろそろ下校の時刻のはず。校庭にいる他の生徒も次第にその数を減らしてきていた。
「ミオ、今日はどうするの? 泊まっていく?」
やや迷った素振りを見せつつも、ミオは首を横に振ってきた。
「うーん、今日は帰るって親に言っちゃった。あ、でも。せっかくだしこのままみんなでご飯食べたいな。ネイト君も、一緒にカフェテリアでも行こ」
「あ、でもペットの持ち込み平気でしたっけ?」
のほほんとした口調のネイトに、その肩に乗っているトカゲが目を細めた。
『む。ネイト、我をペット呼ばわりするとはいい度胸──』
「あぁぁ。ごめんアーマ! でも別にそういう意味じゃなくて、他の人から見たらって意味だから、えっと、そのぉ......だからぁ......」
主人のはずのネイトに向かって詰め寄るトカゲ。そのトカゲに平謝りするネイト。
なんか、どっちもどっちね。
隣のミオを見やる。珍しいことに、彼女も困ったような表情で肩をすくめてきた。







骨の髄まで溶かされそうな蒸し暑さから一転、その部屋に入ったとたん心地よい冷風が首筋を撫でた。種々の薬品、古書、得体の知れない生き物の骨。資料の保管のため空調がコントロールされたこの部屋には、夏の殺意も届かない。
「──禁断の聖域か」
学生時代は資料館などまず訪れなかった。貴重な資料が保管されているため生徒の立ち入りは若干の例外を除き許可されない。教員ですら入館するには許可証が必要になる。ジェシカ教師長でさえここを訪れるのはせいぜい月に一度だろう。
......なるほど。口の端をわずかにゆがめ、カインツは嘆息した。
薄暗いというにはあまりに陰気。入った時は心地よかったが、汗が乾いてくるにつれ冷風が背中を粟立たせる。薬品の臭いか生物の腐臭か、どちらとも言い難い悪臭が鼻を突く。とどのつまり、誰も立ち入れないというのではない。誰もこんな場所には来たくないだけだ。聖域ではなく呪われた場所と言った方がよほど似合う。
足を前に踏み出すたびに床と靴とが硬く乾いた音を立て、それが資料館全体に響き渡る。床にうっすらと積もった埃。それが舞い上がる様子から目を逸らし、慎重に地下への階段を下っていった。
一階は雑貨置き場といった様相だが地下からは階層毎に資料が分けられているらしい。ざっと一瞥する限り、地下一階は名詠式に用いる触媒の保管庫になっていた。
「で、ボクを呼んだ御用とは?」
「ああ、よく来てくれた。待っておったよ」
正面に立つ小柄な老人が表情をやわらげる。背中がやや曲がっているせいで上背はなく、褐色のローブに身を包んでいるつもりが、ローブに包まれてしまっている男。生徒数千五百を超える大学校を束ねているとは思えないほど柔和で迫力に欠けるが、一線を退いてなおその名を知らぬ者はいないとされる名詠士。
トレミア・アカデミー、学園長──ゼア・ロードフィル。
「こっちだ。ついてきてくれ」
口ひげに触りながら老人が背を向ける。
フロアの隅。触媒が陳列された棚が部屋を埋める中、ただ一つ置かれた木製の机まで歩いたところで学園長がふり向いた。
「これだ」
机の上に置かれた五つの宝石にその視線が向いている。赤、青、緑、黄、白。五色の宝石。それだけなら普段はルビー、サファイア、エメラルド、トパーズ、オパールあたりを思い浮かべるものだが。
宝石かと思ったが違う。それに似た光沢を放ってはいるものの、宝石特有の結晶構造をしていない。楕円形、それも卵ほどの大きさのルビーがあるだろうか。
「これは」
「手にとってみるといい。そのまま素手で構わんよ」
緑色の宝石を持ち上げてみる。途端、手の中のそれが眩しいほどに輝きを増した。この光、見慣れたものと酷似している。まさか、名詠光?
慌てて宝石を机に戻した。十秒ほど輝き続け、ようやくそれが光を失っていく。
「学園長、これは」
「知り合いの研究所が造った人工触媒というやつさ。研究者内では〈孵石〉と呼んでいたらしい。精製には成功したが我々には手に余ると言って無理やり置いていきおった」
親の仇でも見るかのような視線で老人が眼下の卵を睨めつける。
「これをどう思う」
「......危険ですね」
老人が頷く。
研究所が手に負えないと判断したのはカインツにも納得がいく。いまこの一瞬だけでも、この触媒が最低二つの面で危険すぎることがわかった。
一つは触媒として効果過剰であるということ。名詠に長けた者ならば名詠光の輝きを見るだけで、それがどの程度効果を持つ触媒か判断る。カインツが見る限り、この宝石まがいは自分が知る中でも相当強力な部類に入る。未熟な者がこれを使って火をおこそうとでもすれば、下手をすれば大火事を招くほどのものだ。
そしてもう一つ。どうやらこの触媒は強制的に名詠を引きずり出すらしい。
本来、触媒という物は名詠者が意図して初めて効果を発揮する。そもそも触媒が勝手に名詠の名詠門を開いてしまうのであれば、赤色式者はおちおち赤いワンピースも着られない。だがこの〈孵石〉はその性質を持ってしまっていた。それに気づき慌てて意識を閉ざしたものの、あと数秒遅れていたならば名詠が暴発していたかもしれない。
......まったく、学園長も人が悪いな。
表情に出さぬまま苦笑する。自分が本当に適任者かどうか。今のがこの老人なりの試験だったということだろう。
「問題はこれをどう廃棄するかだが」
空とぼけるように老人が目を逸らす。
「破壊は〈孵石〉の内部エネルギーがどうなるか確信がもてんから断念した。下手をすると大爆発を起こすかもしれん。埋めるのは所詮解決の後回しだから却下。となると地道に分解しなくてはならんのだが、この学園の施設ではどうにもならん。どこか大きな研究機関に預ける必要があってな」
「で、ボクの出番ですか」
続きを待つ気もせず割り込む。案の定、気を悪くした様子もなく老人は頷いてみせた。
「左様。うちの職員は優秀だが今ひとつ頼りに欠ける。知人で今すぐ動けるのはお主ぐらいしか思い浮かばなくてな。虹色名詠士に依頼したとなれば誰も口を挟めんだろうし。すまんが、やってもらえんか」
「構いませんよ。知り合いのいる研究所で分解してもらいます」
正直気は進まないが、こんな危険物を学園に放置するわけにもいくまい。
「その代わりと言ってはなんですが、明後日の競演会ボクも見物させてもらえませんか」
「むろん。そう言うと思って貴賓用の客室を用意しておる。二、三日学園に泊まっていくといい。うちの教員もお主と是非話がしたいと言う奴が多くてな。時間があれば少しかまってやってくれ」
首肯し、眼下の〈孵石〉を見据える。
「ところでこれはどうしましょう。今からボクが預かっててもいいですが、客室で寝泊まりさせてもらう間はこの資料館に置いておいた方が安全な気もしますけれど」
講演会などに招かれた際、自分がちょっと外出した隙に、宿泊先の部屋に他人が勝手に侵入しているというのは日常茶飯事だ。虹色名詠士とどうしても話がしたくてというのが大半だが、エスカレートすると自分の持ち物まで物色されてしまう。
「それもそうか。では明後日の競演会が終わった次の日にでも、もう一度ここに来てもらえるかな」
「わかりました」
「では戻るとするか。正直ワシもここの陰気な空気は好かん」
一息吐き、初老の名詠士が階段へと向かう。
「〈孵石〉は机にそのままでいいんですか?」
「どこかの棚に置いて他の資料と混ざってしまったら面倒かと思ってな。お主に渡すまで、誰もここに入らぬよう鍵はワシが保管しておく。こんな居心地悪い場所、わざわざ競演会中に入ろうとする輩もおるまい」







「あちゃ......サイフ、教室の鞄の中に入れっぱなしだったぁ......」
スカートのポケットに手を入れたままミオは顔をしかめた。カフェテリアの入り口。念のため所持金額を確かめようとしたら案の定これだ。
「ん、それならわたしが立て替えとくよ」
クルーエルが何を今さらとでも言いたげな視線を送ってくる。甘えようかとも思ったが、すぐに彼女の性格を思い出す。後で自分が代金分を返そうとしてもどうせ「いいよそれぐらい。大した金額じゃないもん」の一言で断るのがクルーエルだ。泊まらせてもらうだけでなくそこまでさせるのはさすがに抵抗がある。
「ううん。取りに行ってくるよ。先に席確保してて」
言うなり、ミオは彼女が次の言葉を告げる前に走り出した。
カフェテリアは二年生棟と一年生棟の間。一年生の校舎まではさほど離れていない。数分緩やかな勾配の傾斜道を上る。一年生棟の校舎が夕陽に浮かび上がる。結構な時間のはずだが、夏の日没が遅いせいで上空はまだ赤茶けたといったところ。夜の帳が降りるまでにはまだ時間があるらしい。
校舎の中に入り、壁に掛けられた時計を確認。走らなくてもどうせ時間はかからないだろう。のんびりとした歩調で廊下を進む。
「あーあ。もう明後日が競演会かぁ」
かるく腕を組む。緊張感というか、あまりそういった実感がない。トレミア・アカデミーに入学して初めてのことなので、まだ自分でもどんな雰囲気か摑めてないからだろう。
どこか醒めた気分のまま他のクラスの前を横切る。教室に誰も残ってないということは、みんなどこかで最後の特訓をしているのだろうか。
階段を上り二階へ。E、D、Cと順に教室を通過していく。薄暗い廊下、教室から溢れる夕陽がぼんやりとその周囲を照らしている。
......あれ。誰かいるの?
ふと立ち止まる。一─B。自分のクラスだけ、部屋の扉が開いているのだ。
「まだ残ってたんだぁ。へへ、あたし忘れ物しちゃってさ」
どうせクラスメイトの誰かに決まってる。声を上げ、内部の様子を確認することもなく部屋の扉をくぐった。
──と同時、そのままの姿勢でミオは硬直した。
そこにいたのが生徒でなかったからだ。
............え?
生徒ではない。教師でもない。窓枠に腰かけるように佇み、夕陽を浴びながらこちらを見つめ返している男。
枯れ草色のコートを羽織った名詠士。
え、え、ちょっと......タイム。な、なにこれ。なんでこんなとこにこの人が?
「カ......か............」
写真でしか見たことないが間違いない。枯れ草色のコートはあの名詠士のトレードマークのはずだ。驚異的な若さで伝説となった人物。歴史上でただ一人、全色の名詠式習得に成功した者。──自分が憧れている人。ああっ、でもなんで、なんで名前が出てこないの。あたしのバカバカ......
「おっと、ごめん。部外者はさっさと消えるとするよ」
沈黙をこちらが怯えているからとでも判断したのか、彼の方が窓枠から手を放す。
だめ、行かないで!
「ま、まま、待ってくださいっ!」
自分の横を通り過ぎようとする名詠士に向けて喉を振りしぼった。
「ん?」
「あ、あの。カインツ・アーウィンケル様ですよね」
身体のふるえは止まらないもののようやく相手の名前が頭に浮かぶ。と、相手がわずかに表情を変えた。一瞬前よりすこしだけ、やわらかいものへと。その仕草だけで頭が真っ白になりそうなのを、後ろ手で背中をつねることで必死に堪える。
「わ、わたしミオって言います。あ、えと......カインツ様のこと尊敬してて......その......一度お話ししてみたくて」
「それはいいけど。だから、逃げないから、放してもらえるとありがたいんだけどな」
え? 放す? 意味がのみこめない。腑に落ちぬまま彼の視線をそのままなぞっていき、ミオの視線は彼のコートのところで凍りついた。
彼の右腕の袖部分。それを、自分でも無意識のうちにぎゅっと摑んでしまっていた。
「ご、ごめんなさい!」
「いやいいよ。それより、そんなにかしこまらないで」
ほころんだ表情を隠すこともなく、虹色名詠士がはにかむように手を振る。
だけどどうしよう。話したいことも聞きたいことも沢山ありすぎて、何から言えばいいかわからない。というより、なんで伝説の虹色名詠士がこんな放課後の教室にいるの。でもそれを聞いちゃうのって、もしかしてプライバシー侵害? ......ああっダメ。無駄に湧いてきて、口にしようとしたことがすぐ次の瞬間には押し流されちゃう。
「......この学校、実はボクの母校なんだ」
察してくれたのか、先に言ってきたのは彼の方だった。
え、でも、どういうことだろう。
もし本当にトレミア・アカデミーが虹色名詠士の母校ならば大変なことだ。自分のような普通の生徒ではなく、今頃ここは一握りのエリートしか通えない超人気校のはず。だけど入学式にもそんな話はまったく出てこなかった。そもそも彼の銅像くらい学校に当然あるはずなのに。
「いや。母校があった場所と言った方が正確かな」
が、彼の次の句でその疑問は払拭された。
「ボクが学生時代に通っていたのはエルファンド名詠学舎。別にエリートが集まるでもない、いわゆる普通の学校だった。ボクの代が卒業して三年後くらいだったかな。その学校は経営難で閉鎖。だけどエルファンド以外、近場に名詠学校が無かったからね、その時の学生と教員をここの学園長が呼び集め、トレミア・アカデミーを創設したんだ」
そう言って彼が窓枠に腰かける。自分のクラスメイトが時々同じ姿勢でいるのを見る。だがふしぎと、その姿は同級生の誰よりも似合っていた。彼が虹色名詠士だからではなく、ただ素直にそう思う。
「ボクが学生の頃いた教室がちょうどこの位置ぐらいだったかなって。懐かしくて、つい立ち寄らせてもらってね」
「ここが、ですか」
でも、もう一体何年前の話だろう。校舎すら新しく建て直しているというのに、なんでわざわざこの教室を選んだのか。
「夕陽の位置」
教室に吹き込む風に、茶とも金とも区別のつかない髪が微かに揺れる。
「もう大分経ってるけど、それでもこの夕陽の位置は覚えてる。......あの時もまさにこんな景色だったから」
あの時? いつのことだろう。彼が虹色名詠士になった時? いや違う。それは彼が学校を卒業してからだ。つまりこの人には、虹色名詠士になった時よりも大事な思い出があるということなの?
「君はどんな名詠士になりたいんだい」
が、ミオのそんな疑念は彼からの唐突な問いによって吹き飛んでしまった。
「あ、あたしはそのカインツ様と同じ......」
虹色名詠士。その手の回答をそれこそ星の数ほど浴びているだろう。彼にしてみれば聞き慣れた、ありふれた答え。それでも嫌な表情を一切みせず、彼はくすりと笑ってくれた。
「目標は大きい方がいい、ボクと同じじゃなくボクを超えるくらいの気持ちでね。でも、一つだけ覚えていて欲しい。......本当に求めたいものは名詠式では手に入らない」
「え?」
突然振られた内容にミオは目を丸くした。それってどういう意味だろう。だが。
いや、こんな話をしてる場合じゃないんだっけ──そう呟き、話の途中で彼の方から言葉を切ってしまった。
「そういえば忘れ物してたとか言ってたけど、それは見つかった?」
どきりと胸が痛む。まずい、完全に頭の中から飛んでしまってた。
クルーエルとネイトを待たせっぱなしだ。タイミングというか運が良いのか悪いのか。虹色名詠士と二人っきりで話せるなんてもう二度とないかもしれないのに。
「誰かと待ち合わせかい」
違います──そう言いたい気持ちもある。だけど噓はつきたくない。クルルとネイト。友達を裏切りたくなかったから。
無言のまま、鉛のように重たい頭をかろうじて上下させた。
「ボクなら競演会の翌日までこの学園にいるから、話なら今じゃなくても大丈夫だよ」
「ほ、本当ですか!」
「約束するよ。ミオさんだね。名前もちゃんと覚えておくよ」
よほど慌てているらしく、こちらを振り返ることもなく少女が廊下を駆けていく。
再び一人になった教室で、カインツは自分の手のひらを見つめた。
本当に求めたいものは名詠式では手に入らない──
......だけどそれは、まだあの子にはわからないかもしれないな。
自分も、虹色名詠士と呼ばれてようやく気づいた。というよりも、そう認めざるを得なかった。
それでも、いつかきっとそれを知る日がくる。自ずと気づく時が来る。
「ボクの場合、それは一途でひとりぼっちの黒魔女だったんだけどね」
誰も聞いていないことは承知。聞かれていたとして誰にも理解されないことも分かっている。それでもカインツは言葉を紡いだ。誰かに聞いてほしくて。誰かに理解してほしくて。せめて、『彼女』にだけは伝わってほしくて。







......行ったか?
学園長、そしてコートを羽織った名詠士。二人が出ていくのを確認し、ベンドレルは戸棚の隅から這いずり出た。
名詠士が資料館に入るのを確かめて自分も侵入。学園長との会話を一階の階段脇で盗み聞きしていたのだが、古ぼけたコートを羽織ったあいつがまさかあの虹色名詠士だとは思いもよらなかった。
もっと年老いた名詠士を想像していた。虹色名詠士など所詮名前だけ。今までそう思いこんでいたせいでろくに顔も知らなかったが、どうやら名声に相当する程度のものは持っているらしい。
夜色名詠を使うという生徒への挨拶を邪魔されたことは不運。しかしあんな化け物に決闘を叩きつけながら無傷で済んだのは不幸中の幸いと言うべきか。
「......エッグがどうこう言ってたな」
校長は外へ出た時に鍵をかけたが、あいにく内側からならば鍵は解除可能。
一階で聞き耳を立てていたので地下の会話は半分も聞こえなかったが、どうやら触媒関連の話だったということまでは予測がつく。それもかなり重大な話。学園長が他の教員に相談せずわざわざ虹色名詠士を招いたのだ。一体どれほどの機密情報なのか。
──誰だって気になるさ、なあ?
直接見てみれば済むが、それほど楽な作業ではないらしい。
「ったく、手のかかる場所に置いてくれて」
触媒の保管所だけあって、百を超す棚に陳列された数多の触媒。木を隠すなら森とはよくぞ言ったものだ。一体どれほど時間がかかるか分かったもんじゃない。
日が暮れたせいで視界も悪くなってきている。天井に申し訳程度につくられた採光窓から入る光がだいぶ弱まってきている。かといって、電気をつけたらさすがにばれる。
......まあいい。明日明後日。気長に探すとするか。







「ミオおそーいっ!」
全力疾走で走ってくる少女にクルーエルは声を張り上げた。サイフを取りに行ってからおよそ二十分。普通に往復するなら十分弱のはず。なんでこんなに遅かったんだろう。
「サイフ見つからなかったの?」
息が切れて喋れないらしいものの、深呼吸を繰り返しながら彼女は首を横に振ってきた。
「......あ、あのね......すごいの、ちょっとすごいんだって!」
「──何がすごいの?」
頰を紅潮させて興奮する友人。彼女に向かいクルーエルは肩をすくめてみせた。
「あのねあのね、あたしたちのクラスにカイ様がいたんだってば!」
『はい?』
まったく同時。自分と、隣に座る少年の声が唱和した。
「いや意味がわかんないってミオ」
「そもそも僕たちの教室にいたというのが──」
ネイトが言い終わるのも待たずミオが両腕を振り上げる。
「だ、か、らぁ! さっきクルーエル言ってたじゃない! 黄緑色っぽいコート着たすごい名詠士を見たって。その人やっぱりカインツ様だったのよ!」
直後。がたん、という椅子の悲鳴が食堂中を揺らした。
ミオが言った直後、自分たち同様カフェテリアで食事をしていた周りの生徒が一斉にこちらをふり向いたのだ。生徒どころか同席していた教員、カフェテリアの店員までもが取り憑かれたように。
「あ......」
数十の視線に突き刺され、威勢良く腕を振り上げたまま少女が凍りつく。
──ミオのばか。こんなところで大声を出してどうするのよ。
机に頰杖をついたまま、クルーエルはこれでもかと大仰に嘆息してみせた。
押し寄せる人波をかき分け、まず近寄ってきたのは運動着姿の女子生徒が二人。
日焼けした肌にショートヘアのボーイッシュな少女、日焼けこそしてないもののいかにもスポーツ系といった長身の少女。クラスメイトのエイダとサージェスだ。
「ちょっとちょっとミオ、今の話噓じゃないでしょうね?」
「カイ様がいたの? どこによ! さあ吐きなさい!」
二人がまとめてテーブルに身を乗り出してくる。エイダに至っては持っていたフォークをミオに突きつけながら、問いただすというより尋問だ。
「え......ええと......その──」
ほら噓だって言いなさい。今なら傷は浅くてすむわよ。唇だけ動かしてみるが、さすがのミオも読唇術は身につけていなかったらしい。その間にも、動転したまま口を開けっ放しのミオへと見る見るうちに人集り。
「まじかよ。俺さっきその人見たぜ。あの人だったのかぁ」
「ワタシもワタシも! 四年生校舎のあたりでしょ。雑誌で見たことあったけど、こんなとこいるなんて思わなかったから声かけられなかったのよね! うわぁミスったなぁ」
今にも泣きそうな表情のミオを後目に憫笑する。
「わたし四分。ネイトは?」
「......これぐらいかと」
やや逡巡しながらも、隣に座る少年は指を三本立ててみせた。
──はてさて、周囲の追及にミオはどれだけ耐えられるだろう。
自分たちの予想もむなしく。結果として、ミオはその一分後には、教室であったことのほとんどを吐かされてしまった。
競演会に虹色名詠士が参加するらしい?
口コミだけで、一時間後には、その噂は学園の隅々まで広まることとなった。
間奏 『風が呼ぶ、枯れ草色の思い出を』
1
「......なんか、今日やけに気合い入ってない?」
冷笑気味にクルーエルは校舎の窓から校庭を眺めた。朝七時半。競演会前日ということで部活動の朝練習は休み。
ミオ、ネイトと約束して名詠の練習をしようと登校してみれば。
校庭は既に生徒で埋めつくされていた。密度でいうと、生徒同士が両手を拡げれば互いに指先が触れてしまいそうなほど。名詠練習どころの話ではない。
「あっちもすごいですよ、ほら」
ネイトの指さす方向に目を向ける。来賓用の正面ゲートには色とりどりの風船と花束。歩行者用の道にはカラーテープとリボン。その奥には七色で飾り立てられた正面ゲート。ここまであからさまなのもどうなのだろう。全てが全て、どこを見ても虹色。これを飾り付けた生徒の思惑が見え見えだ。
「お待たせー。あれ、もしかして遅刻?」
『十三分遅刻だな』
息を切らせ教室に入ってきたミオに、ネイトの肩に乗るトカゲが短く吐き捨てる。
「だって今日、来る途中の道がすごい混んでたのよ! ほとんどうちの制服だったけど、なんでこんなに早くからみんな来てるのかなぁ」
──あなたが原因でしょ。むろん、今さらそれを口にする気も無いが。
「練習どうしましょう」
肩に乗っていたトカゲをネイトが両手に抱え直す。
「これじゃあ無理そうね。誰かさんが盛大に盛り上げてくれたみたい」
「そうだね。盛り上がりそうだよ、楽しみだね!」
のほほんとした口調でミオ。......まったくこの天然は。
すぐ隣から張本人を睨みつけるも、彼女は気づいてくれなかった。
2
「競演会、いよいよ明日ね。これが終わればもうすぐ夏休みに入るし、最後の締めくくりだからみんな頑張って。準備はできてるわよね?」
出席簿を片手にケイト教師が教室の窓を開ける。
「そうそう、一つ大ニュースがあるの。うちの競演会は毎年有名な名詠士の方がお見えになるんだけど、なんと明日は──」
「甘い甘い! 先生、そんなのとっくにみんな知ってるよ!」
と。後ろの座席に座っていたエイダが歓声を上げた。昨日ミオを尋問する際に持っていたフォークをペンに持ち替え、今度は自分の教師に向かい少女が勝ち誇る。
「......だと思ったわよ」
とっておきのネタを先回りされ、腕を組んだままケイト教師がうなだれる。
「でも学園長からの業務連絡だから一応言っておくわ。ともかく、明日は虹色名詠士カインツさんもみんなの発表を見てくれるそうです。各優秀賞の他に彼から頂ける特別賞もあるみたいだから楽しみにしてて」
虹色名詠士からの直々の賞!
教室が歓声で轟いた。横目で背後を見やる。ミオにエイダ、サージェスが握りこぶしでガッツポーズをしているところを見ると、彼女たちは本気でそれを狙っていくらしい。
......だけどそういうのがあるから、昨日の勘ちがい上級生みたいなのが出ちゃうのよね。
当の被害者はどう思っているんだろう──と思いきや、教室の隅でネイトは何やら自分の鞄を大慌てで閉めているところだった。どうせあの飛びトカゲが、いい加減鞄から出たがって暴れ始めたといったところだろう。
「ねえ、クルーエル」
唐突に、背後から手が伸びてきた。サージェス。彼女の手にある小さなメモ。どうやら女子生徒だけの回し手紙らしい。どんどん前に回して。その呟きに軽く頷く。
内容は九割方、クルーエルが予想した通りのものだった。飾り付けの時間こっそり抜け出して、虹色名詠士がいると思われる来賓用宿泊室に行ってみようというもの。
......まあ、気持ちはわかるんだけどね。
自分は一度出会ってるし二言三言会話もしたが、大半の生徒は彼の顔も見ていない。気になって仕方ないのだ。
でも、わたしはパスでいいかな。メモに自分の名を書かずクルーエルは先に回した。
そこにミオの名前が無かったからだ。改めて昨日の礼をしたいという気持ちもあるが、それは明日でもできること。下手に顔や名前を覚えられて肝心の競演会で失敗したら逆効果。それこそ目も当てられない。
「じゃあ、みんな飾り付けお願いね。私は明日の打ち合わせで今日一杯かかるから手伝えないけど、頑張ってちょうだい」
今日この日は競演会前日ということで、生徒は全員で校舎の飾り付けに回る。どこを飾るかは割り当てられているが、人手が少ないと思ったら自由に移動してもいいらしい。もっとも、その自由移動が問題なのだが。
......頑張る方向は保証しませんよ。
担任教師に向かい、クルーエルは小さく呟いた。







コン、学園長室の扉が小さくノックされる。
「──失礼します」
その声に顔を持ち上げる。
純白のスーツを着こなした女性教師がしずしずと扉を開けてきた。
「エンネ君か」
物静かな雰囲気の女性が小さく頷く。その手に数枚の書類。
「競演会プログラムが出来ましたので......前日になって申し訳ありません」
「いやいや構わんよ」
タイムテーブル、来賓、司会。ざっと重要事項を確認し受け取る。
来賓者の端に虹色名詠士の名。突然の来賓者である彼の名を土壇場で書き加えたため提出が遅くなったといったところか。
「ところで生徒の様子はどうだね」
「今年も優秀な生徒がたくさんいます。ひたむきに頑張る子たちばかりですので、きっと良い結果を残してくれると思います」
しっとりと微笑む教師。彼女がそう言い切るからには相応の自信があるのだろう。
「そうだな、特に最上級生たちには頑張ってもらいたいものだ」
一年生などはまだお祭り騒ぎ程度の心境で臨むのだが、進路の決定が迫る最上級生たち、特に、今後も名詠の道を志す者は真剣この上ない。この競演会で結果を残せば多くの著名な名詠士・研究所からスカウトが来る。彼らにとってはこの場が就職試験のようなもの。そういった生徒たちは今も校庭や空き地に陣取り、最後の調整に励んでいる。
「毎年この時期。あの子たちの熱心な姿を見ていると、生徒だった頃を思い出します」
窓の外、校庭をそっと眺めつつ女性が表情をほころばせる。
「わたし......名詠士になろうとしたのは有翼馬を詠んでみたかったからなんです。ずっと昔、わたし大けがをしたことがあって、医者の下へ行こうにもあまりに遠くて......でもその時、通りがかった名詠士の方が有翼馬を詠んでくれたんです。その背に乗って病院に送ってもらったことがありました。......本当に、言葉に出来ないくらい嬉しかった。だから──」
校庭の中央、数人と真剣に論議している生徒。それから離れた木陰、教師に見守られながら名詠に向かう者。その姿に、彼女が懐かしむような視線を送る。
「今度は、わたしがその役目を果たしたいんです」
弱々しい、そうとすら思える静かな物腰。だがその瞳と口調には、名詠を教える者としての威厳と誇りが確かにあった。
数秒、窓から外の光景を眺め──
「......では。わたしもこれから生徒たちと最後の打ち合わせがありますので」
わずかに、名残惜しむようなためらいの間を開け、彼女が踵を返す。
「ああ。今はキミが名詠を教える立場なのだからな、ワシも信頼しておるよ」
無言で頷き、白衣の教師は学園長室を後にした。
「ミオさん、ここはこんな感じでいいですか」
「うーん。もうちょい左かな。あ、やっぱり右......じゃなかった、上にずらして」
トレミア・アカデミー正面ゲートの最頂部。椅子を二段に重ねてその上に立ち、ネイトが背を伸ばしてゲートの頂上にリボンを飾っていく。ミオは現場監督。普段大ざっぱな性格のわりに、さっきから妙に細かい指図を繰り返している。
「あーもう、クルル。もっと丁寧に作ってよぉ」
今度はこっちにまで注文が飛んできた。クルーエルはリボンで花を作りそれをネイトに渡す役だったのだが、監督はその花の出来がお気に召さなかったらしい。
「でもどうせ明日だけでしょ? これで十分だと思うけどなぁ」
「だめー。カインツ様がここを通るかもしれないもん」
腰に手をあててミオが頰を膨らませる。
「大丈夫よ。見るっていっても一瞬だろうから......って......ミオ? どうしたの?」
言葉半ば、クルーエルは自分の目を疑った。
ふと。ミオの双眸に物寂しげな色が浮かんでいたからだ。
「......この学校ね、カインツ様にとって特別な思い出があるみたいなこと言ってたの」
心中首をかしげた。そんな事実、聞き覚えが無かったからだ。
昨日カフェテリアで絞られた時にミオはその話はしていなかった。洗いざらい吐かされたかと思っていたが、それだけは隠し通したということだろうか。
「それって、昨日会った時に聞いたの?」
秘密にされるかとも思ったが、存外素直にミオは頷いてきた。うつむきながらおずおずと、今にも消えてしまうような小声で。
「あたしもほとんど聞けなかったけど......でも、この学校が大切だって言う気持ちはすごい伝わってきたの。せっかくこの学校に来たんだから......あの人にまた素敵な思い出を作ってあげたくて」
真っ赤に紅潮した相手の頰。やれやれ。どうしてミオがサージェスたちの誘いを断って校舎の飾り付けの方に回ったか、ようやくクルーエルも納得がいった。
......まったく、しかたないわね。
手元のリボンを拾い上げ、クルーエルは造花の作業を再開した。
「はいはい、分かったわよ。誰からも文句が出ないくらい綺麗に作ってあげる」
3
「カインツ、なんでローブじゃなくてコートなの」
絹糸を思わせる髪を風になびかせながら、少女が歌うように言ってくる。
「ローブだといかにも名詠士って感じだろ。なんというか、埋もれたくないんだ。ローブを纏った『どこにでもいる名詠士の一人』として見られたくはないな、ってね」

広大な敷地を持つ学校の、その全てが見渡せる屋上。
時間さえ選べばこんな場所は他に誰も来ない。静かに一人で、下校の時間までの一時を過ごす。その空間はカインツにとって数少ない憩いの場だった。
......でも、いつからだろう。
ぽつりぽつりと、この屋上に彼女が姿を見せるようになったのは。
「目立ちたがり屋なのね」
くすりと、少女が口元に手をあてる。他人から見た彼女のそれは笑うというより嘲笑。だけどそれは気にならなかった。それが彼女の流儀だと少年は知っていたからだ。
「君の影響だよ」
誰もいない方がいいと思っていた場所に自分以外の者がいる。なのに彼女だけはなぜか許せる。むしろ心のどこかで、次も彼女が来ることを期待している自分がいた。
「ボクも、自分がいたということを誰かに覚えてもらいたくなってね」
「ふぅん」
芝居じみた相槌を彼女が打つ。
「でも、いくらコートだって紺色じゃ代わり映えしないわよ。もっと目立つ色にしなさい」
左手に抱えた手提げ袋を、無愛想な眼差しと共に少女が突き出してきた。
「これは?」
「あげる。昔親に買ってもらったんだけど、わたしには大きすぎるみたい。男女兼用らしいからあなたでも着られると思う」
手提げ袋から中身を取り出す。濃い緑とクリームイエローが混ざったような色のコート。サイズは自分でも少し袖が余るくらい。確かに彼女には大きいだろう。
それにしても脈絡無いプレゼントだな。忍び笑いが胸をつく。が、その直後にカインツは心中大きくかぶりを振った。
......違う。ボクはなんて馬鹿なんだ。
あまりの失態に絶句する。自分にとっては今さらどうでもいいことの一つ、その程度の意識しかしていなかったけれど──今日はボクの誕生日じゃないか。
自分でも忘れてたことを、イブマリーは覚えてくれていたのだろうか。
「今日、ボクの誕生日だって知ってたの?」
が、相手は空とぼけたような摑み所のない口調を崩さなかった。
「そうなの? 偶然だったけどちょうど良かったじゃない」
表情はいつもの、どこか突き放したような冷たさのまま。......これで少しでも顔を赤らめてくれたら年頃の女の子って言えるんだろうけどなぁ。
「着てみていいかな」
「どうぞ。あなたにあげたんだから好きにして」
やっぱりボクにはまだ大きかったみたいだな。袖に隠れてしまった自分のこぶしに苦笑しようとして──カインツの吐息は凍りついた。コートの袖、自分の指先を出そうとして気づいた。袖にくっついたままの値札が取り忘れられ、そのまま残っている。
値札に押された売却印。売却印として押された日付は......昨日。
「どうかした?」
きょとんとした眼差しの少女。
自分はどう言えばいいのだろう。気づかぬふりか、それとも誕生日プレゼントとして受け取るのが礼儀なのか。
「ううん。......イブマリー、ありがとう。これ暖かいね」
悩んだ末、少年は前者をとった。誕生日プレゼントとして受け取るのは、彼女がそのつもりで贈ってきてくれる時でいい。
そして、それで正解だった。
「気にしないで。どうせ親からもらってわたしが着れなかっただけだから」
彼女の声はそれでも、普段より少しだけはずんでいた。
これでいい。彼女がいつものように振る舞うのであれば、自分だってそう振る舞う。きっとそれが、ボクと彼女のルールなんだから。
あれから......もう何年経ったのかな。
本当は、指を折ればすぐ数えられる数字。まだ大した年月ではない。それなのに、自分の中では久遠にも等しい時間が経過したように思えてしまう。
枯れ草色のコートを羽織り、カインツは来賓館の屋上に立っていた。自分の隣、指定席となっていたはずの場所に待ち人の姿は無い。
「君は......どこにいるんだ」
こぼれた吐息に混じる自分の肉声。風に攫われ溶けてしまう独白。
ミドルスクールの卒業時。ハイスクール選択で、二人はあえて別の学校を選んだ。いずれどちらかの名が世界中に響き渡る時が来る。そうしたら、先を越された方が相手の方へ会いに行く。そんな約束をして。
ハイスクールで一年が経ち、二年が経ち、その中でカインツは驚異的な早さで名詠式を修めていった。ハイスクール在籍中に三色までを習得。卒業先として各研究所からも相当数のスカウトを受けた。史上例の無い天才として脚光を浴び、その道に携わる者で彼の名を知らぬ者はいないとまで。
その一方、夜色名詠を使う少女の名はいつまで経っても世界に響くことは無かった。
そして、彼が虹色名詠士となった日。
多くの友人や恩師が彼の下に集まったが──その中に彼女の姿は無かった。
彼女はどうしているのか。いやそれよりも、果たして無事なのかすら分からない。
〝どうせその前に死ぬから〟
彼女が洩らした本音。あの時見た、悲愴な横顔が脳裏によみがえる。
「本当に会いたい人にすら会えない。詠びたい人も詠べない。そんな名詠士って、いったい何の為にいるんだろうね」
ある意味、世界の誰よりもそぐわない言葉。虹色名詠士がこんなことを呟いていると知られたら、他人はどんな顔をするだろう。
「......ねえイブマリー。まだボクは、君に認めてもらえてないのかな」
どこからも返事はない。あの時よりいくぶん小さくなったコートをひるがえし、虹色名詠士は上空を向いたまま瞳を閉じた。
三奏 『始まりと約束のオペラ』
1
競演会当日。
一年生女子用の更衣室を開ける。途端。
......うわっ、なにこれ。
一歩入るやいなや鼻を突く強烈な香水の匂いに、思わずクルーエルはその場で足を止めてしまった。女の自分ですら後ずさりしたくなるほど、とにかく香水の匂いが濃い。
「あ、クルルおはよー。お先ー」
制服をロッカーにかけながら、それをまるで気にせぬ様子でミオ。
「おはよ。みんな早いわね」
遅刻常習犯のエイダ、それにサージェスまで更衣室に集まってるなんて。
「あんたが遅いだけだってば。てかクラスの遅刻王はあんたでしょ」
唇のルージュを直しながらエイダが眉をつり上げる。
「って......クルーエル、まさか今日制服でいく気?」
驚愕の眼差しで見つめてくる彼女に、クルーエルは無言のまま手に提げた袋を持ち上げてみせた。
トレミア・アカデミーは普段制服が指定されているが、競演会は私服を許される数少ない機会だ。女子生徒はほぼ百パーセントがドレス。女子生徒六百五十人が自慢のものを持ち出すので、毎年ちょっとしたファッションショーになるらしい。男子は半分が燕尾服。三割が名詠士らしいローブ。残りがジャケットやらコートやらということだ。
「......ドレスなんて肩凝るだけなのに」
実のところクルーエルは制服で競演会に出ようとしていたのだが、昨日部活の先輩にそれを話したところ二時間ほどお説教を受けてしまった。
だめよクルーエル。今日ぐらい派手に行きたいっていう女心っていうか、名詠士を目指してたってそういうもの忘れたら終わりなの。特にあなた元々背が高いしプロポーションもいいのに、せっかくのチャンスを逃してもいいわけ? そもそもあなたは──と言った具合。
──チャンスって......一体なんのチャンスだろう。
妙に熱く語ってくる先輩の脅迫めいた説得に結局、クローゼットの奥からドレスを引っ張り出すはめになった。
「えへへ、見てみてクルル。これいいと思わない?」
下着姿のミオが自分のドレスを誇らしげに掲げてくる。真珠色。見る角度によって七色に変わるプリズム加工になっている。
「へえ。素敵ね」
一点のしわもない新品。カインツ・アーウィンケルが来ると知って昨日慌てて買いに行ったのだろう。わざわざ彼の名に合わせるところがいかにもミオらしい。
「いいけどミオ、それ派手過ぎじゃない?」
密集した部屋の中、ドレスを身にまとい、くるりと一回転してみせる少女に、同じく準備を終え化粧道具をしまっていたサージェスが口を挟む。
「毎年すごい衣装でくる生徒がいて、やっぱり去年も何人か注意されてたらしいよ。あとあんまし露出が過ぎるのも警告ものだってさ。......まあでも、ミオなら平気かな。プロポーション的にまだまだ──」
「あぁ、言ったなぁ。ちょっとだけ気にしてるのにぃ!」
ミオが口を尖らせる。そういう仕草が子供っぽいのだが、あえてそれは言うまい。
「ミオ先行ってていいよ。わたし少し時間かかるから」
「うん。じゃあ、先に校庭行ってるね。開会式まであと三十分だから急いでよ!」
衣装と同じ色合いのドレスシューズを携えて小走りにミオが更衣室から姿を消す。
それに続くようにエイダ、サージェスも。ただ、こちらはミオとは違いあくまで優雅に。普段スポーツだけに熱を入れてるかと思ったが、案外この二人はくせ者だった。
ちょっとした振る舞いでもここまで違うとは。その点ミオはまだまだだなぁ。くすりと小笑いし、クルーエルは手提げに入れていたドレスを取り出した。
さて、こっからが問題よね。
......このドレスって、そもそもどうやって着るんだっけ。
2
正方形状の校庭の片隅。一年生の集合ポイントにクルーエルが着いたときには既に、一年生のほとんどがクラスごとに整列を終えていた。一─Bの列の最後尾、周りより頭一つ小さい男子生徒の姿。
「あ、クルーエルさん。おはようございます」
紺色のローブ姿のネイトに手を振って応える。まだローブのサイズが大きいらしく多少だぶついている。いかにも見習い名詠士といった外見だ。
「おはよ。いい天気だね」
雲一つ無い上空。眩しすぎるほどの日光に目を細める。
「あ、いたいた。クルーエル、ネイト君も」
後ろからの声にふり向く。と、数メートル後方からミオとサージェスが近づいてきた。
「探してたら入れ違いになっちゃったみたいだね」
「......にしてもクルル──」
じっと、食い入るような視線でミオが見つめてくる。
「なに?」
「いやぁ、やっぱクルル、プロポーションいいなぁと思って。ドレスすごい似合ってる」
「ん?」
突然またわけのわからないことを。ていうか、周りに男子もいる中で普通そういうこと言う? と思ったそばから、サージェスまでもがうんうんと首を振ってきた。
「しかも、なんだか良さげなドレス着てるしね。ちょっと拝見──って、うわ! 背中開いてるよこれ」
背後に回り込んだミオが大げさに悲鳴を上げる。
「......持ってるのこれしかなかったんだから仕方ないでしょ」
クルーエルが着ているのはマーメイドスタイルのドレスだ。
純白の生地を基調に、左肩から縦にブルーラインが引かれている。ネックの部分を含め要所に襞があしらわれており、本来は舞踏会用の品。人魚の名が示す通り身体に密着するよう設計されており、嫌でもボディラインが浮き彫りになってしまう。
が、どうやらそのボディラインがまずかったらしい。
「諦めなさいなミオ。残念ながら相手が悪い」
値踏みするような視線を送ってきながらサージェスが頷く。
「これほどの逸材は滅多にいないって。特にこの胸と腰の──」
「はいはいサージェスさん、それ以上言ったら......怒るわよ?」
言い終える前にクルーエルは相手の鼻先に詰め寄った。褒め言葉のつもりなのかもしれないが、なんでわざわざこんな大勢の前で言うかなぁ。
周囲の視線から逃げようと踵を返す矢先。
『そうか? あまり肉体的な差異はないと思うが──』
いつのまにか、ネイトの肩に乗ったトカゲがのそりと顔を持ち上げていた。
......こういう時はどう応じればいいのだろう。肯定したらなんかくやしい。否定したらそれこそミオやサージェスの思うつぼだし。
「わ、わ、アーマ喋っちゃだめだよ!」
ネイトが慌てて口を塞ごうとするが、このトカゲはその手からするりと抜け出してしまった。
『聞き覚えのある声だと思ってな』
「......なにこのトカゲ、喋れるの」
訝しげな視線をサージェスが送る。
「ネイトのペット」
お返しに、間髪入れずクルーエルは吐き捨てた。
『む、こむす──』
爬虫類が言い終えるその前に、開会式を告げる鐘が校庭に鳴り響いた。
3
「こちら運営本部。生徒の皆さんは速やかに所定の集合場所に移動してください」
競演会は午前と午後の部に分かれている。午前は白と緑の発表だ。その二色を専攻する生徒が校庭の中心部──本部と審査員席の正面に移動する。
緑専攻の生徒は本部から向かって右、白専攻の生徒は左に集合。各一度に五人ずつ名詠式に挑む。ミオはその六組目。クラスメイトでは他にも、白を専攻するエイダが十四組目らしい。
「がんばってくださいねー」
ネイトの声援にミオが手を振りながら中央に走っていく。
「ミオ、何を詠ぶつもりかしらね」
「とにかく大きくて見応えのある物、って言ってましたよ」
『緑で大きいというと......疾竜か?』
まるで的外れなことをトカゲがひょっこりと口にする。
「無茶言わないの」
竜の類は緑の第一音階名詠。審査員席に並ぶ著名な名詠士にだって難しい名詠だ。そんなものを一年生が名詠したらそれこそ大人の面目が立たない。自分も含め、一年生で出来ることはせいぜい第四音階名詠。大型の──但し人語を解さない普通の──生物を名詠するのが関の山。それはミオといえど変わらない。さすがに彼女も自分の力量ぐらいわきまえているだろう。
「楽しみですね」
「審査員の前で緊張しないといいけどね」
......たしかミオって、あんがい本番に弱いからなあ。
ある意味予想どおりだが。
審査員にあの虹色名詠士がいるということで、緊張のあまり名詠に失敗する生徒が続出した。一年生だけでなく他の上級生すら集中力が途切れ、急遽予定の名詠より一ランク落とす生徒も多かった。
そして、これも予想の内ではあったが──虹色名詠士カインツ・アーウィンケルに並々ならぬ情熱を持つミオも、そんな生徒の一人になってしまった。
「うわぁぁぁぁっっん! あたしもう生きてらんないよぉ!」
やっぱこうなったのね。地面にドレス姿でべたっと座り込むミオを引っ張りながらため息をつく。自分もドレスだから無理に動くことが出来ない。仕方なく、傍にいるネイトを手振りで呼ぶ。
「はいはい、もう泣かない。ほらちょっと、ネイトも引きずるの手伝いなさい」
大粒のしずくを浮かべるミオが言うには、それでも最初はうまく集中できていたらしい。ところが名詠の名詠門が開く間際に、なんと「カインツ様」と目が合ってしまったということだった。それからの記憶が十数秒途切れ......気づいたときには既に名詠門が閉鎖。タイムアウトで失格になってしまったという。
「だってぇ、あたし絶対カイ様に見捨てられたよぉ」
ネイトと二人で引っ張ると、ようやく少女がとぼとぼと歩き出した。
「で、ミオ。結局何を詠ぼうとしたのよ」
ぐすんと、涙混じりの口調でミオが言ってくる。
「えっとね、緑翼の蛇」
......ケツァルコアトル?
「ミオ、それ本当?」
「うん」
......ふぅん。そっか。なるほどねぇ。
唐突に。クルーエルは引きずっていたミオの手を放した。自分の身体を引っ張っていた手が前ぶれなく離れたおかげでバランスを崩したらしく、ミオが派手に地面に抱きつく。
「ちょ、ちょっとー。ひどいよクルルぅ!」
「ネイト、もう引っ張らなくてもいいわよ。さ、こんなのほっといて行きましょ」
後ろで口を尖らせる少女を後目に大またで歩き出す。やれやれ、少しでも同情した自分がバカだった。
緑翼の蛇はドラゴンの亜種に属する。当然第一音階名詠なわけで、そんなもの成功のしようがない。むしろ虹色名詠士と目が合っただけ儲けものだ。
『ネイト。お前はどうするつもりだ』
少年の左腕に抱えられ、夜色トカゲが尾をぶらりと垂らす。
「黒馬を狙ってみるよ。せっかくだし挑戦してみたいもん」
「ネイトは何時からだっけ」
夜色名詠という非正式な名詠ではあるものの、ネイトも赤色名詠の発表に混じって特別参加を許されている。ケイト教師が学園長に直訴してくれたらしい。
「午後の二十一組目だったと思います」
「ああ、そうだったわね」
クルーエルは午後の二十組目。スケジュール的に、ちょうど自分が退場した時にネイトの発表が始まってしまう。
「そっか。ちょうど時間かぶっちゃったかな。お互いの見れないかもね」
「もし見れなくても、クルーエルさんのは僕の分までアーマに見ておいてもらいますね」
なんだか嬉しいような嬉しくないような。
──ん?
ふと、自分の身体に起きている違和感に気づいた。
微弱に震える自分の身体。それも自分の番が近づいてくるにつれて少しずつ、その震えが大きくなってきているような。
わたし緊張してるの? おかしいな、今までこんなことなかったのに。
「ごめん、ちょっといいかな。せっかくだし、わたし時間まで軽く練習してくるね」
「はい。行ってらっしゃい」
アーマを持ち上げたままネイトは手を振ってきた。
「午後の部。十四組目の生徒は入場ゲートに集まってください。繰り返します、十四組目の生徒は入場ゲートに──」
スピーカーに呼ばれた生徒が集まっていくのが遠目に映る。進行は順調だった。アクシデントもなくタイムテーブル通りのペースで発表が進んでいっている。
校庭の隅。木陰に設置してある木製の椅子に腰を下ろしたまま、クルーエルは目を閉じていた。膝の上で両手を組み、ただじっと名詠のイメージを繰り返す。混沌とした赤一色の世界にただよう自分。一本の生糸から一枚の服を縫うが如く、漠然とした空想から徐々に具体的な想像へと織っていく。
が。何度やってもその糸は途中で切れてしまった。最後の最後。「それ」を詠び出す直前に集中力が切れてしまう。
......どうして。
焦りに自然とまばたきが早まる。なんでだろう。別にとりわけ難しい名詠ではないのに。昨日も一昨日も成功した。今日の朝だって出来た。なのに、よりによって本番直前になって急に名詠ができなくなっちゃうなんて。
『葛藤だな』
誰も周囲にいないはずの空間に、自分以外の誰かの声。それもかなり近くから。首を動かさず視線だけを移すと、自分が座っている椅子──その端にひっそりと夜色のトカゲが同席していた。
「......いま取り込んで──」
『名詠の集中が出来ないのだろう?』
鼻先を持ち上げ、こちらの顔を覗き込んでくる。
「少し気負ってるだけよ。おねがい少し静──」
『一生そのままでいいのか』
......一生?
死刑宣告にも似た宣言に言葉を失った。
『今小娘は板ばさみにあっている。成長と停滞の葛藤。殻を破りかけ、だが抜け出せずにいる雛のようなものだ』
夜色の宣告人の口調は普段と変わりない。ここ最近聞き慣れているはずの声音にもかかわらず、その一言一言が頭にまとわりつく。いつも聞き飛ばしている戯れ言のはずなのに、今だけはそれが出来なかった。
『以前、お前は自分を器用貧乏と評していたな。器用と言うだけあって今までどんなこともそつなくこなしていた。今回の発表も無難にいくつもりだった。そつなく、無難に、危険な賭けはしない。しなくても成功するからだ。だが間近でミオの名詠を見て、ネイトの意気込みを感じて、そんな自分の姿勢に困惑している状態といったところか』
三日月を思わせる金色の瞳孔から嫌でも圧力を感じる。
「......ずいぶん饒舌ね」
重圧への抵抗? 自分でも分からぬまま、相手の瞳孔に自分の視線を絡ませる。
『その両手で後生大事に抱えている物は触媒か』
三日月が膝上で組んだ両手を照らす。吐息をこぼし、クルーエルはその手を開いた。赤のラベルが貼られた塗料チューブが手の上で転がる。

「......名詠に必要なんだから当然でしょ」
『そうか? それが葛藤の原因だと思うがな』
椅子の端に坐したまま、夜色の名詠生物が飄々と断言する。
『塗料が触媒に使いやすいという程度は我も知っている。今回もそれを触媒に使うつもりだった。そつなく無難に名詠を行うためにな。だが競演会、当初予想していたものと違っていたのだろう?』
言葉を返す気はない。示唆はまだ終わっていないからだ。相手がなおも続けてくると感覚的にわかった。
『カインツと言ったか。あの男に認められるためあえて困難に挑戦する者たち。ミオもその一人だったな。ネイトに関してはその下心はないようだが、あれは自分の約束を成すために常に失敗を望んでいる。いつか夜色名詠をマスターするための、そのための失敗をだ。今回の発表で黒馬を詠ぶと言ってるのが良い例だろう。まだその技量も無いことを自分で知っているというのにな』
遠くどこかから響く鐘のように、その言の葉が身体の芯を打つのを確かに感じる。
それなのに、不思議と感情の昂ぶりは感じなかった。おそらくそれは、この相手がまったく私的な感情をまじえていなかったからだ。嫌みも皮肉も無い。自分の鏡であるかのように深々と告げてくる。
『そんな中自分だけ簡単な触媒を使い、簡単な名詠で済ます。いまお前はその息苦しさを感じている。他人の挑戦する姿と自分の姿を比べてな』
音もなく、両の手からチューブが滑り落ちた。
『再び殻に籠もるか、それとも外に出ようと足搔くか。その判断は自分でしろ』
それきり相手もまた沈黙する。
そのまま、どれだけ時間が経過しただろう。数呼吸分に過ぎないように思える反面、数時間座り続けていたかのような疲労感もある。 やがて、木漏れ日に目を細める中、スピーカーからやんわりとした声が流れてきた。
──二十組目の生徒は入場ゲートに集まってください。繰り返します......──
......時間ね。
足下を見ることなく、今から自分が向かう場所だけを見つめクルーエルは立ち上がった。
『拾わないのか?』
足を前に出すのを待っていたかのように背中に声がかかる。僅かに抑揚の混じった声音。相手が面白がっているのが振り返らずとも分かる。足を止めることも振り返ることもいらない。
──ただ一言、応えてやればいい。
「いらない。あげるわ」
振り返らぬままクルーエルは呟いた。足を止めることもなく、返事を待たず歩を進める。
『それでいい。悟っているではないか』
背中を後押しするように、笑いを押し殺した声が聞こえてきた。
「あ、クルルいた。いままでどこ行ってたの。そろそろ順番だよ」
入場ゲートの前にミオ、そしてケイト教師の姿。ケイト教師の方に向かって頷くと、彼女の方もようやく頰をゆるめた。
「クルーエル来たわね。良かった。なかなか来ないから心配してたのよ」
自分以外の四人は既にゲートに集まっていた。触媒として赤のドレスを着こなしている少女。火を使うつもりなのか松明を片手に掲げる者。それぞれ触媒を用意している。
「クルーエル。触媒は?」
「平気です。ありますよ」
何も持つことなく、クルーエルは自分のこぶしを握りしめた。
──赤二十組目、発表場所へと移動してください──
観客、そして審査員からの前拍手。数百、数千に及ぶ視線が自分たちを見つめている。
でも、平気だ。
むしろ心地よい緊張感。高揚に高鳴る胸の鼓動を感じながら歩を進める。真冬の湖畔のように静かで穏やかな気持ち。泉のようにとめどなく溢れてくる感情。
校庭の中央で足を止めた。拍手が消え、周囲のざわめきが鎮まる。風のささやきしか響かぬ静寂の世界に、クルーエルはその身をゆだねた。
〝名詠の集中が出来ないのだろう?〟
今、あの口うるさいトカゲもきっと自分を見ていることだろう。
〝再び殻に籠もるか、それとも外に出ようと足搔くか〟
......礼は言わないわよ。
微かに口元をほころばせ、クルーエルは目を閉じた。礼は言わない。別に、あの言葉に突き動かされたわけじゃない。わたしはあんな抽象的な言葉で力づけられるほど素直じゃない。
だけどそれでも。これで決心ができた。
「──sheon lefped-l-cluerien-c-soan」
わたしは、わたしの詠び出したい物を詠ぶ。失敗してもかまうもんか。成功しても失敗しても、胸を張ってみんなのところへ報告に行こう。
YeR be oratorLom nehhe
lor bestiredi endekeofi-l-lovier
Hir qusiclue lemenetfeo fulleftiasm jes glue I
ゆっくりと、子供に教え諭すように〈讃来歌〉を歌う。
空想から想像へ。詠い、紡ぎ、自分が求める物との名詠門を開く。
melodiafo Hio,Oect tihearYem sophit
ife Ishe cookeLoo zo via
Isa daboema fotondoremren
周囲から歓声がこぼれる。誰か、あるいは既に数人が名詠に成功しているらしい。でも焦らなくたっていい。きっと間に合う。きっとできる。
〝クルーエルさんは絶対、名詠士が似合うと思います〟
......ネイト、キミのあの時の言葉、信じていいんだよね?
「O evo Lears──Lor besti bloo-c-toge = endedence」
まぶたを開けた。両手を中心に紅い光が渦巻く。光は徐々に強さを増し、自分の身体を包み込んでいく。名詠士としてきっとこれが、わたしの最初の名詠。
紅い光が閃光の如く弾ける。
──『Keinez』──
刹那。少女の両手から溢れるように、数えきれぬほどの真紅の羽毛が飛び立った。
鳥ではない、純粋な、その羽根そのものの名詠。
数百、数千に及ぶかもしれない数多の羽根が風に巻き上げられ、少女の姿を覆う。
彼女を祝福するように、抱擁するように。
羽毛の一つ一つがあたかも赤の妖精であるかの如く。賛美されたもの──少女が招いた物はあまりに可憐で幻想的な、まさに『真紅の世界』そのものだった。
一陣の風が校庭に吹いた。ざぁっ、と紅い風が校庭を駆け巡る。客席、周囲で見ている生徒、審査員席に座る客人の下に、赤い雪の如く可憐な羽根が降りつもる。
......あ......
久しく忘れていた呼吸を思い出した。胸の奥が熱い。校庭を埋め尽くす赤。いまだ上空を浮遊している羽毛もある。鳥ならばともかく羽根の名詠は難しくはない。が、これだけの量を招くのは初めての試みだった。それが成功したことにはひとまず安堵したが。
──だけど、......なぜ?
自分の右肩にとまった羽根をそっと指でつまむ。
自分が思い描いた通りの真紅の羽毛。ただし目の前のそれは、輝く炎に包まれ煌々と燈える、この世ならぬ幻想的なものだった。
わたし、こんな燃える羽根なんて詠び出すつもりなかったのに。
......燃えてる羽毛。いえ......炎が羽根のかたちをしてるだけ?
燃えているけれど触って熱いわけじゃない。これって──
が。その疑問に思いあぐねる間もなく、クルーエルは我にかえり周囲を見渡した。
不自然すぎるほど辺りがしんと静まりかえっている。
え。どうしたの。なにか悪いことし──
その直後、クルーエルの鼓膜は半ば破れかけた。
嵐のような拍手。それもかつて聞いたことないほどの喝采と一緒に。拍手につぐ拍手、拍手。でもさっきから誰のことを?
反射的に自分も手をあわせようとして。周りの視線が自分へと向けられていることにようやく気づいた。
いまだ冷めやらぬ拍手の中、客席へ戻ると、真っ先にミオが駆け寄ってきた。
「クルル、すごかったよぉ! ホント綺麗だった!」
「そうだった? ......わたし、自分じゃ何してたかも覚えてないんだ」
とにかく無我夢中でやって、ミオじゃないが本当にその部分の記憶が無い。
『触媒には何を使ったのだ?』
ミオの肩に乗る偏屈が疑問調に言ってくる。
百聞は一見にしかず。言うより先、左手の小指に塡めた指輪を相手の鼻先に近づけて見せた。光を浴び、指輪に施された宝石が紅く輝く。ルビー。人工ではあるがそれでも触媒としての効果は高い。今まで宝石を触媒にして成功したことはなかったから今回は使わないつもりだったのだが。
「本当は飾りのつもりで塡めてきたんだけどね」
一度触媒として使ってしまったから、この指輪ではもう名詠はできないだろう。けれどそう覚悟しただけの成果があった。
「あなたから見てどうだったの?」
『風が吹いたのは僥倖だったな。あれが無ければ先の拍手はなかった』
一度区切り、相手は珍しく愉快そうに目を細めた。
『だが風を利用したと解釈するならばそれほど悪くない出来だった。小気味よい、小娘らしい名詠だったのではないかな』
「......一応、わたしもお礼は言っておくわね」
意外なことに、このトカゲは素直に褒めてくれた。妙にそれがこそばゆい。
「え? なになに? アーマにお礼?」
さっきまでのやりとりをミオに教えでもしたら、それこそ一週間はそのネタで絡んでくるに違いない。逡巡したが、クルーエルは単純にそっぽを向くことにした。
『小娘──』
その途端、肩に小さな衝撃。何かと思えば、夜色のトカゲが自分の肩に飛び乗ってきたところだった。
「あなたがわたしの方に来るなんて珍しいわね」
『確認しておきたいことがあったのでな』
先とわずかに異なる声音、感情を押し殺したような声でトカゲが顔を持ち上げる。
『我が、お前の使った触媒をあえて訊ねた理由が分かるか』
「......え」
『やはり、意識していなかったか』
呆れたような、安堵したかのような。どちらにも似た、だがどこか決定的に異なる質の溜め息を洩らす相手。
『いま名詠を見ていて我もようやく気づいたが、どうも小娘には赤色名詠に関して見込みがあるらしい』
「さっきの名詠を褒めてくれたの? でもあれは宝石みたいなすごい触媒を使ったからよ」
が──
『いや、むしろその反対だ』
こちらの思惑とまるで逆。あろうことか、相手は首を横に振ってきた。
『先ほどの名詠に使われた触媒が宝石でなく〝別のとある物〟であれば、お前は相当大したものを名詠していただろうな』
まるで話が見えない......別の触媒? 大したもの?
だが。それを聞く前に、夜色トカゲはさっさとミオの肩先に戻ってしまった。
『それについては自分で考えろ。こと赤色名詠に関し、お前はネイトの母親に近いレベルの感性を持っている。だからこそ──その器に驕らぬよう、あとは自力で見いだせ』
「まあ......正直良く分からないけれど......頑張るわ」
曖昧に呟き、後ろ髪を指ですいてみせる。どうもこのトカゲは話が抽象的だ。いや、あるいは話自体は具体的にもかかわらず、あまりに内容が唐突だからなのかもしれないが。
「でも、今はそれよりネイトの方見てあげなくちゃ」
『その必要はないようだぞ』
ミオの肩先に乗ったまま、言った本人が鼻先を校庭へと向ける。
......そっか。
その方向を一瞥し、クルーエルは数秒目をつむった。校庭の、審査員席から数メートル離れた場所から、もうもうと黒煙が立ち上っていたからだ。
「......やっちゃったみたいだね」
ミオがぽつりと呟く。二十一組目の発表が終わったらしく、ややあってとぼとぼと歩いてくる少年の姿。身体に対して大きい紺のローブ。少年が肩を落としているせいでそれが一層不釣り合いに見えてしまう。失敗する可能性の方が高いと分かっていてもやはり悔しい。その気持ちは痛いほどわかる。
「失敗しちゃいました......」
彼の顔に涙はない。むしろ笑おうとしていた。声は泣いているのに。他人にそれを悟られまいとして必死にごまかそうと。
『ネイト──』
夜色の名詠生物が口を開くより早く。
「おつかれ、ネイト」
組んでいた腕をほどき、クルーエルは少年の腕をそっと握った。
「さ、また明日からがんばろ」
「......クルーエルさん?」
ぽかんとする少年は、その歳よりも一層幼く見えた。
「キミの目標はお母さんとの約束を果たすことでしょ。だったら、こんなとこで落ち込むのはよくないよ」
自分が名詠に打ち込むきっかけを作ってくれたのがこの少年。だからこそ、この幼い名詠士の為にわたしだって何かしてあげよう。
「失敗が恥ずかしいならわたしも一緒に笑われてあげる。だから、どんどん挑戦していいよ」
少年の手は震えていた。それでも、彼は自分の視線をじっと見つめ返してきた。
「......ありがとうございます。でも、僕の失敗でクルーエルさんが笑われるのはいやです」
怯えるように。頼りないとすら言える非力な力で。だがそれでも、その手は自分の指を握り返してきた。
「だから。次は成功するように頑張ります」
誰にも気づかれぬように。
カインツ・アーウィンケルは、震えの止まらない両腕を無理やりテーブルに押さえつけた。実験室で見た黒煙の残滓。あの煙に対して抱いた疑念、それがまさか、本当にその通りだったとは。
火から生まれぬ黒煙。虹色名詠士である自分にすらそんな名詠はできない。虹色名詠で成し得ぬ唯一の名詠式。他の色を拒む漆黒の賛美歌。
名詠自体には失敗したらしいが間違いない。すなわち──
......あれが、夜色名詠?
無意識に、乾ききった唇が無機質な声音を紡ぐ。だけどなんであんな、まだ十三、四の少年がその名詠式を。
「イブマリー、君は......」
真夏も近いというのに震えが止まらない。身体の奥からもたらされる寒けに、虹色名詠士は自分のコートをたぐり寄せた。
4
赤みがかった上空に黒灰色が混じり始めた時刻。千五百人強の生徒による競演会はようやく終結を迎えた。
「さて。まずは生徒の諸君、お疲れ様と言わせてもらおう」
審査員席の中央に座っていた老人。トレミア・アカデミー学園長の声がスピーカーから校庭に響き渡る。
「本来ここで君たち一人一人の批評を述べたいところだが、そうするとさすがに明日の夜明けまでかかってしまう。詳しくは明日、君たちの担任教師からコメントを頂けると思うのでこの場では割愛させて頂く。さて今回優秀な成績を収めた生徒の発表について──」
と、やおら学園長は校舎に取り付けられた大時計に目配せし、咳払いしてみせた。
「いま六時半ばじゃが......ま、君たちも腹が空いたところだろう。三年生校舎の隣の建物、去年と同じように大ホールにてパーティーの準備が出来ておる。生徒の諸君も教員も、まずはそこで今日の疲れを癒やしてくれ」
老人が言葉を句切るやいなや。競演会初参加だった一年生以外の全上級生たちが、歓声を上げて多目的ホールの方へと駆けだした。男子も女子も関係なし。千人以上が群れをなし、地鳴りを響かせながら走っていく。
「パーティー......ってなんのことです?」
状況がのみこめず首を傾げたままエイダ。小麦色の肌をした女子生徒に向かい、その担任教師は腕を組んだまま意味ありげに微笑んだ。
「要は打ち上げのことよ。多目的ホール全体が生徒食堂になったと言えばいいかしら。さ、みんな行ってらっしゃい。バイキング形式だから早く行かないとなくなっちゃうわよ」
「ええっ、それを早く言ってくださいよ先生!」
男子生徒が慌てて上級生の後を追う。と、それを追うようにまた一人二人と走り出した。十数秒と経たぬうち、先行する上級生にも劣らぬ人津波が多目的ホールへと駆けていく。
「なんというか......すごいバイタリティだよね」
津波の一部になり損ねたミオが啞然とした口調で言う。校庭にいまだ残っているのは、教員を除くともうぽつりぽつりとしかいない。
「ほらほら早く早く、クルルも行こうよ!」
「はいはい」
後ろで苦笑するケイト教師に向かって一度肩をすくめ、クルーエルも先を行く津波の後方へとつま先を向けた。







「......これか?」
〈孵石〉。五色の宝石もどきは机にただ置かれたままになっていた。
二日間、昨日今日と資料館の棚ばかりを調べていたが、まさかこんな無造作に放置してあるとは。厳重に隠してあるかと踏んでいたのだが、逆に裏をかかれてしまった。
「ずいぶんかわいらしい形だなこれは」
これが危険な触媒などとは到底思えないのだが、とりあえず拝借するとしよう。
もし本当に強力な触媒ならばあの虹色名詠士にも一泡吹かせてやれるはず。伝説の虹色名詠士をへこませたとなれば、自分も世界中から一目置かれるに違いない。
「昨日のお礼に行かなくちゃな」
そして、ベンドレルは〈孵石〉へとその手を伸ばした。
5
「クルーエル、このケーキもう食べた? すっごくおいしいよ」
エイダが皿に同じケーキを三つも載せて近づいてくる。おいしいのはわかったけど、一人でいくつも取り過ぎだってば。微苦笑のままクルーエルは首を横に振った。
「もうおなか一杯。甘いのはこれで十分よ」
返事ついでに、オレンジジュースの入ったグラスを傾けてみせる。
「クルル、カイ様見なかった?」
人波をかきわけ、ミオが声を張り上げてきた。手にはグレープジュースらしきグラス。今にもこぼしそう、離れてた方がいいかな。などと思いつつ、クルーエルは再度かぶりを振った。この大ホールも元々パーティー用として設計されたらしいが、それでも千五百人以上の人が密集する中では、誰がどこにいるか分かったものではない。
「でも、ここにいるなら大騒ぎになっててもおかしくないのにね」
部屋のそこかしこで笑い声こそ聞こえるものの、これといった歓声は聞こえてこない。
「誰かこっそりとスカウトでもしてるんじゃない?」
エイダの視線が指す方に目を向ける。ホールの一角に、最上級生らしき生徒と審査員席に座っていたゲストの名詠士が話している姿。二人の間に笑顔は無く、張りつめた空気が見ている自分にまで伝わってくる。自分たち低学年には競演会もただのイベントだが、卒業を控える四年生にとってはその後の進路を決定する大切な場なのだろう。
「そういえばクルルも拍手もらってたけど、誰かからスカウト来た?」
グラスに自分の姿を映しながら、ミオ。
「ううんまさか。ケイト先生からはちょっと褒めてもらったけどね」
自分がもらった喝采はあくまで演出面を評価されたのであって、採点基準である名詠の技術点ではない。名詠の難易度で言うならば、競演会における自分の順位は中の下がいいところだ。
その点、上級生の中にはさすがに秀でた生徒も何人かいたようだった。
黄色名詠では無数のカナリアの名詠で喝采を受けた女子生徒。青色名詠では巨大な氷塊を、それも馬にまたがる騎士の形に彫られたものを詠び出した生徒。白色名詠では最上級生で一角馬の名詠に成功した男子生徒がいて、今回の最優秀賞は彼が取るだろうという話を耳にした。
「そういえばネイトは?」
グラス片手に、ミオは首を横に振ってきた。
「さっきまで一緒にいたけど、少し外に行ってくるって言ってたよ。学校内だし、さすがに行方不明にはならないと思うから心配ないでしょ」







凶悪な触媒──〈孵石〉。
どのみち処分すると言っていたのだから自分が使ってやっても構うまい。
「さてと、どうするかな」
眼下の宝石を見下ろしたままベンドレルは瞳を閉じた。
今まで成功したことがないような大物も詠べるかもしれない。第二音階名詠、上手くすれば最高ランクである第一音階名詠、すなわち〈真精〉も不可能ではないはずだ。
名詠の為の三重連縛──特定の触媒を用い特定の〈讃来歌〉を詠い、その真精の真名を真精そのものから知らされる。これにより初めて名詠条件を満たす、特異にして特位たる名詠式。それが第一音階名詠だ。もしこれらを詠び不意を突いたなら、さしもの虹色名詠士も為す術あるまい。
......とにかくとことん強力で凶悪な奴を詠びたいもんだな。
まずはこれを寮に持ち帰り、どれくらい強力な触媒なのか確かめる。用意してきた鞄に五色の触媒をまとめて入れようと、ベンドレルは一番身近にあった赤の〈孵石〉を鷲摑みにした。
途端──
〈孵石〉の殻が破れ、資料館の暗がりを紅い閃光が薙ぎ払う。
「なっ......おいなんだこれ!」
太陽を直視したかのような光量。目も開けてられない。これは名詠光?
ちょっと待て、こんなの聞いてないぞ。
話が違う、なぜ持っただけで反応する!
紅光の輝きに目を開けていられない。〈孵石〉を離そうとした途端、手に持つそれが膨れ上がった。
名詠が勝手に引きずり出されただと? そんなふざけた事が? そんなのあり得──え......え......
恐慌状態に陥ったまま、その時を最後にベンドレルは意識を失った。
6
「これはあなたのための名詠式。だからネイト、あなただけに教えてあげる」
ベッドからかろうじて母が右手をさしだした。目を伏せたままその手を握り返す。あまりに瘦せこけた母の手。見るのが辛い。
「ネイト......名詠って、なに?」
目を背けたままの自分に向け、母が言葉を重ねる。そんな質問、正しい答えがあるわけじゃない。名詠式を勉強したての自分にだってそれくらいわかる。何も言えず、ネイトは口をつぐんだままだった。答えるための言葉も無く、目を合わせることもできない。
それでも、母の手の温もりだけは伝わってきた。
「名詠とは自分を詠ぶためのもの。わたしはそう思ってるの。自分の心を形にして詠び出すことが本当の名詠式だと思ってる。だからこそ、とても難しい。結局わたしは、最後まで口に出すことが出来なかったから」
言霊。言葉に力があるというのなら、今の母の言葉こそがそれだった。目を背けたままの自分に顔を上げさせるだけの力。視線が重なり、触れあう。
床に臥せたまま、もはや我が子を抱き上げる力すらないまま──
だがそれでも、その母はまなざしだけで息子を抱いた。







「百七十二......百七十三......」
火照った身体はいくら待っても鎮まりそうになかった。多目的ホールで人の熱気にあてられて外に逃げてきたはいいものの、外は外で、昼間の内に太陽が残した熱風がいまだに肺の奥を灼くような感覚がある。
「百七十四......」
『先ほどから星を数えているようだが、意味はあるのか』
聞き慣れた相方の声につられ、ネイトは座っていたベンチの背に目をやった。多目的ホールから二百メートルほど離れた場所にある芝生。その片隅に設けられた長椅子に座って──もう半時間ほどになるだろうか。
「うん。こうしてるとさ、ほら、色々なこと考えないで済むから」
片膝を浮かし、それを両腕で抱えてみせる。と、夜色の名詠生物はベンチの背からその膝の上に飛び移ってきた。
『色々な、とは?』
「色々なことだよ」
何の含みもなく、ただ同じ言葉を繰り返してみる。結局のところ、自分にもその「色々な」の具体的な物が思い浮かばなかったからだ。星を眺めていたのも意識していたというわけではなく、本当は、気が付いたらその数を数えていたに過ぎない。
「......ねえアーマ。名詠って難しいんだね」
上空に漂う星と、それを遮るように浮いている雲の欠片。その二つからゆっくりと視線を逸らし、膝元の話し相手に向けた。
『いつもの弱音──』
ぴしゃりと言葉を綴りアーマが視線を絡ませてくる。数秒、もしかしたらわずか数瞬に過ぎなかったかもしれない視線の交叉。一呼吸分おいて、相手は微かに口の端をつり上げた。
『......というわけでもなさそうだな』
「えへへ。わかる?」
見事に心中を察したアーマに、せめて誤魔化すような視線を送ってみた。
『名詠は難しい。本当にその意味を悟って言ったのなら大したものだが。さてどうかな』
「クルーエルさんの発表、アーマも見てたよね」
ベンチに腰を落ち着けたまま、つま先しか地につかない足を胸元まで引き上げ両手で抱えた。数日前に彼女が見せたのと同じ仕草。
「僕、会場でもずっとみんなの発表見てたけど、たぶんクルーエルさんが一番だったんじゃないかな」
『なにがだ』
「うんとね──」
自分の番を待ちながら眺めた彼女の名詠、それはとても──
「彼女が一番、心から楽しそうに自分の名詠をしてみせた。ということだね」
そう言ったのは自分ではない。ベンチに座ったまま、弾かれたように声の方へと振り返った。
自分たちから数メートル離れて、夏だというのにコートをまとう男の姿。
微弱な月明かりを、枯れ草色のコートが淡く反射している。
忘れもしない。つい一昨日、上級生に絡まれたところを助けてもらった名詠士。昨日ミオから聞かされた。この人が世界で最も有名な──
「二日ぶりだね」
おどけたような口調で、目の前の虹色名詠士は右手を軽く上げた。
「あ、その......あの時はどうもありがとうございました。僕お礼も言えないで......」
「あれくらいはどうってことないさ。それよりここいいかな」
ベンチの片側に手をかける相手にネイトは大仰に頷いた。断るだなんてとんでもない。
「少しだけ君と話をしたかったんだ。探したよ」
「......僕とですか?」
なんだろう。虹色名詠士が、僕と?
「もしや最近、実験室で名詠式に失敗しなかったかい? 黒い煙みたいなの」
「え?」
あまりに唐突な問いに声が詰まった。確かにその通りだ。だけど、なんでこの人がそれを知ってるんだろう。
「えっと......そうです。名詠失敗しちゃって......」
「ああ、ごめん。別に責めてるわけじゃないんだ。こっちも学校の先生じゃないしね」
ふっと、彼が表情をほころばせる。
「今日、君の名詠を見させてもらったけど」
頭上に煌めく星屑を見つめながら、彼は諭すような口ぶりで訊ねてきた。
「あれは君が作った名詠式かい?」
「どういう意味で、ですか」
「あの名詠式、現在認められてる五色のどれにもあてはまらない気がしてね」
虹色名詠士はあっさりと核心を突いてきた。
でもどう答えればいいんだろう。迷いあぐねて視線を下げると、「お前に任せる」とでも言いたげに連れの名詠生物は膝元で丸くなってしまっていた。
「えっと、一応そうです。もともとあれは母さんのオリジナルの名詠式です。母さんは『夜色名詠』って呼んでいました」
「......そうか」
一瞬彼の呼吸が止まった。そんな錯覚を覚えた。
「君の膝の上で寝ているのは名詠生物?」
ここで空とぼけても意味がない。こんな色のトカゲはまずいないし、よくよく見れば細部もトカゲのそれと違うことぐらい分かってしまう。虹色名詠士ならばこの手の生物は見慣れているだろう。
「一年前だと思います。母さんが僕に預かれって」
「預かる?」
「わたしがいなくなったら、わたしの代わりにこの子から夜色名詠を教わりなさいって」
「......いなくなったら?」
にわかに、彼の声音に苦いものが混じった。
「僕、親はいないんです。もともと僕の両親はどこかの火事に巻き込まれて......孤児院にいた僕を母さんが預かってくれたそうです。名詠はその時から教えてもらったけど......母さんは一年前に亡くなりました」
「......すまない。言いづらいことを聞いたね」
彼の言葉に、唐突にネイトは我にかえった。
──あれ。なんでこんなことまで話しちゃってるんだろう。ここまで言うつもりなんかなかったのに。
なんでだろう。隣の人物がひどく親しく思えてしまう。虹色名詠士だから憧れる。そういうものではなく、どうにも表現できない感情──哀愁にも似た何かが。
「話を戻すけど、名詠が難しいって言っていたね」
理由はわからない。だが彼が今の話を逸らしたがっているように思えた。話題を変えてきたのもそのため?
だけど彼が聞いてきた事に答えるためには、ここから話さなきゃいけない。
「母さんは、僕が言うのも何ですが変わっていたと思います。いつもはとても厳しくて、僕は叱られてばっかりでした。最初は、僕を拾ってくれたのもただ偶然だった。そんな気がします。だけど、それでも......」
言葉を句切り、ネイトはベンチから立ち上がった。母との記憶が溢れかえる。褒められた記憶も、怒られた記憶も、全てが混じり合って一つになる。
「母さんは、僕にとって紛れもないお母さんでした。僕が風邪を引いて寝込んでるときは三日間全く寝ないで看病してくれたこともありました。......ううん、その時だけじゃない。普段はそっけない感じだけど、本当はいつも見ていてくれてたんだと思う」
いつの間にか頰が熱い。泣いちゃだめだ。心でそう思っても、溢れてきた物は止められそうになかった。
「その母さんと、最後に約束したんです。母さんが昔、一番最初に夜色名詠を見せると約束した人がいて、母さんの代わりに僕がその人に夜色名詠を見せてあげるって」
思えば、それが母からの最初で最後の「お願い」だったかもしれない。
「約束、か......」
乾いた笑みを浮かべたまま、彼がしめった吐息を洩らす。
「僕今まで、この学校に来てからもずっとそればかり考えてました。とにかく母さんのためにがんばろうって。......だけど今日のクルーエルさんの名詠を見て少し......なんていうんだろ、すこしだけ考え直そうかなって」
自分でも良く分からない。どう言えばいいんだろう。
「僕、母さんと約束した本当の夜色名詠が、まだよく分からないんです」
わずかに、アーマが視線を持ち上げた。背中にその視線を浴びながら。
「だから、それなら急がなくてもいいかなって思ったんです。クルーエルさんはあんなに楽しそうに名詠をしてた。それなら僕も、どうせやるなら名詠を楽しくやりたいなって。たとえそれが回り道でも、みんなと楽しく名詠式を勉強していけたらなって......母さんと約束した人には悪いことなのかもしれないけど」
「悪いことじゃないさ」
すぐ隣に。立ち上がっていた自分に並び立つように彼がいた。
「きっと、君のお母さんと約束した人だって分かってくれると思うよ」
「そうですか?」
何の迷いも無く彼は頷いてくれた。自分の答えに確信があるかの如く。
「いつか君が夜色名詠を使いこなせるようになったら教えて欲しい。ボクも見届けたい」
「え。でも、まだいつになるか分かりませんよ」
ちょっとしたプレッシャーにネイトは逃げるように笑った。
「待つのは慣れてるよ。待つことがいいことだってある、たとえばね」
懐中から時計を出し、彼は学校の多目的ホールを指さした。
なんだろう。その方向を見つめたまま一秒、二秒──
突然灯った照明にまぶたを灼かれた。
「ぁっ!」
こっちが悲鳴を上げるのを予想していたのだろう。彼の方はしてやったりという表情だ。
煌びやかな蛍光色が夜の学園を幻想的に照らし出す。多目的ホールだけではない。一年生校舎、外部通路の歩道、噴水に庭園。トレミア・アカデミー全体が壮大なイルミネーションに彩られていた。
「この競演会というイベントは、実はこのトレミア・アカデミーの前身であるエルファンド名詠学舎からのものでね。その当時から、競演会と卒業式の夜だけこうして学園全体がライトアップされるようになってるんだ」
「ということは、カインツさんも昔ここに?」
「そうだね」
短く頷き彼が押し黙る。その視線は学園のイルミネーションに。
誘われるように、ネイトもライトアップされた校舎へと目をやった。「イブマリーと一緒にこれを見てから十年以上経つけど、その時からこの光景は変わってないみたいだね」
──え?
ぽつりと言ってきた彼の言葉に、自分のよく知る人の名前があった。
「い、イブマリーって......」
「イブマリー・イェレミーアス、君の母親の名前と同じかい?」
微笑み半分、意地悪半分に彼が片目をつむってみせる。
急速に。音を立てて何かが崩れ、同時に何かが構成されていく。
母さんと約束した人。目の前に、母さんを知っている人。うそ......じゃあまさかこの人が......名詠士の頂点に立つとまで言われている、伝説の虹色名詠士が。
『そうか。ではお前がイブの言っていた......』
一人蚊帳の外を決め込み沈黙を保っていたアーマまでもが、三日月型の瞳孔でその男を刮目する。
「さあどうだろう。案外、別の人かもしれないよ」
が、それなのに彼の方は空とぼけてみせた。

あ............
既視感。
僕は、この人の性格を知ってる?
そうだこの人は──普段他人に見せている当たり障りのない、万人受けする性格は本当の彼じゃない。自分が心許す者にだけ見せるどこかとぼけたような表情。皮肉のような、からかっているかのような方こそが、この人の本当の顔だ。
......母さんと同じ顔だ。
母親が自分に向けて微笑んだときと同じ表情。
「答えは、君が夜色名詠を究めたときに交換条件で教え──」
だが。
言葉半ばにして彼の声は突如途切れた。
いや。かき消された。
学園全体を揺るがす地鳴り。
そして、その地鳴りをも上回る、何者かの巨大な咆吼によって。
四奏 『誓者が歌う、世界よ黄昏に染まれ』
1
「いまの......?」
学園内の異常。それに最初に気づいたのは、四年生校舎を見回りに来ていた女性教師だった。
甲高い声。泣き声のような悲鳴のような。自分を含めた見回り組のごく少数を抜かすならばこの時間、生徒も教員も多目的ホールに行ってるはずなのに。
いまの、誰かの声かしら。
声の発生地点は遠いような近いような、妙に鈍い聞こえ方だった。背後の四年生校舎を振り返る。と、足下のハイヒール越しに微かな揺れ。なんだろう。地震のようではあるが妙にまとまった震動だ。震源地はそう遠くない。柄にもなく、お伽話にでも出てくる巨人が地面を踏み抜く時のずしんという足音を想像してしまう。
一瞥するが四年生校舎に異常は無い。再度つま先を歩道へと向け、そこで女性教師は体が鉛のように重くなった。四年生校舎に隣接している資料館。滅多に誰も立ち入らぬはずの建造物。その建物全体が揺れていたのだ。
「な......なに?」
瞬間。耳をつんざく轟音に思わずしゃがみ込む。雷鳴をより凶悪にしたかのような、鼓膜を破るためだけに生まれたような破砕音。
おそるおそる目を開け──我が目を疑った。資料館の屋根が無くなっていたからだ。代わりに、巨大な煙突のようなものが資料館から突き出ていた。それも、五本。
なに......これ......
夜の暗がりのせいでよく見えない。
その状況を嘲笑うかのように、トレミア・アカデミー全体が七色にライトアップされた。その光に照らし出され、資料館の屋根を食い破ったモノの全貌が映し出される。
「──ひっ!」
出しかけた悲鳴は鋭い音にしかならなかった。横隔膜が凍りつき、体中が瞬時に粟立った。これでも名詠式を教える立場の者。赤の小型精命や一角馬。幾度となく伝説級の名詠生物も目にしている。あるいは、それらを相手にしても決して動じぬ自信はあった。
だがそれでも。
......無理だ。これは私一人の力でどうにかなるものじゃない。
迷わず。それこそ一瞬の躊躇いもなく彼女は『それ』から逃げ出した。
テーブルの上のグラスが床に落ち、透明な音を立てて砕けた。天井で揺れるシャンデリア。窓枠が震え、はめ込まれたガラスにクモの巣を思わせる罅が走る。
「な、何? 地震?」
壁によりかかりながらエイダが叫ぶ。
「で、でも......なんか変じゃないっ?」
応答と言うより独り言の悲鳴に近い口調でミオ。震動でバランスを崩しかけた彼女の肩を摑みながら、クルーエルは部屋の隅を盗み見た。さいわい非常口にはまだそれほどの数が押し寄せていない。
「ミオ、今の内に外に出よう」
こっそりと耳打ちする。
「え、でも......誰も避難とかしてないよ」
「だから、混み合う前に出ておくのよ」
この地震はなにかおかしい。今も揺れは続いているが、それが妙に断続的なのだ。一瞬の震動、一瞬沈黙してまた震動といった具合。
「ねえクルル......あれなんだろ......」
ふと、ミオが窓の外を指さした。夜の帳に包まれた世界を学園のライトが映し出す。七色のライトのはずなのに、窓から見る風景が赤一色に染まっているのは──火事?
有無を言わさず、クルーエルはミオの手を取り非常口まで駆け寄った。あぶくのように小さかった疑念が徐々に肥大化しつつある。何かがこの学園に起きている。少なくとも、それについては確信に近いものがある。
「学園長!」
多目的ホールの正面扉を開け、女性教員が学園の統率者に向かって声を張り上げた。よほど長距離を疾走してきたのか。衣服は乱れ、呼吸はそれ以上に荒い。
「どうした、何かあったのか」
「教師も生徒のみんなも、今すぐここから逃げてください!」
ぞくりとなった。声を振り絞る彼女の表情が恐怖に歪んでいる。それに普通こういう時の常套句は「避難してください」のはず。それが「逃げてください」だなんて、まるで何かが襲ってくるような口ぶりではないか。
「怪物がここに近づいてきています!」
「怪物?」
「名詠生物のようですが......私たちでどうにかなるものではありません。至急、近隣地区から応援を呼──」
同時。天井に取り付けられた採光用の窓ガラスが割れ、何かがホールへと侵入してきた。
女性教員の言う応援、それを嘲笑うように。
「じ、地震?」
突然の震動に足をとられ、身体のバランスを取る間もなくネイトは地に転がった。
「いや、どうもおかしくないか」
地鳴りに片膝を地につけつつ、虹色名詠士が周囲を見回す。彼の目にする方向は四年生校舎。
途端、その校舎があるであろう真上の空で夜の帳が吹き飛んだ。真っ赤な、夕陽よりなお赫い上空。続き、地上からその赫に向かって無数の何かが飛び上がる。遠目からでは蝙蝠のようにも映るが。
『......こいつは......』
肩に乗るアーマがうち震える。夜目がきくこの名詠生物には頭上のそれが見えているらしい。
『ネイト、今すぐ多目的ホールにいる連中を避難させろ! 一所に固まっていると奴らの思うがままだぞ!』
「え、どういうこと──」
背中の相手が答えるよりも早く、ネイトは自分の目でその恐怖の実体を見た。
再び、地に衝撃が走る。四年生校舎の方向の木々を踏みつぶしながら「それ」が近づいてくる。鞭を思わせる複数の頭部が建物の間から見え隠れした。
「ヒドラ......なのか......?」
視線を上げながら隣の名詠士が呟く。その言葉に混じる疑念と困惑。
名詠士にとっては、複数の首を持つ蛇といえば真っ先に思い浮かべるのがヒドラだ。本来は青色名詠における第一音階名詠。
『水蛇』という名が示すように、本来その体表は青黒い。
にもかかわらず、数百メートル先から近づいてくる「それ」の体表の鱗は真紅。さらに、九あるはずの首は五本。標準数より少ない。が、視界に映るそれは中央の赤を筆頭に、青、緑、黄、白。つまり、五色の首を持っていた。さらに、なにより巨大い。首を伸ばせば二十メートルを超えるかもしれない。本来のヒドラは巨大なものでさえ十メートルがいいところだというのに。あれと比べるとドラゴンでさえ赤子に見える。
『五色......全ての名詠を同時に励起させたのか』
肩先から、アーマが震えているのが伝わってくる。
「──そんなことが......可能なの?」
複数色の同時励起が行使可能な名詠士など、世界中でも両の指で数えきれると言われている。それもせいぜい二色。五色全ての励起、それが万一可能だとしても、それが出来るのは世界でただ一人。虹色名詠士の称号を持つカインツだけのはずだ。
「まさか......誰かが〈孵石〉を......」
彼の呟きにネイトは眉をひそめた。
「〈孵石〉?」
「凶悪な触媒さ。五個まとめて資料館に保存してあったんだが」
ヒドラの、緑の頭が鎌首をもたげた。頭上に向けて口を開け、そのままの姿勢で動きを止める。何をする気なのかわからないが、とにかく動きを止めている隙にホールへ行って避難させなければ。だが走り出そうとする直前、隣の名詠士に腕を摑まれた。
「待つんだ。下手に動くと見つかるぞ!」
緑の首が何かを上空に向かって吐き出した。四つか五つ。その一つが空中で翼を拡げ、自分たちへと向かってくる。遠目からは小型の鳥類かと思ったが、違う。近づいてくるにつれ、相手の輪郭がはっきりとしてきた。三つ首の......
キマイラ!
叫ぶと同時、虹色名詠士に突き倒された。一瞬前まで自分がいた場所を獣の爪が通過する。突如標的を見失い、勢い余ったキマイラの爪が地を穿つ。
獅子、雄山羊、ドラゴンの首を持つ三つ首の獣。
距離を置いた自分から標的を移し、獣がコートを羽織った名詠士へと目を付ける。
「カインツさん!」
それを予測していたのか、彼は既に動いていた。キマイラが着地した時の虚を突き、コートのスリットから何か黄色い物体を取り出す。キマイラが地を蹴る。彼は逃げようとはしなかった。その指先にある金貨が、黄金にも似た黄色の光を眩しいほどに解き放つ。
──『Surisuz』──
彼とキマイラの対角線上に、黄色い光の奔流から、青白い閃光を放つ球体が生まれた。虚空に浮かんだまま、一抱えはあるその球体がキマイラに向かって光の筋を飛ばす。細く、今にもほどけそうな光の繊糸。
キマイラの爪にその光が絡みついた途端、自分の数倍の重量はあるであろうキマイラが絶叫を上げた。全身を戦かせ、打ち震わせ、だが突如として動かなくなる。
黄色名詠の第二音階、黄の小型精命?
「ヒドラがキマイラを名詠するなんてのは聞いたことがないな。......おそらくあのヒドラ、生まれてすぐあの〈孵石〉を呑み込んだか」
虹色名詠士の表情に、今まで見せていた余裕が無い。
「......行くんだ」
「え?」
その意味が分からずにいると、彼の方は口早に告げてきた。
「生徒の誘導は君に任せる。学園長たちも気づいてはいるだろうが、念のためだ」
「カ、カインツさんは」
物言わぬ彼の頭上を見て、ネイトはその理由を悟った。無数に飛び立った、蝙蝠のようなモノ。それがいつの間にか自分たちの頭上を旋回している。
まさか、頭上にいるのは全部......
「ボクはせいぜい囮役に徹するさ」
一見とぼけたような彼の口調。しかしそこには、もはや一匙の余裕も残っていなかった。
「みんな慌てないで! 出口に近い子から一年生校舎に避難すること!」
生徒の悲鳴。床に落ちたグラスが踏まれ粉々になる音がホールを埋め尽くす。
「教員は一年生担任が避難通路の確保、二年生三年生の担任は校舎内に侵入ってくる相手を追討、その他余力のある者で外部にいる奴等を掃討する! だが決して深追いしてはならんぞ!」
学園長の声は果たして職員に届いているのか。ホールに満ちる悲鳴が新たな恐怖を生み、恐怖がさらに混乱を煽り立てていた。
「──ミオ、だいじょうぶ?」
頭が真っ白になるほどの激痛に、嫌でも表情が歪んでしまう。
「あたしは......平気。クルルこそ、ごめん......ごめんね......あたし......」
いつもは見上げられているのに立場が逆転してしまった。床に手を突きながら見上げる。自分のすぐそばでミオが泣きじゃくっていた。
「クルーエル、あんた大丈夫なのっ!?」
腕を摑もうとサージェスが近づいてくる。それを、動く方の腕でクルーエルは押しとどめた。
「......問題ないから。先に行ってて。わたしもすぐ追いつくから」
泣きじゃくる友人へとすぐに視線を戻す。
「ミオも先行って」
「だめ! 絶対あたし、なんて言われてもクルルと一緒に行く!」
ったくいじっぱりなんだから。口にしてからかってやりたいが、身体の力が抜けてそれどころではなかった。左肩を押さえ壁に身を預けながら時間をかけて立ち上がる。床に腰を落とした姿勢から立ち上がる。ただそれだけのことなのにもう息が上がってしまう。
「やめて、動いたら血が止まらないよ!」
「......座ってたら、今の奴がもう一回来た時逃げられないでしょ」
ドレスの左肩が赤黒く染まっている。それから目を逸らし、再度右手で左肩を圧迫した。保健の時間にやった出血の対処法、まさか自分が実践することになるとは思わなかったな。
右手のひらにぬめりと付着した鮮血を一瞥し、クルーエルは口の端を歪めた。
「ここは引き受ける。行くんだ」
ウィル・オ・ウィスプを背後に従え、虹色名詠士がホールを指し示す。
「で、でも──」
無茶だ。いくら何でも一人でこんな数を相手になんて。
『ネイト。行くぞ』
口にしかけた言葉が挫かれた。
「......アーマ?」
いつもと変わらぬ、いやそれ以上に淡々と、肩に乗る相手は口にしてきた。
『今はホールにいる者の安全を確保する方が先だ。その方向へと既に何匹かが向かっていった。最悪、もう被害が出ているかもしれん』
アーマは取り乱さない。誰よりも正確に状況を分析し、優先させる方の天秤を見極める。それを実感したのは一度や二度ではなかった。
......この夜色生物は冷静だ。少なくとも、自分より。
「カインツさん」
虹色名詠士にではない。かつて母と約束した人に。自分が約束を果たすべき人の顔を正面から見据えた。
「僕、夜色名詠がんばります。だから──いつか、絶対見てくださいね!」
振り返ることなく、彼の返事を待たず駆けだした。
ああ約束するよ。それが彼女との約束だから。
ホールへと駆けていく見習い名詠士の背中を見送る。
虹色名詠士のその顔に、いつもの穏やかな表情があった。
「さ、そのためには生き残らなくちゃな。キミにも一働きしてもらうよ」
言葉で答える代わり、稲妻の精霊はその光を増した。
2
床に倒れ、今は動かないキマイラ。
天井を割り突如として現れたこの獣はちょうど、非常口の正面を塞ぐようにして降り立った。最も間近にいた標的──ミオめがけキマイラが襲いかかり──後先考えずにミオを押し倒したことで彼女自体は無事。しかし代わりに、彼女を突き飛ばしたクルーエルの左肩がその餌食になってしまった。
動脈を傷つけられたかもしれない。ドレスの左肩部を真紅に染め上げて、未だなお出血が止まらない。
「クルーエル、平気?」
生徒を誘導していたケイト教師が駆け寄ってきた。
「先生も......みんなの方についていてあげてください。わたし、しばらくここで休んでますので」
口を開けるのも億劫だが、肺の空気を最後の一呼吸分まで吐き出して声を振り絞る。
「あなたの担任なんだから、あなたを放っておくわけにはいかないでしょ」
まぶたを伏せ、女性教員がかぶりを振る。
「でも......校舎には三十人以上、先生が担任する子がいます」
強がりを言う気はない。動けない自分一人に付き添っていてはいけない。この教師はもっと大切なことができる。
配電ケーブルが切断されたのか、頭上でシャンデリアが点滅し出す。明かりが無ければ一年生校舎にたどり着くだけでも難しくなる。一刻も早く生徒を避難させる必要がある。この教師もそれを嫌というほど理解しているはず。
ややあって、ケイト教師の瞳が断念の感情を映し出した。
「......クラスの子が避難できたか確かめたらまた戻ってきます。ミオ、それまでの間だけお願いね」
隣の少女が頷くのを確認し、ケイト教師が早足で駆けていく。
外で聞こえるざわめき。それが悲鳴なのか獣の雄叫びなのかは分からない。窓の外では木々が火に灼かれる様が映る。突然の地鳴りからまだ数分。たった数百秒で周囲の状況があまりに凄惨なものになってしまっていた。
徐々に、シャンデリアの消灯している時間が長くなっていく。
「なんで......こんなことになっちゃったんだろう......」
自分の腕に包帯代わりの布を巻いてくれている、その少女の声に嗚咽が混じる。
「ミオ、泣くのはやめよう。泣くのは嬉しい時の嬉し泣きだけで十分だから」
「......泣いてないもん」
口を閉じ、少女が包帯の結び目をぎゅっと縛る。
「ありがと。これで、少し休んでれば平気だから」
貧血で嘔吐感がある。目を閉じ、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
ジジ、ジジとシャンデリアが苦しげな音を吐き出す。......まずい。今ここで停電が起きたらますます騒ぎが大きくなってしまうのに。
不意に──
「クルーエルさん、ミオさん! いますか!」
ガラスを踏み砕く音と共に聞き覚えのある声が届いた。
「......ネイト君?」
ミオの呟きに応じてホールの正面扉が開き、そこにローブ姿の少年。その姿を見て、ひとまず胸をなで下ろした。
......良かった。外に出て行ってたらしいけど、なんとか無事だったみたいね。
「ネイト君。早く校舎に避難しないとだめだよ!」
「でもエイダさんから二人がまだここにいるって聞いて......クルーエルさん、その傷!」
「ん、ああ、平気よこれくらい」
人に心配されるのは好きじゃない。少年が近づいてくる前に壁から身を起こそうと──
同時。ホールのシャンデリアから明かりが消えた。
「え......」
ホール内の事情を知らぬ少年が息を呑む。クルーエルが口を開く前に、暗がりに立つミオが叫んだ。
「ネイト君待って、ガラスが散らばってるから動き回ると怪我するよ! 明かりがつくまで動かないで」
「わ、わかりました」
凍えるほど冷たい静寂がホールをのみこむ。
窓の外を振り返る。が、外も驚くほど静かだった。さっきまでの叫喚が噓のように。何かが起きたのか。それとも、何も起きていないから静かなのか。どちらの可能性も否定できない。
さながら、荒涼とした生命の途絶えた地。
......我ながら笑えない想像ね。
奥歯を嚙みしめ、じっとクルーエルは肩を押さえつけた。
ふと。鐘が鳴ったような、ガラスが砕ける音が鼓膜を揺らす。一度ではない。二度、三度。音は徐々に大きく、そして近づいてくる。
「ネイト君動いちゃだめだったら」
一瞬の沈黙の後。
「え......僕、動いていませんけど......」
状況と矛盾する応答に、啞然とするより先に全身が怖気だった。
わたしたち以外に何かがこのフロアにいる?
微かに、熱い吐息が肌に触れる。
「ミオしゃがんでっ!」
シャンデリアに光が灯る。それより一呼吸早く、暗闇の中クルーエルはミオをドレスごと摑んで引きずり下ろした。頭上を何かが飛び越えていく。まばゆい光の中、三つ首の獣が照らし出された。
──キマイラ。よりによってこんな時に!
歯嚙みする。まずい。自分たちの中に、この獣に対抗できる名詠式を扱える者がいない。
じりじりと、キマイラが距離を詰めてくる。
「クルーエルさん!」
ネイトが駆けてこようとして、それを押しとどめた。無茶だ。ハイスクールに入学したての生徒がなんとかなるレベルの相手じゃない。
「いいから早く逃げなさい! ミオも!」
「だめ......最後までクルルと一緒にいる......あたしのせいだもん......」
「バカ! 意地張ってどうするのよ!」
ネイトの夜色名詠は詳細が不明。ミオの緑色名詠は攻撃的な生物の数が少ない。本当は自分の赤色名詠が一番適役だというのに。
せめてわたしも火を詠べたら......いや、火を名詠できたとしてもこいつを追っ払うだけの火力など到底出せっこない。それにそもそも触媒が──
なにか触媒を探そうと瞳を揺らす。と、クルーエルの視線はネイトの肩に乗る名詠生物で止まった。夜色のそれが無言でこちらを見つめ返してくる。
いや。正確には、わたしの左肩?
あ......
あった。とっておきの触媒が、赤色名詠に使える触媒が一つだけあった。
「ネイト後ろに下がって!」
かろうじて動く右腕をテーブルへと伸ばす。地鳴りの中倒れずにいたグラスを摑み、クルーエルはそれをキマイラに向けて投げつけた。
が。不意をついたにもかかわらず対峙する獣がそれを尻尾だけで叩き落とす。床に散った液体を一瞥し、嘲るように獣は汚泥色の牙を見せつけてきた。
三つ首の獣が床を蹴る。
いちいちほどいていたら間に合わない。口を左肩の包帯にあて──クルーエルはその包帯を嚙み切った。
堰を切ったように流れ出す紅い滝。紅い飛沫を手の表面に付着させる。
〝再び殻に籠もるか、それとも外に出ようと足搔くか〟
言われなくても分かってるわよ!
──お願い、うまくいって......
血が沸騰する。右手についた血が輝きを発しながら蒸発していく。
その後に、自分の右手に一摑みの炎が生まれていた。床に伏せたまま、それを力の限り投げつける。
渾身の力で投げ放たれた火炎が獣の眼前に迫る。その瞬間、相手が踏みとどまった。鼻先をかすめたものの、火炎が着弾したのは獣ではなくその足下。床に落ちた火炎を睥睨し相手が目を細める。
「......なに勝ち誇ってんのよ」
血の気を失い蒼白になりながらもクルーエルは口の端をつり上げた。
「わたしの勝ち。出直して来なさい」
そもそも足下を狙っていたのだから外れて当然。最初に酒の入ったグラスを投げつけ、それを叩き落とさせたのも計算どおり。こっちは最初から、床の絨毯にこぼれたアルコールを狙って火を投げつけたんだから。
瞬間、獣が足下の異変に気づく間もなくアルコールが引火した。
相手の足下が一気に炎上。全身を火に包まれながらキマイラが絶叫を上げる。のたうちまわり、火のついたまま翼を拡げ、獣が天井に向かって羽ばたいていく。
......どうやら逃げてくれたみたいね。
脱力し、クルーエルは倒れるようにくずおれた。
「クルーエルさん!」
呼ぶなりネイトは、慌てて彼女の下へとかけよった。纏う純白のドレスは鮮血で滲み、それと対照的に顔色は蒼白だった。
「......ごめん、少し休ませて」
少女の身体はふるえていた。出血がもたらす寒けと、獣の爪に傷つけられた痛みで。
「ごめんなさい......僕何もできなくて......結局助けてもらってばっかりで」
クルーエルの顔すら直視できず、ネイトはただ自分の足下だけを見つめた。
悔しい、そんな立派な言葉を吐けるほど自分は一人前の人間じゃない。
何も出来ない。守ってもらってばっかりの自分。
イブマリーという母親に拾われ、虹色名詠士に助けてもらい、そしてまた、この場でこの少女に守られた。
だけど──それじゃあ、僕はなんのために約束したんだろう。
〝これはあなたのための名詠式。だからネイト、あなただけに教えてあげる〟
母親との約束。
〝いつか君が夜色名詠を使いこなせるようになったら教えて欲しい。ボクも見届けたい〟
虹色名詠士との約束。
〝キミを見習って、わたしもちょっとだけ頑張った方がいいのかな〟
目の前の彼女との約束。
この約束は何のためにあったのだろう。
約束した夜色名詠は、なんのためにあるのだろう。
全ての誓いが混ざった、大渦のごとく波打つ心と記憶の水面。
その中でただ一つ、最も根本的な言葉だけは、今なお純然と残っていた。
〝ネイト......名詠って、なに?〟
根源的な、だがそれゆえに誰も真の答えを知らぬ、解無き命題。
──母さん、母さんの考える答えじゃないかもしれないけど。
「クルーエルさん......今日言ってくれましたよね。失敗を恐れるなって」
胸の奥でわきたつ想いを、唇を嚙みしめてかろうじて堪える。
でも、それでも。見つけたよ。
みんなが怖い思いをして、みんなが痛い思いをしてる──だから、僕も何かしたい。
母さんとの約束だけじゃなくて、みんなのために。
「......ネイト?」
蒼白のまま、弱々しく、それでも彼女が見つめてくる。
「でも僕、もう失敗したくないです」
不安を断ち切るように、ネイトは続けた。
「一つだけ、僕......挑戦させてください」
「それは──」
ミオが言い終えるより先。
『夜色名詠、挑むつもりか?』
肩の上、今まで沈黙を保っていた夜色の生物が重々しく口を開いた。
問いというより、その声音は確認に近い。だからこそネイトは躊躇わず頷いた。
母から教わった名詠。ただ、絶対に乗り越えなければならない壁が一つある──
『問題は触媒だな』
やはりというべきか、この名詠生物は心の内を察してきた。
「ネイト君、それってどういうこと?」
「......夜色名詠に使う触媒がわからないんです」
懇願するように、その瞳を揺らしながらネイトはミオに顔を向けた。
「一度だけ母さんが見せてくれた触媒......それをどうやって用意するのかが......」
『夜色の炎』
少年の肩に乗る相手が続きを継ぐ。
『夜色名詠における真精はわずかに一体。その特有触媒が夜色の炎というわけだ』
夜色の炎──怪訝な眼差しでドレス姿の少女が反芻する。彼女が疑問に思うのも当然。本来の炎は赤。それがどうして、あの時見たような黎い色になるのか。
『我も確かに見た。が、それがどのような仕掛けだったのかは聞いていない』
そう。母親が最後に教えてくれた名詠に必要不可欠とも言える触媒だ。
それを携え奏でる、母が最後に教えてくれた──黄昏色の名詠。
黄昏。日が暮れる、すなわち夜の始まりを告げる、時の鐘。
数ある夜色名詠の中で、母が一番最初に詠いあげたとされる始まりの歌。
「......それが分からないと」
唇を嚙む。触媒が無ければ、自分の力量ではまずなし得ない名詠なのだから。
「ネイト。その名詠で、何かができるの?」
「......わかりません」
じっとこちらを見つめてくるクルーエルに、偽らぬままネイトは本音を告げた。
──だけど、信じたいんです。
最後に母さんが僕に教えてくれた名詠。虹色名詠士との約束を果たすための名詠。
その二つは、きっと同じ歌だから。
「あ、あの」
「......ううん、最後まで言わなくていいよ──伝わったから」
ゆっくりと、微笑を浮かべたまま少女はこちらの言葉を継いできた。
「そんなにまで、キミにとって大切な歌なんだね」
言葉にせずとも、目の前の彼女は全てを受け取っていてくれた。
『ネイト。その志は買うが、実際のところ触媒抜きでは結果は期待できんぞ』
「夜色の炎......か。ミオ、あなた何か心当た──」
沈黙を保っている少女へとクルーエルが尋ねる。
数秒、ミオは押し黙ったまま目を閉じ──
「夜色の炎..................あ......あぁぁ......」
俄然、彼女の声がホール中に響き渡った。
「あるよっ! 夜色の炎に心当たりがあるっ!」
......心当たりが、ある?
『本当か?』
「うん、たぶん間違いないと思う。でもそれには準備しなくちゃいけないものがあるの。それを取って──あ......」
躊躇うように、ミオが心配げな視線を友人へと向ける。
「ミオ、行ってあげて」
ゆっくりと、彼女は首を横に振った。
「......クルル?」
「わたしは平気。それよりネイト」
床に伏せたまま、濡れた双眸で彼女がこちらを見上げてくる。
「──無茶はしないで、約束よ」
言葉は要らない。ただ一度、ネイトは大きく首肯した。
「ミオさん、用意ができたら校庭に来てください。先に行ってます」
「わかった。すぐ行くよ。......クルルお願い、無事でいてね」
「縁起でもないこと言わないの。死にはしないわよ」
迷いの感情をぬぐい去り、真珠色のドレスをまとった少女が緊急避難用の通路へと駆けていく。ほら、キミもさっさと行きなさい──有無を言わさぬクルーエルの視線に背中を押され、ネイトはホールの正面ゲートへと駆けだした。
......もう、いいわよね。
クルーエルは目を閉じた。肺から吐息が洩れていく。本当は、息を吸う気力さえ残っていなかった。嘔吐感も頭痛も、左肩の痛みすらもはや感じない。ひどい睡気だけが体を呑み込んでいく。よくここまで動けたものだ。
......我ながら大した気力よね、まったく。
声に出すこともないまま、少女は意識を失った。
3
「学園長、一年生校舎に生徒の退避完了しました!」
「わかった! 数人を校舎に残して、他は可能な限りこちらに回してくれ」
同時、鼓膜を破るほどの絶叫が耳を劈く。振り返ると、自分が詠んでいた二体の疾竜が、どちらもその翼を食い千切られたところだった。
......なんという化け物か。
ゼア・ロードフィルは額に浮き出た大粒のしずくを拭った。周囲に立ち上る火煙の熱のせいではない。眼前の怪物が放つ圧倒的なプレッシャーに身体が悲鳴を上げているせいだ。
緩慢な動きながら、しかし徐々に近づきつつある巨大なヒドラ。緑の第一音階名詠である疾竜をまるで歯牙にもかけていない。倒すどころか足止めが限界。しかも少しでも攻撃の手を休めれば、五本の首に次から次へとキマイラを詠ばれてしまう。
応援が来るのがどう甘く見積もっても明日の早朝。それまで保つかどうか。あまり分の良い勝負ではない。
「質だけでなく......数でも不利か......」
頭上を一瞥し、血を吐く心境で毒づく。
眼前の大蛇が詠び出したキマイラの数も尋常ではなかった。空から学園全体に分散して下降してくるせいでこちらの戦力が分散してしまっている。その姿を見せないということは、カインツもキマイラの軍勢に足止めされてしまっているのだろう。
あと一人強力な名詠士。虹色名詠士に匹敵する術士がもう一人いてくれれば......。
が、あぶくのように浮かんだその雑念をすぐに振り払うことにした。
っと、弱気になっておる。いかんな、そんな夢事を考えていては。集中を途切れさせてはいかん。
──学園は、学園長が守らんとな。







「エンネ、お前は逃げ遅れた生徒がいないか見てきてくれ。ここは俺らで何とかする」
緋色のローブを肘までまくった大柄な教師が、白衣の女性教師に耳打ちする。
「でも、ここさっきよりキマイラの数が......」
「ちょっとぐらいなら何とかなる。生徒の無事が優先だ」
だけど......そう言いかけた女性の肩へ、誰かが手をかけた。
「──エルファンドの時から十年以上か」
眼鏡のブリッジを押し上げながら、水色のローブを羽織った教師が苦笑する。
「これだけ腐れ縁してるんだ。もうちょっと同級生を信頼してもいいんじゃないのか」
その不敵な口ぶりに一瞬だけ彼女は表情を緩めた。この雄弁家は自分たちが初めて会った時と全く変わってない。
──だけどそっか。もうそんなに月日が経ったのね。そんなに長い間、わたしたちは一緒にいたのか。
それならば今この時ぐらい、......いいえ、こんな時こそ信じよう。
「......気を付けてね」
手に持つフラスコを地面へと叩きつける。澄み切った音を放ちながらガラスが砕け、周囲に触媒用の白煙が立ちこめた。
──『Arzus』──
朝靄を思わせる霧の中から翼を持った純白の馬が三体、学園に響き渡る嘶きを従えて現れる。白の第二音階名詠、有翼罵。自分が学生の頃に夢見ていた名詠だ。
一頭の背に乗り、残り二頭に指令を送る。
「ゼッセル、ミラー! 二人とも、すぐ戻るからね!」







〝──Isa Yer sheriena xeoi pel〟
「──sheonlef dimi-l-coririec-c-wavir」
紺色のローブを纏う少年が〈讃来歌〉を詠う。
学園の中央である校庭の、そのさらに中央。
それは奇妙な光景だった。中央を円状に──直径わずか数メートルを抜かし、周囲百メートル四方が火に包まれている。その中でたった一人、少年が目をつむったまま呟く光景。
触媒として用いるのに必要な炎。この未熟な名詠士では技量を触媒で補うしかない。そのために大量の炎が必要だからだ。
じわじわと中央の空間も熱を帯び、紅い火の手が迫ってきている。逃げ場はない。このままでは遠からず自身も間違いなく火の海に呑み込まれる。
だというのに──
少年に苦悶の表情はなかった。熱さを感じていないということはない。その小さな頰に雫が伝い、髪先も同色の水滴で濡れ光っている。自分を取り囲む焰の恐怖。だが、それを上回る感情が確かに在った。
〝miqvy elmeinehhevirgia-c-fifsia〟
──elma Iesneckt evoiatwispeli kei
〝zette ovanYer be zarabearcsolituqs〟
──zette YercanaarcashaLoo ifexLoR zarabearcsm ferme
〝Lears necktele ravienceShadir〟
──Lom girisleya mihhyalef hid,ravience Stalwari
誰にも知られず独り立つ、夕闇色の詠使い。誰にも聴かれることなき黄昏の賛美歌。
ならばせめて自分が、この小さき夜の道行人として見届けよう。本来ここにいるべき者の代わりに。
『......イブマリー。小さき孤独の娘。我が唯一認めた名詠者よ』
学園の真上。頭上を飛びまわるキマイラの群れの更なる上空。わずかな片鱗、だが確実に開き始めた名詠門へとアーマは鼻先を持ち上げた。
かつて、目に映る全ての人間から嘲笑われていた少女。時を経て──
『やはり、ネイトはお前の息子だよ』
母の汚名を濯ぐためであるかのように、母の残した歌を奏でる息子がここにいる。その姿を見て、自分でも気づかぬうちにアーマは表情を緩めていた。
あとは待てばいい。
世界を包む炎が夜色に染まる、その時を。
少年の肩ではなく、地に降り立った状態で。アーマはじっとその少年を見上げていた。







さすがにしんどいな......
瞳に入りかけた汗をカインツはコートの袖で拭った。隣にいるウィル・オ・ウィスプは既に三体目。第二音階の名詠生物といえどその力は無限ではない。ある程度消耗すると前ぶれなく還ってしまう。
自分もそうだ。疲労で集中力が摩耗、名詠の成功率が下がるのは避けられない。
今のところ学園長がヒドラを食い止めているようだが、あの化け物にしてみれば疾竜すら相手にならないらしい。一つの首でそれの相手をしつつ、残り四つの首がキマイラを吐き出し続けている。
本当なら学園長の援護に回りたいのにキマイラを倒すので精一杯。だがそうしている間にもヒドラに再度詠ばれてしまう。悪循環だ。今のところかろうじて拮抗してはいるようだが、この天秤をいつまで水平に保っていられるか。
コートの内側から小型のフラスコを取り出す。波紋を浮かべて揺れる黄色の水面。常時忍ばせている触媒だが、それも数が少なくなってきた。
「......とんだ競演会になったな」
苦笑する気もないままに、カインツはフラスコの蓋を外した。
一年生校舎から距離にして二百メートルほど離れた建造物。すなわち二年生校舎。その内部に、夜色の炎を生み出すための物質が保管してあるはずだった。
息を押し殺しながらミオは校舎の裏道を進んでいった。人目に付かないためではなく、上空を旋回している怪物の目にとまらぬように。
学園のライトに時折照らし出されるキマイラ、教師たちが掃討に奮起しているはずなのに、その数は最初に目にしたときと変わっていない気がする。せいぜい百が九十になったとかその程度の変化だろう。
......見つかったら、さすがに今度こそまずいよね。
緑色名詠は決闘に向いていない。自分のストックにはあの三つ首の怪物を倒すことはおろか、追い払うだけのものすら無い。とにかく見つからないことを祈るだけだ。
校舎の影を縫うように、一年生校舎を離れてからは草木の影を踏むように移動。
「ここが......最後の難関......」
自身に言い聞かせるつもりで口にする。一年生校舎から二年生校舎への最後の直線通路。隠れられる建物は無い。木立も草地も皆無。アスファルトで舗装された道が、距離にして五十メートルほど続く。
あたし、徒競走のタイムどれくらいだっけ。
痛いほどに胸の鼓動が強くなる。頭上の怪物がいくら百近い数とはいえ、走れば十秒とかからない距離。きっと見つからない。見つからないはずだ。よしんば見つかっても校舎に入れば逃げ切れる。どちらにせよ、ここでじっと時間が経ってしまうのだけはだめだ。クルーエルを独りにしておけない。
──疾った。
頭上も背後も振り返らず、ただ前だけを見据え。
夜道に、足がもつれ転倒しそうになる。ほんのわずかな距離なのに酸欠で頭が痛くなる。自分に全てがかかっている。その重圧に押しつぶされそうになる。
が。少女は走破した。
校舎に手が触れた途端、脱力で倒れかける。
「まだ......なにもできてないよ......あれを見つけて、ネイト君に届けなきゃ......」
ふらつきながらもミオは二年生校舎の内部へと進んでいった。
目指すのは、化学準備室。
時同じくして。
──『Keinez』──
緋色のローブを羽織った教師が紅蓮の火炎を名詠する。生徒が避難している校舎の直前まで迫ったキマイラが、二体まとめてその真紅の渦に包まれる。バックファイア──火炎の渦がその教師自身をも呑み込もうとする直前。
──『Ruguz』──
緋のローブを纏った男の前に水の薄膜が現れた。手を触れるだけで突き抜けそうな薄壁が、猛る火炎の誘いを拒絶する。
「ゼッセル、無茶しすぎだ」
「ん? ちゃんと目配せしておいただろ。援護タノム、って」
隣に並ぶ同僚に向かい、ゼッセルは低く笑い声を洩らした。
「どのみち、少し火傷するぐらいじゃなきゃどうしようもない」
「......お前にしては珍しく正論」
視線を常に動かしながら、ミラーもまた作り笑いだけは返す。
「そっち何体仕留めた?」
「五体。まとめてかかってこないってのが逆に厄介だな」
......ち、人工ルビーが二つか。頭上を警戒したまま、ゼッセルは懐に残る触媒の残数を確認した。あまりに突然な襲撃だったものでほとんど無装備状態だったのが痛い。
第一か第二音階でまとめて片づけたいのだが、いつ相手が上空から襲ってくるかという懸念のせいでまともに集中できる時間が無い。かといって第三音階名詠までで詠び出せる物はキマイラと相討ちがいいところ。じわじわと、こうして校舎直前まで後退してきてしまった。
「......エンネ、遅くないか」
「生徒の救出に手間取ってるだけだ」
間髪入れず、予め用意しておいた応えを口にした。低く押し殺した声でささやくミラーの気持ちはわかる。自分もそう思っているからだ。
それでも今は、信じるしかない。
「第二音階でケリをつける。それまで援護頼む」
右手にルビーを一つ持ち、相手の返事を待たずゼッセルは目を閉じた。すぐ隣、ミラーが深蒼のローブをはためかせる音だけが鼓膜に届く。
その瞬間、自分からすぐ数メートル離れただけの茂みが揺れた。残り火に照らされ、三つ首の形をした影が浮かび上がる。
「ゼッセル!」
悲鳴に近いミラーの叫喚。
......隠れてやがったのか!
舌打ちする余裕もないままに名詠式を第二音階から第四音階へと落とす。火炎の名詠ならばすぐにでも──いやっ、だめだ!
臍をかむ。キマイラが接近し過ぎている。ミラーの水膜も間に合わないほどの彼我。火炎を使った場合、自分も間違いなく烈火の渦中。いくつかの対抗策が浮かぶも、どれも状況を逆転させることが出来ない。どうすればいい。
「ゼッセル、何してる!」
一瞬の、まばたき一つ分の躊躇いを怪物は見逃さなかった。我にかえった時には既に、眼前に迫る獣の牙。
「しまっ──」
身体が動かない。目を閉じることも出来ず、その牙が自分に突き刺さるのを覚悟する。
刹那──
『Nussis』
何の前触れもなく。静謐な、粛然とした声が響いた。
還れ。その意味をゼッセルが理解するよりも先。
キマイラが自身の影に引きずり込まれた。
とぷん、という水面に石を投げたような音だけを残し、一瞬で。
「なっ!」
そんなバカな。辺りを見回す。誰も、何の気配も無いのに。
「無事か!」
ミラーが走り寄ってくる。あまりのことに自分の方は声が出ない。名詠された物を送り還したということは、今のも名詠式? だが──
「いまの、なにが起きた......」
ゼッセルは喉を鳴らした。だがミラーもただ茫然とした表情で立ちつくしている。身近に見ていたお前が分からないんだから俺だって分かるはずがない、とでも言いたげに。
俗に『反唱』と呼ばれている、名詠された物を還す術式。だが影に引きずり込むタイプの反唱? 名詠を教える立場の自分でさえ、一体何色の名詠式なのか見当もつかない。初めて見るどころか、今まで聞いたことすらない名詠式ではないか。
「ミラー、聞いたか?」
「何をだ」
逆に訊き返してくる。そうすると、あれはやはり俺の幻聴だったのか。
──まったく、教師になったのならもっとしっかりなさいよ──
キマイラが送り還された直後、自分の耳元をかすめていった風鳴りが、どこかそう言っているように思えた。昔、ずっと昔に聞いた覚えのある声で。







『羽ノ無イ鳥。殻ヲ破ッタ雛。アナタハ──』
どこか遠くから、反響のようにおぼろげな声が響いてくる。女性とも男性ともつかない、この世ならぬ霞みがかった声音。
『クルーエル』
ようやく、その声が自分に向かって話しかけていることに気づいた。
聞き覚えのある単語。そうだ、わたしの名前だ。
『ワタシヲ呼ンデ。ワタシニ名ヲ与エテ』
あなた、誰?
『ワタシハ貴女。貴女ノ翼。サア、起キテ』
よくわかんないよ。......誰だか知らないけど、ごめんなさい。わたしもう疲れてるの。
『ソレデモ、貴女ハ飛バナクテハナラナイ。共ニ行キマショウ。小サナ小サナ、夜ノ下ニ』
よる。その単語に、心のどこかで何かが反応した。切断されていたはずの意識の繊糸が繫がっていく。よる......夜......夜色......なにかが胸を締めつける。
なぜだろう。疲れきってるはずなのに、動かなきゃいけない気がする。行かなくちゃいけない気がする。
でも、何のことだか分からない。誰のことだか分からない。
夜って、誰のことを言っているの。ねえ。教えて。
『サア起キテ』
声は答えてこない。起きて。その言葉が消え、再び世界は静かになった。







「この子たちをあの建物に連れて行って!」
火事の飛び火を受け火傷を負った生徒、獣に襲われ必死に逃げ隠れていた生徒。その数は予想以上に多かった。有翼馬の背に生徒を二人ずつ乗せ校舎へと向かわせる。最初三体を引き連れていたが、結果的に有翼馬はその倍の数を要した。
猛る火炎に炙られ、額の汗をぬぐう。
──もう、さすがにいないかしら。
「誰かいない? いたら返事をして!」
周囲に爆ぜる火の音で声が届きにくい。二年生校舎、三年生校舎を回り、校庭に近い十字通路に出た。がさっ、と茂みが揺れる。反射的に振り返った。
「......そこ、誰かいるの?」
負傷して動けない。声を出したくても出せない生徒。その予感が頭を過ぎる。
「エンネ、そこから離れろ!」
誰かの声。一瞬、それが自分に向けられたものだと気づかなかった。その声を気にすることもなく歩を進め──
......え......
茂みの奥、六つの視線と目が合った。まさか!
ぞっとするより先、誰かが自分の正面に割って入る。枯れ草色のコートが視界を覆った。
咆吼を上げキマイラが飛びかかってくる。その爪を名詠士は左手一本で受けとめた。みしりと嫌な音がこちらにまで聞こえてくる。
「Nussis」
右手で相手の体表に触れ、その男が呟く。緑の名詠光を発しながら、その獣の姿がたちまち霞んでいく。完全に消えるのを確認し、深い吐息をこぼしながらその男がふり向いた。
「いつもは冷静だけど、一つのことに夢中になると案外他が見えなくなる。エルファンドの時から変わってないね、エンネ」
「カ、カインツ?」
眼前にいたのはエルファンド時代の学友だった。
「久しぶり。競演会じゃお互い忙しくて挨拶できなかったからね。ゼッセルとミラーは? 彼らもここの教員に就職してたはずだけど」
周囲を見回しながら彼が、さっきまで自分と一緒にいた同僚の名を口にする。
「一年生校舎にいるはずだけれど」
言い終わる前に、エンネは目の前の男が左腕を庇っていることに気づいた。
「カインツ、あなたもしかして......」
「──だいぶ無茶だったかな」
彼が目を逸らした。やはり......骨折している。
キマイラの脚を生身で受け止めるなんて無茶を超えて無謀。だが自分を助けるためにはそれしかなかった。味方と敵が近接している状態での名詠は両者を巻き込む。自分を庇うためには、相手に直接触れる術式で対象だけを送り還す反唱しかなかった。
「......ごめんなさい。わたし......なんて言ったらいいか」
戦力という物差しで測るなら実際、自分なんかより虹色名詠士の片腕の方が明らかに大きい。
「キミが気にしたってはじまらないさ。本当に生徒が倒れている可能性もあった。ここら一帯はあらかた見て回ってたから、ここにいるのが生徒じゃないって分かっただけだ」
左手をコートの中に入れたまま同級生が周囲を睨め付ける。
「だけどタイミングが悪かったな。よりによって、あっちも本格的に動き出したか......」
自分たちを取り囲む形で獣たちが一斉に降りてくる。
違う。タイミングが悪いわけではない。ずっと、こいつらは空を旋回しながら機を窺っていたに違いない。自分たちの脅威となりえるこの男が負傷する時を。
瞳だけを動かし背後を探る。十数体。全てが同時に襲ってきたら、いくら虹色名詠士といえど対応しきれない。自分に残された触媒は、指に塡めたオパールの指輪が一つ。
失敗は許されない──ならば詠び出すべき有翼馬は一体だ。二体分の名詠は一体のそれより成功率が下がる。
......わたしはいい。だけど彼だけは絶対に逃がさなくちゃいけない。キマイラだけではない。奥に控えるヒドラを倒せるとしたら、可能性があるのはもはやこの男だけだ。
「カインツ......有翼馬を詠ぶから、そしたらすぐに乗って」
背中合わせの彼にささやく。
途端、彼の背中がふるえた。
「エンネ──変わってないね」
その声にエンネは背筋が凍りついた。低く威圧感のある声ではない。むしろ逆、穏やかな声音。
だけど、こちらがぞっとするほど穏やかだというのは一体なぜ?
「言いづらいことがあると途端に喋るのが早くなる......ボクだけ逃げるわけにはいかないよ」
今度こそ、エンネは彼の言葉に絶句した。
やっぱりだ。エルファンド時代から薄々と感じていた。わたし、あなたのそういうところが大っ嫌い。なんでそういうことまで分かっちゃうのよ。
「だめっ! お願いだから逃げ──」
言葉半ばにして、エンネは声を失った。
目の前の彼が、あまりに悠然と微笑んでいたから。
「ボクは、これ以上自分の知り合いを失うのはご免だ」
それは、あまりに寂しげな微笑だった。全てを悟り尽くしたかのような、そして何かに絶望したかのような微笑み。
十数体のうちの半数、視角内にいた正面のキマイラが飛びかかってくる。
──『Keinez』──
炎の熱波がその全てを灼く。いや、灼くはずだった。だが左手に奔る激痛に一瞬、カインツの集中が途切れる。生まれた炎は、虹色名詠士が思い描いたものより一回り小さいものだった。
一体。キマイラが炎の間隙を突破する。虚を突かれ彼の方も動けない。だめだ。自分の名詠も間に合わない!
「カインツっ!」
今度こそ彼のコートに獣の爪先が刺さる。その光景が錯覚から現実に......
──orbie clar,dremre :Goetia :Berith──
襲いかかるキマイラの真下、その獣自身の影から真紅の馬を駆る騎士が突如として浮かび上がった。
漆黒の鎧に身を包み、鎧と同色の槍を持つ騎士。突然の闖入者により、そのキマイラが打ち払われる。造作なく、後続のキマイラを数体まとめてさらに槍の一薙ぎで弾き飛ばす。

──強い。これは。
第三音階に相当するキマイラをここまで圧倒するということは、この騎士は第二音階名詠? だけどこんな名詠式なんて見たこと無い。いったい誰が。
こちらの思惑を余所に、騎士が前ぶれなく消失する。夢でも見ているような心地だ。
だが自分たちの周囲には確かに、直前に騎士が倒したキマイラが転がっている。
「......エンネ、キミの名詠かい?」
愕然としたままかぶりを振った。それはこっちの台詞。だけど、一つだけはっきりしている。今自分たちを助けてくれた名詠者は、わたしたちに生きろと言っている。
「カインツ、もうちょっと頑張ろう」
彼の背後を護るように寄り添う。
「せっかく拾った命なんだから、最後まで諦めちゃだめよ」
「──エンネ、さっきの言葉は撤回するよ」
背中合わせになる彼が、いつになく真剣な声音で言ってきた。
「キミは変わった。......強くなったよ」







「......ネイト」
病魔に蝕まれ床に就いていた母の、最後の言の葉を思い出した。
母が今際の際に伝えてきたものは別れの言葉でも愛の言葉でもない。夜色名詠の第一音階名詠──夜の真精を招くための〈讃来歌〉。
「これはあなたのための名詠式。だからネイト、あなたにだけ教えてあげる」
ベッドからかろうじて母が右手をさしだす。目を伏せたまま、ネイトはその手を握り返した。あまりに瘦せこけた母の手。見るのが辛い。だが目を逸らすことはできなかった。
「名詠って、難しいものだと思う?」
そんな質問、正しい答えがあるわけじゃない。幼いながらそれは自分にもわかっていた。
しかしそれでも、今は「難しい」と答えるしかなかった。母から教えてもらった名詠、成功するどころか失敗するのが当たり前といった現状だったから。
「でもね。この名詠は、あなたならできると思う」
握っていた母の手が、少しだけ強く自分の手を握り返してきた。
「必要なのは技術じゃない。自分にとって大切な人の存在。その人を守りたいという気持ち。夜の真精にその想いを伝えなさい。なぜなら、夜の真精は孤独だったから......」
今までのものとは違う。技術面ではなく精神面でのアドバイスは初めてだった。
「独りぼっちの辛さを知ってるから。きっとあなたを孤独から守る。──うん、守って......きっと守ってみせ......るから」
握っていた母の手から伝わる力。それがその瞬間、糸が切れたように途切れた。
お母さん?
「ねえ母さん、母さん?」
何度も何度も呼び返した。ずっと、母の手を握っていた。
......寝ちゃっただけだよね?
きっとまた僕の名前を呼んでくれるよね。きっとまた僕の手を握ってくれるんだよね。
ねえ、そうでしょ母さん。







〝Isa jesqusi xinfears togapeg ilmei shel〟
──Hir qusiclar,cori, Ema lefmemori
〝jes klessqusimedolialef cirkus,medolialef zarabel〟
──jes klessqusi sarilef sophit,faitelef zarabel
〝Hir sinka I,bekwist WeRmuas ririsiaharmonelef twispel〟
──Hir sinka I,bekwistHIr qusicelena poelef wevirnespil
黄昏の歌は終わらない。想像を言葉へと編み上げ、それを詠う。外の世界に溢れた想像は音となり鼓膜を響かせ、また新たな想像の回路へと組み込まれる。
修練を修めれば〈讃来歌〉無しでも第二音階までなら詠べる。あの虹色名詠士がやってみせたように。
だが第一音階名詠だけはそれが通じない。真精は特定の条件を揃えた時にしか詠べないからだ。三重連縛──特定の触媒を用いた上で特定の〈讃来歌〉を詠うことでしか、その歌は真精に届かない。真精を詠ぶための触媒と〈讃来歌〉を見いだし、最後にその真名を呼ぶことでようやく完成を見る。
〈讃来歌〉は母から聞いている。あとは、触媒があればきっと詠べる。母さんがそう言ってくれたから。約束の人とも出会えた。クルーエルさん、ミオさんにも誓った。
──夜の真精にその想いを伝えなさい──
伝えよう。僕は、みんなの大切な思い出の場所を守りたい。
汗を拭うこともせず、ネイトは自分の名詠式を続けた。







密封された容器をいくつも両手で抱え、ミオは階段を二段飛ばしで駆け上がった。
目指すは二年生校舎の最上部。校庭を一望できる場所だ。教室から盗み見た時には既に校庭が火の海となっていた。急がないと、せっかくの準備が水泡に帰してしまう。
「これさえあれば......」
夜色の炎。謎を解く鍵は、ネイトやクルーエルと共にやった触媒の調合実験だ。
そしてもう一つ。数日前、クルーエルと交わした何気ない会話の一切れ。
〝クルル今回の一斉テストどうだった? ヤマが外れたとかぼやいてたじゃん〟
〝あたし? 前と同じくらいだったよ。ぎりぎり二桁。学年だと二番だったかな〟
〝え。だって今回の簡単だったよ。資料集の炎色反応覚えてるだけで三問はいけたもの〟
自然に存在しないはずの色の炎を生み出すのは魔法でも偶然でも、奇跡でもない。本来誰もが知っている触媒の調合方法。名詠式に打ち込み、その習得書を読破した者ならばその答に辿り着ける。
腕の中で互いにぶつかり合う褐色の容器。出来うる限り早く。だがこれを割ってしまってはだめだ。容器に罅でも入ってしまえばこの中身は急速に酸化、変性してしまう。
「待っててね、ネイト君」
屋上へと続く扉が視界の端に現れた。
......ここまでか。
がっくりと、ゼア・ロードフィルは膝をついた。手元にある触媒が底を突いた。ジェシカに取りに行かせているが、まだしばらく戻るまい。事実上、万策尽きた。
緩慢な動作でヒドラが近づいてくる。この防衛線を越えられれば、もう避難先の一年生校舎まで障壁はない。一年生校舎にも教師が数人控えてはいるだろうが、そちらも触媒が切れる頃だ。
......一体どうすればいい。一年生校舎に向け再度の避難警告を出すとするならば、おそらく前回以上のパニックを覚悟しなくてはなるまい。
徐々に距離を縮めてくる怪物を凝視する。誰が〈孵石〉を使用したのか確かではないが、まさかこんな怪物が学園内で発生するとは。
「......ん?」
そのヒドラの動きが突如として止まった。凍りついたように。足どりだけではなく五つの首全てが硬直していた。唯一、その眼球を除いて。眼球だけが不気味に周囲を睨めまわしている。
何かを探しているのか? だが一体何を。
その謎の行動が読めず、学園を束ねる老人もまた立ち尽くすしかなかった。







「いま......どうなってるのよ......」
唇も舌も乾ききっている。無理に声を出したせいで喉が痛い。ホールの壁に背を預けているのでクルーエルからは外の状況が分からなかった。
──わたし、どれくらい気を失ってたんだろう。
名詠した炎は通常数分で消えてしまう。自分の詠んだ炎が消滅しているということは、少なくともそれ以上の時間が経過しているということになる。左肩の出血も今は止まっていた。一時間か。あるいは数分に過ぎないのか。
「......静か......」
静寂に満ちたホールに自分の声だけが乱反射する。どこかから風に流されてくる、火が弾ける音。独りが怖い、そう思ったのは初めてだった。まず浮かんだのは家族の顔。それが消え、次は友人の顔を思い出した。
──ミオもネイトも無事なのかな。
だけど無事でいてくれなきゃ困る。戻ってくると言ったケイト教師もいつになったら戻ってくるのか。でも今は過剰に期待しちゃだめだ。こんな状況、校舎の方でも何が起きているかわからない。
パリン、というガラスが踏み砕かれる音。ケイト先生?
が、続いて鼓膜に届く唸り声にその期待は一瞬にして砕け散った。
「......しつこいのは嫌われるわよ」
全身に火傷を負う獣が自分に向けて距離を詰めてきた。
苔色の身体は黒く焦色に変色し、獅子の顔、その鬣から今なおぶすぶすと煙が上がっている。気を失う直前に自分が追い払ったキマイラ。焰に炙られた翼はもう動かないのか、床に足を引き摺るようにじわりと近づいてくる。
どうする。また血を触媒に使う? だけど既に血を流しすぎてる。これ以上やると本当に、起きることのない眠りに陥る気がする。わたしの身体だ、わたしが一番分かる。
「どっちにしろダメか......」
わたし、十分頑張ったよね。
『愛しい巣立ちの雛、孵ろうとする雛。翼無き歌い手よ』
声? まただ。だがそれも、さっきより明瞭に聞こえてくる。
『わたしは貴女の翼。わたしの名を呼んで』
夢の中だけかと思ってたのに、確かに聞こえてくる。幻聴じゃない。
呼ぶ──でもわたしにはもう、名詠に使えるものがないの。
『わたしを詠ぶのに触媒は不要。あなたの流した血がわたしをここに詠び寄せた』
〝我が、お前の使った触媒をあえて訊ねた理由が分かるか〟
〝先ほどの名詠に使われた触媒が宝石でなく『別のとある物』であれば──〟
だけど、〈讃来歌〉だってわからない......
『〈讃来歌〉は不要。孵るべき雛よ、あなたの殻を破る音がわたしを起こした』
〝真精の中にも言葉を用いない者がいる〟
〝今小娘は板ばさみにあっている。成長と停滞の葛藤。殻を破りかけ、だが抜け出せずにいる雛のようなものだ〟
それは誰が語った言葉だったか。感慨なく聞き流していたはずのものが、記憶の深奥から泉の如く湧き上がってくる。
『三重連縛は解かれ、もはや条件は満たされた。あなたは既にわたしの名詠を終えている』
......名詠を、終えている?
既視感のように、ふと脳裏をかすめる朧気な光景。
競演会で詠び出した──輝く炎に包まれ煌々と燈える、この世ならぬ幻想的な羽根。
燃え盛る羽毛。羽根の形をなぞった炎。
それが──
過去の記憶ではなく、自分を護り覆うように、いまこの場にその光景が確かに在った。
『あとはわたしの名を呼ぶだけ。さあ』
虚ろな視界の中、灼け焦げた復讐者が飛びかかってくる。
だがそれよりも。意識は語りかけてくる声の方に向いていた。
『あなたが殻に還らぬ限り、わたしもまた灰の中から甦ろう。あなたが背を向けない限り、共に新たな夜明けを迎えよう。クルーエル・ソフィネット。さあ、わたしの名を呼んで』
血色を失った唇からクルーエルは微かに吐息をこぼした。
声にすらならない赤の詠。
だが少女の奏でた歌はこの多目的ホールを越え、学園を越え──
世界のどこかで、その刻を待つ者の心をふるわせた。
獣の爪が何かに触れる。なにか柔らかいものに。
そのままそれを引き裂こうとして、逆に獣の爪の方が燃えさかる火炎に包まれる。爪は少女の肌ではなく、その前に立ち塞がった巨大な真紅の翼に遮られていた。
『あなたが生まれるのを待ち望んでいた。クルーエル、わたしの止まり木よ』
少女をその翼で庇いながら、その鳥がもう片方の翼を羽ばたかせる。
ただの一動作。それだけで、灼熱の熱波がホールを支配した。名詠光を放ちキマイラが強制送還される。
『動ける?』
奥歯を嚙みしめクルーエルはその場に佇立した。でもこれで精一杯。動くなど論外だ。一瞬でも気を抜けばまた意識を失うという確信がある。精神に身体の方がついてこない。
『ならばわたしがあなたを運びましょう。さあ、あなたの道行きを教えて』
そう告げて、赤の真精──黎明の神鳥はその翼で少女を抱きかかえた。
『望むのなら世界の果てまで。クルーエル、あなたはどこに飛ぶ?』
友人が避難している一年生校舎が真っ先に頭に浮かんだ。エイダもサージェスも、クラスメイトのみんなは無事に避難できただろうか。校舎まで辿り着けばきっと安全だろう。
続いて、真珠色のドレスを纏う少女の姿が浮かぶ。自分に付き添ってくれていた彼女。夜色の炎を作るために必要な物を取りに行くと言っていたが、彼女ならば無茶はするまい。いつもは子供っぽくせわしないが、いざという時に彼女がみせる頭の良さは自分が一番よく知っている。
「わたしは......」
最後に。紺色のローブを羽織る、幼い見習い名詠士の顔を思い出した。
誰一人として同じ名詠を使う者がいない、ひとりぼっちの名詠士。落ち込みがちで控えめで、失敗してばかりの詠使い。
あの子だけは、誰かがいてあげなきゃいけない。
失敗したら励ましてあげて、成功したら一緒に喜んであげる誰か。
──傍にいて、そっと見守ってあげる誰かが。
『決まった?』
神鳥からの再度の促し。無言で、クルーエルは頷いた。
汗を滴らせながらネイトが肩で息をする。
肺を焦がす灼熱の空気。目眩すら起こすほど大きく膨れ上がった陽炎。
炎が酸素を奪い頭痛を招く。熱が体力を奪い身体を蝕む。
だが、それでも──歌い続けた。
炎を越え、校庭を越え、学園を越え......世界の何処かでこの歌を聴いているであろう彼女のために。
4
「もう......こんなに火が......!」
屋上から見るとよくわかる。学園の至るところで火の手。それが一年生校舎の周辺だけは沈静化していることにひとまず胸をなで下ろす。
「ネイト君のばか。無茶しちゃって」
校庭が火の海になっていることも驚いたが、その中心に彼の姿を見た時は両手に抱えた物を落としかけた。あれじゃ、もうちょっと自分の到達が遅ければ蒸し焼きじゃない。
「......でも、それだけあたしのこと信頼してくれたんだね」
その期待と信頼は裏切りたくない。あたしが夜色の炎を呼び出してみせる。
両手に持った容器を片手に移し替えた。あとはこれをあの炎の中に投げ入れればいい。それで校庭に夜色の炎が生まれる。すべきこと自体は、誰もが一度は実験したことがある初歩的な化学実験に他ならない。
夜色の炎。その正体は『炎色反応』だ。
通常、火をおこした時の色は赤。しかし炎の中に特定の金属を入れた時だけ、炎は全く違う顔を見せる。ある種の金属塩、たとえばアルカリ金属やアルカリ土類金属を炎の中に入れて強く熱すると、気化して生じた金属原子中の電子が高いエネルギー状態に励起する。
だが励起状態は不安定なので、励起された電子はもとの基底状態に戻ろうとする。この電子が低いエネルギー状態に移る時に、二つの状態間のエネルギー差に相当するエネルギーを光として放出。この光の波長が可視領域にある時,炎に金属固有の色がついて見えることになる。
──すなわち、夜色の光を放つ炎を生み出すことが出来る。
銀白色をした軟らかい構造体、空気中ではただちに酸化してしまう金属。
元素番号37『Rb』──ルビジウム。
その語源は『rubidius』。これが夜色の炎を呼び覚ます。
夜色名詠。存在しないはずの名詠式は、存在しないはずの炎により完成する。
あとは彼を信じよう。彼が自分を信じてくれたように。
「ネイト君。いくよ!」
力の限り、ミオはその容器を屋上から校庭へと投擲した。
本能的に。五つ首のヒドラは周囲を見回した。
なにか嫌な予感がする。悪寒の正体は分からないが、何かが自分を脅かす。
自分に敵はいない。そう悟っているにもかかわらずだ。
排除しなくては。
ざわりと、白の首が残りの首に信号を送る。
すべからく排除しなくては。
緑が同意する。
だが。我らの敵はどこにいる。
黄と青が疑念を発した。
分からない。だが探さなくては。
四つの首が、八の視線をもって周囲を睥睨する。
......あれだ。
唐突に、それまで沈黙を保っていた赤の首が動いた。その視線が、一際炎が燃えさかっている箇所を指す。
あの炎、いつからあのような黒い色になった? 前まで、確かにあの炎は我と同じ色を保っていたはずだ。
全ての首が示される方向に目を向ける。十の眼球が、その炎の中に小さな生物を睨めつける。燃え立つ黒炎と似た色の服を纏う、ちっぽけな、一見取るに足りない名詠士。
──あれか。
あれが、排除すべき相手か。







「カインツ......これ、なに」
背後を庇うエンネが、背中越しにそっとささやいてきた。
......なんだ?
右手に触媒を持つ姿勢で眉をつり上げる。
「──これは......歌?」
耳を澄まし、その瞬間、カインツは全身がうち震えた。
校庭を越え、炎を越え、学園全体に静かに浸透していく細やかな音色。
猛る炎の音。吹き荒ぶ風の叫び声。その中で、だが確かに聞こえてくる小さなメロディ。
悲しくて寂しくて、けれどどこか懐かしい旋律。いつかどこかで聞いたことのある──
〝Yer shesaria stiglef xeoipeg pel〟
──Yer shesaria stiglef xeoi,Yer zayixuy-c-olfeyshe ora
〝U dalostasiadremren〟
──O lalaspha,yupa Lom dremrenecktlostasiaU meide
心の奥。凍っていた想いの一端がよみがえる。
──この曲は......あの時の......。
それ以外考えられない。悲壮な想いに満ちた名詠詩。終わりと眠り、孤独を望む調べ。
しかし今、その歌詞が違う。歌っているのは......いや、イブマリーのはずがない。
歌詞も時間も歌い手も、その全てが異なる。それでもなお、その旋律だけは──どれだけ永い時を経てもなお、かつてと変わらぬ繊細で清廉な響きを失っていなかった。
〝Isa daboema fotondoremren〟
──Isa daboema fotondoremrenO hearsaneighti loar
〝O univa smthes hypne〟
──eposionlef hypne,eposionlef xeo,elmei jesmuas defea
〝endeYears besti ......〟
──ende Wershe pridia ......
紡ぐ奏が一瞬途切れる。それは〈讃来歌〉が終わる前鈴。歌の終詩に至る最後の一小節。
自分がとうとう聴かずに終わった──あの時、少女が自ら閉ざした名詠詩。
完成を待たずしてついえた夜奏の詩編。詠われることなき終詩が......。
「......その続きが......あるのか」
重なる記憶と旋律。いまなお心に刻まれた、あの少女の涙。
永劫にも近い時の経過の中、幻影の如くかすんでいた願い高き終極。
その全てを──カインツは思い出した。







気づかれたか......
近づいてくる地鳴りにアーマは眼を細めた。大した奴。まだ名詠門すら開いていないのに、〈讃来歌〉から洩れる微細な気配を捉えるとは。もっともそれは、詠び出そうとするモノがそれほど強力だということでもあるのだが。
間に合うかどうか、贔屓目に見ても際どい。
ネイトの歌は終わっている。あとは触媒があれば第一音階名詠の条件を満たせる。
しかし。炎はまだ変わらず赤いまま。
不本意ではあるが......今ならまだ逃げられるな。ここでネイトを失うわけにはいかない。それこそネイトの母親に申し訳が立たない。
「僕、待つよ」
口にしたわけではない。だが自分のすぐ隣に佇む少年はそれを察してきた。
「ミオさんと約束したからね」
まばたき一つせず、ネイトは真紅の壁を見据えていた。
その仕草に、アーマは生涯で初めて嘆息というものを経験した。すぐ眼前に迫った危機よりも、果たされるかどうかも不確かな一時の誓いを選ぶとは。
今まで気づかなかった。性格は似ても似つかないかと思っていたが、まさかこの頑固さだけは母親譲りだったとは。
......だが。だからこそ自分はネイトに惹きつけられたのかもしれないな。
『構わん。お前の好きなようにしろ。最後まで付きあおう』
その言葉と同時。何か鋭利な音──ガラス瓶が割れる音が学園中に響き渡った。
乾いた破砕音が消えた時。周囲の炎は夜色に染まっていた。
ミオさん、ありがとう。
全ての条件が満たされた。......あとは、僕にその度量があるかどうか。
澱んだ肺の空気を全て吐き出す。
『最後まで見届けてやる』
夜色の名詠生物に向かい、かすかに首を上下させる。
夜色の炎とはいえその熱に変わりはない。触媒としての火炎。最高の効果を持つ反面、最もその制御が難しい。一度失敗すれば間違いなく、今まで積み上げてきた集中力と想像が全て砕け散る。二度目は無い。
肉眼でも自分に向かってくるヒドラが確認できる。五色同時励起という、あまりに人智を超えた名詠生物。その頭上には数十という単位のキマイラ。
でも母さんは言っていた。夜の真精は、きっとみんなを護ってくれる。
......全て僕にかかってる......
集中力に揺らぎは無い。だが、それとはまた別の部分が重圧に浸食されていくのを感じた。全身、熱による汗とは質を異にする汗がローブを濡らす。
じっとしていても立ち眩みがする。深呼吸しようと背を伸ばし──
────え?────
その途端、全身が平衡感覚を失った。
偏頭痛。全身の無気力。目が霞み、視界全体が蜃気楼を作り出す。〈讃来歌〉に集中し過ぎていたせいで身体の異常に今まで気づかなかった。
急性熱中症。周囲の炎から放出される熱波は、十三歳の少年の身体にはあまりに負担が大きすぎたのだ。
『ネイト!』
アーマの声すらどこか幻聴めいて聞こえる。黒い炎の中に倒れ込む自分。それを、他人のように意識している自分がいた。夢の中にいるような甘い誘い。
だめ。このまま倒れちゃだめだ。そうと分かっていても足を動かせない。
少年を抱擁するように、黒炎がその腕をのばす。
え......嫌だよ。こんなの絶対嫌だ。約束したもの。たくさんの人と約束したんだ。
僕だって何かしたいのに。みんなのために何かしたいのに......
炎がネイトを舐めるその前に。
ローブを羽織った少年は誰かに支えられた。自分と炎の間に割り込んできた誰か。無我夢中でその手にしがみつく。──でも、だれ?
「ネイト、相変わらず肩に力入れ過ぎよ」
こつんと、頭に軽くこぶしがぶつかる。
「名詠を手伝うことはできないけど、でも、一緒にいてあげることぐらいは──」
──お母さん?
その声は幻聴かとすら思えた。でも、確かに僕はこの人の腕に摑まってる。
まぶたをこする。目の前にいるのは母ではなかった。視界を埋めるのは純白のドレス。顔を持ち上げると、左肩に包帯を巻いた少女の顔があった。
「......クルーエルさん?」
頷き、くすりと少女が微笑む。
「......うそ、どうやってここに。じゃない、そんなことより早く逃げてください! 火もこんなになってるし、ヒドラだって来てるんです!」
彼女はこちらの言い分に対して何も言ってこなかった。ただそっと、穏やかで落ち着いたまなざしで自分を見つめてきた。
「〈讃来歌〉はもう済んだ?」
唇が動かない。いつしか幻聴が消え、幻覚も姿を消していた。周囲に爆ぜる火炎の音すら聞こえない。彼女の姿だけが視界に映り、彼女の声だけが心の深奥に響いてきた。
頷くと、その少女が自分の右手を握ってきた。
「だいじょうぶ。わたしも一緒にいてあげる。一緒に詠んであげるよ」
はじめて。ネイトはここが炎の中で良かったと思った。

周囲の熱が、自分の目から溢れるものを攫っていってくれる。
「ありがとうございます。......もう、今度こそ本当に大丈夫です」
その上空──二人を祝福するように、神鳥の紅羽が粉雪の如く幾重も舞い降りつもる。
夜色名詠士は、少女と共に自らその手を夜色の炎の中へと入れた。
夜色の炎は二人を灼かず。その輝きは彼らを煌々と照らす。
黄昏色の灯火を頭上に掲げ──
約束の歌を、約束の名を、ネイトは詠んだ。
〝endeYears besti ......〟
──ende Wershe pridia ......
Ive lefArmalaspha──La Selah shemaria sm neight
終奏 『君の望みの喜びよ ─イヴは夜明けに微笑んで─』
1
「ねえ......エイダ......あれ何かな」
一─B。自分たちの教室に避難して息を潜めていると、サージェスがこっそりと耳打ちしてきた。キマイラに見つからぬよう閉めたままのカーテンをわずかに開け、彼女はそこから外を覗いていた。
「なにって、何もないじゃない」
場所を交換してもらい外を眺めるものの、真っ暗な空が果てなく広がっているだけだ。
「違う。あっちの方向よ」
サージェスの指は校庭の方角を指している。その方向を見つめること数秒。空が蠢いた。
「え......」
ようやく、クラスメイトの言ったことが分かりかけてきた。
空じゃない。空かと思っていたのは、深い青紫色をした炎。校庭に燃えさかる夜色の炎が頭上に向けて収束していく。大渦の如く炎が一点に流れ込み集中し、いつしかそこに薄暗く輝く名詠門が生まれていた。あまりに大きすぎるせいで逆に、指摘されるまで気づかなかった。
なにあの、わけわかんない名詠門、巨大すぎる。あんな派手な名詠門は見たことがない。
その門が輝きを増し、突如弾けた。
それは、名詠式が終わった証。
「............え?」
脱力し、ミオは屋上の手すりに寄りかかった。
名詠門が輝きを増す。名詠門完全開放の瞬間が自分にもはっきりと分かった。
第一音階名詠で招かれる真精は千差万別だが一つだけ共通点がある。あのヒドラや緑の疾竜を筆頭に、詠び出されるモノがとてつもなく大きいということだ。
あの名詠門から一体どんな巨大なモノが出てくるのか。まばたきも忘れ見つめていると、なんとその環は、そこから何も出ないうちに弾けてしまった。
まさか、失敗?
確認しようにも、校庭を照らしていた炎が消えてしまったから校庭は再び真っ暗だ。
「どうなったの......」
唯一視界に入ったのは、校庭の敷地に押し入ってきた巨大な影。理由は分からない。だがあの怪物が唐突に方向転換をして、校庭に足を踏み入れていた。
名詠に失敗してしまったならもう打つ手がない。今から再度第一音階名詠をする余裕もない。ヒドラが校庭の中央まで近づいていく。さっきまでネイトがいた場所。だが暗闇のせいで彼の姿は見えなかった。逃げられたかどうかすら定かでない。
むしろ見たくない。明かりが灯って、まだあの場所にネイトがいたら......
が。あまりに皮肉なタイミングで、消えかけていたネオンに電気が通った。学園が再度ライトアップ。再び、校庭が煌々と照らされる。
──おねがい。どうかいないで。逃げてて。
まぶたを灼く眩しさの中、それでもその場所を見据え──立ち眩みが起きた。
......うそでしょ。
彼はその場に立ったままだった。しかもその隣に、ホールで休んでいるはずの友人の姿まで。
「ネイト、クルル逃げてぇええっっっ!」
屋上から声を張り上げる。聞こえるはずがない。だがそれでも叫ばずにはいられなかった。このままでは三人ともあの怪物に踏みつぶされて......え......さんにん?
視力は悪い方ではない。紺色のローブを羽織った少年。これはネイト。白いドレスの少女、こちらはクルーエル。あと一人、ネイトたちのいる場所に誰かが立っていた。
全身黒い布で覆ったような真っ黒の人。あれは、誰?
いや。まさか。
てっきり夜の真精は大きいものだとばかり思っていたが、あれこそが──
それは、名詠門からは現れなかった。
名詠門が弾けた瞬間、ネイトの影の内部から浮き上がってきたのだ。
立体的な影がゆっくりと背を伸ばす。それでも明らかに小さい。自分と同じ、いやそれよりも低い身長しかない。身長。すなわち、体長でなければ体高でもない。
目の前のそれは人間の形状をしていたからだ。
漆黒の、だが透明感のある身体。影を纏った人間。しかもそのフォルムはどこか女性的だった。少女が真っ黒の塗料を頭からかぶったような──一言で表すなら、おそらくそう喩えるのが一番近い。
が、それをじっと眺める間もなく、隣の少年が不意にぐらりとくずおれた。
「──ネイトっ?」
仰向けに倒れる寸前の少年。あわやというところで、クルーエルは彼を右肩で支えた。いくら呼んでも返事がない。目をつむったまま。意識がない? ヒドラがすぐそこまで近づいてきているのに、こんなときに──
『張りつめてた気持ちが緩んじゃったのね』
振り返る。いつの間にか、自分たちのすぐそばに夜の真精が立っていた。
『でも、よく頑張ったと褒めてあげるべきかしら』
手の形をした影。指先の形をした影がそっと少年の頰を撫でる。
「......あなたが夜の真精?」
『そうなるわね。クルーエルさん』
唐突に呼ばれた自分の名にぎょっとした。神鳥のように自分が詠び出したものならばともかく、なんで夜の真精がわたしの名前なんて知ってるの。
『ふふ、あの子に教えてもらったの』
真精が顔を上に向ける。その方向──夜の星空に同化するように、何か巨大なものが頭上に羽ばたいていた。巨大きい。目測だけだが、大きさならばあのヒドラに匹敵するくらいあるかもしれない。
学園の照明に照らされて浮き上がるシルエットは......これは竜?
地に亀裂を生じさせながらヒドラが加速。それを横目に捉えながら夜の真精が空を仰ぐ。
『アーマ、あいつはわたしが相手する。あなたはクルーエルさんとネイトを避難させてあげて』
──承知──
パイプオルガンの最も低い鍵盤を鳴らしたような重低音。本当に声なのか疑いたくなるほどの振動が頭の上にのしかかってくる。いや、だがそれよりも。
アーマ? 自分の知る名前ではないか。
......まさか、この頭上の竜は......
『トカゲではないと言っただろう。とはいえ悠長に話してる暇はないな。連中が来るぞ』
自分たちのすぐ背後に漆黒の竜が降り立つ。その風圧でふわりと髪がゆれる。
『イヴ、そちらは任せる。小娘はネイトを抱えてさっさと乗れ』
「クルーエルさん──」
一瞬、背後に人がいるかと錯覚した。黎明の神鳥やアーマのような、どこか朧気な声じゃない。背にかかる声は、どこにでもいる人間の少女のそれだった。
「本当にありがとう。ネイト一人じゃとてもわたしを詠ぶことは出来なかった。あなたがいてくれたからこそわたしがここにいる。ネイトに代わって感謝します。出来ることなら、これからもこの子を助けてあげて」
この子? それって普通の言い方じゃない気がする。まるで我が子に対して言うような言葉だ。真精が人間に対して使う単語としては不適当ではなかろうか。
それを尋ねようか迷う間もなく、クルーエルの身体が浮いた。何の警告もなく、夜色の竜が自分たちを前肢に抱えて翼を羽ばたかせる。
「ちょ、ちょっと、もっと丁寧に運んでよ!」
ネイトを背負ったままアーマの前肢に摑まる。速度もそうだがあまりに不安定な足場のため、少しでも気を抜けば即座に振り落とされてしまいそうだ。それに何より、この竜は飛び方がぎこちない。慣れてないというか、自分をここへ連れてきた神鳥と比べたら明らかに下手すぎる。
『飛ぶのは久方ぶりなのでな』
悪びれた様子もないままふてぶてしく言ってくる相手。この尊大ぶった言い方に確信する。もはや疑いない。この竜は自分がよく知っている名詠生物だ。
「......この巨大飛びトカゲ」
『なにか言ったか』
いつもと変わらず聞き返してくる相手に、クルーエルは思い切り首を横に振ってみせた。
「何も。そんなことより、そんなに大きいなら最初から出てきなさいよ」
『我と〈始まりの女〉は連奏型名詠。片翼が詠び出されぬ限り、もう片翼もまた出ることができない』
初めて聞く特殊なタイプ。だがそれに目を瞑ってもなお、訊かなくてはならないことがあった。
「......あの真精って何者なの?」
眼下で佇立したままの夜の真精。なんだか違う。何が違うかは分からない。だけど、さっきまでいた神鳥ともこの夜色トカゲとも違う気がする。仮に人間と真精の間に両者を隔てる一線があったとして、あの真精はその線上に立っているような。
「イヴ、って言ってたわよね。それがあの真精の名前?」
『あれに名前などない。イヴとは、自ら名を捨てたあの娘に対し、我が贈った名だ』
低空飛行から、漆黒の竜が急に高度を上げる。耳元で唸る風鳴りにもかかわらず、この真精の声は鮮明さを保っていた。
『イヴ──夜色名詠をこの世にもたらした〈始まりの女〉』
夜色名詠をこの世に? その返答に、背中に担ぐ少年の顔を見つめる。
「え。だってそれってネイトじゃないの?」
『お前も聞いていただろう。夜色名詠を構築したのはネイトではなく、その母親だと』
ますます意味が分からない。ネイトの母親は亡くなったはずで、彼女が夜色名詠をつくったというのは分かるが、なぜそれで夜の真精の名前がイヴなのか。
それを尋ねる前に、相手はさっさと自分の用件を言ってきた。
『耳を塞いでいろ。やらなければならないことがある』
「......やらなければならないこと?」
『吼える』
あまりに簡潔な一言が全身を怖気立たせる。
吼えるって、ちょ、ちょっと待ってよ。わたし左手怪我してて右手はネイト抱えてるのよ。耳なんか塞げないからできればちょっと控えめに──
願いむなしく、漆黒の竜が放った咆吼にクルーエルは一瞬意識が遠くなった。
『O shesairaqersonieLaspha──Armadeus。孤独な夜闇の娘に惹かれ、その正統な後継に誘われた。夜の名詠に従い、而して我はそれを世界に知らしめそう!』
その声は学園だけではなく、世界の最端まで拡張した。
上空に羽ばたく竜は追わず、ヒドラは地上に残っている小さな真精へと照準を合わせた。
あの巨大な竜からも危険な匂いがする。だが本当にまずいのは、この眼前に佇立する小さな真精。
この真精からこそ、自分を脅かす何かが伝わってくる。
ヒドラが吐き出す灼熱の吐息が校庭を再び火の海に変えた。夜の真精が今までいた場所を完膚無きまでに焼き尽くす。
跡形無く、直前まで立っていた場所から夜の真精が消失した。あっけない、そうヒドラが判断するより先。
「悪いけどこの学校、わたしにも大切な場所なの」
その声はヒドラの頭上から聞こえてきた。声の方向を頼りに、敵を探そうと五つの首が周囲を睨めまわす。
「好き勝手やってくれたお礼、させてもらうわよ」
やがて。十の瞳が校庭の端で釘付けになった。地上から優に二十メートルはある高度。
校庭に設けられた照明用の鉄柱。漆黒の真精はその真上に屹立していた。







「なあミラー、俺たちは夢でも見てるのか」
頰をつたう汗を拭うことも忘れ、ゼッセルは頭上の竜を見上げ続けていた。夜色の帳の中、虚空を羽ばたく漆黒の竜。あまりに巨大で雄々しい。名詠生物なのは間違いないはずだが、あれは一体何色の真精なんだ。
「......昔のことを思い出したよ。ひどく昔のことだけどな」
眼鏡をかけた教師がため息をつく。
「偶然だな。俺もだ」
夜色の真精に瞬きすら忘れ、ゼッセルもまた吐息をこぼした。
記憶の最奥で半ば澱みかけたものが、十年以上も眠っていた言葉がよみがえる。
──わたしがしたいのは、夜色名詠です──
エルファンド学舎時代。クラスでただ一人、誰とも馴染まず教室の端に座っていた少女がいた。自分が赤色名詠に、ミラーが青色名詠に、エンネが白色名詠に打ち込んでいる中、ただ一人存在し得ぬ色を求めて奮闘していた少女。
だけど、まさかな。第一、もしあいつが夜色名詠とやらを完成させていたのなら、とっくにその名前が世界中に響き渡っていてもいいはずだ。それこそあの虹色名詠士のように。
そして。
漆黒の竜が吼えたのはその時だった。
『O shesairaqersonieLaspha─Armadeus。孤独な夜闇の娘に惹かれ、その正統な後継に誘われた。夜の名詠に従い、而して我はそれを世界に知らしめそう!』
夜の名詠に従い──
孤独な夜闇の娘──
まさか......
「......はっ、あはははっっ、なんてこった!」
額に手をあて、ゼッセルは大声で笑いをあげた。目の端からなにかが零れてくる。
自嘲しかない。教室中から小馬鹿にされていた少女。教師から学校から疎外されていた少女。それなのに、この学校はその彼女の手によって守られようとしているというのか。
称えるのか、あるいは悔やむのか。自分は一体何をすればいい。
俺たちはなんて──
「わたし、なんて愚かだったのかしら」
「......ジェシカ先生?」
校舎内で生徒を誘導していたはずの、エルファンド時代の恩師。
「あなたが......正しかったのね。イブマリー」
涙を拭うことすらせず、その教師長はただ一途にかつての教え子の名を呼び続けた。







「な、なんでいきなり怒鳴るのよ!」
耳鳴りの残る鼓膜に手をあてクルーエルも怒鳴り返した。自分からすればとんだ災難だ。
『自分の死期を知っていた少女。それだけなら世界のどこにでも転がっている話だ。だが大抵の人間がそれを受け入れるところ、娘はその運命を嫌った。何もしないまま消えていくわたしは、それではなんのために存在するのか──少女は何か、この世界に自分がいたという証を残そうとした』
さきの咆吼と比べれば無音にも等しいほど抑えた声で、アーマは独り言のように言ってきた。
『少女が目を付けたのは名詠式だった。何か新しいことをしてやる、そう考えた娘はたった独り研究に身を削っていった。自分なりの新しい名詠式を半分ほど仕上げた頃、だが少女の身体は既に病魔に蝕まれていた。間に合うかどうか不安に怯える中、少女は一人の少年と出会う。その出会いが、文字通り少女の運命を変えた』
最もふさわしい言葉を選ぶ間の迷い。そう思わせる余白をあけて続けてくる。
『出会うなり、少年は娘に勝負を申し込んだ。挑戦といった方が適切かな。どちらが早く自分の名詠式を習得するかという賭けをな』
「それが、どうして運命を変えたなんてなるの」
『少女は満たされたのだ。今まで孤独でしかなかった自分。死期を知っていたがゆえ他人と交わらずにいた自分。そんな自分を認めてくれる相手が見つかったのだ。自分を認めてくれる者、すなわち自分を覚えていてくれる者の存在。ならばもはや、自分の存在証明のために名詠式を創り出す必要はない。これ以降、少女の気持ちは揺れ始めた』
その気持ちはクルーエルにも痛いほど分かった。その少女に対し親身になれる理由も、自分で理解できる。
自身が数日前、同じ経験をしたからだ。
──クルーエルさんは絶対、名詠士が似合うと思います──
認めてくれる人がいるだけで、どれだけ楽になれるか。
『彼がしてくれたように、自分も他人の孤独を癒やす存在でありたい。少女が行き着いた結論はそれだった。世界を回って、同じような苦しみを持つ者に声をかけたい。だがそうしたくても、娘自身の命はもう幾ばくも残っていなかった。どちらが先に名詠式を習得するかという少年との約束を守りたいのも本音。しかしどうやっても両方同時にはできない。だから──』
饒舌家の、三日月型の瞳が微かに揺れる。
『両方を成し遂げるために、少女は名を捨てた』
悔恨。迷い。羨望。慟哭。その瞳に一体どれだけの感情が交ざっているか、間近で見ているにもかかわらずクルーエルには分からなかった。
『名詠とは自分の望むモノを詠ぶ。ならば、死後の自分を詠び出させることもできるのではないかと娘は考えた。自分が構築した名詠式の、自らがその支配者──すなわち真精となることによってだ』
そんなこと、本当に可能なのだろうか。すぐに信じられるようなことじゃない。
──なのに、なぜだろう。
そう告げてくる相手の瞳には、それを嫌でも信じさせるような、......いえ、信じなくてはならないような気持ちにさせる、冷たくて綺麗な悲しさがあった。
「それ、現実にあった話なの......」
『さあどうだろうな。なんということもない、ただのお伽話かもしれんな。......だが』
竜は、その口元を微かにやわらげた。人間ほど器用な表情ではない。だがクルーエルには分かった。確かにそれは微笑だった。
『今の咆吼はあの娘への、我からの餞別だ』
あの娘とは。そう聞く前に、クルーエルは今度こそ閉口した。
『さて今からキマイラ共を一掃するぞ。摑まっていろ』
今から? わたしたちを乗せて?
冗談じゃない。あなたの不器用な飛行はただ飛んでるだけで怖いのに、これから空中戦だなんて。それこそ命がいくつあっても足りるわけがないじゃないの。
『我がただのトカゲではないことを証明する良い機会ではないか?』
「......しっかり聞こえてたんじゃない。この夜色羽つき巨大飛びトカゲ......」
にやりと。前の微笑とは違う、明らかに意地悪げな笑みを真精は浮かべてきた。
さてと......
鉄柱の上から夜色の真精は学園を見渡した。学園全方位で上がる火の手。校舎や他の建物も手当たり次第破壊されてしまっている。頭上を覆うキマイラもまだ相当数が残っているらしい。よくもまあここまで暴れたものだ。
──この学校を守ってください。
それが名詠者の願い。真精として詠ばれたからにはその責務を果たさねばなるまい。だがそれに加えてもう一つ。個人的な感情を交えるならば、このヒドラはもう一つ許されざる罪を犯した。
そう。あいつが腕を折ったのはお前のせいだ。
「十数年ぶりの再会だっていうのに、それを汚してくれた罪は重いわよ」
〈始まりの女〉が鉄柱を蹴り宙に浮く。
怒りの声に、だが微かに喜びの感情を含ませて。
2
一対数十。たった一体を相手に、百に届くほどの数だったキマイラがその数を半分以下に減らしていた。数を確認しようと思った矢先、新たに一匹撃墜されて地上に落ちてくる。あるものは尾に打ち落とされ、あるいはその翼に薙ぎ払われて。圧倒的な数差がまるでハンデになっていなかった。
「なんなの......あれは」
たった一体の闖入者。夜闇色の体表を持った竜。あのヒドラを抜かすならば、これだけの巨軀をした名詠生物をエンネは今まで見たことがない。真精? だが一体何色の。
「──間に合ったみたいね」
ぞっとするほど近く。その声は自分の真後ろから聞こえた。自分とカインツのちょうど中間。自分たちの影が重なり合っている場所。
声が出ない。振り返ったそこに、人間大の『影』が佇んでいた。体中に黒いペンキを塗ったなどというレベルではない。透明感のある、光沢を放つ夜色。そしてその形状は、十数歳の少女のそれを思わせるシルエット。
真精? 第二音階名詠である黄の小型精命や赤の小型精命を超える、第一音階でのみ詠び出せる名詠生物。大概がドラゴンなど巨大な生物だが、こうして人の姿をした真精は初めて見る。
「エンネ」
にわかに名詠生物が呼んだ自分の名に、反射的に身体が強ばった。
「ここももう危ない。知ってるでしょ。真精同士の戦いは周囲を焦土に変えることだってある。いつ飛び火するかわからないから一年生校舎の方に避難してなさい」
ドクン、と胸が一際大きく高鳴った。知ってるでしょ──この台詞はどういうことだろう。この真精は、まるでわたしを知っているかのような言い方をしてくる。
初めて見る相手。そう、わたしはこの真精と初めて会うはず。......だけど、なんでこんなに胸騒ぎがするの。
「ヒドラはわたしとカインツで引き受ける。一年生校舎で仲良し二人組がそろって疲れてるようだから、向こうを加勢してあげて」
いつどこから取り出したのか、少女の形をした真精が革袋を放り投げてきた。受け取ったはずみに、革袋がじゃらっという硬質の音を響かせる。中身は触媒用の宝石?
「さ、行きなさい」
「で、でも──」
その真精が、まるで嘆息するかのように腕を組んでみせた。
「エンネ・レビネシア。心配性なのは直ってないわね」
「えっ?」
──orbie clar,dremre :Goetia :Focalor──
途端、エンネの足下に伸びる影が膨らんだ。濡れ羽色の翼を持つグリフォンが浮かび上がる。これは、わたしの影を触媒に?
「彼女を連れていって。到着次第、あなたもその場で加勢してあげて」
『御心のままに』
頭に直接響くような重低音。頷き、グリフォンが翼を羽ばたかせる。
「な──なんで真精がわたしのフルネー......」
言葉尻はグリフォンの翼音にかき消されてしまった。
一体、あなた誰なの。返事が返ってくるまでの一呼吸分の沈黙。
真精の、影で出来た身体には目も口も無い。表情など読み取れない。だが不思議と、この真精が自分に向かってウインクしたのが分かった。
「同級生だから、よ」
......なにそれ。
グリフォンが自分を乗せて地を離れてしまった。一瞬まばたきした隙に、もう高度が三階建ての建造物に並んでいた。地上に残るカインツと謎の真精は既に小指ほどの大きさになってしまっている。
「ねえ......あなた本当に誰なの」
ぽつりと、自分にしか聞こえることのない呟きがあふれた。叫んだところで聞こえるはずもない。置いてけぼりをくらったような空虚感だけが胸に残る。
わたしが昔会ったことあるとしたら──
昔って、どれほど昔なのか。教員になってからでないことは確か。ならばそれよりもさらに前。わたしが、まだ学生の時?
記憶を遡る。学生の頃自分の夢は有翼馬を詠ぶことだった。ゼッセルもミラーも、今や名詠を生徒に教える立場だ。彼らもまた、ミドルスクール時代からの目標だった名詠を成功させている。カインツに至っては誰もが認める虹色名詠士にまで上り詰めた。
多くの者が、自分の夢を叶えている。誰もが認める名詠。誰からも受け入れられる名詠。誰にも笑われない、目標。
──そういえば。それとまるで反対の子がいなかったっけ。
いつも教室の隅に座っていた少女。誰にも認められず一人だった少女が。
でも名前が出てこない。名前はなんといったか。自分の夢に向かっていたあの子。名前は出てこない。なのに彼女が目指していた名詠だけは、今も頭の中に色褪せぬまま残っている。
夜色名詠。自分が乗せられている名詠生物の色は頭上の夜空と同じもの。そういえば、さっき自分とカインツを助けてくれた謎の騎士も同じ色を──
「うそでしょ......あなたなの、ねえあなたなの──────」
なんで、なんでよ!
空中から呼びかけようとしても、名前だけが出てこなかった。







夜色名詠。しかもこれは第一音階、夜の真精?
目の前の相手が何であるか、カインツは本能的に悟った。誰が詠び出したかなんてどうでもいい。呼吸する毎に奔る鈍痛に奥歯を嚙みしめながら突然の来訪者を見つめる。
これは、偶然なのか......
目の前の真精の声音は、自分の記憶に残るとある少女の声とまるで同じだった。声だけではない。その背丈。体型。全てが彼女を想わせる。だけど、そんなことがあるなんて。
渇ききった口内にはもはや一滴の水分すらも無い。だが唾を飲みこむこともできなかった。いつしか左手の痛みも周囲のざわめきも消えている。
どこか別世界に入り込んだような奇妙な浮遊感すらある。
さながら、自分と眼前の真精だけの世界。
「手はだいじょうぶ? 骨折してるんでしょ」
あまりに唐突に、影で出来ているはずのその真精が自分の左手に触れてきた。慣れ慣れしいとは思わなかった。ずっと昔、こうしたかけ合いをした相手が一人だけいたからだ。
たった一人。つまるところ、思い当たるのは一人しかいない。全てがあの時と同じ。言葉にならない懐かしさが心の隙間を埋めていく。十数年分の亀裂を。
「無茶したわね。あなたらしくない」
影で出来ているはずの指が自分の左手をなぞっていく。その指にはぬくもりがあった。目の前に起きていること全てを受け入れるなんて出来るわけがない。だけど、この温かみだけは拒否できない。
「......キミなのか」
混沌とした感情の中に、自分でもわからない何かが生まれていく。わずかな恐怖と畏敬。懐かしさと、愛おしみ。理解できそうにないその思いを、カインツは全て言葉にした。たった一言に全てを込めて。
──イブマリー。
「約束は守ったわよ」
漆黒の身体はどちらが背中なのかすら朧気だ。にもかかわらず、カインツには確かに見えた。夜色のヴェールを纏うその内側、少女がこちらを向いて悪戯っぽく微笑んでいる。
「驚いた?」
どこまでも淡白な言いようが胸に響いた。
......キミは、変わってないね。
あの時のままだ。自分の知っている少女が、永い時を経て自分の前にいる。
全てを表すはずの虹色にない、ただ一つの色。自分の唯一人のライバルであり、認めた友人であり、それ以上の何かかもしれない相手。
まぶたを半分ほど降ろし、カインツは首を横にふった。
「キミが非常識なことをするのは慣れてるよ」
離れた場所から地鳴りが近づいてくる。
説明はいらないの? 彼女が試すように言う。
「キミが約束を守ってくれた。それで十分さ......」
少女に背を向けた。見られないように。悟られないように。目元をぬぐう。
「でも、わたしはまだあなたの名詠を見てないわ」
徐々に鮮明さを帯びてくるヒドラの姿へと、夜の真精はきびすを返した。
「あいつ案外手強いみたい。後方支援お願いできるかしら、虹色名詠士さん?」
答えるまでもない。一度だけ頷き、カインツはコートをひるがえした。







『あらかた片づいたな』
屋上に降り立ったアーマが翼をたたむ。あらかたというより、掃討し尽くしたと言った方が適切だった。頭上を見上げて映るのは青白い月光りと星の瞬きだけ。
「......もう絶対、あなたの飛行訓練には付きあわないからね」
襲い来るキマイラを躱すための急降下に急上昇、急ブレーキ。何度この夜色トカゲが宙返りをしたか、十を超えたあたりから記憶が定かではない。そのぶんクルーエルからすれば寿命が縮む思いだった。気を失ったままだったネイトがうらやましい。
「ねえ、あっちの方加勢にいかないと」
『〈始まりの女〉の方か?』
ヒドラの相手はむしろこの竜の方が適役ではないだろうか。体軀も互角、力勝負でも負けないだろう。なのになぜ少女の外見をした真精がわざわざあの怪物の相手を引き受けたのか。それが腑に落ちない。
『暖かく安全な場所からあえて抜け出ることは容易ではない』
けれど相変わらず、この名詠生物の口ぶりは要領を得ない。
『それを、あの二人は殻から抜け出した。だから任しただけのことだ。案ずることもない』
「二人って、誰と誰のこと?」
『少女と、約束の少年。あの二人はそれに十数年を費やしたが、まあ仕方あるまい』
だめだこれは。このトカゲは説明するという以前に自分の世界に入ってしまっている。
アーマから顔を逸らし、クルーエルはネイトを屋上に寝かせてやることにした。
『お前にもいつか分かるだろうさ』
意味ありげな台詞にクルーエルはふり向いた。同時、まぶたに入った光の筋に目を灼かれた。いつの間にか東の空がうっすらと明るくなり出している。
──夜明けが近づいていた。
3
〈始まりの女〉の放つ夜色の槍がヒドラを抉る。怒声を上げた青色の首が驟雨を思わせる量の水飛沫を頭上へと吐き出し、一瞬の後、それが巨大な氷塊へと変貌する。間髪入れず、黄の首が轟音を従える稲妻を。
身を捩って躱す少女に、赤の蛇が灼熱の吐息を浴びせる。
──『Ruguz』──
夜の真精に炎が被弾する直前、カインツの詠んだ水膜がそれをブロックした。
......まずいな。
見た限り両者の潜在的な力はほぼ互角。だが彼女の方が押されていた。
この差はおそらく、余波の被害に対する意識の違い。相手を倒すことだけを考えるヒドラ。一方で、夜色の少女の方は周囲に被害が及ばない程度に力を制限してしまっている。
それを見ている自分は、彼女に向けられた攻撃を迎撃するので手一杯。第一音階名詠で攻撃に打って出るだけの余裕はない。触媒もいよいよ底を突く。
「これが最後の名詠か......」
手のひらで転がる五つの宝石。五色、すべての名詠一回分ずつ。第二音階名詠で小型精命を五体、攻撃に向かわせる。あるいは今のようにヒドラの攻撃を防ぐ防御役に徹するか。最良の選択ではなく、消去法で削った結果、残ったものがこの二つしかなかった。
そう、このどちらかの選択しかない。
そのはずなのに、この嫌悪感はなんなんだ......?
五つの宝石を握ったまま拳が開こうとしない。どこかで、それを頑なに咎む自分がいる。
──わたしはまだ、あなたの名詠を見ていない──
彼女の言葉が脳裏で幾度も繰り返される。
あなたの名詠。あなたの......
ボクの名詠とは、なんだ?
いや......本当は解っている。自分でも知っている。五色全てをこなす名詠士。だがそれは、各一色をマスターした名詠士五人が集まってしまえば、それと大差無いことに。
それは「カインツ・アーウィンケルの名詠」と程遠いことに。
〝カインツ、もうちょっと頑張ろう。最後まで諦めちゃだめよ〟
この十数年でエンネは心根が強くなっていた。
〝今日のクルーエルさんの名詠をみて......すこしだけ考え直そうかなって。......クルーエルさんはあんなに楽しそうに。だから、僕もどうせやるなら名詠を楽しくやりたいなって。そうしながら名詠式を勉強していけたらなって〟
幼い名詠士は自分の生き方を見つめ直した。
夜色の少女だってそうだ。全てをかなぐり捨ててここにいる。
それに比べて自分はどうだ。過去から変わっていないということは、あの時からまるで進歩していないということではないか。
......殻に籠もっていたのはボクの方だったのか。
夕陽の場所、発表会でのスポットライト──変わっていない学校の景色を探す自分。
自分は変わっていないと自らを欺き続け、過去の記憶に縋っていた。
......もう、認めよう。自分が覚えているあの時は戻らない。受け入れよう。時間は決して逆巻かない。
「イブマリー、もうボクは、君の知っているカインツじゃないかもしれない」
過去の記憶を捨てる気はない。だがそれでも、自分もまた変わらなくてはならない。
あのヒドラが五色同時励起で出来ているというのなら自分にできないはずがない。あんな毒々しいだけのものは、ただ五色が出鱈目に混じっているだけだ。
あの日あの時。イブマリーと誓った虹色は、そんなものじゃない。
誓いはまだ果たされていない。ボクはまだ、キミに本当の虹色名詠を見せてない。
──ばか。気づくのが遅いわよ──
風に流され届く彼女の声。一瞬の弛みが致命傷となる、凍りつくほど張りつめたせめぎ合いの中。だがそれでも──未曾有の怪物を相手にしながらも、誓いの少女は自分だけを見つめてくれていた。
さあ、なにを詠ぶ。
自分が自分に語りかける。迷いは赦されない。悩めば二度と戻れない逡巡の迷宮だということは分かっていた。本当に出来るのか。失敗はしないのか。詠べたとして、それは本当にこの状況を打破できるのか。過去の自分が問い詰めてくる。
──だけど、もういいんだ......今までの自分を捨てる覚悟は出来ている。
目を閉じる。〈讃来歌〉はいらない。名詠するのは自分自身。自身を映しだす鏡。心の中で想うままを形に。それを詠び出せばいい。
──そう、本当に大切なことがようやく分かった。いや、思い出した。
右手に光の円環が生まれた。まぶたを閉じてなお、右手に生まれる輝きを瞳の中に感じる。虹色の煌めき。星光よりも煌々と、月影よりも清麗に。
宝石が手から零れ落ち、右手に虹色の何かが生まれるのを感じる。
「イブマリー!」
カインツの叫びに応え、〈始まりの女〉が右手の指を打ち鳴らす。
怪物の足下、ヒドラ自身の影が本体に向かって絡みつく。攻撃も送還の効果もない、ただの束縛。抜け出そうとして、だが五つの首全てが硬直する。今まで押していたのに、この呪縛が解けないからだ。
夜の真精と五つ首の怪物の力量は互角。相手の動きを封じるだけならば、周囲への余波を考えないのならば彼女の方も全力が出せる。
「......あるいはお前を詠び出したのは、ボクだったのかもしれないな」
何よりも最初。一番初めに、この学園であの〈孵石〉に触れたのは自分だった。
五色同時励起──五色がそれぞれ独立して存在するヒドラ。
それはすなわち、過去の自分が誇っていた偽りの「虹色」だ。
──だからこそ、もう迷わない。
眼前の怪物目がけ、カインツは右手に抱くものを投げ放った。
形の無い、ただの光の奔流。だがそれは七色に輝く光。色という色全てが等しく混じり合い融和した、五色の名詠とは次元を異にする色。
光流が槍の如くヒドラを貫く。そのまま槍はヒドラの身体を突き抜け、漆黒の夜へと飛んでいく。無限に広がる黒海に突き刺さった瞬間。
黒雲が裂け、新世界の誕生を想わせる輝きが生まれた。
世界中が光の洪水に包まれ、虹光はさながら福音の如く拡がり──
世界中の誰もがその眩しさにまぶたを閉じる。ただ光々しいからではない。誰もがその輝きを見て自然と悟ったからだ。この輝きは自分たちを祝福するものではない、と。
この光が真に照らすのは唯一人。
かつて一度として陽を浴びることの無かった少女のため。
「......ありがとう」
世界で唯一人、夜色の少女だけはいつまでもその光を見つめ続けていた。
4
「......終わったの」
ようやく収まった眩しさに、おずおずとクルーエルはまぶたを開けた。最初から存在していなかったかのように、あの怪物の姿が消えていた。
『うまく送り還したらしい。元々イレギュラーの形で生まれた存在だったらしいから、その後までは関知しないがな』
ひとまず去った危機に胸をなで下ろし、屋上の手すりを背もたれに眠る少年に目をやる。あれだけ大騒ぎしたというのに、その表情はこの上なく安らかだ。
「で、あなたもそろそろ小さくなりなさいよ。いい加減見上げるの疲れたわ」
『面倒だ。このままでもいいだろう』
「このままって......」
夜明けになれば応援部隊も来る。こんな巨大なのがいたら大騒ぎになってしまうのに。
『問題ない。我も人目に触れる前までには消えることにする』
消える? まさかあなた──
が、それに対する返事はなかった。口を閉じたままアーマが目を逸らす。その仕草がなによりも予感の正しさを痛感させる。......仕方ないなぁ。
「いいよ、それまでは一緒にいてあげる」
『......礼は言わんぞ』
どこか照れくさそうに、夜の真精はやはり顔を背けたままで言ってきた。
次第に、東の空の星光がそれよりも明るい陽に隠れていく。
一年生校舎の屋上。
何度も訪れたことがあるが、ここで夜を明かしたのは初めてだ。
『そろそろだな......』
自分の膝元に乗ったままトカゲが呟く。空が明るむよりだいぶ前から、この名詠生物は自分のよく知る大きさに戻っていた。
「お別れってこと?」
『真精は自分の役目を果たすと消える。それぐらいのルールには従わんとな』
その口ぶりに悟る。きっとこの名詠生物は、自分の意思でネイトの下から去ろうとしているんだ。
「何かネイトに伝えることある?」
『伝えたいことはない。言いたいことはあるにはあるが、それは言わないでおく』
「そう」
『案外あっさりしているな』
とぼけたように言ってくる相手に、こちらも曖昧な口調で返す。
「なんとなくわかっちゃったから」
『......まあ、そういうことだ』
決まり悪そうに、逃げるように相手が翼を羽ばたかせる。
「ねえ、夜色飛びトカゲ」
『......最後の最後までそれか』
翼の動きを止め、呼ばれた当人が振り向く。あきれかえった口調の相手に、クルーエルは片目をつむってみせた。
「その方が忘れないでしょ。最後まであなたのことトカゲ呼ばわりした女の子だもの」
一瞬の沈黙の後。
『随分と気の利いた発想だな。だが意味はないぞ』
翼をはためかせ、その身体が宙に浮く。
『そんなことしなくても......忘れるわけないだろう』
そう残し、夜色の名詠生物はどこかへ飛んでいった。







「もう少し話していたかったけどね」
四年生校舎の屋上に吹く風がコートを揺らす。
「久々の再会だから付きあってあげたのよ。毎日会ってたら話すことなんかないと思わない?」
最後までその調子か。コートの襟を立て、カインツはこっそりと盗み笑いした。
「それはそれで、話題は尽きないと思うんだけどね」
「どうかしらね」
地平線に浮かび上がってくる陽を見つめ、少女の形をした影が首をかしげる。
すこしだけ、沈黙があった。これで別れだというのにかける言葉が見つからない。
沈黙を破ったのは、誰かが翼を羽ばたかせる音だった。
「アーマ」
夜色のトカゲが、同じ色をした少女の肩にとまる。
「ありがとうね、色々と」
『大したことはしていないぞ。それよりそろそろ時間だ』
そう言って、まずトカゲの姿が消えた。
陽の光の中、影色の少女の姿も次第に薄くなっていく。
最後の最後だというのに。彼女の方は依然口を堅くつぐんだまま。なぜ彼女は......
──そうか。
カインツはようやくその意図に思い当たった。相手は待っているのだ。こちらから声をかけるのを。
......まったくキミは意地が悪い。だけどあの時もそうだったね。夕暮れの教室、二人で約束したとき、あの時はずっとボクの方から声をかけていたからね。
「ねえ、イブマリー」
無言で、夜色の少女が続きを促してくる。
「また会えるかな」
「いつか、ネイトが第一音階を使いこなせるくらい名詠が上達した時にね」
徐々に彼女の姿が朧気になっていく。陽の光に溶かされて、その存在が稀薄なものになっていく。両腕が消え、身体を支える下半身が消え、全身が消える最後の瞬間に。彼女はからかうように言ってきた。
「でも分からないわよ、今回のは運が良かっただけと思った方がいい。百回に一回が最初に来ただけなんだから。もしかしたらこれが最初で最後かもしれない」
新しい一日を告げる朝焼けが訪れる。
最後まで意地悪だね。そう言い返す前に、自分の目の前にいたはずの真精は完全に消失してしまっていた。
だが。その代わり。
「なんでかな。あなたには意地悪したくなるのよね」
影色の真精は消え、そこにはあの時のままの、教室で涙を流していた時の少女がいた。
背も声も、何一つあの時と変わらない少女。
自分が覚えているままの彼女。
たった一つ違うのは──今ここにいる彼女は微笑んでいるということだった。
「......イブマリー!」
「バイバイ、カインツ。......ごめんね最後まで言えなくて。わたしあなたのこと──」
夜明けを背に。少女が最後の言葉をつなごうとする。
言葉と共に、互いに抱擁を求めるかのように手を伸ばし──
だが──二人の体が重なることはなかった。
その前に、彼女は夜明けの光の粒子となって消えてしまっていたから。
「......構わないさ」
頭上を見上げカインツは口ずさんだ。構わない。さよならの挨拶なんていらない。
「きっとボクらは、またどこかで会えるだろうからね」
少女が立っていた場所を見つめたまま、虹色名詠士はいつまでもいつまでも。
歌詞も楽譜も無い、虹色の歌をハミングしていた。
どこか遠くにいる彼女に届くことを、願いつつ。

贈奏 『夜明け色の詠使い』
数日ぶりの学校だった。
窓の外から見える風景は今も、数日前に起きた出来事の爪痕が痛々しく残っている。
あの事件そのものはその翌日の朝、立ち入り禁止のはずの資料館の地下で、気を失っている生徒が見つかったことで解決した。
生徒も大方の事を吐かされたらしく、今はどこかの犯罪院に転送され正式な事情聴取を受けている。虹色名詠士を筆頭に学園長、それに各教師が奮闘したおかげで死者がいなかったのが不幸中の幸いだった。
「......でもまあ、あまり笑えない話よね」
死者も何も、けが人の中で一番死にそうだったのが自分だったのだから。
左肩に嫌というほど頑丈に巻かれた包帯。岩のように硬い結び目に右の指先で触れ、クルーエルは大きくため息をついた。......まったくもう。せっかく明日から夏休みが始まるのに、これじゃどこにも遊びに行けないじゃない。
学園そのものは夏の長期休暇の間に補修するらしい。そのおかげで少しだけ夏休みが早まることになった。今日が夏休み前の最後の登校日、終業式だ。
「クルーエルおはよ。早いね。朝練は?」
日焼けした少女がこちらの包帯を突ついてくる。
「......本気で言ってる?」
「ううん言ってみただけ」
けらけらと、おどけたようにエイダが逃げていく。驚いたことに彼女を含め他のクラスメイトは、さほどあの事件にショックを受けていなかった。まあほとんどの生徒は真っ先に一年生校舎に避難していたから、それもそうなのかもしれないが。
「クルル、おひさしぶりー」
「おはよミオ」
どうやら彼女の方も変わりないらしい。
「そうそう聞いてよ。あの時のドレス、あとで帰って見てみたら膝のところすごい大きな穴ができちゃってたの。まだ一回しか着てなかったのにぃ」
「わたしだってあのドレス血染めになっちゃったわよ。......見たい?」
「う......遠慮しとく」
なまじ想像してしまったらしくミオが顔をしかめる。だがそのやりとりもほどほどに、彼女は唐突にこちらの顔を覗き込んできた。
「──ところでさ、クルル」
「なに? あらたまって」
「あたしあの時屋上にいたんだけどさ、すごいよ。黎明の神鳥見ちゃったんだから!」
「......へえ。良かったじゃない」
出来る限り冷静に相槌を打ったものの、思わずクルーエルは顔を逸らしてしまった。
「ていうか聞いてよ。しかもさ、その時それが女の子乗せてたんだってば」
「すごいわね、わたしも見てみたかったな」
かすかに、少女の視線が凶悪になる。
「......その子、左肩に包帯してたんだけどな」
「包帯? 怪我でもしてたのかしらね」
「白いドレスを着て──」
「わたしのは血染めだったから白じゃないわよね」
「......なるほど」
音を立てて椅子から立ち上がったミオが、気味の悪い笑みを浮かべながら見下ろしてきた。
「クルーエルさん、あくまでシラを切りますか」
「何のこと?」
そこまでで限界だったらしい。途端クルーエルは制服ごと摑まれて揺さぶられた。
「ちょ、ちょっと。わたしこれでも怪我......」
「あああっ、もうっ、まどろっこしい! 全部白状しちゃいなさい! 何があったの!」
「ま、まあ、また暇な時にでもね」
隙を突き、クルーエルも自分の席から立ち上がった。教室の時計が正しいならあと十数分で終業式が始まる時間だ。
「あ、どこ逃げる気!」
「ちょっと用事。早くしないと終業式に間に合わないからね」
右手に紙製の手提げを携え、クルーエルは教室から抜け出した。
三階から四階へ。四階から上の階段にはバリケード代わりのロープが張られ、立ち入り禁止の立て札までついていた。屋上の手すりに破損した箇所があるため、直すまでは念のため生徒の立ち入りが禁止されている。
そのロープを潜り、校舎の屋上へ。屋上に通じる扉を開ける。開けた途端、昇りかけの太陽に瞳を奪われた。眩しいほどの日射しを手で覆い、ゆっくりとした歩調で屋上を進む。
「やっぱりここだったんだ」
「......クルーエルさん?」
まだ幼顔で背も低い少年が、どこか空ろなまなざしで頭上を見つめていた。
「鞄だけ置いてあったから、どうしたのかなって思ってたの」
「ちょっと......ぼうっとしたくなって」
「考えごと?」
「──そうかもしれないです」
再度、少年が頭上を仰ぎ見る。
「僕目覚まし時計使わないんです。アーマは寝ないから、毎日アーマにいつも起こしてもらってて......でも、昨日も一昨日も、いつもいるはずのアーマの姿がなくて......クルーエルさん......アーマはやっぱり、還っちゃったんですか」
どこまでも乾ききったかすれ声、であると同時に、その声音は泣いていた。
「そうね。キミが詠んだ真精とアーマは、両方とも還っていったわ」
頭上を見上げた姿勢のままネイトが瞳を閉じる。
真精はその役目を終えると消える。この幼い名詠士もそれは知っているはず。承知の上で選んだこと。だけどあまりにやりきれない。痛いほど、胸裂ける思いが伝わってくる。
「伝えたい事はない。言いたいことはあるが、今は言わない」
口早の口上に、目の前の少年は驚いたように目を開けた。
「......え?」
「キミ宛ての、あのトカゲからの伝言よ」
「──他にはなにか」
「ううん。それだけ」
頭上を舞う微風が、微動だにしないネイトの髪を揺らす。
「意味、わかる?」
心底困った表情で少年が首を横に振る。さて何と言えばいいやら。数瞬考えた末。答えを教える代わり、クルーエルは右手に持っていた紙袋を差し出すことにした。
「これあげる」
「え......ぼ、僕にですか?」
「ここにはキミしかいないよ」
含み笑いと一緒に、相変わらず遠慮がちな相手の手に無理やり紙袋を手渡した。
開けていいよ、視線でそう促す。少年が紙袋から取り出したのは外套だった。一見フード付きのコートのようで、だがもっとゆったりした作りの。
「これ──ローブですか!」
「プレゼント。キミのローブもだいぶ汚れちゃったみたいだからね」
哀愁がかった少年の瞳に、わずかながら輝きが戻ったようだった。
「ありがとうございます! ......それにしても、結構派手ですね」
白蒼色。クルーエルが選んだのは、夜明けの空を想わせる透き通った空色だった。今まで彼が着ていた紺と比べればその鮮やかさは比べるまでもない。
「いいのよこれくらいで」
いきなりこんな色を着るのは、さすがに彼にしてみれば恥ずかしいかもしれない。でも自分がこれを選んだのだってちゃんと理由がある。
「夜色名詠が元々暗い感じの色なんだから、さっぱりした色の服を着た方がコントラストが綺麗だと思うよ──いつかまた、あの夜色飛びトカゲを肩に乗せた時もね」
「......え?」
きょとんと、ローブを手に持ったままネイトが吐息をこぼす。手すりに背をあずけながら、クルーエルは指先でネイトの額にそっと触れてやった。
「言いたいことがあるけど、今は言わない。そういう伝言だったんでしょ。だったらもう一度あのトカゲをこっちに引っ張ってきて、言いたかったことを聞かなきゃ。そうじゃなきゃ気になって仕方ないもの」
「僕が、アーマを......もう一度......?」
ゆっくりと、まるで赤子のように少年が反復する。
「最初にあいつを詠んだのはキミのお母さんなんでしょ。今度はキミが、自分で詠び出さないとね」
言いたいことは山ほど、それこそ伝言にしきれないくらいある。
だから、それを言わせるためにも我をもう一度詠べ。
本当はもう一度会いたいだけなのだろうが、あのあまのじゃくにはそんなこと直接言えなかったのだろう。
その証拠に、あの夜色飛びトカゲは最後まで「さよなら」の類を一言も口にしなかった。
「──クルーエルさん、これ、着てみていいですか」
制服の上から夜明け色のローブを羽織る。初めて着るはずなのに、まるで何年も着こなしてきた服のような感触だった。生地も服の色合いも、なんて素敵な服なんだろう。
「うん。いいじゃない。似合ってる!」
満足げに言ってくれる少女に、もう一度礼を伝えようとした瞬間。
──お前にはまだ少し大きいがな──
それは、風のいたずらだろうか。
意地悪そうな、だが聞き覚えのある声が。
「......どうかしたの?」
「い、いえ、何でもないです」
慌ててネイトは手を振った。聞こえたのは自分だけらしい。
ふと。今度こそ本当に、涼やかな鐘の音が響いてきた。ホームルームが始まる時刻。今日の場合は終業式の始まりを報せる鐘だ。
「さ、行きましょネイト」
そう言って少女が階段の方へ歩いていく。頷き、ネイトもその後を追った。
そっか。そうだよね。
待ってて。
待っててね、アーマ。それに、母さん。
いつか、いつかきっと。
僕は二人と会えるよね。
「ネイト早く早く、終業式始まっちゃうよ!」
一足先に階段を下りた彼女が声を張り上げてくる。
「あ、はい!」
振り返ることなく、ネイトは屋上を駆け下りた。
振り返らなくていいよね。
だって、また絶対会えるんだから!
誰もいない屋上に。
──アーマ、どうしたの? そんなに目を尖らせちゃって──
──あの小娘め......──
──クルーエルさんがどうかした?──
──我は断じて、夜色飛びトカゲなどという名ではないというのに......──
幽かな、誰にも聞かれないささやき。
だが確かにその声は、夜明け色の風に乗って運ばれてきた。
あとがき
細やかでいいから、音色を啓でてみたい。そのような筆名を自分が名乗って、投稿時代を含めればもう四年近くになるでしょうか。今まで数多くの物語を考えてきたつもりですが、その中でもとりわけ、今回のような内容の作品で皆様とお会いすることが出来──改めて、名前には意味が、そして不思議な力があるものだと感じました。
初めまして、細音啓と申します。このたびは拙作『イヴは夜明けに微笑んで』を手にとって頂き、本当にありがとうございました。
つまらなかった、面白かった。物足りなかった、満足した。読んでくださった方の数だけ、様々なご感想があるかと思います。
思うに、本と音楽。
これほど人の好みの分かれるものは他に無いのではないかと、細音は時々考えます。自分の好きな音楽が友人には理解されなかったり、友人の勧める本が自分には理解できなかったり。たぶん、誰もがそれを一度は経験したことがあるのではないでしょうか。(ひねくれ者の細音は、それが日常茶飯事という悲しい日々)
誰もが褒め称える万能の音楽は無く、万能の本も無い。しかしだからこそ、人の数だけ音楽も本もまた、生まれてくる。そんな気がします。
......そう、全ての人に受け入れられる作品なんてきっと無い。なぜなら人の感性は皆それぞれ違っていて、違っているからこそ素敵なのだから。
そう思いつつも、けれど──
この作品が、一人でも多くの方に喜んでもらえる作品になりますように──自分が心からそう願っていたのも、また偽りの無い事実です。この本を手にして良かった。そう思って頂けることだけを、今日この日までずっと、夢見てきました。
そしてその夢に向かう過程で、本当に多くの方々から力を貸して頂きました。
荒削りな拙作を残して頂いた、下読みの方。実際に最終選考まで通して頂いた富士見編集部の皆様。最終選考で佳作に選んで下さった、その審査委員の先生方。
受賞した今作を改稿するにあたり、本当にお世話になった担当のK様を始め、編集部の皆様。
それに、この上なく繊細で可憐なイラストで今作を飾ってくださった竹岡美穂さま。
また、それを応援してくれた人達も、本当に沢山。
学生時代の友人、知人。この本の刊行前から細音のブログやホームページに足を運んでくれた方々。本を楽しみにしてくれていた職場の方々。他にも、ネットという媒介を通じて知り合えた、日本全国にわたる素敵な友人も大勢いました。
ただ一人『イヴは夜明けに微笑んで』を投稿前に読み、貴重な感想をくれた「k.k」。さらには、創作小説関係のサイトでも、主に二つのサイトでお世話になりました。
自分が受賞したことに誰より驚いてくれた家族、親戚の方々。普段の食事、日常生活。一番下の土台でずっとずっと支えてくれていました。
すべての方へ──本当に、ありがとうございます。
そして何より、いまこれを読んで頂いているあなた。
この出会いに感謝します。すれ違って終わってしまう出会いではなく、またお会いできることを切に願っています。
さて、少し話題を変えて......
今作『イヴは夜明けに微笑んで』にはシリーズタイトルとして『黄昏色の詠使い』という題がつけられています。黄昏色の詠使い──これはネイトだと考える人、あるいはイブマリーと考える人もいらっしゃると思います。そしてどちらも、真実なのでしょう。
ネイトにはクルーエル、ミオ、学校のクラスメイト。それに、アーマ。
イブマリーにはカインツ、そして当時の学友たち。
それぞれ仲間があって、それぞれの物語がある。それらは全て繫がって、いつか一つの物語になる。そんなことを夢見つつ、今自分に出来ることをやっていこうかなと。
そして、この物語がたどる道の先に、願わくば......
たった一人の人物でも
たった一つの〈讃来歌〉でも
たった一つの場面でも
あなたの心に残るものが、ありますように。
それでは、また近いうちにお会いできることを願いつつ──
今回は拙作を手にとって頂き、本当にありがとうございました。
十一月 某日 冬の風の吹き始めた、とある日の夜に 細音 啓

解説
富士見ファンタジア文庫編集部
成立不可能だといわれる夜色名詠の確立と、五色名詠すべてのマスター。
誰もが絵空事だと笑う夢を互いに叶える約束を交わし、少女・イブマリーと少年・カインツは別々の道を歩き出す。そして時は流れ、イブマリーの意志を継ぐネイトは、名詠学校で赤色名詠を学ぶクルーエルと出逢う──。
第十八回ファンタジア長編小説大賞佳作受賞作『黄昏色の詠使い イヴは夜明けに微笑んで』、いかがでしたか? 過去の約束から始まるこの物語は、色々な願いと不安が込められています。
自分の生きた証を残そうとする少女や、自分の道を模索する少年──メインの四人を通じて語られるのは、夢を持ち共有することの嬉しさ、楽しさ。そして夢に向かって進む現実の困難です。
それは現実世界に生きる私たちにも、身近な感情です。この作品はファンタジー世界でありながら、日常の私たちと同じように悩み不安を感じながら生きているネイトたちが、リアルに感じられるのです。
しかし、ネイトたちは困難にめげず、名詠式という〝夢〟を支えに、ひたむきに前に進んでいきます。
名詠式──この作品の最大の特徴かつ、魅力のひとつでもある召喚術。これは呼び出したいものと同じ色の触媒を介して、その名前を讃美し詠い、招き寄せる技術です。審査委員の先生方にも評価された名詠式ですが、実は出版にあたり全て著者による造語に書き換える作業を敢行。なみなみならぬ拘りで描かれた名詠シーンは、よりネイトたちの願いを映し出し、儚さと煌びやかな美しさをあわせもつ仕上がりになりました。
自分の選択を信じて進むネイトたちに共感し、名詠式の華やかさに魅了される──これこそが本作の、ひいては著者・細音啓の魅力なのです。胸に迫る不思議な切なさで、ちょっと他にはない素敵な読後感を味わえると、確信しています。
また、この作品を1冊にまとめるにあたり、イラストレーター・竹岡美穂の存在は必要不可欠なものでした。作品世界の透明な雰囲気と、名詠式の〝詠〟がイラストの形になっていく過程は、担当編集としても非常にドキドキしたものです。
ネイトとクルーエルは、本作で出会い、読者のみなさんの前に登場することができました。著者の中には、まだまだ語りたい彼らのエピソードがぎっしり詰まっているようです。もしも、この物語がお気に召したら、ぜひ左記まで感想のお便りを! それが何より著者の力になり、物語世界が広がってゆく原動力になるのですから。




黄昏色の詠使い
奏でる少女の道行きは
細音 啓

富士見ファンタジア文庫
本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。
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本作品は縦書きでレイアウトされています。
また、ご覧になるリーディングシステムにより、表示の差が認められることがあります。
口絵・本文イラスト 竹岡美穂


夢奏 『願わくば、あの日あの時をもう一度』
目の前の世界全てが、真っ赤な炎に炙られていた。
にこやかな笑い声が響く競演会。そのはずが──あの日学園で、笑い声は一瞬にして悲鳴にとって代わられた。
悪夢。そう、現実には到底起こりえないような恐怖の具現だった。
校舎、校庭、広場。目に映る全ての場所で燃え上がる残酷な炎。強風に煽られ火の粉が舞い、それがさらに新たな火種を芽吹かせる。
生徒の絶え間なき悲鳴、罵声、泣き声。それに混じる教師の慌ただしい指令。
混乱が混乱を生み、恐怖が恐怖を肥大化させる。
校舎の陰から現れた三首の怪物に生徒が傷つく。それを助けようとして、今度は教師が傷を負う。犠牲の連鎖。痛みの螺旋。
......わたしは、それから目を背けて逃げていた。
悪いことはしていない。避難しろという指示に従っていただけ。そうだ、あの時自分のクラスメイトがそうしたように、まだ名詠をろくに使えぬ生徒の一人として適切な行動をしただけだ。
〝本当にそうかしら?〟
不意に聞こえてくる誰かの声。いや、その声の正体は分かっている。
自分にとって最も身近な、それは他ならぬ自分自身の声だった。
一年前、もはや振り返らない過去として切り捨てた自分。
〝あなたはあの時本当に、自分にできることの全てをしていたかしら?〟
目の前、キマイラに怯え震えるクラスメイト。恐怖に歯の根があわない友人たち。
キマイラに襲われ傷ついた友人がいた。怪物の眼前、身体を張って生徒を助けようとする教師がいた。
「あたしは......まだ何の名詠もろくにできない」
キマイラに対抗できるような名詠は使えない。だから......
〝だから、逃げるのが当然だった?〟
......その通りだ。無力な名詠士、それが自分なのだから。
〝それは違う〟
どこまでも変わらぬ冷たい声で、幻聴は深々と告げてきた。幻聴、そうと分かっていてなお、その声を意識の外に追いやることはできなかった。
〝なぜなら、あなたは名詠士ではないのだから〟
あたしは名詠学校にいるじゃないか。
名詠士になりたくて、毎日こうして勉強もしてる。
〝あなたは名詠学校にいるだけ、名詠を学んだふりをしているだけ〟
フリなんかじゃない。あたしは......あたしは毎日ここで勉強して、試験も受けて、クラスメイトの子と一緒に頑張ってる。十分じゃないか。
〝十分? あの日あの時の自分の行動を、あなたは十分と言い切れるの?〟
......もういいじゃない。もうやめてよ。あれはもう、終わったことなんだから。
あたしは自分で納得してる。......それでいいじゃない。
〝終わっていない。なぜなら、あなたは自分に噓をついているから。自分にも、自分の教師にも噓をついている。クラスの友人にすら〟
......う、噓なんかじゃない。
あたしは別にそんなつもりじゃ──
〝そうね。噓は言っていないかもしれない。けれど真実も伝えていない。あなたが本当は、名詠を学ぶ生徒などではないということを〟
もういい。やめて、もうやめて。お願い......
あたしは、あたしはっ──
〝自分が、名詠学校の生徒という皮を被っただけの祓名──〟
「やめてぇぇえええっっっ!」
壮絶な悲鳴と共に、彼女はベッドから飛び起きた。
冷めやらぬ火照った身体、痛いほどに疼く胸の鼓動。胸を押さえたまま、カーテンから零れる光をしばし眺め──
......夢?
ようやく彼女は、それが自分自身の幻覚であることに気づいた。
「──平気?」
ふと、背中に浴びた声に振り向いた。
自分のベッドに隣り合う、もう一つのベッド。そのベッドから上半身だけを起こしているのは、とうに見慣れた顔の相手だった。
黒髪長身、細身の少女。自分と同じ学校に通う同級生にして、学生寮の同居者だ。
「ごめん、起こしちゃった?」
時計の針が告げる刻は朝の四時。あまりに早い。
「寝汗すごいよ。それに、さっきからうなされてるみたいだったし」
友人の指摘、でもそれは、言われるまでもなく自覚していることだった。寝間着から滴り落ちるほどの汗。ぞっとするほど身体を冷やす、嫌な類の汗だ。
「また、あの夢?」
「......うん」
ここ一週間、自分が苛まれ続けてきた悪夢。
──いや。夢ではなく、それはきっと自身の葛藤なのだろう。
「あんた、明後日から一人で平気?」
同居人であるこの友人は、明後日から部活の合宿でこの寮を留守にする。その間、また自分が悪い夢を見ないだろうか。そういう意味の問いなのだろう。
ここ一週間同じ夢を見て、明後日は見ないという自信はない。きっとまた繰り返す。あの日の記憶が、自分の中で霞んで消えるまで。
「平気よ。もう子供じゃないんだから」
せめて無理に笑ってみせた。下手な作り笑いだ、自分でそうと知っていても。
「でもさ、辛い時には誰かに相談しなよ。わたしだって構わないんだから」
「ううん、平気だって」
気丈を装う。友人に余計な心配はかけたくない。
「そう、それならいいんだ」
透き通るような黒く艶やかな髪を手で梳いて、眼前の友人が背を向ける。
「わたしもうちょい寝るね。おやすみ」
「......うん」
汗に濡れ冷えきった身体と寝間着。戸棚からタオルを取り出し汗を拭う。
が、その作業もそこそこに、背後からの視線を感じ振り向いた。
「どうしたの?」
寝ると言っていた彼女が、ベッドに座る格好のままこちらをじっと見つめていた。
「んとさ。これは友人としてちょっとしたアドバイス」
「なに?」
「──あんたに作り笑いは似合わないよ」
「......っ!」
反射的に言い返そうと口を開きかけ──
「んじゃ、おやすみね」
だがその前に、同居人の方は再び自分のベッドに潜り込んでしまった。
数十秒と経たず聞こえてくる、友人の安らかな寝息。
「作り笑い、か」
ぽつりと、姿見の前で友人の言葉を反芻した。
......そんなの、あたしだって知ってるよ。
序奏 『薄暮の二人』
夕焼けの薫り、とでも言うべきか。陽が落ちる寸前の時間は、周囲を舞う微風がどこか懐かしい匂いを運んでくる。
哀愁を誘うこの薫り。
──花か、香草か。あるいは、なんだろうな。
夕焼けの匂い。その正体を確かめる気はない。
突き止めてしまえば、その魅力はきっと半減してしまうに違いない。謎めいた神秘的な匂い。だからこそこうも想いが募る。
「ここは本当に怖い場所ですね」
木製の古椅子に座り直し、カインツ・アーウィンケルは微かに吐息をこぼした。
周囲を見回す。鈍色の高塀に囲まれた、広大な庭園がそこにはあった。
夕日を浴びて茜色に染まる噴水からは滾々と水が湧き、足下に咲き乱れる草花は盛夏を前にますます隆盛を誇っている。
「ここにいると、まるで十数年住み慣れた我が家に帰ったような気分になってしまいます」
つい気が緩んで、どうにも時間の経過を忘れてしまう。
「ふむ。まあお前も、たまには骨休めが必要ということだ」
自分の正面。それほど離れていない場所から聞こえてきた声に苦笑する。
骨休め──なるほど、言い得て妙だ。
「骨折って、どれくらいで治りましたっけ」
左手に巻いた包帯に触れながら首を傾げる。
「程度によるだろうな」
「......キマイラの爪を受け止めたくらいなら?」
一瞬、沈黙の幕が下りた。
一呼吸にしては長く、二呼吸にしては短い半端な余韻を残し──
「そもそもだな、お前は鍛え方が足りん」
風に運ばれる、嘆息にも似た相手の吐息。
「打撲程度ならともかく、それで腕を折るとはなんと無様な。いくら名詠に優れていても、身体の基礎部分がなっていなければ何の意味もない。私があれほど言っておいたのに」
「......先輩が鍛え過ぎなだけですよ」
苦笑を隠す気もなく、カインツは相手の方へと顔を持ち上げた。
この庭園、そして広大な敷地の領主たる人物へと。
「よく言われるよ。特に若い輩からな」
口調を変えぬまま返してくる相手。自分の知る限り、この男ほど外見の特徴ある人物はいないように思えた。
──赤銅色に日焼けした、夕日に晒される上半身。
色褪せた檜色のズボン。男が身につけた衣服はそれだけ。だが衣服の代わり、皮膚を内側から押し上げる筋繊維が何よりも頑丈な鎧を思わせる。
背中から肩胛骨にかけて盛り上がる広背筋。脂肪の欠片すら見あたらない腹直筋、常人の倍近い上腕筋。誰もが目を瞠る体格でありながら、しかしこの類の大男にありがちな鈍重感をまるで感じさせない。見る者によっては、その事実の方が驚愕に値する事だろう。
筋肉発達に特化した者にありがちな、あの重量感がまるでないのだ。
幾千の夜を自己の鍛錬に費やすことで、極限まで身体を研ぎ澄ませる。さながら刀鍛冶が鋭利な刃を研ぐように、研鑽という名の過程で脂肪はおろか余分な筋肉すら削ぎ落とした──一般人とは一線を画す次元にある肉体。
自らの骨格を識り、骨、内臓の負担まで考え尽くした上での、一グラムの齟齬すらなく完全なまでに計算しつくされた体形。
古代の彫像美術ですら及ばない、人体工学という分野の紛うことなき完成形。
「ところで、先輩の番ですよ」
「分かっている、〈女王〉を3Bへ」
短く告げるその間すら、彼は動きを止めていない。
両手で握る金属製の長鎗。
鈍色に輝くその武器を構え、振るう。
振るう。振るう。振るう。
その流れのまま、勢いを殺さず廻す。縦に廻し、横に廻し、そして薙ぐ。
風を「斬る」。庭園に吹く微風と明らかに質の異なる風鳴りが響く。
とある目的に沿って特化された、完全なる戦闘用鎗術。鳥の羽毛が舞うような軽捷感と同時、全てを刺し貫く寒気が並行して存在する。
それが美しいと感じられるのは、この男の動きがあまりに俊敏く、そして軽やかだからなのだろう。
なるほど、確かに彼ならばキマイラの爪を生身で受けても自分のようにはなるまい。
──まったく、敵わないなこの人には。
しばしその演舞を眺め、カインツは膝上に載せた金属盤へと目を向けた。言われるまま、盤面に配置された赤色の敵駒を移動。
しばしの黙考を挟み、自分の白駒を持ち上げる。
「では12Eへ〈騎士〉を。〈王〉まであと二歩ですね」
瞬間。鎗の勢いこそ変わらぬものの。
「む......」
わずかに、彼の鋭利な眼光が弱まった。
「では15のFに〈王〉を逃が......そうと思ったが」
短く切り揃えた亜麻色の髪を風になびかせながら、彼が視線だけをこちらに送る。
「一つ訊く。もしや12のFにはお前の〈弓兵〉がいないか?」
「ええ、三手前に移動させた奴ですね。しっかり〈王〉を狙ってますよ」
「では14のDに〈王〉を逃が......したかったが」
再び一呼吸分の間が空いた。
「もう一つ訊くが。もしや14のDにお前の〈道化〉が隠れてないか」

「あ、ばれてましたか?」
膝上の盤面を一瞥し、カインツはあえておどけてみせた。
「騎士で前面、弓兵で縦列を塞ぐ。王が逃げようとする場所には罠役の〈道化〉を配置。お前が唯一覚えている攻め方だからな。見え見えだ」
誇った様子もなく鎗を振るう彼。それにしてもよくぞまあ覚えているものだ。さすが、この遊戯を教えてもらった「先輩」なだけはある。
次の手を告げてくる。そう思わせる数秒の空隙を残し──
「が、それに捕らえられた私も人のことは言えんな。投了だ」
やおら、彼の声音が弱まった。
「ちょうど日課も終わった。頃合いといえば頃合いか」
その言葉の通り、いつしか彼の持つ長鎗も動きを止めていた。
相手が汗を拭うのを待ち、カインツは腰掛けていた椅子から立ち上がった。
「今日の先輩、心ここにあらずといった感じでしたが?」
「......ふむ」
鍛錬を始めてから今まで。
クラウス・ユン・ジルシュヴェッサー。この敷地の所有者は、ようやく自分に顔を向けてきた。
「いつもはボロ負けですからね。今日の先輩の手はどうにも精彩を欠いていたし」
「いや済まない。だが何も手を抜いていた訳ではないんだ」
それは百も承知。口に出すまでもなく無言で頷いてみせる。
「──考え事ですか」
彼にとって、鎗の鍛錬はもはや思考と別に存在する。だからこそ鍛錬の間にもこのような盤ゲームができるのだが、今日に限っては自分との盤上の差し合い以外にも、打ち合う相手がいたらしい。
「まあな」
隠す素振りもなく、彼が濁った吐息を絞り出す。
「この歳になってとも思うが、娘のことだよ」
「確か、十六歳になられたんですよね」
厳めしい外見と裏腹に、家族に対する彼の情は厚い。自分も暇さえあれば彼の家族自慢を聞かされている。
......けど、娘の話か。
今まで聞かされていたのは、彼の妻の話が主。娘の話はあまり耳にした記憶がない。いや、彼の方がそれを避けていたと思わせる節もあったほどだ。
「そういえば、娘についてはあまり話したことがなかったな」
長鎗に白布を巻きながら、彼がにわかに目を細める。
「ところでだ。才能というものについてどう思う」
娘の話になるかと思いきや、この相手は前振りとまるで異なることを訊いてきた。
「才能......どうと言われても、面白い返事をすぐにというのは難しそうですね」
「四十年。私はこの道で生きて、自他称問わず多くの『天才』と出会ってきたよ。彼らの多くと実際に話し食事を共にし、その中で一つ悟ったことがある」
小さな吐息を従え、彼は自らの拳を持ち上げた。
「この世に天才はいない、ということだ」
「出会った中で、一人たりともですか」
自分では的を射た質問のつもりだった。だが。
「ああ、ただの一人もだ」
まるで動じた素振りを見せず、どこか乾いた眼差しで彼は首を横に振ってきた。
「出会った者の大半が、やはり陰で相応の努力をしていることが見て取れた。それ以外で成功者とされる者もいたが......やはりそれは、単に運を味方にしただけのつまらない人間だった」
それきり彼が口をつぐむ。
「──と、思っていた」
と思いきや、沈黙もそこそこに彼は肩をすくめてみせた。
「だがまあ、それだけ自信を持っていたんだが、どうも間違いだったらしい。二人、この世界に二人だけ、どう誤魔化そうとしてもできない『天才』と出会ってしまった」
よどみなく言葉を綴り、そして、彼は鋭利な眼光を向けてきた。
「私が知る二人。その内の一人はお前だよ、カインツ」
一瞬、息が詰まるのを自覚する。
彼の口上を聞きながら、薄々とは予感していた。
カインツ・アーウィンケル──歴史上誰一人として踏み入ることの敵わなかった未踏の領域、名詠五色の全制覇を成し遂げた虹色名詠士。
「......こんな場面でおだてられるのは複雑な気分ですよ」
「事実だからな、こればかりは仕方ない」
「そのもう一人とやらは?」
もし自分が名前を挙げるとするならば、それは間違いなく、かつて互いに約束を誓った夜色の少女。実に十数年の年月を経て、とある学園で再会を果たした相手。しかし、彼がそれを知っているはずもない。
「名詠士の世界ほど派手ではないがな、我々の道もそれなりに歴史と人口を持っている」
それは当然承知のこと、頷くまでもなかった。
「本家たる我がユン家、そしてその宗家。歴史上数千人を数えるであろう道に、史上例のない、まさに申し子たる少女が現れた」
ふと、カインツは我知らずのうちに眉をひそめた。
今、彼は何と言った。──少女?
「ああ、そうだ」
粉末化した鉄錆を思わせる空虚な声音で、彼は続けてきた。
それは悪いことではなく、むしろ誇るべきことのはず。
なのに。なぜこの人の視線はここまで曇ってしまっているのか。
「その才能は、だが大輪の花を咲かせる直前で止まっているのさ」
苦悶にも似た表情で彼が弱々しくこぼす。
「あろうことか。あの子は天賦の才たるジルシュヴェッサーの名を捨て、名詠士の道を選んでしまった」
ジルシュヴェッサーの名前?
〝この歳になってとも思うが、娘のことだよ〟
彼の呟きをようやく思い出す。
「先輩、まさかその少女」
「......私の、一人娘さ」
「あなたの一人娘ともあろう者が、祓名民を捨て名詠士に?」
「あの子が選んだ学舎は、トレミア・アカデミー」
トレミア。
その名で自分の思い当たる学園は僅かに一つ。まさか。
「ああ。お前が出くわした、あの触媒暴発事件が発生した学園だ。お前もそこで、あの子と出会っていたかもしれんな」
「そのご令嬢の名前は?」
茜色の陽をしばし見つめ、その父親は静かに瞳を閉じた。
「──エイダ。今年名詠学校のハイスクール生になったばかりの女の子だよ」
一奏 『赤銅色の詠使いになりたくて』
1
大陸辺境としては異例とも言える、生徒数千人を超える名詠式専修のハイスクール──それがトレミア・アカデミーだ。敷地規模は他の名詠学校の優に数倍、その設備・教員の質も他の名門校に劣らないと評される。
その敷地の中央部に位置する、ドーム状のアーチを描く建物。
『図書管理棟』──蔵書数百二十万冊を数え、地上五階、地下二階にまで広がりを持つ施設である。学習だけではなく交流・休息といった目的でも用いられ、生徒のみならず教師も頻繁に足を運ぶ、多目的ホールという一面も持っている。
その二階で。白制服に身を包んだ幼げな生徒が、ずらりと並べられた本棚をじっと眺めていた。年齢はせいぜい十二、三。深い紫色の髪と中性的な面立ちの少年だ。
「えっと。これと......これ、と」
一抱えはある資料集を数冊まとめて両手で抱え、少年がいそいそと階下のロビーへと降りていく。
「ネイト君、だいじょうぶ? 足下ふらふらしてるよ」
その姿を目にし、制服姿の少女が口を開いた。
ミオ・レンティア。金髪童顔、おだやかな口調が特徴で、実年齢である十六よりは二、三歳幼く見られることが多い女子生徒だ。
「へ、平気です......たぶん」
持ち上げた本から顔を覗かせ、その少年──ネイト・イェレミーアスはかろうじて彼女に対して頷いた。
「外暑そうだし、もうちょっと図書館で休んでいけば?」
読みかけの本を閉じ、不安げな顔つきで訊ねてくるミオ。図書管理棟というのは学園側の正式名称。しかしその長い呼称は生徒も教師も用いず、もっぱら『図書館』で済ませてしまうのが習慣になっている。
「名詠の練習は外でしかできないですから。それに、クルーエルさんに外で待っててもらってますし」
名詠式。それが、この学園で生徒が専門的に学んでいる技術である。自分の望む対象を心に描き、それと同色の触媒を携えた上で対象の名を賛美する──一種の物体転送術。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』の五色に分類され、そこで生徒は各自の専攻色を決め、その専攻色と同色の物体を詠びだすことを目標とするわけだ。
「ミオさんはどうします? クルーエルさんも校庭で待ってますけど」
見ると、既に彼女の視線は自分ではなく、手元の本へと向いていた。ちなみに彼女の専攻色は緑色名詠。彼女の場合であれば、仮に緑色のカエルを詠び出すには緑色の画用紙など緑の何かを触媒として用意し、そのカエルを讃える詠を歌うという過程になる。
「ちょっと待ってて。もうすぐこの本読み終わるから。うーん、推理物って、どうしてこう先が気になるのかなぁ」
......その台詞、三日くらい前からずっと聞いてる気がするんですけど。
夏休み以降ふとミステリー関係の本に手を出して以来、ミオは延々とこの調子。彼女のことだ、ここにある推理物全てを漁りつくすまで図書館から出ないだろう。
「じゃあ、先に校庭で練習してますね」
積み上げた本のせいで前方がろくに見えないのだけれど、まあそれは仕方ない。図書館の出口を越え、玄関部へ続く渡り廊下へと──
「......っ!」
壁に突き当たったかのような衝撃に、抱えた本ごとネイトは床へ転がった。
「っと。平気かい」
見上げたそこに、眼鏡をかけた線の細い教師。教師に支給される白衣に、胸元には青糸で織り上げた校章。ええと、たしか最上級生の担任をしてた先生だっけ。
「あ、は、はい。平気です。その......ごめんなさい」
「通路は前を見なさい──と、普段なら言うところだけど」
床に転がる分厚い資料集の山を見回し、その教師はふっと表情を和らげた。
「君の勉強熱心さに免じて、今日に限ってお小言はやめておこう」
床に散らばる本をかき集め、教師がその表紙をじっと眺める。
「懐かしいな。この資料集は自分もよく読んだ。と言っても、学生時代の話だけどね」
積み重ねた本を手渡してくる。それも、自分が最初に積んでいたのと同じ順番。ぶつかった時に順番まで覚えていたのだろうか。
「あ......ありがとうございます」
「夏期休暇中とはいえ、廊下は静かに歩くことを忘れずに」
悪戯っぽく、その教師は眼鏡のブリッジを持ち上げてみせた。
夜色の髪をなびかせ、小柄な少年が早足気味に通路を去っていく。
「......そういえば、あの子」
その背に向け、ミラーは双眸を細めた。
ネイトと言ったか。学園に入学早々、特殊な境遇を持つ生徒として、教師内でも話題にのぼる生徒だった。五色から成る名詠式。学園内のどの生徒も既在五色のどれかを専攻とする中、しかしこの少年だけはまったく異なる色の名詠式を習得しようとしていたからだ。
夜色名詠──公式にはその存在すら認められていない異端色。
「残念、もう少し話したいこともあったんだが」
教師である自分にも未知なその名詠。もちろんそれも気になるが、自分にとっては更に別の話題があった。
自分とあの少年をつなぐ、一人の女性について。エルファンドを卒業し彼女がどのような足跡を経てきたのか。かつての同級生として少なからず興味はあった。
「あいにく、仕事がなければの話だけど」
小脇に挟んだ資料を一瞥、深く息をつく。
「さて、自分は今から調べ物か」







「......ネイト」
背中越しにかけられた声に、触媒入りのフラスコを片手に振り向いた。
「は、はい。なんでしょう」
「やっぱり少し休みましょ。キミ、足下ふらふらしてるよ」
やわらかで落ち着いた少女の声。その声は、自分の立つ校庭から数メートル離れた木陰からだった。真夏の鋭い陽射しを遮る小さな影の下で──そう告げてくる彼女の、緋色の長髪が微風に舞う。
「で、でも」
「だーめ。さっきからずっと名詠失敗してるじゃない。集中力だって落ちてるのよ」
彼女の言い分は筋が通っていた。反論できる言い訳が思いつかない、渋々ながらネイトは頷くことにした。
「......はぁい」
「ほら、これ被ってなさい」
有無を言わさず、鍔の広い麦わら帽子を押しつけられた。ややサイズが大きいらしく、目の前の視界全部が鍔の陰に隠れてしまう。
「......あの、前が見えないんですけど」
帽子を頭から浮かせ、ようやく視界が広がった。
と。その視界全てを埋めるほど近い距離──
「それでいいの。どうもキミは、力つきて倒れるまで前に走り続けちゃうタイプみたいだからね」
目の前に、真っ青なワンピースを着た少女が立っていた。緋色の長髪に長身、遠目からでもその容姿が際だつ少女。
クルーエル・ソフィネット。年齢は自分より三つ年上の十六歳。その髪の色が示すかのように、赤色名詠を専攻。自分がこの学園に転入してきて以来、ずっと傍に居てくれる人だ。
「ま、困ったことに、それがキミのいいところでもあるんだけどね」
くすりと、からかい半分といった微笑を彼女がこぼす。
「......なんか、あんまり褒められた気がしないです」
ふふ──案の定どこか楽しげに、彼女は口元に手をあてた。
「それより、少し日陰で休んでていいよ」
風になびくワンピースを手で押さえたまま、彼女が背を向け歩き出す。
「あ、あれ。クルーエルさん?」
「たしか学内のカフェ開いてたわよね。冷たい飲み物でも買ってくるから、そこで待ってて」
2
校庭に吹き降りる風が地上の砂を巻き上げる。
「......ホントに暑いや」
校舎の陰に身を寄せ、ネイトは額の汗を拭った。自分もクルーエルのような軽装にすれば良かったのだが、つい条件反射で普段の白制服を着てしまったのだ。寮に戻って着替えるというのも手ではある。しかしそれはそれで面倒だ。
「......クルーエルさん、まだ戻ってこないかな」
一年生校舎からカフェまでは往復で十分ほど。混み具合によってはまだしばらく時間がかかるだろう。
「お、ネイティじゃん。どしたのさ」
──ミオさんみたいに、やっぱり今日はどこかで本でも読んでようかな。
「......あ、あれ? ネイティ、聞こえてないってやつ?」
となるとやっぱり図書館かなぁ。ミオさんもまだいるだろうし。
「ちょ、ちょっとこらネイティ、無視しないでってば。......ああもうっ、ネイトってば」
ネイト?
突如後ろから聞こえてきた自分の名前に、ネイトは反射的に振り向いた。すぐ目の前に、見覚えある黒髪長身の女子生徒。
「......あれ、サージェスさん?」
ミオやクルーエル同様、自分のクラスメイトの少女だ。学校指定の制服ではなく、今の彼女は藍色のスポーツウェアを着こなしていた。その背に、自分が丸々入れてしまえそうな巨大なリュックまである。
「おはようございます、サージェスさん」
「おはよ。てか最初から気づいてよ。さっきからネイティのこと呼んでたのに」
「ネイティって、僕だったんですか?」
似た名前だなとは思っていたけど、まさか僕のことだったとは。
「だってほら、年違うけど一応同級生じゃない。『ネイト君』みたいな君付けってちょっと苦手なのよね。そこでこの愛称よ。どう? 素敵でしょ? 今この場で考えたにしては素敵よね」
「ど、どうと言われても」
圧されるように後ずさりしつつ、ネイトはゆっくりと彼女の背負う荷物を指さした。
「......えと、サージェスさん、夏休みなのにどうして学校にいるんです? しかもそんな大きなリュック背負って」
「さりげなく話を逸らしたわね。......まあいいけどさ」
よっ、と──軽く呟き、少女が背の荷物を降ろす。地に降ろした途端、どすんという鈍重そうな音と共に砂埃が舞う。
「それ、何が入ってるんですか?」
その途端。
「ん、これ? 知りたい? 聞きたいのね? 後悔しないわね?」
怪しげな光を目に灯し、にやりとサージェスが近づいてきた。
「あ......や、やっぱりいいです。なんか恐そうだから」
「いやいや大したことないって。ただの新鮮な人の遺体、それもちょうどネイティくらいの幼くて──」
「うわあっ、誰か来てええぇえ!」
「って、ちょっと、こらネイティ逃げないで! 冗談だからっ!」
一目散に駆け出す間際に首筋を摑まれ、おずおずとネイトは彼女の方に振り向いた。
「......ホントは何が入ってるんですか」
「テントと寝袋と食料と雨具と、その他もろもろよ。ほら、わたし登山部だから」
登山部。そう言われてみれば、そんな部活があったような気がする。確かに、彼女が履いている靴も普段の運動靴ではなく、なにやら重厚な造りになっていた。
「明日から四泊五日で夏山に挑戦するの。今日が部活の最終ミーティングだから。んで、ネイティはどうしたの」
じろじろと、彼女がこちらの制服を眺め回す。
「えっと、クルーエルさんとミオさんと一緒に名詠の練習です」
「ああ、クルーエルはさっきすれ違ったわ。ミオは?」
「図書館で推理本読んでます。今年の夏中に、図書館にある全五百七十冊を読破してみせるとかで」
「名詠の練習と関係ないじゃん」
ある意味、ごく自然な突っ込みを口にする彼女。
「意気込みはすごいんですよ。ここ数日、朝七時には学校の図書館に来て開館を待ってるらしいです。生徒の中で一番早く来てると豪語してましたし」
「......ふむ」
やおら、サージェスの瞳の色が微かに変わった。
何やら考え込むように、相手の視線が宙を泳ぐ。
「ネイティって、たしか学校の寮に住んでるんだっけ」
「ええ。運良く一つだけ空いてたので、そこに入れてもらいました」
トレミア・アカデミーの寮は学園の敷地内に設けられている。一年生校舎から歩いて十数分の距離にあるので生徒からの人気は高い。競争率が高いため、実家が遠いなどの特殊な事情がなければ、今はほとんど入寮できないらしい。
「んじゃさ。明日早起きして、六時半に学校においで」
さらりと彼女が告げてきた時刻に耳を疑った。
「......六時半?」
「そそ。ただし、六時半に『一年生校舎の屋上』ね」
よりによって校舎の屋上? 無理だ。六時半といえば校門こそ開いているかもしれないけれど、校舎の方は施錠されている時刻のはず。
「非常階段使いなさいな。校舎入らなくても屋上までいけるから」
非常階段は、普段生徒の立ち入りが禁止されている区域の一つだ。でも、なぜそこまでして?
「そこに誰かいるんですか」
「行けば分かるよ。っと、わたしはそろそろ部会議の時間だ」
校舎の外壁に掛けられた大時計を眺め、サージェスがリュックを背負いなおす。
「ではお二人さん。邪魔者は消えるので後はごゆっくり」
お二人さん? その意味を推し量るより先。
「......なんか引っかかる言い方ね」
聞き馴染みのある声が背中側から聞こえてきた。振り向いたそこに、両手に飲み物のカップを抱えたクルーエル。眉をつり上げる彼女に対し、リュックを背負った方の少女は陽気な口調で手を振ってきた。
「いやいや、別に深い意味はないってば。それよりクルーエル、あんた早く左肩治しなさいよ」
ワンピースの袖が風に舞い、そう言われた少女の肩先が微かに陽の下に晒される。ほのかに上気した肌に、白い包帯が痛々しい。二週間ほど前、学園で起きた事故で負った傷だ。本人曰く、もうほとんど治ったと言ってはいたが。
「......分かってるわよ」
「あんた、大人しそうに見えて案外やるときは無茶するからね」
やや憮然とした面持ちでクルーエルが口を尖らせる。その姿に、黒髪の少女の方は可笑しそうに表情をゆるませた。
「でもま、そこら辺があんたの可愛いとこだから」
「な......なによそれ」
どこかで聞いたような台詞を自分に返されるとは思っていなかったのか、気恥ずかしげにクルーエルが後ずさる。
「んじゃね、バイバイお二人さん」
悪戯ぽい笑顔を残しサージェスが校舎の方へと去っていく。
その姿が校庭から消えるのを見送って──
「あれ、そう言えばサージェスどうしたのかな。あんな大きな荷物持って」
聞きそびれたらしく、クルーエルが頭上に疑問符を浮かべた。
「部活だそうです。登山の合宿らしいですよ」
「そっか。遠出するならお土産でも頼んでおけばよかったわね。でも山のお土産って、何があったかな」
「......遭難者の新鮮な遺体。それも僕くらいの年頃の」
「え?」
「......なんでもないです」
リュックの中にソレが収められている図を想像してしまった。......うぅ、もうしばらく頭から離れなさそう。
「あ、そうだ。クルーエルさん。明日僕、ちょっと早めに学校行きたいなって」
「うん。わたしの方はいつも通りの時間になっちゃいそうだけどね。それにしても、どうしたのいきなり」
なんて説明すればいいんだろう。数秒沈思したあげく。
「なんか、誰かが屋上にいるとかいないとか」
サージェスに言われたことそのままを、ネイトは答えることにした。
「誰かって、誰?」
「さあ......教えてもらえませんでしたから」
どう表情を作ればいいのか迷い、ネイトは頰を搔いた。
教えてくれない──言い換えるなら、ここで教えずとも、屋上に行けば分かる相手だと彼女は暗黙のうちに言ってきたということになる。
......それってつまり、僕の知ってる人だってこと?
3
正門から見上げる、校舎に掛けられた大時計。その時計の針は、昨日サージェスと約束した時間より更に半時間ほど早かった。
──現在六時。
一年生校舎の屋上って言ったって、こんな朝早くに誰がいるんだろう?
それが気になるあまり昨夜はろくに寝れなかった。そのおかげで、早く来れたのはいいのだけれど、まぶたが重くて仕方ない。
洩れそうになるあくびを嚙みつぶしつつ、ネイトは正門をくぐりぬけた。
生徒はおろか、周囲には教師の姿さえ見あたらない。一年生校舎の横、ドーム状の設計になっている図書管理棟へとつま先を向けた。案の定というべきか、図書館はまだ開館すらしておらず、そこに並ぶ生徒の姿もない。当然、自分の良く見知った少女の姿も。
「この時間だもの。ミオさんが来てなくても当然だよ」
自身に言い聞かせるよう口にし、ネイトは一年生校舎へきびすを返した。
金属製の強固な造りをした鈍色の建物。競演会の事件でキマイラの襲撃を受けたものの、その校舎自体は無事だった。
「......やっぱり閉まってる」
校舎の入り口に掛けられた巨大な南京錠。それを一瞥し、校舎の裏手へと回る。
日の当たらぬ草地から頭上へそびえる、螺旋状の非常階段。
「アーマみたいに飛んでいけたら楽なのに」
屋上まで続いているであろう長い螺旋の渦を見上げ、ネイトは小さく溜息をこぼした。
カツ、カツン......
所々錆び付いた階段に、一人分の足音が幾重にもこだまする。
二階を越え三階を越え、校舎の頂上へ。
──こんなとこ、本当に誰かいるの?
サージェスの言うことを噓だと決めつける気はない。ただ、校庭や教室ならばともかく、わざわざこんな場所に生徒がいる理由が思い浮かばないのも事実だった。
屋上へと続く最後の一段を上りきる。
さっとまぶたを焼く朝日に目を閉じかけた。完全に閉じなかったのは、それより先に、何か鋭い風切り音が鼓膜に響いてきたからだ。
この音、何?
音の方向──広大な屋上の中心部へと視線を向ける。
「......え」
眩しい陽射しの中、ネイトは両目を見開いた。
鮮烈な陽を浴び踊る、小麦色の肌をした少女がそこにいた。
──違う。踊りなんかじゃなくて......
少女が握る長大な棒。金属特有の鈍い光を放つその先端、鋭利に研ぎ澄まされた刃──それはすなわち、鎗だった。
自らの背丈を上回る長さの鎗を少女が振るう。
流れるように払い、踊るように廻し、舞うように穿つ。一瞬として澱むことなき動き、一つとして同じ動作のない型。見る者を惹きつけ誘うような、あまりに洗練された刃の流れ。これが本当に鎗の鍛錬なのか。そう思わせるほど華麗な体捌き。
「......すごい」
一見、できすぎた演舞を思わせる華麗な闘舞。しかし、演技には決して出せぬ気迫がそこにはあった。迫真という言葉すら生温い。鎗振るう者の眼差しがそう告げてくる。
少女の動きは止まらない。徒競走が可能なほどの広さを持つ屋上を、目に追いつかぬ足運びで駆けめぐる。陽を受け輝く汗の飛沫すら美しい。どんな運動ともかけ離れた、次元を逸する領域。
屋上の端から中央へ戻り、少女が片手で鎗を回す。
......キィィッィィン
「──っ!」
突如鳴り響いた金属音に、ようやくネイトは我に返った。
十メートルほど先、少女の動きが止まっていた。その手に鎗がない。
──鎗、落としたの?
心中の思惑を肯定するかのように。地に落とした鎗を見下ろす格好のまま、少女が小さく吐息をこぼす。
動きに魅せられ今まで気づかなかったが、彼女の背丈はそれほど高いものではなかった。自分よりせいぜい数センチ高いほど。白のショートパンツに、同色のタンクトップ。日焼けした剝き出しの肩は小麦色、いや赤銅色と喩えた方が適切かもしれない。
亜麻色の髪を肩先で切った、ショートヘアのボーイッシュな少女。小柄な身体に比例する小顔に、それと対照的な大きめの瞳。どことなく猫を思わせる顔立ちが印象的な──
......あれ。この人見覚えが。

「ん? あれ、キミ」
眼前の少女がようやく顔を持ち上げた。視線が触れ合う。
「あれれ、ちび君じゃん。おはよー朝早いね」
先の息つかせぬ表情が噓のように、あっけらかんとした表情で相手は片手を上げてきた。
「......エイダさん?」
エイダ・ユン──目の前にいたのは、自分やクルーエルたちと同じ教室の、顔馴染みのクラスメイトだった。
「エイダさんのそれ、鎗ですか」
「ん、ああ。ちょっと待ってね。あたし汗かいたままでいるのダメなんだ」
屋上の端に置いてあった鞄からタオルを取り出す少女。
エイダさん、一体いつからいるんだろう。
朝七時前だというのに。にこやかに笑う彼女の額、いや全身は、この時刻にして既に大粒の汗が止めどなく流れ落ちていた。
「ねえ、ちび君。お願いがあるんだけど」
......ちび君?
「あ、あの。ネイティのがまだマシな気が」
「えー。ちび君て呼び名、可愛いじゃない。こっちのが愛嬌あるよ」
「そうですかぁ?」
遠回しに不満を口にするも彼女の方はあっけらかんとした表情のまま。既に彼女の中ではその呼び名が定着してしまったらしい。
「うんうん。ところでちび君。少し後ろ向いててもらえるかな」
「後ろ?」
なんのためだろう。その意図が摑めず、ぼぅっとエイダの方を見つめる。
と、彼女の方がにやりと唇をつり上げてきた。
「ちび君は、やっぱりちび君だなぁ」
「え?」
「着替えよ着替え。あたしタンクトップ脱ぎたいから。後ろ向いてないと、ちび君にはまだ刺激が強すぎるものね?」
「......それならそう言ってください」
頰をふくらませ、ネイトはぷいっと後ろを向いた。もう、着替えと言ってくれたらすぐそうしたのに。
「だから、そこがちび君なのよ」
からかうように、どこか楽しげに彼女は肩をふるわせた。
「部活動?」
少女の告げてきた単語は、妙に聞き覚えのあるものだった。
「うん。あたし鎗術会ってのに入ってるの。さっきのはその練習」
「練習って、こんなに朝早くからですか」
正確な時間は不明。推し量るしかないものの、彼女がここにきたのはおそらく六時前。毎朝どれだけ早くから。
「部の練習は十時から。それまでは個人レッスンの時間てこと」
「個人レッスンて、自主練習ってことですよね?」
すると。照れ隠しのつもりか、はにかみ顔で少女は後ろ頭に手をやってみせた。
「まあ人それぞれよ。あたしはほら......物覚えが悪いから。質の良い練習ってのがよく分かんなくてさ、もっぱら量で稼ぐの」
物覚えが悪い?
「え、でもエイダさん。鎗術会に入ったのって今年の四月ですよね? まだ半年も経ってないのにあんなすごいんだもん。物覚えが悪いなんて」
にわかに、彼女の表情が変わった。
何が変わったか言葉に表せないくらい微細な変化。でも何か、彼女の瞳に怖いものが灯っていた。恐い。正確には、恐いくらいに昂ぶった何か。
「いやいや。ちび君も見てたでしょ。最後の最後に鎗落としちゃったし。格好悪いったらありゃしない。あんな初歩ミス一体何年ぶり──」
......何年? それって。
彼女の口ずさむ単語の意味を理解するより先、当人の方が慌てて腕を振ってきた。
「あー。今のなし、忘れて忘れて。女の子の秘密」
「......は、はあ」
今ひとつ釈然としないものの、彼女の勢いに圧され仕方なく頷くことにした。
──でもすごいなぁ。
運動着姿の彼女はとにかく小柄に映る。見た目だって、あの鎗を振り回せるのが信じられないほど華奢に思えるのに。
「まあ、この体形維持するのも割と苦労してたりするんだけどね」
自身の腕を指先でつつき、苦笑気味にエイダが腕を組む。
「こんな重い物振り回してるとすぐ筋肉ついて重くなっちゃうし。男はそれでもいいんだけど、女の子でそれはちょっとね。......日焼けはもう諦めたけどさ」
「大変なんですね」
自分の方はと言えば、その筋肉をつけるという段階で既に苦戦中だった。
──ネイト、もう少し身体鍛えるといいよ。クルーエルからそう言われてはいるのだが、どうにも鍛え方が分からないのだ。
「てか、男ってヤツは女のその気持ちを分かってない輩が多すぎるの。こっちが体形気にして食事節制してるのに『もっと食べないと身体が保たないぞ』とか、お化粧してる時に無遠慮に入ってきて『支度が遅い』とか言いだす始末だしさ」
腕を組み、不機嫌そうにエイダが眉をつり上げる。
「......はあ。そ、そうですか」
最初は彼氏かとも思ったが。
「そもそもまったく、あの頑固親父は娘の気持ちも知らないで」
彼女の話を聞くに、どうやら違ったらしい。
「男って、もしかしてエイダさんのお父さんですか」
「うん」
存外、あっさり彼女の方はそれを認めてきた。
「うちの親父ってなんつーか朴念仁でさ、細かい気配りとかそういうのができないのよ。おまけに発想が貧困で、一人娘の十四歳の誕生日に重さ十キロの鉄アレイプレゼントしてくるぐらいだから」
「それは......むしろ発想として斬新な気がしますけど」
とんでもない! 言葉の代わりエイダが勢いよく首を横に振る。
「重さ十キロよ十キロ。頭きたんでそのまま親父目がけて投げつけてやったの。そしたらあのばか親父、『すまん、十五キロの方が良かったか?』なんて真顔で訊いてくるんだもん」
「......投げつけちゃったんですか。十キロもあるのに」
投げられた方も大変だっただろうが、でも確かにエイダさんが怒っても仕方な──
「そもそもだ、あたしの愛用アレイは二十キロだっての!」
「怒った理由そっちですか!」
「ん? ちび君どうしたのさ、元気ないぞ?」
......前言撤回。怒る方も怒る方だ。
「エイダさん、お父さんに似てるってよく言われません?」
「えー、言われるわけないじゃん。むしろ似てない似てない!」
本気で嫌だったらしく、彼女があからさまに表情をしかめる。
「と、そうだ。あたしそろそろ行くね」
唐突に、何かを思い出したらしく彼女はさっと立ち上がってみせた。
「もう部活の時間ですか」
「ううん。今日は買い物。せっかくの旅行だし、夏服とか鞄とか買いに行かないとね」
「旅行って、どこか行かれるんですか?」
「あれ、ちび君もでしょ」
鎗を丁寧に織布でくるみつつ、エイダが首を傾げてきた。
「学校の校舎、この前の大騒ぎでところどころ補修中でしょ。夏休み中の補講って普段トレミア・アカデミーでやるんだけど、今年の夏期補講は学年単位でトレミア・アカデミーの分校に行くんだってさ。海が近くにある場所だって」
そう言われてみれば、そんな掲示がしてあったような。
「ちび君も行くでしょ? クルーエルも行くって言ってたし。名詠の練習ばっかりじゃバテるよ。たまには息抜きもね」
「......クルーエルさんにも同じようなこと言われました」
「そうそう。んじゃ今からみんなで買い物行こうよ! どうせ図書館にはミオいるんでしょ。なんだかんだでクルーエルも暇人ぽいし」
言い終えるやいなや、少女がさっさと非常階段を降りていく。
「ちょ、ちょっとエイダさん。今日部活あるんじゃなかったんですか!」
「いいよいいよ。今日はお腹痛いってことにするから」
ほ、本当にいいのかな?
でも、そういえば普段の授業もこんな感じだっけ。
「......エイダさんて不思議な人」
「え、なんか言った?」
非常階段を降りる足をとめ、耳聡く聞き返してくる相手。
「ううん。なんでもないですー」
白々しく嘯き、ネイトも非常階段を下っていった。
4
「なあエンネ、お前暑くないの」
ふと、隣を歩く相手が思い出したように口を開いた。
「暑いけど、でも教師ならきちんとそれなりの服装しておかないと」
思わず頷きたくなるのをぐっと我慢し、エンネは予め用意しておいた回答を口にした。自分が着用しているのは白を基調としたスーツ。白の生地は太陽光を反射するとはいえ、それでも暑いことに変わりない。
「それに、ミラーだって教師用の講義服着てたわよ」
「ああ、あの学者みたいな白衣ね。あいつはアレが好きなだけだっての」
そう言ってくる相方は、派手なまだら模様のTシャツだ。それでも暑いらしく、今はその裾をまくり上げている。
「......ゼッセル、もうちょっときちんとした服装にしてきなさいよ」
同僚であり幼馴染みでもある男性教師。学内外問わず、その台詞を今まで何百回聞いたことだろう。
「学園長は好きにしろって言ってたぜ。俺だって生徒の前ではきちんとするけど、夏休みのしかもこんな時間に生徒がいるわけが──」
「いたわよ、図書館が開くの待ってる子が。たしか一年生の子だったと思うけど」
「......左様でございますか」
「というわけで、明日からあなたもスーツ着用」
......勘弁してくれ。
ぼそっと口にしかけた言葉を、彼が慌てて呑み込んだ。
トレミア・アカデミー、総務棟。一階最奥の部屋──すでに自分たちがその近辺まで来ていたからだ。
姿勢を正す同僚の隣、それとなくエンネもスーツの襟を正した。
「やっぱ気になってるよな、お前も?」
「気にならない、と言ったら信じるかしら」
からかうような口調の幼馴染みに、こちらも意味ありげに視線を送る。
「万一にも生徒に洩れないようわざわざこんな早朝を選び、他言無用という条件で教師たちを呼ぶ。どういった内容であるにしろ、それなりに構えて向き合う必要があるものに決まってるものね」
眼前にそびえる、荘重な文様細工が施された木製の大扉。
「わたし、こういうの苦手なのよね」
あなたに任せたということで、エンネは一歩後ずさることにした。
おもむろに、前にいるゼッセルの背を押してやる。
「......俺だって苦手なのに」
「ほら、頑張って。お昼ご飯奢るから」
「......ホント勘弁してくれ」
二度目の嘆息を押し込み、ゼッセルが学園長室の扉をノックする。濃緑色の通路から一転、柔らかい真紅のカーペットが敷かれた部屋へ。
学園長室。そこには既に、数人の教師が円陣を組むように立ち並んでいた。
「二人ともすまんな、わざわざ早朝に」
円陣の中央、軽装服の老人が軽く手を掲げる。
「ひとまず揃ったようだ。皆も忙しいだろうし、用件だけ手短かに伝えよう」
──用件?
最寄りの壁に背を預けたまま、エンネは周囲の顔ぶれを窺った。
学園長、その側近として控えるジェシカ教師長。その脇には一年生を担任する教師たち。他学年の教師は自分とゼッセル。そしてミラーか。
「さて今夏も、一年生たちの基礎作りという主旨で夏期集中補講が行われる。......が、諸君もまだ、先日の競演会における事件は記憶に新しいことだろう」
競演会──教師たちの表情が一瞬険しいものになる。最悪の結果は免れたが、生徒や教師の中にも少なからず負傷者が出た事件だ。
......あれは、あんまり思い出したくないのだけれど。
「我が校の補修をするため、例年この校舎で行っていた泊まり込みの補講は取りやめになる。その代替策として、フィデルリアにあるトレミア・アカデミー分校の校舎を利用することにした。臨時の修学旅行のようなものになるな」
唯一表情を変えぬまま、中央の老人が二の句を継ぐ。
分校。普段は学舎というより地域の集会所として開放されている施設だ。エンネ自身はまだ訪れたことがない。フィデルリア、確か海に面した地域だったかしら。
「問題は〈孵石〉だ」
老人の声音が微かに揺れる。重さと苦みの混じった声音。
「人命に至る事故が起きなかったことは不幸中の幸いだが、例の事件で多少なりとも我が校の生徒、教師は被害を受けた。むろん校舎そのものもな。......あの時は何かと偶然も重なったようだが、全ての元凶は、我が校に持ち込まれたあの凶悪な触媒にある」
毒を吐くように言い捨て、壁にかけられた地図を老人が視線で示す。
大陸の北側、大陸に走る山脈寄りに穿たれた赤い点。これはトレミア・アカデミー。
そこから多少離れた大陸の端。青く塗られた海に面した地点、そこに穿たれたもう一つの赤い点。これが分校か。
「あの厄介な触媒を精製したケルベルク研究所。が、そこは大陸各所に支部があってな。もともと〈孵石〉を精製したのは研究所本部ではなく支部らしい。実際、我が校にあの触媒を持ち込んだのも支部の職員だった」
ケルベルク研究所の名前は、エンネにも聞き覚えがあった。大陸中央部に本拠地を構える、相当の研究員を抱える大規模な研究機関だ。講演として、その職員が我が校に招かれることも多々ある。
「で、先ほど研究所本部の方に連絡を入れたが、詳しい事情は支部の方の職員にと返してきおった」
......なるほど。うっすらと摑めてきた。顔を持ち上げると、正面に立つミラーと視線が重なった。自分やミラーが微かに頷く中。
「事情は把握しました。一年生が夏期合宿に行く間に、俺たちはそこの支部所長に文句の一つも言ってこいということですね」
「......ゼッセル」
溜息の代わりエンネはまぶたを閉じた。ここが学園長室でないのなら、隣に立つ馬鹿の背中をつねってやりたいくらいだ。
「え、いやもちろん冗談だって?」
呑気な表情で誤魔化し笑いを浮かべる幼馴染み。......どうしてこう男って、子供の頃の癖が治らないのかしら。
「まあ、ゼッセルの言うことも分からないでもないのだがな。今回ワシが気がかりなのはまた別の件だ」
人ができていると言うべきか、老人の方はさして気を害した様子もないらしい。
「どうもその〈孵石〉を精製した研究支部が、一年生の向かうフィデルリアにあるということでな」
......なんとまあ、タイミングが良いのか悪いのか。
とはいえ、ケルベルク研究所はトレミア・アカデミーとの協力機関。こちらの支部と相手方の支部が隣接しているというのは、確かにありえる話ではある。
「ところがだ、つい一昨日本部の方から連絡があった」
老人の言葉の先を継いだのは、自分と反対の壁に立つミラーだった。
「ここ最近、例のフィデルリア支部からの音信がまるで途絶えてしまっているらしい。しかもその音信の途絶えた時期が、学園で〈孵石〉が暴走した日のわずか数日後という事実も判明した。こちらからも連絡してみたが、やはり相手からの返事はなかった」
「音信が途絶え、さらにはその時期が競演会のものと重なる、か。原因の調査は進んでないのか?」
眉をひそめるゼッセルに、老人が頷くように首を振る。
「それを今回、君たちに調べてもらいたい。ミラー君にはその件で、既に調べ物に取りかかってもらっている最中だ」
なるほど。この部屋に入室した時から気になってはいたが、ミラーが小脇に抱えた資料の中身がようやく想像ついた。
「そのような場所を一年生の合宿として用いるのは、本来褒められたことではないのだが......ケルベルク研究所支部のそういった状況を把握したのが、こちらでもつい直前のことでな。昨日今日で、すぐさま候補地を移動することが少々難しい。まあ、分校と研究所支部も直接隣り合っているわけではない。一年生を担当する教師諸君には、生徒が分校の敷地から出ないよう万全を期すよう頼んである」
一年生の担任教師が一年生の見張り。
と同時に、わたしやゼッセルの役目というのはつまり──その合宿に同行し講義を担当する教師のふりを粧い、研究所の様子を探ること。
「......重大な任務ですね」
「それだけあなたたちを信用しているということよ」
そう応えたのは学園長ではない。
ジェシカ教師長──かつて自分やゼッセル、ミラーの師事した教師。
「では、それぞれ自分の職務に就いてくれ。分かっているとは思うが、この件については生徒に決して洩れることのなきようにな」
二奏 『ただこの時を求めていたから』
1
甲高い汽笛を上げ、黒塗りの車体がプラットホームへと入ってくる。
上空へとめどなく吐き出される高温高圧の水蒸気。その理屈の詳しいところまでは聞かされていないが、どうやらあの水蒸気を利用してピストン運動を起こし、その力を動輪へ伝える仕組みらしい。
「......わぁ」
見上げ、思わずネイトは驚愕混じりの歓声を上げた。
「すごい!」
金属製の車両が十近くも編成をなし、一つの列車を構成。どれほどの重量があるか想像もできないが、こんな鉄の塊が動くだなんてとても信じられない。
「ネイトは蒸気機関車って初めてか?」
ぽんと肩に手がかけられる。見上げたそこに、体格の良い男子生徒。
「列車って初めて見ました。僕、こっちに引っ越して来るときは船を使ってましたから。オーマさんはあるんですか」
返事の代わりに、クラス名簿片手に、男子生徒を統括するクラス長は投げやり気味に肩をすくめてきた。
「俺は田舎に帰るときにちょくちょくな。その時は気楽でいいんだけど......さすがにこれはひどいな」
トレミア・アカデミーの一学年およそ四百人が一つのプラットホームに集結。おかげでプラットホームは生徒でごった返してしまい、どこに誰がいるかすら分からない。各クラスごとに集まるはずの予定が、現段階でオーマの下に集まってる男子生徒はわずか十人だ。
「なんつぅか、ここまで集まりが悪いとかえって潔い感じがするな」
クラス名簿をめくりつつ、呆れたまなざしで彼が周囲を眺め回す。教師の方もそれぞれ生徒の誘導に回っているらしいのだが、その教師の姿すら人波に埋もれてしまっている。
「クラス委員って大変なんですね」
「俺はまだいいよ。うちの男子は見つけて声かければきちんと集まるから」
はて。彼の言いぶりに首を傾げる。
「......そうじゃないことってあるんですか?」
「ほれ、大変なのはむしろあっちの方だって」
彼の視線の先──ハンドバッグを提げた、長身に緋色の髪の少女が疲弊しきった表情で、人波をかきわけプラットホームを走り回っていた。
トレミアの制服を着た少女がホームから離れ、ふらふらと駅構内の売店へと走っていく。その首根っこを摑まえて。
「こらミオ、どこ行くつもり!」
「ん? えとねー、お土産買おうかなって。地域限定販売だって」
動じた素振りも見せず、のほほんと答えるクラスメイト。その小脇には読みかけのミステリー本が挟んであったりする。
「まだ出発すらしてないでしょ、気が早い!」
ミオをホームへと連れ戻すやいなや、彼女が次に目をつけたのは──
「......って、ちょっとサージェス、なんでそんな大きいリュック背負ってるの。列車内に持ち込める大きさじゃないわよそれ!」
「それがさー、クルーエル聞いてよ。わたし自分の布団と枕じゃないとだめなの。そんなわけでさ、登山部たる者、旅行の時は寝袋じゃないと。あとはテントと非常食と雨具とコンロと──あ、ネイティじゃん。今夜、わたしの寝袋で一緒に寝ない? すごい暖かいんだよ」
「全部没収! 怪しげな誘いも禁止! ──ん? こらキリエ、駅内は飲食だめよ! ホームでお菓子は食べちゃだめだってあんなに言ったじゃない!」
「でもクルーエル。せっかく限定販売の特製クッキーなんですもの。料理研究会に所属する者としては......」
しずしずと、ウェーブがかった髪を揺らせる大人びた少女。まだあまり話したことはないが、彼女もネイトのクラスメイトの一人だ。
「謳い文句につられすぎ! そんなのどこでも売ってるわよ! ......あーもうっ、みんなお願いだからじっとしてて! ていうか、無駄な抵抗はやめて大人しく捕まりなさい!」
好き勝手に逃げようとするクラス女子たち。それを次から次へ摑まえて集合場所へと引き摺っていく、もう一人のクラス委員。
その様子を、ぼんやりとネイトは見つめていた。
「......クルーエルさん、可哀想」
「うちのクラス、どっちかと言うと女子の方が厄介なんだよな」
オーマが苦笑するその後ろ。男子生徒の方はいつの間にか全員の顔ぶれがそろっていた。
2
......どうすればいいんだろう。
敵勢の守りは盤石だった。
全方位に対して隙がなく、一点の集中攻撃に対しても厚い守備壁を敷いている。残しておいたはずの坑道は敵駒に埋められ、〈王〉を守る兵たちも既に分散させられている。
──最後の特攻か? いやしかし、捨て鉢になってはだめだ。
「ネイト君、決まった?」
「......も、もうちょっと考えさせてください。あと三十秒だけ」
手元の盤面から目を離さぬまま、ミオに向かって首を振る。
やはりまずは〈王〉の生存を優先。それにはまず15のFに〈王〉を逃がすことだ。が、既に12のFには相手の〈弓兵〉が詰めている。ならば次善策は14のDに〈王〉を移動させること。しかし、そこにもやはり敵の駒。敵駒自体はいたって普通の〈歩兵〉。自分の手番である今、〈王〉で攻め込めば奪える駒だ。
──ただ一つの危惧は......これが〈歩兵〉の仮面を被った〈道化〉である場合。
わざと駒を奪わせるようなこの配置。あまりに怪しい。
「......まさか」
「ん? ネイト君どうしたの?」
頭に疑問符を浮かべるミオ。ただし、その表情はにやにやと笑みの形だったりする。もうここからして怪しすぎる。奪いにきてくれと言っているようなものだ。
......だけどだめだ。もう時間がない。賭けに出るしかないのか。
「じゃあ、〈王〉を14のDに逃がします」
「そこ、あたしの〈歩兵〉がいるんだけど。〈歩兵〉を奪うということでいいのかな」
無言で頷き、自駒を相手の駒の上に重ねる。
「ではでは、どうぞご覧あれ」
言われるままミオの〈歩兵〉をつまみあげ、その裏を見る。
駒の裏面に、奇妙な笑みを浮かべたピエロのシール。
「あああっ、やっぱり道化だったぁぁ!」
「はい、ネイト君の負けー」
ゲームの成績帳らしきものに結果を書きつつ、ミオがけらけらと笑う。
「ま、初めてにしては上出来上出来。精進しなさい少年。長きにわたる修練を修めれば、いつか日の目を見ることもできるであろう」
......ミオさん、人格変わってます。
「僕、頭使うゲームは苦手なんです」
駒を片付ける片手間に頭を搔く。
列車での移動時間は三時間ほど。その間、クラス内で盤ゲームのトーナメント戦をしようという話になったのだ。ネイトはこのゲーム自体初めてだったのだが、全員参加ということで半ば強制的に参加させられた。おまけに運悪く、一回戦目の相手が優勝候補のミオだった。
「それに、ミオさん強すぎですよ」
「このゲーム、カイ様もやってるらしいからね。いつかお相手したいなって時々練習してたんだよ。ちなみに今の戦い方も、あの人と同じスタイルなんだ」
虹色名詠士さんが?
「前にどっかの雑誌のインタビューに載ってたよ。『最初は先輩に無理やり誘われたんだけど、やっていくうちにはまりました』って」
「先輩?」
最高の名詠士とも名高い虹色名詠士。ある意味、彼のそのイメージからほど遠い単語だ。
先輩って、まさか母さんのこと? いやでも多分、カインツさんと母さんは同級生のはずだし。となると、他にそれらしき人は思いつかない。
「気になるよね。詳しく言ってなかったから尚更。母校の先輩か何かだと思うけど。カイ様が『先輩』って呼ぶなんて、その人も何かすごい名詠士なのかな」
「まさか。ただの頑固親父よ」
やおら、日焼けした少女が一つ前の座席からひょいっと首を出してきた。
「エイダさん?」
「ん、エイダ何か情報持ってるの?」
対し、苦笑気味にパタパタと手を振る彼女。
「ああ、気にしないで、あたしの独り言」
『......はあ、そうですか』
ぼんやり口を揃えるネイトとミオ。
「それよりミオ、二回戦の相手あたしだから。よろしく」
「あらエイダ、一回戦勝ったんだ?」
驚きの声を上げるミオ。
「ふふふ、せいぜい油断しないことね。何気にあたしこのゲームやりこんでるんだから」
「ほう。それは楽しみだね」
何やら怪しげに目を光らせる二人。それを後目に、ネイトは席から立ち上がった。
「オーマさん、僕ちょっと列車の中見て回ってきたいんですけど」
「ああ、列車の一部は他の学校もいるらしいから、迷わないようにな」
ゲームの盤から目を離さず、クラス委員は気楽に手だけ振ってきた。







先頭車両、プライベートルームとして設けられた個室で──
「......研究所の偵察、気をつけてくださいね」
ぽつりと、若葉色のスーツを着た女性教師が思い出したように顔を持ち上げる。その様子を、椅子に腰掛けたままゼッセルは視界の端で眺めていた。
ケイト教師、いや教師補か。専任は青色名詠。配属されてまだ日が浅いものの、一年生の担任としてよくやっているという話を職員室でしばしば耳にする。
「うん。でも、そこまで大変な仕事ではないと思うの。単に研究所側と意思疎通できればそれで済む話だもの」
部屋の隅に置かれた観葉植物に触れながら、エンネ。
──はい噓。
声に出すことなく、ゼッセルは心中呟いた。幼馴染みの癖だ。何か不安を抱え込む時、必ず近くの植物に触れたがる。
凶悪な触媒を造りだした研究所。そして今、音信が途絶えている。単なる設備の異常か、あるいは何かしら危険を伴うものだとしてもおかしくない。事実、他ならぬ学園長から昨夜、用心しろと耳打ちされたばかりだ。
「ま、俺とエンネはぼちぼちやるさ」
......しかし気になるな。
情報収集を担当しているミラーから受け取った資料は総計三十枚。職員の過去五年分の経歴、研究所の資本金出資元、経営実績まで。しかしそのどこにも、〈孵石〉を製造した研究者の名前がないのだ。最重要とも言うべき情報が。
「ミラーさんが載せ忘れたというのは?」
「あまりそっちには期待しない方がいいな。こういう報告事例に関して、あの完璧主義者がそんな必須事項を落とすことは考えにくい」
──つまり、現時点においてトレミア・アカデミーの情報部、そしてケルベルク研究所の本部ですら、その支部における〈孵石〉の製造責任者を突き止めていないことになる。
「結局のところ、それなりに用じ......」
言葉半ばでゼッセルは口をつぐんだ。通路に響く足音。テンポが速い、走っているのだろう。それが徐々にこちらへと近づいてきている。
「ケイト先生!」
扉をノックする音に、名を呼ばれた女性教師が席から立ち上がる。
「オーマ? どうしたの」
「別車両に乗っていた他校の生徒と、うちのクラスが小競り合いに。止める間もなくうちの女子が──」
「なんですって!」
表情を強張らせ、ケイトが急いで扉を開ける。目の前に息を荒らげる男子生徒。
「女子......まさか誰か怪我でも」
が。予想に反し、息こそ荒らいでいたものの彼の様子は落ち着いたものだった。緊張というより、その表情はどこか疲れたかのような。
「あの、いえ......エイダとかサージェスとか含め、うちの猛者が先陣を切っていったので」
「あー、ユン家の娘さんか。他校の生徒も災難だな」
苦笑を隠す気にもなれぬままゼッセルは立ち上がった。
エイダ・ユン。特殊な生い立ちゆえ、トレミア・アカデミーに彼女を知らぬ教師はおるまい。ある意味それは、あの夜色の名詠を学ぶ少年よりも特異なものだ。
武家貴族として大陸中に名高いユン家、その一人娘。本来『祓名民』の第一人者として脚光を浴びるはずが、なぜか名詠の学校に入学してきた少女。当時は教師内でも話題になった。あの学園長が直接本人に意向聴取をしたほどだ。
「オーマ、争い自体は終わったの?」
「えっと、ひとまずウチの女子は全員無傷です。......今は自分たちの席で、勝利の美酒で乾杯してるくらいですから。ただあっちの学校は何人か犠牲者が出たみたいで」
ああ、早くも問題事......苦悶の表情でケイトが目頭を押さえる。彼女の肩を叩き、ゼッセルは彼女の代わりに通路へ出た。
「彼女の親父さんとは一応面識あるし、俺が行くよ。頭使うよりこういうのが楽でいい」
「あなたまで喧嘩しないようにね」
本気か冗談なのか。どちらともつかぬ口調で幼馴染みが釘を刺してくる。......はいはい、分かってますよ。
「相手の態度次第ではちょい難航するかもな。そっちは俺の分の資料読んでおいてくれ。俺が千文字以上の文読むと眠くなるの知ってるだろ」
「もう読んでおいたわ」
さすがに付き合いが長い。そう応えてくるエンネの前、彼女の物に加えいつの間にか自分の分の資料が積まれていた。
──喧嘩の仲裁か。研究所の方もそれくらい単純な話だと楽なんだけどな。
呟きかけた言葉を胸の内に押し戻し、ゼッセルは列車の後部車両へと足を進めることにした。







列車の最後尾は、テラスを思わせる設計の、吹き抜けの空間だった。夏の陽射しが照りつける中で、突風に制服が煽られるのはむしろ心地よく感じる。
「みんなで旅行かぁ」
転落防止用の柵に摑まり、ネイトは流れゆく景色を何の気なく眺めた。
......でも、アーマはいないんだ。
賑やかだった車両内と一転、耳元で唸る風鳴りと車輪がレールを軋ませる音しか聞こえてこない。
暑い気温の中、制服が風でなびくのは心地よい。でもその風鳴りも、どこか寂しい音色に聞こえてしまう。旅行という楽しいはずの騒がしさに、けれど、自分にとって最も身近だった相手がいないから。
「──ねえアーマ。僕、列車って初めて乗ったよ」
テラスを過ぎる突風に搔き消されてしまうほどの、小さな独り言。どこからも返事はない。返事が来るはずもない。それでも普段の癖で、自分の肩先に話しかけてしまう。
「すごく速くてすごく頑丈そうで......でもね、逆にそれが少しだけ」
「少しだけ、怖い?」
......今の、僕じゃない。
声は自分のすぐ近く。振り返るまでもなかった。その声が、とても自分と親しい人のものだったから。
「──クルーエルさん」
「わたしも抜け出してきちゃった」
緋色の髪を風になびかせる少女。こちらが相づちを打つより先、彼女は自分の横に立ち並んできた。
「クルーエルさん、朝大変そうでしたね」
「いつものことよ」
少女が呆れ混じりの苦笑をこぼす。そしてそのまま、数秒の静寂を挟み──
「すこし安心したよ」
移り変わる風景を見つめたまま、隣の彼女はそっと頷いてきた。
「え?」
「夏休みの間ちょくちょくキミと一緒にいたけど、時々キミが辛そうな表情してたからね。何がそんなに辛いのかなって......大体予想ついてたけど、確証はなかったから」
その自覚はなかった。自分はただ、アーマや母さんに会いたくて名詠を頑張りたい、そう思って練習しているつもりだった。──少なくとも、自分ではそう信じていた。
「ぼく、そんな表情してましたか」
「今わたしが声かける前もそんなだったよ」
口元は優しく微笑んでいるのに、彼女の瞳はどこか悲しげな色を灯したまま。
「でもその理由が分かった。だから安心したの。『早くアーマに会いたい』、どうやら悩みの方向は前向きみたいだからね」
その言葉の裏に潜む想いに触れ、ネイトはまぶたを伏せた。
......そっか。僕はこの人に、こんなにも心配をかけちゃってたんだ。
「──ごめんなさい」
「寂しい気持ちは分かるから謝らなくていいよ。でもね」
ふわりと、彼女が視線をこちらに向けてきた。
いつもと同じ。夏休みに一緒にいてくれた時と同じ。母のそれにも似た安らかな表情。
「ミオもわたしもケイト先生も、みんなキミの近くにいるんだから。もっと頼ってもらってもいいって気持ちはあるかな」
じゃあ、もしかして、クルーエルさんが夏休みも一緒にいてくれたのは。
「──風、気持ちいいね」
こちらの思いに気づかぬように、いや、あるいは気づいたからこそかもしれない。
仰ぐように、目の前の彼女は頭上の雲へと瞳を向けた。
「せっかくの旅行なんだから楽しまないと、ね?」
3
風が......湿ってる?
列車を出てふと感じた違和感に、無意識のうちにネイトは足を止めていた。
駅舎を出てすぐ、濡れた空気が顔に触れる。不思議な匂いのする風。どこか懐かしい。それはきっと、海辺が近いからなのだろう。
──そう言えば、船に乗った時もこんな感じがしたっけ。
一度だけ、母に連れられて乗ったことがある。あの時は船酔いでろくに海も見られなかったけれど、この匂いは確かに覚えていた。
「おーい、ちび君、早くこないとはぐれちゃうぞー」
離れた位置からかかる声に、反射的に姿勢を正す。ぼんやり足を止めていた間に、クラスの集団から離されてしまった。
「あ、はい!」
一抱えはある荷物を背負い、クラスメイトの後を追う。
「あれ。エイダさん、それ」
左手に荷物を抱える彼女は、右手にも細長い物を携えていた。黒布に巻かれた、彼女の身長を上回る大きさの。
「ん? ああこれか。昔の癖でさ、これ持ち歩かないと落ち着かないのよ」
やっぱり鎗か。けど、いくら何でも刃物には違いないだろう。そもそも、どうしてこんな大きな物の携帯をケイト教師が許可したのか不思議なくらいだ。
「......学校の先生たちは、あたしのこと知ってるから」
何を。そう訊ねるより先、彼女の方がさっと歩調を速めた。
「ま、色々とね」
口早に呟き、それきり彼女が押し黙る。物言わぬ少女、だから、ネイトもそれ以上は訊けなかった。
お願い、触れないで──彼女の小さな背中が、そう言っているように思えたから。







赤茶けた正門から見上げる、鼠色の巨大な校舎が陽に映える。
トレミア・アカデミー分校。芝生で覆われた本校の敷地と異なり、ここは目の細かい砂を敷き詰めた路面になっていた。
「はい、じゃあここで一度解散」
クラスを先導する担任教師が校舎のロビーで振り返る。
「うちのクラスの部屋は男子が三階東の第一室と第二室。女子が西の第三と第四ね。荷物を置いて、三十分後に中央ホールに集合すること」
本校と異なり建物は一棟。だがその大きさは本校一年生校舎のおよそ二倍。一階がロビー、二階が教室。三階が宿泊用の施設になっているらしい。
「んじゃ、うちらは東だからこっちだな」
ルームキーを握りしめ、オーマが右階段へと進んでいく。
「廊下とか、トレミア・アカデミーのものと同じですね」
「なんたって分校だからな。っと、第三......第二......ここか」
宿泊部屋の扉を開ける。さっと目を焼くまぶしい陽に思わずネイトはまぶたを閉じた。
「おー、これすごいな」
部屋に入るやいなや男子生徒が声を上げる。その視線の先は窓。
ガラスを通した視界の先──三階から見下ろす風景が青一色に染まっていたからだ。
彼方に渡る水平線。このまま世界の果てまで続いているのではと錯覚させるほど広大な、透き通った紺碧の海。その手元、一直線に広がる白砂の浜辺。
......波の音は聞こえてたけど、こんな近くだったんだ。
「めちゃくちゃ海日和だな。こりゃ初日くらい遊びに行くか」
荷物を部屋の端に置き、クラス委員のはずの男子生徒が両手を広げる。
「ええっ、今から授業じゃないですか」
「ん、ああ、冗談だよ冗談」
おどけた様子で、当人は荷物の中から勉強道具を取りだしてみせた。
「いやでも、女子だってきっとそんな感じだぜ。先生だけだよ講義したがるの」
「そうなんですか?」
クルーエルさんにミオさん、女子の方はみんな真面目に講義を受けると思うんだけどな。
「うわっ、めちゃくちゃいい天気。最高の海日和じゃん! てかビーチほとんど人いないし、これまさかトレミアのプライベートビーチってやつ?」
登山用のリュックを放りだし、サージェスが窓枠へと駆けていく。
「すっごーい。これはあれだね、泳げって言ってるようなもんでしょ」
上の制服を脱ぎだすエイダ。タートルネックのインナーではなく、なんと彼女は制服の下にすぐ水着を着用していたらしい。
ゴーグル片手に走りだそうとする二人。
「はいはい、二人とも待ちなさい」
あわやというところで、クルーエルはその首筋を摑まえた。
「ダメに決まってるでしょ。ていうかそんなことされたら、クラス委員のわたしが怒られること分かってます? それとも、分かってやってた?」
「え、ああ、冗談冗談。......クルーエル目が怖すぎ」
「ねー。優良真面目なわたしたちが、そんなことするわけないでしょ」
向き合い、互いに口を合わせる二人。
......まったくもう。服の下に水着を着ておきながら、冗談も何もないだろうに。
「あなたたちの場合は冗談に聞こえないから怖いのよ」
「クルル、クラス委員て大変だねえ」
勉強道具を取りだしながらけらけらと笑うミオ。
「......クラス委員に推薦してくれたのはどなたでしたっけ」
「えへ、あたしあたし」
まったく、天然なのか図太いだけなのか。罪悪感の欠片もない笑顔で断言してくるから困ったものだ。まあ、あえて確かめたいとも思わないけれど。
「でも先生だってきっとそうじゃない? こんな暑い日に講義なんかやってらんないって」
水着の上、再び制服を羽織りつつエイダがぼやく。
......そう思ってても、そんなこと堂々と口にする先生いるわけないでしょ。
「おおっ、こんな近くにこんな綺麗な海辺あったのか」
荷物を抱えたまま、ゼッセルは部屋の窓を勢いよくこじ開けた。
「ほとんど人いないのか! こりゃ生徒には自習させておいて海で遊──」
「ゼッセル。生徒が教室で待ってるわよ」
部屋の扉。いつの間にやら、振り返ったそこには教本を脇に携えた同僚の姿。
「......や、やあエンネさん。いらっしゃったんですか」
「今の、学園長に報告していい?」
にこりと、いつになく清々しい笑顔で微笑む女性教師。茹だる暑さのはずが、背筋が一気に冷たくなった。
「い、嫌だなぁ、冗談ですよ冗談」
「それならさっさと講義室に行くわよ」
「......はい」
渋々、講義用の教材を取り出す。
「生徒が真面目に勉強する中、わたしたちが怠けるわけにもいかないものね」
──生徒だって遊びたいに決まってるだろ。
ぼやきを内心に留め、ゼッセルは先導するエンネの背を追った。
今、思えば。
やはりあの時くらい、多少羽目を外しても良かったのではないか。そう思う。
少なくとも俺とエンネにとってあの一日が──合宿の初日が最初で最後の、そんな馬鹿騒ぎができるであろう唯一の時間だったのだから。
三奏 『逃げたくて でも、なぜか 捨てられなくて』
1
送風機の音、時計の秒針が時を刻む音、そして──生徒が鉛筆を走らせる音。
無言で机上の用紙とにらみ合う生徒たち。
大教室に並ぶ七十人強の受講生。だがその中で、実際に筆を走らせている生徒は一割といったところか。
......やっぱり、一年生にはまだ難しかったかしら。
教壇の上、一通り生徒の様子を眺め終え、エンネは胸元で腕を組んだ。
トレミア・アカデミーへの入学時点で、生徒は自分の専攻色を決めている。この教室に集まっている生徒は、自分の教える『Arzus』を専攻とする者たちだ。ハイスクールに入りたてとはいえ、専攻色の知識は多少なりとも持っているはず。それを踏まえた上で──『Arzus』の第二音階名詠において詠び出せる小型精命を列挙し、他色に属する小型精命と比較考察した上で、その共通点及び相違点を述べなさい。
エンネの用意した課題がこれだ。
だがどうやら、他色の小型精命と比較しろという点が鬼門だったらしい。自分の専攻色に属する小型精命、たとえば有翼馬について書けても、『Surisuz』の小型精命であるウィル・オ・ウィスプの特徴まで覚えている生徒は僅かだった。
......一年生だもの、仕方ないか。
午前の講義終了の予備鈴に、小さく吐息。
「みんなごめんね、他の色の事を書けっていうのはちょっと意地悪だったわ。それは抜きで、『Arzus』の部分さえ書いてあればいいから。書けた人から提出して、お昼ご飯にしてください」
案の定、今まで唸っていた生徒が途端に安堵の表情に。
「ですよね、先生これ意地悪すぎですよ」
「もー、それだけなら一時間前に書き終わってましたよ」
雑談混じりに試験用紙を提出する生徒たち。教壇に並ぶ列が終わった頃には、教壇に用紙の山。あっという間に教室から生徒の影が消えてしまった。
これで全員かしら。
乱雑に重なった紙束を整え、再び教室内を見回した。
「あら」
教室の最後列、その隅。人目につかない席に一人だけ生徒の姿が。
「どうしたの? もう無理しないでいいから」
「んー、でもあと一色書けてないんです。他四つは何とか書いたんだけど」
用紙に視線を落としたまま生徒が呟く。
「『Arzus』だけで良いのに、すごいじゃない。それだけ書ければもう提出して十分よ」
「......えっと、それがねセンセ」
ようやく生徒が顔を持ち上げた。日焼けしたボーイッシュな顔立ちで、すっとこちらを見つめてくる。
「『Arzus』以外の色は書けたんだよ。でもさ、肝心の『Arzus』が書けてないんだ」
──エイダ・ユン。
『Arzus』以外の色を全部書いた? それはどういうこと。
「ちょっと見せてもらっていいかしら」
机上の用紙を手に取る。
......なにこれ。
手にした姿勢のまま、その用紙に記述された内容を凝視した。
黄の小型精命──その外見は黄色い球形の浮遊体。人語は話さないものの、ある程度単純な命令ならば解するとされている。
大きさは、統計上九十五パーセントの割合で直径七十センチから百センチの範囲。最大百十三センチというのが公式に報告されている。地上六十センチから八十センチの間を浮遊し、その移動速度は時速三キロと遅い。術者の力量によっても異なるが、その存在時間はおおよそ五時間。力を消費すればその分、滞在時間は削られていく。
臨戦態勢になると青白く発光し、注意が必要となる。高圧電流を帯びた青い触手を伸ばし相手を感電させる。触手を伸ばす速度は移動速度の十倍。触手の長さは全固体で一律となっており、最大百六十七・三センチ。触手の本数は最大三本、その太さは一センチ弱。上空及び横方向への攻撃は可能だが、自分の真下に触手を伸ばすことは不可能。
特筆すべき点は特になし。
討伐難易度、易。
名詠士にとって肝心な触媒・〈讃来歌〉については一切触れていない。それと対照的、その生態については異様に細かい記述。名詠の際に必要な知識ではなく、どちらかと言えばこれは──むしろ、この黄の小型精命と対峙した時に必要となるデータ?
「討伐難易度......、易?」
「あっ!」
自分の呟いた一言に、少女の方が表情をしかめる。
「書いちゃってましたか。つい昔の癖で」
「う、ううん。別に書いて悪い事じゃないから」
試験用紙をめくる。他の名詠色における名詠生物。これらについても全て、詳細な記述があった。それも触媒や〈讃来歌〉には触れず、ただ圧倒的に綿密な生態データの列挙。
『Arzus』については書く時間がなかったのだろうか。
──いえ、違う。彼女は本当に書けなかったんだ。
エイダ・ユン・ジルシュヴェッサー。試験用紙に書かれた名を見て、エンネはようやくその理由に行き着いた。
赤の小型精命、緑の小型精命。
「ここに書かれてあるの、全部攻撃的な名詠生物ね」
少女からの返事はない。その沈黙が、何より自分の推測を正しい物と感じさせる。
そう。『Arzus』の第二音階における有翼馬や一角馬は攻撃的な習性を持っていない。だからこそ、彼女はそれについて習っていなかったんだ。
やはりそうだ。この少女が持つ名詠生物についての知識は全て、その名詠生物と戦うための知識。
「『Arzus』、書かなくちゃだめですか」
困った表情で頰をかく生徒。
「そうね。せっかくここまで書いたのだから『......以上のことと比較し、『Arzus』の小型精命の特徴は、攻撃的な性格の名詠生物が少ないことだ』とでも書いてちょうだい。それで提出してもらえばいいわ」
「あ、そっか! その手があったかぁ!」
威勢良く頷き、少女が試験用紙にかじりつく。
──あれ、瞬きしていない?
ふと気づいたが、実際に筆を走らせている時の彼女の集中力は中々に大したものだった。普段の授業では割とよそ見しがちな、あまり熱意の見られない生徒だと思っていたのに。
「はいセンセ、できたよ! やれやれぇ、やっと終わったぁ」
いそいそと机の上を片付ける生徒。彼女が鞄を肩にかけるのを待って、エンネはその背中に声をかけた。
「ねえエイダさん」
「ん?」
「個人的な話になっちゃうのだけど、あなたのお父さんはあのクラウスさんよね?」
明るい表情が一転、少女の双眸に影が差す。
「......まあ一応、あの有名人があたしの親父っぽいですよ」
クラウス・ユン・ジルシュヴェッサー。武家貴族たるユン家の家長にして、数百を数えるであろう祓名民の首領たる人物。
祓名民──名詠士と最も密接な関係を持ち、同時に最も対極的な者たちだ。
『Nussis』、反唱とも呼ばれる、名詠物を送り還す術式。触媒を持ち相手に直接触れるというスタイルをとるが、あの競演会での事件、自分を助けるため反唱を用いたカインツが左腕を犠牲にしたように、その技法は常に危険を伴う。
「あなたもやっぱり祓戈を持ってるの?」
この問いに関しては、この少女はそれほど迷った様子もなく頷いてきた。
「あれは、祓名民の家に生まれた人間なら必ず持ってますよ」
素手で相手に触れるという、危険を伴う反名詠。それゆえ、素手の代わりに鎗を使って反唱を行う技法が編み出された。
鎗の先端に五色の宝石を付設し、名詠対象をその鎗で突いた際に『Nussis』の術式を用いて送り還す。その特殊加工を施した鎗を『祓戈』、そしてその技法に特化した者が『祓名民』と呼ばれるのだ。
「ユン家のあなたは、祓名民の道に進もうとは思わなかったんだ?」
「......どうだろう」
あやふやに言葉を濁す少女。その表情を見るに、あまりそれに関心を持っているという印象は抱かない。
現在、祓名民は本家であるユン家の他、いくつかの分家に分かれており、その家に生まれた子供は代々祓名民となるのが伝統だ。中でも本家たるユンは先人の活躍もあり、代々要人の護衛につくことが伝統となっている。今では武家貴族として確固たる地位を得るに至るほどだ。
エイダ・ユン。もしそれを望むなら、クラウスの後継という偉大な地位も望めるというのに。
──いえ、祓名民としての訓練を受けていたのは間違いないはずよ。
それは、この模擬試験の結果が如実に示している。これらの知識はおそらく、決して書物から学んだものではない。知識の全てが、彼女が実践で身を以て、それこそ脳ではなく骨の髄に刻み込んだもの。
「......まあ、あたしの方は生憎、そっちの才能なかったみたいですから」
「才能?」
「そそ。練習っていうか訓練ていうか、あたしそういうの割とすぐ逃げちゃうんで」
頭の後ろで手を組み、自嘲じみた表情でエイダが笑う。
「......でも」
言い終えるその前に。
「ねね、センセ、あたしも一ついいかな」
なにかしら。視線で先を促す。
「エンネ先生って最上級生の担任だよね。なんで一年生の臨海学校に来てくれたの」
「一年生の担当の方が体調崩されたの。それでわたしが急遽参加することになったのよ」
それはある程度、最初から想定されていた生徒からの質問の一つだ。淀みなく、こちらも用意していた答えを返す。そう、返したつもりだった。
「あ、それ噓」
途端、少女の視線が鋭くなった。
「え?」
「それだとさ、ゼッセル先生も一緒について来た理由にならないもん。急遽って言われても、それじゃ納得いかないよ。そもそも、一年生の担当で今回の臨海学校に来てない先生は確かに一人いるけど、その先生は前から旅行行くって嬉しそうに話してたしね。体調崩したからって理由も嚙み合わないよ」
あまりに整然とした言いように、言葉に窮した。ゼッセルとの打ち合わせの際、確かにそれは自分も気に掛けていた。けれど、そもそもそんな突っ込んだ追及をしてくる生徒はいないだろう。心のどこかでは、そう高をくくっていた。
──だけどまさか、それを突いてくるのがよりによってこの子だなんて。
普段この少女はどちらかといえば、遅刻が多く成績も芳しくない問題児と聞いていた。それがこんな些細な疑問まで注意を払っているなんて。担任のケイト教師からもそんな情報はなかった。
......どうする、ここから俄仕込みで噓を重ねるか。あるいは単に言葉を濁すか。
「ええと、それは」
言いかけた時、午前の講義終了を報せる鐘が鳴り響いた。
「お。やっと昼ご飯か!」
緊迫な空気から一転、自分に背を向け、何事もなかったかのようにエイダが教室の出口へと走りだす。
「え、ちょ、ちょっと。エイダさん?」
「ごめんね先生、午後はクラスのみんなで海行く予定なの!」
無邪気な笑顔で言い残し、少女はあっという間に消えてしまった。
「ま、待って!」
それを追いかけようとした瞬間──
窓の外の世界が、真紅に燃え上がった。
「......えっ?」
二階にあるこの大教室。その窓からも全容が見通せないほど、異様な猛火が眼前に在った。それも、気味が悪くなるほどに色が濃い。真っ赤という言葉を超えた緋色。炎というより、さながらそれは、人の鮮血を思わせる。
──一体、何が起きたっていうの。
天上すら焦がすように、どこまでも果てなく燃え立つ緋色の炎。あまりの眩しさに目を開けていられない。窓の外、位置的には校庭近くの広場だったはず。この時間はたしか、ゼッセルがそこで名詠の実技指導をする予定になっていた。
ならばこれはゼッセルの? いえ、こんな化け物じみた炎、果たして彼が全力でやったって詠べるかどうか。そもそも、実技指導で彼がここまでする理由がない。
眩しいながらもその炎を睨みつけ、その途端──唐突に、その眩しさが消え去った。
「炎が、消えた......?」
矢継ぎ早に起こった一連の出来事に、エンネは無意識的に息を呑んだ。
既に先の静けさを取り戻している外の世界。見れば、教室に入り込んでいた火の粉も消えている。
さっと窓の傍にかけよる。しかし、窓から見下ろした広場にそれらしき人影はない。
生徒もゼッセルも見あたらない。つまり、既に彼の講義は終わってたということになる。ならばやはり、あれはゼッセルの名詠ではなかったのだ。一体誰が──
「エンネ、いるか?」
やや大きく、教室の扉がノックされた。
「ゼッセル!」
がらりと音を立てて開く扉。入ってきたのは、珍しく整った服装の同僚だった。
「ゼッセル、広場で上がった炎見た?」
「そりゃ、あれだけ派手なら嫌でもな」
のほほんと、陽気な口調で頷く彼。動じた様子がない、つまり。
「もしかして、あの炎を名詠したのが誰か分かってる?」
「ああ。さっき広場で講義してて、一人だけ毛色が違うのがいたんで気になってた。そしたらそれが、講義が終わって他の生徒が校舎に戻っても、その一人だけが戻らないときた。んで、ついつい物陰から様子を見てたら案の定、ってとこだ」
まさか、さっきの炎は生徒が名詠したというの。まだハイスクール一年目の生徒が?
「その生徒、誰」
最上級生を教えるエンネだが、名詠に秀でた生徒は他学年の者でも覚えるようにしている。一年生でも、数名は目をつけている生徒がいた。
ところが──
「いや、言っても分からんと思う」
やおら、彼は考え込むように頭上を見上げた。
「どうしてそう言い切れるの」
「......ノーマークだったからさ」
試すような口ぶりで呟き、彼が肩をすくめてみせる。
「エンネ、競演会で真っ赤な羽根をやたら沢山詠び出した生徒って覚えてるか?」
真っ赤な羽根? 名詠式において、羽根を詠び出すのはさほど難しい部類ではない。競演会においても、羽根ではなく無数の鳥を名詠した生徒の方が注目を浴びていた。自分も鳥を名詠した生徒の顔は覚えているが、羽根となると。
「......すぐには出てこないわね」
「無理ない。俺も、ついさっきそれを思い出したくらいだしな」
競演会の発表時点では他の生徒と変わらない。しかしこの合宿の時点では既に、ゼッセルが自然と一目置くほどまで成長したということ?
「そんなとこだな。競演会から今日まで、その間あの子に何があったかは分からない。だけどもし、このままの速度であの子が名詠を覚えていけば」
どこか楽しげに、彼の口調に抑揚がつく。
「来年の今頃には間違いなく、他の上級生を抑えて『Keinez』の筆頭生徒になる。いや、来年を待たず今年中にもなるかもしれない。とにかく俺から見ても、ちょっと怖くなるくらいの子だ。大した原石だよ」
「教師としては冥利に尽きる?」
「上手くいけばの話だな。......むしろ、少し不安もある」
珍しく、歯切れ悪そうに彼は続けてきた。
「講義中に名詠に成功すると、大抵の生徒は喜んで俺に報告にくる。だけどあの子だけは違った。上の空って言えばいいのかな。怯えたような表情つきで、俺が声をかけるまで口もきけない感じだった」
名詠とは、自分の願う物を賛美し詠びよせる式。だからこそ、自分で名詠した物に自分が驚くというケースは本来ありえない。怯えるなど、もってのほかのはずなのに。
「いやまあ、それは俺の杞憂だろうけどさ。ていうか、そうであって欲しい」
いないと分かっていても、今一度、エンネは窓向こうの広場を見下ろした。いずれにせよ、今はその子に何かができるわけでもないらしい。
「ありがと、大体事情が摑めたわ。心配してたの。最初はあなたが、生徒に煽てられた挙げ句やらかしたかと思ってたから」
「......あ、そうですか」
拗ねたように顔を背けるゼッセル。まったく、子供みたいね。その様子に盗み笑いし、彼に先導する形でエンネは通路を歩き出した。
「さ、行きましょ。急がないと今日中に帰ってこれないかもしれないし」
──目的地は、〈孵石〉を精製したケルベルク研究所。
2
「じゃあ、今日はこれくらいにしましょう」
クラス担任であるケイト教師が教本を閉じる。
「はい。ありがとうございました」
「もうお昼ご飯の時間なのに、ちょっと遅くなっちゃってごめんね」
「い、いえ......僕が勉強してなかったからなので」
教本を鞄の中に詰めつつ、ネイトは大慌てで首をふった。
トレミア・アカデミーの講義は単位制になっており、必須科目の他、各々が自由科目を選択して受講する仕組みになっている。
ネイトの受けた講義は名詠式における必須科目の一つ、歴史学だ。トレミア・アカデミーに転入する以前、自分ではほとんど未習だった分野でもある。
「教師と二人っきりは、やっぱり大変だった?」
苦笑混じりの視線で、ケイト教師が面白がるように聞いてきた。この科目は、他のクラスメイトは夏休み以前に履修済み。残された自分はそのおかげで、こうしてケイト教師と一対一での勉強会だ。
「......大変と言えば大変でした」
「正直でよろしい」
にこりと、むしろ楽しそうに微笑む教師。
「ちなみにこの科目ね、あの虹色名詠士さんも苦手だったらしいわよ」
「カインツさんが、ですか?」
「教師長がこっそり教えてくれたの。あの人、昔カインツさんの先生だったこともあるから」
ジェシカ教師長。転入の際に一度会っただけで、それ以降あまり話した記憶はない人だ。普段は学園長の傍に控えており、教師というより、今は学園長の秘書に近いらしい。
「カインツさん、学生の頃から優秀だったんですか?」
「学生時の成績は学校で真ん中だったらしいわ。というより、あまり学校の講義には興味がなかったらしいんだって。今の歴史学も含めてね。歴史に名を残すような人が歴史の勉強をしていないっていうのも、なんかちぐはぐな感じだけれど」
──そういえば、お母さんも名詠式の歴史は教えてくれたことなかったっけ。
偶然か必然か。そういった部分も、母と虹色名詠士は似ていたのかもしれない。
「さて、蛇足もおしまい。お昼ご飯にしましょ。早く生徒食堂行かないと自分の席も取れないわよ」
あ、しまった。そう言えば、お昼ご飯一緒に食べようってミオさんとクルーエルさんから誘われてたんだっけ。
「ごめんなさい、お先に失礼します!」
鞄を小脇に抱え、ネイトは慌てて通路へ飛び出した。







一階ロビーから外れた、吹き抜けの道。瑞々しく茂る草木が規則正しく植えられ、頭上には雨を防ぐための簡素な屋根。
屋根の支柱に背を預けたまま──
クルーエルは、ぼんやりと頭上の屋根を見上げていた。熱い陽射しに、熱い風。汗ばむ額を拭うこともなく、その静けさの中にただ身を委ねる時間。
その静寂を破ったのは、馴染みのある友人の声だった。
「あ、クルルいたぁ!」
とてとてと、見知った顔の少女が走り寄ってくる。
「......ミオ?」
その後ろにネイトの姿も。
「クルル、お昼の時間になっても来ないから探したんだよ」
「あれ、もうそんな時間?」
ぼんやりとした目をこすり、クルーエルは寄りかかっていた支柱から背を離した。
「......ごめんね、授業が早く終わって少しぼうっとしちゃってて」
「まったくもー」
ぷくりと頰をふくらませ、ミオが胸の前で腕を組む。
「ミオさんと見てきたんですけど、やっぱり食堂混んでました。三人分の席はちょっと空いてなさそうな感じで」
「仕方ない、食堂でご飯だけ買ってきて外のベンチで食べようか」
顔を見合わせ頷く二人。
「あ......ミオ、悪いけど、わたしの分も買ってきてくれるかな」
「うん、そだね、食堂混んでるから一人でまとめて買ってきた方がいいもんね」
──ううん、違うの。
理由は別にあった。けれど、それは言い出せなかった。
「......クルーエルさん?」
ミオが食堂の方へ駆けていくのを見送り、ややあってネイトがこちらを見上げてきた。
「クルーエルさん、何かあったんですか」
「何かって?」
深紫色の髪をゆらし、彼は不安そうにおずおずと。
「......なんか、クルーエルさん今日元気なさそうに見えて」
じっと見上げてくるネイトに、クルーエルはそれとなくまぶたを伏せた。
──キミは、そういう部分が本当に敏感なんだね。
前から薄々感じてはいた。顔色を窺うといった類のものじゃない。純粋に、この少年はそういった部分が聡いのだろう。
「うん......またちょっとだけ、迷っちゃった」
ごまかすように、せめて精一杯の作り笑い。
......でも、なんて言えばいいんだろう。うまい言葉が見つからない。だから──
「あのさ。キミは、怖いと思ったことってない?」
ひどく直接的な、何の飾りもない言葉を、クルーエルは素直に口にした。
「怖いって?」
「名詠式が、だよ」
その意味を推し量ることもできないのか、彼の方は目を丸くしたままだった。......やっぱり、わたしの質問の方が変なだけなのかな。
「あのね。さっきさ、広場の方ですごい炎が巻き上がったの知らない?」
「あ、僕それ見ました!」
興奮混じりの表情で少年が口を開けた。
「すごかったですよね。一緒にいたケイト先生も驚いてたし、他の先生も原因を調べに行ってたみたいです。そのせいで授業がちょっと遅れちゃったくらいだから」
「──ネイト」
あれ詠んだの、わたしなんだ。
「............え」
沈黙。優に数秒、ネイトが息をすることも忘れて立ちつくす。
「うそ......いや、でも......まさか、クルーエルさん?」
「信じられないよね。でも本当なの」
うん。すぐには信じてもらえない方が当たり前。
わたしだって、自分で信じられないんだから。
「わたしね、競演会でたまたま黎明の神鳥を詠びだせたでしょ。それから、少し変なの。なんか、こんなこと言うと変かと思われるかもしれないけど」
一呼吸。小さな余韻を残したまま──
自分の両の掌を見ながら、おずおずとクルーエルは先を続けた。
「名詠の調子が良すぎるの」
「良すぎる、ですか?」
ぽかんと、彼の方が赤子のようにそれを復唱する。
「ごめんね。自慢みたいに聞こえちゃうかもしれないけど......でも、本当に違うの。本当に怖いの」
今日の午前中に行われた名詠の実技指導。課題として出された名詠が、自分でも不思議なくらいあっさり成しえた。〈讃来歌〉すら詠わず、名詠に要した時間は僅か数秒。
いいえ、それだけじゃない。他の生徒の名詠が、ひどく幼く思えて仕方なかった。
あまりに稚拙な想像構築、〈讃来歌〉。手に取るようにその組成が見透けてしまえた。こと『Keinez』に関して、できないことは何もない、そう錯覚してしまいそうなくらい。
「これはきっと勘違いだ。そう思ってさ、授業が終わった後に一人で残って、火の名詠をこっそりやってみたの......触媒は、普通の赤い絵の具」
その結果が、あの凄まじい炎だった。周囲に誰もいなくて本当に良かった。もし自分の近くに誰かがいたら──あれは、ただの火傷じゃすまなかった。
「......それが、すごく怖かったの」
両手で、クルーエルは自分の身体を抱きかかえた。寒いわけじゃない、ふるえてるわけじゃない。痛みとして感じ取れるくらいに上り詰めた心の昂ぶりと、身体の火照り。それが、どうやっても鎮まらないから。
競演会で真精を詠んだ副作用なのかもしれない。きっとわたし、一種の興奮状態になっちゃってるんだ。でも、こんなの違う。
「こんなの、いやだよ。わたし、そんなつもりで神鳥を詠んだんじゃないのに......」
競演会で見た、あの力と暴力に頼った最上級生のように。自分が何でもできると過信して、名詠が暴発したらどうしよう。あの時の五色のヒドラじゃないけど、わたしがああいう物を名詠してしまう危険性だって、きっとある。
その可能性に気づいてしまった時、目眩にも似た寒気がした。
「だから、急に名詠が怖くなっちゃったの」
わたしの言葉の余韻が途切れるその前に。
「──でも」
普段遠慮がちな彼が、いつになく強い口調で言ってきた。
「でも、僕、クルーエルさんはあの最上級生の人みたいにはならないし、そんな怖い名詠詠んだりしないと思います」
そう言ってくれるのは嬉しいよ。けど、だめなの。わたし......
「ううん。僕、信じてますから」
お願い、今は、そんな目で見ないで。
「ありがとう......でも、ごめん。わたし、今は自分で自分を信じられないの」
思わず目を逸らしてしまった。あまりに真っ直ぐな彼の瞳が、今だけは切ないほどに苦しかったから。
「──クルーエルさん」
ふと、彼の声音が変化した。
「お願いです。自分を信じられないなんて......そんな、そんな悲しいこと言わないで」
目を逸らしたはずなのに、思わず彼の方へと瞳を向け──
溢れる泉の水面の如く。
彼の黒瞳がゆらゆらと揺れているのを、見てしまった。
......ネイト?
「クルーエルさんは、自分を信じられないような人じゃないです。だってクルーエルさんは、それをこんなにも怖がってるんだから」
唐突に、前触れなく──
「......な、なに?」
彼は、両手でわたしの手をそっと握ってきた。
「あ、あのさ、ネイト?」
「だから、きっと平気です。僕、クルーエルさんの名詠なら、どんなものだって怖くないです。名詠が怖いのなら、僕も一緒にいますから」
ち、違うの。手......いきなり何を──
「おまじないです」
にこりと、その少年が微笑んだ。その目の端に、小さなしずくを浮かべたままで。
「競演会で、クルーエルさんが僕にしてくれたことです」
......わたしが。
〝だいじょうぶ。わたしも一緒にいてあげる。一緒に詠んであげるよ〟
一字一句違うことなく、あの日あの時の光景が脳裏に繰り返される。
「僕、クルーエルさんの詠、大好きです。誰の詠よりも優しくて綺麗で、素敵です。......だからお願い、自分を信じられないなんて言わないでください」
言葉を詰まらせながらの、おせじにも流麗とは言えない口ぶり。それでも彼は一生懸命、わたしに精一杯自分の気持ちを伝えようとしている。それが、伝わってきた。
──そっか。
こんなにまでわたしは、キミに信じてもらってたんだ。
ちくりと小さな痛みを伴って、胸の奥で生まれた何か。最初は痛かったはずの、言葉にもできないふしぎな何か。でもそれは次第に、それは優しい温かみへと変わっていた。
わたしずっと、わたしにできることはしてあげたいと思ってた。......でも、違った。わたしも本当はキミに、こんなにも心配をかけちゃってたんだね。
「あのぉ、もしかしてあの時のこと忘れちゃいました?」
黙ったままの自分を、彼が寂しげな瞳で見上げてくる。
「ばか。忘れるわけないよ」
つん、と、自分を見つめてくる少年の額を指先でつついた。

「......痛いです」
「痛くないよ、男の子でしょ?」
からかうように、クルーエルは片目をつむってみせた。
──ごめんね、心配かけて。
でも、少し楽になったよ。自分のこと信じられないなんて、もう言わないから。
「......あのさ」
なんか、キミってふしぎ。
手のかかる弟に思えることも、落ち込みがちな友人のように思えることもある。けど、普通の学友のはずが──なんだか放っておけない、とても大切な人に思えることもある。
わたしには、まだ分からない。
「わたしたちの関係って、何なんだろうね」
ねえ、キミ自身は、どう思う?
「え、か、関係って? えっと......クラスメイト?」
悩みに悩んだ挙げ句、大まじめに答えてくる彼。
うん。今は、きっとそうなんだよね。だけど──
「でもね、もしかしたら、これから変わっていくかもしれないよ?」
「変わるって?」
「ふふ、何だろうね」
「えー、教えてくださいよ」
首を傾げたまま頰をふくらませる少年。まだまだあどけないその仕草。やっぱり、お姫様を守る騎士にしては、まだキミはちょっと頼りないかもなぁ。
「わたしにもまだ分からないよ。ま、いいやそれは。......あ、ミオ帰ってきた。さ、どこでご飯食べよっか」
「......クルーエルさんずるぅ」
「ほらほら、早くご飯食べないと。午後からクラスのみんなで海行くんだから」
3
頭上から燦々とそそぐまばゆい熱線。珊瑚を細かく砕いて敷き詰めたような白地の砂。透き通った紺碧の海。押し寄せては返す澄んだ波に、日常の鬱憤すら流れていくような。
トレミアの敷地ということで、一種のプライベートビーチのようなもの。まさに楽園と呼ぶにふさわしい。
しかし──そんな光景もいいが、オーマたち男子生徒の関心は別にあった。
「......ネイトの奴、おいしいよな」
日陰で、砂浜に腰を下ろしたまま前方を見つめる水着姿の男子その一。
「ああ、本人があれの価値を理解してないってのが余計にな」
右手にジュース、左手に団扇。それに遮光眼鏡を着用しつつオーマは渋々頷いた。
その視線の先。
水着姿の女子十数人と、それに混じって遊戯に興じる子供がいた。
「ほら、ネイティ、そっち行った! 拾って!」
「え......あ、え......?」
風に流れるボールを必死で追いかける幼い少年。砂浜に慣れていないのか、その足取りはよろよろと、先ほどからどこか不安定だ。
「あ、あ、あーっ!」
頼りない少年の悲鳴。間を置いて、ぽてっとボールが砂浜に落ちる音。
「あはは! だめだなぁ、ちび君」
「でも、かわいー」
「うん。かわいいから許す! ていうかそれでいい!」
少年がボールを上手く繁げた時より、むしろ失敗した時の方が歓声が大きかったりする。
いかに上手いプレイをするかではなく、いかに面白可笑しいミスをするか。そっちの方をこそ、この少女たちは楽しんでいるらしい。
「......あれか、あれがうら若き十三歳の少年の魅力か」
「顔も男というか、中性っぽいしな。背も低いし華奢だし。女子にしたら、からかいがいというか、いじりがいがあるんだろ」
当初あの少年はライバルとして認識していなかったがとんでもない。恐るべき強敵が転入してきたものだ。
「あれ、そういや他の男子どこ行ったの?」
近くの売店に行っている者、海で素潜りを楽しむ者。男子生徒の方はそれぞれが好き勝手しているようだが、それにしても人数が少ないような。
「ん。ほらアレだよアレ」
オーマが顎でさすその方向。遊びに用いるボールを持ったまま表情をしかめる金髪童顔の少女と、それを呆れ顔で見つめる緋色の髪の少女。
「むー。おかしい。バレーの本では確かに理屈上......ここをこう打てばしっかりボールが飛ぶはずなのに。本読んでないクルルのがあたしより上手い理由が思いつかないのに」
「ミオ、だから本に頼りすぎだってば。実際に練習しないと上手くならないよ」
「......そっか。そうかもね」
「それより、泳ぐ練習するんじゃなかったの?」
「うん、それなら今から水泳の本を読んで──」
「......人の話聞いてないわね」
その様子をしばし眺め。
「ミオとクルーエルがどうかした?」
「無謀な奴ら数人。この旅行がチャンスだってあいつらに告白してきたらしい」
ほう。小さく感嘆の吐息を洩らし、男子生徒その一は女子の集団を盗み見た。言われてみれば、男子複数人が狙う理由も確かに納得できてしまう。
ミオ・レンティア──紙上試験では学年随一とも噂される秀才。であると同時に、愛らしい笑顔と穏やかな物腰が際だつ女の子だ。誰隔てなく接する彼女の振るまいは、生徒だけでなく教師からの信頼も厚い。
かたや、クルーエル・ソフィネット。面倒見が良い性格で容姿も頭一つ抜けているし、運動神経も抜群。試験の成績は控えめに言っても良くはないのだが、それもまた愛嬌というものだ。
「で、結果は?」
「『......ごめんなさい。わたしたち、まだそういうの──』だってさ。該当者数人は傷心旅行中。離れた砂浜でしばし心の傷を癒してくるらしい。そっとしといてやれ」
「......次は俺が」
「やめとけ。返り討ちにあう犠牲者が増えるだけだ」
冷淡に視線を交わし、オーマは遮光眼鏡のブリッジを持ち上げた。
「よし、次ボール落とした子、罰ゲームね。ボール落としたら、明日の講義はこの水着のまま出席ということで!」
女子全員が可笑しげに歓声を上げる中、顔を真っ青にする少年が約一名。
「え。ちょ、ちょっとそれは......あの、嫌な予感が」
「というわけで、行くよネイティ」
「う、うわ! なんでいきなり球が速くなるんですか!」
「あら、ネイト君上手く拾ったじゃない。じゃあもう一度」
「え、な、なんで......いやそれは遠慮──わぁっ!」
「ちっ。二回連続生き残るとは、やるわね」
「あ、あのですね。今あからさまに舌打ちっぽいのが」
「よし今度こそ。じゃあちび君、三回連続に挑戦だ!」
「うわああっ! やっぱり僕狙いじゃないですかぁ!」
「あっ、ネイティ逃げた! 全員、追えー!」
「てか、男子禁制なのになんでネイトだけ許されてるの?」
もはや諦めた口調で呟く男子生徒その一。
「許されるっつぅか、むしろ強制参加させられてたしな」
午後、自由時間のため男子生徒全員でビーチに集合という予定になっていた。集合時間、ほぼ全員の姿が見える中、ネイトの姿がどこにもない。
オーマ含め男子一同で探すさなか──突如聞こえてきた擦れた悲鳴。見れば......女子生徒複数人に手足を縛られ、遥か彼方へと連行されていく少年の姿。

誘拐犯に何度か身柄の引き渡しを交渉したものの、あいにく彼女たちの目的は身代金ではなく、その少年本人だったらしい。
「......く、あれがうら若き十三歳の少年の魅力か」
それ、さっき聞いた。
「男として見られてないってのも、それはそれで哀れな気もするけどな」
「ちょっ、ちょっとオーマさん! 黙って見てないで助けてくださいぃー!」
今なお、追いかける女子集団から逃走するネイトの姿。
「......今ネイト何か言ったか?」
「いや、聞こえなかった。空耳だろ。助けてくれだなんて俺は聞いてないぞ」
きっぱりと首を振り、オーマは鞄から読みかけの雑誌を取り出した。
......くそ、なんて羨ましいヤツ。







「あーあ。今頃、生徒諸君は海辺で仲良く遊んでるのかな」
砂地を敷き詰めた路面。足下に転がる小石を、ゼッセルはぼやき混じりに蹴りつけた。
「さっきからそればっかりね」
横に立ち並ぶエンネが苦笑する。
「ミラーは情報部に缶詰なんだから、それと比べれば良い方じゃない」
「いや、あいつ海嫌いなんだ。泳げないから」
「......まだカナヅチ直ってなかったの?」
同僚の声に混じる、どことなく楽しげな感情。
水泳の教本を読んだ限り理屈上はこれで浮く──エルファンド学舎時代、水深一メートル二十センチのプールで何度あのインテリがその言葉を残して溺れたことか。
「ほら、卒業旅行でも海行ったの覚えてるか?」
「随分昔のことだけど、まあ一応」
くすりと笑い声を上げ、エンネが口元に手をあてる。普段教師として見せる淑やかな笑みではなく、自分やミラー、幼馴染みの間でだけ彼女がこっそり見せる快活な笑いだ。
「青色名詠を教える教師なのに、よりによって海が苦手ってのが個性的よね」
卒業旅行の五日間。ただ一人ミラーだけは、最後まで海に入ろうとはしなかったのだ。
「まあどっかの誰かさんも、十六歳間近なのに浮き輪使っていましたけど」
「今は泳げるわよ。特訓したもの」
「どうだか、今回も旅行鞄に浮き輪入れてたろ。エンネ先生、案外泳ぐ気まんまんですね」
「......何で知ってるのよ」
ばぁか、鎌をかけてみただけだっての。
むっと口を尖らせる彼女。その様子に微苦笑し──その何気ない会話は、唐突に終焉を迎えた。
砂の路面から一転、硬く乾いた土が広がる敷地へ。
「......さて、お伺いするか」
一息分、ゼッセルは肺に残る澱んだ空気を吐き出した。
ケルベルク研究所、フィデルリア支部。
褐色の巨岩に刻まれた所名を後目に、開放されている門を越える。
......開いてる、か。
それほど広いわけでもない敷地は、雑草が無秩序に繁るだけ。
「誰かいたか?」
「見た感じ、外には誰もいないと思うけど」
「んじゃ、内部の方お邪魔させてもらうか」
研究所正面扉。その脇に設置された来訪者用のブザーに手を触れた。機械的な呼び出し音が内部でこだまし、その余波が正面の扉伝いに自分たちまで響いてくる。
「鳴ってるのは確かだな」
──なのに、なぜ内部からの応答がない?
隣に目配せする。こちらの意図が伝わったらしく、エンネが無言で首肯する。
左手に咄嗟用の触媒を隠したまま、右手で研究所の扉を開いていく。ギィッという錆びついた音を立て、徐々に口を開いていく研究所。
「......暗い?」
電灯が灯っているかと思ったが、内部は数メートル先すら見通せない暗闇の帳が降りていた。やはり、何かおかしい。
開けた扉へ外から陽が差し込む。僅かずつ、数メートル先の展望が明らかになり──
玄関ホールの光景が、視界に触れた。
「............っっ!」
声にならない悲鳴をエンネが上げる。
倒れかける彼女の肩を摑み、ゼッセルはかろうじて平静を装った。
......これは何かの冗談だよな。
石像。最初はそう思った。そう。玄関のロビーに飾ってある記念碑の類なのだろうと。
だが凝視すればするほど、それがただの石の彫刻でないと、嫌でも理解しなくてはならなくなった。あまりに生々しく、そしておぞましい。
お伽話等で何度も読んだことがある。だがまさか、こんな現象が現実にあるだなんて、今、この時まで欠片も信じていなかった。
何かに怯えたような形相の石像。必死で逃げようとする格好の石像。
──目の前にいたのは、石化した研究所の職員たちだった。
4
押し寄せるさざ波の音。靴が白砂を踏む、軽く小さな音色。同じ一歩のはずなのに一つ一つが違う音、聴いていて飽きることがない。潮風を受けながらの砂浜の散歩は、ネイトにとってどこか新鮮なものだった。
「あ、貝殻」
深い紫色の外面に、内側は紅色。不思議な色合いの二枚貝を拾い上げる。
「......クルーエルさんにあげようかな」
昼の青い海ではなく、夕焼けに染まった水平線。夜が始まる直前。だからこそ、余計に陽を身近に感じる時間が夕焼けかもしれない。
ふと。波飛沫に混じり、何かが宙を切る鋭い音が鼓膜に届いた。
──あれ?
自分が進んできた方向の直線上、無人と思っていた砂浜に人影が見えた。歩を進めるにつれ、次第に速まる風鳴り音。速いだけではない、確実に強くなっていた。
既視感。
夕陽を浴びながら鎗を振るう少女が、数日前に見た屋上の光景と重なった。
「エイダさん?」
一度目は純粋な驚愕。二度目となる彼女の鎗術を見て、その凄まじさをネイトはようやく悟った。
以前見た時は、その動きの華麗さのみに目を奪われていたが──今彼女が振るう鎗には美しさの中に、背筋を凍らせるほど冷たい、研ぎ澄まされた鋭さがあった。
自由を奪う砂の足場にもかかわらず、まるで動きに衰えがない。なにより、踏み込みや跳躍、それらの動作がまるで無音なのだ。砂を蹴る音すら聞こえない。
あまりに静謐。あまりに澄みきった流れ。
鎗術会。そんな、部活などという幼いレベルのものではない。
......違う。あの時と何かが違う。
素人のネイトでもはっきりと分かる。屋上で見た動きも驚いたが、今の少女の鎗はそれすら通り越し、見ていて恐くなるほどだ。
そして──少女が片手で鎗を携え、全身を回転させると共に、更に鎗を高速で振り回す。
そう。あの時、屋上で彼女が鎗を落とした場面。
片手で回す、廻す、舞わす。
十回、二十回、三十回。
いつまで経とうと、彼女が鎗を落とすことはなかった。
にわかに、少女の動きがそこで止まる。小さく洩れる吐息。この暑さの中あれだけの動きを見せておきながら、しかしその呼吸は一糸の乱れもなかった。
「......二度目だね、ちび君」
困ったような照れたような、複雑な表情でエイダが苦笑する。
「あ、あの。また鎗の特訓ですか」
「半分当たりで半分ハズレ。まあ正解にしてもいいんだけどね」
それきり会話が途切れる。てっきり彼女の方から二の句を継いでくるかと思っていたが、彼女は自分の握る鎗を、哀愁にも近い視線で見つめているばかり。
「エイダさん、本当すごいです」
「ん、すごいって?」
「お昼にあれだけみんなと一緒に騒いでたのに、夕方またそんな特訓してるだなんて」
クラスの皆はと言えば、今は一斉に部屋で休んでいる。自分も今までばったりと寝ていて、少し前に目を覚ましたばかりだ。
「もう、ご飯食べるのとかと同じくらい習慣になっちゃったからね。十何年同じこと続けてれば誰でもそうなるよ」
十何年? 鎗術会はトレミア・アカデミーに来てから入ったはずだ。それならまだ半年も経っていないはずなのに。
「ちび君はあれだっけ。名詠士になりたいのは、お母さんの遺した名詠を完成させたいからだっけ」
「はい。名詠士になるかどうかはまだ決めてないんですけど、まずは母の名詠式ができるようになりたいなって」
「──そっか」
ぎゅっと鎗を握りしめ、彼女はゆっくり頭上を見上げた。
「......ちび君は怒るかもしれないけど、あたしはそういうのだめなんだ。だめっていうか、もう逃げ出してきた後なの」
ゆっくり、ゆっくり、自らに教え聞かせるかのように少女が息を吐く。
「あたしの場合はね、生まれた家が特殊だったの。祓名民ってわかる? 一言で言えば、名詠された物を還す専門の職業みたいな感じの連中」
祓名民。記憶の器をどれだけひっくり返しても、その単語の欠片すら出てこなかった。
「......ごめんなさい、僕まだ勉強不足で」
「ううん、ちび君が知らなくて当然なんだ。詠び出す側じゃなくて還す方。なんつか、地味なんだよ。でっかい生物出すとかそういう派手さがないからね。知名度も名詠士と比べて当然低いわけでさ。それを知ってあえて祓名民を志望する人はホント少ないの。だからこそ、祓名民は父から子へと家系を以て受け継がれることになるわけだ」
仮に、とある街で名詠が暴走したとする。この時、暴れる名詠生物を取り押さえるために別の名詠生物を詠んだとしたら、名詠生物同士の戦いで街はさらにぼろぼろになってしまう。たとえば競演会時のヒドラに同じヒドラをぶつけたとしたら、街一つがそのまま廃墟と化すのは想像に難くない。
となれば、被害を抑えつつ名詠生物に対処するには、反唱が望ましい。しかし近くにいる名詠士が、たとえばミオやクルーエルなど女性しかいない場合、暴れる名詠生物に触れるという作業は非常に危険。
よって、反唱のためだけに知識と技術をつみ、暴れる名詠生物にも対抗できるよう心身を鍛え上げた『反唱のプロフェッショナル』が必要となった。
「それが今の、祓名民の始祖というわけ。もちろん、今も祓名民として頑張ってる人はすごいと思うよ。身体張って命かけてる職だからね。一日たりとも一定量の訓練を欠かさない、尊敬すべき人たちだから」
だけど──溜息にも似た吐息をこぼし、エイダがうつむく。
「それでもやっぱり、知名度はすごく低いんだ。名詠士みたいな専門学校も無いしね。ただ延々と、独りぼっちでの練習。華やかさなんて欠片もないよ。......祓名民って特殊な読み方も何か語源があるらしいんだけど、親父は教えてくれないの。ただ名詠士に対する劣等感から生まれたものじゃないかって、疑いたくなっちゃうよ」
自嘲じみた微笑を浮かべる彼女。応えに迷い、ネイトはそっと視線を逸らした。
「エイダさんのお父さんも、祓名民なんですよね」
「......うん。一応祓名民の本家がユンでその家長だから、名実共に祓名民のトップだろうね。色々大陸を回っているみたいでやたら顔が広くてさ、親父が知人を集めた一つの会合ってか集団があるんだけど、そこにはあのカインツ様も入ってるくらいだからね」
「カインツさんが?」
名詠士には、出身校や人脈繁がりで大きな派閥が十数個ほど存在する。
組織のメリットは大きい。職の斡旋、売名、著名な要人との会合。トレミア・アカデミーの教師も、学園運営本部が形成するグループに名を連ねているはず。生徒も、トレミア・アカデミーを卒業して名詠士になった時、まずはそのグループに加入するのが恒例だ。
虹色名詠士であるカインツ。聞くところによれば、しかし彼だけは、なぜかどの組織にも入ろうとしないという。当然多くの呼び声もかかっただろうし、彼が顔を見せればどのグループだって重役扱いで彼を受け入れるはず。なのに、いまだ彼は独り気まぐれな行動を好む。一時期、それが逆に注目を集めたほどだ。
「まあ、カインツ様はちょっとした傍観者的な参加らしいけどね。でも時々うちの家に来ることもあるみたい。大抵あたしが学校にいる間だけど」
「......すごいですね」
「カインツ様だけじゃないよ。他にも大勢、他から見たらすごいを通り越して変人としか思えない連中がたくさん。むしろそれの巣窟みたいな会合だよ」
もはや言葉が出ない。それだけ偉大な父親を持っているなんて。そう。普通の人間であればそう考える。それは素晴らしいことだ、と。
けれど──それを口にする少女の双眸は、寂しげな色に揺れていた。
「そのリーダーの長子に生まれちゃったもんだから、......色々窮屈な思いをしてきたよ。決められた日課、決められた道、決められた将来。他の子が友達と遊んでる時も、あたしは独りでずっと祓戈だけを握ってた」
鎗の先端に輝く宝石。恐らくはそれが送還用の触媒なのだろう。
彼女が祓戈と呼ぶ鎗。そう言えば、屋上で見たときの鎗は、何の細工もしていない普通の鎗だった。
「......気づいた?」
泣き笑いのように、彼女が唇の端を微かに持ち上げる。
「あたしはずっと祓戈を使っていたから、重さも長さも祓戈のものを身体がすっかり覚えちゃってるの。それが、部活の鎗は部指定のだから、当然重さから何から全部違うの。その違いに違和感あってさ......部活の鎗持った時はよく失敗するの」
屋上で鎗を落とした時、彼女がそれをじっと見下ろしていたことを思い出す。あの凝視の意味が、ネイトにも少しだけ分かった気がした。
「部活動の鎗と祓戈って、そんなに違うんですか」
「ううん。あたしが祓戈に慣れ過ぎちゃっただけ。祓戈の重さは零コンマ一グラムだって間違えないし、間合いだって零コンマ一ミリも間違えない。だからこそ、少しでも違うと歯車が全部狂っちゃうの」
〇・一グラム、〇・一ミリ。それをごく当然のように口にする彼女。
けれど、そんなことが本当に可能なのだろうか。少なくとも自分は、普段使ってるペンの長さだって覚えていないし、言い当てられる自信はない。
「エイダさん、もしかして反唱も複数色使えるんですか」
反唱の術式も通常の名詠同様、五色それぞれに分かれている。名詠対象を還す専門の職だというのなら、もしや──
「......うん。あたし物覚え良くないけどさ。それでも反唱だけは複数色覚えてるよ」
反唱の習得は名詠よりも容易と言われている。トレミアの中にも複数色をマスターしている教師はいるだろう。しかし生徒でそれをとなると話は別だ。
──それを誇らしげに語るどころか、その素振りすら普段この少女は見せたことがない。
噓をつくような人じゃない。だけどにわかには信じられなかった。彼女の告げるそれは、あまりに自分の常識を超えた領域だったから。
「言うと馬鹿にされることあるんだけどね、こいつはあたしの......最初の友達だったんだ」
宝石の施された鎗を胸に抱き、少女が身体を強張らせる。
「ううん、友達っていうか、今はもう自分の分身みたいなもんだよ。ずっとずっと一緒にいる。重さも長さも、お互い知らないことはない──そんな関係」
......でもそれも、もういいの。
乾いた声音が、彼女の小さな口唇からそっとこぼれた。
「少しね、家に決められた道以外のことをしてみたいんだ。実はあたしの母親が名詠士の資格持っててさ、昔から名詠学校には興味あったの」
「......そうだったんですか」
「トレミア・アカデミーに来て友人もたくさんできたしね。ちび君じゃないけど、ここに来て本当に良かったなって思う」
多くの友人に恵まれ、部活に入り、学校生活を心から楽しんでる。それは普段の彼女の様子からも伝わってくる。
けど──解らない。
「エイダさん」
一つだけ、一つだけどうしても解らない。
「でも、それならどうして祓戈を使って、今もこうして練習してるんですか」
そうだね。どうしてだろう。そう呟き、彼女は独り言のように唇をふるわせた。
「......あたしにもよく分からない。でもたぶん、もう後悔したくないからじゃないかな」
後悔?
「うん。もうあの夢は見たくないんだ」
あの夢。後悔。それは、どういうことだろう。
どれだけ彼女の横顔を見つめても、揺れる瞳の奥底は、何か大切なものをしまったまま、どこか遠くの景色を映すだけだった。
5
「......衣服の皺までここまで緻密に」
触れないまでも、ゼッセルは目の前の石像ぎりぎりまで近づいた。
十数体の石像。服の繊維すら真似た質感の石像など、今まで見たことがない。いやそもそも、石像が浮かべる恐怖の表情だけで十分だ。ただの彫刻では決して及ぶことなき、圧倒的なリアリティ。
「どうやら、思い違いでもなさそうだな」
「人が石化するなんて......そんなことが」
消え入るように洩らし、同僚たる女性教師が後方へとよろめいた。その肩を強めに叩き、ゼッセルは一歩だけ足を進めた。

「エンネ、石像に触るなよ。カラクリが分からないんだから用心に越したことはない」
「──学園長に連絡」
思い出したように呟く彼女。
「それは、報告できるだけの材料を揃えてからだ」
そう。自分たちはまだ、研究所の玄関ホールにいるに過ぎない。この先この奥、何が起こっているのか。最低でもその状況を、可能なら原因の追求までだ。
「......うん」
ホールの暗がりに白光が差す。
「行きましょ」
エンネの左手に、名詠によって生まれた白色の光球。
「お願い、わたしたちの少し先を照らしながらゆっくり進んで」
無生物のような外見だが、その実態は第三音階名詠に属する光妖精。危険を察知すると点滅する習性がある。白色名詠士が探索用に好んで用いる名詠だ。
通路前方十メートルほどが見渡せる光量。その光が照らす周域には石像はない、そのことにひとまずは安堵する。
だがその代わり。
──なんだこの灰?
前方の通路を見据え、わずかに歩行速度をゆるめた。
通路の隅に散る、膨大な量の灰燼。何かが燃えた後の残滓? いや、それならこの研究所だって相応に焼け焦げているはずなのに。
「何かは分からないけど、なるべく踏まずに歩いた方がいいかもね」
「だな──んっ?」
つと鼓膜を揺らす音。カサッという、何かが擦れたような音に反射的に振り向いた。
「どうしたの?」
先導するエンネが足を止める。応えるより先、まず自分たちの背後を確認した。
何もいない......俺の気のせいか。神経が過敏になっているからか?
「いや何でもな」
言葉尻は、突如消滅した光妖精の光量と共に消えた。
「えっ?」
エンネの声。それと同時、周囲が再び暗がりに包まれる。
光妖精が突然消えた? 自然消滅にしては異常なほど早い、早すぎる。
やはり、この研究所には何かがある。いや、何かがいる!
──『Keinez』──
右手に持った触媒を元に、手元へと一握りの炎を詠ぶ。
光妖精ほどの光量ではないが、これで数メートルは............
一瞬、目の前の光景に自身の目を疑った。
......おい、ちょっと待て。......なんだこいつは。
先を歩いていたエンネの、その最寄りの壁に──灰色の壁と同化するように、同色の鱗を持つ大蛇がずるずると這いずっていた。
「エンネっ、伏せろ!」
「え?」
突然の警鐘は逆効果だった。呆気にとられたようにエンネがこちらへと振り向く。すなわち、謎の蛇に対し背を向ける。その蛇が鎌首をもたげ......
「エンネっ!」
蛇が口を開け襲いかかる。
選択肢を迷うだけの時間はない。無防備の同僚を力任せに反対側の壁へと突き飛ばした。
さくり。耳元で、何かが自分の肩を穿つ音がこだました。あまりに微細な、恐るるに足りないとすら思えるほど呆気ない音。
だが、蛇の牙が肩の肉を穿つ激痛だけは本物だった。
「......痛っ!」
「ゼ、ゼッセル!」
彼女の声にいちいち答える余裕はなかった。
左肩に嚙みついて離さない蛇の頭部を右手で握り、力任せに引き剝がそうと試みる。が、蛇は強固にその牙を突き立てたまま。
「こ......のっ......!」
明かりとして名詠しておいた炎を摑む。その炎を直接、蛇の頭部に押し当てた。
炎に炙られ蛇がのたうち回る。緩くなった顎を持ち、一気に肩から剝がす。なおも暴れる蛇を、ゼッセルは力任せに床へと叩き付けた。床を這いずる大蛇。まだ息はあるものの、さすがに再度飛びかかってくる気配はない。
左手の出血を確かめようと視線を自分の肩先へとやり──
「......そういうことか。ようやくここのふざけたカラクリが見えてきたぜ」
「ゼッセル......肩!」
エンネの掠れた悲鳴。
灰色に石化した左肩。痛みも違和感もない。ただ自分の腕でないかのように、どれだけ力を込めても肩から先が反応しない。
こいつが、玄関ホールにあった石像の原因か。
「考えるのは後だ! とにかく一度ここを出るぞ! この研究所はやばい!」
歩いてきた通路を駆ける。だが二人の足はものの数秒で凍りついた。
......今まで何もいなかったはずなのに。
歩いてきた通路を埋める、灰色の石竜子。その壁には今襲ってきたものと同じ大蛇が、それも上壁から横壁までを塗りつくすように這い近づいてくる姿。軽く見積もっても優に十体。
通路に堆く積もっていた灰の山を思い出す。あの中に隠れていやがったのか。だが腑に落ちない。そこまでして侵入者を出口へ向かわせたくない理由はなんだ?
もし研究所内部に入れさせないことを目的とするならば、この名詠生物たちを隠しておく必要はない。最初から玄関前で威嚇させているはずなのに。
むしろこれでは、最初は研究所に誘うことを良しとするような──
「......なるほどな」
立ちつくすエンネの肩を摑む。
「ゼッセル?」
出口を塞ぎ経路を断つ。自然、侵入者にとって残された道は一つ。
そう。このふざけた悪戯を施した奴は、俺たちを研究所の奥へ招待しようとしているに違いない。
「エンネ、逃げる方向はこの奥だ!」
エンネの背を押し、ゼッセルは通路を駆けだした。
研究所の奥へ進む方向へと。
間奏 『それは、夏の冷たい風に誘われて』
湿気と熱を帯びた微風に、にわかに混じる冷たい冷気。夏のこの時期に、ふと気候がもたらした気まぐれな悪戯。肌を冷やす風に身をさらしたまま、クラウス・ユン・ジルシュヴェッサーはまぶたを閉じた。
......もう、一年が経つのか。
一年前に娘と交わした口論。一字一句、まるで違えることなく覚えている。
〝なんで、なんであたしだけこんなことしなくちゃいけないの!〟
去年のまさに今頃だった。あの暑い日の、暑い夜。
O toga Wemmillmo,HIr shoulda ora pegilmerigiris endezorm
〝他の子が友達と遊んでるのに、なんであたしだけ毎日毎日──〟
エイダ・ユン。娘は生まれた時から専用の祓戈を与えられ、物心がつくと同時、祓名民としての教育を受け始めた。
祓名民としての修行。その過酷な鍛錬は、控えめに言っても常軌を逸するものだ。その訓練は陽の昇る前より始まり、終わりはない。筋肉が悲鳴を上げ骨が泣き、呼吸すらままならない状態でなお鎗を振り続ける。精神が摩耗し意識を失って、ようやくその日一日の修行が終わるのだ。
Lor be seGillisufeo olfeycori endeolte
〝辛いとかそういうのじゃない。ただ......あまりにもくだらないんだ〟
ユン家の一人娘として、それはすなわち、いずれは自分の後を継ぐ者として。
自分を含め、周囲の期待はあまりに大きいものだった。だからこそ、娘に課した鍛錬も相応に苛烈なものだった。成人男性でも音を上げる鍛錬を、まだ学校に行く歳にすら達しない幼い少女がこなす。できなくて当たり前。これは最初から、挫折を学ばせるためのものだった。
誰もが無理だと思っていた。自分も、娘が音を上げるものと思っていた。
──だが、娘はその修行に耐え切った。
熾烈な鍛錬をただ乗り越えただけではない、娘の鎗術に対する習得速度は異様なものだった。まだ十を少し過ぎた年齢でありながら、自分を除くなら娘の技量を上回る者がすぐには思い浮かばないほど。
その才能は才能という言葉すら超え、狂気と喩えた方が正確なのかもしれない。それこそ、父である自分が恐ろしく感じるほどに。
恐ろしい、だが同時に、それは自分にとって最高の誇りでもあった。
紛うことなき天賦の才。親馬鹿と言われようと、外へ出かけた時は娘の自慢話に夢中になっていた。娘の訓練の最中は、娘に気づかれない場所で、ずっとそれを見守っていた。それだけ娘を愛していたのは、今なお胸を張って宣言できる。
祓戈の到極者。とある条件を満たした時に冠することを許される後名。祓名民としての訓練を修める者の多くが三十代にようやくその後名を許される。自分が二十四でそれを付与された時、周囲からどれだけ持て囃されたことか。
エイダ・ユン・ジルシュヴェッサー。
それを、わずか十六歳の少女が冠することの特異性。異常性。
認める者、尊敬に値する者は今まで何人も見てきた。だが娘に対してはそれすら超えた、ある種畏怖の感情を禁じ得ない。
祓名民の最も気高き血。最も濃き血。先人より受け継いだ全ての技術と歴史を受け継ぎ、さらにそれを凌駕し昇華させるに足る、至高器。
しかし──
〝あたしは、もうこんなつまんない生活はこりごりだ〟
あの夏。あの暑い日の夜更け。
唐突に、娘は自分の部屋に怒鳴り込んできた。
......いや、思えば、薄々と予感はしていたのかもしれない。
「エイダ。この道が、本当につまらないだけの道と思うか」
あの日返した言葉を再び呟く。
娘は泣いていた。何を思って泣いていたのかは分からない。
父に対する怒りか、哀しみか。自分の生まれた家系が持つ定めの苦しみか、悔しさか。
〝親父こそ、そう思ったことはないの? 生まれた時からこれをやれって決められて、一生死ぬまで同じことの繰り返し。それに疑問を思ったことは本当にないの?〟
ole shanilis, pegloar, pegkei, Hiret univasm hid
Hir bequsiGillisuxshao elesm thes,neckt ele
「......あるさ」
かつて、娘と対峙したときは意固地に「ない」と言い張っていた。
けれど、もう認めよう。あれは私の拙い噓だ。
「祓名民の家系に生まれた者は誰だって一度は同じ疑問に辿り着く。──私だってそうだった」
庭園に植えられた大樹。その太い幹にくくりつけられた的。長きにわたる訓練の果てに幾千幾万の小穴が穿たれた的。ただずっとその的に向かい鎗を突き出す日々。
「だが、それでもある日気づいたよ」
名詠士に〈讃来歌〉があるように、祓名民に伝わる祀歌。セラフェノ音語に隠された、その歌詞の語る意味に。
Hir bequsiGillisuxshao elesm thes,neckt ele
誰に言われたわけではない。この道は、自分で選んだ道だった。
〝......親父、あたしには分からない〟
「分からないわけじゃない。お前がまだ気づかないだけだ」
「gil」、セラフェノ音語における『前』。
「ilis」、セラフェノ音語における『望み』。
祓名民の名の由来。父がなぜこうも根本的なことを未だ伝えずにいたか。
願わくば、そのことを自ら悟って欲しい。
──『gillisu』
この道は、きっと誰かを......
四奏 『守れる鎗の道行きを、教えてください』
1
分校、一階。ホールに設けられた休憩席に人影はなく、時折通路を過ぎる足音を除き、ホールは真冬の湖のような静けさを保っていた。
......まあ、今って本当は授業時間だから仕方ないけどさ。
その休憩席の端。テーブルに頰杖をついたまま、エイダはガラスの壁越しにじっと外の景色を眺めていた。
「──自主勉強するにしてもなぁ」
ぺらぺらと、テーブルに置いた教科書を適当にめくっていく。そのページに記された内容をざっと流し読む。が、それもせいぜい数十秒。すぐに脱力の吐息をこぼし、エイダはテーブルにうつぶせた。
机の上で本をじっと読むという行為が、とにかく自分はだめなのだ。そう。外で身体を動かしていた方がずっと楽。祓戈を握っていた方が──
「あー、違う違う!」
......もうっ、何考えてるんだあたしは。
自分はもう祓名民じゃない。名詠を学ぶ生徒なんだ。
そう、祓戈だって要らない。......要らないはずなのに。
〝でも、それならどうして祓戈を使って、今もこうして練習してるんですか〟
「......そうだね、どうしてなんだろう」
テーブルに寝そべったまま、視線だけを天井の照明へ。
昨日のネイトからの問いかけには、正直言葉に詰まった。
骨の髄まで染み込んだ祓戈の感触。鎗術会という部活に入ったのだってそうだ。やめたくてやめたくて、なのに、気づいた時には鎗を振るってる自分がいる。
もう一度同じ問いに遭遇した時、自分はなんて答えればいいんだろう。
脱力するようにまぶたを閉じ、数分──
ふと、微かな足音がホールに響いた。どうせ校舎の用務員か誰かだろう。そう決めつけ、一度は開いたまぶたを再度閉じる。
だが。その足音は通り過ぎるどころか、自分のすぐ背後で止まり──
「あれ。エイダ、どうしたの」
ん、この声?
聞き覚えのある声に、ゆっくりと顔を持ち上げた。眠気の残るぼんやりとした視界の中、クラスメイトの少女がこちらを覗くように見下ろしていた。
「クルーエルこそ、今は授業の時間でしょ?」
「うん。まあそうなんだけどね。なんか自習になっちゃったから」
飲み物の入った紙コップと自習用の教本を携え、対面にクルーエルが腰掛ける。それを待って、エイダはやんわりと口を開けた。
「......ねえクルーエル、前から気になってたんだけど、ちび君と仲良いよね」
「ちび君て、ネイト?」
紙コップに口をつけつつ、彼女がぽかんと首を傾げる。
「そそ。ちび君から聞いたよ。夏休み、ずっと名詠の練習付き合ってあげてたんだって?」
「ずっとじゃないよ。わたしの時間ある時だけ」
けろりと、涼しい顔で答えるクルーエル。
わたしの時間ある時だけ──もっとも彼女のことだ、自分の使える自由時間は全てという意味に違いない。
......あのね、それをずっとって呼ぶのよ。
「お姉さん役ってやつ?」
「そんなんじゃないよ。ただ、ちょっと放っておけないっていうか」
「ま、十三歳だからね。おっちょこちょいな部分もありそうだし」
どうにも忙しない彼の様子を思い描き、小さく苦笑した。転入した当日、実験室で名詠を暴発させて真っ黒な煙を詠んだのは今も記憶に新しい。
「それもあるよ。でも他にも......色々とね」
色々の中身については、クルーエルは言ってこなかった。ただ彼女の表情を見るに、それほど底の薄いものでないことは想像がつく。
「やれやれ、ちび君も大変だねぇ」
「ちび君も、って?」
耳聡く、友人は言葉の端を聞き返してきた。
「......えっとさ」
微かに、エイダは目を伏せた。
「──たとえばね、クルーエル。もしウチのクラスにさ、ちび君以外にも独りぼっちの子がいたとしたらどうする?」
「......たとえば、誰?」
その双眸に緊張を映し出し、彼女が押し殺した声で聞いてくる。
「たとえば、あたしとか」
しかし、自分がそう口にした途端。
「あー、平気。それは無いから」
ぱたぱたと、気軽な口調でクルーエルは手を振ってきた。
「え、平気って?」
「まーったく、何を言い出すかと思えば。あなたが落ち込んでる姿なんか見た日には学校中が大騒ぎよ。生徒会が臨時の集会騒ぎ、新聞部が総動員で取材に来て、ミステリー調査会も原因の究明に動き出すってば」
......え、ちょ、ちょっとそれはひど──
「そもそもそんな質問、らしくないよ。いつもの体力馬鹿で大騒ぎして先生に怒られて、おまけに遅刻魔のエイダじゃないと」
「......あ、あんたね」
表情を引きつらせながらも、何とか平静を保つ。うん、保ってるはずだ。あたしは冷静。決して、テーブルの下で拳を握りしめてなんかないぞ。
「──でも」
やおら、つい直前までのふざけた表情から一転。
「本当に何か困ったことがあったら、やっぱり話してほしいな。話を聞くだけでも、してあげられると思うから」
......相談か。それができればいいんだけどね。
胸の内だけで、エイダは首を横に振った。
親にも教師にも言えない悩み。相談しろと言うのは至極簡単。だけど悩んでる人間にとっては、それこそが一番勇気の要ること。相談なんて、それができれば──
「『それができれば苦労はしない』、エイダ、もしかしてそんなこと考えてる?」
前触れ無く、対面に座る彼女がぴしゃりと言い切った。
いつになく強い声音。まるで、その問いに絶対の自信があるかのように。
「......何でそう思うの?」
「わたしが、ついちょっと前までそうだったからだよ」
粛々と、クラスメイトは告げてきた。
「......あんたが?」
「うん。こう見えてわたしだって、ずっと迷いっぱなしだったんだから。こう言うと変に思われるかもしれないけどさ、学校に来るのも億劫な時があったくらいずっと迷ってた」
教室ではそんな素振り一切なかった。明るくて面倒見が良くて、そんな明るいイメージしか、エイダはクルーエルに抱いてなかった。......でもきっと、彼女のそれは噓じゃない。そうじゃなきゃ、あたしの気持ちを先読みなんてできるわけがないから。
「でもその分ね、他の人の似た気持ちも分かってあげられたらなって思うんだ」
胸に手を当て、しずしずと話す少女。
「だから、何かあったら言ってきてね。相談なんて堅苦しいことじゃなくて、学校の寮でわいわい話を聞くことだってできるもん。わたしで良いならいつでも。友達でしょ?」
テーブルに頰杖を突いたまま、そのクラスメイトはにこりと微笑んでみせた。
「............」
「ん? エイダ? どうかした?」
「......なんでもないよ」
見つめてくる彼女から、エイダはそれとなく顔を背けた。
話を聞いてあげる。彼女のその言葉はもちろんありがたい。だけど──悩みこそ違えど、自分のように迷ってて、それでも頑張ってる子がいた。その事実こそが、今の自分には嬉しいことだった。
「ま、一応お礼は言っておくね。でも気にしないで、ただ言ってみただけだから」
そっと椅子から立ち上がり、二、三回その場で身体を伸ばす。
「あ、そういえばさ。エイダはどうしてこんな時間に休んでるの?」
「講義担当のエンネ先生が体調崩したんだって。専攻生徒は休講みたい」
今日の朝唐突に告げられた休講告知。部屋にいても暇なのでぶらぶら校舎を徘徊、それにも飽きて、ホールで休憩していたというわけだ。
「あら、わたしのとこと同じか。うちも先生が風邪ひいたとかでさ」
「クルーエルの専攻って『Keinez』だっけ。先生誰?」
「んと、たしかゼッセルって先生。普段最上級生を教えてる先生だったかな」
......ゼッセル先生?
クルーエルの応えに、内心エイダは眉根を寄せた。
おかしい。エンネ教師の話を信じるならば、エンネとゼッセル両教師は、体調を崩していた教師の代理として合宿に参加したはず。その二人が、時同じくして体調不良?
「ねえクルーエル、昨日も『Keinez』の講義はゼッセル先生だったんだよね」
「うん。昨日は元気そうだったけど」
昨日は普通に講義ができていた。エンネ教師も同じだ。そしてもう一つ、自分の記憶が確かならば──昨日の二人には共通点があった。
「あたし昨日、授業終わった後ゼッセル先生とすれ違ったけど、たしかあの先生、割とまともな服着てたよね。一日目の列車なんかラフなシャツ姿だったのに」
「そう言われてみればそうね。珍しいねって他の子も言ってたかも」
トレミア・アカデミーにおいては教師用の上着が支給されているものの、基本的に日常の服装は教師に裁量が与えられている。ゼッセル教師はどちらかといえば、普段は割と軽装を好むタイプだったはず。
その教師がいつになく正装。それも真夏のこの時期に?
ざっと考えられるのは──大事な会議か場に出席、あるいは誰かがこの分校に来るか、逆に誰か要人の下へ行くか。
大事な会議か場。まずこれは考えにくい。本校ではなく分校で、しかも夏期休暇の合宿中に重要な会議があるとは到底思えない。
だが、わざわざ客人を分校で迎え入れる必要性はない。本当に大事な用があるなら客人の方が本校に来るだろう。逆に、些細な用件なら手紙でも何でも構わないはず。夏休み、それも合宿中の分校に要人が来るというのは現実的ではない。
ならば消去法で残るのは、誰か要人の下へ行くという選択肢。
......思い出せ。昨日のエンネ教師の授業を。
あの時エンネ教師は模擬試験を生徒に与え、終わった者から即座に教室から出て行かせた。実際、自分を除くなら全ての生徒が、実際の講義終了時間より早い時刻に教室を後にしていたはずだ。
──講義終了時間を早める必要性があったとしたら?
そしてその時刻、自分は通路でゼッセル教師とすれ違った。エンネ教師から離れる自分とすれ違う。すなわちゼッセル教師が歩いていた方向は、エンネ教師が講義を担当していた教室。つまりあの後、ゼッセルとエンネ両教師は二人でどこかに行く予定があった?
どこかに行って......そして現在、二人は何かしらの理由で教鞭がとれない状態にある。
それを裏付けるのは臨時の休講。もし事前にこの休講が分かっていれば、教師側もあらかじめ二人の代役を立てていたはず。つまりこの休講、教師側にとっても不測の出来事だった可能性が高い。
「ねえエイダ、ちょっと不自然な感じしない?」
自習用の教本を片手に、クラスメイトの少女が立ち上がる。やはりと言うべきか、クルーエルも同じ疑問を持ったらしい。
「まあ、やたら変な感じするわね。クルーエル、どうする? 時間ある?」
「いいよ。どうせ休講だし、このまま腑に落ちないのも嫌だから付き合ってあげる」
互いに目配せし、そして二人は互いに相手から背を向けた。確かめることは──体調を悪くしたという教師二人が、本当に今この分校にいるのかどうか。
恐らくは、二人はこの分校にはいない。
そうだとして、二人が急遽外に行く理由は何だ。
「クルーエルは一階の看護室お願い。あたしは二階、教師の控え室覗いてみるよ」







コン、小教室の扉が小さくノックされた。
手元の試験用紙から視線を持ち上げる。扉が開き、そこには黒髪長身の少女が。
「おいっす、ネイティ。こんな教室に一人で何してるのさ?」
「あ、サージェスさん。おはようございます」
両手にレポート用紙と筆記具を携えた彼女。その後ろの通路では、何やら数十人の生徒たちがまとめてどこかに移動している。
「あれ、どこか行くんですか」
「うん。『Surisuz』専攻者はみんな海辺に集合だってさ。センセが模範演技見せてくれるんだって。その後は自由時間になるっぽいし」
「模範演技ですか、楽しそう」
いや、まあ見てるだけってのも眠たくなるんだけどね──あっけらかんといった面持ちで呟き、彼女は肩をすくめてみせた。
「興味あるならネイティもこっそり来る?」
「......僕、まだ歴史学の単位取れてないんですよ。この補講期間中に取りましょうって、ケイト先生がつきっきりで教えてくれてて」
「あれ。ていうか、その肝心のケイト先生は?」
きょろきょろと教室内を見回し、サージェスが首を傾げる。
「なんか今日の朝に急用が入ったみたいです。『午前中は昨日の箇所の小テストやってて』って言ったきり、どっかに行っちゃいました」
「あらら。まあ頑張りなさい、少年」
そう告げ、彼女がきびすを返す。そのまま教室の扉を閉めて出て行く、そう思いきや。
「あ、そうそう」
背を向けた姿のまま、彼女は思い出したように言ってきた。
「ネイティ、そういやあたしがこの前言った、屋上に行ってみなっていうのはどうなった? 会えた?」
「はい、エイダさんですよね」
「どう思った?」
ひどく抽象的な彼女の問いに、ネイトは天井を見上げつつ。
「どうって......すごいなぁって。鎗術会にも入ってるし、他にも......えと、祓名民でしたっけ。それも習わされているんだとか」
「そっか、まあそう見えるかな」
こくりとサージェスが頷く。その納得にも似た仕草のまま。
──習うなんて......そんな生やさ............じゃないらしいけど──
「え?」
背を向けたままの彼女の言葉。あまりに微かな声音に、最後まで聞き取ることができなかった。
「あ、あの」
今なんて。そう訊ねる前に、やおら彼女はこちらへと振り向いた。
「あたし寮があの子と相部屋だからさ、色々聞いてるの。......ネイティ、エイダの件は、あまり他の人に喋っちゃだめだよ」
「は、はい」
理由は訊けなかった。そう告げる彼女の声音が、とても悲しげだったから。
「あの子が、自分からそれを言えるようになるまでね」
「エイダさんが、ですか?」
「うん。あの子、自分が『違う』ってこと、すごく意識しちゃってるから」
──違う? それってどういうことだろう。
こちらの困惑に気づいた様子もなく、彼女が扉によりかかる。いつになく弱々しい双眸は、教室の窓を越えた、さらに遠くの場所を見つめていた。
「ばかだよね、あの子。自分がそっちだから仲間外れなんじゃないかって、いつか嫌われるんじゃないかって、ホントはいつも気にしちゃってるんだよ......そんなわけないのにさ」
「あ、あの。それってどういうことですか。僕、エイダさんのこと嫌ってなんか──」
「ううん、あの子が勝手に思い込んじゃってるだけ。ネイティの気にすることじゃない。......だけどね、ネイティ、これだけは覚えておいて」
ふたたび、彼女が背を向ける。
「ネイティとは違う理由で、昔、あの子も独りぼっちだったんだ」







分校二階、連絡室。無線のための機材に向け、ケイトは極力平静にと努めた。
「ゼッセル先生、あるいはエンネ先生からの連絡......やはりそちらもありませんか」
「本校側には来てないな」
通話先の相手は、ただ淡々と事実を述べてきた。
「ケイト、もう一度確認させてくれ。ゼッセルとエンネがケルベルク研究所へと発ったのが昨日の午後一時過ぎ。それ以降二人からの定期報告が途切れたわけだな」
「──はい」
壁にかかる時計は現在九時半。
二人の姿を分校で最後に確認した時から、既に二十時間が経過している。
「現在こっちは、学園長が臨時の用で外出だ。かといって俺から勝手な指示を出すわけにもいかないからな......生徒はどうしてる?」
「休講処置をとっています。全ての講義を取り消すと生徒側も不審がるでしょうし、他の講義は予定通りです」
数秒、通話先の相手が沈黙する。
ミラー・ケイ・エンデュランス。
ゼッセル、エンネ教師と同期の教師であり、今はトレミア・アカデミーの情報処理部門にも籍を置いている知識人。
「たしか、君の方も午後から講義があるはずだったな」
「ええ。午後からは全ての教師に講義予定が組まれています」
今はまだ自分の手が空いている。しかし午後になれば、連絡を絶った二人の対応にあたれる教師がいなくなる。本来なら早急に対応班を設置するべきなのに。
「......怪しいのは、言うまでもないな」
無線機の声に小さく首肯する。ケルベルク研究所支部、やはりあの場所で何かが起きたと考えるのが自然。
「わたしが──」
「だめだ」
わたしが偵察に。そう言い終えることすら許されなかった。
「あの二人もそれなりに警戒して赴いたはずだ。万全の用意をしていた二人が、なおどうしようもない状況に陥るような場所だとすれば、君一人で行くのはあまりに危険だ。二人、いや最低三人のチームを組んで行くべきだ」
それは......そんなことはわたしだって知っている。
自分はまだ教師として着任したばかりの半人前。経験も知識も足りないこと、他ならぬ自分が一番よく分かっている。
「今日の夜七時までに二人から何かしらの連絡がない場合、夜八時の列車で俺もそちらに向かう。それまでは待つんだ。同僚を信じて」
一方的に回線が切られる。
壁に掛かった時計を一瞥。夜七時まで、優にまだ十時間を残している。
だけど......それまで待てるわけがないじゃない。
仮に何かしらのアクシデントに巻き込まれても、あの二人ならいくらでも連絡の手段を名詠できるだろう。それすらない状態、それはどれほど深刻な状況なのか。
──やっぱり、せめて遠巻きに研究所を見てくるぐらいは。
教師にあてがわれたロッカーへと向かう。人工の宝石、自分が調合した触媒。自分の最も扱い慣れた触媒を持てるだけ、服の裏地に仕込まれた収納部に隠し入れる。
「......二人とも、どうかご無事で」
若葉色のスーツを羽織った教師が通信室を出、急ぎ足で通路を進む。通路に響く彼女の足音に自らの足音を重ね、エイダはそっと教師の背を追った。
──ケイト先生、どこかへ行く気?
教師の足取りに迷いはない。二階から一階へ。そして玄関フロアを出て校舎の外へ。
......しまったな。
予想以上に教師の行動が迅速であったことに、エイダは苦虫を嚙みつぶした。
部屋の外壁に密着し聞き耳を立てたものの、部屋内で喋るケイト教師の声はほとんど聞き取れなかった。いや、万一にも周囲に聞こえぬよう、教師の方が意図的に声量を抑えていたのだ。
ただ一つ分かることは、今から自分の担任教師がどこかへ向かおうとしていること。
僅かに開いている扉から内部を窺う。よほど急いでいたのか、開きっぱなしのロッカー。察するに、名詠用の触媒まで念入りに選んでいたらしい。
──やっぱりだ、ちょっと物々しすぎる。
教師の表情に浮かぶ緊張も、普段のそれと明らかに異なる。
さて、どうする?
今からではクルーエルに連絡しているだけの時間がない。動き出すのは午後かと思っていたが、まさかこの時刻からとは。
仕方ない、自分だけでも後を尾け────ん?
ふと背後に感じる気配、無意識のうちに振り返る。
「あれ、エイダさん?」
そこに、深い夜色の髪をした、まだ幼い顔立ちの少年が立っていた。
2
研究施設。薄暗い小部屋で息を殺し、扉向こうの気配を探る。
扉に耳を当てること数秒──あの生物たちが近づいてくるような物音はない。十秒......二十秒。優に一分は聞き耳を立てていたが変化はない。
......ふう。肺の中の澱んだ空気をエンネはようやく吐き出した。
「ひとまずここは安全みたいね」
直線の続く通路を脇にそれた小部屋。数人分のソファに楕円形のテーブルが目に付く、おそらくは休憩室か。
「腕、どう?」
ソファの背にもたれかかるゼッセルへと振り返る。苦笑混じりに、同僚は動く右腕で石化した左手を叩いてみせた。
「どうと言われても、別段痛いわけじゃないし違和感もない。ただ、どうやっても肩から先が動かないけどな」
玄関ホールに隠れ潜んでいた灰色の蛇と石竜子。そして同様に、あの石化した研究所職員も多くが玄関付近に集中していた。彼らがあの蛇と石竜子の軍勢にやられたことはまず間違いあるまい。
「あれだけの名詠生物。一人で全部詠び出したとは考えづらいな」
視線をテーブルへ向け、彼が押し黙る。そう、それは自分も疑問視していたこと。
──けれど、今はより早急に、優先させて考えなくてはいけないことがある。
「さしあたって、あなたの左腕を治すことを考えないとね」
まずゼッセルの言うとおり、あれは名詠生物だと思った方がいい。
現在のところ判明している事実は、あの生物たちが例外なく灰色だったということ。そして、この研究所の至る所に積もった大量の灰。そして、灰色の表皮を持つ生物たち。両者に関係性がないとは考えにくい。
あの灰の中に蛇と石竜子は隠れていた。しかしこれらが実は、名詠生物の隠れ家ではなく、本来名詠の触媒として用いられたものだとしたら?
「燃えがらの灰を触媒に? そんな名詠聞いたことないぞ」
「まだ判断材料が少なすぎて何も分からないわ。とにかく今は、あの生物たちが名詠生物であると仮定して動きましょう。そう考えればある程度納得がいくわ。そして、そう考えることのメリットもある」
「メリット?」
オウム返しに訊ねてくる彼の左手を、エンネは凝視した。
「この現象が名詠生物によりもたらされたものならば、あなたの石化した腕も職員たちも、治す手段がある。腕を石にしている名詠効力を送り還せばいいはずだから」
「──反唱か」
名詠生物の中には毒の牙を持つ種も存在する。その毒は名詠生物本体が消えてもなくなることはなく、毒そのものを還すことで対処するのが常套。その応用として試みる価値はある。
「ほんとはそっち専門の祓名民がいればいいのだけど。わたしだと時間かかるかも」
スーツの内側から、液体状の触媒が入ったフラスコを取り出す。
「ここで焦ったって仕方ないだろ。のんびりやってくれ」
達観したかのように、幼馴染みは飄々と言ってきた。







「......ケイト先生、どこ行くんでしょう」
心もち抑えた声で、ネイトは先を行くエイダの背中に訊ねた。
「ま、尾いてけば分かるよ」
日焼けした肩をすくめてみせる彼女。
回答を終えた試験用紙を抱え職員室に向かう、その途中のことだった。
〝ちび君。念のためさ、あたしと一緒についてきて〟
言われるままにケイト教師の後を追って、もうどれだけ歩いただろう。十分、もしかしたら数十分? 尾行という慣れぬことの緊張と疲労で、時間感覚が麻痺している。
教師の進む道は砂浜に面した一本道。周りには瘦せた木立がまばらにある程度。後を追う際に身を隠す場所が限られている。おまけに足下は砂利地。足を踏み出すたびに足下の砂が弾け、小さな足音を立ててしまう。
そのはずが──聞こえる足音は、先を行く教師と自分の二つだけだった。
自分のすぐ前を歩いているはずの少女の足音が、ぞっとするほどに静かなのだ。
砂地に足跡すら残さない無音の歩行術。砂浜で、彼女が鎗の訓練をしていた時のことを思い出す。あの時も、砂浜には足跡が残っていなかった。
......これも、祓名民の訓練で培ったことなのかな。
祓名民──名詠を送り還す者。名詠士とまるで対照的な人間。
〝ネイト......名詠って、なに?〟
かつて病床の母が伝えてきた、あの言葉。
〝名詠とは自分を詠ぶためのもの。わたしはそう思ってるの。自分の心を形にして詠び出すことが本当の名詠式だと思ってる〟
あの日の母の言葉を信じるならば──自分の心そのものを名詠によって詠び出すならば、なぜそれを送り還す必要があるんだろう。
......お母さん、僕ね、まだ分からないかもしれない。
他ならぬ母の言葉、信じたいに決まってる。けれど、祓名民として一生懸命生きている人たちがいることも、紛れもない事実。
「あ、あのエイダさん」
「ん? なに、ちび君?」
「い......いえ、ごめんなさい。何でもないです」
胸の奥のしこりを残したまま、ネイトは口をつぐんだ。
僕には分からない。ねえ。エイダさんも、そうなんですか?
名詠士も祓名民も捨てられなくて、でもその歌と鎗の間に挟まれたまま動けなくなっちゃって、だからこんなに苦しんでるんですか?
先を行く少女の背中は、何も語ってこなかった。
沈黙したままの彼女。一歩だけ、ネイトは彼女との距離を詰めた。
少しでも、彼女との心の距離が近づくことを信じて。
──ケルベルク研究所、フィデルリア支部。
道の先に、そう刻まれた案内板が見えてきた。







灰色と化した左腕。石化したその表面にぴしりと罅が入っていく。亀裂。それは指先から始まり肘先まで伸びて──
「おい、これ」
まずいんじゃないか。同僚が言い終える前に、エンネはその口元に手をあてた。
「平気。動かないで」
そう告げる自分の視線は、あくまで彼の肩先。
......よし。罅の内側から、淡い白光が洩れだした。水蒸気が立ち昇るように、光の粒が少しずつ部屋の天井へと昇っていく。反唱の効果が現れている証拠でもある。
白光の粒と共に、石化した灰色の部分までもが併せて剝がれ、そして。
「さて、どうかしら」
色を取り戻した左肩に安堵の吐息をこぼし、エンネは額に浮き出た汗を拭った。
言われるまま、彼が左肩に力を込める。
「......動く。痛みも違和感もないな」
ゼッセルの様子を見る限り、石化する前とまるで変わりない。正直、治癒したとしても何かしら後遺症が残るものと互いに覚悟していたのだが。
「不幸中の幸いってやつか」
「あら、わたしに謝礼は?」
すると、幼馴染みは妙にあどけない笑みを浮かべてきた。
「帰ったら新品の浮き輪買ってやるよ」
「期待してるわ」
一瞬口元をゆるめたものの、すぐにエンネは表情を引き締めた。
「一つ分かったことがあるの。一応『Surisuz』・『Beorc』も試したけど、そっちでの反唱は効果が薄かった。効果があったのは『Arzus』。無理やりカテゴライズするならば、この名詠は『Arzus』に近い」
「......近いって、どういうことだ?」
効果があったのは確かに『Arzus』。けれど実際にやってみて、自分の知る『Arzus』とは何かが違ったのだ。『Arzus』の亜種......ううん、そこからさらに派生し変化した名詠?
学術的に言うなれば、五色の内の白色名詠。反唱が効くのだから、それは間違いないと思う。だけど、完全にそれと位置づけてしまうのは相応の危険を伴う。
「便宜上今は、これを『Isa』とでも言った方がいいかもしれない」
そう。つまり灰色名詠。
それも、ただ灰色の物を詠ぶだけじゃない。相手を灰色に、すなわち石にする名詠なんだ。そう仮定すればほぼ全ての現象の説明がつく。
「灰色名詠? んな色そうそう認められるのか?」
怪訝な表情つきで同僚が口を挟んでくる。むろん彼の言い分も分かる。この世界に存在する名詠式は全部で五色。例外はない。そう自分も信じていた。
「でも、わたしたちはその例外を知っている」
夜色名詠という名の例外。
夜色の歌い手を、その詠を、その真精を、わたしたちは目の当たりにしたのだから。
「......まあそうだけど」
憮然とした面持ちで彼が押し黙る。
「夜色名詠を異端とするなら、灰色名詠はさしずめ『Arzus』の突然変異。それも、ものすごく攻撃的な変異ね」
本来好戦的な生物が少ないはずの白色名詠。それが、研究所一つを丸々落とすほどに凶悪な攻撃色になるなんて。
「気にくわないって表情だな」
「こんなの、本当の名詠の使い方じゃないわ」
これが『Arzus』の派生形ならなおさらだ。どんな理由があろうと、こんな非道い真似は間違ってる。
「なあ、ここの研究員たちも治せそうか」
......そうしたいのは山々なんだけど。
「ただ、今ここでそれをしてる時間的な余裕はないわよ」
もうかなりの時間、外部との連絡を閉ざしてしまっている。分校、あるいはトレミア本校でもその状況に混乱していることだろう。本来一刻も早く連絡をとらなくてはなるまい。が、大量の名詠生物群が今も退路を塞いでいるはず。
「ひとまずここの研究所の奥へ行きましょ。これだけ大きな施設なんだから、緊急避難通路の一つや二つあるはず。厄介な連中が群れてる出口より逆に楽かもしれない」
体温を取り戻した左腕を軽く回しつつ、腰掛けていた同僚がソファから立ち上がる。
「気乗りはしないけど、他に選択肢ないもんな」
疲れた表情で頷くゼッセル。その肩に手をやり、せめて自分も頷いてみせる。もはやそれくらいしか、できることが思いつかなかったから。
──急ぎましょう。わたしたちもそろそろ体力が限界に近い。
3
ケルベルク研究所? こんな場所に、ケイト先生が何の用なんだろう。
案内板に刻まれた見覚えのない名に、エイダは内心眉をひそめた。前方にうっすらと確認できる、何かの巨大な施設。おそらくはあれが研究所なのだろう。
ちび君、そろそろ気をつけて。そう口にしようという矢先。カツン、歩道に突き出た岩に、ネイトの靴先がぶつかった。
ぁっ......少年が小さく悲鳴を上げる。
「誰っ?」
途端、前方を行くケイト教師が弾かれたようにこちらへと振り返ってきた。
あちゃ、まずぅ。慌てて最寄りの木々に身を隠す。
「ご、ごめんな──うぎゅっ」
だめ、静かに! 声に出して謝ろうとするネイトの口を無理やりふさぐ。が、そうするやいなや、前方の教師が声を張り上げてきた。
「そこ、誰かいるの!」
薄々、尾行られているという予感はしていたのだろう。教師のそれは疑問ではなく確信の声音だ。
「エ、エイダさん。どうしましょう」
......どうしましょうと言われてもねえ。
「あと五秒待ちます。それまでに出てきなさい」
あのね先生。そう言われて出て行く輩がどこに──
「出てこないなら、その木々一帯に名詠で大粒の雹を──」
「なっ......ま、待って、タイム、先生早まらないで! ほらあたしあたし。先生の可愛い可愛い生徒だから!」
沈黙。
ややあって、教師は呆れ気味に言ってきた。
「あいにく本物のエイダなら、教師の前ではきちんと姿を見せると思うのだけど」
本物のエイダならって......既にエイダだって分かってるくせに。
一度大きく嘆息し、エイダは木陰から歩道へと歩を進めていった。
「うー、分かりましたー。あたしたちの負け! ほら、ちび君も出た出た!」
「う、うわっ。......エイダさん、いきなり蹴るのひどいです」
「ネイト君まで? あなたたち、一体どうしたの」
呆れ半分驚き半分の眼差しで見つめてくる担任教師。
「いやぁ先生、偶然ですね。あたしたち、たまたま散歩がしたくなりまして」
精一杯ごまかし笑いを浮かべたものの。
「あ、あの。ケイト先生の行き先が気になるってエイダさんが」
「うわっ、ちび君裏切り者!」
プレッシャーに負け、隣の優良真面目少年があっさり吐いてくれた。
「ふぅん。エイダがねぇ。エイダ、もちろん話してくれるわよね?」
「え......ええとっ......そのですね、何と言いますか」
──先生、触媒持ちながら脅してくるの恐すぎなんですけど。







「ここが研究室か」
周囲を一通り眺め、ゼッセルは腕を組んだ。
巨大な研究部屋。周囲に散見する各種実験装置。溶液に満たされた、半透明の水槽。共通点と言えば、それらが例外なく破損しているということ。そしてここにも数体、石化した職員の姿。
研究所の至る所で見られる、石化した職員たち。つまりこの現象は研究所全体に関わる出来事だったということか。
職員間での抗争か。あるいは──
「得体の知れない何者かの襲撃、というところかしら」
低く抑えた声でエンネが呟く。瞬き一つせず、彼女はじっと正面の文字を見据えていた。
Lastihyt ;miquvy Wershela-c-nixerarsa
メインルームにそびえる白亜の中央柱。高価な石材を用いて建てられたであろう室内用の石碑に、緋色の塗料で刻まれた歪な字体のセラフェノ音語。
「ラスティハイト。何かの名前?」
──いや、これは。
「人名だ」
足早に石碑に近づき、擦るように指先でその石肌を削る。さらりと、微かに剝がれ落ちる塗料。いや、塗料の役割を果たしていた物。
どす黒い赤。なるほど、血液ってわけか。
「二年......いやもっと前、三年前かな。カインツが、確かその名前の奴を探してた」
「カインツが?」
目を細め、同僚が薄紙一枚分顔をこちらへと向けてくる。
「理由までは聞かなかった。だけどこんな奇妙な名前、それ以外に聞き覚えない」
黒く変色した血文字から目を逸らす。
奥へと続く通路。壁に貼られた間取り図──この先が最奥、最も広いメインホールになっているらしい。
「急ぎましょう。あまり長居するような場所じゃないもの」
先導するようにエンネが通路へとつま先を向ける。その背中を追おうとし、だがその直前にゼッセルは足を止めた。
研究室内に幾度となくこだまする、機械的な呼び出し音。
「ブザー?」
誰かが来た。可能性としては、自分たちを探しに来たトレミアの教師。
「......だけど、まずいな」
あの玄関ロビーには、危険な名詠生物たちが今も息を潜めて隠れているのに。







「──で、わたしの行き先が怪しいからって後をついてきたのね」
エイダの言い訳じみた白状に、ケイトは大げさに目元を押さえた。
「だって気になるんだもん。エンネ先生もゼッセル先生も分校校舎にいないだなんて、探したくなっちゃいますよ」
悪びれることなくうそぶく教え子。まったくもう......推測というか嗅覚というか、こういう時だけ鋭いのも困りものだ。
「で、先生ここ何?」
眼前のケルベルク研究所を、のほほんとした様子でエイダが指さす。
「知り合いの研究所よ」
「いや、まあそれは分かりますってば。どっちかと、気になるのはエンネ先生とかゼッセル先生とかが分校校舎にいない理由でして。ケイト先生がこんな場所に来るのも、何か関係があるのかなーと」
何か、まだ特別な理由があるんですね──白々しくも、言外にそう告げてくる。
「それに関しては、正直わたしにも分からないわ」
視線を前方へ。鈍色の壁に囲まれた施設が肉眼でも把握できた。
ケルベルク研究所、フィデルリア支部。〈孵石〉を精製し、そしてトレミア・アカデミーへと持ち込んだ研究所。
ゼッセル・エンネ両教師が訪れたはずの場所。自分の教え子をこれ以上同行させるのはあまりに危険。なのだが......あいにくここまでついてきてしまった時は、どうするべきか。今から帰れと言われてすぐ帰るような雰囲気でもない。
それに、もう一つ。既に最悪の状況が研究所内で起きていた場合、誰かを分校への連絡役として必要とする可能性も零ではない。
「......あなたたち、一つ約束して。わたしが帰るよう指示した時は、何があってもそれを優先すること」
こくんと頷く両生徒。それを確認し、ケイトは研究所の敷地に足を踏み入れた。
「あの、勝手に入っちゃっていいんですか?」
「トレミアとの協力機関だから。トレミアの教師とケルベルク研究職員は、相互施設への出入りが許されてるわ」
......それにしても、この静けさは何。
敷地に人ひとりとして姿がない。この不自然な静寂、逆に鼓膜が痛む。
──本当に、ゼッセル教師とエンネ教師がここに?
施設の正面扉脇に備え付けられたブザーを押す。扉一枚を通じて、内部で呼び出し音が鳴り響いていることが伝わってくる。
「......誰もいないんでしょうか」
「それは、ちょっと考えづらいわね」
少年の疑念に応えるように再びブザーへと手を伸ばす。
数秒。数十秒。内部からの応答はない。いやそれどころか、研究所内部から職員の会話すらまるで聞こえてこないのだ。
「ねえセンセ」
扉の鍵口をじっと見据えたまま少女が促す。
「その扉、開いてるっぽいよ」
扉の取っ手に手を触れ、力を込めた。軋んだ音を立て、僅かな砂埃を伴って扉が動く。
「そのようね」
一度、肺に残る澱んだ空気を吐き出した。この生徒たち二人を帰すための機を失ったことへの嘆息、もう半分は自分にも理解できぬ何か。決意か、それとも不安か。
「開けるわよ」
それは背中の二人ではなく、自分に言い聞かせるためのもの。
ゆっくりと、擦れた悲鳴にも似た音を響かせ扉が開いていく。暗がりに包まれた玄関ホールへと足を踏み入れる。
自分たちの眼前に、奇妙な光景が展開していた。
「......なに、これ」
玄関ロビーに並ぶ、十数体にも及ぶ奇妙な格好の石像たち。訝しげに表情を歪め、少女がそれの下へと歩み寄っていく。石像。それも一つや二つではない。石像の共通点は、どれも胸元に何かペンダントのようなものを。
いえ、違う。これは研究所職員用のネームプレート。けれどなぜ、この石像がわざわざ職員用の物を? これではまるで────いや、まさか。
さっと脳裏をよぎる悪寒に背筋が粟立った。
「二人とも、石像から離れなさい!」
「え?」
「先生、どうしたんですか」
石像に触れようとしていたエイダ、一方で玄関ロビーを左に曲がる通路まで足を進めていたネイト、二人の声が唱和する。
「ここは危険よ、今すぐ分校へ戻ります! ネイト君も早くこっちに戻ってきて!」
疑念の表情ながらそれでも小走りで駆け寄ってくる少年。
それを遮るように。
灰色をした何かが天井から落ちてきた。細長い、くねるように蠢く何か。少年の前に立ち塞がるように鎌首をもたげ──
「蛇っ?」
二メートル近い灰色の大蛇を前に、少年の足が止まる。なぜこんな施設内に、いや、そんなことを考えている場合じゃない。
「先生っ!」
背後ではエイダの悲鳴。
「分かってます! ネイト君、後ろに下がって!」
少年目がけて襲いかかろうとする大蛇。果たして間に合うだろうか。衣服の衣囊から人工サファイアを取り出した。片手に携えた触媒が澄んだ青色の名詠光を放つ。
だが、それよりも早く。
「違うっ! 先生、後ろっ!」
背後に控える少女が、悲鳴を超えた絶叫を上げた。
......え。
両足に走る微かな痛み。同時、その両足が、岩のように動かなくなった。
最も離れた位置にいた──最も出口に近い位置に立っていたエイダだけは、その時起きた出来事の一部始終を理解できた。
──天井から降ってきた謎の生物は、確かに灰色の大蛇一匹だけだった。
自然、ネイトやケイト教師たちの注意はその蛇一体に釘付けになる。いや、自分もそうだった。視線はその蛇にしかいっていなかった。だがこの場には、灰色の生物は一体ではなかったのだ。
自分が気づいたきっかけは、何かが地を這う微かな物音。それは、教師の足下すぐ近くから聞こえていた。
......え。
研究所の床に積もった大量の灰。それが動いていた。より正確に言うならば、その灰の下に隠れた何かが動いていた。
石竜子?
普段見るものより妙に手足が長く細く、鋭利な爪を持つ石竜子。それも一体じゃない。二体、いえ三体? 明らかな敵意の光を眼に灯し、灰色の生物が教師の足下へと忍び寄る。
ケイト先生は──だめだ、大蛇の方に注意がいってしまってる。
「先生っ!」
「分かってます! ネイト君、後ろに下がって!」
触媒を携え、大蛇を見据えたまま教師が応える。
違う! その蛇はただの囮なんだ! 本当にやばいのは──
祓戈を置いてきたことに歯嚙みしかけ、だがすぐに思い直した。
ううん、あたしは祓名民じゃない。今のあたしは名詠士になろうとする生徒なんだ、今こそ名詠で何とかしないと。だけど......
......だけど、何を詠べばいいの?
自分に行使可能な名詠ストックを思い出し、言葉を失った。ただでさえ攻撃的な生物の数が少ないのが白色名詠。皆無という訳ではない。けれど、それらはどれも自分の実力で詠び出せるようなものじゃない。
......だめだ、あたしの名詠じゃ何もできない。
「違うっ! 先生、後ろっ!」
ただ教師に向かって叫ぶしかなかった。教師が慌てて振り向く。だがその警鐘はあまりに遅すぎた。教師の死角となる足下、足首めがけ石竜子が爪を振り翳す。
その爪が教師の足を僅かにかすめた瞬間、女性教師の足はもはや足ではなくなっていた。
埃が空を舞うほどの微かな音もなく、瞬間的に教師の足が灰色に凍り固まる。
「ケイトせんせ──」
だが。
ともすれば石化という現象自体既に予想、あるいは覚悟すらしていたのかもしれない。自由を奪われた両足の事をまるで気にすらかけず、あろうことか。
「来ないでっ!」
その教師は真っ先に、教え子たる自分に向け片手を突き出してきた。残る片手、触媒となる宝石が暗い玄関ホールを煌と照らす。
──『Ruguz』──
教師が床へ宝石を叩き付ける。刹那、その地点を発生点とし、巨大な氷壁が玄関ホールに聳え立った。自分と数多の灰色生物群を隔てる氷壁。出口に近い自分はいい、しかし灰色生物群の集う領域には、ケイト教師及び小柄な少年までも含まれて。
「せ、せんせ──」
「エイダ、あなたはこのことを分校の教師に伝えなさい。早く!」
「で、でも!」
「ネイト君はわたしが何とかします。氷壁がある間は、この生物たちもあなたを追えないはず。その隙に、できる限りこの研究所から距離を置きなさい!」
その理論に説得されたわけではなかった。
──あたし、何もできないの?
それが本当に正しい理論なのか、最上の選択肢なのかすら定かでない。だがそれでも、教師の必死の気迫に圧されエイダは駆けだした。

「先生、ちび君! ......ごめんなさいっ!」
玄関を越えて外へ脱出する。風の悪戯か、それとも教師の策か。自分が外へ飛びだすと同時、今まで口を開けていた扉が音を立てて閉まっていった。室内の状況がまるで分からなくなる。悲鳴も物音も聞こえない。
「ごめんなさい......ごめんなさい......あたし............」
──馬鹿だ。
あたしは、どうしようもない馬鹿だ。
教え子の少女が玄関を飛び出していく。ひとまず一人分の無事は確保できた。そのことに多少なり安堵する。残る教え子は一人。
その残る一人に向かって、ケイトは声を振り絞った。
「ネイト君、あなたはその通路の奥へ向かいなさい!」
大蛇と対峙する少年が、慌てたように顔を持ち上げる。
「でも、先生は!」
「わたしは──」
平気です。無事です。必ず後で追いつきます。あまりに拙い言葉しか浮かばない。そんな気休めの言葉には、きっとこの少年を動かせるだけの力はない。
だから。頷く代わり、衣服から蓋付きのフラスコを取り出した。
「ネイト君」
せめて微笑んでみせる。名詠を志す者に、それを教える側の者として。
「......頼りない先生でごめんね」
再度、触媒を床に叩きつけた。床に零れた水面が光り輝き、そこに青い名詠門が生まれる。天井まで届く氷壁──それは少年と大蛇を阻む場所に。
これで彼の方もひとまずは安全だ。その代償に、全ての灰色生物の視線が自分へと突き刺さる。......そう、これでいい。わたしはこれで......いい。
「ケイト先生っ!」
「奥へ逃げなさい。エイダが助けを呼んでくるのがいつか分からないけど、それまでじっと隠れてて!」
「でもっ──」
「......頼りなくて、本当にごめんなさい」
教え子を守るつもりが、囮役だけで精一杯だなんて。
わたし、やっぱりまだ......先生なんて呼ばれる資格、ないのかな。







......まただ。
どうしようもない自分の無力さに、エイダは唇の端を嚙み切った。
絶え間なく移り変わる風景。全力疾走で、もうどれだけ走ってきたか。酸欠によって引き起こされる頭痛。心臓が痛み、肺が悲鳴を上げている。だがそれでも、走り続けた。
走ることしか、今の自分には贖罪されていないのだから。
──また、あたしは何もできない。逃げるだけだ。
学校の競演会、あのキマイラたちに襲われた時だって、あたしは逃げてた。
名詠士になりたくて、祓名民になるのが嫌で、名詠士としての自分のまま、ずっとずっと怯えてた。......ううん、怯えたフリをしてた。
名詠士としての自分には何もできない。もしあの時、自分が祓名民として振る舞っていたならば──少なくとも、あたしは守ってもらう立場じゃなかった。誰かを守れる立場にいたはずだった。
だけど名詠士として生きてみたくて、その結果、友人が大勢傷ついた。
〝ちび君はあれだっけ。名詠士になりたいのは、お母さんの遺した名詠を完成させたいからだっけ〟
〝......ちび君は怒るかもしれないけど、あたしはそういうのだめなんだ〟
〝少しね、家に決められた道以外のことをしてみたいんだ。実はあたしの母親が名詠士の資格持っててさ、昔から名詠学校には興味あったの〟
でも、それならなぜ今も祓戈を使って練習してるのだろう。
〝......後悔したくないから〟
あの時、競演会で感じた無力感。もう同じ後悔をしたくないから。
もうあの日の夢は見たくない。
だから、今も自分は祓戈を捨てきれなかった。
──なのに今もあたしは。
ケイト先生を、そしてあの幼い少年を見殺しにして一人で逃げてきた。
......親父──あたしは──
あたしは......どうすればいい!







「急げ、エンネ!」
全力で、薄暗い通路をゼッセルは駆け抜けた。
その前方を光妖精の幻灯が照らす。
数分前に聞いた呼び出し音。もしトレミアの教師が自分たちを探しにこの施設まで来たのなら、当然あの玄関ホールにも足を踏み入れてしまったはず。
......だが、おかしい。
既に玄関部に相当近づいているはず。灰色名詠の生物たちが襲いかかってくることは覚悟していた。なのに、いまだ一匹も現れないとは。
胸に渦巻く疑念を残したまま、玄関ホールへと続く最後の角を曲がる。
「──っ!」
まず目についたのは天井まで届く巨大な氷壁。その脇に添うように、無数の氷塊が乱雑に転がっていた。氷塊の中に閉ざされているのは、見覚えある灰色の名詠生物。
そしてその氷塊に混じり──床に伏せたまま微動だにしない人間の姿。
見覚えある形状のスーツ、学園で何度となく見かけたあの服装は。
「ケイトっ!」
最悪の予感に背筋を凍らせながらも、同僚の下へと駆け寄った。
慌てて抱き起こす。肩に触れた手にはスーツの感触はなく、ざらっとした石の質感。
「............ぁ......」
目を瞑ったままの女性から僅かに吐息が洩れる。その肩、背中、両足。五体の半分までもが石化しかかっていることに怖気だった。
「エンネ、早くっ!」
「もうやってるわ」
肩先から背中にかけ、広範囲に渡って灰色の光粒が立ち上る。うっすらと色を取り戻していく同僚の身体。
「......おい。これ」
ざらりとした石の質感はひとまず消えた。だがその後に残ったものは──ぬるりとした冷たい感触。......まさか。
彼女の背中にあてていた手を持ち上げる。掌に付着していた、大量の血。──しまった。血を止めていた石化が解け、かえって出血がひどくなったのか。
「悪い、背中開けるぞ」
スーツを脱がせ背中の部分のシャツをはだけさせる。傷痕そのものは小さいが、深い。大蛇の牙に背中を襲われたのか。問題は、その位置が心臓部に近いということ。
傷口に止血用の布をあて、包帯を肩から回して固定する。
「用意いいのね」
反唱を続けながらエンネが視線をこちらに向けてくる。
「赤色名詠士の場合、いよいよになったら自分の血を触媒に使うからな。その後に出血が止められませんてのは洒落にならないから、わりかしこの手の物は携帯してる」
だがこの傷、この程度で果たして応急処置になるかどうか。
「......ま......」
微かに、まぶたを閉じたままケイトが口元をふるわせた。
「まだ......残っ......てる」
残ってる?
反射的に周囲を見渡す。通路に撒かれた灰。燃えがらの粉塵の下、何かが蠢いた。
──俺たちが来て、ひとまず身を潜めてたってわけか!
「くそっ、こんな時に相手なんかしてられるか」
相棒である青色名詠士がいないことに歯嚙みする。密閉空間は赤色名詠士の弱点だ。相手を倒すために炎を盛大に詠びだせば、たちまち自分たちもその煽りを受ける。最悪この施設全体が燃え上がってしまう。
──やはり、何が何でも俺たちを奥まで行かせたいってことか。
玄関部、脱出を遮るように群れ集う名詠生物。
「ゼッセル、どうするの!」
「ケイトは俺が背負う。逃げるなら非常通路の方だ」
進むべき道は研究所最奥、大ホール。
その先に何かがある。その確信だけはもはや絶対に近かった。
4
分校の校門、その両脇に見覚えある教師たちの姿があった。
「エイダっ、今までどこ行ってたの。勝手に校舎から出ていって──」
「ごめん先生! 後で話すから!」
「なっ......ちょっと、エイダ!」
肩を摑もうとする腕を強引に振り払う。その勢いのまま校舎の内部へ。
──ケイト先生は事情を話せと言っていたけど、そんな悠長な真似してられない。
分校三階、クラスの女子にあてがわれた部屋。
無人の部屋、その片隅に駆け寄る。無造作に置かれた自分の荷物、その脇の壁に立てかけてある、布にくるまれた細長い何か。
......結局。あたしにはこれしかないのか。
施設に残っている先生を助ける方法は、今の自分にはこれしかない。
そう、後悔したくないから。
「親父、あたしは別に祓名民になるって決めたわけじゃないんだから!」
通路を駆ける。長大な得物を持った自分を奇異の視線で見つめる生徒、教師たち。
......はは、懐かしいや。あたしがトレミアに入学した時、祓戈を持ったまま入学式に出た時も、初めはこんな感じで見られてたっけ。
そういえば、あの時は、どうやって最初に友達ができたんだっけ。
あの時は──
頭を過ぎるのは、黒髪長身の少女だった。トレミア・アカデミーの女子寮で自分と相部屋の子。一番最初に向こうから声をかけてくれて、偶然同じクラスで、そこから徐々に友達が増えていった。
彼女が、名詠学校の生徒として見つけた最初の友達だった。
ロビーへ続く最後の角を曲がる。その直前、その角の陰からトレミア・アカデミーの白制服が見えた。こんな馬鹿長い鎗を持って廊下を走る女の子。驚くか、からかわれるか、そう、そのどちらかしかないと思ってた。けれど──
「よっ」
その角から現れた生徒がしたことは、自分に向かって片手を上げることだった。
黒髪長身の、見覚えあるクラスメイト。
「......サージェス?」
なんで、なんでここに。
「あれだけ大騒ぎして戻ってきて、今度は大慌てで階段降りてくるんだもん。誰だって気づくよ。それより、その鎗──」
「こ、これは......!」
反射的に、自分の携えていた鎗を後ろに隠した。自分の背丈より長い鎗。隠しきれるはずがないのに。
「ち、違うんだ。あ、あのさ......あたし......」
何かを言おうとして、けれど声にならなかった。
あ......あたしはあんたと同じ名詠を学ぶ生徒で、この鎗は......今この時だけなんだ。だから......お願い、嫌わないで。ずっとずっとあたしたち、友達のままで......。
「ばか、何小さくなっちゃってるの」
萎縮する肩に、サージェスが唐突に触れてきた。
「......サージェス?」
「決めたんだろ? そっちの道を選ぶんだって」
突如通路に鳴り響く靴の音。通路の奥、複数の教師たちが走り寄ってくる。
「ほら早く行きな。センセには話つけておくから」
にこやかに、力強く、その友人は自分の背中を押してきた。
「......ねえ、サージェス」
「うん。なにさ」
「これからも......友達でいてくれる?」
「ばーぁか」
背中合わせの少女は、心底呆れた声で。
「そんなこと心配する暇あったら、することしてさっさと戻ってきなさい」
その瞬間。なにか、とても重い枷が音を立てて外れていった。
普段その重さに慣れているはずの鎗が、今までになく軽い。
......聞いたか、親父?
たとえあたしが名詠士じゃなくたって、それでもあたしの居場所はここにある。ここで待っててくれる友達がいるんだ。
「いいじゃん。あたしだって、たまには女の子したくなるんだよ」
「はいはい、分かりましたよ」
それ以上、友人は何も言ってこなかった。
──ありがとう。
振り返ることなく、エイダはロビーを走り抜けた。
教師が構える校門に行き着く直前。
「......エイダ!」
聞き知った声が背中に届いた。振り返った先、緋色の髪をなびかせる少女が自分に向かって駆け寄ってくる。
「エイダ、あなたどこ行ってたの! ネイトもケイト先生もいなくなっちゃって、先生たちが大騒ぎしてるのよ!」
「ごめん、今それ話してる時間ないの」
「待って!」
背を向け走りだす。その直前、彼女は力ずくで肩を摑んできた。
「つまり、ケイト先生とネイトの居場所知ってるのね?」
「クルーエル、あたし急──」
言いかけた言葉は、彼女の二の句によって消え去った。
「急いでいるなら、何とかしてあげられるかも」
くすりと片目をつむり、微笑むようにクルーエルが口元をやわらげる。
「......え?」
話が見えない。それってどういうこと?
「エイダ、あなたの持ってる鎗でちょこっとだけわたしの指先、切ってもらえるかな」
「クルーエル? ごめん、意味が......」
有無を言わさず、鎗の先端に彼女が指先を押しつける。あまりのことに制止も間に合わなかった。鋭利に研ぎ澄まされた鎗先に、少女の指先が微かに触れる。
「ちょ、ちょっと何してるの!」
「──エイダ。わたしもずっと迷ってたっていう話、したよね」
やわらかな声と共にクルーエルが振り返る。
「わたしね、一度名詠が怖くなったことがあったの。でもそれを言ったら、あの子、『僕、信じてます』だって。......あれはずるいよ。ホントに、言われたこっちが恥ずかしくなるくらい一生懸命応援してくれるんだもん」
あの子?
クルーエルがそんな単語を使いそうな相手......それって、もしかして。
「ううん、それが誰かは秘密」
どこか悪戯っぽく、どこか照れたように微笑む彼女。
「だから決めたの。今ここで、わたしにできることがあるのなら──もう怖がらない。信じるって言ってくれたのを、裏切りたくないからね」
その指先から一滴、赤の触媒が風に舞う。
一陣の風に攫われた赤の飛沫──それがいつしか、紅く燈える無数の羽根に姿を変えていた。幾百幾千にも及ぶ羽根。自分たちを包むように、地に落ちることなくいつまでも空に舞っている。
見覚えがある。これ、競演会でクルーエルが詠びだした奴? でも妙だ。彼女は今、〈讃来歌〉を詠ってないのに。
『わたしを詠ぶのに〈讃来歌〉は不要』
その声は、エイダの耳にも確かに聞こえた。
不思議な声。朧気で儚く、なのにとても近くから。
『愛しい小鳥。翼なき歌い手よ。さあ、わたしの名を呼んで』
優しい風が吹いた。周囲を吹く潮風とは違う、心の内面を澄ませる微風。
燈える羽根が踊るように宙を舞う。緋の髪の少女を護るように。
赤の祝祀が終わったその後に──少女の背後に寄り添うように、巨大な真紅の翼を持つ名詠生物がそっと佇んでいた。
「......うそ」
一歩、圧されるように後ずさる。
伝承として物語として。名詠を学ぶ者だけじゃない、世界中の一般人にすら、その存在は伝説として広く知れ渡っている。
紛うことなき赤の真精。最も気高き名詠生物がそこにいた。
『お乗りなさい、爪持てし雛よ』
詠び出した名詠者に小さく頷き、黎明の神鳥が自分に向けて翼を差し出してくる。

『さあ、あなたの道行きを教えて』
道行き。進むべき導。それは。
......あたしの選んだ道は。
──決めたんだろ? そっちの道を選ぶんだって──
あたしの選んだ道は、きっとみんなと違う道。
だけどあたしも、もう迷わない。それが、送り出してくれた友人との約束だから。
「──意地悪」
にやりと、エイダは唇の端をつり上げた。
「あんた、ホントは分かってるんでしょ」
一瞬の沈黙の後。
自分に合わせるかのように、神鳥の瞳もまた微笑んでいた。
『とても好い。名詠士に在らざる少女よ。それは、とても好い決意です』
終奏 『諸人歌う 奏でる鎗使いの道行きよ』
1
背中越しに、背負う同僚の息づかいが聞こえてくる。弱々しい、か細い呼吸。
──ケイトの出血が止まらない。
「あとちょっとだから、それまで我慢してくれ!」
背負う彼女からの返事はない。
「......それまで保ってくれよな」
ここへ来る前に確認済み。最奥のメインホールには外への避難扉が確かにあった。
自身疲労で頭痛と目眩に見舞われながら、それでもゼッセルは走り続けた。







「......静か」
更衣室だろうか。職員用の研究服が並べられたロッカー。ネイトはその一つにじっと身を潜めていた。
......ケイト先生。
自分とエイダを逃がすため、一人残った教師。
「──僕」
競演会にも似たような無力感を味わった。ただあの時と決定的に違うのは、今この場所では自分が本当に独りだということだ。
いつも傍にいてくれたアーマがいない。夜色の触媒を用意してくれるミオがいない。そして、あの時のように名詠を見守ってくれるクルーエルがいない。
......また独りなの?
ずっとずっと前。自分が孤児院に預けられていた頃。話すべき相手もなく、頼るべき相手もいなかった。だから──朝が来て孤独を感じるなら、いっそずっと布団の中に隠れていたかった。いつまでもいつまでも、醒めない夜が続けばいいと思ってた。
でも。
今は亡き母親に拾われて、そこから、何かが少しずつ変わっていった。アーマと出会い、トレミア・アカデミーに来てまた沢山の人たちと会えた。緋い髪をした優しい少女と会い、母との約束を探し続けていた名詠士と出会い、大勢のクラスメイトにも出会えた。
「だから。今は、違うよね」
一緒にいてくれる人はいる。今は、僕がここでじっとしてるから会えないだけ。こんなとこで隠れてたって仕方ない。
「僕から行かないと」
ロッカーを僅かに開き周囲の様子を探る。平気だ、辺りにあの蛇や石竜子の姿はない。
更衣室を出、来た道の先へと通路を進む。
が、ものの数秒と経たず、靴先に異常があった。震えてる。僕が怯えてるから? いや違う。これは──
「なに、これ......地震?」
2
音もなく、光妖精の幻灯が突如消えた。またしても灰色の名詠生物か。一瞬身構えたものの、ややあってエンネは安堵の息をついた。
落ち着いてみれば何と言うことはない。光妖精の発する光が、さらにまた別の光によって隠れただけ。
暗い通路を照らす、わずか一筋の光明。それは閉じかけた扉の奥から、木洩れ日のように通路を照らしていた。
「......メインホールだよな」
ゼッセルの独り言だとは分かっていたが、それでも頷くことにした。
灯りという灯り全てが途絶えた研究所でただ一か所、最奥に位置するメインホールのみ照明が生きている。偶然だと言うにはあまりに作為的な状況。今までの状況からして、これで良い場面に行き着くという可能性は限りなく零。あのホールへ突入するかどうか自体が分の悪い賭けになる。あの奥で待っているのはおそらく──
......だけど、行くしかない。避難路はこの先だ。これ以上はケイトの身体が保たない。一刻も早く、医療機関へ運ばなくては。
扉を蹴り開ける。部屋の眩しさにまぶたを閉じかけるも、睨みつけるように部屋の中央へと視線を向ける。
向けたまま、エンネは目を細めた。
──そういうことだったのね。
奥歯を嚙みしめる。ようやく、この馬鹿げた茶番の正体が見えてきた。
「これが原因だったわけね」
巨大な空間の中央。宝石が施されているらしき絢爛な灯籠、その上に据えられた灰色の〈孵石〉。さながら、五色に輝く玉座に構える灰色の王と喩えるべきか。視線をずらせば、部屋の隅にはさらに五色の〈孵石〉。
「......さすがにこの触媒を精製した施設だけあるな」
ケイトを背負うゼッセルの、皮肉にも似た呟き。
トレミア・アカデミーに持ち込まれた物は五色の〈孵石〉が各一つずつだったと聞く。ならばこの施設にまだ相当数が残っていてもおかしくない。
「この研究所も〈孵石〉が暴走したのか?」
「それは、まだ断定できないわ」
小さく、エンネは首を横に振った。
学園に持ち込まれた触媒は既存の五色のみだったと聞く。研究所で精製した〈孵石〉が五色のものだけならば、この灰色の〈孵石〉はそもそも何だ? それに今のところ、灰色の〈孵石〉はこの部屋にある一個しかわたしたちは見ていない。仮に触媒の単純な暴走だとしても、この灰色名詠生物群の数は勘定が合わない。せめて二つ、いや、あの量を詠び出すならば最低三つは卵が必要だ。
そして、研究室の碑石に残されたあの血文字......
──いいえ、やめましょう。
「今は、面倒なのは忘れた方が良さそうよ」
少なくとも今、現状の分析はわたしたちに求められていない。無事この場を脱出する、現状の打破が最優先だ。
「ゼッセル、一応その触媒には触らないでね」
〈孵石〉は触れられることで強制的に名詠を発動させる。仕掛けは今なお不明だが、それは前の競演会で証明済み。
「......ケイト、待ってろ」
もはや自力で背に摑まる体力すら残っていない同僚。自身疲労の色を浮かべつつも、ゼッセルが彼女を背負い直す。
部屋の奥、周囲の鈍色の壁と一線を画す朱色の扉。研究室のマップで確認したのと同じ、あの扉を越えれば外界へ出られるはずだ。
不意に。
「......地震?」
彼が微かに眉をつり上げる。それに併せるように、微弱な揺れが足先から伝わってきた。さらさらと、天井の壁材が剝がれ落ちていく。
不思議だ。この感じ、以前にも体験したような。
既視感? いや違う。自分もゼッセルもミラーも、そしてカインツも。あの時、これと同じ鳴動を確かに目の当たりにした。
〈孵石〉の暴走。あの時生まれた怪物の地鳴り。
「エンネ!」
やおら、彼の声が裏返った。悲鳴か警告の入り交じった声音。自分たちが通ってきた扉。その扉の奥、通路の陰から灰色の生物たちがゆっくりと這い進んできていた。
「くそ、どこまで罠になってりゃ気が済む!」
「ゼッセル、急ぎましょ! こんなの相手にしてら......」
──その足が、止まった。
「............うそ」
部屋の四隅。無造作に転がっているだけだった卵形の触媒、うちの二つが活性化の光を放ち出す。いやそれだけならまだいい。問題は、その卵の場所が避難通路の最寄りに置かれた二個ということだ。
名詠光が消え、倒れた〈孵石〉の両脇にそれぞれ数体の名詠生物。
背中に灰色名詠生物群。そして正面には宙を漂う黄の小型精命、その脇に控えるように、緑の体表をした双頭の毒蛇。
──囲まれた。じりじりと、中央部目がけて包囲の輪が狭まってくる。
「ケイト......やるだけのことはやるけど......ごめんね、最悪の結果になるかもしれない」
床を滑るように、足下から双頭の毒蛇が迫ってくる。天井伝いに灰色の蛇。左右からは灰色の石竜子と黄の小型精命。
数が、多すぎる!
──『Keinez』──
最も近い距離にいた灰色の石竜子数体目がけ、ゼッセルが猛火を名詠。ただしそれはバックファイアが届かぬ程度に抑えた炎。紅い熱波に混じり、足を止めることなく進んでくる灰色の影が確かに見えた。
──この程度の火力じゃ動きも止められないの?
真正面から迫る双頭の毒蛇を牽制するように、エンネは立ち位置をずらした。
一瞬、同僚の姿が視界に映る。彼のすぐ背後二メートルほど、ぞっとするほど近い距離まで黄の小型精命が音もなく忍び寄っていた。こいつの攻撃範囲、たしかヒトの身長程度だったはず。だとすればあの距離は──まずい!
「ゼッセル、後ろ!」
慌てて彼が振り向くも、あまりに距離が近い。反射的に飛び離れようとするゼッセル。しかしその直前で彼の膝が落ちた。直前まで差し迫った危険に、ケイトを背負っていたことを彼は失念していたのだ。同僚を背に支える負荷だけ、動きが鈍い。
黄の小型精命の発する光が黄色から青に変化。球状の発光体から絹糸ほどの繊糸が伸ばされる。
だめだ、ゼッセルは躱せない。そのことを本能的に悟った。
O muas dowa
......伏せる?
自分が言葉を理解するより先、セラフェノ音語によって綴られたその言霊に導かれるように、彼が背のケイトごと床に倒れ込んだ。
朱色に塗られた避難通路が、更なる真紅に染まり膨れ上がる。
刹那、その避難通路が音を立てて弾け飛んだ。粉砕された扉の破片が眼前の黄の小型精命を巻き込み、部屋の壁に猛烈な速度で衝突する。
......これは?
広大なホールのその床へ、優雅とも言えるほど静かに降り立つ真紅の巨鳥。
......黎明の神鳥?
周囲の状況も忘れ、エンネはその場に立ちつくした。自分のすぐ目の前に、あまりに有名ながらあまりに名詠事例の少ない、名詠士間でも半ば幻と化した名詠生物。
「ほらエンネ先生、早くこっち来て!」
「エイダ?」
巨大な鳥の背からひょっこりと顔を覗かせた少女に、呆然と声を失った。
「ゼッセル先生、ケイト先生と一緒に乗ってください!」
もう一人、神鳥の翼と同色の髪をした少女が自分たちに向けて手招きしてきた。
「おまえ、クルーエルか」
ゼッセルが目を見開く。彼が知っているということは、彼が講義を担当していた生徒だろうか。
「センセ、ちび君知らない?」
神鳥の背からエイダが飛び降りてくる。その手に──金属の光沢を放つ長大な鎗?
「ちび?」
「ああ、ネイト君のこと。あたしやケイト先生とここに来てたはずなんだけど」
「......ごめんなさい、ケイトとしか会ってないの」
予想に反し、少女の方は普段の飄々とした表情のままだった。
「ううん、それだけ教えてもらえればいいよ。探せば見つけられるだろうし」
それだけ残し。ゆらりと一人、自分たちから離れエイダが歩き出す。まさか本気でネイトを探しに行くつもりなのか?
「......エ、エイダ! 何を!」
黎明の神鳥から離れてホールを進む少女に向かい、足を止めていた名詠生物群が一気に襲いかかる。
「エイダ、後ろ!」
神鳥の背に乗るクルーエルが叫ぶ。
少女のすぐ真後ろ、先ほど壁に吹き飛ばされたはずの黄の小型精命。
にもかかわらず、その警鐘に少女は振り向きもしなかった。
「──把握ってる」
黄の小型精命が伸ばした光の繊糸、それと同時に、背を向けたまま少女が鎗を背後の相手に突き出す。光の糸と鎗。互いが交叉し通り過ぎ──
「黄の小型精命の攻撃限界範囲は一・六七三メートル。対し、我が祓戈の長さは一・八九五メートル」
指先一本分の空隙を挟み、光の糸は少女の背中の直前で止まっていた。
対照的に。少女の鎗に突かれ、黄の小型精命が小刻みに震え出す。
「つまり、祓戈の端より〇・二メートルの箇所を持った上で突き出せば、〇・〇二二メートルの差で相手の攻撃は絶対に届かない」
届かない。その言葉と共に、黄の小型精命が光の粒になって送り還されていく。
死の境界線まで......僅か二・二センチ。
今、この少女は背後の相手に対し振り向いてもいない。いやそもそも、自分の持つ鎗すら見ていない。自分の握る箇所が指先一つ分ずれていればどうなっていたことか。
「一ミリだってずれませんよ、絶対に」
心中を見抜いたかのように、少女がぽつりと呟く。
「......そのくらいの研鑽は、ずっと昔に積んでますから」
その声音は不思議と、悲愴に満ちたものだった。
討伐難易度──易
なぜ少女が背後の相手を目にしていないか、その理由にようやく思い及ぶ。
眼中にもない、まさにその言葉の体現。既に彼女の視線は、次に倒すべき相手の方を向いていた。
「総数二十七、うち詳細不明のものが十三体」
足下から双頭の毒蛇が襲いかかる。
毒滴る牙が足先に触れる──そう錯覚するほどの距離で、だが蛇の牙は空を切っただけ。鎌首を持ち上げた姿勢のまま、その名詠生物が緑の名詠光を発して還っていく。
「残り二十六体。うん、何とかなるな。一通り掃討してからちび君探した方が楽そうだ」
少女は、その蛇の更に背後に立っていた。
──速い。いえ......やわらかい?
あまりに自然で滑らかな体捌き。水中で今と同じ動きを再現したとして、水面には波紋一つ立たないだろう。そう思わせるほど、あまりに流麗。今まさに返り討ちにされた蛇自身、自分がいつやられたのか最後まで理解できなかったに違いない。
「一通り......掃討?」
つい昨日、自分の講義で模擬テストを受けていた少女。彼女が用紙に書いていた名前を思い出し、エンネは息を呑んだ。
エイダ・ユン・ジルシュヴェッサー。
祓戈の到極者──祓名民の中で最高位にある称号であるとは聞いている。だけど、この弱冠十六歳の少女が既にそれを冠しているというの?
祓名民の頭領たるクラウスですら、その後名を手にしたのは二十代半ばだったと聞いている。なのに、こんな名詠校で名詠の勉強をしていた女の子が既にそれを?
にわかには信じられない。けれど、目の前の光景は圧倒的に本物だった。
小さな呼気だけを響かせ少女が踊る。名詠生物たちの眼前に自らの身体を晒し対峙する。命すら賭けた舞に、見ている自分たちの方が恐ろしくなる。
危険だから? 否、その舞の可憐しさにこそ、背筋が凍った。
天井から落下する大蛇を払い、と同時に足下の双頭の毒蛇を躱し、灰色の石竜子の爪先をわずか数ミリの差で逸らす。圧倒的な体捌きに共鳴するかの如く、金属製の鎗が鞭のようにしなり、風鳴りを伴いながら周囲の相手を薙ぎ払う。
繊細にして豪放。機敏にして静謐。華麗にして残酷。鎗なのに、刀のような鋭さがある。鎗なのに、弓のように美しい放物線を描く。
そもそも、少女一人にして相手は三十近い。その全てが、自分たちを忘れたかのように、少女へ一斉に襲いかかっていた。にもかかわらず、四方を囲まれた中でなお少女の舞踊は一時として止まることがない。胸の鼓動すら凍るほど張り詰めた、死地の舞踏会。そのはずなのが、猛りも焦りもそこには存在していなかった。
......違う。わたしの知っている生徒じゃない。いえ、わたしの知っている名詠士じゃない。この少女は──名詠士に在らざる者。
振るう鎗が相手を二体をまとめて薙ぎ払う。断末魔の名詠光を迸らせ、次々と還っていく名詠生物たち。
残り十三体。そこで、初めて少女の動きが止まった。
右手に鎗を携えたまま、左手をだらりと下げている。
「エイダ、左手!」
クルーエルの悲鳴につられるように少女の手を見据え......そこで呼吸が止まった。赤銅色に日焼けした少女の左腕、灰色になった左手首だけが異様に目立つ。
「......かすってたか」
機械的な声音で少女が洩らす。その視線の先、残る十三体、それは全て灰色の名詠生物だった。
「エイダ、もういいわ! 退きなさい!」
たった一人で名詠生物十数体を相手にしたんだ。もう十分だ。今すぐこの施設から脱出するべきだ。──にもかかわらず。
「それはできません」
あろうことか、背を向けたまま彼女は首を横に振ってきた。
「エイダ!」
どうして。どうしてそんなに意地を張るの。片腕が石化した状態で何ができるの。
「......あたしが、不器用な女だからです」
そう。名詠士になりたくて、でもなりきれなかった不器用な──幻聴か。そんな言葉が、少女の口からこぼれた気がした。
前後左右。あらゆる方位から名詠生物群が迫る。容易に捌ける数じゃない。エイダ、片手だけでどうしようというの。
その瞬間、少女が叫んだ。
「センセ、何色!」
──灰色名詠の反唱に、五色の中で最も適した色は何色だ。
その意図に自分だけが気づいたのはきっと、わずかな時であろうと自分が、この祓名民の少女の『先生』であったからなのだろう。
「あなたの選んだ色よ!」
彼女に伝わるように、エンネは肺に残る呼気全てを振り絞った。
返事の代わり、少女の持つ祓戈の先端が白色に輝く。先端の送還用宝石を真珠に入替。
そして、祓名民の少女はその祓戈を自らの左手に突き立てた。
さながら硝子が割れる音。
澄みきった乾いた音を立て、腕を石化させる呪いが一瞬にして祓われる。その意味が伝わったのか、灰色の生物群がわずかに動きを鈍くする。瞬きほどにも満たない逡巡。隙という隙ですらない微かな虚。だが祓名民の少女には十分だった。
──『Nussis』──
矛先の残像だけを残し、白く輝く祓戈が全方位を薙ぎ払う。蒸気が騰え立つように、部屋に残っていた全ての名詠生物が白煙を上げて消えていく。
その煙に身を委ねるかの如く、祓戈を携える少女はじっと瞳を閉じていた。
3
微弱な揺れが止まり、もうどれほど経っただろう。
ふと立ち止まり、ネイトは周囲を眺め回した。
通路は一本道、緩やかに右へとカーブしているらしい。自分は分岐路を左に逃げたから、方位としては総じて直進に近いはず。
......何もいない、よね?
数秒おきに背後を確認しているが、あの不可思議な灰色の生物たちが後を追ってくるという気配はない。照明の落ちた通路、微弱な緊急灯を頼りに進んでいく。
「避難......経路?」
通路の壁に貼り付けられたプレートの文字、たしかにそう刻まれていた。
ここをさらに歩いていけば、避難扉に辿り着く。
再び足を進める、その前に──身体が震えた。
「あ、あれ」
身体だけじゃない。床、壁、天井。その全てが悲鳴を上げるように震えていた。
地震? だとしたらさっきよりも大きい。
......一体何が起きてるの?







「エイダ、すごいじゃない! そんな特技あったんだ」
鎗を抱えたまま戻ってくるクラスメイトに、クルーエルは思わず歓声を上げた。
鎗術会に入っているということは知っていた。けれど、まさかここまでの技量を持っているとは。クラス内では、まるでそんな素振りなど見せたことがなかったというのに。
「ん......まあ特技というか」
言葉を濁したままクラスメイトが後ろ頭を搔く。たった今神業的な技量を見せておきながら、その表情は不思議と寂しげな陰を映し出していた。
「クルーエル、先生たちを早く連れて帰ってあげて」
ケイト、エンネ、ゼッセルの三人。それに自分とエイダ。重量的に厳しいかとも思ったが、神鳥の方は問題ないと言ってきた。
「分かってる。エイダも早く乗りなさいってば」
ところが、一人背に乗り遅れた少女は苦笑気味に肩をすくめてきた。
「あたしはちび君探しておくよ。あたしが連れて来ちゃったようなもんだからね。さすがに責任感じちゃってるから」
「でも......」
『参りましょう。急ぐ必要があるのだから』
神鳥が首を持ち上げる。......確かに、冷静に事を考えるならエイダや神鳥の言う方が正しいことは目に見えていた。問題は、自分たちの担任であるケイト教師だ。背中の傷が深い。今すぐ医療機関へと運ばなくては。
「エイダごめんね、わたしもすぐ戻ってくるから」
「あいにく、遅刻魔のあんたに言われてもね」
軽い口調でエイダがおどける。あなたも同じでしょ。そう言い返す直前。
loar dime,Hir qusifluse feonen rawacley
shezadime, Hirqusinazariefeo eza dawavir uc corne
声が、何処からともなく、無風のはずの室内を駆けめぐった。
それと同時。
──ピシリッ──
何か硬い物がひび割れる音。あまりに小さい音ながら、奇妙なほど明瞭に、それはホール中に響き渡った。
solitiekaon,writh lefeza,lastis osfisaendehecmofy
arseiglio,ovanezisgliajesreive
老人のしわがれた声が、奇妙な旋律を歌い上げる。
いえ、ただの歌じゃない。これは〈讃来歌〉?
「な、なに......? また?」
omunisvia-c-univa,Yer sistera pegezis, eza
zette yupathes Inecktloern
死者の怨念を思わせる旋律は、唯一残った〈孵石〉から──
「エイダ、今すぐこいつに乗れ! その卵はまずいっ!」
エンネ教師に続き、ゼッセル教師が顔色を変えた。
中央に掲げられし灰色の触媒。
それが、殻が破れるかのように少しずつ外皮の部分が剝がれていく。内部から洩れる、鈍色の輝き。
Isa daboemafotondoremrenSer lalemenent,clar lefilmei arsa
jeseffectisqusi foLastihyt,ecta pegsterei orza
『この研究所そのものが罠だった、ということなのでしょうね』
神鳥の睨みつける先──
一際輝く名詠光。光の粒が螺旋状の環を描き、その中心に銀色の影が現れる。
『そして、これが最後にして最悪の罠のようです』
miqvyO evoiaarseitearl diselmaei I ──stereiefflectisEzehyt =ende arsa
銀色の何かがそこにいた。
体長二メートルほど。細長い金属針を合わせ人型を成したような形状。両手に相当する部位からは、直接銀色の剣が生えている。名詠式で詠び出される既存の名詠種とは違う、灰色の名詠生物たちとも風を異にする、あまりに人工的な外観。──その周囲、真精を護るように宙に浮く、十二刃にものぼる銀色に輝く鎗・剣・斧。
......まさか、こいつが灰色名詠の真精?
両手に二つ、その周囲に十二の刃を備えた銀色の名詠生物。
その真精が、ゆっくりと両の武器を持ち上げる......そう認識した瞬間。
自分たちのすぐ眼前に、その真精は立っていた。
『......捷い』
神鳥が洩らす驚愕の声。
あまりに唐突、何の予兆もなく動き出す。それも恐ろしいほど速く滑らかに。その動きに、クルーエルは全身が粟立った。この真精の動きは、エイダのそれに酷似している?
振り上げた剣が神鳥に向かって振り下ろされる。
「──虚け」
叩きつけるような銀閃が、さらに下から振り上げられた銀閃に弾かれた。
「棒人間、相手を違えるな!」
真精の正面、鎗を携えた少女が独り立ち塞がる。
「エイダ?」
「先に帰ってて。さっきも言ったでしょ、あたしはちび君を探してから戻る」
「何言ってるの、エイダも早く乗って!」
視線を正面の相手に向けたまま、彼女が無言で首を横に振る。その拍子。
......ぽちゃん。
小さな小さな飛沫が、床に落ちた。
「エ、エイダ、あなた?」
「お願い......先行って」
その飛沫は少女の瞳から。
「あたしは不器用な人間だから、これしかないの」
ゆっくりと、少女が横顔を向けてくる。
湖畔のように波立つ双眸を。
「......あたしさ、名詠士って憧れてたんだ」
──泣いていた。
初めて見た。エイダが、大粒の涙を頰から流していた。
「最初はね、ばか親に決められた道ってのが嫌だから、どうせなら反対の名詠士になってやるっていう、つまらない理由だったんだ。親と喧嘩別れしてこの学校来たようなもんだもん」
手元の鎗を抱き寄せ、真精が徐々に近づいてくる中で、あまりに無防備な格好で少女がこちらに振り向いた。
「でもね、やっていくうちに面白くなってさ。本当に名詠士になれればいいなと思うようになれたんだ。それだけはホント。たくさん友達ができたのだって、実はこれが初めてだったんだ。あたし......それまではずっと......ずっと」
〝──たとえばね、クルーエル。もしウチのクラスにさ、ちび君以外にも独りぼっちの子がいたとしたらどうする?〟
ふるえる声音。ふるえる身体。
ふるえる涙。ふるえる吐息。
あまりに弱々しく脆い、目の前で嗚咽を洩らす女の子。
「そう思ってたはずだったんだけどね。......初めてだよ。祓名民として過ごした思い出がありがたいと思ったの」
あふれる涙を隠そうともせず、そのクラスメイトが場違いな微笑をこぼす。
「あたしは......馬鹿で不器用だから......この道しかないみたい」
その仕草に、見る者すべてが言葉を失った。
あまりに儚くあまりに潔い。
それほどまでに、少女の立ち振る舞いは──紛れもない祓名民だったから。
「でもエイダ、いくらあなたでもこんな怪物相手に一人じゃ......」
「大丈夫。こんな木偶の坊なんかより、ウチの頑固親父のが百倍タチ悪いし」
壁という壁が、天井という天井の石材が崩れ出す。先の鳴動か、あるいはこれも罠の一つか。
『......クルーエル、ここを離れます』
神鳥がふわりと翼を羽ばたかせる。
......きっと、逃げろなんて言葉は届かないんだろうね。
ずっと名詠の学校にいた祓名民。
そして、今──それが彼女の選んだ道ならば。
「エイダ、さっさとネイト連れて帰ってきなさいよ! 約束だからね!」
自分にできるのは、クラスメイトとして信じることだ。
......はいはい、分かってるよ。クラス委員。
口元の微笑を絶やさぬまま、エイダは避難扉を越える神鳥を見送った。
──ただし、ちょっとだけ遅刻するかもね。
視線を眼前の相手へと向け、両手で構えていた祓戈を片手に持ち替える。
物心つく前から与えられた自分の祓戈。
幾年の鍛錬を経て、祓戈の重さを一グラム以内の誤差で、間合いを一ミリ以内の誤差で把握する。この祓戈でできること、できないこと、その全てを我が身に刻印させる。──それを成し遂げた時、初めて父から、祓名民として名乗ることが許された。
十三歳。歴史上記録にない若さの祓名民が誕生した瞬間だった。
それから、三年。
この鎗はもはや自分の分身。鎗と振るい手の関係はそこにない。どちらもが鎗であり、どちらもが振るい手なのだから。
「さ、あとは二人だけで寂しく戦りますか」
......そう言えば、お前に話しかけるのは久しぶりだったね。
頰をつたう涙を拭う。周囲の壁を薄紙のように切り刻みながら近づいてくる真精。触れる者全てを切り刻む──高速で旋回し真精の周囲を護る、十二の銀色の刃たち。肌が焼けつくように痛む。刃ではなく、相手の発する殺気に当てられて。
紛れもなくこの相手は強い。それだけは認めざるをえない。今の、名詠士としての自分のままならきっと勝てない。ならば名詠士としての半年は無駄だった? ......否。
ただ一つ、名詠士の学校で覚えたことがある。
勝てないからこそ、詠ばなくてはならない。
自分の最もよく知る、そして最も嫌いだった──あの日の自分を。
O toga Wemmillmo,HIr shoulda ora pegilmerigiris endezorm
詠え。思い出せ。
空想も想像構築も要らない。
詠び起こすべきは、かつて在りし日の自分。
過去に切り捨てた自分。手放し背を向けた、祓名民としての記憶。
ただ無心に祓戈だけを愛し、祓戈と共に生きた自分を──今一瞬だけ詠び起こせ。
ole shanilis, pegloar, pegkei, Hiret univasm hid
Hir bequsiGillisuxshao elesm thes,neckt ele
片手で鎗を廻す。次第に速く、次第に強く、美しく。
親から、周囲から、天賦の才と言われるのが嫌だった。だからこそ、誰にも見つからぬ場所で、言葉では到底喩えられぬほど研鑽を積んできた。
Lor be seGillisufeo olfeycori endeolte
lippshypnecooka,fifsia-c-ect-c-elepeg Gill,jes qusigiris
名詠の学校に来て、名詠の勉強を怠ることはあった。
鎗術会に入って、気まぐれに練習から逃げることはあった。
けれど──祓名民としての鍛錬だけは欠かしたことがない。
leideneckt elesm Yemhypne,reivezayxuylostasiaYem nehhe
O laLaspha,Wemshel zohearsalipps smcley
血豆ができてそれが潰れ、掌の皮が破け、激痛に瞳を濡らし、だけどそれでも祓戈だけは握ってた。冬の凍れる雨に打たれ気を失ったことも、夏の狂った熱線に灼かれ、肌が爛れ腐りかけたこともあった。だけど、それでも祓戈は離さなかった。
わたしの祓戈は裏切らない。振るった数だけ鋭くなり、泣いた数だけ強くなってきた。
そうだ。そう言い切れるだけの距離を、わたしたちは一緒に歩いてきた。
IsaO ora,stereiIes,sterei dacookadoremren
鎗が空を切り裂き、あたかも少女の身体を覆う刃の鎧と化す。
空を切り、楽曲にも似た調べを鎗が奏でる。
赤銅色の鎗使いが詠う、赤銅色の旋律。
Jes nehhequsi Ies,arseispil, Seola miqvyvirgia
名詠士としてではなく、祓名民の名を背負うのならば。
自身の背に護るべき者が、自身の前に倒すべき相手がいるならば。
──至高の称号を抱く者として、退けない道がある。
bekwistYem nehheolfeybestiGillshuvesher
焦りも猛りも、遥か彼方に消え去った。
身体の火照りも昂ぶりも、周囲の鳴動すら届かない。
「いくぞ真精! 我を以て、祓戈の到極者が故と知れ!」
その部屋に名詠士はもういない。
歌と鎗の狭間に揺れる時期は、もう過ぎた。
──エイダ・ユン・ジルシュヴェッサー、参ります。







......地震、まだ続いてる?
前の激震は収まったが、髪を震わせる微弱な揺れは続いている。
にわかに、音が変化した。
壁が崩れる破砕音ではなく、透き通った金属の響き。硬い何かと何かが絶え間なく衝突する、冷たく鋭い旋律。音色は、自分が進む方向から聞こえてくるような。
「......明かりがついてる?」
扉だろうか、その隙間から銀色の光が。
音源は──その扉の奥?
扉の先へと顔を覗かせ、ネイトは息を呑んだ。
銀色の金属棒で構成されたようなヒト型の真精。両手に直接生やした刃を振り翳し、対峙する相手に斬りつける。
その相手として立ちはだかっているのは──赤銅色の肌をした、鎗を携える独りの少女。
......エイダさん?
右、左。零コンマ数秒の時間差で両の刃が打ち下ろされる。右の刃を鎗の切っ先で弾き、弾いた動作の流れのまま、左の刃に視線を向ける。既に、鼻先にまで迫った銀閃。
──弾くのは間に合わない。
刃の峰に鎗を合わせ受け流す。と同時、身体を床に伏せる。風鳴りを立て、銀色の鎗と斧が今まで自分の首があった地点を過ぎる。
「ッ!」
呼気を破裂させ、浮遊する守護剣たちを薙ぎ払う。キィィッ......ン。氷の鐘を打つような余韻を残し、鎗と斧が消滅する。
「......のこり八本か」
更なる追撃をバックステップで躱し、約四メートルの距離を置く。
四・四二メートル、それが自分の間合い。対し、相手の間合いが最大四・一四メートルであることまでは確認できた。二十八センチ──速度と武器のリーチで僅かに勝る分の差。ただし敵の周囲を護る武器たちは、真精の周囲六メートルまでを不規則に飛んでいる。
真精の間合いに留まるという選択肢はない。万一これ以上懐に飛び込まれれば祓戈のリーチが徒になる。ならば自分の立ち位置は、相手の周囲四・一四メートルから四・四二メートルの範囲内。それ以上近づけば相手の間合い、それ以上離れれば相手の攻撃だけが一方的に届く。
二十八センチの空間内。その矮小な持ち幅が生と死、勝利と敗北を隔てる境界線。この空間を外すか外されれば負ける。けれど、違えずとも今のままでは停滞が続く。
──見出せ。この天秤をひっくり返す手段を。何がある?
が。考える間を与えることなく真精は距離を詰めてきた。
......常識が通用しない未知の相手、か。
常人では目で追うことすら能わぬ剣閃。瞬きする間に切り伏せられる速度で抉り、穿ち、突き、振り下ろす──かと思えば唐突に退き、退いたと思えば猛烈な速度で突進してくる。衝突してくるかと思えば突然に速度を落とし、再び退く。
まるで動きが読めない。
剣術の型をまるで無視した不規則な斬撃。ヒトの持つ呼吸を無視し、ヒトの持つ間合いを無視し、ヒトの為した剣技を嘲笑うような出鱈目な斬撃を繰り出してくる。視線が何処を向いているかすら定かではない。
......だめだ、乱されるな。自分の呼吸を保て。
突き出される右の剣を、身を捩って躱す。左の剣をぎりぎりまで引きつけ、身体を反らしてすり抜ける。銀光が頰をかすめる。熱い、皮膚一枚を削られ血が滲むのを感じる。
けれど、それを代償に相手の攻撃は躱しきった。
最速の動作で祓戈を突き出す。真珠を加工し付設した先端。乳白色に輝く鎗の切っ先が真精の胴体へ伸びる。

が、鎗が貫いたのは真精ではなく、その周囲を護る剣の一刃だった。
「──またか!」
意図せず苦い吐息が洩れる。
対峙して悟った。真精の周囲を舞う十二の刃、これは真精の武器にして護り。この真精に一撃を与えるには、まずこの十二の守護剣を先に還さなくてはならない。その数、残り七。
頰を伝う汗に血が混じる。
相手の弱点は予想がついている。真精の身体を構成する銀の金属片たち。それをまとめ上げているのは、中枢部で鈍色に輝く〈孵石〉。あの触媒がこの真精をこの世界に留めているコアだというのは想像に難くない。
......身体はまだ動く。平気だ。
身体の動きが鈍る前に、精神が摩耗する前に敵の守護剣たちを全て還す。還した上で、相手の中枢に祓戈を叩き込む。
「行くよ、祓戈」
自分の握る鎗に向かって頷き......
──リィィィ......ンッ──
何か、何かとても冷たい音が手元で響いた。気力、威勢、覚悟、決意。その全てが消え流されてしまうほど......悲しい音。
「......祓戈が?」
最初は目の錯覚かと思った。信じられなかった。だけど見つめれば見つめるほど、それが錯覚などではないことを証明するだけだった。
鎗の先端から半ばにかけ、蜘蛛の巣のように罅入った細かな亀裂の存在を。
......エイダさん?
彼女に何かが起きた。傍目にもそれはネイトにも伝わってきた。
突如、少女から何かが消えたのだ。体力? 違う、もっと根源的な何か。
闘う気力そのものが消滅したかのように、ただただ相手の攻撃を避けるだけ。そう。避けるだけなのだ。鎗で払うことも受け流すこともない。ひたすら後ろに下がり続けるだけ。
だけど──それは無茶だ。いくら彼女でもそれだけで避けきれるわけがない。
瞬きする間に、彼女の背が壁に触れる。逃げ場のない少女に向け、真精が一挙に距離を詰める。剣が肩を掠め脇腹を抉り、浮遊する斧が足を裂く。
「エイダさんっ!」
扉を越え、ネイトは彼女の下へ駆けだした。
......噓でしょ、ねえ噓でしょ。
祓戈に罅が入るなんて。今までそんなことなかった。手入れは一日たりとも欠かしたことがない。普段の扱いだって細心の注意を払ってた。別に、今の応酬だって実際に刃を重ねたのはせいぜい数太刀。祓戈の強度を考えればこの程度で──ならばこれは、もっと違う理由?
考えられるのは唯一つだけ。
生命ある者、形ある物、それら全てに等しく定められた節理──寿命という名の縛鎖。十数年にわたる過酷な鍛錬に触れ、その結果あまりに早く訪れることとなった、祓戈としての限界。
......嫌だ、嫌だ。そんなの噓だ。
自分の分身が? 一番初めにできた友達が?
──あたしを、置いていっちゃうの?
──そしてそれは、あたしのせいなの?
極限まで高め上げていたもの全てが、音を立てて崩れていく。
真精が剣を打ち下ろしてくる。祓戈で弾くこと、やろうと思えばできたかもしれない。けれど、どうしてもできなかった。
「っ!」
身をかがめて躱す。肩先に鋭い痛みが走る。小さく、だが深い裂傷。
......でも、でも構わない。
祓戈で受ければ、祓戈の寿命はまたさらに短くなる。それだけは絶対に嫌だ。
浮遊する武器から逃げ、振りかぶってくる相手の剣から逃げる。
──トン。つと、背中に硬い感触。壁?
と同時。真精がこちらに向かって一気に距離を詰めてきた。突きだしてくる剣、自分からさらに距離を詰めて外す。そのつもりが、足が動かなかった。
「痛っ!」
浮遊する斧がふくらはぎを抉っていた。痛みに一瞬視界がぶれる。再び顔を持ち上げた時、そこには真精の持つ大剣。
......避けられない!
祓戈で防ぐ? でも、他に方法はないの?
思念の回転が逆に徒となった。身体が動かない。
「エイダさんっ!」
振り下ろされた大剣がぴたりと止まった。動きを止めた真精が背後へと振り返る。メインホールに現れた闖入者。まだ幼さの残る顔つきの小柄な少年。
......ちび君?
金属の擦れる音を撒き散らし真精が疾る。その照準は──
だめ......だめだよちび君......早く逃げて、早く......きちゃだめだって。
「来るなぁぁっ!」
「え?」
その場に呆然と佇立する少年。真正面に迫った真精が大剣を振り上げる。それを為す術なく見上げる少年。あまりのことに、彼の方はまだ事情を理解していないのだ。
「あ......あ......」
眼前に迫った真精の威圧に呑まれ、彼がその場に凍りつく。
〈讃来歌〉を詠わずに名詠ができる者ならともかく、とかく名詠士は直接自分を狙われると脆い。だからこそ、名詠士の前に、盾として祓名民が存在する。なのに、ここに祓名民がいるのに。よりによって、目の前で名詠士の方が先に。
......いやだ。あたしはもう後悔したくない。目の前で友達が傷ついて、競演会の時にあれだけ胸が痛くなったじゃないか。
誰一人として守れない? ならばこの鎗は何のためにある?
何も成すことなく寿命尽る。
それは、あたしの祓戈が本当に望んでいることなのか?
〝エイダ。この道が、本当につまらないだけの道と思うか〟
〝祓名民の家系に生まれた者は誰だって一度は同じ疑問に辿り着く。──私だってそうだった〟
〝だが、それでもある日気づいたよ〟
......そういえば。そんなことも言われてたっけ。
〝......親父、あたしには分からない〟
〝分からないわけじゃない。お前がまだ気づかないだけだ〟
ようやく気づいた。あの日あの時、父親の瞳が告げてきたものが。
〝あたしは......馬鹿で不器用だから......この道しかないみたい〟
自分が、自分に為せることを探して選んだ結果がこれだっただけのこと。
自らの意志で選んだこと。
もう戻れない。生涯この道を歩くしかない。
あまりに過酷であまりにつまらない道。......でもそれでも。
──この道は、きっと誰かを守れる道だから。
少年へと振り下ろされる無慈悲な銀閃。真精の持つ両剣、その周囲を舞う守護剣。
その悉くが、乳白色の煌めきに薙ぎ払われた。
「......エ、エイダさん」
「平気かい? ちび君」
無言でこくりと頷く少年。その頭をかるく撫でてやる。
ふと視線を移した先。祓戈の先端、罅がさらに大きくなっている。
たぶん、次でお前とお別れなのかな。
......最後まで、あたしと一緒に戦ってくれる?
「ちび君、触媒持ってる?」
口早に、唇を動かさず背後の少年へと問いかける。
「え? は、はい」
「じゃあ一つ頼もうかな。君が一番最初にみんなの前で見せてくれた名詠、あれここでやってちょうだい」
競演会で見た名詠ではない。彼が転入して来た初日。実験室で彼が詠った〈讃来歌〉にこそ用がある。
「え......で、でもあれは僕にはまだ」
「失敗して構わないよ。〈讃来歌〉付きで、真精に聞こえるよう派手にお願いね」
「──っ!」
少年の表情に緊張が走る。自分が何を意図し何を狙っているか悟ってくれたのだ。
「エイダさん、たぶんあれは一分以内で消えちゃいます。......うまく合わせてくださいね」
目配せだけを残し真精の正面へと飛び込む。
真精の携える両の剣。そして周囲を飛び回る守護剣。身を捩る、しゃがむ、跳躍し、躱す。祓戈で受けてはいけない。残された最後の一撃分。それを確実に当てるために、今は避け続けなくてはならない。
「──cart lefdimi-l-shadidenca-c-dowa」
自分の背後、少年の奏でる〈讃来歌〉がホール全体にそっと拡張していく。
YeR beoratorLom nehhe
lor bestibluci endebranousi-l-symphoeki
O shesairaqersonieLaspha──
少年の足下、うっすらと夜色の名詠門が浮かび上がる。
薄皮一枚分まで惹きつけた銀の大剣とすれ違いに、渾身の跳躍で相手の懐に入り込む。
同時。彼の名詠が終詩を紡ぎ終えた。
──『Ezel』──
途端。室内が一瞬にして膨大な量の黒煙に包まれた。
名詠の暴走が生み出す一現象。
真精、ネイト、エイダ。三者の視界が皆等しく零になる。
......だけど!
目を痛めつける刺激の中、エイダは目を見開いた。夜目の訓練はしているが、目的は別にある。相手の中枢、灰色に輝く〈孵石〉だけは、この黒煙の中でも煌々と光を発しているからだ。
──つまり、お前はそこにいるっ!
防御は考えない。ただ無心で祓戈を突きだした。
一方で、灰の真精にも目印はあった。
少女の持つ祓戈の先端、乳白色に輝く宝石。これが相手の位置を教えてくれる。両の剣、浮遊する守護剣。持てる武器全てを、その宝石の周囲目がけて突きだした。
そして......
──黒煙が晴れた。
少女と真精。互いが互いに、自らの武器を突きだした姿勢のまま動きを止めていた。
「......終わったね」
身体が触れるほど接した状態で、エイダはその相手を見上げた。
祓戈の先端が〈孵石〉を貫いたのは感触で分かっていた。
一方で、真精の突きだした銀剣は、悉く見当外れの壁を穿っていた。
「今の状況でまともに戦ったら相打ちか、あるいはそっちが勝ってたかもだけど」
穿たれた壁に、わずかに灯る乳白色の光。
それは、自分が名詠で詠びだしておいた偽りの目印。
『............』
真精は応えない。少女の張っていた二重の策。それを称賛するかのように、ただじっと名詠の光を見つめていた。
自分がネイトに頼んだのは初めから、名詠暴走時に発生する黒煙だった。互いに視界が奪われた時、目印になるのは〈孵石〉の光と、祓戈の先端に付設した宝石の輝きだ。
その宝石の輝きに似せた白光を、エイダはネイトの名詠と同時に詠んでいた。
もともと白色名詠は自分の専攻。触媒は祓戈の真珠。そのための〈讃来歌〉は──
〝真精に聞こえるよう派手にお願いね〟
ネイトにあえて大声で〈讃来歌〉を詠わせ、その声に隠れるかたちで自分の〈讃来歌〉を重ねる。あとは──真精の剣は偽造の祓戈へ向けて振るわれ、自分は相手の〈孵石〉目がけて祓戈を突きだせばよかった。
さらさらと、真精を構成する金属片が細かい砂となって消えていく。
浮遊する七本の守護剣が消え、真精の持つ大剣が消え、身体そのものが消え。中心を穿たれ破砕した〈孵石〉だけが、メインホールの床に転がっていた。
そして、同時に。
自分にとって大切な物の一つが、音を立てて砕けていった。
「エイダさん!」
放心したような表情で立ちつくす少女。今にも気を失い倒れるのではないか、その悪寒に、ネイトは慌てて彼女のもとへ駆け寄った。
「傷、だいじょうぶですか」
「......平気だよ」
平気なはずがない。両足から流れ落ちる血が、靴先までを紅く染めているのだから。
なのに、彼女はそれすら意に介した様子もなく、ただ自分の足下を見つめていた。
血濡れた靴じゃない。少女がじっと見つめる物はそのさらに先。
──祓戈が?
少女と十数年共に歩んできた祓戈が、その切っ先から砕け散っていた。床に零れた、小さな小さな、数え切れぬほどに砕けた刃の欠片。
「ちび君、ごめん、先帰っててくれないかな」
ぽつりと、力なく彼女が吐息をこぼす。
「......でも」
「お願い。『二人きり』にしてほしいの」
避難扉から少年が外へ走り去っていく。
静寂の帳が降りたホール。その場に立つのは、もう独りだけ。
目を瞑ったまま、祓名民の少女は砕けた鎗を胸に抱きかかえた。
「......ごめんね」
今まで、一番近くで護ってくれてたのはお前だったのに。あたし、気づくのが遅かった。......本当に、本当にごめんなさい。
4
いつから、もうどれだけ待っていただろう。
冷たい波の押し寄せる砂浜。距離的には、分校と研究所の間だろうか。海を赤く染める陽が水平線の彼方へと消え、砂を攫う波はとうに昏い色になっている。
「星が出てきたね」
隣に立つ、緋色の髪の少女がぽつりと呟く。その言葉に誘われるように、ネイトは頭上を見上げた。
天上に小さな星明かり。
燦めく光の粒が、あの時砕け散った祓戈を思わせる、そんな刻。
「心配したんだからね。よりによって一人ではぐれちゃってるなんて」
研究所から戻る途中の道で、彼女はずっと自分を待っていてくれた。
「......ごめんなさい」
「でも、キミが無事で良かったよ」
「あ、あの。ケイト先生は?」
「すぐお医者さんに連れて行ったから平気よ。他の先生たちも看ていてくれてるし」
数秒、互いに言葉が途切れた。
「......ごめんね」
波飛沫の残響に合わせるように、先に口を開いたのは彼女の方だった。
「謝るのはわたしの方だよ。名詠が怖いなんて悩んじゃって。キミに、変な心配かけちゃったね」
空を仰ぐように、両手を一杯に広げる彼女。
「でも、もう平気。これでまたいつも通りだから」
いつも通り。それは、彼女の優しい口元を見れば自然と伝わってきた。
「僕、最初からクルーエルさんのこと信じてましたから」
自分がそう言い終えるやいなや。
「......ねえ、ネイト?」
にやりと悪戯っぽい笑みを浮かべ──彼女は突然に、自分の両方の頰をぎゅっと引っ張ってきた。
「いっ、いふぁっ! くぅーえうふぁん、いふぁいでふ!」
「ふふふ。こういう時はね、『はい』って言った方が素直ダゾ?」
「ふ、ふぁいっ!」
「うん。それでよろしい」
満足そうに頷き、手を放すクルーエル。
「......うぅ、ひどいや」
反射的に頰を手で押さえたものの......ふと、ネイトはぽかんと瞬きを繰り返した。
あれ、ほっぺ痛くないや。さっきはあんなに痛いと思ったのに。
「......クルーエルさん、加減してくれたんですか?」
「何言ってるの、当たり前じゃない」
くすりと、口元に手を当てて彼女が微笑む。
......そっか。
それ以上、言葉はなかった。互いに無言のまま、波の満ち引きを眺め──
ふと、誰かが砂を踏む小さな音が浜辺に響いた。
「風邪ひくよ、お二人さん」
長身黒髪の少女。トレミアの白制服をなびかせ、ゆっくりと彼女が近づいてくる。
「......サージェスさん?」
思えば全ての始まりは──祓名民の少女が屋上で鎗の練習をしていることを教えてくれたのは、この人だった。
「あ、あの、サージェスさん」
「なに?」
その場に立ったまま、潮風に張りついた前髪をはらう彼女。
「エイダさんのこと知ってたんですか」
「祓名民のこと?」
......やっぱり、サージェスさんは最初から全部知ってたんだ。
「あの子についてはわたしが一番良く知ってるよ。生徒の誰より、先生の誰よりね」
ふっと表情をゆるませ、彼女もまた頭上を見上げた。その視線は上空に漂う雲を越え、燦めく星くずを越え──現実にはもう振り返ることのできない、昔のことを見つめていた。
「ネイティと同じだよ」
僕と?
「この学校の入学式の時、一人だけこそこそしてた子がいてさ。......きっと、自分だけ違うってのを過剰に感じちゃってたんだろうね。話しかけたら、その途端勢いよく向こうから色々喋ってきたんだ。不安でしょうがなくて、それが一気に爆発したみたいな感じで」
──それがエイダさん?
「もともとは明るい性格だから、今じゃ想像つかないでしょ。やたら長い鎗を大事そうに抱えてさ、こっちを不安そうに見つめてる姿」
小笑いと共に、彼女は両手を背中にやった。
でもね。小さく、普段より低く抑えた声音で彼女はそう言ってきた。
「誰かさんにお姉さん役が必要なようにね、あの子も本当は、一緒に馬鹿騒ぎしてあげられる友達が必要なんだと思う」
えっと、誰かさんて?
「それが分かるまで、ネイティはまだまだ『ちび君』なのさ。ね、クルーエル?」
「え、なに? お姉さん役って誰のこと?」
「......こっちも自覚なし、と」
呆れ笑いの混じった溜息をこぼし、そっと、彼女は砂浜を歩き出した。
その方向──
夜の星空を背負うように、しずしずと歩いてくる小柄な少女。その背には、先端の砕けた鎗が背負われていた。
「......ばか、あんまり遅いから心配したんだから」
そう告げて。名詠士の少女は、親友たる祓名民の少女に抱きついた。
「うん。ごめん。もう平気だから」
弱々しくエイダが笑う。
「噓。ばればれなんだって」
「──え」
エイダを抱く腕に、サージェスがさらに力をこめる。
「あんたに作り笑いは似合わないって言ったでしょ。もっとメリハリつけなさい。はしゃぐのは元気ある時でいいから。辛いときには、友達に頼ってよ?」
「............」
「それとも、わたしじゃダメ?」
「......なに言ってんの。そんなことない......すごく、嬉しい」
──祓名民、名詠学校に来て良かった。
なみだ混じりの声。
波飛沫に混じって、小さくこだました。

間奏・第二幕 『三年前──』
「二人とも、すまなかったな」
手元の報告紙を机に置き、トレミア・アカデミーを束ねる老人が苦い吐息をこぼす。
「まさかここまで凄惨な状況になっているとは」
「こればかりは学園長のせいにするわけにもいかないでしょう」
青い研究服に身を包むミラーが腕を組む。
「人を石化させる謎の名詠。研究所に罠として仕掛けられていた〈孵石〉。そして、二人の報告にあった『Lastihyt』という謎の血文字。どれもこれも、現状では理解できぬものばかりです。教員及び生徒に最悪の事態が起きなかっただけでも幸運と言える」
「......ま、そういうことです」
「ですね」
肩をすくめるゼッセルに、今度ばかりはエンネも頷くことにした。
石化していた研究所職員たちも無事救出され、今は医療施設で介護を受けている。皆一様に衰弱しているが、それもあと数日中には聞き取り調査が可能と聞いている。あの日研究所で何が起きたか、他ならぬ職員たちならば当然目の当たりにしたはず。
「──自分の方でも、一通り調べはつきました」
分厚い紙束を学園長へと手渡すミラー。
「あの研究所において〈孵石〉の精製に成功したのは、どうやら一人の助手の力が大きかったようです」
「助手?」
反芻する老人に向かい、彼が小さく頷いてみせる。
「ええ、研究所の所長でもなく正式な研究員でもない、ただの雇われ助手。だからこそ公には名前が決して載っていない。自分の方もその助手の存在を突き止めただけで、名前までは辿れませんでしたから」
「......ねえそれって」
ミラーの言葉を遮り、エンネは一歩前に出た。
つまりその何者かは、自らの名前が残らぬよう、あえて雇いの助手を演じていた。その実、〈孵石〉を精製するということだけは研究所の施設を利用していた?
「そう考えるのが妥当だろうな」
眼鏡のブリッジを押し上げ、ミラーが首肯する。
「その助手は三年前に研究所を出ている。最後に研究所職員の名義で、ファルナ荒野への鉄道チケットを購入したことだけは突き止めた」
「ファルナ?」
地名だろうが、エンネにとっては初めて聞く単語だった。
「一言で言えば未開の地だ。まだまだ人より獣の息が多い場所と言うべきかな。灰色の砂で埋め尽くされた荒野が延々広がってる場所だよ」
──灰色の砂?
学園長の答えにひそかに眉をひそめる。隣では、やはりゼッセルも同じように目を細めている。
「......逆に言えば、三年前、その助手はファルナ荒野で消息を絶ったとも言える。か」
腕を組み、ミラーが二の句を継ぐ。
「ラスティハイト。そういえば、カインツがその名前を探していたのも......あれは三年ほど前だった記憶がある」
三年前。それはゼッセルの証言ともぴたりと重なっていた。
と同時に、カインツがその名の者を探していた時期。
そして、〈孵石〉を精製した研究所職員が消息を絶った時期。
「あえて言うなら、そのカインツが五色全てをマスターしたのも三年前だったな」
ぼそりと、独り言のように呟く老人。
全てが、三年前という一つの時間軸上に集結している。
偶然か。それとも──
室内の全員が沈黙する中、にわかに部屋の扉が開いた。
若葉色のスーツを着た女性に、部屋の中央に構える老人が目を見開く。
「......ケイト君」
生徒を庇って大けがを負った女性教師。つい数日前まで集中治療を受けていたはずだ。
「おいケイト、まだ休んでろって」
「いえ。ご心配をおかけしましたけど、もう平気です」
気丈だ。スーツの襟元に袖、至る箇所から包帯が痛々しく覗いているというのに。
「ケイト君、すまんかったね。......そして礼を言う。君が身を挺して生徒を庇っていなければ今頃どうなっていたことか」
頭を下げる学園長に、しかしケイトの口元は優しげだった。
「いえ、......むしろ、私は嬉しいんです」
──嬉しい?
「私の生徒。エイダが......いえ、クラスの皆が、全員胸を張って誇れる生徒だということが分かったのですから。教師として、これ以上の幸せはありませんでしょう?」
窓越しに、生徒のいないがらんとした校庭を彼女が見つめる。
「夏が終わって、また生徒たちと会えるのが楽しみです」
窓にそっと映る自身の姿。それを見つめるかのように──
「夏休みなんてたかだか一か月だけど、きっと生徒たちは、その短い間にもずっとずっと成長しているはず。そんな気がしますから」
そう告げて、ほっそりと、その若手教師は微笑んでみせた。
贈奏 『奏でる祓名民の栄光は』
武家貴族。
その希少性と反比例するかのように、祓名民の需要は桁外れに多い。中でも──始祖にして最も優秀な一族とされたユン家の活躍は大陸中に響き、その技能と伝統の継承、発展に貢献することを期待され、公的な敷地と一定以上の収入を永年保証されている。
〝先輩も、大変ですね〟
虹色名詠士が何気なく口にした台詞をふと思い出す。
実力に添う活躍を期待される。時には期待という言葉を超え、実力以上のものすら強いられる。そんな日々が続く生活。
......カインツ、お前のようにふらりと旅してみたくなる気持ちも分かるよ。
だが妻を持ち子を持ち、家庭を持つことを選んだからには、もはやそれも叶うまい。
ユン家を守るというより、今はもう家族の日常を守るためか。
「......人それぞれということさ」
苦笑の息を肺に押し戻し、クラウスは屋敷のダイニングへと足を向けた。広大な屋敷にたった三人。いや、娘がいないから今は妻と二人か。
その寂しさにも、もう慣れた。
──ん?
だが。部屋のテーブルに並べられた椅子は三人分だった。
「カインツはもう出発したはずだが?」
「エイダ、今日帰ってくるんですって」
厨房の奥。沸きたつ鍋から目を離さぬまま、伴侶は口早に言ってきた。
「......そうか」
何の風の吹き回しか、夏休みに戻ってくるという手紙を数日前に受けている。
「あなた、祓名民のことについては──」
「分かっているよ。あの子には自分の好きな道を選ばせるさ」
もう諦めもついた。
娘も十六になる。......もはや親が口を出すべき歳ではない。
「夕食まで、すこし庭に出てくる」
自分の祓戈を携え、広大な敷地の庭園につま先を向けた。
鎗を持ったまま、しかしそれを振るうことなく頭上の星明かりを見つめる。燦めく星くず。時の経過の中で星がその位置を移動するように、人の通念もまた移ろい流れる。
──時代、か。
親が子を縛りつける時代の、終焉。子が自ら己の道行きを決める時代。それが果たして良い時代なのかは分からない。ただ、善い時代だとは信じたい。
ふと、芝を踏む小さな足音。
聞き慣れた妻のものではない。それと比較できないほど微細な足音。常人ならば聞き逃してしまうほど微かな、祓名民の足音。
振り返る。一年ぶりに見る、日焼けした小柄な少女。......いや、少しは背丈も伸びたか。
──珍しい、ずいぶん疲れているようだな。
力なく、肩を落として歩いてくる我が子の姿。
「夕食もすぐできる。母さんが待っているから、家に入れ」
が、娘はその場に立ちつくしたままだった。
「親父。お願いがある」
お願い? 娘がそんな言葉を紡ぐのは、今まで何度あっただろうか。
「こいつを......直してくれないかな」
右手に持っていた細長い荷物。白布に幾重にもくるまったそれを丁寧に解いていく娘。布から姿を見せたそれは、先端が砕けた祓戈。そして、砕け散った宝石部分。
「直してどうするつもりだ」
「それは、本当に分からないから訊いてる?」
思わぬ反駁に息が詰まった。
「......直すこと自体はできる。だがそうして直したところで、その祓戈はもう握るべきではない」
なぜ。少女の視線がそう訊いてくる。
「お前も知っているはずだ。祓戈は非常に精密な設計になっている。一度ここまで粉砕されてしまえば完全な復元は難しい。修理から戻ってきた物は重さも長さも異なる、お前の知る祓戈ではない」
自分の覚えている鎗の感触を信じて振るえば、必ずいつか致命的なミスをする。直したとしても、もうそれはお前の分身たる鎗ではない。
「誰もが通ってきた道だ。──私もな」
「......でもあたしは、そんなのは嫌だ」
叫ぶわけでも絶叫するわけでもない。だがその言霊には、一年前自分の部屋に怒鳴り込んできたあの日には決してなかった何かがあった。
「誰もが通ってきたなんて、そんなくだらない決まりきったのが嫌で......あたしは名詠の勉強がしたくなったんだ」
「では、名詠士としての勉強を続けるか」
一瞬、少女が口をつぐむ。
「続けるよ。だけど」
娘の、祓戈を握る手に力がこもるのが伝わってきた。
「だけど、あたしは祓名民の方も......やめたくない」
名詠士と祓名民。
詠ぶ者と、送り還す者。
相反する道を選ぶ。
「それがどれだけ困難な道か、知らないわけもあるまい」
「知ってるよ。だけど、もう決めたから」
視線の交叉。普段すぐに目を逸らすはずの娘が、今だけはじっとこちらを見上げてきていた。
──瞳の色、あなたに似てるわね。強情で、でも真っ直ぐなところ。
十六年前。娘が生まれた時、妻に言われた言葉を思い出す。あの時は恥ずかしさも手伝って曖昧な相槌しか返さなかったが。
「直せるか保証はしないぞ」
一度大きく嘆息し──
呆気にとられたような娘の手から、破砕した祓戈をクラウスは奪い取った。
「......え」
「この鎗がお前の分身ならば、この鎗もまた私の娘だからな」
「じゃっ、じゃあ!」
娘が声を弾ませる。まったく、こんなに嬉しそうな表情を見たのはもう何年以来か。
「その代わり。夏期休暇の間、ここでその鎗を握り続けることが条件だ」
修理された祓戈の重さを、零コンマ一グラムの精度で。
修理された祓戈の間合いを、零コンマ一ミリの精度で。
十六年かけ骨の髄まで染み込んだ祓戈の情報を修正する。どれだけの月日、どれだけの研鑽を要するか。娘もまた、その過酷さを知らないわけではあるまい。
「......逃げ出さないよ」
その言葉、今まで何回聞いたことだろう。
──だが今度は、まんざら噓でもなさそうだな。
「あたし家に入るね。母さんも待ってるんでしょ」
「エイダ」
その背中に声をかける。
「大切なものは、守れたか」
瞳の奥、一瞬迷いの色を見せた後。娘は苦笑とともに肩をすくめてきた。
「あたし一人じゃ無理だったけどね」
「一人で背負う必要はない。お前には名詠学校でできた友人もいるだろう」
「......そんなの知ってるよ」
ぶっきらぼうに言い放つ娘、その強がりな表情に心中苦笑する。
「ああ、そうだったな」
意固地な少女の髪をくしゃくしゃと撫でる。
「こら、親父、子供扱いするなっての!」
口を尖らせながらも──
娘は決して、その手をどけようとはしなかった。
〝......なあ、親父〟
なんだ。
〝親父はなんで、祓名民になりたいなんて思ったの?〟
これはまた唐突だな。
〝いいから、教えてよ〟
昔、一人の名詠士と一緒に仕事を請け負ったことがあった。そいつは腕は良いんだがどうにもせっかちでな、放っておくといつか必ず失敗すると思った。
〝──それで?〟
実際それは程なくして起こった。そいつは暴走した名詠生物を止めようと一人で立ち向かっていった。その結果案の定大けがを負ってな、私が駆けつけなければ今頃どうなっていたかも分からない。
〝それがきっかけ?〟
その時かな、自分が初めて人を助けられたのは。初めて、自分が祓名民で良かったと思ったよ。
〝親父が助けた名詠士って、あたしの知ってる人?〟
エイダ、お前、自分の母親が昔何をしていたかも忘れたか?
〝............〟
つまらない話だったか?
〝......ううん。悔しいけど素敵だと思うよ〟
──もう、いくら待っても夕食に来ないと思えば。
庭の陰から我が子と夫の姿を覗き、かつて名詠士であった女性はこっそりと微笑んだ。
娘も帰ってきたことだし、今年の夏休みは久しぶりに一家揃って賑やかになるかしらね。
回奏 『三年前 Lastihyt ; miquvy Wer shela -c-nixer arsa』
人の骨片にも似た色の、灰色の砂利が際限なく続く土地。
死者の亡き声すら想わせる、低く重苦しい風鳴り。突風に吹かれ、足下の砂利が肌に叩きつけられる。──旅人すら滅多に訪れることなき、人の吐息の届かぬ荒野。
その荒野にただ独り、濡れ羽色の髪の女性がじっと佇んでいた。
その肩に漆黒のトカゲ。こちらも、岩のように押し固まったまま微動だにしない。
──さながら、両者だけ凍れる時の澱みに居るように。
頭上を見上げたまま微動だにしない彼女へ、黄砂色のローブを纏った老人がゆっくりと近づいていく。
「御機嫌よう」
女は返事をしない。ただじっと頭上を見つめるだけ。
上空に流れる千切れた雲の欠片を越え、灰褐色の空を越え、ただただじっと、自分の上に在る何かを見つめていた。
「あなたを探しておりました」
再度、老人が会釈する。
女は返事をしない。
「イブマリー、あなたの名前はそれでよろしいかな」
「............」
まず先に動いたのは肩先のトカゲだった。睨みつけるように、相手の存在価値を測るように老人を凝視する。
それからさらに、優に数分間の空隙を経て──
ゆっくりと、女性は老人へと顔を向けた。
「......誰」
その問いに、微笑のような泣き顔のような、老人は奇妙な表情を形作った。
「──ラスティハイト、そう名乗っておきましょう」
黄砂色のローブの懐中、老人が何かを取り出す。
掌に載っていたのは、灰色に輝く宝石だった。
宝石? 否。
楕円形。宝石の構造では決して成りえぬ形状──卵の形をした何か。
奇妙な宝石が、銀色にも似た灰色の光を放ち出す。
「イブマリー、夜色名詠の歌い手よ。あなたの歌を、聴かせてもらいたい」

あとがき
皆様、お久しぶりです。
一月の『イヴは夜明けに微笑んで』刊行以来、四か月。多くの温かいご声援のお陰で、なんとかこうして、「黄昏色の詠使い」の続編たる第二巻目に着手することができました。
四か月。時間感覚が麻痺しているせいか、よく分からないうちに時は無情に流れ──不思議と、常に焦りながらの四か月でした。......おかしいなぁ、多分怠けてはいなかったはずで......あ......どうだろう......やっぱり怠けてたのかも(弱気)
とまあ、そんな怠け者の告白はさておき──
二巻『奏でる少女の道行きは』──クラスメイト編と細音が勝手に位置づけている小話でしたが、いかがでしたでしょうか。
ネイトたちのクラスの雰囲気や学園外の風景、文明。それに加え、名詠士以外の特殊な職である祓名民や、一巻とはまた異なった風の詠。いずれも一巻で描ききれなかった「外の世界」であり、前作を刊行する前から描きたいなと思っていたものです。
『イヴ』の持つ雰囲気を大切に、かつ、またちょっと違った一面を目指した今作ですが、気に入って頂ければ幸いです。
......しかしクラスメイト編と銘打ったはいいものの、気づけばすっかり祓名民メインの話。エイダ編と言っても過言ではない感じになっちゃいました。
編集K様「細音さん、エイダ好きですよね」
ずばり指摘される状況。......ち、違うんです。むしろ自分はクラウスが(ぇ?)
というのも──一巻でもそうですが、『黄昏色の詠使い』においては各登場人物ごとに大切な場面というのが存在します。それも登場人物の数だけ、彼らが主役となる小話が丸々一冊分存在すると言っても過言ではないくらい。
二巻では、それがエイダでした。お気づきになった方もいると思いますが、二巻でエイダを主軸とするための準備として、一巻ではネイトのクラスメイトはほとんど描写が無い中、エイダだけは一巻の各所に顔を出しております。
この物語における主人公はネイト&クルーエルですが、時としてカインツや教師を初めとする大人達に、時として傍にいる学友に助けられ少しずつ成長していく二人を、今後とも温かく見守って頂けると嬉しいです。
──そして、七月に刊行される三巻の説明を少しだけ。
かつて夜と虹が交わした旧い約束。『旧約』を巡る物語であった一巻。
二巻で、少しだけその様子の片鱗が明らかになった外の世界。
今までの物語を踏まえた上での三巻。
本当の意味で、ようやく黄昏色の詠使いの本編という感じです。旧約から遥かな時を越えて誓われる、新しい約束。『新約篇』とも呼ぶべき本編が第三巻に当たります。
三巻──「夜色の少年」の織りなす、新しい詠と約束の物語。今までのお話で残った謎や疑問も少しずつ明らかに出来ればと思いますので、何卒お付き合い頂ければ幸いです。
《短編掲載のお知らせ》
五月に二巻。七月に三巻。この隔月刊行の間──五月、六月、七月の三か月。
その三か月の間、富士見書房より刊行されている「月刊ドラゴンマガジン」にて、『黄昏色の詠使い』の短編が掲載されます。
二〇〇七年スケジュール予定。
五月 黄昏色の詠使いII 刊行
「月刊ドラゴンマガジン 七月号」にて連載一回目&特集
六月 「月刊ドラゴンマガジン 八月号」にて連載二回目
七月 黄昏色の詠使い
刊行
「月刊ドラゴンマガジン 九月号」にて連載三回目
──以上のような感じです。日程の詳しい事は本屋さん等でお確かめ頂くか、細音のホームページ&ブログでもご紹介しますので、ご参考にして頂ければと思います。
三か月連載ということで、全三回の短編。
内容はもちろんのこと、その発表順も頭を抱えに抱えつつ、現在取り組んでいる最中です。時々「......もうだめだ、今回こそは間に合わない」とか言いそうになるくらい頑張ってます(実際、夜な夜な独りで呟いてたりするのは秘密)。
ちなみに連載一回目については、二巻と三巻の間の時間上の小話。加えて特集の頁も設けて頂けるようなので、是非とも御覧頂きたいなぁと。
第二回、第三回については......内容に関しては秘密ですが、今まで出てきた人物たちはほぼ全員、どこかの回で登場する予定です。本編では描けなかった小話、こちらも、本編同様お付き合い頂ければ幸いです。
※加えて「ドラゴンマガジン」の読者アンケートハガキにて「黄昏色の詠使いが面白かった」と書いて送って頂けると、個人的に凄くありがたかったりします!(キッパリ)。
──とまあ、宣伝はここまで──
《一巻を書き終えてから、今まで》
冒頭にも述べましたが、沢山の方からお手紙やメール等でご感想を頂きまして、本当にありがとうございます。一つ一つのご感想、大切にしています。毎週一回は読み返してるくらいです。一巻においてはかなりの数の人物たちが登場しましたが、気に入ってもらえた人物たちも千差万別で、多くの人物を気に入って頂けて本当に嬉しい限りです。人気に関しては多くの人物に混じって夜色飛びトカゲ票が目立ち、当人(当トカゲ)も大変喜んでいたようです。(下手するとベスト三に入るくらいの勢いでした)
......トカゲに表彰台を取られたままでいいのか、数多の人間たちよ。
......そして、そんなのでいいのかな、この物語。
《最後に》
二巻が刊行されるにあたり、本当に多くの方のお力に頼りつつ、ここまでやってこれました。まずは、二巻の原稿を何度も何度も丁寧に確認し、作品を磨いてくださった担当編集Kさま。一巻同様、素敵なイラストを描いてくださった竹岡美穂さま。
お二方とも、お忙しいスケジュールの中本当にありがとうございます。
風邪を引いて一週間寝込んだ時、様々なサポートをしてもらった家族。
そして何より、一巻に引き続き二巻を手にしてくださった全ての方々。
本当にありがとうございます。これから一層頑張っていきますので、何卒お付き合い頂ければと願っております。
※ 追伸 メールやお手紙を下さった方へ。
メールでもお手紙でも、今のところ何とか三か月以内にはお返事を出すよう心がけています。もし三か月経ってもお返事が返ってこないという場合、左記のホームページ上のブログに催促のコメントなりメールなり頂ければ慌ててお返事しますので、よろしくお願いいたします。
それでは。短編、そして三巻にてお会いできることを願いつつ──
この度は第二巻を手にとって頂き、本当にありがとうございました。
三月 某日 志方あきこ『蒼碧の森』を聴きながら──細音 啓
HP 『細やかな音の部屋』 http://members2.jcom.home.ne.jp/0445901901/





黄昏色の詠使い
アマデウスの詩、謳え敗者の王
細音 啓

富士見ファンタジア文庫
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口絵・本文イラスト 竹岡美穂


序奏 『───────』
──真実は、どこにあるのだろう。
とめどなく浮かび上がる疑問、謎、神秘。手を伸ばし触れようとした途端、それらは蜃気楼のように消えてしまう。あぶくのように弾けてしまう。
何かを探すつもりで、しかし我々は、その本質を決定的に見逃していないだろうか。
海面に現れた氷山の一角。水面下に隠れたその大きさに気づかぬように。
美しい花に目を奪われ、しかしその下の、地中の根を見ることがないように。
だがもしそうであるならば、我々は、名詠式の本質もまた見逃していないだろうか。
名詠式の本質とは何だ。
触媒か、歌か、それとも......真精か。
あるいは他にも、未だ触れられざる領域が隠されているのか。
その答えに行き着くまでは......
我々はもうしばしの間、暗い回廊をあてもなく彷徨うままなのかもしれない。
──報告を続けよう。
今回の事件において、私は非常に興味深い対象と出会った。
一人は、未知なる色の名詠を扱う少年。
既存の五色にない、異端色。その歌は、真精は。全てが未だ、深い夜の帳の中。
そしてもう一人。名詠式の常識を悉く超越した、法則外な少女。色鮮やかな緋色の髪が特徴の少女。
実に、実に興味深い。
これらの個体が揃って同一の学園に集ったこと。
さらには、この二人がほぼ同時期に学園に入学したこと。
そしてその二人が、まるで互いを補い合うよう接していること。
これが偶然なのか、あるいはこの現象にもまた、水面下に隠れた何らかの必然性があったのか。......今はまだ、分からない。
だからこそ──
夜色の少年と、緋色の少女。
この二人を、要観察対象として『見守る』ことにする。
回奏 『私がそこで見たものは──』
そこは、人の吐息の届かぬ土地だった。
地平線の彼方までも続く、灰色の荒野。草木はなく、ただ小さな乾いた小石が転がる地。死者がむせび泣く声にも似た、突風のうなり声だけが周囲に響く。
生命の途絶えた場所で。
「......なんと」
黄砂色のローブをまとう老人は、その小柄な身体で眼前に存在する物体を見上げた。
灰色の荒野にそびえ立つ漆黒の巨体。拡げた翼によって生まれた影が荒野にどこまでも伸びている。その一部たる尾ですら、到底人の視界には収まりきらない。それほどの巨体。
──それは、夜色の竜だった。
「これはこれは」
決して友好的とは言えぬ竜の視線を浴び、老人が声を上げた。その足下に、無造作に転がった灰色の〈孵石〉。その触媒によって成された名詠は、夜色の竜によって尽く返り討ちにあったのだ。
「......まさかこれほどとは」
しかしその状況ですら、老人の表情には何かに満ち足りたような、にこやかとすら言えるゆとりがあった。
その視線が見つめるのは──強大な竜を従える、濡れ羽色の髪の女性。
まだ若い、せいぜい二十代中頃だろう。ただしその表情は、その年代の女性とは思えぬほど、しんと落ち着ききったものだった。さながらこの世全ての事象を見透かすかのような、どこか幻想的な冷色の双眸。
「もう十分でしょ?」
髪色にも似た瞳を、女性が老人へと向ける。
「はい」
老人が頷く。と同時、夜色の竜が羽ばたいた。老人の眼前から飛び立ち、女性の後方に着地する。その様子を眺め、老人が愉快げにその双眸を細める。
「夜色名詠。どうやら、私が要する最低限の可能性は秘めているようだ」
「......あなた、子供みたい」
どこか呆れたように女性が小さく首を振る。
それに対し、老人は低い笑い声を洩らしてみせた。
「ふむ、多少安心しました」
「なにが?」
「仕草といい、纏う空気といい──あなたの方は、まだ人間らしい趣がある」
荒野の空気が、凍え怯えるように震えた。
「──何が言いたいの?」
無表情であったはずの女性の双眸に、微かに宿る敵意の灯。が、それを意に介した様子もなく、老人が飄々と首を横に振る。
「もっとも、それについて追及する気はありませんが」
一瞬の、静寂。
「何が言いたいの」
繰り返す女性に向け、その老人はゆっくりと視線を足下へと向けた。
「そう言えば、まだ正式に名乗ってはおりませんでしたな。私の名はヨシュア──あなたを探していました」
「ラスティハイト、そう名乗っていたように思ったのだけれど?」
「......あれは私が扱う名詠の、その真精の名です」
灰色の地に落ちた〈孵石〉を、老人が爪先で蹴り飛ばす。
「これは、私が造った物でしてな」
カラカラと音を立て地を転がる触媒。それは女性の足下へ。
「私がこれの試作品を精製したのは今から二年前になります。この触媒の中身は、とある島で拾った奇妙な石......何か、巨大なものの鱗を思わせる紋様の、その一欠片です」
「随分と仰々しい玩具ね」
灰色の卵を見下ろし、女性が淡泊な感想を告げる。
「左様。私はいわば、玩具の作製に夢中になった子供と言ったところでしょうな。......いや、違うな。子供にはなりきれなかった。なぜなら......この玩具を造ることに、私は一握りの喜びも感じなかった」
疲れた表情を浮かべ、老人は再度女性を見据えた。
「この玩具の中に入っている本当の触媒については......未だ研究が済んでおりません。なぜなら──この触媒が何であるかということは、それこそどうでも良いことなのだから。そう、私が伝えるべきことは、その更なる深淵に棲んでいる」
相槌を打つことなくただ耳を傾ける彼女に、老人は一歩だけ近づいた。
「この触媒を見つけたその島で、私は、とあるモノと遭遇したのです」
畏れが混じったように、小刻みにふるえる老人の唇。
「この世ならぬ未知なる存在。あまりに美しく残酷な存在。あの時私が見たことの全てをあなたに託したい。あなたが......イブマリー、夜色名詠の歌い手よ。もはやあなたしかいないのです。あなたこそが、私にとっての最後の希望だ」
一呼吸、澱んだ肺の空気を老人が吐き出す。
背後に夜色の竜を従え、夜色の女性は老人の言葉を待っていた。
「私がそこで見たものは──」
序奏・第二幕 『イ短調の音色』
1
眼前にそびえる、鈍色の塀に囲まれた巨大な建造物。建築されてから数十年経っているせいか、その壁はところどころ表面が崩れ、日陰となった部分には濃緑色の苔が生している。
世界有数の名詠式研究基点──ケルベルク研究機関。今目の前にそびえる研究所本部を中心に、大陸各所に支部を持つ一大研究組織だ。
......どうもここは、堅苦しくて好きになれないんだけどな。
機関の中枢たる本部施設を眺め、カインツは心中うなだれた。
「まったく、先輩も面倒な件を回してくれて」
包帯で固定した腕を一瞥し、吐息。
盤ゲームで負けた方がここに行く。そんな賭をしたのがそもそもの間違いだった。......まったくあの先輩、賭け事になった途端強くなるのはずるいと思うんだけど。
「......さて、当の異端科学者はどうしてるかな」
特殊な錠を施した鞄を右手に携え、カインツは研究所の敷地内へとつま先を向けた。
警備員の立つ正面扉を越え、受付へと歩を進める。
「あ、ええと」
自分が用件を告げるその前に、受付の女性が営業用の笑顔を浮かべてきた。
「カインツ様ですね、本日のご来訪はクラウス様から伺っております」
「あれ、そうでしたか」
さすがは先輩。それくらいの根回しはしてくれたのか。
「ええ。『左手に包帯を巻いた、へたれな感じの優男が文句を言いながらやってくるはずだから』と、昨夜私どもにクラウス様から連絡が」
......へたれ。
前言撤回。性悪だ、あの人は。
「あ、でも私は、枯れ草色のコートで分かりましたよ」
慌てたように女性が続ける。どう答えていいか迷った挙げ句、カインツは軽く肩をすくめてみせた。
「ところで本日のご用件は、副所長との面会ということでよろしいでしょうか」
──話が伝わっていない。いや、用件そのものは自分で言えということか。
まったく、先輩らしい意地悪な配慮だな。偉大なる祓名民の首領の顔を脳裏に描き、カインツは悟られない程度に嘆息した。
「──いえ。今回につきましては副所長としてではなく、〈イ短調〉としての彼女に用があって参りました」
自身滅多に名乗らぬ『称号』を、カインツは受付の女性に告げた。
「彼女に、〈イ短調〉の第十一番が会いに来たとお伝え下さい」







ケルベルク研究所本部、最上階。
その最も端の部屋は、他の職員用ルームや研究室と異なり一風変わったものだった。
せいぜい三メートル四方の小部屋。採光用の窓にはカーテンがかけられ、部屋の照明すら切れている。薄暗い部屋に置かれた調度品は、部屋の広さに合わせた巨大な机、唯一つ。
花瓶もなければ絨毯も、本棚すら存在しないのだ。
これが──大陸に広く名を知られるケルベルク研究所本部の、副所長の部屋だった。
「......ったく、なんで私がこんなくだらない作業をしなくちゃならない」
机に山積みとなっている、数百枚という書類。
その書類に取りかかっているのは一人の若い女性だった。机の右に溜まった、決裁用の書類。それに自分の名をサインしては、左の山に重ねていく。
「くだらんっ、実にくだらんっ。だからこんな、副所長なんぞという役職につくのは嫌だったんだ!」
筆を走らせる作業は休めぬまま、その当人がぼやくように吐き捨てる。椅子に座っていて分かりにくいが、女性はかなり上背があった。少なく見積もっても男性の平均ほどはある。実際、研究者用の白衣も男性用の物だ。
切れ長の鋭い瞳に鋭利な顔立ち。濃緑色の髪は肩にかからない程度で切り揃えてある。総じて、研ぎ澄まされた刃を思わせる印象の女性。
それがケルベルク研究所副所長──サリナルヴァ・エンドコートだった。
「......いっそこの書類全部燃やして、責任をとるという名目で副所長を辞めるというのも手だな」
怪しげな様子でうんうんと頷く。と思いきや、彼女は真面目な顔つきで。
「たしか机の中にマッチがあったな。よし、善は急──」
「だめですよ副所長。全然、善じゃないです」
机の中を漁る女性の目の前で、前触れ無く扉が開いた。
研究用白衣を着た小柄な女性。
「む......秘書か」
「秘書というか、業務上の名目は研究第一課主任なのですが」
にこりと、上司の言葉を修正する主任。その言葉が示すように、小柄な女性の胸元にはその所属と位がはっきりと明示してある。
「はは、まあ堅いことは言うな。どのみちあまり変わらない。......して、用事はなんだ。私はこれから、この書類を燃やすという作業を速やかに敢行しなければならないのだが」
「お客様です」
「......あー、どうせどこぞのつまらん研究者だろ。忙しいと伝えてくれ」
が、その主任は表情を変えぬまま頭を振ってきた。
「〈イ短調〉です」
ぴしりと、サリナルヴァの表情が一変した。今までのどこかとぼけたものから、冷たく甘い──甘い毒を含んだような危険な眼差しへ。
「わざわざこんな味気ない場所に来るとはな。〈イ短調〉のどこの暇人だ? 首領か? それとも大特異点か、歌后姫か」
「第十一番が来たとお伝えください、とのことだそうです」
一瞬、ぽかんとした表情で──しかし次の瞬間、その瞳に悦びの表情が浮き上がった。
「まさか、虹色か!」
「嬉しそうですね」
「うむ。〈イ短調〉の中でわずかでも愛嬌があるのは、あいつくらいだからな」
飛び跳ねるように椅子から立ち上がり、服の衣囊に手を入れた格好で歩きだす副所長。
「この書類は? まだ半分以上残っているようですけど」
「いつも通りだ。お前が適当に代筆しておいてくれ」
「予算欲しいので、第一課だけ認可して他の部署全部却下でもいいですか?」
「構わんぞ。それだけの見返りが見込める研究ならな」
「はい」
「良い返事だ。ならば好きにやれ」
にやりと口の端をつり上げ、サリナルヴァ・エンドコートは一階の客間へと足先を向けた。通路に、ハイヒールの硬く乾いた音が反響する。
......それにしてもあの虹色。
子犬に蹴られて左手を骨折したという噂は、本当なのかな。
2
少々お待ち下さい。すぐ呼んで参ります──
小柄な女性研究者がそう告げ、もうどれだけ待っただろう。
「あの人のことだから実験につきっきりなのかな」
既に冷め切っているティーカップ。それに手をつけることもなく、カインツはソファーに背を預けた。
コツッ──にわかに、扉越しの通路から足音が響く。
「......噂をすれば、か」
彼女の嗜好だ。研究者としては珍しく、ハイヒールなどという歩きにくい靴を好む。本人曰く、通路を歩くときに靴音が奏でる音が心地よいらしい。
コツ......コツ、一定のリズムで刻まれた足音が部屋の扉の前で止まり......
「いよぉぉぉしっ、実に良いところに来たなカインツ!」
やおら、豪勢な造りの扉が蹴り開けられた。
「今まさに新薬の実験台が欲しかったところだ。暇人のお前──」
「いやです」
相手が言い終わる前に、カインツはあっさりと言い切った。
「給料は、はずむぞ?」
「結構です」
「......なんと三食・介護付き」
「介護付きとか言ってる時点で、やはりお断りします。命の方が大事です」
なんだ、つまらん。
ぶつぶつ言いながら、その女性が対面のソファーに腰を下ろした。
「お久しぶりです。元気そうで」
「うむ、まだ十六時間しか動いてないからな。あと三十時間は軽い」
本気か冗談かと問われれば、間違いなく彼女は本気なのだろう。
サリナルヴァ・エンドコート──ケルベルク研究所本部の副所長にして、ケルベルク研究機関の理事を務める若き科学者。
狂気とも言える研究欲を誇り、同業の研究者からも変人という称号を貼られた女性だ。自身の研究に打ち込むあまり水すら飲まず、気づけば脱水症状だったなどは日常茶飯事。真夜中の三時であろうと四時であろうと、新たな実験手法を思いつけば片っ端から助手を叩き起こして回る迷惑人という一面もある。

気分屋かつ、誰にも自分の本心を知らさないことから、集団での研究には本来馴染まない。だがそれを踏まえてなお研究所の副所長を任されているのは、純粋に、彼女が並外れて優秀だということの裏付けでもある。
「研究もいいですが、身体も気遣ってくださいね」
「心配いらん。毎日一回は食事も摂るよう心がけてるさ」
言って、研究服の胸ポケットから栄養剤を取り出す彼女。おそらくはそれが、彼女の一番まともな「一回分の食事」なのだろう。
「それにしても、まさかお前が来るとは思わなかったぞ。〈イ短調〉の会合で一番出席率の悪いお前がな」
にやにやと、からかい混じりの視線で告げてくるサリナルヴァ。
「たまには働けと、先輩にどやされまして」
苦笑の面持ちのまま、カインツはソファーの背から身を起こした。
〈イ短調〉、場合によっては〈イ短調十一旋律〉。
わずか十一人から成る会合。会合の存在自体が滅多に表舞台に出ないため、それを知る者は少ない。しかしその十一人の誰もが皆、特定の分野における希代の専門家であり、一人一人の発言が、一つの巨大機関と同等以上の影響力を有している。
稀薄とも言える知名度と対照的に、その道の名詠士や学者たちからは例外なく畏れられる、至高とも言うべき超越者の会だ。
最初は、誰もがそんな集団の形成は実現不可能だと考えていた。その名簿に名の挙がった人員はその多くが、優秀すぎるが故に組織という縛りを嫌っていたからだ。
その空言を実現したのが祓名民の首領たるクラウス・ユン・ジルシュヴェッサー。
もともとその会合に名前は無い。だがそれを知る側の者からは、異端者の長──転じ、音楽の調性の一つである〈イ短調〉と称される。あまりにその通り名が有名になったため、自分たちもその非公式な呼び名を使うようになったのだ。
「......ボクも本当は気がすすまなかったのですが。理由が二つありまして」
「ほう?」
「名目上の方から言いますね。会合に一番出席率の悪いボクが誘いに来たなら、二番目に出席率の悪いあなたも重い腰を上げざるを得ないだろうと」
〈イ短調〉第九番──サリナルヴァ・エンドコート。
名詠式の触媒における新理論、論文を続けざまに発表し、そのどれもが斬新かつ理論的。その実力を評価したクラウスによって、一年半前に〈イ短調〉の一員となった。
「ははっ、違いない。クラウスらしい発想だな」
ひとしきり笑い声を上げたものの、彼女の笑顔は一瞬だけだった。
「だがまあ、そんなことはどうでもいい。早いところ本題を聞かせてもらおうか」
「......これですよ」
自分と彼女を挟むように置かれたテーブルへと、カインツは鞄を持ち上げた。黒い獣皮を加工した、頑丈な容器。その口の部分には金属製の錠が取りつけてある。
「随分とまた物々しいな。中身は何だ」
「ケルベルクの支部が極秘裏に造った、とある人工触媒。と言ったら?」
すっ、と彼女の目つきが鋭さを増した。
「──話は聞いている。〈孵石〉などという、問答無用の欠陥品だとな」
「ええ。しかしどうも、話はそれほど単純というわけでもないようです」
目線で示し、鞄を開ける。
赤・青・黄・緑・白。全部で五つ。輝く宝石にも似た、楕円形をした触媒。
「触っても平気か」
「ええ、既に一度作動済みですし」
無造作に、手元にあった白の〈孵石〉を摑む彼女。
カラン、乾いた音が客間に響いた。
「......中に、更に何かが入っているようだな」
「ええ。どうやらそっちの方が本当の触媒のようですね。外殻はあくまで、その触媒の反応促進のためと思われます。単刀直入に言いますと、これを細部まで分析して欲しいんです」
「興味もあるからな。分かった、これについては私の方で預かろう。調査結果が出次第、各機関に報告する」
〈孵石〉を睨みつけたまま彼女が頷く。
「お願いします。しかし問題はもう一つ」
むしろ、今回の件はこちらが本論だ。
「人を石化させる謎の名詠について、だろう」
「ご存じでしたか?」
思わず、カインツは片眉をつり上げた。自分もつい数日前、とある情報筋からその報せを受けて愕然としたばかりだった。
「うちの支部が丸々襲われたということだからさすがにな。トレミア・アカデミーの教師、それに数人の学生でひとまずの鎮圧に成功したらしいが。......まったく、こうも立て続けに問題が起きるとはな」
「そしてその謎の名詠にもまた、灰色の〈孵石〉が使われていたという話です」
「ああ。今はそれも、トレミア・アカデミーが管理しているらしい」
「──本題に入りましょう」
気持ち一つ、カインツは声の音量を低く抑えた。
視線を机上の触媒から彼女へと。
「その支部での事件を解決した者の中に、先輩の一人娘がいたそうです」
「ああ、面識はある。父親に似た、負けん気の強い娘だ」
エイダ・ユン・ジルシュヴェッサー。
その少女が告げた事実は、虹色名詠士たるカインツ、祓名民の首領たるクラウスをして驚愕に値する内容だった。
人を一瞬に石化させるという、異常な灰色の名詠生物。それを詠び出す奇怪な〈讃来歌〉。そして、今までに報告された種とまるで類を異にする、銀色の刃を翳す真精。
「研究所一つを丸々落としてみせる凶悪な名詠。攻撃的な名詠生物に、その真精。その犯人は未だ捕まらず、その目的すら謎。なにぶん謎が多いこの事件、調査委員会を設立したはいいものの八方塞がり。そこで、その委員から先輩に依頼がありまして」
〈孵石〉の製造者の行方、謎の名詠の正体とその歌い手。これらの調査・捕縛協力。
そして、クラウスはその依頼を受けた。
「......普段ならなおざりにするんだが、今回ばかりはそうもいかないか」
「集まる日時は十日後。場所は先輩の邸を使うとのことです」
「委細承知した。その間に、私もひとまず自分の責務を果たす」
ゆるりと、反動をつけて彼女が椅子から立ち上がる。
「と、言いますと」
「トレミア・アカデミーへ向かう。支部で目撃された灰色の〈孵石〉は先方で管理しているんだろう? 現物をまずこの目で見なければ話にならん。それに五色の〈孵石〉の方も、そろそろ事後報告書がトレミア側で作成されている頃だ。それについても目を通しておく」
「珍しく協力的ですね」
「研究者としても興味のある事例だからな。お前も来るか?」
「......そうですね」
トレミア・アカデミー。自分にとっては少なからぬ因縁のある場所だ。あの日あの時、自分の中で大切な約束が一つ果たされた。けれど、全てが決着したわけではない。あの夜色の少年とも、今一度話したいことがある。
だが──内心の葛藤を抑え、カインツは首を横にふった。
「是非、と言いたいところなんですが。ボクも事前に調べておきたいものがありますので」
まだあの少年と会う時期ではない。
いずれ、また自然と巡り会う時が来る。
「それにこの怪我では、遠出は少々こたえますしね」
これ見よがしに、包帯の巻かれた腕を持ち上げる。
「ああ、何だっけ。子犬に蹴られて骨を折ったと聞いたが」
......子犬。
「どれだけへたれなんですか、ボクは」
「あれ、私は歌后姫からそう聞いたぞ?」
〈イ短調〉、第六番〝歌后姫〟──シャンテ・イ・ソーマ。
最も高貴なる『声』を持つ名詠士。
「......まったく、誇張好きな歌姫もいるんだな」
「ま、あいつが噂好きの誇張好きなのは私も同感だがな」
くくっ、と低い笑い声をサリナルヴァが洩らす。
「だが喜べカインツ、朗報だ。なんとつい数日前だ、私はとうとう骨折を一日で治す薬の精製に成功したぞ!」
ばさりと研究服をなびかせ、高らかに宣言する変人。
「......なんですか、そのあからさまに怪しい秘薬」
「はっはっは。しかも、塗り薬じゃなく飲み薬」
飲み薬で、どうやって骨折を治すと。
「そこまでいくと、もはや何がどう危険か指摘する気もなくなりますね」
「......そうか。まあそれなら無理にとは言わんさ」
気を悪くした様子もなく、あっさりと彼女は身を引いた。
おや、珍しく素直だな。──などと思ったら、この研究者相手にはやっていけない。
「ところでカインツ、紅茶飲まないのか。せっかくお前の好きなレモンティーを用意させたのに」
テーブルに置かれたカップを目線で促す彼女。
それを、カインツは丁重に断った。
「ええ。以前誰かさんお手製のクッキーに、『一日でクラウスを越えられる筋肉増強剤』なる物が混入していたことがありまして」
「ほう、よく覚えているじゃないか」
「あの後、全身の寒気とふるえで三日ほど寝込みましたからね。今回も例の『一日で骨折が治る薬』とやらが混入してないかと思って」
すると──
「見事......見事だカインツ、よくぞそこまで見破った」
腕組みし、なぜか満足げに頷く狂科学者。
......ほぅら、やっぱり。
「ボク、もう帰っていいですか。身の危険を感じるので」
呆れ半分に椅子から立ち上がる。が、それを押しとどめるように。
「──身の危険、か」
にわかに、女性の声音に硬さが戻った。
「なあカインツ。現在調査中ではあるが」
コツ、小さな靴音を伴って彼女が部屋の窓へと向かう。自分に背を向け、彼女は部屋の外に広がる空をじっと見つめていた。
そのまま、数秒の沈黙を隔て。
背を向けたまま──
「灰色名詠とやら、有効なのは『Arzus』による反唱という報告を受けている」
口早に、彼女はそう告げてきた。
「お前の実力は知っているが......ゆめゆめ油断するなよ」
背を向けたまま手を振ってくる女性研究者。彼女に向かい、カインツは小さく一礼した。
「お気遣い感謝します。それでは、十日後」
「ああ。お互い、気をつけるとしよう」
一奏 『知られざる歌の鼓動』
1
大陸辺境の一専門学校でありながら、生徒数千五百人を数える巨大校──トレミア・アカデミー。それが有する巨大な敷地の一角、女子寮の一室で。
「クルル、こっち終わったよー」
居間の方から、底抜けに明るい声が響いてくる。
「あれ、もう終わったの?」
台所の流し台を磨く手を休め、クルーエル・ソフィネットは声の方向へと振り返った。
「えへへ、余裕余裕」
ひょっこりと、幼い感じの少女が居間から顔を覗かせた。ウェーブがかかった金髪に、実年齢より二、三歳は幼く見える童顔の友人、ミオ・レンティアだ。
「よし、そっちも手伝うよ!」
水浸しの雑巾を持ったまま、勢いよくミオが駆けてくる。
「あ、だめ。雑巾振り回さないの!」
「え、あっ!」
慌てて急停止するミオだが、時既に遅し。
......あーあ。せっかく綺麗にしたはずの部屋内に、雑巾の水滴ばらまいちゃった。
「クルル、ごめんね」
「いえいえ、気にしない気にしない」
しょんぼりとした様子で肩を落とすミオ。その姿に、クルーエルはにこやかに手を振ってみせた。
夏休みもあと一日。明後日から新学期が始まるので、今はそれを控えての大掃除だ。クラスの子と夏期休暇の課題を見せあう約束をしていたミオと学内で出会い、約束の時間までということで手伝ってもらっていたわけだ。
「それより少し休んでて。ずっと部屋の掃除手伝ってもらっちゃってたから」
玄関を入ってすぐに台所と洗面所兼バスルーム、その奥に小さな居間と小さな寝室。二人いれば息苦しささえ感じるほど狭い一人部屋とはいえ、やはり一人で掃除するには時間がかかる。こうしてミオがいてくれなければ一日がかりになっていただろう。
「......ん~、じゃあさ」
雑巾を手放し、ミオが数秒宙を見つめる。何かを考えているらしい。
「クルル、あたし学校の購買でジュースとお菓子買ってこようか?」
「あ、それはお願いしよっかな」
午前中から掃除を始め、昼食を挟んでずっと動きっぱなし。そろそろ一休みしてもいい頃だ。
「わかった。じゃ、ちょっと行ってくるねー」
財布を片手に、ミオが小走りに玄関へと駆けていく。その姿を見送り──
......ふぅ。わたしも、ミオが戻るまで少し休んじゃお。
額の汗を拭い、クルーエルは居間のテーブルに腰掛けた。窓から入る微風がカーテンを揺らし、汗ばんだ身体に心地よい。
──もう、夏休み終わりなんだ。
「......名詠式か」
この学園に通う生徒は皆、名詠式と呼ばれる技術を習得することを目指している。自らが望むものを心に描き、招き寄せる転送術。その術式の過程で詠び出す対象の名前を賛美する形をとることから名を詠う──つまり名詠式という名がついたとされる。
「なんか、ふしぎ」
自分の思い描くものを詠び招く、一見華やかな技術に見える名詠式。だけど、学園生活の全てが薔薇色というわけでは決してなかった。
夏休み直前にあった競演会での惨事。そこで負った怪我が治ったと思ったら、夏期合宿では謎の名詠生物が巣くう研究所の騒動に巻き込まれた。
その事態がひとまず収拾した後、夏休み中に帰郷することも考えたのだ。しかし男子寮に一人で住んでいる夜色の少年がついつい気になり、結局田舎には帰らずじまい。おかげで、今年の夏は彼と一緒に名詠式の練習漬けの毎日だった。と言っても、自分はもっぱら日陰でそれを見ているだけだったけれど。
「......でも、決して嫌じゃなかったよね?」
自分に問いかけるように言葉を紡ぐ。
つい一月ほど前までは、名詠学校という進路にすらあれほど迷っていたのに──
自分の中で大きかったのは、何だろう。
競演会。
夏期合宿での事件。
ううん、その前に......やっぱりキミと出会ったことが大きいのかな。
恥ずかしがり屋で照れ屋の、夜色の少年。ただ、そんなことを目の前で言えば、当人は顔を真っ赤にして否定してくるだろう。
「キミは、面白いくらい冗談が通じないからね」
はにかむようにそっぽを向く姿を思い浮かべ、クルーエルは小さく笑った。
全部が全部、良い思い出ばかりというわけじゃない。けれど、そういった望まぬものも通じて少しずつ、自分と名詠式における関係が深まっていっている気がする。
──わたし、名詠式が好きになってきたのかな?
両の掌をぼんやりと見つめる。
ううん、好きなだけじゃない。最近、名詠の調子が怖いくらいに良い。そのことに気づいたのは、夏休みの合宿に向かうほんの少し前だっただろうか。どんなに眠くても体調が悪くても、一度名詠の想像構築に入ってしまえばそれすら気にならない。
悠然たる時の流れからすら抜け出したかのような、超創造的感覚。名詠の時は、自分が別の世界にいるような感覚なのだ。
でも、他の人たちはどうなんだろう。
そんなことを訊ねるのも恥ずかしく、つい今まで訊きそびれてしまっていた。勇気を出して、今度ネイトにでも訊いてみようかな。
「......まあ、それはともかく。問題はこっちよね」
テーブルに積まれたノートの山。
夏期休暇中に出された課題。ちなみに、九割ほど未着手だったりする。こう見えて一応の努力はしたのだ。......したのだけれど、やっぱり無理なものは無理だった。
「やっぱり、わたしもミオ先生の力を借りるしかないかな」







値の張る真紅の絨毯に、天然革でできた豪奢なソファー。壁際に設置された木製の棚には、生徒がこれまで獲得した賞状がずらりと並べられている。
トレミア・アカデミー、学園長室。
「そろそろ時刻ですね」
部屋の隅に置かれた柱時計を一瞥し、ジェシカ教師長が口を開ける。
「ま、楽しみではあるな」
相槌と共に腕組みし、ゼア・ロードフィル学園長は机上の生徒資料を見やった。
それとほぼ同時、トンというノックの音が響き。
「失礼します」
威勢の良い声と共に、眼鏡をかけた制服姿の男子生徒が入ってきた。襟元に引かれた三本の青の線。これはつまり、『Ruguz』を専攻とする三年生の証だ。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。
名詠式の特徴の一つがこの『色分け』だ。可視光線の基礎となる七色の中から四色、そしてそれに白を加えた五色。生徒はこの五色のいずれかを自分の専攻色とし、その色と同じ物体を詠び出すことを目標としている。
「フェルナンド君、突然呼び出してすまんね」
「いえ。特に問題ありません」
生真面目そうな面持ちで首を振る生徒。生真面目というよりは、緊張しているといった方が適切か。
「せっかくの夏休みだ、用件だけ手短にまとめよう」
机の上に置かれた書類。それを、彼にも見えるよう持ち上げてみせる。
──それは教師からの推薦状だった。
「競演会における君の名詠は見させてもらった。氷塊に彫られた騎士の巨像という、見た目にも技術的にも高度な名詠。三年生ながらその卓越した腕、および紙上試験における成績。担任の教師はもちろん、最上級生の『Ruguz』を担当するミラー教師からも君を高く評価する声がある」
フェルナンド・レイバ──担当教師から預かった生徒資料では、常に沈着冷静を良しとする模範生徒とのことだった。紙上試験においても、ここ数回は最上級生に混じりベスト二十にも名前を連ねている。
「そうですか、ありがとうございます」
緊張がとけたのか、年相応のやわらかい表情をにじませる男子学生。
「そこでだ、明後日の始業式。君に三年生代表で抱負を述べてもらいたい。突然で済まないが、こちらもギリギリまで生徒の選定に時間をかけての結果でな」
「......自分がですか」
「どうかね?」
「いえ、せっかくですのでやらせてください」
表情を引き締め、生徒が姿勢を正す。
「ちなみに、今のあなたの抱負って、何か定まってるかしら?」
訊ねるジェシカ教師長に対し、やや迷ったような沈黙を挟みつつも──
「今は、第二音階名詠がこなせるようになりたいです」
具体的には、各色の小型精命がそれに属する。名詠学校を卒業するまでにそこまで習得できれば、卒業後は各方面から多くのスカウトを受けることになるだろう。
「結構。ではその方向で頼むとしよう」
「はい、それでは」
退室しかけようとする生徒。
「あ、そうそう。フェルナンド君、まだ多少時間はあるかな」
彼の足が止まるのを確認。今まで組んでいた腕を外し、部屋の脇に飾ってある絵画に向けてゼアは指さした。一面真っ青な塗料(りよう)で塗りたくられた、芸術とはほど遠い域にある絵。
「一つ、君の名詠を見せてもらいたい。触媒はその絵を使ってもらって構わんよ。『Ruguz』を専攻とする君ならお手のものだろう。詠び出すのは......そうだな、小さな青い花程度で構わん」
触媒とは名詠を行うために必須の道具だ。青い花・緑の葉など、人が目で捉える『色』の正体は可視光線の波。名詠式はこの同波長の可視光線を共通項として利用し、心に描いたものを手元へと招き寄せる技術である。
「え......青い花って。あの、そんなのでいいんですか」
肩すかしを食ったのか、彼があからさまに表情を落胆させる。彼にしてみれば、せっかくの機会。学園長たる自分に実力をアピールする絶好の機会と思っていたのだろうが。
「まあ、まずはやってみたまえ」
「......分かりました」
言われるまま彼がその絵に触れる。目を閉じ、想像構築の段階へ。
さらに十数秒の時を経て、彼は小さく呟いた。
──『Ruguz』──
名詠完結の言葉。だがその言葉からは何も生まれなかった。
「......これは」
「気づいたかね」
問いかける老人に、生徒が苦笑気味に振り向いた。
「いや、完全にその可能性を失念してました。この絵、後罪ですね」
名詠式に必要不可欠となる過程が、詠び招くものと同じ色の触媒を利用し名詠門を開かせるという作業。しかし、そこには一つ落とし穴が存在する。
一度開いた名詠門はそれが閉じる時、最初に開くよりも頑丈に閉ざされてしまうのだ。
たとえば赤の画用紙で赤い花を名詠した後、同じ画用紙でまた花を詠び出そうとすれば、その難易度は一気に跳ね上がる。熟練者であろうと、名詠門をこじ開けるには〈讃来歌〉が必須。それでもなお第三音階名詠が限度とされる。
ならば触媒は次から次へと新しい物に切り替えた方が確実で、かつ早い。手慣れた名詠士が常日頃大量に触媒を、かつ自分で調合した物を持ち歩くのはそのためだ。自分で調合した触媒ならば、誰かに先に使われていることもないわけだから。
需要者の後罪──自分がその触媒を見つけるのが後手だったという意味だ。ゼアが示したその絵もかつて何度となく名詠がなされ、既に名詠門が凶悪なほど堅く閉ざされてしまっている代物だった。
「〈讃来歌〉を詠って、もう一度挑戦してみるかね」
断ってくれても構わんよ。暗にそう示したのだが、青色の絵に手をかざし、生徒は気丈にも告げてきた。
「......あと一度だけ挑戦させてください」
部屋に流れる〈讃来歌〉。
それから、優に数分──
「これが......限界でした」
疲労しきった表情で彼が手渡してきたのは、一欠片の蒼く輝く氷だった。
小型、無生物、それも不完全な状態。これだけを見るならば、ミドルスクールの生徒にも陰で笑われてしまうかもしれない。
だがそれでも彼の名詠は、十二分に称賛に足るものだった。
「フェルナンド君、率直に言おう。ワシが思っていた以上に、君は優秀な生徒だった」
その言葉に噓はない。ゼア自身、この絵を触媒にして名詠を成功させた生徒を久々に目にしたほどだ。
「......はい」
よほど集中しきったのか、彼の声に力がない。
「いや、本当にすばらしい。君の今後の活躍に期待しているよ」
「ありがとうございます。では、失礼します」
一礼し、生徒が部屋を去っていく。通路に響くその足音が聞こえなくなるのを待って。
「......で、どうだったかな」
自分の背後に向けて、ゼアは訊ねた。
学園長室に連なった小さな書庫。その扉が開き、数名の教師が姿を見せた。
「最上級生の『Ruguz』を担う教師として、あの生徒は十分に有望な一株です。来年度の発表会では、本当に第二音階の名詠が見られることにも期待してよろしいかと」
青い研究服を羽織った生真面目そうな教師が、慣れた仕草で鼻先の眼鏡を浮かせる。
その隣、暖色の派手なシャツ姿の大柄な教師が、気楽な様子で頭を搔いた。
「ええと、フェルナンド君でしたっけ。いや、ミラーの言うとおり優秀だと思いますよ。三年生であのレベルなら大したもんだ。なあエンネ?」
「......ゼッセル、服装どうにかしなさい。ミラーも、最近その服ばっかりでしょ」
その両者の服装を、呆れた表情で指摘する女性教師。ほっそりとした顔立ちの彼女は、ドレスに似た皺一つない白地のワンピース姿だ。
『む......』
揃って互いの服を眺めあう両者。ややあって──
『俺はこれが気に入ってるんだ』
異口同音。示し合わせたかのように、男性教師二人組は口々に言ってきた。
「......こういう時だけ息ぴったりなのよね」
一方、溜息混じりで首を振るエンネ。
「あなたたち見てると退屈しないわ」
くすりと、呆れ混じりの笑いをもらすジェシカ教師長。
「ふむ。ともあれあの三年生が将来有望な生徒だという点については、皆の意見が一致しているようだ。しかし──」
ゆっくりと、ゼアは視線をずらした。三人組の教師から一歩分離れた場所に立つ、若葉色のスーツを着用した女性。
「ケイト君、君の話、信じて良いのだね?」
「......ええと、その......まだ私自身確証はないのです。なにぶん、私はその時気を失っていたので」
おずおずと、頼りなげに応える一年生の担任教師。彼女がうつむくのにあわせ、陽に輝く金髪が静かに揺れる。
──そう。今回、自分の机に置かれた生徒資料は二名分だった。
一人は三年生の筆頭生徒。名詠の技術も紙上試験もトップクラスの優等生。
もう一人、それはとある一年生の女子生徒だった。記録によれば、競演会における名詠の技術は平均が良いところ。紙上試験に至っては、一年生の中でも下から数えた方が早いかもしれないという少女だ。
にもかかわらず。
〝学園長、あの子の名詠を見たらきっと腰抜かしますよ〟
〝あの名詠生物......ちょっと信じられません〟
ゼッセル、そしてエンネ両教師は口々に言ってきた。
夏休みの臨海学校でのことだ。一部の者しか知らぬ、とある研究所の事件。その時、まだハイスクールに入って半年の少女が詠び出した名詠は──
「にわかには信じられんが、もしその話が本当ならば......」
言葉を半ばで濁し、机上の生徒写真を見据える。それは生徒の入学写真だった。やや緊張した面持ちで席につく、緋色の髪の少女。
──この少女は、我が学園のあらゆる生徒を凌駕していることになるではないか。
「ケイト君、その女子生徒は学生寮に住んでいるとのことだったな」
「はい」
さて、その子は今も寮にいるだろうか。
夏期休暇も終わりが近い。帰省していた生徒たちが寮に戻ってくるのも丁度この時期だ。ならば、その女子生徒も寮の方にいる可能性が高い。
「ジェシカ、ひとまず一年生の担任教師を呼べるだけここに集合させてくれ。ケイト君は、君の生徒が女子寮にいるかどうか、今から調べてもらえるかな」
2
トレミア・アカデミー正門から、二百メートルほど直進した先に広がる、広大な芝生。休憩用のベンチに、小さいながらも緑に映える白地の噴水。昼休みに休日に。時期を問わず学生から人気のある場所だ。
その緑の絨毯に、微風に金髪をゆらせるミオがぽてっと座り込む。
彼女と、そして彼女を取り巻く複数人の生徒。そのやりとりの様子を、ぼんやりとクルーエルは眺めていた。
「はい、これが『言語分析学』、課題のセラフェノ音語講読は二十頁からね。で、ええとこっちが『触媒認識論』ね、課題の演繹的考察は最後の方だよ~」
鞄から取り出した分厚いノートを次々と芝生に置いていくミオ。
『おおっー、助かった! ミオありがとーっ!』
飛びつくようにノートへ手を伸ばすのは、黒髪長身の少女と日焼けしたボーイッシュな少女だ。
「いやはや、ミオ様々だね。ウチら、ミオがいなかったら単位全滅してるところだわ......てか、このノート見ても半分くらいしか分かんないもん」
ノートを小難しげな表情で見つめ、日焼けした少女──エイダが開き直ったように胸を張る。
「いやー危なかった。お礼に食堂で何か奢るからさ」
エイダの呟きに頷きつつ、黒髪長身の少女が豪快にミオの肩を叩く。こちらはサージェス。『Arzus』専攻のエイダに『Surisuz』専攻のサージェス、共にクルーエルと同じ教室で学ぶ学友だ。
「ホント? あたしパフェがいいな!」
にこりと表情を明るくする当人。
「......あ、あのぉミオさん」
その様子をじっと見つめていた幼い少年が、ぼそぼそと口を開けた。夜色の髪と夜色の双眸の少年──ネイト・イェレミーアス。十六歳からとなるこの学園に十三歳で転入してきた、夜色名詠という異端の名詠色を学ぶ少年だ。
全体的な印象は幼いながらも、名詠式に対する彼の姿勢は純白と言えるほど真っ直ぐで、それがクルーエルには眩しく思える時がある。
「これ、見てもらえませんか」
自分のノートを抱きしめ、懇願するような眼差しで彼が目の前の少女をじっと見つめる。
「ああ、ネイト君は歴史学のレポートがあったよね。いいよ、見てあげるからちょっとそのノート貸してみて」
「は、はい。ありがとうございます。僕、レポートって初めてなもので」
「いいよいいよ。それよりほら、ネイト君もお菓子食べな~、たくさん買いすぎちゃった」

自身そう言いながら、広場の上に広げたお菓子を頰張るミオ。
......ミオ、あなたって子は。
一連の様子を眺め、クルーエルはこっそり驚愕の汗を拭った。
ミオ、なんて恐ろしい子なんだろう。
自身の選択講義のみならず、片手間に他の講義課題を仕上げてしまうとは。自身の専攻色である『Beorc』はもちろんのこと、名詠式総論系の分野まで完璧。勉強と読書が趣味と臆せず言うだけあって、理論面での彼女の知識は半端ではない。
ネイトのレポートにしてもそう。お菓子を食べる手を休めぬまま、その眼だけがもの凄い勢いで文字の列を追っている。しかも、表情はあくまでのほほんとした笑顔のまま。
「ネイト君、ここの表現ちょっと直した方がいいかもよ~」
「え......あ、ほんとだ! そうですね、書き直します」
──なんかもう、凄いを通り越して変人だ。
自分が生暖かい目でそのやりとりを眺めていると。
「ところでさ、クルーエル?」
エイダが指先でこちらの肩をつんつんと突いてきた。
「ん、どうしたの」
「いや。クルーエルは夏休み、みんなが実家とか帰った後どうしたのかなって」
......ぎくり。
自分同様、目の前にいるネイトの動きが一瞬止まる。
「わたし? わたしも実家に戻ってたわよ」
彼の動きを横目で捉えつつ、クルーエルは可及的落ち着いた表情を心がけた。
「でもどうして?」
すると、エイダは呑気な声で笑い声を上げながら。
「あはは、そっかぁ。いやクルーエルのことだからさ、夏休みずっとちび君に付き添ってたんじゃないかってサージェスと賭しててさ。あたしはそっちに賭けてたの」
「えっ......あ、あの──」
夜色の少年が慌てて何か言おうとする前に。
「まさか。わたしだって、さすがに夏休みくらい用事の一つ二つあるわよ」
苦笑と手振り混じりに、クルーエルは首を振ってみせた。
何か言いたげなネイトの視線に気づき、こっそりとウインク。
──実は、そのまさかだったのだ。
フィデルリアでの夏期補習授業が終わり、エイダや他の友人たちが実家に帰った後。
ぽつりと残された自分は、親元に帰ることもできないネイトと寮に残り、ずっと名詠の練習に付き合っていた。
〝あ、でも夏休みのこれは秘密ね。ミオとかエイダにもだよ〟
〝......は、はい〟
クラスの友人にばれでもしたら、きっと要らぬ噂も流れるに違いない。教師に知られたら風紀問題云々で職員室に呼ばれるかもしれない。そんな思惑もあり、「クルーエルは田舎に帰っていた」ということで、ネイトと二人して口裏を合わせることにしていたのだ。
「エイダこそ、また随分日焼けしたわね。海でも行ってた?」
「......んにゃ。親父と一日中鎗の訓練。もはや彼氏を作る暇も無いっての」
げんなりした様子で、ぱたぱたと手を振るエイダ。
「あの親父、年甲斐もなく妙にハッスルしちゃってさ。鎗の持ち方が悪いだの、そもそも鎗の手入れが悪いだの、ことあるごとにお説教されたし」
心底疲れ切ったように、彼女ががっくりと項垂れる。
と同時。校舎脇の拡声機から、聞き覚えのある声が流れてきた。
──これより、生徒の呼び出しを行います。該当者は至急、学園長室まで──
......あれ、こんな夏休みの間に生徒の呼び出し?
突如響いた校内放送に、クルーエルは内心首を傾げた。
「ていうかこれ、ウチらの担任のケイト先生だよね」
こちらは変わらず、どこかぼんやりした表情のミオ。
──一年、『Keinez』専攻、クルーエル・ソフィネット──
──名を呼ばれた生徒は、至急、学園長室まで来てください。繰り返します──
......え? わたし?
聞き間違いではないか、思わず我が耳を疑った。
「今呼ばれたのって、クルーエルさんでしたか?」
ぽかんと、ネイトがこちらを見上げてくる。ということはやはり、自分の聞き間違いでもないらしい。
「一年生で『Keinez』専攻、おまけにケイト先生からの呼び出しとなると......うーん、さすがにクルルぽいね」
のほほんと首を傾げるミオ。
「でもわたし、学園長室に呼ばれるような覚えないわよ」
「クルル、なんか悪いことでもした?」
......ミオ。人聞きの悪いことを。
遅刻数クラス一? いや馬鹿な。その程度で学園長室に呼ばれるなんて聞いたことない。
「......あきらめな、クルーエル」
ぽん、と肩に手をのせられる。
振り返ったそこに、サージェスがやたらわざとらしく、目に涙を浮かべていた。
「あんたがどんな悪事をしでかしたか知らないけど、安心して。たとえどんなに悪の道に染まったって、ウチらはあんたの友達だよ。だから──」
「......だから?」
「だから、ここは腹をくくって大人しく退学に」
「縁起でもないこと言わないの!」
「あいたっ!」
こつんと、握り拳を彼女の頭にくれてやる。
まったくもう。悪いことなんて......せいぜいさっきの、遅刻数がクラスで一番くらいだったはずだよね。まあ、控えめに言っても期末試験の成績はあまり良くなかったけど。
だけど後は知らないぞ。わたしは何もやってないんだから!
「......あーあ、気は進まないけど行ってくるね」
「はい。骨は拾ってあげますね」
......ネイト、いつ誰に教わった言葉か知らないけど、それなんか違うよ。
かと思えば、その一方で彼の台詞をにやにやしながら見つめる問題児が二名。
「サージェス、エイダ。ネイトに変な言葉吹き込んだでしょ」
『え。う、ウチら何もしてないよ? ねえ?』
やたら動揺する二人。案の定、やっぱりこの二人だったか。
──なんでまた、この二人が呼ばれなくてわたしが呼ばれるんだろう。
溜息混じりに、クルーエルは学園長室に向けて歩きだした。
3
さて、校内放送、きちんとあの子に届いているかしら。
学園長室にずらりと並んだ教師の姿を眺め、ケイトは背中の壁に寄りかかった。
外出はしておらず女子寮に滞在中。それは寮の生徒在籍名簿で確認済みだった。よほど何らかの事情が無い限り、あとは彼女がやってくるのを待てばいい。
......それにしても、学園長も意地悪な課題を用意したわね。
教師の中央に座す老人が目をつけたのは、この部屋に敷かれた真紅の絨毯。まさか、先の三年生と同じ課題を一年生に与えようとするとは。
通路に響く小さな足音。
ギィッと錆びついた音を立て、学園長室の扉が開く。現れたのは、緋色の髪をなびかせる長身の少女だった。その髪色同様、制服の襟も『Keinez』に色づけられている。
「......あ」
ずらりと並んだ教師たち。それを見るなり、少女の顔色に動揺が走る。
「すいません! わたし、来る場所間違え──」
「いいえ、あってるわよクルーエル」
逃げるように退室しようとする彼女に、慌ててケイトは声をかけた。
「夏休み中なのに、わざわざごめんなさいね」
「......やっぱり、校内放送の通りだったんですか」
大勢の教師に囲まれ、居心地悪そうに身体を小さくする生徒。これだけの視線を受ければ萎縮するのも当然か。
「あの、用件て何でしょう。わたし特に悪いことしてな──」
「クルーエル」
すっと、ケイトは他の教師たちより一歩分、自分の生徒に向かって歩み寄った。
「あなたもしかして......」
──既に、第一音階名詠が使えるの?
ぴくりと、少女が怯えたように強張る。傍にいて、その姿があまりに容易に見て取れた。
「......何の話ですか。あんまり突然過ぎて」
言葉を濁す少女。
「ああ、別にそんな身構えなくていい。ただ確認したいだけなんだ」
片手を呑気に振り、教師らしからぬ軽装のゼッセル教師が苦笑いを浮かべる。
「簡単に言ってしまえば、こと名詠の実技に関する君の急成長ぶりが、ちょっと職員室でも話題になってると言えばいいのかな」
「急成長ですか?」
「ついこの前の、フィデルリアへの臨海学校。君を含む『Keinez』専攻生の講義を受けもっていた教師として、一年生の中で君だけやたら突出しているように思えたわけだ」
この場にいる教師は既に、その時の記録をゼッセル教師から聞いていた。
『身近にある物を触媒とし、三十分以内に赤い小動物を詠び出すこと』──その課題に多くの生徒が必死に〈讃来歌〉を詠う中、この少女だけはただ一人、触媒の絵の具を握りしめて沈黙していたというのだ。
「どうかしたのかなって思って近づいてみれば、君の両肩には既に、赤い羽根をした鳥が一羽ずつ留まっていた」
〈讃来歌〉すら詠わず、ゼッセル教師が目を離した十数秒の間に名詠を終えていたことになる。
「......でも、それくらいなら別にそこまで」
「それはどうかな」
言い終えるのすら待たず、その教師が言葉を続けた。
「俺の講義が終わった後、君は一人だけ中庭に残って名詠の練習をしていたはずだ。......いや違うな。練習なんかじゃなく、君の表情はあくまで『確認』の眼差しだった」
自分の実力の、再認識。
エンネ教師も見たという、巨大な炎。
「中庭で燃え上がった巨大な炎。あれだけのものとなると、生徒の気まぐれな偶然で詠び出せるようなものじゃない」
「でも──」
躊躇いがちに、少女が周囲の教師を見回した。
「それでも、わざわざ学園長室に呼ばれるほどじゃないと思うんです。鳥だって炎だって、難易度自体はそこまで高くないはずですから」
そうだ、確かにそれだけならまだ、「どの名詠学校にもいる将来有望な生徒」という説明で済ませられるかもしれない。だが、決定的なのはこの次だった。
「あのね、クルーエル」
さらに一歩、ケイトは自分の担任する生徒に向かって歩み寄った。
「研究所でわたしが倒れていた時、助けに来てくれたのはあなただって聞いてるの」
「いえ、あれはエイダが──」
「もちろんそれも知ってるわ。だけど教えて欲しいの。あなたが詠んだ真精に助けられたというのも、事実なのでしょう」
そう。治療を終えた自分がその話をゼッセル教師から聞いた時、あまりのことに耳を疑った。普通の女子生徒だと思っていた彼女が、既に真精を詠べるなどという報告──それも、真精の中でも非常に希有な黎明の神鳥を引き連れているなどと。
「......わたし、分かりません」
弱々しく首を振るクルーエル。
けれど、それはあまりに拙い噓だった。フィデルリアの合宿所にて。生徒に、教師に。黎明の神鳥を詠び出す少女の目撃例は既に多数上っていたのだから。
〝......クルーエル、ここを離れます〟
崩壊しかかった研究所から脱出する間際。黎明の神鳥がクルーエルに向かって話しかけていたという事実も、ゼッセル、エンネ両教師が証言している。
この緋色の髪の少女が真精を詠んだという事実は、もはや疑いようがなかった。
「クルーエル、あなたを責めたりする気はないの。むしろ逆で──」
「真精を詠び出せるレベルとなると、飛び級ができるどころか、本格的に名詠士の資格試験にも挑戦できる」
そう言葉を続けたのは、一年生の『Keinez』を担当する教師だった。
「名詠士の資格をとれば、正式な活動資金という形で幾ばくかの援助を受けられる。飛び級にしろ、学費を負担する親からすれば願ってもない話であるはずだ」
「同様に、飛び級の生徒ということで、教師からも相応の協力をする用意がある。君にその気があるなら、学園公認として著名な名詠士に紹介する制度もある。これは君にとって大きなチャンスだ」
間を置かず、次々とはやし立てる教師たち。
そう、生徒にとっては願ってもない機会のはず。優遇処置のはず。
なのに──なぜ?
この少女の表情は、はっきりそれと分かるほど憂愁を帯びていた。
......そんな。何を、こんな突然に──
頭の中が真っ白になりそう。困惑で立ち眩みがおきそうになるのを、唇を嚙みしめ、クルーエルはかろうじて堪えていた。
名詠学校に入ってまだ半年じゃないか。ようやく友達ができて、勉強にも学校生活にも慣れてきた。なのに、飛び級? 名詠士への資格試験?
あんまり唐突過ぎて、その実感すら湧いてこない。
......わたし、そんなのゴメンだ。
いつもあどけなくにこやかな、金髪童顔の女友達。
一緒にいてあげることを誓った、夜色の少年。
それだけじゃない。他のクラスの子だってそうだ。今は、みんなと一緒に同じ時間を過ごしていたい。わたしはそっちこそが、本当に大切にしたいものだから。
「ありがとうございます。でも、わたしは──」
眼前の教師をひたりと見据え、クルーエルは首を横に振った。
「わたしは、今のままで良いです」
ざわりと、教師たちの間にざわめきが生まれる。
「それはどういうことだね」
腕組みし、名も知らぬ教師が押し殺した声で訊いてくる。
「わたし、一緒に名詠を勉強したい子がいますから」
その相手に向け、クルーエルはにこりと微笑んでみせた。
「しかし......」
「いいんです、わたし本当に今のままで十分ですから」
再度何か教師が言いかける、その前に。
「分かりましたクルーエル。この休みが終わってからも、あなたは私の生徒です」
自分のすぐ隣に、ケイト先生がいた。
あなたが決めたことなら私もそれを支持するわ──こっそりと、耳打ちされた。
「......はい」
良かった......ケイト先生は怒ってないんだ。
「ふむ、こちらとしても生徒の意見を最大限尊重しよう。ケイト君という優秀な教師もついていることだしな」
机上の用紙を片づけ、学園長が立ち上がる。
「ところでだ。クルーエル君、ものは相談なのだが──」
今までの荘厳な面持ちから一転、目の前の老人は、妙に和やかな表情を浮かべてきた。学園を束ねる者としての威厳は消え、どこか親しみやすい表情を。
「実はワシ、いやここにいる教師も含めて、今まで赤の真精は数多く見てきたが黎明の神鳥だけは見たことがなくてな」
「......そうなんですか?」
黎明の神鳥は、自分にとってはひどく身近なイメージしかない。
教師、学園長。それぞれ年季の入った名詠の専門家だ。ここにいる人たちが、一人としてそれを目にしたことがないというのは自分にとって信じがたいのだけれど。
「報告例そのものが歴史上いくつあったか。研究内でも幻とされている、数ある真精の中で最も幻性度の高い一体。少なくとも、現在においてそれを名詠できる名詠士は確認されていない。それほどまでに、君の真精は希少なんだ」
青い研究服をまとう、眼鏡をかけた教師が肩をすくめてみせる。
......知らなかった。そんなにまで、わたしの真精は。
「でだ、これは単に興味の問題で、もし良ければ是非とも拝んでみたいのだが」
老人の言葉に噓は無いのだろう。言ってくるその眼差しは、子供のように純粋な好奇心に満ちていた。それは他の教師も同じ。それはきっと、そもそも名詠を目指す者自体が、そういった好奇心に溢れた人間だからなのかもしれない。
「......あの、ごめんなさい」
だがそれと悟ってなお、クルーエルは目を伏せた。
「名詠で、わたしにできることであればしたい気持ちはあるんです。だけど......」
一度言葉を区切り、クルーエルは言葉を探した。
自分の気持ちを最も素直に、正しく、表現するための言葉。
「単に見てみたい。その理由だけだと、わたしの真精は来てくれないと思うんです。本当に大切な時、大切な人のために詠ぶ。わたしが心の中でそう誓ってるから」
名詠を嗜む者の大半は、救助・救援的な職で活躍する者が大半だ。
有翼馬など空を飛翔するものを名詠して人を運ぶ。あるいは──水場の無い場所で火事が起きた時には、消火のための水の名詠。凍える地では火を名詠し熱の確保を。
目の前にいる教師や研究者になる者は一握り。その中で、自分がどの道を選ぶかはまだ決めてない。いや、名詠士になりたいかどうかも未定。
だけど──名詠をただの見せ物にだけはしたくなかった。
それは、夜色名詠をあれだけ真剣に頑張っている彼に対しての侮辱に思えてしまうから。
「そうか」
深く吐息をこぼす小柄な老人。
「......本当にすいません」
他ならぬ学園長の頼み。それを無下に断ってしまうことになった。
「いや、確かに君の言うとおりだ。なるほど、少しだけ分かった気がする。君のような純粋な心の持ち主にこそ、相応の真精が宿るのかもしれんな」
気を悪くした風もなく老人が笑う。
「ま、クルーエル君もそこまで萎縮しないでくれ」
「あ、あの......お詫びに何かできませんでしょうか。わたし、名詠で花くらいなら」
学園長室に生ける花くらいなら、自分でもきっと何とかなる。
「気遣いはありがたいのだが、今ここには花瓶も何もないからな」
あたりを見回し──ふと、老人の視線が自分たちの足下で止まった。
「いや、待て。......ではやはり一つだけ頼みたい。何でも構わないから、君の好きなものを詠び出してくれ。触媒は、君の足下にある真紅の絨毯を使ってくれて構わない」
「......え、これ使っていいんですか?」
「無論だ」
言われるまま、そっと絨毯に触れてみる。
瞬間。微かな違和感──これは。
「ただし、若干触媒としては使いづらいかも分からんよ」
「これ、あれですよね。既に六回、名詠で使われてます」
名前は何といったか。この前テストで出たのに。
ええと、たしか......クラ──なんとかだった気がするけど。
「あれ、どうかしましたか?」
周囲のざわめきに気づき、クルーエルは顔を持ち上げた。
見れば、老人が驚いたように刮目。他の教師たちも、こそこそと何か言い合っていた。
「なんと、気づいていたのかな」
「......いえ、何となくです。触ってみたら『ああ、そうなのかなぁ』って」
「だが、回数はどういうことだね」
「それも何となくです。......でも、多分それで合ってると思います」
鳥の声を聴いてそれと分かるように、触れれば分かる。ただそれだけ。
触れた途端、この触媒の名詠門が脳裏にはっきりと想像できたのだ。普段よりちょっとだけ頑固に口を閉じている門。
──だけど、なぜだろう。名詠ができない気が、しないのだ。
どれだけ意固地になってる門でも、拗ねてしまっている門でも、今のわたしなら優しく諭すことができる気がする。いいえ、その確信がある。それこそ、母親が愛しき我が子を諭すかのように。
生けるものが無意識のうちに呼吸を繰り返すように、もはや当然の摂理の如く、絶対の予感を以て──名詠式という法則の全てを感じ取れる。そんな感覚すらあった。
奇妙なほどに澄んだ意識。覚醒した想い。
〈讃来歌〉すら必要としない。
ただ自分の想いを以て、ただ一言話しかけてやればいい。
──Isa siaclue-l-sophie pheno──
足下の絨毯が赤く輝きだす。煌めく光の粒子が舞い上がり、粉雪のような涼しさを伴って学園長室を照らす。
「まさか、後罪の触媒を〈讃来歌〉無しで?」
教師たちの狼狽した声が次々と上がる。
......なんでだろう。何を驚いているんだろう。
ただ普通に、この触媒を使って名詠門を開かせただけなのに。
そう言えば、何を詠ぼう。
自分の一番好きな花でいいかな。
どんな宝石より素敵な、わたしの大好きな緋色の花。
──『Keinez』──
そして、少女の口ずさんだその後に──







「あ、じゃあわたしは失礼します。友達が待ってるので」
何の感慨も驕りもなく、さも当然とばかりに慌てて通路を走っていく女子生徒。
彼女が去った学園長室には、部屋を埋め尽くさんまでに、何百輪という緋色の花が残されていた。緋色の花──アマリリス。
ややあって。
「......あの子、一体何者だ。名詠士とかそんな簡単な言葉で括れるもんじゃないぞ」
一年生の『Keinez』を教える教師が、真っ青な面持ちで汗を拭う。
後罪の触媒を〈讃来歌〉抜きで名詠に再利用。それができた名詠士は、現在まで公の記録に存在しない。もし仮に触媒の無限回利用が可能だとして、もはやそれは、人間が行使できる名詠の域を超えていると言って過言でない。
しかもまだあの少女は、力の底を見せているとは思えなかった。
しんと静まりかえる学園長室で──
「──異端の夜色名詠者。そしてそのすぐ近くに、怪物じみた赤の......いや、怪物じみた名詠式の才覚者か。あの才能、本人が無自覚なのが怖いな」
ゼッセルは、天井を見上げたまま独り言のように呟いた。
「〈孵石〉、それに灰色名詠もそうだな。全てが同時期だ。......だけどこれは、本当に偶然で済ませられる出来事なのか?」
偶然? 否、それは違う
あの子の周りに起きたこと、そして今から起きることの全てが
予定運命の旋律上に、既に音色として刻み込まれているのだから
全ては、あの子の為に在る
全てが、わたしとあの子の為に在る
もうすぐ理解する時が来る。理解して──そして、それと知りなさい
彼方に咲く緋色の子の名こそが、真ナルSelahphenosiaであることを
今はまだ、届かない。けれど──
クルーエル、わたしはあなたをいつも見守ろう
わたしは、こんなにも貴女を愛しているのだから
誰にも届くことのない秘やかな囁き。
幽かに響いたその声は、誰にも悟られることなく何処かへと消えていった。
敗者の詩章・一 『Deus, Arma?』
砂混じりの風に混じり──
初めて、女性が言葉らしき言葉を紡いだ。
「わたしに、その『何かがいる』という話を伝えるためにここまで来たの?」
「はい」
女性の問いかけに、老人がゆっくりと頷いてみせる。
「なぜ、わたしなの?」
「年を重ねていくと、ごく稀に、物事の本質が透けて見えることがある」
足下の地表を、次に頭上の空を眺め、老人は愛おしそうに目を細めた。
「いわばこの世界に連なる流れ......ただ、悲しいかな。人は老いることで流れを見ることを可能としながらも、老いることで、その流れのまま流されることを良しと思いこむようになる」
運命、定め。
そう自らを納得させることで、自らの求めた約束を目の当たりにしながら、その地に足を踏み入れることを諦めてしまう。
「私の老いた目でもはっきりと分かる。しかしあなただけは、その流れの中で自分を失っていない。そう......流れに反する者。──誠に羨ましい。なぜあなたは、その流れに牙を剝くことができるのか」
「どうかしらね」
そっけなく答える女性に、老人はにこやかな表情のまま。
「まあ、年老いた者の遺言と思ってお聞き下さい」
「そんな重いもの、押しつけられても困るわ」
「はは、違いない」
低い声で、しばし老人は笑い続けていた。
笑い続け──いつしか、その笑い声は泣き声と区別がつかなくなっていた。
「......そうだな。思えば私がアレと遭遇したのもまた、そういった意味では必然だったのかもしれませんな」
その声は笑い声でも泣き声でもない。
何かに怯えた、掠れ声だった。
二奏 『もしあたしが戻らなかったら──』
1
それは、いつもと変わらぬ夜だった。
夏の暑さの残る、湿気を含んだ風。頭上では月影が雲の隙間から覗いている。寮内の草地では、夏が終わる前の虫の音が最後の彩りを奏でていた。
そう、普段と何も変わらない。
ただ一つ。虫の音が、突如止んだことを除いては。
学園内にいる警備員も、宿担で学園に泊まり込んでいる教師たちも。そして寮内にいる大勢の生徒も、そんな些細な変化に気づくことなく、その夜は過ぎていっていた。
言うなれば、名詠士は誰一人として気づかなかった。
その中で──
なんだ......この感覚......?
名詠を学びながらも名詠士にあらざる者──祓名民たるエイダ・ユン・ジルシュヴェッサーだけは、その奇妙な夜に目を覚ましていた。
何かが違う。何かが──
「サージェス、起きて」
手荒に揺すり、相部屋の友人を揺り起こす。
「......ん、なに? ......三時? どうしたのよこんな時間に」
「何か変だ」
口早に告げ、ベッドの脇に立てかけてあった祓戈を手に取る。
窓から様子を窺う。外の風は特に臭わない。
となれば......今あたしが感じている気配は、既に寮の中?
「サージェス」
ひたと、友人を見つめる。
「もしあたしが一時間経って戻らなかったら、管理人の部屋に直通で連絡。その後で迷わず寮中の警報器を鳴らして」
「え?」
「鍵は閉めておいて。誰が来ても入れないように」
「ちょ、ちょっと──」
返事を待たず、エイダは寮の通路に出た。前方、後方を順に睨みつける。
怪しい影も、足音もない。
......なのに、なぜこうも息苦しい?
かつて灰色名詠の真精と戦った時は、真精の放つ殺気に肌が痛んだ。だけど今回のは、それとはまた違う悪寒がある。ぬめりとした、肌にまとわりつく濁った悪寒。
祓戈を握りしめ、通路を進む。切っ先の修復は終わっている。が、修復後の祓戈の長さと重さを完全に把握するまでには至ってない。一抹の不安が残る。
悪寒に近い気配は、背後ではなく前方が濃い。
──一体、何がいるんだ?
つっ、と一筋の汗が背中を伝っていく。自身、通路を伝う足音はほぼ完全に殺しているという自信はある。床の埃すら舞わぬほど。
にもかかわらず冷や汗が止まらないのは、それでもなお正体不明の相手に、自分の追跡がばれているのではという不安があったからだ。
気配との距離が、縮まらない。
自分が近づいている分、相手もまた自分から離れていっているのだ。
......馬鹿げてる。一名詠学校の女子寮だぞ。こんなとこに何が侵入してるっていうんだ。
通路を進み、階段を下りる。
一階、玄関口。通路から、わずかに広がりをみせる空間がそこに展開している。
その空間に繫がる曲がり角でエイダは足を止めた。
ぬめりとした気配がそこで止まっていたからだ。間違いなく、相手もまたこちらの動向を凝視している。
......この場所。誘われたのはあたしの方だってことか。
下唇を嚙む。どうする、この角から様子を窺うのは無意味。相手もまた、間違いなくこちら側が姿を見せるのを待っている。
逡巡は一呼吸にも満たないわずかな間だった。
ゆらりと、エイダは曲がり角からその身をさらけ出した。
「こんな場所、こんな時間に何の──............」
言葉は半ばで消失した。
その続きが、エイダにはどうしても言えなかった。
目の前、奇妙な気配が留まっているはずの場所には何もいなかったからだ。
──何もいない? そんな──ッ!
ぞっとする光景に背中が粟立つ。
そして、呆然と佇立することより先に身体が動いた。
「ッ!」
ほぼ動物的な直感のみで、エイダは祓戈を、何も無い空間に向け薙ぎ払った。
ギィン──硬い交叉音を立て、金属製の鎗がその空間で弾かれる。
刹那。風鳴りと共に、何かが自分目がけて振り下ろされる。それを先と同じく、やはり空虚な空間に向けてエイダは祓戈を振り上げた。
ざくりと、今度は確かに、切っ先が何かを抉った。
と同時。何かの生き物の悲鳴がロビーに小さく響き渡る。
やっぱりそうか!
背後に跳躍し、その気配との距離を置く。ようやく眼前の相手の正体が摑めてきた。
不可視の、敵。それは姿の見えない奇妙な生物だった。周囲の夜にとけ込むように、角度によっては完全に不可視とも言える透明な身体。
......こいつ、何なんだ。
鎗を合わせてみて、相手の膂力がそこまでとは思わない。だが相手の間合いと完全な位置がまるで摑めない。
たかだか数十秒で、通常では考えられないほどに呼吸が乱れる。気配と、肌に触れる空気の流れ、風鳴り。それだけで応戦することがここまで気をすり減らすとは。
鎗で薙ぎ払い、直後に退く──一撃離脱。タイミングを損ねれば、相手に即座に反撃を喰らう戦法。細心の警戒を以て、十回、二十回とそれを重ねる。
気の遠くなるような鬩ぎ合いの中。
──トン──
じりじりと後退する相手の背が壁に触れる音が、確かに聞こえた。
これで終わりにする!
一歩、エイダは相手に向けて踏み込んだ。
自分にとっても間違いなく最速、最高の一撃。躱すことは不可能。確信にも近い自信を携え、祓戈を斜め上から突き降ろす。
切っ先が壁を穿つ音。
手応えは......なかった。
「──なっ?」

思わず、驚愕の吐息が洩れた。と同時に、エイダは自身の感覚を生涯で初めて疑った。
確かに、つい一瞬前まで目の前に何かがいた。
なのに、その不可視の相手を追い詰めたその瞬間──気配は、亡霊のように突如として消えてしまったのだ。
......今まで霞でも相手にしてたっていうのか?
いや、違う。
肩先、肘。衣服が裂け、褐色をした自分の肌が所々露出しているのだから。
間違いなく、自分は何かと戦っていた。幻とかそういうものじゃない。
なのに、突然消える? 一体どんな理屈で?
今まで祓名民の訓練・実戦の中で数多くの名詠生物と相対してきた。だがその経歴によって培われたあらゆるデータの中にさえ、あんな類のものはいなかった。
いやそもそも、あれが名詠生物かどうかも不明。
「──洒落にならないってね」
先の戦闘、そして追跡を思い出し、エイダは身体をふるわせた。
2
始業式、当日。
学園領の端にある男子寮から一年生校舎までは、ネイトの足で十分ほどの距離がある。
男子寮から学園まで連なった石畳。途中でいくつもの分岐があり、女子寮、散歩道などへも繫がる公道である。
「......あれ?」
その道の半ば、ネイトはふと歩みを止めた。校舎が建ち並ぶそのすぐ手前、芝生のある広場を通りかかった時だ。
青々と茂る芝生の上。目を凝らして見ると、まるで誰かが倒れているような黒影。
「あ、あの......大丈夫ですか」
横向きに倒れている人間を慌てて揺する。ややあって。
「ん......」
小さく吐息をつく相手。男物と思しき白衣を羽織っているせいで分かりづらかったが、足下のハイヒールや顔立ちからして、どうも女性らしい。
「どこか悪いんですか? それなら今すぐお医者さんを──」
途端。揺する手をギュッと摑まれた。
あ、あれ。
「──お前、誰だ」
目を擦りながら訊ねてくる女性。
「え......ぼ、僕ネイトって......じゃなくて、それは僕が聞きたいです。いきなり芝生で倒れてるなんて、どうしたのかなって」
「倒れてる? いや、寝ていただけだが」
目頭を指で押さえつつ、その女性が起き上がる。ハイヒールを履いているせいか、彼女は随分と上背があるように思えた。
ね、寝てた?
「到着したのが昨日の夜でな。宿を探したものの、ここら一帯は学園の所有地。めぼしい場所が見つからなく、こうして野宿になったわけだ」
「で......でもこんな何もない場所で。ああ、ほら背中に草がこんなに」
「む。済まない」
衣服についた草を払い落とすのを手伝う。その作業が終わるのを待って、彼女は自分に向けて意味ありげな視線を送ってきた。
「なあ少年。ところで、変わった色の線だな」
何のことだろう。相手の視線をなぞっていき、それが自分の制服の襟元を指していることに気づいた。
「私が見た限り、どうもここの生徒は制服の線の色で名詠の色を識別することになっているかと思っていたのだが......ふむ、黒い線とは中々に興味深い」
トレミア・アカデミーでは生徒の学年と専攻色を、襟と袖の線で区別する。本来夜色の線というのは用意されてなかったのだが、ネイトの場合はその色をした生地を襟に縫い込んでいた。
「僕、別の色の名詠を勉強してる最中なので」
「ほう? というと、まさか黒色名詠とでも言うつもりかな」
白色名詠に対して黒色。確かに、多くの者がまず最初に考える対称色彩だろう。話を手っ取り早く済ませるにはそれで頷くのが一番なのだろうが、ネイトは極力それを控えることにしていた。
「い、いえ。夜色です。夜色名詠式って言って」
「──夜色名詠。ああっ!」
途端、目の前の彼女は何かを思い出したように手を打った。
「虹色から話は聞いている。公認されていないが、確かに存在する名詠色だとな」
彼女が告げた名は、自分が知る伝説的な名詠士と同じ名だった。名詠士か否かを問わず、広く世界中にまで聞こえた虹色名詠士。
「カインツさんとお知り合いなんですか」
「一応、同じ釜の飯を食う仲だな」
......それってどういう意味なのかな。彼女の意図するところが分からず首を傾げる。しかしそれに気づいた様子もなく、彼女の目線は自分の襟元を見据えるばかりだった。
「ところで、なぜ夜色なんだ」
「え。なぜって?」
「ひどく単純な疑問だよ。名詠式の常道に添うならば、既存の白に対し黒が妥当。なのに、なぜ黒ではなく夜色という名を冠しているんだ──という意味だ」
「え、ええと......なにぶん母が作った名詠式なので」
似た問いは、極稀にだが過去にもあった。しかしそれは、ネイト自身ですら禁忌としていた疑問でもあった。
──自分も知らないからだ。
一度、母の機嫌を見計らって訊いたことがある。その時、母はたった一言だけ告げてきた。
〝アーマに訊きなさい〟
しかしそれを訊ねても、当の名詠生物は決して教えてくれはしなかった。
〝なぜお前の母が我に訊けと答えたのか、その理由を見出せば自ずと分かる〟──と。
そして、それは最後まで分からなかった。その段階以前に、今の自分には母親の名詠式を習得することだけで必死、その名の由来など考える余裕すらなかったからだ。
だからこそネイトは、今までこの手の問いには「異端だから」「変わり者の色だから」、と言葉を濁していた。そして、多くの人間はそれで引き下がってくれた。
けれど、この女性研究者は違った。
「名詠式というのは非常に理論的な仕組みを持っている。お前の母親が黒ではなく夜と名づけたからには、それ相応の理由があるとは思うのだが、どうかな。それこそ、決して黒であってはいけないという程の。夜色という名を冠さなければならない理由が」
......単に、母さんの嗜好という理由じゃいけないの?
黒ではいけない理由、夜色名詠式という名を冠さなければならない理由?
「あ......あの......ごめんなさい。僕も......」
知らないんです、そう言い終える前にぽんと肩を叩かれた。
「ま、気にするな少年。疑問に思ったことをすぐ口にするのが私の癖でな。もしかしたら、単に語呂の問題なのかもしれん。よしんばお前の母親に何らかの思惑があったとしても、今この場で捻り出せるほど浅い理由でもないだろう」
小さな微笑を唇に浮かべ、彼女が愉快そうに腕を組む。
「は、はい」
頷いた拍子、ネイトは自分の立場を思い出した。どうしよう......もうすぐ始業式が始まる時間だよね。早く教室に行かないと。
「あ、あの。僕そろそろ──」
「む。そうだ」
鞄を持ち直して別れの挨拶。と思っていた矢先、その彼女が制服の裾を摑んできた。
「あ......あのこれは......どういうことでしょう」
「少年、ついでだ。学園長室まで案内してくれ」
「えっと、学園長室なら総務棟の──」
「ん、ああ違う違う。それくらいは私も知っている。ただこの馬鹿でかい敷地を、阿呆みたくうろついて時間を消費するのは勿体ない。生徒の君が、最短距離かつ最速で誘導してくれると非常に助かるわけだ」
「......あの。僕、今すぐ教室に行かないとですね」
やんわりと抵抗を試みるも、相手は揚々と裾を握ったまま手を放そうとしない。
「ほう。なら余計に急がんとな。さあ、学園長室向けて出発!」
......誰か助けて。
がっくりと、ネイトはその場でうなだれた。
「──ああ、遅刻!」
息せき切って、ネイトは階段を駆け上がった。既に他の生徒の姿はない。全員、とうに自分の教室で席についている時間だからだ。
一年生校舎の二階、端の教室が自分のクラス。扉の窓からそっと覗く。思ったとおり、既に全員がしっかり着席して、その視線はケイト教師へ。
「......あ、あのぉ」
おそるおそる扉を開く。が、立てつけの悪い扉のせいでがらがらと盛大に音が鳴ってしまった。案の定、クラス全員の視線がこちらに。
「ご、ごめんなさい。来る途中、ふしぎな人に呼び止められたせいで──」
懸命に自己弁護を試みる。が。
「ネイト君、待ってたの。さ、早く席に座ってちょうだい」
怒るどころか、ケイト教師はむしろほっとしたように穏やかな声音で言ってきた。
「......え?」
「ほらネイト、さっさと座りなさい! みんな揃わないと先生が話せないんだから」
教室の前方に座るクルーエルが手招き。
「は、はい!」
だけど僕を待っていたって? クラス全員が揃わないと話せないことって一体?
それに今日は始業式。今頃は、始業式の会場に向かう準備をしてないといけないのに。
「......ひとまず全員揃ったようね」
生徒をくるりと眺め、ケイト教師が教壇に立つ。
「今日の本来の予定は、朝すぐ始業式のはずでした。それはみんなも分かっていたと思うけど......突然ごめんなさい、始業式は取りやめになりました」
──中止?
ざわざわと騒ぎだすクラスメイト。それを鎮める様子もなく、教師は一度大きく息を吐き出した。
「順を追って説明します。実は現在、大陸の複数箇所で、不審な現象が立て続けに起こっているという情報が入ってきました」
語気を強め、教師はゆっくりと言葉を続けた。
「どのような現象かは、調査段階ということもあって今ここで詳しく述べることはできません。......ただ、皆さんも我が校で起きた触媒事件は記憶に新しいかと思います。現時点での報告から不審現象とは、どうもそれに関係性があるという見方が強いです」
我が校で起きた触媒事件──つまり、あの〈孵石〉暴走事件。
そして夏期休暇中に遭遇した、あの研究所襲撃事件。何者かに襲われ石化した研究者たち。研究所はひとまず調査班の手によって完全に落ち着いたらしいが、その犯人は未だ捕まっていない。
......灰色名詠。
ネイト自身、その名詠の恐ろしさは身を以て知ることになった。まさか、不審現象とはつまり──あの研究所のように、他にも襲われた場所があったということ?
一瞬ケイト教師と目があった。何かを伝えるような眼差しをこちらに向け、だがすぐに、教師の方が目を逸らす。
「その結果、我が校でも対策を講じることになりました」
言葉を区切り、壇上、教師が姿勢を正した。
「既に、一連の不審事件への調査委員会が立ち上がっています。その取り決めにより、各地の名詠学校もその調査拠点として協力することになりました。調査班の制定、調査委員の役員受け入れなど。そのための用意として、ここトレミア・アカデミーでも学園長はじめ主要役員が、本日の午前一杯は臨時会議に出席中です」







......ここは、読書には不向きな場所だな。
燦々と照らすシャンデリアの過剰な灯りに、ミラーは目を細めた。
トレミア・アカデミー総務棟二階、大会議室──濃紫色の絨毯が敷かれた、長方形状の大部屋だ。百席以上の席が、現在埋まっているのは三分の一ほどか。臨時の集合にしてはよく集まった方だろう。
「さて、まだ集わぬ者もいるようだが、定刻となったので始めるとしよう」
がたりと音を立て、ゼア・ロードフィル学園長が立ち上がる。
対灰色名詠のための、有識者合同会議──
参加者はこの学園の理事数名を筆頭に、トレミア・アカデミーの運営委員数名、各学年の教師。それに情報処理部門から自分を含め数名。ミラーの場合は教師が本分だが、情報処理部門からはそれ専門の職員もこの会議に顔を見せている。
「概略は事前に配布した資料の通り。これは調査委員会が極秘裏に作成したもので、内部情報として取り扱って頂きたい。ここ近日、大陸の各所にて──例の灰色名詠らしき不審な事件が多発。被害は各研究機関及び学校。いずれも触媒の貯蔵庫が荒らされていることから、犯人は同一人物だと思われる」
......灰色名詠か。
資料を手元に伏せ、ミラーは鼻先の眼鏡を持ち上げた。
灰色の生物群と銀色の真精。概要は、ケルベルク研究所フィデルリア支部でそれを目の当たりにしたゼッセル、エンネから直接聞いている。
──そして、荒らされているのはどこも触媒の貯蔵庫。
愉快犯ではない。これだけ大陸中の関係者を騒がせておきながら、まだ顔すら割れていないのだ。人を石化させる無音の名詠。確かに、侵入という目的においてこれほど適した名詠色はあるまい。『Keinez』の炎にしろ『Ruguz』の氷にしろ、人目に立つ。一方、対象だけを無力化させ沈黙させる灰色名詠ならばその心配は無い。なるほど、調査委員会が手を焼くわけだ。
「調査班の結論だが、犯人は一見これだけ力押しの騒動を引き起こしているものの、非常に計算高い性格と思われる。犯人が残した唯一の手がかりは......」
言葉半ば、透明なフラスコに入った灰色の残滓を老人が持ち上げる。
「犯人が使用したと思われる、この触媒だけだ」
実質、無きに等しい。
「運営委員の方々には、一連の事件調査委員との折衝をお願いしたい。教師諸君は以上を念頭に置いた上で、不審人物を万一学内で見かけた時はすぐ報告するよう生徒に指示。情報処理部門は、今まで通り各地の研究機関・名詠学校との連携を任せた。......大方以上のような感じだが、質問等あるかな」
誰の手も挙がらないことを確認し、学園を束ねる老人が手元の資料を丸める。
「一つよろしいでしょうか」
閉会の空気が漂いだした中、ミラーはにわかに立ち上がった。
「情報処理部門の関係で連絡です。例のケルベルク研究所、その本部から本日早朝連絡が入りました」
「ほう?」
「そこの副所長兼理事が、先方を代表してお出でになるとのことでした」
「副所長──〈イ短調〉のサリナルヴァか」
平静を常とする老人が、わずかに口調を昂揚させた。
公にはまるで無名。しかしその存在を知る者からは例外なく一目置かれている少数組織。祓名民の首領クラウスや虹色名詠士カインツを始め、一癖も二癖もある異端者の集団だ。
「〈イ短調〉が公にその動きを見せるとは珍しい。一人がそうして公に動いたとなると、他の〈イ短調〉でも何人かが動き出すかもしれぬな」
考え込むように老人が腕を組む。その、わずか一拍後。コツッ──通路に、学園では聞き慣れぬハイヒールの音が響いた。
「正しい見解だ」
突然、ノックも無しに、会議室の扉が蹴り開けられる。
「......ほう。噂をすればとはよくぞ言ったものだ」
老人が見据える先。そこに──黒のシャツの上に、白い研究服を羽織った女性がいた。その胸元にはケルベルク研究所本部の名が刻まれた金属板。全体的に質素な装いの中、真紅のハイヒールだけが奇妙なほどに目立つ。
招かれざる来室者。だが彼女の来訪に苦言を呈する者はいなかった。
「一つ訂正するならば、『動き出す』ではなく『既に動き出している』だ。もっとも現時点において、私が動きを把握しているのは大特異点と歌后姫だけだがな」
にやりと、彼女がこちらを見つめてくる。
「......珍しい。あなたが研究所から出てくるとは」
やれやれ。意味ありげな視線につられ、ミラーは肩をすくめてみせた。
「久しぶりだなミラー、去年の研究交流会以来か。はは、相変わらず顔色が悪いな。実に結構、読書を怠っていない証拠だ」
「あいにく自分の顔色が悪いのは、今回の対策会議の準備による寝不足が原因ですよ」
「それも結構。研究者というのはそうでなければな」
まったく、相変わらずの変わり者だ。重大な会議途中と分かっていてなお、ミラーは苦笑の息を零してしまった。
「お初にお目にかかる、ゼア・ロードフィル学園長。この度はうちの関係が迷惑をかけた。所を代表してお詫び申し上げる」
扉から離れ、学園を束ねる老人の前まで歩いていく女性。自分の倍はあるであろう年齢の相手に対し、物怖じする気配すら無い。
「いや、それには及ばない。お互い様という奴だ」
一方で、いつになくゼアの言葉に力がこもる。気を悪くした様子はない。無骨ながらも小気味よい──そんな印象を持つ彼女を老人が真正面から見据える。
「サリナルヴァ・エンドコート殿とお見受けするが」
「まさしく。そして、自分の研究以外には興味がない私だが、それでも貴殿のご高名は伺っている。ゼア・ロードフィル、かつての競闘宮の覇者殿」
にやりと、その狂科学者は唇の端をつり上げた。
「しかし堅苦しい挨拶はここまでにしよう。互いに時間が惜しい。単刀直入に、情報交換といかないか?」







......そう言えばあの人、学園長室に何の用事だったんだろう。
「ネイト、どうしたの?」
窓辺でぼうっと総務棟の方向を眺めていると、その真横から緋色の髪の少女が覗きこんできた。
「......ちょっと不思議な人と会いまして」
「だれ?」
「えっと、初めて見た人なのでたぶん学園外の人だと思います。......色々訊かれた挙げ句、ある意味誘拐されました」
ネイトはがっくりと肩を落とした。おかげで人生初の遅刻だ。
「いやいや、いいんだよネイティ」
自分の背中をばんばんと叩き、なぜか嬉しそうにサージェスが声を上げる。
「人はそうやって大人になるんだから。言い訳なんかせず、男の子なら潔く『寝坊しました』って答えるのが王道さ」
「ち、違いますって! ......本当なんですよぉ」
「ほぉ。ちなみに、どんな人だったのかな」
明らかに信じてない目の彼女。
「絶対知らない人だと思いますけど......たしかサリナルヴァって」
それを言った途端。
「ぶはっ!」
その様子をぼんやりと眺めていたエイダが、飲みかけのスポーツドリンクを吐き出した。
『うわ、エイダってば汚い!』
慌てて飛び退がるクルーエルとサージェス。
「......あぅ、ごめんごめん。いきなり変な名前を聞かされたもんでさ......そっか......あいつが来たわけね」
ぼんやりとした表情から一転、エイダが視線を鋭いものへと変える。夏期休暇の研究所で見た、祓戈を振るう時の表情にも似た鋭さへ。
「......あれ、エイダ知り合い?」
「親父の知り合い、ね」
疑問調に呟くクルーエルに、エイダが肩をすくめてみせる。
と。教室の扉が開き、担任の女性教師が息を切らせて入ってきた。
「さっきはごめんなさい、話途中で抜けちゃって。臨時の会議がようやく終わったの。みんな席についてもらえるかしら」
他クラスの教師に呼ばれ、一度は職員室へ戻っていたケイト教師。すぐ戻ると言い残していたものの、教師が再び顔を見せるまでは優に一時間を要していた。
「みんな、ごめんなさい。登校してもらったばかりなのだけど」
教師が頭を下げる姿に、教室中がざわりと沸きたつ。そのざわめきが鎮まるのを待って、その担任教師が口早に告げる。
「私、またすぐ会議に出なくちゃいけないの。多分今度は三十分もかからないと思うけれど......みんな、その間に念のため帰り支度をしてちょうだい」
......え?
教師の告げてきたものは、あまりに異例の内容だった。
「センセ、どういうこと?」
呆気にとられた表情で首を傾げるサージェスに、ケイト教師は口早に伝えてきた。
「さっき伝えた不審事件の関連で、今から学園の運営委員会で採決が行われるの。どちらに転ぶか半々だけど......場合によっては本日正午より、トレミア・アカデミーの校舎区域を全閉鎖します。だから、今すぐ下校の準備に取りかかって」







総務棟、学園長室。来賓用のソファーに足を組んだ姿勢で腰掛け、〈イ短調〉の女性は気難しげな表情で呟いた。
「Lastihyt......名詠の研究に携わる上で私も聞いたことのない単語だ。カインツが探していたということからも、人名である可能性が高いとは思うが」
その単語が発見されたのはケルベルク研究所フィデルリア支部。沈黙した研究所に残っていた、謎の血文字だ。
「それが灰色の名詠生物たちが巣くう研究所にわざわざ残されていた、と。そちらの話を聞く限り、状況からすれば犯人が残した物と思って間違いなさそうだが」
「〈イ短調〉では何か摑んでいないのですか?」
学園長、そしてその女性の手元にティーカップを運び、エンネは部屋の端に佇立した。
部屋にいるのはわずかに三人。本来いるはずのジェシカ教師長が別件で動いているため、急遽自分がこの席に参加することになったのだ。
「あいにく、まだ各人が好き勝手やっているというのが現状でな」
こちらに向かい、お手上げといった様子で手を上げる女性研究者。足並みが揃っていないわけではない。〈イ短調〉を構成する十一人、それぞれが自分の流儀に沿って動いているからだ。
「現時点で〈イ短調〉間の情報伝達を担っているのが歌后姫、我らがクラウスは祓名民の方に情報を回しているらしい」
現時点で、灰色名詠に対し最も相性が良いと思われるのは名詠五色ではなく反唱。それに特化した祓名民を大量動員させるのは正しい判断だ。
「......そう言えば」
気難しげに唸り、学園長たる老人が顔を持ち上げる。
「カインツはどうしたのかな。〈イ短調〉の中でも、あやつは特に独自色が強いと聞いているが」
競演会で我が学園を訪れた虹色名詠士。彼のその後の情報はエンネだけでなく、学園長の方にも伝わっていないらしい。
「あいつは放浪癖がある上に秘密主義。独自の情報網をこっそり作ってあるらしいが、詳しいことは私も知らん。ま、今回については事の重大性を理解しているようだし、あと一週間少々もすればまた顔を合わせることになるさ」
苦笑気味に手を振る女性。
「ふむ。〝大特異点〟については?」
「ん? ああ、あいつは......」
老人が挙げた名に、サリナルヴァが身を起こす。
「犯人が襲撃した場所を逐一洗い直すらしい。ただ、狙いは調査じゃない。犯人が仮に、その現場に重大な手掛かりを残したとする。犯人が慌てて現場に戻ったところを、あいつは返り討ちにする気なんだろうな──もっとも、その返り討ち云々については私の勝手な憶測だが」
押し殺した笑い声を洩らす研究者。半ばふざけた口調の女性に対し、だが老人は鋭利な視線を崩さなかった。
「だが......あの男ならそれができるだろう。祓名民の首領クラウスと並ぶ、〈イ短調〉の二雄にして現代の二強だ」
老人の言葉に昂ぶりが混じる。
〈イ短調〉第二番〝大特異点〟──ネシリス。
こと決闘に際し、他の名詠士の追随を許さない圧倒的な超越者。
「とはいえ、正直期待はできない」
紅茶の入ったティーカップを口元にあてたまま、サリナルヴァ。
「今回の度重なる不審事件を起こした犯人だが、相当に頭が切れると見て間違いないだろう。灰色名詠の力押しはごく一部に控え、逃走ルートや移動手段を未だ摑ませていない。わざわざ現場に戻るような真似もするまい」
「......ふむ」
「現時点において警戒すべきは、三年前までフィデルリア支部の助手をしていた謎の老人。〈孵石〉とやらを精製した後に突然姿をくらます。これはあまりに不自然だ」
と、言いたいところだが──言葉半ばで、彼女は視線をこちらに向けてきた。
「しかし、その老人は犯人ではないのだろう?」
彼女の視線に合わせ、エンネもまた首肯で返した。
フィデルリア支部研究所の、石化治療を終えた研究員から既に証言はとれている。犯人を目撃した人物もいたが、その報告は『旅人風の装束をした大柄な人物。頭から爪先までを隠していたせいで、顔を見ることはできなかった』とのこと。問題となる老人は背が低かったという研究員の記憶により、犯人像とはどうやっても合致しない。
「......少し、状況を整理してみよう」
目頭を指で押さえ、研究者がソファーに寄りかかる。
「まず各研究機関や学校に何者かが侵入、触媒の保管庫を荒らしている。現場には灰色名詠にやられたと思しき石化した被害者。石化から回復した彼らの証言によると、『犯人は旅人風の装束で、頭から爪先までを隠している』。ケルベルク研究所のフィデルリア支部ではこれに加え、灰色の〈孵石〉が残されていた」
しかしこの灰色の〈孵石〉は他の五色と異なり、ケルベルク研究所の精製記録に存在していないことが調査で判明済み。つまり、犯人側が独自に作ったということも考えられる。だとすれば、名詠だけでなく触媒調合技術にも相当長けた相手だ。
「その〈孵石〉の原型を作ったのは、三年前までフィデルリア支部で助手をしていた老人。三年前の時点で突如姿をくらました。この老人がLastihytという名かどうかは不明。カインツが老人を探していた理由も不明──これについては、後日私が問い詰めておく」
老人は犯人ではない。だが犯人と関係が無いとも考えづらい。犯人の目的と、助手が〈孵石〉を精製した理由。せめて......三年前、助手が姿を消した理由と、その後の動向が分かれば。
......ただ、それを知る人間がこの世界のどこにいるのだろう。
「結論としてだ。事態の真相は、いまだ我々の手の届かない深淵にある。......ゼア学園長、これは私の勝手な推測だが」
口元に薄く引かれた紫の口紅に爪先で触れ、サリナルヴァが視線を老人へと戻す。
「遅かれ早かれ、犯人はこの学園にもやってくるぞ」
最初の被害を受けたケルベルク研究所支部。〈孵石〉がそこからトレミア・アカデミーへと譲渡されたというのは、もちろん内部機密。ただし、ケルベルク研究所支部でもそれについての内部報告書は作成しているはずだった。あの支部一つを丸々落とした犯人が、万一その報告書を目にしていたならば──
「......その可能性は承知している。だからこそ、こうして調査委員会との協力、会議を開いている」
老人の返答を予想していたのか、彼女の表情に変わりはない。
「ならばいっそ、徹底した方がいい。なにせこの規模・この生徒数だ。犯人の出方次第で、ケルベルク研究所支部で起きたものより凄惨な事故が発生しないとは言い切れん。この学園は学外の人間も割と出入りしているようだが、それは犯人の侵入を容易にさせる」
......まさか、それはつまり。
「行うべきは学園の一時的な全閉鎖だ。それで犯人を炙り出す」
淡々と彼女は告げてきた。
そして、その直後に開かれた臨時の運営委員会にて──
トレミア・アカデミーにて異例となる、学園全閉鎖及び、全生徒の自宅への避難指示が採択された。
3
「授業は短期休業。先生は会議中。自宅が近い者は全員自宅待機、寮生は寮内の敷地から出ないこと。で、校舎等は全閉鎖......か。これはまた物々しいわね」
つい数分前教室で配られた連絡用紙。その字面をぼんやりと眺め、クルーエルは顔をしかめた。学校の一時閉鎖。これではまるで、この学校に一連の事件を引き起こした犯人がやってくるような警戒ぶりではないか。
「午前中一杯で、教室も閉まっちゃうみたいですね」
学生寮への帰り道。鞄を両手で抱え、ネイトがぽつりと言ってくる。
「ん~、でもさ、夏休みが増えたみたいであたしはいいなぁ」
のほほんと、いつもの穏やかな口調でミオ。
「......そう?」
「......そうですか?」
自分、それに続いてネイトがあからさまに呆れ顔。しかしそれに気づいた様子もなく、この友人は手提げ鞄を勢いよく振りだした。
「そうだよぉ! 臨時の休校なんてワクワクするじゃん!」
あろうことか、目をキラキラさせて飛び跳ねるのだから始末が悪い。
──緊張感ゼロなのね。
どう応えて良いか分からず、クルーエルは視線を宙に泳がせた。
だが今回に限っては、ミオがとりたてて特別なのではなかった。あのフィデルリア支部で起きた事件を詳細に知る生徒は、自分を含めてわずか三人。それ以外の生徒は、不審事件と言ったところで具体的なイメージが描けるはずもない。恐怖心も湧かないのだ。
......うーん、どうしよう。あの時の出来事を逐一教えようとしても、自分は上手く言葉に表せる自信がない。下手に煽っても逆効果。そもそもミオに教えた途端、お喋り好きな彼女はきっと、学園中にそれをばらまいてしまうだろう。そうなれば、わざわざ不審事件とし、詳細を伏せた意味が無いわけだ。
「ねえねえ、せっかくだからクルルの部屋でお泊まり会しよう!」
そんな自分の葛藤をつゆ知らず、その友人が腕に摑まってきた。
「......え」
「他のクラスの子もやってるらしいよ。サージェスとエイダのとこも、クラスの子呼ぶらしいし」
にこりと、満面の笑みを浮かべるミオ。
──やられた。生徒が自宅への帰路を急ぐ中、なぜこの友人は寮の方へついてきたのか。多少なりとも疑問を持つべきだった。
「えへへ。あたしの家、親が丁度外行っててさ。家に帰っても暇なんだよね~」
「......あのねえ」
「よし、学校の購買まだ午前中はさすがに開いてるよね。そうと決まればお菓子とジュース買ってくる! 夜は騒ぐよ~!」
「ちょ、ちょっとミオってば!」
あっという間に走り去る友人。こういうときだけ、彼女はやけに足が速いのだ。
ほら、ネイト。キミも黙ってないでミオの説得に協力しなさい。
肘で隣の少年を突く。が、どうにも反応がない。
......ん、ネイト?
彼は自分たちの進行方向を真っ直ぐ見つめたまま、ぼんやりと口を開けていた。その視線につられ、クルーエルもまた正面に向き直る。
「やあ少年、また会ったな」
目の前、研究服姿の女性が片手を軽く上げていた。濃緑色の髪と瞳をした長身の女性。白衣に身を包んだ外見の中、真紅のハイヒールが異様に目立つ。
「ネイト、知り合い?」
「ええと、今日の朝、ちょっと道案内をしてあげた人です」
ああ。さっきネイトが言っていたのはこの人か。
「うむ。あの時は世話になった。そう言えば、急いでいたのでろくに挨拶もできなかったからな。改めて名乗ろう、私はサリナルヴァ・エンドコート。ケルベルクという研究所の本部副所長を務めている」
──ケルベルク研究所?
彼女の口にした単語に、クルーエルは眉根を寄せた。フィデルリアでの臨海学校において、灰色名詠の罠が仕掛けられていた研究所ではないか。
「その副所長が、なぜここに?」
「あいにくと特殊事情でな。多くは言えん」
クルーエルが内心の疑問を口にするも、その研究者は大げさに空とぼけただけだった。
......大っぴらに言えないって、どういうことだろう。
この相手が完全に信用に足る相手なのか。クルーエルが警戒したのはその点だ。
フィデルリアで罠として設置してあった灰色の〈孵石〉。その犯人は未だ不明。単独か複数か、それすら明らかになっていないのだ。ケルベルク研究所の人間で、犯人側の者がいたとしても何らおかしくない。
──ならば。
「それはもしかして、卵形の触媒関連ですか」
「......ほぅ」
ゆらりと、見つめてくる彼女の視線に棘が混じった。
「一介の名詠学校の生徒がその実、想定外の情報を有している。興味深い対象だな。お前、何をどこまで知っている?」
やっぱり、〈孵石〉関連に間違いなさそうだ。
「なぜここに来たのかも言えない人に、わたしだってそれを答える義理はありません」
「まあそう嚙みつかないでくれ。研究所の副所長として、その卵形の触媒について調べに来ただけだ。......もしや、そちらの少年も同じ情報を保有しているのかな」
──ネイト、駄目よ。視線だけで隣の彼を押しとどめる。
「......やれやれ、警戒されているなぁ」
後ろ頭を搔く女性研究者。
「とはいえ気になるのも事実だからな。さて、どうしよう」
「──そりゃ、サリナが怪しいからだっての。ま、クルーエルの言ってるのも噓じゃないけどね。〈孵石〉に関しては、あたしたちも何が何だか分からないわけだし」
その声は、自分たちのさらに背後から聞こえてきた。
「エイダ?」
「安心していいよクルーエル。この人一応、あたしの知り合いだから」
日焼けした小柄な少女。自分たちより先に教室を出ていったから、とっくに寮へと帰っているかと思っていたけれど。
「おっ、誰かと思えば全自動暴走娘じゃないか。相変わらず背が低いな」
「......訂正。知り合いじゃなくて、赤の他人」
げんなりした様子で言ってくるエイダ。
「まあそう言うな暴走娘。しかし良い所に現れた。見たところ、この二人は暴走娘のクラスメイトか何かか?」
「暴走暴走言うなっ! あたしが暴れたのは『実験台発見!』とか言われて、誰かさんとその手下研究者に怪しげな薬を飲まされそうになったからだろ!」
「はっはっは......あれ、なんのことだっけ?」
「あああああっっっ、むかつくぅぅ!」
癇癪玉が破裂したのか、金切り声でエイダが叫ぶ。
「──あのさ、エイダ」
冷めた目で見つめると、ようやくこのクラスメイトは落ち着きを取り戻したようだった。
「......んと、こっちのちび君がネイト。で、今あんたが興味深いとか言ってたのがクルーエル。二人とも、あんたの研究所の不始末を知ってる子ね」
「ほう、暴走娘以外にも何人かの生徒が関与していたという話は聞いていたが」
......どういうことだろう。
「エイダ、ケルベルク研究所の副所長がなんであなたの父親の知り合いなの?」
事情が摑めず、クルーエルは隣にいる彼女にこっそり耳打ちした。
「んと、この前の臨海学校でちび君には言ったことあったんだけどね。あたしの親父が作った一つの集団があるの。一般には〈イ短調〉って呼ばれてる。たった十一人なんだけど、その中にはカインツ様とかも入ってたりするわけ。で、この人がその一人なの」
たった十一人から成る組織。その中で、あの虹色名詠士と共に活動する人間?
クルーエルもじっと彼女を見つめたものの、身に纏う雰囲気がやけに豪放なせいか、どうにも彼女に対しては「偉大」という印象を持ちにくい。
「カインツさんとお知り合いって......すごい人なんですね」
ぽかんと口を開けるネイトに対し。
「......まあ確かに凄いっちゃ凄いんだけどさ」
頭を搔き、そう言ってきたエイダは露骨に表情をしかめていた。
「〈イ短調〉が学園に来るのは薄々そんな予感はしてたんだ。〈孵石〉絡みで一事件起きてるからね。あたしとしてはカインツ様が来るといいなぁとか思ってたんだけど、まさかこの変態科学者が来るとは思わなかった......まあ、あれだ。一言で言えば──ハズレ」
「聞こえてるぞ、暴走娘」
気分を害した様子もなく、彼女が片眉だけを器用につり上げる。かと思いきや、その当人は自分たちから背を向け、やおら校舎の方向へと歩きだしてしまった。
「ん? どこいくんだサリナ?」
「散歩だよ。まずはこの学園の位置取りを把握しないとな。昨晩は正門近くの芝生で網を張っていたが、さすがにあそこは犯人からも目立つ。もっと効率的な場所を探す必要があるらしい」
片手を上げたまま、総務棟の方角へ去っていく彼女。
「......ったく、相変わらず変わった奴」
溜息をつくエイダ。その様子を眺め、クルーエルは自分が抱いていた疑問を思い出した。
「ところでエイダ。ミオから聞いたわよ、今晩からクラスの子呼んでお泊まり会なんか開くって本当?」
フィデルリアでの臨海学校。自分とネイト、それにこの少女は研究所での灰色名詠を目の当たりにしている。よもや、この事態にそんな悠長な真似はしないと思っていたのだが。
「......ああ、それは成り行き上仕方なくってとこ。ちょっとこっちも事情が特殊でさ」
すっ、と、前触れ無くエイダが自分の隣に立ち並んできた。
──今夜零時。女子寮一階の裏庭に来て。
え?
聞き返す間もなく、すぐさま自分と距離を置くエイダ。
「じゃ、そういうことで。またねクルーエル、ちび君も早めに帰りなよ」
「ま、待ってエイダ──」
何度呼びかけても、そのクラスメイトは「また後で」と繰り返すだけだった。
三奏 『好い夜だと思わないか ──Kluele Sophi Net──』
1
普段と変わらぬ夜の時が、教師控え室に流れていた。
微風に混じる虫の声。湿った風がカーテンを揺らし、机上の書類を微かに持ち上げる。そう、学園の一時閉鎖という異様な状況がまるで噓のような、静かで落ち着いた夜。
「はい、どうぞ」
ふと、目の前に淹れたての紅茶が入ったティーカップが差し出された。湯気に混じり、香草の爽やかな香り。それと別にふわりと香る甘い匂いは、砂糖ではなく蜂蜜か。
取りかかっていた書類から、ミラーは四時間ぶりに顔を持ち上げた。
「......エンネ?」
「根を詰め過ぎよ。休んだ方がいいわ」
カップに紅茶を注ぐ同僚の女性教師。その瞳は、苦笑とはどこか違う一抹の憂いをたたえていた。
「......なんて一応言ってみたけど、そう言ってもあまり効果はなさそうね」
「状況が状況だからな」
ティーカップを持ち上げ、ミラーは淡々と応えた。
「この香草、自家栽培だっけか」
「ええ。疲れた時にいいかなって。あと、ミラーは甘いの平気だから蜂蜜もちょっとね。......甘すぎた?」
「俺には丁度いいよ。ゼッセルなら甘さで失神してるところだけどな」
砂糖一つまみにでも拒絶反応を起こす幼馴染み。そう言えば、あいつの姿が見えないのは珍しいな。
「ゼッセルなら学園長とジェシカ先生の付き添いで出張。近隣の名詠学校の関係者同士で、対策会議。今頃到着した頃かしら、きっと夜通しで会議になるでしょうね」
「どうりで静かだと思ったよ。あいつがいたら調べ物も落ち着いてできやしない」
すると。何が楽しいのか、エンネが愉快げに口元に手をあてた。
「言付けを預かったわ。『ミラーの奴、どうせ延々調べ物に取りかかってるはずだから、俺の代わりに適当な所でドクターストップかけてやってくれ』──だそうよ」
「......ナンセンスだ」
ティーカップを置き、ミラーは椅子の背もたれに寄りかかった。ギィッという音を立て、木製の椅子が悲鳴を上げる。
「幼馴染みと書いて腐れ縁と読む、だものね」
くすりと、口元にエンネが手をあてる。
「否定はしないさ。......ところで何をしてるんだ」
部屋の脇に立てかけてあった折り畳み椅子を組み立て、そこにすわるエンネの姿。今まで気づかなかったが、その小脇に栞の挟まった本まで。
「読書。読みかけの本があるのよ」
「ここでする必要はないだろう」
「どうせ徹夜するんでしょ? 付き合ってあげる」
にこりと、穏やかな表情で告げてくる彼女。教師仲間だから、ではない。その笑顔は、自分とゼッセル、幼馴染みの間にだけ彼女が見せる無邪気な笑顔だった。
──やれやれ。
言い返す言葉が見つからず。
「......揃いも揃って、ナンセンスだ」

ぼそりと、ミラーは独り言のように呟いた。
2
三階建ての非木造建築。部屋数五十、うち一人部屋が二十二、二人部屋が二十八のため入居者総数は七十八人。
寮の構造上、一年生は最上階。二年生と三年生が二階、最上級生が一階の部屋を与えられている──これが、トレミア・アカデミー女子寮の基本的な概説だ。
その寮の最上階、とある一部屋で。
「はい、王手~」
お菓子を左に持ち、ミオがもう片方で盤上の駒を動かした。しばし盤上の流れを確認、脳裏で数手先を考えられる限り想定したものの。
「......う、投了」
あえなく、クルーエルは白旗を揚げることにした。クラスにおける盤ゲームランキング一位と二十九位。その差はあまりに歴然だった。
「あー、だめだめ。勝てる気がしないよ」
元々、頭使うゲームは苦手なのよね。悔しさ混じりのぼやきを残し、駒をさっさと片づけていく。
「あれ、もう片づけちゃうの?」
「十分やったじゃない」
「うん、じゃあ次は何する何する? 購買でミニゲームとか手品セットとかも買ってきたからね。夜はまだまだこれからだよ~!」
どうもこの友人は本気で遊びに耽るつもりらしい。彼女の背後には、まだ手を付けていないゲームの山が堆く積まれたままだ。
「......えっと、そうね」
壁の時計をちらりと見る。夕食を終えた時はまだ時間があると思っていたが、エイダと約束した時間がそろそろ近づいてきていた。
──女子寮、裏庭。
位置としては女子寮の裏側だ。ロビーを出てすぐ、女子寮を回り込むように裏手へ回る。外の公道も歩くことになるので、さすがに寝間着で行くわけにもいくまい。
「ミオ、わたしちょっと用事思い出したんだけど」
「用事って?」
「大したことないからすぐ戻るよ。少しだけ外出ることになるけど」
「え~、外? 出歩くなって言われてなかったっけ。それにこの寮って、夜間の外出は原則禁止じゃなかった?」
ぽかんとした面持ちで首を傾げるミオ。
「ずっとうろつくわけじゃないから平気よ。こっそり行ってこっそり帰ってくるから。すぐ戻るけど、その間にお風呂入っててくれるかな」
ミオは割とお風呂早いけど、さすがにそれまでには帰ってこれるよね。
「わかった~。なるべく早く帰ってきてね」
「うん。じゃ、少し留守番頼むわね」
軽く手を振り返し、クルーエルは外の通路へと足先を向けた。







暗い夜、暗い天井に向けて寝返りを打つ。
──眠れなかった。
小さなベッド。毛布にくるまるように、だがそれでも、視線は天井を見上げたまま。
今日の朝の、何気ない一言。それがネイトの頭から離れなかった。
〝なぜ夜色なんだ?〟
〝名詠式の常道に添うならば、既存の白に対し黒が妥当。なのに、なぜ黒ではなく夜色という名を冠しているんだ〟
黒ではなく、夜色名詠式という名であるための理由。そうでなくてはならない理由。
......僕も知らない。
この世界に草花が芽生え、動物が息し、大陸の端に海がある。その存在に疑問を呈するかのような、それ自体の意義を問うことにも似た──あまりに根本的な問い。
母との約束を守りたい。夜色名詠式を使いこなせるようになりたい。ただそれだけを一途に望み、今こうして名詠学校にいる。だからこそ、その名の由来なんて逆に悩むことすらなかった。悩む余裕すらなかったからだ。
「......いつか分かるのかな」
独りだけの部屋。その呟きに応えてくれる相手は、いない。
〝お前の母親が黒ではなく夜と名づけたからには、それ相応の理由があるとは思うのだが、どうかな。それこそ、決して黒であってはいけないという程の。夜色という名を冠さなければならない理由が〟
──あるいはそれは、立ち入ってはいけない領域だったのかもしれない。
悩めば悩むほど、迷いの螺旋を落ちていくような。求めれば求めるほど、出口無き回廊の奥へと進んでいくような。そのことに囚われるあまり、いつしか前を向くことを忘れてしまう可能性さえ、潜んでいるようで。
「でも......知りたいよ」
その言葉は、先より幾分強く、部屋の暗がりにこだました。
夜色名詠という『名』に、母が何を望んだのか。その理由が分からない限り、夜色名詠式は習得できない。そんな気がするからだ。
でも、誰なら知っているだろう。誰なら、相談に乗ってくれるだろう。
〝言いたいことは山ほど、それこそ伝言にしきれないくらいある〟
〝だから、それを言わせるためにも我をもう一度詠べ〟
──二人きりの屋上。いつも一緒にいてくれる少女から聞かされた、その伝言。
「......もう一度」
夜も、朝も、ずっと一番近くで自分を見ていてくれた、夜色の名詠生物。
「ねえ、アーマ」
ゆっくりと、ベッドの上で、ネイトは上半身を起き上がらせた。
静かな夜。
〝なぜお前の母が我に訊けと答えたのか、その理由を見出せば自ずと分かる〟
わずかに開いた窓。そこから入り込むすきま風が、窓際のカーテンをそっと撫でる。
「......アーマは、その答を知ってるの?」
3
風に煽られ、足下の雑草がさらさらと泣く。外は、思った以上に強い風が吹いていた。
なびく髪を手で押さえ、クルーエルは女子寮の裏庭へと続く石畳を歩いていった。
夜間は閉じているはずの、格子状の柵。叩きつけるような風にキィと錆びついた音を立てるそれは、自分がここを訪れた時点で開いていた。
「......エイダ、もう来てるのかな」
裏庭へは、女子寮の表玄関からぐるりと迂回する必要がある。裏庭と言っても実際は、拓けた場所に延々と雑草が生えているだけ。元々はその場所も、女子寮の建物の建築スペースだったと聞く。そのためか、裏庭を訪れる者は普段から滅多にいない。この閑散とした場所を訪れた回数は、自分とて今まで片手の指で数えきれる程だ。
外灯の光すらこの庭へは届かない。暗闇に目を慣らせるように、クルーエルはゆっくりと裏庭の中央へと歩を進めた。
「お、時間ぴったし」
暗闇の中、誰かが片手を振るシルエットが覗く。姿こそ朧気だが、その声は自分のよく知るクラスメイトのものだった。
──『Keinez』──
静かに、クルーエルは左の手のひらを開いていった。
ゆらりと宙を浮かぶ、照明代わりの赤い灯。
「ちょっ、眩しいってば! 灯り出すならそう言ってよ!」
その光に照らされ、目を細めるエイダの姿があった。
「......あ、ごめん。そんなに眩しかった?」
「あたし、さっきからこの暗さに慣れてたからね」
光を直視しないよう顔を逸らし、最寄りの木立に彼女が寄りかかる。
「エイダ、その肩にあるのって」
その肩に結わえられた、彼女の身長より長い鎗。確か、祓戈と言ったか。でも、なぜそんな物を?
「......ああ、ちょっと警戒中でね」
「警戒?」
「うん。で、これはあんたをわざわざ呼んだ理由とも関係あるんだ......でもその前に」
寄りかかっていた木から身を起こす彼女。日焼けした指先で、自分が詠び出した灯りをエイダは示してきた。
「それ、なに?」
「......えっと、熱妖精。白色名詠に光妖精っていうのがいるって聞いたから、他の色でもそういうのあるかなって先生に訊いてみたの」
それは、実はつい昨日のことだ。思い立ってすぐ職員室を訪ねたところ、教師長のジェシカ教師がそれを教えてくれた。
「あたしの白色名詠だと確かそれ第三音階名詠なんだけど、その熱妖精も同じかな」
浮遊する名詠生物を興味ありげに見つめるエイダ。
「うん、確かそうだと思う」
「へえ。クルーエル、あんた最近やたらすごいね」
「すごいって、何が?」
「夏休み前の競演会、あたしあんたの見てたけど、あの時はまだ普通だった。だけど──この前の臨海学校で詠び出したのは、あれは真精でしょ」
黎明の神鳥。真精と呼ばれても、どうも自分の中では他の名詠生物と区別がつかない。それほどまでに、自分にとっては身近に感じる相手だ。
「そして今も第三音階名詠を、〈讃来歌〉を詠わないで名詠できるなんて。生徒じゃそんな子滅多にいないよ」
......そんなに、すごいことなのかな。
自分の手をまじまじと見つめ、クルーエルは首を傾げた。だって、学校の先生なら誰でもできることじゃないか。自分なんてまだまだ拙いと思うんだけどなぁ。
「でも今ね、すごく調子が良いみたいなの。それは感じるかな」
「調子が良いって......あたしらから見れば、そんな簡単な理由だけじゃない感じだけど」
理由。たぶんそれは。
「──今は、少しだけ名詠式が好きになったかもしれない」
「好き?」
うん。好き。
憑きものが取れたように、今はすごく心の中が澄んでいる。
「臨海学校の時もそうだったけどね。ミオとかネイトとか、本当に一生懸命頑張ってる。それを見てさ、わたしだって何かしたいなって思ったの。自分の名詠が誰かの役に立つなら、わたしにできることはしてあげたいって」
「......ま、あんたが納得してるならそれでいいんだけどね。名詠式が上達したってのは、悪いことじゃないわけだし」
はにかみ気味に頭を搔くエイダ。
「それに──その方があたしとしても助かるわけだ」
それってどういう意味だろう。
そう訊ねるより先、言葉ではなく、彼女はその双眸で答えてきた。鋭い──いや、睨みつけると言った方が適切なほど研ぎ澄まされた視線。
「クルーエル、今日、先生たちが生徒を強制的に帰らせたよね」
「不審事件、でしょ」
そう。それもあの灰色の名詠と関わりがあるような。
「不審事件──確かにそうなんだ。おそらく先生たちは、この学校も近いうちにその不審事件と同じ現象に巻き込まれると予想してる。でも──」
背中に結わえていた祓戈を握り、エイダがふっと夜空を眺める。
「......でも、違うんだ。近いうちなんて悠長な問題じゃない」
風の出てきた夜。流れる黒雲を眺め、彼女は続けてきた。
「この学校には既に、得体の知れない何かが侵入していた形跡がある」







「クルル、遅いなぁ」
テーブルに突っ伏した格好で、ミオはぼそりと呟いた。普段はのんびり時間をとる入浴時間も、友人を待つため早めに切り上げた。なのに、友人が外に行ってからとっくに半刻は経過している。
「......すぐ帰ってくるって言ってたのにぃ」
読みかけのミステリー小説をさらさらとめくる。が、今だけは本の内容がろくに頭に入ってこなかった。眠気? 違う。
──クルル、何かあったのかな。
少しだけ、不安だったのだ。朝にクラスの担任教師から聞かされた謎の不審事件。そして、生徒への自宅待機指令。これ自体は、ミオにとってはあまりに突飛で緊張感の湧かぬもの。ただ、やはり友人の帰りが遅いとなると話は別だ。
「......どうしよう」
帰ってくるまでの留守番を任されているのは事実。だけどちょっと、ちょっとだけ探しに行ってもいいかな。
玄関の扉がノックされたのは、その時だった。
クルルっ、帰ってきた?
はやる気持ちを抑え、慌てて玄関まで駆け寄る。
「クルル?」
だが、聞こえてきたのは。
「......ん? ミオ?」
ややハスキーがかった少女の声だった。クルーエルではない。だけど教室でさんざん聞き覚えのある声だ。
「サージェス?」
「ご名答。ていうか、開けてくれない?」
「あ、ちょっと待ってね」
扉を開いたそこに、黒髪長身のクラスメイト。室内用のラフな服の上に、外出用の上着を一枚羽織った姿。
「おいっす。なんだ、ミオもクルーエルのとこに泊まってたのね」
「うん。ところで、どうしたの」
夜間、学生寮では原則として生徒の外出を禁止している。寮の生徒が、別室の生徒の部屋に行くのを含めてだ。
「いや......実はウチんとこでもクラスの子が泊まりに来ててさ」
「それは知ってるよ~。もしかして、はしゃぎすぎて『うるさい』って別の部屋から怒られたとか?」
「そこら辺は抜け目ないさ。ただ、さっきまでゲームしてて気づかなかったんだけど......エイダがね」
「エイダがどうかした?」
「一度トイレって言ってゲームから抜けた後、ずっと戻ってこなかったの。で、さっきようやくそれがおかしいって気づいたんだけど......どうやらエイダ、部屋の外行っちゃったみたいでさ。寮の中あらかた見て回ったんだけど見つからなくて、もしかしたら他の子の部屋に行ってないかなって」
部屋から出て行ったきり、中々戻ってこない。
──状況がクルルと似てる?
最初は小さかったはずの疑念が、渦を巻くように少しずつ肥大化していく。
「......あいつ、まさか寮の外行っちゃったとかないよね」
腰に手をあて、怪訝そうな表情で洩らすサージェス。
ラフな服の上に、外出用の上着。
「サージェス、もしかして外行って探すの」
「ん? ああ、まあちょっとだけね。寮の管理人には秘密ということで」
──決めた。
「あ、待って! あたしも行く!」
「あたしもって......ミオ、寝間着じゃん」
「制服に着替え直すからちょっと待ってて」
外に出かけていた二人が中々戻らない。もちろん、これは自分の思い過ごしかもしれない。だけど、取り越し苦労ならそれはそれで構わない。今はとにかく、友人が無事であることを確かめたかった。







「得体の知れないって......何よ」
ざわりと背中を駆ける悪寒に、クルーエルは肩をふるわせた。
一方で、エイダもまた首を横に振るだけだった。
「あたしにも分かんなかった。だけど研究所でやり合った灰色名詠の、更なる奥の手という可能性はある」
それが既にこの学校に侵入してきてる?
そして、エイダがその背に祓戈を携えているという事実。これはつまり──
「エイダ、もしかしてそいつと戦ったの」
「まあね。それも、学校の校舎とかじゃない。そいつがいたのはここだった」
顎で目の前の建物を指し示すエイダ。
その方向を目で追いかけ──
「......ここ、って女子寮じゃない」
「だから、そうなんだよ。その得体の知れないのがいた場所は」
女子寮? 学園の校舎でも資料館でもない、ただ普通の生徒が集う場所じゃないか。こんなとこに何かが襲いかかったって、何もないはずなのに。
「それの目的が不明だから、あたしも悩んでる。偶然いたのか何か目的があって女子寮なのか、それが見当もつかないんだ。さっきあらかた見て回ったけど、今は変な気配はしなかった。一度は追っ払ったからね。だけど、いつまたやってくるか分からない。......とまあ、長ったらしかったけどここまでが前置き」
祓戈を地に刺し、その祓名民が腕を組む。
「今、先生とは別にあたしも学校内を見て回ってる。だけどあたしが外に出てる時、どうしても女子寮が手薄になっちゃうんだ」
彼女の瞳が告げてくる意味を悟り、クルーエルは身体を強張らせた。
──女子寮を見張る役を、わたしに?
「そう。あたしからの最低条件は、〈讃来歌〉抜きである程度の名詠ができる生徒。この条件を満たしている知り合いは学校内にも何人かいる。だけど色々考えてみて、一番任せられそうなのがクルーエルなんだ」
「......でもわたし、決闘の練習なんてしたこともないよ」
何かに襲われた時、自分の名詠でそれを追い払うことができるのだろうか。
名詠士の中には、名詠式を使った決闘に身を投じる者たちがいる。多くの観客の前で、互いに実戦形式で実力を競い合う──競演会ならぬ競闘宮。名詠式の本来の趣旨から外れているという批判もあるが、実際競闘宮の王座につくことは大変な名誉とも言われている。大陸中央部の名だたる名詠専修校には、そのための実戦形式の講義もあるほどだ。そういったことを学んだ生徒なら、あるいはエイダの要求に応えられるかもしれない。
けれど、自分はそんな訓練などしたことがない。何かと戦うような名詠。土壇場で、自分にそれができるだろうか。
「確かにクルーエルは、名詠式を利用して何かと交戦するってタイプじゃないよ」
組んでいた腕をほぐし、どこかやわらかな表情をエイダが浮かべる。
「あんたは優しいし、性格的にも似合わない。そんな見せ物みたいな競闘宮じゃなく、たとえば人助けとか、もっともっと大切なことができるとあたしも思う。でもね」
眩しいものでも見るように、目の前の女子寮に対し祓名民は目を細めた。
「でもね、うちの学校の生徒って実は皆がそうなんだ。競闘宮みたいな場所で自分の腕を試したいって奴はそういう学校に行って、そうじゃない奴がトレミアに来てるわけだから。ちび君やミオ、クラスの連中を見てれば分かるだろ」
エイダの表情を見て、クルーエルはその真意を悟った。──だからこそ逆に、こういった状況に対応できるような生徒がいない。暗に彼女はそう告げてきているのだ。
「だからこそ、それを望む望まないにかかわらず、それができる奴がみんなを守ってやらなきゃいけないんだ。あたしとか、あんたがね」
──わたしにそれが?
「あんたには真精がいる。それも、とびきり優秀なやつが」
黎明の神鳥。歴史上において目撃された記録すら希有な、確認されている限り最も幻性度の高い真精の一体。
「祓名民としての経験も交えて言わせてもらうなら、第一音階名詠ってのはちょっと別格なんだ。同じ名詠式という括りではあるけど、難易度においても有用性においても第一音階名詠とそれ以外の名詠にはとんでもなく大きな差がある。名詠生物の力量で比べるなら、第二音階名詠で詠び出せる小型精命十体分に匹敵すると言っていい」
言語を解し、空を飛翔することも可能。競演会においては、飛びかかるキマイラをあっさりと撃退してみせた。──確かに、自分が扱える中では最も頼りになる名詠生物というのは疑いようもない。
「......とまあ、ここまで強引に言ってきたけどさ」
にわかに、クラスメイトの双眸に寂びた色が混ざった。
「あたしは昔から頑固親父にそういう訓練もさせられてきたから、守れる奴が身体を張れみたいな考えに染まりきっちゃってるわけ。......本当は、あまり強く勧められないんだ。危険なことを承知で頼んでる。最悪、この前の研究所みたく大騒動に巻き込まれるかもしれない。だから、答は今すぐじゃなくていいし、断ってくれてもいい」
一人でもやる。
言葉でも眼差しでもない、彼女の佇まいがそう告げてくる。
「......あのさ、エイダ」
胸の前に両手を添えた。
とくん、とくん──静かに刻を打つ心の音。それを聴きながら。
「......だいじょうぶ。わたし、頑張るよ」
クルーエルは、目の前の友人を見つめ返した。
「無理してない?」
「......うん、無理してる」
隠すことなく自分の胸の内を打ち明けた。
「本当は、ちょっと怖いよ」
競演会で身を以て知った。楽しい日常と危険は、本当に背中合わせでつながっている。キマイラに切り裂かれた肩の激痛。出血がもたらす目眩と嘔吐感。あんなのは、もう二度と味わいたくない。それは誤魔化しようのない本音。
──だけど。
それでもわたしは、あの時の自分の行動を、何一つ後悔していない。
「怖いけど、でも......わたしがみんなにできることがあるなら、してあげたいの。たとえそれが無理でも無茶なことでも、やり通さないと」
決めたんだ。みんなと一緒に、この学校で勉強するって。
ミオと一緒に部屋で騒いだりご飯を食べたり。クラスの子と話したり遊んだり。──彼の傍にいて、名詠の練習に付き合ってあげたい。
「ふぅん、じゃあ改めてお願いしちゃおうかな」
試すような視線で、じろじろとこちらを眺め回してくる彼女。
「うん、任せて! 何なら、わたしが学校を見回りに行って、エイダは自分の部屋でゆっくり寝ててもいいくらいだよ?」
試すような視線のエイダに、精一杯声を張ってみせた。強がりかもしれない。だけど、この気持ちは噓じゃないから。
「言うじゃん」
くすりと、普段の気楽な表情を友人が取り戻す。
「とにかく、これであたしも安心して校舎方面を見回りにいけるわ。頼むわよ、信頼してるけど気をつけて」
「エイダもね」
返事代わり、手に持つ祓戈をエイダが振る。その背が夜闇の中に消えて見えなくなるまで見送って。
──といっても、どうすればいいんだろう。
クルーエルは女子寮へと向き直った。女子寮でエイダが出会ったという謎の相手。やはり、自分も女子寮内を見て回った方がいいかもしれない。だけどその前に、一度部屋に戻った方が良さそうだ。なにしろ友人を待たせっぱなしにしている。
「......だいぶ遅くなっちゃった。ミオ怒ってるかな」
──あれ?
まぶたをこする。寮の三階、自分の部屋の照明が消えていたのだ。
「ミオ、もう寝ちゃったのかな」
なにしろ、エイダとの約束時間が深夜零時。ミオが睡魔に負けてもしょうがない時間だ。
まあでもそれなら、わたしもゆっくり女子寮を見て回れるからいいか。







「んー。やっぱり三階にはいないっぽいね」
女子寮一階ロビー。先に待っていたサージェスに向け、ミオは腕を交叉してバツ印を送った。
「こっちもだめ。二階と一階はそもそも廊下を歩いてる人すらいなかったよ。ま、この時刻だからそれが当然なんだけどさ」
同じく、サージェスが溜息。
「エイダもクルルも、女子寮にはいなそうだよ」
「しゃあない。少し外見てこようか」
──そんな会話を交わしたのが、数分前だった。
寮から校舎へと続く道の半ば、二股に分かれた分岐路でミオはサージェスと別れた。サージェスは一年生校舎と、その先にある学生食堂。一方の自分は学校の正門周辺と、芝生の空き地を見て回る手筈になっている。
「......風、強いなぁ」
轟と唸る風が鼓膜をゆらす。風鳴りのせいで、周囲の他の音が聞こえなくなるほどだ。
あえて一つ良い点を挙げるとすれば、風に吹かれ雲が運ばれていったせいで、頭上の星の瞬きがとても鮮明だということだ。朧気に光る月影すら、今はその光の筋が見えるほど。その輝きの下、突風に煽られなびく制服を押さえ、ミオは歩道を進んでいった。
「だけどさ、ここまで風がうるさいと、クルルが話してても聞こえないんだよねえ」
ぶつぶつと独り言。普段あまり声に出して言うことはないのだが、どうせ誰に聞かれているわけでもないし構わないだろう。
緩やかな下り坂。立方形状の石を両脇に積み重ねてできた正門が見えてくる。
斜面の上部からその一帯を、じっと目を凝らして凝視し──
「......やっぱ、誰もいないよね」
ミオはがっくりと肩を落とした。
「ま、すぐ見つかるとは思ってなかったからいいかぁ」
人影はおろか、虫一匹飛び交うこと無き夜。
......ん? ちょっとまって。
誰もいない? おかしい、そんな筈がないじゃないか。
慌ててミオは眼下の景色を睨みつけた。
人一人として存在しない正門周辺。自分の探す友人の姿が無いのは、これは許容範囲。だけどその正門のすぐ隣にある、警備員の宿直場にも人がいないというのはどういうことなんだろう。
宿直場の電灯は点いている。なのに、いるはずの警備員だけがすっぽりと抜けてしまっている。
「......どういうことなの」
冷えた唇に手をあて、黙考。
トレミア・アカデミーにおける防犯システムは、交代勤務制で全時間の警備を売りにしていたはず。常に最低一人、あの宿直場から顔が見えてないとおかしいのに。
学園内の巡回中? いや、でも何か腑に落ちない。これも、クルーエルやエイダが帰って来ないことと関係があるのだろうか。
立ち尽くす自分目がけ、下から風が吹き上げる。
同時、何かが顔目がけて張りついた。
「やっ、やだ。何コレ!」
慌てて顔の付着物を手で払い落とす。暗がりで良く分からないが......埃、それとも何かの燃え滓?
「......あぅ。髪にもついちゃってるよ。さっき髪洗ったばっかりなのに」
こんな時間にどこかで焚き火でもしているとは思えない。なんで、いきなりこんな物が風に乗って来るんだろう。
「......灰、かな」
払い落とす。さらさらと、崩れるように宙へ舞う灰。突風に巻き上げられ、その灰はさらにどこかへと、風に攫われていった。
「やっぱり、何か変だよ、変!」
自身に言い聞かせるつもりで、ミオは声を張り上げた。
よし、これで気持ちが固まった。
こうなればとことん、今日は夜の学校探検だ。







「......あれ、ミオ?」
部屋の中をぐるりと見渡し、クルーエルは友人の名を呼んだ。
エイダに言われた通り女子寮を一周。いい加減眠くなり部屋に戻ってきたはずが、その眠気は一瞬で焦燥感に取って代わられた。
先に寝ているかと思って覗いた寝室にいないのが最初。それから台所や居間はもちろん、トイレ、ベランダも隈無く。なのに部屋のどこを探しても、留守番をしていたはずの友人がいない。
「......どうしたの、ミオ」
居間に戻り、気持ちを落ち着かせるためソファに腰掛けようとし──その瞬間、クルーエルはその場で息を呑んだ。
寝間着が、ソファーに畳んで置いてあったのだ。代わりに、本来そこに畳んであったはずの制服が無い。つまりミオは制服にわざわざ着替え直した? なぜ?
と。部屋をノックする音。
「ミオ?」
一瞬、間を空けて。
「......ん、クルーエル帰ってきてたのか」
この声はサージェスか。
扉を開けてやる。ラフな服装の上に外着を羽織った彼女の姿。
「どうしたのサージェス、こんな時間に」
「それはこっちの台詞。こんな夜更けにどこをほっつき歩いてたのよ」
──なぜそれを?
反射的に身体を強張らせる。その様子に、彼女は立て続けにこちらを指さしてきた。
「ははーん。さては、ネイティと夜遊びでもしてたでしょ!」
あくどい笑みを浮かべる馬鹿一名。......だめだこれは。
「......ごめん、わたし疲れてるから突っ込む気力もないの」
「むぅ、つまらないの。どんな反応するか楽しみだったのに」
残念そうに首を振るクラスメイト。まったく、どんな反応を期待していたのやら。
「いや、そこはほら。顔を真っ赤にして『ち、違うのっ! ネイトとはそこで偶然会っただけなの!』的な展開を......って、クルーエル、なにその冷たい視線」
「冷たくないよ、ただ呆れてるだけ」
やれやれ、聞いてた自分が馬鹿だった。
「そんなことよりサージェス、なんでわたしが外行ってたって知ってたの」
「んと、うちのとこでもエイダがいなくてさ、さっき寮内の知り合いの部屋を探してたの。そうしてあんたの部屋来たら、あんたじゃなくてミオが出てきたもんだから、あれおかしいなって」
自分同様、エイダもこっそりと自室を抜け出して来たのだろう。他の友人を部屋に招いたのも、どさくさに紛れて抜け出しやすくするため。それ自体は、エイダの方でいずれサージェスにも打ち明けることだから問題ではない。現時点での気がかりは。
「そのミオよ。どこ行ったか知らない?」
「多分まだ外を探してるんじゃないかな。あの子、あんたが中々戻らないからって心配しててさ。あたしと一緒にちょこっと外出るってついて来たから。途中の分かれ道で別行動しよってことになったんだけど......ミオ、まだ戻ってないの?」
わたしを探しに、外を出回ってる?
自分の失態にクルーエルは臍をかんだ。迂闊だった。ミオの性格ならそれは十分考えられることじゃないか。留守番という遠回しな言い方ではなく、もっと直接的な言い方をするべきだった。
......いや、待って。つまりミオは、今一人で外に行ってるの?
〝この学校には既に、得体の知れない何かが侵入していた形跡がある〟
エイダの言葉を想起し、背中が粟立った。
──まずい!
部屋に同室しているサージェスを残し、クルーエルは全速力で寮の廊下へと飛び出した。
「ちょ、ちょっとクルーエル!」
「わたしミオ探してくる! ......サージェスは絶対ここ動かないで!」
4
夜が更けるにつれ、風は次第に静まり、だが同時に冷たくなってきた。
季節としては夏が終わり秋が近づく頃。なのに今自分の肌を撫でる風は、冬の凍みるような痛さと冷たさを伴っていた。
......クルル、どこかな。
寒気に、腕をさすりながら学園内の歩道を進む。一年生校舎を越え、更なる分岐路へ。食堂へ続く道、そして二年生校舎へと続く道。
食堂はサージェスが見に行ってるはず。ゆえに、ミオは後者の道を選んだ。視界の奥にぼんやりと映る巨大な校舎の影。その方角へ、周囲を見回しながら進んでいく。
通路の端に設置された巨大な連絡板、各所に植えられた木立。その物陰も入念に確認し、そうやってどれだけ歩いたことだろう。
やがて、視界が途端に開けた。一年生校舎から二年生校舎への最後の直線通路。木立も草場も皆無。アスファルトで舗装された道が、距離にして五十メートルほど続く。
そこで、ふとミオは足を止めた。
......懐かしい場所だものね。
かつて競演会では、夜色の炎を作り出すために必要な材料を取りに行こうと、飛び交うキマイラの姿に怯えながらも駆け抜けた場所だ。
夏休みを挟み、あれからもう二ヶ月が経とうとしている。本当に、大事に至らなくて良かったと今でも思う。その想いに、自分でも我知らずのうちに時を忘れ──
刹那。誰かの声が聞こえた。
「──え?」
聞き耳を立てる。誰かが誰かに向かって一方的に怒鳴りつけているような。声の感じからして男性だとは思う。だけどその怒鳴られてる方は誰だろう、まさかクルル?
はやる動悸を抑え、目の前の通路を小走りに駆ける。だが駆けだした途端、不自然なほど唐突に、今まで聞こえてきた男の声が消えた。
消えた。いや、途切れたと言った方が感覚としては近かった。
......何が起きたの。
暗い夜道で前方を見据える。動くものは特に無い。だが何か細長い物が、道の中央に立っていた。微動だにしないということは何かの看板。そう思いもしたが、すぐに首を振った。看板が道の真ん中に立ってるはずがないからだ。
恐る恐るその物体に近づいていく。月明かりに照らされ徐々に鮮明さを帯びてくるその輪郭は、さながら灰色の彫刻だった。
......石像? こんな場所に?
手を伸ばせば触れられるほどの距離まで近づく。あれ、やたら彫り方が細かいや。靴にズボン、服の皺まですごく丁寧だし。
「すごぉい、これ誰が造っ......」
背を向けた石像。その正面に回り込み──ミオは、呼吸ができなくなった。
「............ぁ......っ............」
驚愕という範疇を越え、何が何だか分からない。あまりのことに喉が凍りつき、息すらろくにできない。代わりに膝が、どうしようもないくらいがくがくと笑いだした。
......あ......、あはは......
......冗談だよね。だってこの人、あたし見覚えあるもん。
正面から見た石像は、自分の知る人間と酷似していた。
そう、さっきいないと思って探した警備員だ。似てるなんて簡単な言葉じゃ表せない。皺になった警備服、誰かを指さしているように突き出された指先には指紋まである。
............お伽話じゃ、ないよね。......あたし、知らないよ。こんなの......噓だよ。こんなの噓。......だって、まさかそんなことが......あるなんて。
──石化した人間。
後ずさりしようとして、だが足が動かなかった。小刻みにふるえる膝が言うことを聞いてくれないのだ。
──とある事実に気づいてしまったから。
人が石化したこと? 違う、その石像の姿勢だった。前方を指し示した格好の警備員。それはまるで、目の前の誰かを呼び止めるような姿勢。警備員から見て前方、すなわち、警備員の方を向いている自分のまさに真後ろだ。
......ズッ、......ズッ。
あまりにできすぎたタイミングで、背後に響く誰かの足音。
地面を擦るような、鼓膜に粘りつくような音。
クルル。そう信じたい、だけど、それならとっくに声をかけてきてる筈だ。
じゃあこの足音は誰。ううん、分かり切ってるじゃないか。さっきの声がこの警備員の声で、それが途切れたのはついさっき。ならば、当然犯人はまだすぐ近くにいるはずじゃないか。
......ズッ、......ズッ。
機械的な、無機質で規則的な足音。
冷たい汗が頰から首筋を伝っていく。背中に鋭い氷柱を突きつけられたような悪寒。怖気だつ違和感が、ぞわりと頭の先まで這い上がってくる。
視られてる。それも、ものすごく近い場所で。すぐ近く──そう、すぐ近く──そう、たとえば............たとえばあたしの......
不意に、足音が静まった。
──自分の、すぐ後ろ。
だれか......応援を呼ばないと......声を出して助けを呼ばないと......
大声を出そうとしても、出なかった。喉が凍りついて痙攣していたから。
頰を伝うしずく。冷や汗か、あるいは涙だったのかもしれない。それすら、今の自分には分からなかった。足も動かない、声も出せない。
なのに、皮肉としかいいようがない──なのに、首だけは動かせた。
首だけ振り向いて、背後の相手を確認する? 嫌だ、絶対嫌だ。
いつしか、あれほど騒いでいた風すら死に絶えたように止んでいた。
だが、その代わり......
「──好い夜だ」
ぞっとするほどすぐ後ろ。鼓膜ではなく、ミオは背中でその声を聴いた。
低く歪んだ、嗤いを押し殺したような男の声。
「上空にはこんなに美しい月明かり。瞬き輝く宝石を散りばめたような、漆黒の画布。この世のどんなに優れた画家も、愚かな強欲者も、この画布だけは手に入れることができない。......好い夜だと思わないか、なあ?」
嗤い声を滲ませ、背後の男は続けてきた。
「こんなに綺麗な夜だ。静かな夜だ。その中で──」
首筋に何かが触れた。
蠢く何か。生き物? それとも男の指?
吐き気をもよおすほどの異物感に、ミオは目眩すら覚えた。これならいっそ、首を捻られた方がマシだと思えるほどに。
「その中で、お前は少しばかり目障りだ」
その宣告に意識が遠のいていく。
......あたし......どうなっちゃうの......?
「確かに好い夜だ。──女をいたぶる下卑た男には過ぎた夜だがな」
突然だった。
「ッ!」
背後にいたはずの男が、弾かれたように退いたのだ。
──え?
「やれやれ、気まぐれに哨戒してみれば」
よく響く、ハスキーボイスの混じった女性声。
と、同時。ミオは、その女性に思いっきり肩を叩かれた。
「い、痛ッ!」
何するの。女性を睨みつける。ハイヒールを履いているせいで、彼女は自分より優に頭一つ半は目線が高い。
「なんだ、声出せるじゃないか」
黒のインナーシャツに研究服を羽織った女性が、腕を組んだまま苦笑する。
「......あ、あれ?」
言われてみれば普通に声が出る。足も動く。
──話は後だ、私の後ろにいろ。
唇を動かさぬまま告げ、彼女が有無を言わさず自分の前に出る。
「ケルベルク研究所フィデルリア支部、レンツ名詠学校、シャングル研究機関。立て続けにこれらの施設に侵入したのは──お前だな」
彼女の声に視線を持ち上げ、ミオはようやくその相手の実体を見た。
「──〈イ短調十一旋律〉第九番、サリナルヴァ・エンドコート。......これはこれは、とんだ大物と鉢合わせしたな」
全身を一枚布で覆うような、皺だらけの旅人装束。頭にかかるフードは色褪せた布で念入りに固定され、強風の中でも顔を隠す造り。その中で、わずかに覗く口元だけが歪んだ笑みの形につり上がっていた。
「私を知っているのか」
訝しげに、女性が片眉を持ち上げる。
「もちろんだとも。お前の論文は興味深く読ませてもらった。......『名詠生物の中には特定の触媒で詠び出すことにより、通常より強力な力を発揮する種がいる。その根拠と原因推測は......』──とまあ、非常に愉しい内容だった」
左腕だけを装束から出し、男が詩を読むように諳じる。
「それは光栄だな」
「だが、その生粋の研究者が体術にも秀でているとは思わなかった。──その靴、尖踵部分は鉄製だな。〈イ短調〉ということで警戒していなかったら、危うく血反吐を吐くところだった。......かろうじて、肋骨が軋んだ程度で済んだよ」
腹部に手をあてる仕草で、男が歪んだ笑みを一層深める。
「〈イ短調〉第九番〝舞踏靴〟──その紅いハイヒール、他人からの返り血が目立たぬための保護色か?」
「心外だな。こう見えて数少ないお洒落のつもりなのに」
対し、研究服姿の女性も不敵な笑みを崩さぬまま。
「とはいえ──かよわい女性と思って油断してくれたら、こちらも楽ができたんだがな」
......そうだったんだ。
ミオは、つい直前に男が自分から飛び離れた理由をようやく悟った。目の前の女性が男に向かって猛烈な勢いで蹴りつけ、それを男が寸前で躱したのだ。
「だが〈イ短調〉の中でもお前だったのは僥倖だった」
かさり。小さな音を立て、男のまとう装束の下から何かが這い出てきた。
──灰色の石竜子?
既存の石竜子にしては異様に大きい。猫ほどもあり、妙に手足が長い。
「首領や大特異点と言った輩ならともかく。お前は所詮〈イ短調〉における頭脳役。ことこの場においては、そこにいる娘と大差ない」
男の足下に降り立つは虫類。闇夜の中、鈍く光る細長い眼だけが異様に目立つ。
言葉と同時、灰色の石竜子が闇夜に紛れて消失した。
「女二人の石像。絵としては悪くない」
その言葉に心臓が凍りつく。......まさか、あの石竜子が。
「はっ、趣味が悪いな!」
研究服をはためかせ、その女性が吠えた。
一歩分だけ男から距離を置き、足を振り上げる。
月明かりの下──ミオは、世にも奇妙な光景を眼にした。顔面目がけて飛びかかる灰色の石竜子。それを、女性が踵落としの要領で蹴落としたのだ。
「......なるほど、あのクラウスに見初められるわけだ」
初めて、男の声に嘲笑以外のものが混じった。
闇夜に半ば同化し、地面を滑るように近づいてくる名詠生物。その移動速度、飛びかかってくるタイミング、狙ってくる部位。この闇夜の中、その全てを見切っていなければ到底できない離れ業。
「他の研究者を押しのけてお前が〈イ短調〉に選ばれた理由、この要素もありそうだな。いや、見くびっていた。認識を改めよう。大した体術だ、俺の名詠生物を生身で墜とした奴を初めて見た」
「まぐれかもしれないぞ。試しに、次はお前が殴りかかってくるか?」
挑発は、男に聞き流されただけだった。
「──確かに二度はできないな。そうだろう?」
緩慢な仕草で、男が女性の右足を指さす。
......そんなっ!
目の前、自分を庇うように立つ女性の足。一目見て、男の意図することがミオにも嫌でも伝わった。膝まで灰色に石化した、彼女の右足。灰色の石竜子を蹴落とした時、彼女もまた一撃を受けていたということか。
「......なるほど、人が石化するという現象がどうやって起きるのかと思っていたが」
自らの足をしげしげと眺め、動じた風もなく呟く女性。
──『Isa』──
再び舞い上がる風に、右腕があるはずの部分の袖がひらりと浮き上がる。
男が左手しか使っていなかった理由──男は右腕が無かった。
本来右腕が覗くはずの右手の袖。それが、突然蠢いた。灰色の表皮をした細長い生物が、右手の代わりであるかのように袖からぬめりと顔を出す。
「今度は蛇か。灰色名詠とやらは詠び出す対象の趣味が悪いな」
男の足下でうねる生物を睥睨したまま、サリナルヴァが目を細める。
「もう、こいつを防ぐ手段は無いだろう」
自らの発言に絶対の自信があるかのように、男が初めて自ら近づいてきた。そして、それはおそらく正しい。体術には素人のミオでさえ、彼女が先のような動きができないのは容易に想像がつく。
......どうすればいいの?
今、自分は名詠に使えるような触媒が無い。いや、あったとしてもこの事態に対処できる名詠なんて......
──制服の襟色で生徒の専攻色を区別する、か。中々に有用な発想だな。
やおら、左手を背に回し、彼女が自分に何かを放ってきた。緑色のラベルが巻かれた塗料(りよう)。初心者の自分にとって最も使い慣れた触媒でもある。......あたしに、これで何かを詠べということ?
──〈讃来歌〉を詠うくらいの時間は稼いでやる。
で、でも何を詠べば。あたしにできる名詠なんて本当に限られてるのに。
「それにしても随分と凝った衣装だな」
大声で、わざと男の気を引くように女性が大げさな仕草で腕を組む。
──なに、初歩的なやつで構わんさ。
「なるほど。ゆったりとした服の内側で密かに名詠を行うことで、その際に名詠門から発する光を布の下に隠す。夜中の侵入には適した策だ。この闇夜だ、名詠の光はさぞ人目に立つことになるからな」
......そういうことか!
彼女の意図がようやく汲み取れた。大事なのは名詠する中身ではなく、名詠の際に放たれる名詠光。
と同時に。全ての疑問の欠片が一つになった。
〝話は後だ、私の後ろにいろ〟
彼女からの最初の指示。その真の目的も、自分を庇うためではない。自らの身体で背後の名詠士を隠すため。名詠士が触媒を携えて〈讃来歌〉を詠う──この一連の挙動を悟らせないためだったのだ。
この場面に至ることすら、彼女の予想の範疇だった。
「ご名答。理由はもう一つあるんだが、あいにくと手の内は隠しておく主義なんでな」
「今のうちに出さないと後悔するぞ?」
──急げ。
わずかに強まる彼女の口調。
それに応えるように、ミオは塗料を手に付着させた。
......落ち着け、あたしの動作は彼女の背中で隠れてる。気づかれないはずだ。
目を閉じる。詠び出す対象は、とても初歩的なもの。落ち着いてやれば決して失敗するようなものじゃない。
Ze fisa sm raswel feofari turia peg veo
小さく、小さく抑えた声で〈讃来歌〉を口ずさむ。
YeR be orator Lom nehhe
lor besti pede rass endegeti-l-memorie
「手の内をさらけ出す? お前にはこの一体で十分だろう」
「その驕りが命取りになるぞ」
自分の〈讃来歌〉を隠すように、サリナルヴァが声を重ねる。
jes co O vefa Yem,O bloo-c-ecta
Isa da boema foton doremren
ife I she cooka Loo zo via
「さて、時間も惜しいな」
感情すら読み取れぬ乾いた土塊を思わせる声と共に、灰色の蛇が自分たちに向かってくる。それとほぼ同時に、ミオは名詠の終詩を紡ぎ終えた。
お願い、届いて......
詠ぶのはとても儚いもの。だけど、信じてる。
自分の、最も信頼する友人。
──炎に包まれた競演会で一度だけ、自分はその真紅の翼を垣間見た。
あの真精が本物ならば......
O evo Lears─Lor besti via-c-bloo=ende wue

両手から溢れる、碧色に輝く光の粒子。
「『Beorc』......光の名詠か?」
素顔を隠すフードの下、男の視線がサリナルヴァから自分へ。
溢れる光の粒子が連なり、一筋の光線へと収束。光の奔流は漆黒の夜へと駆け上がり、儚い輝きを残して消えていく。
一瞬、おそらく数秒に過ぎない閃光。
だが確かにその輝きは、詠び人の願う相手の下へと──
「それで終わりか」
男の、呆れたような呟き。
「何をしでかすと思えば、ただの光の名詠とは。しょせん、有象無象の類か」
......違う。
「あたしは......あたしが呼んだのは光なんかじゃない」
女性の後ろ、ミオは無意識に応えていた。
きっと、きっと来てくれる。
「応援か? 仮にそうだとしても、俺とまともにやりあえる奴がこの学園にいるのか? よしんばいたとして、この場に即座に駆けつけられる術を持つ奴など──」
いる。たった一人だけいるんだ。
......絶対来てくれる。
競演会。あの時、夜色の少年の下へ駆けつけた時のように。
自分の大切な友人。真紅の翼を持った少女なら──
......今の光。
漆黒の帳へと、クルーエルは振り返った。
既に、頭上は普段の暗さへと戻っている。だけど、あれは決して見間違えなんかじゃない。今、碧色に輝く光が上空へと昇っていった。
光の方角は二年生校舎。
既視感にも似た懐かしさ。......あの光、わたし見たことある。
今までずっとずっと一緒にいた子。一緒に勉強して、遊んで、沢山の時間を共に過ごしてきた友人。その子が詠び出す名詠の、あの一瞬の輝き。儚い光。けれど、とても強い想いの込められた光。
上空へと昇っていった煌めきは、その輝きに酷似していた。
「......ミオ?」
自分を探しに行くと言い残し、未だ戻らない友人。
──わたし、呼ばれてるの?
潤いに満ちた雨が、乾いた土壌へ浸透するように。
わたし、きっと呼ばれてる。
とめどなく、途切れることなく、その想いが胸の隅々までをも満たしていく。
〝それを望む望まないにかかわらず、それができる奴がみんなを守ってやらなきゃいけないんだ〟
守ってあげる。それができる確固たる自信はない。
自分だっていつも挫けて落ち込んで、下を向いてばっかりの人間だ。みんなに守ってもらって、助けてもらって、それがあるから、今こうしてここにいられる。
......そう。だからこそ、自分がしてもらっているように、わたしだって、誰かの力になってあげたい。わたしにできることがあるのなら──わたしは──
「......行かないと」
わたし、ミオのところに行かないと。
「あたしは......信じてるもん」
「戯れ言だな」
汚物でも見たかのような言い方で男が吐き捨てる。
「信用、都合のよい言葉だな。裏切り、失望、期待外れ。そう言った言葉全てが、その『信じる』という一方的な依存から生まれることになぜ気づかない? それとも本当は気づいていて、それに目を瞑っているだけか?」
違う、違う。
「あたしは......自分じゃ何もできないし迷いっぱなし。だけど、そんな失望とか期待はずれとか、そんなのに迷ったことないもん」
信じるから失望するだとか、信じるから裏切られるとか。それはそもそも本当に信じたうちに入らない。信じるっていうのは、もっと別の次元にあるはずなんだ。
「......あたし、クルルを信じてる。でももし万一間に合わなくたって、それでクルルに失望したとか期待外れだとかそんなことは絶対言わないもん」
「──時間の無駄だな」
灰色の大蛇が鎌首をもたげた。一瞬身を縮め、その反動で飛びかかってくる。自分も目の前の女性も、共に躱せるような状況じゃない。
眼前にまで迫った牙。
反射的に思わず目を瞑る。──瞑ろうとした直前。
突然に、その大蛇の頭上へと真紅の羽毛が舞い降った。羽毛が蛇の鱗に触れた途端、その羽根が炎へと姿を変えて大蛇を焦がす。
灰色の煙を立ち上らせた名詠生物が、のたうち回りながら強制送還されていく。
「......この羽根は?」
頭上を見上げた男が、その姿勢のまま凍りつく。
昏い夜色の画布。そこに、悠然と翼を広げる赤の真精がいたからだ。星の瞬きよりもなお燦々と紅く輝く翼。
「赤の真精? まさかこいつは!」
「──動かないで」
凛とした声が男に向けて告げられる。
「わたし、こういう場面慣れてないの。小さい炎を詠び出そうとしても、勢い余ってすごい猛火になっちゃうかもしれない。軽い火傷じゃ済まないわよ」
その声は自分の後ろから。だが、ミオは振り向かなかった。
──自分の信じた友人の声だったから。
「......クルル?」
緋色の髪をなびかせ、その友人が無言で隣に立ち並ぶ。
「これが、あの幻とも名高い黎明の神鳥か。初めて見たよ、美しい真精だな」
ゆっくりと、男が視線をクルーエルへと向けていく。
「この夜に、眩いほどに赤光を放ち華麗に飛翔する神鳥。実に美しい真精だ。正直、羨ましいほどだ」
その声に、ミオは全身が怖気だった。
頭上に真精、地上にはそれを詠び出した名詠士。それを目の前にしてなお、この男の声音からは余裕が消えていないのだ。
「お前が詠んだのか? まだ学生のように見えるんだが」
「動かないでって言ってるでしょ」
「ははっ、実に初々しい反応だ。そうだな──真精を先に詠び出されているこの状況。実力が拮抗しているなら、ここで勝負は決している」
大仰な仕草で男が頭を振る。
「だが悲しいかな。俺とお前とでは、この状況でなお俺の優勢は変わらない」
「では、二対一ならどうだ?」
そう告げたのは、今まで沈黙を保っていた〈イ短調〉だった。
「まったく、私はお前が来るのを期待してたんだがな。遅いじゃないか、祓戈の到極者」
「? ジルシュヴェッ──」
男が言い終えるその前に、その背中に鋭利な刃が触れた。
「動くな、と言われただろ? あたしはクルーエルほど優しくない。病院送りになりたくなければじっとしてろ」
男の背後に立つ、長大な鎗を構えた少女。その姿にミオは目を見開いた。普段、教室で一緒に馬鹿騒ぎしているクラスメイトだったからだ。......うそ。エイダ?
なんでエイダがここに? ていうか、ジルシュヴェッサーって?
「エイダ・ユン・ジルシュヴェッサー、クラウスの一人娘か。......気配の殺し方といい、その怪物度合いは親に負けず劣らずだな」
エイダの表情が一瞬歪む。
この男が、背後の彼女の顔を見ることなく声だけでその正体を看破したからだ。
「......お前、何者だ」
「ただの強欲者だよ。名詠士の資格すら持っていない、名も無き敗者だ」
刹那。男の、天を突くような嗤い声が周囲に響き渡った。
「......ふは、はははははっ! なるほど、これがヨシュアの言う『流れ』という奴か。あいつの妄想じみた思想もまんざら噓でも無かったらしい。幻とも言われる黎明の神鳥を従える生徒に、史上最年少の祓戈の到極者。それが一つの学園に、そしてこの夜に集うという、この異常! 実に愉快だ!」
途端。目の前の世界が一瞬にして灰色に染まった。これは、灰?
視界がまるで零になる。周囲一帯を灰色の粉塵が埋め尽くしたのだ。それもただの灰じゃない。まぶたに粘り着くと同時に、目を激しく痛めつける灰燼。
「貴様っ!」
どこかでエイダの怒声。
一方で、男の嗤い声だけが残響のように聞こえてくる。
「不確定は時に不確定を呼びよせる。この学園にはお前たち二人だけなのか? それともまだ俺の知らぬ場所に、不確定をも呼びよせた真の異端因子が存在するのか? ......お前たちの顔は覚えておこう。なあ?」
男の声が徐々に遠ざかっていく。
霧にも似た灰色の粉塵が晴れた後、男の姿は跡形もなく消失していた。
──助かったの?
そう思った途端、ミオは膝の力が抜けていった。
......今の奴が、あの研究所を襲った犯人?
つい直前まで男が立っていた空間を見据え、クルーエルは肺の中の澱んだ空気を押し出した。緊張のあまり、今まで呼吸すらままならなかったからだ。
確たる証拠は無い。だがあの男の発する言動、狂気じみた雰囲気。全てが、この一連の事件はあの男の仕業だと告げてくる。
......それにしても、わたしが不確定ってどういうことだろう。
それに、最後のあの言葉。
〝不確定をも呼びよせた真の異端因子がこの学園に存在するのか──〟
が、その思考もまとまらぬうちに。
ふらりと、隣に立っていた友人がくずおれた。
「......ミオ?」
地面に倒れる寸前に、あわやというところでその身を抱きかかえる。
「平気!? あいつに何かされたの!?」
「......ク、ルル」
ふらふらと朦朧とした声で、だがそれでもかろうじて、友人はぎゅっと自分にしがみついてきた。
「......怖かっ......た............本当に、怖かったの」
自分に抱きついて離れない、その華奢な身体がふるえていた。
下を向いたままうつむくミオ。掠れた声音に湿ったものが混じる。
──無理もないよ。
あんな不気味な男と向かい合っていたのだ。先の碧の光を名詠したのもミオだとすれば、その時の緊張は想像を絶するものだったに違いない。
痛いほどに強く手を握ってくる友人。血の気を失い、真っ青になっている指先。その手に、クルーエルは自分の手を重ねた。
「ごめんね、怖かったんだよね」
──もうだいじょうぶ。
わたしが一緒にいるから。もう、こんな怖い思いはさせないから。
「......うん」
こくりと頷く友人。
「......ねえ、クルル」
「なに?」
一瞬、間を空けて。
「あたし、信じてた......来てくれたんだね......ありがとう」
──何言ってんの、ばか。
「来るに決まってるじゃない、友達でしょ」
そして──
クルーエルたちにとってのその夜は、ようやくにして終わりを告げた。
間奏 『小さな夜が歌う夜 ──Neight Yehlemihas──』
吹雪のように吹き荒れていた風も、次第に普段の静まりへと還っていっていた。
頭上を漂う雲は風に流され、空は星の瞬きで満ちていた。
人も動物も、花も草も虫も眠る刻。
だからこそ静かな夜だった。
トレミア・アカデミー、男子寮。玄関ロビーを抜けだし、乾いた土と雑草が続く広場に出る。広場の端には、もはや誰も座ることもないであろう古ぼけたベンチがあった。
苔むした木製の椅子。もしかしたら、これはトレミア・アカデミーの前身であるエルファンド名詠専修学校からの物なのかもしれない。今は男子寮の敷地だが、十数年前はどうだったのだろう。
「......母さんとカインツさんは、ここに座ったことある?」
誰もいない場所で、ネイトはそっと吐息を零した。
返事などあるわけもない。
ただそれでも時として、言葉を言葉として口ずさみたい気分になる。
そう。言葉を言葉として。
詠を、詠として。
cart lef dimi-l-shadidenca-c-dowa
ふわりと、秘やかな旋律を伴って、その言葉が静かに周囲へと展開していく。
YeR be orator Lom nehhe
lor besti bluci endebranousi -l-symphoeki
O she saira qersonie Laspha──
母から教わった〈讃来歌〉。その終詩は、ひどく短いものだった。
──Arma
言葉にした名前の主が来ることはない。
最初から、自分は触媒すら携えていなかったのだから。
〝なぜ夜色なんだ?〟
繰り返される疑問。
だけど今この場でこの夜空を眺めて、その理由が少しだけ分かった気がした。
「......ねえ、母さん」
夜空に向かって、告げる。
「母さんが教えてくれたアーマの〈讃来歌〉、あったよね」
ようやく分かった。
「あの〈讃来歌〉は、最初から不完全だったんだね」
幾度も幾度も試み、そして悉く失敗した名詠。
成功する予感がまるでしない、奇妙な違和感のある名詠。
〝名詠式の常道に添うならば、既存の白に対し黒色が妥当。なのに、なぜ黒ではなく夜色という名を冠しているんだ〟
その疑問に対し必ず自ら答を出すと決めた時、ようやく分かった。
母が何を意図して、夜色名詠式という名を冠したのか。──その根本的な要素に疑問を持つならば、そもそもその〈讃来歌〉にも疑いの目を向けるのが当然。
アーマが目の前にいるのに──すなわちアーマを既に名詠した状態で、なおアーマの〈讃来歌〉を母が教えてくれた理由は何か。それが母からの、暗黙の内の手掛かりだったのだろう。もっと早く気づくことは、可能だったはずなのに。
「......ごめんなさい。本当は、もっと早く気づいていたら良かったのに」
悲しいわけじゃない。なのに、まぶたを閉じなければ涙が溢れてしまいそうで。
「......僕今まで、自分で〈讃来歌〉を作ったことがなかったから」
母から教わった詠を疑いなく口ずさむだけ。
いつまで経っても、それではアーマは認めてくれない。母はそれを知っていた。だからこそ意図的に、自分に教えたアーマの〈讃来歌〉は不完全なものだった。
──いつか僕が自分で、自分の詠を見つけるために。
微風が黒髪をゆらす。足下の土を手の指先で削り、自分の肩の高さまで持ち上げる。
......この風は、一体どこまで行くんだろう。
一つまみの土。指先から零れたそれは風に攫われ、夜空の漆黒に混ざるように流れていった。
どこまでもどこまでも、世界の果てまで吹き届く夜の風。
どこまでもどこまでも、頭上を覆う夜色の天球。
母さんと約束した人に、僕が夜色名詠を見せてあげる──それが始まりだった。
叶えられた旧い約束。
ならば、僕はこれからどうすればいいんだろう。
旧約を越え、さらにその先にあるものは。
「......アーマ、見ててね」
僕、きっと──
母から学んだものではない、自分が紡ぐ詠。まだまだ朧気だけど、でも決して難しいことじゃないと思う。ただ素直に、心に浮かんだことを形にすればいい。
「でも今は、もう一つ決めてることがあるんだ」
自分の詠。でも、それだけじゃいけない。それだけだと、半分。
〝だいじょうぶ。わたしも一緒にいてあげる。一緒に詠んであげるよ〟
「僕も、クルーエルさんと一緒にいたいから」
一緒に勉強したり、話したり、遊んだり。そしていつか──
いつか、その詠を彼女に聴いてもらいたい。
ううん、いつか......
今はまだ、何もできない僕だけど。
いつか、一緒に詠ってくれますか。
「風、冷たいや」
首筋を冷やす風に、ネイトは身をふるわせた。
......風邪ひいたら、またクルーエルさんに心配かけちゃうかな。
ふと、そんな気がした。
だから僕も、もう寝よう。
「おやすみなさいアーマ、母さん」
頭上を見上げ、小さな声で口ずさむ。
──おやすみなさい、クルーエルさん。
そして、ネイトにとってのその夜も、静かに終わりを告げた。
四奏 『痛み・熱・疼き──声』
1
夜の帳が徐々に薄れ、夕陽にも似た茜色の朝焼けが地平線に広がっていく。
万人の頭上、夜明けは公平に訪れる。そして、それがこれだけ待ち遠しいと思える日がくるとは思わなかった。
「......夜、明けてきたんだ」
カーテンからこぼれる白光。その眩しさにクルーエルは目を細めた。
......長かった。夜がこれだけ長いと感じたのは、夜の闇にこれだけ圧迫感を感じたのは、紛れもなく今日が初めてだった。──いつどこから、あの男がまた襲ってこないか。その緊張に、何度部屋の施錠を確認したことだろう。
トレミア・アカデミー総務棟、教師控え室。
あの男が立ち去った後。尾行されることを危険視したサリナルヴァの提案により、クルーエルとミオはこの場所で一晩を過ごすことになった。
ベッドなどという気の利いた調度品は無い。ソファーに座るかテーブルに寝そべるかの二択。が、実際クルーエルに残された選択肢は後者だけだった。ソファーは、自分の友人のために空けておかねばならなかったから。
「ミオ、部屋のカーテン開けていい?」
「......うん。お願い」
ソファーにもたれかかるように、力ない様でミオが頷く。
その膝元に、ホットミルクが入っていたはずのティーカップ。中身がなくなってもなお、ミオはそのカップをぎゅっと握りしめていた。
カーテンを開けた途端、さっとさしこむ強い陽射し。
──ふぅ。
ここ数時間で、初めて呼吸らしい息づかいがミオから聞こえた。
「二人とも。気持ちは分かるけど、もう少し休んでいた方がいいわよ」
椅子に座っていた教師が、読みかけの本を閉じて言ってきた。
エンネ教師。最上級生の『Arzus』を担当する教師だ。昨晩個人的な都合で情報処理室に泊まっていたらしく、それならばと、一晩自分たちの保護を買って出てくれた。
「ううん、いいんです。あたし......今寝ると、すごく怖い夢を見ちゃいそうだから」
ひっそりと、泣き笑いのような表情でミオが呟く。
昨日の今日だ。昨晩の恐怖が癒えるには短すぎる。実際、昨夜の出来事からまだ数時間しか経っていないのだから。
「......そう、ね」
それを悟ったのか、エンネ教師が小さく頷く。
「それじゃあ、せめて何か口にした方がいいわ。宿直の当番の先生が置いていったクッキーがあったと思うから。あとは、紅茶くらいは淹れるわね」
「あ、手伝います」
反射的にクルーエルも椅子から立ち上がる。
すると、その教師はにこやかな表情で首を横に振ってきた。
「ありがとう、でも平気よ。これくらいしか、してあげられることもなさそうだから」
反論も思いつかず、クルーエルは渋々と引き返した。
......わたしだって、他にできそうなことって思いつかないのに。
溜息一つ、テーブル脇の椅子に腰掛ける。と、時同じくして。
コツッ。廊下を誰かが伝う音。
──誰?
その足音が、教師控え室のすぐ前で止まる。
ビクッと身体をふるわせるミオ。テーブルから立ち上がり、クルーエルは足早に彼女の隣に寄り添った。......まさか、昨日の男。
扉を睨みつけるように見つめ、一秒、二秒。
「クルーエル、ミオ。いる?」
ノックと共に、聞き慣れた女性の声が伝わってきた。
「......ケイト先生?」
ぽかんと、ソファーに腰掛けたまま口を開けるミオ。
合い鍵を持っていたのか、乾いた金属音を伴った解錠音が響く。扉が開き、自分たちの担任教師が息を荒げながら入ってきた。
「二人とも無事だったのね? ......ほんとに心配したんだから」
息を切らせながらも安堵の表情を浮かべる教師。
「......すいません、わたしが夜に外出したのが原因です」
苦虫を嚙みつぶしたような表情で、クルーエルは頭を垂れた。
わたしがもっと思慮深ければ。自分が外出しなければ。いや、たとえ外出したとしても、部屋に残ることをミオに強く念押ししてておけばこんなことはならなかったはずなのに。
「ち、違うよ! あたしが勝手に外出たからだよ、クルルのせいじゃ──」
「ううん、ミオ。これはわたしが──」
「......二人とも本当に仲が良いのね」
自分とミオの間に挟まる形で担任教師が入ってきた。
「反省は後。もちろんそれも必要だけど、今することじゃないでしょ?」
......まあ、それは確かにそうだけれど。
自分たちに背を向け、ケイト教師はもう一人の教師の方へと歩いていった。
「エンネ先生、申し訳ありません。わたしの生徒が──」
白のスーツを着たエンネ教師に、ケイト教師が深々と頭を下げる。
「ううん。そんなことより、こんな朝早く?」
「先ほどミラー教師から、自宅に緊急連絡が入りまして」
よほど急いで来てくれたのだろう。普段の若葉色のスーツではなく、その服装は普段着に近い。おそらくはそれが、連絡を受けた時点で一番手元にあった服装だったのだ。
「......先生。あたし、ケイト先生の私服姿初めて見た。先生が薄紅色のシャツを着ると、なんか可愛らしいね」
同じ事を考えていたのか、ミオがその服装をぼうっと眺める。
「ミオ、恥ずかしいから他の生徒には他言無用よ。......まあでも、それくらい言えるなら一安心だけど」
苦笑隠しに腕を組み、ケイト教師が呆れ混じりに首を振る。
「それでケイト、ミラーは何て言ってた?」
「いえ、一連の犯人と思しき人物にうちの生徒が襲われたとしか」
「......つまり一晩明けてなお、あいつも人物特定ができていないということね」
カップに紅茶を注ぐ手を止め、エンネ教師が眉をひそめる。
──人物特定。
〝ただの強欲者だよ。名詠士の資格すら持っていない、名も無き敗者だ〟
逃走する直前、男が残したあの台詞。あれは、どういうことだろう。
エンネ教師から受け取ったティーカップ。揺れる波紋を眺めたまま、クルーエルは胸の内でその疑念を反芻した。
敗者、あの男が敗者? あれだけ凶悪な力を持っているのに?
むしろその台詞を口にした時の男の表情は、狂気じみた笑みに満ちていた。自分が敗者であることを、むしろ嬉々として受け入れていたような。
「クルーエル、ミオ。八時になったらちょっと移動するわよ」
時計と自分たちを交互に眺め、ケイト教師が椅子に腰掛ける。
「どこにですか」
「総務棟の二階、大会議室。サリナルヴァさんが伝えたいことがあるんだって」







「......役立たずぅ」
ぼそりと、聞こえよがしに呟く。
先を歩く相手の歩調に動揺は無い。
「役立たずー」
一度目より声を強め、エイダは相手の背中に向けて言い放った。
「はは、まあそう言うな」
「まったく、犯人を捕まえるどころか、逆にか弱い女子生徒に助けてもらうだなんて。それじゃあ〈イ短調〉の名が泣いちゃうよ」
「事実だから言い返しようがないな」
──つまんない反応。
「で、実際はどうだったのさ」
「ん?」
研究服をひるがえし、サリナルヴァが顔をこちらに向けてくる。
「あたしは、あたしが駆けつける前の状況知らないもん。だから尚更分かんない。数メートルの距離まで近づいてたんだろ。相手が何かを名詠する前に、サリナなら余裕で対応できると思ったんだけど」
名詠ができるわけではない。祓名民のように反唱を習得しているわけではない。だがそれでも、この研究者は下手な名詠士よりよほど強い。少なくともエイダはそう信じている。彼女に喧嘩を売った名詠士が、何度となく地べたにひれ伏す姿を目にしているからだ。
「お前やクラウスと一緒にするな」
そう告げる彼女の声に苦笑が混じる。
「しかし、まあ......あの状況に限って言えば、不可能ではなかったかもしれないが」
出される前に潰す──相手の名詠の前に、鉄製の靴で問答無用に相手を蹴りつける。誰もが耳を疑う単純な戦法だが、だからこそ、相手もまさかそのようなことをするとは予想していない。結果として、初見の相手ならほぼ確実に奇襲が決まる。そして、その奇襲の一撃で相手を地に伏せさせるだけの体術を持つ。
研究所の職員には絶対に見せない、一握りの者だけが知る、彼女の秘められた技術だ。
「じゃあ、どうしてさ」
「初撃を外したからな」
感慨なく、研究のレポートを読み上げるような口調で彼女が続ける。
「私が想定していた以上に相手は場数を踏んでいた。相手を嘲るような口調と裏腹に慢心がない。......初撃がかすめた時に追撃していれば、それでもあるいは、仕留められたかもしれない。だが土壇場で迷った」
迷う。この研究者には到底似つかわしくない単語だ。
「私より先に男と遭遇していた女子生徒。ミオと言ったか。あの子のすぐ傍まで灰色名詠の生物が迫っていた。もし私があそこで男を追撃していたら、あの子はその間に石像になっていただろうな」
......そうだったんだ。
「治療を受ければ命に問題はない。そう分かっていてもなお、やはり......むぅ......なんと言えばいいのかな......うん、女の子にそれはショックだろうなぁと」
うんうんと、自身を納得させるように彼女が腕を組む。
「で、ミオの近くにいた名詠生物を牽制する方を選んだと」
「うむ」
「まあ、そのおかげで事が厄介になったわけだけど──」
一度言葉を区切る。
そして、エイダはにこりと微笑んだ。
「でも、ミオがそれを聞けば喜ぶだろうね」
「そうか?」
「正直言えば、あたしも嬉しい。クラスメイトを守ってくれて」
「本人には言うなよ」
照れたように顔を背ける研究者。普段豪放な割に、こういう時の彼女はやけに純真なのだ。もう少しからかってやろうかとも思ったが、正面に見えてきた建物を視界に捉えエイダは足を止めた。
男子寮玄関。
「どうした暴走娘。気分でも悪いのか」
横に並び立つ彼女が怪訝そうに見下ろしてくる。
「いや......だってここ男子しかいないんだよ。汗臭そうというか、なんかこうむわぁっとしてそうなイメージがあるじゃん」
「何を今更。問題ない、お前も似たり寄っ──こら、祓戈の先で突つくな」
「......失礼なおばはん」
「どっちが失礼だ。私はまだそんな歳じゃないぞ。いいか、一桁目を切り捨てれば──」
言い終える前に、エイダは肘先で隣の研究者を小突いた。
「ほら、男子寮に入るとき女性は名簿に名前を記入するんだってさ。代表者はそっちの名前で書いておいてね。あたしの名前書くと、あとでクラスの男子から何言われるか分からないんだから」
「そう言えば、あの子の名前は何と言ったっけ」
「......やっぱあたしが書くよ。あの名前は綴りがややこしいんだ」
サリナルヴァからペンを奪い取り、エイダはその名を書き殴った。
──NeightYehlemihas
普段と変わらぬ時間に起き、普段と変わらぬ朝食を作る。
......でも、これから何をすればいいんだろう。
部屋の隅に置かれた鞄を見つめ、ネイトはその場にぼんやりと立ちつくした。
本当なら、今頃学校へ行く準備をする時間。しかし問題の校舎区域は閉鎖中。であると同時に、寮内の生徒は外出を固く禁じられている。
さして意識しないまま鞄から教科書を取り出し、ぱらぱらと頁をめくっていく。思えば、こんなにきちんと名詠の本を読むのはこの学校に来てからだ。
それまで母から教わった名詠式の知識は非常にむらがあるものだった。いや、気まぐれと言った方が適切かもしれない。最上級生でも知らないような細かい事柄を教わったかと思ったら、教科書の一番最初に載っているような基本事項を飛ばしたり。
「──でも、ずっと部屋で本読んでるのもなぁ」
今一つ熱が入らず、眠気の残る目をこする。
ふと、玄関の扉がノックされた。
続けざまに一度、二度、三度。こんな時間に誰だろう。
「おーい、ちび君いるかぁ」
明るいボーイッシュな声。それは自分の良く知る、クラスの女子の一人だった。あれ、でもここ男子寮なのに。それに、こんな朝早く?
「エイダさん、どうしたんですか」
「お、いたいた」
扉を開ける。案の定、日焼けした少女が扉の隙間からひょっこりと顔を覗かせた。
「やあ少年、最近よく会うな」
そのすぐ後ろに、研究服姿の女性。
サリナルヴァさんまで?
「いやぁ安心したよ。ちび君はちゃんと自分の部屋にいたんだね」
胸の前で腕を組みエイダが苦笑。
どういうことだろう、自分の部屋にいるだけで褒められるなんて。
「昨日の夜、むやみに外に出回ったりしてないで良い子だね、ってこと」
......昨日の夜? 外に出回ったりしてないで良い子?
ぎくりと、ネイトは一歩後ずさった。
「......な、何のことですか。ぼ、僕、こっそり男子寮脇の広場に出てなんかいませんよ。ほ、ほら! 昨日は風が強かったなんて知りません!」
「──ちび君、キミもか」
呆れ気味にエイダが肩を落とす。
「やっぱ二人揃ってそっくりだ。お姉さん役とこんな部分まで一緒とは思わなかった」
......ん、えっと。
昨日の夜に何かがあったのかな。
「クルーエルさんがどうかしたんですか?」
「それは道中話そう。ひとまず外出の用意をしてくれ」
その疑問に応えたのは少女ではなく、その背後の研究者だった。
「外出、の用意ですか」
「ああ。と言っても、目的地は総務棟の大会議室だ。気を張る必要はない」
それにしても、なぜ僕が。
「少年、率直に言おう」
腕組みしたまま、研究者が人差し指を頭上へと向ける。
「『異端因子』。そう聞いて、心当たりはないか」
2
通路に、複数人の足音が響き渡る。
......どうしてだろう。
通路の脇、前方を見回し、クルーエルは人知れず呟いた。
今通路を歩いているのは計四人。前方後方にそれぞれケイト、エンネ教師。その間に挟まれる形で自分とミオ。
通路にこだまする四人分の足音。そして四人分の人影。
しかしそれだけなのだ。早朝とは言え、不自然なほど人の姿が見あたらない。教師も用務員もいないなんて。
「仮にも学園の全閉鎖だからよ」
見透かしたように、背中にエンネ教師の声が伝わってきた。
「今、用務員は生徒同様に一斉避難の指示を受けている。教師は三分の一が学園外でそれぞれの任にあたってる。残りの三分の二が交代制で随時学園内の見張り。......と言ってもこの学園の広さからすれば、各要点区域に的を絞って配置するのが精一杯なの」
薄く広くではなく、局地的な重要箇所を厚く。
......そっか、だから昨日は先生たちが一人も応援に来なかったのか。
昨夜、あの男と出会ったのは一年生校舎と二年生校舎をつなぐ歩道だった。しかし一方、その当時の教師たちは各校舎の重要箇所を見張っていた。
局所的に張られた網。けれど、犯人はそれを読んでいた。だからこそ──
〝今、先生とは別にあたしも学校内を見て回ってる〟
エイダがなぜ学園の警戒に参加するか、その理由がようやく理解できた。足りない人材による苦肉の策の、不完全な守備。経験上、こういった事実を彼女は予測していたからだ。
そして、同じ結論に辿り着いた人間がもう一人だけいた。
〝散歩だよ。まずはこの学園の位置取りを把握しないとな。昨晩は正門近くの芝生で網を張っていたが、さすがにあそこは犯人からも目立つ。もっと効率的な場所を探す必要があるらしい〟
〈イ短調〉という集団の、その女性研究者。
だからこそ、ミオが襲われた時にこの二人は駆けつけられた。
......なんて大きな差だろう。
自分の周りの大切な人たちを守りたい。がむしゃらにわたしが動いている中で、冷静に事態を見極める人間が確かにいる。
「クルル、どうかした?」
隣を歩くミオが覗きこんでくる。
「......ん、ちょっとぼうっとしてたの」
「平気? なんか調子悪そうだよ」
実は、今朝からちょっとだけ頭が痛い。わずかな寒気、もしかしたら微熱もあるかもしれない。寝不足と緊張のせいだろう。
「平気よ、どのみち休んでなんかいられないもん」
──大きな隔たり。
でも、これはしょうがない。すぐには縮められない経験の差なのだから。
手のひらを力一杯握る。痛くなるくらい。
ならばわたしは、今のままでいい。無理に背伸びなんかしちゃいけない。がむしゃらに、不器用に、歯を食いしばって頑張るしかないんだ。
ぴたりと、先頭を行くケイト教師の足が止まる。
総務棟、大会議室。一拍おいてケイト教師がその扉を開けた。自分たち生徒はまず入る機会の無い部屋。そこは、クルーエルが想像していた以上に無機質な部屋だった。
百人は入れるであろう部屋に、連なった長机と椅子。目に映るのはそれだけだ。
「時間通りだ。始めよう」
整列した長机から一つだけ外れた司会席。椅子ではなくその机に腰掛けた姿勢で、研究者姿の女性が腕を組む。その後ろ、部屋の壁に寄りかかる状態で、祓戈を小脇に抱え目を瞑ったままのエイダ。彼女がいるのは予想の内。しかし──
長机の並んだ一角でクルーエルは目を見開いた。
緊張した面持ちでじっと座っている少年。夜色の髪に夜色の瞳、まだ幼さの残る顔つきに、男子にしてはあまりに華奢なその体格。
──なんで、なんでキミがここにいるの。
「クルーエルさん、ミオさん! 無事だったんですね!」
呆然としている間に、一目散にネイトが駆け寄ってきた。
「......え?」
「犯人らしいのに襲われたって! 怪我は!」
......なんでキミがそれを。
「私が話した。と言っても、ついさっきのことだがな」
腕を組んだまま淡々と告げてくる〈イ短調〉。
「そんな──」
本当は、誰より昨夜の事件を報せたくないのがネイトだった。
わざわざ危うきに近づかせる必要はない。わたしが彼の分も背負えばいい。昨夜からずっと、クルーエルはそれを心に留めていた。
なのになぜ、こんな危険なことにわざわざ彼を巻き込むんだ。
「なんで......教えたんですか」
自分では抑えたつもりだった。
なのにどうしようもなかった。自然と、その言葉には棘が混じってしまっていた。
「お前が怒る理由も分かる」
自分のそれも予想していたのだろう。彼女は動じた様子もない。普段はまるで気にならないはずなのに......クルーエルには、彼女のその落ち着きが悔しかった。
「だから、それも含め今から話す。──まずは座れ」
「ひとまず、昨日の騒動は皆が頭に入れているという前提で話す」
そう告げる女性研究者。他にこの部屋にいるのはケイト、エンネ教師、エイダ、ミオ、ネイト、そして自分。たった七人の会議。
その寂けさの中で、クルーエルは彼女が一方的に告げる内容を聞いていた。
「現時点において、この学園で防衛にあたっている人数は非常に少ない。最も犯人出没の可能性が高いとされる触媒資料館をメインに、情報処理室、経理金庫、各校舎。学園内の主要区域を集中監視するだけで精一杯だ」
百人は優に入る大会議室。他に発言者はいない。巨大な空間に、サリナルヴァの声が一方的に響く。
「相手の脅威度により、各所は最低三人一組のチームから構成。一人や二人の監視だと容易に突破される可能性があるからな。だがこの集中監視は逆に、監視上の死角を生んでしまうことは明白だった。......だからこそ私とエイダは、独自にその死角部分を中心に哨戒していたというわけだ」
そして、やはり犯人はその死角部分を突いて侵入した。
「昨夜のあの男が、今我々が追っている不審事件の一連の犯人と思って十中八九間違いないだろう。既にあの男の外見的特徴──片腕がないということが大きいな、その他にもざっと見た上背、声質。これらについては各関係機関に回しておいた」
だが......そう呟き、彼女が首を横に振る。
「正直、どこまで役に立つ情報かは分からん。仮に名詠士の資格を持っていれば名簿から検索も可能なのだがな」
〝ただの強欲者だよ。名詠士の資格すら持っていない、名も無き敗者だ〟
俺のことを嗅ぎ回っても無駄だ。あの時の台詞はそう言った意味もあったのだろう。
「だが私が気に掛けているのはそれではなく、あの男の有していた情報についてだ」
ちらりと、壁に背を預けたままのエイダを彼女が視線で示す。
「男は、声を聴いただけでそこの祓名民の名を言い当てた。かつ、その父であるクラウスについても面識があるような内容をほのめかしていた。そして私が〈イ短調〉であることも一目で見抜く。暗に、我々の手の内を知っているぞと示唆したわけだ──これがどういうことを意味するか」
......情報が事前に漏れていた?
誰が呟いたかも分からぬ言葉に頷く研究者。
「そうだ、そう考えればあの男が今まで、調査の追跡を悉く潜り抜けて来たということも非常に容易く説明がつく」
「──ちょっと待ってください」
今まで黙していたケイト教師が席から立ち上がる。
「それは、内通者がいると」
「その可能性は零ではない。だが私の予想では、内通者がこの学園にいるというわけでもないようだ」
「それは......学園の教師としては歓迎したいことですが、その根拠は」
「昨夜男が発した言葉。クルーエル、お前なら心当たりがあるだろう?」
なぜわたしに? そう訝しみもしたが、サリナルヴァの視線の方向に気づき、クルーエルは息を呑んだ。彼女の視線は、自分の隣に佇む夜色の少年へと。
〝不確定は時に不確定を呼び寄せる。この学園にはお前たち二人だけなのか? それともまだ俺の知らぬ場所に、不確定をも呼びよせた真の異端因子がこの学園に存在するのか〟
昨夜、男が去り際に残した言葉。
「そうだ。奴は〈イ短調〉の私や祓名民のエイダは知っていながら、この学園の学生に関してはまるで情報が欠落していた。もし学園内部に内通者がいるならば、真精を詠び招く学生のことは当然情報として奴に流していたことだろう。──加えてそれが、異端の夜色名詠などという名詠式の使い手たる学生ならば言うまでもない」
......ネイトが異端因子?
それとなく隣の少年を見つめる。その意味を測りかねたのか、ネイトの方は夜色の瞳できょとんと見つめ返してくるだけだった。
「重要なのはそれが事実かどうかではない。奴がそう認識してしまうかどうかだ」
不確定、異端。あの男がそういった言葉に異様に執着しているのは自明。そんな奴が、夜色名詠という異端色を扱う少年の情報を手に入れた時、どうなるか──
つっ、と冷たい汗が背中を伝っていった。
〝......お前たちの顔は覚えておこう〟
姿を目撃したわたしやミオ、エイダだけじゃない。あの男の歪んだ笑み。それがネイトにまで感染ることは十分考えられる。
「昨夜の事件を彼に伝えるか、伝えるとすればどこまでか。これは私も一考を要した」
己の額に指をあてる彼女。その声はいつになく強かった。
「あの男がまだこの学園に潜んでいて、何かを企んでいるとする。いつどこであの男と遭遇するか分からない現状──己の身は己で守るしかない」







──外は、うっすらと陽の滲みだした時刻だろうか。
どのみちこの場所では、陽が差そうと差すまいと変わらない。日光の入らない、矮小な空間。ひっそりと静まった無人の空間で。
敗者は瞳を閉じたまま、ただ自らの息の音だけを聴いていた。
──ラスティハイト。敗者の王はなぜいない?
胸中でこだまする、己のさえずり。
「ヨシュア、お前がその身と共に隠匿した過去。なぜ、灰色名詠の歌い手たる俺に全てを教えなかった。なぜラスティハイトは名詠できない」
灰色名詠において、その真精は三体。
それは王に傅く子供たち──王の右に仕えし、王の剣。
それは王に愛された子供たち──王の左を守りし、王の盾。
そして、その二体の真精の更なる深淵に王はいる。
それは逆世の名詠。力の具現、力の使役。この世の敗者を照らし、敗者にとっての道標となるべき最強最大の真精。
セラフェノ音語においてLasphaの名を冠する真精。敗者の王──Lastihyt。
触媒は分かっている。そのための〈讃来歌〉も用意した。
なのに、なぜ名詠は成功しない。
「ヨシュア、お前が目にした真実は、今誰の手元にある」
灰色名詠の創造者が灰色名詠の歌い手を差し置いて、なお別の何者かに託した秘密。
「俺に伝えず、お前は誰に託したんだ」
もう、何千回その言葉を紡いだことだろう。
選ばれることのなかった敗者は、己の左腕で、疼く右肩をさすった。







七人のうち五人が姿を消した大会議室。
「......考え事?」
壁に寄りかかったままエイダは薄目を開けた。椅子に座ったまま微動だにせず、じっと中空を見つめている女性研究者。
「正直、今もなお迷っている。私自身の決断にな」
ふっ。小さく息を吐き、彼女が珍しく自嘲する。
「私としたことが、らしくないな。ここに来てから迷い過ぎだ」
「自分の身は自分で守れ。確かに、普通の名詠学校の生徒がいきなりそんなこと言われたら面食らうだろうね」
辺境の一名詠学校のはずが、突然の警戒態勢。その中で事態を把握し、さらに灰色名詠からの侵攻に対処できる生徒がどれだけいるだろう。
「実際、お前から見てどうなんだ」
「......ミオについては、誰かと戦うような名詠のストックはほとんど持ってない。ケイト先生がついているといっても、やっぱりいざ交戦となると足枷になる側なのは仕方ない」
分からないのは夜色の少年、そして緋色の髪の少女。
不確定要素。確かに、あの二人にはその言葉がそのまま当てはまる。全貌が未だに把握できずにいる夜色名詠。そして、ここ最近急激に名詠の技術が上がっているクルーエル。
今後の伸び方次第では頼りになるかもしれない。ただ現段階では、どちらも安定しているとは思えなかった。波があるのは否めない。脆いときは、やはりあっけなく崩れてしまいそうな不安が残る。
「──あの二人、可笑しいんだよ。肝心なところで二人ともすれ違ってる」
「ん?」
意味を測りかねたのか、真顔のまま訊き返してくる彼女。
クルーエル、そしてネイト。
「どっちもね、お互いがお互いを守る騎士になりたいのかもしれない。クルーエルは......見てて分かったでしょ、ちび君に今回のことは教えたくなかったんだろうね。全部自分が代わりに背負うつもりだったんだよ、きっと」
それはさながら、弟を守る姉のような印象。
「ちび君はちび君でさ、あの研究所でクルーエルにまた迷惑をかけちゃったって悩んでた。だから今度こそ、自分で自分の身ぐらいは何とかしたい。いつか、『クルーエルさん』に認めてもらいたいって思ってるんだろうね」
窓に映る自らの虚像を眺め、エイダは小さく抑えた声で呟いた。独り言、そう思われても仕方のないほどに。
交錯する想い。
相反する願い。
......少し、羨ましかった。それは結局、そう在るべき相手がいるということだから。
「妬いてるのか」
「祓名民としてならさ、あたし男に守ってもらうことがないくらい強くなっちゃったみたいだからね。女が男に守ってもらう場面て、どんな感じなのかな。やっぱり嬉しいのかな」
「これはまた、随分と乙女心に揺れてるな」
「言うなよ」
気恥ずかしくなり、エイダは嚙みつくように口を尖らせた。
と。からかわれるかと思ったが、彼女は楽しそうに目を細めただけだった。
「言わんよ。昔は私も、そういった類の絵本を読むのが好きだった。ただ私は結局、男より研究を選んでしまったがな」
「あたしだって似たようなもんだよ。今年の夏休みだって、あの馬鹿親父に付き合って朝から晩まで特訓特訓......」
「ああ、どうりで前より日焼けしてると思ったよ」
「ほっとけ」
そっぽを向く。──日焼け。そう言えば。
クルーエル、あんなに肌白かったっけ。
......いや。会議室では皆議論に注意を払っていて気づかないようだったけれど、あの時の彼女は白いというより、まるで青ざめていたような。







総務棟における情報処理室は、各棟を直結する通信機とその交信記録書類が所狭しと積まれた部屋だ。その隅に机を構え、ミラーは黙々と報告書を書き殴っていた。全数十枚にも亘る、調査委員会への報告書。最後の二行まで迫ったところで。
「ミラーさん、ちょっと来てもらえますか」
情報処理関連の嘱託職員が肩を叩いてきた。......あと二行だったのに。
「──何か」
「虫が来てるんです」
「......虫?」
職員が指さす方向に眼鏡を向け──窓の外枠、数十匹からなる翅虫の群れが一列に留まっていた。一種異様な光景に思わず息を呑む。
それぞれが薄く透ける緑の翅を持ち、窓に張りついた状態でそれを大きく広げていた。──まるで、その羽で何かを受信しているかのように。
......これは、音響蝶か。
『Beorc』の第四音階名詠に相当する蝶。その特徴は、大人の手のひらの二倍ほどある巨大な翅だ。その翅を細かく振動させることで、独自の周波を持つ音波を作り出す。この波によって、遠距離にいる同種と意思疎通を図る習性を持っている。
そして、この習性を利用することで人は遠距離通話が可能となる。
音響蝶を数十匹単位で名詠。その半分を目的の場所まで飛行させる。しかるのち、手元に残った虫に向かって話しかけることで、その声は音響蝶を介し相手に伝わる。
情報通信──名詠士の中ではこの類の名詠を生業とする者が少なくない。トレミア・アカデミーなどの名詠学校はもちろん、各都市の主要組織・建造物では必ず、その業種に携わる名詠士を常勤として置いている。
しかし......一体誰からの?
実のところ、この情報通信において日常使われるのは音響蝶ならぬ音響鳥の方なのだ。情報通信としての手段となると、体の大きさ等で勝る鳥の方が長距離移動・長距離通話が可能となる。この世界における情報伝達方法では、音響鳥が最も一般的なものの一つと言えるだろう。
一方、蝶が優れているのはその見栄えだ。天然の宝石を模したような透ける翅。その小さな体が醸し出す儚さ。しかし事務的な情報通信としての手段ならば、まず使われることがない。滅多にお目にかからない音響蝶だからこそ、情報処理室の職員もまた動揺して自分に意見を求めてきたのだろう。
窓を開けてやる。ざわざわと翅音を響かせ、一斉に部屋に入ってくる蝶の群れ。
「トレミア・アカデミー、情報処理室のミラー・ケイ・エンデュランスだ。そちらの所属と名前、用件を伺いたい」
数秒後、音響蝶の翅が小刻みに震えだした。
相手からの声を受信した証。
『あなた、名詠士?』
──絶句した。
蝶の美しい翅から響いてきた声。それが、宝石にも似た音響蝶の翅より、なお澄みきった声だったからだ。喩えるなら一流の職人が手がけた最高の鍵盤楽器。そう、声というより一つの旋律。声そのものが完成された美術品。
「......そうだが。あなたは、まさか」

初めて耳にした声。だが自ずと相手の正体が分かった。
あえて音響蝶を選ぶという嗜好。そしてこの声。
『名詠士のあなたなら、シャンテ──と言えば分かってもらえるかしら』
やはり、〈イ短調〉の〝歌后姫〟か。
同性異性問わず、あらゆる者を虜にすると言われるその声音。ただ声を聴いているだけでこれだ。それが歌となると、一体どれほど恐ろしい旋律を奏でるのか。
「そちらの身元は把握した。用件は?」
『今そちらに、はた迷惑な研究者が居座っていると思うのだけど、すぐ呼べる?』
はた迷惑な研究者。思い浮かぶ該当者は一人しかいない。なるほど、言い得て妙だ。
「今この場にはいない。別階にいるはずだから、少し時間をくれ」
一瞬、通話先が沈黙する。言葉を選ぶような間を隔て──
『不躾だけど急いでもらえるかしら。割と緊迫した内容だから』
その声は、美しさの中にも焦りの音色を含んでいた。
3
......どう......しちゃっ、たんだろう。
額に手をあて、クルーエルは苦悶の声が洩れないよう歯を食いしばった。
頭が割れるように痛む。
今日の朝起きた時は、本当に微かな痛みだった。笑ったり会話したりする間はそれを忘れるくらい小さな痛み。なのに、それが時間を追うごとに徐々に強くなってきた。目眩がして、気を抜くと倒れかねないほどだ。
歩くのが辛い。今すぐ横になりたい。今すぐ──倒れたい。
ケイト教師、ネイト、ミオ、自分。いつのまにか、集団の中で自分が一番最後尾になってしまっていた。......お願い......もう少しだけ、ゆっくり......歩いて。
自分の前を行くネイトとミオ。
二人が、何か自分のことで話している気がする。だけど、それすら耳に入らない。何も、何も聞こえない。頭の中で轟と唸る鈍痛だけで発狂しそうになる。
──どう......しちゃったの......わたし。
昨晩の疲労、緊張? だけど、ここまでひどいものだったの?
原因すら分からぬまま、クルーエルは鉛のように重い足をひきずりながら進んでいった。







トレミア・アカデミーにおける図書管理棟とは、学内の書物から研究書類までを一手に管理する棟だ。
棟外に数多く並べられた簡易椅子とテーブル。憩いの場として利用する者、生徒や教師と共に議論の場として利用する者。学年性別問わず、とにかく人の会話が途絶えない場所。
トレミア・アカデミーに転入した日、ネイトはそう聞かされていた。
図書管理棟、そして三年生校舎に挟まれたこの区域。そう、昨日の朝に登校してきた時は、ここも生徒に埋め尽くされていたはずだった。
それが、今は。
「......本当に誰もいないんですね」
分かり切っていることだが、それでもネイトは自分の心境を口にした。そうしなければ、この静寂の中に自分も呑み込まれてしまいそうだったから。
閑散とした、音の無い風景。寂しさとは質を異にする、言い様の無いもの悲しさがそこにはあった。
「他の先生も、みんな分散して哨戒にあたっているから」
前を歩くケイト教師が立ち止まる。
前方に図書管理棟、後方に三年生校舎が控えている。両の建造物に挟まれた大通り、そこがサリナルヴァから指示された待機場所だった。
最重要基点とされるのは主に二点──四年生校舎の先の触媒資料館、及び昨夜犯人と出くわした二年生校舎一帯。これらは既に厳重な警戒態勢が敷かれている。一方で総務棟はサリナルヴァやミラー教師が控え、一年生校舎周辺はエイダとエンネ教師を中心に。
その結果として残った場所が、自分たちの哨戒区域だった。四年生校舎と二年生校舎を繫ぐ、いわば伝令役としての役割。
「ここにいればいいんですか」
「ええ、だけど──」
振り返る教師。その表情には拭いきれない緊張があった。
「もし万一、昨夜の犯人と遭遇した時は、あなたたちには応援を呼んでもらいたいの。間違っても戦うなんてことを考えちゃ駄目」
......研究所で言われたのと同じだ。
微かにネイトはまぶたを伏せた。
灰色の名詠生物が巣くう研究所。自分はそこで、一方的に助けてもらう側だった。大きなことはできなくていい。ただせめて、周りの人に迷惑をかけたくない──そう願って、でもそれすらできなかったあの時。
ならば、母から教わった名詠は何の為にあるのだろう。みんなを守りたい、そう願って紡がれる名詠すら満足に詠えない。それが悔しかった。
......自分のことを守るだけじゃ足りないのに。それすらまだ、僕は......
かつて、母と虹色名詠士がそうであったように。クルーエルさんが自分にそうしてくれたように──大切な人の、大切な思い出を守りたい。......僕もいつか、大切なものを守れるようになれるのかな。
「ネイト君」
ふと背にかかるミオの声。
「......ネイト君、ごめんね。あたしのせいでこんなことになっちゃって」
「ミオさんのせいじゃないですよ。僕、サリナルヴァさんから聞きました。ミオさんが名詠で救援用の照明を詠んだんだって。あの人、ミオさんのことすごく褒めてたんですよ。勇気と実行力を伴った、芯の強い子だって」
「......ううん、あたし、あの人の背中でずっとふるえてただけだから」
まぶたをとじ、ほのかな笑みをミオが浮かべる。
「でもねその分、クルルが助けに来てくれた時は嬉しかったんだ。かっこよかったんだよ、ね、クルル?」
後ろの彼女へと振り向く。が、返事は無かった。
「......クルーエルさん?」
自らの目で凝視し、ようやくネイトは彼女の異変に気づいた。
顔面蒼白。涙を隠すかのように、片手で自分の顔を覆うような格好。足を地に引き摺りながら、目の前の少女はかろうじて前に歩を進めていた。
「クルル、どうしたの!」
「............あ......ごめんね」
──反応が遅すぎる?
彼女の様子に、ケイト教師までもが歩み寄ってきた。
「クルーエル、どこか悪いの?」
「────平気です」
やおら、クルーエルが顔を持ち上げた。
普段の笑顔で、いつもと変わらぬ口調。
「ちょっと頭が痛かっただけ。問題ないですから」
だがネイトは、そんな彼女の表情を見て寒気にも似た戦慄が走った。
──何かが違う。
怒った表情、笑った表情、困ったようにはにかむ表情。夏休みに見てきたどの表情とも、今の彼女の表情はかけ離れていた。
「......クルーエルさん、それ、噓です!」
血を吐くような心地で、ネイトは首を横に振った。
「ネイト君?」
驚いたような声を教師が上げる。
「......クルーエルさんのいつもの表情じゃないもの。すごく辛そうなの、分かります。夏休みずっと一緒にいてくれたんだもの。それくらいは分かります!」
最初、手で顔を押さえていた。頭が痛いのはおそらく本当なのだ。噓なのは、それが「問題ない」程度だということ。──平気なはずがない。気丈に振る舞う仕草が、余計に痛々しくその苦しさを伝えてくる。
「お願いクルーエルさん......本当のこと言ってください」
「クルーエル?」
教師の問いにじっとうつむく少女。緋色の髪に隠れ、その表情は読み取れない。
「──困ったなぁ」
唐突に。場にそぐわぬ優雅な手つきで少女が前髪をかきあげた。
その髪の下には、普段の優しい表情があった。いつも自分の隣にいてくれる時の、あの笑顔。だけど今だけは、その笑顔が怖かった。......あまりにも安らかな表情だったから。
「だめだよネイト。秘密にしておいて欲しかったな」
......クルーエルさん?
そして、何の前触れもなく。
にこやかな笑顔を浮かべたままで──彼女は自分の方向へ倒れてきた。
「っ! 平気ですか!」
脱力しきったその身体を受け止める。手を握っても、握り返す力が残っていないほど消耗し尽くした彼女。
「やっぱり......体調悪いんですね」
一体、一体どうして。何があったの。
「まったく。いけない子だなぁ、キミは」
寄りかかったまま、わずかに彼女が自分に向けて微笑んだ。
ちょこんと、ふるえる指先で、ネイトは額を突つかれた。
「だめだよ......夏休み一緒にいたの、秘密にしようねって言ったじゃない」
〝あ、でも夏休みのこれは秘密ね。ミオとかエイダにもだよ〟
〝......は、はい〟
「......クルーエルさん?」
その言葉を最後に──
自分に寄りかかった姿勢で、口元に微笑を浮かべたまま彼女は意識を失った。







校舎の階段を一段抜かしで下っていく。
──歌后姫が私に。このタイミングで何の用だ。
情報処理室の扉を開ける。部屋の一端に留まったままの美しき蝶群。知り合いが好んで名詠する生物だ。なるほど、彼女からだというのは間違いないらしい。
『もしかして、そちらも切羽詰まった状況? 靴音がいつもより大きいわ』
サリナルヴァが口を開けるより早く、蝶が緑の翅を震わせた。既に向こうは待機中だったらしい。もっとも、こちらもその方が手間を省けるが。
「そう分かっているなら手短に願いたいものだな......で、どうした」
『わたしからの用件ではないわ。厳めしい最強名詠士からの伝言よ』
最強の名詠士。それが誰かというのは物議を醸す話題になる。しかし名詠士の間で用いられる場合、それは競闘宮における現覇者を暗に指す。
祓名民の首領クラウスと並ぶ、現代の二強──
「大特異点からか。あいつは襲撃先の事後調査に行っているとお前から聞いたが」
『ええ。で、彼から興味深い報告を受けたわ』
「報告の基本は──」
『結論から、でしょ? 率直に言うわね。一連の事件の犯人が狙っていた物が判明したの。そして、それは触媒ではなかった』
「......なんだと」
高度に幾層にも積み上げていた計算式。それに亀裂が入るのを自覚した。
襲撃された研究所などで、触媒の貯蔵庫に踏み入った形跡があるという報告書も目にした。何より、身内であるフィデルリア支部研究所でも〈孵石〉が抜き取られていたのは確かだ。
『ええ。だけど、あなたのフィデルリア支部研究所だけが特別だったのよ。〈孵石〉という特殊な触媒は確かに犯人の目的の一つ。だけど、他に犯人が襲撃した場所には〈孵石〉は置いてないでしょ。ならば何を狙っていたか』
触媒の貯蔵庫にあって、触媒で無いもの──
「触媒の実験報告書か!」
『ええ。最初は誰もが触媒そのものかと思っていたけど......事後調査でようやく判明したの。実際、フィデルリア支部においても〈孵石〉の実験報告書が抜き取られていたということが確認されたわ』
犯人の目的は、〈孵石〉を含めありとあらゆる触媒の実験報告書?
理由は不明。しかしだとすれば、トレミア・アカデミーにおいて犯人が狙うのは触媒資料館ではない。トレミア・アカデミーにおいて、資料館はあくまで触媒の保管庫。そういった報告書はまとめて──
......待て。冗談では済まんぞ。
「すまんシャンテ、今すぐ通話を切るぞ!」
『え──、どうしたの、ちょっと?』
応える余裕もなく、サリナルヴァは音響蝶から身をひるがえした。
「ミラー、一年生校舎にいるエイダを至急呼び出せ......いやだめだ、それでは遅すぎる、直接図書管理棟へ向かわせろ!」
「どうしたんですか」
「読みが裏目に出た、最悪な方向にな!」
トレミア・アカデミーにおいて、報告書の類も含め学術文献は全て図書管理棟に保管されている。それ自体はさしたる問題ではない。問題は、その付近にいるはずの者たちだ。
夜色名詠の少年。そして、黎明の神鳥を従える少女。
──あの男からすれば垂涎の標的となる。
触媒資料館が犯人の狙い。そう踏んで彼らを直接的な危険域から外したつもりが、まさかこの期に及んで。
私の読み誤り。いや違う。もはや、ただの読み誤りというもので括れる事象ではない。
このタイミングの歌后姫からの報告。そもそも、犯人の襲撃が昨夜だったということがそうだ。出会うことを道づけられたかのような、この不自然な連なり。
......これが、本当に全て偶然だというのか?
運命などという安易な言葉を用いる気は毛頭ない。だが今だけは、自分たちの意識の遥かな頭上で、何か必然めいた『偶然』が嗤っているとしか考えられなかった。さながら、何かによって予め仕組まれた不自然な均衡。人為的な調律。
生まれることを計画され、分化することを決定づけられた図表。すなわち。
──予定運命図という名の、調律。
だがしかし、ならばこの調律は誰によってなされたものなのだ。
......間に合うか?
学内の棟同士を連結する通信機器の間に走り寄る。
「こちらは総務棟、情報処理室だ。図書管理棟の司書はいるか!」
......つながらないだと?
『────』
「おい、誰かいるのか」
何かが通話先で動く気配。そして──
『......なるほど、通信機器か。初めて使うが便利な玩具だな。普段は音響鳥しか使わないこともあるが、中々に興味深い』
低い掠れ声。その声音に、通話機を通しても背筋が凍えた。司書ではない。それは、昨夜遭遇したあの男の──
「貴様っ!」
それ以上の応答は無かった。何度怒鳴っても相手からの返事はもはや無い。あの男が平然と通話室で通信に出るという状況。それはつまり。
──図書管理棟は、既にあの男の手に落ちている?
4
海の奥底にも似た、暗い澱んだ視界。微睡む心と記憶、意識の狭間。どこまでが記憶で、どこまでが意識なのか。その区別すら虚ろな夢と化していく。
その中でただ一つ、暗闇に輝く光よりも明確に、何者かも分からぬ声だけが確かに伝わってきた。
〝──ああ、ようやくわたしの声が届くのね。わたしの大切な人〟
......あなた......誰。
それに答えぬまま。
〝三度目ね〟
声が、歌うように告げてくる。
......なにが......三度目なの。
〝とても単純。あなたが名詠を行使した回数〟
噓だ......三度なんて、そんな少ない数じゃない。
〝いいえ。あなたが普段名詠式と思っているものは、本来のあなたの名詠とは似て非なるものだもの。本当のあなたの名詠は、もっともっと素敵なものだから〟
......わたしの、名詠?
〝だから、あなたの名詠はまだ全部で三回。であると同時に──既に三回も、と言うこともできる〟
三回。なんだろう、その数
〝競演会で一度、研究所で一度、そして昨日〟
競演会。研究所。昨日。声の告げてくるままを反芻する。
〝〈黎明〉が近づくほど、〈花〉は早く咲くものでしょう?〟
それはまさか──
〝ううん。怯えないで、貴女の大切な貴女〟
......わたし、怯えてなんかない。
〝ふふ、それでいいの。自分の意志で、心の赴くまま名詠門を開きなさい。大切な人を守りたいのでしょう?〟
......守りたい。それだけは、守りたい。
〝そう、それはとても大切なこと。自らの名を知り、自らの力を知りなさい。そして早く、わたしの場所までたどり着いて〟







「ネイト君、早く、こっちだよ!」
図書管理棟の扉を開け、ミオが大声と共に手招きしてくる。
......クルーエルさん、お願いしっかりして。
目を瞑ったままか細い呼吸を繰り返す少女。自分より背丈があるのに、その身体は怖いくらいに軽い。それが、不安をより一層肥大化させる。
──お願い、どうか何事もありませんように。
彼女を背負い、ネイトは図書管理棟の扉をくぐった。
「ネイト君、クルーエルをここに!」
メインルームで先に待っていたケイト教師。そのすぐ脇に、ソファーを並べた即席のベッドが用意してあった。
「ミオ、あなたは医務室まで行って救護班を呼んできて!」
「あ、先生、それならここの通話機で連絡した方が早いよ。あたし図書管理棟の司書の人と仲良しだから、探してお願いしてくる!」
そう叫ぶなり、返事も待たずミオが二階フロアへの階段を昇っていく。
医務室。専門の医者に診てもらえれば確かに心強い。
──だけど、原因は何なんだろう。
「ネイト君、夏休みクルーエルと一緒にいたというのは?」
ケイト教師がじっとこちらを見下ろしてくる。
ついさっき、自分が口走ってしまったことだ。
「──ずっと、僕の名詠の練習を見てくれてたんです」
「異性のクラスメイト同士が、という風紀的な問題に関しては今は言いません。あなたとクルーエルが一緒にいた時、何かおかしな様子はなかったかしら」
ない。ないはずだ。
原因は本当に分からない。ずっと一緒にいてもらった。逆に言えば、原因と呼べそうなものはなおさらそれしか思い浮かばない。ずっとずっと、それがクルーエルさんの負担になっていたのかもしれない。
──僕、なんて馬鹿なんだろう。
昏倒するくらい体調が悪化していた。なぜ、彼女の異変に今まで気づかなかったのか。ずっと一緒にいたのに、そんなことにすら頭が回らなかった。
「......分かりません。でも、僕のせいかもしれないです」
「──そう。だけど、あまり自分を責めない方がいいわ」
それきり隣の教師が口を閉じる。
だから、ネイトは視線を彼女の方へと戻した。
......クルーエルさん。
ほのかに上気した頰に、赤みを帯びた瞼。若干ではあるが、熱もあるに違いない。額にうっすらと浮いた小粒の汗をハンカチで拭ってやる。
──お願い、もう少しだけ頑張ってください。
目を開けぬまま、ただ呼吸だけを繰り返す少女。ネイトは、その横顔をじっと見つめ続けた。
あれ、ルーティさんどこ行ったんだろう。
図書管理棟二階フロアを一通り眺め、ミオは目を瞬かせた。いやそもそも、一階にいない時点でおかしいのだ。普段自分が訪れた時は、一階のフロアで本の整理をしているか受付をしているかなのに。
「......ルーティさんも避難しちゃったのかな」
──あれ、ちょっと待って。
これだけの厳戒態勢。図書館の司書が避難しているのは納得が行く。だけど警備員すらいないのはどういうことだ。警備員も、自分が来た時はいつだって玄関前に待機していたはずじゃないか。ううん......それよりも、なお原始的な疑問があった。
夢中で気づかなかったけど、自分たちは扉の鍵を持っていたわけじゃない。鍵を使わずとも入れた──なぜ、この図書管理棟は扉に鍵がかかっていなかったんだ?
いつ危険な犯人がやってくるとも限らないこの状況。扉に施錠しないというのは考えられない。姿の見えない警備員。そして、最初から開いていた扉。
あまりにできすぎている。
既視感じゃない。もっと現実的な記憶。
それも、つい昨日のことじゃないか。昨夜は、正門のところにいるはずの警備員がいなくて......それを探していた時に、あの恐ろしい男と遭遇した。
──同じだ。昨日とまったく同じだ。
全身、身体をぞっと冷やす汗が噴き出した。
そして......もしあの時と全てが同じなら......あの男がいる場所は......
ズッ。床を擦るような独特の足音。......これ、空耳だよね。そうだよね。
ゆっくり、ゆっくり振り返る。そして──
「あ......あはは......」
おかしくなんかないのに、凍りついた口から洩れたのは笑い声だった。やっぱり、やっぱりだ。なんで最近のあたし、こんな素敵な出会いばっかりなんだろう。
目の前、わずか一歩分と離れていない距離に佇む男。忘れもしない、とうに網膜に焼きついている。昨夜と違うのは、その男は左手に何か、触媒らしき物を携えているということだ。でも、何だろう。こんな触媒見たことない。まるで銀色の卵みたい。
「これはまた、面白い所で出会ったな」
皮肉か同情か、感情を押し殺した声はそれすら区別がつかない。男の声に応えるように、男が左手に持つ触媒が輝きを放ち出す。
そして──ミオは、絶叫にも似た悲鳴を上げた。







部屋の至る所に降り立った音響鳥から、けたたましい怒鳴り声が響いてくる。
──まさかここまでとは。
「ミラーさん、あちらを!」
職員が指さす方向。窓から見える有色の狼煙。その方向は一年生校舎からだった。
名詠によって生まれた煙。教員間で非常時の際に限り用いられる合図である。
「......一年生校舎もか」
エンネが警備についていた場所。本来なら即座に他の配置場所から応援をやるのだが、それすら許される状況ではなかった。
これで、全校舎一帯の方角から狼煙が確認された。
『ミラー、なぜ応援が来ない! このままでは校舎内まで突破されるぞ!』
音響鳥が伝えてくる学園内の現状。それは非常に簡単な説明で事足りる。──すなわち、灰色名詠の襲撃を受けている、と。
「何とか耐えてくれ! いよいよになったら自分たちの身を優先させろ!」
そうしている間にも、さらに新たな音響鳥。襲撃された場所にいる教員が、連絡用に名詠してきているのだ。それが既に十羽近く。もはや情報処理室の全人員を動員しても対処に追いつかない量になってしまっていた。
『それは分かった。だが応援はどうした!』
「......応援は来ないものと考えてくれ」
『なに?』
言葉で説明する時間すら今は惜しい。手元にいた別の音響鳥を拾い上げ、ミラーは目の前の音響鳥にそれを近づけてやった。
──おいミラー、応援はまだか!
音響鳥を経て、先とまるで似た怒声が音響鳥に伝わっていく。
一瞬の空白を開け、その相手が押し黙った。
『おいミラー......まさか学園の別の場所でも、灰色名詠のが暴れてるってのか』
答える気にもなれず、ミラーは別の音響鳥先の対応へと切り替えた。
──まさか、退くどころか特攻してくるとは。
これだけの数の名詠生物となれば、用いられている触媒は相当に強力な物だ。おそらく〈孵石〉。ケルベルク研究所フィデルリア支部からあの触媒が奪われたことを踏まえるならば、同施設を一夜にして陥落させた犯人は、やはり昨夜の男。
本来、姿を目撃されたならすぐその場から逃走するのが常套。頭の良い犯人なら尚更だ。
しかし昨夜の男は違った。怯むどころか、なお嬉々として戦力を投入してきた。
調査委員会を始め自分たちは、一連の事件を頭が切れる者の犯行と仮定していた。それが、最も大きな誤りだったのだ。犯人はただ純粋なる──狂犬だったのだから。
「......競演会の二の舞か」
本当は、自分だって今すぐ応援に飛んでいきたい。だが自分がここを離れては、誰がこの場を統制する?
──今はこの場を離れることができない。たとえ、どんなに酷い報告が来ようとも。
言い様もない自身への憤りに、ミラーは奥歯を嚙みしめた。







「──っ!」
木陰から次々と飛びかかってくる灰色の名詠生物。それらをかろうじて躱し、文字通り蹴散らしていく。
......なんだ。鉄よりむしろ石の方が軽いじゃないか。
灰色に固まったハイヒールを眺め、サリナルヴァは自嘲の笑みを浮かべた。
幾度目かで、既に片方の靴先は石と化している。足そのものの石化にはかろうじて至っていないが、それもあとどれだけ保つか。『Nussis』の術式を会得していない自分にとって、この灰色名詠は最悪の相性だ。
ざっと周囲を見回す。全方位、至る所で上がる狼煙。学園内の随所で灰色名詠の襲撃を受けていることは、この光景を見れば嫌でも察しがつく。
──図書管理棟、間に合うか?
二年生校舎を越え三年生校舎へと続く通りを駆ける。
揺れる視界の中、徐々に輪郭を帯びてくる鈍色の建造物。地上五階、地下二階。トレミア・アカデミー内でも図書管理棟は高層建造物の部類に入る。
遠目にも映える管理棟の玄関扉を視認。荒ぶる息を押し、さらに足を速める。
いや、速めようとした直前だった。
走る自分の真横から、突如鋭い風鳴り音。
目で確認したわけではない。だが長年の経験と己の生存本能だけで、サリナルヴァはその場で身を伏せることを選択した。
一瞬の間を置き、自分の頭上を何かが通過。慌てて顔を持ち上げ──
......なんだ、こいつは。
その場でサリナルヴァは息を呑んだ。
図書管理棟の玄関扉を守るように佇立する、人型をした銀色の存在。
その周囲、それを護るように浮遊する十二の銀刃。今まで見てきたどの灰色名詠とも類を異にする......いや、待て。どこかでこいつの情報を聞いた記憶がある。
記憶の底、クラウスから受けた報告を思い出す。
──こいつが、灰色名詠の真精か!
だとすれば、まずい。祓戈の到極者級の達人をしてようやく渡り合える真精。一研究者たる自分が正面から差し合える相手ではない。
真精が両手に誇る大剣を振り上げ──刹那、地を滑るように突進してきた。速い。だがそれ以上に、その静謐さにこそサリナルヴァは怖気だった。地面の砂一粒舞うことのない、無音・無気配の超高速移動。
瞬きする間に、十数メートルの彼我が一瞬にして零になる。
左右から、真精の周囲を浮遊する守護剣。真正面には真精の振るう大剣。後方に跳躍するも、その空白さえも一挙に詰められた。
......やはり、真精相手では勝負にもならないな。
無傷で躱せる呼吸でないのは自明。ならば相応のダメージを犠牲として逃走、この真精を迂回して図書管理棟に突入するルートを探すか?
眼前に迫った真精。一撃を受けることを覚悟した。
「──そんな悠長なことやってられないだろ」
迫り来る銀閃が、更なる銀閃によって打ち弾かれた。
灰色の煙を上げて送り還される守護剣の一本。それを前に、真精の動きがわずかに鈍る。
「ほら、さっさと行きな!」
真精と対峙する、赤銅色の少女。
「エイダ! 一年生校舎は」
「何とか大半は片づけた、他のセンセも別の配置場所に応援に行ってる!」
無事だったか。意図せず安堵の息が洩れる。
......だが、まだ早いな。ここからが最後の詰めではないか。
「すまん、手を煩わせるぞ」
「本当はあたしだってこんなのとやり合いたくないんだけど......でも、こいつに関してはあたし以外どうしようもなさそうだしね」
決してエイダの驕りではない。根本的な相性の問題により、いわゆる「名詠士」でこの真精を打ち破るのは至難なのだ。
この灰色名詠の真精に対し第二音階名詠ではまるで歯が立たないのは明白。かといって真精を詠ぶとしても、〈讃来歌〉を詠うだけの時間もなく切り捨てられる。すなわち──対名詠士用に特化された真精。だからこそあの男は自分の側近として使わず、迎撃役として自身最強の手駒をここに配置したのだろう。
「先に行く、後で必ず来い!」
真精を迂回し、サリナルヴァは図書管理棟へと駆けだした。
それを見送り、エイダは小さく苦笑した。
......厳しいな。
十二の守護剣。両手に生えた銀色の大剣。
真精の特徴は、あの研究所で見た時と何一つ変わらない。ただ、今自分と対峙する真精は、あの時の真精の体格を優に一回り上回っていた。
体格に応じ、腕力も増大している。大剣を弾いた際に痺れた腕。その一時的な麻痺がまだ治らないのだ。他方で、体格が異なれば間合いも異なる。下手に同一の真精と思うより、まるで別個体だと認識を改めた方が良い。
だが、これはどういうことだ。
各色において詠び出せる真精は一体のみ。仮にクルーエルならば『Keinez』の真精は黎明の神鳥以外に詠ぶことはできない。しかし今、同じ真精だが、明らかな別個体がここに存在している。
すなわち。研究所で〈孵石〉から現れた真精と、この場の真精。この二体を詠んだ名詠士は別の人間の可能性が高いのだ。
──それは、どういうことなんだ?
真精は黙して答えない。だが、それと呼応するように──
銀色の真精は、両の大剣を大きく振り上げた。







図書管理棟に響き渡る、少女の悲鳴。
「今の、ミオさんの?」
怪訝な表情を浮かべる夜色の少年。
「......私にもそんな感じに聞こえたわ」
椅子から立ち上がり、ケイトは脱いでいた上着を羽織り直した──触媒の入った上着を。
「ぼ、僕も!」
「──ネイト」
びくりと、その少年の動きが止まる。彼の肩に手を伸ばし、ケイトはほっそりとした懺悔を送った。
「ごめんなさい。......私ね、やっぱり心のどこかで、あなたを『まだ十三歳だし、特別扱いしてもいいかな』って思ってたのかもしれない」
初めて、自分はその少年に対し『君付け』をしなかった。今までやめようやめようと思って、なお惰性で付けっぱなしだった呼称。
ミオやクルーエル。他の生徒と違って、この少年だけはずっと君付け。でもそれは、この少年を子供扱いしていたからだ。
「私の信頼する一人の生徒として、お願い。ここは私が行きます」
「でも......」
「──ネイト、あなたがいなかったら誰がここでクルーエルを守るの?」
その一言に少年が息を呑む。夜色の双眸に宿る、小さな決意の色。
だから、ケイトは再び訊いた。
「クルーエルを、任せていい?」
足手まといとは思っていない。自分がミオの下へ向かうのと同じくらい、クルーエルの下に誰かがいてあげることも大事なのだから。
「......はい」
「いい返事です」
頷く少年に、ケイトは片目をつむってみせた。
──ミオは、三階の通話室?
クルーエルに付きっきりだったせいで、ミオが最終的にどこへ向かったのかは把握していなかった。一階を見回すものの、それらしい姿はない。
図書管理棟内部は、二階以降はフロア中心部が吹き抜けというドーナツ状の設計になっている。見上げるも、さすがに上階の様子までは定かではない。
「ネイト、クルーエルをお願いね」
一階脇にある階段を上っていく。が、その半ばでケイトは足を止めた。
階段が微震。それに呼応するように、何か巨大なものが床を踏み抜く音。これだけ鈍い重音からして、それもかなり重量がある何か。──少なくとも、人ではない。
やっぱり、あの悲鳴は何かがあった証拠だ。
「ミオっ、どこにいるの!」
階段を一息に駆け上がる。続けざまに三階まで一挙に上り詰めようと、三階につながる階段の手すりに手をかけた。
「教師か?」
刹那。脳内で鳴り響く警鐘に、ケイトは反射的にその足を止めた。
わずか十数段先に、頭から爪先までを覆う服装に身を包んだ男がいた。フードから覗く口元は歪んだ笑みの形。その左手には、卵形をした灰色の触媒。
──こいつが今回の首謀者か。
「......ミオはどこ」
「お前は誰だ? 当初俺が想定した警戒すべき人物に、あいにくお前の顔は無いんでな」
一方的に言い放ち、男が懐中から紙切れを取り出した。
「まあいいさ、俺の方で調べる......ああ、あった。『ケイト・レオ・スェリ教師補。専攻は『Ruguz』、トレミア・アカデミーでは一年生の担当を任される。教師の試験を受ける前、十一ヶ月ミンティア天立研究所の正助手を務める』......ほぉ、中々優秀な経歴を持っているじゃないか。そのまま研究所に残ることは考えなかったのか?」
淡々と、物語を読み聞かせるように紙面を朗読する男。
──情報は、全て正確だった。
「......内通者は誰」
「内通者? はは、随分と身内を信用していないんだな。ま、安心しろ。この学園の連中じゃない。そんな便利な友人がいれば、この娘如きに何度も見つかることはなかっただろうさ」
この娘。
その単語の意味する内容を悟り、ケイトは目を見開いた。
「ミオはどこ、答えなさい! さもなくば──」
「さもなくばどうする。こいつごと、娘を氷漬けにでもしてみるか?」
図書管理棟が震えた。
三階フロア。階段の端に立つ男の傍へ、巨大な石像が寄り添うように近づいてきた。
いや、石像ですらない。灰色の巨岩をいくつも雑に接合させ、かろうじて人型を成したような輪郭。もはや名詠『生物』とすら呼べるかも怪しい。大きさは、男より頭二つほど大きいだろうか。背が高いというより、太い。腕の周囲に至っては自分が一抱えしてようやく測れるかどうかだ。
そしてその右腕で、灰色の名詠生物は制服姿の女子生徒を捕らえていた。見覚えある、金髪童顔の少女。
「ミオっ!」
「......ケイト先生?」
わずかに自由のきく左手を、階下の自分に向かってミオが必死に伸ばす。たった十数段の階段を昇った先にいるのに──なぜ、こうも遥か彼方のように感じるのか。
直線距離にしてたった十メートル弱。だがそれは、何人たりとも容易に踏み出せない距離。あまりに、今の自分にミオは遠かった。
「その生徒を放しなさい」
が、それは嘲笑されただけだった。
「灰色名詠における第二音階名詠、〈arsei lefis〉。この無骨な外見が気に入らなくて普段は使わないんだが、可愛らしい人質を手元に管理しておく程度には役立つな」
「......言い方を変えるわ。人質一人を盾にしてどこまで逃げ切れると思ってるの。もうすぐここにも応援が駆けつけるわよ」
男が洩らす、微かな嗤い声。
「羨ましいな」
......羨ましい? あまりに場を無視した単語。だからこそ、ケイトは背筋が凍えた。
何なんだ、この余裕。なぜこうも平然としていられる?
「応援が来る、それを本気で信じ込めるお前の頭さ。どこまでも幸せな設計になっているんだな。羨ましいことこの上ない──お前は敗者では無いのだからな。しかしそれゆえ、敗者で無きお前が俺に打ち勝つこともまた不可能だが」
......この男は何を言っているんだ。
「分かりやすく言ってやろうか? 応援は来ない。よしんばこの棟の直前まで来たとして、そこには俺の真精たる〈sterei efflectis Ezehyt〉が控えている。だからこそ、俺はこうものうのうと構えているんだがな」
──まさか、学園全体に灰色名詠の生物を解き放ったのか。学園の哨戒にあたっていた者はその対処で手一杯。ここに人員を派遣する余裕すらない。
「いや、言い直そう。一人だけは、あるいは通過してくるかもしれないな。むしろ、そうでなくては困る。昨夜言いそびれたことがあったんでな」
コツ、階下で乾いた靴音が鳴り響く。この音は......ハイヒール?
その音を耳にし、フードの下の口元を男がより一層吊り上げる。
「さあ、俺はここにいる──さっさと上がってこい、〈イ短調〉! 全世界の誰もが詭弁と否定するであろう、全ての名詠式の歴史と概念を覆す事実をくれてやる! ......そして、それを聞いた時のお前の表情が楽しみだ。なあ?」
揺れる波紋のように、その咆吼は図書管理棟に浸透していった。







──今、何が起きてるんだろう。
ソファーに横たわる少女の隣に佇んだまま、ネイトはじっと頭上を見上げた。
二階以降は中央部が吹き抜けとなっているため、不明瞭ながらもその声は階下にも届く。断続的に響く、上部フロアからの声。ケイト教師と何者かの......対話? 言い争うという印象は感じない。
時間の経過がひどく遅く感じる。黙って待つ、それがここまで息苦しいと感じたのは初めてかもしれない。
......僕に、できること。
夜色名詠の第一音階名詠には、その前提として長大な〈讃来歌〉と特殊な触媒を要する。夜色の炎を生み出す『炎色反応』、そのための薬品は小瓶に携えている。しかしこの棟内では、たちまち周囲の本に燃え移って棟全体が炎上してしまう。炎は使えない。
──せめて、夜色名詠に使える強力な触媒が他にもあれば。
コツ、乾いた靴音がロビーに小さくこだました。
──棟内部には名詠生物はいないのか。
周囲の気配に警戒しつつ、一階のフロアへ。入ってすぐ、サリナルヴァは夜色の少年と目があった。
「少年、無事だったのか!」
「......は、はい」
頷く彼に胸をなで下ろそうとし──しかし、ソファーに寝かされている少女を見た瞬間に息が詰まった。
「クルーエル! 何があった?」
「クルーエルさん......さっき急に倒れたんです。原因が分からなくて。それと、ミオさんの悲鳴が上から聞こえてきて! 今ケイト先生が様子を見に行ってます!」
悲鳴......やはり、遅かったか。
息を整える間もなく、フロアの端にある階段へ走り寄る。
「ハイヒールはいいな。靴音が良く響く。......そして、実に好いタイミングだ」
俄然、頭上から浴びせるように声が降りそそいだ。......この声は。
「そう警戒せず、さっさと上がってきたらどうだ?」
図書管理棟は地上五階。声の伝わり具合からして、そう離れたフロアではないはずだ。せいぜい二階か三階。
......私が来るのを待っていたとでも言いたいらしいな。
ならば足音を消す必要はない。ただ全速力で、サリナルヴァは階段を駆け上がった。
二階のフロアに到達。男の姿がないことを確認し、即座に更なる階段へ駆け寄り──そこに、見知った教師の姿があった。
「ケイト!」
振り向く女性教師。だが、その呼び声に答えたのは彼女ではなかった。
「実に期待通りだ、サリナルヴァ。よくぞ俺の真精を突破してきてくれた」
「優秀な祓名民に助けられたよ。まったく、クラウスに合わせる顔が無い」
苦笑は内心だけに留め、平静にと努める。
「......私が来るのを待っていたとはどういうことだ」
「俺の目的、そろそろ勘づいた頃だと思ってな」
「狙いは触媒ではなく、触媒の実験報告書というぐらいだな」
「十分に好い答だ」
演技じみた仕草で、左手の〈孵石〉を掲げてみせる。
「──ミシュダル」
「なに?」
「ミシュダル。俺の名だよ。......ミシュダル・オゥ・ロウズフェルン」
──この場面で自ら名前を暴露する。正気か?
名前を告げる、その男の口調に揺らぎは無かった。
「何を驚いている? そもそも俺はただの敗者、名前などあって無いようなものだ。だからこそ......灰色名詠の歌い手となって以来、俺が他人に名乗るのはこれが二度目だがな」
吹き抜けの空間に、突風の過ぎる音がこだました。
敗者の詩章・二 『私は灰と誇りに流れゆく』
「一つ訊きたいのだけれど──」
風になびく濡れ羽色の髪を手で押さえ、女性が口を開けた。
「あなたの名詠は『Arzus』?」
「部類としては言うまでもなく『Arzus』でしょう。もっとも、かつて私と共にこの名詠を創りだした男は『Isa』と誇っておりましたが」
灰色。小さく、呟くように彼女がその単語を反芻する。
「申請して、実際その名称が通るかどうか。半々と言ったところね」
「物議を醸すことでしょうな」
可笑しそうに目を細める老人。その表情が告げてくる。申請する気はさらさらない、と。
「......少々話を寄り道したいのですが、よろしいですかな」
女性は答えない。それを是と解釈したのか、老人が続けざまに言葉を綴る。
「──既存の五色には、実に様々な真精がいる。全ての真精に真名があり、全ての真精にそれを讃える詠がある」
女性の背後に佇む竜。皺だらけの指で老人がそれを指す。
「夜色名詠の真精は、そちらの竜という解釈でよろしいかな」
女性は答えない。
だが否定もしなかった。
「不躾な問いですが、夜色名詠には他に真精は?」
この質問に対してだけ、女性と漆黒の竜が動きをみせた。女性が竜へ。竜が女性へ。互いに視線を重ね、見つめ合う。
沈黙の数秒。それ以外、両者の間には言葉も動きもなかった。
「──この子だけよ」
ゆっくりと、女性が老人へと視線を戻す。
「成る程。わずか一体、だがまさしく真精たる雄々しさだ」
「そちらはどうなの」
「......三体ですな。灰色名詠には全部で三体の真精がいる。灰色名詠の王たるラスティハイト。そしてその従順な守護者である、王剣と王盾」
老人はふと頭上を見上げた。
灰色の雲が、風に流され千切れゆく。
「私は......何かに希望を見出したかった。研究に打ち込むことで哀しみを忘れ、成功の喜びを以て哀しみを癒していた──その研究こそが灰色名詠。私にとってこの名詠は、敗者たる私を哀しみから救うためのものだったのです」
「──敗者?」
「自分の最も愛する者を救えなかった、それ以外に敗北と呼ぶべきものがありますかな」
口をつぐむ彼女。
女性と老人の狭間に、冷たい風が通りすぎた。
「その者のために、私は灰色名詠を創り上げた。幾星霜を経て、最後に王たるラスティハイトの名詠に成功した時......私はようやく、その者に対し胸を張れるかと思っていた。だが──それは、あまりに儚い夢だった。この世にラスティハイトはもういない。三年前のあの日以来、灰色名詠の玉座は空白のまま、帰らざる王を待ち続けたままなのですよ」
冷たい風にその身を委ね、老人が目を閉じる。
「最大最強の真精と信じて疑わなかった。そう......あの場所で、アレに出会うその日まで」
間奏・第二幕 『あの日あの時、お前は何を見た』
「俺の最終目的は、灰色名詠の真精の一体、王たるラスティハイトを詠び出すことだ」
灰色の卵を抱え、ミシュダルという名の男が高らかに宣言する。
......まるで芝居がかった仕草だな。
「フィデルリアの我が研究所に、あの血文字を残したのはお前か」
段上の男に向け、サリナルヴァは鋭利な眼光を送りつけた。
「まさしく。もっとも、あれ自体はお前たちに宛てたのではない。灰色名詠の創造者たるヨシュアに宛てたものだがな。本部にいたお前は知らないだろうが、三年前までフィデルリア支部で助手として雇われていた男だよ」
助手──〈孵石〉を精製し、三年前突如として姿を消したという謎の老人か。
「そう。あの小汚い老人こそが灰色名詠を一から構築し、〈孵石〉という馬鹿げた触媒を造り上げた張本人さ」
戯れであるかのようにミシュダルが大仰に首を傾げてみせた。
「では、ここで疑問が一つ。なぜ奴は、こんな〈孵石〉などという効果過剰な触媒を精製したと思う? お前も知っての通り、灰色名詠は攻撃色としてはこの上なく優秀だ。これ以上無駄に手を加える必要はない。にもかかわらず奴はわざわざ、下働きに扮して触媒を造り上げた。......なぜだと思う?」
扱いに困るほど強力な効果を持つ触媒。
名声や富のためでないことは瞭然。ならば選択肢は一つしかない。
「自分で使うためだろうさ」
「そう。では、その使用目的は何だ?」
回答不可能。提示されている鍵が少なすぎる。
使用目的、それについてはサリナルヴァにすら辿れなかった。灰色名詠と〈孵石〉。組み合わせとやり方次第では、世界的な危機を巻き起こすことも可能ではあるが。
「答はひどく低俗だよ──復讐だ。奴自身の台詞を借りるなら『いずれ来る災厄を食い止めるため』と言ったものだがな」
「......どういうことだ」
「簡単だ。名詠式による災厄だよ──なあ、そこの教員。トレミア・アカデミーの教員ならば、この〈孵石〉が暴走した事故を直接目にしたはずだな。そう、お前たちが競演会と呼んでいるあのイベントだ」
突然の名指しにケイトが眉をひそめる。
「お前も名詠式に携わる者として気にならないか? この、触れただけで名詠が発動してしまう奇妙な触媒。あまりに強力すぎる不自然さ。この〈孵石〉の中、一体何が入っていると思う?」
分かるはずがない──教師の沈黙を答と解し、ミシュダルが左手の卵を持ち上げる。
「面白いヒントをくれてやる。......五色の〈孵石〉の内部に入っている触媒、中身は全て同じ物が封されているのさ。逆に言えばだ、この触媒、実はどの色の〈孵石〉であっても効果は同じ」
五色の〈孵石〉の中身が、全て同じ?
あまりに突飛な発言にサリナルヴァは耳を疑った。
「この学園に持ち込まれた五色の〈孵石〉。あのどの色の〈孵石〉であっても、実は全色の名詠が可能だったのさ。たとえば緑の〈孵石〉を用いても俺の灰色名詠が可能となる。それがこの世のどんな色であろうと例外は無い」
「......それは噓よ」
迷った様子もなく、ケイトが首を横に振る。
「名詠式は、名詠の選択色と同じ触媒を用いないと発動しないもの。ミドルスクールの生徒だって、そんな戯れ言に騙される生徒はいないわ」
「名詠を教える教師らしい口上だな。......だが真実なのさ。どんな物事にも、基本原則に当て嵌まらない例外が存在する。こと名詠式の触媒に関してはこの〈孵石〉が、いや〈孵石〉の中身こそがそうだ。さてサリナルヴァ、もう一度訊ねよう。この〈孵石〉の中に、一体何が入っていると思う?」
「その卵を割ってみれば自ずとわかるさ」
「ははっ、お前らしいな」
左手の〈孵石〉。その触媒を弄ぶように、ミシュダルが宙で回してみせる。
「今から六年前だ。ヨシュアは名も無き小島に行き、そして呆然とした様で戻ってきた。奴は俺にこう言った」
全ての名詠色に応用できる、究極の触媒を見つけた。だがそれと同時に──
この世の全ての真精を集結しても敵わないであろう、まるで人智を越えた不可解な存在に出くわした。
──戯れ言にしか聞こえない。
それが、サリナルヴァの本音だった。隣では、やはりケイトもまた、どこか怪訝な眼差しで男を見上げている。
が、段上の男の笑みに揺らぎは無かった。
「......好い表情だ。そう、俺も最初はそうだった。だが実際に奴が精製した〈孵石〉を試し、信じざるを得なくなった。この〈孵石〉は、本当にどんな色にも適用できる触媒だったからな」
「ならば、なぜそもそも五色に色分けしてある?」
五色に色別する必要はない。全て灰色、全て白でも良いではないか。色分けすることにメリットは存在しない。
「ヨシュアがその事実を研究所側には報せていなかったからさ。何も知らぬ職員はヨシュアの指示通りに〈孵石〉を色づけした。ちなみにこの灰色の〈孵石〉こそが、奴が研究所を訪れる前に造った試作品だ。研究所で行ったのは、いわば灰色の〈孵石〉を五色に塗り分けただけと言うのが適切だな」
灰色の〈孵石〉が原点。五色の〈孵石〉が派生。......しかし妙だ。今この男が手にした触媒と研究所の精製したそれとでは、決定的な違いがある。
「そう。〈孵石〉の複製に際し、一点だけヨシュアの計算外があった。大抵の奴はこの〈孵石〉の外殻を、中身の触媒の反応促進役と考える。だが実際はその真逆。〈孵石〉の外殻は、中身の触媒の効果を抑える役割だったのさ」
中身の触媒の効果を抑えて、なおあの効果?
「......ミシュダル、その触媒は一体何だ」
「さあな。それこそあの老いぼれに訊くといい。で、だ──しかし五色に複製する際、それを誤解した作業担当者が触媒の効果を促進させるよう独断で外殻を薄くさせてしまったんだよ。研究所においてヨシュアは所詮助手だからな。計画書を提出するだけで実際の複製過程には参加できず、それを止めることはできなかった」
......つじつまは合うな。
学園に運ばれた〈孵石〉は触れただけで作動。しかしミシュダルが今手にしている〈孵石〉は作動していない──その事実の説明と今の独白は非常に合致したものだ。
〈孵石〉の量産。それがどれだけ危険な真似か、その老人も気づかぬはずがない。だがそれと知ってなお、自分の計画を優先させた。──全ては復讐の為に。
「まるで人智を越えた不可解な存在と言ったな。それがお前の崇拝するラスティハイトだと言うのか?」
「いいや。奴は違うと言っていた。それどころか『ラスティハイトはもういない』と俺に告げたのさ。なぜいなくなったのか。奴が何を見たのか。それ以上は、いくら問い詰めても口を割らなかった。だがその時悟ったよ。奴が〈孵石〉を精製した理由は、その不可解な存在に対抗する為だったとな」
ミシュダルがその左手を天へと向ける。
「灰色名詠の創造者が何をそこまで怖れたのか。どうだ、誰だって気になるだろう? 俺はそれが知りたい! あの老いぼれた賢人は、六年前に何を見た!」
敗者の詩章・三 『未だ知られざる歌の鼓動』
1
──sheon lef ped-l-cluerien-c-soan
その歌は、いつ誰が歌うのだろう。
YeR be orator Lom nehhe
lor besti redi ende keofi-l-lovier
Hir qusi『clue』lemenet feofulleftia sm jes gluei I
いつ誰が......誰のために詠うのだろう。
何を想い、何を望んで詠うのだろう。
melodia fo Hio,O ect ti hear Yem『sophit』
ife I she cooka loo zo via
Isa da boemda foton doremren
YeR be orator Lom nehheO evo Lears──M*******
それ至美、未だ知られざる緋色の旋律。
2
乾いた砂利が風に飛ばされ、ぱらぱらと老人の衣服を打つ。
だが不思議と、そのすぐ正面に立つ女性には、小石は一粒さえも当たっていなかった。さながら、小石の方がそれを畏れるように。自らの意志で避けているかのように。
「私があの時見たものは──」
見果てぬ荒野の一端で、その老賢人はゆっくりと口を開けた。
「ただの、十歳かそこらの女の子でした」
老人の手と唇が、微弱なふるえを繰り返す。
その声に混ざる、到底言葉にできない何か。
「そう、普通の人間の少女。あえて特徴を挙げるなら......血という血を越え、炎という炎を越えた、純然たる緋色の髪の少女でした」
緋色の髪をした少女。この世界に一体、何百・何千人単位でいることだろう。
だがそれでも、その老人はそれ以上のことは告げなかった。
「信じられますか? その少女によって......最大最強と信じていた......いえ、信仰していた敗者の王が、......ラスティハイトが少女の前で跡形無く消失したなどと」
自分の顔を、皺混じりの両手で覆う老賢者。
「あれが本当にヒトなのか。ヒトだとして、あれはどのような力なのか。ヒトの形をした真精なのか。真精だとして、あれは一体どこから生まれたのか」
両手で覆った顔の下、呻きにも似た嗚咽が洩れる。
「あまりに未知、不可解。既存の五色──人の成した『sophit』を『neckt』する、あまりに遥くあまりに美しき『clue』の存在。それと遭遇した時......私は......真なる意味で敗者となったのです」
既存の五色を越えた、更なる未知の落とし子。
あれは人間なのか、それとも未だ知られざる真精なのか。
真精だとすれば、セラフェノ音語によって綴られるべき真名があるはずだ。
そう、それはさながら──『clue-l-sophie neckt』
「だからこそ......イブマリーよ、あなたの力をお貸し頂きたい。あなたの夜色名詠以外、もはやあれに対抗するための可能性が見あたらない」
終奏 『夜色の卵の孵るとき』
0
不思議な夢を見た。
真っ黒い世界。どこまで歩いても終わりの無い無限回廊。
その場所で、音だけが鮮明に響いていた。
始まりは、波の音。つい最近に聞いた覚えがある。そうだ、夏休みの臨海学校で、わたしは『あの子』と一緒に海辺に行ったっけ。
次は、遠くから聞こえる鐘の音。これは学校の入学式かな。でも、いつのときの入学式だろう。......トレミアの入学式?
三番目は、赤ん坊の泣き声だった。この声、誰の泣き声だろう。わたしの知っている赤ちゃんなのかな。でも、どれだけ聞いても思い出せない。
そして最後に──
最後に聞こえてきたのは、歌だった。
男の子と女の子。二人で一緒に歌ってる。
女の子の方は......わたし?
でも男の子の方は誰だろう。すごく近くにいる気がするのに、不思議と思い出せない。
思い出せないまま、歌は次第に霞んでいった。
......寝てちゃだめだ。
無意識と夢の狭間で、クルーエルはその拳を握りしめた。
わたし、大切な人たちを守りたいって決めたじゃないか。こんな肝心な時に、ちょこっとの頭痛くらいで倒れて、何を偉そうなこと言ってるんだろう。
〝それは、だめ〟
突然響いてきた声。
だめ?
〝無理はしない方がいい。あなたが無理をして動くまでもない。あの男にとってあなたの友人は一時的な人質。だから最終的には助かる。それが予定運命上に定められて......〟
相手の何気ない一言。けれど。
──その一言が、自分にとって絶対に許せない部分に触れた。
「うるさい」
言い終える前に、クルーエルはその言葉を否定した。
〝......うるさい?〟
誰も、あなたなんかに意見を求めてない。無理はしない方がいい? 動くまでもない? そんなの絶対嫌だ。わたしはミオを助けたいんだ。
〝......クルーエル、わたしはあなたの為を想って〟
──誰だか知らないけど。
「少し、黙りなさい」
声が沈黙する。そう、それでいい。
わたしの友人はわたしが助ける。それだけは絶対誰にも譲らない。わたしにできること。それがたとえ本当に些細なことでもいい。わたしにできることをやって......後のことは誰かに任せればいい。
──信じてる。
わたしがそれを託す人は、きっとすぐ近くにいるはずだから。
1
にわかに、自分の隣のソファーが軋んだ音を立てた。汗ばんだ髪を張りつかせ、上半身を起き上がらせる少女の姿。
「──クルーエルさんっ?」
焦点の定まらぬ瞳をゆらせ、少女がふらりと起き上がる。
再度倒れかけたその身体を、あわやというところでネイトは支えた。
「だめです、寝ててください! 体調悪いの分かってますから」
「......うん。頭......すごく痛い、割れそうなくらい痛い。......目眩がして吐き気もあるの」
「なら、なおさら──」
「だめだよ。ミオが捕まってる」
弱々しく、彼女が唇をふるわせる。
──なぜそれを。
「......あれだけ頭痛ければ寝れるわけないもん。さっきまで意識がぼうっとして動けなかったけど、それでも──みんなの声、聞こえてた」
確かに、当初と比べれば症状は治まったかもしれない。
だけどそれでも顔色は真っ青で、呼吸も荒い。全身が寒気と激痛に襲われているのが嫌でも伝わってくる。歩くことはおろか、本当は立ち上がることだって辛いだろうに。
「──ネイト、お願いがあるの」
ふるえる両手を、彼女は自分の肩にのせてきた。
......クルーエルさん?
動けなかった。言葉も発することができなかった。目の前、鼻先が触れるほど近いところに、彼女の顔があったから。
熱を帯びた彼女の吐息が、自分の前髪をゆらすほどの距離。
朱を帯びた唇が、あと少しで重なるくらいの距離。
「わたしを......わたしを......」







「仮に事実だとすれば、確かに世界中の知識人がひっくり返るだろうな」
ミシュダルへと向け、サリナルヴァは大げさな素振りで腕を組んだ。なぜこの男が、こうも重大な秘密をぺらぺらと喋るのか。ようやく思い当たったからだ。
「なあミシュダル。お前は今まで、一体いくつの研究所や名詠学校でその話をした?」
「────気づいたか」
にやりと、狂気じみた笑みがなお一層深くなる。
この男の話は、おそらく大部分が真実。たとえ少々の偽装が含まれているとしても、相対的に見た報告価値は揺るぎもしない。それだけの内容だ。
──だが、それがこの男の罠だったのだ。
「恐ろしい計画だな。最低でも数年がかりの計画だっただろう?」
「そうでもない。ヨシュアが姿を消したのが三年前。あの男の消息を摑む為がむしゃらに計画を練って、せいぜい二年半。種を蒔いたのが二年前といったところだ」
「......どういうことです」
隣の教師が耳打ちしてくる。
「今回こいつが襲撃した研究所や名詠学校。それらは全て、今私たちが聞かされた情報を、こいつから前もって聞かされていたということさ」
この男の手順はこうだ。
まずは今の話の全容、あるいは一部をめぼしい研究所や名詠学校に流す。
なにせこれだけの情報だ。極秘という指定をつけておけば、研究所や名詠学校も手柄を独占しようと他の関連機関にはばらすまい。功に目がくらんだ各機関は必死で〈孵石〉の分析、触媒の分析、そしてヨシュアとやらが告げた「人智を越えた不可解な存在」の調査に我先にと取りかかるだろう。
──ここまでが種蒔き。
そして二年後。各機関においてその調査の報告書が大方出揃った。二年前に蒔いた種が一斉に大きな実をつけた。それを今回、この男は一気に刈り取ったのだ。それを裏付けるのが大特異点からの情報。事実、襲撃された機関において奪われていたのは触媒ではなく、全て実験報告書だった。
自分一人で動き回るより圧倒的に効率が良い。〈孵石〉を量産するためヨシュアが研究所の助手になったこと。それを悪意的に応用したようなものだ。
「そして今、あわよくば私の研究所でも同じ事をと企んでいたのだろう?」
この男の弁を信じて他の研究所同様に〈孵石〉を研究すれば、ケルベルク研究所本部もいずれこの男の侵入を受けていた。
「......ははっ。やはりお前は大した奴だよ。小者が土壇場でぺらぺら喋る──そう思ってくれるとばかり期待していたんだがな」
己の狙いを暴露されたにもかかわらず、男の余裕は揺るぎない。それが示すのは唯一つ。今まで刈り取った情報で、この男は既に何かを摑んでいるのだ。
「──下らん脚本劇はここで終わらせたいところだな」
「俺をどうにかしてか? その前に生徒の身を案じた方がいいぞ」
灰色の小型精命が、その腕に抱えた少女をこれ見よがしに持ち上げてみせる。
吹き抜けの設計──小型精命がミオを摑んでいる真下に床はなかった。手を離せば一階のフロアまで一気に転落する。
......内部空洞型の棟。この土壇場でよもや、その何気ない設計が仇になるとは。
舌打ち。ふとそれに混じり、誰かの足音が聞こえた。誰かの、今にも途切れそうなほどか細い呼吸と共に。
「──クルーエルっ?」
ケイト教師の声に、反射的に振り向く。
......クルーエル? あの子は寝ているはずでは。
サリナルヴァは我が目を疑った。階段の手すりに寄りかかるようにして、さながら死人が蠢くように昇ってくる少女がいた。







〝ネイト、お願いがあるの〟
〝お願い?〟
〝そう。ここにいて。何があっても一階のこの場所にいて〟
そっと、ネイトは目を閉じた。
うつむくことはしなかった。
両手を握りしめ、瞳を閉じたまま頭上を見上げる。
吹き抜けの棟の最上部──それすら越えた、遥かな空の彼方を見上げて。
〝ど、どうしてですか〟
〝わたしは......わたしにできることをしたいの......でもそれだと、ミオを助けるだけで精一杯だと思う。だから──〟
〝......だから?〟
〝わたしも、キミに頼って良いかな〟
〝......僕に?〟
sheon lef dimi-l-shadirien-c-soan
〝ねえ、ネイト。競演会のこと覚えてる〟
忘れるはずがない。アーマ、虹色名詠士。沢山の人に助けられて、沢山の想いに支えられたあの時──自分の隣にこの人がいてくれて、ミオさんが触媒のための材料を持ってきてくれた。
〝あの時できたんだから、今回だってきっとできる。できることを、信じてほしいの〟
嬉しかった。
......初めてだったから。
〝わたしがミオを助ける。そして、そのミオがきっと触媒を用意してくれる〟
〝ミオさんが......触媒を?〟
〝そう。だから──だからキミは、わたしたちを信じてここにいて。ここでキミの歌を詠っててほしいの〟
──初めてだった。
歌を詠って欲しい。誰かからそう言われたのは。
〝ずっと夏休み一緒にいたけど、気づいてた? わたし......キミから時々、わざと目を離してたんだよ?〟
〝......そうだったんですか?〟
〝ふふ。でもね、その時だってキミは名詠ができてたよ。だから平気。今は見てあげられないけど、わたしはキミを信じてる〟
──初めてだった。
誰かに頼られること。
誰かのために、何かができるかもしれないと思えたこと。
elma Ies nexe rienapeg twispeli kei
O la sia,yupa elma dremreneckt listasia U Sem pheno
だから、詠う。
今この場で紡ぎ上げる。自分の詠を。
今は──名詠詩は不完全でいい。その旋律だって不格好でいい。だけど、それでも──これは誰に教わったわけでもない、僕が紡ぐ詠。
名詠するものは決まっていた。
もたらされる触媒はきっと夜色の炎ではない。ならば約束の真精は詠べないだろう。ならばそれを除いて、僕の最も信頼するものを詠べばいい。

〝言いたいことは山ほど、それこそ伝言にしきれないくらいある〟
〝だから、それを言わせるためにも我をもう一度詠べ〟
『それ』を詠んで、その名詠生物に何ができるかは分からない。ただ、きっと何とかしてくれる。不思議とそう思う。
だから──夜色の旋律をあなたの下へ。
2
頭を穿つ激痛に、意識すら霞んでいく。
身体がひどく寒い。おそらくは熱も相当あるのだろう。熱を帯びたせいで自然と溢れる涙。朧気な視界のせいで階段を昇ることすら満足にできない。いや、たとえ視界が晴れていたとしても同じ事だ。
全身、腐ってしまったかのように自由がきかない。激痛と、ふるえ。言い様もない気怠さと怖気。その苦痛に歯を食いしばり、クルーエルは前へ前へと進み続けた。
〝だから、あなたの名詠はまだ全部で三回。であると同時に──既に三回も、と言うこともできる〟
黎明の神鳥を詠んだ数。これが、その代償とでも言うの?
......だけど、構わない。
わたしは、黎明の神鳥を詠んだことを後悔していない。どの場面だって、わたしは自分の意志で詠んだ。自分の大切な一欠片を守るために。
......だから、ミオ待ってて。
もうすぐ、もうすぐ行くから。







今まで、頭の悪い人間や愚かな人間は腐るほど見てきた。むしろそれを眺め、嘲笑することが自分の人生であったと思えるほどに。だが──理解はおろか、その意味すら分からない行動をとる人間。
それは、ミシュダルには初めてだった。
......何なんだ、この娘。
緋色の髪をした女子生徒。昨夜黎明の神鳥を詠んだ女のはず。それが何たる様だ。
顔は土気色。荒く不連続な吐息、熱を帯びた双眸は赤く腫れ上がっている。身体は凍えるようにふるえっぱなし。目線は下を向いたまま。意識すらろくにないのかもしれない。
膝がまるで動かないのか、手すりに寄りかかるように、だがなお階段を一段昇るのに数十秒を要す。身体が腐っているのでは、本気でそう思えた。
昨夜の威勢は微塵と消え、今はまるで半死人ではないか。
......おい、そんな見苦しい姿を俺の前にさらけ出すな。サリナルヴァ、この気味が悪い娘を止めろ──そう声に出そうとして、だが出なかった。
少女の異様な雰囲気に、喉が凍りついていた。そしてそれを間近で目撃しているはずの教師や〈イ短調〉すら、自分同様に固まっていた。
「......は......な......」
ぼそりと、呪詛のように少女が洩らした。
──なんだ。いまこの娘は何と言った。
「ミ、オ......を放して」
おい。お前、まさかそれだけのために──
「クルーエルだったか。お前、まさか俺からこの人質を取り返そうとしてるのか」
「ミオを......返......して。決め......たんだ」
ずるりと、腐りかけの身体を押すように、這いずるような姿勢で上がってくる。
「わた......し、わ......たしにでき......ること、するって」
──狂ってる。
形容しがたい悪寒に駆られ、ミシュダルは一歩だけ後ずさった。
その状態で何ができる。名詠はおろか、階段すら登れない、会話すら満足にできない、いや──そもそも意識すら無いのではないのか?
ちょっと手で押してやれば、この娘は階段から楽に転落していくだろう。そしてそうすれば、もはや二度と起き上がれまい。むしろ、そうしてやった方がこの娘には良いとすら思えてしまう。
......だが、それならなぜ、俺の方が退いている。
相手は──間違いなく重病人か半死人。いや、万全であったとしても自分が臆する相手ではないはずなのに。
なのに、なぜこうも背中に冷たい汗が噴き出る。
......やだ......もうやめて......もういいよ......
怖い。見るのが辛い。
あんなクルルの姿見るのやだ。さっきいきなり気を失ったんだ。平気なはずがない。今だってものすごく辛そうじゃないか。
「クルル、もうやめてっ! おねがい、クルルの方がどうにかなっちゃうよ!」
灰色の名詠生物に捕らえられたまま、ミオは声の限り叫んだ。
「──違うな」
答えたのは、隣に佇む敗者。
「あの娘は既に狂っている。もはやお前の声も届くまい」
「......そんなことないっ! クルルはクルルだ!」
目が霞む。頰を伝う涙が止まらなかった。頰を伝い、顎先を伝い、制服の襟を濡らし続ける。──クルルがあたしのためにここまでしてくれているのに。
こんなひどいことを言われっぱなしで、あたしはクルルのために何もできないの。
にわかに、とうとう友人が階段半ばでくずおれた。
......お願い、もう立たないで。......立っちゃ、だめだよクルル。
「──平気、だよ」
両足だけじゃない。両手まで使って四つん這いになってまで、あまりに滑稽な姿で立ち上がろうとする友人。
「......ここまでこれれば......いいの。ここでいいの」
その場所は、階段途中の踊り場だった。
敷かれた真紅のカーペットに、ほとんど横たわるようにクルーエルが腰をつく。
「ミオ......競演会のこと、覚えてるかな。今、あの時とすごく似てるよね」
競演会そのものは勿論覚えてる。だけど、競演会の中でも一体何の部分を言ってるんだろう。
「娘、何のことだ」
男のそれには応えぬまま、友人はただ深々と、あたしだけに告げてきた。
「元素番号27......だっけ」
たった一言。
だけど、その一言だけで伝わった。彼女が何を言っているか。何を意図しているのか。
「......クルルのばか......27じゃなくて、37だよ」
流れる雫が、ほんのちょっとだけ少なくなった。
分かった。彼女がその言葉に何を込めたのか。これで伝わらなければ友達じゃない。だいじょうぶ。伝わったよ。だから......その後は、あたしに任せて。
触媒は、あたしが必ず届けるから。
──なら、もう泣いてなんかいられない。
かろうじて自由がきく右手で、ミオは制服の襟の一部を引きちぎるように無理やり引っ張った。







zette sm cele U arma da lisya
Sem girisi qhaondenca sm mihhya lef hid,ravience branous
〝お前の母でさえ我を詠び出すのに幾年月をかけたのか、忘れたわけではないだろう。現状のお前が適うものではないだろうに〟
──一番最初から知っていた。
母と自分の、どうしようもない差。
だからこそ、ずっとずっと練習してきた。どこまでも深い溝を埋めるために。
〝我が認めた唯一の名詠者だ。少なくとも、才能という点に関してはお前の遥か上を行っていたな〟
アーマ......僕は、認めてもらいたい。今ここで。
そうじゃなきゃいけない。クルーエルさんもミオさんも、それを信じてくれているから。







「──状況を理解しているとは思えないな」
上段から見下すように告げてくる男。名前は......なんと言ったか。
「......状況って......なにそれ」
寒気で青ざめた唇で、クルーエルは精一杯言葉を紡ぎ返した。状況なんて、それがどんなであっても構わない。わたしはただ、ミオを助けたい。その目的だけがあればいい。
そっと、足下の絨毯に手を触れる。
学園長室の物と同じ、真紅の絨毯。
「呆れたな。その絨毯を触媒にでも使う気か。仮にも名詠を学ぶ生徒でありながら後罪も知らないのか」
──クライム。そうだ、それはクライムと言うんだっけ。
「名詠学校内にある備品は、通常全て後罪がかかっている物が使用される。万一にも生徒がそれで名詠を行って暴走させないようにな──その絨毯も言うまでもなく。な」
「名詠......できないと......思っ、てるの」
「お前がどこの誰だか知らんが、不可能だな。後罪によって施錠された名詠門をこじ開けるのは困難を極める。歴史上あらゆる名詠士も、〈讃来歌〉を用いて第三音階名詠が限界だった」
──やっぱりそうだ。
さっきからこの男の話を聞いていて、どこか腑に落ちなかった。
何が変だったのか、今ようやく分かった。この男も、ヨシュアという人も、〈孵石〉とやらを精製しようとした他の研究所も。
みんなみんな、一番大事なことを忘れてる。
〈孵石〉? 究極の触媒?
くだらない。なんてくだらないことで、みんな大騒ぎしているんだろう。
拳を握る。爪が自分の手のひらに食い込むくらい。痛みに、朧気な意識が一瞬だけ覚醒した。唇を嚙み切る。声が、出るように。
そして──クルーエルは全身のふるえを無理やり押さえつけた。
「あなたは、いいえ、『大人』は大事なことを忘れてる!」
声を振り絞った。一人でも多くの人に届くように。
この男に、ヨシュアという老人に、学園にいる全ての人に。
全ての、名詠を扱う者たちに届くように。
「名詠に必要なものは凄い触媒じゃない。名詠式は、自分が望むものを詠び招くものだもの。その願いがあれば、気持ちがあれば──名詠式には十分なんだから!」
「......もういい、時間の無駄だ」
小型精命を従え、男がさらにフロアの奥へと歩を進める。緊急用の非常通路から脱出する気なのか。
......あなたのことなんかどうでもいい。逃げたければ逃げていい。
だけど、だけどミオだけは今すぐ──返せ!
そっと、クルーエルは真紅の絨毯に触れた。
一度は詠ばれ、そして還っていった『子供』たち。
......お願い、わたしに力を貸して。大切なものを守りたいの!
〝あなたが普段名詠式と思っているものは、本来のあなたの名詠とは似て非なるものだもの。本当のあなたの名詠は──〟
〈 □□□□□の真言・大母旧約篇奏──『全ての目覚める子供たち』 〉
Isa siaclue-l-sophie pheno
O la ecta ris,heckt shoul dowa
Se wi lu riria Lom ilis pheno
虚飾も華美な修辞も要らない。
ただ胸の奥に湧き上がるものを言葉にするだけ。
O via fel hypne,ende O la ele heren
bekwist jes xin lef hypne muasdefea zayixuy-c-olfey
指先の触れた部分から、真紅の絨毯から緋色の輝きが生まれた。初めは小さな光の粒子。その一粒一粒が急速に大きさを増していく。
自分を包み込み、周囲の教師たちを包み込み、図書管理棟全てを抱擁するように。
「──馬鹿なっ」
ミシュダルが洩らす驚愕の吐息。
Isa da boema foton doremrenSe wi lisya Sem memori
Se wi fisa-c-lisya Sem riris,la Ser pheno─
「〈讃来歌〉......いや、違う? 小娘、お前は──」
光は急速に強さを増し、図書管理棟全体が、眩しいまでの緋色の光に包まれた。
そして。
ネイト、ミオ。あとは......信じ......て、いいよ......ね。
踊り場。絨毯に腰を下ろし手をついていた彼女が、糸が切れたかのように脱力し、そのまま絨毯にくずおれる。
「クルルっ!」
友人に向かって声を張り上げる。今度こそ本当に昏倒したのか、その友人は床に身を伏せたまま微動だにしなかった。だがそれでも、ミオは彼女からの返事を聞いた。
獣の咆吼。彼女の代弁者であるかのように、真っ赤な獅子が雄叫びを上げたのだ。
燃え上がる尾、琥珀色の瞳をもった赤獅子。
そしてもう一種。真っ赤な鱗、炎を宿した瞳の炎鱗の蜥蜴。
倒れたクルーエルの隣に、二体の生物が同時に名詠されていた。
「──別種の名詠生物を同時に?」
「......ありえん。後罪で第二音階名詠の名詠だと」
ケイト教師、女性研究者が声を上げる。それは驚きを越えた、畏怖の発露。
確かに、それは同じ生徒であるミオの目からも異様な現象だった。
一種類の生物を複数ならともかく、他種の生物を同時に名詠。それがどれだけの集中力、そして想像構築を要するか。さらにそれを後罪によって施錠された触媒で。
──だけど、今はそんなことに驚いてちゃいけない。あたしは、あたしのやるべきことをやらないと。
「......ただの小娘かと思えば、とんだ化け物か!」

纏う装束をひるがえし、自分目がけて飛びかかる赤獅子をミシュダルが迎え撃つ。だが赤獅子に注意がいくあまり、この男は気づいていなかった。
炎鱗の蜥蜴の炎が灰色の小型精命を炙る。よろめく灰色の名詠生物。そこを、狙いをミシュダルから急遽その名詠生物へと変更した獅子が嚙みついた。
自分を縛めていた腕の力がほどけ、ミオは三階フロアに投げ出された。
「──最初からその娘の解放狙い。はっ、選択を誤ったな。今同時に飛びかかってくれば、あるいは俺もどうにかできただろうに!」
笑みを強め、左手に握った〈孵石〉をミシュダルが持ち上げる。呼応するように、触媒が銀光を放ち出す。
──そう、それが必要なんだ。
そしてミオもまた同時に、〈讃来歌〉の終詩を紡ぎ終えていた。
選択を誤ったのは、そっちの方だ!
──『Beorc』──
碧の光の奔流。熱も威力も無い。ただ眩く輝く光。昨夜名詠したのとまるで同じものだ。
だが今回は、応援を呼ぶためではない。
眩い光線がミシュダルの目を灼いた。あまりの光量に、一瞬その男が視力を失う。
「小娘っ!」
瞼を押さえ、〈孵石〉を携えたまま男が怒号を上げた。
そう、今回はミシュダルの名詠を阻止するための目潰し。名詠に必要な触媒は──
〝制服の襟色で生徒の専攻色を区別する、か。中々に有用な発想だな〟
専攻識別色を示す、緑色に引かれた襟の線。ミオはそれを触媒にした。
「お願い!」
自分の叫びに応え、赤獅子がミシュダルの左手を蹴り上げる。
ミシュダルの苦悶の声が響く。その手から弾かれ、ふわりと宙を舞う〈孵石〉。
それを誰よりも先に摑んだのは、ミオだった。
──クルル、だいじょうぶ、きっと上手くいく。
はやる鼓動を抑え、ミオは部屋の中央部に歩いていった。吹き抜けの中央部。転落防止用の柵ぎりぎりまで近づく。
「......これは驚いた、俄仕込みにしては最上の策だ。たかだか小娘二人、まさか俺が〈孵石〉を奪われるとはな。いや、こればかりは手放しで称賛に値する」
どうせこの娘には大した名詠などできまい。それを悟っているのか、この場面においてもミシュダルは平静を取り戻していた。
「──だが、それもここまでだ」
灰色の小型精命と相打ちに還っていく炎鱗の蜥蜴。赤獅子も既に消えていた。腕を蹴りつけ〈孵石〉を奪った時、赤獅子もまたこの男に反唱を喰らっていたのだろう。
「足がふるえてるぞ。声も、さっきから無理して絞り出しているんじゃないか? どうせお前には使いこなせんよ。無駄だ」
じわりじわりと、重圧を与えるように近づいてくる男。
「──違う」
「何が違う?」
「......あたしね、すごい怖がりなの。子供の頃、夜中に一人でトイレにも行けなかった」
にこりと、いまだ涙の乾かない顔でミオは笑顔を作った。
「ずっとそれを治そうと思ってた。この学校来てミステリー調査会っていうサークル入ったのもそれが原因だったの。夜の学校に探検に行ったりとかして、色々試してみた。でも、治らないみたい。一度ふるえ出しちゃうと止まらないんだ」
「今もそうなんだろう?」
その嘲りに答えぬまま。
「ねえ、これってどんな色の名詠にも使えるって本当?」
「ラスティハイトの名にかけて誓うとも。もっともお前に『Beorc』以外が使えないと意味はないだろうがな」
──それだけ聞けば十分だ。
「あたしが怖がりだっていうさっきの話だけどね......うん、昨日はすごく怖かった。本当に、夜の間中、あたしはソファーの上でふるえてた。でもね、ふしぎ。今は──」
〈孵石〉を持ち上げる。
あたしは──今は──
「あたしは、お前なんか怖くないっ!」
だから安心して、クルル。
そうだ。怖れてない。怖がってなんかいられない。
クルーエルから受け取ったものを、渡さなくちゃいけない。
「娘、それをどうする気だ」
息を吸う。そして、ミオは精一杯叫んだ。
「こうするのっ!」
〈孵石〉を、吹き抜けの空間へと放り投げた。
jes kless qusi shaz lef sophit,hyne lef zarabel
Hir sinka I peg ilmei rei lippsHir qusi celena poe lef wevirne spil
......だいじょうぶ、聞こえてるよ。
〝ミオ......競演会のこと、覚えてるかな。今、あの時とすごく似てるよね〟
かつて、夜色の少年は校庭で〈讃来歌〉を詠った。
いま、彼は一階で〈讃来歌〉を詠っている。
かつて。燃えさかる炎の中、彼女は夜色の少年の隣まで辿り着いた。
いま、彼女はあたしを助けてくれた。
そして。
あの時、あたしは校舎の屋上から触媒に必要な物を投げ入れた。
──クルル、見てくれた? つなげたよ、彼のところまで。
三階から、真下へ。
吹き抜けの設計。そこへ投げ落とされた触媒はどこまでも下へ下へと落ちていく。
下へ、下へ、下へ。
一階でその時を待つ、彼の手元まで。







〝わたしがミオを助ける。そして、そのミオがきっと触媒を用意してくれる〟
......ミオさん、クルーエルさん。
〝だからキミは、わたしたちを信じてここにいて。ここでキミの歌を詠っていてほしいの〟
卵形の触媒を両手に抱きかかえ、ネイトは頭上を見上げた。







〈孵石〉を放り投げただと?
少女の理解できぬ行動に、ミシュダルは瞬間的に思考が停止しかけた。
......なぜ、この娘は平然としていられる。
〈孵石〉を下に投げ入れることに絶対の自信を持っているかのような。
──そして、歌が聞こえたのはその時だった。
IsaO la hea yugetie xeoi hyne
dis xeoi reive,xshao lementi cele leya
O la laspha,Wer le yehle mihas lef veiz,jes arma, jes qhaon
Isa da boema foton doremren
......なんだ、この歌は。
今まで聴いたどんな色の旋律とも異なる音色。
この上なく寂しく悲しい音色。本来ならそれは、黒一色のイメージ。だが違った。この旋律はただ寂しいだけではない。悲しいだけではなかった。
寂々たる音の中に美しさがあり、凍える音の中にすら愛おしみがある。
凍みいった夜の帳に輝く星の瞬きがあるように、清廉な月影があるように。
黒一色に塗りつぶされた画布と一線を画すその音色。この詠は、さながら真冬の夜そのものではないか。この旋律は、一体?
「......下かっ!」
娘が〈孵石〉を放り投げた方向。三階から、遥か真下の一階フロアを覗き見た。
〈孵石〉を両手で抱える、夜色の少年。
灰色の触媒が放つ名詠光。それは既存の五色の光でも、自分の灰色の光でもない。
──夜色の光。そして夜色の名詠門。
謎の名詠色。ただ、一つだけ直感的に分かった。
あの名詠はまずい。
名詠が完成する前に、何としても潰さなくては。
「ケイト!」
サリナルヴァは階段を駆け上がった。背後に教師を従え、ミオのすぐ手前にいるミシュダルへと一息に距離を詰める。奴が〈孵石〉を失った今この時、一挙に叩く。
が、それよりも早く。
「あいにく、お前らより優先させる相手がいるんでな」
懐中から灰燼の詰まったボトルを取り出し、ミシュダルが床に叩きつける。ガラスの砕けた音と共に、一面に舞う灰色の濃霧。
──『Isa』──
濃霧の中、二体の灰色名詠生物が現れる。
翼を生やし細長い鎗を構えた、鳥人を模した石像。
「っ!」
反射的に身構える。が、名詠生物は自分に対して見向きもしなかった。その照準は、緋色の髪の少女と夜色の少年。──まずい。ネイトの方は一階にただ一人。かたやクルーエルにいたっては踊り場で気を失ったまま。
その中で。
「──きっと平気」
......ミオ?
金髪童顔の少女だけは、奇妙なほどに落ち着き払っていた。昨夜、そして今朝あれほど怯えていたのが噓のように。
「──だって、あの時だって上手くいったもの」
遥かな頭上から、その少女は少年の奏でる詠を聴いていた。







浮遊する灰色の名詠生物が、頭上から轟音を従え飛来する。その方向は、踊り場に倒れたままの少女。その手に、灰燼を押し固めて造ったかのような灰色の鎗。
もう一体。これは自分に目がけ、頭上から高速で落下してくる。
──焦っちゃだめだ。意識が欠けたら、この名詠は絶対に成功しないのだから。
だいじょうぶ、きっと間に合う。
O la laspha,ife I she cooka Loo zo via
Isa personie pheno,she evoia-ol-ele pah milloe laspha
触媒の外殻が剝がれ落ち、内部から夜色の輝きがあふれ出す。
今手元にあるのは灰色の触媒ではない。
夜色に輝く、小さな卵。望む者への帰りを果たす、孵るべき卵。
生まれた光の筋が幾重にも集まり奔流を成し、立体的な夜色の円を形どる。──名詠門の完全開放。同時、鋭い風鳴りがすぐ目の前で響いた。
──アーマ......信じて、いいよね。
終詩を越え、最後に残ったのは、その名前を詠み上げること。もしかしたら、もっとも数多く詠んだ名は、これかもしれない。
灰色の名詠生物の鎗が自分に、そして自分の大切な人目がけ打ち下ろされる。
──だからお願い、みんなを守って!
最後まで名詠門から目を放さぬまま、ネイトはその名を詠んだ。
Arma──elmei phenosis sia univ lef orbie clar
名詠門が、淡い光の粒子となって砕け散る。
キィィィン......
乾いた金属音が、図書管理棟の隅々まで響き渡った。
翼の風圧を感じるほど迫った鳥人の石像。その手に携えた灰色の鎗が、漆黒の鎗によって弾かれたのだ。続けざまに、灰色の名詠生物本体までも棟の壁まで吹き飛ばされる。
──これは。
消滅した名詠門。最後まで、名詠門からは何も生まれなかった。それは、他ならぬ自分の影から浮かび上がってきたからだ。
『──ネイト、一度それと思いこむと最後まで後先考えなくなる悪癖は直らんな。我があれほど言っておいたのに』
乾いた金属音の残響が、馬の嘶きによって消し飛んだ。
『そもそもだ、こんな狭苦しい棟で我を詠び出しても、お前の肩に乗るか棟を崩すかのどちらかだけだろう。名詠は状況に応じて使い分けろ。さもなくば、まだまだ母親の域には及ばんぞ』
荒ぶる黒馬を従えた、頭部からつま先までを漆黒の甲冑で纏った騎士。
現れたのは、自分の想像したものではなかった。
「ど、どういうこと......」
返事などあるわけない。そう思っていたが、騎士はゆっくりと自分を見下ろしてきた。
『主からの伝言を伝えよう』
一拍おいて。
『だが......まあ、なんだ......〈讃来歌〉は悪くなかった......お前にしてはな。多少色をつけて何とか及第点。だから、我の代わりに使いをくれてやる。好きに使え──だそうだ』
アーマからの、伝言?
『我が主は、いつになく機嫌が良かったぞ』
霞がかった低い声で、騎士は愉快そうに言ってきた。
有翼の石像、その一体が床に伏せた少女へと襲いかかる。
「クルーエルっ!」
少女の下へ全力で走る。が、間に合わないことはサリナルヴァ自身にも明白だった。
石像が少女に触れる。その瞬間、悲鳴を上げたのは灰色の名詠生物の方だった。
絶叫を上げ石像が吹き飛んだ。
──あれは。
目を疑った。少女の影が突然伸びて、石像を叩き落としたのだ。
「......なんだ、あれは」
少女の真下。少女の影から浮かび上がったものが、少女を背に乗せて羽ばたいた。
......なんだろう。この音。
クルーエルはまぶたを開けた。
鳥の羽ばたき? ううん、もっと大きい。それもすぐ近くで。
『失態を詫びよう。起こすつもりはなかったのだが』
濡れ羽色のグリフォン。自分がその背に乗っていることにようやく気づいた。
「──あなたは......夜色名詠の?」
『だが、言付けを伝える分には良いか。主からの言付けを預かっていたのでな』
主。それって誰だろう。
首を傾げる前に、その怪鳥は言ってきた。
『小娘、貸し一つだな』
............
伝言の相手が一発で分かった。
......なにが主だ、あの夜色羽つき飛びトカゲめ。
でも──
「あは、......あはは......」
心の底から、クルーエルは笑った。割れるような頭の痛みは残ったまま。熱も、身体のふるえだって。本当に弱々しい笑顔。けれど、それは紛れもなく普段の自分の笑顔だった。
不思議。たった一言で、張り詰めていたはずの空気がこんなにやわらぐなんて。
小娘。あのトカゲに言われるのはすごく久しぶりのような気がした。どこか、懐かしい。
『......主からの伝言、喜ばしい報せか?』
不思議そうにこちらを覗きこんでくる相手に、クルーエルは力一杯首を横に振った。
「いいえ、全然!」







灰色の煙を上げて還っていく二体の有翼石像。
何もできず、一瞬で。
......俺の灰色名詠をここまで容易く?
こちらは第三音階名詠。相手は第二音階名詠か、それ以上。その差は確かにあるが、それを抜きにしても、あの謎の名詠は圧倒的だった。
あの小僧の制服の襟......あれは、黒? いや、先のあの詠からして──あれは──
「......っく、ふはは、ははははははっっ! そうか、そういうことか!」
今、ミシュダルは全てを理解した。
自分は負けたのではない。こと今回に関しては、〈孵石〉があの少年を選んだのだ。
そして同じく──
「そうかヨシュア! つまりお前が選んだのもまた、あの夜色名詠ということなのか!」
「──戯れ言はそこまでだ」
すぐ背後に〈イ短調〉、そして触媒を携えた教師。
「......やあ、ご両人」
尊大な仕草と共に振り返る。
「この学園は実に好いな、異端と化け物の双方を飼い慣らしているとは。競闘宮の学生決闘に出してみないか。実に愉快じゃないか。あの緋色の髪の娘、あの化け物一人で名門校の自称エリート共を蹴散らす様が目に浮かぶ」
「年端もいかない少女を指して化け物、か。お前も十分狂犬だろう?」
「......まったくだ、俺なんか所詮その程度さ。二人に比べれば霞んでしまう」
大仰に、ミシュダルは左手を頭上に翳した。天を仰ぐように。
「──だが、それでいいのさ。俺にもともと勝利は無い。どれだけ葡萄酒を注いでも洩れてしまう、穴だらけの器だからな!」
そして、ミシュダルは左手を勢いよく振り下ろした。
風を切り裂く音を立て、突如降りそそぐ銀の剣。
「──っ!」
「俺の真精の守護剣は十二。そのうち三本を主たる俺の守護につかせただけだ。子供騙しだが、俺が姿を消すくらいの時間稼ぎにはなりそうだな......では、いずれまた会おうじゃないか」
浮遊する銀の守護剣に背中を預け、ミシュダルはその場を後にした。
化け物じみた緋色の髪の少女、そして夜色名詠の歌い手となる少年──はっ、なるほど。
......これからが楽しみだ。なあ、ヨシュア?







剣を振り上げたまま動きを止めた真精。
灰色の煙を上げ、徐々に光の粒となって消えていく。
「......最っ悪、決着つける前にそれですか」
同じく祓戈を構えた姿勢で、エイダはぼそりと口にした。
「あーあ、引き分けってやだね。気持ちが煮え切らないんだもん。これじゃあ何のために傷だらけになったんだかわかりゃしないって」
祓戈を降ろし、エイダは自分の姿をざっと確認した。身体の至る所に無数の擦傷。中には服を朱に染める傷もある。
「......医療費と服代、それに祓名民としての請負代金もだな、あたしは位が祓戈の到極者だから三割増しだ。絶対、請求してやるんだから!」
ぶつくさと呟き、エイダは腕組みしつつ、図書管理棟へと向かって行った。
──でもさ、これどこに請求すればいいわけよ。
3
図書管理棟、一階。
陽の光に溶けていくように、姿が朧気になっていく漆黒の騎士。
「あ、あの!」
夜色の名詠生物を、ネイトは懇願するような心境で見上げた。
「アーマは......やっぱり......来てくれないんですか」
『主の代わりに使いが来た、それが答だ』
淡々と騎士が告げてくる。
〈讃来歌〉は悪くなかった。それはアーマの言。だけど、来てくれなかった......
『......そう言えば、一つ伝え残していたことがあったな』
再度、騎士がこちらを見下ろしてきた。
『ネイト、〈讃来歌〉は悪くない。悪くないが、触媒がだめだ』
〈孵石〉が? でもあれは、ミシュダルという男が言うには究極の触媒だって。
『ネイト、我をあんなちっぽけな卵如きで詠び出すなど一万年早い。あんな不格好な触媒で詠び出されてたまるか。もっと気の利いた物を用意しろ──だ、そうだ』
......あの、それもしかして。
アーマが来なかった本当の理由って、何も棟の中だったからじゃなくて単に、小さな卵の形をした触媒が気にくわなかったから?
『......それは、主に直接訊くといい。我々の口からはどうとも言えん』
どこか答えづらそうに呟く騎士。見ると、隣にいた濡れ羽色のグリフォンもまた、同じように顔を明後日の方向に向けていた。
「あの羽トカゲ......なぁにを偉そうなことを」
それは、ソファーに寝かされている少女のものだった。
「ね、これわたしからだって、自称『主』の夜色羽つきトカゲに伝えておいて」
『なんだ?』
すると、彼女はしてやったりといった表情で。
「『トカゲはトカゲなんだから、は虫類らしく卵から孵ってればいいのよ』──ってね」
騎士、そしてグリフォンが驚いたように動きを止める。
が、それもほどほどに。
『......伝えておこう』
どこか愉しげに、その騎士とグリフォンは頷いた。
敗者の詩章・四 『Deus──Arma Riris』
「あれは、到底この世にいてはならない。もしあれが人のように成長を遂げるなら......近いうち、あれは必ずこの世に崩壊を招くに違いない」
そう言って、老人が自らの懐に手を伸ばす。
「今お話ししたこと全てをこの一冊に書き留めてあります。どうか、お役立てください」
しかし、彼女はそれを受け取ろうとはしなかった。
「それはカインツにあげて」
「......カインツ? ──カインツ・アーウィンケル。まさか、あの男ですか!」
訝しげな声を上げる老人に女性が頷く。
「たぶん、あなたの思っている通り」
「とんでもない! あの男こそまさに勝者の中の勝者! 陽という陽を受け、栄光の風に祝福を受けた者。我々と真逆の存在ではないですか!」
「不適格ということ?」
「彼の才能は認めます。しかし我々とは住み処が違う、拠り所が違うのです」
「......そうね。それは確かにそうかもしれない。あいつは、すごく眩しい」
老人と出会って初めて、その女性は表情をやわらげた。
「本当に眩しい......こんな独りぼっちのわたしを、あの時照らしてくれたんだもの」
彼女の表情。それは小さな小さな、微笑みだった。思いもよらぬ女性の反応に、老人が動揺したように押し黙る。
「......ではイブマリーよ、あなたはこの先どうなさるつもりですか」
「わたしは、もうあまり生きられない。あなたと同じでね」
自らの胸元に手をあて、その女性が目を閉じる。
「まさか病をお持ちで?」
「だから、わたしは──」
ふと荒野に響く子供の泣き声。
老人が振り向くそこに、夜色の髪をした子供が、とてとてと荒野を走ってくる。
「おかーさん!」
泣きつく子供をその女性が抱く。いつの間にか巨大な竜は姿を消し、小さな夜色のトカゲが足下に隠れるように潜んでいた。
「......なんと」
まだ二十代中頃の女性が、十歳近くの子供。彼女が一人でこんな荒野にいたことも鑑みて、夫となる人物がいるとは考えにくい。おそらくは孤児を拾ったのだろう。
「そうか......それならば確かに、あなたにこれを背負わせる訳にはいかないでしょうな」
既に彼女は、あまりに重いものを背負っているのだから。
彼女は、残された命を、この子のために使うことを決意しているのだ。
「その子の名を、お聞きしてよろしいかな」
「──ネイト」
......なんという皮肉か。
Neight──セラフェノ音語における『夜明け』。
夜色名詠の歌い手の子が、よもやそのような名を授かるとは。
「実は私も一人、孫のような弟子がおりまして。この場で紹介できないのが残念です」
「たとえ今じゃなくても、わたしたちがお膳立てせずとも、いつか出会うかもしれない」
「はい」
しばらくの間その老人は、母親が子供をあやすのを見守っていた。
──良い頃合いだ。
柔和な笑顔を浮かべ、ヨシュアは女性に背を向けた。
「行くの?」
「ええ。年老いた足でどれほどかかるかわかりませんが、必ずや届けましょう。この本を、虹色名詠士に」
「まだ虹色名詠士にはなってないわ」
公式な認定はなされていない。現在彼が公式に習得したと認められているのは四色。
その最後の色の認定試験が、あと一月後に迫っている。
珍しくも細かい点を指摘する女性に、ヨシュアは内心苦笑した。
「おや、信じていないのですか?」
むっ、と妙に子供っぽい仕草で表情をしかめる女性。
その幼げな反応に、横顔を向けたままヨシュアもまた微笑んだ。
「彼ならば成し遂げるでしょう。それがこの世の流れ。私とあなたが出会えたことも含めてね。では......おそらくこれが、今生の別れとなるでしょう」
そして──
老人が去ったその場所で。
イブマリーはただ独り、荒野に吹く風にその身を委ねていた。
彼女の肩には、夜色のトカゲが身を縮めるように留まっていた。
再び強さを増す砂埃が巻き上がる中。
「こんな寂れた場所に、緋色の花はひどく目立つわよ」
夜の冷たさを含んだ声で、イブマリーは口早に告げた。
独り言ではない、明確に相手を意識した言の葉。
そしてその言葉と共に──
砂埃が、止んだ。
その背後。どこを見ても草、花の一本すら生えていない死の荒野のはずが──乾いた灰色の地に、なぜか落ちている一輪の花。
──それは緋色の花弁を持つ、アマリリス。
「覗き見? それとも、今さらわたしへの挑発?」
どこからも答えはない。
数秒、数分、数時間の静寂を隔て。
「......さあ、それはどうかしら」
イブマリーは、わずかにその口元をつり上げた。まるで、今の今まで誰かと会話をしていたかのように。
それと同時、その花が風に吹かれて何処かへと飛んでいく。
「ねえ、アマデウス?」
『......その名は、今はお前のものだろうに』
飛んでいく花に興味が無いとでも言いたげに、トカゲはそっぽを向いたまま。
「わたし、どうすればいいのかな」
夜色のトカゲは黙し、答えない。
「......〈全ての約束された子供たち〉、か」
泣き疲れて寝ている我が子を背負い、イブマリーはいつまでもいつまでも、風になびく自分の黒髪を見つめていた。
「......わたし、どうすればいいんだろう」

贈奏 『いつまでも、ここは憩いの場所だから』
学園閉鎖から四日後──
......明後日から学校か。
うっすらと部屋に差し込む光の筋にまぶたを照らされ、クルーエルは目を開けた。
ミシュダル、そう名乗った男が学園内から逃走したという結論と共に、トレミア・アカデミーにおける閉鎖は解除になった。
昨日までが学園の哨戒及び調査。それを踏まえ今日が教師たちの一斉ミーティング。明後日、全校集会を含めた始業式になるらしい。
ふと、遠慮がちに扉がノックされた。この控えめなノックだけで誰が来たか分かってしまう。
「あの......クルーエルさん、起きてます?」
「うん、どうぞ」
入室してくる夜色の少年。
医務室のベッドの上で、クルーエルは上半身を起こした。
「あ、寝ててください! 僕すぐ帰りますので」
「ううん。今は気分が良いの」
首を振り、腕を持ち上げて伸びをする。
「体調は......どうですか」
医務室の椅子に腰掛けるネイト。
普段と少しだけ違う彼の表情──丁度、今の彼と自分の目線は同じくらいの高さだった。普段見下ろすように見る彼の表情より、心なしか男の子っぽく見えた。
「昨日も言ったじゃない。だいぶ良くなったよ。明後日の始業式には出られると思うから」
原因不明の体調不良で倒れた日の夜から。自分の寮で療養するよりはと、学園閉鎖の時期だけクルーエルは医務室のベッドを貸してもらっていた。きちんとした医療薬品等も調っているため、こうして体調の回復に専念できている。
「そうだ、サリナルヴァさんがさっき帰ったそうです。〈イ短調〉でしたっけ、そちらでの会議に出席するとか言ってました。また何かあればトレミア・アカデミーにも連絡するって」
「......そう」
彼女は、その場でどのような報告をするのだろう。灰色名詠、〈孵石〉、そしてミシュダルという男。いずれにせよ早くあの男を捕まえて欲しいというのが正直なところだ。
......だけど、他に関わった子はどうしたんだろう。
「ネイト、ミオとエイダは?」
医務室に寝泊まりする自分に、あの二人は頻繁に見舞いに来てくれた。
ただ、今日に限っては姿が見えないのだ。
「......えっと、大ピンチです」
大ピンチとは、そう訊ねる前に。
何を思ったか、ネイトは医務室の窓に向かって歩きだした。
「ちょっと窓開けますね」
揺れるカーテン。しばらくして──
「エイダ、ミオ! 待ちなさい!」
『違うの! 先生誤解です! あたしらはただ、あんまりあれが可愛かったから!』
「問答無用! これを知られたからには──」
普段もの静かなケイト教師の、らしからぬ怒声。
続けて聞こえてくるミオとエイダの悲鳴。
「......なに、これ」
「えっと、ケイト先生が着てたピンク色のシャツが可愛いって、二人して寮内の友達に言いふらしたとか。僕が聞いたのはサージェスさんからですけど」
〝......先生。あたし、ケイト先生の私服姿初めて見た。先生が薄紅色のシャツを着ると、なんか可愛らしいね〟
〝ミオ、恥ずかしいから他の生徒には他言無用よ〟
今思えば、そんな会話もあったっけ。
「......いま、追いかけっこしてるの?」
「追いかけっこというか、捕まったら生きて帰れないというか......二人が逃げた道のそこかしこが氷漬けになってますから」
──ケイト先生、そんなにあの格好恥ずかしかったんだ。
「ふっふっふ。二人とも、追い詰めたわよ」
『せ、先生っ! あたしらが悪かっ......きゃぁぁぁっ......っ......!』
悲鳴が聞こえ......そして、突然静かになった。
「──ネイト、もう窓閉めていいわよ」
「......はい」
何かを見てしまったのか、やや青ざめた表情でネイトが窓をぴっちり閉める。
ふと、そこで会話が一旦途切れた。
互いにかける言葉を探す間の、その小さな静寂。
部屋が沈黙で染まりきる、その前に。
「──ありがとう」
前髪をはらい、クルーエルはそっと表情をやわらげた。
「え?」
ぽかんと、呆気にとられたように口を開けるネイト。
「そう言えば、まだ面と向かって言ってなかったからね」
「......えっと、僕何かしましたっけ」
「うん。今回はキミにとことん助けられちゃったね──キミの名詠に、だけじゃないよ」
消えかけた意識の中、それでもわたしは覚えてる。
わたしが図書管理棟の前で倒れた時、背負ってくれたのはこの少年だった。
ソファーに寝かされてから、それを見守ってくれたのも。わたしが管理棟の階段を昇る前、階段の場所まで肩を貸してくれたのも。
それこそが、嬉しかった。
「──だから、ありがとう」
「そ......そんな」
もじもじと、顔を下に向けてしまう彼。その仕草にこっそり呆れ笑い。......やれやれ、あいにく恥ずかしがり屋なところは、まだまだ直すのに時間がかかりそうだ。
「ぼ、僕、一度自分の寮に戻りますね」
よほど恥ずかしかったのだろう。そわそわと彼が立ち上がる。
「......うん。わたしも、また少し寝るよ」
──あ、そうだ。
ふと浮かんだ出来心。それをそのまま、クルーエルは口にした。
「ねえ、ネイト」
「はい、何ですか」
彼に向け、クルーエルはにこりと微笑んだ。
「──おやすみのキス、して」
数十秒ほどだろうか。
「........................はい?」
時間が止まっていたかのように、ゆっくりと彼が瞬きを繰り返す。
「おやすみのキス、知らない?」
今度は、更に一分ほど返事が無かった。
「......え、ええと......その......意味が」
「ん、いいよ。なら教えてあげようか?」
おいでおいでと手招き。けれど、ここまでが限界だったらしい。ふらりと、意識を失ったかのように彼がばたんと倒れてしまった。
──あ、さすがにやりすぎたか。
「......おーい、ネイト?」
「あっ、あ......あの、ま、待ってください!」
顔を真っ赤にするネイトを見て、クルーエルは彼にばれない程度に苦笑した。
「あ、あのですね! ぼ、僕は、えっと、あの、その......だから......」
「冗談よ。少し悪戯したくなっただけ」

気楽に手を振ってみせる。
「......今のはあんまりですよぅ」
「ふふ、ごめんなさい」
素直に謝り、クルーエルは医務室のベッドに横たわった。
「また、夕ご飯の前ぐらいに来てもいいですか」
どこか遠慮がちに言ってくるネイト。
......えっと。
布団を口元まで引っ張りながら、クルーエルはその少年を見上げた。
「──あのさ。キミが良ければ、またすぐ来てほしいな」
そんな遅くまで待たなくていい。すぐにでも、また来てほしい。病気で寝ている時は、不思議と寂しい気持ちになるから。
「わかりました、じゃあ、三時間くらいしたらまた来ますね」
「うん」
......ありがとう。
「おやすみなさい、クルーエルさん。早く良くなってくださいね」
「うん。またね」
そっと目を閉じる。
──おやすみのキス、して。
ちょっとした悪戯。だけど......
あの時にもし彼がうんと頷いていたら、わたしは......どうしてたのかな。
慌てて噓と言い張るのかな。
笑いながら彼をからかうのかな。
それとも────あるいは────
......ううん。わたし、馬鹿みたい。
こんなこと考えてるなんて、誰かに知られたらどうしよう。
早く寝て、体調治さなくちゃ。
急に気恥ずかしくなり、クルーエルは布団を頭までかぶりなおした。
......良い夢、見れるといいな。
......おやすみなさい、ネイト。
追奏 『異端の長たち』
とある小さな部屋で。
「──時間だな」
円卓に座る九人を眺め、クラウスもまた腰掛けた。
〈イ短調十一旋律〉。わずか十人強の集団ながら、世界中の名詠士・祓名民・学者たちから畏れられる超越者の会。
「『可及的速やかに集まることとしたし』......お前らしくもない号令だったな、クラウス」
腕を組んだまま、名詠士らしき男が口を開く。
「それなりに、楽しいことが起きているわけだからでしょう」
続けて、その隣に腰掛けた女性が歌うように。
「......しかし、あの虹色名詠士の姿が見えないようだが」
円卓の一人が放った言葉に、周囲の人間の表情がわずかに変わる。
「シャンテ、虹色から何か聞いてないか」
「......『確かめなきゃいけないことが出てきたので遅れます』ですって」
周囲から洩れる、苦笑にも似た嘆息。
「──あいつのことだ、少々の遅刻では済まないだろう」
がたりと音を立て、席から立ち上がったのは研究服を羽織った女性。薄暗がりの部屋の中でも、その紅いハイヒールは人目に立つ。
「事態が事態だ、先に始めるとしよう。クラウス、今回は私が進めても構わないな」
頷く。それを見て、サリナルヴァが資料を各人に手渡していく。
「既に、灰色名詠とも言うべき名詠が確認されていることは皆も承知だろう。我がケルベルク研究所支部で見られた灰色名詠、および先日トレミア・アカデミーで見られた灰色名詠について、今判明している事実はこれだけになる」
「......これはまた、随分とタチが悪い色とみえる」
祓戈を背に結わえた老人が、溜息。
「私も身を以て味わったよ『Arzus』から派生したというのが今のところ有力だが、その攻撃性からは、もはや別種と思った方がいい。不意を突かれれば、今ここにいる者とて容易に落ちる代物だ」
〈孵石〉、そしてミシュダルという名の男。
サリナルヴァを中心に議事が進められ、およそ一刻──
トン。小さく、一度だけ扉がノックされた。
......珍しいな。
よほどのことが無い限り、会議中には入室・ノックの類は控えるよう伝えてあるのに。
「どうかしたか?」
「あの......ご令嬢からです。クラウス様を出せと」
しずしずと、雇いの秘書が入室してくる。
──エイダが?
思いきや、部屋の窓に数羽の音響鳥。窓を開けてやると、円卓に次々と留まり、緑色の翼を大きく広げる。
「学園の教師に頼み込んだとのことです」
......よりによってこんな時にか。
「別に私は構わんぞ。どうせここの連中だってお前の娘とは顔見知りだしな」
腕を組み、どこか楽しげに言ってくる進行役。
「それに──どうも、訳ありのようだ」
サリナルヴァの視線はあくまで音響鳥へ。その翼が小刻みに振動、既に相手の会話を受信しつつあった。
『......親父か』
距離が離れているからだろう。数匹の音響鳥を用いても声が遠い。
「どうした、今多少取り込んで──」
『灰色名詠の対策か?』
通話先から聞こえる、弱々しい声。普段の娘にしては、あまりにか細い。
「エイダ、何かあったのか」
『......親父、危険なのは灰色名詠じゃない』
「──どういうことだ?」
『ミシュダルとかいう奴の名詠をサリナからも聞いて、ようやくあたしも灰色名詠の概要が摑めてきた。だけどその分、アレの正体がますます分からなくなった──今この世界には、何か分からないけど......もっとやばいのがいる』
エイダの告げてきた言葉に、円卓を囲む者たちの眼差しが一変した。誰もが知っているからだ。娘は、こういった場面において決して噓や冗談の類を言わない。
「やばい、とは?」
『あたしが出くわしたのは──まるで姿の見えない奴だった』
姿が、見えない?
『そのままの意味さ。不可視の生き物、それがあたしたちの女子寮にまで入り込んでいた。最初は灰色名詠の別種かと思っていたから、サリナにもその程度しか言ってなかった。......でも、あれはやっぱり灰色名詠なんかじゃなかった』
「......話が見えん。そんなのが万一実際にいたとして、なぜお前の女子寮に」
いや、そもそもなぜトレミア・アカデミーにいたのか。その時点で誰もが疑問を抱く。
『まだあたしにも摑めてない。ただ一つ言えるのは、灰色名詠の事件と思われてる中のいくつかが、まったく別の事件の可能性があるということだ』
灰色名詠の襲撃を受けたと思しき研究所や学校は複数に上る。それら全てがミシュダルという男の仕業ではなく──さらなる第三者が?
『そう考えて動いた方がいい。だけど......それは、今まであたしたちが知っている常識を覆すような奴かもしれない。はっきり言って、何をどうすればいいのか分からない』
沈黙する円卓。その中で──
『親父、この世界にはまだ、あたしたちの知らない何かがいる』
音響鳥が羽を振動させる微かな音だけが、いつまでも部屋にざわめきを残していた。
時、同じくして──
ザァァァッ......
途切れる事なき波飛沫の音。そして波の飛沫に混じる、わずかに香る潮の匂い。
それは大陸の端、地図にすら載っていない、小さな孤島だった。
見上げるだけで気の遠くなるような蒼い上天に、視界を埋め尽くすほど大きな、白亜の積乱雲。一方では──蒼と白の対称に彩られた頭上とまるで真逆であるかのように、燃え滓のような灰と、黒炭のような石が混じり合った奇妙な地肌。一本の木も、一本の草さえ生えることのない澱んだ地。
だがそこに、不自然なほど辺り一面に咲き乱れるのは緋色の花だった。
〝わたしがソレと出くわした場所は......涙の島でした〟
『zarabel』──セラフェノ音語にて『涙』と呼ばれる島。世界地図にすらその存在を忘却された、もはや訪れる者すら皆無であった孤島。
「......会議には間に合いそうにないか。また先輩に怒られるかな」
波飛沫に濡れるのを嫌がるかのように、枯れ草色のコートがふわりと揺れる。
カインツ・アーウィンケル、虹色名詠士はそこにいた。
「三年前......ここで何かが起きた?」
足下の花を踏まぬよう、カインツはゆっくりと周囲を見回した。
島全体に咲き誇る緋色の花。目に映るのはそれだけだ。草も木も、鳥も、他の生物の影はまるでない。
〝『clue-l-sophie neckt』に、お気をつけなさい〟
かつて、灰色の老人に告げられた言葉。
あの時は、その意味が分からずただ聞き流すだけだった。それがふと、今になって突如記憶の奥底から浮上してきた。
同じ〈イ短調〉たるサリナルヴァの誘いを断ってまで、自分が別行動した本当の理由。
「clue-l-sophie neckt、......か」
老人が告げた──緋色の髪をした、一見少女の姿をした何か。
その名前、容姿。
それは嫌でも、あの学園で、夜色の少年の隣にいた少女を思わせる。
競演会で彼女が口ずさんだ詠を、自分もまた確かに聴いていた。
Hir qusi『clue』lemenet feofulleftia sm jes gluei I
melodia fo Hio,O ect ti hear Yem『sophit』
......けれど、分からない。
学園で聴いた彼女の詠は、だが──。
「あの子の詠には、『neckt』は入っていなかったはずだ」
緋色の花を見つめたまま、吐息をこぼす。
少女の詠にあったのは、あくまで『clue-l-sophie』まで。
欠落した『neckt』。老人の言うそれは何処にあり、何を意味する?
彼女の詠を『neckt』するのは一体何だ。
「......ボクの考えすぎなのかな」
ふっと、カインツは表情をやわらげた。
たまたま、自分の知る少女の名と老人の告げるソレの発音が一致していた。ただそれだけかもしれない。
「ねえイブマリー、僕たちは────」
ふと、気まぐれな突風が吹いた。
緋色の花弁を、風がどこか遠くへと運んでいく。言いかけた言葉も、攫われた。
波飛沫の飛沫を、音を、そして匂いを運ぶ風。
「風の生まれる場所、か」
独り言。返事など返ってくるはずもない。だが──
「そう、そして始まりの場所でもある」
声は、突然に聞こえてきた。
自分の、よりによって真っ正面から。
「君は......」
いつからそこにいたのだろう。
十三歳ほどの少女が、自分から数メートル離れた場所に立っていた。
足下に咲き乱れる花とまるで同じ色、緋色の髪をした少女。
「──三年ぶりだけど、初めまして、虹色の詠使い」
少女は、何の衣服も身につけていなかった。衣服の代わり、風にそよぐ緋色の長髪が、さながら外套であるかのように少女の周囲を覆うようになびいていた。
「カインツ・アーウィンケル。あなたを──」
くすりと、微笑むように、懐かしむように少女が目を細める。
「あなたをずっと待っていた......〈始まりの女〉よりも、誰よりも」
あとがき
まずは、この本を手にとって頂き、本当にありがとうございます。
今この後書きを書いている時期はまだ温かな春という陽気ですが、実際この本が刊行される頃には夏真っ盛りになっていることでしょう。......多分、自分は溶けてます。
さて『黄昏色の詠使い
アマデウスの詩、謳え敗者の王』、いかがでしたでしょうか。
お読み下さった方はご承知のことかと思いますが、この巻からようやく物語の背景が明らかになっていきます。(後書きから読まれている方は、さあ是非そのままレジへ!)
物語全体のキーになるお話ということで自分自身悩みに悩んでいるうちに刊行に至ったわけですが、それでも自分にできる最大限の努力をしてきたつもりです。気に入って頂けたのなら幸いです。
とはいえ刊行の合間が、一巻から二巻までは四ヶ月。二巻から三巻まではその半分。
編集K様 「隔月刊行でいきましょう」
細音 「問題ありません(......いや、どうでしょう)」
自分自身どうなるかなと半信半疑で進めてみましたが、どうにかこうにか間に合ったようです。
けれど実を言えば、自分以上に大変だったのが担当編集様とイラストレーターの竹岡美穂さんでした。竹岡美穂さんには、細音の相変わらずの無理難題を押しつけ、担当編集様には平日は夜遅くまで打ち合わせ、休日出勤までしてもらっていました。お二方とも過酷なスケジュールの中、こうしてお力添え頂きまして、本当にありがとうございます。この物語は本当に、お二方がいなければ成り立っていないと実感しました。
◆近況
やつれてます。瘦せる、ではなくやつれてます。
この前、同期のデビュー作家の人達とお会いしたのですが、自分を見るなりまず真っ先に「細音さん、瘦せましたね」と言われたのは割と新しい思い出です。
現在、栄養剤とオロ■ミンCと胃腸薬のおかげで生きてます。......とか書いたら余計にご心配かけてしまいそうなのですが、平気です、問題ありません、元気です。
......うわ、なんか衰弱しきった感じの近況報告に。
◆舞台、トレミア・アカデミーについて
そう言えば、今回のメイン舞台となる図書管理棟ですが、実は自分の母校を参考にさせて頂きました。絵の資料と思って図書館の内部を撮らせて頂いたわけですが、もちろん無断で撮るわけにはいきません。卒業生といえど外部の人間ですから、事前の許可が必要です。
細音 「すいません、図書館の内部を撮らせて頂いてよろしいでしょうか」
司書さん 「分かりました。確認して、来週中にはご連絡いたします」
細音 「いえ、明日行きたいんですが」
司書さん 「............明日ですか(苦笑)」
細音 「そこを何とか。恐らく午後一時から二時の間には行けると思います」
司書さん 「......分かりました」
ちなみにこの会話、金曜日の夜二十一時半過ぎの会話です。通常のビジネスでこのようなアポイントメントの取り方したら怒られます。我ながら無茶したものだと反省。
さて当日は土曜日だったので学生も少なく、自分の母校は割と緑が多い学校なので歩き回っているだけで楽しい一時でした。なんかこう、久々にリフレッシュした感じで。
司書の方、あの時は本当にありがとうございました。(図書館についたのも余裕で二時を過ぎていたのは秘密)
ちなみに、トレミア・アカデミーの校舎設計や実験室、学生服などは竹岡美穂さんのアイデアです。この前資料を参考に拝見したのですが......あの資料の揃え方、質と量が半端じゃないのです。あの繊細なイラストの背後には、やはりそれだけの下調べと労力があることを再認識しました。本当に感謝です。
◆短編について
前の巻でもお知らせしておりますが、二〇〇七年七月現在、月刊ドラゴンマガジン誌上にて『黄昏色の詠使い』が短期集中連載として掲載されています。
ブログやメール等で「読みました」というご報告を頂いた時は本当に嬉しかったです。
五月分六月分は既に発表済みで、最後の七月分(ドラゴンマガジン九月号)も今月末に発表予定。最後の短編も、どうか気に入って頂けるようアレコレと作業中です。もしお読みいただける方は、どうか宜しくお願いします。(そして、是非応援のおハガキを~)
◆世界設定について
これは本来、一巻の後書きに入れるべきだったことですが......
既にある程度お気づきの方もいらっしゃるようですが、この『黄昏色の詠使い』に関しては、表向きには出ていない隠し要素が割と多く存在します。
物語が進んでいく上で最低限必要な情報はもちろんこれから徐々に浮かび上がっていきますが、もしその隠し要素までお知りになられたいという方がいましたら、細音のホームページの『novel』というページに解説欄を設けてありますので、そちらを御覧頂けると「へえ、こうなってたんだ」的な情報が載っているかもしれません。
もちろん物語を読む上で必須なものではないのですが、もし宜しければちょこっと覗いてみてください。
そしてもう一つ。セラフェノ音語の解読、これも興味がある方には是非試して頂きたいことだったりします。
三巻のエピローグ、そして途中の間奏でそれを示唆する出来事がありましたが、この物語のちょっとした謎や疑問。そしてそれに対する答はほぼ全て、セラフェノ音語に綴られた〈讃来歌〉に隠されています。
重要なのは文法ではなく、セラフェノ音語の単語。そして主要な登場人物と、主要な名詠生物の名前。セラフェノ音語の中でなぜか■■■になっている部分。
一巻から今までに出てきていた〈讃来歌〉のセラフェノ音語を(短編含める)もし解読されたなら、色々と面白い秘密が分かるかも?
お時間ある方は、こちらもお試し頂けると幸いです。
◆お手紙・メール、応援など
二巻の刊行から三巻まであまり間がありませんでしたが、その中でも本当にたくさんのお手紙やメールを頂きました。一つ一つのご感想、大切にしています。悩んだり落ち込みそうになった時、皆様の応援に助けられていることを本当に身に染みて感じました。
身近にいる家族、普段から様々な面でお世話になっている職場の方々、作品についての悩みを相談させてもらった友人、作品について鋭い意見を送ってくれる友人。
そして日本全国からたくさんのお手紙やエールを送って下さる方々、本当にありがとうございます。
多くの声援、期待に応えられるよう一層頑張っていきたいと思っていますので、どうかこれからも宜しくお願い致します。
それでは、また、四巻でお会いできることを願いつつ──
(恐らく年内には出せると思います。確信はないので、是非とも本屋さんでご確認を! 細音のブログ等でも、逐一ご報告致します)
二〇〇七年 六月初旬
細音 啓
ホームページ 『細やかな音の部屋』 http://members2.jcom.home.ne.jp/0445901901/




黄昏色の詠使い
踊る世界、イヴの調律
細音 啓

富士見ファンタジア文庫
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口絵・本文イラスト 竹岡美穂


虚奏 『心のかけら』
『始まり』は、いつ、どこで、どのように始まったのだろう。
全ての始まりは......いつだったのだろう。
思えばあの緋色の髪の少女は出会った当初から、本能とも言える根源的な段階で、目の前に与えられた名詠式を嫌っていた。
〝わたしの進む道は本当にこれでいいのかなって。もっと別の道があったんじゃないかっていつも考えちゃう〟
これが、少女が零した最初の言葉。少女は、名詠学校に入学しながらも名詠式を拒んでいた。
〝ねえ、キミは、名詠が怖いと思ったことってない?〟
そして、二度目。これは夏期合宿の際に少女が口にした言葉。
少女は名詠式を怖れていた。
次々と少女が告げる、名詠式に対する不安。怖れ。戸惑い。
これらに対し、もう少しだけ......疑問に思うべきだったのかもしれない。
なぜ、彼女がそこまで名詠式を本能的に拒んでいたのか。
その根底に眠るものは何か、ということを。
序奏 『ツァラベル、涙と呼ばれた島で』
〝風の砕けた日──そう呼ばれた事件に記憶はありますかな〟
かつて、黄砂色のローブを羽織った名も知らぬ老人に問われた言葉。それを思い出し、カインツはゆっくりと頭上の雲を見上げた。
ツァラベル、それは世界地図にすらその存在を否定された小さな孤島だった。訪れる者もなく、島に生息する生物すらまるで見当たらない──忘れられた島。
「あの時は、あなたの告げる意味が分からなかった。それをよりによってこんな時に思い出すのは、皮肉なのかな」
灼け焦げた炭色の土。対照的に、枯れ草色のコートは命の息吹の色を思わせた。
千切れ飛ぶように、次から次へと流されていく白雲。風の生まれる場所、この島を知る者はここをそう呼ぶこともあるらしい。
「......ここに辿り着くまで三年か。ボクも時間には大概ルーズだな」
この島を訪れることを老人に誓ってから、既に三年が経過していた。行こうとは何度も決意したのだが、そのたびに何らかの理由によって延期せざるをえなかった。そんな自分を今回突き動かしたのは、大陸中で密かに問題視されている謎の名詠だ。
三年前に老人から告げられた不可思議な目撃談と何か関係があるのでは?
何の根拠もないが、自分でも不思議なほど、確信にも近い予感が胸の中でひしめきあっていた。
〝あなたが知らないのも無理はない。ひどく些細な事件でしたから。私とて偶然、その事件が起きたとき、ツァラベルに近い大陸の街にいたから目撃しただけのこと〟
聞けばその老人は随分長いこと、そして執念とも言えるほどの手間をかけ、自分を捜し続けていたという。行先を誰にも告げずに旅に出る。そんな放浪を繰り返していた時期のことだ、老人にとっては相当の苦労があっただろう。
〝事件の内容は......ただ、小さな島で謎の爆発が起きたこと、そして緋色の閃光が突如として発生した。ただそれだけです〟
〝周囲の者は気味悪がって近づこうとしませんでしたが、この老いぼれはその現象が気になりましてな......ああ、これは最初は、本当に単なる好奇心でした。とにかくも、小型の舟を一隻借り受けまして、出向いたわけです〟
その結果目にしたものが、この島一面に咲く緋色の花──アマリリスだった。
〝一目見てすぐ、これは異常だと分かりました。島の地肌は灼け焦げ他の生物は皆無。その中で、なぜこのような可憐な花だけが不自然なまでに咲き誇っているのか〟
当然の疑問だ。
この島に来てすぐ、カインツもまた同じ疑問を抱いた。
〝島を探索するうち、島の中央部に着きました。島の中でも一層花が生い茂った場所で、ただ一箇所咲いていない、まさに島の中心部。そこで私は奇妙な石を見つけました〟
老人が透明の容器に入れていた物体を、三年経った今でも覚えている。
何か巨大な物の鱗を思わせる表面をした、化石のような石だった。最初はそれを触媒と言われても、すぐには頷けなかったことも覚えている。
〝触れた途端、その石から名詠光が溢れ出た。さながら洪水のように。瀑布の水飛沫のように。生まれた光の強さは、私が数十年見たこともないほどに強かった──それが、私がツァラベルで発見した究極の触媒でした〟
......究極の触媒か。
その言葉自体には、カインツは特に特別な感情を抱かなかった。
もちろん気にならないと言えば噓になる。だがそういった特別な触媒に頼ることが、必ずしも名詠式の真価につながるとは思わなかったからだ。
「そうね。では、あなたはなんのためにここに来たのかしら」
カインツの回想は、少女の言葉であまりにあっさりと切断された。
「あなたはこの場所にやって来た。それはわたしと出会うためでしょう?」
透きとおるような輝きを放つ緋色の髪の少女。その肌は真珠のように白く、また瑞々しい。顔かたちに至っては、古代の彫像を思わせるほどに均整がとれていた。
〝だがその触媒を発見した場所で、私は更なる謎に出くわした。緋色の髪の、十歳ほどの少女。その特徴だけならば、おそらく大陸中を探せばいくらでも見つかることでしょう。しかし──〟
老人の言葉は熱とふるえが入り混じっていた。
弱々しく自らの腕を天へと掲げ、その老人は言った。
〝その少女は何かが違った。ソレと目があった瞬間、私は私の全てを見透かされたことを悟った。私が敗者となった理由。名詠式に打ち込む理由。まるで抵抗できぬまま心の内に侵入された。心を汚されたわけではない、だがそれ以上の恐怖があった〟
〝おそらく私は、あの時一種の恐慌状態になっていたのでしょう。無我夢中でソレに対抗しようと、その島で拾った石を触媒に、自身の持つ最強と信じていた真精を詠んだ〟
だが──
その真精は、少女の目の前で霞のように消滅してしまったという。
老人が告げた別れの言葉は、たった一言。
〝『clue-l-sophie neckt』に、お気をつけなさい〟
今から六年前に老人は謎の少女と出会った。その時の彼女の外見は十歳程度の少女。それから三年後、つまり三年前に自分は老人からその事実を告げられた。もし順当に年を経ているのならば、現在その少女は十六歳ほどになっているはずだ。
しかし今目の前にいる少女は、いまだ十代の前半。思春期に入りたての頃だろうか、せいぜい十二、三歳だ。十五、六には見えない。
「あら、そっちの姿の方が好みだった?」
くすりと、それを見透かしたかのように少女が笑う。
「十六歳。現在の姿はあの子のものだから、わたしは過去のものを借りていたのだけど、あなたが望むならそっちでも構わない」
足下の花を楽しげに愛で、少女がしゃがんだ姿勢で見上げてきた。
「でも、そんな姿の是非などどうでもいいでしょう? あなたはわたしを求めてやってきた。そしてわたしもまた、あなたを待っていた。あなたという存在を待ち望んでいた」
「......君は」
「あの時にもちゃんと教えたじゃない。わたしの名前」
あの時?
胸の奥でその単語を反芻するも、澱んだ記憶の中にそれらしき名前は浮かばない。
ただ一つ思い浮かぶとすれば──clue-l-sophieneckt
まだ記憶に新しい。学園で、夜色の少年の隣にいた少女。その名に酷似した音の響き。
「それとも、あなたには〈始まりの女〉の名前の方が大事かしら?」
口元に手をあて、少女がくすりと笑う。
......なぜイブマリーのことまで。
「わたしは全てを知っているから。全ての過去と全ての未来を知っている」
自らを抱きかかえるように両手を胸元で交叉させ、少女がそっと瞳を閉じた。
「でも、あなたはその予定運命の外にある」

予定運命。
元来は発生学の単語だ。細胞が将来どの組織、器官に分化するか決定すること。うろ覚えなので正確な意味合いは不明瞭だが、そのような概念だったはず。
「そう、予定運命とは定められた五色の定律音のことでもある。予め用意された、未知なき道。〈全ての約束された子供たち〉が通るべくする道」
名詠式、それがこの世界で研究されている技術だ。
自分が望む物を心に描き、自分の下へと招き寄せる転送術、それが名詠式。その術式の過程で、詠び出す対象の名前を賛美し詠うことから名詠式という名がついたとされる。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。
名詠式はこれら五色の音色から成り立つとされる。そして、それ以外の名詠色はない。そう信じられていた。その五色以外の名詠色を構築するのは不可能だと。
だがその不可能に挑戦し、新たなる名詠色を生み出した者が歴史上二人だけ存在する。
虹色名詠士、カインツ・アーウィンケル。他ならぬ自分自身。そしてもう一人。
夜色名詠の創造者、イブマリー・イェレミーアス。かつて共に学び、共に約束を交わした女性だ。
「ええ、五色の音色ではない更なる虹色を詠び招いた時点で、あなたは夜色でも空白でもない、更なる可能性をこの世界にもたらした」
夜色、虹色。それは分かる。
だが空白? それは一体──
「......風が生まれた」
こちらの疑念を知ってか知らずか、少女が青い双眸を天上へと向ける。
その両手から、何もないはずの場所から無数に零れる緋色の花びら。風に乗りどこかへと運ばれていく花を見送り。
「きっと今夜は、夜の星空が綺麗なのでしょうね。透きとおるような輝きが見られるはず」
少女は、寂しげな瞳で訊いてきた。
「ねえカインツ、始まりはいつだったと思う?」
一奏 『砕きの緋』
1
容赦なく照りつける陽射しに、さらさらと木の葉が鳴る。
「......やっぱりまだ暑いや」
黒い手鞄を胸に抱き、小柄な少年が木陰に隠れる。夜色の髪に夜色の瞳をした、線の細い印象の少年だ。
「クルーエルさん、まだかなあ」
まだ幼さの残る顔つきで、彼はじっと目の前の建物を眺めていた。
トレミア・アカデミー女子寮。三階建ての長方形状の建築物である。黄土色に塗られた外壁が、朝日を浴びて金色にも似た光を放っている。
じっとその玄関を見つめていると、見覚えのある女子生徒が女子寮のロビーから姿を現した。黒髪長身、運動に長じていそうな細身の体つきをした少女。
クラスメイトのサージェス・オーフェリアだ。
「あ、おはようございます、サージェスさん」
「......やあ......おはようネイティ」
ネイティとは少年の本名、ネイト・イェレミーアスの愛称である。しかしそれはともかく、どうにも目の前の彼女は様子がおかしかった。
「あの、どうしたんですかサージェスさん? なんかいつもの元気が」
「え......だって......今日から学校始まっちゃうんだよ......夏休み終わっちゃったんだよ」
ふらふらと、今にも倒れそうな様子で告げる彼女。
「それはまあ、暦通りですし。宿題だってサージェスさん終わってましたよね?」
正確には、本来の暦通りなら講義は既に始まっていたはずだった。
だが一般生徒には知られていない特殊な厳戒態勢により、ほぼ一週間、学園は全閉鎖。今日はその閉鎖が解け、授業が再開される初日というわけだ。
「......せっかくの臨時の休みだからって、三日連続......徹夜で大騒ぎしてたのが効いたわ」
三日徹夜。そう言えば学校が閉鎖される前に、随分と彼女は購買でお菓子やら何やらを買いだめしていた気がする。
「つまり、単なる寝不足?」
「......う......ん......すぅすぅ」
「うわっ、ちょっとサージェスさん! 話しながら寝ないでくださいってば!」
ぐったりと寄りかかってくる彼女を激しく揺する。
「ネイティ、あたしもう無理......今日は学校休むよ」
「そんなこと言わず! ほら、校舎はあっちの方角ですから、しっかり!」
「......ふゅあぁぁ」
もはや正常な言葉を発する気力もないのか、怪しげな言葉を発しつつ、ふらふらと一年生校舎の方向へと歩いていく彼女。
......なんか、ものすごく心配。
呆然と頰をかき、ネイトはその背中を見送った。もし自分の手が空いているなら付き添うこともできたのだが、今は、もっと深刻な気がかりがつきまとっていた。
──クルーエルさん、平気かな。
夏期休暇の終わりと重なるタイミングで起きた、灰色名詠の襲来。全閉鎖する学園。
そしてその中で、原因不明の高熱と頭痛によって突如昏倒した少女がいた。クルーエル・ソフィネット。自分にとって最も親しい少女だ。
だからこそ余計に気になる。つい先日まで学園の医務室で静養していた彼女。あの時は大分調子も戻っていたようだが、女子寮に戻ってからの容態はどうだったのだろう。
ばらばらと、授業開始の時刻が近づくにつれ女子寮から姿を見せる女子生徒。けれど待てども待てども、その中にクルーエルの姿はなかった。
自分が来る前にとっくに女子寮を出てしまった? いや、それはないはずだ。そのためにも、今日はいつもより一時間早く男子寮を出たのだから。
......でも、本当に朝の予鈴が鳴っちゃう時間だ。
胸元から懐中時計を取りだして時刻を確認。朝のホームルームの時間まで、今すぐにここから歩いてギリギリ間に合うかどうか。
「......クルーエルさん、今日お休みなのかな」
「こら、勝手に人のこと欠席扱いにしないの」
ふと。目の前、すぐ近くから声がした。それも、すごく馴染みのある。
「──え」
視線を懐中時計から正面へ。
「どうしたのネイト、こんなとこでぼうっと休んじゃって」
まず真っ先に、視界に飛び込んできたのは色鮮やかな緋色の長髪だった。それからトレミア指定の白い学生服。その裾と襟部分に縫い込んだ赤の線。最後に......
「ほら、早く行かないと遅刻しちゃうよ?」
最後に、自分の知る、優しげな表情で微笑む彼女の顔が瞳に映った。
「クルーエルさん? ......良かった、学校行けるんですね!」
「まったく、相変わらずキミは心配性だね」
苦笑混じりの吐息を零し、彼女がさっと歩きだす。
「ほら、早く行かないと遅刻だよ。ネイトもおいで」
「は、はい!」
......良かった、クルーエルさんの体調戻ったんだ。
握りしめた鞄は、普段より少しだけ軽く感じた。







トレミア・アカデミー。
大陸中央から離れた辺境の地にありながら、生徒数千五百人を数える巨大校である。各施設も最新の物を取り入れており、教育水準も中央部の名門校に劣らないという評判だ。特にその広大な敷地は一般校の平均の三倍を誇っており、学園の敷地内には巨大な校舎に交じり、自然豊かな広場や校庭、山林などが見られる。一方、主要な建築物としては一年生から四年生までの各校舎、総務棟、図書管理棟などが特に巨大な棟として人目につくと言えるだろう。
その一つ、一年生校舎。学園の正門を抜けてから最も近い校舎であり、そこがネイトにとっての学舎だった。
「おはよ~、クルル、ネイト君」
ネイトが教室の扉を開けると同時、金髪童顔の少女が陽気な様子で手を振ってきた。
ミオ・レンティア。ネイトより三歳年上、クルーエルと同じ十六歳のクラスメイトだ。普段から明るく穏やかな性格であり、成績優秀な勉強家という顔も持っている。
「おはようございます、ミオさん。ええと、ケイト先生はまだ来てないですか?」
「さっきまでいたよ。ほら、夏期休暇が終わってすぐあんなことがあったからね、事情説明も含めて全校朝礼するんだって。ケイト先生は校庭で待ってるから、クラス委員の人が統率して時間通りに集合すること、だって」
あんなこととはつまり、灰色名詠の使い手が学園に侵入したことを指すのだろう。
目の前のミオに至ってはその犯人に直接捕虜にされた経緯もあったのだが、彼女は無事そのショックからも立ち直ったらしい。
「おー、ネイト来たか。それなら男子は全員揃ったな」
のんびりした男子の声。鳶色の髪に鳶色の瞳をした、背の高い生真面目そうな顔つきの男子生徒が手招きしてきた。
「あ、オーマさん。おはようございます」
オーマ・ティンネル。ネイトのクラスの男子クラス委員で、男子生徒の中では彼と話すことが多い。生真面目な外見と裏腹に性格は割と大雑把なのだが、周囲の生徒に分け隔てなく気配りできるという几帳面さも併せ持ち、それを見込まれてクラス委員に推薦されたらしい。
「おいっす。さっそくで悪いけど、鞄置いたらこっち並んでくれ」
言葉の通り、教室の入り口に立つ彼の前には、既に男子生徒全員分の姿。どうやら自分で最後のようだ。
「あ、はい、すぐ行きます!」
鞄を投げ捨てるように机の上に放り、ネイトは慌てて列の最後尾にくっついた。
「よし、これで男子は問題ない。あとは女子だけだな」
「......女子?」
オーマの視線につられ、ネイトも教室の後部座席側へと振り向いた。
「ねえねえクルーエル! なんでネイト君と一緒に来たの? しかも時間ギリギリ。二人して何かしてたんでしょ!」
「してないしてない。会ったのも偶然!」
女子側のクラス委員であるクルーエルが、何やら周りの女子生徒への対応に追われているようだった。
「ほら、いい加減喋るのやめてちゃんと並んで! ていうかサージェス、寝てないで起きなさいってば! あ~もう、みんな、しまいには怒るわよ?」
机に突っ伏して寝ているサージェスをたたき起こし、列の後ろで騒いでいる女子に向けて叫ぶ彼女の姿。
「......なんかこの光景、以前にもどこかで見たような」
「以前にもというか、もうお決まりの儀式みたいなもんだ。ネイトが転入してくる前からこんな感じだぜ?」
慣れた様子でオーマが肩をすくめてみせる。
......クルーエルさん、かわいそう。
教室の隅から隅まで走り回る彼女の姿に、ネイトは心中呟いた。
「ていうか、間に合わないから男子だけでもさっさと行くか?」
オーマの投げやりな提案に、異論を挟む男子生徒は誰一人としていなかった。
「......あれ」
校庭の片隅に整列した状態で、ネイトはふと眉をつりあげた。
「どうかした、ちび君?」
目敏く、隣列に立つ日焼けした少女が顔を向けてきた。エイダ・ユン。白色名詠を専攻するボーイッシュな女子生徒で、反唱という特殊な名詠式を使いこなす祓名民の一族である。
「いえ、ちょっと意外だなって」
周囲には自分たち同様に整列した生徒たち。周囲に声が洩れることのないよう、ネイトは極力絞った声でエイダに耳打ちした。
「朝礼なんですけど......もう安心して構わない、みたいな内容だと思ってました」
全校朝礼の内容は、ネイトが予想したより幾分深刻なものだった。
朝礼の最初にゼア学園長が告げたことは、まず学校を一週間弱閉鎖したことについての謝罪。そして──その閉鎖原因については一応の解決をみたが、いまだ油断は許されない。万一の事態が生じた時は、教員の指導に速やかに従ってほしいという内容だ。
「ああ、ちび君はまだ聞いてないんだっけ」
本来明るいはずの声音を、エイダが意図的に抑えた声で。
「あたしは親父経由で話を聞いてるんだけど、灰色名詠のあいつ、まだ逃げた先が特定できてないんだって。サリナや親父とかも追跡中らしいんだけど」
......そうだったんだ。
名前も外見も判明しながら、なお行方をくらましたままの男。名前はミシュダルと言ったか。その名を思い出すだけでもぞっとする、奇妙な狂気を纏った相手だった。
ゼア学園長の言葉が鋭いのも、今エイダが言ったことを踏まえてのことなのだろう。
灰色名詠の再度の襲撃はあり得る、と。
「──冷っ!」
不意に肌を過ぎった突風に、ネイトは反射的に縮こまった。
冬色の風。背筋を撫でた風は、肌が粟立つほどに凍てついていた。
2
昼休み、学園内の屋外喫茶店で──
「あ~あ、ちょっぴり残念!」
ぱたんと、テーブルにミオが盛大に突っ伏した。
「うわっ、ミオさんちょっと......あああ、お茶がっ!」
彼女が突っ伏した拍子に倒れそうになるテーブル上のカップとグラス。ネイトはそれらを慌ててキャッチした。......ふう、危なかった。
「でも本当に残念ですよね。僕、てっきりミオさんかとばかり思ってたんですけど」
全校朝礼では、各年の代表生徒による宣誓も執り行われた。
宣誓と言っても自分の新たな目標を全校生徒の前で誓うだけだが、トレミア・アカデミー内の生徒の注目を浴びることになる。どうやらミオはそれを狙っていたらしい。
「紙上試験さ、あたし頑張ったと思うんだけどなぁ」
夏期休暇前の定期試験で学年二位。夏期休暇の臨海学校で行われた試験では堂々の第一位。紙上試験だけならば、ミオは学年を代表する成績優秀者である。
「やはり競演会が大きかったんでしょうか」
代表生徒の選出は、名詠式の紙上試験と実技試験の総合成績で決定される。ミオはその実技試験が芳しくなかったのだ。競演会においても、彼女は名詠失敗と記録されているはずだった。
「うぅ、それは言わないで~」
頭を抱え、ミオが首を盛大に振る。

「次で頑張ればいいじゃない。ミオならきっといいところまでいきそうよ?」
気楽な様子で告げるクルーエルに、ネイトも黙って頷いた。
「でもさ、今回の一年生代表はあたしたちのクラスからじゃなかったけど」
落ち込んだ表情から一転、ミオの表情がさっと明るくなった。
「あたしね、クルルが一年生代表だったら良かったなって思ってた」
「......わたし?」
ぽかんと、突然のことにクルーエルが目を丸くする。
「あ、それは僕も思いました」
「だよね、だよねネイト君!」
隣席のミオと一緒に、こくりと頷く。
「二人ともからかわないでってば。わたしなんか無理だって。紙上試験のわたしの順位、知ってるでしょ?」
「それはそうですけど......でも......」
──クルーエルさん、本当に自覚してなさそう。
第一音階名詠の真精を詠び、後罪のかかった触媒でも自在に名詠が可能。クルーエルの名詠の感性は、他の生徒よりも圧倒的に抜きん出ているのだ。
〝......ただの小娘かと思えば、とんだ化け物か!〟
その実力は、学園を襲った灰色名詠の侵入者をも驚愕させたほどだ。もっともそれを知るのは教師、そしてごく一握りの生徒だけだが。
「それに万一そんなのやれって言われても、わたし人前だと緊張するからできないよ。恥ずかしくて断っちゃう」
「そうかなー、勿体ないと思うよー?」
運ばれてきた飲み物のグラスに口をつけつつ、ミオがクルーエルの顔を覗きこむ。
「だから、そうならないためにも是非ここはミオに頑張っ──」
言いかけた口を閉じ、クルーエルがゆっくりと背後に振り返る。
......あれ? この人たち誰だろう。
ネイト自身クルーエルの仕草でようやく気づいたが、彼女の後ろに、見慣れない女子生徒が二人じっと佇んでいた。制服の襟に刻まれた赤色の線が二本。これは自分たちより学年が一つ上の二年生、それも『Keinez』を専攻する二年生ということだ。
「......何か?」
二人の視線を浴び、居心地悪そうにクルーエルが口を開ける。
「えっと、一年生で『Keinez』専攻のクルーエル・ソフィネットってあなた?」
「そうですけど」
その途端、甲高い歓声を彼女たちが上げた。
「やっぱり! ね、アニス、言った通りでしょ!」
「すごい! 本当に綺麗な赤い髪してるのね。遠くから見てもしや、って思ってたけど」
混雑する喫茶店の中、周囲の目も気にせずはしゃぐ彼女たち。
「あ、あの......何か」
「うん。実はね、お願いがあるの」
「お願い?」
見知らぬ先輩生徒にじっと見据えられ、クルーエルが肩を強張らせる。
「あ、でもここじゃさすがにまずいか。ねえ、今ちょこっとだけついてきてくれない? この喫茶店のすぐ裏でいいから、すぐ終わるよ」
「でも......」
クルーエルが躊躇いがちに視線をこちらへ。
その意図を察し、ネイトは隣に座るミオと顔を見合わせた。
「お昼休みもまだ時間あるからね。クルルが戻ってくるまであたしたち待ってる」
「クルーエルさんが構わないなら、僕も平気ですよ」
知り合いではないものの、上級生からの話。断るのも具合が悪いし、その内容も気にならないと言えば噓になる。当人の心境も似たようなものだろう。
「うん、ごめんね、ちょっと話だけ聞いてくる。すぐ戻るから!」
椅子から立ち上がり、先導する先輩生徒の背中をクルーエルが追う。
彼女たちが喫茶店の角を曲がるのを見計らって──
「ねえ、ネイト君は何だと思うっ!」
途端、ミオがぐいっと顔を寄せてきた。
「え。何って、何がですか」
「決まってるよ、クルルが知らない先輩からお呼びがかかった理由!」
......ミオさん、そんなに気になってたんだ。
「これはまさか世に言ういじめ......なわけないか。あの先輩たちやたら嬉しそうだったしね。とすれば考えられるのは部活の勧誘? クルル運動できるから」
「でも、クルーエルさんとっくに護身部に入ってましたよね」
護身部。ちなみに男子禁制だ。以前にオーマたちクラスの男子がこっそり覗き見しようとして大変な目に遭ったとか。
「むぅ。じゃあこの線も薄いなぁ」
結局、ミオも他に思いつかなかったらしい。
「大人しく待ってよっか」
「ですね」
頷き、ネイトはクルーエルの席に置いてあるカップを覗き込んだ。ほのかに漂うミルクティーの甘い香り。そう言えば、この喫茶店を利用する時の彼女はこのお茶を注文することが多い気がする。
「クルーエルさんてミルクティーが好きなんでしょうか」
「お、ネイト君気になる?」
「え、い、いや別に......ただ純粋に」
慌てて、ネイトはクルーエルのカップから目を逸らした。
「あはは、言ってみただけ。でもね、案外クルルって甘党なんだよ。普段はあまり食べてないけど、本当はケーキとかプリンも好きみたい。うふふ、参考になるといいね」
「参考、ですか?」
一体何の参考にだろう。ぽかんと首を傾げるも、ミオは嬉しそうに笑っているだけだ。
「......変なミオさん」
「まあ、いつか分か──」
言いかけ、ミオの台詞がそこで止まった。
ミオの視線の先。つい数分前に姿を消した曲がり角から、緋色の髪をなびかせて歩いてくるクルーエルの姿があった。ただし、一緒にいたはずの先輩生徒二人の姿はそこにない。
「お、クルル早かったね。もうお話終わったの?」
「うん、とりあえず話だけ聞いて断ってきちゃった」
断る? それって──
「ねえねえ、どんな話だったのさ!」
「そんなミオが期待するような話じゃないよ。大したことないから」
気楽な口調で手を振るクルーエル。
「えー、聞きたいなぁ」
「いいのいいの。それはまた今度ね。ほら次の選択科目体育だから、更衣室行かないと」
「......うぅ、なんかうまくごまかされた気分」
頰を膨らませるミオと、その姿に苦笑するクルーエル。その表情を見る限り変わった様子はなさそうだった。
「ネイトは午後の時間、基礎理論だよね。わたしたち体育実習だから」
基礎理論の中でも、ネイトが履修する講義は本来一年生の夏期休暇前には終わっているべき科目である。夏期休暇直前に転入してきた自分と違い、ミオやクルーエルはとうに単位を取得しているのだ。
「はい、じゃあまた帰りのホームルームに」
手を振るクルーエルに背を向け、ネイトは一年生校舎へと歩きだした。
その、まさに同時。
──始まりは、いつだったのだろう──
「......え?」
突然の声に、反射的にネイトは振り返った。
「ん、ネイト君どうしたの?」
鞄を持ったまま並ぶミオとクルーエルが不思議そうな眼差しで。
「ネイト、何かあった?」
「い、いえ! ......多分僕の空耳ですから」
大慌てで頭を振った。......気のせいだよね。
逃げるように再び踵を返す。今度は、今の声は聞こえなかった。
──今の声、あれは。
幻聴? いや違う。今も、鼓膜の奥でその声の響きが残ってる。
......クルーエルさん?
〝始まりは、いつだったのだろう〟
その声は、背後のよく知った人の声に酷似していた。でも少し違う気もする。
彼女にとてもよく似た声。でもちょっとだけ違う、そんな声だった。







「やっほ、ちび君」
講義の教室につくなり、小麦色の肌の少女が手を振ってきた。
「エイダさん......あれ、この教室、今は基礎理論の講義だったはずじゃ」
名詠の選択色を問わず全学生に課される必須科目。夏休み直前に転入してきた自分と違い、彼女を含む他のクラスメイトたちはとっくに履修し終えていたはずなのに。
「......ふ。これが恐怖の赤点アンド再履修というやつよ」
言って、目の端に涙を浮かべるエイダ。
「な、なるほど」
「つか、ここは場所が悪いわ。一番後ろの席に行きましょか」
ネイトが座っているのは教室の最前列。壇上の教師の真っ正面だ。
「え、でも授業を受けるにはここが一番──」
「ちょっと話したいことがあるからさ。途中で先生が来たらここじゃ話しづらいし。他の生徒にも聞かれちゃうのがちょっとまずいんだ」
「......はあ」
仕方なく、机の上に広げていた教本と筆記具を両手に抱える。
「お、良い場所空いてるね。ちび君こっちこっち」
エイダが陣取ったのは教室の左隅だった。基礎理論は全学生が一通り受講するため、教室も百人以上が座れる大教室が使用される。エイダの座る場所ならば、たとえ講義中に会話したとしても教師にはまず気づかれまい。
「それで、話したいことって」
エイダの隣の席に腰掛け、ネイトは彼女に向き直った。
「えっとさ、クルーエルのことなんだよね」
──クルーエルさんの?
「ちび君、今日のお昼はクルーエルと一緒だった?」
こくりと頷く。学校のある日は大抵ミオ、そしてクルーエルと一緒に昼食をとる。今日も当然一緒だった。
「もしやその時さ、誰か複数人がクルーエルのことじろじろ見てなかったかな。あとは、そうだなあ......声をかけてきたとかいうのも含めて」
「え?」
一瞬、ネイトは言葉を失った。
〝えっと、一年生で『Keinez』専攻のクルーエル・ソフィネットってあなた?〟
それは、ここに来るつい直前のことだったから。
「エイダさん、なんでそれを?」
「あー、やっぱり遅かったか」
苦い声を上げ、エイダが目頭を押さえる。
「いい、ちび君。まずクルーエルが真精を詠べるっていうのは分かってるね」
黎明の神鳥。
頷くまでもない。あの真精によって何度助けられたことか。
「......だけどそれが、少しばかり仇になった」
周囲の目を警戒するように、自分に届く限界までエイダが声をひそめる。
「競演会の時はあたしは見てないけど、この前クルーエルから聞いた。それと臨海学校の事件ね。これは先生づてだけど、その時数人、黎明の神鳥に乗るクルーエルの姿を目撃した生徒がいたらしいんだ」
神鳥を目撃した生徒。それってどういう意味だろう。神鳥を目撃しているのは自分だってミオだってそうだ。それ自体が彼女の言う仇につながるとは思えない。
「仇ってのは噂のこと」
それを、見透かしたかのように彼女は口早に告げてきた。
「生徒で、それも一年生の女の子が幻とも言われる黎明の神鳥を詠ぶ。名詠学校でそんな噂が流れたら誰だって気になるさ。ちび君の夜色名詠と同じでね」
一時期確かに、自分の扱う夜色名詠が、異端色という理由で他の生徒から奇異の目で見られたことがあった。その最も顕著な例が競演会直前の、あの最上級生の男子だ。いきなり喧嘩腰に迫られて──
......そう言えば、あの時もクルーエルさんに助けてもらったっけ。
「夏休みの間に、どうもそれが生徒の間に広まったみたいなんだ。で、学校が始まれば当然、噂を気にした生徒はクルーエルのところに集まるんじゃないかって」
〝うん、とりあえず話だけ聞いて断ってきちゃった〟
じゃあ、クルーエルさんのあの台詞って......
「『黎明の神鳥を見せてくれないか』っていうのは、考えられるね」
こちらの顔色だけでそれを悟ったのか、苦笑気味にエイダが頷く。
今思えばエイダもまた祓名民という特殊な一族の生まれだが、それを軽々と言いふらしたことはない。
「んでね、クルーエルがそういうの好まないってのは先生も知ってるらしくてさ。あの子の負担にならないよう、ちょっとばかし気を遣ってやってくれって言われたの。何と言ってもほら、クルーエル病み上がりだしね」
「──そうですよね」
ぎゅっと、ネイトは手のひらを握りしめた。
転入してきてすぐ夜色名詠の噂も流れただろう。興味本位で話しかけてきた生徒もいれば、からかわれたり奇異の目で見られたことも少なからずあった。だけど、それでも気にせず学校生活に打ち込めたのは、紛れもなくクルーエルのおかげだった。
今、まるで逆の現象が起きている。
......今度は僕がクルーエルさんを気遣ってあげないと。
「あたしが急にべったりあの子の傍にいるのも怪しく思われそうだし、ちび君のが自然かなって思ったわけ。あたしは別件で気になってることもあるしさ、クルーエルまで気が回らないかもしれないから」
「別件?」
「うん。でもそっちは確証がないからいいよ。ちび君にクルーエルのこと、お願いしてもいいかな。あの子の傍にいてあげて」
「......はい」
その講義時間、ネイトは、自分でも不思議なほど勉強に身が入らなかった。
3
学園に響き渡る、下校の刻を告げる鐘。
もの寂しく鳴り響く音に耳を傾け、ネイトは箒を持つ手を休めた。
教師もクラスメイトも帰ったあとの教室。夕焼けというほどではないが、それでも二階の窓から眺める上空は、少しずつその色を移していきつつあった。
「......学校、終わっちゃった」
久しぶりの学校は、あっという間に一日が過ぎていった。
午後の講義が終わってからのホームルーム。ミオやクルーエルとも顔を合わせたのだが、二人とも特に変わったことはなかったらしい。ミオはそのまま帰宅。クルーエルも、鞄を持って教室から出て行った。残る自分は掃除当番というわけだ。
閑かな教室に、箒が床を擦る微細な音だけがこだまする。
そして、時の流れもまた、奇妙なくらい遅く感じる。昼間はあれだけ時間の経つのが早いと思っていたにもかかわらず。
「あら、まだ掃除頑張ってくれてたの?」
にわかに、教室の扉が開いた。振り向いたそこに、若葉色のスーツを着用した金髪の女性教師が優しげな表情で立っていた。
ケイト・レオ・スェリ教師。講義の専門は『Ruguz』で、自分たちの教室の担任教師だ。講義以外でも、夏期合宿の際の事件や灰色名詠の侵入時など、偶然にも共に行動する機会が重なった教師でもある。
「はい。というか、僕が少しぼうっとしてただけなので」
「君らしいわ」
女性教師が表情をやわらげる。
「でもそろそろ切り上げてもいいわよ。ずっと教室を使っていなかったから埃も溜まっていたと思うけど、今日中にあなた一人でやる必要もないだろうし」
「はい」
床に積み上げるように集めた埃をちり取りでゴミ箱へ。そのまま箒とちり取りを木製のロッカーへと片付ける。そこで、ネイトはふと手を止めた。
lu......w......i......lis......her............
──あれ。
しんと静まり返っていたはずの教室に、小さな旋律が秘やかに響いていた。幽かな、微風の過ぎる音だけで消えてしまいそうなくらい幽かな音色。
なんでだろう。すごく懐かしい気がする。昔、聞いたことあるような。
「ネイト、どうしたの?」
ぼうっと立ち尽くしている間に、ケイト教師が訝しげに眉をつりあげる。
「いえ、この詠何でしょう。先生は聞き覚えありますか」
「詠って? 何も聞こえないじゃない」
きょとんとした表情で辺りを見回す女性教師。
聞こえない? そんな馬鹿な。
......wi......O......La......Se......ah......
やっぱりだ、確かに聞こえる。どこか遠くから。
でもこれは──セラフェノ音語じゃない?
単語も聞き取った限りの文法も、まるで自分の知らない未知なる言語。いや、未知ではない。セラフェノ音語に限りなく似ているけれど何かが違う。根本的な何かが。
何語だろう。歌詞の意味も分からないけど、でも旋律だけは、確かに聞いたことがある。
ずっと、ずっとずっと昔──
「......そう言えば......」
ずっと昔。母親と二人で世界中の色んな場所を回っていた時。まだアーマすらいなかった時のことだ。
夜、眠れない夜。僕が目を覚ました時にも、これとすごく似た旋律が響いてた。あんまり気になって部屋の窓から外を覗いて......
詠っていたのは、母だった。
冷たい月影に照らされて、夜の風に揺られるように、小さく小さく詠ってた。
......この旋律、すごく似てる。
「ネイト、さっきからどうしたの」
「あ、あの......僕、もう帰っていいですか!」
返事も待たずに鞄を肩にかけ、ネイトは通路目がけて駆けだした。
「え」
「ごめんなさい、失礼します!」
「ちょ、ちょっと! ネイト?」
走りだした足が止まらなかった。教本の詰まった鞄すらまるで重みを感じない。秘やかな詠に突き動かされるように、ただひたすらに、この詠の正体を突き止めたかった。
......どこ......だろ。
荒れる呼吸を押して、ネイトは階段は駆け上っていった。心の最奥に直接響くかのような詠。一体どこで奏でられているのかも分からない。
──でも、きっと学園のどこかのはずなんだ。
一階の端から端まで、二階の端から端まで。校舎の至るところを駆けめぐり、最後に行き着いた場所が、屋上へと続く階段だった。
既に鉛のように重くなっている足を一段一段持ち上げる。額の汗を拭い、ネイトは屋上へと続く扉を見上げた。意識せず呼吸が深くなる。
どんなに息を吸っても息苦しい。そんな奇妙な緊張感。
......この詠は、一体誰が。
奥歯を嚙みしめ、ネイトは屋上の扉を開けた。
その途端。
目の前を、無数の緋色の花が埋め尽くした。
「......え!」
慌てて目をこする。
屋上のはずが、冷たい鉄筋建築物のはずが、その床に咲き乱れているのは無数の花。
赤い花?
僕、見覚えがある。クルーエルさんが僕の前で初めて名詠式を見せてくれた時に詠んだ花。確か、この花の名前は──
〝アマリリスっていうの。わたし昔からこの花好きだから〟
「アマ......リリス?」
そう、その花の名を呼んだ瞬間。
「ネイト? どうしたの?」
唐突に肩を叩かれ、ネイトはようやく我に返った。
視界に映るのは緋色の花ではなく、緋色の髪の少女だった。長身、端整な顔立ちをした女子生徒。間違えるわけがない、自分の親しい人なのだから。
「......クルーエルさん?」
「どうしたのよ、屋上に来るなりぼうっとしちゃって」
「え、だってこの赤い花が──」
言いかけ、後半の言葉はどうしても告げられなかった。
......うそ。
目の前に咲き誇っていたはずのアマリリスが、一輪残さず屋上から消え去っていたのだ。
同様に、つい直前まで聞こえていた詠も消えていた。
どういうこと? 絶対空耳なんかじゃなかったし、今の目の前の花だって......
「もう、おかしなネイト」
くすりと、彼女が楽しげな様子で口元に手をあてる。
「あの、今どこかから詠が聞こえてませんでしたか」
「詠? 〈讃来歌〉か何かってこと?」
先のケイト教師と同じく、彼女が首を傾げた仕草を見せる。
「......それが、僕にも分からなくて」
「んー、どうかな。少なくともわたしは聞いてないかも。もしかしたら誰か詠ってたのかもしれないけど、少しぼうっとしちゃってたから」
「考え事ですか?」
「うん。ちょっとね。すごく個人的なことなんだけど」
ふっと、彼女はまるで顔を背けるように横顔を見せた。端整な顔立ちに浮かぶ暗い影。だけど単なる物思いではないのだろう。今だけは、それに思い当たることがあった。
「もしかして、黎明の神鳥のことですか」
「............」
応える代わり、横顔を向けたままでクルーエルは頭上を見上げた。
「......そうだね、それもあるかもしれないね」
茜色に染まる雲をじっと見つめたまま、彼女は。
「わたしさ、黎明の神鳥を出し惜しみしたいとか、そんなつもりはないの。でもね、本当に大事なものは──やっぱり、大事なままそっとしておきたいの」
やっぱり。あの時上級生の女子生徒から言われたことは、黎明の神鳥を見せてくれという類のものだったんだ。
「なんか、可笑しいよね?」
湿った声音と共に彼女が振り返る。
「わたしは......自分では何も変わってないと思ってる。なのに周りの先生だったり他の生徒の子だったりさ、たとえわたしが変わってなくても、他の人のわたしを見る目の方が変わっていってる」
大きな青紫色の瞳。その周りが、ほのかに赤く腫れていた。
「先生に飛び級しないかって言われて、でもわたしは断ったんだよ? みんなと一緒にいたいから。だけど......」
振り返り、だがすぐに、彼女は力なくうつむいた。
飛び級。あまりに唐突な単語にネイトは息が詰まった。そもそもそんな制度があること自体知らなかったし、よりによってクルーエルがその対象になっていただなんて。でもそれを断ったということは、これからも一緒のクラスでいられるということだ。
なのに、クルーエルの表情は一向に晴れぬまま。
「......だけど、なんでだろう。なんか息苦しいの。夏休みが終わってから特に、他の生徒の視線が怖くなっちゃって」
──そんなことない。
クルーエルさんは何一つ変わってないし、僕だって......
「僕はクルーエルさんの印象、何も変わってないです!」
すぐ目の前にいる彼女に向けて。ネイトは声の限りを振り絞った。
クルーエルさんの印象はずっと同じ。初めて会った時から優しくて、親切で、すごく素敵な人だとずっと思ってる。他人のことにも本当に親身に接することができて、一生懸命になれる。
それは、すごいことだと思う。
「僕、クルーエルさんのこと尊敬してます。クルーエルさんの詠だって本当に綺麗で優しくて、僕、大好きです。......まだまだ僕なんかだめだけど、いつか──一緒に──」
「ネイト?」
きょとんと目を見開く彼女に向け、ネイトは続けた。咄嗟には上手く気持ちを表せる単語が見つからない。それでもこの、たった一つの想いを伝えたくて。
「......ただ......一緒に、楽しく詠えたらいいなって」
いつかどこかで、どんな歌でもいいから一緒に詠ってほしい。〈讃来歌〉なんかじゃなくてもいい。名詠に用いるものでなくてもいい。
最後は、恥ずかしさのあまりほとんど声にならなかった。
「──ネイト」
「は、はい!」
反射的に背筋を正す。
すると、目の前の彼女はなぜかいたずらっぽい笑顔で近づいてきた。
「あのさ、それって告白と受け止めちゃっていいの?」
「こ......く白?」
「一緒に詠ってほしいとか、尊敬してるとかさ。男の子が女の子にそういうの言うのはね、大抵プロポーズの時なんじゃないのかな?」
ぷ、プロボーズぅ?
「え......そ、そうなんですか」
「うんうん。で、キミは何かな。わたしに愛の告白というやつなの?」
にやにやと、彼女が楽しげな眼差しで詰め寄ってくる。
が、ネイトにはそれに冷静に対処できるだけの余裕などまるでなかった。
「あ、あの、違うんです! 確かに僕、クルーエルさんのことは大好きですけど、その好きっていうのは愛の告白というか何というか......あぅぅ、あの、僕はただ単純に──」
言い終えるその前に。
「わたしを気遣ってくれたからでしょ。知ってるよ」
普段の優しげな瞳で、クルーエルがそっと微笑んだ。
「............あ......は、はい」
「ふふ、わたしだって、キミみたいな恥ずかしがり屋さんがそんな大胆な真似するなんて思ってないよ。ちょっとした冗談」
そう言って、彼女が再び横顔を向ける。
今度の横顔は、少しだけ嬉しそうだった。
「......クルーエルさん、最近ずるいですぅ」
「あはは。ネイトも、もう少し肩の力を抜けるといいんだけどね」
「......頑張ります」
励ますつもりが、見事なまでに返り討ちにあった気分だ。
「そう言えば、クルーエルさんはどうして屋上に?」
「わたし? えっと、あんまり意識してなかったかも。なんとなくかな。強いて言えば、風にあたりたかったから......なーんてさ、なんか詩人ぽくなっちゃうけどね」
照れるようにそっぽを向く。
だが、そんな仕草もそこそこに──
「この風は、一体どこで生まれるんだろうね」
屋上に吹く風を摑もうとするかのように、彼女は自分の両手を胸一杯に広げた。
「風の生まれる場所。すぐ近くかもしれないし、遠い遠いところから、海を越えてやってきてるのかもしれない。キミは考えたことない?」
「......えっと......」
言いよどむ。彼女がどんな答を望んでいるかの見当がつかなかったからだ。
それが伝わったのだろう。彼女もすぐにまた、広げた手を静かに下ろしていた。
「ま、それはいいよ。ところでそろそろ帰ろうか。もう大分いい時間になっちゃったみたいだしね」
「......僕、お邪魔でしたか?」
もしかしたら、クルーエルさんは一人っきりでいたかったのかもしれない。
「おばかさん。そんなんだったら、わたしこんなに笑ってないよ」
その表情は、最初に屋上で出会った時より少しだけ嬉しそうだった、
「さ、帰ろ」
「は、はい!」
軽やかな足取りで階段を下りていく彼女。その背をネイトは追いかけた。
屋上から二階まで下りた時点で。
「あ、そうだ」
ふと。思い出したように、彼女がくるりと振り向いた。
「わたしケイト先生に用事があるの。職員室寄ってから帰るよ」
「それなら僕も待ってましょうか」
「ううん、気持ちだけ受け取っておくよ。結構時間かかりそうだし、今日は先に帰ってて。それに明日は小テストだよ?」
......あ、忘れてた。
夏期休暇の後の、全校一斉学力テスト。直接成績に響くわけではないが、これで点数が悪いと担任教師との二者面談が待っている。
「お、その表情は、テスト忘れてたね?」
腕組みし、クルーエルが苦笑の吐息をこぼす。
「......忘れてました。じゃ、じゃあお先に失礼します!」
「うん。バイバイ」
手を振る彼女に軽く会釈し、ネイトは一階までの階段を駆け下りた。







夜色の少年が慌てたように通路を駆けていく。その様子を、眩しげな眼差しでクルーエルは見送った。
「......本当に、キミは変わらないね」
会った時からずっとそう。眩しいくらいまっすぐで、一途。
「でも、わたしは──────っ!」
言い終える前に。
クルーエルは、すぐ脇にあった女子用トイレに駆け込んだ。内部に誰もいないことを確認し、洗面台に身体を押しつけた。
「......っ!」
身もだえするような嘔吐感に、身体が強制的にねじ曲がる。
「......っは............っ......ぁ......!」
身体が熱い。骨の髄が焼け爛れるように痛い。内臓が意志をもって飛び跳ねているのではないかと思うくらいの嘔吐感。頭痛に至っては────つい数日前、意識を失ったあの時に匹敵するほどだ。
涙で視界が歪む。
──本当に......危なかった。
あと十秒。いや、あと数秒ネイトが帰るのを躊躇っていたら、これ以上は平静を装い続けられなかっただろう。それくらい際どいタイミングだった。
「......っぐ............ぅ..................」
トイレの洗面台にもたれかかり、勢いよく蛇口をひねる。猛烈な勢いで飛び出す水流に手を肘まで浸す──それなのに、体中の血が沸騰するかのような熱は一向に冷めた気がしなかった。
吐き気。喉のつい寸前まで何かがこみ上げてきているのに、なのに何も出てこない。声も、息も、自分の内が全て空っぽであるかのように。
──わたしの身体、どうしちゃったの......
黎明の神鳥を詠んだ影響? なぜ? 普通の名詠式でこんな悪影響が人体に発現するなんて聞いたことがないのに。
「いい加減......鎮まって......!」
ドクン、ドクン──跳ねるように暴れ回る自分の左胸を、クルーエルは制服の上から力ずくで押さえつけた。そのままにしておけば、帰路についている最中である彼の耳にまで聞こえてしまいそうな気がしたからだ。
──いやだ、ネイトにだけは気づかれちゃだめだ。
彼が人一番心配性で繊細な感情を持っていることは、自分が一番良く知っている。だからこそなおさら、不安にさせちゃいけない。
〝......僕、お邪魔でしたか?〟
不安そうに自分を見上げてきた、影混じりの表情。
「邪魔なんかじゃないよ......ただ、キミに知ってほしくないだけ」
だいじょうぶ、わたしは平気。だから──安心して。
背後の壁に背を預け、クルーエルはその場に座り込んだ。
わたし、何やってるんだろう、ここトイレなのに......制服汚れちゃうのに。
だけど、そう分かっていてもなお、身体が言うことを聞いてくれない。
他人が見たら、きっとこの上なく滑稽な姿に見えるだろう。
「......でも、いいんだ」
わたしは構わない。自分のことなら耐えられる。だけど──あの子を不安にだけはさせたくない。それだけが......怖い。
寒い。体中が熱いのに、心が寒さでふるえてる。
熱を帯びた瞳と唇、そして吐息。
「──すごく静か」
人気のない空間。タイル張りの床、壁、天井。反射しては戻ってくる自分の声。
「......弱ったなあ、明日試験なのに」
小さく、自嘲めいた笑いを浮かべ、クルーエルは目を閉じた。
4
「おはようございます」
ネイトが教室の扉を開けた時には、既にクラスメイトの大半が自席についていた。
「やほー、おはようネイト君」
他のクラスメイトが血眼で教本を睨みつける中、ただ一人のほほんとした表情でミオが手を振ってきた。その脇には、ミオの用意した予想問題ノートを奪い合うように見つめるエイダとサージェスの姿。
「......このノート、白いよね。白色名詠で詠び出せばカンニングに使えるかな」
「〈讃来歌〉が聞こえちゃうのが問題か。そこを上手くフォローする方法があれば」
ぶつぶつと、何やら怪しげな相談をしている二人。
それと対照的に、ミオは机の上すら既に片づけ、いつでも試験が受けられる態勢になっていた。
「ミオさん、なんかすごく余裕そう」
「ん? そうでもないよ~? でもテストの時って何だかワクワクするよね!」
鉛筆片手に、なぜか楽しげに笑うミオ。
「......しないです」
机の上に教本を並べ、ネイトは付箋を貼ったページを開いた。
あれ、そう言えば。
「ミオさん、クルーエルさんは?」
「まだ来てないよ。クルルは毎日ギリギリに来るからね」
ミオが首を振るのに合わせるように、学園に鳴り響く予鈴の音。
「ありゃ、鳴っちゃった?」
ミオが肩をすくめるのとほぼ同時。教室の扉が開き、担任のケイト教師が落ち着いた足取りで入ってきた。
「みんなおはよう、さすがに今日はみんな揃ってるみたいね」
着席する生徒と名簿を順に眺めるケイト教師。しかしほどなくして、その視線が窓際のとある席で止まった。
「......あれ、クルーエル?」
クラス委員でもある彼女の名を呼び、教師が教室をざっと眺める。
「あ、来た?」
教室の後の方に座るミオが自席から中腰で立ち上がった。間を空けず、控えめな音を立てて教室後部側の扉が開く。
そっと扉から顔を覗かせる、緋色の髪をした長身の少女。
「クルーエル、普段の日ならまだ構わないけど、試験の日の遅刻は気をつけてね」
「はい、すいません」
いつにない小声で頷き、彼女が自席につく。
「......クルーエルさん?」
ふとした違和感に、ネイトは内心眉根を寄せた。
普段の彼女なら、すれ違いざまにミオや自分とこっそり挨拶を交わしてから席につく。なのに今日の彼女は教師とはおろか、生徒の誰とも顔を合わせようとしなかった。
......クルーエルさん、どうしたんだろう。
後部座席を見ると、やはり同じ疑問を持ったのか、ミオもふしぎそうな表情でクルーエルの背中を眺めている。
「みんな揃ったようなのでひとまず連絡だけしちゃうわね。一年生共通必修講義の試験、午前三時間で終わりだから、それが終わったらホームルームをしてお終い」
ケイト教師、それに他のクラスメイトも、彼女のそんな些細な変化には気づいていないようだった。
教室の壁に掛かった丸時計を確認し、ケイト教師が鞄から試験用紙を取り出す。
クルーエルの様子は気になるものの、彼女は自分の席に座ったままこちらを見向きもしない。試験に集中しているのだろうか。
──そうだ、僕も今は試験に集中しないと。
「解答用紙から配るけど、まだ裏返しにしておいてね。というわけで、みんな頑張って」
「はーい!」
教師の励ましに応えたのは、わずかにミオ一人だけだった。
試験用紙の上を鉛筆が走る音だけが鼓膜に響く。試験時間は午前一杯。試験課題は必修講義の復習内容に、セラフェノ音語の解読と課題文作成だ。
......どうしよ。
筆が完全に止まった状態で、ネイトは人知れず冷や汗を拭った。
通常、高等部の生徒は中等部で三年間、セラフェノ音語の基礎単語や文法を学習する。しかし自分の場合は母親から名詠式全般を学んだ分、体系的な知識が身についていないのだ。教える者の好みによって、〈讃来歌〉内で使われる単語や文法も決まってくる。当然、自分が学んだのも母が好んで使う単語が主だった。
〝ネイト君、難しい単語知ってるね~?〟
〝い、いえ......母さん、この単語しか教えてくれなかったので〟
ネイトの知っている単語は、実は使い勝手の悪い単語が非常に多い。難易度としては、最上級生の扱う本の巻末付録にあるような単語である。そういった珍しい単語は知っているのだが、一年生のこういった試験に出される単語の知識がまるで欠け落ちてしまっているのだ。
......課題文作成は何とかなりそうだけど......解読、単語が分かんないや。
諦め半分で心を固め、残り時間を確認。
だが、どうも周りの生徒もそれほど出来は良くないらしい。こっそり周囲を窺うと、大半のクラスメイトがやはり途中で筆を止めていた。
──僕も、できるだけ頑張ればそれでいいかな。
鉛筆を握り直し、再度解答用紙と向き合う。
と。にわかに教室の空気がざわついた。
「ん、クルーエルどうした?」
私語が禁止されている試験時間中にもかかわらず、唐突にサージェスが声を上げたのだ。
「サージェス、試験中よ」
「いや、でも先生......クルーエルが」
ガタン。サージェスの言葉を遮るように、教室前方で椅子が倒れる音がした。
「クルーエルっ?」
今度は教師の甲高い叫び声。
呼応するように、一斉に教室中が騒ぎだした。
......え、何かあったの?
身長の低い自分では、座った状態からでは前方の様子が摑めない。叱られるのを覚悟でネイトは椅子から立ち上がり──
まず目に映ったのは、教師と生徒に取り囲まれた女子生徒の姿だった。
「クルル!」
自分のすぐ隣を、後部座席にいたはずのミオが通過していった。
「クルル、どうしたの? ねえってばっ!」
ミオが抱き起こすようにしがみつく女子生徒。目を閉じ、まるで眠ってしまったかのように動かない。ミオが必死に揺り動かしても返事一つない。彼女の緋色の髪の一房が、ただそっと揺れただけだった。
──クルーエル・ソフィネット。
倒れたのが彼女だと判断するのは、本来ならひどく容易なことだっただろう。
緋色の髪、長身、際だった容姿。ミオやサージェス、ケイト教師の叫び。
いや、あるいは理解だけは、頭のどこかで既にできていたのかもしれない。だがそれを受け入れることが、ネイトにはどうしてもできなかった。
......うそ......そんな、なんでクルーエルさんが?
「ネイティ!」
......だって、昨日はあんなに元気そうで──
「ネイティ、聞いてるの!」
サージェスの怒号に、ネイトはようやく我に返った。
「──は、はい!」
「医務室行って先生呼んできて、早く!」
反論の言葉すら思いつかず、ネイトは校舎の通路を駆けた。
lu......w......i......lis......her............
どこか遠くから、昨日のあの詠が聞こえた気がした。
間奏 『異端長』
「結局カインツは間に合わなかったな」
白の研究服を羽織った女性が、テーブルに向かい合う男に視線を向けた。研究服の下には黒のインナーシャツに黒のハーフパンツ。服装に無頓着そうな外見の中で、真紅のハイヒールだけが異様に目立つ。
「いつものことだ。お前だって普段はそんなものだろう、サリナルヴァ」
亜麻色の髪を短く切り揃えた頭を振り、正面に腰掛ける大男が返す。発達した上腕筋を見せつけるように腕組みする、筋骨逞しい偉丈夫だ。
クラウス・ユン=ジルシュヴェッサー。祓名民の首領にして、自分たち〈イ短調〉の統率者。無骨な外見と裏腹に、幅広い教養と柔軟な思考を持つ知識人でもある。
「はは、違いない」
濃緑色の短髪を無造作に手で梳きながら、サリナルヴァ・エンドコートは声を出さずに苦笑した。〈イ短調〉の会合。自分を誘ったカインツ本人は会合終了の時間までとうとう顔を出すことはなかった。
「ま、あいつのことだ。大陸外れの無人島にいると言われても今さら驚きはしないがな。どうせなら面白い土産話でも期待したいところさ」
すらりと伸びた足を組み直し、椅子の背に体重を預ける。
「さて、私は打ち合わせ通り〈孵石〉の分析に集中していいんだな、クラウス?」
「お前に一任する。他に人員が必要であれば言ってくれ」
「それは私の下の連中で何とか埋め合わせるさ。もっとも肝心な部分は私が直々にやらんといかんがな。トレミア・アカデミーの具合は興味があるが、あちらについては」
円卓に並ぶ椅子は全部で十一。うち、自分の両脇に並ぶ空の椅子二つをそっと見回した。自分の両脇に座っていた二人は既にこの屋敷を後にしている。
「ティンカに任せてある。......クルーエル・ソフィネットの身に及んだ異常も気になるが、あれは私ではなく彼女の分野だ。それにルーファ老もついているしな、心配はしていない」
〈イ短調〉第三番、ルーファ・オンス=ジルシュヴェッサー。
〈イ短調〉第八番、ティンカ・イレイソン。
祓名民の長老たる老人に、名詠生物学を専門とする見目麗しき女性。〈イ短調〉にて最も奇抜な組み合わせの二人だが、その優秀さはクラウスの折り紙付きだ。
「それにしてもクラウス、あなたの娘もなかなか面倒なものを見つけてくれたものね」
ふと、今まで沈黙していた細身の女性が涼やかな声を上げた。
〈イ短調〉のメンバーの大半が立ち去った会議室。残るのはサリナルヴァとクラウスを含めてわずかに四人。その内の一人がこの女性だ。
鮮やかな碧色に輝く、肩先のところでわずかに外向きに撥ねた髪。金色に輝く瞳は女豹のそれを思わせる。夏にもかかわらず厚地の白毛皮のコート、薄紅色のマフラーを羽織った女性。
〈イ短調〉第六番〝歌后姫〟──シャンテ・イ・ソーマ。魔性の声を持つ歌姫である。
「ミシュダルだったかしら。ようやく灰色名詠の犯人の名が判明したというのに、今度は姿の見えない奇妙な生物。それがなぜ地方の一名詠学校にいたのかも分からないというのだから、話は相当に厄介よ?」
祓名民の長たるクラウスが大陸中から選抜した学者、名詠士、祓名民。わずか十一人という構成員数ながら、誰もが一目置く組織。それが〈イ短調〉である。
この会合において検討されていたのは、現在大陸中で危険視されていた灰色名詠。しかしこの土壇場で、浮き上がってきたのは更に新たな不可解な事だった。
〝灰色名詠の事件と思われてる中のいくつかが、まったく別の事件の可能性がある〟
クラウスの一人娘、エイダが告げてきた事実──いや、これはまだ推測か。
灰色名詠とは更に別の、奇妙な何か。それは、まるで人の目に見えぬ謎の生物だという。
「灰色名詠と異なり、こちらはまるで手掛かりなし。あてはあるの?」
「そのためのルーファ師父だ」
表情を変えぬまま、受け流すようにクラウスが言葉を返す。
ルーファ・オンス=ジルシュヴェッサー。祓名民の長老にして、かつての首領である。
年齢は七十に近いながらも、長年鍛え上げてきた技量に衰えはないという。祓名民において公的な発言は控えているが、その影響力はいまだ健在。幼少期のクラウスを鍛えた師父でもあり、クラウスが頭の上がらない唯一の人物だ。
「ルーファ老、エイダちゃんと会うの楽みにしてたわね。あーあ、わたしも最近エイダちゃんと会ってないしね、今からでもトレミア・アカデミーとやらに行ってみようかしら」
艶やかな唇に指先をあて、シャンテが演技じみた仕草で宙を見つめる。慣れぬ者がやればひどく滑稽な仕草だが、歌姫という顔を持つ彼女はこういったポーズを普段から好み、そして誰よりも似合うのだ。
「シャンテ、灰色名詠の調査がいいと言ったのはお前だろう?」

「分かってるわよサリナルヴァ。言ってみただけ。わたしたちは灰色名詠の調査に専念するわよ。こっちはこっちで楽しそうだもの、ね?」
自身の隣に座る男に、べっとりと寄り添うようにしてシャンテが身体を密着させる。男性なら思わず動揺してしまいそうな彼女の行動に、だが男はそれを気にした様子もない。
「トレミア・アカデミーに行きたいのなら構わん。灰色名詠については俺一人で調査する」
クラウスの隣に座る男が淡々と言い放つ。表が青、裏地が黒色のインバネスコートを纏う大柄な男。燭光に照らされ、彫りの深い厳めしい顔つきがあらわになる。
〈イ短調〉第二番〝大特異点〟──ネシリス。
競闘宮の覇者にして、公に最強を名乗ることを許された名詠士。もっとも、この男が自らを指して最強を名乗ったことは一度もないが。
「あー、ネシリスってばひどい! 冗談よ冗談。学園の方はルーファ老とティンカに任せてあるんだもん、二人の仲を邪魔しちゃ悪いものね」
「お前は俺の調査も邪魔してばかりだろう?」
「あら心外ね。あなた一人だと場が重苦しいから賑やかにしてあげているのに」
おどけたようにシャンテがけらけらと笑う。
「さて、この場で燻っていても仕方あるまい。そろそろ私たちも動くとしよう」
がたんと、サリナルヴァはあえて音を立てて椅子から立ち上がった。
自分は〈孵石〉の分析。
クラウスは全体の統括。
シャンテとネシリスを中心に、他の者は灰色名詠の追跡調査。
そして、ルーファ老人とティンカだけはトレミア・アカデミーへ。
「そう言えばクラウス、ルーファ老をわざわざ地方の名詠学校に行かせるとはどういう風の吹き回しだ?」
青地のインバネスコートを纏う名詠士、ネシリス。椅子から立ち上がると同時、今まで口数を抑えていた彼がにわかにクラウスへと顔を向けた。
......ネシリスが口を開くとはな。よほど気になったということか。
無論この男だけではなく、それはサリナルヴァにとっても疑問の種だった。
クラウスにとってルーファ老人はかけがえのない師。祓戈だけでなく様々な面で指導を受けた相手だと聞いている。その老人をトレミア・アカデミーへ使いとして派遣する。礼と義を重んじるクラウスにしては随分と思い切った采配だ。
「いや、今回は師父が自分から行きたいと言ってな」
「エイダと会いたいからか?」
続けざまに問いかけるネシリスに、クラウスは珍しく困ったように首を傾げた。
「それもあるらしいが、今回はそれに加えてもう一つあるらしい。......なんでも、『長年の宿敵と決着をつけてくる』と言っていたな」
「宿敵?」
祓名民のかつての首領にして最年長の長老でもある。そんな偉大な祓名民がライバル視する相手がトレミア・アカデミーに?
「自分も詳しいことは聞いてないが、とにかくそう言っていた」
何も知らんとでも言いたげに、大げさな素振りでクラウスが肩をすくめる。
「やれやれ、ルーファ老の土産話も期待して待つとするか」
苦笑を交え、サリナルヴァは残る三人に背を向けた。
「行くのか?」
背にかかるクラウスの声。それに振り返らぬまま、サリナルヴァは右手を振った。
「せいぜい〈孵石〉の分析に専念するさ。何しろ灰色名詠の犯人をして究極の触媒と言わしめた代物だ。〈孵石〉の中に封された本当の触媒......これは私の単なる勘だが、どうもそれにはまだ秘密がありそうだ」
二奏 『ゆりかご、眠り、静かな夜』
1
巨大な正門を抜けて学園の敷地へ。
敷地に入ってすぐの正面舗装路に、左右には規則正しく配置された緑葉樹。その先は新緑色の芝生が植えられた広場が広がる。白い素材で彫り上げた、彫刻を思わせる噴水が広場に潤いを与え、学園の敷地だというのにまるで自然公園を思わせるのどかさだ。
「ここがトレミア・アカデミーなのね。新しい学園だけあって校舎も敷地も綺麗」
その光景を観察するように、一組の来校者がゆっくりと学園の舗装路を進んでいく。
一人は日傘を差した女性。日光を反射する白糸で縫い上げられた傘の下、白銀色の髪が見え隠れする。瑠璃色の瞳に、一見ぼんやりとした表情ながらも常に微笑んでいるかのような──捉えどころのない表情をした見目麗しき風貌。それを、丁寧に仕立てられた白の長袖ブラウスが一層の華やかさを演出していた。
「良い場所だと思いませんか、ご隠居?」
「いやぁ、そいつは分からんぞ。なにせあの老いぼれが学園長を務めている学園だしな」
女性の隣を歩くのは、こちらは齢七十近いであろう老人だった。女性より頭半分低い身長に、やせ細った手足。白髪を短く切りそろえた小顔に、爛々と輝く麻色の瞳が目立つ。色褪せた藍色の装束に包んだ姿は貧相だが、それと対照的に足取りは軽く、背には自身の身長より長い金属製の鎗を担いでいた。
「老いぼれ?」
「ここの学園長のゼア・ロードフィルだよ。ティンカも名前は聞いたことはないかな」
「生憎と」
日傘の下、女性が小さく首を振る。
「そうか、だがそれならそれで構わんよ。あんな頑固じじいなど覚える必要もない」
「あらご隠居、嬉しそうですね」
普段と大差ないぶっきらぼうな老人の口調。しかしその女性は、老人の普段の口調とのわずかな違いを感じ取ったらしい。
「うむ。エイダと会うのも楽しみだが、まずはあの耄碌が生きてるか確認しなくてはな」
頷き、老人の言葉に力が入る。
「お知り合いなのですか?」
「互いに腕の研鑽ということで、かつては競闘宮で盛大にやりあった仲さ。野外試合もよくやってな、通算成績は四十三勝四十二敗。儂が一つ勝ち越しとる」
「旧友だか旧敵だか分からない関係ですのね」
老人の嬉しそうな物言いに女性がこっそり苦笑する。
「とにかくも、あいつより先にくたばるわけにはいかんような関係だ。さてティンカ、ここから先は血で血を洗う戦場だ。くれぐれも警戒を怠るなよ」
「はい。ご隠居、お歳なのですからあまりはしゃがないでくださいね」
まるで子供を相手にしているかのように老人を扱うその女性。女性の外見はせいぜい二十代後半だ。しかし彼女の老成した雰囲気は、同年代の女性よりもむしろこの老人に近い。そのせいか、会話において二人の立場に優劣はないようだった。
「ところで......ティンカ、頼むからその『ご隠居』と『お歳なのですから』はやめてくれんかの」
「あらあら良いではありませんか、ご隠居。亀の甲より年の功と申します」
老人の瘦せこけた手を取って、ますます楽しそうに女性が微笑む。
「......ティンカには敵わんわい」
手を繫がれたまま、がっくりとうなだれる老人。
女性の方が何か老人の弱みを握っているわけでもない。ただ単に、彼女の老人に対する話術が上手いのだ。百戦錬磨の老傑をしても、すっと自分の土俵に引き入れてしまう。
「さて、では参りましょう。ゼア・ロードフィル学園長、かつて競闘宮で一時代を築いた偉大な名詠士であると聞いています。楽しみです」
「おや、さっきお主ゼアのことは知らんと」
「ふふ、何のことでしょう」
さらりと告げ、その女性──〈イ短調〉ティンカ・イレイソンは手に持っていた黒塗りの鞄を持ち上げた。







トレミア・アカデミー総務棟、学園長室。
「ジェシカ、すまんがお茶を頼んで良いかな」
ふと、中央の学園長席に座る老人が顔を上げた。褐色のローブに身を包んだ小柄な体格で、柔和な表情と穏やかな物腰が特徴の老人だ。
ゼア・ロードフィル学園長、かつては第一線で活躍する名詠士であったが、十年ほど前に引退を表明。大陸の地方に希少な名詠専修学校を設立し、今は学園の長として若手の育成に力を入れている。
「ええ、今お持ちしますわ」
手がけていた書類の審査の手を休め、ジェシカ教師長は補佐席から立ち上がった。教師長という名目はあるものの、最近はこうして学園長の秘書に近い役職に就いている。
「カップは四つ頼む」
四つ? 学園長室にいる自分と学園長で二つだとしても、残り二つは。
「先ほど連絡があってな、客人が二名ほど来校するらしい」
「あら、どなたですか」
「〈イ短調〉の二人だよ。ルーファという祓名民を知らんかな」
そう言って、先ほどから落ち着きなく時計を確認する学園長。
「生憎と」
「そうか、だがそれならそれで構わんよ。あんな頑固じじいなど覚える必要もない。とにかくも、すまないが至急に飲み物の準備だけ頼む」
いつになく口早に告げる老人。心なしか今日は普段より言葉に力がこもり、肌の血色が良いようにも思えた。
「なるほど、分かりましたわ。ハーブティーと、あと何か甘い物でもお持ちします」
「頼んだぞ。それも、なるべく熱いのを頼む。ぐつぐつと煮えたぎっていて、一口飲めば舌を火傷するようなものが望ましい......猫舌のあやつには丁度いい挨拶だ」
「学園長、嬉しそうですね」
普段からにこやかなのは相変わらずだが、今日の学園長はそれに加えてやたら無邪気というか、子供っぽい表情なのだ。
「うむ。あの男と会うのは久々だからな」
「お知り合いなのですか」
「互いに腕の研鑽ということで、かつては競闘宮で盛大にやりあった仲さ。野外試合もよくやってな、通算成績は四十三勝四十二敗。ワシが一つ勝ち越しとる」
「旧友だか旧敵だか分からない関係ですのね」
老人の嬉しそうな物言いに、ジェシカはこっそり苦笑した。
「とにかくも、あやつより先にくたばるわけにはいかんような関係だ。さて......来たか」
学園長が座ったまま姿勢を正す。と同時、コツ、と二人分の足音が通路に響いた。
足音はこの部屋の扉の直前で止まり──
「失礼いたしますわ」
まず聞こえてきたのは、落ち着いた雰囲気の女性の声だった。
荘重な造りの扉を開けて入室してきたのは二人。
背の低い瘦せこけた老人と、その背後に立つ優雅な印象の女性だ。
「初めまして。こちらはルーファ・オンス=ジルシュヴェッサー、そしてわたくしはティンカ・イレイソンと申します」
ジルシュヴェッサーという後名。つまりはこの老人は祓名民ということだ。
そして、今挨拶してきたティンカという女性。こちらはジェシカも聞き覚えがあった。確か無所属の名詠生物学者だったはず。名詠生物の生態系に対しての洞察力に優れ、学界においても脚光を浴びている研究者だ。同じ〈イ短調〉のサリナルヴァが科学者としての道に特化しているのに対し、目の前の彼女は多方面の研究を好み、生物学からの派生で医学についての学識も相当だと聞いている。
だがそんな彼女や自分はさておき。挨拶もそこそこに、なぜか祓名民の老人と学園長はその眼差しで熱い火花を撒き散らしていた。
「十年ぶりか......久しいなゼア」
「まったくだ。まだ生きていたとは。つくづくしぶとい」
挑発的な物言いと共に、学園長が力強く立ち上がる。
「こう見えても若い祓名民の連中には負けんよ。お前こそ、学園長なんぞという席にのうのうと座りおって、もはや名詠式も忘れるほどボケてしまったんではないのかな?」
「吐かせ、四十三勝四十二敗でワシが勝ち越しているのを忘れたか」
「何を寝ぼけたことを。四十三勝四十二敗は儂だろうが」
張り詰めた空気の中、鋭い視線を交わす老人二人。詳しいことは分からないが、どうも二人とも、互いに自分が勝ち越していると主張したいらしかった。
『良いだろう、ここで会ったが百年目! ならばここで最後の決着を──』
「ご隠居、そんなことより話の本題に」
「学園長、お茶が入りましたわ。ルーファさん、ティンカさんもどうぞお席に」
客人用のテーブルに、ジェシカはハーブティー入りのカップを置いていった。
『む......そうだったな』
相性はともかく性格は似ているのか、二人して口を合わせて呟く老人たち。
「あら、美味しいお茶。素敵な香りのハーブティーですのね」
カップを片手に、〈イ短調〉の女性が表情を明るくする。
「ほう、ティンカが褒めるとは珍しい。ならば儂も頂くとするか」
そう言って、同じくカップに口をつけるルーファ老人。が、その途端──
「......ぐおおおおっっっ! ゼ、ゼア、貴様ぁっ、謀りおったな!」
老人の、苦悶に満ちた声が学園長室にこだました。
「おや、どうしたのかなルーファ?」
何食わぬ顔で、実に愉快そうに笑う学園長。
「耄碌したその脳を活性化させてやろうと、せっかくとびきり熱い茶を淹れさせたのだが......ああ! お主は極度の猫舌だったな。いやーすまんすまん、最近物忘れがひどくなっていてな。ついそのことを忘れてた」
「......ふ、ふふ。なぁに、貴様の脳が腐っとるのは知ってるよ」
カップを持ったまま、不気味な笑みを浮かべる祓名民の老人。
「それにしても本当に熱い。さすがの儂も思わずカップを握る手をゆるめてしまいそうだ」
「む」
学園長が怪訝な表情を浮かべるより早く。
「おっと、手が滑った」
〈イ短調〉の老人が、持っていたカップを傾けた。ぐつぐつと煮えたぎるお茶が、正面にいる学園長の手に容赦なく降りそそぐ。
「──っぬおおおおおぉっっ?」
悲鳴を上げ、のたうち回る学園長。
「おのれぇぇ、ルーファ! 貴様ぁっ、やりおったな!」
つい先ほど聞いたような台詞を吐き、学園長が正面の祓名民と対峙する。
「いやー、すまんすまん。最近祓戈もろくに握れないほど握力が落ちていてな。......それにしてもティンカ、お主、よくこのとんでもない熱さの茶を口にできたな」
「ええ。わたくし香りだけ満喫して、実際に口はつけていませんから」
さらりと言い切り、悠々と手元のお菓子に手を伸ばしている彼女。おそらく最初から全てを見透かしていたのだろう。
「ご隠居? ここから先は血で血を洗う戦場だ。くれぐれも警戒を怠るなよ、と、先ほど自ら仰っていませんでしたか?」
「......ティンカには敵わんわい」
やれやれと溜息をつく祓名民の老人。
それを楽しげに見つめ、女性が優雅な仕草で席から立ち上がる。
「お茶とお菓子、ご馳走様でした。さて、申し訳ありませんがわたくしは先に失礼いたします。そろそろエイダちゃんのところへ参ろうかと思いますので。それと、クルーエルという子にネイトという子もエイダちゃんと同じ教室でしたよね」
2
総務棟、医務室。
「......クルルの様子、どうなんだろうね」
いつになく落ち込んだ様子で、ミオが独り言のように呟いた。
「平気です、きっと」
椅子にじっと腰掛けたままのミオ。その隣に自分も腰を下ろし、ネイトは早まる自身の胸に手をあてた。
「高熱による脱水症状」
ベッドに横たわるクルーエルの額に氷囊をあて、医務室の職員が頷く。
歳の頃は四十代だろう。眼鏡をかけた線の細い女性医務員だ。
「──と考えたいのだけど、断定はできないわね」
「あの、それってどういうことですか」
「この尋常じゃない汗のかきかたと身体のふるえ。脱水症状にしたら症状が強すぎるわ。それに、一向に意識が回復しないのも腑に落ちないし。......そもそもこの子、学園の閉鎖中にも一度ここで休んでいたことがあったわよね。突然の意識不明が原因で」
思わず、隣に座るミオと顔を見合わせた。
その通りだ。彼女が体調に異状を来したのはそれが最初。
「入学当初の健康診断結果を見た限り、この子は至って健康だったはず。何か持病を抱えているわけでもなかったし。となれば、何かよほど突発的な原因があったと考えるしかないのよ......でも」
でも、思いつかない。
それはネイトも、そして隣にいるミオも同じだ。
「原因が分からないと、クルーエルさんのこと治せないんですか?」
「根治療までは難しいかもね」
今は彼女の自然治癒を待つしかないということになる。
「......そうですか」
肩を落とすと時同じくして、聞き覚えのある鐘が鳴り響いた。
試験時間の終了。であると共に、下校の刻を告げる鐘だ。今日は実力試験が終わり次第、生徒は一斉帰宅となっている。
「あなたたちも、下校の時間だし帰っていいわよ。あとは私が看てるから」
「いえ、いさせてください」
ネイトは首を横に振った。
絶対、帰らない。クルーエルさんが目を覚ますまで。
「でも......」
「お願いです。もしお邪魔なら、僕、お手伝いでも何でもしますから!」
〝名詠を手伝うことはできないけど、でも、一緒にいてあげることぐらいは──〟
炎に包まれた競演会。かつて、彼女はそう言ってくれた。
〝だいじょうぶ。わたしも一緒にいてあげる。一緒に詠んであげるよ〟
今度は僕の番なんだ。何もできることがないのなら、せめてすぐ近くにいることだけは、誰にも譲りたくないから。







鳴り終えた鐘の音。クラスメイトの大半が帰宅し、静けさが支配する教室で──
......どうなってるのかな。
教室の窓からじっと空を眺める姿勢で、エイダは自身の胸中と向き合った。
競演会の〈孵石〉暴走。灰色名詠。クルーエルの体調異常。そして、女子寮で出くわした謎の相手。
あまりに多くの出来事が集中しすぎている。もはや単独の事象とは思えない。どれもこれも、どこかで結びついているとしか思えなかった。
今はまだ、自分たちがそれに気づかないだけなのかもしれない。
〝幻とも言われた黎明の神鳥を携える生徒に、史上最年少の祓戈の到極者。それが一つの学園に、そしてこの夜に集うという、この異常! 実に愉快だ!〟
思えば、あの灰色名詠の使い手ミシュダルも同じようなことを言っていた。
〝不確定は時に不確定を呼び寄せる。この学園にはお前たち二人だけなのか? それともまだ俺の知らぬ場所に、不確定をも呼びよせた真の異端因子がこの学園に存在するのか?......お前たちの顔は覚えておこう。なあ?〟
異端因子。不確定を呼び寄せる何か。
「そう言えば、ちび君の夜色名詠もか」
思えば全ての始まりは、彼がこの学園に転入してからだ。
〈孵石〉の事件も灰色名詠も、謎の相手もクルーエルの体調不良も。
全ての事象を巻き込み動かす渦。
ならばネイトの夜色名詠は、その中心に限りなく近い場所にある?
「弱ったな、何をどうしていいやら」
そのネイトはミオと共に、クルーエルの寝ている医務室だ。普段大人しくて控えめだが、時として非常に頑固な一面も見せる彼。特にクルーエルに関してその傾向が強い。彼女が目を覚ますまで、明日の授業すら放棄して医務室に住み込むつもりかも分からない。
「んー、どうしたもんかね」
近くにあった椅子に腰掛け、エイダは背もたれに身体を預けた。
患者の下で生徒が騒ぐのを懸念したケイト教師によって、クラスメイトの見舞いは規制されている。それが許されたのが、クルーエルと普段から仲の良いネイトとミオだったというわけだ。
「しゃあない。無理言って頼み込んで、あたしも様子見てくるか」
分からないことだらけの現状。ならば闇雲に悩むより、まずは気がかりな友人の体調を確認してこよう。
座ったばかりの椅子からエイダが跳ね起きると同時。
「あらエイダちゃん、どこか行くの」
「......ん?」
いつの間にか、教室の扉の前に見知った風貌の女性がいた。
白銀色の髪に瑠璃色の瞳。とぼけたような微笑んだような、捉えどころのない表情をした女性。ここ一年ほど会っていなかったが、間違えるはずがない。
「あれ、もしやティンカ?」
〈イ短調〉の彼女がなぜこの学園に。
「お久しぶり。元気してた?」
「まあ元気と言えば元気だよ。でも、なんでティンカがここに?」
「なんでって、あなたが報告してきた例の件よ。それについて直にあなたの話を聞きたかったの。名詠生物学者としても興味ある報告だったし」
マイペースというか、どこまでも変わらず落ち着いた雰囲気の彼女。
「そっか。そうだね、ティンカは名詠生物学者だし......あ、そう言えばさティンカ!」
名詠生物学者だけではない。サリナルヴァと並ぶ才女であるこの女性には、もう一つの顔がある。
「ティンカ! 確かティンカって、医者の資格も持ってたよね?」
「ええ。名詠生物学者としてのおまけみたいなものだけど」
彼女が小脇に抱えた巨大な黒鞄。前に見せてもらったことがある。それに入っているのは診察道具のはずだった。
「......あのさ、ティンカに診てほしい子がいるんだけど、いいかな」
3
学園長室にて、二人の老人が先と違いすっかり落ち着いた様子で腰掛ける。
「さてと、久々の再会劇も済んだ。小競り合いはここまでにして、学園の長として〈イ短調〉のお主がここまで出張ってきた用件を聞きたいものだが」
「む、エイダから報告を受けていないのか」
表情をしかめるルーファ老人に、ゼア学園長はしばし黙考し。
「灰色名詠のか?」
「いや、それとはまた別の件だ。この学園に、灰色名詠とはさらに別の何かが侵入してきている可能性があるという、な」
謎の相手。エイダが告げるには、それは人の目に映らぬ不可視の奇妙な生物だという。
もちろんその話題は学園長や教師長のジェシカを含め、学園の職員室でも議論がなされた。一般生徒の報告ならまだしも、これは祓戈の到極者の称号を持つエイダの報告。事の真偽は格段に真実味を増してくる。
「......ああ。一度それとなく相談を受けた。念のため、夜間の見張りを教師諸君にも交代で行ってもらっている」
「それは結構。で、その後何か学園側で発見は?」
祓名民の老人の問いに、学園長はやんわりと首を横に振った。
「それがまるでない。教師の中にも、やはり誤報告ではなかったのかという意見も出始めたほどだ」
「ふむ。で、ゼア、お前自身の意見を聞きたいところだな」
「エイダの報告が正しいとすれば、場合によっては......」
カップに注がれた紅茶の液面を見つめ、学園長が押し殺した声で。
「五色の名詠色とは違う、更に別の名詠色が存在する可能性もある」
「灰色名詠のようにか」
祓名民の老人の問いに、ゼアは再度頭をふった。
「いや、あれは学界の者とも議論を尽くしたが、やはりあくまで白の亜種という意見が優勢だ。そういった亜種とは別の、全くの異端色──夜色名詠のような」
夜色名詠。あれだけはいまだに解析がまるで進んでいない。例えば夜色名詠で詠び出した名詠生物を反唱で還せるかというと、祓戈の到極者の称号を持つ者でも無理だろう。とにかくどの色にも属さない、全くの別色なのだ。
「夜色名詠、カインツとサリナルヴァから話は聞いた。だが正直、儂のような頑固な性格の人間は、どうしても実物を見てみないと気が済まなくてな」
カップに浮かぶ波紋を見つめる祓名民に、学園長が多少表情をやわらげる。
「その生徒は学園にいるから、放課後にでも訪ねてみるといいだろう。まだ幼い少年だから、可愛がるのもほどほどにしてもらいたいものだが」
「なるほど。それと、もう一人、サリナルヴァが妙に気に掛けていた少女がこの学園にいると聞いているのだが」
「ほう?」
「クルーエル・ソフィネットと言ったか。サリナルヴァの話では、赤色名詠において底なしの才能を持っていると聞いた」
クルーエル・ソフィネット。
その名を聞き、学園長は大仰に嘆息をこぼした。苦笑にも近い表情で椅子によりかかり、部屋に敷かれた真紅の絨毯をじっと眺める。
「ああ......確かにな。あの子は別格だ」
「儂は当初、ネシリスのような大特異点を想像していたのだが」
大特異点。
名詠された生物は極めて稀に、通常個体の性能を大きく上回る超常個体が名詠されることがある。千分の一、あるいは万に一つの可能性でだ。
いつ、どんな触媒でその超常個体を詠び出せるかの条件は不明。カインツのような虹色名詠士が千回名詠しても詠び出せず、逆に学園の一生徒が一回で詠び出せることもある。完全な運という意見が最も有力だ。
しかし歴史上、詠び出す名詠生物が全てその超常個体になるという名詠士が何人か目撃されている。特異なる個体を自在に招く感性を持つ名詠士。それこそが──大特異点。
現代においては〈イ短調〉の第二番、ネシリスという男がそれだ。
「いや、大特異点ではない」
真紅の絨毯から目を逸らさぬまま、学園長は口早に断言した。
「大特異点は確かに並外れた才能ではあるが、あくまで名詠式の法則を外れていない。性能は抜きんでているが、詠び出す生物自体は通常の種類だ」
「とすれば、その少女の才能とやらは?」
「......分からん」
隠すことなく、心中そのままを告げた。
ここ一週間ほど、教師間でもそれが話題に上らない日はない。
「黎明の神鳥を詠び、後罪のかかった触媒でいとも簡単に名詠を行う。だがそれすら、あの少女は自分の力の一端しか見せていない──そんな気がしてならん。一年生はまだ基礎学習の段階ゆえ、大特異点などという例外事項は教本に載っていない。だがもしあの子が大特異点というものを知れば......本当にそれすら自在に詠び出してしまうのではないかと思えてしまう」
「お前がそこまで言うとはな」
感嘆か驚愕か。祓名民の老人が腕を組む。
「時代が変わったのかもしれぬな。ワシもお前も歳を取りすぎた」
声のトーンを落とし、いつになく嗄れた声で学園長は応えた。
「カインツ、夜色名詠の少年、そしてその赤色名詠の少女。新しい風が吹き始めた。ワシらができるのはせいぜい、その風でひな鳥たちが飛び立つのを見守るだけなのかもしれん」
「......やれやれ、まだ当分現役でいるつもりだったのだが。それも致し方なし、か」
自嘲じみた笑みを浮かべる祓名民に、だが学園長はにやりと笑ってその肩を叩いた。
「だが、やってみると案外まんざらでもない。これはこれでやりがいもあるしな。で、お前の方はどうだ、最近の祓名民は」
「うむ、質は悪くないぞ。しかしどうにも最近の若者は根性がなくていかん。儂の若い頃はもっと覇気が──」
ようやく冷めてきたカップを手に取り、老いたる友人二人はしばしの間、愉快そうに会話を弾ませていた。







少女の額に浮き出た小粒の汗をタオルで拭う。それが終われば、溶けてきた氷囊の氷を取り替え、再度彼女の頭にあてる。
......なんか、懐かしいや。
洗い終えたタオルを室内に干し、ネイトは眠ったままのクルーエルを見つめた。
昔、自分が熱を出した時のことを朧気ながら覚えてる。母親が今の自分と同じことをしてくれた。
「......早く良くなってくださいね」
気を失っているのか、単に寝ているだけなのか。こういった場面に疎い自分には分からない。返事がない今は、ただとにかく彼女の復調を願うしかできなかった。
トン。
控えめに、医務室の扉が小さくノックされた。ケイト先生?
「失礼しますわ」
音もなく扉を開け、入ってきたのは自分の知らない女性だった。白銀色の髪に瑠璃色の瞳をした、おっとりとした相貌の女性。白い長袖のブラウスが医者の服装を想起させる。医務員が学園外から本職の医者を呼んだのだろうか。
「あの、お医者さんですか」
「一応、その資格も持っていますよ」
黒塗りの鞄をテーブルに置き、女性が表情をゆるめた。
「本業は名詠生物学者をしております。初めまして、ネイト・イェレミーアス。あなたのことはカインツから聞いています」
カインツさんから?
虹色名詠士の知り合い。その言葉からまず真っ先に想起するのはエイダの父親、そしてサリナルヴァという女性研究者。その共通点は〈イ短調〉という組織だ。
ということは、まさかこの人も。
「自己紹介が遅れました。わたくしはティンカ・イレイソンと申します。ティンカと呼んで頂けると嬉しいです。普段は無所属の研究者ですが、〈イ短調〉という会にプライベートで参加させて頂いていまして」
やっぱり、この人も〈イ短調〉の人なんだ。
「ところで、医務員の方はどちらに?」
医務室内をきょろきょろと見回し、その女性が首を傾げる。
「あ、医務員の先生は職員室です。僕たちの担任の先生と相談してくるって」
「なるほど。そう言えば、あなた以外にもう一人お付き添いの子がいるという話だったのですが」
付き添いの子。ミオのことだろうか。
「その人なら、家が遠いからもう帰らなくちゃいけないって、ついさっき帰宅しました」
「あらあら。ということは、今はあなた一人でクルーエルさんを看ていたのかしら。大変だったでしょう?」
「い、いえ......あの、ティンカさんはどうしてここに」
よくぞ聞いてくれたと言わんばかりに、その女性は嬉しそうに表情をやわらげた。
「あなたのお手伝い、と言えばいいかしら」
黒塗りの鞄の鍵を繊細な手つきで取り外す彼女。
その内部には、まるで学園の実験室にあるような道具がずらりと収納されていた。
ゴム管にイヤピースと集音部がくっついた器具──これは見覚えがある、医者が利用する聴診器だ。他には体温計や注射器などの小物。自分にはまるで用途の分からない物もいくつもある。
「これ、診療器具ですか」
「診療器具に治療器具に、まあ色々と。かさばらないものだけは持ち歩いていますの」
彼女は鞄から聴診器を取り出しつつ。
「エイダに、あなたの大切な人を診てあげるよう言われました」
......そう言えば、エイダさんは〈イ短調〉の人たちと知り合いなんだっけ。
「さてそれじゃあ早速、お腹を開く手術の用意を──」
ナイフに似た金属製の刃物を取り出す彼女。あれがメスという物なのだろう。
うん、なるほど、手術。それなら確実だ。
ティンカのあっけらかんとした発言に思わず頷きかけ──
「......しゅじゅつぅっ!?」
その直後。あまりのことにネイトは声がひっくり返った。
「い、いやっっ、だめですっ! そんな痛そうなことしたらクルーエルさん可哀想です!」
クルーエルのベッドの前で、両手を広げて立ち塞がる。
「ネイト君。医務室では静かにしましょうね」
聴診器を首に回し、怒った様子もなく彼女が微笑む。
「冗談だから安心なさって。少しね、あなたを見ていたらからかいたくなって」
「......ひどいです」
これじゃ、普段のエイダさんやサージェスさんと話してる時と変わらないじゃないか。
「本当に純粋なのね、あなたは」
とぼけたような表情を一層深め、宝石にも似た双眸を彼女が向けてきた。
「夜色名詠なんていう色の名詠を使うって聞いていたから、もっとじめじめして陰険な性格の子を想像していたけど......どちらかと言えばあなたは、良い意味でも悪い意味でも、すごく純粋無垢なのね。無色というか、そんな感じかしら」
「そうですか?」
自分のことを言われても、いま一つすんなりと飲み込めない。無色と言われても、それこそどんな返事をすればいいのやら。
「ま、それはさておき──ひとまずはこの子の容態が心配ね」
ベッドの上の彼女に近づき、かぶせられた薄いタオルケットをティンカがどける。
「ちょっとごめんなさいね」
クルーエルの制服のボタンを外し、胸元を──
......あ、あれ。
待った。もしかして僕、ここにいるのすごくまずい気がしてきた。
「あらネイト君どうしたの。そんなに後ずさりなさって」
「い、いえ......あの......僕、ちょっと外行ってきます!」
女性医がクルーエルの服を脱がし終えるその前に、ネイトは医務室から飛び出した。
ぼ、僕は何も見てないですからっ!







「あら勿体ない。せっかくこの子が寝てるんだから、近くで見てても構わなかったのに」
大慌てで立ち去った少年の表情を思い出し、ティンカは思わず苦笑した。今時珍しいくらい初心な子だ。
「本当に、彼はこの女の子が大切なのね」
氷囊の氷は新しい物に取り替えられているし、室内に干してあるタオルも丁寧に手洗いされたのが見て取れる。わざわざ室内に干したのは、医務室内の湿度を保つためだろう。さしずめ、彼にできる精一杯の努力というところか。
「......さて、と」
少女の制服のボタンを外し、胸元を広げる。胸の隆起は視診だけでも判断できた。呼吸自体はきちんとできている。
「ごめんね、少しだけ寒いかも」
少女の着ている制服を脱がして下着を取り外す。その胸元に、ティンカは聴診器で触れた。目をつむり、意識を聴覚に集中させる。
呼吸音は正常。胸の雑音もなし。
「......原因不明の高熱、そして昏睡。視診と聴診においては異状は見られない、と」
予め作成しておいた診療録にざっと書き殴る。本来の診療録は病症やそれに対する処方を書きつづる物だが、今回の場合は自身のメモ帳としての用途に近い。なにせ原因不明だ、もしこれが原因不明の新病ならば周囲の人間に感染することも考えられる。
触診──指先で少女の胸部をそっとなぞっていく。徐々に下に下りていき、腹部に触れる。内臓周辺で極端に硬化したり異状と思しき箇所は見当たらない。下腹部まで探っても結果は同じだ。皮膚の艶も非常に良い、それこそ水を弾くようなきめ細かい肌。
しかし、それにしても。

我知らずの内、ティンカは呼吸を忘れていた。
──この子。なんて綺麗な子なんだろう。
素肌を露わにしながら眠り続ける少女。
まるで不謹慎な感想だというのは自分でも分かっている。だが少女のその姿は、同性のティンカをしても息を呑むほどに美しかった。それこそ、病人を診察している医者という身分を忘れ、見とれてしまいそうになるほどに。
緋色に光り輝くような長髪と対照的に、眠っていてなお微笑んでいるかのような風貌。高貴な白磁器を思わせる肌はどこまでも白く透きとおり、一点の染みも汚れもない。制服を着ている時は瘦せすぎかと思ったが、今こうしてその素肌を眺めてみると、女性らしい優しく艶やかな体つきも備わっていた。いやむしろ、豊艶と言ってもいいだろう。
しかしそれでもなお、媚びたような下品な印象が一切ない。これを超えるとただの肉感的な身体になる──その一線の、まさにぎりぎりの境界線上なのだ。
「......驚いた、本当にすごい」
触診の手を止め、ティンカは無意識の内に天を仰いだ。
理想的な清艶さを有した少女。
制服を着た彼女を見て最初にそう感じなかったのは、そう思われるのを、この少女が制服という覆いによって無意識的に拒んでいるからなのかもしれない。
こんこんと眠り続けている少女。
その表情はさながら微笑んでいるかのように。
「クルーエル・ソフィネットか......」
......だけど、なんででしょう。この違和感。
眠り続ける少女を眺め、ティンカは双眸を細めた。自身、滅多にしない表情だった。
何かが違う。
今まで医師の端くれとして多くの患者を診てきた。それこそただの風邪をひいた少年から、難病と闘う老人まで。だがこの少女は何か、今まで自分が診てきた患者と足先一歩だけ別の世界にいる気がする。
けれど、そう思わせる理由が分からない。あまりにも初歩的なことゆえ、見逃してしまっている。そんな気にさえなってしまう。
「......なるほど」
少女の下着を着け、ティンカは口元を微かにつりあげた。
「サリナルヴァ、あなたがこの子を気に掛けていた理由。わたくしも少しだけ分かった気がします」
ケルベルク研究所本部、そこで〈孵石〉の解析に取りかかっているであろう友人の姿を思い浮かべ、ティンカはそっと呟いた。
4
茜色の空に、小さな染みのように広がる黒の帳。机の上に両肘をつき、ケイトは窓硝子越しに外の風景を眺めていた。
......少しだけ、陽が落ちるのが早くなったかしら。
「ケイト先生、どうですかそちらは」
とん、と机の上に分厚い紙束が載せられた。
中肉中背、紺色のスーツを着た中年の男性教師。線のように細い糸目とにこやかな表情が特徴の、一年生の『Surisuz』を専任する教師だ。
「あらシン先生。もう少しで終わるところです。やはり夏休みを挟むと、生徒も怠けてしまっているのが良く分かりますね」
ケイトが取りかかっているのは今日の午前に行われた試験の採点だ。公正を期すため、採点は自分の担任教室以外の解答用紙を担当することになる。ケイトの教室の採点を担当していたのが、このシン教師だったわけだ。
「毎年そうですよ。夏休みの直後に成績が上昇している生徒など毎年一人か二人です。ケイト先生の教室には一人、その珍しい子がいましたけれど」
「ミオ・レンティアですか」
「ええ。あの子は紙上試験は本当に優秀なようですね。......エイダとサージェスは相変わらず補習が必要ですが」
「本人たちも覚悟してますわ」
採点の終わった解答用紙の束を受け取る。
ぱらぱらと採点用紙を確認。ほぼ満点の用紙、これは案の定ミオだった。一方、ほとんど白紙で点数も散々な用紙を抜き出して生徒名を確認すると、やはりこれもエイダとサージェス。ざっと点数分布を把握するに、まあ予想通りと言うべきか。
......あれ?
一枚だけ、赤入れの入っていない解答用紙があった。
「シン先生、一枚だけ採点が......」
「それです、ちょっとご相談したくて」
生徒名、クルーエル・ソフィネット?
「ああ、この子は試験を棄権したので白紙でも──」
そう言いかけ、だがその前に、ケイトはその用紙に書かれた内容に目を奪われた。
「......シン先生、これは......一体何ですか」
解答用紙は、全ての解答欄がびっしりと文字で埋め尽くされていたのだ。
「問題は、その解答内容です」
困惑した表情で、その教師が一つの解答欄を指さした。
問 六
人工触媒と自然触媒の効果の同一点、および相違点についての帰納的論証を提示したツァルシア・イン・アシュガルト教授の実験が行われた時期、またその実験場所を述べ、実験場所がそこで行われたことについての理由を個人的見解と社会的見解を対比させながら述べなさい。
解答六
《実験時期》 gohre-l-het 1,119,549,261
《実験場所》 shantelopia-l-net 715,372,453 shantelocia-l-net 211,806,011
《社会的見解》 記録対象外
《個人的見解》 記録対象外
これは、何かの暗号?
「採点してる私にもちょっと理解が難しくて......最初はタチの悪い悪戯かと思ったのですが、他の解答欄にも似たような文章が羅列していまして」
解答用紙をざっと確認。解答自体は非常に整然としている。
すなわち、極めて桁数の多い数字の列挙か「記録対象外」で切り捨ててあるか。その意味する部分までは分からないが、何かしらの規則に則って記述されたものだというのは予想がつく。
......しかし、この「記録対象外」とはどういう意味だ。
「分かりました、ありがとうございますシン先生。ひとまずこの解答用紙はまとめて私が預かります」
「いやはや、申し訳ない」
シン教師が立ち去り、ケイトは再びその解答用紙に目を向けた。
暗号? いや、この文字はまさか──
解答用紙の束からその一枚だけを抜き去り、ファイルケースに入れる。
......私の知っている人の中で、この意味が分かるとしたらあの人だ。
夕陽の射し込む通路を、早足気味にケイトは進んでいった。







音もなく、医務室の扉が開いた。
「お待たせしてごめんなさい」
ティンカが手招きするのを見、ネイトは廊下から立ち上がった。
......診察終わったんだ。
医務室の内部に変化はない。クルーエルもベッドに寝かせられたまま。唯一の変化と言えば、彼女の制服が壁際に吊るしてあったことくらいだろう。
「寝汗がひどかったから、勝手に服を患者用の白衣に着替えさせてもらいました。それで時間がかかっちゃって」
「あの、どうだったんですか」
「とりあえず、ここから急激に体調が悪化するということはなさそうですけれど......」
言葉半ばで、ティンカが難しげな表情で腕を組んだ。
「逆に、今のところ復調の兆しも見えません」
復調の兆しが見えない。
それはつまり、クルーエルさんはこのまま目が覚めない?
「そんな......っ!」
「原因が分からないうちは、ね」
弱々しくティンカが首を振る。
原因。
原因て何だろう。まるで思いつかない。
一体どれほどの時間を遡れば、彼女を苦しめている原因が見つかるのか。
──始まりは、いつだったのだろう──
「......あ」
小さな、小さな吐息をネイトは洩らした。
昨日。カフェの前で聞いた、幻聴にも似たあの言葉。
「始まり......始まりって......まさかそのこと?」
「どうかしましたか」
自分を見つめる彼女に、ネイトはぼんやりと首を振った。
「......いえ」
まだだ、まだ確証がない。
でも万一あれが、クルーエルさんからのメッセージだったとしたら。
全ての、彼女を取り巻く何か。
僕はまだ、何か大切なものを見落としている?
三奏 『最も長くて深い夜の始まり』
1
まぶたを刺す光の刺激。目を擦り、眠気の残る意識を覚醒させる。
......あれ。
ソファーの上で、ネイトはゆっくりと身を起こした。鼻につんと刺激のある薬品臭。周囲には薬品を陳列した棚が所狭しと並んでいる。
そうだ、僕は昨日、クルーエルさんのことが心配で一晩中医務室にいたんだっけ。
「おはようございます、ネイト君」
すぐ横から顔を覗かせるのは銀髪の女性だった。
「あ、おはようございます、ティンカさん」
起きてすぐ、自分の上にかけてあるタオルケットに気づいた。
「これ、かけてくれたんですか?」
「ネイト君椅子に座ったまま寝ちゃってたから。それだとさすがに風邪ひくかなと思いまして」
苦笑の面持ちでティンカが頷く。
「......そっか、ごめんなさい」
一晩中起きてるつもりが、僕だけ途中で寝ちゃってたなんて。
「気になさらないで。それに、可愛いものも見られましたし」
「可愛い?」
「うふふ。それはそれは素敵な寝言でしたよ」
「......う、噓!」
ぎくりとネイトは後ずさった。寝言だなんて、アーマはそんなこと一度も教えてくれたことないもん。素敵な寝言なんて呟いてるはずがないよ。
「ふふ、まさかネイト君があんなことを考えてただなんて」
「ぼ、僕、何も寝言なんか言ってないですよ!?」
心当たりがないと分かっていても、ついつい気になってしまう。
が、当の彼女は口元の笑みを手で隠すようにしながら。
「ま、それはわたくしの心に秘めておきましょう。ネイト君、そろそろ学校の準備をしてはいかがです?」
「でもクルーエルさんが......」
「この子にはわたくしがついています。あなたはあなたのできることをしてください」
僕にできること?
「そう、あなたはまず、自分に何ができるかを見つけなくてはいけませんね」
器用に片目をつむり、彼女は続けざまに言ってきた。
「もっとも、これはカインツからの伝言に近いのですが」
「カインツさんが、そう言ってたんですか......」
「そう。一番初めに彼があなたのことを我々に話した時、ぼそりと彼が呟いた言葉です。せっかくですから、お伝えしておこうと思いました」
とぼけた表情の中に、優しげな双眸が際だつ彼女。一晩中クルーエルの看病をしていたはずなのに、この女性はまるで疲れた素振りを見せない。
「ですからネイト君。今は、学校で学ぶべきことを学びなさい」
「......はい」
彼女の穏やかな眼差しに後押しされ、ネイトは通学鞄を抱えた。







朝靄の入り交じる教室。その後部座席の一角で、ミオは一人で机の整理をしていた。
既に生徒の大半が教室の席についている。
朝の挨拶や何気ない会話が入り交じる中で、ただ一人でぼうっと、無意識的に教本をめくる。朝礼の前の朝自習。しかし、こんなにも本に集中できないのは初めてだった。
「......クルル、平気なのかなぁ」
試験の途中、突如高熱を出して昏睡に陥った友人。
昨日ネイトに彼女を任せて下校した後も、その不安が頭から離れなかった。そう、あれは学園が灰色名詠の襲撃によって閉鎖した時とまるで同じ症状だった。
再発、いやむしろ悪化している?
「よぉミオ、朝から元気ないじゃない」
唐突に、勢いよく肩をたたかれた。
見上げた自分の目の前に、黒髪長身の女子生徒の姿。
「サージェス?」
「クルーエルが心配かい」
大人びたハスキーボイスが、微かに押し殺したような声になる。
「気持ちは分かるよ。だけどそれを心配しすぎてあんたまで病気になっちゃったら、元も子もないじゃない」
「......分かってるよ。理屈ってか、頭では分かってるの」
でも、そうしたくても、いつもいる友人がいないと反射的にそれを探してしまう自分がいる。いつも彼女が座っている席を見て、でもそこは空っぽで......
「気を張れとまでは言ってないさ。でもね、本当はみんな我慢してるんだよ。試験中に倒れた友人が気にならない奴なんていないもん」
「......うん」
みんな本当は気になって、でも我慢してる。
あたしだけ一人めそめそしてたら、他の子の気持ちが台無しになっちゃう。
「サージェスは強いんだね」
「ん?」
普段の授業は不真面目だったりさぼったりが多い。けれど、こと人間関係の微妙なほころびに関しては彼女はすごく敏感なのだ。事実、クルーエルが倒れてからの女子の取りまとめはサージェスが自主的に引き受けている節がある。
「いや、あたしはあんまり物事考えるの得意じゃないからさ、思ったままを言ってるだけだよ。それにさ」
目にかかる自身の黒髪を振り払いながら、サージェスが呆れ笑いを浮かべる。
「なんつぅか、周りの男子があれだけ馬鹿だと、女子が儚い女の子やってるのも何だか損した気がするしね」
「周りの男子?」
口でなく、つっと指先を向けるサージェス。その方向に──
どうも教室に来たばかりのネイトの席に、男子生徒の人だかりができているようだった。
「......あ、あの。これは一体どういうことでしょう」
まるで犯人の取り調べでも受けるかのように、男子生徒の視線を一斉に浴びるネイト。
「──ネイト君、まずは落ち着きたまえ。そう、リラックスするといい」
「は、はい」
夏期合宿で使っていたと思われる遮光眼鏡をかけ、男子のクラス委員であるオーマが対面の席に腰掛ける。
「うむ。さて、今回君を取り調べているのは他でもない。君にはとある容疑がかかっているのだよ」
「容疑? ぼ、僕何にもしてないですよ!」
「ふむ。だがそれはどうかな」
遮光眼鏡のブリッジを押し上げ、クラス委員の男子生徒が手元の書類を読み上げる。
「我々の調査が正しいなら、君は昨日一日中、クルーエルに付き添って医務室にいたそうだね。しかも、ほぼ二人っきりで!」
なぜか語尾を強め、口調を荒らげる彼。
「......あ、あの。僕はただ少しでも看護のお手伝いができればと」
「看護? しかし君はなんとその夜、医務室でクルーエルと二人っきりという報告まで受けている」
「......どこの報告ですか」
思わず突っ込むネイトを気にも留めず、男子生徒たちは口々に。
「さらにさらに! 医務室においては、クルーエル以外にも見目麗しき女性が君と一緒にいる姿まで目撃されているのだが」
「ああ。ティンカさんはお医者さんですから。クルーエルさんの隣にいるのは当たり前で」
「ほほう」
遮光眼鏡の奥で、オーマの瞳がきらりと光った。
「つまり君は昨夜、医務室にてかくも素敵な女性二人と一晩中一緒にいたわけだ」
「あ、あの......それが何か......」
「くっ! こうもおいしいポジションにいながら、なぜそれに気づかないんだ少年よ!」
感極まったと言わんばかりにオーマが机を叩く。
「おいしいって? あ、そう言えば僕朝ご飯食べてなかったです」
「......その純粋さが憎い」
がくりと肩を落とす男子生徒一同。
その姿を遠巻きに眺め──
「な、あほらしくて肩の力抜けるだろ?」
自身の艶やかな黒髪を手で梳きながら、サージェスが呆れたように振り向いた。
「......ほんとに抜けた。ていうか脱力しそう」
頷く気力もないくらい肩の力が抜けていくのをミオは感じた。
でもそのおかげで少しだけ、頭のもやもやが気にならなくなった気もする。
「クルーエルのことを気に掛けるなら、心配するんじゃくて、早く治ることを期待するんだね」

「──うん!」
2
学園の正門。ティンカから告げられていた待ち合わせ場所には、既に見覚えのある老人の姿があった。
「ほほう、エイダ久しぶりじゃな」
「あー、やっぱりルフ爺か。お久しぶりー」
久々に会う老人の下へと、手を振り上げてエイダは駆け寄った。
知り合いとしての付き合いはもう十年以上になるかもしれない。祓名民の修行の際に、実父クラウス以外に手ほどきを受けた数少ない恩師の一人だ。
「わざわざ呼び出してすまんな。放課後は部活動もあるのだろう?」
「そういう気遣いしてくれるだけで嬉しいよ。うちの頑固親父はそこら辺がダメだから」
両手を首の後ろで組み、エイダは老人に先駆けて足を進めた。今日の目的は学園内の案内だ。更に言えば、自分たちの学生寮を案内することになっている。
女子寮。不可視の奇妙な生物が出現した場所でもある。
「ティンカが来てたからルフ爺かなと思ったんだけど、でも親父がルフ爺をここまで来させるとは思えなくてさ」
祓名民の間には基本的に技量による序列がない。それがたとえ祓戈の到極者とそうでない者との間にもだ。自然、年功が重要視される。ルーファの年齢は今年六十八。現役として活躍する祓名民の中では最高齢である。祓名民の頭領たるクラウスですら、この老人には頭が上がらないわけだ。
「いや、儂が自分で来たのさ。お前の顔が見たいという理由もあってな」
「あたしの美貌は変わってないだろ?」
「生憎と背も伸びてないようだが」
「......爺に言われたくない」
自分と変わらぬ背丈の老人。長老にして、最も背丈の低い祓名民がこの老人だ。
「さて着いたよ」
「ふむ」
鈍色に塗られた塀の先、やや古めいた巨大な宿舎がそびえ立つ。女子寮の正面玄関だ。
「外部の人間が女子寮に入る時は記録帳に名前を書かなくちゃいけないんだけど、どうする? 爺の名前書いちゃっていいかな」
「お前さえ良ければ案内してもらえんかな。なに、祖父が可愛い孫の顔を見るために女子寮にやってきたということにしておいてくれ」
「はいはい」
正面玄関を越え、女子寮内へ。入ってすぐの開けた空間。ぼんやりとした照明に、来賓用のソファーと雑談用のテーブル。部屋の隅には植木鉢に入った観葉植物。
「ここがロビーね」
「なるほど。エイダ、ここで一戦やらかしたな」
老人が見つめるのはロビーの壁面だった。何か鋭い物に穿たれたような陥没部分。
そう、かつて自分が祓戈でつけた傷だ。よほど注意深く睨まない限り見つからないほど些細な傷だが、祓名民の長老の目はごまかせなかったらしい。
「他の人には言わないでね。ばれると修理代請求されそうだから」
それに答えぬまま。
「お前の言う不可視の相手。〈イ短調〉内でも問題になっていた。我々の中ではティンカが特に気になっていたようだな」
老人が告げる名詠生物学者。いまだ報告にない名詠生物が存在するとしたら、それは彼女にとっては確かに気になる研究対象だろう。
「さてさて、何を以てこの女子寮に現れたのか。その目的は。それが知りたくて学園まで赴いたのだが......なかなか道は険しそうだな」
「あたしも全然分かんない。とりあえず他の階も見てみる?」
「ああ、頼むとしよう」
了解っと。老人を手招きして呼び寄せ、エイダは二階に続く階段へと向かった。
「ざっと見て回ったけど、こんな感じ」
各階の通路を一巡し、再び戻ってきたロビーでエイダは足を止めた。一階から三階まで、それと屋上も一通りルーファ老人と共に探索。が、とりたてて目を引くような怪しい箇所は見当たらなかった。
「......ますます分からんな」
気難しげな表情で唸り、老人もまた足を止める。
「ただ一つ気になるのが、お主がその生物を見た時期か」
「時期?」
「場所を変えよう。ここはまだ他人の目につきやすい」
言うが早いか、老人は女子寮の玄関ロビーへと率先して向かっていった。
「......ふむ、ここなら話しやすいな」
物寂しげな周囲をざっと見回し、ルーファ老人が満足げに頷く。
「だろ。ここなら誰も来ないはずだから」
エイダが老人を案内した場所は一年生校舎の裏だった。陽の光が校舎に遮られ、年中陰気で澱んだ空気が漂う場所。一年生でさえ滅多なことではこの場所には来ようとしない。
「祓名民の内輪話だからな。無関係の者に聞かれても具合が悪い」
祓名民の内輪話。だがこの老人がそこまで人目を気にするようなものとは?
「儂が気になっているのはアルヴィルのことだ」
老人が告げたのは、一人の祓名民の名だった。
「あやつが突如姿を消したのは今から二週間ほど前か。ちょうどお前が不可視の生物と遭遇した時期と重なるのではないかと思ってな」
「......アルヴィルか」
老人の告げる名に、エイダは湿った吐息を洩らした。
アルヴィル・ヘルヴェルント。
年齢は、エイダの記憶では二十四。祓名民の長老たるルーファが一目でその才能に惚れ込み、自分の最後の直弟子として認めた男だ。並々ならぬ槍術の持ち主で、エイダが祓戈の到極者の試験を受ける前から、祓戈の到極者となることを確実視されていた。もっとも本人はまだまだ未熟だからと、その試験を断り続けていたが。
「そうだね、あいつがいたんだった」
ルーファの教えた槍術を全て受け継ぎ、更に自己流へと昇華させた男。だがそれ以上に特筆すべきは、彼の工作技術である。
通常、祓戈の製造は高名な金属加工技術者に特別発注される。しかしそんな加工技術者でさえ、祓戈の修復となると難しい。複雑精緻な設計になっている祓戈の修復は熟練技術者をもっても至難の業。だからこそ祓名民は自分の祓戈が破砕することを何より怖れ、日頃から祓戈の手入れを欠かさない。それでも破砕した時は、もはやその祓戈を諦め別の祓戈を使うことを余儀なくされるのが通例だ。
しかし、複雑な祓戈の構造を知り尽くし、祓名民の中で唯一、祓戈の修復が可能だった男がいた。それがアルヴィル・ヘルヴェルントだ。
「あたし、アルヴィルには感謝してる......この祓戈、まさかここまできっちり直してくれるとは思わなかったよ」
自らの祓戈に触れ、エイダは声をふるわせた。
ケルベルク研究所での激戦。灰色名詠の真精と戦った時に砕けた祓戈。それを修復したのもまた、アルヴィルだった。
「エイダはアルヴィルと仲が良かったからな」
「......まあ、あたしの知ってる男の中ではね」
閉鎖された祓名民の世界の中では、エイダとアルヴィルは非常に年齢が近かった。かたや首領クラウスの一人娘、かたや長老ルーファに見込まれた直弟子。
「あいつは馬鹿で底抜けにお気楽で、似た者同士って感じだったからね」
会う機会は決して頻繁ではなかったが、エイダにとっては数少ない心許せる異性だった。
だからこそ、祓戈の修復をクラウスが彼に依頼した時は、エイダは絶対に近いレベルで安心していた。あの男なら何とかしてくれるはずだと。
「で、だ。あいつと仲の良いお前なら万に一つ、あいつから行き先など直接聞いているかとも思ってな」
「ああ、なるほど。......でも、ごめんよルフ爺。あたしもここ半年くらいはずっとこっちの学校にいたし、あいつとはほとんど会ってないんだ。あいつがいなくなった理由、あたしの方が聞きたいくらいだから」
──でも、何でいなくなったのかな。
修復された祓戈が返ってきた時、父であるクラウスから告げられた。
アルヴィルが消えた、と。
彼の行き先を推測できるような物は全て持ち出され、彼の所持品も何も残っていなかった。彼の失踪がおよそ二週間前、そしてそれは、自分が不可視の相手と遭遇した時期とほぼ一致する。
「アルヴィルが消えたのとお主が出くわした不可視の相手。確かに時期は重なるが、儂の判断としては現状この二つには何の関係性もないと思っとる。いや、そう思いたいと言った方が正直なところか。しかし万一にもということもあるからな」
「爺は、その万一の場合のためにここに来たわけなんだね。アルヴィルの行方が分かるような手掛かりがあれば見つけようと思って」
「ああ。儂とて直弟子の行方は気になるし、お前の報告も放っておけんかった」
「......うん」
唇を嚙みしめ、エイダは祓戈を握りしめた。







「熱は下がらず、昏睡状態も快方の兆しなし、か」
クルーエルの体温計をじっと眺め、ティンカは彼女用の診療録に書き記した。
原因不明の病症。学園内で同じ症状をきたした生徒がいないことから、感染の可能性は低いことは既に分かっている。となればこの病症も、彼女特有の原因に依るはずなのだ。
「あなたを苦しめているのは何なのかしら」
服を濡らす汗を拭いてやり、眠り続ける少女の耳元でささやく。返事がないのは分かっているが、それでもいつか返事があることを信じて。
──それにしても、なんて綺麗な寝顔なんだろう。
この状況で不謹慎であるとは知っていても、どうしてもその印象だけは拭えない。
高熱が出て昏睡、衰弱しきっているはずなのに、なぜこうもその寝顔には乱れがないのだろう。さながら......至福の夢を見ているかのように。
赤子が、ゆりかごの中で安らかに寝ているかのように。
〝Isa da boema foton doremren〟
──Isa da boema foton doremren O hearsa neighti loar
〝O univasm thes hypne〟
──eposion lefhypne, eposion lef xeo, elmei jes muas defea
「......ん?」
今、どこか遠くから、見知らぬ詠が聞こえた気がした。
遥かなる旋律。今のは何だったのだろう。空耳?
彼女に付きっきりで、自身あまり休息をとっていない。疲労からくる幻聴だろうか。
トン。小さく、医務室の扉がノックされた。
「はい、どなたかしら」
「僕です」
昨日一日ですっかり馴染みとなっている、夜色の少年の声だ。
「ああ、入っていらっしゃって」
ややためらいがちに扉が開き、伏し目がちな表情で少年が入室してきた。
「学校は終わったんですか?」
頷く少年。息が切れているところを見るに、よほど大急ぎで駆けつけてきたのだろう。
「あの、ティンカさんも少し休まれた方が。僕がクルーエルさんのこと看てますので」
確かに、少年の言う通り自分にも休息が必要なのは明自。倒れた患者の診療中に医者自身が倒れては笑い話だ。
「そう? ではお言葉に甘えて休ませて頂いても構わないでしょうか」
「はい。何かあったらお知らせしますね」
「ええ。熱が下がらないから水分を摂らせてあげてください。水差しはテーブルの上。それと──」
医務室の脇にある大きめの木製戸棚を指さし、ティンカはにこりと告げた。
「汗をそのままにしておくと寝冷えの原因になりますので、適当に着替えさせてあげてください。替えの服はそこの戸棚に入っています」
「......え」
カチンと、まさにそんな擬音がふさわしいほど鮮やかに、目の前の少年が凍りつく。
「うふふ。何事も挑戦ですよ?」
「いや......あの、ちょっとそれは!」
「まあ、ついさっき着替えさせたばかりだから平気なのですけれど」
「......助かった」
背後でほっと息をつく少年。その幼げな様子に口元をほころばせ、ティンカは医務室を後にした。
──さて。
医務室の通路を進んだ先の角を曲がり、そこで足を止める。周囲に人の気配がないことを確認し、黒塗りの鞄から拳二つ分ほどの大きさの機器を取り出した。
「ええと、このスイッチを押すんでしたっけ」
機械のランプ部が点灯。同時、ザザッという耳障りな音が流れてくる。
『......こち......こ......ら......ケ......ベルク......通......』
ケルベルク研究所、通信部。通信の相手が予め分かっていなかったら、この雑音からそれを聞き取るのは至難だっただろう。
「やっぱり、音響鳥の方が数段優れてるわね」
ケルベルク研究所の副所長が気まぐれで作った試作機を見下ろし、ティンカは人知れず苦笑した。
「〈イ短調〉のティンカ・イレイソンと申します。副所長のサリナルヴァと代わって頂けますか」
『......り......りょ......い』
了解。どうやらこちらの会話はスムーズに相手まで届いているらしい。
待つこと数分。
『ティンカか?』
女性にしては低い響きの声が通話機から聞こえてきた。自分のよく知る研究者の声だ。寝不足なのか、普段より更に声が低い。
「ええ。さっきよりは会話が聞き取りやすくて助かります」
『こちらの機器の不調もあったようだな。それよりどうした、こんな試作機なんぞ使ってまで通信を寄こすとは』
「ええ。ちょっと現状を確認したいと思いまして」
『こちらは相変わらずだな。私は〈孵石〉の解析、ネシリスとシャンテは灰色名詠の調査、クラウスも似たようなものか。カインツは......相変わらず姿を見せん。どこをうろついているのだか』
「そうですか、こちらもご隠居がエイダちゃんと合流している頃です。不可視の相手の正体について、少しでも分かると良いのですが」
一呼吸分の間を空けて、ティンカは半音、言葉のトーンを落とした。
「サリナルヴァ、あなたから見てクルーエル・ソフィネットをどう思いますか」
『......やはりそこに辿り着くか』
通話先の相手もまた、言葉のテンポがわずかに速まった。
「昨日、彼女が再び意識不明に陥りました。おそらく病症は、あなたが見た時とまるで同じだと思われます」
通話先の相手は、応えない。
「原因不明の高熱と昏睡。最初は伝染病等の可能性も考えましたが、この学園で同様の病症の生徒がいないことから、やはりこれは彼女特有の何かだと思われます」
『そうだろうな』
「あなたからの報告は一通り目を通しました。後罪のかかった触媒を難なく再利用してしまう力──今までの名詠士の歴史において、このような力を持つ人間は存在しません」
そう、一人としていないのだ。
少なくとも公的な記録において、クルーエル・ソフィネットのような名詠式を操る名詠士は記録にない。
「──以上を踏まえた上で。医者としては彼女の病症に対し、原因不明とサジを投げ出したいところですが、名詠生物学者からの見解では一つの仮説が浮かび上がります」
すなわち。
『彼女特有の病症については、彼女が有している名詠の特別な力と関連がある』
見越したように告げるサリナルヴァ。そう、それはそもそも彼女が前情報として自分に渡していた推測だった。これに対しティンカ自身が彼女を調べた結果、やはり同じ結論に至った。むしろこれ以外考えられないのだ。
「はい。かなり高い確率でその推測が成り立ちます。そして、その関連性ですが──」
今一度、ティンカは周囲を見回した。
ここから先は、更に推測の度合いが高い。迂闊に他人には聞かせられない。
「サリナルヴァ、クルーエル・ソフィネットの素肌を見たことがありますか」
『......なに?』
「そのままの意味です。彼女の裸身を見たことはありますか」
『......いや』
「あの子の身体はとても綺麗ですよ。肌の艶、顔かたちはもちろん、女性特有の身体つき。たとえば胸の形や腰回り、全てが理想のライン上に乗っている。完璧と言って良い。彼女自身が至高の芸術品と言っても過言では──」
『おいティンカ、何の話』
言い終わるのを待たず、ティンカは言葉を続けた。
「美しすぎるがゆえに、どこか違和感があるのです」
──通話先の相手が沈黙した。
「嫉妬や偏見で語るつもりはありません。ただどうしても、眠ったクルーエルの微笑みを見ていると、どこか夢のような、そして神秘的な印象を抱かずにはいられないのです」
理想的な彼女の身体つき。そして昏睡に陥りながらも微笑んだような表情を崩さない。
まるでおとぎ話に出てくるような光景だ。
「サリナルヴァ、彼女に両親はいるのですか?」
『ああ、それについては私も気になって調べた。トレミア・アカデミーから離れた街だがな、彼女の両親はそこの街工場で働いている。ごく普通の両親だ』
「......そうですか」
クルーエルの両親は一般人で、名詠士ですらない。
彼女の神秘性を考えるならば、彼女に両親はおらず、その出生はまるで不明というものの方がむしろ真実味を帯びるのだが、そうすんなりとはいかないらしい。自分の推測が誤っていたか。あるいは更に、いまだ知られざる秘密を見落としているのか。
『そう言えば、逆に夜色の少年の方は両親はいなかったはずだ。孤児院にいたところを、今は亡き義母が預ったという話だ』
「ネイト君がですか」
夜色の少年に対し、ティンカが持っていたイメージはまさに人間らしい子というものだ。背も低く華奢で、弱々しい。ヒトの弱い部分を持ちながらも、他人を思いやる優しさも具えている。
最もヒトらしい少年に親がなく、ヒトの理想のような少女に親がいる。
──なんという皮肉? いえ、これが必然だとしたら......
『大人はみんな、大切なことを忘れてる』
「......え?」
通話先の相手の突然の台詞に、相槌すらままならなかった。
『クルーエルが、学園で灰色名詠の使い手と対峙した時の言葉だ』
彼女がそんな言葉を?
『ティンカ、お前も知っていることだろうが、名詠式の〈讃来歌〉には定型句という部分の詩が必ずといっていいほど存在する』
Isa da boema foton doremren
ife I she cooka Loo zo via
「さあ生まれ落ちた子よ......世界があなたを望むのならば......?」
生まれ落ちた子。
世界があなたを望む?
「それはまるで──」
生まれながらにして、眠りながらも理想の美しさに辿り着いた少女──クルーエルをそのまま指しているかのような詩ではないか。
『ティンカ。ここから先は、私の独り言として聞いてくれ』
ティンカが初めて聞くほど弱々しい声で、サリナルヴァは続けてきた。
『ヒトというのはもしかしたら、生まれた時は皆が皆、理想のかたちとして生まれてくるのかもしれない──生物学的な見解はさておきな』
それは普段の彼女らしからぬ、ひどく抽象的な推論だった。
『だが我々は大人になるにつれ、クルーエルが言うように、何か大切なことを忘れてしまっていくのかもしれない。幼少時の記憶、幼少時の友人の名前、顔。思い出......多くの物を忘れ、もう振り返ることすらできない......クラウスから、祓名民の祀詠を聞かされたことがあっただろう。覚えているか?』
ole shan ilis, peg loar, peg kei, Hir et univa sm hid
Hir be qusi Gillisu xshao ele sm thes, neckt ele
夢も望みも過去に捨て。
その道はもはや振り返ることもできない──
「それは......つまり」
あの詩は祓名民のことを指している。自分はそう信じきっていた。しかしこれが、もし、自分たち全てのヒトを指していたとしたら。
『クルーエルが理想のかたちをしているように見えるのは、単に我々の方が、本来あるべき姿から逸れていってしまったからという気もする』
「この世界でわたくしたちが忘れてしまった何かを、クルーエルは今も大事に抱えている。だからこそ、わたくしたちは彼女を美しく感じられる。と?」
では──自分が美しいと思ったのはクルーエルの外見ではなく、その内面?
眠っている彼女の心の内、その夢の中身を自分は知らず知らずのうちに見せられていた? だからこそ、眠っているクルーエルがああも清艶に映ったのだろうか。
「......人の心が現れるのは、もしかしたら眠っている時ということなのでしょうか」
だが確かにそうだ。思えば、あの少女の写真をサリナルヴァから渡された時、可愛らしい素敵な女の子だとは思った記憶がある。だけど、眠っている彼女を現実に見た時のような、あまりの美しさに息を呑むほどのものではなかったはずだ。
『あまり深く考えるな、どうせ私の独り言だ』
そう告げるサリナルヴァの声音に迷いの色はない。おそらく彼女自身は、その推論に何かしらの根拠を持っているのだろう。そもそも、彼女が根拠のない憶測を他人に話すことは皆無だからだ。
「祓名民の祀詠、そして名詠士の〈讃来歌〉......いや、そもそもの起源を遡ればセラフェノ音語ですね」
セラフェノ音語。別名、不可触言語。
いつどこで、誰が創り上げたかも分からない謎の言葉。ヒトが名詠式を使い始めた時には既に存在していたことは確実。だがしかし、ヒトがなぜ名詠の時にセラフェノ音語を使うようになったのか、その起源すら謎に包まれたままなのだ。
『祓名民の祀詠も〈讃来歌〉の定型部分も、誰が作ったか記録にまるで残されていない。......まるで、それを知られるのが何者かにとって不都合になるかのようにな』
「あるいは、わたくしたち大人が忘れた大切なものとは、まさかその────」
言葉の先が、ティンカにはどうやっても紡げなかった。
唇が、舌先が、金縛りにあったかのように動かない。
『まるで怪談じみた話だな』
「......今の話は、わたくしたちだけの間に留めておきましょう」
『もとよりそのつもりだ。しかし』
言葉を一層強め、サリナルヴァが告げる。
『カインツは、私たちより先に、このことについて疑問を持っていたらしいがな』
「え?」
『三重連縛──なぜ真精を詠び出す時に〈讃来歌〉が必須なのか、あいつはその段階からセラフェノ音語を疑っていた。だからこそあいつは、滅多に自分自身では〈讃来歌〉を詠おうとしないんだ』
詠えない名詠士。陰でそう揶揄されることすらあるほど、彼は滅多に真精を詠ぶことがない。〈イ短調〉内においても、彼が第一音階名詠を詠う姿を見たことがあるのは、おそらくクラウス一人だろう。
『セラフェノ音語の真実に迫った者が、不可能と言われた五色の全制覇を達成する。これは果たして偶然と言えるのか。私には分からない』
「......そうですか」
通話機を握る手が汗ばんでいる。
たった数分足らずの会話なのに、なぜこうも。
「ありがとうございます。長々と申し訳ありません」
『私も、じき〈孵石〉の解析が終わる。その時にまた連絡する』
「はい、では」
通話を切る。と同時、ティンカは最寄りの壁にもたれかかった。
指先がふるえている。吐息も荒い上、脈拍が異常に速くなっていた。身体が寒くてたまらない。なんでだろう。ただ知人と会話をしただけなのに、なぜこうも身体が畏れを感じるのだ。
まるで、誰かにこの会話全てを観察されているかのような不安感。それも、ものすごく近い場所からじっと自分を観察している誰かがいるような。
「......もしかしたらわたくしは、覗いてはいけない領域の一端を垣間見てしまったのかもしれませんね」
奥歯を嚙みしめる。今にも気を失いそうな脱力感に耐え、ティンカは歩きだした。
「『大人はみんな、大切なことを忘れてる』か──たとえ大人になって、たとえ大切な物を知らず知らずのうちに忘れていたとしても......」
後悔はしていない。それは自分自身で選んだことだ。
だからこそ最後まで、責任を果たさなくてはならない。大人だからこそ、『子供』に伝えるべきことが必ずあるはずなのだから。
3
総務棟、情報管理室。その脇に備え付けられた資材室の扉をケイトは開けた。
と同時、床に積もった埃が舞い上がる。資材室というだけあって普段は物置として活用されているのだろう。掃除も滅多にされていないらしく、部屋全体に黴の臭いが充満している。
そして、自分が約束していた人物はそこにいた。
「お忙しいのに、大変な作業を押しつけてすいません」
「いや、俺も興味があったからな」
眼鏡の下、男性教師が鋭い眼光を灯らせる。
ミラー・ケイ・エンデュランス。最上級生の『Ruguz』を教える教師であり、おそらくはトレミア・アカデミーで一、二を争う博識でもある。
「それで、何か分かりましたでしょうか」
自分と彼の間に置かれた、粗末な木製のテーブル。その上に無造作に置いてあるのは、たった一枚の解答用紙だった。
シン教師から渡された、クルーエルの答案。自分でも解読は試みたのだが、圧倒的に予備知識が足りずに断念。一縷の望みを、この教師に託したのだ。
解答六
《実験時期》 gohre-l-het 1,119,549,261
《実験場所》 shantelopia-l-net 715,372,453 shantelocia-l-net 221,806,011
《社会的見解》 記録対象外
《個人的見解》 記録対象外
昨日見た時もそうだが、今こうして改めて眺め、その解答の異質さに寒気すら感じる。
「図書管理棟の古書を洗いざらいひっくり返した結果、収穫はあった」
彼の背後に山と積んである古書の数々。それをたった一晩で精読したらしい。まさにこの教師でなければできないことだ。
「まず全ての解答欄は二つのパターンに区分できる。何かの文字と膨大な桁の数字の列挙がその一つ。もう一つが『記録対象外』としてほぼ空白で終わらせてしまっているパターン。『記録対象外』については正直手が出せなかったが、前者の方についてはおおよそ見当がついた」
山になった古書の、その最上段。一際分厚く、そして古ぼけた辞書をミラーがテーブルの上で開いた。
「俺の知る限り、最も古いセラフェノ音語の辞書だ。いや、辞書というよりは大昔の研究者の落書きのようなものだな」
「落書き?」
「辞書という名がつくものには、それ相応の責任が付きまとう。正しい訳、正しい意味を載せなければならないというな。逆に言えば、そこには確証のないものは記述がない」
一方で──そう付け加え、ミラーがその本の頁をめくっていく。
「しかしこれは研究者のメモ帳だ。研究者が推測したことを下書きとして書き残したもので、こっちには文責というものがない。自由に、己の推論を加えて書き残してある書物だ」
なるほど。それを落書きと評するのはいかにもこの読書家らしい。
「これを参考にしてこの解答用紙を見てみると、ある一つの結論に辿り着く」
開いた辞書を再び閉じ、鋭利な眼差しで彼がその答案を睨みつける。
「セラフェノ音語は、一つじゃない」
「え?」
「......俺も、その事実を知った時は寒気がした。なぜこんな大事なことに、今まで世界中の誰もが気づいていないのか」
それはどういうことだろう。
名詠式を扱う者としてもそれは聞き捨てならない。
「クルーエル・ソフィネット。彼女がこの試験用紙に書いている文字は、セラフェノ音語と構成が似ているのは直感的に分かるな。しかし問題はこの後の問十、セラフェノ音語による文章作成。ここから顕著になるんだが、その文法も単語も現在名詠士が使っているセラフェノ音語とはかけ離れたものとしか考えられないんだ」
問十の文章作成。それは確かに自分も一度は確認した。が、それもまた内容が読み取れず断念してしまっていた。
「セラフェノ音語には未だ解読がなされていない困難単語と、推測のままで止まってしまっている単語が複数存在する。だからこそ不可触言語と言われているのはケイトも知っているな」
「......はい」
「俺はてっきり、セラフェノ音語はそれ自体が完成された言語かと思っていた。しかし違った。セラフェノ音語には、もう一つ全く別の言語体系の『何か』が混じっている。今まで解読が困難とされていた単語は、そもそもそちらの言語の単語だとすれば非常につじつまがあう。一夜では解読すらろくにできなかったが、おそらく間違いではないだろう」
論理と証拠を重んじるこの教師がそこまで言い切る。ならば相当に信憑性の高い根拠があると思って良いはず。
「......しかし、それをなぜ一介の女子生徒が」
「一介ではないだろう。彼女の名詠の実力を考えるならばな」
確かに。彼女の超常じみた実力を垣間見た以上、もはや彼女が何を起こしても不思議ではない。
「しかし、頭から冷水を浴びせられた感じだな。......なぜ今まで気づけなかったのか。あの子の解答用紙を見ただけで辿り着けるほど単純なカラクリに」
重苦しい溜息をつき、ミラー教師が腕を組む。
全ては彼女の残した答案用紙から。言い換えればそれは、彼女のそれがミラー教師に謎を解く鍵を与えたということに他ならない。
「......『大人はみんな、大切なことを忘れてる』」
「ケイト?」
「あの子が......クルーエルが、ミシュダルと名乗る男の前で叫んだ言葉です」
自分やサリナルヴァ、そしてミシュダル。
多くの大人の前で、彼女は確かにそう叫んだ。
「気づかなかったのではなく、俺が忘れていただけ、と?」
「分かりません。けれどクルーエルは何か、名詠式の根幹に関わる何かを握っている気がします。名詠式とセラフェノ音語に関わる何かを」
「しかし、よりによってその本人が昏睡状態とはな」
そうなのだ。状況から判断すれば、彼女はこの解答用紙を書き上げた途端に意識を失ったと捉えるのが妥当。しかし、もしそれが誤りだったとしたら。
もしも──ここに残された謎の解答を書き上げている最中、既に彼女の意識がなかったとしたら?
「無意識の人格というものについて、ミラーさんはどう考えますか」
すると、彼は肩をすくめおどけたような表情を浮かべた。
「難しいな。あったとしても、他者からは判別が極めて困難だ。だが、それに限りなく近い存在を俺たちは知っているのかもしれない」
「わたしも知っているものですか」
「──真精だよ」
真精? 真精って、あの第一音階名詠で呼び出せる名詠生物?
一瞬、本気で彼の言っている意味が分からなかった。
「これは俺の勝手な推測だ。俺がそう考える理由も、今はまだ話すべき段階ですらない。今思いついただけで喋ってるから、ケイトも気にかける必要はない。ただ......覚えていてくれ。忘れるな」
忘れるな、その言葉と共に、いつになく力強い視線で彼が見つめてくる。
「そう言えば......そうだったな」
木製の椅子に背を預け、彼が深い吐息をついた。
「俺たちは、大人になるにつれ情報を取捨選択して生きていくことを覚える。情報の氾濫したこの世界で、自分にとって必要な知識だけを記憶し、他の不要と思われるものを『忘れるという技術を覚え』る」
それが、普通なのではないか。物事をずっと覚えていられるはずがない。大事な思い出ならばともかく、些細な日常の記憶など忘れても生活に支障ない。
「ケイト、お前が子供の頃はどうだった? 何が大切で何が大切じゃないものか、一つ一つ見極めて覚えていったか? この世界で見るもの全てが新鮮で魅力的で、その全てを覚えていた時期が必ずあったはずだ」
あったのかもしれない。けれど──
「......もう、忘れてしまいました」
「ああ、俺もだよ」
弱々しい、自嘲の笑み。
「──俺たちは、忘れていたという事実すら忘れていたんだ」
その勉学家が、自分の机に立てかけてある古い写真を渡してきた。
「クラス写真ですか」
彼が受けもったクラスの集合写真? いや、それにしては古すぎるような。
「俺、エンネ、ゼッセル、カインツ──俺たちが同級生の時に撮った写真だよ。ほら、中央で生徒に囲まれているのが今のジェシカ教師長さ」
数十人の生徒に囲まれ、照れるようにして笑うラベンダー色の髪の女性。
「......あの、この子は誰ですか」
写真の人物を一通り眺め、ケイトが目を留めたのは黒髪の少女だった。一人だけクラスの輪から離れるようにして立つ少女。そしてその隣に、その少女と他のクラスメイトを繫ぐようにして立つ、枯れ草色のコートを羽織った見覚えある輪郭の少年が。
「......これ、カインツさんですか」
虹色名詠士の若かりし頃。今よりもいたずらっぽく幼い表情だ。
しかし、この虹色名詠士が寄り添うように立つこの黒髪の少女は誰なのだろう。
「イブマリー・イェレミーアス。──ケイト、君が担任として受けもっているネイト・イェレミーアスの母親だ」
イェレミーアス。では、この少女が夜色名詠を構築した人物だというの?
こんな儚く可憐な少女があの異端色を?
「......俺は。いや俺たちは、あの時の竜の言葉で思い出すことができた」
『O she saira qersonie Laspha──Armadeus。孤独な夜闇の娘に惹かれ、その正統な後継に誘われた。夜の名詠に従い、而して我はそれを世界に知らしめそう!』
「俺たちは、思い出したものをまた別の誰かに受け継がせてやらなくちゃいけない。......そのための教師なのさ、きっと」

遠い過去を懐かしむような口調で、その教師は静かに告げた。
4
不思議な夢を見た。
真っ黒い世界。どこまで歩いても終わりのない無限回廊。
その場所で、音だけが鮮明に響いていた。
始まりは、波の音。つい最近に聞いた覚えがある。そうだ、夏休みの臨海学校で、わたしは『あの子』と一緒に海辺に行ったっけ。
次は、遠くから聞こえる鐘の音。これは学校の入学式かな。でも、いつの時の入学式だろう。......トレミアの入学式?
三番目は、赤ん坊の泣き声だった。この声、誰の泣き声だろう。わたしの知っている赤ちゃんなのかな。でも、どれだけ聞いても思い出せない。
そして最後に──
最後に聞こえてきたのは、歌だった。
男の子と女の子。二人で一緒に歌ってる。
女の子の方は......わたし?
でも男の子の方は誰だろう。すごく近くにいる気がするのに、不思議と思い出せない。
思い出せないまま、歌は次第に霞んでいった。
......わたし、どうしたんだっけ。
無意識と夢の狭間で、クルーエルは弱々しい瞬きを繰り返した。
天井の照明。白い塗装の壁に、つんと鼻をつく医薬品特有の臭い。
......ここ......医務室?
身体は仰向けになったまま、首だけを横にする。
すぐ傍に──小さな木椅子に座ったままじっとうつむく少年の姿があった。
夜色の髪がここからでも窺える。細い華奢な身体に、トレミア・アカデミーの白い学生服を着た姿。襟元に引かれた一本の黒線。
「......ネイト?」
数秒。数十秒。数分。時間の経過すら朧気な中で、どれだけ彼を見つめていただろう。ゆっくりと、その少年が顔を上げた。
「く......くる......え?」
ぽかんとした口調で、何かを言おうとして言えないでいる彼に。
「──ごめんね」
かすれ声で、クルーエルは呟いた。
「また、キミに迷惑かけちゃったね」
「そ、そんなことないですっ! 僕、全然平気です」
首を勢いよく左右に振るネイト。
......ありがとう。
普段は軽々しく使ってるはずの言葉が、つっかえてどうしても言えなかった。
「ねえ、ネイト」
だから、せめて別のことを伝えよう。彼にだけは、全部伝えたかった。
「キミは名詠式が怖いと思ったことない?」
「それ、この前と同じ?」
そう。夏期の移動教室で彼に訊ねた問いだ。
「うん。もう一度、キミの答を聞かせて」
「僕は......」
口ごもりながらも、彼はしっかりとした眼差しで告げてきた。
「僕は、ないです」
「そうだね。キミの名詠はとっても優しい名詠だもん」
わたしの名詠は、どうなのかな。
「......クルーエルさん?」
「ネイト、キミにだけは伝えておくね」
不安げに口を開ける彼に、寝た姿勢のままでそっと指先を伸ばした。
すぐ傍に立つ彼に届く、その直前で。
「わたし、少し前からずっと声が聞こえてるの」
「声?」
「......うん、すごくわたしそっくりの声。わたしそのものかもしれないし、全く別の誰かかもしれない」
〝──ああ、ようやくわたしの声が届くのね。わたしの大切な人〟
あれは、一体何なんだろう。なんでわたしに話しかけてくるんだろう。
「......黎明が近づくほど、花は早く咲くのかな」
「はな?」
それも、あの声が告げてきたことだ。
でもそれは何の花だろう。わたしが花と聞いて思い浮かぶのは一つしかない。
小さな緋色の花。
それは──アマリリスのことなの?
名詠式は、自らが望むものを詠ぶ。それは偉大なる虹色名詠士が教えてくれた。
競演会で、彼が詠び出した虹色の輝き。
〝目を閉じる。〈讃来歌〉はいらない。名詠するのは自分自身。自身を映しだす鏡。心の中で想うままを形に。それを詠び出せばいい〟
だとしたら、私の心の中には一体何がいるというの?
「ネイト、キミにだけは伝えておくね」
......本当は怖い、怖くてたまらない。こんなこと言って、彼がわたしのことを嫌いになったらどうしよう。変な奴だって思われたらどうしよう。
でも、もし誰か一人に必ず言わなければならないとしたら。誰かに伝えなくちゃいけないとしたら。
この世の全ての人の中から選べるとしても、わたしはキミに、伝えたい。
「わたしの心の中にね、黎明の神鳥じゃない、別の何かがいるかもしれない」
瞬きもせずに、クルーエルはじっと彼の双眸を見つめた。
......別の何か?
正面から見つめてくるクルーエルの眼差しを受け、ネイトは一度だけ瞬きした。
「それって赤色の真精ってことですか」
ううん、一つの色で詠び出せる真精は一体だ。クルーエルさんの専攻色の赤は既に黎明の神鳥がいるじゃないか。同色で別の真精がいるわけがない。
「──赤、じゃないかもしれない」
血を吐くような面持ちで、彼女がそっと呟いた。
「赤......じゃない。何かもっと、似てるようで違う色かもしれない」
赤じゃない。だとすれば一体何色?
「わたし、怖いの」
ベッドに横になりながら、タオルケットにくるまりながら、それでも彼女がふるえているのが分かった。
「もしわたしが......〈孵石〉みたいに勝手にソレを詠びだしちゃって、名詠式を悪いように使っちゃったら......わたしは、誰に何て謝ればいいんだろう」
少女が目を逸らそうとする。だがそうするより先に。
「あの、クルーエルさん。僕、一つだけものすごく単純な疑問があるんですが」
ネイトは、自分の本心を彼女に告げた。
「......なに?」
怯えたように小声で頷く彼女を、ネイトはじっと見据えた。
「なんでクルーエルさんは、その別の何かというのが悪いものだって最初から決めつけてるんですか」
「────え?」
「僕は、クルーエルさんの黎明の神鳥に何回も助けてもらいました。名詠式が自分の心の中を映し出すものなら、クルーエルさんの心の中にいるものが悪い奴なはずがないじゃないですか」
もしクルーエルさんがもう一体真精を詠べるとしても、それはきっと優しくて思いやりのある真精に決まってる。絶対と言ってもいいくらい、自分はその自信がある。
「それともクルーエルさんて本当はいつも、なんか怖くて腹黒いようなこと考えてるんですかぁ?」
「そ、そんなことないよ!」
顔を真っ赤にして叫ぶ彼女。
その姿に、ネイトはにこりと微笑んで。
「噓です。でも、これで平気だって分かったですよね」
「......あ」
呆気にとられたように、彼女は口が半開きになったままだった。
「大丈夫です。僕はどんなことがあってもクルーエルさんのこと信じてますから」
にこりと微笑む。
「......信じてくれるの」
「はい! 当たり前です!」
そのまま、どれだけの間彼女を見つめていただろう。
「......あのさ、この前も医務室で二人きりだったよね」
この前?
「わたしが『おやすみなさいのキスして』って言ったとき」
微笑むように、そっと口元をゆるめる彼女。
「あ、あの時ですか」
ネイトにしてみれば、あの時の彼女の一言はあまりに強烈な一撃だった。あの後二晩、ろくに寝られなかったのを今でもしっかりと覚えている。
「ねえ、今わたしがそれをお願いしたら、キミは何て答えてくれる?」
────え?
「あ、あの......」
またあの時と同じ冗談だろう。
そう思って彼女を眺めても、彼女は青く大きな双眸を揺らしながら一心に自分を見つめてくるだけだ。瞬きもせず、目を逸らすこともなく本当に一心に。
「わたし、キミの返事が聞きたい。割と本気で。もしキミがだめって言うならいいよ。でも、もし『いいよ』って言ってくれるなら......わたしも、わたしだって......」
じっと見つめられる。それ自体は今までなかったわけじゃない。
でも、そのことで声すら出せなくなったのは初めてだった。
「......ごめんね、なんかいきなりだね、迷惑だったかな」
「い、いえ! そんなことは──」
うなだれるクルーエルに向け、ネイトは必死で首を振った。
ただ、キスだなんて。
母はそもそもそういうの絶対しない人だった。その分ネイトにとって口づけとは、物語に出てくるような特別ロマンチックな印象があまりに強いのだ。だからこそなおさら、親しい人から言われると、どうしていいのか分からない。
「まあ、キミからしてみればそうだよね。ふふ、わたしだってほとんど経験ないもん。でもいつか、今じゃなくても、返事を聞かせてくれると嬉しいな」
熱のせいなのか、赤く腫れた瞼の彼女。
それでもこころなしか、彼女は普段の優しい表情になっていた。
「......返事......いつか?」
「うん。たとえば、そうだなあ──返事の期限はわたしが元気になったら、とかね」
にこりと、とっておきのいたずらでも思いついたかのようにクルーエルが目を輝かす。
「返事って......あの、その......何と言うか......」
宙をさまよいそうになる視線を、ネイトはかろうじて押し止めながら。
「でも、クルーエルさんに早く元気になってほしいと思ってる気持ちは誰にも負けないつもりです。本当に、一日でも早く治ってくださいね。僕、ずっとお見舞いしますから」
「返事も、わたしは期待してるよ?」
「やっぱり。冗談じゃなくてですか......?」
「ふふ、今から楽しみにしてるね」
「と、とにかく、身体の方をまず治してください! もう寝なきゃだめです!」
走るように医務室の扉まで進み、設置された照明灯のスイッチに手で触れる。
「あれネイト、顔真っ赤──」
クルーエルが言い終える前に、ネイトはぷいっと顔を背けた。
「はい、もう医務室の電気も消しますね」
5
夜風に揺れるカーテン。
......クルル平気かなぁ。
窓ガラス越しに、友人が寝ているであろう医務室の方向をミオはじっと眺め続けていた。
学園女子寮、本来そこにミオの部屋はない。
そう、他ならぬクルーエルの部屋だ。もともと合い鍵の隠し場所は彼女本人から聞かされていた。何かの折には勝手に入っても構わないとも言われている。その合い鍵を使って入り、ミオは今日からこの部屋で寝泊まりするつもりだったのだ。
「......目、覚ましてたりしないかな」
もちろんこれは女子寮の使用規定に反している。学園の教師に知られたら説教ものだろう。けれど知っての上、迷いに迷った末での判断だった。もしクルーエルの身に何かが起きた時、いついかなる時でも駆けつけられるように。
が、それも我慢の限界だった。
「......あー、気になるっ! もう無理、じっとしてらんないよ!」
窓から飛び離れ、隣の住人の迷惑省みずミオは力一杯絶叫した。
──よし、すっきりした。
満足気に頷き、服を寝間着から制服へ。
もう夜更けだけど気にするもんか。クルルのお見舞いに行かないと気が済まないよ!
......う、さすがに夜は寒いかも。
まだ夏用の制服を着用しているせいで、夜風が制服の隙間から肌を冷たく撫でる。
両手で自分の腕をさすりながら、ミオは学生寮から総務棟への夜道を歩いていった。部屋を出る前が夜の十時。生徒の外出許可時刻をとうに過ぎている。教師に見つかったらちょっとしたお小言ものだ。反省レポートも覚悟せねば。
「大丈夫、見つからない、見つからない」
小声で自らに言い聞かせるように呟きながら舗装路を進み──
「みぃ~お~?」
ぐっと、背後から肩を何者かに摑まれた。
「──────ッッ!」
心臓が止まるほどの恐怖に、ミオは声のない絶叫を上げた。
「あはは、あたしだよあたし」
学園の敷地を照らす常夜灯。その朧気な光の下、褐色の肌の少女が照らし出される。
......エイダ?
「驚いた?」
「......ショック死するかと思った」
きりきりと痛む心臓を押さえ、ミオはようやくまともに息を吐いた。
「ほうう、エイダのご友人かな。可愛らしいお嬢さんだ」
エイダの隣に、彼女と同じくらいの身長の老人。藍色の装束を着た細身の老人で、柔和な表情が人なつこく感じる。
あれ、このお爺さん誰だろう。
「あー説明が面倒だからあたしの祖父さんてことにしておいて」
「しておいて......って」
その老人はと言えば、エイダの投げやりな台詞にも気を悪くした様子はない。
「まあ、あながち間違ってもないからのう」
「そそ。で、ミオはどうしたのさ」
二人して頷く老人とエイダ。
......まあ、二人がそう言うならあたしはそれでも納得しちゃうけど。
「うんとね、クルルのお見舞いに行きたかったの」
「こんな夜更けに?」
「うん......変かな」
こんな時間に病気の友人を訪ねるのはやっぱり非常識なのだろうか。
「いやいや。あたしらも実はそのつもりだったから。どうせちび君とクルーエルしか医務室にいないだろうしね。あたしらも夜の見張りしてたんだけど、ティンカがそろそろ医務室に戻らないとって」
「ティンカ? 医務室の先生だっけ?」
「ああ、お医者さんだよ。あたしの知り合いで、クルーエルのこと看ててくれてる人」
エイダが背後を振り返る。常夜灯が照らす幻灯の中で、ぼんやりと女性の姿が浮かび上がった。
「初めましてミオさん。エイダちゃんからクラスメイトとして紹介を受けています」
白銀色の髪に瑠璃色の瞳、白のブラウスという絢爛な風貌。とぼけたような微笑んだような表情と、左目の泣きぼくろが特徴の女性だった。
「ティンカと申します」
まだ二十代そこそこの外見のようで、随分と老成した雰囲気の声音と口調。
「はじめまして~。あたしミオって言います。エイダのお知り合いの人ですか」
「ええ。エイダちゃんのおしめを取り替えたこともある仲ですよ」
......おしめ?
「ば、ばかっ! ティンカそれは言わない約束だったじゃんか!」
エイダが慌ててその女性を揺さぶるものの、その女性は動じた様子もなくにこにこと。
「あらあら、つい口が滑ってしまいました」
「うそだああっ!」
夜中ということも忘れ絶叫するエイダ。
......ていうか、エイダのおしめってことは......この人何歳なんだろう。
食い入るように彼女を眺めても、ミオには彼女の年齢が分からなかった。......うーん、絶対二十代にしか見えないんだけどなあ。
6
コッ......総務棟の通路に複数人の靴音が反響する。
「さすがに暗いね」
前を歩くエイダの背にぴったりくっつき、ミオは恐る恐る足を進めていった。
既にほとんどの職員が帰宅したせいか、通路も微弱な蛍光灯が灯っているだけ。まるで真っ暗というわけではないが、進行方向を凝視しないと先に何があるか分からない。ちょっとした肝試し気分だ。
「──ん?」
医務室に続く通路の角で、ふと、エイダがわずかに歩調を緩めた。
「エイダ、どうしたの?」
彼女の横にミオが並び立った途端。すぐ目の前の角から、誰かが猛烈な勢いで角を曲がってきた。
「きゃっ! だ、誰!」
「あっ、ご、ごめんなさい!」
慌てて頭を下げる小柄な少年。通路の微弱な電灯に照らされ、夜色の髪と幼げな風貌が浮かび上がる。
「......って、ネイト君?」
「ミオさん?」
きょとんとした面持ちで彼も瞬きを繰り返す。
「おやまあ、ちび君らしくない。どうしたのさ慌てちゃって」
エイダの呟きで、彼の表情にさっと焦燥の色が浮かび上がった。
「あ、あ......ええと、そうなんだ、クルーエルさんが!」
「まさか、彼女の容態が?」
怪訝な表情を浮かべるティンカ。しかし彼が告げるのは、まるで予想だにしないことだった。
「違うんです! みなさん、クルーエルさんを知りませんか?」
......ネイト君何を言ってるんだろう。
内心、ミオは首を傾げた。クルーエルには今の今まで彼が傍についていたはず。あたしたちの誰よりクルルの現状を理解しているのは他ならぬ彼自身のはずだ。
「クルーエルさんが行方不明なんです!」
「どういうことですか。わたくしが看ている間は、あの子は昏睡が続いていたはずでしたけれど」
「ついさっき一度目を開けて、話もできたんです。その後またすぐ寝るって言ったから医務室の電気を消して僕も部屋から出て......」
前へ進み出るティンカに、身振り交じりで声を張り上げる彼。
そこまでは分かる。だけど行方不明とは。
「でも、忘れ物して部屋に戻ったんです。それで、クルーエルさんがちゃんとお布団かぶってるか気になってベッドを見たら──」
「いなかった、と」
ティンカの言葉に無言でネイトが頷く。
「ふむ。夢遊病というやつか?」
「それって、寝ている時に歩き回る病気だっけ」
ルーファ老人の呟きにエイダが腕を組む。
......そんなはずない。
小さく、誰にも聞こえないほどの小声でミオは唇を動かした。
クルーエルの部屋で泊まったり、あるいは先日の夏期合宿で共に寝泊まりした時も、彼女にそういった症状が見られたことは一度もなかった。
「とにかく医務室に行ってみましょうか」
「は、はい! お願いします!」
先導するように走りだすネイト。よほど慌てて部屋を飛び出したのか、医務室は電灯が灯ったままになっていた。
「ふぅん、本当にいなそうだね」
がらんとしたベッドを眺め、エイダがその双眸を鋭いものへと変える。だがエイダが目つきを鋭くしたのは、何もベッドが空だったからというわけではない。
「......なんだ、この花びら」
ベッドの下。クルーエルの靴が置いてあった場所、そこに散らばった数枚の花弁をエイダが睨みつける。緋色の小さな花びら。
「あれ──」
ミオは両手で自分の顔を覆った。赤い......花。なんだろうこの既視感。あたしこの花、どっかで見たことある気がする。クルルが確かどこかで──
「でも、もしクルーエルが医務室から出て行ったとしてもだ、通路のちび君と出会わず気づかれもせずってのはよく分かんないね」
医務室の中央に陣取るエイダが腕を組む。
彼女の横を通り過ぎ、ミオは医務室の窓辺に歩み寄った。床に落ちている緋色の花びらが風で吹き飛ばされそうだったので、窓を閉めようと思ったからだ。
夜風にさらされ、小刻みにひらひらと躍るカーテン。
......風......カーテン?
「ねえ、ネイト君。クルルが一度目が覚まして、その後また寝るって言ったんだよね」
「はい」
「その時さ、窓は閉めてなかったの?」
この夜更けだ。いくら学園内の医務室とはいえ、この部屋は総務棟の一階にある。二階や三階ならばいざ知らず、防犯対策で窓は閉めておくのが普通だろうに。
「......いえ、ちゃんと閉め──」
言いかけ、ネイトが啞然とした口調で言葉を濁す。
「あれ、なんで開いてるんだろ。誰かここに来てから窓開けました?」
頷く者は皆無。つまり窓を開けたのは......クルーエル本人?
眠っていたはずの少女が消えた。部屋の扉には変化がなく、窓だけが不自然に開いていた──考えられるのは、クルーエルが窓から出て行った? だけどその理由は?
窓から出るなんて、直接総務棟の外に出るぐらいしか理由がない。そもそもベッドから起き上がれるような体調じゃなかったはずなのに。
「ふむ。なかなかどうして、奇怪な場面に遭遇したものだ。さてどうするか」
その場の全員を見回し、老人が窓の外を指し示す。
そんなの決まってる。
クルーエルを捜しに行かないと。
「ま、言うまでもないか......クルーエルという少女、おそらくこの棟にはおらんだろう。しかしこの広大な敷地、手分けして捜さなければなるまい」
トレミア・アカデミーの広大な敷地。
そのどこかにいるはずの少女をたった五人で捜す。それもこの夜更け。相当に厳しい作業になることは誰もが理解しているはずだ。
「ティンカ、お前はそちらの彼氏と彼女に案内を頼め。エイダは単独で構わんな。二組とも総務棟から一年生の校舎、二年生の校舎と見て回ってくれ。学園雇いの警備員も夜回りに出ている頃だろうから、それを摑まえて応援を頼むように」
「あれ、爺はどうするの?」
「今日の午後お主に案内してもらった場所をあたる。ここの男子寮と女子寮、あとはその周域一帯だな」
口早に答え、老人は懐中から年代物の時計を取り出した。
「現在十時半。ひとまず時間を決めよう。九十分だ。深夜零時ぴったり。進展がなくとも一度この場所に戻るとしよう」
間奏・第二幕 『ゲシュタルロア──風が砕けた島で』
始まりは、いつだと思う?
「始まり?」
あまりに抽象的な問いに、カインツは少女の言葉をそのまま繰り返した。
「そう、始まり」
感情を映さない虚ろな表情で、緋色の髪の少女もまた繰り返す。
「答は決して一つじゃない。けれど、最も古い時間、全てのヒトが忘れた過去に埋もれた答が一つある」
昔話を聞かせるように、少女はゆっくりゆっくりと告げてきた。
「ねえカインツ、ヒトは生まれた時は何色だと思う?」
「色なんて、つけようもないさ」
生まれた時に何から何まで決まってる。現実はどうか知らないが、少なくとも自分は、そんな定められた運命のようなものはご免だ。
「そう、その通りよ。あなたはそれが分かってる」
にこりと、あまりに無垢な表情で彼女は微笑んだ。
「全ての目覚める子供たちは、生まれた時は空っぽの色。空白を抱いてこの世界に生まれる。だから──始まりの色は空白。透明ではない、無色と呼んでもいけない」
両手を広げる少女。それはまるで虚空を抱き寄せるかのように。
「けれど、決して空っぽのままではいられない。全ての子供たちが自らの道行きを決め、自らの色を決め、自らの時の中で自らの律を知らなければならない。名詠士になる者、祓名民になる者、研究者になる者。無限とも言える選択肢から常に一つを選び、自らの故とする。それが生きるということだから」
虚空を抱きしめたまま、少女の瞳の色にゆらぎが混じる。
青い双眸に混じる、七色にも似た混合色。
「だけどその中で──限りなく空白に近いながらも真逆の色と、全ての有色を内包した色が生まれた。一つの空白と、そこから生まれた二つの異質な色。あなたならそれが分かるはず」
全ての有色を内包した色。それは言うまでもない。
「そう、あなたの虹色ね。誰にも真似できないあなただけの色。では、もう一つの異質な色は何かしら?」
瞳の色を七色から青紫に似た冷色に変え、少女が試すように告げてくる。
「それは──」
かさり。乾いた地を踏みしだく足音が孤島に響いた。
反射的に振り向く。自分と少女しかいないはずの孤島に、更にもう一人の来訪者が立っていた。
「これは......実に面白い場所で面白い相手と出くわしたな」
全身を一枚布で覆うような、皺だらけの旅人装束をまとった男。頭にかかるフードは色褪せた布で念入りに固定され、強風の中でも顔を隠す造り。
──誰だ。
近づいてくる相手に、カインツは密かに警戒を強めた。フードの下からわずかに覗く口元は狂気を携え、男の言葉一つ一つにもはっきりとした敵意があった。
「カインツ・アーウィンケル、虹色名詠士──詠えない名詠士」
詠えない名詠士。陰でそう揶揄されていることはカインツ自身知っていた。
〈讃来歌〉を詠わない。だけどそれは......いや、今はそれを議論する場ではない。
「ボクを知っている?」
「知っているかだと? は、自身がどのような立場の人間か知らぬ訳でもあるまい。名詠式をかじった者でお前を知らぬ者がこの世界の何処にいる? もっとも、そんなお前がまさかこんなちっぽけな島にいるとは思わなかったが」
小馬鹿にした口調で男が言い放つ。もっとも、カインツとてこの手の挑発は幾度も味わってきたものだ。案の定、男もそれを悟ったのかすぐに言葉を続けてきた。
「だが、お前は誰と話していた」
「誰って、目の前の女の子──」
少女が立っているはずの方向に振り向く。だがそこに、緋色の髪の少女の姿はない。
周囲には、変わらず咲き誇るアマリリスの花。
──そんな。
「虹色名詠士ともあろう者が、虚空と話す趣味があるとはな」
嘲るように男が嗤う。
「まあいいさ。せいぜいこの場で燻っていろ。俺はもう、必要な物を手に入れた」
男が左手で持つのは、鱗状の表面をした拳大の白い石。
それはかつて、黄砂色のローブを纏った老人が自分に告げた触媒の特徴に酷似していた。そう、この島の中心──かつて風の砕けた日が発生した爆心地で見つけたという触媒。
「まさか、それがツァラベル鱗片?」
装束の下、男の唇がきゅっと吊り上がる。
「ほう、そうかヨシュアの奴......巡り巡って虹色名詠士にすがったということか」
だがそれもそこそこに、男は一方的に背を向けた。その背中、何もないはずの空間が突如陽炎のように歪曲した。
......なんだ?
慌てて目をこらすもそこには何もない。なのに男の周囲の空間が、まるで意志ある生物のように揺れているのだ。あたかもそこに不可視の生き物でもいるかのように、男に従うかのように空間が蠢いている。あれは一体。
「気づいたか」
男が首だけをこちらに向けてきた。陰になったフードの下、禍々しい笑みだけが浮かび上がる。
「〈孵石〉に封されていた触媒。これを直に使うだけで、通常の名詠に異変が起きる。お前といえど、そう容易にこいつらの影は捉えられまい」
こいつら? ──やはり、男の周囲には何かがいるということか。
しかし姿が見えないとはどういうことだ。擬態? いや、何かが違う。
「虹色名詠士、勝者の王。今までこの触媒の効果を見せてやるのはお前と決めていたんだがな。生憎、これを先に試すべき相手ができてしまったようだ」
「相手?」
無視される。それを覚悟していたが。
「おや、お前も知っているはずだがな。あの学園にいる、あの少女の皮を被った化け物。あれの正体を見極めるのが先ということさ」
淡々と、男は独り言のように返してきた。
「......ヨシュア、俺たちの拠り所はもはや一つしかないんだよ。あの日あの時、共に全てを失った時からな」
荒涼とした砂漠を思わせる声音で、この場にいない者へと男が告げる。
地を擦るような男の足音。島の端へと去っていく男の背を眺めたまま。
「カインツ・アーウィンケル、勝者の王か」
胸の奥、突き刺さるような言葉をカインツは反芻した。
緋色の髪をした少女も消えたまま。
「拠り所が一つしかないのは、ボクだって同じなんだけどな」
熱を帯びた風をその身に受けながら、苦笑にも似た吐息をカインツはこぼした。
けれど、決して自嘲ではない。過去に縋る時間はとうに終わった。今はただ、自分の信じる道を進むだけなのだから。
四奏 『空白と夜明けの交叉』
1
静かな夜。生温い風が音もなく部屋を駆けめぐり、悪戯のように首筋を撫でて去っていく。そんな夜だった。
「......静かすぎるのもかえって集中できないな」
苦笑と共に椅子から立ち上がり、ミラーは凝り固まった両手両足を伸ばした。
総務棟一階、教師控え室。
校外から招いた臨時講師や宿直担当の教師が使う休憩室である。今晩の宿直予定者が急用のため帰宅。その臨時担当者としてミラーが手を挙げたというわけだ。
職員室は広すぎて落ち着かないし、図書管理棟は既に閉館。一人で落ち着いて調べ物ができる教師控え室は、ミラーにとっては絶好の研究室でもある。
「どのみち、これを何とかしないうちは家に帰っても気になってしょうがないからな」
机上の、一枚の解答用紙。
その隣には、数百頁ある言語系の古辞書が山のように積み重ねられている。
「......予想はしていたが、ここまで手がかかる代物とはな」
セラフェノ音語であってセラフェノ音語でない未知なる言語。
いや、むしろその逆?
現在我々が利用しているセラフェノ音語の方が、本来あるべきものから逸れた姿という可能性もある。だとしたらクルーエルという少女が筆記したこの言語こそが、真なる言語ということになる。
「名詠式の真髄が真精ならば、さながらこの言語も、真言とでも言うべきなのかな」
冗談混じりで呟いた、その途端。
──コツッ
窓ガラスに何かが触れた音。
反射的に顔を上げる。ガラス越しに──黒煙を撒き散らしたような夜の風景の中で、何者かが濃紫色の外套をひるがえす姿が見えた。
「誰だっ!」
叫ぶと同時に詰め寄り、錠を外して窓を開ける。だがその時には、相手もまたどこかへと立ち去っていった後だった。
教師ではない。生徒? いや、あんな外套を着た生徒がいたという覚えはない。そもそもこんな教師控え室の窓から内部を覗く必要があるはずもない。
「......何者だ」
見られていたことにはまるで気づかなかった。一体いつから、そしてこの部屋の何を見ていたのか。
「まったく、静かすぎる夜かと思えば案の定か」
2
ぬるりと肌にまとわりつく湿った風。半端に温い周囲の空気を搔き分けるように、ルーファは学園の舗装路を進んでいた。
......好かん夜だ。
乾いた唇を嚙み、洩れそうになる呟きを押し戻す。
温い風。静かすぎる夜。澱んだ頭上の雲。長年の経験上、これらが揃った日はどうにも良くない。虫の知らせというものなのか、やけに心がざわつくのだ。
──そう言えば、アルヴィルの奴がいなくなったのもこんな夜だったな。
生涯最後の弟子と心に決めた、息子のように可愛がっていた青年。その手掛かりを求めて学園に来たという側面も確かにあったが、まさかここまで似た現象と遭遇するとは。
「クルーエル・ソフィネットか」
実のところ、自分はいまだその少女を実際に目にしたことがない。〈イ短調〉の会合でサリナルヴァから彼女の写真を受け取っただけ。この学園に来てからもゼア学園長とエイダからの情報収集に勤しんでいた。
「儂らしくもない。少々焦りすぎたな」
苦笑隠しに、背中に結わえた祓戈に触れる。
まだ実際に顔も合わせていない少女。この夜更けだ、暗がりでその少女を見つけても、果たして識別できるかどうか。
「ま、何とかなるとは思うが」
医務室を出る時に確認した時点で夜十一時近く。
学園の敷地内といえど、この時間に外をうろつく人間は滅多にいない。それが年頃の少女であれば当然目に付くだろう。確認は容易い。
......時間一杯、地道に探るとしよう。
周囲の闇に目を凝らし、ルーファは学生寮へと続く道を進んでいった。







「おーい、クルーエル。いるかーい。いたら返事しなさいな。ていうか、いなくてもいないって返事しろー」
四年生校舎へと向かう舗装路で、エイダは声を張り上げた。
数十秒その場で足を止めるも、返ってくるのは鼓膜が痛くなるほどの静寂のみ。
「ま、そりゃこんな簡単に見つかったら苦労はしないか」
祓戈を左手に提げた状態で、再び学園の舗装路を進んでいく。
エイダが担当するのは主に三年生校舎と四年生校舎である。総務棟からはやや離れた場所にある棟だ。一方でネイト、ミオ、ティンカの三人組は近場の一年生校舎、二年生校舎周域の探索となっている。
......さて、ちび君たちも一年生校舎を見て回ってる頃かな。
単独組の自分が一番フットワークが軽いことから、最も遠い場所の探索を引き受けた。しかし実際にこの広大な学園の探索となると、わずか五人ではあまりに心許ない。夜回り中の警備員を摑まえてざっと事情も話したが、果たしてどれほど効果があるか。
「あーあ、それこそクルーエルの黎明の神鳥がいれば空から捜せるのに。あたしも早く手頃な名詠を覚えなきゃな──にしても」
立ち上がることすらできないはずの彼女が、窓を伝って総務棟外へ。
......やっぱ、どう考えても普通じゃないよね。
普段のクルーエルがとるような行動ではない。ならば、彼女とは別の意志の何かが働いたと考えるのが適切だろう。
まさか誘拐? いや、医務室の窓を開けるには内側から鍵を解除しないと無理だ。
「あー、ますますこんがらがってきた。それこそ本当に夢遊病か何かだったりする方がよっぽど解決も楽なのに。......ねえ、そうは思わない?」
にわかに、エイダは通路を進む足を止めた。
自分の足が止まる。だが足音が止まるのは、それより一瞬だけ遅かった。
......下手な尾行。祓名民相手に尾行するなら足音くらい完璧に重ねろっての。
妙な気配を感じたのは、自分がネイトやミオたちと別れてすぐのこと。自分が単独で行動するのを待っていたということか。
「ねえ、あんたに聞いてるんだけど。そこの、あたしのことをちょこちょこ尾け回しちゃってくれてる奴」
振り向かぬまま、逆手に持った祓戈の先端を背後に向ける。
「さて、洗いざらい答えてもらうよ。力ずくででもね」







トレミア・アカデミー、一年生校舎。
「二人とも、ごめんなさいね。こんな真夜中に人捜しを手伝ってもらって。本当はわたくしたち大人がやらなくちゃいけないことなのに」
ネイトにとって最も身近な建物の直前で、先を行くティンカが振り向いた。
「そんなことないです。クルーエルさんは僕たちの大切な人だから、僕たちだって捜すのが当たり前だもの」
足を止めたティンカを過ぎり、なおネイトは足を前へと進め続けた。どんな事情があれど、病気の身の彼女をこのまま放っておくわけにはいかない。
「うんうん。それにこんな広い学校、みんなで捜さないと見つからないもんね」
「ミオさんも、ありがとうございます。ところで一つお聞きしたいのだけど、クルーエルさんはこの学校に入学した時から名詠式の才能に溢れていたのかしら。黎明の神鳥を詠べるくらい」
......学園に入学した時というと、僕はその頃まだいなかったから。
自分、そしてティンカの視線が自然とミオへ集まった。
「ん~、どうだろう」
そのミオはと言えば、迷ったように口をへの字に曲げながら。
「紙上試験の成績は多分今も下の方だし、実技だって最初の頃はあたしと同じくらいだったと思うなあ。まあクルルはクルルでこっそり頑張ってたのかもしれないし、何とも言えないけど」
そう言えば──そう呟き、ミオが言葉を続ける。
「競演会の発表で、クルルは最初絵の具を触媒に選んでたのね。あたしたちみたいな初心者には使いやすいからって......あれを考えると、競演会直前までは割と普通なのかなって気もするけど」
「競演会の直前。それは、ネイト君の転入と時期が重なりますね」
「......え?」
突然の名指しに、ネイトは視線をミオからティンカへと戻した。
「サリナルヴァが興味ありげに話してたわ。ネイト君は知らないだろうけど、あの人が興味を持つというのは非常に珍しいことなのよ」
──僕が来た時と、クルーエルさんの名詠が急激に上達した時期が一致している?
「ほほう。それはつまりネイト君とクルルの素敵な愛の──」
「ち、違いますってば!」
「ありゃ、外れ?」
真剣な表情でこちらを覗き込んでくるミオ。
「......だってだって、僕の方がクルーエルさんに助けてもらってるじゃないですか」
「いえいえ。でもそれはそれで素敵なことですよ。先ほどの『クルーエルさんは僕たちの大切な人』発言もあながち外れてもいないのではないかしら」
あ、あれ。ティンカさんまで?
「あのね、ネイト君。人が成長するには必ずそこに、何かそれを支えるものがあるはずなんですよ」
とぼけた瞳ながらも、彼女の声はとても澄みきったものだった。
「あなたがクルーエルさんに助けてもらっている時、あなただってクルーエルさんの支えになれていたのではないかしら」
そうありたいというのは、ネイトにとっても紛れもない本心だ。
けれどまだ、それを実感できたことはない。
「分からないです。......そうなれればいいなって思うけど」
しかしとにかく今はクルーエルを見つけてからだ。
一年生校舎の扉を見る限り、こちらは普段のように錠がかけられたまま。あの医務室の窓のように、誰かが解除したという形跡はない。
「一年生校舎にはいないようですね」
「う~ん。いるとしたらここの可能性が一番高いと思ったんだけどなあ。二年生校舎にクルルがいるとも思えないし」
「ひとまず捜しに参りましょう。万に一つということもありますし」
医療器具の入った黒鞄をティンカが担ぎ直す。
「でもクルル、本当にどうしちゃったんだろう」
ミオの何気ない呟きに。
〝黎明が近づくほど、花は早く咲くのかな〟
クルーエルがこぼした言葉が、脳裏を瞬く間に駆け抜けた。
彼女が、自分に向けて伝えようとした言葉と想い。
黎明、そして花。
〝わたしの心の中ね、黎明の神鳥じゃない、別の何かがいるかもしれない〟
......あの時、医務室で僕にだけ話してくれたあの言葉。
つまりあの時の黎明は、彼女の真精である黎明の神鳥を指す?
しかし、だとすれば花とは一体何だろう。花と言われても、世界には何百何千という種類がある。そもそも本物の花を指しているのかすら定かではないのだ。一体何の花なのか。
「......あれ」
花。そう言えば、どこかで花に関する何かを見た気がする。
医務室に落ちていた、緋色の花。それは。
〝アマリリスっていうの。わたし昔からこの花好きだから〟
初めて彼女と出会った日のこと、実験室で彼女が名詠した花もそうだった。
アマリリス。
一昨日、どこからか聞こえてきた歌を追って校舎の屋上に上って、そこで満開に咲き誇る緋色の花の楽園を確かに見た。瞬きする間もなく幻のように消えてしまったけれど、あれは確かに本物だった。
「......屋上?」
「ん、どうかなさった? ネイト君?」
どこの屋上かは分からない。
だけど、あの時もし詠っていたのがクルーエルさんなら──
「ティンカさん、ミオさん!」
同行する二人を、ネイトは夜色の双眸で見上げた。
「クルーエルさん、どこかの屋上にいるかもしれません」
3
「さすがに男子寮にはおらんかったか」
雲に隠れた月影から、ルーファは視線を地上に戻した。
「......それにしても、儂としたことがますますもって浅はかだったな」
男子寮と女子寮の周辺を担当すると言ったのは他でもない自分。男子寮はまだいい。しかし外部の老人が夜更けの女子寮に入り込めば、さすがに怪しまれるに違いない。それこそエイダか、あるいはミオという少女が適任だっただろうに。
「さて、どうしたものかな」
二股に分かれた道。右が男子寮で左が女子寮へと続いている。
懐中から時計を取り出し、ざっと時間を確認した。約束の時間まであと半時間以上残している。今から集合場所に戻ったところで誰もまだ集まっていないだろう。
......仕方ない。侵入者扱い覚悟で、女子寮の外の敷地だけでも捜しておくか。
女子寮の敷地を意味する立て看板を横目に、女子寮へと続く石畳を歩く。薄暗い黄土色の寮を見上げ、ルーファはその寮を迂回するように裏手へ回った。
「そう言えば、こちらはエイダの奴にも案内してもらわんかったな」
人気のない夜道の、更に空気が澱んだ道。目を凝らすと、広場にも似た芝生の広がりが展開しているのが見て取れた。
「なるほど、裏庭か」
閉じられた格子状の柵。赤く錆びついた格子は特に錠もかかっておらず、生温い風に煽られては耳障りな音を立てるだけ。
......まったく、本当に今宵の風は好かん。
開けた場所。当初は芝生かと思っていた物は、ただ無秩序に雑草が生い茂っているだけだった。背の高い木立も四方に枝葉を伸ばし、生えている植物もまばら。人の手が入っているような人為的な秩序がない。
「ふむ。確かに心地よい場所ではないな」
建物の影に遮られ万年光の当たらぬ空間。じめじめとした陰気な雰囲気のため、生徒に人気がないのも当然と言えば当然なのかもしれない。
そしてそれが、高熱と原因不明の昏睡で倒れていた少女ならばなおさらだ。
やはり、ここにもいないか。
深い夜、そびえたつ木々から伸びる濃影の下。どれだけ目を凝らしても結果は同じ。人影らしきものは皆無。
「仕方ない。そろそろ医務室に集まっとる頃────」
歩きだそうとする足を、ルーファは寸前で止めた。自分で止めたわけではない。足の方が意識と無関係に硬直したのだ。
そう。踵を返す直前に、鼓膜に触れる音があったから。
lu......w......i...... lis......her............
なんだ......これは......詠?
名詠士が詠う〈讃来歌〉に酷似している。
酷似しているが何かが違う。自分の知る〈讃来歌〉と似て非なるものだ。しかし。
......wi......O......La......Se......ah......
「なんと、なんという神秘的な音色か!」
美しい。悲しい。荘厳。この世のありったけの単語を合わせても、その旋律一つを表せる自信がない。眼前に展開する蜃気楼を手で摑むことができないように、言葉で表すことのできない幽玄な透明感がこの旋律には存在する。それこそ、七十年近い人生の中で初めて聴く音色だ。
「まさか歌后姫? いや......違う」
〈イ短調〉に名を連ねる歌姫。彼女の声を初めて聴いた時は胸の奥底から心がふるえた。最高の声を持つ名詠士が彼女であることは自分も確信を持っている。
だが、この詠はなんだ。
心がふるえるのではなく、心が奪われていく......
それはさながら、目もくらむ断崖絶壁を前に佇立したかのような。どれだけ見渡しても終わりのない海の水平線に、たった一人で向き合った時のような。
何か巨大なものを前に、自分という一人の人間がどれほど小さいものかを実感する──その感覚だ。
「......近い。一体どこで誰が」
刹那。
ひゅんと音を立て、かまいたちを想起させる突風が頭上から足下へと通過した。
旋律が、一瞬ぶれる。
「────上か!」
止めどのない奇妙な緊張感に、無意識にルーファは叫んでいた。
女子寮の、その屋上。
見上げる遥か頭上に、小さな──人影のようなものが確かに見えた。
ふふ......あはは......
笑っている?
この闇夜、この距離だ。その人物の表情など見分けられるはずがない。
だが直感的に、本能的な何かがルーファにそれを悟らせた。
上にいるのは女だ。それも相当に若い。
そして、『彼女』は笑っている。遥か頭上から自分を見下ろし、笑っている。
「──何者だ」
地上から問うても、その声が相手に届くはずもない。
いつの間にか、左手は祓戈を握っていた。右手は小刻みにふるえて動きそうもない。
......ふふ、うふふ............あはは............
......この儂が、まさかこれほど挑戦的な挨拶を受けるとはな。
「だが、それも結構!」
使い物にならない右手の甲を、ルーファは容赦なく祓戈で突いた。鋭利な痛みに、右手のふるえがようやく鎮まる。
「何者かは知らんが、一つ、話をさせてもらいにいくぞ!」
......なあゼア、やはり儂らは歳を取ったよ。
未知なる存在に挑む。それが、ここまで恐ろしいと感じたのは初めてだ。







「さて、洗いざらい答えてもらうよ。力ずくででもね」
エイダが振り返ったそこに、気配を感じていたはずの相手はいなかった。だが、気配は相変わらずすぐ目の前にいる。
──こいつっ!
薄々と予感はあった。
ミシュダルの襲来とほぼ同日時、学園の女子寮に侵入していた不可視の相手。正直、再度やってくることは覚悟の上だった。
「だけど、そっちの手の内は知ってるんだよ!」
祓戈を構え、気配を頼りに路面を駆ける。
「あまりこの子をいじめないで」
中性的なボーイソプラノの声。それは、今まさに鎗で突こうとした相手からだった。
「っ!」
反射的に祓戈を止め、数メートル離れた場所へと跳び退がる。
なんだ今の声。まさかこの奇妙な生き物が出した声だっていうのか?
「違う。この子に声はない」
何もいなかったはずの空間が陽炎のように歪んでいく。虚空に人形の影が生まれ、その影が徐々に色を帯びていく。
葡萄色を更に濃くした深紫色の外套の端が、まず虚空から現れた。
「アルヴィルから抜き足のコツを教えてもらったけど......やっぱり彼のように上手くはいかないや。さっきもミラー・ケイ・エンデュランスに見つかったし」
小さめの頭を振って、外套を羽織った人物が溜息に似た息を吐く。
レインコートに似た身体全体を覆う形状の外套に、雨よけのためのフード。ミシュダルはそれを布で固定し顔を隠していたが、この相手はフードの下からでもその風貌が見て取れた。
「......お前、誰だ」
警戒の態勢を緩めぬまま、エイダは眼前の相手を見据えた。
フードを外して露わになるその顔は──少年、いや、少女か?
ほぼ完全に中性的で大人しめの顔立ちに、憂いを帯びたように揺れる黒瞳。同色の髪は一番外側が肩先を少し越える程のラインで切り、内側になるにつれ細く短く切り落としてある。背は、自分よりは若干高いがクルーエルやサージェスよりはいくぶん低い。体格も、全体的にほっそりとしているのは外套の上からでも容易に判別がつく。
更に追い打ちをかけるように、性別の判断がつきにくいボーイソプラノの声。
──ネイト?
一瞬、エイダの脳裏を過ぎったのはクラスメイトの少年だった。
同じ中性的とはいえ顔かたちはもちろん別物だし髪型も違う。声も混同しようがない。けれど、なぜか全体的な印象が、この相手とネイトが重なって映るのだ。
「もしかして、自分と似た誰かを知っている?」
ぽつりと、静かに落ち着いた様子でその何者かが呟いた。
──正解。表情を読まれたか?
「この学園にいるのは......そうか。そんなにまで、自分と彼は似ているのかな」
「彼?」
「ネイト・イェレミーアス。あなたが頭に描いたのは彼でしょう?」
何気ないはずの一言に、エイダは眉をつりあげた。
「待て、なんで転入してきたばかりの子を知っている!」
「知っている理由は......難しいな、自分が自分だからとしか言いようがないもの。鳥が空を飛ぶ方法を知っているのと似たような理由だから」
「......お前、一体誰だ」
「自分の名は、Xeo」
シャオ。現代語においてそのような単語は存在しない。普段まず聞くことのない名前だ。
「でも、あなたはその単語を知っているはず」
──Isa Yer she riena『xeoi』pel
シャオ、そう名乗る人物が唐突に詩らしきものを口ずさんだ。
......今のは、詠?
「遠い遠い昔。夜色の少女が虹色の少年の前で奏でた、始まりの詠。そこに自分の名前が入ってる。Xeoの意味は、『夜』。確かにあまり聞かない名かもしれないけれど」
夜色の少女? 虹色の少年?
「そうだね。Neight──『夜明け』という名と同じくらい珍しいかもしれない。あれもセラフェノ音語からの由来で、通常語じゃないし」
こちらの内心の疑念をあえて無視するかのように、シャオがとぼけたような眼差しで見つめてくる。
──時間の無駄だな。
情報工作ならぬ、情報規制。この人物は、自分が本当に欲しい情報は絶対に切らない。相手の挙動や素振り一つ一つからそれが容易に想像できた。
「......それは分かった。だけど、お前のその横にいるのは何だ」
シャオの後ろに従うように浮かぶ、陽炎のように歪んだ空間。相も変わらずその実体は透明だが、そこに何かがいるということだけは肉眼でも確認できる。
「空白者。自分と同じでこの子はとても弱いから、あまりいじめないで」
「......名詠生物か」
「うん。自分が名詠した」
こいつが事の張本人。だが、名詠?
まるで透明の生物を名詠だなんて聞いたこともない。一体何色の名詠なのか。
「大したものじゃないよ。虫、鳥、獣。この世界の中で、周囲の景色に擬態する生き物は沢山いる。それの延長上のようなものだから」
あたしの思惑を見抜かれた?
目を合わせた時からエイダが感じていた違和感。それが徐々に明確な輪郭を帯びてきた。こちらが口に出さずとも、この相手は先を見越して言葉を継いでくる。表情を読んでいる? いや、それにしてはあまりに精度が高すぎる。まるで心の中を見透かされているような感覚だ。
「......大したものでないなら、それは何色か言ってもらいたいもんだけど」
「『Wird』」
全身微動だにせず、唇だけを微かにシャオがふるわせる。
空白? そんなの、そもそも色とすら呼べないはずでは。
「そこに在るという意味では、透明だって立派な色。それに、『Wird』にとても近い色をあなただってもう何度となく見ているはず」
「あたしが? 悪いけど、そんな記憶はないね」
「それはあなたが、『あの色』の本質を根本的に誤解しているから」
......埒があかない。
長らく時間を確かめていないが、皆との合流時間が差し迫っているはずだった。
「もういい、質問を変える。一介の名詠学校にそんな良く分からない名詠生物を送り込んでくれて、一体お前は何がしたい?」
「誰かに危害を加えるつもりはなかった」
「信じられないね。現にあたしはそいつに襲われた」
紛れもない事実。相手の動揺を誘うつもりの反論。語気を荒らげるか、あるいは取り繕って言い逃れるか。それしかないはずだった。
が、シャオという人物はまるで予想だにしなかった反応を見せた。
深々と、あまりに潔く頭を垂れたのだ。
「あの時、あなたはこの子の気配を感じて跡を尾けていたから。あなたは気配を感知することに長けていたし、追跡をやめるつもりもまるでなかったでしょう? だからあなたを追い払うためにこの子もそれしか手段がなかった。......そう、いつか必ず謝ろうと思ってた。本当にごめんなさい」
──何なんだこいつ。本気であたしに謝ってくるなんて。
こんな場面で謝られれば皮肉かと思ってしまう。だがこの人物の態度はそうではなかった。その場しのぎの取り繕いではない。本気で、心の底から自分の過ちを悔やんでいる。まっすぐこちらを見つめる双眸がそれを伝えてくる。
そして今度こそ、夜色の少年とこの相手の印象が完全に重なって映った。
......髪型も髪色も、瞳の色だって顔のかたちだって違うじゃないか。だけど、だけどなんでこいつは、こんなにもちび君と重なって見えるんだ。
「だけどそれは、なぜ女子寮かの説明になってない」
自身の気迫が揺らぐ前に、エイダは祓戈を再度握りしめた。
そう。なぜトレミア・アカデミーで、なぜその中でも女子寮だったのか。自分や学園長、〈イ短調〉のメンバー内でもそれが大きな議題になった。
「さっきも言ったけど、誰かに危害を加えるとかそういう気は全然なかった。ただ、様子を見ておきたかった相手がいただけ」
「様子を?」
「──クルーエル・ソフィネット。彼女を見ておきたかった」
よりによって、クルーエル?
「いや、正確に言えば彼女と、彼女の中にいるもう一人の『clue-l-sophieneckt』──〈花〉であり緋色の背約者たる〈その約束に牙剝く者〉」
彼女の中にいる?
......何を言っているんだ。
「もし興味があるのなら女子寮の屋上へ行くといい。ルーファ・オンス=ジルシュヴェッサーもそこへ向かっている頃だと思う。もっとも、アレと出会えるかどうかはアレの気分次第だろうけれど」
祓名民の長老の名だけではなく、彼がこの学園に来ていることまで知っている。
それについて追及するかどうかの一瞬の沈思。
その静寂の中で。
lu......w......i......lis......her............
──詠?
突然の旋律に、思わずエイダは周囲を見回した。鮮明に響く詠。なのに、自分たちの他に人影はない。一体誰がどこで詠っている?
「これは、アマリリス真言?」
初めて、シャオに表情らしきものが浮かんでいた。
焦りか怒りか、哀切か。
怯えるように、探し求めるように、シャオはある方向を凝視していた。瞬きすらせずこの相手が見つめる方向は、学園の女子寮。
「どういうことだアマリリス。なぜわざわざ真言を、今この時この学園で」
その横顔は端整ながらも、どこか寂しそうに曇っていた。
4
女子寮、鈍色の塀を越えてすぐの玄関で。
「やはり正面玄関は閉まっているか」
堅く閉ざされた扉を前に、ルーファは早々と背を向けた。迷っているだけの時間はない。
頭上から降りそそぐように響く詠。それが聞こえる内は屋上に誰かがいることになるが、いつその何者かが立ち去るかは不明。とにかく今は、何かしらの方法で一刻も早く屋上に辿り着かなくてはならない。
「......やむをえんな」
女子寮一階、二メートルほどの高さがある防犯用の柵に手をかけ、両手と足の跳躍で一息に飛び越えた。
──確か、階段は北側の端だったな。
内部の構造は今日エイダに案内された時、頭に叩き込んである。祓戈を左手に抱えたまま、極力足音を殺して寮内を駆け抜ける。
一階、二階、三階。瞬く間に、下の景色が小さくなる。息すら止め、屋上へと続く最後の階段を上る。
と同時、詠が突然に止まった。まさか、自分の気配が気づかれた?
「ここまで来て逃がすわけにはっ!」
もはや足音を殺す余裕すらなかった。唇を嚙みしめ、ただ全速力で階段を上り詰める。
屋上への最後の一段を跳躍で飛び越え、その瞬間。
目の前を、無数の緋色の花が埋め尽くした。
「......これはっ!」
慌てて目をこする。
屋上のはずが、冷たい鉄筋建築物のはずが、その床に咲き乱れているのは無数の花。
屋上庭園? いや、それにしてもこれはあまりに──
「ルーファ・オンス=ジルシュヴェッサー。......そう、あなたが来たのね」
花が、突風に吹かれて逃げるように舞い散った。
どこからともなく響く、聞き覚えのない少女の声。
「儂の名を知っているとは。どなたかな」
周囲の気配を探りつつ、ルーファは屋上の中心へと向かっていった。奇妙だ。声はすぐ近くから聞こえてくるのに、まるで人の気配がない。
「......先の詠は、お主が詠っていたと思ってよろしいかな」
「わたしの詠が聞こえた? あなたに?」
少女の声がわずかに弾む。驚くように、それでいて愉快そうに。
「ああ、そうね。〈夜明け〉と接触したからか、それとも同じ〈イ短調〉の虹色の影響か。理由はともかく、わたしの詠があなたに届いたことは歓迎すべきことだから」
〈イ短調〉の虹色。それはカインツのことだろう。しかしなぜ彼の名がここで?
それに、夜明けとは一体誰を指す?
「ここで何をなさっていたのかな」
「威嚇」
「威嚇?」
「そう、Xeoが来たから」
Xeo、その単語に記憶を巡らす。確か、セラフェノ音語にて夜という意味だったはずだ。
「シャオとは?」
「あら、あなたはシャオを捜していたのでしょう?」
抑揚混じりの笑い声。
「それじゃあとっておきの鍵。あなたに良い物を見せてあげる」
──チリン──
冷たい夜空に響く鈴の音。それは、ガラスの器を叩いたかのような小さく軽やかな音色だった。微風に溶けてしまいそうなほど淡く儚い奏。
と同時、空間が罅割れるように亀裂が入った。宙にサークル状の紋様を描き出す。亀裂から溢れる、眩しいまでの輝き。
「......名詠光?」
馬鹿な、この空間の亀裂が名詠門だというのか?
ガラスが砕けるような音の余韻を残し、名詠門が光の粒子となって消えていく。光の粒の一つ一つが夜色の虚空に溶けるように消滅したその後に。
すぐ眼前に、陽炎のように周囲の空間を歪ませる何かがいた。
〝あたしが出くわしたのは──まるで姿の見えない奴だった〟
反射的に祓戈を向ける。まさか、こいつがエイダの言う謎の生物か!
「そんなに怯えないで。この子はわたしが詠んだのだもの。何もしないわ」
「......これが名詠生物だとでも」
「そう。空白者とシャオが名付けた名詠生物。良かったじゃない、こんなにあっさり見つかって」
〈讃来歌〉を詠った素振りはなかった。触媒すら謎。
......このような名詠、一体誰がすぐに信じられるというのだ。
「あら。『Wird』と限りなく似た色を、あなたはカインツから聞いているはずでしょう」
カインツから?
ここ最近あの虹色名詠士から聞いたことと言えば、この学園にネイトという異端の名詠色を扱う少年がいるということだけだ。
「そう、その通りよ。『Wird』とは世界をそのまま映す透明色。そして〈始まりの女〉が詠う『Ezel』は、透きとおった宇宙の輝きをそのまま映し出す、輝く透明色。どちらもその本質は、世界を映す鏡のようなもの。二つはとても近い色だから」
自らの言葉に酔いしれるかのように、少女の声は続けてきた。
「〈始まりの女〉も〈牙剝く者〉も、それをあえて教えなかったようだけど......さて、何を考えているのかしらね。今の夜色名詠ではそれに気づかない限り、灰色名詠の浸透者に勝つ手段がないはずなのだけど」
始まりの女、牙剝く者。それに浸透者?
初めて耳にする単語と情報に、脳内の思考が恐慌しかける。
「浸透者は全部で十三体。うち十二体はとても素直。けれど、最後の一体はとっても臆病で卑怯者。最後の最後まで隠れ続け、気づいた時にはもう遅い」
「......お主、何者かな。姿を現してもらえると助かるのだが」
終わる素振りを見せない少女の言葉を遮断し、ルーファは虚空を睨みつけた。
「あら。わたしは今までに何度も、何十回も何百回も、あなたと出会っているのだけれど?」
「......どういう意味かな」
「あなたがその事実を忘れてしまっただけ。そして、そんなあなたにわたしは何も望まない。わたしはもう、託すべき相手を決めたのだから」
何も望まない。
それが相手からの別れの挨拶であることが直感的に分かった。
「ま、待て──っ!」
今まで宙を舞っていた緋色の花が、屋上を離れて夜の彼方へと流されていく。
とさっ。
直後、何かが床に倒れた音。それも自分のすぐ背後から。
「......なにっ?」
最初からそこに倒れていたのか? 自分が気づかなかっただけ?
床に倒れていたのは、エイダと同い年ほどの少女だ。今まで咲き誇っていた緋色の花と同色の髪をした、長身の少女。病人が着る白衣──まさか、クルーエル・ソフィネット?
医務室から突如姿を消していた彼女がなぜここに。
......しかし、なんと美しいのだ。
気を失ったままの少女を抱きかかえ、ルーファは嘆息にも似た吐息をついた。
純粋な顔かたちはもちろんそうだが、今こうして目を閉じている彼女は、人を惹きつける超然とした、霊的な美貌を兼ね備えていた。何がどう美しいのかも分からない。なのに、彼女を見ていてふるえが止まらない。サリナルヴァからの報告にあった写真を見た時には、こんなふるえは起きなかったはずなのに。
──目覚めている時より夢を見ている時の方が美しい。そんな人間と出会ったのは初めてだ。
「......だが、それを考えている時間はないな」
祓戈を左手にしたまま、自分より背丈のある少女を背中と右手で負ぶう。既に深夜零時を回っている。集合の場所へと急がなくてはなるまい。
「やれやれ、どう報告したものか」
詠につられてのこのこと屋上まで赴き、謎の相手には逃げられた。屋上に寝ていたらしきこの少女にも気づかなかった。
我ながらとんだ失態もあったもんだ。







「そうか......〈夜〉がクルーエル・ソフィネットに接触しようとしたから、わざわざ姿を現したのは自分に対する威嚇というわけか、アマリリス。真言を皮肉のためだけに用いるとは。アマリリスと名乗るだけのことはある」
じっと見つめていた女子寮の方角から目を逸らし、シャオが苦笑気味に肩をすくめた。
アマリリス? 表情には出さず、心の内でエイダは眉をひそめた。
「クルーエル・ソフィネットが好む花の名前であり、同時に彼女が抱く真精の名でもある。アマリリス──その花言葉が『おしゃべり』だというのは知っていた?」
アマリリス。緋色の花弁を持つ小さな花。クルーエルが名詠の練習で時折名詠していたのを見たことがある。
「黎明が近づくほど花は早く開花する。......黎明の神鳥を詠び出した回数は既に三回、でもそれにしても早すぎる。つまり、それほどクルーエル・ソフィネットの器が優れていたということか」
口調を何一つ変えぬまま、シャオがわずかに唇の端をつりあげた。笑いでも嗤いでも微笑でもない。自嘲の表情だった。
「一つ喩え話をしてあげる。かつて、ヒトがその身を真精に移すという奇跡がたった一度だけ起きたことがある」
ヒトが、真精に?
「噓か真か判断するのはあなた。けれど考えてほしい。ヒトと真精の違いはどこにある? 詠び出すものと詠び出されるもの? 本質はそこにはない。ヒトも真精も、〈全ての目覚める子供たち〉は全てが等しく〈全ての約束された子供たち〉なのだから」
諭すかのようにシャオが言葉を綴っていく。それはどこか、自作の物語を朗読する詩人のようだった。
「そして現代にもまた、自らの心に潜在的に真精を宿した少女がいた。その真精は少女が名詠を使用するごとに〈花〉としての力を開花させていく。だからこそ、少女は潜在的に名詠の行使を怖れていた。そう、あなたのクラスメイトでもある、緋色の髪の少女だ」
緋色の髪の少女。
その言葉でエイダが思い浮かべられるのは一人だけだった。
「しかしそれでも少女は名詠を使わざるを得なかった。予定運命がそれを許さなかったから。そしてその中で、少女は自らの内で目覚めつつある真精と向き合うことになった」
競演会で。夏期合宿での研究所で。そして、ミシュダルの侵入で。
確かに、クルーエルはここ一か月の間で尋常ならざる名詠を次々と行使した。しかしそれが、名詠を使えば使うほどクルーエルを苦しめていただなんて。
「そう。少女の心がその真精とクルーエル・ソフィネットとのせめぎ合いで張り裂けそうになっている。突然の昏倒はまさにそれが原因だ」
にわかに頷けるような内容ではない。だがそう解釈することで、あれほど難解に絡まり合っている謎のほとんどが整然と繙ける。......信憑性は低くない。
「そしてこれだけは言える。今のまま真精とクルーエルの意識が衝突を続ければ、クルーエルという器そのものが根本から砕け散る」
「──っ!」
昏睡と高熱。彼女の身体が長く保たないことは誰もが知っていることだ。
「......どうすればいいんだっ。どうすればクルーエルを!」
「それは自分にも分からない。自分も、今はまだクルーエル・ソフィネットを失うわけにはいかないのだけれどね......」
やはり、こいつもクルーエルが目的?
「お前の目的、聞いてなかったな。クルーエルが必要ってどういうことだ」
「今の段階では、名詠式の存続かな。夜色名詠に〈始まりの女〉という調律者がいるように、空白名詠にも調律者が必要だから」
感情を交えず、ただ淡々とシャオという人物が告げる。
「この時代において空白の真精を心に宿した者、それがクルーエル。そしてそれに付随する重大な問題がある。もしクルーエルと彼女に宿った真精が互いに衝突を続ければ、当然空白名詠には影響が出るだろう。だけど、始まりの名詠たる空白名詠に支障が出た時、空白名詠から派生した五色の名詠はどうなると思う?」
「────五色の名詠だとッ?」
空白名詠を支える真精が消えれば空白名詠に影響が出る。そしてそれが他の名詠色にも影響を及ぼすとでも?
「それは実際に起きてみないと分からない。だけど、あまり良い現象が起きるとは思わない方が賢明だろうね」
この場に及んでもなお、シャオの眼差しからはその真意が読み取れなかった。
いやそもそも、感情はおろか性別や年齢すら予想もできないのだ。自分たちと同じ学生のような外見ながら、何百歳と言われても信じてしまいそうになる落ち着きを感じる。
「アルヴィルにも言われたよ。『お前さ、結局男なのか女かハッキリしてくれ』って。別にどちらだっていいと思うんだけどな。年齢に関しては『アルヴィルよりは下だよ』って答えたけどね」
くすっと、はにかむようにシャオが表情をゆるませる。
「アルヴィル、まさか!」
「そう、あなたの知ってるアルヴィル・ヘルヴェルントのこと。自分の数少ない知り合いの一人」
自身の胸元に手をあてシャオが微笑む。初めて見る、この人物の紛れもない笑顔。
「......あいつはどこにいるんだ」
激昂しそうになるのをぎりぎりで堪え、奥歯を嚙みしめながら声を振り絞った。
「そう言えば、彼からあなた宛てに『あいつによろしく伝えてくれ』って伝言を預かっていたんだ」
「──ふざけるなっ!」
祓戈の鎗先を相手の喉元に突きつけてエイダは吠えた。
「勝手に行方をくらましておいて何がよろしくだ! ルフ爺やあたし、他のみんながどれだけ心配してたのか分かってるんだろ!」
「『今会うとクラウスの旦那に本気で殴られそうだから、ひとまず隠れてみるか』とも言っていたかな」
「......アルヴィルはどこにいるんだ」
「それは──」
何かを言いかけ、突如、シャオがその瞳を見開いた。
まるでこちらのことを無視するかのように周囲を見回す。あくまで落ち着いた仕草ながら、それでも周囲の様子を警戒するような仕草。
「──なるほど。アマリリスが出てきた理由はこれもあったのか」
吸い込まれそうなほど無垢な黒瞳を細めるシャオ。
「灰色名詠を扱うミシュダルという男、知っているでしょう」
「ああ、知り合いとは思いたくないけれど」
「彼がツァラベル鱗片と接触したらしい。ツァラベル鱗片とは〈孵石〉の中身の触媒であり、始原の触媒でもある。それが彼の灰色名詠と反応して、一時的に灰色名詠が空白名詠の属性を帯びてしまったらしい」
──次から次へと訳の分からないことを。
このシャオが空白名詠というものを扱うのは今この目で見ている。空白名詠とやらが現実に存在するのもまだ理解できる。
しかしミシュダルの灰色名詠がその属性を帯びたとは?
「どういう意味だ」
「灰色名詠が別のものに変化したということ。〈孵石〉は触れたと同時に強制的に名詠を引きずりだしたでしょ? あの触媒は本来、空白の名詠に用いられるべき空白の触媒。そう、真精たるアマリリスを詠び出すためのね」
ミシュダルが持っていた灰色の〈孵石〉。当人の言葉をそのまま借りるならば、それは究極の触媒だという。それがそもそも、空白名詠のための触媒?
「〈孵石〉の外殻はあの触媒の効果を抑えるものだった。しかしその原触媒を直に使用することで、ミシュダルの灰色名詠が空白名詠の属性を得てしまった。ミシュダル自身はまだ始まりの島に留まっているけれど、その名詠生物たちは既にこの学園に忍び寄ってきているらしい」
表情を隠すようにフードをかぶり直し、シャオが身をひるがえす。隣に佇む空白者の如く、みるみる内にその身体が周囲と同化するように透けていく。
「──待てっ、逃げるのか!」
「あいにくと自分は浸透者に対抗するような名詠は使えないから。それに、アマリリスにも睨まれているようだしね」
稀薄になっていく気配。周囲の虚空と混じるように身体が消え、フードにおおわれた頭部が最後に残る。
「気をつけた方がいい。浸透者はクルーエル・ソフィネットを狙っている。かつてアマリリスが封律したラスティハイトを捜し求める王の部下たちは、きっと彼女をアマリリスと誤認して襲ってくる」
クルーエルを狙うだと?
「────来た」
そう言い残しシャオという人物が消失する。そして。
ars la azy peg Weo
どこか遠くから、呪詛にも似た奇怪な雄叫びが響いてきた。
五奏 『アマリリス踊る、狂えよ世界の調律』
1
......クルーエルさん。
意識を失ったまま横たわる彼女の手を、ネイトは両手で握りしめた。
総務棟の玄関。それが当初予定されていた集合の場所だ。見知った顔の少女をルーファ老人が負ぶってやってきたのは、約束の時間を十分ほど過ぎた頃だった。
「クルル、女子寮の屋上にいたんですか?」
狐につままれたように目を丸くするミオに、こちらも苦々しい表情でルーファ老人が頷いた。
「ああ。儂にもまるで事情が摑めんがな」
「ルーファさん、でもどうやってクルーエルさんが女子寮の屋上にいるって分かったんですか」
学生寮は特に夜間の目が厳しい。女子寮に外部の老人が入るならなおさらだ。それこそ、クルーエルが女子寮の屋上にいると確信がない限りは立ち入らぬはず。
「それがな、儂にも分からん」
分からない。彼女を見つけておいて分からないとはどういうことだろう。
「ご隠居、らしくありませんわね」
苦笑の面持ちでティンカが腕を組む。
「いやはやまったく。どこからともなく詠が聞こえてな。それに誘われるように行き着いた場所が女子寮の屋上だった」
──詠?
「ちなみにどんな詠だったのです?」
「何とも言えない......そう、言葉で語れぬ旋律だった。荘厳で神秘的で、寂しさにも似た冷たさの中に美しさがあるような」
......同じだ。僕が聞いたのと。
一年生校舎で聞こえて、気づいたら屋上に辿り着いていた。詠。花。クルーエルさんがいる場所には、必ずその二つが付きまとう。
それはつまり──
「それにしてもエイダちゃん遅いですね」
ネイトの思考がまとまらぬうちに、ティンカが珍しく嘆息する。
そう。約束の時間に間に合わなかったのはルーファ老人だけではない。三年生校舎と四年生校舎周辺を探索に出ているはずのエイダもまた、姿を見せていないのだ。
「ん~、まあエイダは一番遠いとこ見に行ったからかな」
腰に手をあててミオが周囲を見回す。
「いや、来たようだぞ」
老人が顔を向ける方向、まず目についたのは金属製の長鎗だった。常夜灯の下、祓戈を小脇に抱えて駆けてくるエイダの姿。彼女にしては珍しく、走りながら息を切らせているようだった。
「あ、あれ。クルーエル見つかったの?」
ネイトがクルーエルを背負う姿に、エイダが呆気にとられたように声を上げる。
「はい、ルーファさんが女子寮の屋上で見つけてくれました」
「......ちくしょう。本当に女子寮の屋上か」
途端、唇を嚙みしめるようにエイダが表情をしかめた。──何か様子がおかしい。
エイダの微細な表情の変化をネイトは食い入るように見つめた。普段のエイダならクルーエルが見つかったことを素直に喜ぶはず。なのになぜ、今回はそれを悔しがるかのように拳を握りしめているのか。
「エイダちゃん、そんなに息切らせちゃって。そこまで無理して慌てて戻ってこなくても良かったんですよ?」
「いや......それはいいんだ」
隣に並ぶティンカにエイダが首を振る。
「『もし興味があるのなら女子寮の屋上へ行くといい』か。くそ! あいつ、本当に何から何まで見通しているってのか」
「あいつ?」
すっ、とエイダが顔を自分へと向けてきた。
「ちび君、Xeoって奴知ってるかい」
Xeo。セラフェノ音語において夜を意味する。
ネイト──Neightと名付けられた自分と、まるで対称的な意味だ。
「いいえ。その人、学園の生徒ですか?」
「多分違う。なんか妙な奴だった。男か女かも分からない変てこな奴で、ちび君とクルーエルを気にしてた」
僕とクルーエルさんを?
「うん。物凄く不気味なくらい、何か裏事情を知ってるような感じ。そいつが言うには空白者ってのが、この前あたしが女子寮で出くわした目に見えない名詠生物らしい。だけどそれ以外に、灰色名詠が空白名詠の属性を帯びた浸透者ってのがいて、なんかその浸透者ってのが......んー良く分かんないけどさ」
エイダが言葉を続けようとした矢先。
「『今の夜色名詠では灰色名詠の浸透者に勝つ手段がない』」
彼女の言葉の後を継いだのは、今まで沈黙していた老人だった。
「ルフ爺?」
「儂も似たようなことを女子寮の屋上で聞いた。雲を摑むような話だが、エイダの話と総合するに、あながち噓とも言いきれんようだな」
......灰色名詠の浸透者に、今の僕の夜色名詠では勝つ手段がない?
「でも、勝つとか勝たないとかってどういうことですか。僕は別に誰とも勝負なんか」
「シャオって奴が言うには、なんかミシュダルの名詠生物がまだクルーエルを狙っているらしいんだ」
言葉と共に、その視線をエイダがにわかに鋭いものへと変える。
......灰色名詠の浸透者?
灰色名詠。一度は学園の図書管理棟で撃退したはずの名詠だ。しかしそれが空白名詠の属性を帯び、浸透者という存在に変化したという。今の僕の夜色名詠ではその浸透者には勝てない──それはつまり、今の僕ではクルーエルさんを守れないということなの?
「......そんなの嫌だ」
喉の奥に溜まる苦い感情を、ネイトは無理やり呑み下した。そもそも浸透者が何なのか分からない。だがそれでも、母が遺した夜色名詠を馬鹿にされたような憤りと、クルーエルを守れないと宣言されたような悔しさが胸を押しつける。
「なあルフ爺、そいつもしかしてアマリリスって名前の奴か?」
アマリリス。
ここ数日、自分の頭の中でずっと意識の奥にひっかかっている花の名前。
「どうかな。儂が出会った相手は名前を名乗らんかった。その何者かは、どうも儂など眼中になかったらしい。そいつが意識していた相手はどうも今の話を聞くにシャオという輩、そしてネイト、お主らしいな」
......シャオという人、そして僕。
「夜色名詠と空白名詠は非常に近い。確かそのようなことも言っていた」
異端のはずの夜色名詠に近い色。そんなものが実在するのか。ネイトにとってもそれは容易に信じられるものではなかった。母がいなくなって、夜色名詠の詠い手は自分だけ。他に誰もいない孤独の色だと思っていたからだ。
「あーちょっと待って。こんがらがってきた。頭がパンクしそう」
祓戈を地に突き刺し、エイダが苦悶の表情で悲鳴を上げた。
「まず空白名詠を使うシャオってのがいる。それとルフ爺が屋上で出会った相手、こいつを暫定的にアマリリスって名前だとする。この二人はどちらもクルーエルを気に掛けている。ここまではあたしがシャオから聞いた話だ」
ネイトが背に負うクルーエルを、そしてネイト本人を彼女が交互に見比べる。
「そして、その二人がもう一人気に掛けているのはちび君とその夜色名詠。ルフ爺がアマリリスから聞いたことは、夜色名詠は空白名詠にとても似ているということ。それと、えっと......」
言いづらそうにエイダが口調を弱める。彼女が何が言いたいかは瞭然だった。
すなわち、今の夜色名詠では灰色名詠の浸透者に勝つ手段がないというもの。
それはなぜ──僕が何か大切なことを見落としているから?
肥大化する謎。解決の糸口すら見出せぬまま、ネイトは背に負うクルーエルを担ぎ直した。刹那。
ars la azy peg Weo
生温い風が吹いた。凶暴な獣の吐息を想起させるような風。廃棄物がもたらす腐乱臭にも似た、鼻を突く臭いまでもが混在する風だった。
「え、え......今の風?」
ミオが周囲をせわしく見回す。それを、老人の一喝が押し止めた。
「皆、動くな!」
同時、まず真っ先に祓名民の二人が動いた。
「──何かいる」
エイダに至っては、いつの間にか祓戈を片手に臨戦態勢へと移っていた。
......今の風はただの風じゃなかった?
耳を澄ますが、ざわざわと、木の葉が風に揺れる音しか聞こえない。周囲に目を配るも、変わらぬ学園の風景が広がるばかり。だが。
「何者かは知らんが、姿を現してもらおうか!」
懐中から球形の飛礫を取り出し、老人が突如、正面の虚空目がけて投げつけた。
ガッ
飛礫が、一見何もない空間で打ち落とされる。
「エイダ、そこだ!」
老人の指示より早く祓名民の少女は動いていた。
祓戈を携え、エイダが地を滑るようにその場へ距離を詰める。右手で祓戈を構え、流れるような動作でその鎗先を振るい──
その直後。
「っ!」
少女が、あまりに突然に真横へと吹き飛ばされた。
「エイダさん!」
初めて見た。エイダが床に叩き付けられる姿を。
「痛ぅ。......空白者よりも凶暴か。シャオとかいう奴の話も噓じゃなさそうだ」
かろうじて祓戈で不可視の攻撃を防いだのか、よろめきながらエイダが起き上がる。
「エイダっ?」
「ミオ動くな、目に見えない何かがいる。一体かと思って油断してたら別の奴に一撃喰らった。こいつら一体じゃない! 五体......いやそれ以上だな......既に囲まれてる!」

囲まれている。エイダのその警鐘に呼応するかのように、周囲の風鳴りが一層強まった。
目に見えない何か──まさか、これが浸透者。目に見えない名詠生物?
ars la azy peg Weo
ぞっとするほど近い場所。耳打ちされたのではないかと錯覚するほど近い場所で、呪詛にも似たセラフェノ音語が響いた。詠ではない、純粋なまでの怨念の唱和。
それは自分と、自分が担ぐクルーエルのすぐ背後から......
──『Ruguz』──
目の前に、自分たちを覆うように水流の薄膜が現れた。
同時、その薄膜が大きく歪む。誰かが名詠した水流の壁が、目に捉えられぬ浸透者の攻撃をブロックしてくれたらしい。
だけど、今の名詠は誰?
「夜は静かに、自らの知性を磨く時間だ。相手が普通の生徒ならそう諭すんだがな」
抑揚のない、感情を押し殺した男性の声。
青い研究服を羽織る教師が、慣れた手つきで眼鏡のブリッジを押し上げる。
「ミラー先生!」
「ネイト・イェレミーアスか。状況はいまいち理解しかねるが、間一髪だったようだな」
ミラー教師が見つめる方向。自分たちから十数メートル離れた場所では、エイダの祓戈が虚空を薙ぎ払ったところだった。
祓戈が何か鋭い物とぶつかる硬い音。まるで鎗で石像を殴ったような金属音だ。
「ちび君、ミオ、こいつらの狙いはクルーエルだ! 今すぐクルーエルを連れて逃げろ!」
エイダの怒号が夜をつんざく。
浸透者の狙いがクルーエル? その理由を推し量る前に、誰かが自分の肩を叩いた。
「この学園に立ち寄る前に目を通したサリナルヴァからの報告では、学生寮を抜けた先に、身を潜められそうな山林があったと記憶しています」
自前の黒鞄を提げるティンカ。
「誰を死守すべきか分かっているなら話は早いな。この大人数での混戦は同士討ちの可能性が高い。ここは互いに役割を託すべきだ」
そして、研究服から青い溶液入りのフラスコを取り出すミラー教師。
「......昔の記憶、か。まったく大人というのは不器用だな。滅多に過去を思い出さないくせに、一度思い出すとそれが懐かしくて堪らなくなる」
「え?」
「君の顔を見るとイブマリーを思い出す。不思議なものさ。君が転入してきたばかりの頃はそれほど強く感じなかったが」
知的な表情をわずかにほころばせ、ミラー教師が口元をつりあげる。
「俺もゼッセルもエンネも、あの時はイブマリーのことを信じてやれなかった。クラスは一緒だったが、あの時の彼女は本当に独りぼっちだったのかもしれない。だからこそ......君は独りになってはいけない。彼女が君にとって大切な人間なのならば、それは君自身が守らなくてはいけないんだ」
懺悔でも後悔でもない。ミラー教師の眼差しは、どこまでも前を向いていた。
「あの時の俺はその手伝いができなかったが、今この場で、微力ながら助力させてくれ。この場は我々が引き受ける。だからこそネイト・イェレミーアス、我々は君にクルーエルを託して構わないかな」
どこか幼くどこかいたずらっぽい彼の表情を、ネイトはじっと見上げた。
「──はい」
2
暗い、黎い空間だった。
ひどく寒くひどく冷たい風が音もなく過ぎる無音の空間。一筋の月影も一粒の星明かりもない孤独な場所。
『〈孵石〉の暴走、ミシュダルの侵入。シャオが現れたかと思えば次は浸透者。この学園も立て続けに災難に巻き込まれるわね。そうは思わない、クルーエル?』
自分にとてもよく似た声は、皮肉を呟くのに似た声音で告げてきた。
『もっとも、原因を突き詰めればわたしのせいになるのかしら。狂う世界の調律──わたしにとってはその方が都合が良かったのは事実だから』
黎明の神鳥じゃない。
ここ最近、黎明の神鳥の代わりにずっと自分に囁いてくる声だ。
あなた......誰なの。
無音の空間に自らの声は響かない。意識の奥底だけでクルーエルは問いかけた。
『わたしは〈花〉。永久に続く愚かな〈夜〉の約束に牙剝く者。夜明けを求め黎明を願い続ける、あなたを守るべくする心の一欠片』
あなたが、わたしを守る?
『そう。わたしの目的は本当にそれだけ』
......そんな助けなんかいらない。
わたしは今まで通りでいい。放っておいて。
『お願い、どうか信じて、愛しいクルーエル』
声が哀愁を交えた声音に変わる。まるで子供がむせび泣くように、その声はあまりに弱弱しく。にもかかわらず、その声は何よりも凜と張り詰めた旋律を持っていた。
『どうか怯えないで。わたしを受け入れてクルーエル。
わたしはあなたを心より愛し──
あなたを心より哀し
あなたを全ての残酷から我が身を以て守り通すことでしょう
全ての敵 全ての刃 全ての痛み、苦しみ
全ての権力 全ての策謀
いかなる歴代の王も 天恵の賢者も 歴戦の戦士も 愚かなる咎人も
大いなる宿命も 巡り巡るべく因果も 謀られた結末も
運命の悪戯 未来からの嘲笑 現在からの嫉妬 過去からの怨念も
全ての忘却 全ての約束も
いかなるものも、あなたを害し、傷つけ、縛ることはできない
夢の如き平穏の日も 崩壊を告げる嵐の日も
執拗なまでに冷たき雨の日も 荒野の吹き荒ぶ風の日も
狂う熱線の夏の日も 手足の凍れる雪の日も
あなたの最も近くであなたを見守っていた
あなたの心の最奥で、わたしだけがあなたを見守っていた
最も近く
最も強く
最もあなたを理解し
最もあなたを知り尽くし
あなたが殻から抜け出すことを
その全てを──最も待ち望んでいるのがわたしなのだから』
そう、それが──あなたとわたしの真なる名詠にして大母新約篇奏。
すなわち、アマリリス真言。
『だから、あなたもわたしに安らぎを与えて』
......わたし、あなたが何を言っているか分からない。
わたしは、誰かに安らぎなんて大層なものを与えられるわけじゃない。
『いいえ、あなたは誰より優しい詠を持っている。あなたは緋色だけどわたしは空白。さあ、空白のわたしを満たして、わたしに安らかな子守歌を聴かせて』
3
どれだけ息を吸っても呼吸が楽にならない。足の太ももが疲労に悲鳴を上げ、視界はぐねりと歪んで焦点が合わなかった。
総務棟前から学生寮まで、学生寮から学園敷地の外れにある山林へ。
だが、その山林の入り口でどうやってもこれ以上足が動かなくなった。前へ、一歩でも前へ。どれだけ心の中で強く念じても肉体が反応しないのだ。
「ネイト君、やはりわたくしが」
ティンカの提案を、今まで何度頑なに断り続けたことだろう。
「お願いです。僕に背負わせてください......僕、ちゃんと歩けますから」
その場で深呼吸を繰り返し、ようやく一歩だけ足が動いた。その足が止まる前にもう一歩。クルーエルを背負ったまま、ネイトはゆっくりと歩きだした。もう二度と足を止めちゃだめだ。次に足が止まった時は今度こそ動けなくなる。
でも、どういうことなんだろう。
目に見えない、浸透者と呼ばれる名詠生物がいる。それは現実に目の当たりにしたから紛れもない事実としてまだ受け入れられる。
だが、それはなぜこの学園にやってくる?
〝ちび君、ミオ、こいつらの狙いはクルーエルだ!〟
エイダの言葉を信じるなら、とにかくあの奇怪な名詠生物たちはクルーエルを狙って学園に集まっていることになる。
理由は分からない......でも、たとえそれが本当だとしても。
──絶対、絶対クルーエルさんを危険な目には遭わせない。
「だから、安心してくださいね」
背負う彼女からの返事はない。背中に伝わる彼女の体温。高熱にさいなまれ昏睡している状況。このままいつまでも背負っているわけにはいかない。どこかに寝かせて休ませなくては彼女の身が保たないのだから。
暗い夜道の先に、無数の木々が生い茂る山林が見えてきた。
「あの山林の中に逃げましょう。木々の密集した場所に隠れればさすがに見つかりにくいでしょうし」
黒塗りの鞄の中から携帯ランプをティンカが取り出す。
「そんなのも持ち歩いてるんですか」
「ええ。無所属の名詠生物学者として辺境を歩くことが多いですから。そういう意味ではカインツにも似てますね。ただ、わたくしは名詠が使えないのでこういった道具を持ち歩かなくてはいけませんが」
「......エイダとかミラー先生、平気かな」
ぽつりと、思い出したようにミオが顔を上げた。
その気持ちはネイトも同様だった。不可視の凶暴な名詠生物。それが何体いるかも分からない状況。あまりに不利な場面だ。
「特攻型の祓名民二人に補助役の青色名詠士。信じるしかないでしょうね──未知なる相手だからこそ、彼らの積み重ねてきた経験に賭けるしかありません」
強い言葉。それでもなお彼女の瞳は、不安の色を映すかのように揺れていた。
その眼差しが告げてくる。
決して、戦況は良くないのだろうと。







ぴちゃ......
背後で跳ねる水音に、ミラーは咄嗟に身を翻した。
直後。耳元を何か鋭い物が通り過ぎる。風圧か敵の切っ先に裂かれ、自分の髪数本が闇夜に舞った。
──文字通り間一髪というやつだな。
口元を引き締め、水に濡れた路面に着地する。
肉眼で捉えられない生物。ミラーの知る限り、それは大別して二パターン存在する。一つ目が擬態。蝶や鳥などには、周囲の景色に体色を同化させる種がいる。
そしてもう一つが、そもそも体組織が半透明状の生物。クラゲ、プランクトン、人の目の内部にある水晶体も透明だ。
「......だが、こいつらはそのどちらとも違う」
人と同等かそれ以上の体長を持った何か。それほどの巨体でありながら、視覚による感知がまるで不可能なのだ。この闇夜とはいえ、外灯の灯りの下に映る影も自分だけ。
光の屈折を操作? いや、それも腑に落ちない。
まるで、鏡の向こう側にいる敵を相手にしているかのような空虚感が付きまとうのだ。そう、あたかもこの世界の存在法則と別に存在しているかのような。
──『Ruguz』──
水の退いた路面一帯に、ミラーは再度大量の水を撒き散らした。土砂降りの雨が降った後のように、路面を薄い水膜が覆う。
ぴちゃ。
目の前で一箇所。背後に二箇所。水面に生じる微かな波紋。それはつまり、三体の名詠生物に囲まれているという証だ。
遠くで鳴り響く金属音。振り返る余裕もないが、自分から距離を置いた場所でも祓名民二人が奮闘しているはずだった。
「祓戈の到極者、さすがと言うべきかな」
彼らは相手の気配を察知し反撃しているようだが、自分はこんな小細工でもしない限り相手の位置を摑めない。苦肉の策だ。もっとも、それもいつまで保つか。
「......さて、時間稼ぎもそろそろ限界か」
せめて、相手の姿と位置を特定することができれば──







「こんな場所あったんですね」
星の光も学園からの外灯の灯りも届かない山林。トレミア・アカデミーに転入して二か月ほどだが、ネイトは今までこの場所には近づいたことがなかった。
「あたしも、知ってはいたけど来るのは初めてかも」
きょろきょろと、周囲を窺うようにミオが首をしきりに動かす。
それにしても薄気味悪い場所だ。
雨が降ったわけでもないのに足下はぬかるみ、歩くごとに靴底にべったりとした不快な感覚を残す。霧のように立ちこめる水蒸気に圧迫され息苦しさすら覚える。
「......なんか気持ち悪いね」
歩きながら、ミオがふるえた声音で小さく呟いた。
「この山林に詳しい者がいれば良かったのですが......とにかく先を進みましょう」
ペキッ。歩きながら、付近の木の枝をティンカが折っていく。
「ティンカさん、それは?」
「目印です。あまり奥へ行くと迷ってしまう可能性もありますので。もし浸透者とやらがこの山林まで追ってきてもばれない程度に抑えてはいますけど」
先導する足を止めぬまま、ティンカ。
「ネイト君、ミオさん。もう少し歩けますか」
背中のクルーエルを担ぎ直し、ネイトは首肯した。
「うん、あたしもまだまだ......」
そう言った途端、ミオが大きく体勢を崩した。地中に突き出た木の根に足をとられた。ネイトからはそう映った。
「......え? あ、あれ」
両目を見開き、地に両手をついた状態でミオが呆然と口にする。
「あたし、今どうして転んだの?」
「疲れが出たのかもしれませんね」
ティンカが苦笑気味に腕を組む。だが、本人はなお呆然とした面持ちのままだった。
「......違う。あたし、今誰かに──誰かに背中を触られた」
ミオの独白に、ネイトは今一度ミオへと振り返った。
誰かって、ミオさんの後ろには誰もいないはず。うん、人影はもちろん、背後には何の姿も見えやしない。そう、何の姿も見えないじゃないか。にもかかわらず──
「あ......あ......あれ?」
ミオの身体が浮いていく。
「ちょ、ちょっと待って。なに......これ」
両手をばたつかせる少女。両足が地面から数十センチ浮いた場所まで、まるで何かに襟元を摑まれ宙づりになるかのように。まさか、本当に何かがいる?
何かがいる。でもそれは姿が見えない。
まさか......
「ミオさん!」
今まで見せたことのない鋭い双眸で、ティンカが足下の泥土をミオの背後目がけて蹴り上げた。巻き上がる土が虚空に放たれ──それが、何もない場所で何かにぶつかった。
ルーファ老人が投げた飛礫と同じ現象。これはつまり。
「やっぱり、既に一体尾けられていたのね......!」
ティンカの表情が苦々しく歪む。
目に見えぬ名詠生物に摑まれたままのミオ。
だが、どうすればいい?
ミオを助けようとしても、相手の姿が見えなければ容易に手は出せない。
ars la azy peg Weo
王を返せ。またその言葉。一体それは──
浸透者が告げる言葉に、一瞬ネイトは気を奪われた。
「ネイト君、目の前まで来てる! 離れ──っ!」
慌てて駆け寄るティンカが、先のエイダ同様に前触れなく吹き飛んだ。
「ティンカさん!」
優に数メートル後方に吹き飛んでいくティンカ。密集した木の幹に背中から叩きつけられ、彼女が苦悶の声を上げる。
「こいつっ!」
──逃げるもんか。
背負っていたクルーエルを地に降ろし、懐中から触媒を取り出す。
そのつもりだった。だが。
「......ミオ」
自分の心中をそのまま投影したかのような少女の声が、すぐ背中から聞こえた。
「返......せ。お前こそ......ミオを返せ」
──クルーエルさん?
「その子は、わたしの大切な友達なんだから!」
自分の背中に寄り添いながらも、目をつむったままで彼女が立ち上がる。
Isa viaririsie Selah pheno sia-l- hypnei lue
──これは、あの時の。
la Se lu dilna Sem getie qhaon, ende dia quo EgunI peg ilis
la Se lu vilis Lom co, vilis Lomnuel, ende
arca-ol-meli siole elislef pheno
呼吸すらままならないはずの少女の詠。
しんしんと降り積もる冬の粉雪が土に触れ、そっと地中へ染み込むように。無音の山林に沁み入るように浸透していく冷たい音色。
時すら凍りつかせる至美讃歌。
ティンカも、浸透者に囚われたミオまでもが、全てを忘れ聴き入っていた。
Isa O la onc Ies EgunI
Isa O la da blooc leidelef elmei Ies sm EgunI
歌詞までは分からない。だがそれは......ネイトが一年生校舎で聴いたものとまるで同じ旋律だった。
Isa da boema foton doremren
Se wi lu meli-c-sion lan...lan......

──チリンッ
鈴を弾いたような音を立て、夜色の空間が罅入った。と同時、その空間を中心に周囲一帯が大きく歪曲していく。
「──姿が?」
ティンカが目を見開く。
ミオが宙づりになっている空間。そこに半透明ではあるが、何かがいるのがはっきりと視認できたのだ。歪んだ空間の中に、ぼんやりと白い霧が人の形に固まったかのような、不格好な形態の名詠生物。
今の詠で浸透者が実体化した?
「......ミオを......」
背中に寄りかかるクルーエルが、それを最後にぐったりと体重を預けてきた。
「クルーエルさん? しっかりし──」
突如、自分たちのいる山林に、瞼を灼く猛烈な光の奔流が押し寄せた。太陽を直視した時の、あの痛みにも似た光刺激に思わず目を背ける。
「ネイト君、ミオさんを連れて山林の奥へ」
──え?
ティンカの声に恐る恐る目を開く。すぐ隣に、今の今まで宙づりになっていたミオが、自分同様何が起きたか分からずきょとんと立っていた。
「サリナルヴァお手製の炸裂弾です。強烈な光と音を発生させるだけの爆弾ですが名詠生物に効くことは過去に実証済みでした。一か八か試してみましたが、どうやらあれにも効いたようですね。上手くミオさんを放してくれました」
ティンカの背後、よろめくように後ずさる名詠生物。
「ここで全員が逃げてもまた追いかけられるだけ。ならばここで一人が食い止めた方がよろしいでしょう?」
「で、でも......」
ティンカさんを囮にするような真似はご免だ。ティンカさんが残るくらいなら僕が──
「あら、もしや何か勘違いしていませんか。わたくしは囮になるつもりも犠牲になるつもりもありません。わたくしこう見えても、あれに勝つつもりでいますから」
場にそぐわぬ、あまりに柔らかな表情で片目をつむって彼女がおどける。
「それに、クルーエルさんの体調も依然危険な状態です」
背中に寄りかかったままの少女。
「先ほどの彼女の詠、あれは無意識中の行動に近かったのかもしれません。一刻も早く休ませてあげなくてはなりません。さ、お行きなさい。今彼女が必要とするのは、隣にいてあげられる誰かです」
ティンカの視線が痛いほど鮮明に告げてくる。今ここで時間を無駄に浪費することだけはいけない。それはあの場に残っているミラー教師やエイダの想いにも反することになるのだから。
「......はい」
だから、ネイトは再びクルーエルを背負った。
少年と、その隣に付き添うように金髪の少女が駆けていく。が、それを悠々と眺める余裕はティンカに残されていなかった。
「さて。どうしましょう」
浸透者が腕を振り上げる。その速度、自分の身体能力、周囲の状況。複合的な要因から最速で最上の行動を弾き出す。
回避可能? 否、木々の密集したこの場所では安直な回避策はむしろ不安定。
受け流す? 否、相手の膂力は自分のそれを凌駕する。不透明で霞みがかった身体ゆえ、正確な攻撃のタイミングも摑めない。
残ったのは──
「っ!」
両手を交叉させると同時、ティンカは後方へと小さく跳躍した。直後、巨大な鎚で殴られたかのような衝撃が両手の骨を軋ませた。
先と同じく、一撃で数メートル吹き飛ばされる。
だが、ティンカは先のように幹に叩きつけられはしなかった。幹に衝突する寸前、空中で身体をひねることで体勢を保持。かろうじて背中への衝撃を回避する。
「......痛ぁっ。サリナルヴァとの組み手で思いっきり蹴られたのを思い出しちゃった」
予想外の相手の反応に、浸透者が戸惑うように動きを止める。
「名詠士ではありませんが、わたくしとて狼に狙われるだけの羊ではありません」
そもそも自分が単なる非力な女性ならば、クラウスは自分を〈イ短調〉に選んだりはしない。ルーファ老人も、そんな足手まといになるだけの女性を自身の相方として認めることもないだろう。
「サリナルヴァから色々と護身用の発明品も受け取っていますし、まあ何とかしますわ。ですからネイト君、約束して」
全ての謎を握っているであろうクルーエル。彼女を託した少年に向けてティンカは告げた。恐らくは、これが大人のできる唯一の助力。
大事なことを忘れた大人。
ならばこの先は──
「今あなたが背負っている少女が、わたくしたちが追っている全ての謎を解く鍵を握っている。彼女の謎の昏睡、高熱、名詠式。そしてそれらの全てを解かない限り、きっとクルーエルさんは助けられない。だからこそ──」
彼女のために、あなた自身のために、あなたの愛する者を守りなさい。
4
Isa da boema foton doremren
Se wi lu meli-c-sion lan...lan......
どこからか響いてきた旋律が周囲に展開。
その波長を受け、不可視の名詠生物が目視できるように実体化した。竜巻が人形を成したかのように、可視の風が渦巻いたような半透明な名詠生物。空間が歪んで人形になった、そう喩えるのが最も近いのだろうか。
──しかし、今の詠は一体何なんだ。
変わらず襲いかかってくる浸透者から距離を置き、ミラーは心中で自問した。どこかで聞いたことのある歌声。学園の教師ではない。ならば先のは、生徒の誰かの詠?
「......考えている暇はなさそうだな」
自分を取り囲む三体。そのどれもが無傷。実体化したことで反撃の目処はついたが、圧倒的に不利だった天秤を水平線上に戻しただけだ。
触媒の人工サファイアを取り出す。と同時、甲高い金属音が鳴り響いた。
祓戈を地に落とし、苦しげに息をつく老人の姿。
「爺っ?」
張り裂けるようなエイダの声。
ルーファ老人の方向に視界を向け、ミラーは声を失った。
自分を取り囲む相手は三体。エイダもまた三体。
──が、老人の周囲にはその倍の六体の浸透者が群れるように集まっていたのだ。
今の今まで、たった一人で六体を相手に?
いくら歴戦の使い手とはいえ、既に齢は七十近い。体力が保つはずがない。
......俺たちが至らなかったからか!
自分やエイダが自分たち向けて襲いかかる浸透者の相手で手一杯だった時も、この老人だけは冷静に戦況を見つめていたに違いない。その上で、自ら囮になる役を。
が、それもとうとう限界に達したのだ。
祓戈を握る力すら残っていないのか、ぐったりとその場に膝をつくルーファ老人。
「爺っ!」
周囲の浸透者をふりほどき、エイダが老人の下へと駆ける。
だが。それはミラーの目からも明らかに遅かった。
エイダが駆けつけるより早く、周囲の浸透者が次々と老人目がけて襲いかかる。
sheon lefpedi-l-neenrien-c-soan
荘厳な響きが聞こえた。
何百年と地に根を下ろした大樹のような、鋭く厳しく、それでいて全てを包み込む圧倒的な包容力を思わせる旋律が。
yuns riena lins,leide ecta olfy,zea ora vie
jes raswel via elma,elmei pheno da celena
elma zay os tera, ars yun emne jes turia
突然流れてきた奏に、浸透者たちまでもが狼狽えたように動きを止める。
──この詠は!
miqvy, xaln lef wop neckt lihit clar
ife I she cooka Loo zo via
Isa Lor bestida fotona-c-wop =ende via
O kia quo ravience hid, bekwist xaln neckt ele
巨大な何かの、闇夜をつんざくような咆吼が学園にこだました。
深緑色の翼が、今まさにルーファ老人に襲いかからんとしていた浸透者を尽く打ち払う。
夜の帳をその爪で切り裂かんとするかのように、悠然と空を疾走する巨大な竜の影。
「疾竜。まさかこれは!」
緑の第一音階名詠。ミラーの知る限り、この竜を従える名詠士は学園にただ一人。
「ふむ、どうしたルーファよ。ワシの知っているお前は、これしきのことでへこたれるような奴ではなかったと思うが」
トレミア・アカデミーを創設し、自らその長という大役を背負う名詠士。
学園の教師全てが慕い、そして目標とする偉大なる老士。
後光の如く、常夜灯がゼア・ロードフィルその人を照らし出す。
「......まったく。あんまり遅いものだから、通信を見てもらえなかったのではないかと不安でしたよ」
「ごめんなさいね。こちらも別の場所の警備に当たっていたものだから」
老人の脇に控えるのはジェシカ教師長。
数十分前、教師控え室で何者かの姿を見かけた際に連絡を入れておいたのだ。もっとも、実際その連絡が二人に届くかどうかはミラーにとっても賭けだったが。
「そういうことだ。すまんなミラー君」
いつになく軽い足取りで、学園長が祓名民の老人の下へと歩み寄る。
「とにかく、ほら、さっさと立たんかルーファ。それとも、この程度でまいる程おいぼれおったか?」
「......ちょっと待ってよ学園長。爺は今の今までずっと──」
老いたる祓名民を罵倒するような台詞を吐く学園長。その様子にエイダが怒り混じりの表情で詰め寄った。
「いや、いいんだエイダ」
あろうことか、それを押し止めたのは当のルーファ老人だった。祓戈を支えに、祓名民の長老がゆっくりと身を起こす。身体は疲労でふらつきながらも、その眼光は先にも増して爛々と輝きを放っていた。
「ほう、まだ動けそうだな」
「何を寝ぼけたことを。今までがあんまり楽な相手で、退屈のあまり寝てしまうところだっただけのことよ」
不敵な笑みを返すルーファ老人。
「......あ、あれ。爺まだ元気?」
目を丸くするエイダをよそに、歴戦の使い手たちは互いに自らの背を預ける格好で。
「それより、お前こそ久々の名詠でもう息が上がっとらんか?」
「吐かせ。ワシはまだまだここからだ」
にやりと、互いに目配せし。
「......背中、預けて良いかな」
「無論。老いたりとはいえ、今の若者に恥じぬ名乗りをあげたいものだ」
夜空に、学園に、彼らの魂ふるえる誓いが轟いた。
『──上等、それでこそ我が生涯の友よ!』
間奏・第三幕 『謳う決意の調べ』
1
闇にも似た木々の影を潜り抜け、視界の不明瞭な山林をネイトはひたすら進んでいった。不安が絶えない。恐怖に駆られ背後を確認。十数秒に一度背後を振り返っては、先の浸透者がいないことに胸をなでおろすことの繰り返しだ。
誰もいない。でも、なぜだろう。
先から妙に背中がむずがゆい。誰かの視線をじっと受けているかのような。
「ネイト君、どうしたの」
「何か、さっきから何かに見られている気がして」
すると、ミオもまた表情に陰を浮かばせて頷いた。
「......うん、正直あたしも不安なんだ。あんな目に見えない奴がいるんだもん。いつ後ろにいるか分かったもんじゃないし。あたしだってさっきから後ろ何回も確認してるからね」
そうすると、やっぱりこれは不安から来る錯覚なのだろうか。
〝ちび君、ミオ、こいつらの狙いはクルーエルだ!〟
......なんで、クルーエルさんを狙うんだろう。
クルーエルさんは何もしてないじゃないか。こんなに優しくて思いやりがあって、なんでクルーエルさんが狙われなきゃいけないんだろう。
言い様もない怒りに、ネイトは唇を嚙みしめた。
2
「──どうやら一通り片づいたらしいな」
祓戈を杖代わりに地に刺し、ルーファは額に浮き出た大粒の汗を拭った。
息は荒れ、装束もあちこちが擦り切れているが、出血の激しい傷はない。強烈な打撲で骨が何本か軋んでいるが、完全な骨折までには至っていない。
「皆、具合は」
学園長をはじめ、名詠士三人は距離をおいての戦闘なので外傷らしきものも少ない。エイダはといえば、肘や肩先に血の滲んだ擦り傷が破けた運動着から覗いていた。もっとも、彼女はそれをさして気にした様子でもなかったが。
「ん? ああ、あたしは平気だよ。こんなんツバつけとけば治るし」
「なるほど、クラウスが無鉄砲ぶりは変わっていないと言っていたが......相変わらずの特攻ぶりは本当に昔から変わらんな」
「いいのいいの、それがあたしの流儀なの!」
肩を怒らせるエイダに、ルーファは久しく忘れていた苦笑を洩らした。
「いやいや、儂はまんざら嫌いじゃないぞ。今の祓名民には男でもお前のように暴れる者が少なくてな」
「......褒め言葉に聞こえないっての」
ぶつくさと呟くエイダ。その脇で、ミラー教師が一人周囲の様子に目を配っていた。
「失礼、浸透者とやらが何体侵入していたのか確認したいのですが」
「学園長と私で五体、だったかと」
しずしずとジェシカ教師が告げる。さすがに真精は強力だった。疾竜一体だけで場の戦況をひっくり返したと言っても過言ではない。
「あたしは三だったかな。あんま自信ないけど」
「自分は一体です。まあ、補助役に徹していましたので」
頰を搔きながらのエイダに、戦闘の最中に歪んでしまった眼鏡を取り替えるミラー。
「ふむ。儂が二体だから、計十一体かな......ん?」
懐中の機械的な呼び出し音にルーファは眉をひそめた。懐中をまさぐり、手のひら大の黒塗りの機器を取り出す。
「それは?」
「サリナルヴァの奴が実験でつくった携帯用の通信機だよ。儂はもっぱら音響鳥の方が良いのだがな、あいにく儂とティンカの組はどちらも名詠式が使えんので、仕方なく持ち歩いてるのさ」
興味ありげな視線で訊ねるミラー教師。ルーファは彼にその機器を手渡した。
「すまん、儂はこういう機械はだめでな。代わりに出てくれんか」
「ああ、了解しました」
慣れた様子で機器を操作する教師。
『ご隠居、そちらはどうですか』
機器から聞こえてきたのは〈イ短調〉の女性の声だ。
「教師のミラーです。何とか一通り掃討したかと。どうやら十一体ほどこの学園に侵入してきていたようです」
『なるほど。それではわたくしも一体退治しましたので、十二体でしょうね』
「あなたが?」
驚きを含ませるミラーに、女性の小さな笑い声が聞こえてきた。
『はい。一体わたくしたちを尾けていたようです。......さすがにわたくし一人では厳しかったですが、サリナルヴァの対名詠生物用の発明品に助けられました』
「無事で何よりです。ところで、生徒三人は?」
『クルーエルさんを背負ったネイト君やミオさんはもう少し山林の奥へと避難させました。どの方向へどこまで逃げたかはちょっと分からないのですが、捜して合流しますわ』
「分かりました。では後ほど」
通信を終了したミラー教師から通信機を受け取った。
「ティンカさん及び生徒三人も無事なようです。四人で合流してからこちらに向かうとのことでした」
ミラーの報告に周囲の者が安堵の息をつく。
「それにしても十二体か、手こずるわけね」
やれやれと息をつくジェシカ教師。だが実際その通りだ。彼女と学園長が加勢に加わっていなければ今頃どうなっていたことか。
「十二か。そう言えば、灰色名詠の真精と二回くらいやりあったけど、そいつの周りに浮いてる守護剣の数も十二だった記憶があるよ。こいつらがミシュダルの灰色名詠と関連があるってのはシャオって奴が言ってたんだけどさ、それなら十二体って数も割と正確な気がする。倒し洩れもないんじゃないかな」
祓戈を片手に、エイダが緊張の表情をかすかにやわらげる。
......十二体?
心中、ルーファは微細なひっかかりを感じた。
「ふむ。一件落着と言ったところか」
一方では、ゼアを含め他の仲間も一様に安心しきった様子。
......待て。何なんだ、この胸騒ぎ。
小さな疑念が、時間を経るにつれ徐々に肥大化していくのを感じる。十二。その数、どこかで聞いた覚えがある。そう、本当につい最近──
〝浸透者は全部で十三体〟
そうだ。あの得も言われぬ謎の詠に導かれた先の、女子寮の屋上で。
謎の相手が、確かにあの時告げてきた。
〝うち十二体はとても素直。けれど、最後の一体はとっても臆病で卑怯者。最後の最後まで隠れ続け、気づいた時にはもう遅い〟
......最後の一体......もう遅い?
そんな馬鹿な。ここにいる仲間はいずれも屈指の手練れ。たとえ浸透者とやらが残っていたとしても、まだまだ戦えるだけの余力を残している。そもそもだ、ここにはもはや浸透者の影も形も──
「ねえ、ティンカたちまだかな」
......まだ帰ってこない?
何の気なくエイダが呟いた言葉に、ルーファは背中が凍りついた。
「ミラー君、ティンカは今、生徒たちとは別の場所にいると言っていたな」
「ええ。じき合流するかと思いますが」
〝けれど、最後の一体はとっても臆病で卑怯者〟
......まさか、卑怯者というのは!
「いかんっ! ミラー君、今すぐティンカと回線をつなげてくれ!」
「ん? どうかしたのか爺」
首を傾げるエイダに応える余裕もなく、ルーファはミラーに通信機を投げ渡した。
「急げ、ネイトやクルーエルたちが危ういぞ!」
「......どういうことですか」
「浸透者は十三体目がいる、恐らくはそいつこそが今回の親玉だ! 今までの十二体は全て、儂らの目を欺くための囮に過ぎん!」
そう、最後の一体がいる場所は──
2
「......ネイト君。もう、いいかな」
息を切らせながらミオが立ち止まるのを見、ネイトもその場で足を止めた。
正直、自分も体力の限界だった。クルーエルを背負ってここまで走りっぱなし。自分たちの身が危うい状況とはいえ、よくここまで保ったとも思う。
「どこかクルーエルさんを休ませてあげられそうな場所、ないでしょうか」
地面は湿気を帯びて半ば泥状。うかつに寝かせるわけにもいかない。
「う~ん、ちょっと周り見ても見当たらないね」
呼吸を整えようと、ミオがその場にうずくまる。
互いに息を整える間の、一欠片の沈黙。しんと静まりかえる山林。草木も眠る刻があるというが、まさにこの山林全体が眠っているかのような静けさだ。
そして、不安だった。残してきたエイダやルーファ老人、ミラー教師。彼らは無事だろうか。それに、たった一人で浸透者を相手にしているであろうティンカ。
──僕たちは、本当に沢山の人に助けられてる。
それを悔やむことはいけない。悔やむことを、その人たちは望んでいないのだから。
「クルル......治るのかな」
乾いた静けさの中、山林にミオの声がこだました。
「治ります、絶対」
大樹の根元、わずかに地面から顔を出した根を台座代わりにし、意識のないクルーエルをそこに座らせた。大樹を背もたれにして寄りかかる彼女を眺め、ようやくネイトはミオへと振り返った。
小声で話していてもそれがかなり大きくこだまする。一心不乱に相当奥へ進んだせいか、微かな風もここまでは入ってこないらしい。
パキッ
枝が折れる音に、ネイトはミオと同時に顔を持ち上げた。
「ティンカさん?」
パキッ
再び、枝が折れる音。地面の枝を踏みしだきながら歩いているのだろうか。
「あれ、ティンカさん? あたしたちこっちです」
返事のない相手にミオが首を傾げる。
......なんか変だ。
なぜ返事がない? そもそもティンカさんなら、自分たちを捜すためにもっと遠くから呼び声が聞こえていたっていいはずだ。なのにそれがない。それはまるで、自分たちの居場所を最初から知っているかのような。
「あれ、ティンカさんどうしたんだろうね」
うずくまっていた姿勢からミオが立ち上がる。そのまま音の方向へと歩こうとする彼女。
「ミオさん、そこにいるのはティンカさんじゃない!」
「え?」
ネイトの警鐘とほぼ同時。目の前の木陰から、それが姿を現した。
ぐねりと空間を歪ませたような、半透明状の人形の何か。
「伏せて!」
──間に合わない。
言葉でなく、ネイトはミオを無理やり押し倒すことを選択した。刹那、自分たちの頭上を、丸太のような太さの腕が通過する。
「......なんで......もう一体尾いてきてたの!」
歯の根が合わぬ表情で悲鳴を上げるミオ。
彼女と共に後方へ避難し、ネイトは相手を見上げた。
大きい。目測でも、体長が二メートルを超えているのは明らかだった。朧気な身体の輪郭から正確には摑めないが、体格そのものも相当に横幅があることも分かる。
......この体型、見覚えがある!
ミシュダルの灰色名詠、第二音階名詠、〈arsei lefis〉。灰色の小型精命に酷似した体型だ。
先にティンカが相手をした浸透者より優に一回り大きい。まさか、こいつが今回の襲撃の統率者?
ars la azy peg Weo
鈍重な足取りで近づいてくる浸透者。
「ね、ネイト君......!」
どうすればいい。どんなに逃げても嗅ぎつけられるのは骨身に染みて分かっている。
救援を待つ? いいや、救援がいつ来るか、そもそもそんな楽観的なことを望める状況なんかじゃない。ならば。
「──ミオさん」
一歩だけ、ネイトは足を前に踏み出した。
眼前の浸透者へと、立ち向かう方向へ。
「クルーエルさんを背負って、遠くに隠れててください」
「え?」
「僕、ここで何とかしますから」
「だ、だめだよっ! ネイト君、何言ってるの! こんな不気味な奴相手に──」
「でも、僕がやるしかないんです!」
転入当初に実験室で名詠を失敗した自分。
夏期の合宿。研究所で何もできなかった自分。
今なお謎の病気で苦しんでいるクルーエルを、助けられずにいる自分。だからこそ、この場だけは僕が何とかしなくちゃいけない。
「お願いです」
「でも!」
「......分かってます。こんなこと言っても簡単に信じてもらえないこと」
にこりと、ネイトはミオへと振り返った。
「僕ずっとクルーエルさんに頼りっぱなしです。ミオさんやエイダさんや、他にも沢山の人に頼りっぱなしです。でも一度だけ、僕のこと信じてもらえませんか」
今でない、いつか。
ここでない、どこか。
遠い現在を遥か未来で思い出した時に、後悔したくないから。
「お願いです、ミオさん──」
「......ばかなネイト君」
若葉から雨の水滴が零れるように、少女の口から消え入りそうな声が零れた。
「あたし君のこと信じてないわけじゃないよ。もしそうなら、図書館であんな怖い思いして触媒を届けたりしないもん」
その小柄な身体でミオがクルーエルを背負う。
「クルルのばか。寝ちゃってたらネイト君の気持ちも伝わらないのにね」
泣き笑いのような表情でミオは言ってきた。
「この先をまっすぐ行ったところで待ってるからね。絶対、おいでよ」
「──はい」
背後で、徐々に遠ざかっていく足音。
......いいんです、今は、気持ちが伝わらなくったって。
そう、今じゃなくても──
〝今じゃなくても、返事を聞かせてくれると嬉しいな〟
かつて、母さんとカインツさんが約束した時のように。
〝わたし、キミの返事が聞きたい。割と本気で。もしキミがだめって言うならいいよ。でも、もし『いいよ』って言ってくれるなら......〟
今でない、いつか。大切な気持ちを伝えられる時。その時が来るために、今はただそのためだけに頑張りたい。
背後で遠ざかる気配から心を振り払い、ネイトは眼前の浸透者を見据えた。
──アーマ、見てて。
僕、少し頑張れそうな気がするから。
終奏 『夜色の理由。全てを映す夜空の下で』
0
澱んだ世界。一粒の光も影もないという矛盾。どこまでも透きとおった、それでいて冷たく暗く静かな世界。どれほど眺めても終わりのない、歪んだ閉鎖がそこにはあった。
その中で、海の波に漂うかのように、クルーエルはただぽつりと身を委ねていた。
夢。これは自分の夢の中。そう分かっていても、意識が漠然と薄れていく。
──愚かな〈夜明け〉。
水面に小石を投じた時のように、その言葉が波紋の如く、しんと静まり返る世界に浸透していく。
『今のあの子には浸透者を相手にする術などないでしょうに。あなたを助けたいと言ったって、それはあの子には到底果たせぬ願いだというのに』
夜明け。その言葉に、クルーエルは落ちかけていた意識を再び覚醒させた。
......それは、ネイトのこと?
ネイトが何かと戦っているの? わたしのために?
『あら、他に誰がいるの』
今までと違う、嘲るような口調で声は伝えてきた。
『わたしはあの子を認めない。〈始まりの女〉も〈牙剝く者〉も、夜色名詠の調律者たちは何を考えているのかしら。なぜあの子を選び、あの子を育てたのか。あんなにも弱く、小さく、脆い子を選んだのか』
──ネイトを、馬鹿にしないで!
ネイトは弱くなんかない。まっすぐで努力を惜しまない、芯の強い子だ。
『それはどうかしら』
なのに、相手の声音は揺るがない。
『失敗してばかり、落ち込んでばかり。そんな彼の姿を、あなたは誰よりも近くで見てきたはずでしょう。いざ土壇場になっても、あの子一人で何かを解決できたことが今まで一度としてあったかしら』
......それは違う。
一人で何かを解決しようなんて、解決できたつもりになるのは決して良いことじゃない。
一人じゃなくていい。彼一人でできなくても、わたしが傍にいてあげれば──
『そう。わたしにはそれが許せない』
こちらの言葉を断ちきるほど、相手の声には怒りが満ちていた。
『あなたを守るべき者は彼ではない。確かに夜色名詠は可能性を秘めている。もし仮にその詠い手がイブマリーであったのなら、わたしは夜色名詠を受け入れていたかもしれない。だけどあのネイトという少年は、それを扱う器としてあまりに小さい。あなたを守れる器ではないの』
守る──わたしに、何かが襲いかかってくる?
『そう。わたしがどれだけ未来の調律を狂わせても、その予定運命からだけはあなたを救えない。だからこそ、わたしは黎明の神鳥をあなたに委ねた。あなたが、せめてあなた自身の望む場所へと羽ばたけるように』
黎明の神鳥。それは最初から、わたしを守るためだけに?
『わたしは〈始まりの女〉を認める。〈牙剝く者〉を認める。老いたる敗者の願いを認め、だからこそわたしはラスティハイトを封律した。真の敗者の王の心の強さを認め、だからこそあなたへの脅威と知っている。勝者の王の虹色名詠を祝福し、彼に希望を持っている』
自分の知る名前、知らない名前。混在する人と真精の名前。
多くの名を挙げ、最後にアマリリスは告げてきた。
『だけれど──ネイト・イェレミーアス。ネイトだけは、わたしと別の意味で空白だ。何の力も持っていない。なぜ、かつてイブマリーという名であった者があの子に〈夜明け〉の名を授けたのか。わたしには理解できない』
わたしは......
わたしは、理解できる。
なぜネイトの母親が彼を拾い育てたのか。なぜあの生意気な夜色トカゲが文句を言いながらも彼に付き従っていたのか。
そして、なぜわたしがこんなにも彼に惹かれたのか。
それは、ネイトが決して空っぽなんかじゃないからだ。
あの子は、とても大切なものを持っている。
1
轟音を従えた風鳴りと、土煙が辺り一面に広がった。静かなる山林に、次々と木々がなぎ倒される悲鳴が響く。
......どうすればいいんだろう。
緊張できりきりと痛む肺を外から押さえつけ、ネイトは最寄りの木陰に身を寄せた。浸透者の背後にあたる位置。見つかるまで若干の猶予はあるはず。
だけど、もし捕まったら僕の負けだ。
図書管理棟で見た灰色の小型精命に酷似した体形だけあって、その体力・膂力共に半端ではない。腕の一振りごとに周囲の木々をまとめてなぎ倒し、ゆっくりとこちらへと進行してくる。唯一の救いは動きが緩慢なことだが、いざ対峙するとそれが余計に重圧を感じさせる。
......僕の名詠のストックで、あれを何とかできそうなものは。
懐中から、普段使用している触媒を取り出す。
通常の触媒で自分の名詠できる対象は、黒蛇や蝙蝠などの小型生命。あるいは黒煙などの無生物だ。黒馬も何とかできるかもしれない。
だがこれらの名詠ではまず太刀打ちできまい。第二音階名詠の小型精命に対抗するには最低でも第三音階名詠の名詠生物数体か、あるいは第二音階名詠の小型精命を要する。
「あとは、第一音階名詠の真精か」
触媒と聞いて、今のネイトが最も早く思い浮かべるのが〈孵石〉だ。
ミシュダルが言うには、あの中に込められていたのは究極の触媒。全ての名詠が可能と言っていたが、それでも夜色の真精の名詠はできなかった。ならばやはり、夜色名詠において真精を詠び招くための特有触媒は夜色の炎ただ一つ。
「──痛っ!」
轟と唸る音を従える風圧に、ネイトは反射的に身を縮めた。身の傍一メートルほどにあった細木が浸透者に薙ぎ払われたのだ。
......だめだ、真精は詠べない。
こんな山林で火を焚けば、たちまち周囲の木々に燃え移る。こんな深夜に大火事にでもなればそれこそ大惨事を引き起こす。ならば自分が頼れるのは......
〝主の代わりに使いが来た、それが答だ〟
灰色名詠の有翼石像を一撃で退けた、あの夜色の騎士とグリフォン。
あの時詳しくは聞けなかったが、あの二体も夜色名詠の名詠生物だろう。あれならば浸透者にも十分通用するはずだ。〈讃来歌〉も、図書管理棟の時と同じ物で来てくれるはず。
手に握るのは黒曜石の欠片。触媒としては中位だが、今はこれに賭けるしかない。
sheon lefdimi-l-shadi rien-c-soan
elma Ies nexe riena pegtwispeli kei
詠の序詞を口ずさむ。
だが──
ars la azy peg Weo
突然に、浸透者の動きが加速した。死角にいたはずの自分目がけて巨体が宙を舞う。
「そんなっ!」
積み上げかけた集中を放棄して名詠を中止。浸透者に押しつぶされる直前に、ネイトは真横へと身を投げ出した。
地割れのような震動に山林がふるえる。浸透者の着地によって穿たれた巨大なクレーターを横目に捉え、ネイトは全身が粟立った。
──ただの名詠生物じゃなかった。
今......僕の夜色名詠の〈讃来歌〉に反応して加速した。
位置の特定も完璧。おそらくあの浸透者は、〈讃来歌〉を察知するレーダーのような機能を有しているのだ。どんなに巧妙に隠れても、〈讃来歌〉を詠いきる前に見つかってしまう。
だとすれば、最悪の相性の相手と言っても過言ではなかった。
祓名民か、あるいは〈讃来歌〉なしで名詠のできる名詠士ならば話は違う。だが〈讃来歌〉を用いてしか名詠のできない自分が、どうやってあいつに立ち向かう?
打つ手がない。その事実に、全身から冷や汗が噴き出した。
2
『浸透者となった灰色名詠の生物たちは、〈讃来歌〉をひどく好む』
アマリリス、そう名乗る声は淡々と告げてきた。
『いえ。正確にはセラフェノ音語を好む、と言った方が適切なのだけれど』
セラフェノ音語を?
そんな名詠生物なんて聞いたことがない。
『そもそもセラフェノ音語そのものが、とある意志に従って創られたもの。人の言語としてではない。それはそもそもは、讃美歌のためだけに創られた符号。更に言えば、讃美すべき対象は唯一つだけ』
......それは、何?
『自ら見出しなさい。それが、全ての子に等しく与えられた願い。空白名詠の属性を持つ浸透者はそれを本能的に悟っている。だから彼らは、セラフェノ音語に対しとても敏感に反応する習性を持っている。それも高位の名詠であればあるほど敏感に』
言いよどむことなく、予め用意されたかのような台詞を口ずさむ声。
『ネイト・イェレミーアス。あの子もそこまでは気づいたようだけど、でも、どうしようもないでしょうね。あの子には浸透者に抗う術がない』
......やっぱり。絶対、あなたは間違ってる。
あなたは何も分かっていない。
『間違っている? わたしが?』
怒ったわけでも嘲笑うわけでもない。声のそれはあまりに純粋な疑問だった。
そう、きっとこの声には分かるまい。
だから──
「あなたの言ってること、わたし半分も分からない! 空白がなんだとかセラフェノ音語がなんだとか、さっぱり分からない!」
姿のない相手に、クルーエルはありったけの力を振り絞って応えた。
「わたしはどうせ学校のテストだって一番下の方で、成績だって良くないから。そんな小難しいこと知りたくもない! でもね......ネイトのことだけは分かるよ。彼のことだけは、わたしはあなたより誰より知ってる自信がある!」
両手を広げる。言葉が通じずとも、せめてその気持ちが形として見えるように。
彼が転入した時から、実験室で失敗したことも、夏休みにずっと一人で名詠の練習をしてきたことも、ずっとわたしは見てきた。一番近くで見てきた。他の生徒より教師より、誰よりも近い場所で彼を見てきた。
「力がないとか術がないとか、そんなの最初はみんなそうだよ。わたしだってネイトだって、きっとそれはカインツさんとかだってそうだった! でもね、彼はそれでもずっと精一杯頑張ってた。わたしはそれを見てきたもの。だから......」
わたしは、ネイトのことを信じてる。
3
目の前の視界が、百八十度逆転した。
地面に仰向けにぶつかる──それを悟った直後。背中に猛烈な衝撃が走り、一瞬呼吸が停止した。そのまま受け身も取ることすらかなわず全身を打ちつける。
突風のような風圧に吹き飛ばされ、ネイトは地面を転がった。
「あは......ははっ......」
笑うしかなかった。何もできない自分を。
名詠式しかできない自分が、〈讃来歌〉すら封じられては何が残る。自らへの言いようもない嘲笑が胸の奥から湧き出ては涸れていく。
地面に打ちつけた衝撃で腕がひどく痛む。足も、骨に凍みるような鮮烈な痛みが足首を支配していた。
パキ......
地面の枯れ枝を踏みつけ、鈍重な動きで近づいてくる浸透者。
「あはは......は......っ」
──動いてよ、なんで動かないのさ、僕の足なのに。
この場をしのぐには名詠式しかない。それは分かっている。だから何度も挑んだ。相手から逃げながらの詠。相手の死角に隠れながらの詠。時には、相手に向かいながら〈讃来歌〉を詠った。
だが、それらは全て徒労に終わった。どんなに早口でもどんなに微細な声でも、浸透者は〈讃来歌〉に対して絶対的な感度で反応する。
「......時間は稼いだよね」
仰向けに倒れたまま、ネイトは独り言のように呟いた。もう、ミオは随分遠くへ逃げてるはず。クルーエルもひとまずは安全な場所にいるかもしれない。残るは自分一人。
でも、僕はどうやってこの場を切り抜ければいいんだろう。
パキッ
徐々に近づいてくる浸透者。もう逃げるだけの体力もない。あったとしても、何度も地面に打ちつけられた痛みで身体がろくすっぽ動かない。
諦める?
甘い言葉が脳裏で弾ける。
「......嫌だ。それだけは嫌だよ」
〝さ、お行きなさい。今彼女が必要とするのは、隣にいてあげられる誰かです〟
「違います、ティンカさん」
痛みで自然と溢れそうになる涙を拭う。
「クルーエルさんだけが必要としてるわけじゃないんです。僕だって......クルーエルさんの隣にいたいから」
だから、何としてもあの人の傍に帰らなくちゃいけない。それまでは、どんなことがあっても諦めないって決めたから。
......だから、何か探さないと。この状況を何とかできる方法を。
仰向けのまま、ネイトはかろうじて動く首を動かした。
右を向いてもただ延々と続く泥土、生い茂る雑草、あとは密集した木々が映るだけ。左を向いても同じ。だから最後に──ネイトはただまっすぐに天上を眺めた。
「......すごい」
ぽつりと、力のない唇から言葉があふれた。
「なんて綺麗な夜空」
時が経つのを忘れ、その場の状況すら忘れ、ネイトは遥か上空を見上げた。
生い茂る木々の隙間から、零れるように覗く一欠片の夜空。
吸い込まれるように深い夜色の帳の中に、何より清廉な輝きを放つ、星という名の光の結晶。色とりどりの光の雫。この世のどんな宝石を集めても敵わない、この世のどんな権力者も、名詠士も、あの遥か頭上に展開する夜空を手中に収めることはできやしない。
......本当に、なんて透きとおった輝きなんだろう。
「僕の夜色名詠も、あれだけ素敵なものを詠べればいいなあ」
そうしたら、きっとクルーエルさんだって喜んでくれると思うから。
そう。あんなに輝いて、あんなに透きとおった夜空の色は────黒なんかじゃない。
〝なぜ夜色なんだ〟
〈イ短調〉の一人サリナルヴァからの、本当に何気ない、最も根本的な問い。
そう、なぜ夜色なのか。
〝名詠式の常道に添うならば、既存の白に対し黒が妥当。なのに、なぜ黒ではなく夜色という名を冠しているんだ〟
白の反対の、黒でない理由。
〝名詠式というのは非常に理論的な仕組みを持っている。お前の母親が黒ではなく夜と名づけたからには、それ相応の理由があるとは思うのだが、どうかな。それこそ、決して黒であってはいけないという程の。夜色という名を冠さなければならない理由が〟
母が、それを夜色と名づけた理由。
母が、僕にそれを教えてくれた理由。
なぜ虹色名詠士のカインツさんが、他の誰でもない、母を選んだのか。
「......母さん、アーマ。僕ね、少しだけ分かったかもしれない」
あれだけ綺麗な夜空。それを名詠できたらどんなに素敵なことだろう。全てを表す虹色が唯一持たない色は、決して黒なんかじゃない。
夜色は、頭上を覆う宇宙と星々の色。
この世界を優しく包む天上を、そのまま描き出すための透きとおった色。
「もしそれが正しいなら」
今なら、あのルーファ老人の言葉の意味も少しは分かる。
〝どうかな。儂が出会った相手は名前を名乗らんかった。その何者かは、どうも儂など眼中になかったらしい。そいつが意識していた相手はどうも今の話を聞くにシャオという輩、そしてネイト、お主らしいな〟
〝......僕?〟
〝夜色名詠と空白名詠は非常に近い。確かそのようなことも言っていた〟
今なら、あの言葉の意味が分かる。透きとおった色──その一点において、夜色名詠と空白名詠は限りなく近い名詠色だ。
だとすればこの状況を打開する策は、ある!
全身を蝕む痛みの中、よろめきながらもネイトは立ち上がった。その様子に、眼前の浸透者がわずかに進行速度を緩める。相手なりの警戒の仕草といったところか。
「......母さん、そう言えば母さんはアレを教えてくれなかったね」
アーマもだ。それはつまり、自分で見出せということだったのかもしれない。
「やっぱり、母さんもアーマも厳しいや」
苦笑の吐息が洩れる。こんな状況なのに、ふしぎと気持ちは鎮まりかえっていた。
三回分の触媒を取り出し、両手に力一杯握りしめる。
〈讃来歌〉は使えない。少なくとも、真精を詠び招くような長大な〈讃来歌〉をみすみす許すような相手ではない。だがたとえ真精を招くことができなくても、この状況を打開する方法が一つだけある。
──僕が、それができるかどうか。
深く、深く息を吐く。
Isa Yer sheriena xeoi pel
YeR be oratorLom nehhe
決して難しいわけではない、誰の目からも初歩的な〈讃来歌〉。
だがこの名詠がなくては、もう一つの名詠もまた成功しない。
lor besti dimi ende bluci-l-paje
meh ririsyehle kei lef xeo feo ele-shiole copha sm hynei teles
dis mihhyalef cley,riris sis soa peg turia
Isa da boema foton doremren
ife I she cooka Loo zo via
視界いっぱいを浸透者の巨体が埋め尽くす。周囲の木々をなぎ倒しながら、その両腕が自分めがけて振るわれる直前。ネイトは、詠の終詩を紡ぎ終えた。
──間に合った!
第一音階名詠ほどの長大な名詠詩は無理でも、短い名詠詩ならば相手が探知し攻撃に移るまでに詠いきれる。
O evo Lears──Lor besti dilna-c-vefa = ende vequs
名詠門から発生したのは、闇夜よりも濃い黒煙だった。自分、そして浸透者の周囲一帯を包み込むように漆黒の煙が濛々と立ちこめる。
かつてエイダが灰色名詠の真精と対峙した時、自分に要求した名詠でもある。あの時は名詠の暴走の一現象を利用して詠び寄せたが、今回は正しく黒煙用の〈讃来歌〉を詠っての名詠だ。
互いに視界が奪われた状態。エイダは相手の〈孵石〉の光を目印にしたが、浸透者にはその目印がない。ならば、いかにしてこの均衡を崩すか。
──今の僕にできる名詠。
ずっと練習してきた名詠でいい。クルーエルさんを助けるための名詠は、クルーエルさんと一緒に練習してきた名詠なのだから。
間を空けず、ネイトは更に二番目の名詠を開始した。
黒煙の粒子に目を塞がれ視界が零となる。それは人も名詠生物も同じ。浸透者にとってもまた、それを防ぐ術はなかった。
相手の位置が不明瞭。
振り上げていた腕を、つい寸前まで相手がいた場所へと振り下ろす。が、それは空を過ぎっただけだった。両手を振り回して四方を薙ぐ。そこにも夜色の相手はいない。
どこにいる?
浸透者の気配探知力そのものは決して高くない。〈讃来歌〉に対する感知野が備わっている理由の一つがそれだ。
Isa Yer sheriena xeoi pel
その感知野が、自分の背後に〈讃来歌〉を詠う存在を察知した。
lor besti bluci gulie-l-ris
位置特定。自分から見て左手背後、六メートル離れた先に対象がいる。が、そうしている間にも〈讃来歌〉は紡がれ続けている。相手の場所は依然そのまま。
感知野が告げる位置へと、浸透者は地を蹴った。ぬかるんだ地面を大きく陥没させる跳躍。相手の眼前へと着地し、腕を振り上げる。
O evo Lears──Lor besti fotona-ol-rawa=ende vequs
名詠が終わった?
あまりに早い。今までは長大な〈讃来歌〉を詠おうとしていたところを探索し潰撃。だがこれは黒煙同様、どうみても名詠詩が短い。第一音階名詠などではなく、これは相当に初歩的な名詠だ。
腕を振り下ろす。が、相手はまたしても一瞬先に姿をくらましていた。相手が寸前で名詠したものの正体も分からない。
だが、この名詠者は何を考えている?
名詠したはいいが、名詠者も名詠生物も姿をくらましたまま。いや、この黒煙ではそもそも互いに位置を摑めない。相手に、自分の〈讃来歌〉感知に似た索敵能力があるという様子は見られない。
時間稼ぎ。その程度か。
思いを巡らせた刹那、自分の体表を何か細長い物が這い上がってきた。黒い......
──黒蛇?
描いた手順は、第二段階までが終了。
......あとは、最後の名詠が成功するかどうか。
気を抜けば卒倒しそうになるほどの重圧に、ネイトは最後の触媒として持っていた黒曜石を握りしめた。
息が詰まるほどの濃度を持った黒煙に阻まれ、互いに相手の位置が摑めない。だがそれは、あくまで視覚に頼った時のケース。今、ネイトは、浸透者の位置をほぼ完璧に把握していた。
黒煙に続き、自分が名詠したのは一匹の黒蛇だ。
赤外線探知器官──ピットとも呼ばれる、蛇が持つ探索器官である。視界の効かぬ黒煙の中でも、名詠した蛇に誘導されることで浸透者の位置を捉えることができる。
ここまでは自分が今まで練習してきたこと。
浸透者を倒すための最後の名詠式は、未踏の領域への挑戦となる。
「......母さんもアーマも、教えてくれなかったことだから」
O le hypn U pheno sias, ris meli lef keofie loar
その言葉に意味はない。
ただそれは、遠い遠い場所にいる、自分を見てくれているはずの二人に届けるために。
──絶対に成功させる。母さんに、アーマに認めてもらうために。
クルーエルさんを追うこいつを、追い払うために。
そのための、謳う決意の旋律。
パキッ
セラフェノ音語に反応し、黒煙の中で何かが動いた。相手もまた、自分の場所を特定したに違いない。だが、それも最早どうでもいい。
相手が両腕を打ち下ろすのが風圧で感じ取れた。
だが、ネイトはそのまま駆け抜けた。
拳を突き出す。触媒を握りしめた拳が、相手の体表に確かに触れた。
浸透者に動じた気配はない。〈讃来歌〉のない名詠士など、この相手は怖れない。
だけど──
「......エイダさんが見せてくれた」
手に握った物質が触媒効果をもたらす。夜色の輝きが掌中からこぼれ落ちる。名詠門ではない。この作用に名詠門は必要ないからだ。
名詠式であって名詠式でないもの。
〈讃来歌〉を詠わない術式でありながら、名詠生物に対抗できる唯一の反名詠式。
試したこともない、この土壇場で見よう見まねでやるしかない。
未知への挑戦。それでも、ふしぎと不安はなかった。
「──僕は」
自分は何かができるわけじゃない。でもだからこそ、沢山の人から本当に多くのことを学んできた。クルーエルさんと一緒に。クラスメイトの人たちと一緒に。
だからこそ......
「僕は、お前なんかに絶対負けない!」
夜色名詠と空白名詠は限りなく近い同系色。
灰色名詠が白色名詠で送り還せるなら──それの類似で間違いなく反唱が通用する!
──『Nussis』──
触れた相手の体表から、何色とも形容できぬ色の光が迸る。
「............っ!」
触れた右手から右肩、全身へと伝わる衝撃に激痛が奔った。反唱に対して名詠生物からの抵抗に、思わず右手を相手から離してしまいそうになる。
ミシッ
波動にも似た衝撃に骨が軋んだ。筋肉が、骨が、痛覚を支配する神経が悲鳴を上げる。
──だけど、これくらいっ!
痛みと眩しさに閉じかけた瞳を、ネイトは無我夢中で見開いた。
「......僕だって」
クルーエルさんが僕を見てくれたように、僕だってクルーエルさんをずっと見てきた。
高熱と寒気とふるえ。意識を失っている彼女は、今の僕なんかよりずっとずっと苦しくて辛い思いをしてるに決まってる。それも何日も、何日も。
でもそれなのに彼女が気にしていたのは、自分のことなんかじゃなく僕のこと。
「だから......僕だって」
僕にできることなんて本当に少ない。でも、クルーエルさんの隣にいることだけは誰にも譲りたくない。
反唱を受けながらも両手を振り上げる浸透者。それに拳を突き当てたまま、ネイトは力の限り声を上げた。
〝俺もゼッセルもエンネも、あの時はイブマリーのことを信じてやれなかった。クラスは一緒だったが、あの時の彼女は本当に独りぼっちだったのかもしれない。だからこそ......君は独りになってはいけない〟
「僕は、独りなんかじゃないもの」
眠りに陥っている彼女に、せめてその声が届くように。
「クルーエルさんが待ってるから!」
4
霧が晴れるように、黒煙もまた次第にその濃度を薄めていた。
徐々に、山林にいつもの光景が戻っていく。
沈黙の帳が降りかけた空間に、チリンと、小さな鈴を鳴らしたような透明感のある音が響き渡った。
腕を振り下ろしたまま凍りついた浸透者。半透明の身体から少しずつ湧き上がる灰色の煙。と同時に、その身体が幻灯のように朧気に輝き、そして稀薄になっていく。
瞬きも忘れ、全身を覆う激痛に耐えながら、ネイトはその光景を見つめていた。
消えていく名詠生物。
「あなたは......どこから来てどこへ還るの」
無意識のうちに、ネイトは浸透者に向けて訊ねていた。
『............』
相手は応えない。
応えぬまま、その名詠生物は、光の粒となってどこか遠くへ消えていった。
「どこから来て、どこへ還るの」
何も応えてはくれない天上の夜空を、ネイトはしばし見つめていた。
それは──僕たちの心の中?
連奏 『誰よりも遠い場所で』
0
もう何年前のことだろう──
その会話は唐突に、夜色の少女が訊ねてきたことから始まった。
「ねえカインツ、どうして黄色名詠を専攻にしたの」
屋上でも学園の隅のベンチでもない。
ありふれた教室の一角。茜色に染まる夕焼けの陽を浴びながら、イブマリーは心底ふしぎそうな眼差しで自分を見つめてきた。
「五色を全部マスターするならどんな色から始めてもいいじゃない。なんで黄色を最初に選んだの」
「......なんとなく」
読みかけの本を閉じ、カインツは自分の席に腰掛けたまま彼女を見上げた。
名詠式の学校においては中等部で総論、高等部から自分の専攻色を集中的に学ぶ制度になっている。それゆえ中等部から高等部への進学試験にあたっては、中等部の生徒も一つ自分の専攻色を決めておかなければならない。中等部の最上級生になってからは、その専攻色の試験対策講義も開かれる。
「強いて挙げれば、自分の髪の色に似てたからかな?」
「あなたらしいわ。あんまり難しいことは考えてなさそうと思ってたから」
わずかに表情をほころばせ、イブマリーがどこか楽しげな口調で続ける。
「ねえ。自分の名前の色にしようとは思わなかったの?」
「ボクの名前?」
「ええ、『カインツ』って言えば分かるでしょ?」
にやりと、こちらを試すような悪戯っぽい表情の彼女。普段表情を崩さない分、こうした時の彼女は妙に幼く見える。
「......あいにく、昔からその手の質問は聞き過ぎちゃって。それが嫌だから赤色名詠は外したんだよ」
『Keinez』、名詠式の世界では赤色名詠を指す言葉だ。
一般的な発音はケイナズ。だが大陸の辺境では、地方特有の訛りで『Keinez』の『ei』の部分をアイと発音する。

そうした時の発音は──カインツ。
「そう、少し残念。そのまま赤色名詠を選んでたら一緒の専門講義だったのに」
彼女が選んだ専攻色は赤色名詠だ。その理由はひどく明快。究めようとする場合はさておき、生徒が一定水準の名詠技術に達するまでに要する時間が、最も短いとされるのが赤色名詠式なのだ。
名目的に少しでも赤色名詠を学び、残りの時間を全て夜色名詠の構築に充てる。彼女なりの策だった。
「それはどういう意味?」
すると、彼女はいつになく愉快そうな眼差しで。
「うん。色々と便利なことができてたのになって。わたしが講義を欠席した時にもノート取ってもらったりとか」
「......黄色名詠で正解だったよ」
1
「『Keinez』か」
頭上に流れる雲を眺め、カインツは口元をゆるめた。
今にして思えば、あの競演会の時、自分たちを助けてくれた漆黒の騎士は、彼女なりの伝言を含んでのことだったのかもしれない。
〝──orbie clar,dremre : Goetia : Berith──〟
自分とエンネに向け襲いかかってくる三首の獣。その獣を追い払った騎士が纏う漆黒の鎧と対照的に、騎士を背に乗せる馬は真紅の毛並みを誇っていた。
真紅の馬を駆る漆黒の騎士。あの時は、なぜ馬だけが赤なのか分からなかったが。
「まったく、君らしい遠回しで意地の悪いメッセージだね」
昔の、本当に些細な会話の一場面。自分がそれを思い出しただけでも僥倖なのかもしれない。
「そうね、あなたは今も昔も、イブマリーという少女を見つめてる」
その声に、カインツは視線を地上に咲く緋色の花へと移した。
今の今まで消えていたはずの少女が、緋色の髪をなびかせながら眼前に佇んでいた。淡い光に覆われ、幻影のように透ける身体。常人ならぬ彼女の姿に関して、カインツはさして深く捉える気はなかった。ふしぎと今は、心が落ち着いていた。
「ごめんなさい。もしかして待っててもらったのかしら」
「いや。少し昔のことを思い出していただけだから」
「正直なのね」
くすりと、屈託のない笑顔で微笑む少女。
「わたしは〈始まりの女〉を認める......だけど、本当は妬ましい。なんであの女は、あなたと出会ってしまったのだろう。わたしもまた、あなたをずっと待っていたのに」
この子。そう呟き、少女が両手を自らの胸元にあてる。
「それは......」
「全ての始まりから途方もない時を経て、ようやくわたしをこの世界に詠び出すべき器が生まれた。クルーエル・ソフィネットという器が。だからこそわたしはクルーエルに無限の愛を注ぎ、彼女を見守ってきた」
ようやくカインツは確信を持った。
やはりこの少女は、自分がトレミア・アカデミーで出会った──
「ええ。クルーエル・ソフィネットという少女。この子を救える可能性があるのはあなただけ。だからこそ、わたしはあなたを待っていた」
彼女に何か災厄が近づいている。言葉からはそう読み取れるが、それも憶測の域を出ない。まるで雲を摑むような話だ。
「正確には、災厄ではない。でもこの子にとっては何よりの苦痛となる。その苦しみからこの子を解放できる人間を、わたしがそれを託せる人間をわたしはずっと探していた」
とめどなく、さながら泉の水が溢れて地中に染み込むように、少女の澄んだ声が島の最端にまで深々と浸透していく。
「そのためにわたしは、この島で全てを見続けていた。わたしは〈その約束に牙剝く者〉。そして同時に〈緋色の背約者〉でもある。そしてまた、この子にふさわしい相手を探すため全ての世界の事象と経過を記録する──すなわち、〈残酷な純粋知性〉」
セラフェノ音語と、セラフェノ音語でなき意味の名を持つこの少女。
自らを空白と名乗りながらも、これほど多くの残酷な名を持っている。それは矛盾という言葉の範疇すら越え、一握の悲壮感を抱かせた。
「この子を託せる人間を、ずっとわたしは探してきた。エイダ・ユン。最高の素質を持つ祓名民を求め、クルーエルを同じ学園に進学させた。六年前、拠り所を求める敗者にも一縷の望みを託した。わたしと出会うことが起因となり、老人は〈孵石〉を精製した。その〈孵石〉はトレミア・アカデミーへと伝わり、過去の卒業生であるあなたに〈孵石〉が伝わることもまた、わたしにとっては一つの予定」
全ての事象が、六年前からこの少女の予定の内にあった。いや、少女に計画されていたということか。そしてその理由とは......
「全て、この子にわたしを自覚してもらうため。〈孵石〉がトレミア・アカデミーへと伝わり、そしてそれが競演会時に暴走する。その中でクルーエルは黎明の神鳥を詠び出した。いえ、詠び出さざるをえない状況になった。夏期休暇での研究所、トレミア・アカデミーへのミシュダルの襲撃......それら全てに関わる〈孵石〉という玩具そのものが、一つの大きな波紋を作り出すための投石だった。あの子がわたしを自覚するための」
あの老人が〈孵石〉を作り出すこともまた、この少女の予定運命の中に組み込まれていたということか。いや、〈孵石〉を作らせるために、この少女はこの島で老人の前に姿を現したといった方が近いのかもしれない。
「そしてそのおかげで、ようやくわたしはあなたに託すことができる」
──強い光を瞳に灯し、少女が力ある言葉を告げてくる。
まるでそれ自身が一つの〈讃来歌〉であるかのように。
カインツ、わたしはあなたを求めている。
あなたがこの子を支える代わりに、わたしの全てを、世界の全てをあなたにあげる。
それは誰にもない、わたしだけの特権。
ife 『I』she cooka Loo zo via
あなたが世界を望むのならば、世界の一つをあなたにあげる。
〈Ive〉はその身体の内に『I』を持つ。
けれどわたしは──
〈Armariris〉は、身体の内に『I』を二つ持っているのだから。
半分ではない、世界の丸ごと一つをあなたにあげる。
空白の世界を、虹色に塗り替えられるあなたになら、この世界を託してもいい。
「......そこまでボクに期待してもらっていて悪いけれど」
その眼差しと言霊に、カインツはそっと肩をすくめた。
「あいにくボクは、そんな大きいものは欲しくないんだ。今あるものを大事にするだけでも、それがどれだけ大変か身に染みて分かっているからね」
イブマリーとの思い出。交わした約束。決して失ってはいけない想い。
それこそが、自分にとって何より虹色に輝くものなのだから。
「それに、あなたの言っていることの意味がまだ理解しきれていないしね。でも、一つだけ分かる。彼女を守れる人物がいたとして、それはボクじゃないよ」
今の時代のことは、今の時代の者に託すべきなんだ。
優柔不断なボクなんかよりずっと相応しい彼がいる。そう、ネイト・イェレミーアスという名の夜色の少年が。
「......あなたも、クルーエルと同じことを言うのね」
乾いた笑みを口の端に浮かべ、少女が視線を落とす。
「それでもわたしは、ネイトを認めない。クルーエルを守る者として認めたくないの」
「それはなぜ?」
少女の返事は、微笑だった。
「また会いましょう。次は、全てが集う場所で」
「全て?」
「渦の中心は、ラスティハイトの亡霊を追う敗者。歪んではいるけれど、その意志は非常に強い。なにゆえあの男が敗者を名乗り、王を求めているのか......全てを失ったあの男の意志を退けるだけの想いが、果たして夜色の少年にあるのかしらね」
少女を覆う淡い光の粒が弾け、消えていく。それに伴い、少女の身体も徐々に光の粒子となって島の風に運ばれていく。
あの時と一緒か。
競演会。学園の屋上でイブマリーと再会し、そして別れた時。真精と化した彼女が消失していく時も、彼女は同じように夜色の光の粒と消えた。
「......巡り会う時か」
少女の姿が消え、残されたのは自分一人。いや、自分とアマリリスの庭園か。
潮風に湿った自分の前髪を払い、カインツもまた踵を返した。
「さてと、今から行っても会合は終わってる頃かな。......また先輩から怒られそうだ」
風に飛ばされ、自分のコートの肩にとまる一枚の緋色の花弁。それをそのままに、カインツは島の端に向かって歩きだした。
贈奏 『こんなにも近い場所で』
トレミア・アカデミー。一年生校舎、そのとある教室で。
「クルーエルは今日も欠席か」
がらんとした机を眺め、オーマはぼんやりと呟いた。昨日同様、彼女は学園の医務室を借りて休養しているらしい。相も変わらず容態が芳しくないのだろう。
「......しかし、なぜネイトまでいないんだ?」
壁にかかった時計の針を見るに、もうホームルームの時刻までいくらもない。普段の男子生徒の中で誰より早く学校に来ているはずのネイトにしては珍しいことだ。
遅刻? いや、あの真面目少年が遅刻するとも思えない。
一人で呟いているところに、金髪童顔の少女がぽんと肩を叩いてきた。
「あー、ネイト君なら昨日ちょっと怪我してお休みだよ。医務室......ふぁぁ。全然寝てないからやっぱりねむいねー」
ミオ・レンティア。ネイトやクルーエルと特に仲の良い女子生徒である。彼女にしては珍しく朝っぱらから眠そうに目をこすっていた。
「怪我? 昨日って何かあったっけか?」
そう言えば、ゼア学園長も今日は腰痛で仕事にならないと言っていた気もするが。
「あんたたちは気楽でいいよねってこと。......あー、もうダメ。あたし今日の講義は爆睡かも。あとで誰かのノート見ようっと」
こちらは大あくびをしながら、エイダ。彼女に至っては制服の隙間からそこかしこに絆創膏と包帯が覗いている。
......気になる。昨日何があったんだ。
いやそれ以上にゆゆしき問題は──
「というより、ネイトとクルーエルが共に医務室だと?」
がたんと、オーマは机を叩いた。
「ネイトの奴、何て羨ましい」
「いや、つぅかネイト絶対その特権に気づいてない」
口々に言い合う男子生徒。
彼らに向け、オーマは勢いよく頷いてみせた。
「よし、任せろみんな! 男子クラス委員としての立場を利用してクルーエルに──じゃなかった、クラス委員の責務として、俺が代表で医務室のネイトを見てこよう!」
『うわ、オーマ汚ねえぞっ! 俺たちも──』
「ま、待てっ、分かった! 分かったから消しゴムを投げるな!」
放課後。総務棟の通路に無数の足音が響き渡る。
「......で、まさかこの人数で医務室に来ることになるとは」
自分を先頭に、男子生徒総勢二十人近く。男子生徒ほぼ全員である。振り返ることも煩わしく、オーマはこっそりと嘆息を呑み込んだ。
──よし、行くぞ!
「失礼します、ネイトのクラス委員をしているオーマ・ティンネルです」
ガラッと、医務室の扉を勢いよく開ける。ざっと見渡しても医務員の姿はどこにもない。外出中なのだろうか。まあ、だがそれは別にいい。自分たちの標的はあくまで憎きネイトとクルーエルの寝顔だ。
よし、突入。
『やあやあネイト君、話を聞こうか!』
颯爽と医務室に突撃する男子生徒たち。
「またしても君はクルーエルと医務室で二人っきりという大胆不敵な............不敵な......」
予め用意しておいた台詞を言いきる前に、オーマは口が動かなくなった。
背後の男子生徒も同様。全員の視線が、部屋の隅に並べられた二つのベッドに釘付けになったからだ。
目を閉じ、あまりに美しい寝顔を見せるクルーエル。
その横のベッドに──すやすやと、あまりに無垢な表情で寝入る夜色の少年がいた。
自分たちがこれだけ騒いでも起きない......きっと、相当ぐっすりと眠っているのだろう。隣り合わせのベッドに横たわり、仲良く寝入る二人。それはまるで、お伽話にも出てきそうなほど穏やかで幻想的な光景だった。
こ、これは──
「......あー、えっとさ」
後ろ頭を搔き、オーマは背後の男子生徒に振り向いた。
「............帰ろっか」
あまりに安らかな寝顔に、こちらの方が毒気を抜かれてしまった。
「そ、そうだな」
「今回はまあ許してやるか」
口々に言い残し、男子生徒たちは医務室を後にした。







「ほらね、言ったでしょ。何も言わなくても平気ですよって」
「ほんとだ。ティンカの言った通り」
医務室のついたてから、ひょっこりとエイダは顔を出した。放課後男子生徒が一斉にどこかへ向かうのを目撃し、興味本位でついてきたら案の定だ。
「もう出て良さそうですね」
身を隠していたついたてからティンカが先に這い出る。
「わたくしは学園外の人間なので事情に詳しくないのですが、一般生徒には今回のことは伝えられていないようですね」
「うん。学園長から先生たちには伝えるみたいだけどね。あとは、ルフ爺が親父に伝えてくれるんでしょ?」
学園の教師、そして〈イ短調〉のメンバー。浸透者も含め、まだ不確定な情報の拡散は最低限に抑えておいた方が良い。それがエイダやルーファ、学園長が出した結論だ。
「ええ。ひとまずクラウスさんに伝え、そこから〈イ短調〉のメンバーにね。サリナルヴァにだけはわたくしから既に諸経緯を伝えてありますが」

「そっか。サリナは何か言ってた?」
「一言、『クルーエルが心配だな』と」
様々な状況が入り乱れている現状で、当面一番の心配はクルーエルの体調だった。時折目を覚ますのだが、それもせいぜい数時間。不規則に昏睡に陥り、不規則に目覚める。今なお、彼女は絶対安静を必要としていた。
「......あのさ、ティンカ。あたしがシャオって奴と出くわしたって話はしたよね」
「ええ。透明な名詠生物を詠び出したのはその人物だと」
そうだ。それについてもルーファ老人がまとめて〈イ短調〉へ報告する手筈になっている。そして、そのシャオの下に、姿を消していたアルヴィルという自分の知り合いである祓名民もいる。
シャオが操る空白名詠。そしてミシュダルの灰色名詠。灰色名詠が何かの触媒の影響を受けて変化した浸透者。
シャオが言うには、その触媒とは〈孵石〉に入っていた触媒と同じものだという。
〝夜色名詠に〈始まりの女〉という調律者がいるように、空白名詠にも調律者が必要だから〟
〝この時代において空白の真精を心に宿した者、それがクルーエル〟
調律──楽器の音の高さを標準音と音律に従って調整することだ。シャオの言葉を最も素直に解釈するならば、空白名詠という名詠の根幹を支えているアマリリスという真精がいて、その真精を心に宿しているのがクルーエルということになる。
だからこそシャオはこの学園に現れた。そして迫り来る浸透者から彼女を守るため、浸透者の存在を自分たちに示した。シャオ自身の最終的な目的は分からないが、そう考えることで確かに納得もできる。
「シャオが言ってたんだけどさ。あたしの理解が正確かどうかは分からないけど、クルーエルは自分の心の中に真精を詠んでしまってるらしい」
「心の中に?」
「うん。で、その真精とクルーエルが喧嘩......ていうのかな、真精は名詠者に従うはずなのに、とにかくクルーエルの意識と衝突してるらしいんだ。今のクルーエルの体調不良はそれが原因らしくてさ」
いや、もしかしたら話はクルーエルだけではないかもしれない。
シャオは自らの目的を名詠式の存続と言っていた。空白名詠が始まりの名詠ならば、もしその真精とクルーエルの衝突が続けば、空白名詠をはじめ既存の五色の名詠にすら重大な影響を及ぼす可能性すらある?
「その真精を取り除けばクルーエルさんは治るのですか」
「分かんない。......あたしこの学園に来て半年ちょっと名詠式を勉強してきたでしょ。その中でね、最初に言われたことが、『名詠は自分の望むものを詠び出すものだ』ってことなの」
自分の望むものが真精だとすれば、その真精を取り除くことが本当に解決策なのだろうか。それこそ、何か大切なものを失ってしまうことに他ならないだろうか。
──本当の解決は、クルーエル自身の心の問題なのかもしれない。
「やっぱりクルーエルの病気は、まずいところまできてるのかい?」
「いえ、そんなことはありません。安静にしていれば──」
「ティンカ、あたしにまで噓つく気?」
きっ、とエイダは彼女の顔を見上げた。
「目逸らして話すなんてらしくないよ。......ホントのこと、言ってよ」
瑠璃色の瞳をじっと見つめる。本当は、予想がついていた。自分からは絶対クルーエルの容態を告げない、そんな彼女の様子から。
「......なあ、頼むよティンカ」
時計の秒針が時を刻む音だけが部屋に響き──
先に息を吐いたのは、ティンカだった。
「衰弱が目に見えて激しくなっています。このままでは遠くないうちに最悪の結果に──」
「......そっか」
それは、ミオやクラスの友人に伝えるべき内容ではないのだろう。......あまりに衝撃が大きすぎる。もし告げられるとしたら。ううん、告げなくてはいけない者がいるとしたら。
それはきっと、クルーエルに一番近い人物。
「......そう言えば、ちび君頑張ったんだってね」
眠りについている少年の頰を、エイダは人差し指でこっそりと突いた。
「ええ。わたくしが着いたと同時に気を失って......でも全身打撲と疲労で、それまで意識を保っていたのが不思議なくらいでしたけれど」
ティンカの話ではたった一人で浸透者を、それも反唱を駆使して還したという。そのことに一番驚いたのが他ならぬエイダだった。
ふしぎなものだ。夏期休暇の直前に転入してきた時には、あれだけおどおどして失敗してばかりの子だと思っていたのに。
──きっと、そのままじゃいけない理由ができたんだろうね。
変わらなくちゃいけないための、大切な理由が。
夏休み直前に出会ったばかりの二人なのに、たった二か月ほどの間に、最初からいた自分たちクラスメイトの誰よりも親しくなっていた。
一体どれだけの時間を、どれだけの密度で過ごせばそんな関係になれるのだろう。
「きっと、あたしらなんかよりずっとさ、クルーエルに近い位置にいるのはちび君なんだと思う。今寝ている場所だけじゃなく、心の位置が」
空白名詠の真精と衝突を続けるクルーエルの心。だから、クルーエルを助けられるとすれば────
「......女の子が男の子に守ってもらうのって、どんな気持ちなんだろうね」
ふと顔を持ち上げ、エイダは窓へと歩いていった。
「風が吹き始めたね」
吹き込む微かな風に、短く切った髪がさらりと舞う。
だがこの風も、いつか必ず止んでしまう。
「......もう、時間がない」
今はただ、ちび君の声がクルーエルに届くことを信じるしかないんだ。
あとがき
規則正しく目の前の線路を過ぎていく電車。道路を歩く子連れの人、犬の散歩に出かけている人。あるいは遠くのマンションで布団や洗濯物を干している人。
休日、マンションのベランダから見える風景は一年を通していつも同じです。
雪などが降ればまた違った趣があるのかもしれないけど、そうでもない限りは、ガラス越しに映る風景は一年間ほとんど変わりません。変わっているのかもしれないけど、誰もが一目で分かるくらい劇的な変化をしているわけではないようです。
お久しぶりです、細音啓です。
黄昏色の詠使いIV『踊る世界、イヴの調律』、手にとって頂きありがとうございます。
一月に受賞作を刊行して、もうほとんど一年。窓先の風景は変わってないのに時間は本当に早く流れているんだなと思いつつ、今このあとがきを書きながら、外の景色をぼうっと眺めてます。
とにかくこの一年は右も左も分からない状況で、真っ暗で出口も見えないトンネルを、とにかくがむしゃらに進んでいました。
知人や友人から「この本割と面白かった」と言ってもらえれば喜び、ダメだしをされるとしょぼくれてみたり。たぶん、トンネルの中で何度も石につまずいたり、カーブ途中で壁に頭をぶつけたりしてきたんじゃないかと思います。頑張って走ったつもりでもすごく不格好で、時々疲れ果てて歩いてしまったり。
でも一緒に走ってくれた人たちのおかげで、この一年間はとても充実した一年になりました。何より、多くの方に力をもらって一年間歩けたことそのものが何より嬉しかったです。この場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございます。
そう言えば音楽の楽譜に使われる用語の中には、「andante=歩くような速さで」というものがあるようです。この表現はすごく優しいイメージを持っている気がして、最近特に好きな単語だったりします。
自分では頑張って走ったつもりが、人から見ればそれはのんびり歩くような速さだったかもしれない。でもゆっくり進めたからこそ、こうしてどうにかやってこれたんだという気がします。
冒頭の話題に戻りますが、今このあとがきを書いているのは九月です。
暦の上では秋かもしれないけど、あいにく季節的にはまだまだ残暑。粘りつくような蒸し暑さに負けて、細音はまだクーラーのお世話になっています。
この四巻が出版されるのは十一月の下旬。その頃にはさすがにクーラーはつけていないと思います。それどころか暖房の準備に入っている頃かも。
十一月の窓ガラスから見える歩道は、もしかしたらマフラーをして歩く人がいるかもしれません。いや、まだちょっと早いかな。マフラーは十二月くらいからだっけ。
それでも──外からざっと見た限りでは分からないけれど、服の下にベストを羽織る人はいるかもしれない。靴下だって少し生地の厚い冬用にする人はいるかもしれない。
窓ガラスから覗く風景が一年の中で劇的に変わることはないけれど、もしかしたらその内面は少しずつ変わっているのかもしれません。
一方で、「黄昏色の詠使い」の世界では夏休み前の競演会から始まって、夏休みが終わってちょっと経った時期。一巻から四巻までで二か月少々です。
物語上ではたった二か月。でもその中で、ネイトとクルーエルもまた、初めて出会った頃からお互いにちょっとだけ変わってきたかもしれません。窓ガラスからは見えない部分が。(ネイトは、背は伸びてません。相変わらずです)
もう四巻と言うべきか、やっと四巻と言うべきか。
この巻は三巻からの実質的な続きの巻でしたので、今までの要素も絡めた上で気に入って頂ける内容になっていれば幸いです。そう、もう一年経つのかとも思ったのですが、思い返してみるとようやく一年かという気もしてきました。
今まで話一つ一つの区切りはつけるように意識をして描いてきたつもりですが、見方によっては二巻から「続く」的な要素が続いています。人によってはもやもや感が残っていた方もいらっしゃるかもしれません。でも、これが最後です。
次の五巻がいよいよ、『Episode1』全体の一つの山場になります。これが物語の終着点というわけではないけれど、一巻同様、大きなお話の一つに幕が降ります。
物語上ではたった二か月。その中で、身も心も未熟だった二人が、最初の関係から互いにどんな気持ちの変化があったのか。二人を取り巻く環境にどんな変化があって、二人がたどり着く心の関係は──
一つの詠と共に、二人なりの答を出せたらいいなと思います。
今まで一巻から積み重ねてきたものは小さな歩みに過ぎないかもしれないけれど、この物語を今まで読んでくださった全ての方々に気に入って頂ける作品になるよう、全力で執筆中です。歩くような速さで、少しずつだけど着実に。
どうかご期待ください。
第五巻の刊行は二○○八年の二月を予定しています。
来年の二月、その頃には関東でも雪が降っているのかな。今はまるで予想もできません。でも来年のその頃には、またちょっとだけ自分も良い方向に成長できていればいいなと思ってます。もちろんただ願うだけでなく、出来る限りの努力も忘れずに。
そんな、ちょっとした目標と共に──
五巻、来年の一冊目になりますが、今年一年積み重ねてきたものを形にしたいと思ってます。
......と、大分あとがきの頁も残り少なくなってきました。
今年はこの四巻が「黄昏色の詠使い」最後の刊行になります。だから、一年の終わりという形のご挨拶で終わらせて頂こうと思います。
今年一年自分を支えてくれた家族、親戚の方々、そして多くの友人知人。
物覚えの悪い自分を、今年一年ずっとナビゲートしてくださった担当編集Kさんはじめ、富士見書房の編集の方々、並びに出版に関わる過程でお世話になった全ての方々。
最高のイメージをこの本に与えて下さったイラストレーターの竹岡美穂さん。
そして何より、今こうしてこの本を手に取って下さっているあなた。
全ての方々へ。
少し早いですけれど、あと一月ほどの二〇〇七年が、皆様にとって素敵な一年だったという結びで締めくくれることを心より願っております。
今年一年、本当にありがとうございました。
それでは、また来年お会いできることを願いつつ──
二〇〇七年、九月 とある日の夜更けに
細音 啓





黄昏色の詠使い
全ての歌を夢見る子供たち
細音 啓

富士見ファンタジア文庫
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口絵・本文イラスト 竹岡美穂


初めて訪れる学校に向かう、その途中のことだった。男子寮までの道が分からないでいる僕は、あの時彼女が来てくれなかったら道に迷っていたかもしれない。
道を教えてもらって、その別れ際に見せた彼女の笑顔を、今でも僕は覚えてる。
〝クルーエルよ。同じ学校ならまた会うかもしれないね〟
それが、始まりだった。
序奏 『伝えられない、ということ』
真っ黒い水を満たしたような、冷たく澱んだ空間だけがあった。
どこまでも澄んでいるのに何も見えず、ただ自分がそこに漂っている。手を伸ばしても空虚な何かを摑むだけ。その何かも、摑んだそばから指の隙間をくぐって逃げていく。
摑みたくても摑めない。何一つ触れることも、抱きしめることもできない。そんな限りなく不安で孤独な世界。
身を隠す場所もない、不定の場所をただゆらゆらと漂う自分。
その中で──
『クルーエル、何をそんなに悲しんでいるの』
ただ一つ、自分の五感に伝わってくるのがその声だった。
「......わたし、こんな一人ぼっち嫌だよ」
漂ったまま膝を抱きかかえ、クルーエルは頭をそこにうずめた。

自分は、このよく分からない場所にいる。その一方で──
病室でベッドに眠る自分が、遥か真下に幽かに見えた。
まるで自分の心と身体が切り離されたようだった。起き上がろうとしても手を伸ばそうとしても、呼びかけに応えようとしてもそれができない。
友人や医者が見舞いに来て声をかけてくれるのも分かった。なのに、ここで自分がどれだけ声を上げても彼らにはまるで届かないのだ。
「......こんなのやだよ」
『そんなに落胆することはない、わたしがいるから』
わたし? あなたは誰?
『わたしはアマリリス、あなたの殻の内側であなたを守る者』
アマリリス、それがあなたの名前?
でも、違うの!
わたしはみんなのところがいい。学校に帰りたいんだ。
『あなたがそれを望むのならばわたしはそれを叶えよう。全ての願いを叶えてあげる。だけど、もう少しだけお待ちなさい』
それは、なぜ。
『うんん、あなたが気にすることではないわ。わたしたちの周りを無様にうろつく者たち、それを追い払うだけだから』
......違うの。
......そんなこと、しなくていい。
なぜ伝わってくれないの。
わたしは、わたしが望んでいるのは────
一奏 『別れる、ということ』
1
大陸辺境の地にありながら、生徒数千五百人を数える大規模な専門学校。それがトレミア・アカデミーである。
名詠式と呼ばれる特殊技法を学ぶための学園であり、そのための施設や教育水準も大陸中央部の名門校に劣らない。辺境という欠点を逆に活かした広大な敷地には各校舎に加え、自然豊かな山林までもがそのままの姿で残っている。
その学園の舗装路を、登校時間ぎりぎり、無数の生徒たちが慌ただしく駆け抜けていく。トレミア・アカデミーでは一年を通してお決まりの光景だ。
その、数えきれぬほどの生徒による怒濤の行進の中で──
「ああっ、遅刻遅刻!」
他の生徒より一回り小柄な少年が、肩で息をしながら一年生校舎へと走っていく姿があった。
「あぁ......まずいかも」
両手に黒の鞄をぎゅっと抱きかかえ、校舎の二階に続く階段をその生徒が一足飛びで駆け上がる。
ネイト・イェレミーアス──二月ほど前、十三歳ながら飛び級で学園の高等部に転入した少年だ。男子ながらまだ華奢な身体つきに、幼さの残る中性的な顔立ち。青とも黒とも区別のつかない深い夜空の色をした髪と瞳が、どこか神秘的な印象を与えている。
「遅刻遅刻、ケイト先生に怒られちゃう!」
ちらっと確認した時刻は朝の八時半過ぎ。既に朝のホームルームが始まっている時刻だ。出席確認も今まさに行われている最中だろう。
しんと静まりかえる廊下。生徒はおろか、教師が歩く姿もない。これはいよいよまずい、遅刻後の反省レポートも覚悟しなければ。
足音を立てない限界の速さで廊下を渡り、自分の教室の前でネイトはぴたりと足を止めた。息を殺し、そっと扉の窓から内部の様子を覗き見る。
......先生の機嫌はどうかな。
おそるおそる教壇を見つめる。
「あれ、ケイト先生まだ来てないかも?」
普段の今頃は、担任のケイト教師がとっくに教壇上で出席確認をしている時だ。けれど教室のどこにも女性教師の姿はないし、よくよく見れば教室のクラスメイトも席から離れて好き放題に雑談中。
これはもしかして──
「ふっふっふ、『お、ラッキー。センセまだ来てないぞ』......なんて考えてるでしょ?」
「ひゃっ!」
突然耳元でささやくように聞こえてきた声に、ネイトは反射的に全身を強張らせた。
「あはは、そんなにびっくりしなくてもいいのに。あたしだよあたし」
首根っこを捕まえられ、おそるおそる背後の相手へと振り返った。
日焼けした肌に大きな琥珀色の瞳をした、悪戯っぽい笑顔を浮かべた小柄な少女。何のことはない、自分と同じ教室で学ぶクラスメイトだった。
「おはよ、ちび君」
「......驚かさないでください、エイダさん」
エイダ・ユン。年齢は自分より三つ上の十六歳。祓名民という特別な訓練を要する護衛職に就く一族の生まれながら、名詠の専修学校であるトレミア・アカデミーに進学したという変わった経歴の持ち主でもある。
「いや遅刻かと思って慌てて教室来てみれば、ちび君があんまり一生懸命に教室を覗き見してるようだからさ。ついからかいたくなっちゃって」
......の、覗き見。
なんかものすごく人聞きの悪い言葉のような。
「だけどちび君気をつけなよ? 覗き見は場所を間違えると大変なことになるから。特に女の子が沢山集まるような場所では──」
「そんなことしませんてばっ!」
顔を真っ赤にし、ネイトは勢いよく顔を横に振った。
「いや、でもちび君なら女装すれば案外いけるかも。声と容姿は問題ないな。残り必要なのは自信と度胸か?」
......エイダさんてば、真剣な表情で考えなくてもいいのに。
「とにかく、ケイト先生が来ないうちに教室入りませんか?」
「お、そうだったね。忘れてた」
思いだしたようにエイダがぽんと手を叩く。遅刻常習犯の彼女にとっては、こんな状況はとっくに慣れ親しんだものなのだ。
「......忘れちゃだめです」
脱力しかけた肩に力をこめて鞄を持ち直す。
音を立てて扉を開け、ネイトは教室内のクラスメイトを見回した。席から離れて雑談中の生徒もいるが、どうやら自分たち以外は全員既に登校していたらしい。
「あー、ネイト君やっと来た! エイダも一緒だったんだね」
眺めていた教本を閉じ、席に座る少女がにこやかな笑顔で手を振ってくる。愛らしい童顔に明るい金髪、あどけない口調が特徴のクラスメイト。それがこの少女、ミオ・レンティアだ。
「おはようございますミオさん」
「おはよー。で、ネイト君、さっそくだけどクルルはどうだった? やっぱりまだ学校来られないって?」
「はい、まだ意識が戻ってなくて......もう少し時間がかかるそうです」
ネイトがトレミア・アカデミーに来て一番初めに知り合って、一番長い時間を一緒に過ごしてきたクラスメイト。それがクルーエル・ソフィネットという少女だった。
しかし彼女は今、高熱や頭痛、寒気など身体を襲う原因不明の症状によって意識を失った状態が続いている。
「って、あれ? なんで僕が医務室に寄ってきたこと知ってるんですか」
「えへへ、だってネイト君が遅刻するなんて理由それくらいしかないからね」
変わらぬ笑顔のままミオが席から立ち上がった。
彼女の年齢は十六歳。ネイトがトレミアの男子寮に入った当日から知り合いになった生徒で、普段から特に仲の良いクラスメイトの一人だ。
「......それにしても、やっぱりクルル良くならないんだ」
「ええ。今のところ」
クルーエルが意識を失ってから既に一週間以上が経過。ネイトも毎日早朝と放課後に医務室へ通っているが、彼女の容態はまるで回復する兆しが見えていなかった。
原因不明、彼女を看護する医師からはそう聞かされている。治療方法も分からないと。
「......クルーエルさん、いつ目を覚ましてくれるのかな」
そしてそれは、クルーエルの名詠式と何か関係があるのかもしれない。他ならぬ彼女自身から、ネイトはそれを秘密裏に聞かされていた。
「昏睡状態のままだからご飯だって食べてないし。とにかくこのままだと、クルーエルさんの身体もどんどん弱っていく一方ですよね」
「そうだね。とにかくクルルが目を覚ますことが大切だとあたしも思う。とにかく起きてご飯しっかり食べてもらわないとね」
しばし天井をぼんやり見つめた後、ミオがぱっと表情を明るくした。
「もういっそのこと、無理やり起こしてみる? 問答無用で揺すってみたりとかして」
「い、いやさすがにそれは可哀想です」
「じゃあさ、クルル甘いの好きだし、寝てる傍にプリンを山盛り置いて甘い匂いで誘うってのはどう? 目、覚ますかもしれないよ」
「......えっと、どうと言われても」
言葉に迷ったネイトが口を開けるその前に。
「ちょっと待った、そいつは聞き捨てならないね!」
途端、猛然と走り寄ってくる女子生徒がいた。艶やかな黒髪にすらりと伸びた長身の少女、サージェスだ。
「ち、違うんですサージェスさん! 今のはミオさんの冗談で──」
「キミタチ、そんな楽しそうな話題にあたしを交ぜないとはどういうこと!」
目をキラキラさせ、満面の笑みを浮かべる彼女。
「あ、あれ?」
ネイトが呆気にとられているその隙に。
「あのねサージェス、どうやれば起きるかなって考えてたの」
「ほうほう。それならこの際、くすぐってみるとか? あの子くすぐったいの苦手だったから効きそうだし」
「あーいいね」
あ、あれ。あれれ。
真剣な表情でとんでもない内容を議論するミオとサージェスの周りに、なぜかクラスメイトたちが次々と。
「あ......あのですね、みなさん......クルーエルさんは病気で寝こんでて......ゆっくり休ませてあげないとですね......って、聞いてくれてます?」
必死に声を上げて主張したものの。
「みんなで歌でも歌ってみようか、クラス全員で大合唱」
「いやいや生ぬるい。運動部の男連中から暑苦しそうなのを見繕ってきて集団でお見舞いさせるとかどう? あ、でもこれじゃクルーエル逆に失神するか」
......ケイト先生、お願いだから早く来て。
なんだか、クルーエルさんがすごく怖い目に遭いそうです。
2
地図、学術書、伝記、小説。地下から地上五階まで、見渡す限りが書物で埋められた室内。地上五階まで続く階段を、分厚い本を数冊抱えたままネイトは上っていった。
「大きすぎるのも問題だよね、どこに何の本があるか分からないもの」
トレミア・アカデミーでも一際巨大な建物の一つ、図書管理棟。
そびえ立つように視界を埋める数多の本棚、薄紙一枚すら入る余地のないほど整然と陳列された種々の本。近づくだけで古書特有の匂いが漂ってくる。
「......薬......病原菌......対策」
背表紙を指でなぞり確認し、それと思しきものを引き抜いては小脇に抱える。それを続けること半刻、両手に抱えきれぬほどの本の山をどうにか支え、ネイトはふらふらと最寄りのテーブルへと歩いていった。
「ええと」
積み上げた本の山から一冊を手元に。続いて鞄から付箋を取り出し、開いた頁の主要な部分に貼りつけていく。周囲の生徒から奇異の目で見られるも、それに気づかないほど一心不乱に作業を続け──
「ネイト君、少しは休んだ方がいいよ?」
不意に、ひょっこりと顔なじみの女子生徒が横から顔を覗きこんできた。
「あれ、ミオさん?」
「えへへ。あたしもたまたま調べたいことがあったから図書館来たの。そしたらネイト君が上の階で何か探してそうだったから」
言われてみればミオは元々本の虫。そんな彼女が図書管理棟にいることは何ら不自然なことではない。
「何の本探してたの? なになに、病気? 体調異常? クルルの?」
「はい、今クルーエルさんはティンカさんが看てくれてますけど、その間何かしてないと僕の方が頭一杯になっちゃいそうで。それに」
そう前置きし、ネイトはぼそぼそと。
「......何としてでも、『黄の小型精命で電気ショック療法』が可決される前にクルーエルさんに目を覚ましてもらわないと」
「えー? あれ冗談だって冗談、みんな分かって言ってるから平気だよ」
「本当ですかぁ?」
「うんうん」
のほほんとした笑顔でミオは。
「不謹慎かもしれないけどね、あんなこと言ってれば『何考えてるの、そんなのやめてっ!』ってクルルが怒鳴って起きてくる気がしたの」
それはきっと、目を覚まさないクルーエルへの不安から来る裏返しの反応なのだろう。
だからこそネイトも、それ以上追及せずに頷いた。
「そういえば、ミオさんが調べたいことって?」
「うん、あたしはこっち」
ミオが指さすテーブルに、自分の物と同じくらい高く積み上がった本の山。
「薬剤系の辞典に、病気の治療法の本? あれ、これってさっきまで僕が探してた本です!」
けれど、結局見つけられなかった。自分より先に誰かが借りてて空になっていたからだ。じゃあ、僕より先にこの本を探してたのは。
「そそ、何だかんだで考えることは同じなんだよ。クルル早く治ってほしいもんね」
人なつこい無邪気な笑顔でミオは微笑んだ。
「ネイト君もどうせこの本、気になってたんでしょ。一緒に見よっか?」







トレミア・アカデミー総務棟、一階医務室。
清潔感ある白で統一された壁に、光沢あるワックスが丁寧に塗られた木板造の床。箒で丁寧に掃除がなされ、埃一つ見当たらない。壁沿いには人の身長を上回る巨大な棚がいくつも配置され、種々の薬品が所狭しと並べられている。
その部屋に、一人の女性医師が落ちついた様子で佇んでいた。
ティンカ・イレイソン。白銀色の髪に瑠璃色の双眸、白のブラウスを着た鮮やかな印象の女性だ。正式な医師としての免許を持っており、トレミアの正式な職員ではないものの、自主的に学園の医務室に留まっている。
「新しい学園だけあって医務室が綺麗で広いのは素敵ね」
テーブル脇の椅子に腰掛け、ティンカは湯気の残るティーカップをテーブルに置いた。
医務室内のベッド数は組立て式の簡易ベッドを含めて十。千五百人強という生徒総数からすれば少ないかとも思ったが、医務室のベッドが足りないという現象はこの学園が創立してから一度も起きていないと聞いている。
現に、今ベッドを使用している生徒は一人。
「......でも、その一人が大変なのだけれど」
薄い布製の間仕切りで区切られた状態でベッドが並ぶ。その中で、一番奥のベッドの間仕切りだけが今も閉められたままだった。
「失礼、開けますよ」
シャッと音を立てて布幕を開ける。白の患者服を着せられたまま、微かな寝息も立てずに昏々と寝入る少女がそこにいた。室内の照明に映える緋色の髪をした、ほっそりとした長身の女子生徒。
クルーエル・ソフィネット──学園の高等部に今年入学したての一年生で、名詠式の修得年数は中等部からの三年間と聞いている。
自分が望む物を心に描き、自分の下へと招き寄せる転送術、それが名詠式。その術式の過程で、詠び出す対象の名前を賛美し詠うことから名詠式という名がついたとされる。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。名詠式はこれら五色の音色から成り立ち、それと同色のものを詠び出すことが可能となる。クルーエルの専攻もまた、その五色の音色の一つである『Keinez』だ。
学内での紙上試験におけるクルーエルの順位は、一年生の中でも決して高い方ではない。辺境の名詠学校の、平均的な一年生である少女。
最初は誰もがそう思っていた。けれど──
〝Isa siaclue-l-sophie pheno〟
一度名詠に使った触媒は再利用が不可能に近い──後罪によって固く施錠された名詠門を〈讃来歌〉と共に解放し。
〝Hir qusi『clue』lemenet feofulleftia sm jes gluei I〟
〝melodia fo Hio,O ect ti hear Yem『sophit』〟
赤の真精、数ある名詠生物の中でも最も幻性度の高い黎明の神鳥を意のままに詠び招く。名詠を学ぶ学生という範疇を超え、世界中の名詠士の中でも異彩を放つその力。
「......まるで、その力の代償でもあるかのようね」
少女から体温計を取り出し、ティンカは洩れかけた嘆息を胸の奥へと押し戻した。
ここ数日、クルーエルが昏睡に陥ってからまるで下がる様子を見せない高熱。本人は頭痛と寒気も訴えていたが、それもおそらくはまだ続いているだろう。
彼女特有の、原因不明の病状。
そして彼女特有の、特異なる名詠。
あまりに発現の時期が重なりすぎている。この二つに関係性がないとは思えない。そう、それが一週間ほど前に自分が出した推測だった。そして──
〝シャオが言ってたんだけどさ。あたしの理解が正確かどうかは分からないけど、クルーエルは自分の心の中に真精を詠んでしまってるらしい〟
彼女に眠る秘密、それはあまりに唐突に明るみに現れた。エイダが遭遇したシャオという人物が告げる、クルーエルの名詠の根源。
〝その真精とクルーエルが喧嘩......ていうのかな、真精は名詠者に従うはずなのに、とにかくクルーエルの意識と衝突してるらしいんだ。今のクルーエルの体調不良はそれが原因らしくてさ〟
この世界に認められている五色の名詠。そのどれにも属さないのがネイトの扱う夜色名詠だと聞いていた。だがその中で突如、夜色名詠と対になるという空白名詠の存在が浮上してきた。
「そしてその真精がアマリリスという名前、か......」
クルーエルはその真精を自らの心の内に詠び、そしてそれが反発を起こしているという。クルーエルと真精、その衝突が続けば続くほど彼女自身の身体に反動として返ってくる。
彼女の心の問題。それは単純な精神面での問題だけではない。名詠式の、いまだ解明しえぬ深奥と絡み合う神秘なのだから。
「......クルーエル、とても孤独な場所であなたは苦しんでいるのね」
どんな人間だって、彼女の心の中を覗くことなんかできやしない。誰一人救いの手を差しのべることのできない遠い場所で、彼女は独りぼっちで苦痛と闘っているのだろう。
──だが、そんな事実を誰に告げられるというのだ?
医師の資格を持つ自分も、名詠士の資格を持つこの学校の教師も、彼女の容態にはただ手をこまねいているしかなかった。少なくとも現状においては、日に日に衰弱していく彼女を見守るので精一杯。
けれど彼女のクラスメイトは、そんな事実など知りもしない。クルーエルはすぐに良くなると信じきっている。彼らにそんな残酷な事実を明かすことが、果たして正しいことなのだろうか。
「いったい、どうすればいいのかしら」
今も迷ったまま、ティンカはまだ誰にも告げられずにいた。
苦い息を吐く。と、それに重なるタイミングで。
「おーいティンカ、入っていい?」
医務室の扉が開き、赤銅色に日焼けしたボーイッシュな少女がひょこっと顔を覗かせた。
エイダ・ユン。自分と昔から顔なじみの少女だ。
「ええ、ですがなるべく静かにね」
「わーかってるって」
クルーエルの見舞いかとも思ったが、エイダは奥のベッドに近づかず、ただきょろきょろと医務室の中を見回すばかり。
「どうかしましたか」
「んと、ちび君いないかなって。放課後すぐどっか行ったみたいだったから、てっきり医務室かと思ってたんだけど」
「ネイト君は今日はまだ来てませんね」
そう、それはティンカからしてみても珍しいことだった。普段の彼なら放課後の鐘が鳴り終わる前にやってくるのに。
「んーそっか。ならあとちょっとだけ待ってようかな」
「何か伝えることでも?」
すると、足下の床を睨みつけるようにうつむいた状態で、エイダは悲しみを押し殺すように訊いてきた。
「......ねえティンカ。クルーエル、あとどれくらい保つ?」
──やっぱり、気になるのね。
クルーエルの身体の異常には彼女の名詠が関係する。しかし具体的にその内容まで知っているのは、学生の中ではエイダだけだった。
「どれだけとは?」
「ティンカが思ってるそのままを聞きたいんだ。昏睡が続いて、時々目を覚ますけどそれは高熱と頭痛のせい、それが続いてまた昏睡。ちび君や他のクラスメイトには言ってないけど、クルーエルは前からまるで良くなってないんだろ」
「......ええ、残念ながら」
エイダの顔を見ることもできぬままティンカは首肯した。
「正直今の段階だって、彼女がかろうじて命を取り留めているのがふしぎなくらい。でも、それすらもう限界に近いのは確実です。......保ってあと一週間」
いや、これすら楽観的な数値なのだろう。実際に彼女の心と命をつなぐ糸がいつ切れたとしても、何らおかしくない。
「症状の進行によっては、実際はもっと短いかもしれません」
「......そっか」
うつむいていた姿勢から一転、ぼんやりと天井を見つめるエイダ。
「あたし、ちび君に最後まで隠し通せるかな」
「辛いですね」
クルーエルが明日にでも回復することを頑なに信じる彼。クラスメイトの大半も似たようなものだろう。その姿を見るのが辛いのはティンカとて百も承知だった。生きる希望を信じている者に事実を伝えるかどうか、医者が抱える不可避のジレンマだ。
「なあティンカ、こんな学校の医務室じゃなくてさ、もっと専門的な医療機関に運んで治療受ければ何とかならないかな」
「無駄でしょうね。わたくしが傍にいるといっても、それすら気休めに過ぎません。あなたも分かっていることでしょうけど、クルーエルさんの体調異常は厳密には病ですらなく、名詠式が抱える謎に根を下ろしているものですから」
クルーエルの心に宿っているという、空白名詠の真精。自分たちには目に見ることも触れることもできない。名詠士や祓名民に打つ手がないのであれば、どんな名医とて同じことだろう。
「それならいっそ医療機関じゃなくて、この学校みたいな名詠式の研究機関の方がまだ何かを見出せる可能性が高いってか」
「そういうことになりますね」
「でもそれだと保って一週間。......どのみちこのまま進展がないとダメってことか。本当に、今回ばかりは洒落にならないんだな」
ソファーに座ったままエイダが唇を嚙みしめる。祓名民の最上級、祓戈の到極者の称号を持つ彼女とて今度ばかりは無力に等しい。なにしろクルーエルのような事例は今までに例がない。そもそもの原因すらまるで分かっていないのだ。
「そうですね。そしてその進展も、必ずしも良いものばかりとは限りません」
「......うん、分かってる」
エイダが見つめるのはテーブルの上、ティンカが学園に持参してきた黒鞄だった。
「ティンカ、通信機鳴ってるよ」
閉じた鞄の中からわずかに響く機械的な受信音。自分が所属する〈イ短調〉のメンバー内でのみ使われる極秘裏の回線だ。
......このタイミング、おそらくはサリナルヴァ。でも彼女の性格からして単なる事務的な定期報告とは考えにくい。それこそ何か発見が?
「サリナルヴァから?」
同じ推測に至ったらしく、エイダがソファーから腰を持ち上げる。
「おそらくは。でも過剰な期待はしない方がいいですよ」
鞄の留め具を外し、ティンカは中の通信機を取り出した。
『ティンカか?』
通信機から響く、特徴ある低い女声。瞬時に、知人である女性研究者の顔が思い浮かんだ。
「ええ、そちらはどうですかサリナルヴァ」
『変わらず〈孵石〉の分析途中だな。外殻の方は九割方作業を終えたといったところか。内部に封されていた本当の触媒、こちらに思いのほか手間取っている』
「......そうですか」
やはり、この状況を覆すような画期的な発見はないということか。
「サリナルヴァ、こちらの状況ですが」
『言わずとも分かっている。クルーエル・ソフィネット、彼女の身がもう保たないのだろう』
「ご存じでしたか?」
離れた地にいる彼女にはそこまで伝えていないはずだったが。
『今の通信だけで十分推し量れたさ。私からの通信を受けるなりこちらの状況を訊ねるということは、私側で何か発見があることを期待している証拠だからな』
「まさにその通り、事態は急を要します。それで、そちらでは何か手掛かりは?」
『難しい、というのが正直なところだな。そちらが学園内で遭遇したという、空白名詠の浸透者。せめて私も自分の目でそれを見ていれば何か得られたのかもしれないが......』
一拍分の間を空けて、彼女は口早に二の句を継いだ。
『空白名詠という具体的なイメージがまだ不明瞭なのが痛いな。そしてその真精がいつ、どのようにクルーエルに宿り、クルーエルに反発しているのか。原因も解決策もまるで手のつけようがない』
「そうですね。原因を後回しに解決策をと思っても、その真精をどうすればいいのか、皆目見当がつきません」
時間と手間をかければまだ何か発見もあるかもしれないが、今の自分たちにはクルーエルの体力という切実なタイムリミットが設定されている。刻一刻、否、秒刻みで彼女の体力は零へと向かいつつあるのだから。
「ひとまず状況は確認しました。また何かありましたら──」
『ティンカ、クルーエルだが、うちの医療部に寄こさないか?』
「......えっ!」
声を上げたのはティンカではない。隣で、それまでサリナルヴァとの通信を聞いていたエイダが反射的に立ち上がっていた。
「サリナルヴァ、それはどういうことですか」
『そのままの意味だ。私のいるケルベルク研究所の医療部にクルーエルを移送してはどうかという提案だ。クルーエルの両親には私と学園長で連絡をつける』
サリナルヴァが副所長を務めるケルベルク研究所本部。同じ〈イ短調〉に属するティンカも訪れたことがある。
ここトレミア・アカデミーから東へ、やや大陸中央よりに鉄道で五時間ほど向かった地に拠点を構える一大研究機関。サリナルヴァをはじめ多くの研究者が勤める施設であり、そこの医療部ならばこの医務室より優れた設備環境が調っているだろう。それにケルベルク研究所ならば、名詠式が絡むクルーエルの体調分析もできるかもしれない。
「そこで治療を?」
『できる限りの処置を施すと同時に、こちらでも情報の収集に傾注する。万一何か情報を得られても、すぐその場にクルーエルがいなければ意味もないからな』
確かに、考えうる全ての選択肢の中でそれが最善に近い。しかし、そのことで唯一頭を悩ますことがあるとすれば。
「......ミオはともかく、ちび君が反対するだろうね」
腕を組んだ恰好でエイダが表情をしかめる。そう、まさにティンカも同様の不安があった。彼女と親しい間柄の生徒、特にネイト・イェレミーアスは彼女に特別の情を抱いているように感じる。彼女と分け隔てられることを、その彼が快く思うはずがない。
『それはそちらの説得次第だな』
「恨まれ役になりそうですね」
通信機を握りしめたまま、眠り続けるクルーエルをティンカはじっと見据えた。
3
「......あああ、またやっちゃったぁ!」
燦々と注ぐ朝陽が舗装路をじりじりと焼く。照り返しの放射熱に流れる小粒の汗を拭い、ネイトは男子寮から大慌てで駆けだした。
昨日図書館で借りてきた本を徹夜で読みあさっていたはずが、気づけば本を枕にして熟睡。読み慣れない書物をじっと読みふけっていたせいで目が疲れ、休憩をかねてちょっと目をつむって──それ以降の記憶がない。
「昨日はケイト先生まだ来てなかったけど、今日はきっと......」
朝食をとる暇もなく、とにかく制服に着替えて飛び出してきたというわけだ。
「まずいかもっ、もうすぐ予鈴鳴っちゃう!」
息を切らしたまま一年生校舎に突入、階段を一段抜かしで駆け上がる。その勢いのまま、通路の一番奥にある自分の教室へとつま先を向けた。
「おはようございますっ!」
閉まっていた扉を力いっぱい開き、ネイトは教室の中へと飛びこんだ。
と同時、総務棟から響く予鈴の鐘。
......ふう、間に合った。
胸をなで下ろし呼吸を整える。壇上のケイト教師を見上げ──
「あれ、ケイト先生?」
壇上にいるとばかり思っていた教師の姿が見当たらない。昨日は朝の職員会議が長引いたせいで遅れたと聞いたが、二日連続で会議が長引くというのは今までになかったことだ。
それに、何かクラスの様子がおかしい。
ケイト教師がいないから雑談というのは昨日と変わらない。だが今日は、教室の中央に全員が集まって、神妙な表情で何かをささやきあっているのだ。
普段ならめいめい好き勝手に小規模のグループを形成して雑談のはずが、今日はまるでクラス会議でもやっているかのような。
「あの、どうしたんですか」
「お、ネイト君来たんだ」
ショートの金髪を揺らし、集団の外側にいたミオが振り返る。
「おはようございます、ところでミオさん」
今日どうしたんですか、こんなにみんなで集まって──そう訊ねようとするより前に。
「ネイト君遅かったね、もしかしてクルルにお別れの挨拶してきたの?」
......え?
ミオの言葉に、頭が一瞬真っ白になった。
「そうだよね、ネイト君昨日も朝からお見舞いしてたから当然か。あたしたちもね、クルルが行っちゃう前にお見送りしに行こうって話してたところなの。クルル意識戻ってないから返事はしてくれないだろうけど」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ!」
一人頷くミオを遮り、慌てて息を整えた。
「僕、全然話が摑めないです! クルーエルさんがいなくなるって......お見送りっていったいどういう意味なんですか!」
どうしてだろう、胸が締めつけられるように痛い。すごく嫌な予感がする。まるで自分一人がおいてけぼりにされたような感覚だ。
「あれ、ネイティってばクルーエルのお見送りに行ったんじゃなかったの」
自分たちへと振り向き、サージェスまでもがきょとんと首を傾げる。
「僕、今日はちょっと遅れただけでどこにも行ってないです。......クルーエルさんに何かあったんですか」
「そう、じゃあまだネイト君知らないんだ」
普段の明るい表情に影を落とし、ミオが弱々しく吐息をつく。
「クルルね、ずっと目を覚まさないでしょ。学校の医務室にある設備じゃ治療にも限界があるから、もっときちんとした設備のある場所に移されるんだって」
......うそ。
眠ったまま意識を戻さないクルーエル。つまり彼女の意思に関係なく、誰かが提案したということ?
「クルーエルさん、今日で学校からいなくなっちゃうってことですか」
「うん、そうなるね。でもクルーエルが元気になれば戻ってこられるらしいし、寂しいけどしょうがないよ」
そんな、なんでそんなに突然に。
「ミオさん、クルーエルさんまだ医務室にいるんですか」
「ん、たぶんいると思......って、ネイト君?」
「僕、クルーエルさんのとこ行ってきます!」
ミオの手を振り切り、ネイトは通路を全速力で駆け抜けた。
「クルーエルさんっ!」
ノックも忘れ医務室の扉を開ける。そこに──
「ネイト君?」
「ネイト?」
ティンカ、そして若葉色のスーツを着たケイト教師がほぼ同時に振り返った。
狭い医務室に並ぶ幾人もの教師、用務職員。そしてその大人たちに囲まれるように、ソファーに横たわった状態でタオルケットに包まれた緋色の髪の少女がいた。
「ケイト先生、クルーエルさんが別の場所に行っちゃうってどういうことですか!」
「......ええ、昨日の夜中に緊急の職員会議を開いて話し合ったの。この学校の医務室は確かに新しいしそれなりの設備もある。だけど、それでもクルーエルの治療にはもっと専門の場所で」
「で、でもっ、待ってください!」
肩で息をしながらネイトは両手を広げた。
「......クルーエルさん......可哀想です。眠ったまま何も知らないうちに、自分の意思じゃないのにまるで知らない場所に移されるなんて」
いつもの通りに寝ていたはずが、起きたらそこは知らない場所。家族も友人もいない、とても寂しい孤独な部屋。それはどれだけ辛いことだろう。
「あなたの気持ちも分かるわ。だけどね、もう決まったことなの。既にクルーエルを受け入れる先にも連絡して了承ももらってる。列車だって既に専用の部屋を借りてるの」
「......そんなのいやですっ、お願いです! クルーエルさんを独りぼっちにしないで!」
ケイト教師の顔を瞬きもせず見上げ、ネイトは声の限りを振り絞った。
「クルーエルさんが治るまでずっとお見舞いするって、僕クルーエルさんと約束したんです! クルーエルさん医務室で怖がってた! だから僕、一緒にいてあげたいんです。クルーエルさんを独りにしないって約束して────」
「そのクルーエルさんが死んでもいいの?」
............え?
白のブラウスを着た、白銀色の髪の女性。
ティンカ・イレイソン。普段と変わらぬ表情で、いつもと同じ優しげな口調。だからこそ、ネイトは彼女の告げる言葉の意味がすぐには理解できなかった。
「昏睡状態に陥ったまま既に一週間以上。高熱も一向に治まる気配がなく、投与した薬も全て効果なし。医者として断言しますが、このままではクルーエルさんの身体が限界に達するまでもう時間がありません」
......クルーエルさんが。
............死んじゃう?
うそ、うそだよ。そんなの絶対うそだよ。
「そんな......うそ、ですよね」
だって、だってクルーエルさん起きてた時はあんなに元気で──
「患者のことに関しては、わたくしは噓をつきません。今ある設備では、クルーエルさんが万一の状況に陥った時に対処できない可能性が高いの。だからこそ学園の教師の方々とも一晩中議論を尽くしました。その結果にまとめた苦肉の策です」
「......でも」
自然とうつむく自分に、ティンカは自らしゃがんで顔を覗きこんできた。
「大丈夫、クルーエルさんを独りぼっちにさせはしません。わたくしも同行いたします。それにね、クルーエルさんの受け入れ先はケルベルク研究所の本部ですよ」
「ケルベルクって、あのケルベルクですか?」
大陸各地に研究施設を構えるという一大研究機関。〈孵石〉を研究し、それゆえに灰色名詠の使い手ミシュダルに狙われた研究所だ。
「ええ、そこでサリナルヴァもわたくしたちの到着を待っています。副所長の彼女自ら、クルーエルさんの治療を全力でサポートしてくれるそうですよ」
肩に、そっとティンカの手が触れた。
「やれるだけのことは尽くします。だから、ネイト君はここで待っていてください」
大切な人の命がかかっている。嫌だ、とは言えなかった。
けれど、ティンカの言葉に頷くだけの力もまた残ってはいなかった。肩が持ち上がらない、膝もふるえがとまらない。声を出そうとしても喉が擦れたまま息が洩れるだけ。
......クルーエルさん......助けられなくて............ごめんなさい、僕......
どうしようもない無気力の中で、ネイトはかろうじて自分の拳を固く握りしめた。

間奏第一幕 『ミシュダル ─孤独─』
「──敗者?」
「自分の愛する者を救えなかった。それ以外に敗北と呼ぶべきものがありますかな」
「......そうね。そうかもしれないわね」







そこは、薄暗い部屋だった。
シャッターの降りた窓、隙間から侵入するのは糸屑のようにか細い陽光。一条の光に照らされ、周囲を舞う灰色の残滓が浮かび上がる。燃えがらの、そのさらに残り屑。火によって炙られ燃え尽きた残骸のようなもの。
灰色名詠の触媒にして敗者の証。
「......くだらん」
床に積もる灰を踏みつぶすように、大柄な男が歩を進める。薄汚れた外套で全身を覆い、その歩みはまるで亡霊であるかのようにおぼつかない。
「くだらん」
先と同様の言葉を吐き捨て、男が部屋の中央で歩みを止める。凍てつく冬の湖畔のように、耳鳴りがするほど静まりかえった部屋だった。
そこかしこに横倒れになった机に椅子。引き裂かれたカーテン、床上の絨毯。そして、人の形をした無数の石像が部屋の中に転がっていた。
研究員、用務員、中には名詠士と思しき人間もある。
「くだらん......これだけの人数が寄り集まって俺一人を止められないだと?」
三度目の言葉には、嘲笑が混じっていた。
「ははっ、これは滑稽だ。なあヨシュア、俺のような小物を大陸中の名詠士たちが探し回ってる、追いかけ回してる! なのに俺は今もこうして、一人で息巻いて哄笑を垂れ流しているわけだ!」
無音の部屋に、男の笑い声だけが幾重にも重なって響き合う。
我を忘れたかのように大声で笑い続ける。息が切れ、喉が擦れ、肺の中の全ての呼気を吐き出してなお、男は笑い続けていた。大声がかすれ声となり、かすれ声がやがて声ですらなくなった頃──
嘲笑は、いつしか自嘲へと姿を変えていた。
「......そうだな、これが孤独か」
自分の失われた片腕。痒くて痛い。もどかしいまでに疼く右腕をさする。
もう何年前の話になるのか。右腕を蝕む悪夢はこの疼きと共に、どれだけ時間が経とうとも消えることがない。
「本当に大切なものは名詠式では手に入らない。お前の言う通りだよ、レイン」
静寂が覆う研究所に、敗者の溜息だけがこだまする。
「求める者も呼び出せず、会いたい者にも会えない。ならば名詠式の価値は、そんな名詠士は、いったい何のためにあるんだろうな」
かつて、自分のすぐそばにあった名前。
敗者の王ではない、自分のかつての拠り所。今はもう、どれだけその名を呼んだとしても返事はない。
「......どん欲に求め奪い続け、その果てにようやくたどり着いたのはその亡霊か。......はは、それもいいな。負け犬の俺には相応しい」
灰によって塗りつぶされた天井を見上げる。部屋の中ながら、それはまるで灰色の空のようだった。
「なあ、そうは思わないかクルーエル、そして夜色名詠の詠い手のお二人さん。俺とお前たちはとても似ているんだよ。お前たちもまた、俺と同じ道を行くことになるのか?」
灰色の天井を見つめ、その男──ミシュダルは、血の気を失った紫色の唇をつり上げた。
「......ああ、その答えを聞くのが楽しみだ。本当に楽しみだ」
間奏第二幕 『カインツ ─風の道標─』
大陸の端、名もなき広大な草原にて。
見渡す限りの地平線。緩やかな勾配の丘陵を覆う緑の絨毯の中、空に向かってそびえ立つような大樹が映える。その幹に背を預ける恰好で、枯れ草色のコートを羽織った男がぼんやりと空を見上げていた。
「......やっぱり、この時期はまだまだ暑いか、風も思うようには吹いてくれないし」
ひんやりとした木陰の中で彼──カインツはコートの袖をまくり上げた。
『風に文句を言うより先、お前の場合はまずそのコートを脱ぐことを考えてはどうだ?』
その声は自分より頭一つ上の、大樹の枝葉から聞こえてきた。いや、正しくは枝葉ではなく、それに留まる緑翼の小鳥から。
瑞々しい緑葉の中に隠れながらも、自らの存在を訴えかけるように翼を広げる小鳥。その翼は常時、人の目で捉えきれないほど小刻みに振動を繰り返す。
音響鳥。翼を震わせることで独自の周波を発生させ、遠隔地との通信を可能とする。名詠士が好んで使う通信手段だ。
『そのコートのせいで体感温度も違うだろうに』
「あいにく、こればかりは」
音響鳥の翼から伝わる知人の声に、カインツは小さく苦笑した。
『サリナルヴァが土産話を期待していたぞ? いったいどこをうろついていたのかとな』
クラウス・ユン=ジルシュヴェッサー。祓名民と呼ばれる特殊な護衛職に就く者たちの、その首領に位置する人物だ。自分が非公式に参加する〈イ短調〉という会の、その設立者でもある。
「ちょっとした遠足ですよ、寂れた孤島にね」
『で、その遠足の成果は?』
「あると言えばあるし、ないと言っても間違いではないでしょうね。あえて言うとすれば、背中を押されたとでも言いますか」
枝に留まる鳥に向け、大げさに肩をすくめておどけてみせる。
「先輩の方は?」
『進展したよ......悪い方にだがな』
翼から伝わる声は重く沈んだものだった。
『灰色名詠と思しき襲撃を受けた研究機関の報告が、日増しに増加している』
「それだけでは、傾向としては以前と変わらないようにも思いますが」
『以前も似たようなものではあったが、それでも件のミシュダルという男には狡猾な側面が見てとれた。だがここ最近のものはひどく稚拙な、まるで愉快犯のような印象を受ける』
稚拙?
その言葉に疑問を呈する間もなく、彼は先を続けてきた。
『まず狙う場所が無差別だ。狙う場所の規則性を探そうとしたが徒労に終わった。次に、侵入したからといっても目的が不明。さらに言えば侵入方法もだな。トレミア・アカデミーの件同様に今までは深夜が主だったが、最近について言えば真っ昼間でどれだけ人目につこうとも強硬に侵入を繰り返すありさまだ』
まるで気まぐれな犯行。狂気、あるいは愉快犯という単語で一括りにすれば無理やり理由付けすることはできるかもしれない。だが──
『追跡側への挑発と捉える見方が有力だが、わざわざそうする利点も考えにくい。ここまで露骨だとかえって罠でもあるのかと思いたくなるほどだ』
「それはもしかしたら、素直に捕まえてほしいだけかもしれませんよ」
一瞬、相手が沈黙した。
『なに?』
「......いえ、何となくそう思っただけのことです。深い理由はありません」
訊き返してくる相手にカインツは首を振った。深読みではなくむしろその逆。彼からの報告を素直に聞いて単純に考えた結果、カインツにはそう思えてしまったのだ。
『......まあいい。とにかくも早急に対策をとる必要があるのは事実だ』
「それは承知しています」
『私はネシリス、シャンテと一度落ち合うことにしている。お前も来るか?』
名詠士のネシリス、シャンテ。そして祓名民の首領クラウス。大陸中から選りすぐった〈イ短調〉のメンバー内でも、とりわけ中心となって活動している三人だ。
「そうですね。そう言いたいところですが、ボクはボクで思い当たる節がありまして」
『何か摑んでいるのか?』
「どうでしょう。さっきと同じ答えになりますが、摑んだというより、ただ背中を押されたと言った方がボクには似合いますね」
クラウスに向けてではない。それは、自分自身に言い聞かせるためだった。
『......ん?』
「もう一度あの日の約束の詠を聴きたい。今度こそ、きちんと見届けたいんです。それが、ボクのすべきことだろうから」
音響鳥にそう告げてコートの端をひるがえす。寄り添っていた大樹、その根元に咲く名も知らぬ黄色い花へと、別れを告げるように手を振った。
......風も出てきたかな。
地平線まで続く遥かなる丘の稜線。広大な大海を思わせる色鮮やかな草花たち。そのどれもが、草原に吹く微風に揺れて頭を垂れる。
それはまさに、自分が進むべき方角へと。
「風の道標か、悪くないね」
枯れ草色のコートをはためかせ、カインツはゆっくりと歩きだした。
二奏 『見失う、ということ』
0
〝クルーエルよ。同じ学校ならまた会うかもしれないね〟
それが、始まりだった。
一番初めに出会った時、その時の僕とあの人はまだ、単に道ばたですれ違っただけの関係だった。それが一緒のクラスになって、一緒にいるうちに......
いつしか自分でも気づかないうちに、とても大切な人になっていた。







クルーエルがケルベルクへと移された翌日。
学園では、ネイトにとって奇妙なほど落ちついた時間が流れていた。
クラスメイトもケイト教師も普段と変わりなく、悲しい顔を見せる者もいないまま講義が終わる。ミオと一緒に昼食をとり、午後は体育科の講義で汗を流した。
放課後はまっすぐ男子寮の自室に戻って講義の予習と復習。それから夕食とシャワーを済ませた時には、もうすっかり就寝時間が迫っていた。
「......もう寝ないと」
昨夜はあまりのことに一睡もできなかった。ただ寝られないだけではない。一晩中、悔しさ混じりのもどかしさが原因の吐き気に苦しんだ。今日一日、その状態でまともに講義を受けられたのがふしぎなくらいだ。
「......もう、寝ないと」
自分に言い聞かせるように、ネイトは同じ言葉を繰り返した。
今日も朝から夜までほとんど何も口にしていない。昼食はミオの前だから無理に食べたが、その後ひどい嘔吐感に襲われた。夕食は冷蔵庫にあった果物一つを半分に切って、それを無理やり飲みこんだ。
......お腹、さっきからずっと痛いや。
軽い腹痛に、ネイトは腹部に手をあてた。空っぽの胃に対し胃酸の量が多すぎるせいだろう。突発的な緊急性刺激を受けた時に生じる代表的な適応症だ。
昼間はあれだけ動けたのだ、自分でもよく保った方だと思う。けれど一人になった途端、言いようもない疲労に襲われた。昼間の反動、けれど、そんなものどうしようもない。胃薬なんて揃えてないし、何かしようにもそれだけの体力が残っていなかったのだから。
部屋の明かりを消して、ネイトは倒れこむようにベッドにもぐった。
そのまま目をつむり......
違和感があった。
──眠れない? どうして?
ベッドに横たわったままネイトは両目を見開いた。
こんなに疲れてたら、普段は横になった途端すとんと眠りにつけるのに。なのに、なんで今日は身体がこんなにざわつくの?
「......なんで、こんなに火照ってるんだろ」
身を起こす。途端、前髪の一房がふわりと浮いた。開きっぱなしの窓、カーテンを揺らす小さな風。
〝この風は、いったいどこで生まれるんだろうね〟
歌うように脳裏に響く、あの時の彼女の言葉。
〝風の生まれる場所。すぐ近くかもしれないし、遠い遠いところから、海を越えてやってきてるのかもしれない。キミは考えたことない?〟
「......クルーエルさん?」
ベッドから立ち上がり、ネイトは窓の外をじっと眺めた。
1
さらさらと足下の草が小さく鳴る。
暗い薄墨色の芝生の海を、ネイトはゆっくりと歩いていた。
学園敷地内、生徒寮から校舎に向かう途中にある広場。昼間は生徒や教師で賑わう憩いの場。しかし夜ともなれば、そこは単に静かで見晴らしの良い空間に過ぎない。広場中央に据えられた陶器製の小さな噴水も、今は泉としての役割を忘れて眠りについていた。
「......すごい静か」
噴水からわずかに離れた場所、草むらにぽつんとしゃがみこむ。
今の服装は、体育科の講義で使う運動用の白シャツと紺のズボン。通気性が良い素材でできているせいか、わずかな夜風でも肌に直接触れるような感覚だ。
そしてそれが、今の火照った身体にはひんやりと心地よい。
「ねえアーマ、僕、なんで眠れないんだろうね」
不安な時に厳しい物言いで励ましてくれた名詠生物。その名が今は懐かしい。
外灯が生み出すぼんやりとした幻灯に群れる羽虫。あの虫たちも、自分と同じように眠れないのだろうか。
「......こんなの初めてだよ」
眠れない夜。このトレミア・アカデミーに来てから初めてのことだ。
──なんか、疲れちゃった。
まるで、何か大事な目標がすとんと消えてしまったような脱力感があった。
しゃがみこんだ姿勢から仰向けに倒れこんだ。寝転がりたいからではなく、ただ眺める視界を変えるために。
夜空、ただそれだけがあった。
眩い星々が密集した、宝石箱のような輝き。一方で、月影の周りにぼんやりと浮かび上がる幽玄的な神秘もそこにはある。視界の端には、薄暗い雲が千々に流れゆく光景。
「不思議だよね、立って見てる時よりこうして仰向けで寝ている方が、空って近く感じるんだもん」
真上に向かってまっすぐ手を伸ばす。
摑まえるなんておこがましいことは望まない。ただ一瞬だけでも触れたくて──
「はい、捕まえたっと」
その手が、横から不意に伸びてきた誰かの手に摑まれた。
「寮生はとっくに外出禁止の時間だよ。まったく、学校じゃやけに大人しいと思ったら」
見上げた夜空の前に、それを遮るように覗く少女の顔。小顔と対照的に大きな瞳。日焼けした肌に亜麻色の髪を短く切ったボーイッシュな顔立ちの......
「エイダさん?」
「ま、その方がちび君らしくていいんだけどね」
寝ころんだままの自分の手を放そうとしない彼女。それはつまり。
「......僕、起きた方がいいですか」
「そうしてくれると助かるね。あたしさすがにここで寝っころがるの嫌だから」
背を起こしてしゃがんだ姿勢で見上げると、エイダもまた自分の隣に腰を下ろした。
「で、どしたのさちび君、よい子はとっくに寝る時間だよ」
「眠いのに眠れなくて......窓見てたら、外の方が気持ちよさそうだなって思ったから」
「あー、あるよね、なんか落ちつかない時って」
「エイダさんはどうしてこんな時間に外に?」
彼女も女子寮に部屋を借りているからこの場所にいるのは驚かないが、こんな夜更けに外を出歩く理由が見つからなかった。
すると彼女は、普段と違って妙に大人びた声で。
「そりゃもちろん、秘密の彼氏と刺激的な夜の散歩をね」
「へえ、素敵ですね......って、あれ、エイダさんなんでそんなに悲しそうなんですか?」
ふと気づけば、どよんと沈んだ表情でエイダが肩を落としていた。
「......うん。いや、そこはもっと派手なリアクションが欲しかったんだけどね。そもそもそんなシーンだったらわざわざちび君に声かけないわけで......まあちび君だからあんまりそういうの期待してなかったけどさ」
「あれ、そういえばその彼氏の方は?」
「それは聞くなぁっ! どうせ彼氏なんていないですよーだっ!」
「うわわっ、エイダさん落ちついてください!」
なぜか怒ったようにエイダが手を振り回す。
「ええと、それで本当のところは?」
「見回りだよ。校舎は先生たちがやってるから、寮とかこの広場とか一帯を任されてるの。それでぐるっとそこらへん歩いてたら、どうも怪しい人影を見つけたもんでね」
話の流れからすれば、それが僕だったのだろう。
「......エイダさんすごいですね」
「ん?」
「だって、見回りって今日からってわけじゃないんですよね。こんな夜遅くに毎日」
きっとそれは、あの灰色名詠の襲撃を受けた時からずっとなのだろう。クルーエルが倒れ、自分やミオ、クラスメイトが彼女を見舞っている時も、エイダだけはずっと夜中一人で学園を守っていたに違いない。
「毎日学校で講義中に寝てるから睡眠不足はないよ......それにこれは、あたしにとっては罪ほろぼしみたいなものだから」
弱々しく呟き、エイダが唇を自嘲のかたちに歪める。
「あたしさ、クルーエルに謝らなくちゃいけないことがあるんだ」
大きな瞳が微かに濡れ、彼女の声にはいつしか湿ったものが混じっていた。
「ミシュダルがこの学校に侵入してきた時のことなんだけどね、あたしクルーエルに、自分と一緒に学校の見張りをしてくれないかって頼んだことがあったの。クルーエルが黎明の神鳥っていう真精を詠び出せることは知ってたからね」
黎明の神鳥、クルーエルが詠び出せる非常に希有な真精だ。彼女以外にその真精を詠び出せる名詠士は現代において他に確認されていない。それほど幻性度の高い名詠生物だと聞いている。
「危険があることは知ってた。あの時点でも、得体の知れない何かが侵入していることも分かってた。だけどクルーエルはそれに頷いてくれて......」
地に腰をつけた恰好で膝を立て、そこに腕を載せて顔をうずめる彼女。
「......でも、間違いだったかもしれない」
一際、その声が弱く霞んだものになった。
「シャオって奴に言われたんだ。クルーエルは何度も何度も、名詠を使うしかない状況に陥っていたって。それが今クルーエルを追い詰めてるんだって──だとしたらその最後、どうしようもない状況まであの子を追い詰めたのは、あたしかもしれない」
「エイダさん、そんなことを言ったら僕だってそうです」
けれど、クルーエルさんと黎明の神鳥がいなかったらケルベルク研究所支部ではあんなに早く駆けつけられなかった。灰色名詠の使い手に襲われた時だって、彼女がいなかったらミオさんだってどうなっていたか分からない。
「ううん、僕だけじゃないです。たぶん、知らず知らずのうちに沢山の人がクルーエルさんの名詠に助けられてたはずだもん」
「......それは分かってる。きっと本当は、誰か特定の一人が悪いとかじゃないんだろうね。クルーエルに助けられたみんなが一人一人、クルーエルに謝らなくちゃいけない。でもあの子は目を覚まさないでしょ。あたしは馬鹿だから......何かしようと思ってもこれくらいしか思い浮かばなくてさ」
......僕は、そんなことまで考えることもできなかった。
「僕は......とにかく早く治ってほしいから、一時間でも長く医務室にお見舞いをって。それだけで頭がいっぱいで」
「それも大切なことだと思うけどね、誰かがやらなきゃいけないことだし」
うずめていた顔を持ち上げ、エイダが気丈に笑顔をつくる。
「あたしはさ、ちび君のことすごいと思ってる」
「僕が、ですか?」
「最初にちび君が転入してきた時は正直、やっぱり十三歳だなって思ったの。サージェスともそう話したことあったよ。まだまだ可愛いお子様だねって」
言葉に出したことこそなかったが、それはネイトも転入当初から感じていた。
周りは十六歳以上の学生ばかり、その中に十三歳の自分がいるという息苦しさも最初はあった。運動でも勉強でも、背丈だってとにかくどんなことでも一番下なのだから。
「今も印象は変わらない。背だけ急に伸びたってわけじゃないし、外見だって一か月かそこらで変わるもんじゃないしね。むしろ変わったのは、あたしたちがちび君を見る目なのかもしれない」
「そうですか?」
「たとえばケイト先生、いつの間にかちび君のことネイト君じゃなくネイトって呼んでるでしょ。他の子と区別しなくていいんだって、先生も分かってくれたのかもね」
あ、あれ。そうだっけ。
よくよく考えてみれば、転入当初は確かにネイト君と君づけされていた気もする。
「それについこの前、浸透者とかいう訳の分からないのが襲ってきた時のことだけど──ちび君、一人でそいつを相手にしたんだよね。ミオとティンカから聞いたよ」
「あれは......クルーエルさんが大変だったから、とにかくがむしゃらに」
「その時ね、分かった気がしたの。クルーエルがなんでずっと君の傍にいたか」
「僕の名詠を手伝ってくれるため、ですか?」
首を横に振り、エイダが微かに表情をほころばせた。
普段の明るさに溢れたものじゃない、微笑みを浮かべた優しい表情に。
「クルーエルが傍にいてあげたんじゃないんだよ。クルーエルが一緒にいたのは、あの子の方が君の傍にいたいからなんだなって気がする。目の前に何が起きても、君なら自分を助けてくれる──クルーエルはそう信じてたんじゃないかな」
「......でも僕、クルーエルさんの病気には何もできてなくて」
「そう? そうやって悩んでくれる相手がいるってのは、あたしから見ればクルーエルにとってすごく支えになってると思うんだけどね。あの子にとっては、君の隣は本当に安らげる居場所なんだと思う」
〝ネイト、キミにだけは伝えておくね〟
思いだしたのは、あの時の彼女の言葉だった。
「わかる? 君はクルーエルに、それくらい大切に思われてるんだ」
キミにだけ。つまりはそれこそが、信頼でつながった関係?
だとすれば。
〝クルーエルさんに早く元気になってほしいと思ってる気持ちは誰にも負けないつもりです。本当に、一日でも早くなおってくださいね。僕、ずっとお見舞いしますから〟
あの時、確かに僕はそう約束したから、だから──
「ちび君、本当はクルーエルのとこ行きたいんだろ」
「......はい」
本当はずっと行きたくて、でも今日一日必死でそれを我慢していた。我慢するのが途方もなく苦しくて、でもその苦痛さえ我慢して我慢して我慢してた。
でも、そんなことしなくてよかったのかもしれない。どうせ悩むのなら、ここで何もしないでいるより、実際に行動してから悩んだって構わないのだから。
「決めるなら早い方がいい。......もうあまり時間がないから」
「はい」
──エイダさん、ありがとうございます。
ようやく全て吹っ切れた。
薄暗い芝生の海から立ち上がる。
エイダの言葉に迷うことはなかった。否、迷う時間すら残されてはいなかった。
「明日の朝一番に始発列車を予約して、うまくいけば明日の昼間くらいには着けると思う。欠席の理由は風邪にでもしておくといいよ、怪しまれたらあたしが適当にフォローしておくからさ」
相方の祓戈を背に結わえ、エイダが胸元で腕を組む。
彼女に向けてネイトは小さく頷いた。
「はい。僕、クルーエルさんのところに行ってきます」
クルーエルがこの学校に戻れないなら、自分から会いに行くしかない。
......そうだよね、理由なんて一緒にいたいからだけで十分だもん。
その気持ちだけを大切に抱えて、なくさないように持っていけばいいのだから。
2
冷たい微風。陽に温められる前の乾いた空気は、吸いこんだだけで喉の奥がひりひりと痺れるようだった。
頭上が暁色に染まる、そのさらに前。
仰げばまだ星明かりが視認できる時刻、ネイトは駅舎の正門をくぐった。
「......っあ」
ふらつきそうになるのを、危ういところで姿勢を保持。背中に担いだ荷物のせいで重心の感覚が不安定なのだ。
大人でも目を瞠るほど大きなリュック。中には着替えや保存の利く食料に飲料水、そして名詠に必要な触媒。最初はリュックに入りきらないほどの量だった。それを昨夜一晩かけて削りに削り、何とか詰めこめるまでに選別したのだ。
「ええっと、たしかチケット売り場は」
トレミア・アカデミーから最寄りの駅舎。夏期合宿時に利用した場所だから、まだうっすらと記憶も残っている。以前は列車乗り場に直接集合したが、乗車券の売り場もそこから遠くないはずだ。
......ケルベルク研究所ってどんなとこなんだろう。
ずしりと肩に重みが食いこむ。リュックを背負い直し、ネイトは遠くに映る乗車券売り場へと足を進めた。きっと相当大きい研究所なのだろう。周りが研究員だらけの中で自分だけ目立ってしまうことになるけど、平気かな。
不安を挙げればそれこそキリがない。たとえば、今日無断で駅舎に来たことはクラスの皆にも秘密にしていた。
「......エイダさん、うまくごまかしてくれるかな」
乗車券売り場の窓口は全部で四つ。夏期合宿の時は時期的にも混雑していたが、この早朝では並ぶ人影もわずかだった。
「ええと。ケルベルク研究所本部まで行きたいんです、朝一番の便の乗車券ありますか」
つま先立ちで窓口に立ち、駅員に乗車券代の硬貨を手渡す。
いや、渡そうとした時。
「あーっ、ネイト君だめだめだめぇぇえっ!」
突然、遠い後ろの方向から誰かの金切り声が響いてきた。
......ネイト君て、もしかして僕のこと?
硬貨を握りしめたまま振り向く。と、それとまるで同時。小さなハンドバッグを携えた恰好で、一人の少女が勢いよく駆け寄ってきた。小柄な身体に金髪、童顔。穏やかで愛嬌のある顔立ちの──
「ミオさん?」
それは、ネイトがよく知るクラスメイトの少女だった。
「え、な、なんでこんなとこに?」
思いもよらない場所で遭遇したクラスメイトを前に、思わず口調が早くなる。
「......はぁ......あーっ、ま、待ってネイト君。遠くから走ってきたから疲れちゃった」
一方の彼女はと言えば、普段通りのマイペースさでのほほんと息を整えていた。
「あのぉ」
「いやー、間に合って良かった。駅舎のどこかにいるだろうって思ってたけど、乗車券売り場にいたんだね。あ、そういえば挨拶がまだだったね。あらためまして、おはよーネイト君!」
「あ、おはようございます」
聞きたいことも忘れ、ネイトはつい反射的に挨拶を返した。
「うんうん、おはよー。やっぱり朝の挨拶は大切だよね! ところでネイト君は今日の朝ご飯なに食べた? あたしはね、トーストに蜂蜜塗ったのとミルクティー!」
嬉しそうに頷く彼女。......ミオさん、本当にマイペース過ぎです。
うん、だめだ。このままミオさんから話してくれるの待ってたら、いつまで経っても聞きたいこと聞けなそうだ。
「あの、ところでさっきの『ダメ』っていうのは......というより、ミオさん何でここに?」
「あ! そうそう、それだったね!」
案の上、ぽんと手を叩いてミオがはにかむ。
「ん~、何て説明すればいいんだろう。とにかく乗車券は買わなくていいよ。さっき団体割引でネイト君の分も買っておいたから」
「......え?」
それどういうことだろう。
「とりあえず、ネイト君もこっちおいで」
ぽかんとしている間に、ミオに腕を摑まれた。
「さ、来てネイト君。残りは君だけだったんだから」
「あ、あのミオさん待って! 僕これから行かなくちゃいけないとこがあって」
「だーめ。すぐ分かるから一緒に来て」
腕を摑んだまま、ミオが乗車券売り場から離れる方向へと歩いていく。普段の彼女らしからぬ、妙に押しが強い誘いだ。
「......すぐ分かるって、何がですか」
「ネイト君次第。とりあえずおいで、ね?」
僕次第? 何だろう。
釈然としないまま、ネイトはミオの背中を追った。
駅舎内、乗車口。
ミオと自分、二人分の足音が周囲に小さく響く。ネイトが辺りを見回しても、自分たち以外の人影はまばらだった。
列車もまだ倉庫に格納され眠っている時刻。始発列車を待つ者でも、今は朝食や休憩目的で待合室に控えるのが大半だ。始発列車のために今から並ぼうとする者は少ないだろう。
そんな、静かな乗車口の一角で──その静寂を破るように、賑やかに騒ぐ集団が目についた。せいぜい十六、七の少年少女の一行だ。
「お待たせ~ネイト君見つけたよ」
その集団にミオが声を張り上げる。
「よぉ、ネイトも来たか」
荷物を床に置き、男子の一人が気楽な様子で手を振ってきた。鳶色の髪と瞳をした、やや背の高い真面目そうな雰囲気の少年だ。
「......オーマさん?」
オーマ・ティンネル。自分のクラスメイトで、男子をまとめるクラス委員の生徒だ。ミオだけじゃなく、なぜ彼もこんなところに。しかも、よくよく見ればクラス全員の顔ぶれまで。
「おはよ、ちび君」
集団からわずかに離れた場所に、布に巻かれた祓戈を担いだエイダの姿が。
「エイダさん、これどういうことですか」
「......いや、あたしもまるで予想外だったんだけどね」
こっそり耳打ちすると、彼女は苦笑の面持ちで言葉を濁しながら。
「昨日の夜、ちび君と別れた後に女子寮に戻ったらさ......女子寮でうちのクラスの女子が、こっそりロビーに集まって何か話してたわけよ」
「話って、何をですか」
「いや、だからさ」
腕を組んだまま顎でエイダが示す先、サージェスが何十枚もの乗車券を手にし。
「よし、全員揃ったみたいだね。んじゃ遅ればせながら乗車券配るよ。はいよネイティ、それとオーマ、男子の数だけ渡すからあんた男子に配ってちょうだい」
──乗車券?
手渡されたチケットをネイトはまじまじと見つめた。印字された行先は、ケルベルク研究所本部に隣接する駅舎。
「あ、それとネイティには渡してなかったね。ほい、一部あげる」
乗車券に続き、薄い小冊子を受け取った。
「昨日の夜に徹夜作業で原本作って、大慌てで刷ってきたの。作りの粗さの文句は受けないわよ」
小冊子のページをめくり、ネイトはおのずと息を呑んだ。作りが粗い? とんでもない。最寄りの駅舎からケルベルク研究所までの詳細経路、駅の時刻表に概算経費、他にも必要最低限の携帯品、これだけ事細かに記載されてあるなんて。
......僕だってここまできちんとは調べてなかったのに。
「病気のダチんとこ行くんだから、こんな時くらい力入ってもいいかなってね」
誇るわけでもなく、当然とばかりにサージェスが腕を組む。
「ネイティは、一人でクルーエルのとこ行きたかったかい?」
「え?」
あまりに唐突で核心をついた問いかけに、今度こそネイトは声が出なくなった。
そう、ずっと気になっていたことだ。なんでみんなこんな朝早くから駅舎にいて、しかもケルベルク研究所までの乗車券を持っているんだろう。
これじゃあまるで──
「あ、あの......僕まだ話が」
「なーに水くさいこと言ってんのさネイティ」
「そうそう、一人で色々考えたって頭パンクするだけだぜ」
サージェス、オーマ。いや、それだけではない。今までしきりに騒いでいたクラスメイトたち全員が、ぴたりと会話を止めて自分を見つめてきた。
......どういうこと?
「みんなね、ネイト君と一緒だよ」
すぐ隣で、ミオがにこりと微笑んでいた。
「クルルが心配なのはみんな一緒。クルルがいなくて寂しいのも一緒。だから、みんなで話し合ったの。どうすればいいかって。それで決めたの」
何を決めたんだろう。
疑問を口にするより先、目の前に立つ男子生徒の一人が言ってきた。
「行くんだろ、クルーエルが看病されてるケルベルク研究所ってとこ」
黄色の線が刻まれた白制服。大柄ながら普段は寡黙で大人しい男子生徒だ。
「......アルセムさん?」
トレミア・アカデミーに来た初日の講義のこと。午後の実習講義。自分、ミオ、クルーエル。そして彼とで四人一組のペアを作ったことは今もはっきりと覚えている。
「いくら列車っつってもよ、よく知りもしない場所に一人で行くのは不安だぜ? 行ってやるよ、俺たちも」
オーマが自分へと列車の雑誌を放り投げる。その表紙をさっと眺め、ネイトは目を見開いた。──これ、僕が下調べに使ったのと同じやつだ。
そう、列車の時刻表が掲載されている雑誌。
「ちょっと待った、男子じゃなくてむしろ女子がメインでしょ。クラス委員さんには早く帰ってきてもらわないと大変なんだから。それに寝てるクルーエルの見舞いに男連中だけ行かせたらイロイロ問題ありそうだし、見張り役も兼ねてね」
楽しげな笑顔を浮かべ、サージェスが背負っていたリュックを床に下ろす。
「ふふ、ネイト君、狐につままれたような顔してるよ?」
「え......」
ミオに、ちょこんと頰をつつかれた。
「言ったでしょ? みんな考えることは同じだって。一昨日クルルがケルベルク研究所に移されるって聞いてね、みんな本当はずっと迷ってたの。『そんなの寂しいよ』、『お見舞いに行く?』、『いやでも、無断てのはまずくない?』って心の中で何度も繰り返して......あたしだってそう。でも迷ってたままずっと答えが出せなくて、でもそんな時にね」
ミオが、自分が背負うリュックをすっと指さした。
「一昨日、クルルがいなくなるって聞いてわたしたちは動けなかったけど、誰かさんだけは、それを聞くなり一人で保健室に走っていったでしょ。それでみんな気づいたの。『ああ、やっぱりその反応が正しいんだよな』って。でもあたしね、それがネイト君で良かったと思ってる」
小冊子を胸元に掲げ、ミオがくすりとおどけたように微笑んだ。
「だってさ、転入してまだ二月ちょっとしか経ってない子が、それもクラスで一番歳の小さい子がクラスメイトのためにそこまでするんだよ?」
その後を継いだのは、男子のクラス委員だった。
「それを見て何もしないってのは、ちょっと俺たち恰好悪すぎだもんな」
照れたように頰をかくオーマ。
「そういうこと。入学したてからクルーエルと付き合ってるはずのウチら全員、それこそ何のためのクラスなのか分からないものね」
その横で、サージェスが愉快そうに唇をにっとつり上げた。
「で、もう一度訊くけど。ネイティは一人で行きたい?」
迷うまでもない。
心の内は、決まっていた。
「──そんなこと、あるはずないです」
クルーエルさん......聞こえてますか。
僕だけじゃない、みんな、クルーエルさんが元気になるのを待ってます。だから──
みんなで、クルーエルさんのところに行きますね。
3
職員室から教室に向かう途中、ケイトはすれ違った老人に呼び止められた。
「お早うケイト君、どうかな様子は」
小柄で穏和な雰囲気の老人。齢は七十近く。
この柔和な翁がここトレミア・アカデミーの創設者だ、そう来校者に説明したとしてもそれをすぐに信じる者は少ないだろう。
「おはようございます、学園長......ところで様子とは?」
「いや、なに。件のクルーエル・ソフィネット、彼女は君の教室のクラス委員だったと聞いている。クラスの中心にいた彼女が抜けて、やはりクラスメイトもそれなりに困惑していないか気になってな」
「その件ですか」
手にした出席簿を胸に抱え、ケイトは数秒間黙考した。
「それが、私にもふしぎなくらい落ちついてます。クルーエルの様子についても聞かれると思ったのですが、そんな質問もまだ一回として」
「ほう。それはまた大人びた配慮ができる生徒たちだ......どれ、ちと興味もある。ワシも教室の様子を見に行っていいかな」
「ええ、是非いらしてください」
学園長に激励の言葉をかけてもらえれば、生徒たちも元気づくだろう。
「ほう、本当に静かだな」
通路先の教室を遠巻きに眺め、学園長が感嘆の声を上げる。
「いやそれにしても、まるで誰もおらんかのように静かだ」
「またまた学園長、そんなご冗談を。きっとみんな朝のこの時間を利用して自習しているんですわ。これこそ日頃の教育の賜物です」
笑顔で返し、ケイトはがらりと扉を開けた。
「おはようみんな、朝から予習なんて感心ね。クルーエルはいないけど、その分みんなが──みんな......」
あ、あれ?
おかしい、教室に生徒の姿が一人も見えないなんて。
「み、みんな......? や、やあねえ、隠れてないで出てきなさいってば」
しんと静まりかえる教室。
「ケイト君、あれは?」
教壇の上に一通の手紙が。差出人......クラス一同?
その手紙には、大きな字で一言。
『クルーエルのお見舞いに行ってきまーす! クラス一同』
「......あー、ケイト君? 先ほどこれが教育の賜物といった発言があった気がしたが」
「断じて気のせいですっ!」
手紙をくしゃっと握りつぶし、ケイトは大きく息を吸いこんだ。
......落ちつけ、冷静になるんだ自分。教師たるもの、生徒のいたずらには寛容な心で応えるのが責務というものだ。ただし、相応に反省させることは必要だけれど。
「それにしても......あの子たち、やってくれるわね」
「ふ、まあ元気が良いのは好ましいことだがな」
妙なところで感心する学園長に、ケイトは精一杯の勇気を振り絞って言ってみた。
「ところで学園長、ケルベルクまでの列車代は出張扱いで支給されますか?」
間奏第三幕 『アルヴィル ─流浪─』
とある建物のとある通路にて、日の当たらぬ陰に隠れるように二人分の影が交叉した。
「お待たせ、アルヴィル」
「ずいぶん遅かったな。化粧でもしてたのかお嬢ちゃん」
「ちゃんとシャオって名前で呼んでほしいな。それに、化粧のせいじゃないよ」
シャオ、そう名乗った側が通路の日向に向かう。
日光を吸収する暗色系の衣装を羽織る人物が陽光に晒された。
「お嬢ちゃんてのは否定しないのか?」
「よく言われるからね。お兄ちゃんでもお嬢ちゃんでもお好きな方を」
おっとりした容貌に優しさと憂いを秘めた黒瞳。かたちの良い朱唇は濡れたような艶やかさを誇っている。フードの下にうっすら見える素顔は、誰一人として性別を見極めた者がいないほど中性的で均斉がとれていた。
「なあ、頼むから男なのか女なのかはっきりしてくれよ、せめてヒントでも。もう短い付き合いでもないんだし、そろそろはっきりさせておこうぜ?」
「ふふ、まあいいじゃない」
「くそ......んで、何で支度に手間取ったんだ」
アルヴィル、そう呼ばれた男が通路際の壁によりかかる。
こちらは長身細身の男性だった。余計な頰の肉を全て削ぎ落としたような鋭利な顔立ちだが、どこか子供っぽい瞳がその雰囲気を穏やかなものに中和している。だぶついた麻色のズボンに半袖シャツ、肩までの長さの黒獣皮で織られたジャケットという、外見には無頓着と思える出で立ちだ。首元に銀のネックレスが鈍く輝くものの、それも洒落っ気というにはあまりに安値な品であることが一目で分かる。
「通りすがりの猫に懐かれちゃって。また今度遊んであげるからって、説得するのに時間がかかった」
「まさか猫語でって言わないよな」
「ううん、セラフェノ音語」
にこりと微笑むシャオに、アルヴィルが呆れたように腕を組んだ。
「あほ、猫にそんな大層なもんが分かるわけねーじゃん」
「そんなことないよ。セラフェノ音語を用いた名詠式で鳥や草、花が詠び出せる。だけどセラフェノ音語を理解してない鳥が、こちらの呼びかけに応えてくれると思う?」
シャオの飄々とした反論に、もう片方はしばし沈黙して。
「セラフェノ音語で呼びかけることで鳥が詠び出せるなら、そもそも鳥にはセラフェノ音語が通じるはずってか。まあ理屈は通ってるな......ってことは、そこらに生えてる草や花もセラフェノ音語で話しかければ応えてくれるってか?」
ややあって、彼は諦めたように頭をかいた。
「応えてくれるかどうかは相手と自分の器が共鳴するかどうかだね。一番顕著な例が真精。アレは自分が良しと思う相手にしか語りかけない。それはアルヴィルも知ってるでしょ?」
「真精とそこらの雑草が同じか。シャオ節は今日も冴えてるな」
「そう? お褒めにあずかりまして」
「......褒めてねーよ」
やれやれと溜息をつくアルヴィルに、シャオは無垢な笑顔で微笑んだ。
「でもね、これは本当なんだ。この世界のどこにいようと、相手が何であろうとセラフェノ音語は必ず届く。そういう風にこの世界は設計されている。だからこそ名詠式が成り立ってるんだから。──ただし、その例外が真言。あれは聞こえる者と聞こえない者が明確に分け隔てられる」
「ああ、そういやそんなことお前から聞いたっけな。なんだっけ、真言てのが旧いセラフェノ音語って覚えとけばいいんだよな?」
「うん、それで限りなく百点に近い。百点に限りなく近い零点だけど」
「うわっ! なんかすげえむかつく言い方だな、おい」
「説明しようとしても『面倒だからパス』って逃げたのアルヴィルだよ?」
ひとしきり楽しげに表情をゆるめた後、シャオが小さく肩をすくめた。
「真言の存在についてはトレミア・アカデミーのミラー・ケイ・エンデュランスも気づいたようだけど、その意味についてまでは及んでいないらしい。もっとも、それを解読したところで徒労に終わるだろうけれど」
「難しいからか?」
「さっきも言ったけど、真言は聞き手を選ぶ。今この世界で言うならば、好んで使用するのは空白名詠の調律者たるアマリリスだけ。誰かが真言を解読したところで、アマリリスがクルーエル以外に懐くはずもないからね」
「あー、やっぱいいや。オレ頭悪いからそういうの面倒」
お手上げとでも言わんばかりにアルヴィルが手を上げる。その仕草にくすりと笑いを洩らし、シャオは通路を歩きだした。
「夜明けが動きだした。自分たちもそろそろ行こう」
「あれ、追うのってミシュダルじゃなかったのか?」
ぽかんと口を開けるアルヴィルに、シャオは足を止めぬまま。
「しかるべき時、しかるべき場所にしかるべき者たちが集まる。ミシュダルも同様だよ。追うのではなく、同じ場所に集うつもりで行けばいい」
「はいはい、んで場所は?」
「ケルベルク研究所本部。どうやらそこで一つの決着がつきそうだから」

三奏 『苦しむ、ということ』
1
トレミア・アカデミーから最も近い駅舎。
出発を待つ急行列車のとある一室にて──
「なあエンネ、やけに隣の部屋がうるさくないか?」
読んでいた雑誌を丸め、ゼッセルは同室の同僚に訊ねた。
「そうね、どうやら隣の部屋も貸し切りのようだけど......妙に子供の声が響くわね。聞いてると夏の臨海学校を思いだすわ。あの時はうちの生徒と他校の生徒が喧嘩して大変だったから」
「いやていうか俺が言いたいのは......なあエンネ、さっき部屋に入る前にちらっと見たんだけど、隣の奴らうちの生徒じゃないか?」
自分やエンネはとある要請を受けての特別長期出張。列車を利用するため駅舎へやって来てみれば、そこには妙に覚えのある生徒たちが。
「まさか、何言ってるのよゼッセル。なんで列車にうちの学校の子がいるの? 夏休みはとっくに終わったでしょ」
「いや......だって制服が似てたんだよ。ミラーも見ただろ?」
窓沿いのソファーに腰掛ける同僚に同意を求めるものの。
「ふ、まあ落ちつけゼッセル。エンネの言うとおり、今の時期は講義も通常通りだ。そうだろう?」
慣れた仕草で眼鏡のブリッジを右手の中指で押し上げるミラー。
「それに俺のデータによれば、全学年において特別な旅行や課外学習は零、部活動においても遠征試合などを予定しているのはなかったはず。つまり、出張でこの列車を利用する俺たちと乗り合うような生徒はいない。制服と言ったって似たような学校はいくらでもある。見間違いだろう」
「そっか......そうだよな」
襟元に黒の線が刻まれた幼い学生だったり、やたら長い鎗を背負った女子生徒だったりが見えた気もしたけど、単なる偶然なんだよな、うん。
2
「ねえオーマ、この部屋なんとかならなかったの。狭すぎるのよっ!」
不満を口にするサージェスに、男子のクラス委員は呆れ笑いを浮かべたまま。
「しょうがないだろ。修学旅行とかの学校行事で学割がきくならともかく、貧乏学生がクラス一同で列車の一部屋を借りるにはここしかなかったんだって」
「......う、まあ確かにそうかも。仕方ないわね、天井にハンモック吊り下げてそこで昼寝でもしてるわ」
ソファーが三つに椅子が四つ、あとはテーブルと小さな鉢植えが飾られた一室。本来はせいぜい十人用の部屋だろう。予定人数に対し空間自体は多少ゆとりのある設計になっているとはいえ、限度というものがある。クラスの男女三十人強が無理やり入れば、サージェスのように不満を洩らしたくなるのも確かに頷けるというものだ。
「ていうか暑苦しい! おら、もっとそこ詰めろ!」
「いてっ、押すなバカ! こっちだって一杯一杯なんだっての」
「お前らうるせぇぇぇえっ! 少しは黙れぇぇ!」
部屋の右半分。こちらは男子が押し合いへし合いの大乱闘。
それと打って変わって、部屋の左半分に集まる女子はというと──こちらは密着した状態で盤ゲームの試合に熱中していた。
「あああっ、今テーブル揺らしたの誰っ、ゲームの駒がぐちゃぐちゃにひっくり返っちゃったよぉ......」
状況を有利に進めていた場面を崩され、ミオがしょんぼりと肩を落とす。
「いいじゃんいいじゃん。ミオってばクラスで一番強いし、ハンデハンデ」
「......うぅ、まあいいや。どのみち次で王手だし、っと」
「えええええ、何それっ?」
こんな具合。
それを、生温かい目でネイトはぼんやりと見つめていた。
......みんな、クルーエルさんのお見舞いってこと忘れてないかな。
「そう? 行く前からどんよりしたり神妙な雰囲気だったりするより、あたしはこれくらい元気なのが好きだよ。クルーエルを励ましに行くんだから、あたしらが元気じゃなかったら元も子もないじゃん」
やおら、勢いよく背中を叩かれた。振り返ってみれば案の定、予想通りの人物が。
「ちび君はホントに顔に気持ちがはっきり出るね」
「あれ、エイダさんは今までどこ行ってたんですか」
口で答える代わりに、エイダは布に包まれた巨大な鎗を掲げてみせた。
「......取り調べ。祓戈持って廊下歩いてたら、乗務員の人に不審人物扱いされたし。ていうかこの部屋暑いね。蒸し風呂みたい」
「狭い部屋にこれだけの大人数ですから」
十人乗りの部屋に三十人強の学生が無理やり乗りこんだのだ。列車の乗務員に見つかったら即座に通報なのだが、どうもこのクラスメイトたちは静かにするという発想が欠如しているらしい。
「で、他の女子みんなボードゲームか。......さてどうしよう。ちび君、ちょっとあたしとデートしよっか」
「デ、デデ、デートっ? そんな突然、ぼ、僕......」
「ううん、ちょっと外行かないかって意味。そんな顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりしなくていいよ」
むしろこっちが驚いた、そう言わんばかりにエイダが後ずさる。
「あ、外行くなら僕いい場所知ってます」
「いやそんなころりと......ちび君、あたしとデートってそんなに嫌?」







「あーもう無理!」
頭をかきむしり、ゼッセルはとうとう音を上げた。
ミラーは読書、エンネは部屋に置かれた植木鉢いじり。一方で、ゼッセルには部屋内で時間を潰せるような趣味がほとんどなかった。
「すんげえ暇だ。あとどれくらいかかるんだっけ?」
「二時間ほどだな」
手元の本から目を離さず、時計も見ずに答えるミラー。
「ゼッセル、お前も何か読むか。読みたいのがあれば貸すけど」
いや、だってお前、そこに積んであるの全部百科事典じゃん。
「......あんまり面白くなさそうだからパス」
「興味深いという意味では面白いぞ」
「いや、遠慮しとく」
しょうがない、時間まで寝てるしかなさそうだ。身近にあったソファーに座りこみ目をつむる。だが──
「なあミラー、しつこいようだけど隣の部屋うるさくないか」
ソファーのすぐ背後にある壁越しに、隣室の騒ぎが響いて仕方ない。寝ようと思っても寝られるような状況ではないのだ。
「そうか? 俺は本に集中してたからあまり気にならなかったけどな」
「つぅかさ、さっきから聞き覚えのある声な気もするんだよ」
まだ記憶に新しい、一年生を連れて夏期合宿に行った時のことだ。一年生の専攻者の講義も受けもったのだが、どうもその時に聞いた声が混じっているような。
それに──
〝あれ、ネイト君どこ行った〟
〝そういやエイダもいないな〟
〝ああ、エイダならさっき乗務員さんに取り調べられてた。トレミア・アカデミーの名前は出さなかったらしいから、学校に連絡が行くことはないと思うけど〟
ネイト、エイダ、トレミア・アカデミー......
「隣の部屋、妙に聞き覚えのある名前が聞こえてくる気がするんだけどさ」
「もう、まだそんなこと言ってるのゼッセルってば」
植木鉢の観葉植物になぜか自前のリボンを巻きながら、エンネが呆れたように振り返る。
「さっきも言ったでしょ。うちの生徒はみんな学校で勉強してるはずよ」
「......そうなんだけどよ」
ソファーに背を預けた姿で、ゼッセルは扉に塡められた窓を見上げた。
と、その途端。
ひょっこりと、自分がよく知る生徒と非常によく似た顔立ちの少年の顔が見えた。夜色の髪に夜色の瞳、まだ中性的であどけない顔立ちの──
「ね、ネイトっ!?」
思わずソファーから跳ね起きる。
「どうしたのゼッセル、大声なんか出しちゃって」
「い、今、ネイト・イェレミーアスが外の通路歩いてた! 夜色名詠の!」
「......いないじゃない」
自分が指を指す窓をエンネも見つめる。だがその時には既に、ネイトと思しき少年はこの部屋を通り過ぎていた後だった。
「いや、いたんだって!」
少年がこちらに気づいてくれれば良かったのだが、あいにく窓の材質には特殊ガラスが使用され、通路側からは室内が見えないようになっている。
「ゼッセル、あなたもしかして疲れてる?」
エンネが窓から顔を背けたその瞬間、またもや。
ひょっこりと、自分がよく知る生徒と非常によく似た顔立ちの少女が窓に映った。亜麻色の短髪に琥珀色の瞳、日焼けした肌のボーイッシュな──
「え、エンネ! うしろうしろ! エイダ・ユンが歩いてるっ! 祓名民の!」
「いないじゃない」
「いないな」
自分が指を指す窓をエンネとミラーの二人が見つめる。だがその時には既に、エイダと思しき少女はこの部屋を通り過ぎた後だった。
「ばか、お前ら振り返るの遅いっての! 今度こそ本当にいたんだってば!」
必死の抵抗の結果。
「......分かった、お前が正しいよゼッセル」
「うん。なんとなく理解できたわ」
「おお、さすがミラー、エンネ。分かってくれたんだな!」
するとその二人は揃って、珍しく切ない表情を浮かべて。
「ああ、もういい、もういいんだ。長旅で疲れているんだろう、少し休むといい」
「そうね、最近残業が続いていたようだったしね」
口々に、妙に優しい声で諭してくる幼馴染み二人。
「ちくしょう、全然分かってねえじゃねえか!」
「あ、おい、ゼッセル?」
ミラーの呼びかけも聞かずゼッセルは通路の外に飛び出した。
くそ、気になって眠れるかっての。







「へえ、こんな場所あったんだ」
吹き抜ける風に、先を歩くエイダの髪がふわりと舞った。
「お洒落っていうかロマンチックっていうか、うーん、表現に迷うね」
列車の最後尾は、テラスを思わせる吹き抜けの設計だった。
転落防止用の柵があるものの、視界を遮るものは皆無。車両内から窓の外を見つめる時の閉塞感もなく、流れるように過ぎていく景色を眺めるには最適の場所だろう。足下は、列車の硬質なイメージからほど遠い木板造の床。椅子とテーブルが用意されれば、そのまま野外の喫茶店でも開けそうな空間だ。
「夏期合宿で列車に乗った時見つけたんです。あの時は最初ここに僕一人でいて、そしたらクルーエルさんも来てくれて」
嬉しそうに先へと歩いていくエイダ、その後をネイトも追った。
「そうだ、聞き忘れてたことがあったんだ」
空間の中央を過ぎたほどの場所で、前を歩くエイダがくるりと振り向いた。
「僕にですか」
「うん、本当ならちび君一人でこっそり行くはずだっただろ。その出がけにって思ってたんだけど、こんな状況になったから聞くタイミング逃しててさ。今ちょうど二人っきりだから」
風にそよぐ髪を手で押さえ、エイダがすっと両目を細めた。睨みつけるというより、こちらの反応を見逃さないため。そんな雰囲気だ。
「ちび君はクルーエルのこと、どれくらい知ってる?」
「僕が知ってることって......ええと......僕より三つ年上で、今は女子寮だけど両親はずっと離れた場所に住んでるって」
「あ、言い方が悪かった。そういうプライベートなことってわけじゃなくてさ」
一瞬はにかむような表情、だがすぐに、彼女の視線は再び細く鋭くなった。
「あたしが聞きたいのは、クルーエルの今の病気をどこまで知ってるかってこと」
──病気?
原因不明とされている、クルーエルを昏睡に陥らせている何か。それを聞いて真っ先に思いだすのが、医務室での記憶だった。
他ならぬ彼女から告げられた、あのふしぎなメッセージだ。
〝わたし、少し前からずっと声が聞こえてるの〟
〝......うん、すごくわたしそっくりの声。わたしそのものかもしれないし、全く別の誰かかもしれない〟
〝わたしの心の中にね、黎明の神鳥じゃない、別の何かがいるかもしれない〟
〝赤......じゃない。何かもっと、似てるようで違う色かもしれない〟
そう、確かに思いあたる節はある。それが病気の原因そのものかは分からないが、それ以外に疑わしきものが思いあたらないからだ。ネイトも何度となく理由を考えてみたが、消去法で削っていくと必ずあのメッセージにたどり着く。
でもそれは──
〝ネイト、キミにだけは伝えておくね〟
本当は、彼女は誰にも教えたくなかったはずなのだ。それを押して自分にだけは打ち明けてくれた。
......僕、それを他の人に言っていいのかな。
あの夜にクルーエルが浮かべた悲愴な表情を見れば、誰にでも容易に打ち明けられる内容でないことは明白だった。きっと自分一人に告げた時だって、彼女にとっては並々ならぬ苦痛があったに違いない。
「その表情、何か知ってそうだね。でも言えないってこと?」
鎗の切っ先を思わせる鈍い光を放つ、彼女の琥珀色の双眸。心中を見透かされたような寒気に、ネイトは反射的に顔を背けた。
「あ......っと、その......」
「じゃあ、まずはあたしの知ってることから話そうかな」
何気ない足取りで、端の鉄柵まで彼女が歩いていく。
「え?」
「状況が状況だし、お互い手持ちの情報を隠しても仕方ないんだよ」
鉄柵に寄りかかり、エイダが視線で虚空を射貫く。
「ふしぎなもんだよね。あたしこの学校に来るまでは名詠って五色きりだと思ってた。でもいきなり夜色名詠なんていう異端色が使える子が転入してきてさ」
異端色。それがどれだけ扱いに困るかは、ネイト自身実感したことがある。実はネイトがトレミア・アカデミーに転入する際、最も苦労をしたのが転入手続きだったからだ。
専攻色の記入欄には夜色名詠などというスペースは当然ない。それを無理やり書いて提出したら総務室に呼ばれ、次は職員室、最後には学園長室で学園長に対面審査を受けた。だが今思えば、それでもこうして入学許可を得られただけ幸運だったのかもしれない。
「灰色名詠ってのはまあ、あたしからすればとりあえず白の反唱で還せたから白って思ってる。名詠士というより祓名民の立場でね。だけどその観点で見ると、やっぱり夜色名詠は本当に全く別の色だと思わざるをえないわけだ」
夏期合宿から帰って間もない頃、エイダの反唱実験に付き合ったことがある。結果、五色の名詠のいずれも、夜色名詠の反唱には適さなかった。だが──
「でも、もう一つ、あたしがいまだにわけ分かんない名詠色があってさ......浸透者、ちび君も戦ったから覚えてるだろ。空白名詠ってので詠び出された名詠生物」
空白名詠。
夜色名詠と相克するもう一つの異端色。
「ちび君は夜色名詠で空白名詠を還せたんだよね。ならさ、ちび君からみれば空白名詠ってどんなイメージ? 自分の夜色名詠と似てる?」
「......分からないです」
色のイメージは似ているのかもしれない。夜色名詠で反唱ができたということは、祓名民の理屈ならば二つは同系統の色と括られるだろう。
それを承知でなお、ネイトには何かが引っかかっていた。二つはどこか根本的なところで何かが違う気がしてならないのだ。そう、それもひどく対照的な違い。陽と影、正と負。いや、それ以上に隔たれた差があるように感じて仕方ない。
「シャオって奴から聞いたことをあえて真に受けた上で話すけど、〈孵石〉の中身が、実は空白名詠のための触媒だったことは知ってる?」
「──いえ」
ただ、あの〈孵石〉の中身がただの一触媒でないとはうすうす感じていたことだ。
「そしてその触媒は、空白名詠の真精を詠び出すための特有触媒でもある。空白名詠の真精、アマリリスを名詠するための」
アマリリス?
〝アマリリスっていうの。わたし昔からこの花好きだから〟
〝......黎明が近づくほど、花は早く咲くのかな〟
今でもはっきりと覚えてる。初めてクルーエルさんの名詠を見た時だ。それに、この前浸透者に襲われた時にも耳にした。
だけど、それがよりによって真精の名前?
「しかも、アマリリスは既に名詠されているらしいんだ。それもクルーエルの心の中にね。クルーエルが昏睡状態に陥ってるのは、心の中であの子と真精が衝突を続けているから。とまあ、あたしが摑んでるのはこれくらい。あまり信憑性ないけどね」
「......いえ。たぶん、それ合ってます」
ごまかし笑いを浮かべるエイダに、ネイトは躊躇いながらも頷いた。
「クルーエルさんが教えてくれたんです。自分の中に黎明の神鳥じゃない何かがいて、それが話しかけてくるって。赤じゃない、もっと別の色の何かだって」
「......つまりクルーエル自身、ずっと悩んでたわけだ。そんな状況だったなら大事になる前に相談してくれればいいのにね......あの子、本当にそういうとこ頑固なんだから」
腕を組み、エイダが乾いた笑みを浮かべる。
「アマリリスがどんな奴か、クルーエルは知ってるの?」
「いえ、クルーエルさん自身にも分かってなさそうでした。ただその声がすごく自分に似てるって言ってたような」
「これまた意味深なことで」
額にしわをよせ、エイダがじっと黙りこむ。
「でも僕分からないんです。名詠って自分の心をかたちにして詠び出すって母さんから教えてもらったことがあるんです。もしクルーエルさんの心の中にアマリリスっていう真精がいても、それが悪い真精のはずないのに」
「それは分からないな。たとえば名詠の暴走ってのがあるでしょ。あれだって別に名詠者が意識してそうなったわけじゃないしね」
エイダの反論に、ネイトはさらに続けた。
「いえ、でもそれが真精なら話は別だと思うんです」
第一音階の三重連縛。特定の〈讃来歌〉、特定の触媒を用意し、最後に真精自身から真名を授かることでようやく条件が満たされる。それはつまり──
「真精を詠ぶには、その真精に気に入られないと詠ぶことができないはずだから」
「確かに、それを言われるとあたしも困るな」
癖のある亜麻色の髪を手櫛で梳いて、エイダが自身の足下をぼんやりと見つめる。
「結局あたしたちは、何かを知っているようでまるで知らないのかもしれない。もしかしたら核心に近いところまで来ているのかもしれないけど、それが核心であることすら気づいてないのかもしれないね」
「でも、今はそれでもやれることをやらないと」
何かすごいことを理解しようとは思わない。今はただ、大切な人のためにできることを片っ端からしていきたい。だけどその前に──
「......そういえば、僕も気になってたことがあるんです」
たった一つ、何よりもまず確認しておきたいことがあった。
「エイダさんて、ティンカさんと仲良いですよね」
「ん? まあ親父の知り合いってだけだけどね。でも割と小さい頃からティンカとは知り合いだったかな」
「それなら、ティンカさんから聞いてませんか」
「何を?」
こちらの思惑にまるで思いあたらないというように、エイダが首を傾げる。
だから、ネイトは彼女に真っ向から告げた。
「クルーエルさんの本当の具合です。あとどれくらい保つんですか」
「ちび君?」
無理に笑おうとして、でもその表情は泣き笑いが精一杯だった。
......だめだ、やっぱり僕はすぐ気持ちが顔に出ちゃうから。
「ケイト先生がクラスで教えてくれた時は『じき治る』だし、ティンカさんも『信じてください』の一点張りです。でも......僕、転入する少し前に母さんを亡くしてるから」
母は元から身体が弱かった、病気の原因だって分かってた。クルーエルのものとは違う。でも、それでもすごく重なって見えるのだ。かつての母と今の彼女が。
「......僕だって、本当はクルーエルさんの具合が危険なことぐらい分かってました」
分かってた。分かってたけど、必ず治るって信じてた。
でも今は知りたい。残された時間がどれだけなのか。
「エイダさんお願いです、もうこれ以上大切な人がいなくなっちゃうの嫌なんですっ!」
母が病気の床に臥せた時、何もできない自分が悔しくて仕方なかった。
何をすればいいのかも分からなくて泣いてばかりいて、それをまた寝床にいる母に心配される自分が腹立たしかった。
もう、あの時のような悔しい思いはしたくない。
「──ティンカの見立てでは一週間が限界だって話だった」
血を吐くような面持ちで告げエイダが顔を横に向ける。
「......そうですか」
一週間。それがエイダが聞いた時の見立て。既にそれから二日は経っているはずだ。
もう本当に時間がない。
「ちび君、ティンカを庇うようかもしれないけどさ、ティンカがクルーエルをケルベルクに移したのは、ちび君や他のクラスメイトを安心させようって配慮だったんだ。その気持ちは決して噓じゃない」
「分かってます、ティンカさんは本当に優しい人ですから」
大陸中の医師の中から〈イ短調〉に選ばれたほどだ、彼女の医者としての力量は確かなはず。患者やその周囲にも配慮できる性格だというのも分かる。でも彼女の病気が名詠式に根ざしたものであるのなら、きっと医者では助けることができない。
「だから、僕がクルーエルさんを助けたいんです」
一人でもケルベルク研究所本部に行く、そう決意した時にためらいは全部振り切った。
会いに行くだけじゃない、クルーエルさんを助けるために行く。
「......うん」
頷いてすぐ、素肌を晒したままの肩を両手で抱きしめる恰好でエイダがうつむいた。
「ごめん、ここ風が強いから身体が少し冷えちゃった。......あたし、そろそろみんなのとこ戻るよ」
それは、泣いているのではと思うくらい寂しくて弱々しい声だった。
不安定な足取りで彼女は自分の横を通り過ぎ──
「ちび君」
背後で、ふとエイダの足音が止まった。
「ティンカが言ってたんだ。クルーエルの病気は祓名民にも医者にも治せないだろうって。クルーエルの心の中の問題だからって。だから、もしクルーエルを助けられるとしたら、きっとあの子の心に直接届くような何かが必要なんだと思う」
クルーエルさんの心に直接届くもの?
それは、いったい何だろう──
「すごく曖昧で漠然としたものだけどさ。万一あの子に誰かの声が届くとしたら、それは、君の声だけかもしれない......それだけは忘れないで」
3
〝──風、気持ちいいね〟
かつてこの場所で、彼女は詠うようにそう言った。せっかくの旅行なのにアーマがいない、この場でそんな寂しさに暮れていた時のことだ。
〝寂しい気持ちは分かるから謝らなくていいよ。でもね〟
〝ミオもわたしもケイト先生も、みんなキミの近くにいるんだから。もっと頼ってもらってもいいって気持ちはあるかな〟
アーマの代わりに一緒にいてくれた人が今はいない。ううん、いないわけじゃない。
僕が今から助けにいかなくちゃいけない。どうやって、どうすれば、そんなこともまるで分かっていないけど、それでも何とかしなくちゃいけない。
「僕の声、届くのか......な」
握った拳を見つめる。白くなるほど固く握った手を。
「あー、なるほどね」
不意に聞こえた声に、ネイトは反射的に振り向いた。
「ミラーの奴が『あの二人はやはり親子だよ』って言ってた理由がようやく分かったぜ。親子揃って頑固というか、一度決めたらテコでも動かない性格なんだな」
黒の靴に黒のズボン、上は白のワイシャツという出で立ちの男性だった。服装からは誰か判別がつかなかったが、その顔は学園で見知った顔だった。
「ゼッセル先生?」
「ったくこんなところにいたのか、クラスの連中に聞いても、どこ行ったか知らないって首振るし。探したぜ?」
トレミア・アカデミーの教師がなぜここに。まさか、自分たちを連れ戻しに?
「あ、あのっ! 僕たちは──」
「あー、そんな慌てるな。俺たちは単に出張で乗り合わせただけだから。お前たちが海に行こうが山に行こうが関与しねえよ」
何とか弁解しようとしたものの、それを教師に制された。
「......いいんですか?」
見逃してくれるの? でもいくら何でも話ができすぎてる気が。
「ま、あとでケイトに叱られるのは覚悟しておけよ」
不安をよそに、ゼッセル教師が気楽な足取りで柵まで近づき、そこから身を乗り出した。
「へえ、確かに良い眺めだな。ちっとばかし風が強いから長居する気は起きねえけど」
「あ、あの......ゼッセル先生?」
ズボンのポケットに両手を入れたまま、その教師は鉄柵に背を預けた恰好でにやりと口の端をつり上げた。
「好いクラスだな。遠い医療機関に移された友人のために、クラス全員がこうして見舞いに行くってのは普通なかなかできないぞ。ケルベルク研究所なんてお堅い場所だから余計に大変だろうに」
「──全部知ってるんですか?」
「ここ寄る前、クラスが借りきってる部屋に怒鳴りこんだからな。割と慌てたようだったけど、中には冷静な子もいてな。『クルルのお見舞いに行くんです!』って威勢良く啖呵切った女の子にはちょっと驚いた。金髪で小柄でお人形みたいに華奢な子なのに、あれだけ中身がしっかりしてるとはな」
クルル、彼女をその愛称で呼ぶのは一人しかいなかった。
そういえば、クルーエルさん自身はクルルって愛称はあまり好きそうじゃなかったっけ。それでも、その愛称で呼ばれて怒りだすことは一度もなかったけれど。
「なんか、お前たち見てると面白いよ。昔の俺たちもそんなんだったのかなって」
「僕、そんなに母さんと似てるんですか」
「大人しそうなのに、どっか一部分がやたら頑固そうなところが特にな」
思い出し笑いなのか、低い声でゼッセル教師が笑い声を上げる。
「ミドルスクールの最上級生だった頃の話だ。俺、ミラー、エンネ、それにカインツとイブマリー。今トレミア・アカデミーに関係してる五人は一緒のクラスだった。ちなみに先生はジェシカ教師長な」
ズボンからワイシャツの端をのぞかせるゼッセル教師。だらしない恰好のはずなのに、それがふしぎと似合っていた。
「あの頃は、俺たち三人は特別カインツやイブマリーと仲が良いわけじゃなかった。カインツは友人も多かったけど親友は作らずって感じだったし、イブマリーに至っては友人どころか知り合いも作らずって感じだった」
それは、幼い頃からネイトも薄々感じていたことだった。学園時代の話を聞こうとしても、母が話してくれたのは当時の講義内容についてだけ。友人との学校生活などはまるきりだった。
「夜色名詠なんて聞いても笑ってバカにしてた側だった。......今じゃひどく後悔してるけどな。イブマリー、その頃の話をお前にしたことあるか?」
「......いえ。母さん、ほとんど教えてくれなくて」
「そうだな、いつか時間とってゆっくり話してやりたいよ。写真もミラーが何枚か持ってたはずだ。たしか職員室にも一枚飾ってたな」
そう言い終え、にわかにゼッセル教師が口を閉じた。
どうしたんだろう。見上げると、彼は居心地悪そうな表情で腕を組んでいた。
「お前たちが見舞いに行こうとしてるクルーエル。あの子は職員室でも最近特に話題になってた。あんまり嬉しくはないだろう意味でな」
嬉しくない意味で。
その内容が何を意味するか、言われずともネイトには心当たりがあった。
「まだ一年生ながら黎明の神鳥を詠び出せて、さらには後罪の触媒で名詠が自在にできちまう。お前ら若い連中から見ればすごいの一言で片付くかもしれないけどな」
そうなのだ。自分やエイダ、ミオなどはそれを見てすごいと思って、でもそれだけ。教師やサリナルヴァが見せるような特別な疑心や不安は抱かなかった。
「気持ちは分かるぜ。むしろお前らの感覚の方が正しいと思う時もある。けどな、長いこと他の生徒を見てる教師らからすればやっぱり異常に映っちまうんだ。つい平均化した生徒を正常だと思いこんじまう。あとは、実際にそれを見ていない教師からは『偶然だ』だの『何かの間違いでは』なんかもあったな。いずれにせよ嫌な空気が漂ってたよ」
「......そうですか」
屋上で、寂しげに一人立っていた時のクルーエルの表情。今思えば、彼女が学園に息苦しさを感じるのも当然だったのかもしれない。
「でもな、ふと思ったんだ」
錆びついた鈍色の哀愁を瞳に点し、その教師は頭上を見上げた。
「あの時のイブマリーもそういう視線で見られてたのかなって。教師から『あれは問題児だ』、『できの悪い子が逃避しているだけ』とか散々な。俺の言いたいこと、分かるか?」
「──今のクルーエルさんが、昔の母さんと同じってことですか」
学園で、教師からも生徒からも奇異の視線で見られる孤独感、圧迫感。
「ああ。辛いと思うぜ......俺たちは、それに気づくのが遅すぎた。だからこそお前には伝えておきたくてな」
なぜかは分からない。だけど、教師のその一言はとても嬉しかった。
まるで、自分が一番欲しかった最後の後押しをしてもらったような気がしたから。
「お前はあの子の傍にいてやれ。なに、俺なんかも昔は無断欠席の常習犯だったぜ。それでも何とかやってけるんだ。腹括ったなら、気の済むまで自分を通しちまえよ」
「──はい!」
豪快な笑顔を見せるゼッセル教師に、ネイトも力いっぱい頷いた。
四奏 『そんな全ての残酷を心に負って』
1
その風には色とりどりの薫りがあった。
歩道の両側に植えられた芝生は若い緑の薫り、視界の遥か先にぼんやりと見える花壇からは、風に吹かれて色鮮やかな草花の薫り。頭上からは、歩道の左手側に生い茂る大樹の濃い緑の薫りがそっとほおを撫でていく。
「まるでお金持ちの別荘にでも来た気分ね」
鮮やかに輝く天上の陽の中、日傘を片手にティンカは歩道を進んでいった。
ごく簡単な石畳を基調に、その端には名も知らぬ雑草が生い茂る。そのさらに外側では背の高い木立が幾重にも連なって植えられている。
ケルベルク研究所本部、保養区。その区画に敷かれた歩道は、まるで自然の並木道を思わせた。
「それに、これだってそうね」
目の前に見えてきた建物を前に、ティンカはわずかに微笑を洩らした。
赤茶けた三角屋根に丸太を組み合わせて造りあげたコテージ。規模としては一般住宅を優に二回りほど上回る。四、五人が寝泊まりする通常のコテージと比べるなら相当の建築規模と言えるだろう。ただ巨大なだけではない。使用されている木材や外部に取りつけられた照明は最高の物を、周囲の木立や足下の花々などはきめ細やかな管理が行き届いているのが見てとれる。
「素敵、病人でなくとも泊まってみたくなる場所ね」
日傘を折り畳み、ティンカはコテージの扉をノックした。一見すれば洒落た宿泊施設。しかしこの建物こそが、ケルベルク研究所本部が誇る療養施設なのだ。
ギィ、と木製特有の渋みのある音を立て、その扉が開いていく。
「あ、ティンカ先生。もう休憩終えられたんですか?」
隙間から顔を覗かせたのは、ケルベルク職員証を胸元に下げた若い女性職員だった。まだ採用されて日が浅いのだろう。研究服に身を包み、金髪をピンで結い上げた姿が初々しく映る。
「ええ、時間には早いけれどやはり気になったので」
日傘を扉の脇に立てかけ、ティンカは誘導されるままコテージの中に足を進めた。木板造の床に、丸太をそのまま活かした横壁。病棟に閉じこめられる、そんな閉鎖的なイメージを嫌う患者に配慮してのことだろう。
「彼女の容態はどうですか」
通路を先導する女性の背中に声をかける。
「......わたしが説明するより、見ていただいた方が早いです」
歩く速度を落とさぬまま、彼女の返答は単純なものだった。
「どうぞ、こちらです」
とある個室の前で女性職員が歩みを止める。彼女と視線だけで会釈を交わし、ティンカは眼前の扉を開けた。
眩い陽が射しこむ小さな一室。廊下側の壁に小さなタンスがただ一つ。必要最低限の調度品を除いては花瓶の一つ、絵画の一枚もない部屋。その中央に、木製のベッドだけがぽつんと取り残されたように配置されていた。
ベッドに寝かされた一人の少女。燃えるような、真っ赤なルビーよりも深く輝く緋色の髪だけが、まるで生命の証であるかのように輝いていた。
──クルーエル・ソフィネット。
「一時間前と何ら変化はないようです」
眠りに就く少女を見つめ、女性職員が小さく溜息をこぼす。
「そうね。ありがとう、あとはわたくしが看ますので」
職員を退室させ、ティンカは個室の扉を閉めた。
......現状、やはり打つ手なしなのね。
退室した職員が残した診療録を一瞥し、唇を嚙みしめた。正直、わずかな期待はあったのだ。このコテージの別室には最新鋭の治療機器が配置されている。研究所施設には昼夜問わず名詠式に関する最新情報が届くシステムにもなっている。もしクルーエルを助けるための方法があるとすれば、この研究所で待つことが最も確実な選択肢。
しかし大陸に名だたる研究機関をもってしてなお、クルーエルの症状を改善するどころか、進行を止めることすらできなかった。
「おかしなものね」
うっすらと汗ばむ少女の身体を濡れタオルで拭いてやる。服を着替えさせ、新しいシーツに取り替える。
「医者と言ったって、こんなことしかしてあげられないなんて。これならネイト君にだってできることじゃない......医者じゃなくたって」
クルーエルをここに連れてくると言った際、たった一人医務室にやってきて最後まで反対していた彼。あの子は今頃どうしているだろう。
クルーエルを助けるための最善の方法が、彼女をここへ連れてくることだった。自分の選択に誤りはない。それは今も自信がある。だけどそれと同じくらい、クルーエルに寄り添うネイトの姿が頭にこびりついて離れないのだ。
「......医者というのは憂鬱な職業です。あんな小さな子にすら罪悪感を感じてしまうのですから」
クルーエルの髪数本をそっと手櫛で梳き、ティンカは小さく首を振った。
「そうは思いませんか、サリナルヴァ?」
背後で、小さくハイヒールの靴音が鳴った。
「患者が治れば患者の努力、患者が治らなければ医者のせい──だがそれを承知で選んだ道だろう?」
振り返る。白の研究服を羽織った長身の女性が立っていた。緑がかった髪を短く切りそろえた、端整な顔立ちの女性だ。黒のズボンに黒のインナーシャツ、飾りっ気のない衣装の中で、真紅のハイヒールだけが鮮やかに目立つ。
サリナルヴァ・エンドコート。ここケルベルク研究所本部の副所長にして、ケルベルク研究機関全体の理事、そして自分と同じ〈イ短調〉の一員でもある。
「言い返す言葉もありません、その通りです」
「なんだ、今回はやけに沈んでるな」
「なぜでしょうね、クルーエルさんとネイト君を引き離したことを後悔しそうです」
鋭い視線をわずかにゆるませ、サリナルヴァが扉に背を預ける姿勢で足を交叉させる。
「まだ幼い二人だからな、姉弟のようなもんだ」
「......どうなのでしょう」
恋人というには二人ともまだ幼すぎる。でも姉弟よりも濃い信頼で結ばれている気がしてならない。あるいは、今まさにその狭間で揺れている時期?
「それで、そちらはどうですかサリナルヴァ」
「空白名詠とやらと、〈孵石〉。信頼できる機関にも極秘裏に調査依頼をしているが、正直お手上げだな。そもそも名詠式という長い歴史を持つ技術の中で、なぜ空白名詠などという代物が今まで埋もれ、そしてこの場面で浮上してきたのか」
「埋もれていたわけではないのかもしれませんよ。わたくしたちがただそれを──」
〝『大人』は大事なことを忘れてる!〟
「そうか、クルーエルがそう言ってたな」
眠る彼女を、サリナルヴァがじっと見下ろす。
「クルーエルの心に宿っているという真精、アマリリス。ここに来る前にざっと論文をあたってみたが、やはりそのような名の真精は見当たらなかった。......まあ、論文と言っても五色以外の論文など存在しないからそれも当然か」
「既存の知識では歯が立たないということですね」
「探究は未知があってこそ発展するもの、私一個人としてはそれは問題ではないな。そもそも、お前から報告を受けた時から覚悟していたことだ。しかし厄介なのは、今回はそれに切実なタイムリミットが設定されているということだ」
そう、クルーエルという少女の命が。
「もう時間がないのだろう?」
「ええ、正直ここに運ばれた時点から既に、いつ息をひきとってもおかしくないほどの状態です」
「なるほど......様子を見るために出張ってきたが、そうしている時間もないようだな」
靴音を響かせ、サリナルヴァが勢いよく白衣をひるがえした。
「私はもう研究室に戻る。ティンカ、お前も来い」
「クルーエルを置いて?」
「誰がここにいても変わらないというのなら、お前じゃなくうちの職員に見張らせるさ。お前は空白名詠とやらの解析を手伝え、浸透者とかいう名詠生物のな。その方がわずかにでも望みがつながる」
「そう......そうですね」
2
ケルベルク研究所本部。その中心にそびえる最も巨大な棟が本部研究棟だ。地下二階、地上七階建てとして設計された、鈍色の輝きを放つ建造物である。
「何度来ても、この建物内だと迷子になってしまいそうね」
研究棟のロビーをくぐり、サリナルヴァは久々の光景に周囲を見回した。
「慣れればこれでも狭く感じるよ、お前だってここに来る前はトレミアにいたんだろう。あそこの校舎だって似たようなものだ」
胸元の社員証を揺らしながら、足早にサリナルヴァが歩を進める。
「それで、わたくしはまず何から取りかかりましょうか」
「とりあえず三階だな。研究第一課の実験室だ」
──あら、意外。
彼女に連れられた時は大抵、最上階にある彼女の私用実験室に案内される。今回もそのつもりで訊ねたのだが。
「見せたいものがあるからな」
見越したように、振り返りもせずサリナルヴァがさらりと告げる。
「何でしょう」
「〈孵石〉と、その中身だ。まだティンカは実物を見ていないだろ?」
「ああ、そういえばそうでした」
ここ最近クルーエルにつきっきりで、頭の中からすっかり忘れ去っていた。
「あなたがそう言うからには、それなりに興味深いものだったと?」
「〈孵石〉の外殻はただの玩具さ。中身も、実際見てみれば分かるがただの石ころだ。強いて特徴を挙げるなら、蛇の鱗みたいな鱗片状の紋様がついていてな。何かの化石みたいな印象を受けた。色は......そうだな、くすんだ真珠色かな。鈍い光沢を放つ、ちょっと透明感のある石だった」
五色全ての名詠が可能である究極の触媒。
しかしその実態は、空白名詠の真精アマリリスを名詠するための特有触媒だと聞いている。
「それがどこで採掘されたかの調査は進んでいますか?」
「二階に専門調査班を特設した。地層、地理、歴史、生物学の専門家。それに腕利きの祓名民をクラウス経由で調達してきた。そいつらは既に所外で調査中。あと名詠士だが、これはトレミア・アカデミーの教師に適材がいたんでな、そいつを呼び寄せる」
彼女が挙げた意外な学園名に、ティンカは無意識のうちに目を見開いた。
「トレミアの教師を?」
「ミラー・ケイ・エンデュランス。あいつは今でこそ教師の職についてるが、昔は我々と同じ畑の学者になりたかったんだとさ。本来なら名詠式もミドルスクールまでで終えるはずだったらしい」
「ああ、学園でお会いしましたわ。物腰から確かに聡明そうな印象を受けました。でもそれが、なぜ今も名詠学校の教師を?」
「あいつ曰く、『幼馴染みの二人に付き合って馬鹿やってたら、結局そのまま大人になってしまった』と言ってたな。ま、それほどまんざらでもなさそうだったが。とにかく名詠式以外にも言語系統でやたらと博識だからな、役に立つ」
可笑しそうにサリナルヴァが笑う。彼女がそんな表情を見せるということは、性格の相性も彼女と合うというところか。
「なるほど、優秀な人材なのですね」
「列車に乗ったというところまでは連絡を受けている。もうじき着くだろう」
コツ、コツ、テンポの良い歩調で先を行くサリナルヴァが階段を上り進む。
と、まるでそれと対照的に。
誰かが、猛烈な勢いで上の階から駆け下りてくる足音が。
「なんだ、うちの職員にこんなやかましい奴がいるのか?」
その場で足を止め、サリナルヴァが眉をつり上げる。ダダダダッという擬音が本当に聞こえてきそうなほど、とにかく焦っているのが足音からでも伝わってくる。
「副所長っ、こんなところに!」
駆け下りてきたのは小柄な女性研究者。ケルベルクの本部研究者ということは若くて二十代半ばのはずだが、小顔に童顔という組み合わせで外見はせいぜい二十代なりたてだ。
「なんだ秘書か、どうしたそんなに息を切らせて」
肩で息する女性研究者を階下から見上げ、ぽかんと首を傾げるサリナルヴァ。
「秘書というか、業務上は研究第一課主任です──って、そんな場合じゃないんです! いったい今までどこにいたんですか、最上階のお部屋も全部探したんですよ!」
荒い息を整えることも忘れ、女性が一気にまくしたてる。
「クルーエルという少女の容態を見に行ってただけだ。で、どうしたんだ」
「三階の実験室の様子がおかしいんです」
「出火か、あるいは揮発性の猛毒試料でもこぼしたか?」
日常茶飯事だとでも言わんばかりにサリナルヴァが気楽に手を振る。
「......いえ、逆です」
「逆?」
「......ものすごく静かなんです。わたしが入ろうとしたら扉が内側から施錠されているようで、なのにノックしても大声出しても応答がなくて」
「それは確かに妙ですね」
部外者という立場も忘れ、ティンカも思わず相槌を打った。
研究者が出入りするであろう部屋を内側から施錠。思考を巡らすも、今この時この場でそうする理由が思いあたらない。
「とにかく、今それで親鍵を取りにいこうとしていたんです」
「事情は把握した。秘書は親鍵を一階管理室から借りてこい。私とティンカは先に三階の実験室で待つ」
相手の返事も待たずサリナルヴァが階段を駆け上がる。
「サリナルヴァ、部屋の場所は?」
百人単位で研究者が常時集うのがここの研究棟だ。三階といえど、実験室だけでいくつあるか分からない。
「第一課だから三階の一番奥の部屋だ......しかしなぜ通路に誰もいない?」
無人の通路にハイヒールの硬い音がこだまする。
最奥に控えた鉄製の扉に手で触れ、サリナルヴァが唐突に振り返った。
「さっき言った〈孵石〉が保管してあるのもこの部屋だ」
「〈孵石〉が?」
「ああ、しかし本当に開かないな」
彼女がドアノブに力を込める様子はティンカにも伝わってくる。だが扉は固く閉じたままだ。
「副所長っ!」
鍵の束を抱え、階下から女性研究員が上ってきた。
「お、すまない。......っと、研究第一課だからこの鍵か」
真鍮色に輝く鍵を扉に差し込み、回す。機械的な音を立てて錠が外れる。だが──
「ん、まだ開かないのか?」
ドアノブを回すも、扉本体が開く気配がない。
「鍵が外れたのに開かないのですか」
「何かがつっかえてるか引っかかってるかだろうな。おい聞こえてるのか! 私だ、扉を開けろ!」
返事は、沈黙だった。
「応答なしですね」
「......埒があかないな。二人とも退がってろ」
扉に近づこうとするのを、横から伸びてきたサリナルヴァの手に制止された。
「鉄製の扉を蹴って壊そうとでも?」
「そんな阿呆なこと考えるのはクラウスくらいだ。扉の鍵は開いてるんだから、そこのつっかえ部分だけ衝撃で外せられれば十分だろうさ」
数歩後退し、助走をつけて彼女が一息に扉へと距離を詰めた。体重を足先に乗せるように跳躍、ドアノブの真横目がけて真紅のハイヒールを振り上げる。
破砕音にも似た轟音に鼓膜が激しく震えた。サリナルヴァの鉄製の靴先が、同じ鉄製の扉を凄まじい勢いで蹴り上げたのだ。
部屋の向こう、何か乾いた物が割れた音が壁越しに伝わってくる。
「......やはり向こう側の扉から何かで封されていたようですね」
しかし、今の音はいったいなんだ?
「ったく、手間をかけさせて。愛用の靴が歪んだじゃないか」
眉をひそめながらサリナルヴァがドアに手をかける。
軋んだ音を立てて開く扉。陽の明るさに一瞬まぶたを閉じ、再度開いたそこには──
Lastihyt ; miquvy Wer shela -c-nixer arsa
部屋に入ってすぐの横壁、その壁面に赤の塗料で描かれた奇怪な文字。
「......なるほど、あの男もクルーエルを追ってきたわけか」
至る所が石化した部屋の内部を眺め、サリナルヴァが唇を嚙みしめた。
「こ......こ......こんなっ......みんなが......」
石化した職員を直視できず、背後にいる女性職員が口元を押さえてふるえだす。
「落ちつけ、適切な処理をすれば命に別状はない」
「ほ......ほんと......です、か」
「ああ。今すぐ二階の調査室から祓名民を呼んで来い。それより問題なのは──」
中央に置かれたガラス製の透明容器。
一抱えはある球状の器が、中央部が穿たれたように破損していた。
「〈孵石〉まで奪われたか。最悪なタイミングだな」
吐き捨てるように呟き、サリナルヴァが部屋中を眺め回す。
「ここにあいつが隠れているわけではないようだな」
「既に立ち去ったということでしょうか」
「ああ。だが、あいつの性格を考えるならば──」
部屋の外、開いたままの窓ガラスを睨みつける彼女。
「あいつは、まだこの研究所のどこかにいる。間違いなくな」
「なぜそう思うんです?」
「あいつは妙にクルーエルとネイトを気に入っていたからな。......いや、集まるべき場所に集まるべき者の方からやってきたというところだな」
三階の窓から地上を眺め、サリナルヴァが視線を一層鋭くした。
「学者ながら、どうしてもそう思わずにはいられないことがある。この世界の流れというものは時に異様な執念と皮肉と悪意と、そして狂おしいほどの愛をもって、人の道行きを試すものだとな」
彼女が視線で示す地上、研究所本部の入り口に──
「ねえちび君、ところで何でミラー先生とかゼッセル先生まで一緒なの?」
背に長大な鎗を担いだ、赤銅色の肌の少女と。そして。
「い、いえ......どうも目的地が一緒だったらしくて。でもお咎めなしだそうです」
夜色の髪に夜色の瞳をした、小柄で幼い顔立ちの少年。
「ネイト君、それにエイダちゃんまで?」
思わず、ティンカは窓から身を乗り出した。向こうはこちらに気づいていないようだが、あれは間違いなくトレミア・アカデミーの生徒だ。
......なるほど、これは確かに、もはや偶然ではないのでしょうね。
クルーエル、ネイト、そしてそこに灰色名詠の敗者までもがこのタイミングで。
それこそ名詠式で詠び出されたかのように一斉に集うなんて。
「いずれにせよ......このまま無事に終わるとは思えんな」
地上の彼らを睨みつけるように見下ろし、ケルベルク研究所本部の副所長は一人静かに呟いた。
空奏 『deus Arma riris ?』
透きとおった黎色の世界。
赤、青、緑、黄、白。五色の小さな幻灯がどこからともなく生まれ、蛍のように飛び回ってはどこか遠くへと消えていく。
『ねえクルーエル、あなたの居場所があの学校にあると思う?』
皮肉? 悪意?──否、空間に伝わる真精の声は、哀れみを含んだ慰めの響き。
だけど、それが自分には逆に嫌だった。
「ないって言いたいの!?」
胸の奥が煮えたぎるほどの激情に身を任せて叫ぶ。
だがその声はそれに動じるどころか、より一層優しげに。
『あなたの力はわたしの力でもある。あなたはそれを何度も何度も利用した。そしてその目的は決して私利でも私欲でもなかった。それで救えたものもある、守れたものもある。だけど、あなた自身には何が残ったかしら』
憐憫の情すら声音に含み、アマリリスがしっとりと告げてくる。
『職員室にてあなたを試そうとした教師たち、あなたを奇異の目で見つめる生徒たち、もっと分かりやすいのがあなたを化け物呼ばわりしたミシュダル。数日前、あなたは学校の屋上で確かに言った。息苦しい、夏休みが終わってから特に他の生徒の視線が怖くなったって』
「......言ったよ」
激情が消え、残ったのは凍りつくくらい冷めきった記憶。
黎明の神鳥を見せてくれ──教師に、名も知らぬ生徒に次々と頼まれた。真精と、ひいては自分そのものがまるで見世物扱いされている気がして、それがすごく嫌だった。
「辛かったんだもん、今までと違う目で見られて......怖かったから」
『そう、それを正直に受け止めることは勇気がいる。だけどそれを受け止めたなら、わたしの言うことも分かるでしょ? あなたにはわたしが──』
「ううん、でもそれは、わたしだって覚悟の上でやったことだから」
あの時にはそれが必要だった。先のことなんて考えられないくらい限界の状況で、自分にできる精一杯のものが名詠式だったのだから。
「それに、わたしは一人じゃないもん。信じてくれる人がいるから」
『わたし以外に、あなたを受けとめてくれる者がいるというの?』
「いるよ!」
声の限りクルーエルは叫んだ。
たとえその声が今は届かないものだとしても──
わたしは、あの時の彼の言葉を信じてる。
「ネイトは、わたしのこと信じてくれるって言ってくれた!」
『ネイト? それはネイト・イェレミーアスのこと?』
「そうよ、他に誰がいるっていうの!」
アマリリスの問いかけに、叫ぶようにクルーエルは声を上げた。
『──ならばやはり、わたしはまだ、あなたをここから出すわけにはいかない』
途端、今まで宙をさまよっていた五色の幻灯が音もなく消失した。
「え......」
反射的に辺りを見回す。
でも、だめだ。どんなに目を凝らしても一メートル先も見通せない。どんな闇より透く寒い空間で、唯一の光源が消え去ってしまったのだから。
『わたしはネイトを認めない、あなたを任せる器とは思えないから』
「なんで、なんであなたはネイトをそんなに悪く言うの!」
自分のことなら直接何を言われたって構わない。だけどわたしのことで、わたしじゃない人を引き合いに出してそれを悪く言うなんてあんまりじゃないか。それも今回だけじゃない、ネイトが浸透者と戦っている時だってそうだった。
『始まりの島で、わたしはこの世に生まれた全ての人間を見ている。だからこそ分からない、なぜあなたが彼を選ぶのか。あんなに弱くあんなに脆い子を』
「強いとか弱いとか、そういう言葉で括らないで!」
そんな言葉で人を決めつける必要ないじゃないか。すごい名詠ができるとか、何かがすごく上手とか......わたしは、それが本当に大切なものとは思わない。
今すぐに何かができなくてもいい、一緒にいて、一緒に練習したりうまくなっていくことこそが大切だと思うから。
『では、何をもってあなたはネイトを選ぶ?』
「ネイトは、わたしを信じてくれてるもの」
この学校に来たことを後悔しかけていた自分を、励ましてくれた。
夏期合宿、名詠式が怖いと言った自分を信じてくれた。
悩んだことを打ち明けられる。他人の悩み事を、まるで自分のことのように親身になって考えてくれる。その一つ一つが、わたしはすごく嬉しかった。
『信じるというRiris。それが全て真実であるのならば、ね』
数歩分ほど離れた先、幽かに灯る蒼碧色の幻灯。
拳大の大きさから赤子ほどの大きさへ、徐々に明るく大きく。最後に、灯はクルーエルの身長と重なりあうほどの大きさに成長していた。
『あなたはネイトの言葉をそのまま信じきっている。けれど果たして、その言葉が正しいと断じるに足るものを、わたしに示すことができる?』
青い灯の中に揺れる、緋色の人影。
「......何が言いたいの」
『信じる、いつまでも一緒にいる。そんな言葉はこの世界で毎日何百何千回も唱えられ、そして同じ数だけ失われていく』
影絵のようにゆらめく赤のシルエット。明確なものじゃない、けれど、どことなく女性を思わせるやわらかな身体の曲線に、背中まで伸ばした緋色の長髪。
『場を取り繕うための軽薄な噓、偽り、詐称。いえ、そんな悪意的なものでなくとも、その言葉を守ることのできない者が、この世界にどれだけいると思う?』
灯の向こう側にいる真精が少女の姿をしていることだけは、クルーエルにもはっきりと分かった。そして──
『だからこそ、クルーエル。〈約束に牙剝く者〉としてわたしは訊きたい。あなたは何をもって、彼の〝信じる〟という約束を信じるの?』
ゆっくりと、その真精はクルーエルの前に姿を現した。
五奏 『それでも あなたのそばにいたいから』
1
「おお、なんかやたら広い会議室だね」
案内されるまま研究棟の一室に足を踏み入れ、エイダは辺りを見渡した。
ケルベルク研究所本部、研究棟二階の大会議室。四人用の長机が十数個集まってコの字形を形成し、まだ室内の半分以上はスペースが空いている。立食パーティでも開こうと思えば優に百人規模のものが催せるだろう。
「エイダちゃんも知ってるように、名詠式の研究では学者だけでなく名詠士や祓名民にも協力を要請しますからね。大勢が論議を交わせるだけのスペースが必要なんです。あ、これはサリナルヴァからの受け売りですけれど」
室内の中央部で、生徒を先導していたティンカがくるりと振り返る。
「ふーん、まあ広いのはありがたいや。いきなりクラス全員で押しかけたはいいけど、こんな大人数が入れる部屋あるか不安だったんだ」
なにしろ一クラス全員丸々だ。突然の訪問でこれだけの人数を受け入れてもらえるかはエイダにとっても不安の種だった。
「さすがはケルベルク機関の本部研究所だけありますね。みなさんが泊まる部屋も、サリナルヴァが今から手配してくれるそうです」
「さすがサリナ。それが一番不安だったんだ」
「職員の仮眠室だから寝心地は保証しないがな、と言ってましたけれどね」
「あー、平気。ウチら全然気にしないって」
背後でひっきりなしに騒ぎ立てるクラスメイトたち。列車であれだけ騒いだはずなのに誰一人として疲れた様子もない。野宿と言われても平然と受け入れてしまうような顔ぶればかりなのだ。
「エイダ、あのさ」
と、やおら男子のクラス委員がぽんと肩を叩いてきた。
「ん、なにさオーマ?」
「お前この素敵なお姉様と知り合いなのか?」
自分とティンカ。二人を交互に見比べながらオーマが首を傾げてみせる。
......そっか、あたしとティンカが知り合いだって、クラスじゃ知ってるのちび君やミオくらいだったっけ。
「そだよ。でもティンカはあんたが思ってるほど若くないよ。若作りなだけで」
そう言った途端、ずいっと当人が笑顔のまま顔を近づけて。
「うふふふふふ。エイダちゃん、何か言いました?」
「あわわわっ、何も言ってないよ!」
慌てて飛び退がる。......ふう、危なかった。でもティンカ何歳だっけかな。確かあたしの記憶では、親父と同年代だった気がしたんだけれど。
「お久しぶりですわ、叔母様」
ふと、クラスメイトの一人がすっとティンカの前で小さく会釈した。
ウェーブがかった金髪を揺らせる長身の女子生徒だ。どことなく大人びた顔立ちと物腰、目元に小さな泣きぼくろ。キリエ──学園では料理研究会に所属。一年生ながらその副部長に就いているクラスメイトだ。
「まさかこんなところで会うなんて。叔母様と会うのも数年ぶりですね」
......え、叔母様?
ぽかんと思考が停止している自分やオーマはさておき、二人は和気あいあいと。
「あらキリエ、大きくなったわね。料理の勉強は進んでる?」
「ええ、まだまだ覚えることが山のようです。ところで、先日トレミア・アカデミーにいらっしゃったという噂も聞いてましたけれど」
「ああごめんなさい、あの時は本当に手が離せなくて」
「ちょ、ちょっと待った!」
二人の間にエイダは無理やり割って入った。
「え、あのさ。間違ってたら悪いんだけど、......キリエとティンカって、知り合いどころか、もしかして親戚?」
「そうよ」
「あら、エイダちゃんには言ってなかったかしら?」
あっさりと頷く両者。
「キリエの母がわたくしの姉です。髪の色は遺伝の関係で違いますけどね」
「はー......あたしもびっくりだわ。世界って狭いね」
ただあらためて二人を見比べると、確かに口調や顔立ちが似ているような。
「ん? どうしたオーマ?」
隣では、なぜか彼が床にがっくりと膝をついていた。
「見目麗しきお姉様と思っていた人が、よりによってクラスメイトの母親と同年代だった時の衝撃は......大きいぜ?」
「いや、だから言ったろ。ティンカはお姉様って言えるほど若く──」
「エイダちゃん、何か言いましたか?」
「あわわわっ、だから言ってないってば!」







「すいませんね、大所帯で押しかけてしまって」
コーヒーの入ったカップを手に、ミラーが苦笑いの面持ちを浮かべた。
「まったくだ、これだけ大人数で来るなら前もって連絡して欲しいものだな」
「そうしようとも思ったのですが」
コトンと、その教師はカップを机に置いて。
「事前に連絡したら断られそうだなと思いまして」
「頭の回転が早いのも困りものだな」
頰杖をつき、サリナルヴァもまた口元をやわらげた。
「実は先ほど学園のケイト教師から連絡が入ってな。担任教師としても放っておくわけにはいかんそうだ。クラス生徒を引き取りに、彼女もここに向かっているとさ」
「なるほど、それで生徒たちは?」
「子供好きのティンカが適当にあやしてるさ。ネイトだけは本人とゼッセル教師からこっそり打診があったから、クルーエルのいる保養区に行かせてやったのはお前も知ってるな」
「ええ。しかし一つ気になったのですが、なぜエンネとゼッセルまで彼と一緒に?」
眼鏡の下、知的なまなざしに鋭いものが混じる。
「念のためな」
研究服のポケットを探り、サリナルヴァは手に触れた物を机の上に放り投げた。灰色の欠片。乾いた音を立てて転がるそれを見つめ、ミラーの表情が険しくなる。
石化した、扉の欠片。
「......ここも、既に侵入を受けていたというわけですか」
「おそらくつい数時間前だ。ここは身を潜められる場所がいくつもある上、来客も多い。学生だらけの学園に見ず知らずの大人がいればすぐに怪しまれるが、ここでは堂々と周囲にとけこむことができる。まあ覚悟していたことだがな」
事実上、ミシュダルを捕捉するのは不可能に近い。
「避難指示は?」
「主要研究員を通じて末端まで行き渡っているはずだ。この研究棟からは少し歩くが、緊急避難用の地下シェルターを東西南北の方向に四箇所設置してある。名詠実験中に名詠生物の暴走災害が起きた時のためのものだが、いざとなれば職員や生徒たちはそこに逃がす。もっとも、そうならんことを祈るばかりだがな」
「事情は承知しました。避難用シェルターがあるということ、自分から生徒に伝えておきます。あくまでそれとなくですが」
「ああ、頼む」
「しかし、いっそ今この段階でも徐々に避難指示を出せないのですか?」
トレミア・アカデミーの轍をあらためて踏むことはない。彼の言うことは確かに正論だった。だが──
「あいにくと時間がないんでな」
平静を保ったまま、サリナルヴァは小さく首を横に振った。
「時間?」
訝しげに瞳を曇らせるミラーに、サリナルヴァはコートの衣囊から数枚の紙切れを取り出した。折りたたんであった紙面を広げ、投げつけるように彼へと手渡す。
ティンカがまとめた簡易的な診療録。
「クルーエルがもう保たない。いや、いつ力尽きてもおかしくない状況だ」
「......そうだったのですか。自分は彼女の容態を詳しく知らなかったので。......なるほど、あの大人しいネイト・イェレミーアスがここまでやってくるわけだ」
「ミシュダルがいつ攻めてくるかも分からないのは承知の上。だがそれでも、それを怖れて研究を止めてしまうことは、万一クルーエルが助かる可能性すらも閉ざしてしまうことになる。だからできない」
不確定、だが間違いなく迫っているタイムリミット。そのぎりぎりまで食らいついてしがみつく。クルーエルをこの研究所に招くことを決断した時から覚悟は決めていた。
「とんだ修羅場。だが、だからこそやりがいがある」
「そういうことだな」
「......あなたを見ていると、教員を選んで正解だったのかなという気がしてきました」
「それをお前が言うな」
呆れ笑いを隠そうともしないミラーの臑を、サリナルヴァは鉄製のハイヒールで盛大に蹴りつけた。
2
保養区。そう書かれた立て看板の前を足早に通り過ぎる。
歩道からふと視線を左に移せば、そこには視界一面に広がる森林。複数の野鳥の鳴き声が競合するように響き合う。
「トレミアもそうだけど、敷地の自然のほとんどが手を加えずに残ってるんだな。すげぇ贅沢、リゾート地みたいだ」
「せせらぎの音まで聞こえるわね。近くに小川もあるみたい」
しきりに周囲の様子を見やるゼッセル、エンネ両教師。
「......研究所の建物からは離れた場所にあるんですね」
一方で、のんびりとした二人を先導するかたちでネイトは足取りを速めた。
「そりゃ保養区だからな。心と身体を落ちつかせるには、誰だって静かで見晴らしの良い場所の方がいいだろ。ま、そんなに焦らなくてもどうやら着いたようだぜ」
案内図を持つ手で、ゼッセル教師が進行方向をまっすぐ指さした。その方向をじっと見つめ、ネイトはぽかんと口を開けた。
「あれが病院なんですか?」
目をこすってどれだけ眺めても、目の前にあるのは木造のコテージだ。一般の医療施設のような、冷たい印象がまるでない。それこそ観光客が寝泊まりする宿泊施設のような。
「ゼッセル、地図間違えてない?」
同じく首を傾げるエンネ教師。しかしゼッセル教師は地図を穴が空くほど見つめたまま。
「いや、確かに合ってるって。ずいぶん洒落た施設だとは俺も思うけど」
──ここに、クルーエルさんが。
とくん、とくんと胸が騒ぐ。嬉しさや興奮の高鳴りじゃない。たった二日しか会わなかったのに、なんだかすごく緊張する。
「あの、すいません!」
扉の前の呼び鈴を押した。小さく響き渡る機械的なブザー。一秒、二秒......時間が経つのが遅く感じる。体内時計ではそれこそ、何時間も経過したと錯覚するくらいの時を経て。
「お待たせしました」
木造の扉が開き、中からケルベルク職員と思しき女性が顔を覗かせた。
「ええと、クルーエルさんがここにいるってサリナルヴァさんが」
「ああ、副所長から話は承っています。どうぞこちらに」
促されるまま建物内部へ。だが数歩と歩かぬうち、ふと違和感があった。背後の足音が妙に静かなのだ。
──あれ?
思わず、教師二人がいるはずの後方へと振り返る。見れば二人とも、玄関外に留まったままだった。
「ゼッセル先生、エンネ先生?」
「あー、気にすんな。今回あの子に会いに来たのは俺たちじゃねえからな」
気楽に手を振るゼッセル教師、そしてその隣では。
「そういうこと。外で待ってるから、ゆっくり話していらっしゃい」
微笑を浮かべたまま腕を組むエンネ教師。
「は、はいっ」
大きく頷き、ネイトは先を進んでいく女性職員の後をついていった。
フローリングだからか、慌てて走ってもほとんど足音が立たない。これも患者をいたわる配慮なのだろう。廊下につけられた歩行補助のための手すりや車椅子用スペース、あらためて眺めると、確かに病棟らしき設備が充実しているようだった。
「こちらです」
廊下の最奥に用意された部屋の前で職員が立ち止まる。
扉に設けられたネームプレートに記入はない。きっとサリナルヴァからの指示を受け、慌ててクルーエルが入る部屋の準備をしたのだろう。そのどたばたでネームプレートの記入を忘れたのかもしれない。本当に些細なことかもしれないが、今はそれが少しだけ悲しかった。
「私は先ほどのエントランスにいるので、何かあれば」
「はい、ありがとうございます」
通路を去っていく職員の背を見送り、ネイトは眼前の扉を見つめた。
トン......トン......
小さく二回ノック。もとより、部屋の中から返事がないことは分かっていた。
「失礼します」
扉を開け、部屋の中へと足を進める。たったそれだけのことなのに、緊張で足が持ち上がらなかった。それこそ数ミリの段差でもつまずいてしまうくらい。
一瞬、眩しいまでの陽にまぶたを閉じる。再度目を開けたその先は──
......なんて、寂しい部屋なんだろ。
その部屋は、どうしようもないくらい寂しい部屋だった。廊下側の壁に小さなタンスがただ一つ。必要最低限の調度品を除いては花瓶の一つ、絵画の一枚もない部屋。
その中央に、木製のベッドだけがぽつんと取り残されたように配置されている。陽がよく射しこむため部屋内は明るい印象。しかしそれが、逆に物寂しさをより一層浮き彫りにしているかのようでもある。
ただ一つ置かれたベッドに、見覚えのある少女が昏々と眠りについていた。入院患者用の衣服を羽織り、その上には薄い純白のタオルケット。
「クルーエルさん?」
目をつむったままの彼女から返事はない。
「......返事、してくれないんですか」
ベッドの横で、ネイトは床に膝をついた。寝ている彼女と、ちょうど同じくらいの顔の位置だった。
〝──ティンカの見立てでは一週間が限界だって話だった〟
微笑むように寝入るクルーエル。本当に、限界に達しているとは思えないくらい優しい
表情。呼べばすぐにでも起き上がってくれる、そんな気がしてならない。
「僕......どうすればクルーエルさんを助けられるんですか」
吐息が触れるほどに近い距離。
自分でもふしぎだった。もし彼女が起きていたなら、目を開いた彼女と向き合っていたなら、この距離は恥ずかしくて堪らない距離のはずなのに。
「クルーエルさんと同じクラスになって、その日に実験室で、僕すごい失敗しちゃって。その夜のこと......クルーエルさん覚えてますか」
〝キミを見習って、わたしもちょっとだけ頑張った方がいいのかな〟
「僕、母さんとの約束のために夜色名詠を勉強しようと思って、そのためにトレミア・アカデミーに来ました」
でもいつからか、名詠を頑張る理由がもう一つできていた。
「クルーエルさんが頑張るって言ってたから、僕も一緒に頑張ろうって、一緒に頑張りたくて勉強してたんです。アーマと母さん、それに......クルーエルさんに認めてもらいたかったから」
初めて来る土地、初めて会う人たち。初めての、正式な名詠学校。一緒にいてくれた人がいたからこそ、転入してからの二か月は楽しかった。
「だから、お返しに何かしたかったんです」
でも、それができないうちに......本当に、何でこんなことになっちゃったんだろう。気づいた時には全てが遅くて、それに気づけなかった自分自身が悔しくて仕方なかった。
......クルーエルさん、今僕がしてあげられることって何ですか?
ほっそりとした彼女の頰を、ほんの僅かだけ、一瞬だけ、ネイトは指先でそっと撫でた。
確かに感じる温かみ。きっと彼女だって、今もずっと闘ってる。
〝──おやすみのキス、して〟
「だめですクルーエルさん。僕、おやすみのキスなんて絶対しません」
口に苦い物が混じったまま、ネイトはかすれ声で小さく洩らした。
「......だって、だってそんなことしたら......クルーエルさん寝ちゃうじゃないですか」
眠ったまま、もう起きることはない。そんな気がする。
だからこそ。
「ねえ、クルーエルさん」
まぶたを閉じたままのクルーエルを、ネイトはじっと見据えた。
「もし僕が......おやすみなさいじゃなくて、おはようございますってキスしたら......クルーエルさんは目を覚ましてくれますか?」
3
研究棟最上階、副所長室。
狭く薄暗い室内に二人分の吐息、そして鳥が翼を羽ばたかせる小さな音が響く。
「動ける人間を総動員して敷地内の主要箇所を洗ってみたが、徒労に終わった。ミシュダルが侵入したのは確実。だが荒らされていたのは結局、例の三階研究室一箇所だった」
『被害は?』
音響鳥が伝えるクラウスの問い。これはサリナルヴァにとって予想していたものの一つだった。
「うちの者が何人か治療中だ、命に別状はない。奪われた物も、既に触媒として使用済みだった〈孵石〉一つだ」
『......すんなりとは腑に落ちないな』
淀みなく答える自分と対照的にクラウスの声には覇気がない。
「ああ、サンプルデータもやられたかと思ったのに、それにも一切手を触れないままだ。だからこそ余計に気になる」
トレミア・アカデミーで遭遇した時のミシュダルは、まだ理で動いていた部分があった。しかし今回のはどうだ。危険を冒して研究棟の三階まで侵入しておきながら、奪ったのは既に使用され役に立たない〈孵石〉ただ一つ?
「陽動狙いにしてはリスクが高すぎる行動だ。何か裏で別の理由があるとしか思えん」
『いずれにせよ、現場にいない私には判断が難しい話だな』
「こっちはこっちで何とかする。優秀な祓名民を貸してもらって心強いよ」
クラウスの信頼する祓名民を五人、うち二人は祓戈の到極者の称号を授与された者たちだ。敷地内の主要建造物に一人ずつ配置している。ここ研究棟にも一人、いや、今自分の隣で祓戈の手入れをしている彼女を含めれば二人か。
「ん? 優秀な祓名民ってあたしのこと?」
耳ざとく振り返ったのはエイダだ。
「そうだな、頼りにしてるよ暴走娘」
机に留まる音響鳥を抱き寄せ、彼女が座る方へと持っていく。
『あまり褒めないでやってくれサリナルヴァ、うちの娘は褒められるとだな』
「ああもうっ、親父は黙ってろっての!」
エイダが必死の形相で音響鳥を睨みつけはするものの、当然向こうにその表情は届かない。怯えたのはクラウスではなく音響鳥の方だった。
「ほらエイダ、音響鳥が怖がってるからほどほどにしとけ」
「......くそぅ、ルフ爺がいれば援護してくれるのに」
ぶつぶつと言い残し、祓戈の手入れに再び集中するエイダ。
『そうだ、カインツだが』
前触れなくクラウスが告げた名に、サリナルヴァは反射的に眉をつり上げた。
「見つけたのか?」
『あいつの方から音響鳥を寄こしたよ。遠い場所に遠足に行ってきたとな。収穫はあったか訊ねたんだが、どうにもあいまいな答えしか返さなくて何と言えばいいのやら』
「いつものことさ」
あの男の放浪癖も秘密主義も、〈イ短調〉のメンバーなら誰もが知っていることだ。
『その件で、もしやカインツがそちらに行ってるのではと思ったのだが』
「その報告はまだないな。かと言って、そもそも事前連絡を寄こすくらい几帳面な男でもないだろうし......と、そろそろ時間のようだな」
輝く光の粒子が音響鳥の身体を覆っていく。名詠で詠ばれた生物が還ろうとする前兆だ。
『そのようだな、何かあればそちらからも連絡を寄こしてくれ』
緑色の輝きを放ち、机上に留まっていた音響鳥が還っていく。それを見送り、サリナルヴァは自分の左席に座る彼女へと身体の向きを変えた。
「さてエイダ、待たせたな。そっちの話を聞こうか」
「うん」
クラウスと自分の会話にエイダが参加していたのではなく、エイダとの会話の最中に音響鳥が割りこんできたのだ。名詠された音響鳥の方は時間的制約があるため、急遽こちらを優先させることになった。
「いや、あたしのは大したのじゃないんだけどね」
向き合っていた視線を横に逃がし、エイダが窓の外をじっと眺める。
「......これだけ高い場所だと、やっぱ見晴らしもいいね」
広大な敷地で、もとから他に高い建造物もない。研究棟最上階からならば遥か彼方の地平線までもが見渡せる。
「私も気に入っている。この陰気な場所で唯一まともな光景だよ。もっとも、この夜中では景観も限定されてしまうがな」
研究所敷地内は夜中から朝方まで、無数に設置された外灯によってライトアップされている。敷地内は昼夜関係なく明るいのだが、その敷地から一歩出れば、そこは真っ暗な平原が延々と続く別世界だ。
「ちび君を今夜一晩、クルーエルのいる病棟に泊まらせるってのはサリナの提案?」
「提案ではなく、せめてもの妥協案だな。それで少年の気持ちがやわらぐのであれば」
椅子に座したままで、組んでいた足を組み替える。
「それは分かってるけど、ミシュダルがもしちび君たちを襲撃してきたら?」
「ミラーの同僚の教師二人をつけた。石化を解除できる白色名詠の教師もいる。その周囲にも祓名民を配置、何かあればすぐにでも連絡が取れる態勢にしてある。私に言わせるなら、病棟にいるネイトなどよりむしろ──」
足下の床を、ハイヒールで軽く踏み叩く。
地下一階の仮眠室。そろそろトレミアからの生徒も寝入った頃だろう。
「仮眠室に寝泊まりしてるお前のクラスメイトが不安材料だな。何かあった時にさっさとシェルター内に逃げ込んでくれれば助かるが、人質に利用されると厄介だ」
「そこはあたしが何とかするよ、クラスメイトには指一本触れさせないって」
「ならばさっさと下に行ってやれ。ネイトだけでなくお前までいつまでも帰らないなら、さすがにクラスメイトも不安がる」
「はいはいっと」
祓戈を抱え、気楽な歩調で出口に向かうエイダ。と思えば、その祓戈の到極者は扉の前でぴたりと足を止めた。
「サリナ、あんたこの部屋で一人だろ。余計なお節介かもだけど、気をつけろよ」
「あの男が今さら私のような一研究者に興味を抱くとは思えんがな。ともあれ、その忠告は真摯に受け止めておくよ」
エイダが退室し、室内には耳が痛くなるほどの静寂だけが立ちこめた。
「ミシュダルが今さら私を狙う理由もないだろうが......」
机の引き出しを開ける。溢れ出るほどの書類や小物の中に、小さな機械装置が一つ。手のひらに隠せるサイズのそれを手に取り、ぼんやりと見つめた。
黄の小型精命の放電現象を研究中、その実験の一環として製作した高電圧銃。護身用ではなく、ほとんど自分の趣味で作ったものだ。最大威力に設定して使用すれば相手を行動不能にするくらいの出力は出る。
「......はは、今思えば可愛らしい玩具だな」
穴が空くほどそれを見つめ──
「しかし、玩具はしょせん玩具だ」
サリナルヴァは、それを部屋の隅に設置されたゴミ箱へと投げ入れた。
「こんなもんであいつがどうこうできるなら苦労はない、か」
羽織っていたコートを椅子の背にかぶせ、サリナルヴァは再び机上の資料と向き合った。
今は、そんな心配をする時間すら惜しいのだから。
4
「クルルがいるのはこの建物じゃないんだね......てっきりすぐ会えるかと思ったのに」
小さな不満に頰をふくらませ、ミオは目の前のベッドにうつぶせに倒れこんだ。
女性用仮眠室──木製の三段ベッドが十数個に、それと同数のロッカーが整備された部屋だ。何日も泊まりがけで使用する職員もいるらしく、ロッカーの上には私物と思しき備品がいくつも残っている。
「まーいいじゃない、主治医の人が明日には会わせてくれるって言ってんだから。むしろこうして寝る場所があることに感謝しなきゃ」
寝間着代わりの運動着に着替えながら、サージェスが飄々とした口調で応える。
「そういや、隣の男子はやけに静かだね」
隣の壁に聞き耳を立てミオは目を瞬かせた。つい先ほどまで騒いでいたはずなのだが、時計が十二時を過ぎた頃から急に静かになった。今では物音一つ聞こえてこない。
「列車で騒いでたからね。疲れて寝てんだろ」
制服を畳んでいた手をふと止め、サージェスが怪しげな顔つきで。
「山は大変だよぉ? テント張っても夜中に虫とか蛇とか入ってくるし、ゴツゴツした地面の真上で寝るんだから背中は痛いし。雪の上にテント張った時なんか最悪、雪が溶けて背中とか足とかに染みこんで冷たくて寝られないんだから......うふふふふ」
「あ、あの......サージェスってば怖いんだけど」
まるで怪談を語る時のような怪しげな表情で近づく彼女から、ミオはこっそり後ずさりした。
「......あたし思うんだけど、そんな辛いことだらけなのになんで登山部やってるの?」
「え、いや、色々あるんだよ」
困ったように頰をかきながら、サージェスが視線を宙に泳がせる。
「普段わたしたちってさ、こういう寝泊まりする場所が当たり前にあると思ってるでしょ。でもちょっと自然のあるとこ行くとそんな常識通用しないの」
目にかかる黒髪を手で払い、友人の視線が意味ありげに目を細めた。
「それこそテントだって張れない場所で野宿だってあるし、もしテント張ったっていつ突風で崩れるかなんてザラだからね。その時思うわけよ、『あー早く家に帰って暖かいベッドに入りたい』って。『おいしいご飯が食べたい』って」
一呼吸置き、彼女はどこか大人びた笑顔を浮かべてみせた。
「ありがたいよ? 帰った先で出迎えてくれる人がいるって。辛いことがあればあるほど、すっごく大切に思えるから。それが実感できるってのは大きいね」
「──出迎えてあげる、か」
自分の両の手のひらをまじまじと見つめ、ミオはぽつりと呟いた。
「あたし、そういうの体験したことがないから、そういう帰ってきた時の嬉しさってあんまり分からないんだよね」
「ま、無理に体験するってのもどうかと思うけどね。でも出迎えてやることは、きっとみんなできるんじゃない?」
「......うん」
彼女が含ませた言葉の意味を悟り、ミオはしずしずと頷いた。そうだ、クルルを出迎えてあげることだけは、あたしにだってきっとできることだよね。
「だから──」
サージェスが二の句を継ぐ前に、仮眠室の扉が開いた。
「やっほ、ただいま」
布を巻いた長鎗を抱え、現れたのは日焼けした小柄な友人だった。
「エイダおかえりー。どこ行ってたの?」
「ちょっとサリナとお話」
「あ、ずるい~。エイダ一人だけ?」
エイダの告げる名前はミオにも聞き覚えがあった。トレミア・アカデミーで灰色名詠の使い手が侵入した時、自分の窮地を救ってくれたのが彼女だ。
「面白くもない話だってば、それより隣の男所帯が静かだね」
「うん、あっちはみんな寝ちゃったみたい」
と言っても、女子で起きているのも自分たち三人だけなのだけれど。
「やれやれ、まあいっか」
鎗を壁にたてかけ、エイダが深く溜息。
「とりあえず明日のことは明日にしよっか。ずっと気を張り詰めてたらこっちが保たない」
「そうだね。あ、エイダのベッドはそっちだよ、窓の傍」
部屋の一番奥。三段ベッドが並ぶ中で一番窓際に近いベッドの、その一番下だ。
「あーっと、ごめん。あたしこっちでいいよ」
自分が寝る予定だった、扉に一番近いベッドをぽんぽんとエイダが叩く。
「でもそこ、人の出入りがありそうだからあんまりよく寝られないかもしれないよ? あたし割とどこでも寝られるからそこにしようかなって思ったんだけど」
一応ミオがそう言ってはみたものの、エイダは既にそちらへ自分の荷物を移動させてしまっていた。
「いいのいいの、悪いけど、ミオ窓際でもいいかな」
「エイダが良いならあたしはどこでも構わないよ」
持参したお気に入りの枕だけを抱えて窓際のベッドへ。
「お、ミオのそれ家から持ってきたの?」
「そだよ~、あたしこれじゃないとダメなの」
枕を抱えたままベッドに潜り込もうとする矢先。
......あ、いっけない。
自分がまだ制服のままだったことにミオははたと気づいた。ついさっきまでクルーエルの見舞いに行く気だったから、寝間着に着替えるのも控えていたのだ。
「あはは、ミオそのまま寝ちゃえば?」
「やだ、しわくちゃになっちゃうもん」
楽しげに言ってくるサージェスの提案は却下、っと。
鞄から寝間着代わりの運動着を取り出して、制服のボタンを外す──その直前だった。
部屋の照明が前触れなく消えた。
「あ、ちょ、ちょっと待って! あたしまだ着替えてなくて──」
今の今まで室内が明るかったからか、突然の消灯で夜目がまるで利かない。いったい誰が消したかも未確認だった。
「消したのエイダ?」
照明のスイッチは扉の真横にあったはずだから、エイダのはずだ。
広がる暗闇の中。
「......いや、あたし明かりのスイッチ触ってないよ」
鼓膜に伝わるエイダの声が、ぞっと背筋を冷やした。
──え、それじゃあどういうこと?
「停電?」
怪訝そうな声音でサージェスが呟く。
「......と思いたいけどね」
キンッ──小さな金属音。
扉の方向で、エイダが鎗を握りしめた音がこだました。
5
僅かに開けた窓から入るすきま風。カーテンを揺らし、山となった書類をめくり、髪をそっと撫でていく。
......今日は、ずいぶんと湿った風だな。
報告書を読み進める速度は落とさぬまま、風が触れたうなじの部分にサリナルヴァはそっと手を添えた。熱風というわけでもなく寒風というわけでもない。服を一枚羽織るには暑く、一枚脱ぐには寒い。かといってじっとしていると妙にむず痒い。湿り気混じりのひどく半端な風だ。
〝生温い風はどうもすかん、こういう時には決まって良からんことが起きる〟
祓名民の長老の口癖を思いだし、つい噴きだしてしまいそうになった。
「いや、まったくだルーファ老。人の経験則というものは時として、無自覚ながら非常に合理的な場合があるからな」
ただ、あの老人が真面目な顔つきでそう告げるのが、自分にとっては無性に面白く感じてしまうのだ。
「......しかし、そればかり考えていても仕方ないか」
報告書をめくる手が突然に止まる。山のように積もった報告書の中で、たった一つ気がかりな書類に自然と目が留まってしまったから。
該当書類の決裁名義は研究第一課主任。他でもない、あの薄気味悪い自称敗者によって侵入された実験室の被害報告書だった。
石化の治療を受けている職員は三人。いずれも二、三日で現場に復帰できると報告を受けた。実験室の修繕には時間がかかる。しかしその間は予備の部屋を使えばいい。奪われた物は〈孵石〉一つ。だがそれすら、必要なデータは集計しまとめ終えている。その調査書も無事。結果的に損害というほどのものではない。単にあの場所で火事が発生した方がよほど被害も大きかったに違いない。
「なぜだ、ミシュダル」
カツッ、とペン先で机を穿つ。
「研究棟内部、いわばケルベルクの懐まで侵入に成功した。あるいはそれがここを陥落す唯一の機会だったかもしれないんだぞ? 危険を冒してまで侵入した挙げ句、〈孵石〉を奪い返しただけだと?」
あまりにらしくない。何か狙いがあると疑ってしかるべきなのに、何も思い浮かばない。思索に耽れば耽るほど、あの男の行動の矛盾が一層際だつばかりだ。
「......だめだな。思考が冴えない」
夜、何度目かの嘆息。一度通路脇の水場で顔でも洗おうとした時。
トン、扉がノックされた。
この時間に誰だ?
「副所長、いらっしゃいますか」
「......なんだ秘書か」
「秘書ではなく、研究第一課主任です。まあそれはさておき、どうせ今日も徹夜されるのかと思って。いつもと変わらないお茶ですけど、お持ちしました」
「む、もうそんな時間だったか」
午前一時半、自分が最も思考の鈍る時間だ。その時間に合わせ、この主任は必ず眠気覚ましの紅茶を淹れて運んでくる。強制したわけではない、数年の付き合いで自然とそんな関係が日常化したのだ。
──研究者らしからぬ配慮がきくあたり、やはり秘書っぽいよお前は。
苦笑は心中に留め、サリナルヴァは机から立ち上がった。
「ああ、入ってきてくれ。鍵はかかってない」
「は........................」
はい、そう言いかけたまま、唐突に扉の外が静まった。
五秒、十秒。
どれだけ待っても主任が扉を開けて入ってくる気配はない。
「ん、どうした?」
──ッッリィィィィ............ンッ──
返事は、通路で何か硬い物が割れた音だった。今のは紅茶のカップ?
「おい、どうした!」
扉へ駆け寄る、その前に。
──好い夜だ
「っ!」
扉の直前でサリナルヴァは突然足を止めた。いや、意識するより先、全身を走る悪寒に足が勝手に止まったのだ。その声は、まさか。
ギィ......重苦しい音を立てながら、扉が徐々に開いていく。
「............ぁ............っ............副......所長?」
まず目に入ったのは、両足が膝まで石化した状態で直立する主任の姿。
そしてその背後、まるで友人であるかのように彼女の肩に手を載せ、旅装束風の衣装を纏った大柄の男が暗闇と同化するかのように立っていた。
「この時間まで居残りか、その熱意には頭が下がる思いだよ。昔の俺を思いだす」
顔を隠すフードの下、僅かに見える口元は狂気の笑み。
ズッ、ズッ、ズッ。足を引きずるような音を立て、男が一歩だけ部屋に踏み入る。
「俺が侵入していたことは分かっていたのだろう? 扉に鍵の一つかけておかないのは、お前らしくないな。まるで入ってこいと誘っているかのようだ、なあ?」
「当然の推測だな」
ミシュダルからは見えぬ角度、研究服の左ポケットの膨らみを手探りで確認した。
職員全員に持たせてある小型の警報装置。ただ強烈な音を発生させるだけの機械だが、この棟に響き渡らせる程度の音量は十分出る。
だが、この場ですぐにそれを鳴らすわけにはいかなかった。
「何か仕掛けを用意してあるのなら、なぜさっさと使わない?」
口元の笑みを一層深め、ミシュダルが嘲笑うように続ける。
「ま、俺がお前の立場でも使わないだろうがな。こうして人質を取った危険人物の前で迂闊なことをすれば、かえって相手を刺激するだけ。人質に何をしでかすか分からない。賢明なお前だからこそ使うに使えないといったところか」
「ああ。まったく、嫌になるくらい図星だよ」
表情が歪みそうになるのを堪え、サリナルヴァは極力声音を平静に保った。
──やはり、頭の回転は恐ろしく速い。
しかし、ならばなおさら今回の襲撃は理屈に合わないではないか。いったいなぜ。
「だがあいにく、もはやお前に興味はない」
一歩、ミシュダルが通路側へと後退する。濃い闇の中、灰色の旅装束だけがぼんやりと浮かび上がり、それさえ徐々に霞んで消えていく。
この最上階から場所を移す気か?
「途惑い迷い悩む──好い表情だ、サリナルヴァ。しかし俺は最上階のさらに上に用があるんでな。そのついでに挨拶に寄っただけだよ。布告と言った方が正しいかな」
「布告?」
それに答えることもないまま、足を石化したまま動けない主任の背後、ミシュダルの姿が影と完全に同化する。
「ちっ、ますます分からんことをしてくれる!」
敗者が立ち去ったことを確認し、サリナルヴァは部下の下へ駆け寄った。
「すまんな、平気か?」
「......外傷はないけど、歩けないのは平気じゃないです」
「馬鹿、あの男に出会ってそれだけで済んだのなら幸運だ」
研究服のポケットをまさぐり、朱に塗られた小型機器を取り出す。最寄りの壁目がけ、サリナルヴァはそれを全力で叩きつけた。
耳障りな警報音が、通路という通路にけたたましく鳴り響く。
「一階の連中にも届くはずだ、応援もじき来る。......祓名民に足を治してもらってすぐ、お前はシェルターに避難しろ」
「ふ、副所長は?」
「私は──」
通路の奥、一層黒く澱んだ先を見据えた。非常階段がある方向だ。が、あの男の目的はこの棟から脱出することではない。最上階からもう一つ上、つまりは屋上だ。そこからならばケルベルク研究所のほとんど全敷地内が見渡せる。
「確かめたいことがある」
「危険です! そもそも、何のためにクラウス氏から腕利きの祓名民を派遣してもらったのですか! 副所長だって避難を──」
「私が避難するのは、他の最後の一人が避難を終えてからでいい。それこそ何のためにここを任されているか分からんからな」
ケルベルク研究所本部において所長と呼ばれる人間は確かにいる。しかしそれはあくまで名目上。今では研究所にやって来ることすら珍しい。つまるところ実質的な最高責任者は紛れもなくサリナルヴァなのだ。自分も、そして周囲の研究者も誰もが共通の認識を持っている。
「......今度あの役立たず所長が来たら、私あいつ殴っていいですか?」
「その時は私も交ぜてほしいものだな」
「はい。ご無事を」
小さく頷き、サリナルヴァは駆けだした。
ズッ......ズズッ............
むせび泣くようにこだまする敗者の足音。それを目指して。
外は風がやんでいた。無風にして無音。嵐の前の静けさか。あるいは既に渦中にいるからなのか。
──どのみち、これから嫌でも分かることだな。
カンッ、乾いた音を立てながらサリナルヴァは非常階段を駆け上がった。広がる展望。外灯に照らされ、ケルベルクの敷地がさっと眼下に展開した。
「まさか一人で追ってくるとは思わなかった。よほどの馬鹿か自信家か。お前はどちらだ、サリナルヴァ?」
そう告げる男は、自分から対角線上に位置する隅に悠然と立っていた。
「まあ、もはやそれもどうでもいい」
黒塗りの鉄柵の前で、背を向けたままミシュダルが片手を上げる。さながら、世界を覆い展開する漆黒の天上を仰ぐように。
「私とて好き好んでお前と話したいとは思わん。だが訊きたいことがあったんでな」
一歩、また一歩と近づいていく。距離にしてあと十数メートルほどか。
十メートル、八メートル、五メートル。詰めようと思えば一息に詰められる距離。にもかかわらず、この敗者は背を向けたままだった。
「なぜわざわざここで〈孵石〉を奪った、いや、なぜ〈孵石〉しか奪わなかった。あそこまで懐に入っておきながら、使い古しの触媒一つで満足したというのか?」
「満足?」
ゆらりと、眼前の相手が振り返った。
「ふ、はは......ははははっ! 満足、満足か! 満ち足りると書いて『満足』! いいなその言葉、俺にとっては理想の果てに行き着いてもまだ及ばない言葉だ」
自分ではなく、まるで自らに言い聞かせるように敗者が奇声を上げる。
「トレミア・アカデミーで言っただろう? 俺はどれだけ葡萄酒を注いでも満たされない、穴だらけの器だとな」
ならばなぜ──そう訊き返す前に。
「単なる思い入れだよ」
「思い入れ?」
「このくだらない玩具。俺とヨシュアが互いに傷を舐めあい、地を這い進み泥をすすって生きてきた証だからさ。たった一つのものさえ得ることのできない俺たちが、たった一つすがった代替品だ。研究に没頭することで全てを忘れられた、それだけの愛情を注いで造ったんだ。取り返したくもなる」
「取り返した次は何だ? ネイトやクルーエルに復讐か?」
トレミア・アカデミーにて、浸透者という名詠生物が二人を襲った件はティンカから報告を受けている。
「復讐? まさか、俺はあの二人が恋しくて堪らないだけだ」
「恋しい?」
「ああそうだ。サリナルヴァ、あの二人は間違いなく──引き裂かれるぞ」
意味が分からない。この男は何を言っているんだ。
「どんなに幸福だろうと強い想いだろうと関係ない。時の流れというものは常に人を油断させ懐柔し、恋人のような笑顔を装って背中に残酷な刃を振り下ろすのだからな」
「......戯れ言を」
クルーエルの病を指している? いや、いくらミシュダルが手を伸ばしたとて、そこまで些細な事実をどうやって入手できるだろうか。
「そうではない、歴史は繰り返すのさ、サリナルヴァ。あいつらはかつての俺と酷似しているからな、過去を見るかのようにあいつらの行く末が分かる」
「──お前とネイトたちが似ている?」
「あいつらもまた、俺やヨシュア同様に敗者となる他ないのか。だとすればその後に何に縋るのか、ラスティハイトに縋った俺の選択以外に、敗者を照らす道はあるのか。俺はそれが知りたい!」
男の背後で。
夜の帳の中、灰色の飛沫が虚空を舞う。
──sterei efflectis Ezehyt──
漆黒を切り裂くように疾る、十二からなる銀の剣がミシュダルの周囲を覆う。
「知りたい、だと? 意味が分からん。何が言いたい」
「すぐに分かる。好い風が吹いてきたじゃないか」
目も開けられぬほど強い突風の中、それに突き動かされるようにミシュダルが鉄柵を乗り越えた。転落防止用の柵を越え、屋上の端ぎりぎりまで歩いていく。
「サリナルヴァ、ここに来たのは僥倖だったな。お前が、敗者の王をその目で見る最初の人間だ」
「敗者の王? お前は既に灰色の真精がいるはずだ」
トレミア・アカデミーでこの目で見た。十二の守護剣を従わせた真精だったはず。
そして、一つの名詠色につき詠び出せる真精は一体。この男とてそれは例外ではない。
「全ては通過儀礼だよ。王の守護者が守る奥に王の座る玉座があるように、俺の真精が持つ十二の守護剣を全て捧げることで、灰色名詠の真精は敗者の王へと変貌を遂げる」
左手に抱えた、鱗片に似た紋様の石。その表面が軋むように亀裂が入り、そこから形容できぬ色の輝きが迸った。

「それが、〈孵石〉に封されていた原触媒!?」
ミシュダルの、フードの下の唇が奇怪な笑みのかたちを描く。
「最も深くて長い夜の始まりを共に祝おう。俺自身の、覚めることのない悪夢と共に」
風が、吹いた。
目の前で、屋上から敗者が転落していく。
「なっ!」
息をつくのも忘れ、サリナルヴァは柵から身を乗り出した。風に押されたのではない。今確かに、あの男は自ら屋上から飛び降りた。投身自殺とでもいうのか?
だがおかしい。ミシュダルが落下した方向をどれだけ隈なく探しても、それらしい人影が見当たらないのだ。
──O vilis arsei spil
亡霊のような声が空に響いた。その声につられ反射的に頭上を見上げ──
旅装束をなびかせ、自分の遥か上空にミシュダルはいた。
何かに摑まっている様子はない。まるで何もない虚空のはずが、足下に確固とした地表があるかのように悠然と屹立している。
宙に浮く? いったいどんな仕掛けが?
じっと目を凝らす。見上げたミシュダル自身は先と何ら変わらない。今も、何かをしているような様子もない。だが。
唐突に、ミシュダルの背後から覗く星明かりがぐねりと歪んだ。いや、ミシュダルの周囲だけではない。この研究棟一帯の風景全体が蠢きだした。
ティンカやミラーから報告は受けた。これが浸透者がいる時の現象であると。つまり、ミシュダルを宙で支えているのは浸透者? しかし──
なんだこの大きさは!
研究棟と同等、いやそれ以上に巨大な何か。それが徐々に、完全な透明体から白霧のような身体へと濁っていく。外灯に照らされ浮かび上がる名詠生物。
......真精? この化け物が真精?
頰を一筋の汗が伝っていくのが分かった。
今まで数多くの名詠生物、真精を見てきた。場合によっては対峙しなければならない状況もあった。冷や汗を拭うどころか死地に踏み入ったこともある。だが、見上げただけで全身から汗が噴き出すような感覚は初めてだ。
灰色名詠の真なる真精──敗者の王。
あまりに近い距離のせいで名詠生物の細かい輪郭が摑めない。それでも分かる。
威圧感が違う、存在感が違う。他の真精と格が違う。人が詠び出す真精ながらも、信仰の対象になるだけの威光がある。
「......なるほど、あの狂気じみた敗者がこうも妄信するわけだ」
膝がふるえだすのを懸命にこらえ、眼前を覆うほどの巨体を持つそれを見上げた。
間奏第四幕 『シャオ ─弱き者─』
夜風に撫でられ、森の木々がざわりと騒ぐ。
「かつて、名詠式の研究に打ちこむ前途有望な研究者がいた」
周囲を一望できる小高い丘に、二人分の人影があった。
「そんな彼の下に一人、助手として雇用された女性アシスタントがいた。間が抜けておっちょこちょいで、せわしない女性。名前をレインと言った。しかし雇ったはいいものの、当初その研究者には、レインがただの足手まといとしか映らなかった。おせっかいで目障りだとね。そしてそれを面と向かって言ったこともある」
一つは、背に長大な鎗を担いだ長身の男。
「だけどレインは次の日も、また次の日も彼の下にやってきた。呆れかえる彼をよそに、彼女が笑顔で研究を手伝う日々は続いた」
そしてその隣に、小柄なシルエットが立っていた。深い暗褐色の外套に、表情を隠すほど目深にかぶったフード。
「その中で少しずつ変化があった。要領が悪くお世辞にも有能とは言えないけれど、この上なく明るい彼女。失敗した時に励まされ、成功した時には共に喜んでくれる。そんな彼女に研究者もまた自然と惹かれていった。自分にはないものを持っているとね」
ふわりと、そのフードが持ち上がった。
二つの影は動いていない。風が、そのフードの覆いを外したのだ。
「口に出せないながらも、ずっとその関係が続くことを研究者は願うようになった。一月、一年、慎ましくも穏やかで安寧の日々が続く。しかし──」
淀みなく綴る言葉が、フードを吹き上げた風に遮られ一瞬止まった。
「間もなく、突然の悲劇が二人を引き裂いた」
艶やかで均斉がとれた唇、涙に濡れているような深い色に輝く黒瞳。少年か少女か分からない、中性的な顔立ちがあらわになる。
「きっかけは、たった一本の電気ケーブル切断から始まる短絡。しかし小さな火花は消えることなく周囲の埃に着火し、周囲の薬品に燃え移り......最後には研究所そのものを巻き込んだ火災という最悪な現象を招いてしまった。その事故で研究者は自分の右腕を失い、レインの方は二度と帰らぬ者となった」
「それって有名な事件か、シャオ?」
訊ねるように顔を向けるもう一人の男。
「いいや、本当に小さな小さな研究所の事故だから」
肩に止まった木の葉を手のひらに載せたまま、シャオがそっとまぶたを閉じる。
「右腕を失い、研究者としての誇りも地位も失い、最も愛すべき者さえ失った。文字通り全てを失った男はあてもなく大陸をさまよった。あるいは、レインの後を追おうと死に場所を探していたのかもしれない。けれど、とある荒野にて、彼は一人の老人と出会う。自分とまるで同じ過去を背負った老人と。その老人の名は......ヨシュア」
手のひらに載せた木の葉が、再び風に乗って飛ばされていく。その一方で、ざわめいていた森や足下の雑草はしんと静まりかえっていた。
「老人は男の身の上に同情の念を抱き、語りかけた。互いに最愛の者を失った者同士、せめて彼女たちに誇れるものを見出さないかと。──その日から、老人と男は狂ったように研究に没頭した。それは何かを成し遂げるというより、愛する者を失った哀惜から抜け出すためのもの。狂気にまみれた執念だった」
それはさながら、ありとあらゆるものがシャオの声に耳を傾けているかのように。
「全てを失った二人が求めたのは、決して失われない存在。絶対で永久で不可侵。言うなれば限りなく信仰に近いもの。だが信仰と違うのは、今の二人にとっては非常に具体的な拠り所が必要だったということだ。目で知覚し肌で触れ、実感できる拠り所」
そして、ゆっくりとシャオがまぶたを開ける。
「それが、Lasphaの名を冠する王たる真精だった」
肺に残る空気を吐き出し、隣の男へと顔を向ける。
「君が聞きたがっていた、ミシュダルという敗者が生まれたきっかけだよ。アルヴィル」
「しかしなんでまた、あの男はトレミア・アカデミーの連中にご執着なんだ?」
背中に負う鎗を地に刺し、アルヴィルと呼ばれた長身の男が腕を組む。
「出会ってしまったんだよ。自らの過去を映すような二人の少年少女と」
濡れる黒瞳にケルベルク研究所を映し、シャオが自らの唇を指先でなぞる。なぞった先、そこにはいつの間にか夜色の口紅が引かれていた。
「夜色名詠式というものを一途に練習している少年、あまりに純粋でまっすぐで、適度に力を抜くということもできない不器用な子。そしてその隣で少年を支える緋色の少女。似てると思わない? ネイト、そしてクルーエル。それにミシュダルとレイン。研究者と名詠士──境遇は違えど、かつての二人にとてもよく似ている関係だったんだ」
「良い表現か分からんけど、過去の自分と比べてその二人に嫉妬してるってか?」
「......ううん。きっと、彼は答えを知りたいだけだろうね」
ケルベルク研究所を瞬きもせずに見つめ、シャオが首を横に振る。
「最愛の女性と出会って、そして分け隔たれた。その後に自分が選んだ敗者の王という選択が、本当に自分の望んだものだったのかどうかを」
「だからああもご執心なわけか」
「自らへの憎悪と憤り、怨念にも似た悲壮。全てを失った空っぽの彼が空白名詠にたどり着くのも、あるいは必然と言えるのかもしれない」
ゆらりと、シャオの周囲の空気が歪む。歪みの方向は、ケルベルク研究所。それを視界の端に捉えたまま、シャオが再びフードをかぶる。
「アマリリスによって封律された敗者の王。だがアマリリスと同じ属性を持つ、空白名詠の触媒たるツァラベル鱗片ならばあるいは──」
「敗者の王の封律も解ける?」
「いや、おそらくは幻影体。だが場合によっては本物を詠び出すよりもタチが悪い」
シャオの示す方向を眺め、アルヴィルが苦笑にも似た溜息をつく。ケルベルク研究所の真上、空間の亀裂が描き出す奇怪な名詠門。
「だけどよ、それを教えるためにわざわざトレミア・アカデミーへ行ったんだろ? どうだったんだ」
「全ては伝えてない。だけれど必要な欠片は与えた。あとは彼ら次第」
「やれやれ、誰かさんがその空白名詠の真精とやらをきちんと名詠して手なずけていればこんな面倒なことにはならなかったんだがな。六年前だっけ? 一度は成功したんだろ」
鎗の柄で、アルヴィルがつんとシャオの脇腹をつつく。
「......やめて、くすぐったいよ」
「で、どうなんだっての」
「始まりの島でのあの大爆発を成功とは呼べないよ。本来の名詠者たる自分は拒絶され、現れた真精は当時十歳だった少女──クルーエルを選んだ。〈始まりの女〉と〈牙剝く者〉が名詠者をネイトしか認めないように、アマリリスもクルーエル以外を認めようとはしなかった」
そっと自らの右手を眺めるシャオ。
手の甲に、あたかも花の形のように穿たれた小さな火傷。六年前、風の砕けた日によって負った、消えることのない傷跡だ。
同時に、アマリリスによる名詠者に対する反逆の証でもある。
「名詠者に対する真精の反逆から引き起こされた風の砕けた日。それを大陸で目撃したヨシュアが始まりの島へと赴き、空白名詠の真精アマリリスと出会う。アマリリスを怖れたヨシュアは敗者の王を名詠するが、それは逆に封律されてしまう。敗者の王を失ったヨシュアはアマリリスに対抗するため〈孵石〉を精製し、〈孵石〉は後にトレミア・アカデミーへと伝わる。──それが始まりだった」
装束の布で、その手を隠すようにシャオが覆う。
「〈孵石〉は競演会で暴走。同時期、ヨシュアから話を聞いたミシュダルもまた〈孵石〉を利用しつつトレミア・アカデミーへ侵入。結果的にクルーエルは、自らに宿ったアマリリスの力を引き出さざるを得ない状況に陥り、アマリリスの覚醒を招いた」
このままアマリリスとの衝突が続けば、クルーエルの身は保たない。
そればかりか、始まりの名詠として存在する空白名詠の調律者が消えれば、五色全ての名詠までもがこの世界から消えてしまうかもしれない。
「それで、今ケルベルクにいる連中でそれを止められる算段は?」
フードを目深にかぶった状態で、シャオが小さく微笑む。
「夜明け、彼一人では無理だろうね」
「んじゃ、どうすんの? まさかお手上げとか言わないよな」
鎗を肩に担ぐアルヴィル。
「トレミアで伝えるべきものは伝えた。あとは調律者と止まり木の両者が互いの道行きをどう選択するかで全てが決まる。『clue-l-sophie neckt』であれば、空白名詠もろとも全ての名詠が消えるだろう。けれどもう一つであれば」
透きとおったまなざしで、シャオは遥か彼方の研究所を見つめ続けた。
「クルーエルに、もしも彼の声が届くのならば──」
間奏第五幕 『レイン ─名詠式って、なんですか─』
〝主任研究者のミシュダルさんですか? 初めまして、このたび求人募集の公告を見て来ましたレイン・アルマーニャです。名詠式のことは全然分からないけど、よろしくおねがいします!〟
最初は、ただやかましいだけの奴が来たと思っただけだった。







〝おい、言っておいた実験準備ができてないぞ〟
〝......すいません。言われた試薬と器具の名前が分からなくて〟
〝前に一通り教えたはずだが?〟
〝あ、あの......全部はまだ覚えきれてなくて〟
〝............〟
〝......ご、ごめんなさい。わたし、名詠式のこと全然知らなくて!〟
〝なら、なんでこんな求人募集に応募してきた〟
〝え......っと、家から近いし、それに知らないことも勉強できると思ったからです〟
教えたことへの習得が遅く、覚えたとしてもすぐ忘れてしまう。手先もお世辞にも器用とは言えず、高価な実験器具や試薬をいくつ駄目にしたかも分からない。
今まで何度かアルバイトを雇ったが、これほど無能な人間はいないようにも見えた。
唯一の長所と言えば底抜けに明るく人見知りしない性格ということらしいが、自分にとってはそれも悪いことにしか作用してないように見えた。
〝あら、ミシュダルさんてばまた実験室で寝泊まりしちゃったんですか〟
〝......いつものことだ〟
〝あー、どうせまたご飯もろくに食べてないんですね。いいですよ、わたしが朝ご飯作ってあげます。規則正しい食事は大切です!〟
〝要らん、それよりこっちの論文を至急複写してこい〟
〝とりあえずパンとハムエッグ、それにサラダは基本ですよね。あ、あと紅茶かコーヒーはどっちがお好きですか?〟
〝......人の話を聞いていたか?〟
〝もちろんです、ミシュダルさんてば実験室で寝泊まりしたから、朝ご飯食べてないんですよね!〟
〝............〟
人なつこいと言えば聞こえはいい。だが自分にとってはおせっかいなだけだった。
一度思い立ったらテコでも動かない頑固さと、何かに熱中するとすぐ周りが見えなくなるドジでどうしようもない女だと。
けれどそんな中で、それでも何かが変わっていったのは、いつからだっただろう。
〝ミシュダルさんミシュダルさん!〟
〝気が散るから廊下を走るなと言っただろ......もしやまた何かドジをやったのか〟
〝あ、あの、違うんです! 実験室で寝かせておいた研究溶媒のうち、フラスコDとFとKに反応があったんです〟
〝──なに?〟
〝しかも、Fのなんか既に発生が確認できて〟
〝ばか、それを早く言え!〟
〝あ、ちょ、ミシュダルさんてば速っ、置いてかないで! あ、あのっ! 廊下を走るなって言ったのミシュダルさんじゃないですかぁぁぁっ〟
いつしか、自分もまたそんなどうしようもないゴタゴタに順応するようになっていたのかもしれない。いや、たった二人きりだったからだろう。
ろくに実入りのない小さな研究所、他のアルバイトや職員が次々と大手の研究所、そう、たとえばケルベルク研究所などの最大手に身を寄せていく中で。
〝あれ、マイスさんは? 今日お休みですか?〟
〝あいつならもう来ない。ミンティア天立研究所でお偉い方の使いぱしりになるそうだ〟
〝ふーん。まああっちの方がお給料も良いですしね〟
〝まあな〟
〝......ねえ、ミシュダルさん〟
〝なんだ〟
〝この研究所、とうとうミシュダルさんだけになっちゃいましたね〟
〝そうだな〟
〝......ねえ、ミシュダルさん〟
〝なんだ〟
〝アルバイトも、もうわたし一人になっちゃいましたね〟
〝そうだな。何ならお前も、どっか別の働き口を探しても構わんぞ〟
〝え、だめですよ! ミシュダルさんがどっか行くなら別ですけど〟
〝あいにく、俺はここを動く気はない〟
〝じゃあ、わたしもここにいます〟
〝変わった奴だな、ここに残ったってろくなこともないぞ〟
〝はい、それは知ってます〟
〝どうしてだ?〟
〝わたし......今まで色んな求人に応募してきました。でも採用されても......わたしすごく不器用だし要領悪いからすぐ辞めさせられちゃったんです〟
〝当然だな、俺だってお前ほど使えない助手は初めて見た。......おい、なんだその気味の悪い笑みは〟
〝でも、ミシュダルさんはこのお仕事辞めろって言わないですから。本当は最初の一週間くらいで辞めさせられるかと思って、ずっとビクビクしてたんですよ? でもそうじゃなかった。それにミシュダルさんは──〟
〝なんだ〟
〝わたしのこと『助手』って言ってくれました!〟
〝......言葉のあやだ〟
〝いいんです、それでも。わたしそれだけですごく嬉しいです〟
〝ふん、性格の歪んだ研究者に頭のネジが外れた助手か〟
〝だいじょうぶです、いつか優秀な助手になってみせますから! 二人だけだけど頑張りましょうね!〟
〝......ああ〟
〝あれ、ミシュダルさん? どうしたんですか。顔赤──〟
〝何でもないっ!〟
レインだけは、ずっと自分と一緒だった。
なぜ彼女が自分のような面白味のない人間の下で延々と働き続けたのか、それは分からないままだった。分からないまま、それでもいつしか、この関係が続くことを願っている自分がいた。
〝ミシュダルさん、雪ですよ、雪!〟
〝雪なんかこの季節ならいくらでも降るだろう?〟
〝そうなんですか? わたし別の地方の生まれで、雪なんてほとんど見たことなくて〟
〝雪が珍しいか。......それなら、午前はどうせ頼むこともなさそうだから好きなだけ近くで眺めてこい〟
〝え、いいんですか?〟
〝ああ。それだけ物欲しそうな目で雪を眺められたらこっちが困る〟
〝わぁっ、ミシュダルさんが優しくしてくれたの初めてかも〟
〝......お前、俺を今までどんな目で見てたんだ〟
〝えへへ。ねえミシュダルさん、それならもう一つお願いがあるんです〟
〝なんだ〟
〝少しでいいんです、一緒に外行って雪見ましょう〟
〝あいにく俺は忙し──〟
〝.........見てくれないんですか〟
〝ああっ、もう分かった! 分かったから泣くな〟
〝ホント? やったぁ、ありがとうございます!〟
〝......噓泣きか〟
噓泣きであったことに、なぜかほっとした自分がいた。それに気づかれるのが恥ずかしくて、外に出てからも不機嫌を装っていた。
ただ、彼女にはあっさりとばれていた。
〝ねえミシュダルさん、雪って名詠式で詠び出せるんですか〟
〝ん?〟
〝こんなに綺麗なんだもん、名詠できたら素敵じゃないですか〟
〝氷の粒をただ詠ぶだけならできるだろうが、こんな感じに降らすことはできないだろうな〟
〝ふぅん......じゃあ、名詠式で恋人を詠ぶことってできますか?〟
〝は? 恋人?〟
〝ええ。理想の相手なんかをばーんと〟
〝お前、名詠式をなにか勘違いしてないか〟
〝できないんですか〟
〝当たり前だ〟
〝......あー、良かった〟
〝良かった?〟
〝だってもしそんなことができちゃったら、ミシュダルさんはその人につきっきりになっちゃって、わたしのことなんか見てくれなくなっちゃいそうだから〟
〝......レイン?〟
〝ねえミシュダルさん、わたし思うんです。本当に大切なものは名詠式じゃ詠べないんじゃないかって。こんなに綺麗な雪も、恋人も、きっとこの空の星明かりだって詠べない。なら、名詠式の価値っていったいなんなんだろうって〟
〝名詠式の価値か、難しいな〟
〝だからね、わたし思うんです。名詠式で詠び出せるものを詠び出して詠び出して詠び出して、そして最後に──詠び出せないまま残ったものが、本当に大切なものなんじゃないかなって。大切なものを消去法的に教えてくれるのが名詠式なんじゃないかって〟
〝直感的な発想なのがお前らしいな〟
〝あー、なんですかその呆れ笑い! ミシュダルさんもあれですか、『女は直感と感情で動く』みたいなこと言う人ですかぁ!〟
〝いいや、男だって似たようなもんだ。ただ、男はそれを言うと恰好がつかないから、直感で感じたことにアレコレめんどくさい理由をつけるのさ。後づけでな〟
〝ふーん、それなら女の方が分かりやすくていいですね〟
〝そうかもしれないな〟
〝......でもね、ふしぎと、間違ってる気がしないんです。名詠式だけじゃ本当に大切なものは手に入らないって〟
〝だから、それを研究者の俺に言うな。飯のタネがなくなるだろうが〟
〝あ、そうでした! でも、そうなったら──〟
〝そうなったら?〟
〝二人で、どっかに小さなパン屋さんでも開きましょう。きっとそれも楽しいですよ〟
思えば、そんなくだらない会話をしている時が一番幸せな時間だった。
だが自分は、それに気づくのが遅すぎた。
どんなに幸福だろうと強い想いだろうと関係ない。時の流れというものは常に人を油断させ懐柔し、恋人のような笑顔を装って背中に残酷な刃を振り下ろす。
研究所のあの事故が、自分から全てを奪っていった。
今は全ては空っぽだ。
だから、今でも夢に見ては苛まれる。
〝二人で、どっかに小さなパン屋さんでも開きましょう。きっとそれも楽しいですよ〟
あの時に、気の利いた言葉の一つもかけてやれなかったことを。
あの場で勇気を出して頷くことだって、苦手な愛想笑いの一つだって、こうなることを知っていれば──
六奏 『目覚めの時、紡ぐ約束』
0
「......お前の言うとおりだったよ、レイン」
遥か上空から真下の研究所をぼんやりと見下ろし、ミシュダルは首を振った。
「結局俺はお前に何一つしてやることができないまま、こうして代わりに、失わない絶対的なものを求めた挙げ句に最強の真精へと行きついた」
だがこうして詠び出せたということは、この真精ですら真に自分の欲したものではないのかもしれない。もっとも、それを笑って話す相手はもうどこにもいないのだが。
真精ラスティハイト。
それは、人を模した彫像に似た真精だった。
古代の人間が理想の美を追い求めて彫像に彫るような、あの端整で麗しき顔立ち。そのモチーフはおそらく聖衣を纏った聖人。頭の上には茨の冠、ただし身体は上半身だけ。胸の部分から下は、身体も腕もその衣も綺麗に消失していた。それが空中十数メートルを浮いているのだ。翼も何もなく、重力を無視して宙に浮く。
だが──自分を背に乗せて浮遊する敗者の王本体は灰色ではなく、濁った半透明に近い、霧のように霞む姿だった。地表に伸びた敗者の王の巨大な影。そこから湧くように這い出てくる無数の名詠生物も、灰色名詠生物と浸透者が入り乱れた群体だ。
「......所詮は虚像というわけか」
実体ではなく、さながら鏡に映った偽りの身。
「『敗者の王はもういない』......なるほど、ヨシュアの言うとおりだな。が、まあそれも構わん。今の俺にはむしろこいつの方が似つかわしい。俺と同じで空っぽ、さしずめ虚像の王か」
自嘲の笑みをこぼし、ミシュダルは眼下に展開する光景を見下ろした。敗者の王の上昇は止まらない。七階建ての研究棟すら遥か足下に、ケルベルク研究所の敷地がほぼ一望できる高度まで昇り続ける。
「これが俺にとって最後の名詠だ。だから、さあ教えてくれ」
地上に溢れかえる灰色の名詠生物と浸透者。大群の中で、ミシュダルは頭上を見上げた。
「夜色名詠の使い手ネイト・イェレミーアス、そしてクルーエル・ソフィネット。お前たち二人は、やはり過去の俺やレインと同じ道をたどるのか? お前たちが頼るのは何だ? 俺やヨシュア同様に最強の真精か? それとも、俺とレインが見出せなかったものを、お前たちは見つけられるのか?」
その答えを、教えてくれ!
1
リィィィ......ン......
研究所に忍び寄る異変をまず告げたのは、窓ガラスがどこか遠くで響く音だった。
「警報? 上の階から?」
暗闇の中、ミオは仮眠室の天井を見上げた。停電が起きたかと思ったら、今度は立て続けに警報の音。いったい何が。
「あれ。なにこの、避難訓練みたいなやかましい音」
眠っていた女子も次々と目を覚ます。
......なんだろう、すごく嫌な予感がする。既視感ではない。もっと現実的で明確な恐怖が迫っている気がしてならないのだ。
「みんな、静かにっ!」
響き渡るエイダの怒号に、周囲でざわついていた女子が静まりかえる。
......ジッ......ジジジッ......
耳障りな音を立て、天井の照明が明かりを取り戻す。
「電気が復旧したと思ったけど、そういうわけでもないのね。さてどうしよっか。ここに留まる? それとも廊下に出て様子を見る?」
小刻みに点滅を繰り返す照明を睨みつけ、携帯していたらしい登山用照明具をサージェスが鞄から取り出した。
──たぶん、何かあったんだ。
こんな大きな研究所で警報機が鳴り響くなんてちょっと普通じゃない。誤作動と思いたいけれど、こうして停電も重なるなんて。
「しっ、誰か来た!」
扉の前でエイダが聞き耳を立てる。規則正しい足音。歩調が速いということは走っているからだろう。足音は自分たちの部屋のすぐ真正面で止まり──
「おいっ、俺だ。開けてくれ!」
声は、教室の男子クラス委員の声だった。
「オーマ?」
扉の鍵を外すなり勢いよく扉が開く。息を切らせながら、運動着姿の男子生徒が転がりこむように入ってきた。
「どうしたのオーマ、こんな時間に」
「それは俺の台詞だっての! どうなってんだ。こんな夜中に突然警報鳴りだして起こされて、廊下に出てみれば職員の人が全員血相変えて走ってるときた。こっちが何か訊こうとしても『答えてる時間がない』でろくに相手にされねえし」
手当たり次第聞いて回ったのか、彼の額からは既に大粒の汗が滴り落ちていた。
それにしたって職員の人たちが総出で? いったいどれほどのことが──
「よかった、みなさん無事だったようですね」
にわかに、凜と落ちついた声が通路に響いた。
「ティンカ!」
詰め寄るエイダ。一方で、白銀色の髪の女医は微かに表情を厳しくした。
「......みなさん、今日の昼に避難用シェルターの場所は聞いているはずですね。今からそこに向かいます、急いで準備をしてください」
シェルターに?
「事情は移動しながら話します、とにかく今は急いで──」
彼女が言い終わらぬうちに。
ぼとっ、と、彼女のすぐ背後に何かが落下した。灰色の鱗に、やけに細長い四肢と爪を持った石竜子。──こいつは、まさか!
「ティンカ、動くなっ」
石竜子が無防備な彼女の背中に向けて爪を振り翳す。それと交叉するタイミングで、エイダの祓戈が眩い銀閃を放った。
唸るような鳴き声を洩らし還っていく、灰色の名詠生物。
「ティンカ、平気?」
「ええ。ぎりぎり触られる前で助かりました。......しかし、もう棟内に侵入しているのがいるなんて。既に一次防衛線も突破されたのね」
煙を発し消滅する石竜子をじっと見つめ、ティンカが重苦しい息をつく。
トレミア・アカデミーで目の当たりにした光景が頭を過ぎった。あの時と同じように、灰色名詠の生物の襲撃を受けている?
「なあミオ、今のって......名詠生物? 灰色だったけど、あんなのいるの?」
こっそりとオーマに耳打ちされ、ミオは小さく首を縦に振った。忘れもしない、あの晩あの男を前にして味わった恐怖は並大抵のものじゃなかった。
いや、でも決定的に違うのはおそらく──今回は、競演会で起きたのと同じくらい大規模な暴走が起きているということだ。
「なるほど、大体今ので分かってきた。あいつが来たわけね」
鎗の柄で床を叩き、鋭利なまなざしでエイダが通路の奥を見据える。その後ろで、オーマがクラスの男子を引き連れて通路に現れた。
「とりあえず男子はこれで全員。ネイトはクルーエルの方についてるらしいんでいないけどな。女子はどうなの?」
「うちらも平気だよ」
オーマの問いに頷くサージェス。
「では行きましょう。多少早足で歩きますが、その間も極力静かにお願いします」
言うなり、ティンカが小走りに近い速さで先導する。その背をミオは慌てて追った。
通路沿いの部屋という部屋に照明が灯ったまま。だが内部は一人の職員も見当たらない。
「幹部職員は他の棟への連絡、その他の職員もそれぞれ別ルートで避難シェルターへと退避するようにさせました......さて、これから外に出ます。何が起きてもわたくしの指示に従ってくださいね──命に関わりますので」
非常扉の前でさらりと告げる彼女の言葉、その一つ一つが鉛のように重い。
「......はい」
小声でミオは頷いた。にこりと、小さな微笑みを浮かべてティンカが扉を開ける。
建物の外は、既に異常な光景だった。
──石化した職員たちが、扉を開けた先の芝生に何人も転がっていたのだ。
外灯に取りつけられた拡声器からけたたましく響く警報。それに混ざり、祓名民と思しき者の怒号と誰かが泣き叫ぶ声。途切れることのない人の悲鳴が周囲に充満し、おぞましく奇怪な合唱を奏でる。
......な......なに、これ。
恐怖から来る嘔吐感に、ミオは思わず身体をくの字に折り曲げた。
「っっっっ、い、嫌ぁっっ!」
すぐ背後、絶叫を上げるクラスの女子。男子の何人かも口元を押さえて顔を背ける。
......当然だ。自分は一度学校で目にしたからまだ覚悟はできていた。けれど耐性がない状態でこれを直視し、平然としていられるはずがない。
「ティンカさん、生徒たちは?」
名詠士と思しき若い男性が駆けてくる。
「はい、何とか全員無事でした」
「良かった。早く避難シェルターへ、ここも長くは保ちません!」
傷だらけの腕でシェルターへの方向を指し示す彼。その姿に、ティンカの双眸がゆれた。
「あなた......避難路を確保するために残ってくれていたの?」
「後輩は大事にしろ、そう教わってきたんで」
頰をかきながらはにかむ名詠士。
......この人。
彼の顔をじっと眺め、ミオは拳をぎゅっと握りしめた。この人、トレミア・アカデミーの競演会で来賓席にいた人だ。来賓席、それも、同窓生用の席に座っていた人。
「あ、あの」
あたしたちの先輩の人ですよね──思わず口に出しかけて、けれど最後まで言えなかった。彼は、そんな時間の浪費のためにここに残ってくれたわけではないのだから。
「さ、行って!」
そんな自分の表情にも気づかず、彼の方は厳しい表情のまま鋭く告げてきた。
だからミオは、彼の横を走り去る際にせめて小さく会釈した。彼に伝わったかは分からない。けれど、伝わっているものだと信じたかった。
足下すらろくに見えない夜道を駆け抜ける。
芝生に隠れた小石に何度もつまずきそうになり、そのたびに友人に助けられた。
「ミオ、平気?」
「......う、うん」
不安げに顔を覗くサージェスに、ミオはかろうじて笑顔を向けた。
進行方向の先の、発光塗料で描かれた夜間標識。昼にミラー教師から案内してもらった時に見た標識だ。あれを越えればもうすぐのはず。それと同時──
がさっ、と最寄りの茂みが揺れた。風の吹く方向と違う、明らかに異常な揺れ。
「だ、だれかいるの?」
小さく悲鳴を上げ、反射的に飛び離れるクラスメイト。
......いったい、何がいるの。
全員が足を止めてその茂みを凝視する。だがどれだけ待てども、茂みから何かが飛び出してくる気配はない。吹き荒れる風にあおられ、茂みの葉が擦れるざわめきが繰り返されるだけだ。
「風?」
何人かが胸をなでおろす。だが──
「いや、違う! みんな離れろっ!」
エイダの声が裏返る。それとほぼ同時に、茂みの空気がぐねりと歪んだ。
「え?」
呆然と立ち尽くすクラスメイト目がけて空間の歪みが迫る。この現象、見覚えがある!
浸透者とかいう奴だ! 灰色名詠の生物が出てくるとばかり思っていたのに、まさか、この敷地には浸透者も溢れかえってるの?
「そこ、退がって!」
エイダに続き、顔を蒼白にしてティンカが叫ぶ。だが、そう叫ばれた方の少女は何が起きたかすら分かっていなかった。
「え、......え、え?」
空間の蠕動にも気づかず周囲をきょろきょろ見渡す彼女。エイダが、ティンカが駆け寄る。だけど、だめだ、間に合わないっ!
──『Ruguz』──
浸透者の足下の芝生が青く光った。青く輝く石が芝生に転がる。サファイア?
ピシリッ。澄んだ音を立て、サファイアと同色に輝く氷柱が、周囲の空間ごと浸透者を氷結させた。
「......間一髪だったわね」
聞き覚えのある声にその場の全員が振り返る。振り返り、クラスの何人かが引き攣っていた表情をやわらげた。そう、それは自分たちの知った顔だったから。
「......あれ、ケイト先生?」
クラス委員のオーマがぽかんと口を開ける。彼の目の前、若葉色のスーツの上に旅行用の上着を羽織った女性教師の姿があった。
「まったく、夜行列車を乗り継いできたかいがあったわね──それにしてもあなたたち、よりによってクラスで講義休んで旅行だなんて、なかなか活動的じゃない。......おかげで学園長から素敵なお説教を賜るはめになったし」
......せ、先生ってば、じりじり詰め寄ってくるの怖いよ。
「あ、あの先生?」
サージェスが慌てて手を振ろうとするのを遮る形で。
「ま、だけど無事で良かったわ」
腕組みし、ケイト教師が微笑んだ。
「あなたたちの行動は確かに身勝手だったけど、その気持ちも分からないわけじゃないから。でもね、今度からはちゃんと教師に相談してからにしてちょうだい」
周囲に目をやりつつ早口に告げ、教師がティンカへと小さく頭を垂れた。
「ティンカさん、うちの生徒がご迷惑をおかけしました。状況が今も把握しきれていないのだけれど、とにかく緊急事態ということは承知しているつもりです」
「いえ、こちらこそ。とにかく今はこの先の地下シェルターへ、詳しい事情はそこでお話しします」
ティンカが踵を返そうとするのを制止するように。
「......いや」
上空を見つめ、エイダが低い溜息を洩らした。今までほとんど聞いたことのない、呆然とした声音で。
「事情説明は必要なさそうだよ」
空気が、怯えたように震えた。
「じ、地震?」
いや、でも地面は揺れてない。揺れてないのに肌がびりびりと痛む。直後、外灯に照らされている周囲に、ひどく昏い影が押し寄せてきた。
なにこの、巨大な影?
ふと横を見渡せばティンカ、ケイト教師が頭上を見上げ共に呆然と佇立していた。その視線につられてミオも頭上を見上げ──そのまま、言葉を失った。
......なに......あれ。
背筋が怖気だった。
遥か頭上を旋回するのは巨大な真精だった。人の彫像のような外見。まるで何かの聖人の姿を思わせる。頭上を飛んでいるから分からないけど、大きさは競演会で見たあの五色の怪物ヒドラよりあるかもしれない。
しかも、ヒドラとは何かが違う。あのヒドラは怖いというイメージしかなかった。しかし頭上の真精はそれに加え、抵抗意欲すら失うような尋常じゃない緊迫感があるのだ。
──O vilis arsei spil
合唱を思わせる重厚で荘厳な響きが、脳天へ叩きつけるように降ってきた。
と同時、真精から伸びた灰色とも白濁色とも似つかない異様な影から、何かが無数に浮かび上がってくる。その形はまるで蛇、石竜子、そして有翼石像......まさか!
瞬間、氷柱で肺を射貫かれたように呼吸が凍てついた。
「エイダ、追い払って!」
ミオが叫ぶと同時、呆けたように頭上を見上げていた彼女がはっと視線を尖らせた。
「ち、っざけるな!」
完全に実体化する前に、浮かび上がってきた名詠生物へとエイダが鎗を一閃する。陽炎のように歪む名詠生物の影。そして沸きたつように煙を発して還っていく。瀬戸際ながら、完全に現れる前に送還したらしい。
「......洒落にならないね。〈讃来歌〉まで使う真精初めて見たよ」
乱れた息を隠そうともせずエイダが吐き捨てるように呟いた。
「ねえエイダ、あたし思ったんだけど、もしかしてあれが──」
ミシュダルという男がずっと探していたという、敗者の王?
最後まで言わずとも伝わったのだろう。エイダも無言で頷いた。
「エイダ、あなた、アレ倒せそう?」
「無理。祓名民は空飛んでる相手は天敵なんだ。センセ、どうにかして撃ち落とせない?」
「無茶言わないで、そもそもどうやって飛んでるかすら分からないのに」
ケイト教師、そしてエイダが互いに顔をしかめる。
「ただでさえ空を飛べる真精なんて限られてるのに、その中でアレをどうにかできる真精なんて......」
空を飛ぶ真精、それを聞いてミオがまず思い浮かべたのはクルーエルの黎明の神鳥だ。でもクルーエル本人は意識を失ったまま。それに黎明の神鳥一体でどうにかなる相手じゃない。大きさがまるで違うのだから。
学園長の疾竜? いや、おそらくはそれでも分が悪い。でも、どうすれば。
「上のアレはひとまず後回しで、地上にいる下っ端を取り除くことを優先ですね」
「だけど、あいつを残しておいたらキリがない」
鎗を握りしめるエイダに、ティンカが首を横に振る。
「少なくとも、今のわたくしたちではあの高度上空圏までたどり着く方法がありません。よしんばできたとしてもあの巨大さです。そう容易に落とせるとは思えません」
「......対抗策が見つかるまで時間稼ぎが精一杯か」
ぎりっと、周囲に聞こえるくらい強くエイダが奥歯を嚙みしめる。
──でも、あの時はどうしたんだっけ。
競演会でも似たような状況だった。あの時だって本当に絶望的な状況で──
〝トカゲなどではない。小娘、我を知らんのか?〟
それは風の悪戯だろうか。懐かしいというほど古くもない、けど思いだして胸がいっぱいになる記憶が風に巻き上げられてよみがえった。聞いたことのある声。そうだ、初めてネイト君と会った時。その肩に乗っていたのは──
「......あ......あ......っ」
ネイトが母親から預かったという、あの名詠生物。
夜色の小さな小さなトカゲ。トカゲって言うと怒るけど──
そっか、そうだった。
いる......いるよ! たった一体だけ、遥か頭上の真精までたどり着けるのが!
2
透きとおった黎色の世界。
蒼碧色の灯から生まれたのは、一人の緋色の髪の少女だった。
『敗者の王、虚像と分かっていてそれを詠び出すなんて。さすがに長年執着していただけのことはあるわね。そうは思わない、クルーエル?』
歳の頃は十六、七歳だろう。すらりと伸びた長身に、その背中まで伸ばした艶やかな髪。髪色と対照的な、深い蒼碧色の瞳。白磁を思わせるほど白くきめの細かい肌に、華奢な腕、折れそうなほどにか細い足。
身を覆う衣服などない。だが真っ赤に燃える炎の如き紅い長髪が、まるで天衣のようにその裸身を愛しげに雅やかに包みこんでいた。
──アマリリス。
それは、まるで裸の自分を映し出すかのような真精だった。
「............」
『どうしたの、そんなに悲しい表情して』
「......わたし、みんなのところに帰りたい」
あんなにみんなに心配かけてばっかり。遠くまで来てもらって、なのにここでもまた、こんな場面に巻き込んで。
『それはダメ。なぜならあなたは、まだわたしの問いに答えてないでしょう?』
「......だって」
唇を嚙みしめ、クルーエルはその場でアマリリスをじっと見据えた。
「わたしは......そんなの言葉にできないよ」
『それはなぜ?』
「だって、だってそうでしょ? わたしはネイトと今までずっと一緒にいて、競演会だったり夏期合宿だったり夏休みだったり、色んなことを一緒に見てきたんだよ!」
自分とまるで同じ容姿の真精もまた、自分を試すかのように見つめてくる。怖いわけじゃない、むしろその逆、あまりに優しすぎるその瞳に甘えてしまいたくなってしまう。
──でも、だめ。
決してこの真精に甘えちゃいけない。この真精じゃない、わたしは......もっと別の大事な人がいる場所に帰りたいから。
「あなたはたった数か月だって言うかもしれない。でも時間なんて関係ないもん、すごく近い距離で、一緒にいることができたから。だから、その思い出全部を一言で言い表すのなんかできないよ!」
『なにをもって彼を選ぶか、だからそれも言葉に表せない?』
「そうよ、悪い?」
......言葉にしたくなかった。
わたしはミオみたいに勉強だってできる方じゃないし、本だって読む方じゃない。綺麗な言葉も知らないし、表現しようとしたってきっとうまくできやしない。
『ならば言葉の代わりに、別のもので証明して』
「──え?」
それは、どういうことだろう。
『どんなものでもいいの。決して偽りえぬかたちで、あなたと彼の約束をわたしに示して。あなたが信じるように、わたしもまた彼を信じられるように』







......地震?
テーブルにうつぶせになった状態から、ネイトはぼんやりと顔を持ち上げた。空気の振動で肌がびりびりと痛む。鼓膜も麻痺したような感覚だ。
なのにテーブルは震えてない。その上に載った花瓶も同様だ。地震ではない? でも空気は確かに震えてる。怯えたように。
このコテージの中じゃない。この震えは外から?
「夜中だってのにやけに嫌な空気だな」
ソファーに座っていたゼッセル教師が弾みをつけて立ち上がる。
「外、見に行くの?」
「玄関から辺りを覗くだけだよ」
椅子から立ち上がろうとするエンネ教師をゼッセル教師が手で制す。もう片手に触媒を携えているのは警戒のためだろう。
「何もなければいいんだけどな」
自分たちのいる待合室から玄関先の扉は直結している。自分、そしてエンネ教師の視線を背中に浴び、ゼッセル教師が落ちついた仕草で扉の鍵を解除した。数センチずつ、ゆっくりゆっくりと時間をかけて扉を開けていく。
延々と茂る芝生に花壇、そしてその先に広がる森林。扉が全て開ききった先は、昼間と何ら変わらない光景があった。
だが──
「......なんだ......」
扉から身体半分を覗かせた状態でゼッセル教師の顔色が豹変した。
「ゼッセル?」
「二人とも来てくれ。......はっきり言って、俺の目の錯覚だと思いたい」
椅子から跳ね起きるように立ち上がり、ネイトは扉まで駆け寄った。扉脇に立つゼッセル教師の前を通過してコテージの外へ。
──え?
冷たい空気が肌に触れる。だが全身をなめ回すように駆けめぐった悪寒は、決してその風のせいではなかった。
「......なんで、研究棟の方角が赤く燃えてるの」
隣に立つエンネ教師が呆然と呟く。
ううん、それだけじゃない。研究棟からかなり距離があるにもかかわらず、警報機の音がコテージにまで嫌というほど伝わってくるのだ。
──何かあったんだ、それもかなり大規模な何かが。
闇夜の中、必死で研究棟の方角に目を凝らす。その直後。
かさっ。
小さな衣擦れのような音が鼓膜を震わせた。今のは......コテージの屋根から?
反射的にネイトは頭上を見上げた。同時、三日月形の瞳と目が合った。灰色の表皮をした、四肢の細長い石竜子。それは自分ではなく、自分とゼッセル教師の間に立つ女性へと照準を映し──
「エンネ先生、上っ!」
叫ぶと同時、ネイトは全力で女性教師を突き飛ばした。
屋根から飛来する灰色の名詠生物。
「くそっ、よりによってこいつか!」
それを迎え撃つかたちでゼッセル教師が力任せに殴りつけた。地面に叩きつけられながらもすぐに跳ね起き、石竜子が再度飛びかかる姿勢をとる。
「ゼッセル離れて!」
一瞬早く、エンネ教師の携えた指揮棒が石竜子の鼻先を打ち据えた。先端が乳白色に輝く指揮棒。あの輝きは、触媒用の真珠?
──『Nussis』──
金切り声を上げて光の粒となる名詠生物。
「......最っ悪、この前の研究所のは軽く心的外傷もんだったのに」
苦虫を嚙みつぶしたような表情でゼッセル教師が額に手をあてた。
「ここにいるのは今の一匹だけのようだけど、研究棟の方はどうなのかしら」
コテージ内から響く足音にエンネ教師が顔を向ける。慌てて外へ飛び出してきたのはケルベルク研究所の女性職員だった。
「どうですか?」
「......だめです、向こうの通信室は連絡がつきません」
弱々しく首を振る彼女。
「通信どころじゃないってか。向こうには腕利きの祓名民だって待機してたはずなんだがな。それがこの状況、どんな騒ぎになってるんだか」
指の関節を鳴らし、ゼッセル教師が苦笑する。彼の視線が指す先は研究棟ではなく、さらにその上空だった。
「真......精?」
かすれ声と共にエンネ教師が後ずさる。
研究棟の上空を旋回する何か。研究棟から立ち上る火の粉に照らされ浮かび上がるのは、まるで古代彫刻を思わせる真精だった。これだけ距離があるというのに視認できる。実際の大きさがどれだけなのか、想像するだけで冷や汗が頰を伝っていく。
──さっきの空気の震えは、あいつが原因だ。
ここにいてもなお息が詰まりそうになるほどの圧迫感。初めて見る名詠生物、だが直感的に悟った。あれが敗者の王なのだと。
「ま、ここで愚痴ってても埒があかないわな」
「同感。行くなら早く行きましょう」
視線で合図を交わし、教師二人が足早に歩きだす。
「あ、あのっ!」
「来るな、とは言わないぜ?」
振り返らぬままゼッセル教師が片手を上げた。
「ただ、あの子をコテージに一人にしてもいいのか?」
──クルーエルさんのこと?
研究棟に行く代わりに彼女を一人にするか。この施設に留まって彼女を守るか。
両方は、選べない。
「この状況だ、今さら半端に慌てても仕方ねえよ。俺たちは先に行く、お前も来るんだったら精一杯腹くくってから来い......迷ってる時間はあんまりなさそうだがな」







高速で打ち下ろしてくる不可視の腕を風鳴りで認識。すれ違いざまに、エイダは虚空を祓戈で穿った。キィィ......ンと甲高い悲鳴が何もないはずの場所から生まれる。
背後から忍び寄っていた浸透者の断末魔だ。
「これで、三体目!」
呼吸を整える間もなく後方へ跳躍。直後、今の今まで自分が立っていた場所へと灰色の大蛇の牙が襲いかかった。
「はっ!」
呼気を一気に吐き出し、大蛇を打ち払う。
──『Nussis』──
灰色の煙を上げ、名詠光を放ちながら消失していく名詠生物。
「サリナ! そっちの芝生に一人いた!」
「言われんでも分かってる」
倒れた研究員を背に担ぎ、サリナルヴァがシェルターの方向へと運んでいく。
自分が退路を確保しサリナルヴァが救助。即席の連携を組んで三十分足らずだが、その間に発見した研究員は既に四人目だ。
......この調子だとまだまだいそうだな。
灰色名詠だけならまだしも、その合間合間を縫うように襲って来る浸透者が厄介だった。いつどこからやってくるかも分からない状況。ろくに呼吸も整えられない。
「──くそ、それにアレもか!」
エイダが頭上を見上げると同時、周囲の影が突如暗さを増した。自分の影に重なるように、宙を旋回する敗者の王から伸びた影。
──まずいっ、ここもあいつの射程圏内だ!
祓戈を抱え、エイダは身を投げ出して影の範囲から脱出した。
吹雪のように降りそそぐ大量の塵灰。続いて聞こえる、ジッ、という奇怪な音。振り向いた先、直径十メートルほどの範囲が全て灰色に染まっていた。
石化した芝生、木々。範囲内にあるものは無差別に、灰の激流は呑みこんだもの全てを灰色に凍結させる。敗者の王が降らす灰色の雨だ。
「落とそうにも近寄ることすらできないってか......」
石化した名詠士や祓名民。彼らを見た時に警戒していなければ、自分もとっくにあの灰の渦の餌食になっていただろう。
「エイダ、平気か!」
「何とかね、それよりさっさと連れていけっての!」
身を伏せたまま、かろうじて聞こえるサリナルヴァの声にこちらも声を張り上げた。
一向に減る気配のない灰色名詠の生物。そいつらに注意を払っていれば不可視の浸透者に不意打ちを食らう。それも回避したとして、頭上を旋回する敗者の王の射程圏内に入ればあの広範囲無差別放射。

「......行ったか」
木陰に身を寄せ、エイダは小さく安堵の息をついた。唯一の救いは研究所の敷地の広さだ。これだけ広ければ敗者の王とて照準を集中しにくい。
「残りは第二、第三研究棟か。あの真精に見つかる前に急いで見て回ら──」
石化した芝生を迂回しようとして。
「なるほど......」
ごくりと、エイダは唾を飲みこんだ。
「王がいるなら当然その部下だっているはずだもんね」
十二銀盤の王剣者。十二の守護剣を保有する銀色の真精が、自分の進路を断つかたちで立ち塞がっていた。祓戈の到極者の称号を持つ祓名民と互角の技量を持つ真精。こいつとは戦いたくない、エイダをしてそう思わせる数少ない相手でもある。
「......あは、はははは」
こんな状況なのに笑いがこみあげて仕方ない。それもどうしようもない憤りが化けただけの笑いだ。......ったく、ただでさえきっつい状況なのに。この不条理さったらいくらなんでも泣きたくなるよ。
「女の子一人に真精三体ね。ははっ......最悪っ!」
眼前に立ち塞がる三体の真精へと、駆けた。







カサッ......ササッ
茂みの中を這い回る灰色の大蛇。向こうの空間が揺らいで見えるのは浸透者だろうか。
文字通り息を殺し、ミオは木立の陰に身を潜めていた。
──やっぱりだ。
悪い予感が的中した。もうこの研究所全体が、既に制圧されかかっているのだ。急がないと、急いであれを取りにいかないと。
「......みんな無事かな」
クラスメイトは自分を除いて皆がシェルターに避難している。ケイト教師もついているからまずは一安心だろう。気がかりなのは単独行動中のエイダだった。敵から隠れて移動する自分たちと違い、彼女は積極的に『削る』側だ。危険度も段違いのはず。
「今度ばかりは、他人のことより自分の身を案じることを優先させた方がよさそうです」
柔和な視線をいつになく細め、隣に隠れるティンカが小声で呟く。
「今から探すもの、とても大事なものでしょう? まずそのことだけ集中しなければ」
「......うん」
「では参りましょう、どうやら先ほどの相手も別の場所に移動してくれたようです」
足音を殺しながら先を行くティンカの後を追う。足下の草を踏む音すら立てないよう移動する。それだけは何があっても守るよう言われたが、それはミオにとって精神をヤスリで削るような作業だった。一メートル歩くだけで気が遠くなる。
「どうやら、ここには何もいないようですね」
木陰でにわかに足を止め、ティンカが正面を睨みつける。
錆びた青銅色をした、立方体型の建物。
「ここが薬品保管庫です」
南京錠のかかった扉を前に、ティンカが釈然としない面持ちで振り向いた。
「ミオさん、こんなところに本当に目的のものがあるのですか?」
確証はない。本当はサリナルヴァに訊ねれば確実だったのだが、そんな話をする間もなかった。
「あるとしたらここしかないから......とにかく探します」
部屋に入った途端、薬品と黴の臭いが混じった刺激臭が鼻をついた。薄暗い空間に、硬質の床に足音が反響する。よし、まずは扉脇の壁にある照明のスイッチを。
──いや、だめだ。
はたと、スイッチへと伸ばした手を止めた。明かりはつけられない。周囲を徘徊している名詠生物の恰好の目印になってしまう。
「この暗闇の中ですが、辛抱強く探すしかないでしょうね」
苦笑を浮かべたティンカが肩をすくめてみせる。薬品保管庫にずらりと並ぶ棚の数、少なく見積もっても百近い。相当の重労働。だけど音を上げてなんかいられない。
「うん、手分けして探しましょ! あたしは右列の端から探しますから、ティンカさんは左列の端からお願いします」
頷くティンカに目配せし、ミオは保管庫の通路を小走りに駆けた。
──あたしにできるのはこれくらいだから。
だから、ネイト君も早く来て!







トン──
どれだけノックしても返ってくる返事は静寂だけだった。もちろん、本当はそれもとうに分かりきっていた。
「失礼します」
暗い部屋。壁伝いに手探りで進み、やっとのことでネイトは窓のカーテンへと行き着いた。音を立てないよう静かにカーテンを開く。室内に入る外灯の明かり。その光の中、ぼんやりと照らされる部屋の中央。そして木製のベッド。
昼間とまるで変わらぬまま、彼女はそこで深々と眠りについていた。
「クルーエルさん」
一歩だけ、ネイトは彼女の寝入るベッドへと足を進めた。
「僕たちは、名詠式を何のために勉強してるんでしょう」
一歩、また一歩。
「単にすごそうだからという人もいるだろうし、単に興味があるという人だっているだろうし、中には」
〝ねえ、キミは、名詠が怖いと思ったことってない?〟
気づいたときには、彼女はすぐ目の前で眠りについていた。
「クルーエルさんが言ったように、名詠式を悪いように使うために勉強してる人もいるかもしれません。でも僕は、名詠式をこうして勉強して良かったと思ってます......そうでなかったら、僕はクルーエルさんと会えなかっただろうから」
クルーエルさんだけじゃない。アーマだってカインツさんだって、ケイト先生やミオさんエイダさん。クラスメイトの人みんな。
大切な人、もの。全部なくしたくない。だから──
「僕も、行きますね」
研究棟へ。みんながそこにいるから。だけど──だけどっ────
「......ごめんなさいっ!」
ベッドの端に手を触れた途端、言葉にできない激情が胸の堰を突き破った。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 本当に、僕っ......」
口を手で覆ってもなお、指の隙間から嗚咽が洩れる。
ずっとずっと我慢してたのに、隠すことも止めることもできなかった。
「クルーエルさんにだけは......何もしてあげられないなんて............」
自分がずっと勉強していたこと。自分が唯一できること。灰色名詠だって真精だって、名詠式だ。それならきっと名詠式で何とかできる。でもそれだけじゃ、名詠式だけじゃ一番大切な人は助けられない。
──それはきっと、ずっと前に、母さんとカインツさんも通った道なんだ。
「クルーエルさん......僕はクルーエルさんに、何をしてあげられますか」
ここにずっといてあげること?
こうしてずっと声をかけ続けること?
分からない、分からないけど、それはどちらも違う気がする。
「僕、本当に何もできないから......」
クルーエルさんがしてほしいって思うことってなんだろう。
分からない。だから──
〝一緒に詠ってほしいとか、尊敬してるとかさ。男の子が女の子にそういうの言うのはね、大抵プロポーズの時なんじゃないのかな?〟
〝うんうん。で、キミは何かな。わたしに愛の告白というやつなの?〟
だからせめて──
〝『おやすみなさいのキスして』って言ったとき〟
〝ねえ、今わたしがそれをお願いしたら、キミは何て答えてくれる?〟
僕は。
〝わたし、キミの返事が聞きたい。割と本気で。もしキミがだめって言うならいいよ。でも、もし『いいよ』って言ってくれるなら......わたしも、わたしだって......〟
僕は、あの時のあなたに応えたい。
〝いつか、今じゃなくても、返事を聞かせてくれると嬉しいな〟
「僕は......」
──クルーエルさんのこと、大好きです。
「僕、クルーエルさんのこと大好きです! 本当に、ずっとずっと大好きですっ!」
我慢しようとして、だけど叫ぶのが止められなかった。
目の前が見えない。それは涙が止まらなかったから。涙が頰を伝って唇を伝って、彼女のベッドにこぼれ落ちてなお、止まらなかった。
......泣かないってずっと決めてたじゃないか。
エイダさんの前だってミオさんの前だって耐えてたのに、なんで......なんで。一番隠しておきたかった人の前だと、耐えられないんだろう。
「一緒に勉強して、遊んで、笑って──ずっとずっと、一緒にいたいんです」
だから、お願い......目を開けて!
〝ティンカが言ってたんだ。クルーエルの病気は祓名民にも医者にも治せないだろうって。クルーエルの心の中の問題だからって。だから、もしクルーエルを助けられるとしたら、きっとクルーエルの心に直接届くような何かが必要なんだと思う〟
「......おやすみのキスはしませんて、僕決めたんです」
この時この場所でも、それだけは絶対に譲らない。
だけど、だけどもし。
〝万一あの子に誰かの声が届くとしたら、それは、君の声だけかもしれない〟
──どうかお願い、届いて。
「クルーエルさん......」
そっと、彼女の前髪をはらった。
右手で頰に触れる。熱を帯び紅潮した頰は、あたたかかった。
そして──
彼女の唇に、ネイトは自分の唇を重ねた。
おはようございます、クルーエルさん
もう、目覚めの夜明けです
それは本当に一瞬のこと。
けれど、今まで生きてきた中で最も長い一瞬だった。
......目を、覚ましてください。
多くは望まない。
ただその想いだけを願った一瞬だった。
「......すぐ帰ってきます」
触れた感触を実感する前に、ネイトは自ら唇を遠ざけた。
待ってる人が向こうにも大勢いる。
だから──
「見守っててください」
3
研究所本部敷地内、中央広場──
「......ふざけるなっての、あんなのありかよ」
がくがくと笑いだす膝に鞭を打ち、ゼッセルはかろうじてその場に踏み留まった。
灰色名詠の奴らだけかと思ってたらとんだ伏兵もいたもんだ。
「ゼッセル、平気!?」
「......んなの屁でもねえよ」
背中合わせになるエンネに無理やり虚勢を張る。
......ったく、こりゃ肋骨が数本イッちまったか。左肩も動かねえし。
「油断したつもりはなかったんだけどな」
目に捉えられない名詠生物、浸透者と言ったか。ミラーから事前に報告を受けてはいた。だが目に見える灰色名詠の生物を相手に連戦する最中、一瞬だけその存在が頭から消える。その一瞬が文字通り致命的となってしまった。
まるで予期せぬ一撃だったせいで完全に無防備。おかげで無様な一撃を食らってしまった。目に見えない、それがここまで厄介な相手だとは。
「おいミラー、何でまたこんなだだっぴろい場所を死守しろってんだ!」
中央広場。中心に巨大な台座が設置され、そこから半径十数メートルは見晴らしの良い広場になっている。おまけに東西南北四方向から主要な通路と繫がっているため、当然の如く敵の数も桁違いだ。
「最後の生命線だ」
埃で曇った眼鏡のブリッジを押し上げ、ミラーが淡々と告げてくる。
「既にここ以外の主要ポイントはほぼ全て陥とされた。残るこの広場は各棟からシェルターへ抜けるための必須退避路。さらに言えば、他のブロックで奮闘している祓名民や名詠士との連絡も、ここが陥ちれば途絶えてしまう。他にも──」
「あー、わかった、もういい! 十分!」
オーケイ、死んでも守れってことか。
動かない左手の代わりに歯でフラスコのコルクを嚙んで固定、右手を使ってこじ開ける。
触媒となる赤く揺れる液体を周囲に撒き散らす。いや、その直前に。
「そこの三人、台座の陰に隠れろ!」
サリナルヴァの絶叫が広場に響いた。
......ん?
「ゼッセル、上!」
サリナルヴァの絶叫を引き継ぐようにエンネが悲鳴を上げた。刹那、広場全体が一際暗さを増した。夜闇の中、何か巨大な影が広場を包み込む。
ぞくっ。身もだえするほどの寒気に、握っていたフラスコが滑り落ちた。この威圧感。
──あいつか!
本能的に、恐怖が身体を動かした。ミラー、エンネと共に台座の陰に転がり込む。直後、一瞬にして広場全域が灰色の灰燼に呑みこまれた。
「数十秒だ、その間は絶対に灰を吸いこむな!」
広場に続く舗装路から聞こえるサリナルヴァの怒号。
......吸いこむか肌に触れると石化ってわけか。
息を止めたままゼッセルは声にならない笑い声を洩らした。轟音と砂埃を巻き上げ、頭上を凄まじい勢いで通過する敗者の王。敷地内を一定周期で旋回し、標的を発見すれば今のような灰燼の雨。地上からでは近寄ることすらできないとは。
さて、もしこの広場は死守したとしても、あの親玉どうするかね。







......なにこれ。
舗装路を駆ける足を不意に止め、眼前に展開する異様な光景にネイトは息を呑んだ。目の前、直径十メートルほどの範囲全て。それが円周状に綺麗に石化していたのだ。木も芝生も、路面も灰色に染まっている。
今まで見てきた灰色名詠の仕業じゃない。いったいどんなことをすればこんな真似ができるのか。
「これが......敗者の王?」
つっと顎を伝っていく冷たい汗。......ううん、でもだめだよ。こんなとこで怖じ気づいてたらこの先一歩だって前に進めない。こんなところで立ち止まってちゃだめなんだ。
「──急がないと」
黒の帳が降りた夜の道。外灯がぼんやりと照らすとはいえ、せいぜい視界は数メートル。
足場も不安。敵に不意をつかれたら逃げる余裕もない。その状況を知った上で、あえてネイトは路面を全力で駆け抜けた。時間がない。クルーエルの体調も、おそらくは研究棟の状況も。
全力疾走に心臓が悲鳴を上げ、呼吸も肺が握りつぶされたように苦しい。不安定な足下に視界のきかない闇夜。こうして走るだけで精神が摩耗していく。
ふと、唐突に視界が開けた。
中央に巨大な台座のある広場。十数本の外灯に照らされて、床に積もった大量の灰燼が鈍い色に光り輝く。まるでそこだけ灰色の雪が降ったかのようなありさまだ。
カツッ......
ハイヒールの音が広場手前の通路から届いた。
「サリナルヴァさん?」
長身に癖っ毛の髪、赤いハイヒール。サリナルヴァ・エンドコートに間違いない。だが彼女は自分などまるで目に入っていないように、視線を彼女自身の真正面に向けたままだった。
研究服をなびかせ、通路を風のように彼女が駆け抜ける。と思いきや、彼女が突然頭部を守るように腕を十字にクロスさせた。
「っぐ......!」
刹那、小さい呻き声を上げ、長身の彼女が優に数メートル吹き飛んだ。まるで虚空にはじき飛ばされたように。......既視感。かつて、トレミア・アカデミーでエイダにまるで同じことが起きた。
まさか浸透者?
「サリナルヴァさんっ!」
「ネイト?」
一瞬、ぽかんと呆けたように口を開け、だがすぐに彼女は表情を鋭利なものにした。
直後、サリナルヴァの真正面に人形の歪みができる。
「いや......だめだっ、来るな!」
が、ネイトはそれにかまわず浸透者の背後へと一気に距離を詰めた。
「ネイト、何を」
右手に黒曜石の欠片を握りしめ、浸透者の朧気な体表を全力で殴りつけた。もちろんそれだけでは浸透者は倒せない。だけど、今ならきっとできる。
絶対すぐ戻る。そうクルーエルさんと約束したから。
──『Nussis』──
ピシリッと音を立て、ガラスに罅が入ったような亀裂が虚空に生じた。反唱の作用と浸透者の反作用。右手に走る激痛に肩が落ちそうになる。
だが、その均衡は一瞬だけだった。
チリン、鈴を鳴らしたかのような清らかな音と共に空間の歪みが消失していく。
「......消えていく?」
呆然とした面持ちで、口を半開きにしたまま彼女がぼんやりと呟いた。
「平気ですか」
「まさか、浸透者を反唱で還したのか?」
驚愕のまなざしで瞬きを繰り返す彼女。
「ええ、それは少し前に一度できましたから。ホントは今も無我夢中でしたけど」
「ティンカからそれらしいことは聞いていたが、まさかこの目で直接見られるとはな。いや、だが正直助かった」

コートにまとわりつく灰を手で払い、サリナルヴァがゆらりと立ち上がった。
「少年、お前が浸透者を相手にできることは心強い。だがさて、どうしたものか」
目の前の敵が消えてなお、彼女の表情は厳しいままだ。
「有象無象の下っ端を倒したところで、どうも素直に解決するわけでもないらしい」
遥か上空を旋回する真精を見上げ、サリナルヴァが毒を吐くような声音で呟く。
自分たちの広場からまだ距離はある。だがやはり、遠目からでもあらためてその巨大さと形容できぬ重圧感がひしひしと伝わってくる。それこそ肌がざわつくほどに。
天上を完全に支配しつつある敗者の王。あの高度までたどり着け、なお敗者の王に対抗できるとしたら──
「あの......サリナルヴァさん、協力してほしいことがあるんです」
「何か手があるのか?」
夜色名詠の真精。おそらくは、それが最後の希望になる。
問題は、詠び出す前の段階だ。
〈讃来歌〉はいい。真精の名前も分かる。あと一つ、夜色名詠の真精を詠び出すための特有触媒。それをいかにして準備するか。
「夜色の炎、分かりますか」
一瞬怪訝なまなざしで片目を細め、しかし彼女はすぐに興奮したように声を上げた。
「夜色......炎色反応か! それがお前の真精に必要な触媒なのか?」
「はい。だけど炎も相当大きな場所で焚かないと」
「ああ、それは中央広場を使え。派手に燃やしてやればいい」
言うなり、彼女が白衣をひるがえす。
「あとは炎色反応に使う薬品を取ってくればいいんだな」
「いえ、その必要はないでしょう。既にミオ・レンティアが保管庫に向かっています。保管庫の場所と鍵は付き添いのティンカさんが」
からんと小石を踏みつけ、眼鏡をかけた教師が歩いてくる。その後ろにはゼッセル教師、そしてエンネ教師の姿も。
「そうか......さっきあの二人とすれ違いに会ったから何かと思ったが」
半分ほどが石化したハイヒールで地を踏みつけ、サリナルヴァがとある通路の先を見据えたまま動きを止めた。
「しかし、だとしたら遅くないか? とうに戻ってきてもいいはずなのに」







「......これも違う、これも、これも」
棚に並んだ薬品を取り出し、ラベルを確認しては床に並べていく。床には既に、足の踏み場すらないほど敷き詰められた何十にも及ぶガラス瓶。一つ一つ棚に戻す時間すら惜しい状況での苦肉の策だが、それすら限界に近づいてきた。
「これもかぁ......」
右手と左手に抱えた瓶を床に降ろし、ミオは疲れ混じりの声で呟いた。
もうこれで何個目だろう。既に百を数えているかもしれない。収穫がないまま焦りだけがつのる。もうかなりの時間ここに留まっている。いつ灰色名詠の生物が襲ってくるかも分からないのに。
「ミオさん、これかしら」
「え?」
唐突に名を呼ばれ、はっと我に返った。
振り向けば、茶色のガラス瓶を抱えティンカがすぐ隣に立っていた。
「え、あ、え......」
ガラス瓶に貼られたラベル名を何度も何度も確認した。
原子番号37、『Rb』──ルビジウム。
「こ、これです!」
渡されたガラス瓶を胸に抱え、ミオは思わず飛び跳ねた。間違いない、夜色名詠の第一音階名詠を彩る夜色の炎、その生成に必要不可欠な物質だ。
「ティンカさんも持てるだけ持ってくれますか」
「はい、もう持ってますよ」
両手に一瓶ずつ抱えたまま彼女がくすりと微笑む。
「では急ぎましょう。あとはコテージにいるネイト君をサリナルヴァが呼んでくればいいんですよね?」
「きっと......何とかなるはずです」
ぎゅっと、瓶を抱える両手に力を込めた。そうだ、この瓶さえあれば。きっと何とかなる。この状況からだって逆転の余地は必ず......
──ピキッ──
え?
不意に鼓膜を揺らした音に息が詰まった。
今の音、なに?
最初は手に持つガラス瓶が割れたのかと思った。何か硬い物に罅が入った、そんな感じの音だったから。
「ミオさん......あれを」
ティンカが表情を強張らせる。その視線が見つめるのは、保管庫の奥にある明かり採りの小窓だった。言われるままにじっと目を凝らす。ふと、窓の外で何かが蠢いた。
何か、細長いもの。
外部の外灯に照らされ、影絵のようにゆらゆらと蠢く灰色の影。
......まさか。
その窓の亀裂が一際大きさを増した。そして、同時だった。ティンカの悲鳴と、窓ガラスが割れるのは。
「見つかった! ミオさん、走って!」
言われる前に、ミオは反射的に駆けだしていた。床に散らばるガラス瓶を蹴飛ばし、ただただ出口までの最短距離をひた走る。呼吸すら止め、無酸素運動で出口まで──
だが、ミオは見てしまった。
扉のすぐ脇から伸びた影。それはまるで翼を持っている石像のような。
「まさか、有翼石像?」
ティンカの声が裏返る。それほどの窮地だということを実感する前に、有翼石像の影が確かに嗤った。
歪んだ鎗を片手に、扉の陰から石像が躍りかかる。
前に有翼石像、背後にも灰色名詠の蛇が。
「だめっ、これだけは渡さないもんっ!」
ガラス瓶を抱える手が真っ白になるくらい、ミオは必死に瓶を抱えた。
これがなきゃ夜色の炎は生まれない。夜色の炎がなければ夜色名詠だって完成しない。何があっても、これだけは──
汚れた牙を見せて大蛇が飛びかかってくる。
ガラス瓶を抱えたままミオは目をつむり──
その途端、目の前いっぱいに迫っていた灰色が、虹色に変わった。
な、なにこれ!
目の前で日が射したような強烈な光の奔流。それが津波のように薄暗い部屋に流れ込んできた。息が詰まるほどの眩しさに思わずミオは目を閉じて......
......え?
再びまぶたを持ち上げてすぐ、ミオは我が目を疑った。
なんで。なんで、飛びかかってきたはずの大蛇が、有翼石像が、灰色の煙を上げて還っていくの?
「やれやれ、方向音痴が役に立ったのは初めてかもな」
コツッと、誰かの靴音が聞こえた。
扉の向こうから、まず見えたのは枯れ草色のコートだった。
......あ......あっ......。
枯れ草色のコート、そして今の、虹色の名詠光。それだけで、扉の向こうに誰がいるのか知るには十分だった。
「やあ間一髪だったね」
くすりと微笑みかける彼。その仕草にあわせ、茶とも金とも区別のつかない髪がそっとゆれる。
「まったく、本当にずるいタイミングで現れるものですね」
「そう言わないでくださいティンカさん、ボクの方も色々あったもので。ここに着いたのもほんのさっきなんです。でも大方の事情は把握しているつもりですから」
「そう、それは助かります」
さっきまであんなに緊迫した表情のティンカすら、彼を見て安堵の息をついていた。
そう、彼がここにいる。
それだけで、あんなに苦しかった空気がこんなにも穏やかになるなんて。
「平気かい」
じっと見つめられる。
「あ......あ......」
声が出なかった。声が出ないのに、代わりに目の端から何かがこぼれてきた。だめだ、またあの時と同じだ。名前が出てこない。あの時は緊張のせいだったけど、今度は嬉しさのあまり頭が真っ白になってしまっていた。
やっぱり、やっぱりだ。
夢にまで見た、あたしが世界で一番憧れてる人。やっぱり、胸を張って言える。この人こそ最高の名詠士だ。
「そんなに大切に抱えているなんて、そのガラス瓶、とても大事なものなんだね」
「あ......あ......あの」
この瓶、あたしの代わりに持っていってもらえませんか──
そう言おうとして、だけどその言葉は全て、肩を彼に触れられて吹き飛んでしまった。
「それは君の仕事だよ」
「──え?」
「それを守り通したのはボクじゃなくて君。だから最後までやりとげよう。ね?」
理屈じゃない。でもその言葉には力があった。あたしの中にある崩れかけていたものを修復し、前より一層強くするくらいの力が。
「......は、はいっ!」
「いい返事だ。さ、行こう」
そう言って、彼が枯れ草色のコートをひるがえす。その背に、ティンカが再び。
「希望、あなたに託していいのかしら?」
独り言かも分からないその呟きに。
「さあどうでしょう。気まぐれで優柔不断なボクなんかより、お似合いの二人がいるかもしれませんよ」
悪戯っぽく幼い笑顔で、彼──カインツ・アーウィンケルは片目をつむってみせた。
「だからこそ、あとは彼女次第なのかもしれませんね」

4
おはようございます。
時間の流れる感覚すらない、全ての光という光が消えたその場所で──
唇に、何か温かいものが触れた気がした。
......あ。
同時に、すごく懐かしいものを、思いだした。
『クルーエル、どうしたの?』
歩きだす自分の背にかかる、疑問調ながらも優しい声音。本当に、少しでも心を許せばすぐにでも受け入れてしまいそうになるほど甘くて懐かしくて、心地よい声。
「......思いだしたの」
自然とうつむいていた顔を、クルーエルはそっと上げた。
「あのね、わたしやっぱり、帰らなくちゃいけないみたい」
『それはなぜ? ここにいる限りあなたは安全なのに。ここでわたしが傍にいる限り、あなたを傷つけるものは何もない。ほら、こんなにも暖かい場所で、安らげる場所で、それ以上にあなたは何を望むというの?』
「......違うよ」
乾いた涙の跡を手で拭い、クルーエルは首を振った。
「わたしは何も望まないよ。ここがそうだって言うんなら、暖かい場所も安心な場所も欲しくない」
『それはなぜ?』
「だって、ここはすごく寂しい場所だから。ここにはわたしとあなたしかいないから」
そう、あの時、小生意気な名詠生物が教えてくれた。
〝今小娘は板ばさみにあっている。成長と停滞の葛藤。殻を破りかけ、だが抜け出せずにいる雛のようなものだ〟
〝暖かく安全な場所からあえて抜け出ることは容易ではない〟
ようやく、わたしは実感できた。
こんなにも独りぼっちの世界だからこそ、あの時の言葉の意味が分かった。
〝それを、あの二人は殻から抜け出した。だから任しただけのことだ。案ずることもない〟
あの時の自分には、そう告げてきた相手の真意が分からなかった。
そんなわたしに、返ってきた言葉は──
〝お前にもいつか分かるだろうさ〟
やっと分かった。
こんなにも、どんなに叫んでもわたしの声が届かないくらい遠い場所。それから抜け出すことがどれだけ苦しく辛い痛みを伴うか。でも、それでも。
「もう決めたの。ここがどんなに暖かくて安全でも、わたしはこの殻を抜け出したいの。それでみんなのところに帰るよ。一人ぼっちは寂しいもん」
『だとして、あなたはどうやってここを出るつもり?』
そう、それがアマリリスからの絶対的な提題。
あらためて、クルーエルは周囲の空間を見回した。とてつもなく広い場所だった。捻れたメビウスの環の如く、どこまで行ってもまたもとの場所に帰ってきてしまう。
行って、戻って、現れては還って。ここはもしかしたら、名詠式が生まれる場所にとても近い場所なのかもしれない。
けれど、もう平気だ。
わたしは──
『ここから出たいのならばわたしに教えて。決して偽りえぬかたちで、あなたと彼の約束をわたしに示して。あなたはまだ、わたしが訊ねた問いに対する答えを見つけ──』
「見つけたよ」
『......え?』
振り返る。
そして、クルーエルは自分の生き写しのような真精に向かって両手を広げた。
「まだまだちっちゃくて華奢で、おっちょこちょいで挫けっぱなしで、お姫様を守ろうなんてこと言えそうもない子。一度決めたらすごく意固地になっちゃって、その割に何かあったらすぐ自信なくしちゃって悲しい顔する子。ねえ、それが誰か分かる?」
無言のまま、アマリリスが首を横に振る。答えが分からないのではなく、問いの意味そのものが分からない──彼女の蒼碧色のまなざしが素直にそう告げてきた。
だから、両手を広げたまま、クルーエルはにこりと微笑んだ。
もう一人の自分に、自分の想いが伝わるように。
「ただ単にね、放っておけないと思ってたの。うん、最初は本当にそれだけだった。だけど少しずつ、彼の良さが見えてきた。呆れるくらいまっすぐで前向きで、一途。だけどそんなことどうだっていいくらい──彼は優しかった」
不器用な言葉しか知らないし、出てこない。うまい単語が使えるくらい器用じゃない。でも、それでも溢れる想いは枯れることがなかった。
「一緒にいてすごい派手な思い出とかがあったわけじゃないよ。でもね、一緒にいてすごくほっとできた。一緒にいてくれる、ただそれで嬉しかったし暖かかった。だから、彼のところに帰りたいの」
もう一度、キミの隣にいたいから。
おはようございます。
──ピシリッ──
目の前の空間に、小さな、本当に小さな亀裂が走った。
真っ暗な空間に、光が射しこんだ。
夜明け色の光。温かい光。
『詠?......いいえ、違う! これは──』
光を真っ正面から受け止め、アマリリスが目を見開いた。
『......ただ一瞬のくちづけ?......うそ、そんな! 〈讃来歌〉でも何でもない、ただそれだけのことで、この場所まで声が届くなんて......クルーエル! まさかこれが、あなたの答えだと......いうの!』
眩く輝かしい光を受け、名詠門のかたちに空間の亀裂が広がっていく。
もう夜明けです。
優しい光を全身に浴び、クルーエルはそっとまぶたを閉じた。
......呼んでくれて、ありがとう。
こんなに遠い場所だけど、それでもキミの声は届いたよ。
そして──
──クルーエルさんのこと、大好きです。
こんなわたしを......好きになってくれてありがとう。
光の扉をくぐる直前でぴたりと足を止めた。背後にいる、自分とまるで同じ姿をした真精。彼女が自分の片腕を摑んでいた。
『ねえ、なぜわたしじゃだめなの。わたしならあなたの望みを全て叶えられる。あなたを心から愛してる......それでも、わたしが嫌い?』
「ううん、そうじゃないよ」
これだけ奇妙な空間に誘いこまれ閉じこめられて、それでもふしぎと怒りは感じなかった。いや、最初はあったのかもしれない。だけど、目の前に溢れている優しい夜明けが、その濁った感情すら流してくれた。
「でもね、一緒に詠いたいのはネイトなの。それ以外思いつかないよ」
自身の写し身に、クルーエルはくすりと微笑んだ。
『......あなたの選択は決して最良のものではないわ。残酷な流れに引き裂かれるかもしれない。それでも、あなたはネイトを選ぶの?』
「うん、もう迷わない」
どんなに離れていても届くものがある。それが分かったから。
『──ふふ』
「何がおかしいの?」
『いえ、ごめんなさい......あのね、今なんだか、すごくあなたらしいと思ったの』
「え?」
初めて見た。
目の前の真精が、本当に微かにだけど、小さく微笑んでいたのだ。
『あなたの答えはとても稚拙。子供っぽくて幼くて、とてもじゃないけど人に誇れる答えじゃない。だけどそんな答えを誇らしげに答えられるくらい、今のあなたは幸せなのね』
幸せ。面と向かって誰かから訊かれたのは初めてだった。けれど......うん、今ならはっきり言える。わたし、トレミア・アカデミーに入学して良かった。
──彼と出会うことができたから。
『そうね......あなたの選択が正しいかどうかは、今もわたしには分からない。だけど、あなたが自らの意志でそれを選ぶというのなら』
光の粒が目の前の真精を包んでいく。
儚く淡く透けていくその身体。
『お行きなさい、わたしの愛する子。どうか、あなたを守る黎明の翼が永久に穢れることのなきよう』
幽かな、それは目の前の自分ですら見逃してしまいそうになるほど小さな表情。
けれどアマリリスが口元に浮かべたのは、紛れもなく優しそうな微笑みだった。
「──うん」
その微笑みに小さく頷き、クルーエルは夜明け色の扉をくぐった。
......まぶしいや。
横顔を照らす月明かりに、クルーエルはまぶたをこすった。数回、小さくまばたき。薄暗い部屋にも少しずつ目が慣れていく。
「......わたし、帰ってこれたの?」
自分の声が、鼓膜を通じて確かに聞こえた。夢じゃない。わたし、帰ってこれたんだ。
胸に手をあてて呼吸をととのえる。ずっと、今まで息すらしていなかった。そんな錯覚を覚えるくらい、長い夢を見ていた気がする。だけど、そんなぼうっとしてる時間なんてない。みんなのところに行くって決めたんだから。
「これ、わたしの服だよね」
自分の制服はタンスの一番上の棚に折りたたんで入っていた。しわ一つない制服に腕を通す。そのさらりとした感触すら懐かしい。
と、唐突に扉が開いた。
「物音......その部屋、誰かいるの?」
扉が半分ほど開き、見知らぬ女性が顔をのぞかせた。胸元に揺れるケルベルク研究所のネームプレート。
「あ、あの──」
反射的に会釈しようとする自分を見た途端、彼女の動きが固まった。
「......く、クルーエル・ソフィネット? うそ、まさか......あなた、目が覚めたの?」
「はい、ずっとご迷惑かけたかもしれませんけれど」
はにかむように笑って会釈し、クルーエルは部屋の窓へと歩いていった。かけたままの鍵を外して窓を開けた瞬間、心地よい風が髪をなでた。
「だ、だめよ無理に歩き回っちゃ! まだ安静にしてないと!」
「ごめんなさい、でもわたし、行かなくちゃいけないから」
「行くって......いったいどこに」
険しい表情を崩さない彼女に、クルーエルはそっと目元をやわらげた。
「わたしの大切な人たちのところです」
その声に応じるかのように、紅い風が吹いた。いつの間にか制服の肩に留まっていた一輪の花。それが風に溶けるように細分化し、緋色の輝きを発しだす。
花が姿を変えた緋色の輝きが、さらに無数の緋色の羽へと移り変わっていく。
〝どうか、あなたを守る黎明の翼が永久に穢れることのなきよう〟
......そっか、この子に必要な触媒って、血じゃなくても良かったんだ。
緋色の花、自分の一番好きな花こそが──
『お帰りなさい、クルーエル』
窓の外、優雅なまでに煌めく翼を広げ、黎明の神鳥が地に降り立つ。
「え、え......な......まさか......フェッ...ニ...クス?」
ぺたんと、後ろの女性が目を瞠ったまま床にしゃがみこんでしまった。
「あ、あの、だいじょうぶですか」
驚きのあまり声が出ないらしく、代わりに必死でこくこくと頷く彼女。
「......副所長からそれとなく話は聞いてたんだけど、本物って初めて見たから。......でも、そんなの詠び出せるくらいなんだから、私が心配することもないのかな」
「はい、──わたし、もう本当にだいじょうぶです」
目眩に似た頭痛も、骨の髄まで灼かれるような熱も、自分でもふしぎなくらい綺麗に治まっている。そしてきっと二度と起きない。そんな気がする。
「もう一度、あなたの背中に乗っていい?」
輝く紅の翼をそっとなでる。
『そのために来たのです。さあ、道行きを教えて。クルーエル、あなたはどこに飛ぶ?』
「うん、わたしは──」
わたしは、わたしが行きたい場所は。
5
「ったく、どういうことだよこれは!」
広場に、ゼッセル教師の溜息混じりの叫び声が響いた。
──広場に集結する敵の数が一層増えてきてる?
大粒の汗を拭うことも忘れ、ネイトは擦れた呼吸をととのえることに専念した。サリナルヴァが浸透者をおびき寄せ、自分が反唱で送り還す。即席の連携が嚙み合い、浸透者はこれで五体を送還した。だが数は一向に減った気がしない。
「おい少年、お前にはまだ肝心の仕事が残ってるんだ、今から無理してどうする」
「だって......」
慣れぬ反唱の反作用か、相手に直接触れた両腕がひどく痛む。赤く腫れたりするような箇所はないのに、指をろくに曲げることすらできないのだ。
「......浸透者に効く反唱ができるのは僕だけだから」
「それは二の次だ、お前には大仕事がある。違うか?」
叱るようなまなざしでサリナルヴァに見つめられた。
それはもちろん自分だって分かってる。だけど──
「その表情だとあまり納得してないな、まあそんな頑固なところは少年らしいよ。......しかしミラー、ネイトをこれ以上浸透者と戦わせてられん。お前たち三人で何とか防げ!」
「善処しますよ、むしろ最初からそうです」
エンネと背中合わせになる教師が淡々と頷く。
「しかしこの灰色名詠生物の数。察するに、この場所以外の重要拠点は全て制圧されたということでしょう」
「分かってるなら死ぬ気であたれ! もはやここ以外、まともに広い場所などないぞ!」
一定面積以上の、広い空間。そう、夜色名詠の第一音階名詠に必要な特有触媒たる夜色の炎を燃やすために必要な空間だ。
「モノはミオとティンカが取りに行っているんだったな。じき戻ってくる、それまでこの人数でやるしかないだろう」
ゼッセル、エンネ、ミラー教師。自分と、それにサリナルヴァ。
たった五人で小さな防衛線を作り、広場に次々と集結する名詠生物を相手にする。その困難さを再認識し、ネイトは表情をしかめた。今の時点で既に、他人の身を案ずるどころか自分のことだけで精一杯だったから。
「問題はここの死守だけではないです。敗者の王に対抗できるという夜色名詠の第一音階名詠。万一ミオさんティンカさんが戻ってきても、それを成功させるには大事な条件があります──夜色の炎の発生、そしてネイト君の〈讃来歌〉の完成が同時であること!」
反唱用の宝石が組み込まれた指揮棒を振り翳し、エンネが声を張り上げた。その視線は遥か上空を旋回する敗者の王へ。
「触媒として炎が燃え立てば、当然上空のアレにも見つかります。そうなれば途中で妨害されるのは必至でしょう」
炎が燃えれば確実に見つかる。
だから、見つかることは前提の上で、炎の発生と同時に名詠が完成しなければならない。
「......しかし、炎を詠び出せる赤色名詠士が既に肩を傷めてる」
「あ? 俺は余裕だっての、んなこと言ってる暇あったらミラーもエンネも動け!」
額に汗をしたたらせながらゼッセル教師が豪快に吠える。
「少年、お前だけでも先に〈讃来歌〉の用意を──」
「それは、だめです」
右手に石炭の欠片を握りしめ、ネイトは即座に答えた。
〈讃来歌〉途中の名詠士ほど無防備なものはない。それに一度〈讃来歌〉を始めてしまえば、その途中で浸透者が来た時に反唱が使えない。ギリギリまで、自分も広場の防衛役として粘らなくては。
「言うと思ったよ。だが本当に、〈讃来歌〉を詠うための余力だけは残しておけ! そうでなければ全ての努力が水の泡だ」
「はい!」
近づいてくる灰色名詠の石竜子を牽制するように睨みつける。その途端、石竜子がまるで飛び退くように後退した。
逃げた?
一瞬の安堵は、瞬き一回分にも満たない僅かな時間だった。キン、という硬い音を立て空中から何かが降ってくる。ネイトが身をひねって回避できたのは本当に偶然だった。
首筋を掠めて地に刺さるのは、一本の銀剣。これは!
「......ちび君、逃げろ! 一体......そっち......行っ、た!」
広場に通じる建物の陰から、祓戈を支えによろよろとエイダが現れる。顔面は蒼白、脇腹を押さえた手は真っ赤に濡れて──
「エイダさんっ!」
その場に膝をつく彼女。が、その身を案じる間も与えられはしなかった。
先に飛び退いた石竜子を従え、銀色の真精がじわりじわりと距離を詰めてくる。ケルベルク研究所で遭遇した時と変わらない、対峙するだけで冷たい汗が一気に噴き出すほどの重圧感。
──まずい。
内心、ネイトはほぞを嚙んだ。生半可な名詠では相手にもならない。かといって長大な〈讃来歌〉を詠うだけの距離も既にない。
好い表情だ夜色名詠士、お前のその表情が見たかった。
脳天に直接降りそそぐように、低い嗤い声が上空で轟いた。同時、周囲の影が一層濃さを増す。まさか......すぐ真上に。
見上げたそこに、上空全域を覆うほど巨大な真精と、その肩に乗る敗者の姿があった。
「やれやれ。どこに隠れているかと思い探してみれば......まさかそんな広場に堂々と突っ立っているとはな」
地上の人間がケシ粒に映るほどの遥か頭上。
「クルーエルという女はどうした? まさかお前一人で俺をどうにかするつもりだったとは言うまい?」
遥かな高みから、ミシュダルが声を張り上げる。
「クルーエルさんのことなんか、お前には関係ないじゃないか!」
「ははっ、何をそんなに動揺している。そうだな......そういえば以前あの学園で会った時、あの女はたいそう顔色が悪かったな」
──やっぱりそうだ、この男は知っててわざと言ってきてたんだ。
「なあお前まさか、そのクルーエルとやらを助けられると本気で思っているのか」
「クルーエルさんは助かるもの!」
途端、その言葉を待っていたかのように、ミシュダルが満面の笑みを浮かべた。顔すら見えないほどの上空にいるはずなのに、それだけは分かった。
「いいや。お前たちはやはり俺と同類だよ、逃げられない糸に搦め捕られた蝶のようなものだ。全てを失って拠り所をなくし、俺と同様、地に這う敗者となる」
......そんなことない。
「クルーエルさんは僕が助ける! お前なんかに負けないんだから!」
「悲しいな。この状況で、それは遠吠えにしか映らんよ」
地上に灰色名詠の真精、上空には敗者の王を従えたミシュダル。加えて、今も刻一刻と広場に無数の名詠生物が集いつつある。そんなことは百も承知。だがそれでも、この時だけは譲れなかった。ここで心を折ってしまったら、クルーエルもまた二度と目覚めない。そんな気がしたから。
「僕は......諦めないもん!」
絶対、絶対に。
クルーエルさんと一緒に学校に帰るんだ。
「では、お前の縋るものを俺に教えてくれ! 俺と違う道があるというのならな!」
夜の帳の中、敗者の王の全身がぼんやりと発光していく。朧気に光を放ち、徐々に空中で凝固していくそれは大量の灰燼だった。
「いけないっ、ちび君逃げろ!」
「ネイト!」
エイダ、サリナルヴァの絶叫。
真上から降りそそぐ瀑布の如き灰の雨。放射範囲が広すぎる。自分はおろか広場の全員が、回避など到底間に合わない。
ミシュダルの歪んだ笑みが一際強まり──
ザァッという波飛沫のような音と共に。
今しも広場に降り積もるはずの灰の雨が、一瞬にして虹色の光の中に蒸発した。
「......っ!」
目を見開いたのは自分だけではなかった。広場にいた全員が、ミシュダルが、目の前に起きた現象に皆が言葉を忘れて立ち尽くす。
──Selah pheno sias orbie Laspha──
極彩色の光が、夜の空を真っ二つに切り裂いた。
洪水のように光が天上に浸透する。世界中あらゆる宝石をちりばめたような煌びやかさと、幽玄たる月影の清廉さが融和した至高き輝きが。
「っ! なんだ......っ?」
ミシュダルの口をついて出る驚愕混じりの怒号。
溢れる光に照らされ、剣を持った灰色の真精が消えていく。敗者の王が小刻みに震え、光にまぶたを灼かれたミシュダルが目を閉じる。
光の洪水の中、たった一人、歩いてくる人がいた。
七色に染まった世界の中、枯れ草色のコートだけは不思議と色を失っていなかった。
「久しぶりだね」
ようやく戻った夜色の帳。片手を上げる彼の姿が外灯に照らしだされた。
「......カインツさん?」
器用に彼が片目をつむってみせる。その背後から。
「えへへ。おまたせー、ネイト君」
ひょっこりと、金髪童顔のクラスメイトが顔をのぞかせた。......ミオさんまで?
「感謝してよー? 怖い思いして取りにいったんだから!」
その両手に、大きなガラス瓶を山ほど抱え。
「ふん、まったくお前の遅刻癖を何とかしたいものだな。さて、あとは少年が〈讃来歌〉を詠い終えるまでここを死ぬ気で守り通さないとな」
足下に降り積もった灰燼を踏みつぶし、サリナルヴァが深々と息を吐く。ところがその隣に立つカインツは落ちついた様子で首を横に振った。
「いえ、その必要もないでしょう」
ミシュダルでも敗者の王でもない。
虹色名詠士が見つめるのは──自分だった。
「あの時より少しだけ凜々しく見える。大切なもの、見つけたみたいだね」
「──はい」
だから、ネイトもまたじっと彼の視線を受けとめた。
「でも思うんです。......それはもしかしたら、名詠式だけじゃ手に入らないものかもしれないんだって」
だって僕の本当に大切なものは。ううん、大切な人は......
「そう。本当に大切なものは名詠式では手に入らない。なぜなら名詠式は、大切なものを守るためにあるものなのだろうからね。失ったものを手に入れるためのものじゃない」
口元を引き締めて彼が頷く。そして。
「名詠式では大切なものは手に入らない。だけど、本当に大切なものが何なのか、それを教えてくれるのも名詠式なのかもしれないね。そしてそれが分かったならば──」
意味深なまなざしで彼は頭上を見上げた。
「君の声は、きっと彼女にも届いたはず。そうは思わないかな」
ひらひらと、雪の結晶のように地表に降りそそぐ真紅の羽を彼が指さす。
あ、あれ......真紅の......羽?
この真っ赤な羽は、あの鳥の。
......うそ、だってクルーエルさんは今も──
わたしがどうしたって、ネイト?
すぐ真上で、赤い何かが羽ばたく音。それに誘われて頭上を見上げ──
「ごめんね、お待たせ」
降り積もる真紅の羽に交じる、無数の紅い花びら。
そう、それは彼女が大好きな花だった。
「......あ............」
声が、でなかった。
代わりに、なにか温かいものが目の端からこぼれた。
「もう、なにそんな顔くしゃくしゃにしてるのよ」
優しげなまなざしをたたえたまま彼女が苦笑し、緋色の髪がふわりとそよぐ。
「だって......だってだって!」
「あーあ、泣きそうな顔しない。男の子でしょ?」
「......泣いてません」
目の端を拭い、ネイトはじっと彼女を見つめた。黎明の神鳥から飛び降り、彼女が隣に並ぶ。
「おはよう、ネイト」
小さく、小さく微笑む彼女。それだけで十分だった。
「──おはようございます、クルーエルさん」
おかえりなさい。
言葉にしなくても彼女は頷いてくれた。
「キミの声、届いたよ。だから次は、わたしがキミのお願いに応える番だね」
彼女が意識を失う前、屋上で交わした細やかな願い。
〝いつか、一緒に詠ってくれますか〟
あの日あの時の、約束の続き。
「......いいんですか」
夜色の瞳と、蒼碧色の瞳が重なった。
「もちろん、わたしで良ければ喜んで」
瞳の中で、彼女がにこりと微笑んだ。
彼女と背中合わせに、ネイトは広場の台座に立った。見つめ合う必要はなかった。背中越しに、相手の確かな鼓動が感じとれたから。
そして──
deus SeR la ele fears
──sheon auf dimi-l-shadirien-c-soan
YeR et dia balie tis, fert ele sm thes, neckt ele
──elma Ies neckt evoia twispeli kei
世界をしっとりと濡らす雨のように──
研究所の敷地を越え、大陸を越え、遥か彼方までもその詠は静かに浸透していった。
6
研究所、地下シェルター。
そこはオーマたち生徒にとって、必ずしも心落ちつける場所ではなかった。傷だらけの名詠士に手当をほどこす医師たち、石化した者たちの治療にあたる祓名民たち。
呻き声、泣き声、怒声もが入り混じった閉鎖空間。耳を塞いでないと自分まで胸が詰まって苦しくなる部屋だった。
「......サージェス、そっち全員ちゃんといるか」
女子が集う場所まで歩き、オーマはそこに座っていた女子の隣に腰掛けた。
本当は、そんな行動に意味はない。全員いるのは何度も確かめたこと。けれど、そんなことでもして気を紛らわせなければやっていられなかった。
「クルーエルとミオを除いたらね」
同じ事を考えたのか、隣に座るサージェスが妙に大仰な仕草で首を振る。
「そういやミオどうしたんだ」
探し物があるとティンカと共に行動しているはずの彼女。探し物ったって、こんな状況で何を探してるんだ?
「わたしも分かんない。......無事だといいんだけど」
サージェスと顔をつき合わせ、オーマは内心首を傾げた。
自分が驚いたのは、この状況の敷地を歩き回れるミオの精神力だ。頭は良いけど運動は駄目で、おっとりした控えめな性格の女子。そうだとばかり思っていたのに、まさかあんなに気丈な一面があったなんて。
──ん?
シャッターの開く音に、反射的にオーマは扉の方向へと振り返った。また誰か怪我人が運び込まれたのか、最初はそう思ったが。
「良かった、さすがに名詠生物もここまでは来ていないようですね」
扉の前に立つのは、白銀色の髪が特徴の女性医師だった。
「ティンカさん、外はどうなってますか。ミラー教師やエンネ、ゼッセル教師は?」
真っ先に口を開けたケイト教師に頷き、続いて、彼女は何かを含んだ視線でじっと自分たちを見てきた。俺......いや、うちのクラス全員を?
「みなさんにお願いがあるんです。多少の危険を冒すことになりますが、シェルターを出て外の中央広場に来て頂きたいんです」
「広場に来いって、どういうことですか」
訝しげなまなざしで訊ねるサージェスに、ティンカは優しげな表情を崩さぬまま。
「ミオさんからの伝言です、『みんなにお願いしたいことがあるの』って」
ミオの?
「だけど、シェルターの外はどうなってるんですか。多少の危険とは?」
続けざまに問い詰めるケイト教師を、真正面から彼女が見つめ返す。
「そのままの意味です、みなさんが避難した時から、今も事態は解決していません」
「そんな状況で──」
「ですから、事態を解決するための、最後の大仕事をみなさんにしてほしいんです。......あら、もう始まってますね」
始まる?
「耳を澄まして。この詠、聞こえませんか」
mihhiy xedia, arma-c-dowa tis
──O la laspha, yupa Lom dremre neckt lostasia U meide
詠が、聞こえた。
シャッターを閉じていても確かに聞こえる。いや、シャッターの壁に浸透するように響いてきた。
まさか〈讃来歌〉?
だがそれは、今まで聞いたどんなものとも違う、ふしぎな音色の旋律だった。
nevaliss Lor et zely Yem jas yumy, yupa solin
──zette Yer cana arcasha Loo ifex LoR zarabearc sm ferme
jes qo, et isel Lom pheno getie-l-yutie zeon lef cirkus
──Lom giris leya mihhya lef hid, ravience Stalwari
初めて聞く旋律。なのにどこか懐かしく感じる。それはもしかしたら、その詠を口ずさむ声に聞き覚えがあったからなのかもしれない。
......この声。
目を閉じてても分かる。他ならぬクラスメイトの歌声だった。
「なあ、これクルーエルの声じゃね?」
耳打ちするようにサージェスに呟くと、その彼女も無言で頷いてきた。
「うん、それにネイティっぽい声も聞こえるね」
まさかこの〈讃来歌〉を詠っているのはネイト、そしてクルーエル?
だとすれば......
まったく。あいつら厄介事を押しつけやがって。
「あー、ケイト先生?」
呆れ笑いを隠す気にもなれず、オーマは頭を乱暴にかきむしった。厄介事な気もするけど、どうも行かなくちゃいけなそうだ。それも、クラス全員で。
「なんか俺ら、やっぱり行かなくちゃいけない感じしませんか」
詠が、旋律がそう思わせる。
自分たちも、呼ばれているのだと。







ケルベルク研究所を一望できる小高い丘で──
O la laspha, elmei orator da evoia miqvy
──Hir qusi clar, Ema lef memori
O la laspha, clue phes da leya dis lucs hid zayixuy
──jes kless qusi sari lef sophit, faite lef zarabel
丘を越え、背後の森までも浸透していく交響歌。
「アマリリス。なるほど、それがクルーエル・ソフィネットと共に出した答......『clue-l-sophieneckt』ではなく、『co lue -l-sophie nett』を選んだのか」
かぶっていたフードを外し、シャオが濡れる黒瞳を細めた。
「やれやれ、どこぞの馬鹿娘もこれくらい上品に歌でも嗜んでくれればな」
鎗を地に刺したまま、ふてくされるようにして男が芝生に寝転がる。
「エイダ・ユンのことかい、アルヴィル?」
「あいつ絶対、俺と会ったら鎗振り回して追いかけてくるぜ? やってられるかっての」
「それもまた、好かれている証拠だよ」
アルヴィル、そう呼ばれた男がそっぽを向くように顔を背ける。だが彼の視線は、あくまで研究所を見つめていた。
「ていうかどうなってるのかね。そもそも合唱って発想自体、名詠式にはないはずなんだけどな。いや、合唱でもないか。いったいどんなことすればあんな真似ができるんだか」
meh getie memori, meh muzel hyne, opha sm EgunI lins
──Hir sinka I, bekwist HIr qusi celena poe lef wevirne spil
共に別の詠を奏でている。なのにその旋律は互いに互いを打ち消し合うこともなく、むしろ相手を補うように。
一つずつの詠は、もしかしたら決して完成度の高いものではないのかもしれない。けれど二つあるから、重なって響くからこそ、こうも胸を締めつける旋律が生まれる?
「〈全ての歌を夢見る子供たち〉......そうか。イブマリー、伝えるべきものは伝えていたというわけか」
目を細めるシャオに、長身の男はやおら芝生から上半身だけを起き上がらせた。
「ったく、お前が手伝えっていうからわざわざ一緒にミシュダルを追って来たってのに。どうすんの?」
すると、訊かれた当人は返事の代わりにそっと微笑んで。
「うん。あえて言うなら、もう少しこの詠を聴いてたいな......羨ましいくらい綺麗な詠だ。自分にはあんなに優しい詠はできないよ」
「これまた控えめなご発言で、それじゃ俺ら何のために来たんだか」
「そうふてくされないで。ちゃんと理由もあるんだ」
口元の笑みを消し、シャオの黒瞳が研究所をじっと映し出す。
「かつてアマリリスは力で以て敗者の王を封律した。だがその一方で、力という一方的な歪みゆえミシュダルという敗者は諦めなかった」
力による支配は繰り返しを描く。真精という力に抑圧された者は、復讐心からまたそれを超える力を求めるだけ。
「矛盾のようにも聞こえるけどね、敗者の王という力に妄信したミシュダルを止めるのは、あの敗者より弱い者でなければできないことかもしれない。だからこそ──」
花の形状に痕の残る腕を天に向かって伸ばす。
「あの二人が、詠わなくてはならないんだ」







......なんだ、この詠は。
泉の如く地上から悠然と溢れ、そこから天上へと注がれる〈讃来歌〉。
畏れにも似た感情にミシュダルは全身をふるわせた。
zette, noel clar et yehle Weo ele
──Yer she saria stig lef xeoi, Yer zayixuy-c-olfey she ora
xshao jes medolia os qusi Yem lihit
──ifex I lostasia Loo, xshao Years neckt lostasia Loo
心の琴線を震わせ、さらに奥の深い部分へと浸透していく旋律。なのに、それは奇妙なほどの安らぎがあった。胸の内を開いて澱みの尽くを洗い流すかのような。
身体が言うことを聞かない。
命令を与えていたはずの敗者の王すら、宙に浮いたまま動きを止めていた。
──まさか、真精すらこの旋律に聴き惚れているとでもいうのか。
力の具現とでも言うべき敗者の王が、まさか、こんなたった一つの詠で?
「......ふざけるなっ、そんな馬鹿げたことがあるか!」
力に溢れた巨大な真精。
その威光に縋る自分が、これではまるでちっぽけな存在に見えてしまうではないか。
「俺は......間違ってなどない!」
レイン、お前なら────お前ならなんて言ってくれる?
ティンカに誘導されるまま、オーマは広場に続く最後の曲がり角に足を進めた。
「なんか変な気分だな」
怖いくらい周囲が静まっていた。聞こえるのは背後のクラスメイトの足音と、そして研究所内に流れている神秘的な詠だけなのだ。
あれだけ暴れ回っていた名詠生物たちが、しんと息をひそめて動きを止めていた。
......これじゃまるで、子守歌ですやすや眠ってる子供みたいだ。
それでも周囲に目を配りつつ、ティンカの背中を追って角を曲がる。建物で埋め尽くされていた視界がさっと広がった。
まず最初に目に入ってきたのは、広場の一番外側で灰色名詠生物と対峙する、端整な顔立ちの名詠士だった。枯れ草色のコートに、茶か金か判断に迷う髪色の。
「あれ、あのコート着た人って虹色名詠士の......」
伝説とも言うべき虹色名詠士、カインツ・アーウィンケル。一度トレミアの競演会で遠目に見ただけだが間違いない。
そしてそれだけではなかった。
ゼッセル、ミラー、エンネ教師。それにケルベルク研究所の副所長、エイダ。その六人が集うその中心──広場の台座の上に立ち、そろって詠う二人の姿があった。
夜色の髪に夜色の双眸をした中性的な顔立ちの少年。そして。
今の今まで病気で倒れていたはずのクルーエル。
「......クルーエル、病気が治ったのか?」
「あ、みんな来てくれたんだね!」
ガラスの瓶をいくつも抱え、金髪童顔の小柄な少女が走り寄ってきた。
「ミオ、あんた平気だったの! 心配したんだからね」
声を上げるサージェスに、ミオが普段の柔和な表情のまま頷いた。
「ごめんね心配かけちゃって。でも話はあと、みんなこれ一個ずつ持って!」
遮光用の黒い小瓶をミオがクラス全員に渡していく。ちょうど片手で持てるほどの大きさの小瓶。それをじっと眺め、オーマは首を傾げた。
「って、なんだよこれ」
「えへへ。魔法の道具だよ」
片目をつむって嬉しそうにミオが言葉をはずませる。しかしそれもそこそこに、彼女は広場に響き渡るほど大きな声で。
「みんな、今から言うこと聞いてちょうだい!」
なんだ、何をやろうとしている......?
トレミアの生徒らしき学生が次々と広場に集まり、台座の周りを囲むように輪を作っていく。その様子を、遥か上空からミシュダルは見下ろした。
何かを企てようとしているのは間違いない。この状況で何かができるとも思わないが、それでも不安材料は減らすに越したことはないはずだ。
そう、蹴散らすだけならいくらでもできただろう。そのはずなのに──
lu wi lis, orbie clar onc Yem qhaon lef paje
──Isa da boema foton doremren O hearsa neighti loar
balie pheno yun defea fel Yem nuel, nevaliss
──eposion lef hypne, eposion lef xeo, elmei jes muas defea
......なぜだっ、なぜ動けない!
唇から血が噴き出すほど強く歯を嚙みしめてなお、膝をついた状態から立ち上がれない。
敗者の王も、地上の名詠生物も、全ての詠び出されし名詠生物がその詠の旋律に打たれ、しんと静まりかえっていた。
そういえば──レイン、お前と一緒に歌ったことは、なかったな。







「クルル、準備できたよ!」
広場の中央に立つクルーエルに向かい、ミオが両手を振って合図する。〈讃来歌〉を詠いながら、クルーエルがミオに向かって頷いてみせる。
そして──
da vequ uc solitie xin, shadi kaon, nevaliss
クルーエルは、空を仰ぐように両手をいっぱいに広げた。
優しい風が吹いた。無数の紅い羽が彼女を包み込む。それはまるで、競演会で彼女が見せた名詠の続きであるかのように。
緋色の花の花弁を両の手のひらにそっと載せ、クルーエルが祈るように手を合わせて瞳を閉じる。そして次の瞬間。
Ze la Selu ora elmei sophie doremren
無数の紅い羽が赤光を放ち、そこから眩いまでの炎が生まれた。
「......っ、何だ?」
吹きこむ真紅色の風に、オーマはあやうくまぶたを閉じかけた。
竜巻のような炎の渦が広場を覆う。汗が噴き出すほどの熱量と上昇気流に、広場に積もった灰が煽られどこか遠くへ飛んでいく。
なのに、その渦の中心にいる自分たちはまるで火傷をしないのだ。そう、まるでおとぎ話にでも出てきそうな幻想的な炎だった。
──クルーエルすげえじゃねえか。
今の今まで病気で倒れていた学生にできる名詠とは思えない。てか、こんなんできるなら競演会で見せてくれよ。
「いやはや、わたしもびっくり」
珍しくサージェスまでもが溜息をつく。
「ほらぁ、サージェスもオーマも感心ばっかりしてないで! 用意はいい?」
小瓶を抱え、ミオが肩を怒らせる。
「はいはい、男子は準備はとっくにできてるっての」
「女子もだよ。ね、みんな?」
一斉に頷くクラスメイトたち。
「じゃあ行くよー! せーの」
ミオの号令で、周囲を舞う紅い風に向け、生徒たちが一斉にガラス瓶を投げ入れた。
響き渡る、ガラス瓶の割れる音。
その一瞬後に。
目の前一面に広がる紅い炎の風が、瞬く間に夜色の炎へと姿を変えた。
広場に集う者たちが歓声を上げる、その中で──
ネイトは、クルーエルに向き直った。
〝......ありがとうございます〟
詠を続けたままだから声には出せない。だけど、彼女には伝わってくれた。
〝お礼はみんなにもね。わざわざ来てくれたみたいだよ〟
片目をつむってクルーエルが微笑む。
〝さ、最後は君の番だよ〟
そっと、添えるように手を握られた。
〝だいじょうぶ。わたしも一緒にいてあげる。一緒に詠んであげるよ〟
彼女の想いに応えるように、ネイトは無言で頭上を見上げた。夜色の輝きに満ちた天上。きっと自分たちを見てくれているであろう相手に向けて。
夜色の炎が空へと昇り、輝く名詠門を形成する。
そして、ネイトは、クルーエルは、共に詠の終詩を紡ぎ終えた。
O sia Selah pheno......
──ende Wershe pridia
Miscross via-ol-dia ris──co lue -l-sophie nett
──Ive lefArmalaspha──La Selah shemaria sm neight
終奏 『あなたは詠うように微笑んで』
0
夜色の天上に輝く、星屑よりもなお煌びやかに浮かび上がる夜色の名詠門。
「なんだ、あの馬鹿げた大きさの名詠門は」
一度見ただけでは、ミシュダルをしてそれが現実とは信じられなかった。
敗者の王のものと互角、いやそれ以上?
まぶたをこすり上空の名詠門を凝視しようとした瞬間、乾いた音を立てて名詠門が光の粒となって破裂した。──名詠の終了?
思わず息を呑んだ刹那、猛烈な衝撃が全身を襲った。
「......っ!」
突風に似た衝撃波に打たれ、あやうく敗者の王の肩から転落しそうになった。慌てて体勢を立て直す。が、敗者の王はまだ衝撃の余韻で動けずにいる。
なんだ、なにが起きた?
この高度上空域。それも敗者の王が体勢を崩すほど重い一撃を与えられるような奴が、この世のどこに存在する?
地上からなんらかの狙撃? いやそんな様子はなかった。ではいったい──
視線を自分のいる高度に戻した途端、巨大な影が目の前を通り過ぎた。
「っ!」
......あれは。
夜空を滑るように疾走する一体の名詠生物。あまりに大きく雄大、畏敬の念などとうに捨てたはずの自分ですら思わず見とれるほどの威厳を備えた真精。
それは、夜色の竜だった。
1
「研究者としての不幸、ここに極まれりか」
最初に口を開けたのはサリナルヴァだった。
「敗者の王に続いてこんなとんでもない真精を見せられてしまったら、あと十年は今日を超える驚きに巡り会えなそうだ」
夜色の竜が降り立つ風圧で髪が逆立つ。
目も開けていられないほどの突風の中、ネイトは必死で目を見開いた。竜が降り立つ衝撃で地が揺れる。その真精を見上げる自分と、自分を見下ろす真精。
「あ、あの......」
目の前の存在に対しかける言葉を探しあぐね──
『ネイト、相変わらず背は伸びてないようだな』
先に口を開けたのは竜の方だった。相手は声を抑えているはずなのに、軽く呼びかけられただけで津波のように音の衝撃が押し寄せてきた。
「......アーマ?」
『なんだ、よもや我を忘れたとは言わさんぞ』
「あの、えっと、ちょっと見ない間にすっごく大きく育っちゃってない?」
『............』
なぜか沈黙する目の前の竜。あれ、なんでだろう。僕もしかして変なこと言っちゃったかな。──と思いきや。ぽん、とクルーエルに肩を叩かれた。
「気にしないでいいわよネイト、ただでかいだけの飛びトカゲだから」
『む、そのやたら挑発的な声は小娘?』
まるで気づかなかったと言わんばかりにアーマが首を持ち上げる。
「ったく、相変わらず出てくるの遅すぎなのよ!」
見上げても視界に収めきれないほどの巨体の竜。周囲の者のほとんどが緊張で自然と口を閉ざす中で、彼女だけは威勢良く声を張り上げていた。
「でも、出たからにはちゃんとそれっぽいことしてくれるんでしょうね?」
『それはネイト次第だな』
竜の三日月形の瞳が、再び自分を照らす。
「......僕?」
「君が、自分で決着をつけなくちゃいけないということさ」
沈黙を保っていたカインツが頭上の敗者の王を、そしてミシュダルを指さす。
『そういうことだ。さっさと乗れ、連中はいつまでも待ってはくれんぞ』
そう言うなり、竜は翼を勢いよく羽ばたかせた。
風の音しか聞こえない。
目が回るほどの急激な上昇に息が詰まる。数回瞬きする間に、もう地上の人は爪の先ほどの大きさになっていた。

「アーマってちゃんと飛べたんだ」
『前からうまく飛べただろう』
吹き荒ぶ突風の中、ぽつりとこぼした呟きに、竜が耳ざとく答えてくる。
「え......ちっちゃい時は確か四十秒くらいが限界で」
『何を言う。そんなはずは』
がくんと。言い終わる前に、突然に竜の姿勢が崩れた。
「──いま、ちょうど四十秒だったわね」
隣にいるクルーエルが妙に青ざめた表情で呟いた。
『むぅ、どこぞの小娘の体重が凶悪この上ないせいかもしれんな』
「なっ......、そんなわけないでしょ!」
青ざめていたはずの顔を真っ赤にして怒鳴るクルーエル。それを愉快げに眺め、竜が翼を大きく羽ばたかせた。
『それより、なぜ小娘までついてきた?』
「悪い? 最後までネイトと一緒にいるって決めただけだもん!」
『ふ、まあ構わんがな。それより摑まっていろ、多少派手に動くぞ』
直後、猛烈な勢いで竜が空中で進路を直角に切り替えた。あまりに唐突な転回に一瞬気が遠くなる。あやうく背に摑まっていた手を離しかけた。
意識を覚醒させたのは、すぐ鼻先をかすめた灰色の驟雨。
──敗者の王。
『素直に近づかせてはくれないらしい、それなりに追い込むぞ。だがネイト、お膳立てをしてやるのはそこまでだ』
「うん、ありがとうね」
僕が、決着をつけなくちゃいけない。
あの男の拠り所は絶対不可侵な存在だ。力の象徴として敗者の王を求め、学園ではクルーエルの力に興味を示し、その果てに空白名詠にまでたどり着いた。
仮にアーマが敗者の王を倒したとしても解決にはならない。単にミシュダルの信仰の対象が敗者の王から、より強い真精へと移るだけなのだから。それでは何一つ変わらない。
「ネイト」
はたと、手にクルーエルの指先が触れた。
「......ううん、ごめん、やっぱり何でもないの」
何かを言いたげなまなざしで、けれど躊躇するように彼女が下を向く。それでも、彼女の伝えようとしていたことは確かに伝わった。
「ごめんね、こんな時に言うことじゃないよね」
「──いいえ」
こんな時だからこそ、必要なのだと思う。
だから、ネイトは自分から彼女の手に自分の手を添えた。
「クルーエルさん。これが終われば、また一緒に学校に行けますね」
蒼碧色の瞳をじっと見つめる。
瞳の交叉。互いに無言で、どれだけそうしていただろう。悠久を感じさせるほど長い時の経過を感じながら。最後に。
「うん、待ってるからね!」
にこりと、満面の笑みで彼女は頷いた。
『さて、行くぞ』
敗者の王が放つ灰燼の嵐を急降下でかいくぐり、その真下から螺旋を描くように一息に上昇する。敗者の王の鼻先を竜の翼が掠め、その風圧で一瞬灰色の真精が怯んだように動きを止めた。
飛べ!
それは誰が言った言葉だろう。アーマか、クルーエルか、あるいは地上にいる誰かかもしれない。そして、もしかしたら──彼ら全員かもしれない。
背中を後押しする声に応じるように、ネイトは夜色の竜から飛び降りた。
十数メートル上から、眼下の敗者の王へ。
敗者の王が頭にかざす茨の冠へ。
茨の冠のさらに中心、そこにそびえ立つ〈孵石〉の台座へ。
光り輝く〈孵石〉。ただ一つそれだけを見据え、ネイトは息を止めたまま飛び降りた。
「馬鹿な......真精に頼らず、お前一人で敗者の王を止めようとでもいうのか!」
急速に近づいてくる茨の冠。その真下に、まさに自分が落下するであろう場所でミシュダルが迎え撃つ姿勢をとる。
「なぜだ。なぜ真精に頼ろうとしない、なぜ名詠式に頼ろうとしない!」
怒号でも雄叫びでもない。
それはミシュダルの、初めて他人に見せる本心だった。
〝名詠って、難しいものだと思う?〟
病床の母の言葉が脳裏によみがえる。
カインツさんと母さんだって、出会ったきっかけは確かに名詠式。だけどそれだけじゃなかった。二人がずっと想いを忘れずにいたのは、二人が──
〝必要なのは技術じゃない〟
〝自分にとって大切な人の存在。その人を守りたいという気持ち〟
「なぜだ、答えろ! ネイト・イェレミーアス!」
「大人は......ううん、あなたは」
真下にいる男へと、ネイトは声の限りを振り絞った。
「あなたは、大切なことを忘れてる!」
名詠式はあくまで手段。大切なものを守るための。
なのに大人はみんな、すごい真精が詠べるとか、沢山の名詠色が使えるとか、新しい触媒を見つけたとかそんなことばかり。でもそれは、名詠式そのものしか見ていない。
大切なものは名詠式そのものじゃない。
守りたい大切なものがあるからこそ、僕は、母は、名詠式を使えるようになりたかった。
「では、お前は違うというのか!」
「僕は......」
宙でぎゅっと拳を握る。慣れぬ反唱の連続で既に灼けつくような痛みが奔る自分の手。
だけど、温かかった。大好きな彼女が優しく触れた手だったから。
「僕は、大切なものを見つけたから!」
拳を振り上げる男、落下するまま拳を振り降ろす少年。
二人の姿が一瞬重なり──
着地したネイトが、赤く腫れ上がった拳を抱えてうずくまる。一方で──ミシュダルの振り上げた腕は、最後まで上がりきらぬまま動きを止めていた。
そして。
──リィィ......ィィ......ン──
澄みきった音を立て、〈孵石〉の内部に入っていたツァラベル鱗片が砕け散った。
2
静かだった。
音もなく、小刻みに身もだえするように震える敗者の王。
徐々にその身体が稀薄に透明に近くなっていく。虚像を実体化させていた触媒を失い、灰色の真精の身体が徐々に崩れて消えていく。
「......レイン。最後の最後まで、お前は俺を混乱させてばかりだよ」
振り上げた腕の先に、一瞬見えた女性の姿。
目の霞みに過ぎない。そう頭では分かっていても、ミシュダルは振り上げた拳をそれ以上先に突き出せなかった。
「まあ......こういう終わりもそれらしいな」
胸部から下が消え、肩先が消え、ただ一箇所残った敗者の王の頭部。
消滅していく敗者の王。いや、虚像の王か。
「ようやく全ての拠り所を失うことができた、か」
最後まで残った茨の冠に乗ったまま、ミシュダルは目をつむって肩をふるわせた。
顔に触れる微風。
顔を覆っていたフードが、腕を振り上げた拍子に外れていた。
「灰色名詠も敗者の王も、名詠も全てを失って......」
思えば、顔を隠すフードが外れたのと同時だった。
今まで心の内に押し隠していた、レインの顔が思い浮かんだのは。
「おかげでレイン、やっとお前のことだけを思いだせそうだ」
俺自身が覆いによって自ら顔を隠していたように......結局、お前を遠ざけていたのは俺自身だったようだな。
遥か地上を見下ろし、ミシュダルはわずかに息を吐いた。本当に小さな笑み。ともすれば自分自身すら気づかないほど小さく。だがそれは今までの歪んだ笑みではなく、一点の曇りもない純粋な笑みだった。
不意に、足下が消失した。
遥か上空から落ちていく。その中で、聞こえてきたのは風鳴りではなく、彼女がかつて口ずさんでいた名も知らぬ歌だった。
「......やれやれ、後悔してばっかりさ」
彼女の口ずさむ歌、断片しか覚えていない旋律が微かによみがえる。
〝二人で、どっかに小さなパン屋さんでも開きましょう。きっとそれも楽しいですよ〟
「あの時、気を利かせて頷いてやれば良かったかもしれないな」
〝えー、だめですよ、そんなの〟
──レイン?
きっと風の悪戯だろう。普段なら一笑に付しているところだ。
けれど今だけは......
〝ミシュダルさんがそんな優しいこと言ってくれたら、わたし逆に気持ち悪いですよ。いつものミシュダルさんじゃないって〟
「......ふっ、はは、確かにそうだな」
可笑しくてたまらなかった。腹が捻れそうになるほどに。
落下しながら、心の底からミシュダルは笑い声を上げた。何年ぶりだろう。笑い方などとうに忘れたと思っていたのに。
徐々に、地上が近づいてくる。
だらだらと回り道もしてみたが、ようやくお前の場所にいけそうだよ。
〝え、それはだめです〟
......だめだと?
〝はい。ぜーったい、だめです。死んじゃだめです。そんなこと言ってるミシュダルさん、わたし嫌いになっちゃいますよ?〟
途端、背中に何かが触れた。
地面? いや違う。もっと柔らかい、まるで羽毛のベッドのような──
『寝床にするのは百歩譲って構いませんが、羽はむしらないでくださいね』
その翼は紅く、夜空を疾走しながら燃えるような輝きを放っていた。
これは、黎明の神鳥の背中か!
『礼は、幼いあの子らに言いなさい』
横になったままかろうじて首を動かす。
夜色の竜の背に乗る二人が、じっとこちらを見ていた。
......馬鹿馬鹿しいっ、何て目で見つめてやがるんだあいつら。あんなに敵対していたのに、なぜこんな短期間で、さっきまでの敵をそんな心配そうな目で見られる?
「......これだからガキは嫌いなんだ」
『おや、余計なおせっかいでしたか?』
しばし沈黙し。
「いや......」
はにかむように、ミシュダルは首を横に振った。
〝はい。ぜーったい、だめです。死んじゃだめです。そんなこと言ってるミシュダルさん、わたし嫌いになっちゃいますよ?〟
まったく、危ないところだった。
「礼を言う、あやうくレインに嫌われるところだった」
3
地表に降り立つ黎明の神鳥、それから数秒置いて、今度は夜色の竜が地鳴りと共に着陸。それを待っていたかのように、一斉にその周囲に群がる生徒たち。
その光景を眺めながら──
「素敵な歌だったね。少し羨ましいよ」
コートの襟をそばだて、カインツはこっそり呟いた。
夜色の竜から降りる少年と少女。見守る側からは多少なりとも冷や冷やした面もあったが、とりあえずは無事だったようだ。
「ねえイブマリー、これなら安心して彼らを見ていられるんじゃないかな?」
『さあ、それはどうかしらね』
カインツの背に隠れるように佇む、少女のかたちをした透明感のある透きとおった影。
「少しだけ、あの時の恰好で会えることも期待してたんだけどね。その窮屈そうな黒いドレスなんかじゃなくて」
『......ばか、他に言うことないの?』
「うん、あったけど、君に会えたら全部忘れちゃった」
虹色名詠士の背に隠れるように佇む、少女のかたちをした影。
だがそれは、もし他人が見れば背に隠れているのではなく、さながら背にぴったりと寄り添っているように映っただろう。
「今度は、どれだけ一緒にいられるんだい?」
『あまり長くはないわよ。ネイトはアーマがついているし、今さらわたしが何か言うべきものも残ってないしね』
「......そっか」
コートの衣囊に手を入れたまま、カインツは空を見上げた。今までの自分なら、空を見上げるのではなくうつむいてしまっていたかもしれない。けれど──
......ボクも、少しだけ大人になったのかな。
たなびく雲を見つめ、カインツは小さく微笑んだ。
「それにしても今回は全て、あの二人と黒い竜に任せっきりだったね。育ての親から見て、冷や冷やした部分はなかった?」
『そんなの今に始まったことじゃないもの。それに......』
ためらうかのような口調で、彼女が続きを紡ぎ上げる。
『今わたしやあなたに頼ってしまえば、それをあの子が後悔する時がきっと来る。それはあの子にも、クルーエルさんにとっても辛いことだろうから』
それは偶然だろうか。
思えばあのアマリリスという少女もまた、それと似た危惧を抱いていた。
『......黄昏は夕暮れの始まり。真夜中の、星明かりも月明かりもない夜と向き合わなければならない時がいつかきっと訪れる。たとえその時でも、どうかあの子には歩くことを諦めないでほしいの』
すっと、少女の影がうつむくように顔を下に向けた。まるで不安に怯えるように。それは、学生時代においてもまず見せなかった仕草だった。

「らしくないよ、イブマリー」
うつむくその肩に、カインツはそっと手をのせた。
少女のかたちをした影は、触れても体温すら感じさせない。けれど、触れただけで折れそうなほど華奢でか細い肩は、紛れもなくかつての彼女を想わせた。
『カインツ?』
「子供が不安なら見守ってやればいい。それが大人としてのボクらの役割のはず。それにそもそも、ボクはあの二人ならきっと平気だと思うんだけどね」
カインツが目線で示す方向を彼女はじっと見つめ──
『......うん。そうね、そうかもしれない』
彼女の声はいつしか、安らかで優しげなものになっていた。
虹色名詠士と夜色の少女が横顔で見つめるその先に──
わいわいと騒ぎ立てる生徒と教師、そして。
その騒ぎからこっそり逃げだそうとするネイトとクルーエルの姿があった。
顔を赤らめながらも、互いにぎゅっと手を握り合ったまま。
贈奏 『始まりは、風歌うこの場所で』
1
トレミア・アカデミー。
大陸に広く名を知られるゼア・ロードフィルが創設した名詠専修学校である。
大陸中央から離れた辺境の地にありながら、生徒数千五百人を数える巨大校であり、その教育水準も大陸中央部の名門校に劣らないという評判だ。
その、とある場所で──
眩く輝く陽射しに、ほのかに黄色く染まった木の葉がさらさらと鳴った。
「......秋が近づいてきたのかな」
黒い手鞄を胸元に抱き、小柄な少年が木の葉を一枚拾い上げる。夜色の髪に夜色の瞳をした、線の細い印象の少年だ。
「あれ、まだかなあ。もうそろそろ約束の時間なのに」
まだ幼さの残る顔つきで、彼はじっと目の前の建物を眺めていた。
トレミア・アカデミー女子寮。三階建ての長方形状の建築物である。黄土色に塗られた外壁が、朝日を浴びて金色にも似た光を放っている。
じっとその玄関を見つめていると、見覚えのある女子生徒が女子寮のロビーから姿を現した。黒髪長身、運動に長けていそうな細身の身体つきをした少女。
クラスメイトのサージェス・オーフェリアだ。
「あ、おはようございます、サージェスさん」
「......やあ......おはようネイティ」
ネイティとは少年の本名、ネイト・イェレミーアスの愛称である。しかしそれはともかく、どうにも目の前の彼女は様子がおかしかった。
「あの、どうしたんですかサージェスさん? なんかいつもの元気が」
「え、だって......今日、試験なんだよ。追試なんだよ」
ふらふらと、今にも倒れそうな様子で告げる彼女。
「それはまあ、僕たち無断欠席してましたから」
ケルベルク研究所への無断訪問と、学校の無断欠席。
ケイト教師やサリナルヴァの援護もあり、クラス全員の欠席分は特別免除。ただしその条件として、クラス全員には反省レポートと追試が待っている。
「帰りの列車の中で、遊びすぎたのがまずかったわ」
ぐったりと肩を落とす彼女。
「つまり、単なる準備不足?」
「......う......ん......すぅすぅ」
「うわっ、ちょっとサージェスさん! 話しながら寝ないでくださいってば!」
ぐったりと寄りかかってくる彼女を激しく揺する。女子寮に帰ってからも遊びふけっていたのだろう。彼女の目の周りには鮮やかな隈ができあがっていた。
「ネイティ、あたしもう無理......今日は学校休むよ」
「そんなこと言わず! ほら、校舎はあっちの方角ですから、しっかり!」
「ふゅあぁぁ」
もはや正常な言葉を発する気力もないのか、怪しげな言葉を発しつつ、ふらふらと一年生校舎の方向へと歩いていく彼女。
......なんか、ものすごく心配。
呆然と頰をかき、ネイトはその背中を見送った。もし自分の手が空いているなら付き添うこともできたのだが、あいにく今日は、とある人と一緒に登校する約束があったのだ。
──まだかなぁ。
授業開始の時刻が近づくにつれ、ばらばらと女子寮から姿を見せる女子生徒。けれど待てども待てども、その中に待ち合わせの人物らしき姿はなかった。
自分が来る前に女子寮を出てしまった? いや、それはないはずだ。そのためにも、今日はいつもより二時間早く男子寮を出たのだ。二時間、こうしてずっと待っている。
......でも、本当に朝の予鈴が鳴っちゃう時間だ。
胸元から懐中時計を取り出して時刻を確認。朝のホームルームの時間まで、今すぐにここから歩いてギリギリ間に合うかどうか。
「今日お休みなのかな」
「こら、勝手に人のこと欠席扱いにしないの」
ふと。目の前、すぐ近くから声がした。それも、すごく馴染みのある。
「──え」
視線を懐中時計から正面へ。
「おはよ、ネイト」
まず真っ先に、視界に飛び込んできたのは色鮮やかな緋色の長髪だった。それからトレミア指定の白い学生服。その裾と襟部分に縫いこんだ赤の線。最後に......
「お待たせ、さ、いこっか。早くしないと遅刻しちゃいそうだね」
最後に、自分の知る、優しげな表情で微笑む彼女の顔が瞳に映った。
「はい!」
2
講義終了の鐘が鳴り響く中で──
「あー、ようやく追試も終わったね。なんか、本当に久しぶりの学校って感じだよ」
芝生に腰を下ろした恰好で、クルーエルが周囲を見回した。
「ここも、だいぶ秋が近づいてきたんだね」
色づき始めた木の葉を拾い、愛しげなまなざしで彼女がそれをじっと見つめる。
彼女と最初に出会ったのは夏の真っ盛り。
ついちょっと前に出会ったと思っていたけれど、こうした季節の移り変わりは、流れる時を感じさせた。
「誰も周りにいないというのが寂しいですけどね」
広場を見渡し、ネイトはぽつりと呟いた。
「誰もいない、か。それなら──」
にやりと、妙に悪戯っぽい笑顔でクルーエルがじっと見つめてきた。
「な、なんですか?」
「ふふ。さあなんでしょう」
返事の代わり、クルーエルが芝生にばったりと仰向けに倒れこんだ。
「クルーエルさん?」
「ネイト。約束、覚えてる? わたしが元気になったら返事を聞かせてくれるって」
目をつむったままでくすっと彼女が微笑む。
〝今じゃなくても、返事を聞かせてくれると嬉しいな〟
〝たとえば、そうだなあ──返事の期限はわたしが元気になったら、とかね〟
「あ......」
ケルベルク研究所から戻ってきて今まで、慌ただしさの中ですっかり忘れてた。
「口に出して言いづらいなら、行動で応えてくれてもいいよ?」
くすくすと、楽しそうに表情をほころばす彼女。
「こ、行動!?」
ど、どういうことなんだろう。
すると彼女は、どこか遠くを見るような瞳で。
「『おやすみ』のキスはいいや。『おはようございます』って、眠ってるお姫様にキスして起こしてくれるの。わたしね、子供の頃そんな絵本読んですごいドキドキしたことがあったの。それ、お願いしちゃだめかな」
だめも何も......
ケルベルク研究所でのことを思いだし、ネイトは思わず後ずさった。
ぼ、僕......それ、ケルベルク研究所で......あああ、だめだだめだっ、今思いだすだけでも恥ずかしいもん!
「あー、約束破る気?」
横たわったまま、クルーエルが怒ったように口を尖らせる。ただし、口調はいつもより楽しそうにはずませて。
「......うぅ、こんな場所でですか?」
「うん、人がいないうちにね」
横たわる彼女をじっと見つめる。
その唇に、ネイトは顔を近づけて──
『む、どうしたネイト、そんなに小娘に近づいて』
「ひゃ、ひゃぁっ!」
突然背中にかかった声に、ネイトは声にならない叫び声を上げた。
「ア、アアアアア......アーマ?」
ばさばさと翼を羽ばたかせる夜色トカゲ。
『うむ、どうしたそんなに慌てて』
み、見られたかな。いやでも、この様子だとアーマは気づいてなさそうだ。
「な、なななっ、なんでもないよっ!」
『む、よく見れば小娘が倒れている。おや、しかし顔がやけに真っ赤だな。むむ、今度は顔がひきつってきたぞ。これはいったい──』
全部を言い切る前に。
「こ......この......ばぁかトカゲええええ! なんて時に来てくれるのよっ!」
がばっと、顔を真っ赤にさせてクルーエルが跳ね起きた。
「あ、ネイト君。クルルもいたー。アーマと一緒に探したんだから」
通学鞄を小脇に抱え、とてとてとミオが走ってくる。

『おお、良いところに来た。この小娘がな、なぜか顔を赤くしたまま寝そべってだな』
「言うなぁぁぁっっ!」
『なっ、ちょっ、待てこむす──ぬ、ぐぅぉおおおおっっ?』
尻尾をがしっと摑み、顔を真っ赤にした彼女が夜色トカゲを盛大に振り回す。
「......あ、あの......クルーエルさん?」
激しく言い争う両者。それを「まあまあ二人とも」と間に入るミオ。
なんで、いつもこの一人と一匹は喧嘩ばっかりになっちゃうんだろ。
「あ。でも、なんか懐かしいや」
その様子を眺め、ネイトはこっそり苦笑した。
だってその光景は、一番初めに自分とアーマがトレミア・アカデミーにやってきて、初めて交わした会話とすごく似たものだったから。
──母さん、僕、この学校に来て良かったです。
視界一杯に広がる青空を仰ぎ、ネイトは深呼吸した。
うん、焦ることなんてない。
〝大好きです〟
あの夜、眠る彼女に告げた想い。それは決してその場のためだけの気持ちじゃない。
いつかどこかで、またきっと──
その時まで、その気持ちを大事に抱えていればいいんだから。
「ネイト、わたしとキミ、なんか職員室に呼ばれてるんだって」
「あれ? そうなんですか?」
クルーエルに呼ばれ、ネイトは目をぱちくりと瞬かせた。
「そうだよー、いってらっしゃい。あたしとアーマここで待ってるから」
『早く帰ってこい』
ミオ、アーマが声を揃えて言ってくる。
「うん、すぐ帰ってくるね。いこっか、ネイト」
「はい」
歩きだすクルーエルの横に並び、ネイトは歩きだした。
「クルーエルさん、僕、少し背伸びてませんか」
隣に歩く彼女を見上げると、彼女はしばし自分を見つめ──
「どうかな。あんまり変わってないかもね」
「あれ、やっぱりそうですか?」
「あはは、冗談よ冗談。帰ったら身長測ってみようか。もしかしたら一センチくらいは伸びてるかもね」
ひとしきり愉快そうに笑い、クルーエルがそっと肩をすくめた。
「わたしは別に、今のキミのままでもいいよ?」
「でも、もうちょっとだけ伸びるといいなあ」
歩きながら、つま先を伸ばして小さく背伸び。ただそれだけのことで、彼女との心の距離も縮まる気がしたから。
「あの、そういえばクルーエルさんの心の中にいた真精は結局何だったんですか?」
「えっと......それがね、わたしにもよく分からないの。でも仲直りできたっていうか、最後には納得してくれたみたい。どっかに消えちゃった」
唇に指先をあて、クルーエルの視線は頭上の雲へ。
「でも、どうやって仲直りできたんですか」
「んー、どうしよっかな。まだ内緒にしよっかな」
「あ、ずるいですー。教えてくださいよぉ」
「ふふ、女の子の心の中のことだもん。まだキミには少し早いんじゃないかな?」
とても嬉しそうに、そしてどこか悪戯っぽいまなざしで微笑む彼女。
「あ、でもサリナルヴァさんとティンカさんも気になってるみたいですよ。『ここまで騒がしておきながら肝心のことを黙秘するようなら、近々とっても楽しい人体実験に付き合ってもらおうか』って、二人して怪しげに笑ってましたから」
「......う、冗談に聞こえないからこわいのよね」
げんなりとした様子でクルーエルが肩を落とす。けれどそんな暗い仕草もそこそこに。
「でもね、その真精......えっと、自分のことアマリリスって言ってたんだけど」
彼女はさっと顔を持ち上げて。
「夢の中みたいな場所で色々言われたけど、アレが心の底から悪いって感じはしなかったの。なんだかよく分からないけど、すごくわたしのことを心配してくれてた気がする」
照れたように、微かに紅潮したその頰。
「そういう意味では、キミが言ってくれたことがやっぱり正しかったんだなって」
そう告げる彼女の表情もまた、とても安らかだった。
「えへへ、だから僕言ったじゃないですか。クルーエルさんが詠んだ真精なら、悪い真精なはずがないって」
「うん。なんかさ、今まで慣れないこと色々考えてたのがばからしくなっちゃった。わたし元々難しいこと考えるの苦手だし、しばらく頭の中を空っぽにするのもいいかなって。自分の思ったことをね、思ったまましたいの。それで全部今まで通りかなって」
両手を後ろに回し、弾むような歩調のクルーエル。その横に並びながら、ネイトも大きく頷いた。
「僕も、そっちの明るいクルーエルさんの方が好きです」
──うん、本当に、そっちのクルーエルさんの方がクルーエルさんらしいもの。
「お、同感。俺もさ、小難しいこと考えるとすげえ眠くなる性格なんでな」
──え?
突如聞こえてきた声は、ネイトのすぐ後ろからだった。
「っと、驚かせちまったか?」
振り返った目の前に、銀のネックレスを身につけた長身細身の男が飄々と立っていた。
余計な頰の肉を全て削ぎ落とした鋭利な顔立ちに、爛々と輝くどこか子供っぽい瞳。だぶついた麻色のズボンに半袖シャツ、肩までの長さの黒獣皮で織られたジャケットという出でたちの男だ。
「......僕たちに何かご用ですか?」
「んー、ご用かと聞かれたらそうかもな。ま、大した用じゃないけど」
──今の今まで、僕たちのすぐ後ろを尾いてきてた?
気配に気づくどころか違和感さえ感じなかったことに、背中に一筋の汗が流れていった。それはクルーエルも同じ、警戒するように男をじっと睨みつけている。
「用って何ですか。僕たちも別の用事があって急いでるんですけれど。それに、そもそもあなたは?」
「あー俺の名前ね。面倒だから黙秘じゃだめか? どうせ言っても分からないと思うぜ」
言葉を濁す男に、間を空けずにクルーエルが詰め寄った。
「あなた、失礼ですけど学校の関係者ですか?」
「関係者かどうかってか。そうだな......あんたらのクラスにいるエイダの知り合いの男ってことにしておいてくれ。それでいいか?」
エイダ? 男の出した名前にネイトは心の内で眉をひそめた。エイダの知り合いということは、この男もまた祓名民なのだろうか。
けれど彼女からこんな人物は聞かされたことがない。エイダの父親たる首領クラウス、長老ルーファ、その二人以外にもエイダにとって特別な祓名民が?
「ま、いいやそんなことは。どうせ俺だってここに長居する気はないんでね。とりあえずネイトとやら、うちのリーダーからお前さんに伝言があるんだとさ」
口調すら変え、劇でも演じるかのように男が悠々と諳んじたものは──
〝真言〈全ての約束された子供たち〉の目覚めは近い。もし空白の真言と向かい合う気があるならば、この世界に根を下ろす全ての真実を受けとめるだけの覚悟が必要になる〟
〝そして今、この世界でその真実に最も近い人物は、君の母親がよく知る勝者の王だ〟
真言......全ての......?
全ての真実──まるで分からない。分からないはずの単語ばかりなのに、それを聞いた瞬間から胸が突然に痛みだした。それになぜだろう、動悸が止まらない。
「......誰からの伝言ですか」
「お、てっきり知ってると思ったんだがな。お前と反対の名前の奴だよ。この伝言は謝礼だとさ。本来俺たちがどうにかするはずだったミシュダル。それを代わりに抑えてくれたことへの礼代わりだそうだ」
ミシュダルのことまで知っている? そして僕と反対の名前。まさか、あの空白名詠の詠い手の夜という──
しかしそれを口にするより先、男が唐突に背を向けた。
「というわけで俺は退散。......あーあ。ったく、敵に塩を送るどころか盛大に招待して歓迎するなんて、あの脳天気リーダーは頭のネジが外れてるんじゃないかね」
「あの、待ってください!」
立ち去ろうとする彼にネイトは慌てて声をかけた。
「ん、なんだ」
「あなたの言ってること、僕には良く分かりません。でも......誰かと対峙するとか喧嘩するとか、そういうのはする気がないですって、その人に伝えてください」
するとアルヴィルはきょとんと、驚いたような表情になり。
「へえ。お前さん、そこだけはシャオとそっくりだな」
瞬間、その表情が一変した。今までの人を食ったような視線から、面白いものを見つけた子供のような無邪気なまなざしへ。
「......そっくり?」
でもさっきの伝言を聞く限りは、自分と対峙する気ならばって──
「なるほど、シャオが気にかけるくらいだからどんな奴かと思ってたら、そういう意味での異端者か」
独り言のように呟き、男が不敵な笑みを浮かべる。
「俺はアルヴィル。アルヴィル・ヘルヴェルントだ。面倒だから言う気なかったけど気が変わった。後は覚えるのも忘れるのもお前の自由ってことで。それじゃあな」
背を向け、堂々と学園の歩道を歩いていくアルヴィルという男。
彼が立ち去ったその場所で。
「......あの人」
その場に立ち尽くした恰好でネイトはぽつりと呟いた。考えても思いだそうとしてみても、何一つ見えてくるものがない。まるで真っ暗闇を手探りで進んでいくような──
「ネイト、そんな難しそうな顔しないの!」
「い、痛っ......クルーエルさん?」
背中を勢いよく叩かれ、ネイトは慌てて振り向いた。
「さっき言ったばかりでしょ、たまには頭の中を空っぽにしましょって」
「で、でも」
「でももだってもダメ! いい?」
肩を怒らせながら、クルーエルがぐいっと顔を近づける。
「ここって、そんな重苦しいことばっかり考える場所? 違うよね」
......どういうことだろう。
クルーエルに迫られ、ネイトは反射的に周りを見回した。
「わたし、キミと一緒に歩くの本当に久しぶりなの。それなのに余計な荷物を背負って歩くのなんかつまらないでしょ?」
ちょっとだけ恥ずかしそうに、彼女がもじもじと手を差しだす。その仕草に、ようやく彼女の気持ちの全てが伝わってきた。
......そっか、僕、クルーエルさんと一緒に歩くのってそんなに久しぶりだったんだ。
トレミア・アカデミー。彼女と共に勉強し、遊び、そして一緒に歩くための場所。
「わかった? わかったら返事をしましょう」
「──はい!」
彼女が差しだすその手をネイトはぎゅっと握りしめた。温かい。でもそれ以上に、ふしぎと心がほっとする。
そう、今はまだ僕の知らないことがたくさんある。アマリリスという真精のこと、それに夜という名の人物。セラフェノ音語。空白名詠。真言。中でも特に、シャオという名前が頭の片隅から離れない。その人物とはきっといつか巡り会う。そんな気がする。
だけど──今この時だけは、そんなこと考えたってしょうがない。
余計な荷物は、今は全部ここに置いていこう。今は少しでも長く、隣にいる彼女と歩くことだけを考えていたい。
そんな小さな小さな幸せを、少しでも長く感じていたいから。
あとがき
先日、初めてデジカメを買いました。
関東周辺のどこかの森や公園にて、素人っぽい物腰で風景を撮っている怪しい人物がいれば自分の可能性が高いです。それが雨の日ならさらに可能性は三割増しといったところでしょうか(寒くない日限定)。雨の音は昔から割と好きなのです。
ちなみにデジカメをもっていない時は、傘を持ったまま森の中で意味なくぼうっと立っているのも好きでした。時間がある日限定だけれど。
......あれ、いつからこんな雨を愛する嗜好になっちゃったんだろう。
お久しぶりです、細音啓です。
『黄昏色の詠使いV 全ての歌を夢見る子供たち』、手にとって頂きありがとうございます。物語の『Episode I』の山場ということを目指して書いた今作ですが、少しでも楽しんで頂ければ幸いです。
さて、せっかく一巻刊行から一年が経ったのだからとここまでを振り返ったところ──ここまで物語を描いてくるにあたり細音が最も四苦八苦したのは、もしかしたら主人公のネイトだったかもしれないという気がしてきました。
ここまでのお話はネイトが主人公として活躍する話ではなく、異色の転入生が徐々に主人公になっていくまでの成長話......そんな雰囲気が出るよう描ければいいなとほのかな願いをこめていたのですが、書いている間はとにかく自分の実力不足との戦いで、果たしてそれができたかどうかも自分では分かりません。
けれど、それでも多くの応援のおかげで、ネイトやクルーエルも二人なりのペースで少しずつ前に歩けたのではないかと思います。
去年一年間の応援、本当にありがとうございます。あらためてお礼申し上げます。
そういえば去年ファンレターを頂いた中には受験生の方も多かったのですが、この巻が出る二月はまさに受験シーズンなんですよね。この巻が出るのは二月の下旬なので受験も終わってしまっている方が多いのかもしれないけど、ふと自分の受験時代を思いだして懐かしくなりました。
まだ受験が終わってない方も、どうか身体には気をつけてください。試験間近には睡眠時間も惜しいと思う時があるけれど、時にはぐっすり寝ることも心がけてみてくださいね。あと、風邪には要注意です!
......細音は、受験時代には覚えていたのに今は覚えてないってものがすごく多いです。受験を終えるまでの一時的な暗記と割りきっていたことが原因なのだろうけれど、やっぱりもうちょっと有意義な勉強方法をしておけばよかったと今さらながら思います。
◆近況
ところで、話題は変わりますがちょっとだけ近況を。
去年の十一月十八日放送分の「富士見ティーンエイジファンクラブ」というラジオに出演しました。内容は『黄昏色の詠使い』についてのインタビューみたいなものです。細音の放送回も富士見書房のHPからまだ聴けると思います。
し、か、し。
ここまで言っておいて今さらなのですが......もし興味のある方がいられても、できれば細音の回は聴かずにそっとしておいてもらえるとすごくありがたかったり。(......いや、単に細音がすごく恥ずかしいからという情けない理由なだけですが!)
ちなみに録音中は、その場に同席してくれた編集Kさんからは、
「細音さん表情硬いです、もっと笑顔で! 笑って! もっともっと!」
その回を聴いた知り合いの作家さんたちからは、
「あっはっは。細音さんが緊張してたの、すごくよく伝わってきましたよ?」
こんな具合。......みんなあんまりだ(涙)
とまあそれはさておき──
その時のラジオでもお話しさせて頂く機会があったのですが、この『黄昏色の詠使い』は一巻が刊行される前、あえて言うなれば『イヴは夜明けに微笑んで』を富士見ファンタジア大賞に応募するかなり前から温めていた物語でもありました。
当然、最初から最後まで──最終巻となる物語のエピローグの最後の場面、最後の一会話に至るまで、自分の中では既に明確なものが決まっています。
......と、そんなことを言うと今までのお話の全てが計算ずくであったかのようですが、実際はそんなうまいこといくわけもありません。
今まで温めていた細音の思惑も初期構想は本当に拙いもので、実際にこうして五巻までの刊行にあたっては、少しでも良い物を作り上げるために何度も何度も再構築が必要でした。
しかしなにぶん初めてのことばかり。改善することはとてもワクワクすることだけど、実際にどう修正を加えていけばいいのか途方に迷った一年でもありました。
そんな時、それを全力で支えてくださったのが担当編集者のKさん、そしてイラストレーターの竹岡美穂さんでした。今年もまたお世話になりっぱなしになってしまうかもしれないけど、どうかよろしくお願いします。
そのお二人に支えられながら何とか刊行にたどり着き、そこからは実際にこの本を手にとって下さった方々の応援がありました。家族や友人。そしてこの本を手にとってくださった方々に支えられていることを実感する毎日です。
あと、一つご報告がありまして。
『このミステリーがすごい』などでも知られた宝島社さまから二○○七年十一月に刊行された『このライトノベルがすごい!2008』にて、『黄昏色の詠使い』がランキングトップ10入りを果たしました。
トピックの中の「心がふるえた名台詞」にも取り上げて頂いてまして、そのお知らせを頂いた時は自分でもちょっとビックリしたくらいです。まだ本屋さんなどでも並んでいますので、もしよろしければこちらもチェックしてみてください。
この件につきるわけではなく常日頃のことになりますが、あらためて、温かい応援を頂き本当にありがとうございます。
こうした多くの応援もありまして『黄昏色の詠使い』は、一巻が刊行される前から思い描いていた最後の物語まで、なんとか頑張りたいと思っています。
そして、次の巻のことを少しだけ──
次の六巻は隔月刊行となる、二○○八年の四月刊行となるよう執筆中です。
この五巻が終わった後でどんな内容になるのか気になる方もいらっしゃると思いますが、肝心の中身はというと全八話からなる構成となっています。
《VI巻予告》
◆赤奏『あなたに贈る小さな黒歌(月刊ドラゴンマガジン二〇〇七年二月号増刊ファンタジアバトルロイヤル掲載)』
◆緑奏『探せ、そいつはあたしのだ!(月刊ドラゴンマガジン二〇〇七年八月号掲載)』
◆青奏『アマデウスを超えし者(書き下ろし)』
◆白奏『花園に一番近い場所(書き下ろし)』
◆黄奏『走れ、そいつはあたしのだ!(書き下ろし)』
◆虹奏『また会う日までの夜想曲(月刊ドラゴンマガジン二〇〇七年九月号掲載)』
◆??『──────(書き下ろし)』
◆??『──────(書き下ろし)』
今まで登場機会の少なかったネイトのクラスメイトの話とか、あまり描くことのできなかった学園のほのぼの日常に、大騒ぎの大暴れ話など、トレミア・アカデミーでのちょっと変わった学園生活が盛りだくさんの内容になってます。
そしてもちろん、六巻としての名にふさわしい、『黄昏色の詠使い』の物語の上で必須となる大切なエピソードも。
さらにはこれら短編に加え、この巻では色々と仕掛けがあります。どうかお楽しみに。
そして六巻の最後を飾る、タイトルを伏せている二つの短編ですが、これは五巻のエピローグから二か月後を描いたお話となります。
是非、実際に六巻を手にとってお確かめください。
物語もいよいよ、ネイトとクルーエルが迎えるべき最後の試練に突入します。
名詠式とこの世界をめぐる全ての謎が明らかになる『Episode II』──
と同時に、本当の意味での主人公の物語。一巻から引き継いできた大事なものを落っことさないように抱えつつ、最後まで頑張りたいと思っています。
一巻も、そしてそこから続いてきたこの五巻も、さらにはここから綴られる物語も、全ては最終話の最後の詠へとその旋律を繫げるために。
どうか最後まで、もう少しだけ、ネイトやクルーエルたちの詠と道行きを見守って頂けますように。
それでは、四月の六巻でお会いできることを願いつつ。
二○○八年 一月
細音 啓
HP 『http://members2.jcom.home.ne.jp/0445901901/』
(え、ええと......今年こそHP内の『黄昏色』解説ページも更新できるよう頑張ります)





黄昏色の詠使い
そしてシャオの福音来たり
細音 啓

富士見ファンタジア文庫
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口絵・本文イラスト 竹岡美穂


赤奏 『あなたに贈る小さな黒歌』
1
始まりは、いつだったのだろう。
わたしと彼のふしぎな関係は、いつから始まったのだろう。
初めてわたしたちが出会った日?
彼がわたしのクラスに転入してきた日?
それとも、あの日あの時、わたしが彼に贈り物をあげた、その日から?
手のかかる弟に思えることも、落ちこみがちな友人のように思えることもある。
そして、普通の学友のはずが──なんだか放っておけない、とても大切な人に思えることもある。
......あのね。わたし、今も時々考えるんだ。
わたしとキミの関係って何なのかなって。
知りたくて、でも少し、それが怖い気もする。知ってしまうことで、逆に距離が空いてしまいそうになるのが怖いから。
だから、もう少しだけこのままでいさせて。
何も考えない、ただ素直な気持ちのままで──
こうして、キミの隣にいたいから。







〝だいじょうぶ。わたしも一緒にいてあげる。一緒に詠んであげるよ〟
どれだけ時間が経とうとも──
......僕は、あの時の言葉を忘れやしない。
それはとても愛おしい、大切な過去の一欠片。
〝ネイト。これ、キミにあげる〟
誰もいない屋上で。緋色の髪を微風になびかせ、彼女は歌うように言ってきた。
〝え......ぼ、僕にですか?〟
〝ここにはキミしかいないよ〟
くすりと彼女が微笑む。
そうして彼女から手渡された物は、夜明けの空を想わせる、透きとおった空色の外套だった。
2
遠い、遥い頭上。見上げた天頂に浮かぶ白亜の雲海。彼方からも見渡せる巨大な綿雲が、風に吹かれて千切れゆく。
とある学舎の、その校舎の屋上。
普段、学園の生徒たちの決して訪れない場所。その場所に一人、白蒼色のローブを羽織った小柄な少年だけが、その場にぼんやりと立っていた。
ただただじっと、自分の羽織る白蒼色の上着を見つめていた。
「......今日は風が強いや」
吐息をこぼし、少年がそのローブを抱き寄せる。
まだ十二、三歳。深い夜色の髪と瞳をした、中性的な顔だちの幼い少年だ。
「あれ、もう授業始まっちゃうのかな」
鋭い風鳴り音に混じって響く鐘の音に、少年は顔を上げた。昼の休憩時間が終わり、午後の講義が始まることを報せる予鈴だ。
それから間をおかず、駆け足で階段を上る小気味よい音が響く。
その靴音は屋上の扉で止まり──
「あー、やっと見つけた!」
屋上の扉が開く音。それに続き、呆れたような、けれどどこか優しげな声が。
その声に、今まで微動だにしなかった少年が初めて動いた。
「......あれ、クルーエルさん?」
少年が振り返った先に、緋色の長髪を風になびかせ佇む少女の姿があった。
クルーエル・ソフィネット。
まだ幼げな少年に対し、こちらは十六か七。小柄であどけない少年に比べ、すらりとした背丈と端整な顔だちが印象的だ。
「ネイト。キミ、こんなところにいたんだ」
苦笑を隠すように唇をほころばせ、少女が腕を組む。
「教室にいないし、どうしたのかなって捜したんだから。早く行かないと午後の講義始まっちゃうよ」
「あ、ホントだ......もうこんな時間!」
校舎の壁面に取りつけられた大時計を眺め、その少年──ネイト・イェレミーアスは小さく悲鳴をもらした。羽織っていたローブを急いで脱ぎ、学園指定の白の制服へ。
「キミ、もしかして昼休みずっとそれ着てたの?」
「はい」
にこりと、はにかみながら頷いた。
白蒼色のローブ。ほんの一週間ほど前、他でもない、目の前の彼女から贈られた物だ。
「夏の時期は普段なかなか着られないけど、屋上は風が涼しいですから。せっかくクルーエルさんからもらった物だし、なるべく着ていたいなって」
「......まあ、プレゼントした方としては、喜んでもらえて嬉しいんだけどね」
恥ずかしげに、クルーエルが頰をかく。
「でも、講義中は制服じゃないとだめよ」
「......やっぱりそうですよね」
普段の講義中は学生服が義務づけられている。小さく溜息をこぼし、ネイトは抱えていたローブを見つめた。
「ほら、行こうよ。もう午後の補講始まるから。早く校庭行って場所探さないと」
補講──暦上は既に夏期休暇。しかしこの学園においては、最初の一週間は補講という名目で普段どおり講義が行われている。
「あれ、午後の講義っていつもの教室じゃ?」
「担当の先生が急用で来られなくなったの」
振り返り、緋色の髪をクルーエルが指先ですっと梳る。
「だから今日は実習に変更。みんなそれぞれ、校庭に出て名詠の練習なんだって」







「ミオ、確かここら辺に場所取ってるって言ってたんだけどな......あ、いたいた」
クルーエルが指さすのは校庭の隅だった。背の高い木々が生い茂る日陰、その下の芝生に、ぽつりと腰を下ろしている少女の姿。
「お。やっと来た、ネイト君遅いー」
「ご、ごめんなさい」
手を振る少女の下へと慌てて駆け寄る。
「いい場所取れたね、ミオ」
「でしょー。午後は陽射しが強いから日陰がいいなって、昼休み終わる前から死守してたんだから」
けらけらと、屈託のない顔で少女が笑う。
ミオ・レンティア。自分と同じほどの背丈とそれに比例する童顔、あどけない口調が特徴の少女だ。クルーエルと同じ十六歳なのだが、それよりだいぶ幼く見える。
「ごめんなさいミオさん、遅れちゃって」
「気にしない気にしない。どうせ昼休みもやることなかったからね。さて、名詠の練習さっさと済ませちゃおっか」
鞄から数本、透き通った緑色の液体が入ったフラスコをミオが取りだした。
トレミア・アカデミー。大陸の端に位置する、生徒数千五百人を数える専門校だ。この学園に通う生徒たちは皆、名詠式と呼ばれる技術を習得することを目指している。
自分が望む物を心に描き、自分の下へと招き寄せる転送術。それが名詠式である。その術式の過程で詠びだす対象の名前を賛美するという形をとることから、名を詠う──つまり名詠式という名がついたとされている。
そして、名詠式の特徴の一つが『色分け』だ。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。
可視光線の基礎となる七色の中から四色、そしてそれに白を加えた五色。通例、名詠式は五色の音色から成り立つとされている。
「その触媒自分で作ったんですか?」
「えへへ、綺麗でしょ。ミントとかライムの皮とか色々混ぜてみたの」
フラスコの液体を地面に、そして両手に付着させていくミオ。
「えーっと、誰からやる?」
こちらを見回すミオに、クルーエルが苦笑気味に肩をすくめてみせた。
「せっかく触媒作ったんでしょ。ミオから先やっちゃっていいわよ」
「えへへ、じゃ、あたしからね」
芝生に立ったまま目を閉じるミオ。校庭に舞う微風に、少女の白の制服がふわりと揺れる。その襟元に引かれた緑のライン。このラインが、名詠式における生徒の専攻色を示す。
赤い花、緑の葉など、人が目で捉える『色』の正体は可視光線の波である。可視光線の波長で色を認識──ならば、同色の物質同士は同種の光の波長を有していることになる。名詠式は、この同波長の可視光線を共通項として利用するのだ。
『Beorc』を専攻とするミオならば、今彼女が用意している緑溶液のように、何か緑の物を触媒として緑の対象を詠びだすことになる。
「ミオ、こんな暑いのに張りきってるね」
額の小汗を拭い、クルーエルが腕を組む。
......ミオさん、何を詠ぶんだろ。
芝生にそっと腰を下ろし、ネイトはじっとその様子を眺めた。
3
「......あちゃー、失敗だよぉ」
緑の液体に濡れた手を拭いて、あっけらかんとした面持ちでミオが溜息をもらした。
「ミオ、何詠ぼうとしてたの」
その一部始終を眺め、クルーエルは首をかしげた。彼女の名詠を見るに、どうも普段と違うような気がしたからだ。
「ただの野花だよ......詠ぼうとしたのは、それで作ったネックレスだけど」
照れくさそうに笑う本人。
──やっぱり、ミオにしては珍しいわね。
普段彼女が好んで詠びだすものはカメやカエルといった小動物だ。それと比較した時、そこらに群生している野花の名詠自体は決して難しくはない。ただし普通の野花ならともかく、それをさらに加工した物となれば、その難易度は跳ね上がるとされている。
「どうしてネックレスなの」
「え? いやぁ、別にぃ」
そっぽを向いてはぐらかすミオ。
......まったくもう。そういえば、案外この友人は秘密主義者なのだ。
「ん、ところでネイト君?」
彼の制服の襟元。黒色の線をミオが見つめる。
「ラインほつれちゃってるよ」
彼女がそれとなく指さす先。制服に縫われた黒のラインの端がとれかかっていた。
「あ、あれ?」
初めて気づいたのか、驚きの声を上げる彼。
「ネイト、これ自分で縫ったの?」
反射的にそう訊ね、しかしクルーエルはすぐさま自分の発言を悔やんだ。
──そうだ、ネイトに両親はいないんだ。
数週間前に学園へ転入してきたばかりの彼。元々は孤児院に預けられており、そんな彼を預かり育てた母親も、一年前に病に倒れている。
だから、ネイトは自分でこのラインを縫ったに決まってる。
「......僕こういうの苦手なんです。あんまりやったことなくて」
袖のラインも縫い目が粗い。ほつれかかった糸に、無理やり縫い合わせたような跡──苦労したのが手に取るように伝わってくる。
「頑張ったんですけど......でも難しいです。そもそもお裁縫なんて、ほとんど母さんから教えてもらってなかったし」
沈んだ声音と共にネイトがうつむく。その表情に微かに混じる、寂しげな陰。
両親も兄弟もいない。学園の宿舎に帰っても独りぼっち。誰も彼の服を直してくれる人がいない。そのことを、彼のその表情が何より鮮明に伝えてくる。
──しょうがないなぁ。
「ネイト、その制服ちょっと貸して」
小さく吐息をこぼし、クルーエルはネイトに手を伸ばした。
「襟のラインのところ、わたしでよければ直してあげる」
「あれ、クルル裁縫得意だっけ?」
ううん──ミオの呟きに、クルーエルはあっさりと首を横に振った。
「うまいわけじゃないけど、でもそれくらいならしてあげられるかなって」
「え、で、でも。ご迷惑じゃ」
焦ったように少年が手を振ってくる。
「すぐできるよ、今の講義時間中にこっそりやっちゃえばいいし」
「......ご、ごめんなさい」
「ううん、謝らなくていいってば。裁縫道具借りてくるからちょっと待ってて」
口早に告げ、クルーエルは校舎の方向へとつま先を向けた。







「ネイト君、なんか元気ないね」
ネイトがぽつんと芝生を眺めていると、隣に腰を下ろしたミオがじっと横顔を覗きこんできた。
「......なんか僕、いつもクルーエルさんに迷惑かけてばっかりです」
転入してきた初日からずっと、自分で申し訳なく思えるくらい、彼女は隣にいて自分を気遣ってくれていた。
名詠の練習に付き合ってもらったり、転入してすぐ、学校の案内をしてくれたのもクルーエル。白蒼色のローブをもらったのもそうだ。
「んー、まあクルル面倒見がいいからね」
腕組みし、にこやかな表情でミオが微笑む。

「ネイト君もまだ転入したてだしね、クルルも放っておけないんだよ。ありがとうって言ってあげれば、クルルはそれで十分だと思うな」
「......はい」
彼女は恩に着せるような人じゃない。それは自分でもよく分かってる。だけど、だからこそ僕だって彼女のために何かしてあげたい。ずっとそんな気持ちが頭から離れない。
「──そういえばミオさん、珍しいですね」
「うん?」
「ほら、名詠の練習する時は、いつもカメとかカエルとかの練習が多いのに。今日は野花のネックレスだなんて」
ああ、あれかぁ。そう呟き、ミオがどこか楽しげに頭上を見上げる。
「ほら、プレゼント用に目の前で詠べばクルルもびっくりするかなって思ったの。『誕生日おめでとう』ってね」
「......誕生日? 誰のですか?」
すると。ぽかんとした表情でミオは目を丸くした。
「あれ。ネイト君、クルルの誕生日もうすぐだって知らなかった?」
──クルーエルさんの、誕生日?







「無理言ってごめんね。じゃ、ちょっとだけ借りていくから」
受け取った裁縫箱を携え、クルーエルは手芸部の友人に手を振った。
「はいはい、ゆっくりでいいよ。ところでさ、ほつれた制服のライン直すの? 見た感じ平気そうだけど?」
「わたしのじゃないわよ。ネイトの制服」
「あー、彼かぁ。裁縫を代わりにやってあげるなんて、お姉さん役も大変ね」
にやにやと楽しそうな笑顔の友人。
まったく、何を言いだすかと思えば。
「......ちがうよ」
口早に答え、クルーエルはそっぽを向くように背を向けた。
「んじゃ彼氏と彼女? あらクルーエル、転入間もない子を早くも気に入っちゃった?」
「だから、そんなんじゃないって」
呆れ半分に手を振り、部屋を後にする。そのまま足早に校庭へ戻ろうとして──
ふと。自分でも意識せぬままに足が止まっていた。右手に、裁縫箱を抱えたままで。
......わたし、何をムキになってるんだろう。
空っぽの左手が、ふるえていた。彼氏と彼女?
制服の、ほつれたラインを直してあげる。ただそれだけじゃないか。ただそれだけの行為で......わたしたち、恋人とかそういうのに見えるのかな?
今までずっと一緒にいて、わたしはそんなことを意識したことがない。意識したことはないけれど──
......なんだろう、変な感じ。
胸が熱いわけでも苦しいわけでもない。だがそれでも、ただただ無意識の内に、クルーエルは自分の胸に手をあてていた。
「わたし......」
──わたしはただ、応援してあげたくて。
恋人とか姉弟とか、そんな立派な関係じゃない。自分が彼と出会ったのは、まだたった数週間前の話に過ぎない。
過ぎないけれど、でも......それでも一緒にいてあげたい。彼が、今までずっと独りぼっちだったことを知ってしまったから。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。
五色の音色から成り立つとされる名詠式。それ以外の名詠色の確立は不可能とされている。この学園にいる生徒は、必ずこの五色のうちのどれかを専攻色としているはずだ。
無意識的に、クルーエルは襟元の自分のラインに触れていた。『Keinez』の専攻を示す赤色のライン。自分と同じ襟色の子は、きっと数百人単位でいるだろう。......そう、本当にたくさんいる。
けれど、たった一人、この学校で仲間外れの生徒がいた。それが他ならぬ、まだ転入したてのネイトだった。
専攻色を示す彼の襟のラインは、黒。なぜなら彼が母親から教わった名詠は既存の五色のどれでもない、母親が遺した規定外の名詠式だったから。
──『Ezel』。
その名のとおり、黒色の対象だけを限定的に詠い招く式。母親が他界した今、誰もそんな無名の名詠式なんて知りっこない。
だけど、だからこそ。母親の残した名詠式を完成させるため、ネイトはたった独りでこの学校に転入してきて、そして頑張ってる。
「......それを聞いた時ね、わたし、素直にすごいと思ったんだよ」
誰もいない廊下。
水面に波紋が広がるように、自分の声が静かに通路を伝っていった。
「ずっとずっと頑張ってて、みんなが呆れるくらい前を向いてる。尊敬なんて言葉を使えば、きっとキミは顔を真っ赤にして恥ずかしがるんだろうけどさ」
廊下の壁に寄りかかり口元に手をあてる。思わず微笑の吐息がこぼれてしまったから。
「けどね、それは噓じゃないよ」
名詠の学校に入学して半年、クルーエルは宙ぶらりんのような半端な気持ちが続いていた。将来何がしたいかも決まらぬまま、成績が良かった分野の高等部へ通うことを選んだ。それがたまたま、名詠式だったのだ。
クラスメイトが名詠の勉強に勤しむ中、自分の進む道は本当にこれでいいのか、もっと別の道があったんじゃないのか。そう思いながらも、結局何もできずにいた。
けれど、あの日──
〝クルーエルさんの名詠、とっても素敵だったと思います〟
そんなわたしを、不器用ながら、それでも心から素直に励ましてくれたのが、あの夜色の少年だった。
あの一言でどれだけ楽になれただろう。
「......うん、噓じゃない。わたし本当に、キミに感謝してるんだよ」
今はただ、あの子の姿を見ていたい。それをそばで応援していたい。一緒にいて、わたしにできることはしてあげたい。異性だからとかじゃない。一途に頑張っている彼の姿が、純粋に素敵だと思うから。
──でもそれは、何という名前の間柄?
「それが、まだ分からないんだ」
少なくとも今はまだ、分からない。それでもなお......ううん、だからこそ。
キミの隣に、いてあげたいよ。







「......そうだったんですか」
芝生に腰を下ろしたままネイトは小さくうつむいた。まさか、もうすぐクルーエルさんの誕生日だったなんて。
「僕、全然知らなかったです」
「クルル、自分からはそういうの絶対言わない子だからね。あたしだってしつこく聞いて、ようやく最近教えてもらったの」
芝生に生えた名も知らぬ花をなでながら、ミオはにこりとこちらを見つめてきた。
「せっかくだからお祝いしてあげたいじゃない。夏休みの間に誕生日っていう子は他にもいるし、クラスの子の誕生日会をまとめてさ、学校のカフェ借りきって騒いじゃう予定も進行中なの」
お祝い。その単語に、ふと今日の彼女が名詠しようとしていた物を思いだした。
「そっか......だからミオさん、野花のネックレスを練習してたんですね」
「うん。でもやっぱり難しくてさ。野花のネックレスは来年にとっておいて、今年は普通に何か買ってこようかな。ネイト君、今度一緒に買いに行く?」
はい。反射的に頷こうとして──だが、喉元まで出かかった言葉を押し戻した。
「......えっと」
しばし黙考し、ややあって、ネイトはミオから視線を逸らした。
「あの......少し、考えさせてください」
その視線の先、小走りで戻ってくるクルーエルの姿があった。
4
二日後──
「ねえねえ、ネイト君。クルルと一緒に買い物行くんだけど、一緒に来ない?」
ネイトが講義が終わり帰り支度をしていると、ミオに肩を叩かれた。
「買い物って、今からですか」
「ほら、クルルの誕生日プレゼント買いに行くの。だからネイト君も一緒にどう?」
背後の当人に気づかれぬよう、ミオが小声でささやいてくる。
「あ、ええと......」
慌てて、ネイトは鞄を持つ手を背後に隠した。
「ネイト? どうしたの」
真正面からこちらを見つめてくるクルーエルをじっと見上げる。
「あ、あの。僕、ちょっと用事がありまして......帰らなくちゃいけなくて」
「──あのさ、ネイト?」
すっと、緋色の髪をした少女がこちらの顔を覗きこんできた。
「そういえば昨日も一昨日も早く帰ってたけど、何かあるの? 困ったことがあるなら相談にのるよ?」
「い、いえっ。その......ごめんなさいっ!」
そう告げ、彼女からの返事も待たず、ネイトは教室を飛びだした。
「......ネイト?」
驚いたような声を上げるクルーエルから逃げるように、廊下を駆け抜けた。
トレミア・アカデミー敷地内、ショッピングエリア。
クルーエルがミオに連れられて入ったのは服飾品店だった。名詠の触媒として効果の高い宝石から、純粋な装飾用品までが取り揃えてある。
「あ、このブローチかわいい! しかも値段もお手頃だし」
ショーケースに手をつきミオがじっと見つめるのは、涙の結晶を模した形のアクセサリだった。優しい曲線と楕円を組み合わせた柔らかなデザインが見た目に心地よい。
「あ、ほんとに素敵ね」
「でしょでしょ。クルルは、これの青と緑どっちが好き?」
「買うのはミオだから、ミオの好きな色でいいと思うけど」
が、勢いよくミオは首を横に振って。
「えー、だめ。クルルの好きな色言ってよ!」
わたしの好きな色って言われてもなぁ。
「わたしだったら......このピンクかな。温かい感じがしていいなって」
「ほうほう。よし、これにしよう! すいませーん、このピンクのブローチください!」
「ちょ、ちょっとミオ! 本当にいいの?」
「えへへ、いいのいいの」
......まったくもう。ミオが買う分なのにわたしが決めちゃって本当にいいのかな。
けれど、クルーエルはそれ以上はミオを追及できなかった。一つだけ、気になって頭から離れないことがあったから。
──ネイト、どうしたんだろう。
ここ数日、なにか隠し事でもあるかのように放課後すぐどこかへ行ってしまう。
困ったことがあるなら相談してくれればいいのに......キミ、いったいどうしたの。







トレミア・アカデミー。男子宿舎寮──
ぽつりと浮かんだ回想に、ネイトはふと顔を持ち上げた。
〝ネイト、どうしたのいきなり〟
今ではとうに聞き馴染んだ声。
......そういえばクルーエルさん、あの時は珍しく、ふしぎそうな声だったっけ。
〝ええと、ちょっと探し物です。あれ、どこだっけあの本〟
うずたかく積まれた荷物を片っ端から移動させる手を休めぬまま、あの時の自分は半ば反射的にそう答えた。数週間前の会話のはずなのに、もう何年も経過した昔のことのように思えてしまう。
この学園に転入した数日後のことだ。クルーエルは、自分の引っ越しの荷物を一緒に片づけてくれた。
〝あの本?〟
〝......母さんが遺してくれた本です〟
紐で結わえられた荷物を片っ端からほどいていく。一年前、病床の母が自分のために書き残しておいてくれた、ほぼ唯一の遺産──それをどこにしまったか覚えていないことに、あの時は目の前が真っ暗になった。
「......あの時は、本当に焦ったんだよね」
荷物の山の最奥、その最上部に積まれていた箱のふたを開ける。黄土色の保護紙に包まれたその中に、表紙すら崩れかけた冬空色の薄いノート。
それを見つけたのが、ほんの二日前だった。引っ越しの片づけをしていた時は見つからなかった。なのに、なぜ今になってこうもあっさり見つかったのか。
改めて問われれば、それはきっと言葉にするのもおかしいくらい単純な理由。
〝誕生日って、誰のですか?〟
〝あれ、クルルの誕生日もうすぐだって知らなかった?〟
──本当に大切な物は、大切な時にならないと見つからないんだね。
あれから、もう二日。
「......ねえ母さん。母さんが僕の誕生日をお祝いしてくれたこと、母さんは覚えてる?」
一年前、病に倒れた母。今はもう独りだけの部屋で、けれどそれでも、ネイトはそっと言葉を続けた。
夢のように豪華な贈り物も、テーブルを埋めつくす贅沢な食事もない誕生日。けれど、母から受け取った物は今なお決して霞むことのない、とても可憐で素敵な物だった。
あの時、母がくれた贈り物は──
「母さんがあれを見せてくれた時、本当にすごいと思ったんだ」
ベッドの脇の小さな小さな本棚に手を伸ばす。そこに置かれた本はわずか一冊。
「だから......」
一枚ずつ丁寧にページをめくる。全体の半ばまでページを越えたところで、ページをめくる手をふと止めた。本に挟まれた、小さな栞がひらりと落ちる。
家の前に咲いていた花を摘み取って母が作った手製の栞。
......ずっとずっと。トレミア・アカデミーに転入してから、僕はクルーエルさんに迷惑をかけっぱなしだった。名詠の練習で失敗して、だけどそれでも、彼女は笑って声をかけてくれた。土地勘もなく友人もいない学校に来て、でも寂しくなかった。
──一緒にいてくれる人がいたから。
「だから、僕もクルーエルさんに同じ物を贈りたいんだ」
いまだ記憶に新しい、競演会。
学校の生徒たちが自分の名詠を披露する、楽しい発表会のはずだった。けれどあの夜に、それが一瞬にして悪夢のような惨劇へと変わり果てた。全てが炎に包まれた学園。泣き叫ぶ人、逃げまどう人、傷ついた人。
でも、その中でただ一人。自分のそばにいて、自分を励まし続けてくれた人がいた。
「だから、今度は僕が頑張らないと」
──クルーエルさんに、少しでも喜んでもらいたいから。
栞の挟まれたページをじっと見つめたまま、ネイトはゆっくりと立ち上がった。
5
誕生日会、当日。
ミオに引きずられるまま、クルーエルは学園の敷地を歩いていた。一年生校舎を越え、二年生校舎。ココア色に塗られた屋根が見えてくる。学生が頻繁に利用する喫茶店だ。
「ミオ、だからわたし今日お金ないってば」
何度もそう言ってはいるのに、どうにもこの友人は摑んだ手を放してくれない。
「えへへ、いいからいいから」
にこやかに告げてくるミオ。
......あれ?
カフェのテラス部分まで足を進め、ふとクルーエルは眉をひそめた。普段なら他学年の生徒も含めて賑わっているはずが、席に座っているのは自分のクラスメイトたち。いや、それだけじゃない。テーブルも椅子も、綺麗なリボンで飾りつけられてる。
「お待たせ、今日の主役つれてきたよー」
クラスの友人に目配せし、にわかにミオが声を張り上げた。
今日の主役......? まさか。
パーティー会場となったテラスで、クルーエルは周囲を眺めた。
「......いつ準備してたの」
何十と鳴り響くクラッカーの音。それに、ほぼ全員分のクラスメイトの姿。ううん、それだけじゃなく、クラス担任であるケイト教師まで。
「ふふ、びっくりしたでしょ、クルル」
真横からミオに頰をつんと突かれた。
「......ミオ?」
「お祝い事はみんなで楽しむものなんだよ」
くすりと微笑み、包装紙に包まれた小箱をミオが取りだした。
「はいクルル、誕生日プレゼント。中身は......もう分かっちゃってるかな?」







暗い黎色の天上。その中に浮かぶ灰褐色の雲海。
雲の隙間からわずかにのぞく月明かりに、細い木立に困憊した様子で寄りかかる少年が幽かに照らされた。
──クルーエルさんの誕生日会、もう始まってる頃だ。
直接時計を見たわけじゃない。けれど、もう時間がないことだけは分かる。
「......でも、まだ......あとちょっと」
弱々しい吐息と共に、力ないままネイトは首を振った。
これは、これだけは諦めちゃいけない。今日一日、たとえ残された時間全てを費やしたとしても、果たして目的の名詠ができるかどうか。──それは分からない。
自分の名詠に対する感性は、母のそれに遠く及ばない。いや、トレミア・アカデミーの生徒の中でも標準の域を超えないだろう。
驚異とも言うべき素質を持ち、夜色名詠を零から構築した母。その真似をしようとしたところで、まだ自分の力量で叶うものではない。自分が一番よく知っている。
「でも、僕......」
〝だいじょうぶ。わたしも一緒にいてあげる。一緒に詠んであげるよ〟
僕は、競演会の彼女の言葉を忘れやしない。
肌をなでる風に、羽織る制服がふわりとなびく。
〝はい、ネイト。襟のラインひとまず直しておいたよ〟
〝......あ、ありがとうございます〟
〝ううん、これくらいならいつでも言ってきて。ていうか、あまり一人で抱えこまないの。何かあったらちゃんと相談すること! いい?〟
襟元に引かれた夜色の線。そのほつれは既に直っている。自分の、大切な人に直してもらった。
「まだ......間に合うよ。もうちょっとだけ......頑張らないと」
幽かに輝く月影に、こぼれた吐息が輝いた。







楽しげな騒ぎ声が響くパーティー会場で、ふと、ミオにじっと見つめられた。
「ねえクルル。今日なんかあった?」
「わたし? ううん、特に何もないけれど」
「んと、いつもよりそわそわしてるかなって」
気づかれぬよう、クルーエルはそっと胸元を押さえた。いつもと変わらぬ彼女の真っ直ぐなまなざしが、今だけは少し辛かったから。
「......だいじょうぶ、平気だよ」
できるだけ自然に笑顔をつくる。それでもなお、窓に映る自分の表情はどこか曇ったものだった。
パーティー会場と化した喫茶店の中、クラスメイトの中で一人だけ欠けた生徒。
......ネイトが、いない?
「ねえミオ、ネイト知らない?」
「パーティーのことは言ってあるよ。今日も確認したけど、『ちょっと遅れます』だって」
そういえば最近の彼は少しふしぎだった。
妙によそよそしく、話しかけても逃げるようにどこかへ走っていってしまう。今日の放課後も、彼は一人でどこかへ行ってしまっていた。
「......そう」
ぼんやりした瞳で、クルーエルは窓奥の景色へと視界を移した。
自分の誕生日会に彼が来なかったから寂しいわけじゃない。ただ、こういう楽しい騒ぎはクラスみんなで分かち合いたかった。みんなと一緒になって彼にも騒いで欲しかった。まだ転入したてだからこそ、素敵な思い出の一つになればよかったのに。
「......クルル?」
じっと見つめてくるミオに、クルーエルは慌てて手を振った。
「ごめんミオ。やっぱり、わたしちょっと捜してくる!」
「え、ちょっ、ちょっと......クルル?」
返事も返さぬまま、賑やかなテラスに背を向けた。
6
とさっ。
小さな小さな、芝生に何かが倒れる音。
......あ......れ......?
ゆっくりと、うつぶせの姿勢のままネイトは瞬きを繰り返した。
僕......空、見てたはず、だよね......なんで......地面の、雑草が......見えるの?
つい直前まで名詠の練習をしていて、そこから一瞬意識が途切れた。気づいた時には、もう身体がろくに動かなくなっていた。
熱を帯びた身体に、土の感触がひどく凍たい。それに、なんだかとっても心地良い。
......ずっと寝てなかっ......たから、かな。
ずっとずっと、この日のために練習してた。寝る間を惜しんで、食事もろくにとってない。考えうるほぼ全てを犠牲に、最初はまるで駄目だったけど、ようやく少しは形にできてきた。だがその代償は大きすぎた。
疲弊しきった身体が、まるで腐り果てたかのように動かない。
「......起き......なくちゃ」
右手をゆっくり伸ばす。目の前の雑草を必死で摑む。けれど力が入らなかった。
「......行かなくちゃ」
待ってるのに。
──クルーエルさんが、待ってるのに。







胸の動悸が止まらない。ずっと駆け回っていたせい? それとも、別の何か?
自分にも分からない苦しさを抱えたまま、クルーエルは前方に続く路面を見据えた。
......ネイト、どこにいるんだろう。
自分たちの教室はもちろん、一年生校舎もくまなく捜した。職員室も校庭も回った。
「あとは、もうここくらいしかないよね」
学校から男子寮へと向かう小道をなぞるように歩く。
ふと──とある場所でクルーエルは歩みを止めた。背の低い木立に、短く刈りこまれた
濃緑色の野草。広場というより、どこか地方の草原を思わせる景色が続く広場。......そういえば、少し前一緒にここで名詠の練習したっけ。
〝昔母さんと一緒に住んでた家の、庭の景色に似てるんです〟
ネイトがそう言っていたのを思いだす。
「ネイ──」
その名前を呼ぶ直前、クルーエルの喉は凍りついた。暗く茂る芝生。その中央部に、誰か小柄な生徒が倒れているのが確かに見えたからだ。
うつぶせに倒れたまま、まるで微動だにしない生徒。
......まさか。
じっと目をこらす。夜色の髪をした幼顔の少年。制服の襟元には黒いラインが。
「ネイトっ?」
持っていた鞄を投げすてて彼の下へと駆け寄り、上半身を抱きあげた。
「ネイト! どうしたの! 何が──」
どれほどの時間声をかけていただろう。数十秒、もしかしたら優に数分。疲れきった様子ながら、彼がかすかに目を開けた。
「あ......クルーエル......さん?」
一瞬きょとんとした面持ちで──が、それがクルーエルと分かるとネイトはゆっくりと起き上がった。
「どうしたの、こんな場所で倒れてるなんて」
ふらふらと頼りない足つきで立ち上がり、ゆっくりと彼がこちらを見上げる。
「あの......クルーエルさん。ミオさんから聞いたんだけど、お誕生日なんですよね」
──知ってたんだ。
「う、うん。まあそうだけど」
誕生会に来なかったから、もしかしたら忘れたのではと思っていた。
「あの、それで......僕」
ネイトがゆっくり右手を差しだす。手のひらを開くのにあわせ、球形をした夜色の宝石が静かに転がった。
──黒真珠。
ただしそれは二つに割れ砕けた、もはや宝石としての価値を失ったもの。
宝石としてではない、ならばそれは。
「それ、触媒?」
クルーエルの吐息に、幼い少年がゆっくりと首を縦に振る。つまり、黒真珠を触媒にして何かを詠ぶつもりなの?
「ええと、クルーエルさん」
怯えたように、ためらうように、彼は目を背けながら。
「僕、一人じゃ不安なので......ごめんなさい、少しだけ見ててもらえませんか」
やはり、夜色名詠を試すということか。
でも。それにしても──相変わらず、キミは恥ずかしがり屋さんなんだね。
「キミが何をしたいのか分からないけど、いいよ。でもその代わり」
二の句を告げるまえに、クルーエルは彼の左手をぎゅっと摑んだ。
「く、クルーエルさん?」
驚いたように、彼が自分を見上げる。その小さな額を、クルーエルは微笑混じりにつんと突いてやった。
「そう、それでいいの。何か言う時はね、今みたいにきちんとわたしを見て言ってほしいな。そんな恥ずかしがらないで」
母親の遺した名詠を完成させるため、たった一人でこの学校に転入してきた。誰も知らない名詠、誰も教えてくれる人がいない孤独な名詠に励む少年。
「わたし別に何もできないけどさ、そばにいてあげることくらいはしてあげるから」
自分のことだけで精一杯のはずなのに、わたしを励ましてくれた。だから次は──
「だいじょうぶ。そんなに心配しないでも、一緒にいてあげるからさ。ね?」
何か言いかけ、だが彼はそのまま口をつぐんだ。言葉の代わり、摑んだ左手でそっと握りかえしてくる。──うん、それでいい。
右手の宝石をゆっくりと握りしめ、少年がその双眸をとじる。
「──Isa Yer she riena xeoi pel」
一陣の風が前触れなく通りすぎる。
「sm cele Upowe da lisya」
微風の響き? 否。
それは夜の風に流れる、細やかな歌だった。
少年が奏でる、冷たく澄みきった秘やかな旋律。ネイトの手のひらの上、小さな黒色の真珠が触媒となり夜色の光を放つ。
lor besti dimiende kele-l-lovier
Yer ririsiat,zo saria Lomfeo besti U Powe
O la laspha,luxia memorishe leya dis xeoi ole
〈讃来歌〉。
自分が思い描く物を詠び招く際に用いられる、セラフェノ音語による讃美歌だ。
触媒を携え、詠び招くものの真名を讃える。名を詠う──名詠式の名はそれが起因とされている。
O sic miqvy, O dense peg keofi,Yem lihit
Hir sinkaI peg ilmei rei
bekwist Hir qusicelena poelef wevirne spil
Isa da boemafoton doremren
ife I shecooka Loo zo via
冷たくて悲しくて、けれどどこか懐かしい綺麗な音色。
涼やかに、硝子の鈴を想わせる澄みきった声音で、少年は詠の終詩を織りなした。
O evo Lears─Lorbesti bloo-c-toge= ende dence
彼の詠が終わると同時、粉雪が風に吹かれるように、光の粒が夜の空へと舞い上がる。
音もなく、地へとこぼれ落ちる黒真珠。
それを追うことなく、彼はじっとこちらを見上げる。
「あ......あの......クルーエルさん。これ」
自分の手を取り、彼はその手のひらに何かをそっと預けてきた。
一目見て、クルーエルは目を見開いた。
──黒薔薇。
ピンク、黄色、白、赤、青。あらゆる色の花弁を持つ薔薇の中で、唯一存在しないとされる漆黒の薔薇。今自分の手に置かれたものは、この世ならぬ薔薇の、その欠片。一輪と呼ぶことすらできない五枚の花びらだった。
「これ、わたしに?」
「ミオさんに、クルーエルさんが誕生日だって教えてもらったから......」
彼の双眸は、さざ波のように揺れていた。
「ここでずっと頑張ったけど、きちんと一輪くらい詠びたかったけど......ごめんなさい、僕まだこれが精一杯で」
悲しげに、力なくネイトが頭を垂れる。
──まさか、今までずっとわたしの誕生日プレゼントのために?
彼の服はぼろぼろで、そこら中が皺になっていた。困憊しているのも目に見えて分かる。みんなが集まっていたパーティーにも参加せず。きっと、ずっとずっとこの場所で、夜色の薔薇の名詠を練習していたのだろう。
──まったくもう、無茶しちゃって。
その頭を、くしゃくしゃとクルーエルは撫でてやった。
「正直、弱ったよ。わたしね、ますますキミとの間柄が分からなくなっちゃった」
「......え?」
ぼんやりと見つめてくるネイト。だからこそ、自分もまた彼の黒瞳を見つめ返した。
「ね。キミがよければさ、二人で少しここに座ってない?」
そう言って、彼の返事を待つことなく、クルーエルは足下の芝生に腰を下ろした。
「せっかくキミがこんな素敵なプレゼントくれたんだもん。明日が来るまで、少し一緒にいてほしいな」
「素敵なプレゼントだなんて......そんな......」
恥ずかしげにネイトが口ごもる。
そのはかなげな仕草に、クルーエルはこっそり微笑んだ。
......そうだね。今は、わたしとキミがどんな関係かなんて考えなくたっていいのかもね。
「最高の贈り物よ。絶対、大切にするからね」
ただこうして一緒にいるだけで、今はそれだけで十分なんだから。
夜色の帳が覆う空。全てが黎色に染まった世界。ただ一つ、清澄な月明かりを受け──
......ずっと、大切にするからね。
少女が手にする夜色の花びらだけは、いつまでも色鮮やかに輝いていた。
緑奏 『探せ、そいつはあたしのだ!』
1
それは、近年稀に見る豪雨と稲妻に見舞われた日のことだった。
辺境の地にありながら千五百を超える生徒数を誇る大学校、トレミア・アカデミー。その敷地の一角に、ドーム状のアーチを持つ建物がそびえ立っている。
図書管理棟。研究書から一般小説まで、蔵書数実に百二十万冊を数える巨大な棟だ。その棟の地下二階、研究書の類がずらりと並んだフロアにて。
「......うそ」
薄暗いフロアの隅。埃が厚く積もった書棚の真下で、小柄な少女がかすれ声をもらした。
「なんで、こんな場所にこんな物が」
小さな両手で抱えていたのは、古ぼけた黒表紙の本だった。永い時の経過の中、触れただけで崩れてしまうほど劣化した紙。そこに記された内容すら半ば擦れてしまっている。
「......幻の......触媒」
その紙面を、少女はじっと読みあげた。
「その......在......処は────」
そこまで読み、静かにその本を閉じる。
「う......うふふ......ふふ、あはははっ!」
地上を伝わって地下まで響く雷の咆吼。
大の大人でも怯えるほどの轟音の中で、しかし少女は愉快げに笑い続けた。両手で、謎めいた黒表紙の古書を抱えたままで。
「これは、あたしの物なんだから!」
2
「それにしても昨日の雨ひどかったね」
学園の中庭に積もった木の葉。昨夜の強風に打たれて落ちた葉を教室の窓から眺め、クルーエル・ソフィネットは溜息をついた。
すらりとした上背に緋色の髪、端整な容姿を白の制服に包んだ十六歳の少女である。
「雷もすごかったですよ。一晩中鳴ってたみたいですし」
そう答えたのは、夜色の髪と瞳をした中性的な顔だちの少年だった。ネイト・イェレミーアス、本来は十六歳からの高等部に十三歳で転入してきた、まだ幼さの残る少年だ。
「わたし、おかげであんまり寝られなくて。あー今日の講義辛かった」
窓枠に寄りかかるクルーエル。
「......僕も同じく、一晩中寝れなかったです」
目の下に隈を作った少年が、こちらも箒に寄りかかる。
今日の講義はとうに終了。生徒の大半は既に帰宅したか部活動へ行ったか。残された二人は掃除当番というわけだ。そこへ──
「クルル、ネイト君! いる?」
不意に教室の扉が勢いよく開き、金髪童顔のクラスメイトが姿を現した。
ミオ・レンティア、入学当初から仲の良い女子生徒の一人だ。普段のんびりとした性格と対照的に、学園の紙上試験では学年でも最上位の成績を弾きだす秀才でもある。
しかし。その秀才であるはずの彼女の姿を一目見て、クルーエルは開いた口がふさがらなくなった。
「......ミオ? その変テコな恰好どうしたの」
学園指定の制服はいつもどおり。問題なのは、彼女がやたら頑丈そうな登山靴を装備し、頭にはヘルメット、おまけに異様な大きさのリュックを背負っていたことだ。
「二人とも、今からお宝探しに行くよ!」
一瞬の沈黙を経て──ネイトとクルーエルは互いに顔を見合わせた。
「......今なんと?」
「ほら早く! 事は一刻を争うんだから!」
クルーエルが訊ねるも、ミオは手をばたばたと振って急かしてくるばかり。
「あの、どういうことでしょう」
「これよ、これ!」
ネイトが再度訊ねると、ミオはリュックから何かを取りだした。
「昨日の暴風雨で家に帰れなくて、こっそり図書館で雨宿りしてたの。その間に図書館探検してたら、偶然これを見つけたの!」
古ぼけた一冊の本。ミオがそれを開くと同時、変色した一枚の紙切れがひらりと落ちる。
「これのこと?」
床に落ちた紙を、クルーエルは指先で摘み上げた。擦れた殴り書きのような文字をしばし眺め、音読する。
「幻の触媒、その在処を記す......?」
「そう、幻の触媒! きっと物凄く貴重で強力な触媒のはず。それを見つければ、あたしたち明日には一躍有名人だよ!」
握り拳を固めるミオをしばし眺め。
「......なにそのうさん臭い宝の地図」
クルーエルは思ったままを口にした。
「いいや、うさん臭くなんかないよ! あたしには分かる! この地図の色、ツヤ、匂い! これは間違いなく本物だよ!」
「匂い?」
「匂いは匂いだよ! カビっぽくて鼻につんと刺激、これは確実に年代物で──」
嬉しそうに語る本の虫を前に、クルーエルは両手を上げて降参の合図を送った。
「......だめ、わたし一人じゃ無理。ねえネイト、キミからもミオに何か言って」
ところが自分の隣では、触媒という単語につられた少年が目を輝かせていた。
「ミオさん、それ名詠に使えるんですか!」
......あれ? ネイトまで?
名詠式。それが、この学園で生徒たちが学んでいる専門技術だ。自分が望むものを心に描き、自分の下へと招き寄せる転送術、それが名詠式である。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。
名詠式はこれら五色の音色から成り立つとされ、生徒はこれらのうち一つを自分の専攻色とする。そして専攻色と同色の物体を詠び寄せることを最初の目標とするのだ。
「幻の触媒というくらいだし、それ使えばきっとすごい名詠ができますよね!」
「うん、もっちろんさ」
嬉しそうに声を上げるネイトに、こちらもにこりとミオが頷く。
触媒とは名詠式に必須となる道具であり、詠びだす対象と同じ色をした物質だ。仮に赤い花を詠びだそうとするには、赤い絵の具や赤い宝石など、とにかく同色の物を触媒として用意する必要がある。
「幻の触媒......それがあればきっと......この前できなかった黒薔薇も......」
ぼそぼそと、ネイトが教室の隅で独り言。
「ん、ネイト、今何か言った?」
「な、なんでもないです!」
「......変なネイト」
クルーエルが見つめると、なぜか彼は頰を真っ赤にして後ずさってしまうのだ。
「でもさミオ、そんなのそう簡単に信じ──」
「いいえ、ミオさんの言うとおりです! 幻の触媒はきっとあります!」
握り拳で声高らかにネイトが叫ぶ。なんと。なぜだか、普段おとなしくて控えめなネイトまでもが、妙にやる気に満ちていた。
「......ミオ、一応聞いておきたいんだけど、そのお宝とやらの場所は?」
訊ねるクルーエルに、ミオは自信ありげに。
「ふふふ、学校の敷地の外れにある裏山!」
「騙されてる、絶対それ騙されてるってばっ!」
「よしこれで三人。でもこの歴史的大冒険には、あと二人は欲しいなぁ」
「あ、あのさミオ? 今の部分は無視しないでほしいんだけど。ていうかその人数、わたし既に入ってない?」
抗議したものの、どうやらミオの脳内で参加メンバーは確定済みだったらしい。
「さて残るは......おーいそこの暇人二人!」
聞きようによっては挑発的なかけ声で、教室の隅にいる少女二人へとミオが呼びかける。
「ん、どうしたのミオ?」
日焼けした小柄な少女、エイダが振り返る。続いて黒髪長身が特徴のサージェスも。二人とも帰宅の準備中だったらしい。
「今から出かけるんだけど、一緒にどう?」
クラスでも指折りの遊び好き、イベント好きの彼女たち。普段なら即座に頷くはずが、だが珍しく、二人は首を横に振って。
「あー無理。あいにく優良生徒のあたしらは放課後も自主勉強があるのよ」
「そそ。ウチらくらいになると先生からの期待も大きくてさ。ほっといてくれないわけ」
ふっ、とすました横顔を向ける二人。
その拍子、目の端からほろりとこぼれる小さな涙。
「そ、それってまさか!」
その様子に、ミオが怖れをなしたかのように後ずさる。
「噂に名高い、特別選抜組に選ばれたの?」
「......うん」
がっくりと肩を落とす彼女たち。
ふと、それと対照的にネイトがぽかんとした表情で。
「ねえクルーエルさん、特別選抜組って何ですか?」
「学園名物、特別選抜組。再テストのしようもないほどの赤点だったダメ生徒だけが集まる、問答無用に最底辺な居残り組である。まさに逆エリート部隊とも言うべき──」
「ちょっとそこ、クルーエル、変なノリで解説しない!」
「あはは......やっぱり聞こえてた?」
クルーエルの呟きを聞きつけ、ガルルルと唸るエイダとサージェス。
「というわけで、いざウチらは戦場へ!」
補習用の講義ノートを抱えて彼女たち二人が背を向ける。その様子に、心から残念そうにミオは肩を落とした。
「そっか残念。せっかくのお宝探しなのに」
その途端。講義ノートを抱えたままで、ぴたりと彼女たちの動きが止まった。
「......ミオ、今なんと?」
一瞬の沈黙の後、エイダがぽつりと呟いた。
「お宝探しだよ。宝の地図を見つけたの」
「それってもしかして、見つけたらあたしたち有名になれちゃう?」
「もちろん」
すると、次はサージェスが。
「......有名になって、そしたら素敵な彼氏も見つかるかな」
「なんてったって幻の触媒だからね。名詠で理想の彼氏も詠べちゃったり......なぁんてね、あはは、これはさすがに冗だ──」
ミオが言い終わるその前に。
「さあみんな、出発の準備は整ったかしら!」
ミオ同様にヘルメットを装着したサージェスが、いつの間にやら教室の壇上で仁王立ちになっていた。
「なに? まだ準備ができてない? そう思ってわたしが部室から拝借してきたわ!」
しかもいつ用意したのか、彼女の足下には全員分のリュックと登山靴が揃えてある。
ちなみに、そんなサージェスは登山部期待の新人にして生存技能の達人だ。
「あれサージェスさん、居残り勉強は──」
「ん、ちび君何のこと?」
そう答えたのは、教室の入口で準備体操を始めていたエイダだった。その背に、彼女の身長より長い鎗が背負われている。
「エイダさん、それは?」
首をかしげるネイトに、彼女は嬉々として。
「ふっふっふ。探検には危険がつきものよ。もちろん用心棒代金は弾んでもらうからね」
そう、エイダは鎗術会期待の一年生なのだ。
「でも居残り勉強さぼっちゃって本当にいいの? 先生にあとで叱られるよ?」
クルーエルが訊ねると、二人は声を揃えて。
「ふ。素敵なお宝と彼氏のためには、先生からのお叱りの一つや二つ怖くない!」
後日──
居残り勉強をさぼったことを教師からこっぴどく叱られ、せっかくの休日に泣きながら補習講義を受ける事実を、彼女たちはまだ知らない。
「よしメンバーは揃った、いざ出発ぅ!」
「おーっ!」
目的地を目指し廊下を爆走する隊長と、それを追う副隊長と用心棒と雑用係。
その勇ましくも浅ましい姿を、ただ一人──
「......バカばっかり」
冷めた視線でクルーエルは見つめていた。







図書管理棟、一階。純白のスーツを着た、淑やかな風貌の女性教師──エンネは、偶然見かけた同僚教師の肩を叩いた。
「あらミラー、あなたがここに来るなんて珍しいね。ここにある本は全部とっくに読み終わったって言ってなかったっけ?」
ミラー。青い研究服を着用した、眼鏡をかけた知的な風貌の男性教師である。
「何か読みたい本でもあったの?」
「......いや、ちょっと探し物だ」
沈着冷静をよしとするはずの同僚が、いつになくそわそわした様子で動き回る。
「探し物?」
「ああ。俺の部屋は既に本で一杯だったんで、ゼッセルに管理を任せていたんだが......あいつ、木を隠すなら森だなんて言って、どうやらここに例のモノを隠したらしい」
「例のモノ?」
「ほら、昔俺たちがやった交換詩集──あの隠し場所を書いたメモを本に挟んでたんだ。で、その本をここの地下フロアに......」
そこまで聞いて、思わずエンネは悲鳴をもらしてしまった。
「ゼッセルの馬鹿! よりによって、アレを図書管理棟に?」
「騒ぐな、周囲の生徒に聞こえるぞ」
「で、でも......アレは見つかったらまずいわ」
エンネ、ミラー、ゼッセル。
共に幼馴染みであり今では揃って名詠学校の教師をしているが、当然彼らにも学生時代がある。数ある思い出の中、最も甘酸っぱく、そして最も思いだしたくない過去。それが三人でやった交換詩集だ。
若かりし頃の情緒豊かな感性で、赤裸々につづった詩と物語の数々。しかし大人になってあまりに恥ずかしくなったため、学園の裏山の坑道に封印しておいたのだ。
「でもミラー。地下に隠したなら、なんで一階を捜してるの?」
「──ないんだ」
眼鏡の奥、憂いを灯した瞳を向ける彼。
「徹底的に捜したが......地下はおろか、地上の階のどこにもそれが見あたらない。表向きは詩集ではなく、触媒の隠し場所と銘打っていたからな。生徒が見つけて、その本ごと持っていった可能性がある」
「そんな!......アレが生徒に知られれば」
発見された光景を想像し、エンネは背筋が凍りついた。
〝ネイト君、エンネ先生たちのアレ見た?〟
〝はい。ミラー先生があんな情熱的な詩書いてたなんて。ゼッセル先生のもすごく繊細で、僕ちょっとびっくりです。......だけど、エンネ先生のだけは〟
〝ああ、エンネ先生のはやばかったね。読んでて寒気がしたもん〟
〝僕、怖くて最後まで読めませんでした〟
もし他の教師に見つかれば──
〝ゼア学園長、今教師の間でこっそり回し読みされているアレ、御覧になりまして?〟
〝うむ。普段は物静かなエンネ君に、よもやあれほど邪悪な......暗黒精神面が──〟
「い、嫌ぁぁぁっ! 違うのっ! あれは子供時代のちょっとした好奇心なの!」
頰を真っ赤にし、エンネは周囲の目も忘れて絶叫した。
「エンネ、お前アレに何書いたんだっけ?」
「それだけは訊かないで!」
息を荒らげ、エンネはきっぱりと断った。
まずい、あれが見つかるのだけはまずい。
「ミラー、馬鹿も連れて今すぐ坑道に行くわよ。アレを見られるわけにはいかないわ!」
3
「へぇ、こんな場所あったんだ」
トレミア・アカデミーの外れにある裏山。その山にできた坑道を前に、クルーエルは驚きの声を上げた。
「うん。あたしの調べではね、この裏山って昔は貴重な金属が採れたんだって。この坑道はその名残。と言っても、トロッコとかはそのままだと危ないし、全部取っ払っちゃったみたいだね」
地図を片手に、集団の先頭をミオが行く。隊列は先頭が隊長、二番目に用心棒、三番四番が雑用係その一、その二、最後が副隊長という順番だ。
薄暗い坑道を、風変わりなピクニックのつもりで一行が進行していると。
「あ......あのぉ......」
ふと、ネイトが控えめな声音で言ってきた。
「さっきから、ものすごく暗くないですか」
「坑道だからね~」
のほほんとした口調で答える隊長。
鉱山時代の名残か、周囲には人工的に繁殖させたと思しきヒカリゴケ。蛍光色に輝くコケが周囲の壁沿いに繁殖しているのでかろうじて歩けるが、視界はかなり悪い。
「それに......なんかすごく寒いんですけど」
「そりゃー、日が射さないんだもん」
同じく当然と言わんばかりの副隊長。
「あれれ、もしかして~」
沈黙する少年を、今度は用心棒が覗きこむ。
「ちび君、怖いのかな? まさかねぇ?」
「そ、そんなことはっ......」
図星だったらしく、ネイトがぎくりと後ずさる。
「ネイト、なんなら帰る?」
もしネイトが帰るなら、自分もそれにならって帰る口実ができる。......というクルーエルの内心の思惑に反し。
「だ、ダメですっ。僕、頑張りますから!」
思いのほか、彼の意志は固かった。
「あのさネイト、最初からふしぎだったんだけど、そんなに幻の触媒が気になるの?」
「......だって......クル......ルさんに......贈り......物したいし......ごにょごにょ」
「ネイト、ごにょごにょじゃ分からないよ。ちゃんとはっきり言わないと」
「う......うわぁぁん、言えないですよ!」
「あ、ちょっとネイト、なんで逃げるの! 待ってってば......あーあ。もう、変なネイト。なんで顔まで真っ赤にしちゃってるんだろう」
坑道の奥へ消えた少年を見つめ、首をかしげるクルーエル。
そんな彼女の背後では──
「ネイティ、可哀想に」
「ていうかクルル鈍感?」
「うん。あれは攻略しんどいわ」
その光景を見守るミオとエイダとサージェスが、やれやれと溜息をついていた。
「......ふむ、なかなかに興味深い部隊編制だ」
生徒たちが坑道に入っていくのを木陰から眺め、ミラーが眼鏡の端を持ち上げる。
「運動神経はよくないが名詠知識に長けた隊長。その逆で、勉強はからきしだが抜群の運動能力を誇る副隊長と用心棒。加えて、名詠実技に教師が一目置く雑用係その一、その二。一年生ながら油断はできない相手だ」
「さすがよミラー、データ収集は完璧ね!」
最上級生を教える身にありながら一年生の情報まで網羅している頭脳役に、エンネは惜しみない称賛を贈った。
「なあエンネ、先回りしなくていいのか?」
「同感だな。俺たちならあの坑道の内部は隅々まで把握している、今からでも十分に間に合うはずだ」
まだら模様のシャツを羽織ったゼッセル、そしてミラーが坑道を指さす。
「その必要はないわ」
しかしエンネは、そんな二人に対し頭を振ってみせた。
「二人とも忘れたの? あの坑道には、最初から自然の罠が用意してあることを」
奥に進むにつれ、徐々に暗く、そして狭くなっていく坑道。足下は木の根、頭上は岩盤が露出している。
「おー、なんか冒険っぽくなってきたね。いいよいいよー、燃えてきたっ!」
登山部所属のサージェスがやたら元気になってきた一方で。
「ネイト、なんか歩きがぎこちないけど......こういう暗くて狭いところ嫌いなの?」
「昔、母さんにクローゼットに閉じこめられた思い出が......いえ何でもないです。うぅ、僕、くじけちゃだめだよ、頑張れ自分~」
クルーエルの隣を歩くネイトが、何やら必死に自身に応援を送る。と、そんな時。
「むっ、みんな止まれ!」
エイダの鋭い一喝。その直後、坑道の奥から何かがざわめく音が響いてきた。
「な、なに? 何かいるの?」
にわかに慌てるパーティーに、無数の真っ黒い何かが津波の如く押し寄せてきた。
坑道を埋め尽くす奇怪な羽ばたき音。現れたのは、数百羽にも及ぶ蝙蝠だった。
「ま、まさか吸血蝙蝠っ?」
慌てて逃げだそうとする一行。それを押しとどめたのは、鎗を携えた用心棒だった。
「ふ、この程度の蝙蝠ごときでっ!」
凄まじい鎗さばきで、無数の蝙蝠を次から次へと彼女が撃ち落とす。
「おぉーっ? さすがエイダ!」
ぱちぱちと手を叩く他メンバー。
「当然よ。さあ気を取り直して出発!」
大自然の罠をあっさり打ち破り、生徒一行の足取りは軽やかだった。
「......やるわね、あの子たち」
その一部始終を眺め、エンネは表情をしかめた。洗礼代わりの第一罠──てっきり怖がって逃げ帰ると思ったのに、まさか返り討ちにしてしまうとは。
「......おーい、エンネ?」
呆れたまなざしでエンネを見るゼッセル。
「し、仕方ないじゃないっ! そんなことより、今はどうするかを考えましょ!」
「やはり先回りするか?」
「いや、その必要はないだろう」
ゼッセルの提案に首を横に振ったのは、どこまでも冷静を信条とするミラーだった。
「二人とも忘れたか? あの地図には、念のため細工がしてあったはずだ」
そう。地図に描かれた最短経路。それには文字どおり落とし穴があった。
地図のとおり進んでいけばその途中で、地図には描かれていない落とし穴にはまる仕組みになっているのだ。地図にわざわざ描かれた最短経路そのものが罠なのである。
「そして、彼らは何の疑いもなく最短経路を進んでいる。つまりこのまま行けば確実に、彼らは落とし穴にはまるだろう」
「あ、そうね! それを忘れてたわ!」
エンネが胸をなで下ろす。
「最初の罠を突破されたことなど問題ない、全ては計算どおりだ」
きらりと、ミラーは眼鏡を光らせた。
狭く息苦しい坑道を、ミオ一行は順調に進んでいた。無言でもくもくと坑道を進み、メンバーの表情にも疲れが浮かんだ頃。
「ねえミオ、だいぶ歩いたと思うけど、まだ着かないの?」
到着する気配すらない探検に、クルーエルは先頭を行く隊長に声をかけた。
「ん~、もうすぐだと思......」
地図に目をやり、ミオが急に足を止めた。
「思......あ、あれ......むぅ」
「隊長、どうしたの?」
声を揃えて問いかけるメンバーに対し。
「あ、わかったぁ!」
陽気な声で、ミオがぽんと手を叩いた。
「にゃはは、あたし途中から道を間違えてたよ。さっきの道を曲がるのが一番の近道だったんだけど、一本奥の道を選んじゃったみたい」
えへへと、にこやかな表情で頭をかく隊長。
「......まったくもう、隊長ってば」
やれやれと腕を組むメンバーたち。
「ごめんね~。でもこの道でも行けそうだし、引き返すのも面倒だからこのまま行こうか」
狡猾に用意された落とし穴をあっさり回避し、ミオ一行の足取りは軽やかだった。
「......計算外だ」
ずり落ちそうになった眼鏡をミラーは慌てて直した。
「み~らぁぁ~?」
そんな彼を、冷たい視線でエンネが見つめる。
「俺としたことが......彼女が学年でもトップクラスの秀才であることはデータにあったが、まさか天然型おっとり少女だけが持つとされる、最強特性〈なんちゃって強運〉をも兼ね備えていたとは。まったく、これだから不完全なデータはあてにならん」
やれやれと、何やら妙に達観した仕草で頷く当人。
「......ごめんミラー、さすがのわたしも意味がちょっと分からないかも」
「気にするな、とにかくも後を追うぞ!」
慌てて走りだそうとするエンネとミラー。だがしかし。
「まあまあ二人とも、慌てなさんなって」
自信ありげに腕を組んだのはゼッセルだ。
「よく考えてみろ、この坑道のこの暗さ。ヒカリゴケもほとんどない。灯りがなければ、これ以上先には進めないはずだぜ」
「でも、生徒だって光の名詠くらい──」
言いかけ、エンネははっと目を見開いた。
「そっか、光の名詠は......」
光の名詠は名詠学校の生徒にも使えるが、それはせいぜい保って一分。その程度の寿命ではとても照明としては使えない。
一方こちらは仮にも教師。光妖精という、光が持続する高度な名詠が手持ちにある。
「今まで健闘してきたが、ここでお終いだ」
自信ありげにゼッセルは頷いたのだった。
「......あいたっ!」
不意に、暗がりの岩に靴先がひっかかってネイトが転んだ。
「ネイト平気?」
「はい、でも少し足下が悪くて......暗いし」
クルーエルの呼びかけにネイトがゆっくり起き上がる。
「確かに暗いよね。ここまでくればほとんどヒカリゴケもないみたいだし」
周囲を眺め頷くミオ。すると。
「ふっふっふ。キミタチ何を言っているのさ」
唐突にエイダが会話に挟まってきた。
「あたしたちが何を勉強しているのか、忘れたわけでもないでしょ?」
「あ、そっか! 光の名詠は基本中の基本だもんね」
あまりに初歩的な指摘にミオが照れ隠しの苦笑を浮かべる。
「光の名詠ならやっぱ白色が自然よね。というわけで『Arzus』専攻のあたしの出番! あたしが鎗だけじゃないってとこを見せてあげるわ!」
そう言って制服の衣囊に手を入れ──
「鎗だけじゃ......だけじゃ......あれ......?」
制服の至る箇所を手で探る彼女。
「──ふ。あ、あはははっっ!」
「ん、どうしたのエイダ?」
口を揃える一行に、エイダは苦笑いを浮かべながら。
「......触媒持ってくるの忘れた」
触媒は名詠に必須の道具である。たとえ講義の時間外であろうと、名詠学校の生徒ならば触媒の一つや二つは携帯するのが常識だ。
「さすがエイダ。名詠学校の生徒が触媒を持ってないだなんて普通ありえないのに」
「鎗はすごいよね......うん、鎗はすごいよ。蝙蝠を追い払った時は確かにすごかった」
「でも、ま、やっぱり勉強と名詠はダメダメですな」
「エイダさん......恥ずかしいです」
こそこそと言い合う他メンバー。
「う、うるさいっ、いいんだよ、ほっとけ!」
ぷいっと、逃げるように顔を背けるエイダ。
「よし、ここは『Beorc』専攻のあたしが」
触媒となる深緑色の木の葉をミオが取りだす。彼女はその場でそっと目を閉じて。
──『Beorc』──
緑色にほんのりと輝く発光体が名詠され、周囲数メートルが明るくなる。
「よし、これで進めるね!」
と、ミオが足を前に出したその途端。その光球はみるみるうちに光の強さを弱め、あっという間に消失してしまった。
「あ、あれ?」
「光の名詠は簡単だけれど奥が深い。十秒だけ保つ光を詠びだすのは簡単だが、五分保つ光を名詠するには一年の訓練が必要だ。あ、これ母さんの受け売りです」
その隣、ネイトが思いだしたように呟いた。
つまり今の自分たちでは到底、光の名詠を照明として名詠できないということだ。
「ん~、弱ったなぁ」
困り果てたように下を向くネイトたち。その様子を少し離れた場所から眺め──
「......ねえ、わたしちょっとだけ心当たりあるかも」
小さな声で呟き、クルーエルは控えめに右手を上げた。
「およ、クルルってば何かできそう?」
「うん。ちょっと待ってね」
ぽかんとした表情のミオに頷き、クルーエルは自分のリュックから赤い絵の具を取りだした。絵の具のふたを外し、中身を少しだけ指先に付着させる。
うん、触媒はこれで平気だ。あとは想像構築──つまり、何を詠ぶか。
心に、緋色の羽根を想い描いた。
「sheon lefped-l-clue rien-c-soan」
秘やかな詩を伴って、坑道に心地よい旋律がこだまする。
YeR be oratorLom nehhe
lor besti rediende frei-l-lishe
名詠対象を詠び招くための〈讃来歌〉。その詠に応え、赤色の塗料が触媒となって赤く輝く名詠門を形成する。
名を詠う。名詠士の名はこれが起因だ。
meh keofos da hutiagluei lue Hir sis celena Loo lins
Isa da boemafoton doremren
ife I shecooka Loo zo via
よどみなく、詠の終詩までを紡ぎ終える。
──『Keinez』──
自分たちの周囲に、真っ赤に光り輝く羽根が幾重にも舞い踊る。
「あちっ! これ光じゃないでしょ」
光に魅せられて近づいたサージェスが慌てて手を引っこめた。
「うん、炎の名詠。実は炎って、きちんと詠びだせば長い間保つのも名詠できるんだって。これなら灯りとして使えると思うよ」
「あ、そんなこと確かに本に書いてあった! 図書館の資料で見た覚えあるよ」
ミオが思いだしたように手を上げる。
「あれ? あんた図書館ほとんど行かないでしょ。なんでそんなの知ってるのよ」
ぽかんと首をかしげるエイダに、クルーエルは小さくはにかみながら。
「えーとね、この前、お前は筋がいいから、ちょっとこんなのも練習してみな──って、教えてもらったの」
「えー、ずるーいっ! 先生から?」
「うん、最上級生の『 Keinez 』担当してるゼッセル先生」
「俺の教えをよくぞここまで......見事、見事だクルーエル」
その一部始終を物陰から眺め、学園が誇る熱血教師は熱い涙を流していた。
「さすが俺の見こんだ生徒。やはりお前には赤色名詠の素質があるぜ!」
『よりによってお前かぁぁぁっ!』
エンネとミラーに盛大に怒鳴られ、慌ててゼッセルが首を振る。
「ち、違うんだ! これは本当に偶ぜ......」
「まあいいわ。とにかく、こうなってしまっては仕方ない。実力排除よ!」
「まさか、それはあの名詠か!」
エンネの決意に、普段冷静なミラーまでもが表情を変えた。
「ええ、もはや私も奥の手を出すしかないわ」
そう、あまりのグロテスクさに、エンネ自身ここ数年封印しておいた必殺の名詠だ。
「可哀想だけど......恨まないでね」
小さく懺悔するように呟き、エンネは名詠用の触媒を握りしめた。
4
狭苦しい坑道が、ふと急に広がりをみせた。
「これは......お宝間近な予感!」
ミオの言葉に全員の表情が明るくなる。だがそれと同時。
不意に、足下が大きく揺れだした。加えてゴゴゴッという地鳴りまで。
「ら、落盤?」
「いや、何か違う......なんだ、この変な気配」
ネイトの指摘にエイダが眉をひそめた。地鳴りは徐々に大きくなり、それと共に、坑道の横壁が奇妙な形に盛り上がっていく。
まるで、何かが地中を掘り進んでいるかのような......
「こ、これは──っ!」
ミオが見つめる先。何かが坑道の壁を突き破って現れた。
炎に照らされるのは、奇妙なほど真っ白い体表をした蠢く何か。四肢も顔らしき顔もない、ただただ細長いそれは──
「......イモムシさん?」
ぽつりとネイトが独り言。そう、紛れもない単なるイモムシ。だが問題は、それが全長三メートルはあろうというお化けイモムシだったことだ。
キシャァァッッ、と、何やら咆吼を上げるお化けイモムシ。
「なんかでかくて変なの出たぁぁっ!?」
悲鳴を上げつつ、鎗を携える少女の背後へとメンバーが隠れる。
「さあエイダ、今こそ用心棒の出番だよ! その凶悪無比な鎗さばきで速やかに、あのグネグネ蠢く気持ち悪いのを追っ払って!」
隊長が眼前のイモムシを指さす。
エイダ・ユン。幼少から過酷な特殊訓練を受けた鎗使い。学園では半ば遊びで鎗術会に入っているが、本気を出した時の彼女の実力は部活動という域を遥かに超越する。
「............」
しかし、なぜかエイダはいつまで経っても鎗を構えようとしなかった。
「おーい、エイダ?」
ミオに対する返事の代わり、なぜか彼女の背中が小刻みにふるえだす。
「あ、あのさ」
ギギギ、と、妙に硬い仕草で振り向く少女。
その表情は、今まで誰も見たことがないほどに引きつっていた。
「実はあたし、イモムシだけはだめなんだ」
「......お嬢さん、今なんと?」
ミオの指摘に、エイダはふるえながら。
「思いだすも恐ろしい......あれは四年前、実家でバーベキューしていた時のこと。なぜか肉の上にヤツがいて、それを知らず......」
そして、一瞬声を失ったと思いきや。
「いやぁぁん! イモムシ無理、絶対無理!」
四人を置き去りに、鎗を抱えたまま一目散にエイダが逃げだした。
「ちょ、ちょっとエイダ! 待っ──」
残るメンバーに向けて、猛烈な速度でイモムシが迫る。
「いやあぁん、あたしよりネイト君の方がおいしいよ! 狙うならネイト君だよぉ」
「ミ、ミオさん、どさくさに紛れて何てこと......って、うあぁっ、本当にこっち来たぁ!」
好き勝手に逃げる一行。
しかしその中でただ一人だけ、場に残った者がいた。
「こ、こいつは......大王雪モドキ!」
歓喜の表情を浮かべたのはサージェスだ。
「大陸奥地の秘山にのみ生息するという幻の生物! 登山に生きる者の世界では、こいつを発見し仕留めた者は英雄にも等しい! と、いうことは!」
明後日の方向を向いたまま、サージェスが目をキラキラと輝かせる。
「そうよ、ここでこいつを倒せば、登山部の次期部長は確実にわたしのもの──いえ、明日からその座に就くことだって夢じゃない。そんなわけで、わたしの大いなる目的のため、みんな協力してちょうだい!」
邪悪な笑みを浮かべたまま宣言するサージェス。
「......あのさサージェス?」
「なに、クルーエル」
「あなた最初に言ってたじゃない。お宝を見つけて有名になって、それで素敵な彼氏を見つけるのが目的だったはずじゃ」

「え? クルーエルってばいやだなぁ」
やたら嬉しそうに手を振るサージェス。
「わたしは大自然を征服することに生涯を懸けると決めた女。そのための拠点として、学園の登山部を牛耳ることは必須条件。ならば、そのためには彼氏の一人や二人っ!」
そういえばサージェスが彼氏に振られた日は必ず、彼女たちが登山に行った次の日だったっけ──そんなことを、他のメンバーは思いだした。
「うふふっ。さあイモムシ君、来なさい?」
殺意を超え、もはや愛すら感じる仕草で手招きするサージェス。その怪しさ満点な彼女を前に、幻の大イモムシまでもが後ずさる。
「え、ええと......サージェスさん?」
「なに、ネイティ」
振り返りもせずネイトに答える彼女。
「幻ってことはとっても希少な生物ですよね。それを傷つけるのは──」
「平気よネイティ。痛くなんてしないから」
すちゃっと、サージェスがリュックの中からピッケル(登山用つるはし。鋭利なため取り扱い注意)を取りだした。
「そう痛くなんか......痛くなんか......そんな、苦しませるようなことしないわよ」
「そ、そうですよね! さすが──」
「今すぐ楽にしてやるぅううう!」
「うわああっ、イモムシさん逃げてぇぇ!?」
ネイトの必死の叫びが伝わったのか、鳴き声を上げて地中へと逃げる巨大イモムシ。
「そ、そんな。私のとっておきが?」
危うく脱力しかけるのを、エンネは奥歯を嚙みしめてかろうじて耐えた。
......まだだ! まだ終わってない!
「行くわよミラー、ゼッセル! もはや直接、私たちが止めるしかないわ!」
5
「とうとう......見つけた!」
隊長が指さす方向──坑道の最奥、小さな空洞の中央部に置かれた金属製の箱。それを前に、ミオ一行は感動の声を上げた。
「やったぁぁっ!」
五人が一斉に宝箱へと駆けていく。しかし。
「待ちなさい!」
聞き覚えのある声が響いたのはその時だった。振り返り、生徒五人が目を見開く。
「エンネ先生? それにミラー先生とゼッセル先生まで?」
「あなたたち、こんな場所で何をしてるの!」
毅然とふるまうエンネ教師に対し、生徒は当然とばかり口を揃えて反論した。
「宝探しです。そんな先生たちこそ何を?」
「そ、それは......」
言いよどむ教師たち。その隙に──
「お宝取ったりぃ──!」
宝箱をミオが抱え上げていた。
「待てっ、その詩集を渡すんだ!」
「──ししゅう?」
ゼッセル教師が口走った単語に、生徒たちが一斉に目をぎらりと光らせる。
「し、しまった。思わず......」
「ゼッセル、お前って奴は」
ミラー教師が心底呆れかえるその傍らで。
「ふっふっふ、なるほど! このお宝触媒はシシュウという名前だったのね!」
隊長が、まるで的外れな推理に酔っていた。
「く、今はそれに突っこむ時間も惜しいわ! あなたたち、それを今すぐこちらに渡しなさい」
「そうはいかないもん。ネイト君、パスっ!」
駆け寄るエンネ教師に対し、ミオが一際離れた場所にいる少年へと宝箱を投げ渡す。
「ネイト君、行って、あたしに構わず!」
「は、はいっ!」
ネイトが箱を抱えて走りだそうとしたまさにその時、突然に頭上の岩盤が揺らぎ始めた。
ゴッゴゴ......ゴゴッ......
「な、何これ?」
雷鳴にも近い地鳴りに、抱えていた宝箱がネイトの腕から滑り落ちた。
「......そういや誰かさんの名詠生物、やたらめったら地盤を掘り返す習性があったな」
そんな中、青ざめた様子でミラー教師が思いだしたように口を開けた。
「この坑道、穴だらけでもう保たないぞ」
まさか、坑道が落盤で埋まる?
坑道の奥から押し寄せる、視界を埋め尽くすほど大量の真っ黒い土砂。それを見て──
「に、に、に......」
ぽつりと、誰かが言った。
頭上から次々と落ちてくる岩盤を前に。
『逃げろぉおおっ!』
初めて、生徒と教師の間に共通の意識が芽生えたのだった。
6
「──裏山は岩盤が緩んで地盤沈下」
職員室にて、怒りを押し殺したような女性の声が響き渡る。
「おまけに学園の校庭では、誰かさんが名詠したイモムシが住み着いちゃって大騒ぎ。裏山に入った生徒を止めるどころか、教師が事態を悪化させるだなんて」
大げさに溜息をついて、ジェシカ教師長は職員室に正座する教師三人を見やった。
「あなたたち、生徒の頃と何も変わってないのね。教師になって少しはおとなしくなったと思ってたのに」
何を隠そう三人とも、かつて学生時代は、この教師長に学んでいた生徒である。
「......先生、ごめんなさい」
しょぼくれる教師たちの隣では。
「あなたたち、裏山は許可なく入っちゃだめって、看板に書いてあったでしょ!」
「......先生、ごめんなさい」
同じく一列に正座したまま、担任のケイト教師に叱られる生徒五人の姿があった。
「まったく。幻の触媒だなんて、そんなのあるわけがないでしょうに」
「違うんです! あたしたちは本当に見──」
ミオが必死に弁解しようとする前に。
「いい加減にしなさい! 特に主犯のミオ、反省レポートの覚悟はできてるわね!?」
「い、いやぁぁっ!」
ちなみに、この一週間後。
今度は学園全体を巻きこんで、第二次・幻の触媒『シシュウ』争奪戦が勃発することになる。でも、それはまた別のお話。
青奏 『アマデウスを超えし者』
0
これは、我に襲いかかった突然の事件を描いた話である。
数多の名詠生物の中でも最雄を自負する我をして、恐怖のどん底に陥れた最恐の物語だ。
先を知りたくば心して......ん? ちょっと待てだと?
お前、誰? だと。
まさかとは思うが、我を知らんとは言うまいな。
何、わからん?
......まったく。ほら、あれだ。ネイトからアーマと呼ばれている──む。
「こら夜色飛びトカゲ! 何一人で窓枠に摑まって黄昏れてんのよ!」
ち。こんな時に限ってうるさいのが来たか。
「あ、ちょっと、逃げるなぁ、また大騒ぎになるでしょ! ほらネイト、キミもさっさと捕まえるの手伝いなさい! あ、飛んだ! 待ちなさいってば!」
今のは気にするな。
ネイトの同級生である、クルーエルとかいう小娘の戯れ言だ。
さて話を続けるとしよう。
物語の発端は確か、ネイトと共に初めてこの学園を訪れた二日後だったか。
ネイトが登校初日に馬鹿をやらかしたので、不安になって我もこっそりとネイトの鞄に忍びこんだ時があってな、その日に起きた事件、いや悪夢だ。
1
強烈な熱波が、じりじりと肌を焼く季節。
大陸辺境の地に建設された名詠専修学校トレミア・アカデミーでは、この暑さにもかかわらず、生徒たちがそれぞれ専攻色の名詠練習に取り組む姿があった。
学園の生徒全員が今までの勉強成果を発表する、競演会と呼ばれる一大イベントが控えているからだ。
直射日光で陽炎の昇る校庭で、汗だくになりながら名詠の練習に勤しむ生徒たち。それをこっそり遠くに眺める、金髪童顔の少女がいた。
「......うわぁ、みんな頑張るなぁ」
頰を伝う一筋の汗を手の甲で拭い、ミオ・レンティアは木陰で溜息をついた。真夏の校庭で何時間と立ちっぱなし。自分には真似できない荒修行だ。
「う~、暑いねえ。アーマは平気?」
額に浮き出る小粒の汗を拭い、ミオは肩に乗せていた名詠生物を胸元に抱きかかえた。
子猫ほどの大きさがある、トカゲに酷似した外見を持つ名詠生物である。
ゴツゴツした夜色の鱗や細い四肢、すっと伸びた尾。見れば見るほどその姿はトカゲそのものなのだが、当の名詠生物に言わせるならトカゲではないらしい。よく見ればその背中に一対の翼があることも分かるし、何より。
『ミオ、心頭滅却すれば火もまた涼し、という教えを知らんのか』
人の言語を話すトカゲなど、ミオは今まで見たことも聞いたこともなかった。
「......それ、どこの地方の無理難題?」
眉をひそめるも、あっさりと首を横に振るアーマ。
どうやらこの夜色トカゲも詳細は覚えていないらしい。もっとも、インテリのようで、どこか抜けているのがこの名詠生物の特徴なのだが。
『それより、暑いのならば氷でも詠びだせばいいではないか』
「それができれば苦労はしないよー」
自分たちが学ぶ名詠式は『Keinez』・『Ruguz』・『Beorc』・『Surisuz』・『Arzus』の五色に区分されており、その色と同色の物体を詠び招く技術である。このアーマという名詠生物だけは夜色名詠という名詠色によって名詠されたものだが、それは例外と言えるだろう。
通常の氷や水の類は青色名詠で、ミオの専攻は緑色名詠。教師の中には複数の名詠色を修得した者も少なくないと聞くが、一学生の自分にはまだまだ遠い先の話だ。
『いっそネイトや小娘と合流するか』
アーマの告げた名前の相手を脳裏に描き。
「んーどうしよう」
頰に指先をあて、ミオは考えるフリを繕った。
ネイト、そしてクルーエル。二人ともミオのクラスメイトだ。昼食や実習などで一緒に行動することも多い。今日の午前中も三人で、名詠に使用する触媒の調合実験。それをもとに、午後は実際に名詠で試用する実験中なのだ。
現在、ネイトとクルーエルは自分たちから離れた場所で名詠の練習中。なぜ離れた場所かというと──
〝ねえミオ。わたしたちの練習が終わるまで、ちょっとこの夜色飛びトカゲの相手してやってもらっていいかな〟
このお喋りトカゲが一緒にいては名詠に集中できないからと、クルーエルからこっそり頼まれたからだ。
「外歩くのは暑いからパス。ほら、校舎内に入ってよっか?」
『ふむ、まあいいだろう』
思いのほか素直に頷く夜色トカゲ。
『ところで、それならば校舎を案内してほしいのだが』
と思いきや、その名詠生物が胸元で翼を小さく羽ばたかせた。
「案内?」
『うむ。ネイトが通う場所だからな。我としても構造を知っておかなければ』
「おー、いいよいいよ。うちの学校の生徒はみんな好奇心旺盛だから、アーマだけでうろちょろすると捕まっちゃいそうだし」
それに学校の案内なら、クルルやネイト君が名詠の練習終わるまでゆっくり時間も潰せそうだもんね。
「んじゃあまずは一年生校舎内を案内してさ、次に部活とか同好会を教えたげるね。それじゃ、学校探検にしゅっぱーつ!」
アーマを両手で抱え、ミオは自分たちの通う一年生校舎へと歩き出した。







『......むう、学校というのは面倒なものだな』
ミオに抱きかかえられたまま、アーマはぼんやりと廊下の天井を見上げた。
校舎だけで一年生棟から四年生棟まで、他にも総務棟や図書管理棟やらが広大な敷地に建ち並ぶ。たとえば総務棟だけでも職員室に職員控え室、情報処理室に医務室など、挙げていけばキリがない。学園全体となればその構造も相当に複雑だ。
「と、大体これで見終わったかな」
『うむ校舎の構造は把握した。部活とやらがいまだによく分からんが......とりあえず小娘が護身部だというのだけは理解した』
ミオの呟きに、アーマは大きく首を振った。
「うんうん。トレミアはねー、ほら、生徒数が多いから部活もいっぱいあるんだよ。うちのクラスの子だと、たとえばサージェスが登山部でエイダが鎗術会とかだね」
『ミオは何か入ってないのか』
上向きに、自分を抱きかかえている少女を見上げる。
「あたしは家遠いから。でもねでもね、公式の部活じゃないけど、有志で同好会に入ってるんだ。怪談研究会っていうの」
『......怪談だと?』
思いもよらぬ単語に、思わずアーマは表情をしかめた。
自分が付き添っている十三歳のネイトですら、そういったものを怖がる時期はとうに卒業している。ミオはそれより三歳上、おまけに学校の試験でも成績上位と聞いている。彼女がまさかそんなものに加入しているとは。
「うん。母体がミステリー調査会でね、こっちの方は加入者が百人超えてるの。夏には肝試し大会もするんだから」
......怪談、実に幼稚な。
そう思うもそこは大人(?)、口には出さないアーマであった。
『大方、名詠生物でも出して驚かすといったところか』
「ふふ。そこらへんは秘密だよ~?」
悪戯っぽく笑うミオの表情から推測するに、当たらずといえども遠からずというところだろう。
「ええと、ここらへんで大体説明しおわったかな」
一年生校舎一階の北端、通路の行き止まりを目前にしてミオが踵を返す。
自分たちの教室へと向かおうとし──唐突にミオの足が止まった。
『ん、ミオどうした』
アーマが訊ねても、ミオは通路の奥にある教室をじっと見つめたままだ。
教室名は、第三実験室?
「あー、いい匂い。クッキーかなケーキかな!」
彼女の言葉どおり、確かにこの通路にはほのかに甘い匂いが漂っている。匂いの発生源は、どうやらミオが見つめる教室からのようだが。
『ここは?』
「第三実験室。料理研究会が使ってる場所だよ」
にこやかに告げ、ノックもせずにミオが扉を開ける。途端、むわっとした熱気が顔に張りついた。ざっと見渡して総勢十数人だろうか。まな板の上の魚と格闘している者、吹きこぼれそうな鍋をじっと凝視する者。教室一つがまるで厨房のようなありさまだ。
「ちわー。キリエいる?」
ミオの声に、エプロン姿の生徒の一人が振り向いた。
「あらミオ、どうしたの。もうすぐ競演会なのに、こんなところで油売ってていいのかしら」
黄金に輝くウェーブがかった長髪に、翡翠色の瞳をした少女だ。
大人びた顔だちとスタイル、僅かに憂いを帯びた瞳と物静かな声音。少女と呼ぶよりは大人の女性を想わせる雰囲気がある。
「それはキリエだって一緒でしょー。こんなとこでまたお菓子作ってて。せめてクラスの飾りつけ担当分はちゃんとやってね!」
腰に手をあて、ミオが頰を膨らませる。
「分かってるわよ。でもね、どうせ入学したての一年生が名詠式で発表できることなんて限られてるし、あんま気負ってもしょうがないでしょう」
口元に手を添えてしっとりと微笑む少女。
『ミオ、こいつは?』
彼女に聞かれぬ程度に声を押し殺し、アーマはミオに耳打ちする。
「キリエだよ。うちのクラスの子」
『こんな女、本当にクラスにいたか?』
ふしぎと、アーマにはこの女子生徒の顔が思いだせなかった。
ネイトのクラスメイトについては、ネイトの鞄に隠れていた時にこっそり顔を盗み見ている。その時ほぼ全員の顔を把握していたはずだったのだが。
「キリエは授業以外、ずっと第三実験室に籠もってるからね。すごいんだよー、一年生なのにもう料理研究会の副部長なんだから」
その会話を聞き取ったのか、キリエがきょとんとした表情でミオの胸元を指さした。
「ねえミオ、あなたが胸に抱いてるのは何?」
「ん、ああ......えっと......トカゲ?」
返答に迷ったのか、ミオがふらふらと視線を宙に泳がせる。
『まあ、今はそれで仕方あるまい』
トカゲは気にくわないが、大層なことを言って話を面倒にしても困るのは自分である。不満を押し殺し、渋々ながらアーマは頷いた。
名詠専修学校の生徒なのだからキリエも当然名詠の覚えはあるはず、名詠生物の自分が喋っても平気だろう。
「あらあら、珍しいトカゲね」
表情をしかめるかとも思ったが、意外にもこの女子生徒は少しも動じた素振りを見せなかった。アーマ自身、大概の女子はハ虫類の類を嫌うものとばかり思っていたが、彼女はそうでないらしい。
にもかかわらず。
......なんだ。この女の不可解な視線は。
ふと感じた寒けに、反射的にアーマは全身をふるわせた。過去あまり経験したことのない、奇妙な色の輝きを秘めたキリエの視線。背筋がむず痒くなるような、どこかうすら寒くなる笑みだ。
『ミオ、ほらさっさと次に行くぞ、次』
肩越しにミオへと小声で伝える。原因が何かは分からないが、こうした悪寒の付きまとう場所に長居することはない。
「そう? じゃあ行こうか」
ミオが踵を返そうとした矢先。
「ねえミオ、もうすぐクッキーが焼き上がるのだけど、せっかくだから食べていかない?」
オーブンの方をキリエが指さした。
「あ、やっぱりクッキーだったんだ。このいい匂い!」
「ええ。そろそろお茶の時間だしね。ミオの好きなハーブティーもあるわよ」
「いいねいいね! じゃあ待つ待つー」
『あ、ミオ待て!』
慌てて制止しようとするも、ミオに抱えられたまま、アーマは教室の中に入っていった。
「あと十分くらいで焼き上がると思うわ......あ、そうそう」
オーブンの方をちらりと一瞥し、キリエが思いだしたように手を叩く。
「ねえミオ、ちょっと頼み事いいかしら。図書館から借りた本を返すの忘れてて、今日が期限だったの。図書館が閉まるといけないし、わたしオーブンの見張りしなくちゃいけないから」
「いいよー。じゃあちょっと行ってくる。アーマ、少しここで待っててね」
世界の珍食材大全と書かれた本を携えミオが立ち上がる。その背中を見送り、アーマは一人ぽつんと椅子の上に残された。
......ふむ、まあすぐに帰ってくるか。
目をつむり椅子の上で丸くなる。だがそれもつかの間。自分へと近づいてくる足音に、アーマは薄目を開けた。眼前に立つ、オーブンの番をしていたはずのキリエ。
心なしか先よりますます爛々と、その目つきが怪しげに輝いて見える気が。
「ねえ、あなた」
無視しようかとも思ったが。
「わたしね。あなたのこと、一目見た時から気になっていたの」
──気になっていた?
反射的に、アーマはキリエへと顔を持ち上げた。
「いえ、違う。ずっと探し求めていたと言った方が適切かしら」
トカゲに似た外見の自分を怖れることもなく、薄紅色のマニキュアに彩られた繊手がつっと背中を撫でる。
「わたし、あなたを探してた」
『ほう、探していたとな』
内心の訝しみを隠したまま相手の言葉を反芻した。
「ええ。わたし、あなたの正体を知っているもの」
今度こそ、アーマは自らの耳を疑った。
我の正体?
そんなはずがない。かつてイブマリーによって名詠された夜色の名詠生物。だが自分の正体をそれと知っているのは、今ではその息子のネイトのみ。だがネイトがそれをむやみやたらと話すはずが。
『随分と浅はかな陽動だな』
「あら本当よ。あなた、あの伝説の──なんでしょう?」
畏れを含んだ口調。だがそれは疑問ではなく確認の声音だった。
伝説の──
その言葉に続く単語として、アーマが真っ先に思い浮かべたものが「真精」だった。
自分がこの世界において伝説になったことは決してない。だが並の名詠士から見れば、確かに真精は畏怖すべき存在とも言える。竜や有翼馬など、伝説や伝承に名を残す名詠生物も数多く存在するのも事実だ。
『お前、どこで我の存在を知った』
睨みつけるも彼女の表情に揺らぎはない。
「図書館の倉庫を漁っていたら偶然見つけたの。古い、古い本よ」
微笑みを絶やさず、瞬き一つせず見つめてくるキリエ。
「あなた伝説のアレなのでしょう。きっと偶然なんかじゃない。わたしね、これって運命の出会いだと思うの」
......経緯は分からんが、どうやらこの女の言うことはそう間違ってはいないようだな。
彼女の視線を真っ向から受けとめ、アーマはしばし沈黙を続けた。が、どうやら誤魔化すのは難しいらしい。
『女、決して他人には言うなよ』
諦め混じりに首を振り、アーマはゆっくりと頷いた。
「ええ、もちろん言うわけないわ」
恥じらうかのように、頰を紅潮させてうつむくキリエ。
「そんなことして、他の奴らに横取りなんてされたくないもの」
......横取り?
アーマが疑問の声を発するより早く。
がちゃっ──がちゃ、がちゃんっ!
第三実験室の入口に、分厚い南京錠が内側から掛けられる音がこだました。
「副部長、施錠完了しました!」
「ありがとう、あなたたちは冷蔵庫から他の材料を持ってきて」
姿勢を正し、一年生であるはずのキリエに敬礼を送る上級生たち。
「はっ! しかしコレの処理はどういたしましょう」
「わたしが直々に処理します。せっかくの獲物よ。部長なんぞにむざむざ譲ってたまるもんですか」
口早に他部員へと指示を飛ばす副部長。
心なしか部屋の空気が変わった気がする。いやそもそも、ミオが帰ってくることが分かっているというのに、なぜ内側から鍵を掛ける必要が?
『おい、どういうことだ?』
副部長へと訊ねるも返事はない。
『キリエと言ったな、キリエ? ミオが──』
その途端。
ぐるりと、女子生徒は背を向けたまま首だけをこちらに回してきた。
『うっ?』
無言の重圧に押され、思わず後ずさる。
本当に発光しているかのように爛々と輝く瞳に、うっすらと笑みの形に歪められた唇。振り向いた少女は、それこそミオの言う肝試しに出てくる幽霊のような表情だった。
『な......お前は?』
「──ああっ、とうとう巡り会えた!」
アーマの疑念をよそに、歓喜の声をキリエが上げる。
「本で見たとおり。いえ、それ以上だわ。ねえ、あなた」
恍惚の表情を浮かべ、独り言のように呟く彼女。
どこからともなく出刃包丁を取り出し、料理研究会副部長である少女はアーマ目がけて近づいてきた。
「あなた、とっても美味しそう」







「......にしてもこの本、やけに古いなぁ」
キリエから預かった本をしげしげと眺め、ミオは眉をひそめた。
装丁は既にぼろぼろ。頁も変色し崩れかけている。
「世界の珍食材大全か、キリエも物好きなんだから。えーなになに。『第一章、伝説と化した古の食材』?」
料理の本は普段読まないが、そこは本の虫であるミオ。手にした書物は内容を確かめなければ気になって仕方がない。
「へえ、『お肌を美しく保つ食材』ねー。昔の人も今と同じこと考えてたんだね」
ぱらぱらと頁をめくっていく、と、その時。
「あっ!」
手にした古書から、茶色がかった頁が一枚分ひらりと足下に落ちていった。
自分が壊してしまったかと思ったが、単に本の耐久性が限界だっただけらしい。頁をつなぎ合わせる端の部分、その繊維がぼろぼろでゴミ屑のようになってしまっていた。
「......あちゃあ、もう直せないっぽいなぁ」
足下に落ちた頁を拾う。
「あれ?」
頁にイラスト付きで載っていたのは、その「伝説の食材」と称された物だった。
真っ黒い鱗をした、子猫ほども大きさがあるトカゲの写真である。
「なになに、『一つ目岩モドキ蜥蜴。名の通り一つ目の、黒曜石に似た皮膚を持つ蜥蜴である。岩に擬態しているので発見は困難を極める。だがグロテスクな見た目とは対照的に、その透き通った肉は──』......なになに、『肌の健康を美しく保つと言われていた』って? へえ、こんなのがねえ」
しばしその写真を眺め、ふとミオは首をかしげた。
「......なんかこいつ、アーマが一つ目になったらこんな感じ?」
アーマの方が多少大きいし目も二つだし皮膚の色も微妙に違う。しかしこの二匹が並んでいれば、初めて見る人間ならばきっと区別がつかないに違いない。それほど全体の外見が酷似しているのだ。
「キリエがこの本を借りてたのって、もしかしてこの一つ目なんとかってのを探したかったからかな?」
この頁だけがひどくぼろぼろになっていたのは、きっと彼女がずっとこの頁を見ていたからに違いない。うん、きっとそうだ。
「やれやれ、まったくキリエってば」
実家で親に食事を用意してもらっているミオは料理など得意でないし、特に興味のあるものでもない。
だがキリエは違う。高級料理店のシェフを両親に持つ彼女は、幼い頃から相当な訓練を受けてきたらしい。当然将来の夢も一流の料理人になることだそうだ。
──あれ。でもそれじゃあ、なんでキリエはこんな名詠専修学校に来てるの?
青色名詠の専攻生徒として入学してきたキリエ。彼女と同じクラスになって一月ほど経った頃、ミオは直接その疑問を訊ねてみたことがあった。
「......キリエの料理好きもハンパじゃないからなぁ」
呆れ隠しに一人で肩をすくめる。なにせ彼女が名詠士を目指す理由は、世界のいまだ見ぬ食材を名詠式で詠びだすためだというのだから。ちなみに目下のところ、彼女の目標は青色名詠で青魚を詠ぶことらしい。
「まあでも、いくらキリエでも......アーマをこいつと間違えちゃうなんてことは......さすがにないよね」







「見つけた。とうとう見つけたわ、伝説の食材を」
殺気にも似た何かを身体全体から放出しつつ、キリエがじわりじわりと近づいてくる。
『食材だと?』
「ええ。あまりに高貴な食材であるという理由で乱獲された挙げ句、最後には絶滅したと言われていた一つ目岩モドキ蜥蜴。永久の美貌と言わないまでも、口にすれば十年はお肌の美しさを保つ作用があるという究極の食材。まさかこの学園にいたなんて」
きょろきょろと辺りを見回して、ようやくアーマは事情が呑みこめてきた。
『それ、もしや我のことか』
「もちろん。あなたさっき自分で認めたじゃない。伝説の蜥蜴だって」
『なんだと?』
必死で会話を思い返す。伝説の──。確かに、彼女は伝説のアレとしか口にはしていなかった気がしてきた。
『......むぅ、尊厳とか名誉とか、何かとても大事な部分を勘違いされた気がするが』
弁解を試みるが、あいにく彼女の耳には届いていないらしい。
「逃がしはしないわよ。ミオには、あの蜥蜴はどっか行ったとでも伝えておくわ」
両手に包丁を構え距離を詰めてくるキリエ。
口元の微笑と対照的に、その両目は射貫くように鋭い。
『ほう、悪くない視線だ。我に挑むというのか』
その眼光を真正面から受けとめ、アーマもまたすぅっと目を細めてみせた。
『なるほど、確かに弱肉強食は世の摂理。それを知った上で夜の真精たる我に刃を構えるその心意気、まずはなかなかの度胸だと誉めてやろう。......だが!』
目をつむり、大仰に首を振る。
『だが悲しいかな、たとえお前がどれほどの存在であろうとも、我の前では風の前の塵、もしくは子猫の前のタンポポに等し──』
言い終えるその前に。
ずどんっ!
『............ずどん?』
一瞬目を閉じていただけ。その隙に、銀色に輝く出刃包丁が自分の首筋を通過し背後の壁に突き刺さっていたのだ。
『なっ......!』
思わずその包丁を確認する。金属製のはずの扉に根本まで突き刺さった出刃包丁。包丁の鋭さもそうだが、並の力で投擲してもこんな芸当は不可能だ。そう、それこそ人間離れした桁外れの腕力が必要なはず。
たまたま首を振っていたせいで運良くかわせたらしいが、今もし仮に、言葉のさなかに首を振っていなかったなら──
『な、ちょっ......これは洒落にならっ......!』
「へえ、よく今のをかわしたわね。さすがは伝説の素材と言ったところかしら」
感心したように軽く口笛を吹くキリエ。その両手にいつの間にやら、先の包丁よりも巨大な刃渡りの鉈。刃の先にはなぜか血痕らしき赤い物が付着していたりする。
「けれど、この世に生をうけて十六年。宮廷料理人にのみ伝わる秘道、〈三味一殺闇鍋式〉を極めたわたしから逃げ延びた食材は存在しない」
や、闇鍋式......、名詠式の亜種か何かか?
初めて聞く単語である。だがそれがとてつもなく危険な類のものであることだけは、アーマにも直感的に理解できた。
『お、おい。なんだその怪しげな名前は!』
「......うふ、ふふふ......うふふふふふふふ」
ずるりずるりと、ゾンビの如く足を引きずるようにキリエが近づいてくる。
かつて体験したことのない殺気、それこそこうして対峙しているだけで全身が麻痺していくかのような。──気づいた時には、アーマは椅子から飛び降りて後ずさりしていた。
......な、なんだこの女。
およそ人間とほど遠い、氷のように冷たい極寒の空気を漂わせる女子生徒。その両目からは、どす黒い狂喜の光が滲みでている。
間違いない、こいつは本気だ。本気で──
『ま、待て! 我はそんな蜥蜴じゃないぞ!』
「あら往生際が悪い。あなたも伝説の一つ目岩モドキ蜥蜴なら、おとなしく活け作りにされなさいな」
『......いや。そもそも我は一つ目じゃないだろうに』
が、的を射たはずの反論も彼女には通用しなかった。
「ああ、料理の神よ。本日の糧に感謝します。やったわ、今日は晩餐会よ!」
訳の分からない言葉を叫びつつ、人間離れした速度で突進してくる料理研究会副部長。
『話をきけええええっっっ!』
第三実験室に、夜色飛びトカゲの悲しげな悲鳴がこだました。







「......あれ」
草むらに腰を下ろした姿勢で、ネイトはふと顔を持ち上げた。
「ん、どうしたのネイト」
自分のすぐ隣にいた緋色の髪の少女、クルーエルが腕組みしたまま見つめてくる。こちらは細木の幹に背を預けた姿勢だ。
「なに? まさかまたあの上級生が来た?」
実のところつい数分前、学園の上級生に目をつけられて絡まれたばかり。それ自体は、枯れ草色のコートを羽織った名詠士によって助けられたのだが。
「い、いえ。それじゃないです」
視線を鋭くする少女に向け、慌てて首を横に振った。
「今......なんかアーマの悲鳴が聞こえた気がして」
「あの夜色飛びトカゲが? あんな生意気な姿からはあんまり想像できないわね」
やれやれと腕を組み、クルーエルが苦笑する。
「アーマは普段ずっとあんな感じですから。アーマが本気で悲鳴を上げてるのを見たのは僕も一度きりです。一度母さんを本気で怒らせて、あの時はアーマ、本気で怯えてたっけ」
「ネイトのお母さんのこと?」
「ええ。包丁持ってアーマのこと追いかけてました。僕は怖くて隠れてましたけど」
「......君のお母さん、案外すごいところあるんだね」
呆れ半分驚き半分といった表情でクルーエルが呟く。
「そ、そうですね」
何と返事してよいか分からず、ネイトはぼんやりと空を見上げた。
クルーエルさんは信じてないみたいだけど......だけど今、確かにあの時とよく似たアーマの悲鳴が聞こえた気がしたんだけどな。







トレミア・アカデミー図書管理棟。通称、図書館にて。
「えーと、ミオさん」
そう言ってきたのは図書室の受付に座っていた図書委員だ。同学年の女子生徒で、クラスは違えど図書館仲間としてすっかり顔なじみの仲だ。
「この本、借り主はキリエという方になってますけど?」
「あ、そうなの。わたしが代理で来たんだけど......だめ?」
いえいえ。そう答えながら接客用の笑顔で微笑む彼女。
「返却されるならこちらとしては誰に来てもらっても構いませんよ。ただこのキリエという人って、まさかあの料理研究会副部長なのかなって」
キリエ──この学校にも同じ名前の生徒はいるかもしれないが、料理研究会の副部長を務めているのは彼女ぐらいのものだろう。
「そうだけど、それが何か?」
するとその図書委員は呆れたような微苦笑のような、どれとも似つかない複雑な表情で。
「ううん、そのキリエさんて学校の一部ではとても有名なんですよ。なにせあの猛者揃いの料理研究会で、まだ一年生ながら副部長の座を手に入れた人なんだから」
「へ? 猛者って?」
「うちの学校、正式な料理クラブは別にあるのは知ってる? でもなぜか料理研究会という部活も別にあって......なんていうか......後者はすごく怖いの。よく言って、刃物マニア同好会ってくらい」
「ちょ、ちょっと待った!」
よく言って刃物マニア同好会って。
「ね、ねえ......それって悪く言えばどうなっちゃうの?」
「えーと、刃物で肉を切り裂く感覚がたまらない怪人の巣窟、かな」
「怖っ!」
予想を遥かに超えた生々しい表現に、思わずミオは悲鳴を上げた。
「刃物で肉を? キリエが? そんなはずないよ!」
キリエのおとなしい性格からも想像がつかないし、自分が遊びに行った時だって、他の部員もとても穏和で優しい人たちばかりだったではないか。
「うん、でも実際、完全実力主義の部活ということでも有名なの。部長選びの際は部員が校舎屋上に集結して、刃物アリ不意打ちアリの集団乱闘生き残り戦だとか。今年も相当数が病院送りになったらしくて。料理というのは名ばかりの、トレミア・アカデミーでも五本の指に入る武闘派サークルだったかと」
「......そういえば一度、キリエが肩から腕にかけて包帯を巻いて登校してきたことがあったかも」
あの時彼女は「ちょっと料理に手間取ったの。十五人前はさすがに苦戦したわ」などという返事をしていたけれど。
「うーん。なんかホントのような噓のような」
「まあわたしも図書委員の先輩からの又聞きですから」
言った本人自身、噂半分と言った面持ちで苦笑する。
「そうだよね。キリエがそんな怖いことしてるわけないもん」
本を返却し、自分が借りる分の参考書を探しに本棚へ。緑色のハードカバーである資料集へと手を伸ばしかけ──
「ん?」
突如どこかから聞こえてきた絶叫に、つとミオは背後を振り向いた。
......今の悲鳴、なんかアーマの声に似てたような。
「んー、でもアーマはキリエが面倒見てくれているはずだからなぁ」
数秒額に手をあてて考えるも。
「ま、気のせいか」
あっさりと今の悲鳴を忘れるミオだった。
『くっ、なんという執念っ!』
狭い実験室の中、背中の翼を必死に羽ばたかせ、アーマは死に物狂いでキリエの攻撃を回避し続けていた。
「あはは! すごい、すごいわよ一つ目岩モドキ蜥蜴! まさか空も飛べるなんてね!」
興奮しきった声でその後を追う料理研究会副部長。
ちなみに。数分前まで持っていた鉈ではなく──彼女の持つ得物はいつの間にやら、丸太でも一息に切断できそうな大斧になっていたりする。
「もう、そんなにわたしを焦らさないでってば!」
頰を紅潮させ、恥じらうような表情をみせる可憐な女子生徒。ただしそんな時でも、手にした斧を果物ナイフのように軽々と振り回すのだけは忘れていない。
『だ、か、ら! 本物の一つ目なんたらならば空など飛べるはずないだろう!』
声を限りにアーマが釈明するものの。
「新種ということね! ああ、もうだめっ! ますます放っておけない!」
『だから、ちがぁぁぁう!』
頰を真っ赤に染め上げ、まるで恋人を追いかけるような表情のキリエには届いていないようだった。
まな板、食材、果てには包丁まで。とにかく手当たり次第めぼしい物を尾で摑んでは空中からアーマが投げつける。投擲された物体が次々と少女の頭上へと迫り──
「ふふ、無駄よ無駄!」
キリエの手が一瞬ぶれる。その直後。頭上という死角から投擲されたはずのそれらが、美しい菊花切りとなって床に落ちていく。
『くっ』
ふらふらと、アーマは力なく床に着地した。今の自分では翼で空を飛んでいられるのは四十秒が限界。その時間がもう迫ってきていたのだ。
「どうやら限界のようね」
じりじりと近づいてくるキリエ。対して、ずるずると後ずさるアーマ。だがすぐに、その背は背後の壁にぶつかった。
『......く......もはやここまでか』
前方はキリエ。横は部員が包囲網を敷いている。頭上を飛んで逃げるにも、もう数秒と保つまい。背後は壁が──いや、待て、壁だと?
ちらりと、周囲に悟られぬよう背後へと視界を移す。
やっぱりそうだ。この場所ならば、いやむしろ、生きてこの部屋を脱出するにはもはやこれに賭けるしかない。
『............』
微動だにせぬままじっとキリエを見上げる。
「観念したかしら。でもよく逃げたわよ」
微笑を浮かべながら斧を振りかぶる副部長。
「ああっ! わたしもう、あんまり嬉しくて気を失っちゃいそう!」
轟音を伴い打ち下ろされる鋭利な斧。
──今だ!
斧が迫るより一瞬早く、アーマは床にべったりと身を伏せた。
「なっ!」
その瞬間、キリエが初めて驚愕の吐息をもらした。アーマの頭上を掠め、彼女の持つ斧がアーマの背後の壁を跡形もなく粉砕する。
そう、彼女がクッキーを焼いていたオーブンを。
「しまっ......!」
甲高い音を響かせながら、破砕されたオーブンから大量の熱波が流れ出る。
その矛先は、オーブンの真っ正面に位置する彼女へ。

「きゃぁっ!」
妙に可愛らしい悲鳴を上げ、至近距離で熱波を浴びたキリエが後ずさる。
「あああっ、副部長! 平気ですか!」
予想だにしていなかったことに、慌てて駆け寄る他の部員。
「う......わたしは平気......それより一つ目──」
同時。部屋の隅で、ガシャンと窓硝子の割れる音がこだました。
「あ」
料理研究会、全員分の呆気にとられた声が重なった。
「しまった!」
キリエが窓枠に身を乗りだした時には既に、伝説の一つ目岩モドキ蜥蜴は校庭へと着地したところだった。
「あれ、アーマ?」
自分が借りた本を抱え通路を歩くミオ。その前の通路に、何やら巨大なトカゲがぐったりと寝そべっていた。
『......ミオか』
言葉すら朧気ながら、それでものそのそと立ち上がるアーマ。
「どしたのこんなとこで、実験室で待っててくれてるかと思ったのに」
ミオに抱き上げられ、赤ん坊のようにアーマは必死でしがみついた。
『あの地は禁断の場所だった』
「うん?」
『最後の機転がなければと思うと......思いだすのも怖ろしい』
ややあって、ミオが首をかしげてみせる。
「なに? よく分かんないけどそんな大変なことになってたの?」
『うむ。かつて一度だけイブマリーを本気で怒らせたことがあったが......それに勝るとも劣らぬ衝撃を受けた。まさか一介の小娘如きに我が後れをとるとは』
「ん。ねえ、イブマリーって誰?」
そういえば、ネイトの母親の名前をミオにはまだ教えていなかったか。だが。
『......気にするな』
もはや説明する気力も残っておらず、アーマはだらんと尾を垂らしてみせた。
『まったく、どうにも魅力的すぎるのも考えものだな。だがあいにく、自分ではどうしようもないから困る』
「うにゃ? それ誰のこと?」
ミオの問いを黙殺し、その代わり。
大げさに、アーマは深い深い溜息をついてみせた。
2
──どうだ、怖ろしい話だったろう?
「こら夜色トカゲ、さっきから誰に向かって話してるのよ」
『......ふ、我ながら感傷気味になっていたらしい』
教室の窓際。
クルーエルにぎゅっと捕まえられた姿勢ながらも、アーマは鼻先をつんと空に向け。
『しかし今思いだせば、突然のことだったとはいえ、我があのような相手に後れをとるとは恥ずかしい』
「相手って誰? 子猫とか子犬とか?」
『お前の予想など及びもしない相手とだけ言っておこう。ま、次に会った時はあのようなことにはならんがな。今度こそ我の圧倒的な存在感の前にひれ伏すことに──』
その時。ガラッと音を立て、一人の女子生徒が教室に入ってきた。
ウェーブがかった金髪に大人びた雰囲気、どす黒い血痕がなぜか大量に付着したエプロンをした少女である。
「あらキリエ、放課後にあなたが教室に戻ってくるなんて珍しいわね」
「ええ、ちょっと忘れ物を取......」
夜色トカゲとその少女の視線がぴったりと重なって──
『............』
「............」
「あらどうしたの、キリエもトカゲも黙りこんじゃって」
一人と一匹を交互に眺め、目を丸くするクルーエル。
「ふふ、ふふふ......ねえクルーエル?」
妙に低い声で、エプロン姿の少女が口を開けた。
「どうしたのキリエ、改まって」
直後、その少女はギラギラした目つきで風のように廊下を飛びだした。
「いいことっ、わたしが部室から包丁を持ってくるまで、その一つ目岩モドキ蜥蜴を絶対に逃がさないでちょうだい! 大丈夫、あなたにも取り分はちゃんと用意するから!」
『ぬおおおっ、こ、小娘! 我を捕まえている手を今すぐどけろっ! 早く!』
「ど、どうしたのよあなたたち、急に騒ぎだして!」
『いいから、速やかに窓を開け──』
「ほっほっほ、待たせたわね一つ目岩モドキ蜥蜴、活け作りの準備は万端よ! いざ、キリエ参ります!」
『ぐああっっ、もう現れたあぁぁぁ......!』
その翌日、ネイトが朝一番に教室にやってきてみると。
昨日家に戻ってこなかったアーマとクラスメイトのキリエが、なぜか二人揃って目を回した状態で、力つきたように、眠る姿があったという。
「ねえクルーエルさん、なんで僕たちの教室が半壊してるか知りません? カーテンとか机とか全部、すごい切れ味の良い刃物で切り刻まれたような痕が残ってるんだけど」
「さ、さあ。わたし知らないよ」
ネイトの問いにクルーエルは妙に白々しく返事をし、そしてその後に。
彼女は誰にも聞こえないようこっそりと。
「だってわたし......途中から怖くなって逃げだしたから」
白奏 『花園に一番近い場所』
1
雲一つない晴天、暖かで穏やかな陽射しが心地よい。それは、そんなある快晴の日の、午後のことだった──
大陸辺境の地に建設された名詠専修学校、トレミア・アカデミー。辺境という点を活かした広大な敷地を持つ、生徒数千五百人を数える大学校である。
その広大な学園の広大な校庭で、数人の男子生徒がボール遊びに興じていた。
「ほら、ネイトそっち行ったぞ!」
「は、はい~っ!」
悲鳴に近い声を上げつつも、飛んできた白いボールをネイトは必死で追いかけた。外見から推測できる年齢はせいぜい十三、四歳だろう。まだ中性的な顔だちと声。神秘的な夜色の髪と夜色の瞳をした、体格も周りの男子生徒より一際小柄で華奢な少年だ。
「えっと、オーマさん......これって地面に落としちゃだめなんですよね!」
飛んでくるボールを胸で受け、ボールが地面に落ちる前に再び別の相手に向けて蹴る。
「そうそう、さっき教えたとおりだって」
ネイトの声に、鳶色の髪と目をした男子生徒の一人が頷いた。オーマ・ティンネル、ネイトのクラスメイトで、教室では男子をまとめるクラス委員も兼ねた少年だ。
「たまには身体動かすのも悪くないだろ?」
「うん、これ楽しいです!」
円周状に並んで、ボールを地面に落とさないように蹴って相手へ繫ぐ。ただそれだけなのにふしぎと面白い。運動は体育の講義で履修しているのだが、放課後気楽に遊ぶというのもまた、普段の運動とは違った楽しさがあるものだ。
「あ、オーマさんすごい!」
「そりゃ俺らはよくやってるからな」
飛んできたボールを頭で受けとめ、そのまま器用に頭の上で静止させる彼。その言葉どおり、確かにネイト以外のメンバーはボールの扱いも手慣れていた。
彼らから渡されるボールはふんわりと山なりの軌跡で落ちてくるため、不慣れなネイトでも受けとるのが容易。逆にネイトがボールをうまく蹴れなくても、とにかく向こうに飛べば誰かがちゃんと拾ってくれる。ゲームが続くから初心者でも楽しめるのだ。
「でもこんなに面白いなら僕たちだけじゃなくて、クラスの女子の人たちも誘ってあげないんですか?」
「ふむ、女子とな」
きらりと、オーマが途端に表情を意味深なものにした。
「いい指摘だネイト君。てか実を言うと前にも一度誘ったことがあったんだよ。女子の何人かは一緒にやったこともあったんだが......」
「あったんだが?」
「あいつら何を勘違いしたか、運動着じゃなくて制服のままで来やがってさ。それで一度エライことになったの。で、担任のケイト先生にすげえ怒られた......俺だってまさかあんな下心なかったのに」
「下心?」
「いや、だから、うちの女子制服ってスカートだろ? ボールを蹴る時にだな、色々見えるものがあったんだ。分かるだろ?」
......何だろう、ボールを蹴る時に見えるもの?
腕を組み、真剣に悩んだ挙げ句ネイトは。
「分かった、ボールの軌跡ですね!......あ、あれ、違うの?」
自分では正解だと思っていたのに、なぜか周囲のメンバーはどんよりと肩を落としてしまった。
「あの、オーマさんてばなんで涙を拭ってるんですか」
「ふ、いいんだよネイト。お前だけはいつまでもその純粋な心を持ち続けてくれ」
制服の裾で涙を拭いつつボールを蹴る彼。
と、その時だった。
「あ、やべっ!」
オーマの蹴り上げたボールがネイトの頭を遥かに越え、校庭に隣接した部室の方へ。
──ッリィィィッッンッッ──
そして、見事に部室の窓を割ってしまった。
「あーやっちまったな......」
ぼんやりした表情で口を半開きにする男子一同。ただ窓を割ったという失態だけでなく、なぜかその表情には奇妙な怯えが混じっていた。
「まっずぅ。よりによってあの部室だよ」
頭を搔きながら、こちらは苦笑を浮かべるオーマ。
窓硝子が割れた部屋をじっと見つめるものの、帰宅部のネイトにはそれが何部の部屋か見当もつかなかった。
「あの部屋、何部なんですか?」
すると、男子の一人がぼそぼそと。
「護身部だよ、護身部」
はて、護身部? ネイト自身はこの学園に転入してから日は浅いが、その部活の名前はどこかで聞いたことがあったような覚えがあった。
「でも謝れば許してくれるんじゃないですか? ボールだって返してもらえると思うんですけど」
「と、思うよな普通。でもあそこ男子禁制なんだ」
答えたのはオーマだった。
「そもそも護身つう名前がどうも、女を狙う痴漢とか泥棒を撲滅するって意味らしくてさ。そんなもんだから男があの部室に入ろうとすると、とにかく力ずくで追いだされるんだそうだ」
「はあ、なるほど」
「あの部活、活動文句が『危険な夜道、襲いかかる牙を打ち砕け! 唸れわたしの豪腕、泣いて謝れ痴漢ども!』って噂なの。あれ、『死して滅せよ痴漢ども!』だったっけ? まあそんな感じ」
「......うちの学校、すごい部活があるんですね」
ぼんやりと彼の話を聞き、ネイトが口にできたのはその一言だけだった。
「とにかく部長がすんげえ強硬路線らしくてさ、男は一歩たりとも部屋には入れさせんて決まりになってるみたい。以前学園長が部室の調査で入ろうとした時も、九日間交渉してようやく入れたみたいだからな。部長自らの監視つきで」
「じゃあ、どうするんです?」
「うーん。でもここで突っ立っててもしょうがないしな、取りにいくしかないだろ?」
のったりのったりした足取りで、一人部室の方角へと歩いていくオーマ。校庭から見えるのは部室の背面。表の入口へと彼は姿を消して......
「ちわーっす。すいませんー、遊んでたらボールがそっち行っちゃいまして」
ややあって、オーマの声だけが聞こえてきた。
「謝りに来たのと、あとボールを返していただければと思って──って、あれ」
聞こえるのは彼の声だけ。護身部の室内からは何の返事もないらしい。
「ちょ、ちょっと、無視しないでくださいってば! 誰かいるんでしょ? せめて扉開けて誰か出てきてもいいじゃないですか」
業を煮やしたのか、次第にオーマの声も大きく荒々しくなり。
「んじゃ、もう勝手に扉開けますよ」
ガラッという、扉を開ける音。
「失礼しま............っ......え、なにっ?」
その途端。彼の声が突如金切り声の悲鳴に豹変した。
「ま、待ってくれ、俺は別に......あぁぁああっっっっ! ぐ、はぁぁっ! い、痛っ! 痛い痛い痛い痛い! ちょ、こいつら目がやべえ。本気だ、本気で俺を」
「お、オーマさん!? 何があったんですか!」
校庭から思わずネイトは彼の名を呼んだ。しかし。
「あああああ、ネイトっ、誰かっ、助け............トゲ付き鉄球が襲っ......許しっ──」
それを最後に、彼の悲鳴は突如として途絶えてしまった。
再び不気味なほどに静まる護身部の部室。
「オーマさん?」
ごくりと、ネイトは唾を飲みこんだ。
「......噂は本当だった」
十五分後、オーマは全身に包帯を巻いた状態で戻ってきた。いや、包帯によって全身をぐるぐる巻きに拘束された状態といった方が適切だろう。
「麗しき少女たちの楽園。だが、あの花園は鉄壁、否、猛毒の花園だった......容易には侵入させて......くれ......な......無念っ!」
吐血し、ばたりとうつぶせに倒れる彼。
「お、オーマさん? オーマさん? しっかり!」
もはや返事もしない彼を前に、ネイトたち残りの男子は息を呑んだ。
その、さらに五分後──
奪われたままのボールをいかに取り戻すか。ボールで部室の窓を割ったことへの謝罪はさておき、ネイトたちはそっちの議論に熱中していた。
「どうすんの? やっぱ強行突破?」
「ばか、オーマの遺言を忘れたか。あいつらの非道さはハンパないぞ。トゲ付き鉄球とか普通じゃないだろ」
「あ、あの......オーマさんまだ死んでないんですけど」
「んじゃ部室の鍵を奪って、あいつらがいない間に?」
「でも罠とかありそうだな。無断で入ったら毒矢とかがシュバッって感じで降ってくるの。迂闊に突っ込んでもオーマに続く犠牲者が増えるぜ」
「あ、あのですね、だからオーマさんまだ死んでないんですけど......なんかさっきもまた吐血してたみたいだけど。あ、でも」
画期的なアイデアを思いつき、ネイトはぽんと手を打った。
「それならクラスの女子に頼みませんか。ボール取ってくるだけならきっと頼まれてくれるし、女の人なら護身部の人たちの対応だってあそこまでにはならないだろうから」
だがしかし、周囲の反応は今一つだった。
「オーマが顔を見られてるんだ。なにせうちの男子クラス委員だしな、うちのクラスの女子が行ったところで怪しまれるだけだろ」
「じゃあクラス以外の女子に頼むの? お前ら誰か知り合いいる?」
顔を見合わせる一同。なにせここにいるメンバーは皆が皆、彼女を作ることより、こうして放課後に男連中で遊んだ方が楽しいという集団なのだから。
「んじゃあ、やっぱり策は一つしかないな」
「ああ、やるしかないな」
意味深な面持ちで頷く男子生徒たち。
「え、なにかすごい案でもあるんですか?」
「女装」
じょそう? 告げられた単語を頭の中で反芻し、ネイトは目をぱちくりと瞬かせた。
女装。ネイトの記憶が正しければ、男性が女性の真似をして衣装を着たり化粧をしたりすることである。
「誰がやるんですか?」
「オーケイ、少年、まずは周りを眺めてみようか」
......えっと。
周囲をざっと眺めてみる。自分の周りには、自分より頭一つ大きい屈強な男子ばかり。体格もどうしたって少女とは言いがたい。彼らが女装するのはとても大変なことだろう。というより、そんな気持ち悪い姿はネイトだって見たくないというのが本音だ。
「周り、見てみました」
「よろしい、それができたら次に自分自身を見つめ直すんだ」
......ええと。
言われるまま、ネイトは自分をじっと眺めた。十三歳の少年、自分では自覚はないが、声も顔もよく中性的と言われている。身長はちょうど周りの女子と同じくらいだろうか。華奢な体格に至っては、男子より女子に近いと自分でも悩んでいるところだ。
「見つめ直しました」
「うむ、答えは出たかな?」
......えっと、ええと。
数十秒考えた結果──
「あはははは......すいません、僕ちょっとお腹が痛くなってきたのでトイレに!」
脱兎の如くネイトは一目散に駆けだした。けれど逃げきる前に、男子の一人にむんずと首根っこを捕まえられて。
「まあ待ちたまえネイト君、ここは一つ、みんなのため犠牲に」
「い、いやだぁぁぁ! 僕は絶対反対ですよ、そんな恥ずかしいこと!」
「ばか、男のくせに情けないぞ!」
「男の僕にまるきり男じゃないことさせる人が言うセリフですか!」
「それはそれ、これはこれ。よし、確か教室のロッカーに演劇で使ったカツラがあったな。とってこよう」
「うわぁぁん、誰か助けて......」
涙を流し校舎の方向を見つめる。と、遥か彼方に、見知った顔の女子生徒二人が仲よく歩く姿があった。
一人はミオという名の小柄な女子生徒だ。人形のような可愛らしい面持ちに、小脇には本を数冊抱えている。
並んで歩くもう一人は対照的にすらりとした長身の女子。黒髪黒目、肩にショルダーバッグを下げている。こちらはサージェス。二人とも自分のクラスメイトである。
「ミオさん、サージェスさん、助けて!」
届いて、僕の声!
願いが通じたのか、二人が校庭にいる自分たちへと振り向いた。
「あれ、どうしたのさネイティ」
棒付き飴を舐めながらサージェスが足をこちらに。
「あ、あのっ、実は──」
助けを呼ぶ人選を誤った。
そのことにネイトが気づくのは、これから五秒後のことである。
「おー、いいところに来た。実はな、ネイトが女装してみたいって言うもんだからさ」
『なんですって、女装?』
キラリと、面白いこと大好きな女子二人の目が輝いた。
「え......ち、違う。僕そんなこと言ってな──」
「オーケイオーケイ、うちらに任せておきなネイティ。お姉さんたちが君を立派な女の子にしてあげる!」
「うっわー、楽しそう! ネイト君てそんな趣味があったんだね。あ、もちろん平気だよ、クルルには内緒にしてあげるからね」
目を輝かせ、手に持っていた荷物を放りだす女子二人。
「うわぁぁっ、もっと別のまともな誰か助け──」
ネイトが再度大声で助けを呼ぼうとするその前に。
「はい、サージェス」
「よしきた、ていっ!」
背後からミオとサージェスの気合いの入った声。それを最後に──
ずしゃっ! という何かが壊れた音。
「う......う~ん」
ミオから渡された分厚い本。それを凶器代わりにしたサージェスによって後頭部を殴打され、ネイトは為す術もなく気を失った。
「女って怖っえ......」
一連の行動を見て怯える男子一同。
「ほらあんたたち何グズグズしてるの、今のうちにネイティを人目につかない場所に連行するのよ! ミオ、よさそうな場所ある?」
誘拐犯顔負けの発言を堂々と言いはなち、サージェスが男子に指示。
「んーと、今の時間なら総務棟一階の、先生たちの待機室とかどう?」
かくして、校庭に倒れたままのオーマを置き去りに、一行はネイトを背負い総務棟へと向かうのだった。







「うん、誰もいないね」
部屋と廊下の様子をうかがう役のミオが合図。その隙に、一行は教師控え室へと侵入した。
「てかここに連れてくる必要あったのか? 単にカツラかぶせて演劇用の女子制服に着替えさせるだけでいいのに」
「ふっ! これだから男ってば!」
哀愁を浮かべ、サージェスがさっと振り返る。
「いい、ここに最高の素材があるのよ! あなたたち、仮に美味しいお肉があった時、それを単に塩振って焼くだけで済ませていいと思ってるの?」
「いや......それが一番うまいと思うんだが」
「分かってない、分かってないわ! 最高のお肉があった時、一流のシェフはおまけの副菜にだって決して手を抜かないことを知らないの? 盛り合わせの野菜、食器、全てを吟味するの! ネイティの女装だって同じことよ!」
「......はあ」
「とにかく男共は黙って見てなさい。というわけでミオ、用意はいいかしら?」
「うん。購買でネイト君に合いそうな口紅と香水、ちゃんとした女性用かつらも買ってきたよ」
いつの間にやら、そう告げるミオの手には大きなビニール袋が握られていた。
「よし、じゃあ始めますか」
嬉しそうに、サージェスは制服の袖をまくり上げた。
自然な色合いの朱の口紅に白粉、女性用の黒髪ウィッグ、それに演劇部から借りてきた女子制服、他にもミオやサージェスが用意した秘密の小道具たち。
それら全てを惜しみなく駆使した三十分後。
「あー、これは......まずい」
「やっべー、普通に区別がつかない。道ばたですれ違ったら俺振り向いちゃうかも」
「......うん、うちらもちょっとやりすぎたかなって反省してる。ねえミオ?」
「うん、ネイト君がまさかここまでとは」
──う、うん?
周囲のざわめきに、ようやくネイトは目を覚ました。
「あ、あれ。僕、なんで気を失ってたんでしたっけ」
後頭部が痛いけど、何が起きたか思いだせない。それに、よく見ればここは教師の控え室ではないか。確か校庭でボール遊びをしていて......
「さあどうしてだっけ、ねえミオ?」
「う、うん。あたしたちネイト君が倒れてたから、ここに連れてきて介抱してただけだよ」
目をそらし、ミオとサージェスまでもが妙に白々しい。
「なんか今いち覚えてないけど、えっと、とりあえず僕もう平気です」
寝かされていたソファーから立ち上がる。その拍子、さっと黒い前髪が視界を過ぎった。
......あれ、僕こんなに髪伸びてたかな。
それに何だか妙に足下がスースーするような。
「ああ、ネイト君がこんなに素敵な子になっちゃうなんて」
「まったく、これならいつお嫁に出しても恥ずかしくないね。お姉さん感激」
なぜか目元をハンカチで拭うミオさんとサージェスさんはさておいて、っと。
ぼんやりと目をこすりながら、ネイトは壁際に立てかけてある姿見へと目をやり──
......え。
目の前に映る自分の姿をたっぷり一分は凝視した後。
「い、いやぁぁぁぁっっ!」
その少女は、とても可愛らしい悲鳴を上げた。
「......悲鳴?」
ふと通路の先から聞こえてきた悲鳴に、ミラー教師は足を止めた。周りを見回すもそれらしい人影はない。だが教師控え室の方向から聞こえてきたような。
見れば、控え室の部屋に照明が点灯しているではないか。
これはおかしい、この時間なら教員はほぼ全員が職員室にいるはずなのに。
「そこっ、誰かいるのか!」
がらりと扉を開ける。びくっと振り向く生徒たち。
「君たち、ケイトが担任のクラス生だな。こんなとこで何をしている、それにさっき聞こえてきた悲鳴は──」
「ミラー先生、ミラー先生、助けてください!」
制服姿の少女が自分にしがみついてきた。いったいなにごとだ。まさか他の生徒からの暴行?
「どうしたんだ、落ちついて」
「みんながひどいんです、僕が寝ている間に──」
少女が顔を持ち上げる。その姿を見た途端、ミラーは驚愕のあまり目を見開いた。
そこには、世にも儚げな少女が立っていた。
艶やかな黒髪に、しっとりと揺れる大粒の黒瞳。どこか陰を帯びた切ない表情に、ほっそりとした華奢な身体つき。ほのかに朱に濡れた小さな唇に、泣きながら訴えてくるその声は。
──い、イブマリー?
よろよろと、ミラーは後方へと後ずさった。
ばかな、かつての自分の同級生の彼女がなぜここに。しかも中等部で最後に見たあの時のままの姿ではないか。
「い、イブマリー......なぜ君が」
「はい?」
「はい、......『肯定』ということかっ!」
「え、あの、ミラー先生?」
黒髪の少女がぽかんと口を開ける。
実のところそれは疑問の相槌だったのだが、ミラーの脳内では「お前は本物のイブマリーか」、「ええ、そうよ」というやりとりに補正されて聞こえていた。
──くっ、どういうことだ。
他人のそら似? だがこの姿、声、まるでイブマリーの生き写しではないか。
他人とは思えない。しかし本物の彼女は俺と同年齢、今目の前にいる彼女の姿はせいぜい十代中盤だ。いやそもそも、彼女は病によって既にこの世を去ったはず。
「あのぉ、ミラー先生?」
イブマリーによく似た少女が顔を覗きこんでくる。そのどこか悲しげなまなざしが、ますます自分の知る彼女のものと一致していた。
夢か幻か? いやそんなはずはない。この声、この姿、圧倒的な現実感。
まさか俺は時間を飛び越え過去に? いやしかし、そんなのはそれこそ児童文学にある物語でしかないはずだ。落ちつけ俺、冷静になるんだ。
「そ、そうか!」
ずり落ちそうになる眼鏡をミラーはかろうじて手で押さえた。彼女の正体を見極める、とても知的で簡単な方法があるじゃないか。
「君!」
「は、はい」
びくりと肩を縮ませる黒髪の少女。
「すまないが、君の姓名は何ていうのかな」
「え......」
「どうした、言えないのかな」
ふふふ、やはり慌てているな。
いかに姿が似ていようとも、イブマリーの姓名は非常に珍しい。他人ながらあまりに酷似している外見から多少は慌てたが、やはり人類の英知が最後には勝つものだ。

「僕の姓名って、先生知ってるはずですよね?」
が、ミラーの心中を欺くように、少女はすらすらと。
「なに、俺が知っていると?」
「イェレミーアスです、知ってますよね」
「なっ......!」
もはや驚きという驚きを超越し、ミラーは呼吸すらままならなくなった。
「そ、そんなっ......やはり君は本物のイブマリー?」
なぜだ、いったい何が起きている。誰か俺に答えを、いやヒントでもいい。とにかくこの訳の分からないままでは......ああっ、頭痛がする。目眩もしてきた。視界が徐々に白くなって狭くなっていく。ついでにお花畑まで見えてきた。
「あの、ミラー先生? ミラー先生?」
「そ、そんな訴えかけるような目で俺を見ないでくれっ! 俺はっ、俺は何も──」
「えっと、ミラー先生さっきからどうしたんですか。って、ミラー先生?」
後ずさりしようとするところを、黒髪の少女にぴたりと密着されてしまった。
その瞬間、とうとうミラーの脳内で何かがぷつりと千切れ──
「......う~んっ!」
ばたりと、ミラーはその場に意識を失った。
「あれ、ミラー先生? 先生?......だめです、泡ふいちゃってる」
倒れたミラー教師をソファーに寝かせ、ネイトは後ろのメンバーに振り向いた。
「あの、なんでミラー先生ってば僕のこと見て倒れちゃったんでしょう」
その問いにミオやサージェス、男子一同は互いに顔を見合わせた。
しばしの沈黙の後、彼らは口を揃えて。
「悩殺、かな?」
2
十分後。護身部の部室の扉を叩く、黒髪の少女の姿があった。
「あの、すいませんー」
オーマが訪ねた時はまるで反応のなかった金属製の扉。それが、錆びついた音をたてて開いていく。......うそぉ、本当に開いた。
「あら、あなたは?」
癖のある銀髪を背中で一つに結わえた、道着姿の少女が顔を覗かせる。
中からどんな怪物じみた豪傑が出てくるのか。ネイトの勝手な想像と対照的に、現れたのはそこいらの女子生徒となんら変わらない少女だった。
「あの......見学させてもらえないかなって。だ、だめですか」
「構わないわよ。さ、入って」
「ほ、ホントに?」
「もちろん、見学希望者は大歓迎だもの」
まさかこれすら罠? いやでも、本当に僕が女の子って信じてる気もするし......
不審に思いながらも、ネイトは護身部の室内へと案内された。
血だらけで帰ってきたオーマの姿を思いだす。室内にはさぞや怖ろしい光景が広がっているに違いない。そんなネイトの予想は、室内に一歩踏み入った時点であっさりと覆された。
二十メートル四方ほどもある明るい室内に、温かな橙色の壁。文芸部が利用する部屋だと言っても十分通用するだろう。ただ一つ違うのは、衝撃を吸収する特殊な柔らかい床の上で、数名の道着姿の女子が柔軟体操をしていることだろうか。
「部長、見学希望者をお連れしました!」
耳元で、鼓膜が破れそうになるほどの声で付き添いの少女が叫んだ。
「む、見学希望者か。よくぞおいでになった」
部屋の中央、瞑想していた長身の女子生徒がゆっくりと目を開けた。短く切りそろえた深い紺色の髪に、獅子の類を思わせる金色の切れ長の瞳。鋭利な顔のラインに加え、額に巻いた白地のハチマキが全体の印象を一層引き締めている。
「部長を務めている三年のイフレティカだ。そちらは何と申す?」
何やらふしぎな口調の部長である。
「え、ええと......ネイ......」
ネイトと思わず言いかけたものの。
「イブマリーです、はい」
「イブマリー殿よくぞ参った。心ゆくまで見学されると宜しい。しかし──」
じろじろと、突き刺すような視線のイフレティカ。
「な、なんでしょう」
この鋭い眼光はただ者じゃない。まさか、一目で僕が男だってバレた?
「イブマリー殿、このけしからん腕はなんだ!」
「ひゃっ、ひゃぁっ!」
反応する間もなく、片腕をとられて制服の袖をまくり上げられた。まずい、二の腕を見られたら自分が女子でないことなどさすがに一目瞭然だ。
──ああっ、やっぱりばれてるんだ!
「ご、ごめんなさい! ただの出来心で」
「かような細腕ではもしもの時、下劣な痴漢に対抗できんぞ! なぜもっと早く我らが部に入らなかった!」
「......は、はい?」
「しかし安心されよ。今日から総勢三十四名の同志がお主の盾となろう。その間、ひたすらに護身の道を歩まれるが良い」
「もしかして僕......じゃなかった、わたし、そんなに弱そうですか」
「うむ。まったく、それでよく今まで無事でいたものだ」
──本当に身体鍛えようかな。
ネイトは少しだけ悲しい気持ちになった。
「まあそうしょげるな。努力次第では今からでも十分間に合う」
「......はい」
しょんぼりとした顔をゆっくり持ち上げる。その拍子、イフレティカのすぐ背後の位置に、オーマが蹴飛ばしたボールが視界に映った。
「あ、これは」
ボールに手を伸ばした途端。
「いっかああぁぁぁんっ!」
猛烈な形相で、ずいっとイフレティカが顔を覗きこんできた。
「は、はひっ!」
「イブマリー殿、それに触れてはならん。それは邪悪な男連中が我らが聖域に放った暗黒物質であるぞ!」
あ......あんこくぶっしつ?
「だ、だめですか」
「うむ。つい先ほどなのだが、校庭から突如ボールが窓硝子を割って入ってきてな。しかもその張本人があろうことか、命知らずにも我が部の扉を開け入ってきた」
「その人って、もしや鳶色の髪と目をしてた男の人?」
「風貌はあまり覚えてないな。ただ最後に仲間を呼んでいたのか、『ネイト......ネイト!』と呟いていた気もするが」
......ああっ、オーマさん、あの時助けに行けなくて本当にごめんなさい。
それを聞き、ネイトはとっても悲しい気持ちになった。
「しかし惜しい。もしその仲間が来ていれば、正義のトゲ付き鉄球で二度と立ち上がれぬくらい全身めった打ちにしていたのだが。悪を討ち滅ぼすチャンスだったのに」
「............」
「そうは思わないかなイブマリー殿」
「そ、そうですよね、あはははは」
......あー、僕、行かなくて良かった。
オーマのことは忘れ、ネイトはそっと胸をなで下ろすことにした。
「ええと、ここの活動目的って身体を鍛えることですか」
「いや、それはあくまで目的を達するための手段。本来の目的はその名のとおり護身! 特に我らが敵は痴漢、しかしあえて言えば世の危険な男連中全てである」
目に炎を灯し、拳を握ってみせる護身部部長。
「あの、なんでそんな男の人を目の敵に?」
「うむ、話せば長くなるのだがな。まあとりあえず、イブマリー殿も腰を落ちつけられると宜しい」
自ら率先して腰を下ろす彼女に従い、ネイトもその場の床に正座した。
「そう、それは二年前。私がまだこの学園に入ってまもなくのことだった」
遠い目で部室の天井を見上げるイフレティカ。
「今思いだすも怖ろしいが、あの頃は私にも彼氏というものがいた。その頃の付き合いは順調で、一月、二月と穏やかな時間が流れていた。しかし付き合って三か月目、とうとう私は、彼氏の邪悪な一面を垣間見ることになった」
「邪悪な一面?」
「それは彼氏の誕生日。何か欲しい物はあるか。そう訊ねる私に、彼は『君の作った料理が食べたい』と言ってきてな」
......なんか、ものすごく幸せそうなカップルに見えるんだけどなあ。
「その頃の私はまだ男の言葉にほいほいと流される女だったゆえ、彼の言うとおりにすぐさま料理の本を買ってきた。何を作るか三日三晩悩んだ挙げ句、私は図書館で勧められた恋愛マニュアルに従い、基本に忠実に攻めることにした。そう、誕生日のケーキだ!」
恋愛マニュアル。なぜそこでそんな怪しげな本が出てくるのか気になったが、ネイトはあえてそれには触れないことにした。
「しかしそれをそのまま作っても仕方ない、せめて少しでも工夫しようと思い、私は材料の苺を市販のものでなく、近くの苺畑から手摘みで取ってきた」
「あー、いいですね。そういうの嬉しいと思います」
「そうだろう? そして彼氏の誕生日、私はできたてのケーキを彼に贈った。しかしそのケーキを口にした途端、彼の顔が豹変した。口に残っていたケーキを吐きだし、さらにはあろうことか、『これはケーキじゃない、ケーキの皮を被った猛毒兵器だ!』と私の前で大声で叫んだのだ」
「美味しくなかったからですか? でもそれはさすがにひどいですね」
思わず同情の念を抱くネイトの前で、彼女はふっと寂しげなまなざしで。
「そうだろう? たかだか塩と砂糖を全部間違えたくらいなにさ」
「塩ケーキっ!?」
「いいや、しょっぱいケーキくらい愛があれば食べられる! そうではないかな?」
「ええと......まあ死ぬほど無理すれば」
「摘んできた苺が全部、誤って野生の毒苺だったとしても愛があれば」
「毒殺ケーキっ!? それは愛があっても無理です!」
当時の彼氏が思い浮かべたであろう台詞を懸命に代弁してみたものの、彼女には届いていないようだった。
「彼氏は腹痛を訴え私の下から去っていった。それが、私が彼を見た最後の姿だった......その晩、一人残された私は泣きながらそのケーキを完食した」
「ていうか完食したんですか毒殺塩ケーキ!」
ネイトの突っこみにも動じず、イフレティカは目の端に光る雫を浮かべたまま。
「ふ......涙に濡れたケーキの塩辛い味は、今でも忘れることのできない思い出だ」
「涙じゃないです! それ絶対、涙の味じゃなく元々の塩ケーキの味ですってば!」
「あのずきずきと迫る胸の痛み。私は一週間入院することになってしまったよ」
「それも絶対、失恋のせいじゃなくてもっと現実的な毒が効いてますってば! 毒苺入りケーキなんだもん!」
「そして私は悟った。男という存在は純情な女心につけこみ、油断させたところで一気にその気持ちを裏切る魔物だとっ!」
「どっからどうみても逆恨みだぁぁーっ!」
......だめだ。何から何まで理不尽なことばっかりなのに、あまりの力強さに思わず頷いちゃいそう。頑張れ、負けるな僕。
「しかし幸運なことに、私の思想に賛同してくれた同志が私を含めて既に三十五人」
「あの、それってわたし(僕)、既に数に入ってませんか」
「当時は『女子同士、心身共に鍛えてみないか』だったり『運動して瘦せましょう』などのキャッチフレーズも活用したが、それも今となっては懐かしい。ていうか今も看板の文句にはそう書いてるけれど」
「それ全然思想に賛同してないってことじゃないですか!」
今度こそ、ネイトは頭を抱えて絶叫した。
「そのようなわけで、イブマリー殿も安心して我が部で研鑽を積まれると良い」
「......修行の過程で、人として大事な何かを失いそうなのが怖いです」
うん、もうこの人の話は聞いたフリして聞かない方がよさそうだ。気を取り直して頑張ろう。僕の目的はあくまでボールの奪回だもの。
「あのですね、でもこの部室にあんなボールを置いてても仕方ない気がしませんか?」
「む、まあそれはそうなのだが」
急な話の転換に、イフレティカがぽかんとしたまなざしで腕を組む。
「それならわたし、外まで持っていきますよ」
「確かに、こんなものをいつまでも室内に置いておくわけにもいかんな。済まないなイブマリー殿、見学に来たばかりというのに気を遣って頂いて」
「いえいえ、任せてください!」
ひょいっとボールを持ち上げ、ネイトは足早に玄関へと歩いていった。
──よし、これでこのまま帰っちゃえば任務成功だ。
ボールを片手に、もう片手で扉の取っ手に触れる。しかしネイトが扉を開ける直前に、扉が勝手に開いていった。
......あれ?
「あ、ごめんなさい。同時に扉開けようとしてたみたいね」
風にさらりと舞う自分の髪を押さえ、目の前の少女が苦笑する。背中まで伸ばした緋色の髪にすらりと伸びた細身の長身、端整でやわらかい顔だちの少女......っていうか。
「っく、ク......」
──く、クルーエルさんっ、なんでここに?
危うくネイトは彼女の名を叫んでしまうところだった。自分の親しいクラスメイトの彼女が、あろうことか護身部の扉の前に立っていたのだ。
「え、わたしがどうかした?」
紫色の瞳をぽかんと見開くクルーエル。
......そういえば。僕がトレミア・アカデミーに転入してきた日。
〝あら。わたしいつも部活動で鍛えてるのよ〟
〝部活動?〟
〝護身術。一人暮らしするんならって、ミドルスクールの時から親に習わされたのよ〟
ああああっ、僕のばかばかばかっ!
なんで今まで気づかなかったんだろ。彼女が護身部だったなんて最初から分かってたことじゃないか。
一気に背中が冷たくなった。他の護身部部員ならともかく、毎日顔を合わせている彼女の前では、自分の正体がばれるのも時間の問題だ。
「どうしたの、どこか苦しいの? 部長、この子少し体調が悪そうなんです。顔色が真っ青だし、すごい汗」
「い、いえ、平気です! 平気です、平気ですってぇええ!」
必死の抵抗もむなしく、ボールを抱えたままネイトは室内へ引きずりこまれた。......うぅ、あと数歩で部室の外に出られるところだったのに。
クルーエルと部長の間に挟まれた状態で座らされる。しかし座った途端、左に座るクルーエルが顔をじっと覗きこんできた。も、もしや──
「ねえ、あなた前にもどこかで会った?」
やっぱりだ、クルーエルさんてば僕のこと怪しんでる?
「い、いいいいえええ、断じて会ったことなんか」
「そうだったかしら。ごめんね、わたしの知ってる男の子と髪の毛とか目の色とか、顔の雰囲気もすごい似てて」
「かっ、顔なんて他人のそら似でいくらでも似てる人がいると思いますです! 初めてお会いしたかと思いますっ!」
息を荒らげて顔を逸らそうと──したところで、顔を背けて右を向けば、そこにはイフレティカ部長が座っていることを思いだした。
左にはクルーエル、右には部長......絶体絶命だ。
「うむ、そうだイブマリー殿、ところでな」
「イブマリー?」
......まずい。
ぴくんと、それを聞いたクルーエルが振り向いたのが気配で分かった。
「イフレティカ部長、イブマリーって──」
クルーエルが口を開けるその前に。
「メリーです、イブメリーっ! 断じてイブマリーなんかじゃありません!」
「む、そうだったか。すまんなイブメリー殿、私の聞き間違えのようだ」
噓の上塗り成功!
だけど、ますます泥沼にはまっていく気がするのはなんでだろう。
「ところでだイブメリー殿、せっかくだから見学と言わず、実際にここで汗を流していかれてはいかがかな。道着もあるし、更衣室もほら、そこの扉脇に見えるのが入口だ」
「────え?」
イフレティカの一言に、ネイトは全身凍りついた。
......僕が、女子更衣室で道着に着替える?
「クルーエル、お前もいつまでも制服でいないで早く道着に着替えてこい。そうそう、ついでにイブメリー殿の道着のサイズも見てやってくれ」
「分かりましたー。じゃ、行きましょ、イブメリー?」
やばい。ちょっとだけ未来の光景を思い描き、ネイトは息を呑んだ。
更衣室に行く。制服を脱がされる。男というのがバレル。そうなればおしまいだ。間違いなくその場で半殺しにされるに違いない。
それに加えクルーエルからはきっと、「キミにまさかそんな趣味があったなんて。......最っ低!」と冷酷な視線で。クラスの皆からはもちろん、教師からも「あの生徒は女子更衣室に忍びこんだんだ」と噂されることだろう。
さらにさらに話は肥大化し、「あいつ、女子更衣室に入って女子の道着を盗むのが趣味らしいぜ」、「俺も聞いた。真夜中を狙って忍びこむことから、裏の業界では夜色女装士と称されているんだとか」なんて、そんな噂まで。
......僕の人生終わりだ。
妙に凝った展開を思い浮かべ、ネイトの全身からどっと冷たい汗が噴きだした。
「いえいえ、わたし本当に見学だけで十分ですから。そんなに気を遣って頂かなくても」
「ううん、遠慮しなくて平気よ。うちの部長は女の子にはすごく優しいから」
一部分だけやたらと強調し、クルーエルが迫る。
「あ......あう......」
どうしよう。いや諦めちゃだめだ、幸い見張りはクルーエルさん一人、ならどうにか隙を見て抜けだせば──
「ふむ、その謙虚さは今時珍しいぞ。気に入った、私の愛用しているトレーニング機器の予備が更衣室にあったはずだ。それをイブメリー殿に授けたい、私も更衣室まで同行しようか」
前門の虎、後門の狼。
......終わった、何もかも。
「さすが部長、優しい。じゃあ私先に行って着替えてますね。あと部長のトレーニング機器も出しておきます」
先に更衣室へと向かうクルーエル。その背中をイフレティカは指さして。
「うむ、では私たちも行こうかイブメリー殿」
既にクルーエルが更衣室で待機。そして自分のすぐ背中にはぴったりと部長がついている。この二人に見張られてる中で更衣室から逃げだせるわけがない。
ネイトが諦めかけたその時。
「むっ、男の気配!」
突然にイフレティカが扉の方向を睨みつけた。それと同時。
どしんという音を立て、金属製の扉が勢いよく蹴り開けられた。現れたのは、校庭で待機しているはずの男子生徒たちだった。
「待たせたなネイト、助けに来たぜっ!」
「ネイトとボールを返せぇぇっっ!」
防災ヘルメットに掃除用のモップという珍妙な武装だが、今のネイトには彼らが歴戦の勇者に見えた。
──みんなっ、助けに来てくれたの? 嬉しい、嬉しいよ。だけど。
「甘いわっ、その程度の装備で私に勝てると思ったか!」
「うっ......ぐはぁっ!」
どこからともなくイフレティカの取りだしたトゲ付き鉄球で、総勢五人の勇者たちは悲鳴を上げて部屋の壁まで吹き飛ばされた。
......ああっ、僕が言うのもアレだけどなんて頼りない。
「さてはお前ら、先ほど入ってきた男の仲間だな。よい機会だ、黒幕の名を教えてもらおうか」
鉄球を目の前で掲げ、妙に酔った台詞と仕草でイフレティカが迫る。
「......ふ、断る。男が仲間を裏切るなんざ死んでもできねえ!」
勇者たちは男くさい笑みを浮かべ、頑なに口を閉ざしたままだった。どうやら彼らも場の雰囲気に酔ってしまったらしい。
──あ、でも今もしかして、これが最後の機会?
こっそりと、ネイトは制服に忍ばせておいた黒曜石の欠片を取りだした。
「ふん、いいだろう。ならば覚悟はできているな」
イフレティカが鉄球を振り上げ、男たちに向かって叩きつける。
それと同時。
──『Ezel』──
ぶわっと、部屋の中が真っ黒い濃霧に包まれた。
「な、なんだこれはッ、火事か? イブメリー、まさかお前が!」
イフレティカ、そして部員の少女たちが動揺の声を上げる。
「ボールは頂きます、さようならっ!」
「お、おのれぇえ!」
ボールを小脇に抱え、ネイトは男子五人と共に死に物狂いで護身部の部室から逃げだした。しかし安堵の息をつく間もなく、背後では追っ手の迫る足音が。
「待てぇぇい悪漢ども!」
「誰が待つかぁ!」
ミオやサージェスたちが待機しているはずの総務棟へとひた走る。
その途中。
「なんだなんだ、やけに護身部の方向が騒がしいな」
「あれ、あの煙何かしら。火事でも起きたのかしらね」
並んで歩く、赤いシャツを着たゼッセル教師と、こちらは白のブラウスを着たエンネ教師の姿があった。
「あ、ゼッセル先生、エンネ先生いいところに! 僕たち追っ手に追われてるんです、助けてください!」
ネイトのよく知る教師二人である、彼らなら自分たちを保護してくれるだろう。しかしその二人の教師は、自分を見た途端。
『い、イブマリーっ? なぜその姿でここに!』
あろうことか、なぜか慌てて後ろに後ずさりしはじめた。
「え、ど、どうしたんですか」
二人に駆け寄り、ネイトが二人をじっと見上げると。
「ねえゼッセル先生、エンネ先生ってば! なんで逃げるんです?」
『う、うそだ、そんなはずが────う、う~ん......』
ミラー教師と同様、二人は仲良く泡を吹いて倒れてしまった。
「えっ、ちょっと! なんで二人して倒れるんですか、立場が逆ですよ。ねえってば!」
総務棟にて、黒髪の少女の声だけがいつまでも悲しくこだましていたのだった。
3
その翌朝。トレミア・アカデミーの校舎一帯に、「お尋ね者、発見者には金一封。名前はイブメリー、あるいはイブマリーの可能性もあり」という貼り紙で、黒髪の儚げな少女の似顔絵が掲示されるのだった。
なおそれを見たミラー教師やゼッセル教師、エンネ教師がまたしても気を失って倒れるという謎の現象が起きるのだが、その理由は他の教師たちにも謎のままだった。
また校舎の一角では──
「ねえネイト、この子ってもしかしてネイトの知り合い? なんか雰囲気が似てるけど」
「ううん、そんな人全然知りません!」
「そう? でもイブマリーって......あと部室にすごい黒煙がたちこめて......部長は火事だって言ってたけど、あれはまるで夜色名詠の──」
「偶然ですっ! さ、そんなの見てないで早く教室に行きましょう!」
ポスターを見つめるクルーエルの手を取り、急いで歩きだすネイトの姿があった。
さらに後日。
どこから情報を入手したのか、例の少女の似顔絵を握りしめた一人の某虹色名詠士が、トレミア・アカデミーに息を切らせて駆けこんできたという噂も流れたのだが──
その真相は、いまだ不明のままである。
黄奏 『走れ、そいつはあたしのだ!』
0
大陸辺境の地に建設された名詠専修学校、トレミア・アカデミー。うっすらと色づきはじめた学園内の木々、芝生をゆらす秋の薫風。
「秋も深まってきましたね」
「うむ、つい数日前まで夏の陽気かと思っていたが」
総務棟一階の学園長室で。
トレミア・アカデミーの創設者、ゼア・ロードフィル学園長は窓向こうの景色をじっと見つめた。教師長ジェシカの淹れたハーブティーの香りを楽しみ、移りゆく景色を眺める。ここ数年のゼアの楽しみの一つだ。
「なあジェシカ君、そろそろアレの季節かな」
窓向こうを見据えたまま、飲み終えたティーカップを机に置く。
「ええ。今日の朝一番にアレの貼り紙を各校舎内に掲示しておきました。教師たちの間でも、どの生徒が優勝するかなんて話題が少しずつ出てきましたわ」
「ふ、今年は一年生にも有望な子がいるようだしな。今から楽しみだ」
愉快げに口元をほころばせ、ゼア学園長は満足そうに腕組みした。
1
「あれ、みんなどうしたんだろう」
一年生校舎の玄関にできた人集りを遠目に眺め、ネイト・イェレミーアスは首をかしげた。年齢は十三、幼い中性的な顔だちに夜色の髪と瞳をした少年である。
「僕ここからじゃ見れないです、クルーエルさん見えますか?」
「ううん、わたしも無理。すごい数だもん」
隣を歩く、緋色の髪をした長身の少女が首を振る。
クルーエル・ソフィネット──ネイトの最も親しい少女でもある。ネイトは学園の男子寮、クルーエルは女子寮住まい。今日はたまたま登校途中で出くわして、そのまま一緒に校舎へ向かう途中だったのだ。
「でも、何かおっきなポスターがあるみたいよ。さすがに内容までは見えないけど」
つま先立ちになるクルーエルが、人集りの方向をじっと見つめる。
「ポスターですか?」
今日突然に掲示され、それを目的に数十人が一斉に群がっているらしい。何か大事な情報なのだろうか。
「うーん、でも試験は当分ないはずだし、講義が休講っていうのも聞いてないですよね。なら、今すぐじゃなくてもいい気がするんですけど」
「それもそうね。こんなことで遅刻するのも嫌だし」
ここで時間を浪費しては朝の出席確認に遅れてしまう。気になる気持ちを堪え、ネイトとクルーエルは自分たちの教室へと向かうことにした。
「おはようございます」
ネイトが教室の扉を開けたその途端。
「ネイト君、クルル、大変だよっ! これこれ、コレ見た?」
金髪童顔の少女、ミオが猛烈な勢いで走り寄ってきた。その片手には一枚のパンフレットがぎゅっと握りしめられている。
「あれ、このパンフレットってさっき玄関に貼ってあった物の写し?」
ミオの握る紙をクルーエルがしげしげと見つめる。
「うんうん、総務棟の一階に何百枚って積んであったからクラス分持ってきたの! はい、これネイト君とクルルの分だよ!」
「......『徒競走大会、参加者大募集!』? なんですかこれ?」
「登山部の先輩が言うにはね、毎年やってるマラソン大会らしいよ」
ミオの代わりに答えたのは、艶やかな黒髪にすらりと伸びた長身の少女サージェスだ。
「夏の競演会は全員参加だったけど、徒競走大会は自由参加なんだって。ネイティはどうする?」
「えっと、まだどういうのかよく分かってないですし、みんなが出るなら出ようかなって。クルーエルさんはどうします?」
隣に立つクルーエルと顔を見合わせると、彼女は少し考えた後。
「走る距離とコース次第で要検討かな。詳しいことって分かる?」
「ふふふ、それについてもチェック済みだよ~」
懐からごそごそと、しわくちゃのメモ用紙をミオが取りだした。
「コースはね、校庭から一斉スタートして、学校の裏門を抜けて裏山へ。裏山をぐるっと一回りするコースだって」
トレミア・アカデミーの背にある裏山を散策する道。放課後にネイトも試しに回ったことがあるが、徒歩で三時間ほどかかった記憶がある。となれば走る距離もそれなりだろう。
「ちょっと長い距離みたいですね」
「そうね、秋の紅葉を見ながらゆっくり歩くのなら楽しそうだけど」
ネイトとクルーエルが思うままを口にする。しかしその反応に、黙っていたサージェスが突如大声で。
「なーに言ってるの! ネイティもクルーエルも、これを見なさい!」
サージェスがパンフレットを裏面へとひっくり返す。そこに記載された内容をネイトは穴が空くほど見つめ──
「へえ、優勝特典すごいんですね」
パンフレットによれば、参加者にはまず特別単位が進呈されるらしい。
それから優勝者には『一年間学費の免除』、『学食一年間食べ放題』、さらには学園長のコネで『競闘宮観戦ツアー、特別来賓席で見られる激レアのペアチケット三泊四日』のどれかを選択する権利が与えられるとのことなのだ。
前二つは学生にとって喉から手が出るほど欲しい特典。競闘宮の観戦ツアーだって特別来賓席となると、それこそいくらお金を積んだとしても手に入るものではない。
「すごいです、こんな豪華な優勝特典だなんて」
思わずネイトも驚きの声を上げていた。
「でしょでしょ、絶対優勝して賞品頂かないと!」
はしゃぐミオ。けれどただ一人、クルーエルはじっとパンフレットを眺めながら。
「でもマラソンで優勝っていっても、毎日運動部で走ってる人に勝つのは難しくない?」
「ふふふ、それがただのマラソンじゃないらしいんだよ。この徒競走大会ね、名詠式もアリ、何でもアリの大会なんだってさ」
......えっと、それって。
天井を眺めしばし考えた結果、ネイトは控えめに手を上げた。
「それってつまり、名詠で詠んだ名詠生物を使っていいってことですか」
「そのとおり! たとえば白色名詠で白馬を詠べる子なら、その白馬に乗ってゴールしてもいいんだよ。さらに言っちゃえば、実際の危険を伴わない程度なら名詠による他生徒への妨害もアリなんだって!」
身振り混じりで熱っぽくミオが拳を握る。
「妨害?」
「うん。去年とかね、青色名詠で水を詠んでさ、名詠された馬の足下をぬかるませるっていう程度なら許されたみたいだよ」
なるほど、名詠式で詠びだした名詠生物が可なら、名詠式で逆にそれを妨害するのも許される。確かに名詠専修学校ならではの独自ルールだ。
──うーん、どうしよ。そのルールなら僕も何とかなるかなあ。
「ねえ、ネイト」
不意に、こっそりとクルーエルが耳打ちしてきた。
「ネイトの夜色名詠ってさ、黒馬詠べたよね。あれに乗れば割と有利じゃない? あと、真っ黒い煙詠べば煙幕にもなりそうだし」
「クルーエルさんこそすごいの詠べますよね」
ネイトの扱う名詠は、通常の名詠五色とは異なる異端の夜色名詠。使い方次第で徒競走大会でも生徒を驚かせることもできるだろう。かたや、赤色名詠に対して驚異的な潜在力を持つクルーエル。
「......せっかくだから一緒に出てみる?」
「......出てみましょうか」
互いにこそこそと呟きあっていると、ミオがひょっこりとその様子を覗きこんできた。
「ね、ね、二人とも出てみない? それともやっぱり出ない?」
「えっと......ど、どうしましょうクルーエルさん」
「さ、さあ。どうしよう。ちょっと考えさせてね」
ミオの再度の誘いに、ネイトとクルーエルは揃って白々しく明後日の方向を向いたのだった。
その集団から離れた場所、教室の隅で──
「ふ......ちょうどいい機会ね。エイダ、春の部室争奪戦での決闘、あの時の決着をここでつけるとしませんこと?」
可愛らしい字体で『料理研究会キリエ』と刺繡の入ったエプロンを着けた少女がいた。
「望むところさ。けど、あたしらが戦っている間に他の連中がゴールするのも癪だね」
そして同じく、『鎗術会エイダ』と刺繡の入った運動着を着た少女の姿も。
「確かにわたしもあなたも名詠式の技術はまだ未熟。一度足の速い名詠生物を詠びだされれば面倒になる。ならばここは、序盤は互いに邪魔者を排除するということでいかが?」
「それでいこう。その後、どっちが優勝できるかで勝敗を決するってことで」
「そして負けた方は一か月、勝った者の鞄持ちと宿題代理」
「ふっふっふ、あたしやってもらいたい宿題がたんまりあるんだよね」
「あら、あなたこそ今から鞄持ちの練習をしておいた方がよいのではなくて?」
怪しげな笑みを撒き散らし、それぞれ鎗と包丁を研ぐ二人の少女。クラス四大暴走娘の中でも武闘派二強とされるエイダとキリエである。
彼女たちの迷惑極まりない企みを、まだネイトたちは知らなかった。
2
徒競走大会、当日──
会場となる校庭は、開始一時間前にもかかわらず参加生徒で埋めつくされていた。
「いやー晴れたな。雲一つない青空ってこんなのを言うんだよな」
降りそそぐ日射しに、運動着姿のオーマが眩しそうに目を細める。鳶色の髪と目をした男子生徒で、ネイトたちの教室でクラス委員を務める少年だ。
「さっき受付の人に聞いたけど、参加生徒はちょうど千人くらいだそうですよ。学校の三分の二くらいの人が一斉に走るみたいです」
彼と並びながら、ネイトはスタート地点へと向かっていた。
「そんな走るのかよ! まあ参加するだけで単位もらえるしな......あーけど優勝厳しそ。ん、あれ、キリエ何してるんだ?」
オーマが見つめる方向にネイトも振り向いて。
「はい先輩方、料理研究会から差し入れです。水分補給していないと途中で倒れてしまいますよ」
左肩に参加者番号444と書かれたゼッケンを縫いつけた、白い運動着姿のキリエ。
準備体操をするわけでもなく、なぜか彼女は両手にバスケットを持って、小瓶入りの飲料を配っていた。それも主に、見知らぬ上級生たちに。
「キリエさん?」
「あら二人とも、もう来てたのね」
ドリンクを配る営業用の笑顔から一転、普段のどこかとぼけたような笑顔になる彼女。
「うまそうなの配ってんじゃん。俺らの分もある?」
ドリンクに手を伸ばそうとするオーマに、キリエは悲しそうな表情で首を振った。
「ごめんなさい、あなたたちの分は用意していないの。本当は作りたかったんだけど、ちょっと予算の関係で上級生たちの分だけで精一杯で」
「そっか、残念」
「ええ、本当に............ふふ、命拾いしたわね二人とも」
ぼそっと何やら小声で呟く彼女。
「え、キリエさん今何か言いました?」
「なんでもないわ。それじゃ二人とも、大会頑張りましょうね」
優雅な仕草で金髪を搔き上げ、すっと去っていくキリエ。彼女と入れ違いに現れたのは緋色の髪の少女だった。
「あ、いたいた。おはようネイト」
「おはようございますクルーエルさん。あれ、その恰好?」
運動服姿ではなく、彼女は普段の制服のままだった。
「それがね、ちょっと風邪ひいちゃって」
くしゅん、と小さくくしゃみを繰り返す彼女。
......あれ、おかしいなあ。昨日までクルーエルさんすごく元気だったのに。
『というわけだ、今回走るのはネイト一人だな』
その肩に、夜色のトカゲが留まっていた。外見は小猫ほどの大きさのトカゲだが、その正体は、今は亡き母からネイトが預かった名詠生物である。
「あれアーマ、寮にいたんじゃなかったの」
「ん、呼んだか」
しかし、振り向いたのは離れた場所にいたオーマだった。
「ああ、いえ違います違います。......偶然、なんかすごく紛らわしい名前だけど」
『なにやら学校が騒がしかったのでな。それが気になって抜けだしてみれば、ばったり小娘と出会ったわけだ』
クルーエルの肩からネイトの肩に飛び移る夜色トカゲ。
「そっか、残念ですけどクルーエルさんはお休みですね。ゆっくり観ててください」
「うん。このトカゲと一緒に観戦してる。頑張ってね」
『まあ待て小娘、実は我は先約が入っていてな』
予想外なアーマの台詞に、ネイトとクルーエルは揃って首をかしげた。
「先約?」
『うむ、ミオに呼ばれている。それと小娘、お前が使わないゼッケンをもらうぞ』
クルーエルのゼッケン669番を背中に負うアーマ。その恰好だけ見れば、まるでゼッケンをつけて参加する選手のような雰囲気だ。
『小娘が使わないゼッケンは本部で引き取るらしいからな。ミオのところまで持っていくらしい。というわけだネイト』
「うん、分かった。でもあんまり人目につくようなことしちゃだめだよ」
無言で頷き、背の翼を広げて夜色トカゲが飛んでいく。
と、前触れなく──
《はーい、参加者の皆さんは校庭に集まってください。開会式が始まります~!》
校庭の拡声器から、聞き覚えのある妙にあどけない声が。
「......ミオさん?」
「そういや大会の運営補助やっても単位もらえるって、ポスターに書いてあったっけ。うちの女子はそういうのしっかりしてんな」
腕を組みオーマが苦笑。
《さてさて、本日は天気にも恵まれ、絶好の大会日和となりました。ここに第六回秋の徒競走大会の開会を宣言します。参加選手の皆様、よろしくお願いいたします~》
校庭に、のほほんとしたミオの声がこだまする。
《まずは大会本部役員の紹介です。本部委員長は我らがゼア学園長、スケジュール管理はミラー先生。司会は僭越ながら運営補助役員の一年生、あたしミオがお届けしま~す!》
「......ミオってば、まんざらでもなさそうね」
「すっごい楽しそうですね」
呆然とした表情のクルーエルにネイトも首肯した。
《さて本日は今大会のため、多忙にもかかわらず三人の著名な来賓がいらっしゃいました。まずは一人目、解説役も引き受けてくださったサリナルヴァ先生、どうぞ!》
サリナルヴァ?
聞き覚えのある人名にネイトは思わず振り向いた。
《あーあー、マイクテストマイクテスト。うむ、いい感じだ》
本部内に設けられた来賓席。そこに座っているのは、濃緑色の髪をした長身の女性研究者だった。簡素な服装の中で色鮮やかな赤のハイヒールが妙に目立つ。
《さて諸君、トレミアと相互協力契約を結んでいるケルベルクのサリナルヴァだ。君たちの血湧き肉躍る壮絶な激闘、そして貴重なサンプリングデータを期待しているぞ》
......紛れもなく本人だった。
《サリナルヴァ先生のコメントでした。では次の来賓、この方には本部の仮設医療所の責任者も特別に引き受けて頂きました。それではティンカ先生、メッセージをどうぞ》
ティンカ?
またも聞き覚えのある人名。まさかやっぱりあの人? でも、あの人はつい最近までトレミア・アカデミーにいてくれて、その間に他の仕事も溜まってるって言ってたけど。
《もしもし、聞こえていますか、もしもし? はい、よさそうですね》
来賓席に座る白いブラウス姿の女性が控えめに発言。白銀色の髪に瑠璃色の瞳をした、煌びやかな印象の女性だ。
《仮設医療所の責任者を務めさせて頂きます、ティンカ・イレイソンと申します。皆さん、負傷した時は速やかに来てくださいね。今なら診察代もお安くしておきますので》
......こちらも紛れもなく本人だった。
《以上、ティンカ先生のお話でした~。ちなみにティンカ先生は、この学校の一年生キリエさんの親戚でもあるんですよね? 彼女に向けて何か応援メッセージをどうぞ》
《──キリエちゃん、負けたら分かってるわよね?》
《えー......っと、なにやら妙に怖いけど気を取り直していきましょう! それでは最後の来賓紹介! この方こそ〈イ短調〉が誇る、知る人ぞ知る大英雄。トレミア・アカデミーともつながりの深い──》
ミオの放送に周囲がざわつきはじめる。
大英雄。そしてトレミア・アカデミーに馴染みある人物といえば。
「もしや、カインツ様?」
伝説の虹色名詠士の名を呟き、エイダやサージェスが目を見開いた。
《もうお分かりの人もいるでしょう、そうですこの方! さあ、お願いします!》
校庭に集う生徒の目が一斉に本部へと釘づけになる中で。
《......ごほっ、ごほん。......えー、祓名民の元長老、ルーファ・オンスだ。いやー、若者諸君の張りきる姿を見ていると、儂もまるで若返ったような気がする。大いに結構、存分にやりたまえ!》
現れたのは、みすぼらしい紺色の衣装を纏った小柄な老人だった。
「誰、あの爺さん」
「わかんね。偉い人なの?」
周囲の学生がひそひそとささやきあっているのに交じり。
「......お願いだから身内ばっかり集まらないでよ。特にルフ爺、いい歳して嬉しそうにマイクなんか握っちゃって......恥ずかしいったらありゃしない」
突然現れた大勢の応援に、エイダだけが顔を真っ赤にしてほろりと涙を流していた。
「あのさエイダ、〈イ短調〉の人たちってみんな暇なの?」
「いや、あの三人が特別。ルフ爺は名目上はとっくに引退済み。サリナとティンカは元からこういうお祭り騒ぎ大好きだから......まあクルーエルがそう思うのも無理ないけど」
がっくりと肩を落とすエイダをよそに、ミオの声が再び拡声器から響き渡る。
《さてそれでは、現時点での有力生徒とみなされる今回の人気選手四名を発表します!》
人気選手? 馴染みのない単語に疑問符を浮かべる大会初参加の一年生たち。しかしその一方、校庭に集う上級生はその宣言を合図に叫び声を上げていた。
《まずは第四位、二年生シリィ、専攻は白。競演会で二頭の白馬を名詠してみせた凄腕の少女です。馬に乗って一気に優勝か? 賭け券の当せん倍率は三・七倍。まだまだ賭け券にも余裕があります! ご購入はお早めに!》
賭け券、当せん倍率......?
「オーマさん、賭け券て何ですか」
「あー、そういや受付付近で大会の賭博やってたな。誰が優勝するかを予想して賭け券を買うの。で、当たれば配当金が貰えるみたい。売上は学校の修繕費に一部充てるとか何とかって名目で」
なるほど、だから賭け券を購入した上級生たちは興奮しているのだろう。言われてみれば、校庭の入口の受付でも購入を勧められた覚えもある。
《続いて第三位、三年生のレオン、専攻は赤。ゼッセル教師とは熱い男の師弟関係を結んでいる、燃えるハートの熱血少年。『名詠なんて使わねえ、陸上部部長の名にかけて、俺は自分の足だけで一位をもぎ取ってみせる!』とコメントまで熱いです。賭け券の当せん倍率は三・四倍、こちらもまだ賭け券に余裕があります! そしていよいよ第二位》
しんと静まりかえる校庭で、ミオの興奮しきった声が轟いた。
《さあ第二位──おおっと、これは意外なダークホース。まだ一年生の少女が前評判にて、千人を超える参加選手の中でも堂々の第二位だ!》
「へえ、すごいですね。誰だろう。ね、クルーエルさん」
「......え、............ええと......くしゅんっ!」
妙に白々しいくしゃみを繰り返す彼女をよそに。
《一─B所属、クルーエル・ソフィネット!》
──クルーエル?
《専攻はこちらも赤、生徒ではなく学園の一部教師から圧倒的な人気。そんな彼女が第二位です。噂ではフェニ......あ、今のなし、ごめんねクルル。ええと、とにかく圧倒的な名詠を使いこなすと教師間で噂の彼女が堂々の第二位! しかし、彼女は風邪をひいてしまったとのこと。ちなみにコメントは『わたし風邪ひいたので辞退します』。ああっ、何とタイミングの悪い!》
「ええと......クルーエルさん?」
「ち、違うの! わたしは何にも知らないのっ!」
焦ったように手を振るクルーエル。
......風邪というには元気そうな表情と、妙に白々しいくしゃみ。
それと今回の賭博による注目度。それから推測されることは、すなわち──
「もしかしてクルーエルさん、仮病?」
「......うん。わかっちゃった?」
恥ずかしそうに頰を染め、はにかむような面持ちで頷く彼女。
「最初は出る気だったんだけど......まさか賭博でこんなに人気の順位が高いなんて思ってなかったから」
以前に黎明の神鳥などの噂で学園を騒がせた彼女のことだ。今回のイベントで目立ってしまってはまた同じようなことになるかもしれない。それを嫌がってのことだろう。
「でも観てるのも楽しそうよ。ネイトも、わたし応援してるから頑張ってね」
「はい、とにかく完走だけはしたいです」
クルーエルの応援に、ネイトは名詠用の触媒を握りしめた。彼女の不参加は残念だけれど、彼女の分まで頑張らなければ。
......でも、そのクルーエルさんより人気度が高い人っていったい誰なんだろう。
《ともかくも彼女に賭けた賭け券の返品は校舎裏で受けつけております。えー、こほん、お待たせしました。それでは人気第一位の発表です》
全員が固唾を呑んで見守る中、ミオが手元のメモ用紙を読み上げる。
《第一位は──最上級生のエスカリ姉弟、来ました大本命!》
その瞬間、校庭から歓声と溜息の両方が湧き上がった。
《去年は姉弟で有翼馬を名詠、二位以下を圧倒的に突き放した最強のチャンピオン。今年も堂々の一番人気です! 配当倍率はなんとわずか一・六倍。なおコメントですが『今年もわたしたち姉弟が絶対優勝、のろまな亀さんたちはせいぜいわたしたちの背中を見つめていなさい』とのこと。コメントからも既に王者の風格がうかがえます!》
校庭の一角に一際大きな人集り。その中心にいる白制服を着た金髪碧眼の双子姉弟。彼らがその姉弟なのだろうか。あまり詳しいことは分からないが、どうも二人とも余裕の表情のようだった。
「うわぁ、すごい自信満々な人たち」
ぽかんと半開きになりそうな口を、ネイトはきゅっと引き締めた。
──ううん、驚いてばかりじゃなくて、僕も頑張らないと。
《それでは、いよいよスタートの時間です。各自スタートラインにつきましたね。では、スタートの合図をゼア学園長お願いします》
《うむ。諸君、本日は天気にも恵まれ実によき大会日和となった。これも君たちが毎日この学園で日夜勉学に励んでいるからに他なるまい。そもそもワシがこの大会を企画したきっかけは二十四年前に遡る。当時は──》
いい加減生徒や教師も話に飽きてきた、その時。
《この老いぼれ、話が長いわいっ!》
カッコーン!
来賓席に座る祓名民の老人が投げつけた湯飲み茶碗が、マイクを握る学園長の頭に盛大に炸裂。
《き、貴様ぁぁルーファ! お前という奴は、今日という今日こそ──》
壮絶な取っ組み合いを始めた学園長と祓名民の老人を後目に、マイクを奪ったのは来賓のティンカだった。
《はーい、皆さん。このお爺さん方二人は放っておいてスタートしちゃってくださいな。ね、サリナ?》
《うむ、では諸君らの健闘を祈る。いくぞ、三......二......一......》
サリナルヴァ手製の小型手榴弾が放たれる。
その爆音を合図に、アスリートたちは一斉にスタートを切ったのだった。
まず動いたのは集団の最前列にいる選手、すなわち名詠に頼らず自分の足で走って上位を狙う生徒たちだ。
馬や巨鳥など、人を運べる名詠生物を詠ぶことができる者は多くない。特に高等部に入学したての一年生ならばなおさらだろう。地鳴りを上げて第一陣の数百人が駆けていき、残りの集団に緊張が走る。
そう、ここからが本番。人を運べる名詠式が使える上級生徒たちの番だ。
足の速い名詠生物を詠べば、前集団を一気に抜き去ることも容易となる。当然、優勝候補たちもこの後部集団に控えているのだ。
──よし、僕も頑張らないと。
触媒となる黒曜石を握りしめ、ネイトは詠うべき〈讃来歌〉を脳裏に思い浮かべた。
自分が用意した触媒では黒馬の成功率は決して高くない。成功するまで何度か失敗するかもしれない。だからこそ他人より少しでも早く名詠を開始しなければ。
と思ったその時。
「はははっ、遅い、遅いわあなたたち!」

何者かの哄笑が後部集団に響き渡った。
「ちくしょう。エスカリ姉弟、もう名詠が終わったのか?」
周囲の誰かが悔しげに叫ぶ先に、姉弟を乗せて今にも羽ばたこうとする二頭の有翼馬の姿があった。
「ふふふ、我らは白色名詠の中でも有翼馬を名詠することのみに努力の全てを費やした姉弟、有翼馬に関しては名詠の速度とて誰にも負けはしない!」
......あれれ、でも......本当に有翼馬?
あのちょっと丸っこい身体つきと短い脚は、どちらかと言えば馬ではなくロバだ。顔もなんか造形がおかしいし、翼も折れ曲がってる。よく見れば毛並みの色つやも悪い。
「はっはっは、見るがいい負け犬共! これが我々に勝利をもたらす美しき伝説の馬、この名詠生物そのものが芸術品なのだよ!」
勝ち誇るエスカリ姉弟の弟。その姿をネイトはじっと眺め──なんとなく、競演会であの姉弟がまるで話題に上らなかった理由が分かった。いやはやもったいない。名詠前の想像構築が足りないのか、はたまたあれはあれでまったくの別種なのかは分からないけれど、もう少しまともな有翼馬ならば競演会でも表彰されただろうに。
しかしそんなネイトの心中を知るわけもなく、息巻く弟に続いて姉が声高らかに、
「ほほほ、いくら足の速い名詠生物を詠んだって、空を飛ぶ生物には敵わない。わたしたち姉弟の前にはいかなる相手も存在しな──」
「はーい、ごめんよ」
その時。まだ低空を浮遊している有翼馬へと、小柄な黒い影が飛び乗った。
亜麻色の髪に琥珀色の瞳、ボーイッシュな顔だちの小柄な少女だ。その手には鈍く輝く鎗が握られている。
「だ、誰だお前は」
「ふ、今年の優勝を頂く者とだけ言っておくよ。そんなわけで......えい、ぷすっと」
手にした祓戈でエイダが有翼馬を軽く突く。その直後、姉弟を乗せていた有翼馬はあっという間に光の粒となって消えてしまった。
「なっ、なにぃっ?」
姉弟がそろって悲鳴を上げる。反唱──名詠されたものを送り還す反名詠式である。どの名詠専修学校でも、ごく限られた講義でしか教えていない特殊技法だ。
「ばかなっ......一年生風情が反唱だと」
「わたしたちの有翼馬があんなにあっさり......?」
目の前の出来事が信じられない姉弟に対し、エイダは腕をくんだまま。
「ふ、去年と同じ手で勝とうなんざ甘いってこと。反唱されることなんて想定してないから、余分な触媒も持ってきてないだろ?」
返事の代わりにがっくりと、エスカリ姉弟はその場に膝をついたのだった。
───エスカリ姉弟、脱落──
《な、なんということでしょう! わずか開始数分で、優勝候補だったエスカリ姉弟が脱落。エスカリ姉弟の賭け券が宙に舞ってます! この瞬間、人気第三位だったレオン選手、第四位のシリィ選手の賭け券価格が高騰、売り切れ目前です!》
ミオの実況に、会場は怒濤の歓声と罵声が入り混じる騒ぎになった。
「ふ......ふふ、一年のくせにやるわね」
そんな中、怪しげな笑みを浮かべて立ち上がったのはエスカリ姉弟の姉だった。
「けれどたかが一年風情、今年の優勝を頂くなんて軽はずみな言動は避けなさい。たとえわたしたちが敗れても、上級生にはまだまだ強力な──」
その声を遮るタイミングで、さらにミオの実況が、
《おおっと、ここでさらに緊急ニュースです。中継地点にいるエンネ先生によると、目下の優勝候補とされるレオン選手、シリィ選手が腹痛を訴えて棄権したとのこと。それも彼らだけでなく、上級生を中心に集団食中毒か? 原因はただ今調査中!》
突然の報告に応援会場がどよめいた。レオン、シリィだけではない。何十人という数の選手が腹痛を訴えているからだ。しかも有力選手の割合が異様に多い。
そんな中、くすくすと邪悪な笑みを浮かべる少女が一人。
「あら先輩方、申し訳ありませんわ。先ほどお渡しした差し入れのドリンクが、そういえば薬品の調合を間違えていた気がします」
「おまえ......一年のキリ......エか」
腹部を押さえ、鬼のような形相で迫る上級生たち。
「ふふ、そんなありさまで私に勝てるとお思い? そんなことより、解毒剤は料理研究会の部室にて良心的なお値段で提供中ですわ──ま、解毒剤を飲んだとしても今日一日はろくに動けやしないでしょうけど」
刃こぼれした包丁を携え、キリエはその横を悠然と通過していった。
───人気第三位レオン、人気第四位シリィ、その他有力選手多数脱落──
《なんという悪魔の策略、恐るべき一年女子二名! しかしあれは他者への危険行為では? それでは解説のサリナルヴァ先生、お願いしま~す》
《うむ、あれは確かに判定の必要がありそうだ。しかし今日は幸いにして、暴走娘とキリエの身内が来賓席にいる、その二人に判断を仰ぐとしよう》
マイクがサリナルヴァからその隣にいるティンカへと渡る。すると彼女は笑顔のまま、口元に手をあてて──
《あらごめんなさい、わたしちょっと目を離しておりまして。ルーファ老はいかが?》
《うむ、すまんな。ワシも歳のせいか目が霞んでおってな、よく見えんかった》
笑顔で首を横に振る二人。ちなみにそれぞれ、エイダとキリエの名が書かれた賭け券をしっかりと握りしめている。
《お前らじっと見てたくせに......ま、私も暴走娘の優勝に今年のボーナス総賭けしてるから人のことは言えないか。暴走娘はこの学校ではまだ無名で大穴だからな、配当倍率で今年の冬は優雅に暮らせそうだ》
かくして身内感溢れる本部席は、二人の暴走を見て見なかったことにした。
その間に──
選手と選手の隙間を疾風の如く通過する料理研究会副部長。次の瞬間には、彼らの手に持つ名詠用の触媒が微塵切りとなって地に落ちていく。
「う、うそだっ......!」
名詠用の触媒を失い、悲鳴を上げながら次々と脱落していく選手たち。
「あ、エイダ、そっち一匹逃しましたわ」
「よしきた!」
残りのエイダはといえば、キリエの手を逃れて名詠された名詠生物を片っ端から反唱で還していた。彼女ら二人から逃げようとする選手、逆に立ち向かって返り討ちにあう選手。後部集団はとにかく混乱の渦中にあった。そんな阿鼻叫喚の光景を目の当たりにし──
......えっと、目立たないようにこっそり走ろっと。
名詠は断念し、黒曜石をポケットにねじこむ。エイダとキリエを大きく迂回して、ネイトは校庭のスタート地点から普通に走って脱出した。
その十分後。ネイトの逃げだした後部集団は、暴走少女二人によって壊滅した。
───後部集団。キリエ、エイダ、ネイトを残して全員脱落──
大会本部席にて。
実況席に座るミオと、その隣に佇むアーマの姿があった。
『ミオ、頼まれた小娘のゼッケンを持ってきたぞ』
「おーありがと」
『そういえば、本部席はどういうカラクリで生徒の状況を把握しているのだ?』
「んとね、空飛ぶ名詠生物を詠べる先生が空からチェックしてるの。それで何かあれば音響鳥で本部に伝えてくれて、それをあたしが実況」
『ほう。大会の意義はともかく、名詠のそうした応用は悪くないな。名詠式の可能性を広げるという点でもよい発想だ』
ミオの説明を聞き、アーマは珍しく感心したように頷いた。
「せっかくだからアーマもここで観てる?」
『いや、我は寮に戻る。こういううるさい場所はどうにも好かん』
「そう? 残念だなぁ」







......なんだろう、やけに後ろが静か。
後部集団が自分を残して壊滅したことも知らず、ネイトは裏山のマラソンコースをマイペースに走っていた。前方集団は自分よりだいぶ前を進んでいるらしく、前を見てもその姿は見あたらない。
「あ、でもすごい綺麗な紅葉」
色づく裏山の木々。足下に重なる落葉もほんのりと黄色に染まり、まるで黄金の絨毯の上を歩いているような雰囲気だ。
「こういうの、走るより歩く方が楽しそう」
後ろへと通り過ぎていく木々へ振り返る。と、不意に──
「あらネイティ、まだこんなとこ走ってたの?」
自分の名を呼ばれ、ネイトは声の方向に振り向いた。すぐ後ろ、クラスメイトのサージェスがのほほんと立つ姿が。
「サージェスさんこそ、だいぶ前に走り始めてたかと思ってました。それに......」
彼女の出でたちをしげしげと眺める。校庭にいた時は運動服姿だったはずが、いつの間にやら彼女の服装は動きやすそうな迷彩服になっていたのだ。しかもその背中には、一抱えはある巨大な褐色のリュックまで。
「今ってマラソン大会中ですよね」
「そだよ」
「サージェスさん優勝狙うって言ってませんでした?」
「狙ってるよー」
あっけらかんとした表情で頷く彼女。
「あの......なんでこんなところにこんな恰好で?」
「んー説明が面倒なんだよね。やれやれ仕方ない、特別にネイティも連れてってあげる。でもわたしが一位でネイティが二位だからね」
おいでおいでと彼女が手招き。しかし彼女が向いている方向は、道なき山の斜面だった。通常のマラソンコースとは方向から何からかけ離れている。
「ほら、早くこっち来て! 誰かに見つかったらまずいから!」
しかし、そう告げる彼女の目は真剣この上ない。
「は......はあ」
言われるまま、サージェスと一緒に林の陰へ身を隠す。
「いい、これを見て」
サージェスが取り出したのは今回のマラソンコースの地図だった。校庭から出発して裏門を抜け、裏山の反対斜面にあるゴールを目指すコースである。
「大会は山を迂回する経路になってるけど、山を登って直線距離を突っ切れば圧倒的に早いの。この山は斜面もきつくないし高度もない。ネイティにだって楽勝だよ」
「え......ちょ、ちょっと待ってください。このマラソン大会ってそんなショートカットも認められてるんですか?」
「うん。だって空飛べる名詠生物なんか、コース無視してゴールまで最短距離で向かっていいんだからね。ウチらが同じことやったって何も問題ないはずだよ」
「え、でも......でも」
口ごもるネイトに、サージェスは優しげな表情を浮かべ。
「いい、ネイティ。要するにこの大会はね、スタート地点から出発してゴール地点にさえ着けば、途中の経過は問わないということなの。結果が全て、勝者はただ一人! まさに食うか食われるかの──」
「いったい誰ですかぁぁっ、こんなヘンテコ大会を企画し──」
あまりに想像を超えた大会ルールに、思わずネイトが叫ぼうとした途端。
「し、静かにっ! ネイティ木の陰に隠れて!」
サージェスの合図の直後、後方からけたたましい刃の衝突音が伝わってきた。嵐のようにマラソンコースに現れたのは二人の少女だ。
「どりゃあー、くらえぇッ!」
「ふっ、ここがあなたの墓場よ!」
自分の身長より長い鎗を軽々と振り回すエイダに、こちらも大鉈を棒きれのように扱うキリエ。
互いに高速で切り結びながらも、彼女たちは尋常ではない速度でネイトの前を通過していった。あれだけの速度だ、遥か先の前方集団に追いつくのも時間の問題だろう。
後に残されたのは、余波を受けて切り刻まれた木の葉だけ。
「......なんて怖ろしい」
「ほら、あんな子たちと体力勝負しても無駄だから。こっちは戦術で勝負だよ、ゆっくり行くからネイティもついてきなさいね。それじゃあ、出っ発ぁぁっ!」
と同時、山の急斜面を凄まじい勢いで駆け上っていくサージェス。
「え、ちょっ、ちょっとサージェスさん速! どこがゆっくりなんですかぁぁっ」
あっという間に小さくなっていく彼女の姿を遥か後方で眺め、ネイトは溜息をついた。
......サージェスさんも体力なら負けてないですってば。
《さあ、いよいよ過熱してきましたよ~。前方集団の中でもトップグループは既に折り返し地点を抜け、大会名物の大カーブへとさしかかっている模様。この大カーブを抜ければいよいよ最後の直線! 優勝候補も次第に絞られてきました!》
本部席の放送に、校庭の応援席はいよいよ盛り上がっていた。
「さあどうなるかしらね、わたしのクラスのみんなも頑張ってるらしいし。オーマなんか今第一グループにいるみたいよ」
応援席にて、クルーエルは担任教師のケイトと並んで座っていた。
「へえ、すごいですね。もしかしたら優勝も狙えそうですか?」
「まだ分からないけど、いい順位は狙えそうよ。でもとにかく無事ならいいんだけど」
「転んだりケガとかはしないでほしいですよね」
......そうだ、せっかくだからミオにネイトの様子も訊いてみよう。実況役の彼女なら選手の順位も細かく把握しているはずだ。
「ミオ、ちょっといい?」
応援席から本部席へとクルーエルは歩いていった。
「お、クルルどしたの~」
「大したことじゃないんだけど、ネイトって今どこらへんにいるのかなって」
「ふふ、気になる? ええとちょっと待ってね......あれ」
手元の中継報告書をめくるミオの手が、いつまで経っても止まらない。
「おかしいなぁ。ネイト君の現在地、中継地点の先生たちも摑めてないみたい」
「どういうこと?」
「あとサージェスの場所も分からないみたい。確認中だって。ま、平気でしょ」
「......そうだといいんだけど」
空いていた椅子を引き寄せ、クルーエルはミオの隣に腰掛けた。
「そういえば夜色トカゲは? さっきわたしのゼッケンを本部に持っていくって」
「んとね、騒がしいのは嫌だからって先に寮に帰っちゃった」
「そうなんだ。ゼッケン持って行ってくれたから、たまにはお礼でも言ってあげようと思ったんだけどな」
「まあまあ、今はトップ集団に注目だよ、ほらクルルもおとなしく観戦!」
3
名詠に頼らず自分の足で走ることを選択した第一集団。
その中でも先頭集団はいよいよコースの佳境、大カーブへとさしかかっていた。大きく左に迂回する道で、かつ緩やかな上り坂。毎年、疲労した足がもつれ転倒する選手が相次ぐ難所だ。
そんな中、ネイトたちの教室で男子クラス委員を務めるオーマは、今も先頭集団に食らいついていた。
......うわ、このコースひっでえな。
ゴール目前というのに、最も苦しいポイントがここで来るとは。案の定、自分のすぐ前や後ろでも、速度を落とす選手が大半だ。
「でも、逆に言えばここで頑張れば優勝も見えてくる......か?」
オーマはトレミア・アカデミーでは特に部活にも入っていないが、放課後は男友達と毎日のように校庭で走り回って自然と体力がついている。トレミア入学以前も、毎日遠距離を走って通学していたという過去がある。そう、彼はなにげに苦学生なのだ。
「わぁ、オーマ頑張って!」
先頭集団についているからだろう、大カーブに先回りしていたクラス女子からの声援も熱い。手を振って応える余裕はないが、それでも視線での返事は忘れない。
......おいおい、もしかして俺って今、輝いてないか?
最初は参加特典である特別単位を得るためだけに参加してみたが、優勝すれば一年間の学費が浮く。これは非常に大きい。
自分の前を走る選手は全部で五名、いずれも上級生だ。しかしその先頭はどうやら女子らしい。男子に交じって首位を守ってきたのはオーマにとっても驚きだが、さすがに体力も限界のはず。
「よし、これなら行けるぜ!」
こっからスパートをかけて、最後の直線で逃げきって俺の勝ちだ!
苦しい呼吸を懸命に整え一気に加速。目の前を走る選手を一人、二人と次々に走り抜いていく。三人、そして四人。瞬く間に、オーマは先頭集団でも第二位に躍り出た。無名の一年生の活躍ということで、周囲の応援もますます大きく熱くなる。
──捉まえた!
その声援に背を押され、オーマは先頭を走る少女のすぐ背後を捉えた。
少女というが身長はかなり高く、男子の平均身長ほどはある。体格もしっかりしているし、走り方も規則正しい。男でも苦しいこのコースを走りながらも呼吸は落ちついている。よほど普段から鍛えていなければできない芸当だ。
「だがっ、男としてここは譲れねえ!」
さらに加速。そして、オーマはとうとう少女の横に並んだ。そのまま一気に抜き去ろうとした刹那。ふとオーマの中に小さな疑問が生まれた。
──そう、これだけ足の速い少女はいったい誰なのか。
ほんのわずかな好奇心でオーマは横目で隣を見......それが、命取りだった。
「あれ?」
まず目についたのは額に巻いた白地の鉢巻。短く切りそろえた深い紺色の髪に、獅子の類を思わせる金色の瞳、鋭い顔のライン。
ちなみに、白地の鉢巻には大きく赤で『唸れわたしの豪腕、死して滅せよ痴漢共!』と書いてある。
「男として私に負けられないだと?」
ぎらりと、その少女の両目が怪しく輝いた。
「あ......あれ、......あの......なんで貴女がこんなところに」
「貴様、見覚えがあるぞ。以前我らが護身部の部室に侵入した輩だな?」
トレミア唯一の男子禁制の部活、護身部。その部長イフレティカ。かつてオーマが護身部の部室に入ろうとして返り討ちにあった相手である。
「くっくっく、そうかそうか。貴様、まだ懲りていないようだな。ならば今度こそ、二度と足腰立たないようにしてやろう」
ぱきぱきと指の骨を彼女が鳴らし。
「ち、違うっ! う、うわぁぁぁぁっ、お、お助け──」
「問答無用、覚悟ぉ!」
───オーマ、大カーブ終了直前にて無念の脱落──
《おおっと、ここでオーマ選手が脱落したという情報が入りました! 一年生ながらなかなかの健闘をみせた彼。しかし最後の大カーブで転倒したのか、全身ボロボロの状況で発見された模様です。クラスメイトとしてあたしもちょっと残念!》
校内に、ミオの悲しげな放送が響き渡った。
「あー、残念ね。もう少しで優勝狙えたのに」
まさか部長のイフレティカの仕業とはつゆ知らず、同じ護身部のクルーエルはオーマの脱落に溜息をついた。
......うーん、でも本当にネイトどうしちゃったんだろ。







「ま......まってくださいサージェスさんてば」
岩だらけ、凹凸だらけの斜面を軽々と進んでいくサージェス。彼女の背中をネイトは死に物狂いで追っていた。
「ネイティのは靴が悪そうだねえ」
登山専用の頑丈な靴を履いたサージェスが腕を組む。彼女の言うとおり、登山専用靴はとにかく硬いのだ。岩や木の根を踏んでもまるで気にならない。一方のネイトの靴はジョギング用の薄底、足下の岩や突起を踏めばすぐに捻挫してしまう。
「ま、ゆっくり行こっか。どうせウチらが一番だし」
「ほんとですか?」
「うん、去年名詠生物なしで一番早かった人の記録を見た限りね。この上り坂を越えて下りれば、いきなり最後の直線までショートカットできるから」
最後の直線まで来れば、もうゴールは目の前のはず。
「すごい、下調べ完璧ですね」
「この裏山は登山部のいつもの練習コースだもん、そんなの当たりま──」
ぴたりとサージェスの口が止まった。
「あ、あれ。どうしたんですか?」
「............」
口を半開きにしたままサージェスが見つめるのは、ひらひらと宙を飛び回る一匹の蝶。それも小鳥ほどの大きさの、黄金色に輝く翅をした蝶である。
「うわー、綺麗な蝶。僕あんなおっきくて綺麗なの初めて見ました。この山ってあんなのもいるんですね。ね、サージェスさん」
「......あ、あれは」
「サージェスさん?」
「あれは黄金女王蝶......遥か南の熱帯雨林、その奥底にそびえる火山の火口付近にしか生息しないはずの超激レア蝶。自然を愛する者ならば一生のうち一度はお目にかかりたいと願ってやまない蝶が、なぜここに!?」
背負っていたリュックを下ろし、中の荷物をごそごそと取りだすサージェス。
あれ、なんでだろう。前にもこんなことがあったような気が。
「......ネイティ」
にやりと、有無を言わさぬ禍々しい笑みをサージェスが浮かべる。
「は、はいっ?」
「今回のマラソン大会、一位はネイティにあげる」
「......え?」
どういうこと?
ネイトが疑問を口にするより先、彼女はリュックから巨大な虫網を取りだして──
「ここであの蝶を採り逃すわけにはいかないの! 一攫千金、やったぁぁ!」
次の瞬間、サージェスは進路を九十度変え、黄金女王蝶目がけ爆走していた。
「あああっ、やっぱりぃ!」
あっという間に林の中へ消えたサージェス。ぽつんと一人残され、ネイトはがっくりと肩を落とした。
「......仕方ないよね。最後くらい自分で頑張らないと」
地図と方位を確かめ、慎重に下り坂を進んでいく。足下に注意しておそるおそる木々の合間を抜けていき──不意に、さっと視界が開けた。
登山口と書かれた門を抜け、本来のマラソンコースである散策道へと合流。
途端、津波のような怒濤の歓声が鼓膜をふるわせた。
......え、な、何?
《おおーっと、これはいったいどんなカラクリでしょう! 今の今まで位置が特定できていなかったネイト君......もとい、ネイト選手がこの土壇場で一気に単独首位に躍り出ました! さあ残すところは最後の直線百メートル、このまま逃げきるのかぁぁ? 解説のサリナルヴァ先生、どうでしょう》
コースの合間に建てられた鉄塔から伝わる実況の声。
《うむ、おそらくは裏山を直接突っきることで距離を短縮したのだろう。しかし相当に山道を熟知していなければできない芸当。よもや少年にそんな技能があったとは......私としても計算外だ。ルーファ老、どう思う?》
《ふ、やはりワシが見こんだだけのことはある。あの少年ならワシはやると思っとった!》
《その割に賭け券はエイダちゃん一筋でしたのね》
《あ、ティンカ、それは言わない約束──》
妙な発言を繰り返す本部席はさておいて......
ネイトはじっと正面を見つめた。視界の先、白いゴールテープが確かに見える。
「この直線を走りきれば、もしかして僕が優勝?」
慣れない登山の疲労でろくに動かない足を懸命に前へ。ふらつきながらも、ネイトは最後の直線を走りだした。しかし直後、慌てたようなミオの絶叫が。
《な、なんと皆様、ネイト選手の後ろを御覧ください。あの三つの人影は──》
──僕の後ろ?
「み~つ~け~たぁぁぁっっっ!」
背筋が凍りつくような雄叫びを上げながら、猛烈な勢いで近づいてくる少女が三人。
《き、きたぁっ! 序盤にて数多の選手を絶望の淵に追い詰めたエイダ、キリエ両選手! それと護身部の部長、知る人ぞ知る三年生のイフレティカ選手だ!》
まるで草食動物を追いかける肉食動物の如く、爛々と目を輝かせる三人。エイダは鎗、キリエは両手に大鉈、イフレティカに至っては愛用の鉄球を振り回しながら走ってくる。
......えっと、もしかして追いつかれたら殺される?
「まぁぁ~てぇえ~~」
「絶ぇっ対、待ちません!」
悲鳴を上げたくなるのをぐっと堪え、ネイトは全力で逃げだした。しかし速度は断然向こうが上。背後の足音がどんどん大きくなってくる。
《は、速い、速すぎるぞこの三人! このままではネイト選手を追い越すのも確実か? 来賓の皆様、いかがでしょう?》
《よし、行け暴走娘、これで私の懐は温かいぞ》
《ワシぁエイダならやると信じておった!》
《キリエちゃん、負けたら分かっているわね?》
《......えー、身内感溢れるコメントをありがとうございました。なんか可哀想なので、あたしミオは個人的にネイト君とイフレティカ選手を応援したいと思います。がんばれ~》
ミオの応援に支えられ、必死で足を前へと進める。だが背後の三人はまだ体力にも余裕があった。
「うふふふふ、つ~か~ま~え~たぁ?」
背後に迫る声。もはや自分の足だけで逃げきるのは不可能だ。
......名詠で何とかしないと。
触媒は、黒馬を使うためにとっておいた黒曜石一つ。
今から黒馬用の〈讃来歌〉を詠う時間はない。目隠しのための黒煙? いや、イフレティカには護身部の部室でこの前見せてしまったばかり。エイダだってこの手は知っているはず。なら、これだ!
「ふふふ、諦めなさい!」
三人の手が背中に伸びる直前、ネイトは黒曜石を足下に投げつけた。
──『Ezel』──
夜色に輝く名詠門が地面に描かれ、そこから黒く輝く泥のような物体が大量に撒き散らされた。その泥の上を三人が通過し。
「......なっ! これ、ただの泥じゃないっ?」
靴にまとわりついて離れようとしない粘着性の物体を前に、三人の表情が豹変する。
《あれはまさか──》
《アスファルトか!》
勉強家の実況、そして解説者の声が重なった。
アスファルト──天然に存在する炭化元素類である。粘度が高く一度触ればそこにこびりつき、冷えることで急速に固まる性質を持つ。
「ちょっとエイダ、あなたさっさと還しなさいってば」
「しまったぁっ、あたしちび君の夜色名詠の反唱は知らない!」
「な、何ですってぇ!」
粘りつく泥に足を奪われ、ネイト以外の三人が悲鳴を上げる。
「キリエこそ何とか方法はないの、これベトベトして気持ち悪いぃいい!」
「おのれ、ここまできてこんな屈辱ぅ」
口々に騒ぐ三人の追跡を振りきって、ネイトはゴールテープを通過した。
4
《ッッッゴォオオーール! なんと、第六回秋の徒競走大会を制したのは一年生のネイト選手でした! あの小柄な身体では走りきることすらできない、誰もがそう思っていた中の一位、ネイト君本当におめでと~》
へとへとになったネイトが校庭に帰った時には、会場は割れんばかりの喝采に包まれていた。
......くたくたで、もうこれ以上歩けないや。
興奮しきったミオの放送がひっきりなしに伝わってくるのに、まだ自分が一番になったという実感すら湧いてこない。
「いやー、ネイティよかったね」
金色の蝶が入った虫かごを抱えたサージェスに、バンバンと背中を叩かれた。
彼女はといえば無事に蝶を捕まえたらしく満面の笑みだ。登山部で生態を観察し、また山に帰すらしい。
「あーあ、あとちょっとだったのにな」
「まあ面白かったからよしとしましょう。久々に心地よい汗もかけたことだし」
エイダ、キリエが揃って腕組み。
《ネイト君ネイト君、ちょっと本部席おいで~》
「あ、はいー!」
本部席のミオに呼ばれ、ネイトは実況席によろよろと走っていった。
「今から大会の閉会式があってさ、その後優勝インタビューあるんだけどできそう?」
「えっと、僕もうへとへとなので明日でもいいですか」
「言うと思った~。優勝者の特別賞品もまた今度聞くね。どうせ決めてないんでしょ?」
楽しそうな笑顔でミオが片目をつむる。
「あ......実はそうなんです」
特別賞品。パンフレットを見た限りは三種類の中から選べるらしい。まさか優勝できるなんて思っていなかったから考えてもいなかった。
「うーん、それにしても残念。あたしネイト君の賭け券買っておけばよかったなあ。買ってればすごかったんだよ。ネイト君には悪いけど参加選手中一番人気なかったから、配当倍率の高さったら」
賭け券。ケイト教師から聞いたことだが、非公式とはいえほぼ全校生徒が知るものらしい。売上が学園の修繕費に充てられることから教師も黙認しているのだとか。
「うーん、一枚だけ減ってたからさ、あたしてっきり、ネイト君が自分で自分の分を一枚買ったのかと思ってたんだけど......やっぱり違うよね?」
「僕は賭け券は買ってないですけど、でも誰も買わなくたって、何かのはずみで一枚くらいなくなってもおかしくはない気もします」
「ん~......まあそっか。さてそろそろ時間だし、閉会式始めよっか」
頷いて、ミオは再び拡声器の前に口をあて。
《それでは皆さん、閉会式に移りますので校庭中央にお集まりください~》
5
閉会式終了後、参加選手はそのまま流れ解散になった。
......ふう、やっと終わったんだ。
受付に預けていた荷物を受け取る。と、ぽんと誰かに肩を叩かれた。
「おつかれさま、ネイト」
そこには自分のよく知る少女が。
「あ、クルーエルさん、待っててくれたんですか」
「うん。それにしてもまさか優勝なんて思わなかったよ。すごいね」
並んで歩きながら、クルーエルの声のトーンが自然と上がる。
「い、いえ、あれはサージェスさんが道を教えてくれたからで」
「ふふ、控えめなところがキミらしいね。──ところで、走りっぱなしだったからお腹すかない? 学食で何かご馳走してあげるよ」

「え......でも、クルーエルさんお金平気なんですか?」
「ふふ、お姉さんに任せなさいって」
いたずらっぽい笑顔を浮かべ、クルーエルが制服のポケットから何かを取りだす。
ひらひらと風にゆれる一枚の紙切れ。そう、彼女が指先に挟んでいたのは、大会で売られていた賭け券だった。
その賭け券に書かれた選手名は──ネイト・イェレミーアス。
「あ、あれ?」
「ほんとはこういう賭け事って好きじゃないし苦手なんだけどね、キミへの応援のつもりで一枚だけ買っておいたの」
少しだけ照れくさそうに、くすりと彼女が微笑む。
......そっか、一枚だけ僕の券を買ってくれた人って。
「さ、ちょっとしたお小遣いも入ったことだし、行こっか?」
「──はい!」
荷物をぎゅっと握り、ネイトはクルーエルの後を歩きだした。
虹奏 『また会う日までの夜想曲』
0
どこからとも分からず聞こえてくる、下校の時を報せる鐘。
今日も、いつものように一日が終わる。夕陽が放つ赤光が校庭を染める景色。その校庭で部活動に興じる学生たち。
普段何も思わぬまま通り過ぎていった、エルファンド名詠学舎の見慣れた光景だ。
大陸辺境にある専門校であり、勉学が特に盛んなわけでもないありふれた中等部、それがエルファンド名詠学舎である。
「......この学校とも、あと三日でお別れか」
誰もいない教室の一角で。
茶か金か判断に迷う色の髪をなびかせる男子生徒がいた。端整な顔だちと対照的に、どこかとぼけた印象を与える少年だ。
卒業まであと三日。高等部への進学で、今の学友とも別れることになる。それ自体は別に悲しいわけじゃない。仕方のないことだ。
「......いや、どうなんだろう」
窓枠に背を預け、カインツ・アーウィンケルは天井を見上げた。卒業、悲しいわけじゃない......でも、本当は寂しいのかもしれない。
彼女と──イブマリーと別れることが。
1
それは卒業を一週間後に控えた日の、その放課後のことだった。
掃除当番だったカインツが掃除を終えて、担任のジェシカ教師へ報告に向かう途中。
「イブマリー、何を言っているんだね」
声は、唐突に聞こえてきた。
──イブマリー?
唐突に聞こえてきたクラスメイトの名に、カインツは反射的に振り向いた。声はすぐ近く、左手側の扉一つを隔てた部屋からだ。
......学長室じゃないか。
「ですから卒業式の際のお願いです。担任のジェシカ先生に頼んだのですが、そういった要望は学長にとのことでしたので」
普段クラスの生徒とはおろか、担任教師とも口をきこうとしない彼女。
......そのイブマリーが学長に要望?
間違いない。物言いこそ丁寧だが、それでも言葉の端々に、彼女らしい無愛想な言葉遣いがうかがえた。
「先ほども申し上げましたが、卒業証書の授与式でわたしの専攻色を──」
「君の専攻は『Keinez』と記憶しているが」
言い終える間も待たず、学長がぴしゃりと言葉を断つ。
「名目上はそのとおりです。でもわたしは──」
「イブマリー、君の噂は職員間でもよく耳にする。なんだっけ、黒色名詠式?」
「......夜色名詠式です」
少女の声にあからさまな棘が混じる。
「ああ、そうそう。そうだったね」
予想の内か、学長の態度に変化はない。
──噓だ。
心中カインツは吐き捨てた。学長のあまりに演技じみた口調が嫌でもそれを伝えてくる。
学長は、わざとこの少女をからかっていた。
「だがいずれにせよ。そんな名詠色は公には存在しないはずだが?」
名詠式。それがこの学校で生徒たちが学んでいる専門技術だ。自分が望むものを心に描き、詠うことで自分の下へと招き寄せる転送術、それが名詠式である。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。
名詠式はこれら五色から成り立ち、この五色と同色をした物体を詠び招くものだ。
そして現状、この五色以外の名詠色はいまだに確立されていない。
「それでもわたしは、自分の専攻を夜色名詠として頂きたいのです」
夜色名詠。それがイブマリーの目指している名詠式だ。いまだ誰もなしえたことのない、新しい名詠色の確立である。
「ではその夜色名詠とやら、実際にここで見せてもらいたいものだな。出来によっては、卒業証書授与式で君の専攻を夜色名詠とすることも検討しよう」
──そういうことか。
名詠学校の生徒は中等部で名詠式の基礎を学び、高等部では一つの専攻色を専門に学ぶことになる。そのような理由からエルファンド名詠学舎では卒業の際に、生徒が高等部に進学する際の専攻色を読み上げる慣習があるのだ。
そしてイブマリーは高等部の入学試験で『Keinez』を選択していた。となれば当然、教師もそれを彼女の専攻色として読み上げるだろう。
〝でもさ、どうして『Keinez』なんだい?〟
イブマリーがそれを選んだ理由。カインツは一度だけ聞いたことがあった。
〝理由? それが一番簡単だからよ〟
極めようとするのならともかく、生徒がそこそこの名詠技術に達するまでに要する時間が、最も短いのが赤色名詠式とされる。
〝名目でいいの。どれか一色さえできるようになってれば、夜色名詠の練習に時間を割くことができるでしょ〟
イブマリーが自分だけに打ち明けた事実。
〝わたしの家系、代々からだが弱いの。みんな早死にしてる。わたしのお母さんも、わたしを産んですぐ死んじゃった〟
彼女の身体は重病に冒され、もう長くは保たない。自分が死ぬ前に何かを成し遂げて、それを誰かに伝えたい──彼女が夜色名詠を志すのはそれが理由だった。
「夜色名詠を、この場でやれと?」
「ああ、そうすれば私や他の教員も頷ける」
「............」
イブマリーが口を閉ざす。
事情を外に吐き出せば彼女はどれだけ楽になることか。彼女の理由を知れば、この学長とて多少はまともな対応もするだろうに。
しかしそれでもなお、カインツには分かっていた。この少女は、絶対にそんな真似などしないということを。
「いい加減認めたらどうだね。そんな名詠色などないということを」
「いいえ」
無機質な声音で、再度彼女が否定する。
「専攻色を夜色にしろと言いながらそれを見せようとはしない。すまんが私には理解しかねる」
「──ですが!」
「話は終わりだ。私も卒業式の段取りがあるのでね」
少女が押し黙る。壁越しに伝わってくる、痛みさえ感じるほど張り詰めた空気。
その均衡を破ったのは少女の方だった。
「では失礼します」
怒りと悲しみが混ざり合った、言葉にならない激情にふるえる声音。
それと同時に扉が開き──
......しまった!
身を潜める間もなく、扉を開け通路に出てきた少女とカインツは目があった。
「──え」
ぽかんと、拍子抜けした表情でイブマリーが口を開ける。
「や、やあ。偶然」
「カイ......ンツ?」
普段の鋭さはまるでない。今目の前にいる彼女はどこか弱々しい、水面のように揺れる幼い黒瞳でこちらを見つめてきた。
学校の敷地の端にある、背の高い樹木の下の小さな草場。静かで、微かに風が過ぎるのを感じられる落ちついた空間。
それが、イブマリーの好む場所だった。
「君も強情だね」
背を向けたままの彼女に、カインツは肩をすくめてみせた。
木陰の下。木製のベンチに、うなだれるようにして身体を寄せる細身の少女がいた。
「あの石頭が悪いのよ」
らしからぬ幼げな口調で言い放ち、イブマリーが振り返った。木陰に吹く風に、絹糸を思わせる彼女の黒髪がふわりと揺れる。
「でもまあ、学長だって実物を見ないからにはそう簡単に認められないだろうけどね」
「あら、学長の味方?」
怒るというよりむしろ面白がるような面持ちで、彼女の夜色の瞳が見つめてくる。
「いやいや。ただ客観的に見たらそうも思えるなって」
「客観的だなんて言葉を持ちだすならば......」
そのまま彼女が言いよどむ。最適な言葉を探そうとして、逆にその迷宮に迷いこんでしまった──そう思わせる余韻を残し。
「あなただってわたしの名詠を見ていない。でも、それでも信じてくれたじゃない」
「それを言われるとボクも困るな」
照れ隠しにカインツは頭上を見上げた。
確かに彼女の言うとおりだからだ。唯一の話し相手である自分にすら、彼女は一度として夜色名詠を見せたことはない。
「でも実際どうなんだい」
「どうって、何が?」
悪戯っぽく、試すように少女が微笑む。
──分かってるくせに。
「夜色名詠の構築具合。本当は、あの学長が腰を抜かすくらいまで完成してたりとか?」
「まさか、全然」
あっさりと首を横に振るイブマリー。
「あなたこそわたしとの約束はどうなのよ」
「ボクの方も、まだ全然」
苦笑気味にカインツは肩をすくめた。
「......そんなとこだと思った」
呆れたように、少女が胸の前で腕を組む。
虹色名詠の習得。それが、カインツがイブマリーに誓った約束だった。現在確立済みの名詠は五色。うち、一色を極めるのに要する年月は最低でも十年。生涯をかけてでも三色を習得するのが限界と言われる。
いまだ成しえた者のなき、名詠全色の習得。虹色名詠とはそれを喩えた言葉なのだ。
「でもさ、それでいいんじゃないかな。まだまだ未完成だからこそ、やりがいがあるし」
「嬉しそうに言うのもどうかと思うけど」
肩を揺らすカインツに、彼女が心底呆れたように首を振る。
不可能とも言われる五色の全制覇。すなわち、カインツが目指す虹色名詠。
一方。同じく不可能と言われる、五色以外の新たな名詠色の構築。それがイブマリーが目指す夜色名詠だ。
「いいじゃない、そっちのがボクたちらしいよ」
それらを成し遂げると言いながら、互いにその片鱗すら見せようとしない。第三者から見れば、それは単に子供が虚勢を張っているに過ぎないと映るだろう。
だが自分は、そして彼女も。互いに相手をからかい合いながら、それでも本心は、互いが目標を成し遂げることを信じている。
「まだ全然か......ま、あなたならそう答えると思ってたけど」
むしろその答えこそ相応しい。そうとでも言いたげに少女が瞬きを繰り返す。
「──ボクなら?」
「似たもの同士、ってこと」
珍しく、本当に珍しいことに、彼女の表情は明るかった。
2
「なあカインツ、もちろん参加するよな」
後ろから突如羽交い締めにされ、カインツは渋々と読みかけの本を閉じた。
振り返ったそこに、体格の良い日焼けした男子生徒。
「......なんの話だっけ、ゼッセル」
『Keinez』を専攻するクラスメイトで、普段からどこか抜けているものの、陽気で憎めない性格の生徒だ。
「卒業旅行のこと。明後日の卒業式の翌週から一週間。クラスのメンバーにはなるべく全員参加してもらいたいんだけど」
眼鏡をかけた線の細い男子生徒が続けて告げてきた。
ミラー。『Ruguz』を専攻する、落ちついた物腰の少年だ。
何かにつけゼッセルとは口喧嘩になる相手でもある。もっとも幼少からの腐れ縁たる二人だから、教室の誰も彼らの喧嘩を止めようとはしないが。
「ということはイブマリーも行くのかい?」
すると、ミラーは曇った表情のまま首を横に振った。
「エンネが交渉中。だけど雲行きは怪しいな。金も時間も興味もないんだとさ」
──なるほど、彼女らしいや。
心の内でこっそりと苦笑した。目を閉じるまでもなく、旅行の勧誘をきっぱりと断る彼女の姿がありありと浮かんでしまったからだ。
「行きたいのは山々だけど、ボクも進学の準備で忙しいかもしれないよ」
「ああ、そういや中央部にある名詠学校に行くんだっけ」
ゼッセルの問いに頷いた。
エルファンド名詠学舎は大陸の端にある中等部。大半の生徒が地方の高等部へと進む中、カインツは大陸中央部の学舎へ進学することが決まっていた。
「宿舎とか入学の準備で目が回ってて。悪いけど、その件は今日一日保留でいいかな」
どうせ卒業旅行へ行くなら、今日一日かけてイブマリーに交渉してみよう。
「分かった。明日の放課後までには返事頼む」
几帳面なミラーが手元の用紙にメモするその隣で、今まで沈黙していたゼッセルが自分の手元にある本を指さしてきた。
「ところでカインツ、お前なに読んでるんだ」
「ん、これだよ」
口で説明するまでもなく、閉じていた本を広げてみせる。
「花の図鑑?」
「うん。ちょっと名詠の参考にね」
「お前の専攻って『Surisuz』だろ。そのページ、赤色の花しか載ってないじゃん」
普段当てずっぽうな性格の割に、彼は意外なところで目敏いらしい。
「そうだけど......」
やや迷ったものの、カインツは素直に胸の内を打ち明けることにした。
「ねえゼッセル、女の子にあげる花って何色がいいのかな」
「あー、待て待て」
その一部始終を見ていたミラーが、なにやら悲しげな顔つきで首を横に振る。
「カインツ、『妹すら俺に誕生日プレゼントをくれなくなった』という台詞で名の知れたゼッセルにそんなこと相談し......うわっ、ちょっ、お前......俺はただ真実を──!」
瞬く間に取っ組み合いになる二人。
──うん。赤と青は色の相性が悪そうだから、一緒に贈るのはやめておこうかな。
苦笑混じりに、カインツは目の前の騒乱から目を離した。
「......でも、この喧嘩風景を見るのも最後か」
ふと辺りを見回す。よく知る同級生の笑顔すら、どこか乾いたものだった。
そして何一つ変わらぬ日常を過ごしたまま、カインツたちは最後の日を迎えた──
3
卒業式、当日。
その日、エルファンド名詠学舎の校門は色とりどりの草花で飾られていた。
教室を飾るリボン。式会場に敷かれた、学生生活を送る三年の中で二回しか踏むことのない深紫色の絨毯。一度目は入学式。誰もが期待を胸にこの絨毯を越えていく。二度目に生徒がそれを踏むのは、この学校を去る時だ。
「カインツ、......もしかして卒業式の日までそれなの?」
不意に肩を叩かれ、カインツは無意識に振り向いた。目の前に、おっとりとした伏し目がちの女子生徒。
エンネ・レビネシア、『Arzus』を専攻とするクラスメイトだ。
「それ......って、これのことかい」
枯れ草色のコートの端を持ち上げてみせると、おずおずとエンネが頷いた。彼女が着ているのは白絹で織りあげたドレスだ。胸元に、金糸で彩られたエルファンド名詠学舎の名。
「カインツ、少し前からずっとそれを着ているのは知ってるけど......卒業式の日くらい、ちゃんとした正装の方が良かったかなって」
女性はドレス、男性は燕尾服がエルファンド名詠学舎における卒業式の基本である。さらに言えば、それぞれ自分の専攻色を服に反映させるのも習わしだ。
「確かに、みんなそれなりの姿だね」
『Arzus』を名詠色とするエンネは純白のドレス。男子は胸元のポケットチーフで専攻色を示していた。それと比べ、自分の枯れ草色のコートは確かに場違いに映るだろう。
「あれ、あの二人は──」
ふと隅を一瞥する。それぞれ赤と青のポケットチーフを胸元に挿した生徒が何やら口論しているが、あれはゼッセルとミラーか。
「あの二人、本当に最後の最後まで喧嘩しっぱなしね」
口元に手をあててエンネが苦笑する。いつもはもの静かな彼女だが、彼ら二人を眺める時だけはどことなく口数が多い。
「エンネは高等部もあの二人と一緒だったっけ?」
「うん。わたしたち中等部入る前から一緒なの。なんか腐れ縁になっちゃいそう」
思えば、彼らが喧嘩した時、普段はもの静かなエンネが勇敢にも両者の間に割って入ったことがあった。あの時はなぜエンネがとも思ったが。
「......でもね。そんなの本当に偶然」
ぽつりと、いつにも増して儚い声音でエンネは言の葉を紡いできた。
「みんなバラバラになっちゃう。カインツみたいに中央部の学校に行く子もいるし、地方に残る子も......名詠の勉強自体やめちゃう子もいる......もう二度と会えない人だってきっといて──」
彼女の言葉がぷつりと途切れる。
言葉に代わり──
「......そんなのっ......ずっと分かってた! 分かってたはずなのに......ずっとずっと前から知ってても、それでもこんなっ......!」
微かに、エンネの嗚咽が鼓膜に伝わる。
「わたし、嫌なの......今日学校来るのが嫌だった。卒業って嬉しくなんかないよ、こんな悲しいことだらけだもの」
悲しい。確かに、自分にその感情がまるでないと言えば噓になる。
「でも、きっとまた会えるさ」
涙の溜まった彼女の双眸。それでも伝わるように、カインツは言葉に力をこめた。
「エンネが、自分でもう二度と会えないなんて諦めちゃ何も始まらないよ」
そう。自分の死期が近いことを知り、自分の成しえようとする事が限りなく不可能に近いことを知り、それでも決して諦めない少女がいるのだから。
......イブマリーも来てるのかな。
ふと、カインツは会場の周囲を盗み見た。
陽の当たらぬ、誰の目にも映らぬ末席──夜色の少女はそこにひっそりと座っていた。誰にも理解されず、罵倒され、それでもこの日まで耐えてきた。
漆黒の、さながら魔女がまとうものにも似た暗色のドレス。それはイブマリーなりの意思表示なのだろう。
だが彼女は、他ならぬ卒業式で自らの夜色名詠を否定されてしまう......。
「カインツ、どうしたの?」
「......いや、何でもないよ」
視線の先のイブマリーに気づかれぬよう、カインツはそっと枯れ草色のコートをひるがえした。かつて、彼女からただ一度だけ贈られたプレゼントの品を。
「エンネ時間だ。卒業式、始まるよ」
式は粛々と進められていた。
壇上、クラス担任のジェシカ教師が次々と生徒の名を読み上げていく。
「『Ruguz』専攻、ミラー・ケイ・エンデュランス」
「はい」
眼鏡をかけた彼が壇上へと登っていく。
学長から卒業証書を受け取り、もの静かな男子生徒は普段と同様に落ちつきを保ったまま、再び自分の席へと戻っていった。
「『Keinez』専攻、ゼッセル・ハイアスク」
「はいっ!」
会場中に響き渡る声で応じ、日焼けした体格のよい生徒がその後へ続く。
「『Arzus』専攻、エンネ・レビネシア」
返事はなかった。
「......エンネ?」
壇上、ジェシカ教師の呟きを拡声器が拾う。
ややあって、純白のドレスを着た少女がゆっくりと立ち上がった。
「は......は、い......」
真っ赤に泣き腫らした双眸。数席離れていたカインツですらすぐにそれが見て取れた。
しんと静まりかえる会場に、少女の嗚咽だけが微かに響く。
「......でも」
前触れなくささやいてきた声に、視線だけを隣に移した。
──イブマリー。
「でも、あの子は幸せよ。別れるのが辛いほど、この学校で素敵な思い出があったということなのだろうから」
口早に紡ぎ、彼女が目をつむる。
「やけに饒舌だね」
他人に関することで口を開く。普段のイブマリーにはあまり見られないことだ。
「......少しだけ羨ましいから」
それは、本心なのだろう。壇上、泣き濡れるエンネを見たくないがゆえに目をつむったのではなく、イブマリーにとって眩しすぎるがゆえに直視できなかったのだ。
「ボクは、君と出会えてよかったと思うけど」
誰にも言えなかった虹色名詠士への夢。それを真剣に聞き入れてくれたのは、隣にいる彼女ただ一人だった。
「それはよかったわね」
とぼけるかのように、彼女の視線はどこか遠くを眺めたままだった。
エンネが自席へと戻ってくる。
......ボクの番もそろそろか。
「さて、行ってくるよ」
「わたしにいちいち言うほどのものでもないでしょう?」
「相変わらず可愛げのない返事だね」
──でも、言わなくちゃいけないんだよ。
心中の思惑を隠し、カインツは自分の名が呼ばれるのを待った。
「『Surisuz』専攻、カインツ・アーウィンケル」
「──はい」
色鮮やかに彩られた道を進んでいく。
階段を上り、壇上へ。壇上の端にいるジェシカ教師に一礼し、中央部に立つ学長の前へと向かう。
「中央部の名門校に進学するらしいね。これからの君の活躍に期待しているよ」
......メモの棒読みか。
表情に出さぬまま証書を受け取る。一礼し、上ってきた右端の階段ではなく左端の階段から降壇。そう、それが本来の手順。だが。
学長の目の前で、カインツは証書を丸めコートのポケットに無造作に突っこんだ。
「......なっ!」
対峙する学長が息を呑む動作がありありと伝わってくる。その学長の動きが止まっている隙に──カインツは、壇上に配置されていた拡声器を奪い取った。
「か、カインツ君?」
壇の左端に控えていたジェシカ教師が驚愕の声を上げる。
ざわりと、会場全体がにわかに騒ぎだす。
「カインツ! 何をしている!」
教師の一人が早足で壇上へと上がってくる。近づいてくる教師から距離を置き、カインツは拡声器を口元へと近づけた。
「すいません。でも、ボクにはやらなくちゃいけないことがあるので」
拡声器を通じ、会場中へと自分の声が届くのを確認する。
「生徒の君が、この場でだと?」
「ええ」
会場にいる全ての者に伝わるよう、声を張り上げた。
「ただいまよりジェシカ教師に代わって、カインツ・アーウィンケルが証書授与の生徒名を読み上げさせて頂きます」
ざわついていた会場が、一瞬、水を打ったように静まりかえる。
「ボクのクラスで、まだ名前が呼ばれていない最後の一人──」
一拍、余韻を感じさせる間を残し。
「六番目の名詠色を専攻する生徒への卒業証書授与を行いたいと思います」
「......六番目?」
学長の呟きが壇上にこだまする。現在この世界に存在する名詠色は五つ。どんな名詠士も研究者も、それ以外の色の名詠を完成させたという報告はない。
「そんなものがあるはずが──」
「ありますよ」
相手の言葉を打ち消すように、カインツは頭を振った。
「学長ともあろう人が知らないはずがない」
いや、学長だけではない。この学校に通う生徒、教師。誰もが一度は噂で聞いたことがあるはずだった。誰からも認められず信じられずにいた──夜色。
その名のとおり、一度として陽を浴びたことのない名詠色。
「さて、準備はいいかい?」
壇上から手を差し伸べる。椅子に座ったまま惚けたように目を見開く少女へ。
漆黒のドレスを着た彼女へ。
「......ちょ、ちょっと! カインツ──」
我に返った彼女が怒声を上げるのも構わず、カインツは手元の拡声器を放り投げた。
──こんな拡声器は要らない。
ボクの声が直接届かなくちゃ意味がない。そうだろ、イブマリー。
そして、少年は彼女の名を呼んだ。
4
吹き荒ぶ突風がコートをゆらす。
耳元で唸る風の咆吼と自分の吐息しか聞こえない、そんな場所。
漂う雲すら風に流され、学校の屋上から見上げる夜空は星のざわめきで満ちていた。
「いやぁ、盛り上がったね」
宝石をちりばめたような天上から、ゆっくりと視界を降ろしていく。
頭上を見上げる自分と対照的に、彼女は屋上の手すりに摑まりながら眼下の景色を眺めていた。ややあって──
「......カインツ、何考えてるの」
イブマリーは呆れたようにこちらへと顔を向けた。
「会場は大騒ぎ、名前を呼ばれた方の身にもなりなさいよ。わたしまで怒られたじゃない」
確かにそうだ。卒業式の一連の行事が終わったあと、自分たちは教師から散々怒鳴りつけられた。
──でも。
「君だってそれを承知で返事してくれたんだろ」
すると答えに窮したかのように、彼女は弱ったように顔を背けた。
「それは......あなただけあの場で晒し者になるのもどうかなと思ったからよ」
普段まず無愛想面を崩さぬ彼女が言いよどむ。つまり、それだけの意味はあったということだろう。
「イブマリーは地方の高等部に進学だっけ」
入学試験の難易度は決して高くない学校。彼女の本来の実力ならばどんな名詠校にも入れただろうに。
「ええ。あなたは中央の大きな名詠学校ね。あっちは優秀な生徒が集まってるわよ。せいぜい埋もれないように頑張ってね」
彼女お得意の皮肉。いつもの自分なら笑って受け流しているところ。だが......
「──イブマリー」
わずかに、カインツは表情を真剣なものにした。
「いつか必ず。ボクが虹色名詠士になれば、君がどんなとこにいたってその話は伝わるはず。だから......約束、忘れないで」
一瞬きょとんと目を丸くし、だがすぐに少女は挑戦的な瞳で見つめ返してきた。
「ええ。どこにいようと必ず会いにいくわ。もしわたしより先に夢を叶えられたらね」
にやりと、意地悪げに彼女が唇の端をつりあげる。
「前人未到の五色制覇、いつになることやらね。まだ全然できてないんでしょ」
──まだ全然。数日前、今と同じこの場所で彼女に向かって告げた言葉だ。
「ん、まあそうだけどさ」
いつもどおりの彼女の不敵な笑顔に、カインツもまた不敵に微笑み返した。コートのポケットから人工の宝石を三つ取りだす。
赤のルビー、青のサファイア、白の真珠。名詠式においては、名詠によって詠び招く対象と同色をした触媒が必要となる。
「それは?」
ふしぎがるイブマリーの前で。
「まあ見てて」
カインツは目を閉じた。脳裏に名詠物を思い描き、そして──
「Isa Ze emeshanei pel」
決して赤だけでなく、青でも、白でもなく、それらが均等に混じり合った色の音色。
夜空に、極光を思わせる旋律が響いた。
sm celeU powe da lisya
lor besti muzelendekele-l-lovier
〈讃来歌〉──自分が思い描く物を詠び招く際に用いられる、セラフェノ音語による讃美歌であり、名詠士としての所以である。
ufe lefwinclie da tisraqie huda Yer sheeme getie hyne U powe
quo roo,quo vei roo,dis fears jes nett sisopha kei lef xearc
Isa da boemafoton doremren
ife I she cookaLoo zo via
手にした宝石から名詠光が迸る。赤・青・白。絡まり合う光は徐々に強まり──
不意に、ガラスが砕けるかのように光が破裂した。
O evo Lears──Lor besti bloo-c-toge = ende dence
「──えっ」
少女の吐息に揺らぎが混じる。驚愕と、そして称賛の。
手にしていた宝石がこぼれ落ちる。
それに代わり、カインツの手元には、三色からなる花束が名詠されていた。
「ずっと考えてたけど、ボクには結局、こんなありがちなものしか思い浮かばなくてさ」
「......これ、わたしに?」
妙に可愛らしくたじろぐ仕草にこっそりと苦笑する。
「ここには君しかいないよ」
誰かから花束などもらった経験がないのだろう。動揺するイブマリーに、やや強引に花束を摑ませた。
赤、青、白の三色の花々──ゼッセル、ミラー、エンネ。仲が悪いようで、だがずっと繫がっていくであろう深い絆の取り合わせ。
「......うそつき。何がまだ全然よ」
溢れんばかりの花束を胸元に抱えたまま、彼女は呆れたように口をとがらせた。
花の名詠の難易度こそ決して高くないが、それを三色同時に扱える生徒など、大陸中のどの名門校を見回しても果たしているだろうか。

だが、それでもカインツは苦笑の表情で首を横に振った。
「いやホントだよ。たった三色だし、名詠できるのだってこれくらいが限界だもの」
初めてだった。講義の時間以外で、誰かの前で自分が詠うのは。
今まで誰にも見せたことのない、いまだ未完成の、虹色の詩と旋律。
本来それは誰かに見せられる段階のものではない。しかしそれを承知でなお、カインツは詠うことを決めていた。それが、今の自分にできる精一杯の贈り物だったから。
「これでお別れなんだから最後くらいは、ね?」
対して、彼女はじっと口をつぐんだまま。
「おせっかいだったかな」
「......ううん」
ゆっくりと、イブマリーが顔を持ち上げた。
「......だけど、ごめんなさい。わたし花束なんてもらっても......あなたに返せるようなものが思いつかないの」
悲しげな声音で、目を背けるように彼女がこぼす。
「じゃあ──」
気恥ずかしさも手伝って、カインツは一瞬言葉に迷った。
「あと少し、ここに一緒にいてくれないかな」
「......ここに?」
「うん、そろそろだよ」
そう言って、カインツは指先を学園の校舎の一角である尖塔へと向けた。
そのまま、一秒、二秒──
「っ!」
突然勢いよく輝きだした照明に、イブマリーが反射的に目をつむる。尖塔から、いや、学校全体が色とりどりのイルミネーションに輝きだしたのだ。
卒業式を含む、限られた時だけ学校全体が幻想的に照らし出される──エルファンド名詠学舎の伝統の光景。
「綺麗だね」
「......悪くはないわね」
綺麗と素直に言えない。そんなところが彼女の不器用な点でもあり、彼女らしさなのかもしれない。
「そういえば、気になってたんだけどさ」
「なに、あらたまって?」
じっと、イブマリーが見つめてくる。
「ええとさ、どうしてそんなに卒業式でこだわってたのかな」
「なにが?」
「夜色名詠。別に、ただ専攻色を読み上げるだけだろ。それくらい──」
「......恰好、つけたかったとしたら?」
ぽつりと独り言のように彼女がこぼした。
「え?」
「誰かさんの前で、『夜色名詠専攻、イブマリー・イェレミーアス』って、呼ばれたかったとしたら?」
誰かさん。それって......まさか。
「あ、あのさ──」
「ばか、なに赤くなってるのよ、噓に決まってるじゃない」
言い終わることすら許されず、カインツのわずかな期待は一瞬にして消え去った。
「......噓?」
「うん、噓」
「......ま、そんなとこだと思ったよ」
苦笑と共にカインツは肩をすくめた。元々、イブマリーがそんな大胆なことを言うとは思っていない。けれど、それとほぼ同時。
「そう言いたいけれど、でも今日だけは噓のままでも......」
隣で、イブマリーが何やらぼそぼそと小声で呟いていたようだった。
「──ん、今なにか」
「何でもないわ」
再びそっぽを向く彼女。まったく、こんな場面でも相変わらずだね──そう思ったが。
その彼女が、実はそっぽを向いたのではなく、色鮮やかに輝く校舎に目を奪われただけだったことにカインツは気づいた。
「イブマリー?」
無言で校舎を見つめる彼女。
......そっか、気に入ってもらえたんだね。
「いつか、またここで同じ光景を見たいなって、心の底からそう思うよ」
イブマリーの隣にそっと並び立つ。
すると、彼女は首を横に振ってきた。
「──次は夜明けがいいわ」
頭上の闇夜を仰ぐように、イブマリーが両手を広げる。
「夜明け?」
「うん、夜明けの方がきっと綺麗よ」
珍しく声を弾ませる彼女。その横顔に浮かんだものは、小さな小さな微笑みだった。
その言葉の意味を、微笑みの訳を──
少年がそれを知るのは、それから十数年後のことになる。
5
風が、枯れ草色のコートをゆらす。
つむっていた目を開けて、目の前の相手にカインツはくすりと微笑んだ。
「本当に永かったけど......あの時の意味が、ようやくわかったよ」
かつて夜色名詠に挑んだ、今はもう、この世界にいない夜色の少女。けれど、その遺志を受け継いだ少年が、虹色名詠士と呼ばれる自分の前に確かにいる。
ネイト・イェレミーアス──かつて孤児院に預けられていたのをイブマリーが見つけ、義母として育てた少年。その神秘的な夜色の瞳と髪は、確かにあの日の彼女を想わせる。
「済まない、君にしたらあまり面白くもない話だったかな」
「そ、そんなことないです!」
その少年、ネイトが慌てて首を振る。
トレミア・アカデミー。かつてのエルファンド名詠学舎から新たに作られた名詠学校。
その正門に二人は立っていた。
「......素敵なお話だったと思います。......ありがとうございます。母さん、昔のこと全然話してくれない人だったから」
「そう言ってもらえると話した甲斐があるよ。でもね」
正門から一年生校舎の方向を眺め、カインツはぽつりと呟いた。
「今の君だってとても幸せだと思う。君のことを想ってくれている子が、こんなにもすぐ近くにいるんだからね」
「え?」
「彼女を大切にね」
「あ、あの......彼女って?」
意味が通じなかったらしく、目を丸くしてネイトが訊ねる。
「いつか分かるさ。夜色の魔女と違って、あの子はとても素直で正直だから」
「え、あ、あの......それって誰──」
「君の、すぐそばにいてくれる女の子だよ。じゃ、またどこかで」
一方的にそう告げて、カインツはネイトに背を向けて歩きだした。
彼が立ち去った、その後に──
「こら、ネイト、どこ行ってたの!」
緋色の髪をなびかせる長身の少女が、ネイトに向かって走り寄っていった。
「あ、クルーエルさん?」
「もう、捜したんだから! みんなでカインツさんお見送りするって話だったじゃない!......あれ、カインツさんは?」
辺りを見回す彼女に、ネイトが申し訳なさそうに下を向く。
「ええと、さっき僕だけこっそり呼ばれて......カインツさん、今さっき出発しちゃいました。もう見えなくなっちゃったかな」
「そうなの? ジェシカ先生とかエンネ先生も、みんな職員室で待ってたのに」
「ご、ごめんなさい。『他の人には内緒だよ』って言われてて」
肩を落とすネイトに、クルーエルがぽんと肩をたたいた。
「ま、行っちゃったのならしょうがないか。みんなのとこ、言いに行かないとね」
「は、はい」
校舎へと駆けていく少年少女。
──今はまだ、恋人というより姉弟みたいな感じかな。
正門の陰にこっそり隠れた状態で、カインツは苦笑を押し殺した。
「真っ直ぐでいい少年だね。先が楽しみだ」
空を眺め、いたずらっぽく呟いた。
「正直で素直な性格は、どこぞの夜色の魔女とまるで対照的だけど」
そして、まさに歩きだそうとした時。
ふと。
──大きなお世話よ──
怒ったような、恥ずかしがるような。
誰かが呟くような声が、カインツには確かに聞こえた気がした。きっと、それは風の気まぐれだろう。本当にその声が響くわけもない。
でもそれでも──
「いいのさ、それが君らしさなんだから」
かつて共に学んだ学舎に吹く風に、カインツもまた頷いた。
「さて、ボクもそろそろ行くよ」
そして、虹色名詠士は枯れ草色のコートをひるがえした。
普段と変わらぬ、どこかとぼけたような彼の表情。けれどその足取りは、ほんの少しだけ、心地よさそうにはずんでいた。

禁律・夜奏 『アマリリスは真夜に咲いて』
冬の到来により、眠りの時間は終わりを告げた
あの子の周りに起きること、そして今から起きることの全てが
予定運命の旋律上に、既に音色として刻みこまれている
全ては、あの子の為に在る
全てが、わたしとあの子の犠牲の上に在る
もうすぐ理解する時が来る。理解して──そして、それと知りなさい
彼方に咲く緋色の名こそがこの世界で最も美しく、最も悲しい、
鎖繫がれし真ナルSelahphenosiaであることを
赤。まるで熱い血潮のように、炎のように激しい色。
青。まるで凍てついた海のように、深く澄んだ色。
緑。まるで大樹に茂る若葉のように、命を灯す雄大な色。
黄。まるで輝ける黄金のように、力ある鮮烈な色。
白。まるで雪原の樹氷のように、儚くも強い色。
五色からなる小さな光の粒が生まれては消えていく昏い世界──
音という音が消え、時の感覚も、自我すら失いかけるほど寂しい世界で。
『答えなさい、始まりの女』
凜と張りつめた少女の声が、凍りついた空間に沁み渡るように広がった。
『──何を、アマリリス?』
そしてもう一つの少女の声。対照的に、こちらは抑揚のない醒めた声音だった。
『なぜあなたは、あの子にあえて新たな名を授けたの? クルーエルが心を許したとしても、わたしはその理由だけがどうしても理解らない』
『......ネイトのこと?』
『分かっているのでしょう。あの子に夜色名詠の真言は詠えないことを』
黙して答えないもう一つの声の前で、追及はさらに続いた。
『夜、虹、空白。それぞれに一つずつ存在する、真なる言語による真なる旋律。調律者を詠び起こす至高の奏。けれどあなたがネイトと名づけた子はその旋律を詠えない。なぜなら真言の詠い手はたった一人だけだから。十年前、そして五年前。夜色名詠の真なる詠は、あなたが二度詠ってしまったことにより既にあなただけのものとなっている』
激しく罵倒することもなく、蔑みの感情を映すこともない。
それは粛然と、揺るぎない事実だけをただ読み解くような声音で。
『確かにあなたはネイトに真言を委ねた。けれどそれは、あの子の身の丈に大きすぎる楽器にしかならない。よしんば奏でられたとして、それは決定的な音符が欠如した音色。そんな子が夜を超えてクルーエルを助けられるのか。それだけがわたしは不安でならない』
『それはわたしも同じ。けれど、それはどうしたって同じでしょう?』
五色の音色に照らされ、昏い世界のさらなる影に、少女のかたちをした影が幻灯のように浮かび上がった。
『予定運命を組みこまれた五色はもちろん。夜色でも空白でも叶えられることのない願い。だってわたしとあなたの本当の願いは、さらにその先にあるのだから』
『......イヴ、あなた何を考えているの』
『たぶんあなたと同じ。あなたがクルーエルさんを大切に思うのと同じくらい、わたしもあの子を大切に思っている。だからこそあの子には──ううん、あの子とクルーエルさんには、どんなに暗くて冷たい夜の中でも朝陽を目指すことを忘れてほしくない』
その正面にもまた、緋色の幻灯がぼんやりと輝いて。
『......ふしぎなものね。クルーエルがネイトを選んだこと、それに反対するのはまるでわたしだけみたいなんだもの。あの二人の周りにいる者はみんな、あの二人を祝福している。力も詠もない子をクルーエルが選ぶ、その理由は何なのかしら』
『本当は、あなたも分かっているのでしょ』
『さあどうかしら』
一瞬、笑うかのように声の高さが微かに上がる。
だがその笑みもまた、ほんのわずかな余韻も残さないまま暗がりへと消えた。
『わたしが〈花〉ならば、あの子はそれを支える〈芽〉。けれどわたしがあの子の守護から外れたことで、その属性が旧約に従い〈芽〉から〈眼〉へと戻りつつある。そうなれば、......もう時間がない』
凍てつくほどに張りつめた世界の中で──
それでも、緋色の少女の声に揺らぎはなかった。
『わたしはどうなってもいい。だけどクルーエルだけは、どうか、あの子を縛る永遠の鎖から解き放ってあげたいの』
『......覚えておくわ』
冬の到来により、眠りの時間は終わりを告げた
あの子の周りに起きること、そして今から起きることの全てが
予定運命の旋律上に、既に音色として刻みこまれている
全ては、あの子の為に在る
全てが、わたしとあの子の犠牲の上に在る
もうすぐ理解する時が来る。理解して──そして、それと知りなさい
彼方に咲く緋色の名こそがこの世界で最も美しく、
最も悲しい、鎖繫がれし真ナルSelahphenosiaであることを
もう時間がない。けれど──
クルーエル、わたしはあなたをいつも見守ろう
わたしは、最後まであなたを愛しているのだから
それが、わたしがあの子に祈るただ一つの真言......
愛しいクルーエル。
わたしのもう一つの心にして翼、決して触れ合うことのできない妹よ──
どうか永久に、黎明の翼があなたと共に在りますように。
禁律・空奏 『そしてシャオの福音来たり』
1
大陸辺境に設立された名詠専修学校、トレミア・アカデミー。生徒数千五百人を数える巨大校であり、施設や教育水準でも大陸中央の名門校に劣らないと称される。
その学園の一年生校舎、放課後のとある教室で。
「あー、もう無理っ、絶対終わらない!」
机にうずたかく積もった報告書の山を前に、クルーエルは悲鳴を上げた。煌めくような緋色の髪、すらりとした長身に端整な顔だちの少女だ。
「まずいなぁ......これ、明日までにやらないと話にならないのに」
椅子に寄りかかってクルーエルが頭を抱える。と、その様子に──
「およ、クルルどうしたの?」
その姿を後ろから覗きこむように、金髪童顔の少女がひょこっと顔を突きだした。
「ねえクルル~、ところで明日からの連休なんだけど、クラスのみんなでピクニック行こうって計画たててるの。参加できる?」
「......ねえミオ、これが終わりそうに見える?」
作業の手を休め、クルーエルは彼女に報告書の束を押しつけた。
「ふむふむ、なにこれ? 議事録?」
「わたし全校一斉のクラス委員会が入っちゃってて。学校の行事予定とか風紀対策とか、議題がぎゅうぎゅうに詰まっちゃってるから」
この学園で年に一度行われる大規模な議会。秋も終わりのこの時期に決まって行われる、来年の学園運営方針を決める会合だ。教師だけでなく生徒の声も取り入れるという名目はいいのだが、それに参加する生徒は大変な負担を強いられる。ここ数日、クルーエルはこの準備に頭を痛めていた。
「ありゃ、休日登校かー。クラス委員も大変だね」
のほほんとミオが目を丸くする。
「......その大変な仕事にわたしを推薦してくれたのは誰でしたっけ」
「えへへ、あたしあたし~」
愛らしい笑顔で堂々とミオが手を上げる。たっぷり皮肉をこめて言ったつもりがこのありさま。結局、普段と似たようなやりとりだ。
「でもクルルがいないのも寂しいなあ。ピクニック先延ばしにする?」
「ううん、また次に誘ってくれればいいよ。もう秋じゃなくて冬って感じになっちゃってるし、先延ばしにすると寒くて行けなくなるから」
しょんぼりと表情を暗くするミオに、クルーエルは笑顔で首を振った。
秋も深まったこの時期。トレミア・アカデミーではまだ少し肌寒い程度だが、北の地方では既に雪が降っている場所もあると聞く。ここで延期を繰り返せば秋の散策もあっという間に時季を過ぎてしまうことだろう。
「そっか、ごめんね。......ところでクルル、ネイト君知らないかな。ネイト君もピクニック誘いたかったんだけど学校来てないみたいだからさ」
「──ネイト?」
ネイト・イェレミーアス。夜色の髪と瞳をした中性的な生徒で、クルーエルにとっては最も親しい少年の名前だ。
「大型連休の前日からネイト君が学校休むなんてふしぎだよね。風邪ひいたとかだったらピクニックも誘えないだろうし」
「うーん、風邪じゃないんだけどね。でも連休中は学校帰ってこないみたいよ」
「およ、クルル知ってるの?」
「うん。わたしも最初カインツさんから誘われたから。でもクラス委員会がどうしても抜けられな──」
そこまですらすらと答えたはいいものの。
「......あ」
ここでようやくクルーエルは、もらしてはいけない秘密をもらしてしまったことに気づいた。まっずい、カインツさんとネイトに秘密にするよう言われてたのに。
案の定、目の前のミオは目を点にした状態で。
「カインツ?」
「あ、あははは......聞こえちゃった?」
笑ってごまかそうとしたが、時は既に遅かった。
「なっ......何それ、待って、それどういうこと! ねえクルルっ、何がどうなってるの。カイ様がネイト君と何かあったの!」
「ち、違うの! わたし何も知らないから!」
ずいっと詰め寄ってくるミオから、クルーエルは慌てて後ずさった。
「うそだっ、そのあやしい笑顔は絶対何か知ってるはずだもん! ねえ、教えて教えて、誰にも言わないから!」
今にも泣きそうな表情でミオが迫る。偉大なる虹色名詠士に対して溢れんばかりの敬愛の念を持つ彼女のことだ、このままでは本当に泣きだしかねない。
「......本当に誰にも言わない?」
「うん、絶対言わない!」
すさまじい勢いでミオがしつこく首を振る。
「しょうがないなぁ、秘密だよ?」
教室の隅に二人で移動。
周囲の目に気を配りながら、クルーエルはミオの耳元で。
「えっと、だから──が────で、こうなって────」
「............」
「いい、分かった?」
ミオの目をじっと見据える。けれど、いくら待ってもミオからの反応がない。
「あれ、ミオ?」
「......カ、カイ............ネイ......」
金魚のように口をぱくぱくと開かせながら、何かを必死で口にしようとしているミオ。その反応にクルーエルは一気に青ざめた。
──これ、まずい!
以前にもミオは似た症状を起こしたことがある。これは彼女が泣いたり絶叫しようとしている前触れなのだ。
「ミオだめ、堪えて!」
今にも爆発しかけているミオの口を塞ぐため、クルーエルは慌てて手を伸ばし──
しかし次の瞬間。
「カイ様が、カイ様がネイト君を誘って二人で観光旅行ですってぇえ!?......うわぁぁん、あたしだって行きたかったよぉぉっ!」
ミオの悲しすぎる叫びによって、教室に残っていたクラスメイトほぼ全員とケイト教師が一斉に自分たちへと振り向いた。
......ああ、やっぱり話すんじゃなかった。わたしのばか。
湧き上がる後悔の念に、クルーエルは目をつむってがっくりと肩を落とした。
2
汽笛を鳴らし走行する列車のとある一室で──
「ん、どうかしたのかい?」
対面のソファーに座る人物が、ふと顔を持ち上げた。
「あ、いえ。なんかクラスの人に名前を呼ばれた気がして......気のせいだろうけど」
眺めていた地図をテーブルに置き、ネイトは慌てて首を振った。
「クルーエルさんかな。こっそり彼女も誘ったんだけどね、予定が入っていたんだっけ?」
「ええ、学校の予定でどうしても抜けられない行事があったみたいで。代理に出てくれそうな人も探したんだけど見つからなかったみたいです」
「クラス委員は大変だね、ボクらの時もミラーが大変そうだったよ」
彼の苦笑にあわせ、茶とも金とも区別のつかない髪が微かに揺れる。
「カインツさんはそういう役はやらなかったんですか?」
「一度やって懲りたんだ。それ以降はクラスの誰かに任せっきりだったかな」
カインツ・アーウィンケル。歴史上唯一となる、名詠五色を全て修得した虹色名詠士。
不可能と言われていた偉業を若干二十代で達成し、生きながらにして名詠学校の教本に名を記された名詠士だ。
「そういえば突然の連絡で悪かったね、学校も一日休ませてしまって。明日からの連休だと予約で埋まっちゃうみたいで、この列車の個室が手に入らなくてさ」
「大丈夫です、ケイト先生にはちゃんと許可をもらってきましたから」
そう、本当に突然のことだった。
トレミア・アカデミーの学園長室に呼びだされたと思えば、その机に留まった音響鳥から聞こえてきたのは虹色名詠士の声。
〝この先の連休、列車に乗ってちょっとした小旅行に行けないかな。君に会わせたい人がいるんだ〟
「でもあの時はびっくりしました。すごい突然だったから」
「ボクも前から機会をうかがっていたんだけど、ようやく向こうの体調がよくなったようだったんだ。彼女、夏は体調が優れないことが多いらしくて」
「彼女?」
カインツの告げる相手には思いあたるところがない。こっそり首をかしげていると、彼はとぼけたような表情のまま片目をつむって。
「今回の目的の人物だよ。君に会わせたい人さ」
「僕の知ってる人ですか」
「いや、互いに初対面のはず。でも彼女に会えばきっと驚くと思うよ。学校の授業もいいけど、たまには外へ出て旅をして、色々な物を自分の目で見るということも大切なんだ。それをやりすぎるとボクみたいな暢気な人間になっちゃうけれど」
暢気。そう言われれば確かに、彼が仕事のタイムスケジュールに追われている姿というのは想像がつかない。
「行き先は北のフェルン大青湖。知ってるかい?」
フェルン。地理の講義で聞いたことのある地名だ。
「えっと、大陸の北にある場所ですよね。寒い気候の上に山が多いから作物とかの収穫量が少ないけど、貴重な鉱石の名産地だって習いました」
大青湖。真っ青に映る湖も、その鉱石に含まれる成分由来だと聞いている。
「そう、そこは今も昔の名残で、王族の家系の末裔がひっそりと暮らしているところでもある。それは知ってる?」
......王族?
彼の言葉に、ネイトは目を瞬かせた。
この大陸において、かつてはいくつもの国家が勃興と衰退を繰り返した時代もあった。しかしそれは歴史の教本に載るような時代の話。今は大陸に国はなく、地方の街や都市ごとに小規模の自治を行っている。王族という身分もとうに消滅したはずなのに。
「あれ......でも今って、王さまってもういないんじゃ?」
「昔の名残だよ。祖先がそうであっただけで、今あの城に住んでる者は何の特権も身分もないからね。けど、あの城に住んでいるお姫様だけは別格かな。彼女だけは今も街の住民から王女、愛称によってはお姫様と称えられて親しまれているようだから」
王族。ネイトにはまるで馴染みのないものだ。母親からそういった社会常識をほとんど教わらなかったせいもあるし、そもそもまるで自分に関係のないことだと思っていた。
「僕、王女様ってすごく近寄りにくいっていうか......なんだかそんなイメージがあるんですけど。そんな偉い人がフェルンにいるんですか?」
「緊張することはないよ。言ったろ、身分はボクらと変わりない。彼女がお姫様と呼ばれているのは他に別の理由があるからなんだ」
街の人間から王女と称えられる理由、いったい何だろう。
「っと、そろそろ着きそうだね。そろそろボクらも準備しようか」
白く曇った窓硝子を指さす彼。その先には、氷と雪が混じり合ったものが付着した窓。
......雪? 電車の中は暖かいけど、外はすごく寒そう。
「もうこの時季でも割と寒いはずだから、列車から降りる時は制服の上に上着を羽織っておいた方がいいかもしれないよ」
きんと冷える窓硝子をそっと撫で、虹色名詠士は席から立ち上がった。







吐く息が、白く凍りついた。
石畳の地面にはうっすらと霜が降り、踏むと小さな音がする。
「......フェルンて本当に寒いんですね。学校なんかまだ暖房だって入ってないのに」
「少しだけ季節を早く味わえた気分になるだろ?」
とぼけたような表情でカインツが小声で笑う。彼もまた珍しく、枯れ草色のコートの前をきっちりと留めていた。ネイトも防風用の上着を用意していたのだがそれでも寒い。氷のような風が襟元から入るたびに背中がぞくっとするほどだ。
「赤色名詠、クルーエルさんから教えてもらおうかな。火を詠べれば暖かそうだし」
「それは悪くないね。ちなみに〈イ短調〉のリーダーは、昔ここに来た時も最後まで半袖で平気な顔をしてたけれど」
〈イ短調〉のリーダー、それはたしかエイダの父親だったはず。
「そんなの、想像するだけで凍えちゃいそうです」
......今の聞いて、ますます寒くなっちゃった。
ショコラ色のマフラーを取りだして首に巻く。......そういえば、アーマは男子寮で留守番するって言ってたけど、今頃は暖かい部屋でのんびり寝てるんだろうなあ。
「それにしても、フェルンて普段からこんなに寂しい街なんですか?」
城下街フェルンは、赤レンガで組まれた建物が多い街だ。
風に小さな氷の粒が混じる寒さのせいか、街の通りに人影はほとんどない。灰色の雲に覆われ、昼間なのに街灯まで点灯している。トレミア・アカデミーの学内にある喫茶店や購買部の賑やかさに比べれば、ここは本当にひっそりとした街だ。
「春になればまた雰囲気も違うんだけど、今の季節は仕方ないだろうね」
駅舎から続く街の入口から、通りを越えて街の出口へ──
そこには、二叉に分かれた街道が延々と続いていた。看板によれば右に進めばフェルンの名所でもある大青湖にたどり着く。
けれど先を行くカインツは、残された左の道を進んでいった。
「あれ、大青湖じゃないんですか?」
「ううん、あいにくボクらの目当ての人物は向こうなんだ」
目の前に続く山の斜面を彼が指さす。その遥か先にある物を眺め、ネイトはその場で白い吐息をついた。
「......お城?」
「フェリ・フォシルベル古城。かつてフェルン地方を治めていた王族フォシルベル家の、その末裔が今も暮らしている場所さ」
大青湖ではなく、城にいる相手に用がある。それはつまり。
「じゃあ、さっきの王族のお話って──」
「そう、ボクらの今回のお目当てはあのお城のお姫様。でもそのためには、この寒さをしばらく我慢しなくちゃいけないんだよね」
延々と続く山の斜面を指さして、虹色名詠士は小さく肩をすくめてみせた。
3
見上げるほど巨大な鈍色の城門。鼠色の石材にこびりついた真っ白の雪は、さながらその城門に施された模様細工を思わせた。
「よかった、どうにか謁見許可が下りたよ」
城門脇に設置された守衛室にて、カインツがほっと安堵の声を上げた。
山道を延々と登ること三時間。自分たちは途中から名詠生物の背に乗ってきたから早かったが、一般人がこの冬山を登るのは相当の重労働だろう。それだけ手間と時間をかけてなお、対面が許されるのは運次第。
......その人と会うのってそんな大変なことなんだ。
「こればかりは彼女の体調次第、ここで門前払いされる人も多いんだ」
心中を察したのか、苦笑するように彼が表情をほころばせる。
「さ、行こう。お姫様の気分が変わらないうちに」
フェリ・フォシルベル古城──
暖房として薪がくべられているのか、城内はふんわりと暖かかった。
「古城って聞いてたけど、中は綺麗ですね」
頭上を彩るのは色鮮やかなシャンデリアに、天井の壁に直接描かれた大絵画。足下はといえば、自分の姿が映るくらい丁寧に磨かれた石材の床だ。その上には赤と白の絨毯がさいの目状に並べられ、埃一つすら落ちていない。
苔むしたような外壁とは一転、内部はそれそのものが芸術品のような絢爛な雰囲気に包まれていた。
「この城そのものが一つの観光名所になっているからね。夏の間は観光客相手にそこそこ活気づいて、冬にはボクみたいな物好きだけがこの城を訪れるんだ。彼女の声を聞きにね」
「──声?」
「そう、もうそろそろ聞こえるはずだよ」
真っ直ぐ延びた廊下を歩きながら、彼が振り向かずに答える。
声?......ううん、それっぽいのは何も聞こえないじゃないか。
厚みのある絨毯で足音が消され、周囲は完全な無音。いや、どこか遠くで笛と鈴が入り混じったような旋律が聞こえる。なにしろこれだけ巨大な古城だ、どこかに演奏会場でもあるのかもしれない。
「なにか聞こえたかい?」
「はい、どこか遠くで笛の伴奏してるんだなって。でも僕の知ってる笛の音よりずっと穏やかで優しくて、なんか聴いてて落ちつきます」
まるで雪風が歌うような、微かなのに心地よい音色。でもいったい何の楽器だろう。打楽器でも弦楽器でもない。笛の類だとは思うけれど、自分が知る笛の音よりずっと優しい。
「ああ、それだよ」
途端、間髪入れずに彼が頷いた。
「今君が楽器だと思っている音色こそ、彼女の声。いや声ですらない、この回廊に聞こえているのは彼女の小さな小さな息づかい。彼女がただ息を吸って吐く──それだけでこの可憐な音色が生まれるんだ」
「......え」
息を吸って、吐く?
ただそれだけで、こんな聞いたこともない優しい笛のような音色が?
「うそ、そんな......これが本当に声なんですか」
「すぐには信じられないだろ。でもじきに分かるよ」
どんな鳥の鳴き声も、匠の造る楽器も及ばない至高の音。
奇跡の音色を持つ女性が、この回廊の先に......
「ファウマ・フェリ・フォシルベル王女。この古城の主にして、おそらくは歴史上最も美しい声を持つ女性だろうね」
淡々とカインツが断言する。虹色名詠士をして認めざるをえないほどの響きを持つ声。だが確かに、これほど涼やかで清廉な声をした人間をネイトも知らなかった。
「〈イ短調〉のメンバーの中に、魔性の声を持つ名詠士と称される女性がいる。けれどその至高の称号は、あくまで名詠士の中での異名。他ならぬ彼女自身が誰よりそれを知っている。......全てはこの王女の存在によって」
カインツが木製の古びた扉を開ける。錆びついた金属部分が耳障りな音をたて、両開きの扉がゆっくりと口を開けた。
開けたと同時、再びネイトの息が白く染まった。寒いのではなく冷たい。室内だから風こそ吹かないが、室温は外とまるで大差なかった。
......この部屋、暖房がないんだ。
二十メートルほど続く漆黒の絨毯の先に、数段高い位置にある玉座。その天井からは、謁見者と玉座を別け隔てるように、薄布がカーテンのように降りていた。
「やあ久しぶり、ファウマ」
漆黒の絨毯を進み、絹製の薄布の直前でカインツがにこやかに手を上げる。その挨拶に応じるかのように、薄暗い部屋の中、カーテン先の玉座にぼんやりと明かりが灯った。
──久しぶりね、カインツ──
......これが、本当に人の声?
その音の響きをネイトが聞き取れたのは偶然だった。
もう一度聞き取れと言われても聞き取れる自信はない。単に声が聞こえると思っていれば聞き逃してしまっていただろう。薄布越しに聞こえたものは、声という範疇を超えた一つの旋律だった。
「半年ぶりだけど体調も悪くないようで」
「......体調がいい時なんてないわ。けど、わざわざ会いにくる変わり者がいるんだもの。わたしだって無理に顔を出さなきゃならないでしょうに」
不機嫌そうな言葉遣いと対照的に、その声音はどこまでも澄んでいた。
「ありがとう。お土産はさっきの受付に渡しておいたから」
「あなたが持ってくる物は必ずセンスがずれてるのが難点なのよね」
「そう言うと思って、今回は御菓子の詰め合わせにしておいたよ」
少女?
普段聴く声と質があまりにかけ離れているので推定しづらいが、発声の抑揚一つ一つが明らかに若い。王女というイメージからそれ相応の歳を想像していたが、おそらくまだ十代だろう。もしかしたらクルーエルやミオとほぼ同年代かもしれない。
「ねえカインツ、ところで......あなたの隣にいる子はあなたと別の謁見者? それともあなたの連れ?」
「後者かな」
「ふぅん、あなたが誰かと一緒に行動するなんて珍しいわね」
天上の鐘を思わせる声が、わずかにそのトーンを落とした。
「ねえ、そこのあなた。あなたの名前は?」
......僕?
見渡してもこの部屋にいるのはファウマ、カインツ、そして自分だけだ。
「ネイトって言います。ネイト・イェレミーアスです」
「そう。年齢は?」
「十三歳です」
答えた途端、カーテンの向こうにいる彼女が前触れなく沈黙した。一分、二分が経過し、まだ何の反応もない。
「あ、あの......?」
と、唐突に彼女は堰を切ったように。
「ネイト、あなたの好きな色を教えて。あと、あなたの好きな言葉も」
「好きな色? 言葉もですか? え、えっと......色は......なんだろ」
普段意識したことがないものばかりだ。すぐに挙げろと言われても何を挙げればいいのか分からない。けれど彼女はそんなこともお構いなしに。
「それからあなたの好きな場所も教えて。好きな花は? 好きな草は? 好きな動物は?」
え、え、どういうこと?
無茶だ、そんないっぺんに訊かれたって頭が追いつきっこないじゃないか。
「好きな食べ物は? 好きな歌は? 好きな本は? 好きな季節は?」
「え、ちょっ、ちょっと待ってください!......ごめんなさい、あんまり一度にたくさん言われても答えきれません」
「答えられないものは答えなくていいわ。それならネイト、あなた好きな人はいる?」
......好きな人。
もしたった一人だけ挙げろというのなら、それは──
「答えがないのならそれでもいいわ。それなら」
「待ってください!」
ファウマの声を遮るようにネイトは声を張り上げた。
「......好きな人、います」
カーテンの奥で、聞こえてくる彼女の声が微かに強くなった。
「それは、どれくらい好き?」
「......ずっと、離れたくないくらいです」
すると、彼女はまたしてもカーテンの奥で押し黙ってしまった。先の沈黙は優に数分。今度の沈黙はどれだけ長いのだろう。
しかし予想に反し、その静寂は本当に一瞬の間だけだった。
──ふふ、やっぱり。わたし、そんな気がしたんだ──
「あなた、シャオと何から何まで反対ね」
「シャオ?」
......エイダさんから教えてもらった、空白名詠の詠い手と同じ名前?
慌ててカインツへと振り返る。彼も〈イ短調〉のルーファ老人からその名は聞いているはず。だがそもそも、その名と彼女が告げた名が同一人物とは限らない。彼もただじっと彼女の話に耳を傾けているだけだ。
「ああ、気にしないで。あなたたちの少し前に来た人の名前を出しただけだから」
カーテンの向こう、映る女性のシルエットが可笑しそうに肩をふるわせる。
......偶然だよね。

念のため、その相手の風貌をネイトが訊ねようとした時──城内のどこかで、厳かな音色をたてて鐘が鳴った。
城全体に響き渡るような荘厳で重厚な響きの鐘。
「っと、来るタイミングが悪かったかな」
両手をコートの衣囊に入れた恰好で、カインツがその鐘の音に苦笑した。
「ええ、そうね」
王女もまた、どこか寂れた口調で頷く。
「どうかしたんですか」
「それはまたあとで、とにかくこの場は退散しなくちゃいけないんだ」
小声で耳打ちし、カインツは再びカーテンへと振り向いた。
「それじゃ、ひとまずボクらはこの辺で。また時間を空けて来ても構わないかな」
「......それはだめ。先約が入ってるから」
「なるほど、つくづくタイミングが悪かったみたいだね。それじゃ、また近いうちに」
王女からの返事はないまま、ネイトはカインツに促され謁見の間を後にした。







古城の門を越え城下街へと下る山道の入口で、ネイトはカインツをじっと見上げた。
「あの、さっきの話なんですけど」
「ファウマのことかい」
そう、謁見の間を出てすぐの回廊からずっと気になって仕方がなかった。
鐘の音のこと。そして体調がよい時にしか謁見が許されない、その理由。
「彼女は生まれた時から病気に苦しんでいるらしい。それも現代の医療じゃ手の施せない性質の悪い病らしくてね。症状を抑える薬を毎日定時にかかさず服用しなくちゃいけなくて、あの鐘はそれを忘れないためのものなんだ」
「......そうだったんですか」
残酷なものだ。あれだけ美しい声を持っているのに、それと代償であるかのように一生を病に苦しまなくてはならないなんて。
「彼女が遠回しに教えてくれたんだけどね、皮膚病の類らしい。それは街の人間にも広まっていて、灼血の呪いを受けた王女として城下街で噂になることもあるみたいだ」
完治することのない皮膚病。その症状を隠すため、だからこそわざわざ薄布のカーテンが用意されていたのだろうか。
「けど、灼血の呪いって何ですか?」
「──体内の血がまるで熱湯のように煮えたぎる呪い、そんな噂だったよ」
血が、煮えたぎる?
そんなばかな。言葉の表現でならまだしも、そんなこと現実にあるはずがない。
「......カインツさんは信じてるんですか」
「噂は噂だよ。けど、それをまるっきり信じないというわけでもないんだ──もっとも、これはボクの勝手な想像の範疇だけどね」
下り坂の砂利を踏みつけ、彼がその眼光を鋭くした。
「名詠式で『Keinez』を学ぶ生徒がまず教わる、古くからの言い伝えがある。聞いたことはないかな」
「えっと、あの伝承みたいなやつですか」
名詠学校の生徒がまず覚えさせられるという、名詠五色の言い伝え。母から教わったことはなかったのだが、クルーエルが暗唱しているのを聞いて覚えたのだ。
そのうちの赤は、確か......
炎は希望、血は誓い。
過去の咎めを炎が焼き、新たな結びを血が拓く。時として出会い、時として別れる。
ゆえに──至上の願いは、灼熱の誓血でもたらされることとなる。
名詠式の『Keinez』の中で、最も象徴的なものが血と炎とされている。
そしてファウマ王女の、血が炎に炙られ煮えたぎるという皮膚病......言われてみれば、虹色名詠士の彼がその伝承との関連性が気になるというのも頷ける。
「燃えさかる血の疼きに呪われた王女。夜に身悶えするほどの疼きと痒みに、朝は全身から血が滲みでる激痛に襲われる。その美しくも残酷な悲鳴の歌に魅せられ、忌わしき真紅の怪物が目を覚ます......城下街でまことしやかに流れている噂だよ」
歌に魅せられた真紅の怪物?
歌によって何かを呼ぶ──それだけ聞けば、まるで名詠式ではないか。
「......つまり、あの王女さまも名詠士なんですか?」
ネイトの呟きに、しかしカインツは決して頷こうとはしなかった。
「どうだろう。名詠士の資格者リストに彼女の名前はなかったし、実際に名詠したという確かな目撃談もない。正直言って、ボクもそれは噂に過ぎないと思ってる。彼女の声の美しさならば、確かにその声には魔性の言霊があると思いたくもなるし、それが一人歩きしたんだろうね。けれど......ごく個人的に関心はあるんだ」
斜面を下る足を休め、虹色名詠士が背後へと振り返る。
「いまだ誰も聴いたことのないとされるファウマ王女の歌。至高の音色を持つ彼女が自らの声の全てを解放して歌った時、そこにはいったい何が起きるんだろうね」
その視線の先にある古城を、彼はいつになく鋭いまなざしで見上げていた。
4
虹色名詠士、そしてその連れである夜色の少年が退室した部屋で──
「............」
ゆっくりと、ファウマは薄布のカーテンを持ち上げた。
カーテンの奥にある王座代わりのベッドから起き上がり、ふらりとした足取りで素足のまま床に立つ。
向かって右のバルコニー。ステンドグラスが塡められた扉を開け、雪混じりの寒風に素肌をさらす。凍てついた雪が素足に付着してなお、彼女は靴も履かず広大なバルコニーの中央へと進んでいった。
薔薇色に塗られた、半円型のバルコニー。金属製の手すりの脇には大小様々な鉢が並び、彼女の植えた種が地中で春を待っている。
「ごめんなさい、こんなところで待たせちゃって」
「少し寒かったけれど、なんとか風邪をひく前だったよ」
冗談めいた口調で答えるのは、夜色のローブを羽織る人物だった。
透けるような黒髪に濡れたような黒瞳。うっすらと口元に引かれた夜色の口紅。少年か少女か、外見からも声からもまるで判別のつかない名詠士。
「それよりファウマ、薬を飲む時間だよ」
「要らない、あんなの飲んだってまるで効かないもの。シャオ、代わりに飲んでみる?」
あっさりと首をふる少女に、シャオと呼ばれた相手は微笑を浮かべ。
「君が飲まないと、君を慕う城内の人たちが心配するよ。たとえ君のためにならなくても、彼らのためを思うなら飲んでおいた方がいい」
「......分かったわよ、後で飲む」
呆れたような溜息と共に、少女が包帯だらけの腕を胸の前で組む。
「さっきの君は普段より楽しそうだったね」
「そう?」
「普段なら誰かが謁見を求めても、体調が優れないの一言で断っているからね。虹色名詠士もまさか、自分が訪れた時だけ君が謁見に応じるとは思ってないんじゃないかな」
しばしの沈黙の後、ファウマはまるで独り言のように。
「......カインツはわたしを見てくれるから」
不治の病に冒された、世にも儚い声を持つ王女という身分の少女。
それを腫れ物でも扱うような態度を示す給仕たちに、見せ物でも見るような顔で現れる謁見者。家族を含めても、もはや親しく話す相手はいない。
「わたしを特別扱いしないのはあなたとアルヴィル、テシエラを抜かせばカインツくらいだもの」
「ごめんね、せっかく彼が訪れた時に先約を入れてしまって」
「ううん。あなたが来てくれるのも、わたしは嬉しいから」
その言葉のとおり、少女の声はいくぶん弾んでいた。
「ところでファウマ、この前教えた真言は理解できた?」
「ええ。どうせ暇だったからちょうど良かったわ」
「それを使ってもらう時が来たかもしれない」
閉じたローブの隙間から、シャオがほっそりとした腕を出す。
「〈ただそこに佇立する者〉がようやく冬眠から目覚めてくれた。あとは時が来るのを待てばいい」
その手に握られていたのは輝く白亜の石。
それは巨大な何かの鱗のような表面をした、化石を思わせる石だった。
「ヨシュアという老人が始まりの島で見つけ、ツァラベル鱗片と呼んでいた触媒。ほら、少しだけ動いてるのが分かるでしょ」
言われるままファウマはその石を凝視し、やがてぼんやりと口を開いた。
「......本当。生き物みたい」
その石は、うっすらと内側から瞬き輝いていた。輝くのにあわせ鱗のような模様も輝く。それはまるで、その鱗そのものが蠢き胎動しているかのように。
「これの本当の名称がミクヴァ鱗片だっていうのはこの前話したよね。触媒としての力の源たる〈ただそこに佇立する者〉の目覚めに応じ、この鱗片もまた本来の姿に戻りつつある。けど、既に大陸の研究者たちもこの現象に気づき始めた。だからこそファウマの手助けが必要になりそうなんだ」
「あの二人もいるんでしょ? わたしが手伝う必要あるの?」
疑問調の少女に、シャオがゆっくりと首を振る。
「アルヴィルは祓名民の頭領を、テシエラには大特異点を抑えてもらう。そこまでは確定してたはずなんだけど、〈その約束に牙剝く者〉が予定運命を狂わせた。調律がずれる場合、虹色名詠士がそこに介入してくる可能性がある。となれば、それにも対応しなくちゃいけないだろうからね」
「......でも、あなたは?」
その問いに、シャオは無邪気な笑顔で微笑んだだけだった。
「自分は見てるだけだよ。だって自分が出たところで足手まといなんだもの」
「言うと思った、ずるい人」
怒ったようで実は怒ったフリ。そんな声でファウマが溜息。
「まあそう言わずに、実はやりたいことがあるんだ。夜色名詠の詠い手である夜明け、彼とは一度話がしたいんだ」
「ネイトって、さっき来た子?」
「うん、彼とも話したみたいだね。どうだった」
その問いに少女はしばらく沈黙し──今度はファウマが笑う番だった。
「あなたとまるで反対の子かな」
「そう? エイダ・ユンからは似てるって思われたみたいだよ?」
「それは、その人があなたを根本から理解し損ねているから。あなたとネイトという子の本質はまるで反対。心も、名詠式も、愛する者も、みんなみんな正反対。それにあなたと違って、あの子はまだまだ熟しきれてないみたい。あえて共通点を挙げるなら──」
「挙げるなら?」
「自分がこの上なく弱いことを知ってるのに、誰かのために平気で無茶をする性格ということかしら。でもその『誰か』という対象が、あなたとネイトでは真逆のようだけど」
滑らかに紡がれた言葉にシャオはしばし沈黙し、ややあって苦笑気味に首肯した。
「そうだね、否定できる要素がないよ。それでファウマ、君が見たところ自分と彼はどちらに分がありそう?」
「そんなの今さら計る必要もないでしょ」
おどけたような口調のシャオの問いを、ファウマはあっさりと切って捨てた。
だが──
「でも、あなたに頑張ってほしいからアルヴィルやテシエラがいるのは忘れないで......わたしだって、こんな惨めな身体でもあなたの力になりたいんだから」
その少女の言葉には、今までにない穏やかな音色が含まれていた。
「......うん」
一瞬きょとんとした表情で瞬きし──シャオはそっとうつむいた。それはまるで、はにかんだ表情を恥ずかしがって隠すためかのように。
「分かってる、本当にありがとう。アルヴィル、テシエラ、そして君。たった三人の仲間だけど、この三人と出会えたことに本当に感謝してる」
「でもその代わり、わたしのお願いも聞いてね」
「なに?」
訊き返す相手に、ファウマは自らの腕を差しだした。
幾重にも包帯に巻かれた、折れるようにか細い腕を。
「包帯、新しいのに替えたいの。手伝って」
「おやすい御用だよ」
シャオがファウマの腕に手を伸ばした途端。
「......やっぱりだめ、待って」
あろうことか、彼女は慌てて自ら腕をひっこめてしまった。
「どうしたの?」
沈黙する少女。やがて──
「......昨日苦しくて一晩中搔きむしったから、血や汗で包帯がいつもより汚れてるの」
かろうじて絞り出した声は、聞く者の胸を切り裂くほど悲しい涙混じりの声だった。
「こんな汚い包帯を取り替えるのは誰だって嫌なんでしょ、わたしだって分かってる。なのに、本当に手伝ってくれるの? ......あとで嫌な顔しない?」
足首から首元まで、衣服の代わりに包帯だけをまとう少女。それは王女という絢爛な称号とあまりに対照的な、いたましい悲愴な姿だった。
「あとで嫌な顔されるのは辛いの。だから──」
睨みつけるようなファウマの視線。
その彼女の頰を、シャオは人差し指でそっとつついた。
「シャオ?」
「おばかさん。自分が一度でも、君の包帯を取り替えている時に嫌な顔をした?」
氷混じりの風が吹き荒ぶバルコニーで。
冬色に塗られた静寂の帳、それを破ったのはファウマの溜息だった。
「......やっぱり、本当に変な人。わたしの包帯、自分から取り替えてくれるなんて言ってくれたの、シャオくらい」
「自分にできるのはこれくらいだからね。ほら、それより後ろ向いて。背中の包帯から外していくから。代わりの包帯はベッドの枕元だっけ」
山の頂にある古城、その最上階にあるバルコニーにて。
雪混じりの寒風が吹き荒ぶ中、少女の血濡れた素肌が浮かび上がる。
「──ありがとう」
「どういたしまして。それより、包帯を取り替えたらちゃんと薬を飲むこと。いい?」
無言で頷くファウマ。
その足下に、赤く濡れた──今まで彼女の全身を覆っていた大量の包帯。しかしそれは彼女が頷くと同時に一瞬で真紅の炎を上げて燃え上がり、微かな残滓となって寒風の中に消えていった。
残ったのは血のように真っ赤な炎。
咆吼を上げて歌い狂う、そんな何かを思わせる奇怪な形の炎だけだった。
5
フェルン大青湖、城下街の宿の一室で──
「珍しいな。彼女、今日は機嫌が良かったみたいだ」
白く濁った窓硝子をつっと指先でなぞり、カインツが思いだしたように口を開いた。
「さっきのファウマ王女のことですか?」
「彼女、普通は一日に一人しか謁見を許さないんだ。てっきりボクたちがその謁見者かとばかり思っていたけど......」

彼が言葉を濁した続き、それはネイトも思いあたるものがあった。
そう、もし自分たちより先に謁見者がいたのなら、自分たちとその謁見者は道の途中で出くわしていなければならないはず。けれど自分もカインツも、そんな人物は一人として見ていなかった。
自分たちよりだいぶ先に城を出たという可能性もあるが、それでは──
〝ああ、気にしないで。あなたたちの少し前に来た人の名前を出しただけだから〟
ファウマ王女の、「少し前に来た人」という発言と嚙み合わない。
「まあ、それはボクらの考えすぎかもしれないな。それより助かったよ、もしボクらより前の謁見者が彼女の機嫌を損ねてたら会えなかったかもしれない」
本気なのか冗談なのか分からない、とぼけた表情の虹色名詠士。
「本当に、会うことそのものが大変な人なんですね」
「でもそれだけの甲斐はあったんじゃないかな」
楽しげなまなざしで告げる彼に、ネイトも大きく頷いた。
「はい、僕、あんなに綺麗な声の人は初めて知りました。やっぱりまだまだ凄い人がたくさんいるんだなって。帰ったらみんなに教えてあげたいです。......でも、あの人の歌うところが聴けなかったのが少しだけ僕も残念ですけど」
聴いただけで身震いするほど美しい声。それが歌に用いられた時、いったいどれほど清廉な旋律が奏でられるのだろう。
「......歌、名詠式か」
ふと、独り言のように彼が静かに口ずさんだ。
「名詠式は、いつ誰が最初に創造したのかな」
「え?」
それが自分に向けられているものだとネイトが気づいたのは、彼が二の句を継いでからだった。
「歴史の教本には名詠式の起源がまるで語られていない。これってふしぎだと思わないかな。自然には決して存在していなかったはずの名詠式。誰かが意図的に創らなければこの世に生まれなかったはずなのに」
名詠式の起源を誰も知らない、それは──
〝始まりは、いつだったのだろう〟
頭を過ぎったのは、かつてクルーエルが口ずさんだあの言葉。
「そしてその中で、かつては名詠五色の全制覇も、五色以外の名詠の成立も不可能とされていた。なぜ不可能なのかも具体的に語られぬまま、不可能というイメージだけが肥大化してボクらの意識に埋めこまれていた気がするんだ」
「......どういうことですか」
「この世界の歴史にまるで記載されていない、名詠式の成り立ち。セラフェノ音語もそうだ。誰が創造し、いつから用いられたかも分かっていない。なのにそれをボクらは当然のように使う。いつどこで、誰が創造したものかも分からないまま、確かめようとしない。まるで遥か過去から、それを知ることが禁忌とされているかのようにね」
名詠式に隠された秘密。
では、それを知ることを禁忌としたのはいつから、どこで、誰が?
「そしてこれは、クルーエルさんが残したとある一言に結びつく」
〝大人は、大事なものを忘れてる〟
「ボクはこの台詞をサリナルヴァを通じて聞いたんだけど、その時妙な違和感を覚えた。大人は忘れているのではなく、何か大きな流れによって忘れさせられてしまったんじゃないかって」
この世界の人が、名詠士が、みんな名詠式の大事な部分を忘れている。
けどそれは、全て何かの作為的な意志によって?
「で、でも......カインツさんがそれを気にしているってことは、カインツさんはそれを忘れていたわけじゃないんですよね」
「いや──思いだしたんだ。君と、君の母親のおかげでね」
優しげな微笑で、懐かしむような視線で彼が窓の外を見上げる。
「大人は不器用なんだよ。普段は昔のことなんか思いださないくせに、一度思いだすとそれが懐かしくて仕方ない」
偶然だろうか。
それとまるで同じことを、浸透者と対峙した時のミラー教師が言っていた。そう、何かを忘れた大人がいる一方で、それを思いだした大人もいる。
──もしやそれこそが、名詠式の謎を解く鍵?
「たとえ大事なことを忘れたとしても、ボクらはまだ思いだすことができるはずなんだ。昔の記憶も、約束も、そしてどこかに埋もれた名詠式の秘密もね」
彼が枯れ草色のコートから取りだしたのは真っ黒い正方形の箱だった。周囲には細い鎖が幾重にも巻かれ、特殊な鍵を用いなければ決して開封できない設計になっている。
そこから現れたのは、化石のような外見の石だった。
何かの鱗のような模様がついた古ぼけた石。それが──
「......なに......これ、動いて......る?」
テーブルに置かれた石を眺め、思わずネイトは息を呑んだ。
表面の模様が奇妙な周期で点滅を繰り返し、それがドクンドクンと脈動しているかのように見えるのだ。
「サリナルヴァが一欠片送ってきたんだ。〈イ短調〉のメンバーにはそれぞれ同じ物が送られている。これ、一度使用したあとの〈孵石〉の中身だそうだよ。それがつい最近、突如こんな胎動を始めたらしい」
〈孵石〉の中身?
空白名詠の触媒であり、〈その約束に牙剝く者〉を詠びだすための特有触媒だとは聞いている。既にミシュダルによって使用されたはずの触媒。それがなぜ、今になってこうも不気味に動きだしたのか。
「ただの石がこんな胎動を繰り返すはずがない。ボクが気になっているのは、この鱗のような模様。まるで本物の生物の鱗としか思えない」
「......まさか、これが本当に、何か巨大な生き物の鱗ってことですか?」
「まだ分からない。だけど、これにはまだ隠された秘密が埋もれている気がしてならない。ボクたちがまだ知らない何かがね」
そんなもの想像もつかない。
けどそれが、まだ人の知らない名詠式の秘密の一端?
「実を言うとね、ボクが今回君をこの旅行に誘ったのは、このことを君に伝えておきたかったからなんだ」
「え?」
列車を使って何時間も大移動するこの旅行が、この話のためだけに計画されたもの?
「もちろんあのお姫様の綺麗な声を聴かせたかったというのもある。けど、この話はまだ限られた人間にしか教えたくなかった。さっきの〈孵石〉の中身のことも含めてね。トレミア・アカデミーだと誰がどこで聞き耳をたてているか分からないから、こうした僻地で少人数に伝える方法が最良かと思ったんだ」
椅子に座ったまま腕を組み、指先を唇に添えるような仕草で彼が続ける。
「この触媒の正体が何なのか。名詠式の起源はいつか。セラフェノ音語はいつ誰が、何の目的で創造したのか。名詠式の根幹を形成する、いまだ知られざる神秘。そしてこれらは全て、とても深い部分で密接に絡まり合っている気がしてならない」
そう、それはネイトもうっすらと感じていたことだ。そしてその秘密に限りなく近いと思われる存在にも心当たりがあった。
「......アマリリスですね」
クルーエルの心に宿っていた、空白名詠の真精。
「そう。その鍵を握るのがアマリリスという名の存在だったはずなんだ。始まりの島という島で、クルーエルさんによく似たあの少女は、ボクに何かを伝えようとしていた」
クルーエルが自らの心の中に名詠したとされる真精。
けれどそれがどこへ消えたのか、それはクルーエル自身にも分からないという。
「アマリリスが告げた単語は『予定運命』、そして『全ての約束された子供たち』というこの二つ。さらに言えば、アマリリスは最後までクルーエルさんを気にかけていた」
〝災厄ではない。でもこの子にとっては何よりの苦痛となる。その苦しみからこの子を解放できる人間を、それを託せる人間をわたしはずっと探していた〟
......僕は、そのアマリリスと直接会ったことはない。
だけどもしそれが本当なら、やはりアマリリスは、クルーエルさんを傷つけるのではなく、むしろ彼女を守るための存在だった?
「むしろ今までのが単なる氷山の一角だった、そう考えた方がいいかもしれない。いずれにせよ、既にボクらもその謎を解く鍵は与えられている。アマリリスから託されている。だからこそあの少女は、ボクたちの前から姿を消したのかもしれない」
始まりの名詠たる空白名詠、その真精アマリリスが自分たちに伝えようとしていたこと。
そしてその調律者が敵視しているという、夜という名の人物。
......僕と、まるで反対の名前の人か。
〝あなた、シャオと何から何まで反対ね〟
なぜだろう。あの時のファウマ王女の呟きが、今になって頭の中で泡のように生まれて弾けていく。そして──トレミア・アカデミーにてアルヴィルという男から聞かされた、シャオという人物からの伝言。
〝真言〈全ての約束された子供たち〉の目覚めは近い。もし空白の真言と向かい合う気があるならば、この世界に根を下ろす全ての真実を受けとめるだけの覚悟が必要になる〟
〝そして今、この世界でその真実に最も近い人物は、君の母親がよく知る勝者の王だ〟
ここにもまた、〈全ての約束された子供たち〉という単語があった。
「......アマリリスがカインツさんに言ってた〈全ての約束された子供たち〉っていう言葉、僕も間接的にシャオって人から聞きました」
「偶然ではなさそうだね」
腕を組んだまま微動だにしないカインツ。おそらくは呼吸すら止めて思考を巡らせているに違いない。
アルヴィルという男から告げられた伝言の、前半分はまだ謎が多い。けれど──
〝そして今、この世界でその真実に最も近い人物は、君の母親がよく知る勝者の王だ〟
これだけは今のネイトにもはっきりと分かる。あの時の伝言。そして今回の旅行もそうだ。全ての条件が、目の前の人物がそうだと告げている。
「いずれにせよ、この件についてはまだ多くが謎だ。君も、クルーエルさん以外には極力教えないようにね」
「──はい」
テーブルの下で拳を握る。昂ぶりでも決意でもない。それは、得体の知れないものに対する純然たる緊張だった。
「......そういえば、少しだけ冷えてきましたね」
窓の向こう、ひゅぅと唸る突風の過ぎる音にネイトは耳を傾けた。氷雪が硝子を叩く耳障りな音。聞くだけで背筋が凍える音だ。
「学校も、こんな雪が降ってるのかな」
「向こうはここと比べればだいぶ暖かいからね、まだ当分は降らないと思う。でも当分と思っていると、季節はあっという間に過ぎていく」
彼の声に無言で頷き、ネイトはじっと窓の外の光景を眺めた。ずっと、窓が雪に覆われ、外の景色が見えなくなるまで。
そう──
季節は秋から色を変え、凍える季節へと移りゆく。木々は葉を落とし、動物は冬眠り、魚は氷の海で動きを止める。
それはさながら、全てが寝静まる夜の時間がどこまでも続く季節。
始音を越え、奏でられるは冬の旋律。
ゆりかごから立ち上がり、生まれ落ちた世界は微笑むように涙を拭う。
夜と夜明けの交叉する時が迫っていることを、知らないままで──


あとがき
四月──職場や学校など、新しい出会いがある季節。
細音も昼間は小説以外にちょこちょこ働いている関係上、職場に新しい人が来るかもしれないし、あるいは逆に、別部署に行くことになっているかもしれません。これを書いているのがその少し前なので、この本が刊行される頃はちょっとだけドキドキです。
あらためまして、お久しぶりです。細音啓です。
黄昏色の詠使い第六巻、手にとって下さいまして本当にありがとうございます。
今回は、普段とちょっと違う短編形式。「ドラゴンマガジン」誌上にて連載した短編四つから三つを選んで収録。それと、六巻の構成に合わせた書き下ろしが五つです。
通常のファンタジア文庫の短編形式というと、書き下ろしは多くて二つか三つ。書き下ろし五つという数字は、ここ最近でも珍しい&ちょっとお得な構成なのではないかと思うのですが......どうでしょう?(しかしその反面、担当編集Kさんや竹岡さんの負担は、普段かそれ以上だったという噂もありますが)
さて、実際の内容ですが──
今まで出番を抑えていたクラスメイトや学校生活、生徒や教師の知られざる一面のドタバタ騒ぎに、イブマリーやカインツの過去話を含めた、第一楽章を締めくくる六話。それと、第二楽章へと続く書き下ろし二話を加えての全八話です。
特に前半のドタバタ短編は、今までの巻にない雰囲気のものかもしれませんが、本編には出なかった黄昏色の詠使いの側面として、楽しんで頂ければ幸いです。
ところで、今回のあとがきってなんと三ページ! 今までで最少量なんです。
その限られたページ数で話題を選ぶとすれば、やはり今回は、多くの短編の舞台になったトレミア・アカデミーでしょうか。今まであまり日常生活を描けなかった本校ですが、普段はもっぱら短編のように賑やかな(?)雰囲気です。
あと加えてこの学園は、ゼア学園長の趣味もあって学内イベントが多いかも。
一巻の競演会に、今回の徒競走大会。そしてネイトが転入する前の春には、全部活対抗の部室争奪戦(エイダとキリエの因縁はこれが原因)。さらに秋には学園祭、冬に雪が積もった時には雪合戦大会まで。
ちなみに去年の雪合戦は、『花園に~』に出てきた護身部部長イフレティカが、クラスメイトでもある料理研究部の部長(キリエの姉)と共に暗躍し、他クラスを壊滅させて優勝したとかしないとか。今冬はネイトのクラスとの激戦があるかもしれません。
とまあ、そんな側面的な背景もこっそり頭の中で展開させつつ、ここからまた、黄昏色の詠使いは本編へと続いていきます。
第一楽章と第二楽章の間奏にあたる、第六巻。隔月刊行ということで普段以上に慌ただしい中、お世話になった担当編集のKさん、いつも素敵なイラストで支えてくださる竹岡美穂さん、そして家族や友人、何よりこの本を手にしてくださったあなた。
今回も本当にありがとうございます。そしてここから、また宜しくお願いします。
黄昏色の詠使い・第二楽章、ここからがいよいよ物語の本番です。
八月刊行予定の第七巻も、どうかお付き合い頂けますように。
二○○八年、二月末 とある日の夜に
細音 啓
(四月の下旬、HPの用語集も、第二楽章用の部分を更新いたします......たぶんっ!)

初 出
赤奏『あなたに贈る小さな黒歌』
月刊ドラゴンマガジン二〇〇七年二月号
増刊ファンタジアバトルロイヤル
緑奏『探せ、そいつはあたしのだ!』
月刊ドラゴンマガジン二〇〇七年八月号
青奏『アマデウスを超えし者』
書き下ろし
白奏『花園に一番近い場所』
書き下ろし
黄奏『走れ、そいつはあたしのだ!』
書き下ろし
虹奏『また会う日までの夜想曲』
月刊ドラゴンマガジン二〇〇七年九月号
禁律・夜奏『アマリリスは真夜に咲いて』
書き下ろし
禁律・空奏『そしてシャオの福音来たり』
書き下ろし





黄昏色の詠使い
新約の扉、汝ミクヴァの洗礼よ
細音 啓

富士見ファンタジア文庫
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口絵・本文イラスト 竹岡美穂


序奏『シャオ、汝ただ佇立する者よ』
凱旋都市エンジュ。
大陸中央部に位置し、最も大きく、また最も古い歴史を持つ都市の一つである。
昼夜問わずそこかしこに並ぶ露店。深夜でもなお音やまぬ雑踏。公道はおろか、裏道ですら人の喧噪に満ちた都市。常に隣の通行人と肩をすりあわせ、少しでも足を止めれば後ろの通行人と瞬く間に衝突する。
そんな都市の一角で。
──おはようアルヴィル、そちらはどう?
誰かが、くすりと微笑んだ。
性別の区別のつかない中性的な声。そしてその声を発した人物もまた、少年なのか少女なのか区別のつかない容姿だった。
端整でやわらかい顔だちに、憂いをおびたように揺れる黒瞳。身長も、背の高い少女とも言えるし少年と言っても通じるだろう。ほっそりとした身体つきが、葡萄色をさらに濃くした深紫色の外套ごしにも感じられる。
「よかった、テシエラとファウマと合流できたんだね。──うん、わかった。ここで待ってるから早くおいで。でもあんまり無理して急がなくてもいいよ。え、急ぐのか急がないのかハッキリしろって?」
独り言、そうとしか思えない会話を一人で続けるその人物。
それは傍目に幼い口調ながらも、まるで幾百年を生きた大樹のような、漠々たる閑けさを感じさせる声だった。
「ふふ、そうだね、それなら三人のペースで来てくれれば構わない。そこまで急ぐことじゃないから」
大都市の公道、それも人が行きかう交差点の中央部。そこにただ一人、時の流れからも忘れられたかのように、その黒法師はぼんやりと立っていた。
薄暗い双眸に、感情を映さない奇妙な笑みを浮かべたままで。
「そうだ、あえて言えば列車はやめた方がいいよ。歩いてくるか、ファウマかテシエラに頼んで名詠生物を詠んでもらうかのどちらかがいい。......なぜかって? うん、なんとなくだよ。そうそう、今アルヴィルがいるのはアシエン共住区だよね」
独り言のように呟くその人物に、周囲の通行人はまるで顔を向けることがなかった。
公道の真ん中に障害物のように立っている。それなのに、通行人はその人物に衝突することはおろか、まるでその存在に気づかぬように誰もが避けてとおっていく。
その存在に目を向ける者はない。
その存在に肩を触れる者もいない。
その人物は、ただひっそりとその場に佇立していた。
「そこの区域一帯なんだけど、もうじき列車故障が起きる。修理にかかる時間はおよそ二日。運行まではさらに七時間。それだけ待つのは面倒でしょ。だから足で次の駅舎まで行って、そこから列車でおいで。......え、なんでそんなのわかるのかって? ふふ、そんな気がするだけ。本当に勘でしかないけれど、たぶんそうなるはずだよ」
くすりと、その人物がわずかに表情をやわらげた。
「あはは、まあそう言わずに。いいじゃない、この季節なら散歩も悪くない。あとはファウマの体調にだけ気をつけてあげて。それじゃ、また何かあれば」
独り言、そうとしか思えない会話が終わる。
と思いきや、外套をひるがえし、シャオは視線を頭上へと持ちあげた。
「──さて、ようやくか」
まるで頭上の空を抱きよせるように両手を広げる。
「ネイト、君もここにやってくるのでしょう? まだ会ったこともないけど、それだけははっきりと感じるよ。だからおいで......早く......もっと早く」
頭上を見上げたまま目をつむる。そんなシャオの口元には微笑があった。無垢な、生まれたての子供のような。母親に抱擁される赤子のような微笑が。
「ネイト、そしてクルーエルがここに集う。そう、集うことが鍵となる。真言に目覚めた二人がこの地のミクヴァ鱗片に接触することで、ようやく〈ただそこに佇立する者〉への扉は開かれる」
唇に右手の指先をあて、口元を隠すような仕草をつくる。が、それはあくまで仕草だけ。クスクスと、隠しきれない笑い声が指先の隙間からこぼれ落ちていた。
「ねえ、ネイト。君もじき〈ただそこに佇立する者〉の声を聴き、名詠式のもう一つの素顔を知ることになる。全てを知った時、君はそれを受け入れる? それとも対峙する? ......君の旋律が楽しみだ」
はかなげな双眸に微笑をたたえたまま、道の端ぞいに並ぶ建物に顔を向ける。
色褪せた建物の陰に隠れる子猫が一匹。
「やあ、キミも一人ぼっちなの?」
まるで言葉が通じたかのように、じっとして動かなかった子猫が建物の陰から現れる。通行人に踏まれぬよう子猫を抱きかかえ、シャオはにこりと微笑んだ。
「そう......それなら、しばらく話し相手になってくれるかな?」
その三時間後。
大都市エンジュから遥かに離れたアシエン共住区一帯を走る大陸鉄道にて、整備不良の車両が大量に見つかる事故が起きることをまだ誰も知らない。
修理から運行までかかった時間は、ちょうど二日と七時間だった。
一奏『予覚』
1
蒼みがかった灰褐色の風。
吐く息が白くにごり、それもまた風に吹かれて千々に消えていく。足下の草花も身をちぢめて堪えしのんでいるような、無音をもたらす寒気。早朝特有の白い陽射しは氷柱のように鋭く、優しいどころか痛いほどに眩しい。
凍える冬の到来を予感させる、そんな早朝だった。
「......うー、やっぱ朝は寒いんだね。コート着てくれば良かった」
寒気に身体をふるわせ、ネイトは目の前にそびえる駅舎の門を見上げた。
ネイト・イェレミーアス、神秘的な夜色の髪と瞳。中性的でやわらかな面だちに、ほっそりとした体格の少年だ。
『ネイト、ついこの前、冬服にしたから暖かいと言ってなかったか』
その肩に留まるのは、同じく夜色をしたトカゲだった。
子猫ほどの大きさのある、人語を解するトカゲ──正しくは、ネイトの名詠式によって詠びだされた名詠生物である。
「だって、朝こんなに冷えるなんて思ってなかったんだもん」
ネイトが着ているのは学園指定の制服だ。白を基調とした細身の設計に、襟と袖には名詠式の専攻色を示す黒の一本線。半袖の夏服と対照的にこの冬服は長袖、生地も厚めになっている。が、それでも寒いものは寒いのだ。
『まったく、ならばさっさと駅舎に入ればよかろう』
「そ、そうだね。中に入れば風も少しは防げるし」
リア・ナクタ。ネイトの通う名詠学校から最も近い駅舎である。
最寄りといっても徒歩で優に半時間。吹きさらしの丘を延々と歩いてきたせいで、身体が骨の髄まで凍えてしまった。
「......ええと、ケルベルク行きは七番ラインだっけ」
手にしたチケットを凝視したまま駅舎へ。
リア・ナクタの駅舎はトンネル形。列車が走る線路の一部を、耐雨用の塗料が塗られた石造りの両壁と天井が覆う。列車の進路は風がとおりぬけるため外気の遮断は不完全。しかし列車を待つ人の吐息で、駅構内はわずかに暖かかった。
『しかし唐突な招待だったな』
「明日の朝一番の列車でケルベルクまで来い、だもん。僕、今日の実験楽しみだったんだけどな......クルーエルさんともペアの約束してたし」
肩から身を乗りだすアーマ。その頭を軽くなでてやり、ネイトはがっくりと肩を落とした。そう、事の発端は昨日の深夜。とある人物からの突然の連絡だ。
『小娘に今日のことは?』
「ううん、だってそんな時間もなかったし」
アーマがばさりと翼を広げるのにあわせ、ネイトは首を小さく横にふった。
「でもね、ケルベルクの方から学校に連絡はしてくれるんだって」
『そんな遠回りなことをせずとも、あの小娘に昨夜のうちに伝えておけば良かったではないか』
「......そんなことしたら変な勘違いされちゃうよ」
クルーエルが住んでいるのは学園の女子寮。就寝時間も決められ、その後の訪問・外出は特別な事情がないかぎり許されない。誰もが寝静まった時刻、そんな女子寮に男子生徒が訪れたなんてことが知られたら大騒ぎだ。
「でも学校のことはなんとかなるよ。クルーエルさんだって、帰ってから説明すればきっと許してくれるもん」
『まあ、それはそうかもしれんがな』
三日月のような細い瞳孔をいっそう細め、苦笑するようにアーマがうなずく。当人に自覚はないのかもしれないが、その仕草が妙に人間くさくて面白い。
『さしあたって今は、目の前のことを先に片づけるということか』
「うん、やっぱり気になるからね」
......いったいどうしたんだろう。こんな突然に呼ばれるなんて。
ケルベルク。その駅名は、かの地に拠点を置く一大研究機関の名に由来している。
大陸各所に施設をかまえる大陸有数の研究所。そしてネイトを呼んだ人物は外でもない、ケルベルク研究所を統括する人物だった。
〝少年、お前に見せたいものがある。明日一番の列車でケルベルクに来い〟
──どうしたんだろ、こんな急に。
過去とある事件がきっかけで出会い、ネイトもその相手とは面識がある。だがなぜ今、ここまで唐突に呼ばれる必要があるのか。
......気になるもんね、やっぱり。
『そろそろ出発の時間か?』
「うん、行くよアーマ」
肩先のアーマを従え、ネイトは黒塗りの列車へと歩いていった。







大陸辺境の地にありながら、生徒数千五百人を数える大規模な専修学校。それがトレミア・アカデミーである。
名詠式と呼ばれる特殊技法を学ぶための学園であり、そのための施設や教育水準も大陸中央部の名門校に劣らない。辺境という欠点を逆にいかした広大な敷地には、自然豊かな山林までもがそのままの姿で残っている。
秋から冬へ。
笛のようなかん高い音を立て寒風が校舎をよぎる中、賑わいをみせているのが二年生校舎の先にある喫茶店だった。空調のきいた暖かな室内、バイキング形式のケーキと淹れたての紅茶の香りが漂う店内。放課後は生徒から教師までわけへだてなく賑わう場所だ。
そんな喫茶店の片隅で──
「......あー、もう、びっくりした」
左手で胸をおさえ、クルーエルは友人の待つテーブルに腰かけた。
クルーエル・ソフィネット。陽に輝く緋色の長髪にすらりとした長身。深い青紫ながら冷たい印象をあたえない優しげな双眸、端整な顔だちが特徴の少女だ。
「あはは。ね、あたしの言ったとおりでしょ!」
テーブルの対面に座るミオが可笑しそうに肩を震わせる。
癖のある金髪に愛らしい童顔のミオ・レンティア。クルーエルと同じ十六歳、高等部で学ぶ一年生だが、その童顔と小柄な体格ゆえ中等部の生徒と間違われることもある少女である。
「だっていきなりすぎるよ......わたし、てっきり部活の勧誘かと思ってたのに」
早鐘を打つ鼓動はまだしばらく鎮まりそうにない。溜息一つ、クルーエルはテーブルのティーカップを手に取った。
「で、クルル、さっきの人はなんて言ってきたの」
「え、それはダメだよ。あの人に悪いもん」
カップのふちを指先でなぞりつつ首を横に振る。
それは、クルーエルがミオと喫茶店に入る直前のことだった。顔も知らぬ他クラスの男子生徒に声をかけられたのがきっかけである。
何やら顔を真っ赤にした男子生徒に呼ばれたと思えば......
「──ああ、やっぱりだめ。恥ずかしすぎるもん! こんなの人に言えないよ!」
消え入りそうな声を上げ、クルーエルは顔を隠すようにティーカップを持ちあげた。
しかしその一方、ミオはますます嬉しそうにテーブルから身体を乗りだして。
「平気平気、あたし誰かに言いふらしたりしないってば」
「で......でも......」
「いいからいいから、おねーさんに相談してみなさいな。一人で恥ずかしがってないで、いっそ全部言っちゃえ言っちゃえ!」
「......ええと、廊下ですれ違った時から......好きだったんです。どうか付きあって......くだ......さいって」
付きあってください、そう大声で迫られたのだ。それも見知らぬ男子生徒から。
あまりに突然のこと、最初の数秒は息すらできないくらい動揺してしまった。
「で、うぶなクルルはあわてて逃げてきちゃったと」
「う、うん......」

「ありゃりゃ、もったいないようなクルルらしいような」
紅茶のカップをスプーンでかき回しつつ、ミオが苦笑するようにはにかんだ。
「でもね、ちゃんとお返事はしたよ。気軽にお話しするくらいなら喜んでって」
「クルルってば、すぐ逃げてきちゃったら逆効果だよ。完全無欠に告白拒否だもん」
「だって......知らない人からそんなこと言われても」
中等部の頃からいつもそうだ。どう返事をすればいいのかわからない。たとえばクラスメイトの男子からの告白。嫌いじゃないけれど、即座に付きあえるような仲でもないと思う相手にはどう答えればいいんだろう。
「あはは、まあクルルは入学当初から告白ぜめだったもんね。そういえばさ、一個上ですごくハンサムな先輩いたでしょ。あの人は?」
「ううん、同じだよ。だって名前も顔も知らない人だったから」
クルーエルってば変わってるね、いつも男子からの告白断ってるけど嬉しくないの? そんな質問を、女子の友人から聞かれることがしばしばある。
「......わたし、まだよくわからないの」
自分が変わっているとは思っていない。......だって恋愛って、互いに知り合った二人が同じ時間をすごすうち、少しずつ距離を詰めていくはずのものだよね?
それなのに、互いを知る前から「好きです」とはどういうことなんだろう。
「あたしはいいと思うけどなあ。好きです、が最後の結末じゃなくてきっかけだとしても素敵じゃない。......ていうかクルルが贅沢すぎるの! そんな理想的な恋愛なんて物語の中だけなんだから。だめだよ、もっとチャンスを活かさないと! あたしなんか、あたしなんかね、そんなチャンスそのものが────っ!」
なぜか感極まった面持ちでテーブルを叩くミオ。怒りながらも泣きそうという、とにかく鬼気迫る表情だ。
「ご、ごめんねミオ......」
無言の重圧におされて思わずカップからも手を離す。と、思いのほかミオはすぐに普段のにこやかな表情で。
「まあクルルはそれでいいと思うよ。気持ちもわからないでもないもん。でもそうなると該当するような男の子ってほとんど......ほとんど──」
その言葉が途中で止まった。口を開けたまま、その視線は何もない虚空でぴたりと停止。
ミオの癖だ、何かを考えている時の。
「......ミオ?」
「そうそう! ねえクルル、最近特にネイト君と仲いいよね?」
ネイト?
ミオの挙げた名に、クルーエルはぽかんと動きを止めた。
ネイト・イェレミーアス、今年の夏休み直前に自分のクラスへ飛び級で転入してきた少年である。母の遺した夜色名詠式を完成させる。とにかくそのことに夢中で一途で、そのぶん周りが見えなくなってしまうことも。
そんな危なっかしさが放っておけなくて、それとなく付きそっていたのがきっかけ。あれからもう数ヶ月。
「もう、何言ってるのミオってば。だってネイトは──」
確かにネイトとは仲悪くないけど、それは割と前からだ。一緒に名詠式の練習に付きあったり、実験でペアを組んだり。
「ううん、そうじゃないよ」
ところがミオは机に頰杖をついたまま、にこやかに。
「クルルとネイト君が仲いいのは前からだけど、それはなんていうか、悪く言えばお姉さんと弟みたいな感じだったもん。最近はネイト君もうちとけて......んー、違う。イマイチうまく言えないけど、ほらこの前、クルルがネイト君と目を合わせた途端さ、二人して恥ずかしそうに顔そらした時があったじゃない」
「......あれ、そんなことあった?」
クルーエルにその覚えはない。でも、偶然に目が合うのはクラスメイトならあることだろう。たまたま顔をそらしてしまうことだって。
「先週のことだよ。あたしはそれがすごい印象的だったな。今までとは別の目で互いを見るようになったって感じで」
「そ、そんなことないよ! だってわたしとネイトは単なる──」
慌てて取り繕おうとして、だけどその先が続かなかった。
単なる、単なる、単なる......そんな言葉で済ませられるの? 本当に?
夏のこと、競演会で五つ首の巨大なヒドラが暴走した時。
原因不明の高熱で自分が倒れ、空白名詠の浸透者に襲われた時。
そしてついこの前、昏睡状態でケルベルク研究所へと運びこまれた時、誰より先に駆けつけ、わたしの身を案じてくれていた。
......うれしかった、ありがとう。
お礼を言おうとするとネイトは恥ずかしがって逃げるけど、それだけは今でも素直にそう言える。
「ほらやっぱり! 黙っちゃうなんてクルルも案外自覚アリだね?」
「え、い、いやだなミオってば。ちょっと考え事してただけよ。確かにネイトと仲がいいのはそうかもしれないけど」
単なるクラスメイトという関係でないとはクルーエルも思う。
けれど弱ったことに、自分は今まで恋愛らしき恋愛をしたことがない。どこまでが友人でどこからが恋人なのか、その境界線がわからないのだ。
「むぅ、クルルってば頑固なんだから」
「だって、本当にそういうのわからないんだもん」
すると目の前の友人は突如、とっておきの悪戯でも思いついたような含みのある笑顔を浮かべてみせた。
「じゃあ逆にさ、もしネイト君から『好きです』って告白してきたらどうする?」
「......え?」
「あ、もちろん仮の話だよ。でもクルルとネイト君はまだ単なるオトモダチなんでしょ。さっきの人と同じで、やっぱり断っちゃう?」
......もしネイトに......付きあってくださいって言われたら......?
文字どおり頭の中が真っ白に。しかし次の瞬間には、ネイトが夜色の双眸でじっと自分を見上げる光景が。
「ちょ、ちょっと待って! いきなりそんなの──」
ネイトがわたしに? ど、どうしよう、心の準備ができてないよ。それにわたしとネイトはまだ知りあって半年くらいだし......でも、でもそういうのって時間の長さだけじゃないよね。確かにネイトのことは好きだけど、その好きっていうのは一緒にいて嬉しいっていうものだから......あ、あれ。でもそれなら十分好きってことなのかな。
「あれ、クルル? クルル?」
そ、それなら思いきってオーケイしちゃおうかな。でもすぐうなずくのも恥ずかしいし、一度ダメって断ったフリしてから......
「おーい、クルル? 聞こえてますかぁ?」
え、えへへ。恋愛かぁ、楽しいのかな。
二人で一緒にご飯食べたり、どこか遠くにピクニックにいったり。ううん、そんなことじゃなくても、ずっと一緒にいられるのなら──
「クルル、クルルってば!」
......あ。あれ。
気づけば、ミオが半分呆れたようなまなざしで。
「クルル、一人ですんごい嬉しそうな表情してたけど」
「え、そ、そんなことないよ!」
顔を真っ赤にして首と手を横に振るも、ミオはますます嬉しそうに。
「いいよいいよごまかさなくて、あたしは二人のこと応援してるからね?」
「もう、そんなんじゃないってば!」
「あはは、そういうことにしてあげる」
......ミオのばか。目でわかる。ミオは絶対信じてくれてない。
「でもネイト君と言えばさ、今日お休みで残念だったね。せっかく前から張りきって準備してた演習だったのに」
ガラスごしに外を覗きこみ、ミオが湯気の残るティーカップに口をつける。
「あ、そうなの。昨日も夜色名詠で新しいのができそうって張りきってたんだけどね」
名詠式、それがこの学園でネイトやクルーエルが学んでいる特殊技術だ。
自分が望むものを心に描き、自分の下へと招きよせる転移術。その術式の過程で、詠びだす対象の名前を賛美し詠うことから、一般に名詠式という名で広く認知されている。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。
名詠式はこれら五色の音色からなりたち、その音色と同色のものを詠びだすことになる。
クルーエルは赤、ミオは緑が専攻色。そしてネイトが、母親から受け継いだ異端の名詠、夜色名詠である。
「昨日もクルルと居残りで頑張ってたでしょ。無理しすぎて風邪でもひいたのかなって」
「......うん、そうじゃないといいんだけどね」
テーブルの上に両肘を載せ、クルーエルはぼんやりとしたまなざしで宙を見上げた。
今日は朝からネイトは欠席扱い。クラス担任のケイト教師が言うには欠席届が出ているらしいが......
と、ふと視界の端に、見知った顔の友人が映った。
短く切りそろえた亜麻色の髪に、猫を思わせる悪戯っぽく大きな瞳、日焼けした赤銅色の肌が特徴的なボーイッシュな少女だ。その肩に、白布を幾重にも巻いた棒状の物体を担いでいる。
「あれ、エイダ?」
「おいっす、クルーエルこんなとこにいたのか。ミオと一緒だっていうから図書館の方を探しちゃったよ」
エイダ・ユン。専攻は白色名詠。クルーエルやミオのクラスメイトで、普段から親しい友人の一人だ。鎗術部という運動部に所属しており、こんな寒い日にも半袖の運動着姿というのはいかにも彼女らしい出でたちだ。
「うん、今日は寒いし、たまには喫茶店で贅沢したいなって」
クルーエルが所属する護身部、ミオが所属するミステリー研究会は共に部室の改装で今週いっぱいが休み。放課後は二人でのんびりしていたというわけだ。
「もしかしてエイダも部活休みなの?」
「そだよ、でもケイト先生に呼ばれてさ。あとクルーエルも探して連れてこいだって」
......わたしも?
「ほら、この前の小テスト。あたしら二人そろって点悪かったじゃん。その補習かも」
「ふしぎだよね。クルルってば名詠の実技はすごいのに紙上試験がダメだなんて」
そろって腕を組むエイダとミオ。
「おかしいな、この前の小テストなら平均点よりちょっと低いくらいは取れたよ」
クルーエルの返事に、今度はエイダが首をかしげる番だった。
「あれ、じゃあ赤点あたしとサージェスだけ? それなら一緒に呼ばれる理由はそれじゃないか。まあ先生も怒ってる雰囲気じゃなかったし、お小言ではないとは思うけどさ」
教師に呼びだされるようなやましい覚えはない。代わりに、これといって褒められるようなこともなかったはず。
......うーん、わからないなら行ってみるしかないのかな。
「ねえエイダ、それってすぐ終わりそう?」
「時間はかからないってさ。というわけでミオ、悪いけどちょっといいかな」
席から立ち上がり、再びエイダが鎗を担ぐ。
「うん。ちょうど読みかけの本もあるし、ここで席取って待ってるよ」
「ごめんねミオ、じゃあちょっと行ってくるから」
鞄から厚めの小説を取りだすミオへ、クルーエルは小さく手を振った。
2
ケルベルク研究機関、研究所本部。
地平線が見えるほど広大な敷地、いくつもの巨大な実験棟が建ち並ぶ研究所である。
鼠色に似た鈍色の建造物の峰は敷地外からもはっきりと目に映る。中でも敷地中央に位置する本部棟は地下二階、地上七階建て。この棟に専属する研究者だけで百人を優に上回るという。
コッ、ッツ......
小さな足音を響かせ、ネイトは本部棟の階段を上がっていた。
『この先か』
「うん、サリナルヴァさんは副所長室にいますよって」
一階の受付で名前を告げるや、まっすぐ最上階へ向かうよう告げられた。最上階に設けられた特別個室。自分を呼んだ人間はそこに席をかまえているらしい。
『ネイト、寝床を開けろ』
ふと、じっと肩に摑まっていたアーマが小刻みに身体をふるわせた。
寝床とは自分が持っている通学用鞄のこと。名詠学校の生徒なら名詠生物は珍しくないが、外出時にはアーマに隠れてもらうことになっている。
「え、でもサリナルヴァさんは平気だよ。もともと名詠式の研究所なんだから、アーマがいたって──」
『単に長話に興味がないだけだ。話に口を挟む気もない』
翼と尾を器用に折りたたみ、肩に留まっていた名詠生物が通学鞄に潜りこむ。
「まあ......アーマがそれでいいって言うなら」
心もち重量を増した鞄を抱え、ネイトは最後の一段を上りきった。
眼前にそびえる平凡な扉。ノックか、あるいは扉向こうに声をかけるか。ごく素朴な選択に費やした数秒間に。
「遠慮するな、さっさと入ってこい」
見透かしたように、扉奥から聞き覚えのある声が伝わってきた。
「あ、は、はい。失礼します」
一歩入ったその部屋は、ネイトが目を疑うほど質素な空間だった。
花瓶も本棚も、絨毯すらない。採光用の小窓が一つ、あとは部屋の大きさに合わせた机が一つだけ。まるで思考をさえぎる不純物を全て払いのけたような部屋だった。
「やあ少年、久しぶりだな」
そんな部屋に、自分を呼びだした人物は机に身体を預けるようにして立っていた。
「ふむ、少しは背も伸びたか?」
好戦的、そんな表現が似合う瞳と鋭利な顔だちの女性だった。
濃緑色の髪は肩にかからない程度に切りそろえ、羽織る白の研究服には一筋の皺すら入っていない。黒の上着にパンツという色彩に欠けた服装の中、真紅のハイヒールだけがくっきりと目だつ。
サリナルヴァ・エンドコート──歳は三十代なかばにもいたっていないが、この若き女性研究者こそが、ここケルベルク研究所の実質的な統括をになう責任者である。
「お久しぶりです、この前はありがとうございました」
鞄を小脇にかかえネイトは小さく会釈した。
二ヶ月ほど前のこと。原因不明の高熱でクルーエルが倒れた時、研究所の専門医と医療施設を提供することを提示してくれたのが彼女だった。
「済んだことだ、礼はもう十分。お前の夜色名詠を間近で見られたことは私としても価値ある経験だったからな。お互い様だ」
サリナルヴァがにやりと唇をつり上げる。女性らしからぬ豪放な笑顔だが、それでも品を落とした感じはしない。いっそ清々しいほど快活な表情だ。
「ところで、すまなかったな。昨日の深夜に突然押しかけて」
「......あれはちょっとびっくりしました」
腕組みする彼女の前、苦笑の面持ちでネイトは正直にうなずいた。
昨日の深夜、床につこうと思っていた矢先、男子寮にある自分の部屋に小さな物音。目を開けてみれば、光沢ある緑の翼を広げた小鳥が窓枠にしがみついていた。
「音響鳥がいきなり僕の部屋に来るんだもん。いったい誰だろうって思ったらサリナルヴァさんの声だったから」
音響鳥とは緑色名詠に属する名詠生物だ。その広げた翼がアンテナの役割を果たし、遠距離との通話を可能にする。
「でもどうしたんです、こんな突然にケルベルクまで来いって」
「ああ、だが本題に入る前にだな──」
研究服のポケットから地図を取りだし、サリナルヴァが机の上にざっと広げてみせる。
大陸北部よりの山脈ぞいに打たれた黒点、これはトレミア・アカデミーだろう。そこから南西に鉄道らしき線が引かれ、その途中にもまた黒点。これがこのケルベルクのはず。
しかしもう一点、大陸のほぼ中央に位置する箇所にも同様に点が打たれていた。
「トレミアに転入する前まで、お前は大陸各所を回っていたらしいな。となればエンジュには行ったことがあるか」
「エンジュって、あの凱旋都市ですか?」
凱旋都市エンジュ。大陸中央部に位置する、大陸でも特に巨大な都市の一つのはず。
巨大な建造物に華やかな露店でにぎわう都市。名詠士を支援する協会や資格試験を受ける会場、名だたる名詠専門校が軒を連ねる都市でもあると聞いている。
そして何より凱旋都市には、名詠士が力量を競いあう競闘宮が象徴として存在する。
「そこを訪ねたことは?」
「いえ、母さんと一緒に回ったのは大抵が大陸の端っこですから」
相槌の代わり、サリナルヴァが小さく咳払い。
「なるほどな。ところでものは相談だが少年、エンジュに行く気はないか」
「え?」
「いきなりで話が見えないと思う、順を追って説明しよう。〈孵石〉についてといえば、まず何を思いだす」
にわかに室内の空気が一変した。
なごやかなものから棘のように肌を突き刺す緊張感へ。
──忘れるわけがない。
夏の競演会での暴発事故。灰色名詠の詠い手ミシュダルの詠びだした敗者の王。名詠生物によるこれら暴走事件の元凶が、〈孵石〉と呼ばれる卵形の触媒だった。
「......思いあたるものが多すぎて、逆に何から言っていいか」
表情が強ばっているのが自分でもわかる。過去の出来事、そう片づけるにはあまりに新しく、そして悪夢のような出来事だった。
「そうだな。しかし今回は今までのような人的なものでなく、どうも〈孵石〉そのものに関して事態が動いているらしい」
〈孵石〉をつけ狙うミシュダルの捕縛後、サリナルヴァが今も〈孵石〉の解析に取り組んでいるとはネイトも聞いていた。そもそも〈孵石〉の内部に入っている物体が何なのか。その正体すらいまだ突きとめられていないのだから。
「それって、何か新しい解析結果が出たんですか?」
「〈孵石〉の内部に封されている本当の触媒。それは鱗状の紋様がついた光沢ある石だというのは、〈孵石〉の外殻を分解して判明した。しかしそれがここ最近、まるで生物のように胎動を繰り返すという現象が確認されている」
──ただの石が、生き物のように動きだす?
「ま、これは実物を見せた方が早いな」
引き出しから黒い小箱を取りだす彼女。細長い銀の鎖が幾重にも巻かれ、専用の鍵がなければ開かない仕掛けになっている。
「あ......」
その小箱には見覚えがあった。凍えるような雪が降り積もる北部の山沿い、城下街フェルン。そこで、それと同じ箱を確かに見た。
「サリナルヴァさん、僕、それ見たことあります」
「ほう、それは初耳だな。......カインツか?」
「はい。少し前にフェルンていう北部の街を訪ねた時があったんです。その時にカインツさんから見せてもらいました。その箱と中身」
あれ以来彼からの連絡はない。それゆえネイト自身、あれから事態は進展していないと思いこんでいたのだが。
「なるほど、こいつの中身を見たなら話が早いな。で、実際に見てどうだった」
黒い小箱を机上に置き、再度サリナルヴァが腕を組む。
「......本当に動いてました。ドクンドクンて、なんか脈打つような感じで」
今思いおこしても気味が悪い。乳白色をした白い石のはずが、まるで生き物の鱗のような模様がついていて、それが胎動のような収縮を繰り返すのだ。驚きより先、言いようもない不気味さに全身が怖気だった。
「そうだ。それも一つだけではない。各地の研究所で保管されている破片全てにこの現象が起きている。さて、これを踏まえた上で本題に入るが──」
眼下の地図、大陸中央部に打たれた黒点を彼女が見下ろす。
「先日、凱旋都市エンジュの自治機関が会見を開いた。どうもエンジュの名詠研究グループが、どんな名詠色にも、そして何度でも使用可能な触媒を発見したらしくてな」
触媒、それは名詠式の際に必須となる物質だ。
触媒となる物質の条件はたった一つ、詠びまねく対象と同色であること。この同色の光の波長を共通項とし、名詠対象を詠ぶことが可能となる。たとえば赤色名詠によって赤い花を詠ぶ時には、赤い絵の具や色紙などが必要というわけだ。

「この触媒だが、実物はいまだ明らかにされてない。しかしエンジュの自治機関が前もって告知している部分から推測するに、それが〈孵石〉の内部に封されていた触媒と同じである可能性が高い」
同じだとすれば、エンジュ自治機関が保管している触媒も胎動しているはず。
しかし一つ気にかかるのは──
「でもエンジュの公表だと、何度でも使用できる触媒だって謳ってるんですよね。それが本当なら、エンジュのは〈孵石〉と違う気がするんですけど」
ネイトの知る〈孵石〉の効果は、名詠五色全てに使用が可能というもの。触媒としての性能は高いが、名詠に使用できるのは一度きりのはず。
「そのとおり。しかしだとすればケルベルクが保管しているサンプルと何が違うのか、私が気にかけているのがその点だ」
テーブルの隅に置いてあったコップで喉を湿らせ、サリナルヴァが先を続ける。
「触媒の管理はエンジュ自治機関が統制しているため、名詠士の組織では関与しづらい。自治機関としてはその触媒で話題を作り、内外の注目を集めたいというところだろうな。しかし少年も知ってのとおり、もしそれが〈孵石〉と同じ触媒であれば、安易な管理や使用は火に油をそそぐ行為に等しい」
競演会、そしてケルベルク研究所支部と同じ名詠暴走事故。あまりに強力すぎる触媒ゆえの悲惨な事故。それがエンジュほどの大都市で起きればどうなるか。
「......何となくわかってきました」
頰を冷たい汗が流れていく。エンジュで何が起きると予想されるのか、そして自分がなぜ呼ばれたのか。今までの流れを素直に読めば察しがつく。
「そういうことだな。幸か不幸か、トレミアの教師やウチの研究者の誰より、お前やクルーエルは〈孵石〉の暴走事件に出くわしてきた。もしエンジュで何かが起きる予兆があれば、それを誰より先に感知することができる可能性が高い」
つまり、エンジュでの名詠暴走が起きるのを未然に防ぐという依頼。
......僕にそんな大役が。
いや、まず気にするべきは、なにげなくサリナルヴァが口にした彼女の名前。
「さっきクルーエルさんの名前が出ましたけど、それって──」
言葉の端を嚙みつぶし、ネイトはじっと目の前の彼女を見つめた。
「ああ、クルーエルとエイダにはゼア学園長から経緯を説明する手筈になっている。あの二人もまた、お前と同じ依頼を説明されているはずだ」







トレミア・アカデミー、学園長室にて。
「でも、わたしたちまだ名詠学校の一年生です」
ひっそりと静まりかえった部屋に、クルーエルの緊張混じりの声がこだました。
──わたしが呼ばれた理由、そういうことだったんだ。
前髪を振り払う仕草で、クルーエルは額に付着した小粒の汗をぬぐった。
エイダと共に、ケイト教師に案内された先は学園長室。そこで聞かされた話が、凱旋都市エンジュへの遠征依頼だった。
「いくら適任だからって、そんな危険なこと......」
名詠生物の暴走の危険性が前もってわかっている時、その抑えとして配置されるのは熟練の技量を持つ名詠士。名詠士の資格を持っていたとしても新人には決して依頼されない任務だ。それを、単なる一生徒が任されるなんて。
「そのとおりだ。正直言うと、ワシも当初は反対したよ。だがサリナルヴァ殿は君たちを高く評価しているようでな。その信頼の高さゆえ今回の件ということなのだろう。エイダ君は祓名民として、クルーエル君の名詠にかんしても......ワシがいまさら言うまでもないだろう」
中央のソファに座る老人が低く喉を鳴らす。
ゼア・ロードフィル。トレミア・アカデミーの学園長をつとめる人物だ。自身が著名な名詠士であり、その発言力はいまだ健在だという。
「ふーん、まあ信頼してくれるってのはありがたいけどさ、体面上はどうなの? あたしらみたいな生徒がそんな大役持ってエンジュに来ましたなんてまず信じてもらえないし、逆に信じられたら信じられたで大事になるよ」
鎗を抱えたままエイダが視線を細める。
「そうだな、もし他人に知られれば学園内外問わず批判の声が集まるだろう。だからこそ、表向きの用件を用意した」
「表向き?」
「うむ、エンジュにある競闘宮については知っておるかな」
競闘宮についてはクルーエルも聞き覚えがあった。いや、たとえ名詠士でなくても大概の者なら名前だけは聞いたことがあるだろう。
「たしか、名詠士が戦う場所ですよね」
「その言い方ではちと語弊があるが......まあ端的に言えば間違ってはおらんか。もう何十年昔のことになるが、ワシも血気盛んな頃に競闘宮で腕を磨いていた時期があってな。その頃に作ったツテは今もある。まあその結果、競闘宮で行われる行事にはよく声がかかる。そしてその中に、名詠校の生徒による模擬決闘の大会があるわけだ。トレミアも観戦にこないかと実は毎年誘われておる。今までは丁重に断ってきたがな」
決闘とは名詠式による勝負の一種だ。互いに攻撃的な名詠生物を詠びあい、実戦さながらに実力を競いあう。場合によっては事故につながることもあり、トレミア・アカデミーでは校則で禁止されている。
そのはずが、学生同士の決闘大会?
「そんなのがあるんですか。わたしそういうの全然知らなくて」
「トレミアのカリキュラムには存在しないわ。地域ごとに名詠学校の生徒の気質も違うし、どんな名詠士になりたいかで受けるべき講義も変わる。ただ大陸中央部は昔からの名残で、模擬決闘の講義に力を入れている名詠校が多いというのは事実だけれど」
クルーエルの疑問に答えたのはクラス担任のケイト教師だった。
「その触媒の披露会と日を重ね、名詠校の生徒による模擬決闘の大会がエンジュで行われるわ。その見学校としてトレミアも参加することにするの」
......そっか、それがトレミア生徒が凱旋都市におもむく表向きの理由なのね。
触媒披露会の日程を学生決闘と重ねることで、エンジュとしてはいっそう注目を集めやすくなる。それを逆手にとって口実を作るというわけだ。
「君たちに当地で頼むことは、何も触媒の暴走を止めることではない。エンジュの披露会に参加し、その触媒が〈孵石〉とどう違うのかを見てほしい。その時に何か変わっていると思う点があれば報告してもらうだけだ」
「ということは、報告相手は学園長ですか?」
すると老人は顎下の髭をなでながら。
「いや、〈イ短調〉つながりということで、サリナルヴァが大特異点と歌后姫の二人をエンジュに待機させているらしい。君たちは当地で二人と合流することになるな」
〈イ短調〉──虹色名詠士カインツやサリナルヴァを擁する、わずか十一人の会合である。
会合の存在そのものが滅多に表舞台に出ないため、それを知る者は少ない。しかしメンバーの誰もが皆、特定の分野における希代の専門家であり、それを知る者からは異端者の長──転じ、音楽の調性の一つである〈イ短調〉と称される。
ネシリス、シャンテ。
名詠士間での知名度ならば虹色名詠士カインツにも匹敵するであろう、大陸全土をも代表する名詠士二人。その二人もまた〈イ短調〉の人員であるという。
「なるほど。エンジュの触媒が暴走した時は、あの二人が沈静化を担当してくれるってわけだ。サリナにしては珍しく準備がいいね」
〈イ短調〉のメンバーと面識のあるエイダが片目をつむる。エイダのその表情から読むに、彼女はその二人を相当に信頼しているのだろう。
「しかしこれだけやってもなお、万全とは言いがたい。君たちは我が校の生徒、ワシとしても生徒をみすみす危険な目に遭わせるつもりはない。断ってくれてもかまわないが」
「考える時間は今日だけ? きっついなあ」
額に手をあてて渋面をつくるエイダに、老人が小さく苦笑する。
「エンジュ自治機関の発表があまりに急だったのでな、それに対する対応策や根回しに、さんざん手を焼かされた結果だと思ってくれ。まあ、明日の朝までに決めてもらえればかまわんよ」
「いやぁ、まあ、頼まれたんならあたしは行くけどさ。だけどクルーエルは?」
エイダの視線を受けてクルーエルは宙を仰いだ。エイダだけではない、学園長、それに担任のケイト教師。皆の視線をはっきりと肌に感じる。
こくんと一度息を呑み、クルーエルは顔を持ちあげた。
「......ごめんなさい。わたし、そういうのやっぱりだめなんです。怖いし、自分に何ができるかもまだわからないから」
赤色名詠に関して、自分がある種の異様な素養を持っている──周囲からそう評価されていることは知っている。だけどそれが役に立つかは別の問題だ。
「特に、今回は行ったこともない場所なんですよね。知らない場所で知らない人たちに囲まれて、期待された役割を果たせるのかなって。正直、自信ないから」
......そう、自信はない。だけど。
厳粛な雰囲気のたちこめる部屋。張りつめた空気の中、一人大きく息をはく。
とくんとくんと、小さく鼓動する胸の音を確かめながら。
「だけど、ネイトが行くならわたしも行きます」
自信がなくても頑張ることはできるかもしれない。今までずっと一緒だったんだから、彼が行くというのならついていきたいから。
「なるほど。ではそのようにサリナルヴァ殿にも報告するとしよう。あとは──」
窓の外を無言で見つめる学園長、そしてケイト教師。
そう、あとはネイトがどうするか。







「さて、どうする。今まではお前が了承することを前提で話しているが、断ることもまた少年の自由だ」
凱旋都市エンジュで行われる触媒の披露会。そこに参加し、触媒が暴走する気配を感じたら即座に披露会を中止させる。受けるも断るも自分の自由。
告げられた内容を脳裏で整理し、ネイトはぼんやりと床を見つめた。
「このお話って、クルーエルさんとエイダさんも聞かされてるんですよね」
「ああ、ちょうど今頃ゼア学園長から聞かされているかもしれないな」
一つだけ腑に落ちないことがあった。昨日の夜から今日の朝出発するまで、さらにはここで説明を聞いてもわからないことが一つだけ。
「ええと、教えてくれませんか。クルーエルさんたちに同じ説明を学園長がしてるなら、どうして僕だけケルベルクに呼ばれたのかなって」
自分の男子寮とクルーエルたちの女子寮は同じ学園敷地内。音響鳥をよこすのはできたはず。なぜ自分だけがこうしてサリナルヴァから直接説明を。
「なるほど。......なあ少年。お前もしかして、自分を過小評価し過ぎていないか」
サリナルヴァからの返事は、挑戦的な笑みだった。
「それ、どういうことですか」
「いやいや、私はこう見えてお前を高く評価しているんだがな。空白名詠の浸透者を単身で倒したこと、そして灰色名詠の真精敗者の王とミシュダルを抑えたこと。むしろ周りの評価が低すぎるといっても過言ではない」
──空白名詠?
サリナルヴァの口を突いて出た言葉に、ネイトは内心眉をひそめた。
「言ったはずだ、ここまではお前が了承することを前提で話していると」
カツッ。硬い音を立てて響き渡るハイヒールの音。鉄製の靴底でその場の床を小さく叩き、計画の発起者は淀みなくそう告げた。
「『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。既存五色のどれにもあてはまらぬ異端の名詠色である、お前の夜色名詠。しかしこれは、お前の母親が構築したという意味では十年以上も前から存在していたとも言える」
「......はい」
「だがつい二ヶ月前、お前も覚えているだろうが、さらに空白名詠という新たな異端色が確認された。まるで歴史上に確認されていなかった全くの未知なる名詠式としてな」
その詠い手はシャオと名乗る謎の人物。
年齢性別はおろか、敵か味方か、その目的すら未知。
「まるで情報がない空白名詠。唯一わかっているのは、その名詠生物に対抗できるのは同じ異端色たる夜色名詠のみということだ。......空白名詠の真精アマリリスとやらを宿したクルーエルも可能かもしれんが、空白名詠そのものが未知である以上、不安定が過ぎる。確実なのはお前だけだ」
〈孵石〉の話題の陰に隠れるようにして蠢く、空白名詠とその詠い手シャオ。
目的こそわからないが、何かが起きつつあるのは間違いない。
「事態の進展によってはお前が軸となって回ることになる。だからこそお前の意見が聞きたかった。もしお前が今回の依頼を受けないというのなら、クルーエルとエイダにも参加させる気はない」
......そういうことだったんだ。
自分だけを呼びよせたのは、サリナルヴァ自らその答えを確かめたかったから。
「お前の答えを聞かなくては話が進まない。しかしこの場にクルーエルとエイダがいたらどうだった? もし二人が行こうと言ったなら、お前も場の流れで行くと言ってしまったんじゃないか。他人任せという意味でなく、二人を行かせて自分だけが行かないというのはお前の性格が許さなかったはずだ」
逆も然り。もしこの場で二人が行くなと口をそろえて言えば、自分も気持ちが揺らいでしまったかもわからない。
「少年、私はな、お前自身の決意が聞きたいんだ。何もこの件にかぎらず──お前は他人を信じるあまり相対的に自身を過小評価しているようだが、もうそろそろ自分を信じてみても悪くない」
口早に告げ、サリナルヴァがふっと表情をやわらげる。
「と、私は思うんだが。どうかな」
「......はい」
ふしぎな感覚だった。明確に何かを褒められたわけじゃないのに嬉しい。
〝わたしも、キミに頼って良いかな〟
かつてクルーエルからそう言われたのと同じ。力がわいてくる言葉。
自分と、自分の夜色名詠を信頼してくれる人がいる。このケルベルクに、そしてトレミア・アカデミーに。
「僕は──」
3
ケルベルク研究所本部棟、仮眠室。
『それで、その都市に行くことにしたわけか』
「うん」
サリナルヴァからあてがわれたベッドに仰向けになったまま、枕元で翼を広げるアーマの問いにネイトはうなずいた。
明日早朝の列車でトレミアに戻る。その日いっぱいで荷造りを終え、凱旋都市エンジュへの出発は明後日早朝。荷物も心も、準備に費やす猶予はほとんど与えられてない。
それなのに、ふしぎと心の中は澄んでいた。
『その頼み事とやら、断れなかったのか?』
「ううん、そんな強制的な雰囲気ってほどじゃなかったよ」
『ならばなおさらわからんな。わざわざお前が行くと決めた理由』
「......確かめたいから」
小声で呟き、ネイトはその場でまぶたを閉じた。
脳裏にうかぶ、脈打つように蠢く〈孵石〉の触媒。城下街フェルンで見たものは、まるで本物の卵が孵化するかのような光景だった。
そしてシャオという人物の、それを暗示していたかのような予言。
〝真言〈全ての約束された子供たち〉の目覚めは近い。もし空白の真言と向かい合う気があるならば、この世界に根を下ろす全ての真実を受けとめるだけの覚悟が必要になる〟
真言の目覚めは近い。
まだ多くが謎だが、シャオという人物の予言は当たっていると考えた方がいいのかもしれない。そしてその予言も含め、全てを知っていたと思われるのが、クルーエルの心に宿っていた真精アマリリス。思えば虹色名詠士も、同じようなことを気にかけていた。
〝既にボクらにもその謎を解く鍵は与えられている。アマリリスから託されている。だからこそあの少女は、ボクたちの前から姿を消したのかもしれない〟
......カインツさん。少しずつだけど、僕にもわかってきました。
〈孵石〉の触媒は空白名詠の真精アマリリスを詠ぶためのもの。それがここに来て奇妙な胎動を繰り返している。
奇妙な胎動の正体。シャオの告げる真言。アマリリスとの関連性。
その全てに近づくための鍵が、エンジュに保管された触媒にある。そんな気がする。そもそもなぜアマリリスがクルーエルに宿ったのか、それさえわからないままなのだ。
「僕ね、別に学園長やサリナルヴァさんみたいに、〈孵石〉の中に入ってた触媒が気になって仕方ないわけじゃないんだ」
閉じていたまぶたを開ける。明るい部屋の照明にかすむ視界。その先に、夜色をした名詠生物が自分をじっと見返していた。
『ならば確かめるというのは?』
「......クルーエルさんのことだよ」
そう、触媒の正体が何であるのか、そんなこと本当はどうでもよかった。
〝災厄ではない。でもこの子にとっては何よりの苦痛となる。その苦しみからこの子を解放できる人間を、わたしがそれを託せる人間をわたしはずっと探していた〟
アマリリスがカインツだけに伝えた事実。
空白名詠の真精がクルーエルに対して抱く危惧、それが何なのか。
「もうクルーエルさんに辛い思いをさせたくないから」
高熱と寒気、全身をむしばむ鈍痛にさいなまれ、何週間と昏睡し続けた彼女。意識を失うまでどれほどの苦痛に耐えていたのか、今の彼女は笑ってごまかすが、あの時見せた苦痛に耐える表情は忘れやしない。
あんな辛そうな表情、もう二度と見たくない。だからこそ行かなくちゃ行けない。アマリリスが伝えようとしていたことの全てを確かめるために。
『小娘のためか。なるほど、それが理由なら我も口は出せんな』
「アーマまで遠出させちゃうけど、ごめんね。列車にいる間は、また鞄の中にこっそり隠れててもらうことになっちゃいそう」
『窮屈は仕方あるまい。ともあれ小娘には礼を言っておけ』
「うん、クルーエルさんにはいつも──」
『そうではない』
言い終える前に、アーマが鋭利な鼻先を天井へ向けた。
『日常の些細なことではなく、......いつからかは知らんが、お前の根幹を支える何よりの相手が、我やお前の母ではなく、いつしかあの小娘になっていた。そのことに礼を言えと言ったのだ。むろん言葉に出す必要はないがな』
「......そう、なのかな。僕まだわからなくて」
誰と比べてなんて、そこまではっきり意識したことはない。
けれど最近、彼女を見ると胸が苦しくなることがあった。そばにいるだけで顔が熱くなって、息もできないくらい胸の鼓動が速くなって......それが恥ずかしくて、平静をよそおって顔をそらしてしまうことも。
......僕、どうしちゃったんだろう。少し前はこんなことなかったのに。
『いずれわかる。それがどれだけ大きな意味を持つかをな。いずれせによ、そうと決めたのなら我もお前に付きあおう』
「うん、ありがとう......」
──そう、まだ何も終わっていない。
だからこそエンジュへ行く。たとえどんな危険があろうとも。
アマリリスが伝えようとしていた怖れ、その全てをぬぐい去るために。
二奏『未踏』
1
大陸の各所をつなぐ横断列車、そのとある車両の一室で──
「いやー、さすが来賓招待用の特別席! この乗り心地、最っ高!」
クッションのきいた高級ソファーへ、エイダが飛びこむように着地。
荷物を放りだしてソファーに沈みこむ彼女をじっと眺め、ネイトはクルーエルと顔を見合わせた。
「でも、付きそいの先生がいないっていうのはちょっと不安ですよね」
「そうね、学園長もケイト先生もいないんだもん」
計画の発案者であるサリナルヴァはケルベルクで情報収集。トレミア・アカデミーとしても大っぴらに動けないぶん、実際に派遣されるのはネイトたちだけだ。
「この列車だって、もし間違って別方面行きのに乗ってたら......」
「あ、それは平気だよ~。あたしちゃんと車掌さんに確認したもん」
やおら、窓向こうの風景を眺めていたミオが振り返った。
「楽しみだね、凱旋都市エンジュ! あたしずっと行ってみたかったんだよ!」
学園長名義で用意された個室。その部屋にいるのはネイトを含め四人だ。
クルーエルとエイダ。彼女たちはもともと学園長室に呼ばれたメンバー。そしてもう一人、むしろ誰よりエンジュ行きに喜んでいるのがミオだった。
「......ねえクルーエルさん。ミオさんて今回の目的わかってるんでしょうか」
クルーエルに訊ねるも、返事は小さな嘆息だけだった。
「そのはずなんだけど、本人は観光旅行のつもりらしいわね」
一昨日の夜のこと。クルーエルが自室で旅行の荷造りをしているまっただ中、ミオが泊めてくれとやってきたらしい。
普段ミオが学園で泊まる場所は、部室か女子寮にあるクルーエルの部屋かの二択。一昨日の彼女は部室に泊まる予定だったのだが、その日は学園の部室全面改修。慌ててミオはクルーエルの部屋に行き、そこで荷造りの現場を目撃してしまったというわけだ。
〝ねえねえ、クルルってばなんで旅行の準備なんかしてるの?〟
好奇心旺盛なミオの追及。それを学園長に相談した結果、へたに教室で噂されるより、本人が望むのならばいっそ同行させてしまえということになったのだ。
ミオなら競演会の〈孵石〉も知ってるし、その怖ろしさも骨身に染みている。同行したとしても彼女なら無茶はするまいという判断だった。
「まあいいじゃん二人とも、三人より四人のが賑やかでいいよ。ところでミオがエンジュに興味があるのって意外だね」
「え、もちろんカイ様目当てだよ!」
ソファーでくつろぐエイダに、ミオがぱっと表情を明るくした。
「図書館にあった昔の雑誌にね、『虹色名詠士カインツ、待望の競闘宮デビュー!』って一面に特集組んでたの。その時の記録が見たくて見たくて!」
「ふーん。でもさミオ、雑誌の翌月号読んでないでしょ」
「およ。エイダなんでわかるの?」
「だってカインツ様、デビュー戦でいきなり不戦敗してるもん」
「──っえええぇええ、ちょっと何ソレ、どういうこと!?」
窓側からエイダのソファーへと詰めよるミオ。
「カインツ様、競闘宮とかそういうの参加しない主義だったんだって。けどその雑誌が出た時はカインツ様も虹色名詠士になったばかりで、とにかく脚光を浴びてたらしいの。で、話題になったのよ。競闘宮で負け知らずの覇者と虹色名詠士どちらが勝つかってね」
「あー、それ雑誌にも書いてあったよ。競闘宮最強の覇者と虹色名詠士の決闘って」
「でしょ。実はその二人は知り合いでね、互いにやりたくなかったけど、周囲の強制決定で試合が設定させられちゃったの」
すらすらと答えるエイダに、ネイトはミオと共に顔をしかめた。
「......そんなことがあったんですか」
あろうことか、知り合い同士で闘わなくちゃいけないなんて。
「で、当日の朝。競闘宮側の発表で、カインツ様の体調不良で試合は不戦敗。当時は噂も流れたみたい。怖じ気づいたと考える人、逆に相手からそうするよう頼まれたって考える人とかね。とにかくそれ以降、カインツ様は一度も競闘宮には出てないみたい」
「エイダ、詳しいわね」
ティーカップに紅茶を注ぐ手を休め、クルーエルも耳を傾ける。
「まあね。ていうかあたし、その時の話を直接カインツ様の相手から聞いてるから」
「つまり当時の競闘宮の覇者からですか」
「当時ってか今もだよ。......ネシリス。親父の知り合いで一番古くから〈イ短調〉に入ってた男でさ、青の大特異点て言われてる名詠士なの。名詠式の戦いに関してはとにかく半端じゃなく強くて、一度も競闘宮で敗北記録がないんだって」
ネシリス。
凱旋都市エンジュにて合流することになっている名詠士だ。
「どんな人なんですか」
「んー、親父の家に来た時に数回会ったくらいだけど、まず体格はゴツイよ。背も高いし肩幅も広い、それに顔も厳めしいし声も低いし口数も少なくてさ、最初見た時は怖かったなあ。小さい子供が見たらまず泣きだすね」
「あー、もういいよエイダ。あたしそれくらいでお腹いっぱい」
やつれたような表情でミオが手を振った。どうも好みでなかったらしい。
「でも......それならエンジュに行く楽しみが半減だよぉ。ちょっと残念」
「まあまあミオ、凱旋都市は大都市だけあって市場を回るだけでも楽しいらしいよ。珍しい触媒とかも売ってるらしいし、あたしは楽しみだな」
肩を落とすミオと対照的にニヤニヤとエイダが笑う。どうやらミオの反応も予想の範疇だったらしい。
「ところでクルーエルさん、あとどれくらいでしたっけ」
部屋の柱時計を一瞥し、ネイトはクルーエルに振り向いた。
「五時間くらいだったはずだよ。鉄道でそれだけかかる遠出だもん、ちょっと疲れちゃいそうだよね」
......あと五時間。その都市に、アマリリスが告げた謎をとく鍵がある。
目に追えぬ速度で流れていく景色。変わらない地平線だけの光景なのに、刻一刻とエンジュに近づいている予感がある。
「お、ちび君どしたのさ、そんな端っこで窓にくっついちゃって」
右頰につんと指先があたる感触。振り返るまでもない、視線を少し横にずらすだけで日焼けしたエイダの姿があった。
「ねえねえ、ちび君はサリナから何か言われた?」
「ええと......たぶんエイダさんが学園長から言われたのと同じです」
当初サリナルヴァが選んだ人員は三名。ネイトとクルーエルは名詠式の実力を買われ。
しかしエイダは名詠士でなく、祓名民としてサリナルヴァに依頼されていた。
名詠対象を送り還す反唱と呼ばれる技術。名詠生物が暴走した時、それを反唱で制圧する──その任務に特化した専門職が祓名民である。誰よりも真っ先に危険地帯におもむき身体を張って人を庇う。エイダはその家系の生まれだ。
「ふぅん。じゃ、クルーエルのことも聞いてないんだ」
「クルーエルさんが行くって説明だけなら......」
「ああ、そうじゃないよ。もっと内輪の話」
半歩エイダが身体をよせてきた。さっきまでもすぐ隣に座っていたのに、今はもう肩と肩が触れあいそうになる距離まで。
「クルーエルがね、『ネイトが行くならわたしも行きます』、だって」
クルーエルさんが?
「最初はあの子乗り気じゃなかったんだけどね、ちび君が行くから勇気が出せたみたい。よかったね、頼りにされてるみたいじゃん」
「......ええと、頑張ります」
頼りにされるのは嬉しいが、そう聞かされると逆に別のプレッシャーに負けそうだ。それを知ってのことだろう、抑えた小声でエイダが笑みをこぼす。
「やれやれ、羨ましいね君たちは。あたしもピンチになったら助けてくれそうな相方の一人や二人ほしいもんだな」
「あの、エイダさんがピンチになるような場面が想像できないんですが」
「あはは、ちび君それ褒め言葉? ......悪いけど全然嬉しくないんだな、これが」
ぷすっと、またしても頰を指で刺された。しかも今度はやけに力がこもっている気が。
よく見ればエイダの笑顔はかたちだけ、肝心の目が笑っていない。
「あ、あのぉエイダさん、わりと痛っ......い、痛っ......いです」
「授業料さ。あたしはいいけど、女の子を褒める時は気をつかうこと。いい?」
「......すごくわかりました」
ちくちくと小さく痛む右頰を押さえ、ネイトは懸命にうなずいた。
......今度からエイダさんを褒める時にも気をつけなくちゃ。
2
汽笛を上げ、五両編成の列車が徐々に速度を落としていく。
「おー、着いたみたいだね」
「室内はあったかいけど、外はどうでしょうね」
窓硝子にへばりつくエイダを横目に、ネイトは鞄からマフラーを取りだした。
もしエンジュの気候がフェルンのような寒さなら、いくら冬制服でも上着なしでは三歩と歩く前に凍りついてしまうに違いない。
「エンジュは大陸中央部だしすごく住みやすいって聞いたよ。たぶん上着いらないはず」
鞄を抱きかかえ、ミオが行動で証明するように車両の外へ。
「うん、やっぱり。トレミアよりだいぶあったかい! みんな早くおいで」
手を振ってくる彼女に急かされ、ネイトたちは車両を降りた。駅舎の入口を通過する。その先に、自分のまるで知らない世界が展開していた。
......ここが凱旋都市エンジュ。
まずネイトの目に飛びこんできたのは、トレミア・アカデミーの校舎ほどもある巨大な建物がいくつも四方にそびえる光景だった。
トレミアの校舎は長方形状だが、ここでは天を衝くような尖塔型の建物が多い。それも青銅色から鈍い紅色、白磁色など、とにかく華やかな建造物が目についた。
「すごい、こんなに露店がいっぱい! まるでお祭りみたいだね」
駅舎外の広場からミオが周囲を見下ろす。
エンジュの路面は、小さな浮き彫り細工が施された薄茶色の舗装路だ。
道の脇にはところ狭しと露店商が店をかまえ、目にしたこともない何かの器具や果実を売買している。その服装も地方の民族衣装から公的な機関服らしきものまで。よく見れば学生服を来た若者も多い。
「......ホントに、ここまで違うんだね」
背後のクルーエルまでもが驚いたように周りをしきりに眺めていた。
街行く人の呼吸。騒がしいまでの人と人との会話。鳴りやまない雑踏の音。通路を行きかう人々の、すれ違う際のわずかな衣擦れ。目の前の都市は、ありとあらゆる音が渾然と混ざり合った、ふしぎなざわめきに満ちていた。
「すごいねー。あ、あっちの大きい真っ赤な尖塔、エンベルメル大図書院じゃない? 大陸で一番の蔵書数だって有名な図書館だよ!」
駅舎で配布されていた観光案内図を片手にミオが声を張り上げる。
その一方では。
「へえ、これが活気に満ちてるってやつなのかな。あたしなんか人の多さで目を回しちゃいそうだけど」
左肩に荷物、右肩に祓戈を背負うエイダが呆然とした面持ちで立ちつくしていた。
「ねえちび君、あたしたちこの後どうするんだっけ」
「えっと明日から名詠学校の決闘大会があるんですよね。それが明後日の午前まであって、エンジュ自治機関が見つけたっていう触媒の披露会がその午後だったはずです」
何事もなければ明後日には片がつく。三日後には学園へと帰れるはずだ。
「そうだクルーエルさん、僕も確認したかったんですけど、〈イ短調〉の人とは今日合流するんでしたっけ?」
「うん、でも昼間はしばらく自由行動でいいみたいだよ。学園長が宿舎も手配してくれてるらしいから、まずは行ってみよっか。でも道がわからないから調べ──」
クルーエルが言い終えるその前に。
「あ、それあたしわかるよ! この公道をまっすぐ行って五個目の十字路を左に曲がってそこから二番目の十字路を右に折れて細い裏道をつっきって三番目の角を出てその向かい側にある建物がそうだよ」
エンジュの街路図も見ずに、すらすらとミオが諳んじた。
......ええと、今の、早口言葉か何かだよね。
「ご、ごめんなさいミオさん。もう一度お願いできますか」
「え~、しょうがないなあネイト君てば。えっとね、この公道をまっすぐ行って五個目の十字路を左に曲がってそこから二番目の十字路を右に折れて細い裏道をつっきって三番目の角を出てその向かい側にある建物だよ。簡単でしょ?」
......覚えきれません。
するとミオは、今度はクルーエルの方を向いて。
「もちろんクルルはわかったよね?」
「え?」
ぎくりと身構えたものの、クルーエルは慌てて胸を張り。
「も、もちろんよっ。あ、案外近いじゃない!」
「クルーエル、絶対わかってないな」
背後で、エイダがぼそりと呟くのが聞こえた。
「でもどうしよう。今すぐ宿舎に行ってもやることないし、せっかく露店とかあるんだから見て回りたいの。だめかなクルル?」
「え......も、もちろんいいと思うな。それじゃミオ、行きたいところ選んでいいから先に歩いていいよ。わたしたちその後ろについていくから」
「ホント、やったぁ! じゃあさっそく出発だね!」
地図もなしにスタスタと見知らぬ道を進んでいくミオ。
その背中をぼうっと見つめていると、今度はクルーエルからこっそりと耳打ちされた。
「ねえ、ミオってばエンジュ来たの初めてよね。なんで地図も見ないで歩けるの?」
「そういえばミオさん、列車の中にいる間にエンジュの街路図じっと読んでました。三時間くらいで『よし、読み終わったぁ!』って言ってたけど──」

あれは読み終わったのじゃなく、まさか街路図の暗記が終わったということ?
凱旋都市に張りめぐらされた網の目のような歩道を、それも細かい裏道まで......
「あたしたち、ミオがいなかったら絶対迷子になってただろうね」
複雑そうな面持ちでごまかし笑いを浮かべるエイダ。
「クルーエルさん、さっきミオさんが言った道順覚えてます?」
「......お願いネイト、聞かないで」
額の汗をぬぐい、クルーエルはあっさり諦めたように首を横に振った。
3
耳が痛くなるほどの喧噪が渦巻く公道で。
「そこ行く生徒さん、名詠学校の生徒かい? 見慣れない制服だけど」
「はい。トレミア・アカデミーっていう学校です」
砂色のターバンをかぶる小太りの商人に誘われ、ネイトは露店の中を覗いてみた。
「トレミアねえ。知らない学校だが、まあそんなことはいい! さあ見ていってくれ。うちの触媒は専門の調合士が作った特注品だ、効果は保証するぜ!」
透明な小瓶に入った、色鮮やかな五色の溶液がずらりと並ぶ。
瓶の大きさから形、中身の溶液も多種多様。しかし。
「......夜色名詠式の触媒ってありますか」
「ん、夜色ってなんだい?」
「い、いえ。なんでもないです! お邪魔しました!」
首をかしげる商人に小さく会釈。
ネイトはクルーエルの隣まで逃げるように走っていった。
「あはは、やっぱりキミの色に使える触媒は売ってなかったでしょ?」
「はい。でもクルーエルさんの赤色名詠に使えそうなのはたくさんありましたよ」
「そうだね、わたしもどのお店がいいのか迷ってるの。一度ぐるっと回ってから買おうかなって。その代わり、ほら。こんなの買ってみたんだよ」
クルーエルの手に転がる、小さな楕円形をした緑の果物。
「一つあげる、キミも食べてみて」
シャリッと心地よい歯ごたえの後、清涼感のある甘酸っぱさが口に広がった。甘すぎることもなく口にいつまでもベタつくこともない。
「あ、これ美味しいです。初めて食べたけど好きな味かも」
「でしょ。教室のキリエが料理研究会で余ったからって一度くれたことがあって、その味が懐かしくて買っちゃったの」
並んで歩いていると、ふとクルーエルの背中に呼び声が。
「おっとそこの可愛らしいお嬢ちゃん、このネックレスをつければさらに印象度バツグンだ。いざという時には名詠の触媒にもできる代物だぜ!」
露店の呼びこみをやんわりと断り、クルーエルがくすりと口元をゆるめた。
「競争が激しいから売りこみがすごいのね」
「でもちょっと売り方が強引だし、呼びかけもパターン化してる気がします」
「そうだね。でも......」
聞き覚えのある声に振り返り、クルーエルが妙に悲しそうなまなざしで。
「わたしたちの身近にも、その呼びかけにあっさり引っかかる子がいるみたいだけど」
その先に、両手に買い物袋を提げて嬉しそうに走り回るミオがいた。
首元にはついさっきクルーエルが断ったネックレス。さらに髪には安物の髪留め。おまけに荷物の中には怪しげなワラ人形まで。
「......思いっきり引っかかってますね」
「あれだけ嬉しそうだと、あえてそれを指摘するのもかわいそうかしら」
まだ買い足りないのか、次々と露店を回っていくミオ。
「ま、いいんじゃない。変なの買ってもお土産にすればいいんだし」
そう気楽に告げるエイダはといえば、露店で飲み物を買っているところだった。
「エイダさんも何か気に入ったのありました?」
「んー、まだ買ってないけど触媒でほしいのはあったかな。でも今は荷物と祓戈だけで重いからさ。それにほら、ミオが呼んでるよ」
エイダが見つめる先。
「クルル、ネイト君、エイダも来て来て! 面白いもの見つけたよ!」
公道の真ん中で、買い物袋ごとミオが両手を振っていた。
「えへへ、こっちこっち」
ミオが指さすのは周囲でも一際大きな講堂だった。改装後らしく、壁に塗られた白の塗料が陽を反射して輝いている。
しかしミオが歩いていくのはその正面玄関ではなく、その両脇だった。
巨大な円柱の脇に設置された木造の掲示板。一メートル四方ほどの白紙の上に樹形図状の線が描かれ、その末端にはいくつもの名詠校の名前が見てとれる。
「アールベルク、レッシンジャ......ミスレスク......有名な名詠校が多いですね。トレミアはないみたいだけど」
掲示板に描かれた学校名の大半が名門とされる名詠校だ。大陸辺境、加えて新興となるトレミア・アカデミーの名は当然のように載っていない。
「ミオさん、これ何ですか?」
「んと、自信ないけど......ほら、名詠学校の模擬決闘が競闘宮であるんでしょ」
「そっか、その組み合わせですね。へえ、全部で十六も出場するんだ」
あれ、なんで一個だけ赤字なんだろう。
ドレスエン名術校。その名前だけが特別に朱色の塗料でかかれていた。残りの十五校はやや濃い紺色の塗料であるせいもあって、朱色のドレスエンだけが特別目立つ。
「ミオ、あれもわかる?」
「ううん、さっぱり~。でもアレじゃない、予備枠とか」
考えこむようにミオが宙を見つめ──
「頭わりぃな、去年の優勝校に決まってんだろ」
低い笑い声が、前ぶれもなく背後から聞こえてきた。
「優勝校を予備枠とかほざいてくれて大した身分だな、お前らどこの学園なわけ? アールベルク......じゃねえな、その制服も見覚えねえし」
濃緑色の制服を着た生徒が三人。
いずれも男子で、体格も大きい生徒ばかりだ。
「あ......ごめんなさい。あたし全然そういうの知らなくて」
慌ててミオが頭を下げる。
が、それを見て相手がとった行動はそれを小馬鹿にする嘲笑だった。
「おいおい、んなこたぁ今のとぼけた話聞いてりゃわかんだよ。ていうか俺が聞いてるのは、お前らの学園がどこかってこと。俺の話も理解できなかったわけ?」
三人の先頭に立つ、一際背の高い生徒が声を張り上げる。
癖のある茶色の髪に同色の瞳、目鼻だちも悪くないし上背もある。だが見栄えが整っているぶん、その傲慢ぶりがなおさら顕著に映った。
「ばっかじゃない、何を偉そうに」
萎縮するミオに代わって前に出たのはエイダだった。
「あんたらこそどこのガッコよ、人に名前を聞くときには自分から名乗れっての」
「うわっ、お前らまさか、ホントにドレスエンの名前も知らないわけ? いったい学校で何を習ってんの?」
ドレスエン?
ネイトは横目で掲示板のトーナメント表を再確認した。間違いない、模擬決闘に選出された学園名だ。しかもこの学生の言葉を信じるなら、昨年の優勝校。
「で、お前らドコよ」
「トレミア・アカデミーよ」
答えるエイダの前で、男子生徒はしばし沈黙し。
「あー、やっぱりわかんね。思ったとおり大陸の端っこのどこかってとこだろ」
「それがどうしたの。大陸の中央部と端だって何も関係ないでしょ」
「......おいおい、聞いたか今の? 今こいつすんげえ間抜けなこと言ったぞ」
途端、ドレスエンの三人がそろって笑い声。
「なにが間抜けよ、あんたらさっきから聞いてりゃ人を間抜けだの言っ──」
「大アリなんだよ。中央部と大陸辺境の名詠学校は生徒の質も教育も歴然。そんなのは名詠学校の間じゃ暗黙の了解なんだよ」
掲示されたトーナメント表を指さし、その男子生徒がまくしたてる。
「できの悪い生徒が集まるのが、お前らみたいな辺境部の名詠校。現に今の有名な名詠士はほとんどが中央校出身だ。お前らみたいな学生決闘にも参加できない奴らがよ、知った顔して補欠だの何だの軽口叩くな。俺らが毎日どれだけ努力しているか、想像したこともねえだろうがよ!」
名門校とレッテルを貼られた名詠学校があることは事実である。飽くなき向上心、周囲の期待。目に見えぬ重圧と彼らが戦っていることはネイトも否定する気はない。
──でもだからといって、他人をそこまで見下すことなんかないじゃないか。
「いえ、頑張ってるのはミオさんだって同じです」
ぎゅっと口を閉じるミオより一歩進み、罵声を飛ばす生徒の視線に割りこんだ。
毎日誰より早く教室に来て自習して、放課後は図書館で学術書を読みふける彼女。トレミアの紙上試験では上級学年に混じって常に上位。ミオは口にも態度にも出さないが、その裏に隠れた努力はクラスメイトなら誰でも知っている。
「どこの学校だからとか、そんなので判断しないでください」
「......へえ。見かけじゃないなら、お前はそんなに名詠ができるってのか?」
額を痙攣させて男子生徒が迫る。
「それならこの場で見せてみろよ。少しでも気のきくものが名詠できるってんなら、今までの俺の発言全部取り消──」
「いいよ、わたしがやってあげる。何が見たいの、赤色名詠なら何でも言って」
ミオの両肩に手を置き、それまで黙っていたクルーエルが顔を持ちあげた。
冬の湖畔を思わせる静かな声音に、微かな怒りを含ませて。
「は? お前に何ができるっていうの? 何でもだなんてな、真精が詠べる一級になってようやく言えるセリフなんだよ、大陸辺境の低レベルは身のほどわきまえろ!」
「いいから、何でも言って」
制服のポケットから小さな赤銅色のコインを彼女が取りだす。だが──
「だめです」
その手に、ネイトはそっと自分の手を重ねた。
「......ネイト?」
「クルーエルさん、そんなのしてもらわなくていいです」
クルーエルの気持ちもわかるし、何よりその実力は誰より自分が知っている。
でも、違う。名詠式は見せ物じゃないし、技量や力を誇示するために使うものじゃない。灰色名詠のミシュダルと対峙した時、それを何より強く実感した。
「クルーエルさんの〈讃来歌〉は見せ物じゃないです」
「おいおい、俺はそんなの詠えだなんて言ってないぜ? むしろめんどくせえ真似いらねえよ。そんなの抜きでやってみろ」
名詠式を象徴するものが、その際に詠われる讃美歌たる〈讃来歌〉だ。
自分の望むものを思い描く想像構築を促進させるだけでなく、名詠対象が生まれる名詠門をゆるめる効果があるとされている。一方で、熟練した名詠士ならば〈讃来歌〉を詠わずとて、低位の名詠物ならば名詠が可能であるのも事実。
......だけど、〈讃来歌〉がめんどくさい?
「なおさらダメです。〈讃来歌〉抜きの名詠式には何の意味もないんだから」
眼前の生徒を真正面から見据えたまま、ネイトはその提案を否定した。
〈讃来歌〉を用いない名詠式は名詠式ではない──普段多くを語らない母が、これだけは毎日のように言っていた。確かに〈讃来歌〉がなくとも名詠式は作動する。しかしそれは本質から外れた術式。それを、よりによって〈讃来歌〉を面倒だなんて。
「はっ! そんな高尚ぶった論説で話をすり替えるなよ、〈讃来歌〉抜きだとなんの名詠もできないことへの言い訳だろうが」
「えー? わたし、そっちの男の子の意見のが好きだな」
そう答えたのはエイダでもクルーエルでも、ミオでもなかった。
「それより、こんな公の場でケンカっての恥ずかしいと思わない? 特にそっちのドレスエンの生徒さん、あんたらの大声はうるさくて仕方ないの」
歳の頃はクルーエルと同じほどだろう。ブラウン色の瞳に、うなじの部分で一つに結わえた葡萄酒色の髪が印象的な少女だった。
「こいつらと同じ学園......じゃねえな。誰だよお前は」
「あら、さっきのあなたの言葉をそっくりそのままお返しするわ。今年の模擬決闘の組み合わせも見てないの? ジール名詠学舎、もしお互い勝ち進めば二回戦であたる名詠校と言った方がわかりやすいかしら」
セピア色の制服姿で、自らの胸元を示す彼女。
「ああ、地方のぽっと出の学園か。たまたま予選を通過したって噂だけは聞いてるぜ」
「たまたまか必然かは明日の試合が楽しみね。あなたたちこそ、こんなとこで他校の生徒に絡んでいいのかしら。騒ぎが広まれば出場停止処分になりかねないわよ?」
「......はっ、口だけは一人前だな」
興を削がれたのか、思いのほかあっさりとドレスエンの生徒が踵を返す。
その後ろ姿が人混みの中に完全に溶けこむのを見計らい、彼女がようやく安堵の表情で振り向いた。
「いやぁ、大変だったね! あなたたち今回の模擬決闘の見学校でしょ、よりによってドレスエンに絡まれるなんてついてないね」
「仲裁してくれたのよね? ありがとう」
小さく会釈するクルーエルに、彼女は照れ隠しのように自分の髪を手櫛で梳きながら。
「どーってことないって。どうせ一回戦で勝てば嫌でも当たる相手だったわけで、今ちょっと小競り合いしてもかまわなかったし。あ、自己紹介がまだだったね。わたしヘレン・スフレニクトール。ヘレンって呼んで。聞いてたと思うけど、ジール名詠学舎っていう学校の生徒ね、今は二年生してます! あなたたちは?」
「わたしクルーエル・ソフィネット。トレミア・アカデミーの一年生です」
続いてエイダ、ミオも。
「それならわたしのが一個上か。あ、ですます口調は苦手だからいいよ。うちのガッコでもいつもそんな感じだし。で、残りのキミは......あれ、中等部の子?」
「ち、違います」
目を丸くするヘレンの視線を受け、ネイトは力いっぱい首を振った。
「ネイトって言います、飛び級させてもらって」
「へえ、飛び級か。うちの学校だとあんまそういう生徒いないからなじみが薄くてさ。ま、それはさておき、ちょっとびっくりしたよ、仮にもドレスエンの決闘代表生徒を、キミみたいな子が相手にしてるんだもん」
「相手って......別に戦ってるわけじゃなかったですし」
「いやいや、あいつらなんかよりよっぽど堂々としてたと思うよ」
腰に手をあて、愉快そうなまなざしでヘレンが片目をつむってみせた。
「それにしても、トレミアの生徒ってみんな仲いいんだね。わたしのガッコの連中に見習わせたいくらいだよ」
「あれ、ヘレンさんの学校の人は他にいないんですか?」
考えてみれば彼女は一人だ。
模擬決闘は三人一チームで行われると聞いていたから、先のドレスエンのように最低三人はエンジュに来ているはずなのに。
「んとさ、模擬決闘のメンバーって学園全体で選ばれるから生徒構成メチャクチャなの。今回は補欠含めて四人で来たけど、うち二人は最上級生と三年生。しかも男連中だから、わたしも向こうも声かけづらくて......今日は別行動なの」
「そうすると、ヘレンさんは一人でエンジュを回ってるんですか?」
「いや、四人のうち残りの一人がクラスメイトなの。そいつと一緒に今日は競闘宮の下見に行こうって約束しててさ。待ち合わせが実はここだったわけ」
「競闘宮っ!」
それを聞いたミオとエイダが同時に飛び跳ねた。
「ねね、それならあたしたちも一緒についていっちゃだめかな。見学したい場所だったの」
「いいよいいよ、わたしも女の子と一緒の方が楽しいからね。ただ問題は、わたしの連れがすぐに見つかるかどうかなんだけど」
うなずき、ヘレンが講堂の正門から周囲を見回す。
「ん、ここが待ち合わせの場所なの?」
「そそ、トーナメント表の掲示場所ならわかりやすいでしょ。でもアイツはとにかく方向音痴なの。昨日なんか宿から出て数十秒で迷子になってたほどだから......って言ってたら来たかな。おーいレフィス、こっちこっち!」
彼女が手を振る先に目をやり──
通行人の波をかき分けるようにして近づいてくるのは、流れるような銀髪の、長身白皙の学生だった。
「うわっ、なにあの美形さん」
その姿を一瞥するやいなや、エイダが呆然と呟いた。
ほっそりとしたシャープな顔の輪郭に、筋のとおった目鼻だち。背中近くまで伸ばした、絹糸のようにさらりとした銀髪、そしてどこか陰のある新緑色の双眸。道行く通行人が男女問わず振り返るほど、凜としながらも儚げな印象の青年だ。
「おそーい、だいぶ遅刻!」
「......道に迷った」
肩を怒らせるヘレンと対照的に、無表情のまま淡々と応える彼。
「そんなのはわかってるっての。まあいいわ、無事にここまで来れただけでも十分だから」
「ところでヘレン──」
「さっき知り合いになったの。トレミア・アカデミーっていう名詠学校の生徒の子たち。右の女の子からクルーエルにミオにエイダ。そっちの男の子がネイトね」
彼の視線の意味を察知し、口早にヘレンが言葉を続けた。
「あ、みんなにも紹介するね。こいつはレフィス、夏頃に転入してきたの。専攻色は『Arzus』。口下手で愛想がなくて人見知りがちだけど、悪い奴じゃないから仲良くしてあげて」
「ヘレン、この後は競闘宮に下見に行くんだったな。彼らもか」
「うん、みんなで行った方が楽しいもん。何か?」
訊き返すヘレンに、レフィスという名の男子生徒は小さく首を振っただけだった。
「......いや、確認しただけだ」
「はいはい、それじゃ行きましょ。ちなみに競闘宮はエンジュの第五区画ね、ここは第八区画と第九区画の間だからちょっと歩くわよ。みんなはぐれないようについてきて!」
こちらの返事も待たずヘレンが歩きだす。
その後を追おうとして、ふと、一人だけ足を止めたままの少女にネイトは気づいた。
......エイダさん?
「エイダさん、どうしたんですか」
荷物と祓戈を抱えたまま、とある一方向を瞬きもせず凝視したままの彼女。
「んと......誰かにじっと見られてる感じがしてさ」
「さっきのドレスエンの生徒とかですか」
いやドレスエンにかぎらない。これだけの通行人の数だ、誰かが偶然自分たちのことを見ていても何らおかしくないだろう。
「でもエイダさん、早く行かないとみんなを見失っちゃいますよ」
「うーん。まあしゃあないか」
のそのそと歩きだすエイダの背を押し、ネイトもヘレンたちの後を追いかけた。
4
「お待たせー。ほら、着いたよ!」
先を行くヘレンが振り返る。と同時。
歩道の両脇に建ち並ぶ、巨大な建造物の稜線がさっと途切れた。
「......これが」
目の前の視界全てを覆う白亜の壁面。今まで見たこともない巨大な建造物を、ネイトはただ呆然と見上げた。
──競闘宮。
直径百九十メートル、七階構造の巨大円形建造物。
そんな資料だけはざっと読みこんできたが、現実はそんな資料から想像できるものを遥かに上回るほど巨大で、厳かで重厚な雰囲気に包まれていた。
「すごーい、建物の外なのに歓声が聞こえるよ!」
ミオが頰を紅潮させる。競闘宮の決闘会場は天井開放型の屋内舞台。舞台の声援が開放天井を伝って外まで響いているのだろう。
「わたしたち学生決闘が明日で、今日はその前哨祭なんだって。競闘宮の有名名詠士の試合がいくつも組まれてるって話だよ。にしてもこの歓声ってすごいね!」
ミオ同様、こちらも興奮したようにヘレンが声を上げる。
「ちび君、せっかくだから覗いていく? どうせ夜にここで落ちあうんだから」
「そうですね、最初に見ておかないとわからなくなりそうだし」
〈イ短調〉の二人と待ち合わせる場所は競闘宮。一番目だつ建物だからとサリナルヴァが設定したものだ。
「ん、落ちあうって? もしかしてわたしらお邪魔だった?」
エイダとの会話を耳ざとくヘレンが拾う。気を使う素振りをみせる彼女、その様子にネイトはあわてて手を振った。
「あ、違うんです。今じゃなくて夜にここで会う約束をしてる人がいるだけですから」
「はいよ、じゃあ今は平気だね。それなら行こ行こ!」
「わっ、ヘレンさん早すぎです、待ってくださいってば」
足早に進んでいくヘレンの背を追いかけた。
競闘宮。
その内部は、決闘という荒々しいイメージからかけ離れた華やかさだった。
見上げるほど高い天井に、きらびやかに輝く照明。通路一面に敷かれた深紫色の絨毯は上質であるのがネイトにもわかる。壁と床の石材もまるで鏡のように磨き上げられ、まるで観光地の高級宿泊施設のようだ。
「......あれ、内部は静かなんですね。外にいたときは歓声が聞こえてたのに」
「んとね、競闘宮ってドーナツ型の構造なんだって」
入口のパンフレットから目を離さないまま、ミオ。
「今あたしたちがいるのがドーナツでいう輪っかの部分で、外環層って言うみたい。競闘宮の決闘会場はドーナツでいう芯の部分。外環層と決闘会場は内部の隔壁で隔てられてて、決闘会場の音は聞こえないみたい」
外環層は一階が受付ロビー、待合所、二階から四階までが資料館。五階から上が選手用個室。その目的ゆえ室内は静かな方がいい。そのための防音処置ということだ。
「あれ、でも......エイダさんちょっといいですか。〈イ短調〉の人たちとは夜に会う約束だけど、競闘宮のどこで落ちあえばいいんでしょう?」
落ちあう具体的な場所が指定されていない。
玄関、受付、待合室。ネイトがそれとなく周囲を見回すだけでもそれらしい場所がいくつもある。しかもこの広さだ、的を絞らないと合流するのも一苦労だろう。
「あー、そういやそうだった。サリナはそういう肝心なところが抜けてるからなあ。向こうもちび君とかクルーエルの顔ちゃんとわかってるのか疑問だし」
不満にも似たエイダの呟きとほぼ同時。
──あら、その点については心配ご無用よ?──
青く輝く氷の風鈴を思わせる、凜と澄みきった音色が響いた。
「ふぇ?」
すっとんきょうな声を上げてミオが振り返る。その肩にぽんと手をかけ、微笑をたたえて優雅に佇む一人の女性。
「顔合わせは夜かと思ってたけど、ずいぶん早いご到着ね。驚いたわ」
肩先のところで外向きに跳ねた碧色の髪に、女豹を思わせる金色に輝く大粒の瞳。厚地の白毛皮のコート、薄紅色のマフラーを羽織った女性だ。
「トレミア・アカデミーのみなさん、ようこそ競闘宮へ」
鈴を転がすような声と共に、目の前の彼女が軽く一礼。
彼女は名乗らない。なぜなら彼女の声こそが、なによりの自己紹介だったから。
「......シャンテさん?」
〈イ短調〉第六番に名を連ねる魔性の歌姫。歌后姫──シャンテ・イ・ソーマ、その名はネイトもサリナルヴァから聞いていた。
今回の一件で、自分たちと合流することになる名詠士だと。
「ええ、よろしくネイト君? 虹色からもあなたのことは聞かされてるわ」
自らの髪を手櫛で梳き、艶やかな笑顔をこぼすその女性。
「お、なんだシャンテじゃん。こんな昼間から人前に出てくるなんて珍しいな」
「おひさしぶりエイダちゃん。元気そうね」
タッチするように手を合わせ、互いに表情をほころばせるエイダとシャンテ。が、その様子に──
「ちょ、ちょっと待って!」
突然、後ろで沈黙していたヘレンが猛烈な勢いで声を上げた。
「ん、どしたの?」
「どしたのじゃないわよ! なに、その『なんだシャンテだったのか』って。だ、だ、だって、本物のシャンテさんて言ったら、あの〝歌后姫〟よ。どんな田舎の見習い名詠士だって知ってる超有名人でしょ!」
名詠士としての名は言うにおよばず。たった一度の公演で、その年の年収分を稼ぐとも言われる歌姫。魔性の音色と呼ばれるほど艶やかで聞く者の心を奪う声は、どんな名工の楽器をも凌駕すると言われている。
「そんな人が、わたしたちみたいなのの案内役なんかするはずないじゃん! いったいどんな人脈があればそんなの──」
言い終えるその前に、シャンテが口元を蠱惑的につり上げた。
「ねえ、わたしの声を聞いても信用できない?」
「あ......い、いえ......そんなことは」
ごくりと喉を鳴らしてヘレンが沈黙。
本当は彼女もわかっている、目の前の名詠士は偽者ではない。歌后姫の声真似ができる偽者などいるわけがないからだ。
「......で、でも、どうしてシャンテさんが」
緊張ゆえか、しどろもどろで訊ねるヘレン。
しかし訊ねられた当人は困ったような表情で。
「うーん。難しいわね。とりあえずエイダちゃんとは顔なじみだし、ネイト君やクルーエルさんも虹色から話を聞いてるから、わたしの中では知り合いの範疇なのよね。あ、もちろんミオさんも学園長から聞いてるわ。すごく勉強ができる子だって」
「......あのカインツ様まで。やばい、負けたわ。トレミアの生徒ってものすごく人脈あるのね。いったいどうやって知り合ったの。パーティー会場?」
ヘレンに言いよられ、ネイトとクルーエルはそろって顔を見合わせた。
「いや、その何ていいますか。ねえクルーエルさん?」
「うん......パーティーなんて楽しい思い出より、どっちかと言うと毎回大変な目に遭ってた気がする」
5
競闘宮、外環層の第四階はフロアそのものが資料館になっていた。
ところ狭しと飾られた資料の数々。歴代覇者の写真や決闘記録、使用された名詠や触媒。一つ一つを細かく見て回れば、一日かけてもまだ足りないほどの展示数だ。
「おおっ、すごい。ルフ爺がいる、しかも若い! あははっ、髪の毛フサフサだよ!」
ルーファ・オンスと書かれた写真の前で笑い転げるエイダ。その隣では、ミオとクルーエルが隣の写真に見入っていた。
「ねえねえクルル、こっち来て来て。ゼア・ロードフィルってあるよ! すごい、学園長って競闘宮の覇者だったことがあるんだ!」
さらにそこから離れた場所では、ヘレンが過去の雑誌を一心不乱に読みふける姿。
「あらら、みんな夢中ね。まあ珍しいものが色々あるから当然だろうけど」
「......そうですね」
「あら、どうしたのネイト君。一人で難しい顔しちゃって」
表情を覗きこむようにシャンテが顔を近づける。
その彼女に無言でうなずき、ネイトは目の前の写真を見つめた。
「僕、ここに来るまで競闘宮って、単に名詠士が戦うだけの場所っていうイメージしかなかったんです。でもちょっと違うんだなって」
展示されてある過去の記事。著名な名詠士の愛用した触媒の再現に、決闘で用いられた名詠生物のリスト。どれも歴史的な記録として相応に価値のあるものだ。
「こういう、歴史を伝えるっていうのか、そういう一面もあるんだなって」
母は、こういった類のものを一切教えてはくれなかった。何より競闘宮という存在も、トレミア・アカデミーに転入してから聞かされたものだ。
「なるほど、あなたは名詠士の決闘そのものにはあまり興味がないのね。あなたの歳くらいの男の子にしては珍しいかな」
「......そういうの苦手です。でも珍しいんですか?」
「血気盛んな年頃の男の子にしてはね。でも、近くにお仲間もいるみたいだけど」
その言葉の意図を察し、ネイトはシャンテの視線をなぞった。
──レフィス。
学友のヘレンからも離れ、壁に身を預けた姿勢でじっと天井を見上げる彼。
「ところで、あの二人はどうしたの。ヘレンちゃんとレフィス君だったかしら。最初はサリナルヴァからあなたたちだけの案内をするよう頼まれてたから」
「えっと、ここに来る前に知り合ったんです。そのまま流れで一緒にって」
「ふーん、でもちょっと参ったわね。本当は伝えるものもあったんだけど、あの二人が一緒にいるとそうもいかないし。......ねえネイト君、お姉さんと二人だけで別の部屋にいく? そこでならイロイロ教えてあげるわよ?」
「──ひゃっ!」
伸ばした指の爪でつっと首筋をなでられ、ネイトは思わず飛びのいた。
「く、くすぐったいです!」
「あはは、ごめんなさい。ちょっと言ってみたかっただけ。ルーファ老とかネシリスとか、わたしの男の知り合いってみんなこういう冗談つうじないのよね。堅物だから」
口元に手をあててシャンテが小さく笑う。
「そういえばネイト君も似てるところがあるかな。根っからの堅物ってわけじゃないけど、頑固なところがありそうね」
頑固。
アーマからも時折告げられる言葉だ。自分の頑固さは母親譲りだと。
「......競闘宮が嫌いだって思うのも、やっぱり僕がそうだからかな」
「どこぞの覇者さんは知らないけど、わたしはお祭りとして理解してるわ。観客もそうよ。大声で応援したり珍しいものを見たり、それで憂鬱な気持ちが晴れることだってある」
スポーツを観戦したり大勢で騒いだり、それはわかる。しかし名詠式をその手段にすること、特に決闘に用いられることには抵抗を感じずにいられない。
「だって競闘宮って決闘の場所ですよね。理由もなく誰かと戦って傷つけあうなんて、そういうのおかしいと思うんです」
「理由もなくということはつまり、競闘宮という『場』だけでは戦う理由に足りない......なるほど、それはわからないでもないわ。でもね」
最寄りのテーブルから椅子を引っ張り、優雅な仕草でシャンテがそれに腰かける。
「ネイト君に意地悪な質問をしちゃうけど、競闘宮なんかじゃなく、どんな理由があればあなたは戦ってもかまわないと思う? 喧嘩でも口論でもどんなものでもいいわ」
「......わからないです」
ネイトの記憶の中、特定の人間と衝突した覚えがあるのは灰色名詠のミシュダルだけ。
ではあの男と戦っていたのか、そう訊かれれば迷う。あの時は昏睡状態のクルーエルを助けたいのが全てで、誰かと戦っていたという気はしなかった。
ミシュダル本人にしてもそうだ。あの男はクルーエルを狙っていたというより、むしろ自身への嘆きと憤りに満ちていた。
──ではもし明確に、クルーエルに危機がおよぶような時が来るとしたら?
その時......僕は、クルーエルさんを守れるのかな。
「なるほど、カインツがあなたを何かと気にかけてるのがわかった気がするわ」
すらりと伸びた足を組み替える彼女。脇のテーブルに片肘をつき、歌后姫はどこか愉快そうにこちらを見上げていた。
「カインツの奴、君と自分を重ねて見ているのかもね」
「そ、そんなことないです! だってカインツさんはあんなにすごくて立派で──」
夜色名詠を創りあげた母が唯一認めた相手だ。史上初となる名詠五色の全制覇を達成した虹色名詠士。そんな人が自身と僕を重ねているなんてあるはずが。
「あら、カインツも競闘宮は苦手だって言ってたわよ。『好奇心とか名誉とか自己研鑽とか、そんなまどろっこしいもののために競闘宮に入り浸るのはご免です。ボクはもっと素直な方がいい』ってね」
好奇心、名誉、研鑽。競闘宮で得られるものは時として重荷となる。虹色名詠士がそれを避ける気持ちもわからなくはない。
......だけど素直ってどういうことだろう。
「あ、あの、シャンテさん」
「あらら、やっぱり気になるのね。ま、そうだと思ってたけど。......あいつはね、わたしとネシリスの前でこう言ったの」
耳元のアクセサリを指先で弾き、シャンテがおどけたように肩をすくめた。
〝大切な人を守りたいって理由が、ボクは一番憧れます。強い剣でなくていい。その代わり、自分の大切な人だけは絶対に守れる盾になりたかったですね〟
大切な人を守りたい、それが彼の考える一番素直な理由?
「あいつからすれば、自分から戦う相手を求める競闘宮はきっと剣の発想なのね」
シャンテの言うように、競闘宮で成功すれば相応の名誉が約束される。それに魅せられた人間が少なからずいる中で、それでもなおカインツは盾を選んだ。
そして彼が守りたかった相手は......まさか、僕の母さん?
〝守れる盾になりたかった〟
もはや叶うことなき願い。
過去形で描かれる言葉の裏に、彼はどれだけの想いを込めていたのだろう。
──だから、カインツさんはボクとクルーエルさんを気にかけて?
「そうだったんだ......」
声がふるえる。奥歯を嚙みしめて堪えるのが精一杯だった。
そうだ、自分が頑張らなくちゃいけない。僕やクルーエルさんのこと、カインツさんが安心して見てられるように。
「あの......シャンテさん。明後日の触媒披露会、僕も頑張りますから!」
「あらあら、カインツの話に感化されちゃった? ま、気持ちは嬉しいけどヤマは明後日よ。今から張りきりすぎてバテないでね?」
ぎくり。
内心を見事に見透かされ、拳を握った仕草のままネイトはぴしりと固まった。
「......僕、顔に出てました?」
「ええ、とっても。あ、今度は顔が赤くなった。そんな照れなくたって──」
「も、もういいですってば、言わないでください! あ、笑うのもダメですっ!」
......シャンテさんてば、そんなお腹抱えて笑わなくたっていいのに。
「あはは、ごめんなさい。──さて、じゃあ代わりに少しだけ真面目なお話ね。当日の披露会のことだけど、わたしとネシリスは決闘会場で警備。それで、あなたたちもその場にいてほしいの。その時に何か違和感があれば、すぐにそれをわたしたちに伝え──」
言葉なかばで、ふとシャンテが口をつぐんだ。
自分たちからさほど離れていない距離で、今まで壁によりかかるままだったレフィスが壁から身を起こしたからだ。
「ヘレン、そろそろ宿舎で打ち合わせの時間だ」
「あっ、まずーい。忘れてた!」
彼の一言に、記事に夢中になっていたヘレンが慌てて雑誌を閉じる。
「ごめんなさい。わたしとレフィス、明日の学生決闘の最終チェックがあるんです。お先に失礼していいですか」
「ええ、明日は頑張ってね」
小さくうなずき、商売用の笑顔をうかべるシャンテ。
「はい! それじゃレフィス行くよ。みんな、また明日ね!」
「うん。明日は応援するからねー」
ミオの声に手を振り、レフィスを引き連れてヘレンが足早に階段を下りていく。彼女の足音が消えるのを確認し、ネイトはシャンテを見上げた。
......そうだよね、披露会の前に学生決闘があるんだもん。
「シャンテさん、ヘレンさんの学校が二回戦でドレスエン名術校っていう学校とあたるんですけど、強いんですか」
「うーん、そういうのわたし詳しくないのよね。でも去年の優勝校なんでしょ、弱いとは思わない方がいいんじゃない?」
ならばなおさら、明日はヘレンたちを応援しなくちゃいけない。
......だけどなぜだろう。
ヘレンはそれなりに気張っているのが見て取れたが、彼女に付きそっていたレフィスだけは分からない。無口なのは緊張している表れのようにも見えるし、逆にこれ以上ないほど落ちついているようにも見える。それに──
〝専攻色は『Arzus』〟
専攻色が『Arzus』。五色の名詠の一つを専攻しているのは当たり前のはずなのに、何かが引っかかって離れない。
......なんだろう、すごいモヤモヤがある感じ。
それは脳裏に棘のように刺さり、いつまでも頭の片隅にこびりついていた。
間奏『足音』
赤茶けた大地が広がる荒野。
瘦せこけた大地に生える樹木は細く短く、そこに茂る葉も褐色。時おり吹く風に、地表の小石がカラカラと音を立てて転がっていく。
地を這う虫はおろか、空を飛ぶ鳥すら見られない丘陵。そんな荒涼とした丘に、陽を受けて伸びる三人分の人影があった。
「で、アルヴィル。私たちはあと何時間歩けばいいのかな」
「んー、半日ってとこかな......っ痛、なんで殴るんだよ、冗談だってば姐さん!」
三人の中央に立つのは長身瘦軀の男だった。
余計な頰の肉を全て削ぎ落とした鋭利な顔だちに、爛々と輝くどこか子供っぽい瞳。だぶついた麻色のズボンに半袖シャツ、黒獣皮のベストという出でたち。その首元には安物らしき細い銀のネックレスが鈍く輝いている。
「ったく姐さん、殴るなら殴ると言ってくれよ」
アルヴィルと呼ばれた男がぶつぶつと呟きつつ、顔をしかめた。
「半日歩きどおしの挙げ句、つまらん冗談にまで付きあう気はない。それに、殴るなんて言えばお前は真っ先に逃げだすだろうが」
肩先までの赤銅色の髪に、深い青色の瞳をした女性がさらりと言い返す。
身体のラインをそのまま映しだすほど密着した黒のシャツが一枚だけ、それと色褪せた藍色のズボン。夏場のような軽装にもかかわらず、首には黄砂色の長マフラーを巻くという一見矛盾した服装だ。
「いや、でもさ。これだけ持ってたらさすがに俺でも逃げられないと思わない?」
大の大人でも一抱えはあろうという荷物を二つ右肩に担ぎ、左肩には長大な鎗。
鎗の重さも相当だろうし、荷物にいたってはまず持ち上げるだけで一苦労だろう。だがそんな弱音と裏腹に、それだけの重荷を背負ってなお、男の足取りには余裕があった。
「その割にはまだいけそうだなアルヴィル。......お、ちょうど目の前に大きな石がある。これくらい荷物に加えても平気だろ」
「やめてくれっての! あー、もう、ファウマもこの姐さんに何か言ってくれ」
「......わたし?」
声のかかった、最後の一人が透きとおった声を上げた。
この荒野から世界の隅々まで響きわたる、そんな澄みきった声。小鳥のさえずりよりも高域の音、かつ、子供の寝息よりも安らかな響き──そんな声を持つ少女だった。
月光を想起させる青白い生地で縫われたドレス風の外装に、口元から上の表情が隠れる鍔の広い日除け帽。しかしその品位ある衣装と対照的に、ドレスの下から覗く光景は異質。膝下までを隠すスカートが風に舞い、そこに見える足首には白い包帯が痛々しいまでに巻かれている。
「そう、ビシッと言ってやってくれ」
アルヴィルの指名に、ファウマと呼ばれた少女はしばし周囲を見回して。
「そうね......テシエラ、そっちの石より向こうの石の方が大きいと思うわ」
「お、本当だ」
「そうじゃねえよっ、勘弁してくれ!」
やおら、頭を盛大に搔きむしりながらアルヴィルが叫んだ。
「あーもう、なんで俺がこんな目に遭わなくちゃいけないのかね。うちの脳天気リーダーはどこへ行った!」
「シャオなら一足先にエンジュへ向かってる、そう言ったのはアルヴィルでしょ」
「んなのは知ってるっての! くそ、だから俺は列車が動きだすっていう......二日と七時間だっけか? それくらい待とうって言ったんだ」
足下の小石を蹴り上げる彼に、その両脇を歩く女性たちがそろって呆れたまなざしで。
「仕方ないだろう。そこまで待つのは面倒だ」
「アルヴィルって文句が多いのね。少し落ちついて」
「......俺だって、こんなでかい荷物持たされなければ文句言わねえよ」
なだめられたというより、諦めたという表情でアルヴィルが沈黙する。それもそうだろう。自分、そして両隣の二人。計三人分の荷物を持っているのだから。
「なあお二人さん、しつこいけど名詠生物詠べねえの?」
「無理だな、そんな可愛いストックはない」
「疲れるからダメ」
あっさり首を振る女性二人。
「いやでも、あんたらの荷物は本気で重いぜ? 何が入ってるのかちょっと確認──」
肩に背負った荷物の口をアルヴィルが開くその前に。
「なあアルヴィル? 女の荷物を無断で開けたらどうなるか」
「シャオには、アルヴィルは荒野で突然吐血して倒れたと言っておくね」
「......了解」
渋々とアルヴィルが引き下がる。
すると、彼の両脇にいた二人はそれぞれ独り言のように。
「ま、中に鉄アレイやら重りやらが入ってるのは否定しないがな。もちろん名詠の触媒として」
「わたしも、重そうな宝石や人形を選んで荷物に入れたような気がしないでもないわ......もちろん名詠の触媒として」
「ちくしょおぉっ、やっぱりかよ! それ絶対俺への嫌がらせだよな? 明らかに名詠の触媒に使う気がないもんばかりだろ!」
絶叫し、アルヴィルがその場で荷物を振りまわす。もっとも、振りまわしながらも決してそれを投げ捨てようとはしないのだが。
「いやしかし、それだけ持って歩けるとは大したもんだ、さすがに祓名民の鍛え方は違う。なあファウマ?」
「うん、さすがねアルヴィル。わたしなら持ち上げられもしないわ」
「......そんな褒め方されても嬉しかねえよ」
投げ捨てそうになった荷を背負い直し、アルヴィルが再び歩きだす。しかし数歩と歩かぬうち、ふとその視線は虚空を見つめ。
「そうそう、なんかな、シャオが『これは未確定だから、話しても話さなくてもどっちでもいいよ』って言ってたのがあるんだけど、どうする?」
「聞いてもいいが、面白くなければお前が面白い芸の一つや二つやってみせろ」
「聞いてもいいけど、わたし寝たら忘れちゃいそう」
「......ウチのメンバーはまともに話せる奴がいないのが難点だな。まあいいや、シャオがこの前言ってた総当たりの組み合わせが変わるかもしれないんだとさ」
「──いいじゃないか」
テシエラの声音が優に一オクターブ下がった。
「面白いな。で、私は誰を相手にするんだ」
「それは本人から聞いた方が早いんじゃねえの? ほら、見えてきたぜ」
赤茶けた荒野はいつしか背後に消え、地面は整備された石畳になっていた。その両脇には緑の草花、瘦せこけた木々も堂々とした大樹に姿を変える。
そのさらに先、天に向かってそびえる建造物の連峰があった。
──凱旋都市エンジュ。
その都市に入る直前、ちょうど石畳が途切れる場所で三人は足を止めた。
「よおシャオ、待ちくたびれたか?」
「まさか、思っていたより早かったくらいだもの」
アルヴィルが手を上げる先、まるで影が浮かび上がったかのように佇む黒法師が一人。
「列車を使わないで徒歩で来るとは思わなかったよ。ファウマ、無理させちゃったね」
「ううん、途中でアルヴィルに背負ってもらってたから」
「だと思った。アルヴィル、テシエラもお疲れさま」
シャオのねぎらいの言葉と対照的、ファウマを除く二人に疲れの色はない。
「さてシャオ、祭りは二日後だったな」
歩く途中で乱れたマフラーを丁寧に巻き直すテシエラ。暢気ともとれる仕草、その実、言葉には鉛のような重々しさを含ませて。
「お前の言う予定運命とやら、順調か?」
「おおむねそうだね。夜明けと緋色もエンジュに到着した。特に大事な鍵が緋色。空白名詠の力に目覚めたクルーエルがこの地のミクヴァ鱗片に接触、そうすることで〈ただそこに佇立する者〉もまた眠りから覚める。それが明後日」
テシエラがマフラーを巻き終えるのを待ち、シャオはさらに彼女へ向けて。
「だけどまずは明日の学生決闘。テシエラ、君が見たがっていたものが見られるかもしれないよ」
「──ほう」
一見すれば無感動を点したままの表情。しかし一方で、彼女の唇は隠しきれない喜びにふるえていた。
「ヨシュアの後継か」
「どうかな、ミシュダルの後継といった方が近いかもしれない。いずれにせよ明日の学生決闘、競闘宮は灰色に染まる。ほら、ちゃんと一般用チケットも手に入れておいたよ」
「気がきくじゃないか大将」
シャオから差し出された紙切れを胸ポケットにしまう彼女。
「喜んでもらえて何より。さ、話が長くなったけど行こうか。──自分も、ネイトと会うのが今から楽しみなんだ。すごく興味がある」
ふわりとローブをひるがえしシャオが踵を返す。
エンジュの外れ、その四人が立ち去ったその草原で。
ざわざわと、煤色の風に草木がざわめく音だけが静まることなく残っていた。
三奏『再憶』
1
薄いカーテン越しに感じる陽射し。
「......もう朝?」
ベッドから上半身だけを起こし、ネイトは眠気の残る目をこすった。
ぼんやりとかすむ視界。昨日はエンジュを一日歩き回ったせいか、だいぶ睡眠をとったはずなのにまだ眠い。
「アーマ起きてる?」
『それは我のセリフだな』
自分の枕下のすぐそば、丸くなっていた名詠生物がのっそりと首を持ち上げた。
「ごめんね、昨日は一日中鞄の中に隠れてもらってて」
地域によっては、名詠生物を連れて歩くことに許可証が必要なことがある。
エンジュについてはその下調べをする時間がなかったのだが、昨日一日歩いた様子ではどうも必要ないらしい。
「今日は外に出て平気みたいだよ、一緒に行く?」
『......それが競闘宮という場所なら考えものだな。あの狂乱じみた騒ぎはごめんだ』
ぷいと顔を背ける名詠生物。雑音を嫌う性格のアーマには、あの地鳴りのような歓声がさぞやかましく聞こえたのだろう。
「そっか、それならお留守番してる?」
『そうしておこう』
再び丸くなるアーマを後目に、ネイトは部屋の時計を見やった。
──うん、僕はとりあえずご飯食べにいかないと。
「うわぁ、すごい人!」
百人は入れるはずの大食堂が、見渡すかぎり名詠学校の生徒で埋まっていた。
地味な紺色の制服から派手な金模様の制服まで、制服の数で見れば二十種以上はある。参加校が十六、見学校も相当数がこの宿舎に泊まっているのだろう。
「えっと、適当にご飯取っていいんだよね」
牛乳の小瓶とパン、サラダ。それにフルーツ。
思いつくままを小皿にとりわけ、ネイトはトレイを抱えて席を探した。食堂の中央部の席はほとんどが生徒と教師に占められ、かろうじて空いているのは隅の席だ。
──あれ?
大食堂の出口から見て一番奥の隅にあたる席。あまり照明も当たらない場所。そこに他の生徒から離れ、一人でじっとパンをつまんでいる青年がいた。
眩い銀髪を伸ばした長身の青年。
誰もが振り返るような整った顔だちと背格好。にもかかわらず、どこか憂いをおびた瞳はまるで他人を映さず、自分一人の世界にいるような異様な空気を放っている。なるほど、これは近よりがたい。他の生徒がその隣に座らないわけだ。
......でも空いてるのあそこだけだし。それに一応知り合いだし、平気だよね。
「あ、あの。レフィスさん、ここいいですか」
彼が顔を上げるのを待って、ネイトは対面の席を指さした。
「別に」
ぼそりと彼が首肯する。
きっと今の「別に」が、彼が発した今日最初の言葉なのだろう。怒っているわけでも疲れているわけでもなさそうだが、どこまでも淡泊な言いようだった。
......ええと。
「あのぉ、昨日はよく寝れました?」
「いつもどおりだ」
「......そ、そうですか。そういえば昨日先に帰ってましたけど、ジール名詠学舎の皆さんで作戦会議でもしていたんですか」
「いや、単にルール確認をした程度だ」
「............」
だめだ、会話がつながらない。訊けば素直に答えてはくれるのだが、あまりに抑揚がないので先が続かなかった。
「ええと、今日頑張って下さいね」
「何がだ」
「何って、大会です。競闘宮での学生決闘」
その途端、パンをつまむ彼の手が止まった。
「ネイトだったか」
「あ、はい!」
「ネイトは競闘宮の決闘に興味があるのか? 俺と同じで、ネイトはそういった類に興味がないように見えたんだが」
レフィスが、初めて自分から?
「俺と同じって......レフィスさんも?」
「あまり気は乗らないな。名詠学校の高等部に転入してまだ数ヶ月だけど、いきなり学生決闘なんて話を持ちかけられた時は驚いた」
饒舌だった。
少なくとも、ついさっきまでの口数と比べれば噓と思えるほどに。
「それなら、なんでわざわざ学生代表に?」
「ヘレンに頼みこまれた」
銀色のトレイをじっと見つめ、レフィスがふっと息をはく。
「あいつはあんな性格だから、放っておくのも気になる」
「あ、ヘレンさん勝気ですよね! 昨日もすごい自信ありそうだったし」
「──俺には、あいつがひどく弱々しく見える」
彼の口を突いて出たのは、ネイトが考えもしなかった言葉だった。
「ヘレンは、名詠の成績はジールでも指折りだ。今回だって女なのに上級生に混じって学生決闘の代表に選ばれた。だけどそのぶん周りの期待も大きい。あいつも、周りが自分に期待してることを知ってるから余計に意地を張る。たとえば、ドレスエンとかいう学校の生徒からお前たちを庇ったようにな」
「え。でもそんなようには」
「そう見せないことがあいつなりの意地。俺にはそう映る」
ティーカップの中、揺れる液面を見つめるレフィス。
憂いを秘めた瞳、それが揺れているのはカップの液面を映しているからか、それとも別の何かか。どれだけ見つめてもネイトにはわからなかった。
「......レフィスさんはそれを心配して?」
「あいつには借りがある。それだけだ」
トレイを抱え、にわかにレフィスが立ちあがる。
「あっ、レフィスさん。待って」
「あいにく、俺の方はもう食事は終わってるからな」
振り返りもせず立ち去る彼。
が、そのすぐ後に。
「お、いたいた~、ネイト君おはよー!」
「おはよう、ネイト」
ミオ、クルーエル、そしてエイダの声が。
「お、ラッキー。ちょうどあたしらの席ぶん空いてるね」
トレイをテーブルに置き、エイダが勢いよく席に座りこむ。空いている席は、レフィスが抜けた対面の席を合わせてちょうど三つ。
......あれ、まさか。
「ネイト、どうかしたの?」
対面の席に座るクルーエルがきょとんとした面持ちで見つめてくる。
「い、いえ。ちょっとパンが詰まりそうになっただけです」
水を飲むフリをして慌ててごまかした。
......レフィスさん、クルーエルさんたちが来るのが見えたからわざわざ席を?
2
「うっわぁ、なにこの行列! これ全部あたしたちと同じ観客なの!?」
開口一番、ミオが悲鳴を上げた。
競闘宮の大ロビーを埋めつくす人の列、列、とにかく列。
数百では収まらない。既に会場内に入っている観客も含めれば数千に届くに違いない。ロビーの端から端まで並んで、なお並びきれずに蛇行しているのだ。この様子では受付を済ませるのにどれだけかかるかも分からない。
だがそれはまあいい。問題なのは──
「で、クルーエル、よりによってちび君とはぐれてしまったと」
呆れ顔で腕を組むエイダに、クルーエルは渋々とうなずいた。
「うん......さっきまですぐ隣にいたはずなんだけど」
つい数分前、大きな人の波に呑まれた時だ。四人がバラバラにはぐれ、なんとかミオ、エイダとは合流できたのだが、ネイトだけがどうしても見つからない。
「ネイト君まだ背も高くないし、髪の毛も黒系統だから目立たないものね」
「大声で呼んでもこの騒ぎじゃ厳しいか。しゃあないね、クルーエル、ちび君にもはぐれた時のことは伝えてるんでしょ」
「それは平気よ、きちんと確認したもの」
会場の観客席にひとまず座り、全体が落ちついたらあらためて相手を捜す。大会終了後も見つからなかったら受付で落ちあう。それが競闘宮の入口で確認したルールだ。
「クルル、ネイト君が心配?」
「え、う、うん。まあでも平気だと思うけど」
トレミア・アカデミー内ならまだしも、ここは土地勘のない大都市。それもこんな大規模な施設だ、ここからネイトを見つけるのは骨が折れる。
「しーっ、ほらあれだよミオ。きっとちび君の隣の席に座ってだね、何かのはずみを狙って『キャー』って抱きつく作戦だったんだ」
「あー、なるほど! ホラーハウスとかで恋人がやる古典的手法だね! さっすがクルル、乙女街道まっしぐ............ええと。クルル、目が怖いよ?」
「怖くしなくちゃいけないのは誰のせいかしら」
ぎろりとミオとエイダを睨みつけ、クルーエルはこっそり溜息をついた。
......ネイトのばか。
こういうこと言われるの分かってたから、キミがいなくなると困るのに。







コツッ、ツッ──
人気のない通路に、先を行く彼女と自分の二人分の足音がこだました。
「ごめんなさいね、おどろいた?」
毛皮のコートを羽織る女性が愉快そうに言葉をはずませる。隣を歩く彼女にも伝わるよう、ネイトは心もち大きくうなずいた。
「......少しだけびっくりしました」
もう十分ほど前になるだろうか。クルーエルたちを見失ってあちこち歩いているうち、まったく別の通路に出てしまったのだ。それで慌てて引き返そうとしたところ、突然背中ごしに肩を叩かれた。
それが外でもない、シャンテだった。
「大声出したら他の人にもバレちゃうじゃない。あんなに人が大勢いるところでわたしが姿なんて見せたら、それこそファンの学生に取り囲まれちゃうわ」
「......でも、いきなり口をふさぐのはひどいです」
「あはは、ごめんなさいね。だけど他の子が見つからなかったのは残念ね」
学生決闘当日、会わせたい人物がいる──彼女の方でそれを失念していたらしい。
今日になってシャンテも慌ててクルーエルたちを探したものの、かろうじて見つけたのは自分だけだったというわけだ。
「はぐれた時のことは決めてありますから、たぶん他の人も平気です」
「ううん、そうじゃないの。さっきも言ったけど、エイダちゃんはともかく、クルーエルさんやキミに紹介したかった奴がいるのよ」
とある部屋の前で彼女が足を止める。
控え室。そう書かれたプレートの下の名前は──
「入るわよ」
ノックもせず、まるで勝手知ったる我が家のような態度でシャンテが扉を開けた。
「遅かったな、じきに第一試合が始まるぞ」
「贅沢言わないの、これでもエイダちゃんとか探し回ったんだから」
青のインバネスコートを羽織る男へ、シャンテがおどけた足取りで近づいていく。
「この観客数ならそれも無駄だろうな」
彫りの深い、厳めしい顔つきを保ったまま男が肩をすくめる。
背丈は成人男性より頭一つ分は大きいだろう。広い肩幅に見合う屈強な体格に、猛禽類を思わせる鋭い双眸。短く刈りこんだ濃紺の髪といい、名詠士ではなく生粋の祓名民といった方がよほど似合う。
「そうね。それより時間がないんだから、今はちゃっちゃと自己紹介だけしちゃいましょう。さてネイト君、ようこそ競闘宮覇者の特別控え室へ」
競闘宮覇者の、特別控え室?
「そう。でも君には〈イ短調〉の第二番と言った方がわかりやすいかもね。カインツやサリナルヴァからも名前くらいは聞いたかしら?」
〈イ短調〉第二番。......この人が。
腕の立つ名詠士がひしめき合う競闘宮でも、一度として敗北を知らない最強の名詠士。そして今回、同じ〈イ短調〉のサリナルヴァからの要請を受けて共に行動することになる男──ネシリス、青の大特異点。
「あ、あの、初めまして」
「ここは嫌いか?」
挨拶の返事など気にも留めず、男が発したのはそんな一言だった。
「嫌いって?......僕が、ですか?」
「競闘宮で名詠士が腕を競いあうのは、名詠士としての本分を外れていると思うか?」
「え、あ、あの」
「表情にそう書いてある」
仮に、この男以外の誰かに同じことを言われていても信じなかっただろう。だがネシリスという男の言葉には、嫌でもそれを信じさせる力があった。
「カインツから、お前の夜色名詠とやらの話も多少は聞いている。お前が名詠式を学ぼうとする理由も想像がつく」
名詠式は、日常生活において数多くのことに役立つことができるとされている。
寒冷地での赤色名詠の活躍、干害地での水の名詠。
運搬、伝達、救助、救援。
それだけではない。今は考えつかなくとも、名詠式はいくらでも可能性を秘めている。だから、名詠式に何を望むのか、まず自分で考えなくてはならない。
──自分は母親からそう教わってきたし、それが正しいと今でも思う。
だから競闘宮という舞台の役割を聞いた時、少なからず嫌悪感を抱いたのも事実だ。名詠式で人と人が戦って何になるのか、それで誰かが救われるとは思えなかった。
「どうだ?」
「......はい」
「お前のその感性は間違っていない。綺麗事と言う奴も少なからずいるが、それでも名詠士の本分が競闘宮にないことに俺も異論はない」
「でもそれじゃあ、なんでネシリスさんはずっとここにいるんですか」
競闘宮で誰より多く戦い続けている名詠士。
──その本人がそんなこと言うなんて、意味が通らないじゃないか。
「だっておかしいですよ! 戦ってケガすれば痛いし、辛いです。それに相手だって傷つけることもあるんですよね」
「そうだな。その繰り返しだ」
「......じゃあネシリスさんはなんで、そんな想いをしてまでここに拘るんですか」
「拘るわけじゃない。他になかった」
それは、いったいどういうことだろう。
「世の中には、自分でもどうすることもできないまま、それでもその道を選ぶしかない人間がいる。俺のように不器用で惨めな人間がな」
......この人が惨め?
紛れもない最強の覇者、常に脚光を浴び続けているはずの名詠士が?
「覚えておいて損はない。それはカインツでは伝えられないことだろうからな」
「ま、君にはまだちょっと早いオトナの悩みってところかな」
自らの艶やかな唇に指先でそっと触れ、シャンテが意味深に唇をつり上げる。
「さて、いきなりこの厳めしい強面が説教くさいこと言っちゃってごめんね。そろそろわたしたちも会場に向かいましょ?」
突然、室内に割れんばかりの歓声が轟いた。
......この歓声、もしや決闘会場の?
「あらまあ、もう第一試合始まっちゃったみたいね」
テーブルに留まる一匹の音響蝶を愛しげに彼女がなでる。おそらくもう一匹を決闘会場に待機させ、そこから音を拾っているのだろう。
「二人ともさっさと来い。遅いようなら置いていくぞ」
「あ、はいっ!」
大股で歩いていくネシリスの背中をネイトは慌てて追いかけた。
──そうだ、ヘレンさんたちの試合も応援しないと!
3
競闘宮、決闘会場。
その観客席は、立ち見の者が出るほどの賑わいだった。
「ふぇー、すごいね! 覇者決定戦とかの豪華試合は立ち見が出るって言うけど、それと同じくらい観客いそうだよ。八割方あたしたちと同じ学生だけど」
左手にパンフレット、右手にジュースの入ったカップを持ちながらミオが目を丸くする。
決闘参加校は応援のため中央寄りの席。クルーエルたちのような見学校は、舞台から遠い外周側の席があてがわれている。細かい座席の位置指定がないため、学園同士で早い者勝ちの席の奪いあいだ。
「ホント、少し経てば人も減るかなって思ったんだけどね」
ミオにつられてクルーエルも周囲をあらためて見回した。
今はちょうど一回戦の第四試合が終わったところ。その間ネイトのことも探したのだが、座席が早い者順の並びのため、はぐれた彼がどこに座っているのかもわからない。
......これじゃ、ネイトを見つけるのは試合が終わってからかな。
「ヘレンちゃんの学校が第六試合だからもうすぐだね、初戦勝てるといいなあ。あ、でも次はあのドレスエンだっけ。あんな連中負けちゃえばいいのに」
五試合目の開始を目前に、ミオがほおをぷくっと膨らませた。
「ミオ、もしかして割とこういうの好き?」
すると彼女は、自らのほおに指先をあてて考えるような仕草の後。
「ん~、友だちが出てるから応援しよう、くらいかな。見ててすごくハイレベルな試合とかならわからないけど......今までの試合って、なんか平凡だなって。あ、もちろんあたしなんかよりは断然すごいよ? でも、ね──」
慣れぬ大舞台で緊張する学生たち。〈讃来歌〉どころか、触媒を手から落っことして会場の失笑を買う場面もあった。
いざ実際に名詠したところで小さな炎や氷の飛礫。〈讃来歌〉を互いにボソボソと詠いあって、名詠してもせいぜい第四音階名詠。第三音階名詠まで名詠できたのは、四試合の中でも数人だけだ。
「すごく緊張して実力が出せないっていうのはわかるんだけど......でも、それがわかっててもね、見てて平凡だなって思えちゃうの。ほら、競演会のヒドラとか、敗者の王とか、ネイト君のアーマやクルルの黎明の神鳥とか見ちゃうとね」
はにかむような苦笑するような、ミオにしては珍しく歯切れの悪い表情。が、それはクルーエルにもわかる気がした。
〈孵石〉から生まれたヒドラの圧迫感。ミシュダルとの対決時に感じた、言いようもない狂気。それと比べるなら、今の学生決闘などまるで他愛もないものに思えてしまう。
「まあそうなんじゃない? トレミアはそういう気質じゃないからって学園長は言ってたけど、もし出ることになってたらウチのクラスだけで余裕だったかもね」
すっと、後ろの席にいたエイダが顔を突きだした。
「うちのクラスって?」
「あんたとちび君に決まってるでしょ。大会出場の十六校合わせても、あんたたち二人の相手にならないんじゃないかな。まあそれくらい開きがあるよ」
「......わたしが出ても緊張して何もできないよ」
「あんたね、自分がどれだけとんでもないか少しは自覚しなさいな......あ、でもあいつはちょっと気になるかな」
あいつ? そう訊ねる前にエイダは自ら二の句を継いだ。
「レフィスだよ、ヘレンの同級生って言ってた」
流れるような銀髪をした長身の青年。ヘレンの紹介で昨日行動を共にした学生だが、会話がなかったせいかほとんど印象にない。
「エイダが気になるって珍しいね」
「雰囲気というか呼吸っていうか、そういうのが明らかに違う。なんかこう、いついかなる時も神経張りめぐらせてますみたいなね。そういうのってさ、ただ名詠学校に行ってたって身につくようなものじゃないはずなんだ」
ヘレンが言うには、彼はジール名詠学舎につい最近転入してきたばかりとのことだ。
......それって、境遇がネイトと似てる?
「エイダはそれが気になるの?」
「気になると言ったって、まだ実際に試合を見てみないと始まらないけどね。もちろんあたしだって、ドレスエンの連中なんかよりヘレンたちに勝ってほしいし」
エイダが見つめる先は決闘舞台。
今からがようやく第五試合。これが終わればいよいよヘレンたちの出番になる。そうだ、二回戦という前に、この一回戦で負けてしまっては話にならない。
「そうだよ~、それが一番大事だもん! クルルもしっかり応援だよ!」
「うん、わかってる」
ミオに手渡されたパンフレットを膝元に置き、クルーエルも椅子に座る姿勢を正した。







観客席の最上段、立ち見席からも離れた壁際で──
「よかったわね、ジールの子たち一回戦勝てたじゃない」
首元のマフラーをまき直し、シャンテが楽しげに腕を組む。その仕草にネイトもこくりとうなずいた。
「はい、ヘレンさんも勝てたみたいでよかったです」
ジールの一回戦。
結果は三人で二勝一敗。ヘレンも危なげなく勝利を収めていた。緊張感も感じさせず、冷めやらぬ歓声に笑顔で手をふる余裕すら見せていたほどだ。
「さて、めぼしい注目校も一回戦は大体消化済みかしら。次は二回戦ね」
「......ヘレンさんたち、頑張ってほしいです」
「二回戦はドレスエンが相手だったわね。で、どうなの覇者さんから見て」
決闘舞台から目を離さぬまま、その男は。
「ドレスエンが三勝して勝ち残る。波乱はないな」
「相変わらず淡泊ねえ」
ネシリスの宣言にシャンテが軽く苦笑する。
しかし彼女もそれに反論しようとはしない。理由はただ一つ。彼女の目にも、そしてネイトの目にもドレスエンの優位は明らかだったからだ。
ジール名詠学舎が弱いわけではない。おそらく他の出場校の中でも中堅にはつけているだろう。だがドレスエンは、そういった群雄の中でも明らかに上をいっていた。
「代表三人がそれぞれ、〈讃来歌〉抜きで第三音階までの名詠が可能。それも相当な精度だったわね。〈讃来歌〉を詠えば、間違いなく第二音階までは名詠できるでしょうね」
その中でも特に大将格の三番手。
彼は『Keinez』と『Beorc』の二色を使いこなす実力者だった。そう、昨日、対戦表の掲示板の前で詰めよってきた男子生徒だ。
「一連の試合を見るかぎり、あの三番手が全体でも頭一つ抜けている。だとすればドレスエンに勝つには、三番目は捨てて最初の二人で連勝。二勝一敗で勝ちを拾うことだろうな」
「けれど、その連勝が何より難しい。決闘に特化した名門校だったかしら? さすがに優勝最有力候補と言われているところは違うわね」
ネシリスの言葉の続きをシャンテが拾う。波乱はない。少なくともこの二人はそう思っている。いや、会場の観客の大半がそう思っているだろう。だが......
〝ネイトは競闘宮の決闘に興味があるのか? 俺と同じで、ネイトはそういった類に興味がないように見えたんだが〟
......レフィスさんの、あの時の言葉ってどういう意味だろう。
朝に彼とかわした会話を、ネイトは頭の中で何度も何度も繰り返した。
4
《二回戦、第三試合を行います》
《ジール名詠学舎、ドレスエン名術校。両生徒は控え室に待機して下さい》
その放送が流れてから、もう何分経っただろう。
──ふるえが止まらない。
足先、膝、肩。身体中が小刻みに震動を繰り返して悲鳴を上げている。
「あーあ、始まっちゃったか」
ベンチに座ったままヘレンは自嘲の笑みをうかべた。
試験の直前も、何か大きな行事の時も、さっきの試合の直前だってそう。いつもいつも必ず起きる、もはやお決まりの症状だ。
極度の緊張癖──学園の友人や教師にも隠しとおしている秘密。誰より上がり症で大舞台に弱いのに、推されたら断れない。
「ドレスエンか......」
きっとクルーエルやミオ、エイダも自分の試合を待っていることだろう。
負けないから。
彼女たちにそう約束した。そのことに後悔はしていない。でも本当はわかってる。自分ではドレスエンの生徒に勝てない。一回戦の試合を見ていれば誰だってわかる。
「さぁて、どうしようかな」
昨日の場面では流れで啖呵を切ったはいいが、勝ち目は薄い。
しかし無様に負けるわけにもいかなかった。トレミア・アカデミーの生徒からも見られているこの試合、せめて彼らの期待に応えたい。
「......やれやれ、損な性格に生まれちゃったもんだよね、わたし」
ベンチに座ったまま部屋の壁によりかかる。そのまま目を閉じようとして──
じぶんのすぐそばに誰かがいることに、ヘレンはようやく気づいた。
「俺は、そうは思わないが」
流れるような銀髪をした長身の青年。
──レフィス。まさか今の呟きを聴かれた?
「あんたね、集中したいから一人にしてって言ったでしょ。そもそもあんたはイース先輩の試合を応援するって」
「イース先輩の試合が終わった。だから二試合目の選手を呼んでこいと言われた」
二試合目の選手。
それはつまり自分のことだ。
「......聴いてたの」
「ノックはしたつもりだった。返事がなかったからどうしたのかと思って扉を開けた。気にさわったのなら謝る」
「いや、そういうことなら悪いのはわたしだよ」
なるほど、考えこむと周りが見えなくなる癖は自分でも重々承知しているつもりではあったが、ノックを聞き逃すほどとなれば重症だ。
「ごめんね、悪いのはわたしなのに、レフィスにあたっちゃって」
ベンチ脇に置いていた触媒を携え、立ちあがる。
「イース先輩どうだった?」
「負けた。緊張はあっただろうが、最初から最後まで実力差があった」
「ん、まあしょうがないわね。あっちは年がら年中決闘の講義受けてる連中だから」
肩、そして腕を伸ばして柔軟体操。まるで自分のものでないように身体が重く、硬い。自覚していた以上に緊張は大きかったらしい。
「ヘレン、平気か」
「ん?」
レフィスが誰かを気遣うそぶりを見せる。彼がジールに転入してまだ数ヶ月ということを抜きにしても、それは非常に珍しいことだった。
「ふぅん、心配してくれるんだ?」
にやりと口の端をつり上げ、ヘレンは無遠慮にレフィスの顔を覗きこんだ。
「部屋に入った時、表情が苦しそうだった」
「......うん、苦しいよ。すんごい苦しい。変なストレスでお腹痛いもん」
「試合前の緊張か?」
抑揚のない口調の彼の前でしかめ面をつくった。
「いやぁ......まあそうだけど、なんていうのかな、ほら、昨日あんたが来る前にドレスエンの連中と軽くケンカしちゃってさ、そこで威勢よく啖呵切っちゃったもんだから」
「トレミアとドレスエンのいざこざに割って入った時か」
「そそ、ここで負けたらトレミアのみんなにも悪いでしょ? それがちょっと悩みの種なの。まあ自分がまいた種だからしょうがないんだろうけどさ。......やれやれ、我ながら不器用にもほどがあるって感じだよね?」
苦笑隠しの陽気な笑顔。普段のクラスメイトや友人なら、それに付きあって同じように笑ってくれたに違いない。だが──
「不器用なんかじゃない。俺は、ヘレンはむしろすごいと思ってる」
目の前の彼だけは違った。
「え......わたし、すごいことなんか一つもないよ」
「じゃあ、どうしたら他人のことまでそんな気を遣ってやれるんだ? 俺にはそれがわからない。見ず知らずの学校の生徒を庇ったり、俺が転入した時も、俺が何も言わずともジールの校舎を案内してくれたりした」
「......学校案内くらい大したことないじゃん」
トレミアの件はともかく、そんなのですごいと言われても自分が困る。そんなの当たり前のことじゃないか。
「いや、俺は感謝してる。大きな借りだと思ってる......俺は、今まで自分の師と二人だけで生きてきたから。そんなことされたこともないし、自分から他人に何かをしてやるなんて発想もなかった」
自分の師と二人だけ?
そういえば、彼は今まで自分の過去を明かしたことがない。せいぜい自分の専攻色が『Arzus』だという程度だ。教師は知っているのかもしれないが、少なくともヘレンは、ジール名詠学舎に来る前のレフィスを知らない。
「へえ、あんたが身の上話するなんて初めてだね」
「......そんなつもりで言ったわけじゃない」
むっとした表情で顔をそらす彼。いつになく幼げなその仕草が、ヘレンには可笑しくて仕方がなかった。

「あはは、わかってるよ。でもわたしだって、あんたが言うほど懐広いわけじゃないよ。トレミアとドレスエンのケンカに割って入ったのも単なる気分だしさ」
でも、それで良かったと思う。自分の気持ちに素直に行動するのがきっと一番いい、その上で他校の友人がたくさんできたのだから。
「んじゃ、行ってくるよ。すんごい豪快に負けてくるかもだけどね......その時は、せめてあんたが勝ちなさいよ? 期待してるんだからね?」
「──ああ、俺が何とかする」
「いい返事じゃない」
うなずく彼に、ヘレンは小さくウインクした。
5
「いやー、負けた負けた。ごめんねみんな」
「あ、ヘレンちゃん!」
段状になっている観客席を降りてくる彼女、まずミオが手を振った。
「おつかれさま。残念だったね」
心中、クルーエルはほっと胸をなでおろした。ヘレンが決闘舞台から退場して間もないが、今ここにいる彼女を見る限り大きなケガもないらしい。
「うん、でも残念ではなかったかな。思いっきりやれたし」
「そだね。名詠校同士の交流行事なんだし、楽しいのが一番だとあたしも思うよ。ただ、あれはちょっといただけないけどさ」
決闘舞台に最も近い、観客席の最前列をエイダが睨む。
そこに陣取るのはドレスエンの生徒たちだ。ヘレンも善戦したのだが結果としては黒星。一番手のイースという生徒、そして二番手の彼女。これで〇勝二敗、ジール名詠学舎の負けが確定した。目的が交流である学生決闘は三人目の試合も行われるというのに、ドレスエン陣営は既に二回戦勝利を祝っているらしい。
「本当だ、まだ三人目の人も残ってるのに。マナー悪いね」
口を尖らせるミオに、しかしヘレンは普段と変わらぬ笑顔のままだった。
「ううん、いいんじゃない。むしろ望むところだよ。あのいやらしい応援も全部、きっとレフィスが黙らせてくれるから」
レフィス?
「そういえば彼って一回戦出てなかったね。二回戦は出るの?」
「うん。もともと一回戦は上の学年の先輩優先だもん。あいつはついこの前転入してきたばかりでしょ、だから出るのは二回戦からってことになってたの」
《ジール名詠学舎、ドレスエン名術校。ただ今より三人目の試合を行います》
割れんばかりの喝采に会場が震えた。
轟く喝采がひとしきり収まるのを待って、クルーエルは。
「ねえヘレン、レフィスの専攻って『Arzus』って言ってたよね」
五色の名詠のうち、決闘に向いているとされるのが『Keinez』と『Ruguz』。逆に『Arzus』は攻撃的な名詠生物が少ない。決闘では難しい色とされる。
「クルーエルの言いたいことわかるよ。でも見てなって、あいつのはすごいんだから。ちょっと変わってるの」
観客席の通路にヘレンが直接腰を下ろす。
「変わってる?」
「うん、転入した時ね、あいつは自分の専攻を『Arzus』って言ってた。だけど何かが違う。とても似てるけど、あいつが詠びだすのは──」
その先は、会場の歓声で聞こえなかった。
決闘舞台に設置された二つの入場口から、それぞれ現れる三番手。
一人は濃緑色の制服を着た学生だった。癖のある茶髪の、背の高いドレスエン生徒。忘れもしない、昨日自分たちに絡んできた男子だ。
そして、もう一人。ジール名詠学舎の制服を着た銀髪の青年。しかし彼の姿に、会場中の生徒、そして名詠士がまったく同時に息を呑んだ。
完全な無防備。
彼は、たった一つの触媒すら持っていなかった。







地響きのような歓声、そして息が詰まりそうになるほどの勢いの前拍手。
......そういえば、こんなに多くの他人から同時に見つめられたのは初めてだな。
全方位を囲む観客席をレフィスは見上げた。いったいどれだけの人数がいるだろう。数百、千を数えるかもしれない。
ずっと、自分はたった一人の老人と暮らすだけだった。それからすれば、ここまで多くの人間に注目されるという経験は初めてだ。
「ヨシュア、俺にはまだわからない。俺はどうすればいいのかな」
かつて自分の下を去っていった老人の名を口ずさみ、競闘宮の決闘舞台中央へ。
決闘舞台は直径五十メートルほどの円形。
地面は砂地、舞台端には高さ五メートルほどの石壁が舞台にそってそびえ立っている。
決闘舞台と観客席の構造はちょうどすり鉢状だ。すり鉢の底が決闘舞台、それより上が観客席、高さで言えば観客席の最前列がちょうど石壁の真上にあたる。いずれも決闘の飛び火が観客席におよばないための仕掛けである。
しかし自分の姿を見るや、審判役の名詠士が駆けよってきた。
「君、名詠式の触媒は? 忘れたのかね?」
「ある、心配いらない」
「だが見たところ──」
「不安なら、危ないと思ったらいつでも試合を止めてくれ。それならいいだろ?」
審判が何か言う前にレフィスは自ら歩を進めた。
ドレスエンの制服を着た相手の正面へ。
「おい、触媒はどうした」
そう告げる相手の両手には既に名詠用の触媒。制服のベルトにも触媒をセットするホルダーがうかがえた。
「必要ない」
「......は?」
「それより、ヘレンたちが世話になったようだな」
眉をひそめる相手にかまわず、レフィスは観客席を視線で示した。
ぐるりと自分たちを取り巻く広大な観客席。そのどこにヘレンがいるかはわからないが、必ず彼女も見ているはず。
「ん? ああ、さっきの二試合目の女か。昨日あれだけ大口叩いたくせに、とんだお笑いもんだったよな。お前もそう思うだろ? 明らかに勝負がついてるっつうのにまだ降参しねえのかっての。挙げ句の果てに、審判に無理やり止められるなんて恥知らずときた」
「そうだな、試合は完全にヘレンの負けだ。だが──」
すっ、と双眸を細める。それは威嚇でなく、相手の一挙一動を見逃さないためのもの。
「ヘレンは敗者じゃない。あいつは、俺や師にないものを持ってる気がする」
「は?」
「だから俺も、そんなあいつが嫌いじゃない」
吹き荒れる風。
こんな風が吹くたび、あの男の口癖を思いだす。
〝好い風が吹いてきたじゃないか、なあレフィス?〟
......ミシュダル、あんたのことは大嫌いだが、今だけは同感だ。
──始め!──
審判のかけ声と同時、相手が自分から距離を置くように後方へ跳躍。
「おい、お前。だから触媒はどうした」
それに答えぬまま。
「二分、お前にくれてやる」
観客席にまで響き渡るよう、レフィスは声を張り上げた。
「それまで好きにかかってこい、俺はそれが終わってからでいい」
「っ、いい加減にしやがれ!」
右手の触媒が赤く発光。
炎が飛来、右肩めがけ襲ってくる赤の飛礫を、レフィスは身体を捻って回避した。
ジッ......
炎が肘先を掠め、背後の壁に火の粉を撒き散らす。
「なんだぁ? おい、そんなのも躱しきれねえのかよ」
「ご託はいい。それよりあと九十秒だ」
「......てめえ」
相手の持つ炎が一層強烈な光を放つ。触媒から炎を名詠し、さらにその炎を触媒としての二段がまえの名詠式。二度名詠を行う点で時間を食うが、これにより詠ばれるものは強力な名詠生物であることが多い。
「『Keinez』は決闘向きの名詠が多い。常套だな......で、何を詠ぶ?」
「てめえなんかが見たこともねえ奴だよ!」
猛る炎の中、一匹の真っ赤な巨鳥が翼を広げて飛び立った。
金色の眼、そして折れ曲がった嘴。炎を纏う翼が羽ばたくたび、無数の火の粉が舞う。
「──火食い鳥か?」
奇妙な叫び声を上げる巨鳥をレフィスは見上げた。
赤の第二音階名詠。幻の名詠生物とされる黎明の神鳥とも見間違えられることもある、希少性の高い名詠生物だ。
「で、どうするんだお前はよ! このまま降参てか?」
「二分だ」
制服の肘先、炎が掠めて焦げついた部分の繊維をちぎり取った。
そう、炎によって炙られ、わずかに灰となった部分を。
「俺の知り合いは、この色を最強の攻撃色だと誇っていた。だが師は、俺にそれは違うと言った。なぜなら」
怪訝な表情で見つめる相手、そして審判にかまわず。
「灰色は、最強の防衛色だからだと」
レフィスは、灰となった服の繊維を頭上に掲げた。
──『Isa』──
瞬間、客席を除く競闘宮の舞台会場を、大量の灰燼が埋めつくす。あまりに濃い灰の風。視界はおろか、吸いこめばむせ返るほどの濃度だ。
レフィス、審判、ドレスエン生徒の姿がまたたく間に灰の渦中。観客の目からも完全に隠れる。
視界が閉ざされ、かろうじて聞こえてきたのはドレスエン生徒の咳声だけだった。
「......っう、げほっ、なんだ......ってんだ」
やがて風が静まり、周囲を舞う灰がゆっくりと地面に積もっていく。視界が徐々に鮮明になっていく中で──
一人、また一人。
決闘会場の光景に気づき、観客が声を失っていく。
灰色の、巨岩を人の形に接合したような巨岩像が二体。そのうちの一体が、たった今名詠されたばかりの火食い鳥を両手で地面に押さえつけていた。
灰色の小型精命、王に傅く子。
火食い鳥が暴れて火を噴こうとしても、その嘴を直接手で握りしめる。燃える翼が触れたところで、巨岩で構成された身体には効果が薄い。
「状況、理解したか?」
もう一体の巨岩像の肩に乗り、レフィスは相手の学生を見下ろしていた。
「......っ......噓......だっ......ろ」
「噓だと思うなら好きにしろ、だがヘレンの負けはこれで相殺だ」
ジール名詠学舎、一勝二敗。
二回戦敗退。
間奏第二幕『四年前 ─そして三年前─』
それは、もうどれだけ前のことだろう。
嵐の前夜。
濛々と立ちこめる黒雲は突風に流され、頭上で奇妙な渦を作る。ぽつん、ぽつんと落ちる雨。それら全てが、驟雨に見舞われる前ぶれだった。
まばらな草、細い樹木が点々と生える地。
そんなとある草原。たった一本の、雨よけとなる巨木の下で──
「ヨシュア、こんな嵐の中どこに行くんだ!」
銀髪の少年が、自分に背を向ける老人に向かって叫んでいた。
「やだ、置いていくな! ずっと一緒にいてくれるって言ったじゃないか!」
大樹の影を越え、ぽつんぽつんと雨を受ける老人。
「敗北は感染する」
その老人が告げたのは本当に短い一言だった。
「敗者と共にいれば必ずお前にも感染るだろう」
押し黙る少年へ、老人は。
「だからここに置いていく。お前がその病に耐えうる強さを得られるまで」
「......それまで、ここで俺一人で生きていけっていうのかよ!」
「そうだ」
あまりにあっけなくうなずく老人に、少年はぐっと奥歯を嚙みしめた。
「ラスティハイトを捜しにいくのか?」
沈黙するその老人に向け、少年がさらに追及する。
先より小さい声、だがその声は先にも増して強かった。
「......なあヨシュア、どこへ行くんだ」
「もう一人の伝えるべき相手に、伝えに行く」
老人の不可思議な答えに、少年が小さく眉をひそめる。
「もう一人?」
「──夜色名詠の詠い手だ」
「夜色?」
「そう、それは勝者でも敗者でもない詠だ」
理解できなかった。
だから、少年はただ与えられたその言葉を反芻するだけだった。
「レフィス、人はいつ敗者になると思う?」
老人の問い。それは今まで何度となく繰り返された問答だった。
「......勝負に負けた時」
「違う」
老人の返事はいつも同じ。どんなに少年が答えを変えても、決して老人がうなずくことはない。それは最後の別れの、今この時まで同じだった。
「じゃあ何なのさ」
「あいにくと、敗者から言うべきことではない」
乾いた笑みを浮かべ、老人が首を横に振る。
「レフィス、お前は......私のようにはなるな。私やミシュダルのようにはな」
その一言が、老人の告げた最後の言葉だった。







人の骨片にも似た色の、灰色の砂利が際限なく続く土地。
死者の亡き声すら想わせる、低く重苦しい風鳴り。突風に吹かれ、足下の砂利が肌に叩きつけられる。──旅人すら滅多に訪れることなき、人の吐息の届かぬ荒野。
その荒野にただ一人、濡れ羽色の髪の女性がじっと佇んでいた。その背を守るように寄りそうのは、女性の髪色と同色の巨大な竜。山のような巨体にもかかわらず、こちらも岩のように押し固まったまま微動だにしない。
微動だにしないまま──その女性と竜がそろって見つめるのは、自分たちの正面に立つ老人だった。
黄砂色のローブを頭から羽織った、背の低い老人。
老人は、自らの名をヨシュアと名乗った。
「......ではイブマリーよ、あなたはこの先どうなさるつもりですか」
「わたしは、もうあまり生きられない。あなたと同じでね」
自らの胸元に手をあて、その女性が目を閉じる。
「まさか病をお持ちで?」
彼女は答えない。
答えないことが何よりも明らかな答えだったから。
「だから、わたしは──」
女性の声がふと途切れ、代わって荒野には子供の泣き声が響いた。
老人が振り向くそこに、夜色の髪をした子供の姿。
「おかーさん!」
とてとてと走って泣きつく子供をその女性がそっと抱く。いつの間にか巨大な竜は姿を消し、小さな夜色のトカゲが足下に隠れるように潜んでいた。
「......なんと」
その光景に、ヨシュアは思わず声を上げていた。
まだ二十代中頃の女性が、十歳近くの子供。彼女が一人でこんな荒野にいたこともかんがみて、夫となる人物がいるとは考えにくい。おそらくは孤児を拾い育てたのだろう。
「その子の名を、お聞きしてよろしいかな」
子供をあやす女性の呼吸を見計らい、訊ねた。
その質問に大きな意味はない。ただ単なる、ヨシュアにとっての好奇心だった。
「ネイト」
Neight───セラフェノ音語における『夜明け』。
なんという皮肉か。彼女の夜色名詠とまるで逆の意味。自らの子になぜそのような名を授けたのか。......いや、それは訊くまい。
このイブマリーという女性は、ただ思いつきの名を我が子に与えるような者ではない。ならばそれを、ネイトという子本人の前で訊ねるのは無粋でしかないだろう。
それに、やれやれ。
まったく珍しいものを見たものだ。まるで他人を突き放したような雰囲気の彼女に、こうも母親らしき優しげな一面があるとは。
「実は私も一人、孫のような弟子がおりまして。この場で紹介できないのが残念です」
「たとえ今じゃなくても、わたしたちがお膳立てせずとも、いつか出会うかもしれない」
「はい」
そう、きっと出会う。そんな気がする。
......レフィス。お前は、お前だけは私やミシュダルのようにはなるな。
願わくば、どうかこの母親と子のように、愛に──
それが、三年前。
四奏『灰色』
1
「......うそっ......なんで、レフィスさんが!」
拳を握りしめ、ネイトは転げ落ちるような勢いで階段を駆け下りていった。
観客席最上段から地下の控え室へと続く通路まで。急勾配の階段を下り、直線通路を疾走。息が上がり、肩が激しく上下する。
それでもなお、足は決して休むことを知らなかった。
「だって......あれは、灰色名詠じゃないか!」
ミシュダルだけの名詠色だと思っていた。それがなぜ、あんな一名詠校の生徒が。しかもあれだけの技量、学生決闘などという範疇を明らかに超えている。
まさかミシュダルの仲間?
いや、もしそうなら、決闘の時点であの相手生徒と審判を人質に取るくらいはしていただろう。その程度のことは容易だったはず。彼がミシュダルの仲間だという線は薄い。だが全くの無関係とも思えない。
「ネイトっ!」
不意に、背中を呼び止められた。
観客席に続く別の階段から響く足音。駆け下りてきたのは緋色の髪の少女だった。
「クルーエルさん?」
「よかった......試合中も探したんだけど見つけられなくて。でも何とか合流できたね」
息を整えるようにクルーエルが深呼吸を繰り返す。
「キミも見てたよね、レフィスの試合」
「はい。最上階で見てたけど、慌てて降りてきました。他の人は?」
「ヘレンはエイダやミオと一緒、わたしだけ先に来たの。......控え室って地下でいいんだよね」
「そうだと思います。レフィスさん、試合終わってすぐ舞台からいなくなっちゃったから」
しんと静まりかえった通路を駆ける。
自分たちの他に人影は皆無。大半の生徒、関係者が会場に残っているからだろう。
「この先がジールの控え室?」
クルーエルにうなずき、ネイトは速度を落とさぬまま通路の角を左折した。
──コツッ──
通路にこだまする小さな足音。......この足音は。
「レフィスさん!」
遠い遠い視界の先、小さな人影が確かに振り向いた。
肘先の焦げた制服をまとう、銀髪の青年。
「ネイト、それにクルーエルだったか?」
無表情を常とする彼が、驚いたようにわずかに目を見開いた。
「......レフィスさん、一つだけ訊きたいことがあるんです」
「訊きたいこと? それだけのためにわざわざ控え室まで来たのか」
「お願い、どうしても訊きたいの」
クルーエルの瞳を正面から受け、やがて彼が息をはいた。
「俺が答えられるものならな。で、何だ」
「レフィスさんは、誰から灰色名詠を教わったんですか」
「なに?」
ネイトの言葉に、初めて彼の無表情に罅が入った。
「ミシュダルから? それとも、まだ他の誰かがいるんですか?」
「......なら、先に俺の質問に答えてくれ。なんでお前たちが、灰色名詠とミシュダルを知っている?」







「やれやれ、まったく派手にやらかしてくれたわね」
いまだ決闘舞台に残る大量の灰燼。それを客席の最上段から見下ろし、シャンテは苦笑混じりに肩をすくめた。
「あのレフィスという子、自分が何をしたのかわかってるのかしら」
あれは白色名詠だ──実況役の名詠士はとまどい顔で解説しているが、自分たちごく一部の人間の間では、あれは別の名で呼ばれていた。
すなわち、灰色名詠。
ミシュダルという名の詠い手が引き起こした、〈孵石〉にまつわる一連の事件。
その調査にあたっていたのが他ならぬ〈イ短調〉。とりわけシャンテとネシリスは、ミシュダルの追跡という最前線の任務に当たっていた。
「もしあの子がミシュダルの仲間なら、あの子もこの場で捕まえなくちゃいけないけど、どうするの?」
「要、事情聴取といったところか」
舞台の灰を凝視したまま、ネシリスがその口元だけをわずかに動かす。
「もし抵抗、あるいは逃亡を企てたら?」
「その時はその時だな」
「喋る体力が残る程度には手加減してあげてね?」
シャンテの手のひらに転がる、小さな翡翠色の小石。
「まったくネイト君たら、いきなり走っていっちゃうんだもん」
「行き先は一つだろうな」
「ああいう無鉄砲ぶりは嫌いじゃないけど、大人になったらカインツみたいに変な放浪癖がつきそうね」
うっすらと淡い光を放つ小石。
手のひらに掲げたそれが、ゆっくりと宙に浮いていく。
──おいで、わたしの緑風妖精──
競闘宮に、歌后姫の魔性の声が静かに浸透していった。







控え室に続く裏口をこえ、その先には小さな屋内庭園があった。
「灰色名詠の基礎理論を構成したのはヨシュアという老人だ。俺は、そのヨシュアに育てられた。どこかの親から預かったのか、あるいは孤児だったのかは聞いてない。ヨシュアは話そうとしなかったし、俺も聞かなかった」
庭園の小さな噴水。
その縁に身体を預けた恰好でレフィスは続けた。
「もともとヨシュア自身は、自分の名詠を灰色とは言っていなかった。そう呼んでいたのはミシュダルだ。時々ヨシュアと俺の下に現れては灰色名詠を披露する。後で知ったことだったが、ヨシュアが理論を描き、ミシュダルがその理論に修正を加え実践する──そんな間柄だったらしい」
ヨシュアという老人が灰色名詠の設計、そしてミシュダルが実践。
名詠式は理論が確立していてなお、完全に習得するには一色につき十年かかると言われている。それを踏まえるなら、その方法は賢明と言えるかもしれない。
「二人の目標は灰色名詠の真精、灰者の王を詠びだすこと。だがそれを遂げる前に、ヨシュアは突然俺の前からいなくなった。それが四年前だ。それをきっかけに、ミシュダルは暴走を始めた。もともと限界的な精神状況の中で、ヨシュアがその一線をぎりぎりでつなぎ止めていたような男だったから、それもふしぎではなかったけれど」
ミシュダルの狂気じみた笑み。
それが嘲笑と自嘲が入り混じったものであることは、対峙した者なら自ずと感じ取れること。今思えば、あの男を最も嘖んでいたのは、あの男自身だったのかもしれない。
「俺はミシュダルとは別にヨシュアを捜していた。けれどその途中で、ヨシュアの創った〈孵石〉を狙ってミシュダルが研究所を襲撃している事件を知ったんだ。......俺はあいつを止めたくて、ずっと追いかけていた」
「レフィスさんは、ずっとミシュダルを追っていたんですか」
無言で彼が首肯する。
つまり彼は、四年前からずっと追っていたことになる。
「ケルベルク研究所のフィデルリア支部。俺は一度そこでミシュダルと対峙した。......だけど勝てなかった。止めるどころか、あの研究所から脱出するだけで精一杯だった」
ケルベルク研究所の名に、ネイトは顔をあげた。
「......僕たちが灰色名詠を知ったのもそこでした」
あの時初めて祓名民という言葉、反唱、そしてエイダの強さを知った。と同時に、今の自分自身の無力さを痛感することにもなった。あの時の悔しさがあったから、空白名詠の浸透者とも戦うことができたと今でも思う。
そしてつながった。
フィデルリアでの夏期合宿。あのケルベルク研究所支部から立ち去る際、なぜミシュダルがああも巧妙な罠を仕掛けていたか。
それは、レフィスが再び研究所に戻ってくる可能性を踏まえてのこと。
「ケルベルクのフィデルリア支部、そうか......あの場に居合わせたわけか。それで灰色名詠と〈孵石〉をお前たちも」
同じことを考えたのか、レフィスの声が一瞬途切れる。
彼ならば石化した研究員たちも治療できる。しかしあの場ですぐに治療されては、自分の計画が明るみに出る時間が早まってしまう。それを怖れたのだ。
「あの研究所から脱出した俺は、次にミシュダルが狙う場所をいくつか予想した。そしてそのうちの一つがジール名詠学舎だった」
つまりミシュダルからジール名詠学舎を守るために、レフィスは転入を?
「勝てるとは思ってない。だけど時間稼ぎをすれば、名詠学舎の教師も加勢に回ってくれるとは考えた。研究所ではまともに戦えるのが俺一人だったし、俺一人じゃあいつに勝てないことはわかっていたから」
言葉に出さずともつうじたのだろう、乾いた笑みをレフィスがこぼす。
「でも、ジールを留守にして学生決闘に出てるのはなぜ?」
「学生決闘は目的じゃない。この後だ」
クルーエルの指摘に彼が首を横に振る。
学生決闘の後......つまり。
「エンジュの触媒披露会?」
「俺の耳に届くくらいだ、当然ミシュダルも承知のはずだからな。あいつの性格からすれば、警備が厳重なほど嬉々として狙うと思ったんだ」
......そっか、レフィスさんはまだ知らないんだ。
大陸中の研究所を震撼させた、灰色名詠の襲撃。その一連の事件は、ミシュダル本人の捕縛によって既に終わっている。が、それはあくまで事件に関与した者のみが知ること。
それを知らない彼は、まだたった一人で戦っていたのだ。張りつめた緊張、だから他人ともろくに会話をかわす余裕もなく──
『ふーん、なるほど。灰色名詠ってそんな複雑な背後関係があったんだ』
──シャンテさん?
にわかに庭園に響く声に、ネイトは周囲を見回した。
「今の声って......」
間違いなく歌后姫の声。でも庭園のどこにも姿は見えない、いったいどこから。
「〈イ短調〉のシャンテ、魔性の声を持つ緑色名詠の詠い手か。音響蝶を好んで使うとは聞いていたが、まさか屋内庭園に最初からそれを配置していたとはな」
レフィスが睨みつけるのは花に留まる三匹の緑蝶。
......まるで気づきもしなかった。まさか、この蝶が音響蝶だったなんて。
『惜しいわね。わたしが音響蝶を使うのまでは正しいけど、その後はハズレ』
コツッ、と乾いた足音が通路に響いた。
足音に続いて庭園に入ってきたのはシャンテ、ネシリスの二人。さらにはその後ろにエイダ、ミオ、ヘレンの姿まで。
「まったくネイト君たら、いきなり走りだすんだもん。仮にもあなたたちのこと頼まれた身にもなってほしいわね」
「シャンテさん、どうやってここが?」
控え室からこの屋内庭園までは多少なりとも距離がある。この広大な競闘宮で、どうやってこの短時間にこの位置が?
「あ、それはこの子のおかげ」
彼女の背後に浮かぶおぼろげな緑色の霧。最初は目の錯覚かと思ったが──
「緑風妖精でこの競闘宮をくまなく走査、俺たちの場所を特定したら音響蝶を放って会話を傍受か。徹底してるな」
「気を悪くしないでね。〈イ短調〉としても灰色名詠にはほどほど手を焼かされたの。ミシュダル以外の詠い手なんて知らなかったわけで、警戒したくもなるわよ」
露骨にレフィスが顔をしかめる。
一方で、対峙するシャンテはしとやかな笑顔を崩さぬまま。
「あ、あの、シャンテさん。レフィスさんは──」
言い終えるより先、彼女のおどけた仕草に制された。
「はいはーい、わかってるわ、話はあらかた聞かせてもらったもの。それで、どうしよっかネシリス?」
「参考程度に話を聞く。それをクラウスに伝える程度だろうな」
しかしレフィスの視線はその二人でなくその後ろ、ネシリスの背に隠れるようにして立つ少女へと向いていた。
「ヘレン、お前も聞いてたのか」
「......うん、ごめんね。盗み聞きみたいで」
弱々しくうなずくヘレンに、レフィスは返事をしようとはしなかった。
「それじゃあレフィス君、ちょっといいかしら。申し訳ないけど、残りの子は宿舎に戻って待っててもらえるかな」
2
エンジュ公営宿舎──
「ただいま」
あてがわれた部屋の扉を開け、クルーエルは部屋で待っていた友人に声をかけた。
「おかえり、長かったね」
「うん、ちょっと話しこんじゃって」
弾みをつけ、ベッドに仰向けに寝転がっていたエイダが身を起こす。
エイダの指摘どおり、窓の外に映る空はとうに漆黒に塗りつぶされた後。宿舎で決められた就寝時間までもう間もない。
「ミオは?」
「さっきまで待ってたけど、身体が冷えちゃったってお風呂二度目中。まだもう少しかかるんじゃないかな」
「......ヘレンやっぱり驚いてた。レフィスって、ジールに転入してもまるで自分のこと話したことがなかったんだって」
クルーエルがつい数分前までいたのはヘレンの泊まる部屋だった。灰色名詠のことも何一つ聞かされていなかった彼女は、やはりそれなりにショックを受けていた。
「そりゃそうだろうね。灰色名詠とか話したって普通の子には信じてもらえないだろうし、レフィスにしたら自分の同門にミシュダルなんて危険人物がいたんだもん。話す方が不用意だよ」
ベッドの上にあぐらをかいた姿勢のエイダ。
気楽な体勢、少なくともクルーエルにはそう見えた。だが──
「ねえクルーエル、なんでレフィスはわざわざ灰色名詠を使ったのかな」
ふと、そんな彼女の声音が変化した。
「既にジールは二敗してた。あそこでレフィス一人が一勝したってドレスエンの勝ちは確定してる。なのに、なんでかな」
「......さっきヘレンもね、同じことわたしに訊いてきたよ。『あのバカ、自分の名詠がそんな危なっかしく思われてるなら、使うことなかったのに』って」
観客席の何百何千という視線が集う中。
ミシュダルが大陸で起こした騒ぎを知っているなら、今ここで灰色名詠を披露することがどれだけ危険なことかもレフィスには分かっていたはず。最悪、弁解の余地もなく留置所送りになっていてもおかしくなかった。
「で、クルーエルはなんて答えたの?」
「......ヘレンのためなんじゃないかなって」
負けたヘレンの代わりに、レフィスは灰色名詠を使ってまで勝つことを選んだ。
彼の行動理念が今もクルーエルにはわからない。だがどう考えても、それ以外思い浮かばないのだ。
「クルーエルはそれをどう思う」
「どうって?」
「レフィスの後先考えない行動。ばかだと思う? それとも格好いいと思う?」
「......わかんないよ。むしろわたしがエイダに聞きたいくらいだもん」
「あたしだって同じさ。いや、もしかしたらあんたより重症かもね。あたしは、彼氏に何かしてもらう時の気持ちって全然知らないから」
うつぶせでエイダが寝転がる。
枕に顔を埋め、彼女はさらにそれをぎゅっと抱きかかえていた。
「ねえクルーエル、女の子が男の子に守ってもらうのってどんな気分なの? やっぱり嬉しいの?」
「嬉しいかなんて、そんな......」
数ヶ月前に自分が昏睡状態に陥った時、ネイトが自分を護るため一人で空白名詠の名詠生物と戦った──それはミオから聞いたことがある。その時の礼を言おうとしても、ネイトは恥ずかしがって逃げてしまうけれど。
「でもエイダ、どうしたのそんな突然」
普段の彼女ならそんなこと絶対訊いてこない。
「......あたしらしくないか。そうだよね、やっぱクルーエルもそう思う?」
「そんなわけじゃないけど、でも珍しいなって」
言葉が思いうかばず、クルーエルは思ったままを口にした。変に言葉を取りつくろって励ますのは、苦手だったから。
「どうなんだろ、ちょっとだけ羨ましいかも。あたしトレミア来るまで、ずっと親父とかルフ爺とか男連中に囲まれてて、逆にそういうの無頓着だったから」
癖のある亜麻色の髪をエイダがくしゃっとなで回す。手で梳くというより、搔きむしるといった方が正しいくらい乱雑に。
「あたし、生まれた時から親父から鎗の手ほどきばっか受けてきたからね。十何年かな。それこそ風呂に入る時以外はずっと鎗持ってたもん。......そんなんだから周りにいるのも男ばっかで、それに慣れてたからあたしも自分は男だって割りきってた。だってほら、祓名民ってやつは男女なんて区別ないからさ」
その認識が変わったきっかけは、おそらくトレミア・アカデミーへの進学だろう。男女共学の名詠学校に進学し、初めて彼女は女子生徒という立場になった。
今までいなかった同性の友人。彼女たちに囲まれ、エイダはようやく、自分もまた一人の少女であることを自覚した。
「祓名民は守る側、だから誰かに助けてもらうことを期待してはいけない──耳が痛くなるくらい何度も何度も聞かされてきた。......そんなあたしから見たら、今のあんたとちび君とか、ヘレンとレフィスってやっぱりいいなって思う」
枕に顔を埋めたまま、くぐもった声をエイダが重ねる。今まで見たこともないくらい、それはとても弱々しい姿だった。
「あの......エイダ、わたしとネイトは別にそんな──」
「あ、悪い、言い方が良くなかったね。別に僻んでるわけじゃないよ。純粋に羨ましいなって思うだけ」
顔を起こしてエイダが空笑い。いつもの笑顔を頭で覚えている分、その空虚さはひどく痛々しかった。思わず目を背けたくなるほどに。
......でも本当に、エイダにはそんな相手がいないの?
だってあの人は──
「アルヴィル」
「ん?」
「あのね、アルヴィルって人はエイダの知り合い?」
クルーエルがその人物と出会ったのは二ヶ月ほど前のこと。トレミア・アカデミーで、ネイトと歩いていた時に突然話しかけてきた祓名民の名だ。
〝あんたらのクラスにいるエイダの、知り合いの男ってことにしておいてくれ〟
あの男の口ぶりからも、エイダと何か関係があることは想像にかたくない。
「......クルーエル、あいつと会ったんだ。トレミアで?」
枕を抱きしめたまま、エイダが横顔だけを向けてきた。
「ごめんね、今まで言い損ねてて。それにちょっとプライベート的な雰囲気だったから」
「ううん。あたしには顔見せないとこがあいつらしいなって」
深い吐息、肺の呼気全てを吐きだしてもまだ足りない。それほど深い吐息がエイダからこぼれた。
「アルヴィルって人はエイダの幼なじみなの?」
「まさか。......でも、なんだろう。昔から一緒にバカ騒ぎに付きあってくれて、そのたびに親父から一緒に怒られて一緒に殴られてた。そんな奴だよ」
思い出を語るような懐かしみはそこになく、その声から感じとれたのは荒涼とした哀愁だけ。少なくともクルーエルにはそう見えた。
「ねえクルーエル、あいつ、まだ首にネックレスしてた? 銀色で、いかにも安物って感じのネックレス」
ネックレス?
あの男と出会った時、どうだっただろう。いや、でも確か──
「えっと、うろ覚えだから自信ないけど、してたかもしれない」
「......そう」
枕を抱きしめる手に、エイダが再び力をこめた。
「あのバカ、まだあんな安物にこだわってるんだ」
3
冷たく澄んだ空気。
綿が千切れたような灰色の雲が、ぼんやりと流れていく天上。見上げれば吸いこまれそうな空を、ネイトはぼんやりと眺めていた。
「ねえアーマ。トレミアで見るよりもね、星が遠く感じる」
『ここは夜も都市の明かりが強いからだろうな』
「......うん」
星が遠い。だからこそ、ネイトが選んだ場所は宿舎の三角屋根の上だった。
バルコニーから三角屋根によじ登り、その頂点部分に腰を下ろす。少しでも高い場所に上がれば、少しでも星が近くに見える気がしたから。
「それよりアーマ、ごめんね。競闘宮にいる間はじっと宿舎で待ってもらってて」
『構わん、トカゲと間違われるよりはいくらかマシだ』
「あはは、そうだね」
膝に抱えた名詠生物、そのごつごつした背中を撫でてやる。ひんやりと冷たい手触り。もう何年も慣れ親しんだ感触。
「今日は待ってくれてる間、宿舎の部屋で何をしてたの?」
『......少し考え事をな』
「難しいこと?」
『いや、簡単なことだ。お前に伝えたいことを伝えるべきかどうか。伝えるとしたらどこまで伝えていいのか──その区切りを考えていた。結局迷ったままだがな』
アーマの告げる言葉は時として要領をえない。それはネイトにとっては珍しいことではなかったが、今日のアーマの言葉はそれがいっそう顕著だった。
「よくわからないけど、全部伝えるっていうのはだめなの?」
『全てを伝える......か。それができていれば、アマリリスはああも苦しんでいなかった』
──アマリリス?
それは、あの真っ赤な花の名前? いや違う。言葉の流れを考えれば、それは紛れもなく人の名前。だとしたら、それはまさか。
「ね、ねえアーマ。それって」
膝元のアーマを抱き上げようとした時。
カタッと音を立て、三階バルコニーの扉が開いた。
「屋根なんかに上ってるのか、ずいぶん行動的なんだな」
流れるような銀髪をした青年が呆れたような面持ちで見上げてくる。
「レフィスさん、事情聴取終わったんですか」
屋根からバルコニーへと降りようとすると、彼は無言で首を横に振った。
「そのままでいい、どうせ俺はすぐ部屋に戻る」
「......あ、はい」
「正直もっと絞られると思ってた。質問も多くなかったし、むしろ俺からあの二人に訊ねたことの方が多かったくらいだ」
バルコニーの手すりに背を預けるレフィス。夜の風にあおられ、その吐息は白くにごっていた。
「お二人にどんな質問したんですか」
「......そうだな」
返事の代わりであるかのように、じっとこちらを見上げる彼。
彼の視線は、僕──いや、アーマ?
「膝に乗せているのが夜色名詠の名詠生物か?」
「えっ?」
なんで僕とアーマのことを。
いやそれより、夜色名詠だなんて僕は今まで一言も彼に教えてないのに。
「あ、あのですねっ、これは」
「シャンテが教えてくれた。......考えもしなかった、あいつが既に捕まっていただなんて」
安堵の表情ながらも、しかし彼の声にはどこか寂しげなものが混じっていた。
「ミシュダルは、今は司法院で取り調べを受けているらしい。それも、これといった反抗的な態度もなく。それは正直、俺の知る狂気まみれのミシュダルには考えられない」
やりきれない想い。
道を違えたとはいえ、数少ない同門だったことには違いないのだから。
「──すまない」
にわかに、レフィスが頭を垂れた。
「シャンテが言っていた。ネイトがあいつを止めてくれたんだって」
「......そんな、止めただなんて大げさです」
ネイト自身、ミシュダルを止めたという実感は微塵もない。なぜならそれは、結果的にそうなったというだけなのだから。
「それに僕だって、あの時は別のことで頭がいっぱいだったし」
あの時自分が何より願ったことは、昏睡したクルーエルの意識が戻ること。そのためにできることを模索するうちに......気づいた時には、ミシュダルとも対峙していた。
「いや、それでも俺から見たら止めてくれたことに変わりはない」
かすかに口元をゆるめ、レフィスがそっとうなずいた。
「シャンテから聞かされた時は、正直信じられなかった。だけど今、お前の抱いている名詠生物を見てなんとなく伝わってきたよ。......夜色名詠か、ヨシュアの言ったことは本当だったんだな」
夜色名詠をヨシュアという老人から聞いていた?
──僕は、そのヨシュアという人とは面識がない。じゃあ、そのヨシュアという人が出会ったという夜色名詠の詠い手は、母さん?
「あいつは、たとえ押さえつけることはできても止めることはできない。長年あいつを見てきた俺ですらそう信じて疑わなかった。どうすればあいつの狂った憤りを救ってやれるのか、今もわからないし、わかっていても俺にはできなかったと思う。......だから、ありがとう。あいつを止めてくれて」
「でも......それは僕一人じゃなくて、色んな人が助けてくれたからですし」
自分一人に礼を言われても、それはあまりにも責任重大な気がするのだ。
嬉しいけれど、恥ずかしい。
そして同時に、レフィスに持っていた印象が少しだけ変わった。人に向かってここまで素直に礼を言える。それは社交性とはまた別の、心の優しさが必要となることだから。
「そうか......いい仲間がいるんだな」
「はい、それは本当です」
と、彼は突然、何かを思いだしたように手を打って。
「仲間といえば、ヘレンがさっき言ってたな。昨日の雰囲気を見たかぎりではネイトの意中の人物があの三人の中にいそうで、特に本命がクルーエ......お、ネイト、急にバランスを崩すと危ないんじゃないか? 屋根から落ちるぞ」
「落ちそうにしたのは誰ですかっ!」
屋根瓦をかろうじて摑み、ネイトは必死に這い上がった。
「まあヘレンの独り言だったわけで、気にするな」
......ああ、どうしよう。
僕、レフィスさんの印象がますますわからなくなってきた。
「そういえば明日の披露会、俺も参加することになりそうだ」
手すりから身を起こし、レフィスが周囲の風景をじっと見下ろす。
「〈孵石〉の触媒のことですか」
でも明日の披露会は参加メンバーが限定されているはず。ほとんどが学界の重鎮や研究者、報道記者のはずだ。名詠士の参加枠は少ない。
「......今日派手にやりすぎた」
はにかむように、珍しくレフィスが表情をくずした。
「明日の午前は学生決闘の準決勝と決勝。披露会はその午後からだ。披露会には学生決闘の優勝校メンバーと、大会をとおしての優秀者が賓客として参加できる枠がある」
「そんなのがあるんですか?」
「そうでもなきゃ、わざわざ学生決闘と披露会を同日に重ねたりはしないさ。それでついさっき連絡があったんだが、俺はその後者で参加することになるらしい......今回の優勝校はドレスエンだろうから、あいつらと同じ枠での参加っていうのは気が進まないけど」
それでもなお彼はそれを承知した。
ミシュダルが追い求めた〈孵石〉、そこに封じられた触媒をその目で見るために。
「とにかくも、明日だな」
「......はい」
4
レフィスが立ち去ったバルコニーを見下ろし。
『いつになく嬉しそうだったな』
何よりもまず、アーマが告げた言葉がそれだった。
「え、そ、そうかな?」
『人見知りのお前が、初対面に近い男とあれだけ話すのは珍しいなと思ってな』
「......だって、ありがとうって言われたんだもん」
暴走するミシュダルと対峙して、自分にできることをがむしゃらにやろうと足搔いてた。それが誰のためとか、そんなことを考えてる暇はとてもなかった。
けれどそれが、こんなかたちで誰かに礼を言われるなんて。
「ちょっと恥ずかしかったけどね」
自分だけの「ありがとう」ではない。そうわかっていても、照れくさくて顔が真っ赤になってしまいそうだった。
『そればかりは母親譲りだな』
「そうなの?」
自分の知る母親が顔を赤らめる姿など想像もできない。ただそれでも、母親譲りという言葉はふしぎと懐かしい感じがした。
『ネイト、今の学園に転入してよかったと思うか』
「え、う、うん」
最初は母親の軌跡を追うためだった。
でもそれはきっかけ。それが元なのかもしれないが、多くのクラスメイトや教師に恵まれたことは本当にうれしかった。
『......ところでネイト、先ほどの続きだがな』
続きとはアマリリスという名を聞いた件だろうか。
『これは我の勝手な独り言だ。聞き逃すも覚えておくも好きにしろ』
独り言?
『お前と小娘のことだ』
アーマがミオを呼ぶ時はミオとはっきり名指しする。
その一方で、小娘──アーマがそう指した時に意味する相手はクルーエルだけ。
『お前が小娘と出会ったのは、決して誰かがそうと決めたわけではない。ただ一瞬のすれ違い──お互いがそこで振り返らなければ、そこで別れて終わりだった。幾度となく繰り返された歴史の一つ。本当に、その程度の些細な交わりだったはず。だが』
ゆっくりと、贈る言葉を選ぶような余韻を残してそれは続いた。
『何千何億回と繰り返された歴史の中、だがその一瞬の交差で終わらず、お前たちは互いに振り返った。それこそが何にも代えがたい奇跡であることを最後まで信じぬけ』
「......アーマ?」
それは、どういうこと。
なんだろう、ものすごく大切なことを伝えられている気がするのに、でも──
「アーマ、どういうこと?」
『今はわからなくていい。だがお前は明日、〈ただそこに佇立する者〉の声を聞く』
......ミクヴェクス、何かの名前?
それは、自分とクルーエルに関係があるのだろうか。
『我が言えるのはここまでだ。だから、あとはお前が選び、お前が詠え。それがどんな結末になろうとも、我もまたお前を信じよう』
五奏『ただそこに佇立する者』
1
「おはよ、ネイト」
宿舎の玄関にネイトが駆けつけた時には、既にクルーエルの姿があった。
「ごめんなさい、支度に時間がかかっちゃって」
「キミが遅れるなんて珍しいね、寝坊?」
「い、いえ......朝起きたらアーマがどこにもいなくて。ずっと探しても見つからなくて、窓が開いてたからそこから出たのかとは思うんですけど」
部屋にいないことだけは確かめた。だけど、自分に何も言わずアーマが外出するというのはあまり例のないことだ。
「夜色トカゲなら朝早くにわたしたちの部屋に来たわよ。それでミオを誘って、そろって買い物に行ったみたい」
「あれ? そうなんですか?」
クルーエルの思いもよらぬ返事に目を瞬かせる。
いやそれより、あのアーマが買い物?
「うん。あのトカゲの方からミオのこと誘いに来て、ミオもつい乗り気になっちゃったみたい。朝ご飯も食べずに行っちゃった。あの二人仲いいよね」
口元に手をあて、クルーエルが噴きだすのをこらえる仕草。
「でもちょうど良かったよ。ほら今日のことがあるから、ミオにどう話そうってエイダと一緒に迷ってたの」
エンジュ自治機関が主催の触媒披露会。
当初サリナルヴァからの要請に名があったのはネイト、クルーエル、そしてエイダの三人だ。後から急遽同行することになったミオの名は賓客リストに名が載っていない。会場に着いても彼女だけは締めだしをくらっていただろう。
「アーマ、もしかして」
「考えすぎだと思うけどね。もしそうだとしたら妙に気がきくところだけど」
どちらにせよ気になることに変わりはない。昨日の夜に告げられた奇妙な言葉といい、アーマらしからぬ行動に思えて仕方なかった。
「あれ、エイダさんは?」
「先行ってるみたい。そうそう宿舎の管理人さんには、わたしたちが帰るの遅くなるから、万一遅くなっても心配しないでって言ってあるよ。ミオは観光、エイダは祓名民の会合がエンジュであるから、それで遅くなるかもしれないって理由で合わせてね」
「わかりました、でも僕とクルーエルさんはどうするんですか」
自分とクルーエルが夜遅く一緒に戻ってくる。となれば、それなりの理由が必要になるはず。やはりミオと同じで観光だろうか。
「キミとわたしで......」
「僕とクルーエルさんで?」
「............えっと......デ......デ」
ぼそぼそと消え入るような声のクルーエル。しかもなぜか彼女は、言葉途中でそっぽを向いてしまった。
「クルーエルさん、よく聞こえな──」
「買い物よっ、買い物! 間違ってもデー......デー、ト、と、とにかく、そんなんじゃないの! あれはエイダの悪ふざけだから、キミは本気にしちゃだめだよ!?」
えっと。
クルーエルさん、なんで顔真っ赤なんだろう。
「よくわからないけど、とりあえず買い物ってことでいいんですね」
「......うん。それでお願い」
うなずく彼女はなぜか疲れきった表情だった。
「レフィスさんとヘレンさんも先行ってるんですか?」
「そうじゃないかな、二人は午前中も学生決闘の試合観戦があるはずだから。でも、わたしたちが行く頃には終わってるかもしれないね」
準決勝と決勝戦で計三戦。試合運びによっては一時間程度で決着がついてしまうこともありえる。
「あ、それはまずいです。急がないと!」
早朝から人で沸きかえる歩道を、二人は小走りに駆けだした。
「ちび君おそーいっ! まったく、何してたのさ」
競闘宮へと続く広場で、エイダがすっかり待ちくたびれた表情で立っていた。
「ご、ごめんなさい......それで、学生決闘はどうでした?」
「決勝戦の相手にドレスエンが三連勝しておしまい。拍子抜けするくらい早かったよ。ちょっと前に閉会式も終わって、ほら」
エイダが視線で示す先、競闘宮の入口から出て来る学生たち。ざっと見て数百人はいるだろうか。閉会式も終わり、午後は宿舎に戻って帰り支度というわけだ。
と同時に、競闘宮では別の行事に向けた作業が進められているはずだった。
「あと一時間は舞台の片づけ、その後に披露会のセッティングだってさ。一般の取材陣とか賓客とかの入場は二時間後。あたしたちは関係者扱いで入れるけど、どうしよっか」
シャンテとネシリスは既に内部で待機しているはず。それにレフィスが学生枠の賓客なら、ヘレンも残っているかもしれない。
「──入ります」
エンジュ自治機関による触媒披露会まで、あと三時間。







「あちゃー、だいぶ曇ってきたみたい」
買い物袋を山ほど抱え、ミオはエンジュの露店並びをふらふらと歩いていた。
「うーん、もう少し買い物したいんだけどなあ、そろそろポツポツ来そうだし」
頭上は雲が渦を巻くような曇天。
昨日はあれだけ晴れていたというのに、今日は午前から太陽もすっかり隠れてしまっていた。黒く気味の悪い雲も、意志があるように頭上を恐ろしい速度で流れている。
『宿に帰るのか?』
そう訊ねたのは、ミオの頭の上にちょこんと乗った夜色の名詠生物だった。
「ううん、ちょっとそこの喫茶店で甘い物でも食べようかなって。雨が降ってきてもそこならやり過ごせるでしょ。アーマもミルクとかどう?」
『ミルクはともかく、静かな場所で落ちつきたいものだな』
ミオの頭の上、アーマが器用に丸くなる。
「うんうん、じゃあなるべく空いてる喫茶店を狙ってみようね。アーマも疲れたでしょ、普段ネイト君とはこんなたくさん買い物しないもんね?」
『そうだな、あまり経験がない』
「えへへ、ごめんね付きあわせちゃって。クルルたちについてきたはいいけど、飛び入りだから今日の披露会......だっけ? その席もないだろうし、あたし一人じゃ寂しくて」
『かまわん、どうせ我もすることがない』
そう告げる名詠生物の声は、普段より少しだけ寂しげだった。
「あれ、そうなの? ネイト君たちと一緒には行かないんだ?」
『小娘はともかく、ネイトに伝えることはもう残っていないな。じきにアレの声も聞くはず。ならば残る選択肢は二つだけ。迷う時間も残されてはいない』
選択肢が二つ。迷う時間がない。
さてどういう意味だろう。アーマの言葉にミオはしばし黙考し。
「エンジュのお土産を何にするかってこと?」
『......どちらを選んでも外れだがな』
その反応を見るに、当たらずとも遠からずといったところだろうか。
「ふーん。よくわからないけどアーマも大変だね」
頭の上のアーマを下ろし、よしよしとその頭をなでてやる。何か言ってくるかとも思ったが、その名詠生物はただ素直になでられるだけだった。
「......アーマ?」
返事はない。返事の代わり──
アーマは、尖った鼻先を渦巻く頭上の空へと向けていた。







競闘宮、外環層一階。
「ええっ、名詠用の触媒を全部没収ですか!?」
受付ロビーにネイトの声が響き渡った。
「はい。披露会終了後に、またこちらでお渡ししますので」
笑顔で答える警備員。
競闘宮の決闘会場へ向かおうとした矢先、警備員に呼び止められたと思えばこんな具合だ。おもむろにボディーチェックを受け、名詠用の触媒が見つかるやいなや受付ロビーまで後戻りさせられてしまった。
「ネイト、そっち終わった?」
振り返れば、同じように片っ端から触媒を預けるクルーエルの姿。彼女も別の警備員に呼び止められたらしい。制服の襟と裾にある専攻色を示す赤の線まで、上から特殊な塗料で薄鼠色に染められるという徹底ぶりだ。
「ねえシャンテ、これどういうこと?」
愛用の祓戈を没収され、腑に落ちない表情でエイダが首をかしげる。白色名詠を専攻する彼女にいたっては、白の制服全体に同様の塗料が散布されてしまったらしい。
「ごめんねエイダちゃん。わたしたちにもギリギリまで情報が回ってこなかったの」
一方、訊かれた本人は普段と変わらぬ涼しげな微笑のまま。
「エンジュ自治機関が今日の早朝に急に取り決めたんですって。警備を担当する名詠士以外、触媒の持ちこみは禁止だそうよ」
理由はネイトにも察しがつく。名詠式に触媒は必須。ならばあらかじめ触媒を封じてしまう。ミシュダルのような危険人物の介入を防ぐには有効な方法だ。
「シャンテさんまで触媒の携帯許可が出ないんですか?」
「わたしとネシリスは平気よ。競闘宮の役員にも登録してあるし、今さら素性も何もないからね。そんなだからごめんね、せっかくあなたたちにもその気で来てもらってたのに」
両手を合わせ、シャンテがおどけたようにウインク。
「いえ、そんなことはないです」
エンジュ自治機関が保管するという謎の触媒。サリナルヴァからの依頼はその異変を察知すること。触媒がなくてもそれは問題ない。
それに、自分の本当の目的は別にある。誰にも告げていない決意。
......見極めるんだ。
今からこの目で見るものが、本当に〈孵石〉の内部に封されていた触媒なのか。そしてそうであるなら、それはアマリリスを名詠するための特有触媒でもあるはず。
〝全てを伝える......か。それができていれば、アマリリスはああも苦しんでいなかった〟
アーマ、それはどういうことなの?
ここにいない名詠生物。いくら胸中で問いかけても答えは返ってこなかった。







外環層、地下一階。
地下特有のひんやりと冷たい空気が、きんと凍りつくように張りつめていた。
......あー、もうっ、なんでこんな空気がピリピリしてるのよ!
待機室のベンチに座ったまま、ヘレンは内心頭を抱えた。
学生決闘の後、何やら特別な触媒が公開されるらしい。それも限られた著名人や賓客限定で。そしてその枠に、学生決闘での優勝校と優秀生徒があるという。
それを知ったのはつい数時間前のことだ。しかも優秀生徒に選ばれたのが他ならぬレフィスだとのこと。
「でもこんなんなら、無理いってレフィスについてくるんじゃなかったのかな」
レフィスにも口ぞえを頼んで、無理やり同行したまではよかった。そして披露会までの待機場として用意されたのは、学生決闘で使っていた選手控え室。これもまあいい。問題ない。問題なのは、優勝校であるドレスエン名術校の生徒たちまで同じ部屋があてがわれていたことだ。
他校との親睦を深めてください。そんな配慮なのだろう。
うん、なんてありがたい。ありがたすぎて声も出ない。代わりに涙が出ちゃいそう。
「ねえレフィス、あんた何か喋りなさいよ」
向こう側に聞こえないよう、ギリギリまで抑えた声でレフィスにささやいた。
ドレスエンとは一悶着があったばかり。さらには優勝校ドレスエンの全勝記録にただ一人泥を塗ったのがこのレフィス。相手生徒にはさぞや屈辱だったことだろう。
「ほら、早く!」
とにかく場が張りつめて仕方ない。小さな呼吸音すら気にしてしまうほどだ。
「喋るって何をだ?」
「......ばか、もういい、知らない!」
勢いよくベンチから立ちあがり、ヘレンは控え室の出口へと向かっていった。まったく、レフィスはいいけど、わたしはこういうの苦手なんだってば!
「おい、ヘレン」
「ちょっと給水所で水飲んでくるだけ、すぐ戻るわ!」
控え室を後に、静かな通路をわざとけたたましく歩きだした。
......あーもう、レフィスの鈍感。ああいう場面は女の子を気遣うのが筋なのに。
「でもそこが、彼の好いところでもあるんでしょ?」
「うん、まあそれは否定しな──」
......え?
わたし、何か口にして言ってたっけ?
「ごめんなさい、驚かせちゃったかな?」
くすりと微笑む相手。
真後ろ。それも驚くほど近くにいたのは、黎色のローブを羽織った人間だった。
中性的で均整のとれた目鼻だちに、ローブの上からでも伝わるほっそりとした身体つき。濡れたように艶やかな漆黒の双眸に、唇に塗られた黒のルージュ。
少年なのか少女なのか、何歳なのかもまるでわからない、そんな何者か。
「あなた、いつからそこにいたの」
わたしの真後ろ? でもわたしは控え室から出たばかりじゃないか。控え室の扉を開けた時、こんな奇妙な奴はいなかったはずなのに。
「今あわてて追いついてきたの。あなたはずいぶん大きな足音を立てて歩いてたから、こちらが後ろから追いついてきた足音にも気づかなかったみたいだね」
確かに、その理屈は一定の信憑性がある。
けれど、わざわざわたしに追いついてきた? それはなぜ。
「落とし物、気づいてないでしょ」
にこりと無垢な笑顔で笑うその相手。
──まただ。
わたしは何も言ってないのに、心の奥を見透かされたように。
「......落とし物?」
「そうだよ。はい、これ」
笑顔のまま、その人物がローブの下からそっと手を伸ばす。その手に握られていたのは、見覚えのあるハンカチだった。
「あ、これ本当にわたしのだ」
「うん、そう言ってるじゃない」
「......あ、ありがと」
何者かはわからないが、それでも落とし物をわざわざ持ってきてくれたことは事実。ぎくしゃくしながらもヘレンは頭を下げることにした。
「どういたしまして。ところで、もうすぐここで、とある触媒の披露会が行われるんだけど、それは知ってる?」
「ええ、あなたもその出席者?」
すると、この相手はとぼけたような表情で。
「出席者に選ばれるほど自分は偉くないよ。だからこっそり侵入してきちゃった」
「え......冗談でしょ? だってここの警備すごい厳重だし。わたしたちだって、名詠の触媒も警備員に没収されちゃったくらいなんだから」
「そう、それそれ。それがすごく大切なんだ」
それを待っていた。
そうと言わんばかりに相手が声を弾ませる。
「今この会場で、名詠用の触媒を携帯できている名詠士は、〈イ短調〉のシャンテやネシリスを含めてもごくわずか。これは非常に危うい。確かに外部からの危険人物を拒むのには有効だけど、もし内部で何かが起きた時は対応が遅れてしまう処理だから」
......こいつ何が言いたいの。
まるで何かが起きると宣言しているかのような言い方ではないか。
そんなヘレンの心中を知ってか知らずか──
「だからこそ、あなたに一つだけアドバイス」
とっておきの手品でも見せる手品師のような笑顔で、その黒法師がそう告げる。
「その赤いハンカチ、大切にした方がいい。いざという時、きっとあなたの身を守ってくれるから」
「......え」
赤いハンカチ?
受け取ったばかりのハンカチをヘレンは慌てて再確認した。
「......ほんとだ」
自分でもまるきり気づいていなかった。ただのハンカチと思われたのか、あるいは単にチェックからもれたのかはわからないけれど、確かにこのハンカチは真っ赤。
「有効に使うといいよ」
「で、でもわたし、赤色名詠は使えない」
学生決闘で見せたヘレンの名詠色は『Ruguz』。それは警備員も知っているはず。あるいは、だからこそ警備員も赤いハンカチを見過ごした?
「それをどう使うかはあなた次第。あえて言うなら、託す相手を間違えないようにね──さて、アルヴィルもそろそろ配置についた頃かな」
一方的に告げ、相手が自分から背を向ける。
「待って、あなた──」
「自分のことなんかより、早く控え室に戻った方がいいよ。レフィス、彼はああ見えて、あなたがいなくて寂しがってるみたいだから。それに自分も、〈ただそこに佇立する者〉の昂ぶりを静めるので忙しくなりそうだしね」
ミクヴェクス。それ何かの名前?
それを訊ねようとした時には既に、その黒法師は通路の角へと消えた後だった。
《これより披露会へと移ります》
《参加される方、係員の指示に従い会場へお進み下さい》
通路に響きわたる放送。披露会まで、あと十分。
2
《今回発見されました触媒は、エンジュの地理学者が偶然立ちよったツァラベルという島で──》
競闘宮、観客席最上段。
ざわめきの静まらない観客席。それは午前の学生決闘も同じだが、今回は観客席を埋める人種が違う。名詠学校の学生や教師は姿を消し、代わりに各都市の要人や白衣を着た研究者、メモ用紙とペンを持つ報道陣。
誰もが放送に耳を傾けては、しきりに何か議論をかわしているのが見て取れる。
そんな中──
「いやー参った。まさか立ち見だなんて思わなかったね」
手元の手すりにエイダがだらしなく寄りかかる。
「あら、最上段の方が全体が見やすいかと思って、わざわざここにしたのだけれど?」
「それなら最前列にしてくれた方がいいだろ、シャンテ権限で」
エイダのもの言いたげな視線に睨まれ、シャンテがくすりと逃げ笑い。
「それは無理よ。最前列はエンジュの関係者と、それに報道陣で埋めつくされてるわ。そこに学生がいれば浮いちゃうだけだもの」
前髪をはらい、シャンテが楽しげに片目をつむってみせる。
「じゃあ、ここで会場の見張りをしてるのは僕たちと、あと別の場所にいるはずのネシリスさんくらいですか」
一箇所に固まるより散らばって戦力を配置させる。ネシリスは別地点に一人で待機。レフィスたちもいるはずなのだが、この会場で出会うのは難しいだろう。
「そうね。競闘宮という舞台を使用しているけど、今から行われる式典の主催者は名詠士の協会じゃなく、ただの地方自治機関。一般の名詠士にはほとんど参加権は回ってこなかった。だからこそあなたの学園長も、わたしやネシリスにあなたたちのことを頼んだってわけ。でもネシリスを探すより、きちんと放送をお聴きなさい? そろそろよ」
途端、沸きたつように騒いでいた会場が水を打ったように静まった。わずかに響いていたささやき声さえ、やがて余韻を残して消えていく。
「......今からですか」
「ええ、始まるわよ」
会場の視線が決闘舞台の中央へと集中。皆の視線が注がれる中、白のスーツを着た女性が、漆黒の覆いがかぶさった台座を台車に載せて運んでくる。
あれが今回見つかった触媒。会場に流されていた放送では、大陸から離れた孤島で発見されたという話だが。
《それでは御覧に入れましょう。名詠式の常識を覆す瞬間です!》
司会進行役の男性が叫ぶ。と同時、女性が台座の上の覆いを一気に外した。観客席からの千を超える視線がその先に集中し──
そして。
「......なんだ、あの不気味なの」
まず最初に聞こえたのはエイダの呟き。
徐々に、次第に会場が再びざわめき立っていく。そう、つい数分前までのざわめきは、
究極の触媒とエンジュ自治機関が称した代物を見られるという期待感。
だが今回のざわめきは、目の前に現れたソレへの紛れもない困惑だった。
「──あれは!」
ドクンと動悸の走った胸を、ネイトは服の上から押さえつけた。
透明感のある白色をした、大人でも一抱えある大きさの石。鱗状の模様が刻まれ、そしてその鱗模様が、まるで脈打つかのように点滅を繰り返していた。
......やっぱりそうだ、カインツさんから見せてもらった奴と同じだ!
つまり〈孵石〉の内部に封されていたものと同じ。空白名詠のための触媒。
「シャンテさん、あれは」
言い終える前に。
──とさっ
誰かが倒れる音は、自分のすぐ隣から。
「......クルーエルさん?」
自分の隣で立っていたはずのクルーエルが、床に両手と膝をついていた。
「クルーエルさん、どうしたんですか!」
しゃがみこんで彼女の表情をうかがう。
「なっ、なんでも......ないよ。ちょっと立ちくらみ」
まるで血のかよっていない真っ青な顔。苦悶のまなざし、その目の端から伝う、涙か汗かもわからない雫。目の前の手すりを摑む力も入らないのか、その指先すら小刻みにふるえを繰り返していた。
──うそだ、立ちくらみだなんて、そんな生やさしい症状じゃない。
これはまるであの時の、アマリリスを宿して意識を失う直前のような症状ではないか。
「クルーエルさん? どうしたの」
異変に気づいたシャンテ、そしてエイダが近づいてくる。
「わかりません、だけどすごい体調悪そうで。早く医務室かどこかに!」
「......へ、平気だよ、わたし」
かすれ声をクルーエルが懸命に絞りだす。だがその痛々しさがなおさら、彼女の異状をより鮮明に告げてきていた。
「うそ、そんなはずないじゃないですか。顔真っ青です!」
クルーエルの手を取る。
異様に熱い。それも人の体温とは思えないほどの高温だった。
「誰か、お医者さんを!」
観客席最上段からネイトは叫んだ。
だが届かない。誰もが皆、決闘舞台に運びこまれた触媒に意識が集中している。
《皆さん驚かれたようですね、確かにちょっと変わった石です。でも見ててください、今から触媒としての実演が行われます》
司会の声に応えるように、やせ細った眼鏡姿の男が壇上に現れる。
《今回この触媒に挑戦して頂くのは、著名な名詠士でもあり、エンジュ自治機関の議員でもあられる──》
観客席から巻き起こる拍手。そう、他の観客は普段どおり。
......だけど、なんだろうこの違和感。
クルーエルではないが、ネイトにもわずかな嘔吐感があった。まるで無理やり異物を呑まされたように、胃が暴れるように収縮を繰り返す感覚だ。
《では先生、どうぞ》
胎動する触媒はやはり薄気味悪いのか、苦笑いを浮かべる壇上の男。
......違う。
あれは、僕やクルーエルさんの反応とは違う。でも他の人も気づいてない。気分が悪いのは、この会場で僕とクルーエルさんだけ?
《おや先生、乗り気でない? 大丈夫です、勇気を出して! ほら、先生のファンの女の子も、事務所のスタッフも応援に来てくれてますよ?》
司会者のくだけた声援に会場からも笑い声。
それに後押しされたのか、引きつった表情を引き締め、その名詠士が触媒の台座にゆっくりと近づき──
〝誰? わたしに触れようとする子は〟
声が聞こえた。
「シャンテさん、今......何か聞こえませんでしたか」
「え、司会の声以外に?」
シャンテは気づいていない。エイダにも何かが聞こえたような反応はない。
だけど──
〝やめて愛しき子よ。わたしに触れるのはまだ早い。あなたでは、わたしに正しい目覚めを与えることはできません〟
〝シャオ、シャオはどこ? 近くにいるのでしょう? わたしは〈眼〉と分離しているがゆえ、あなたを見ることができないの〟
どこか遠くから、津波のような重さで聞こえてくる声。誰のものかもわからない声。
それが音の波でなく、鼓膜を介さず直接意識の中に響いてくる。
声が聞こえてくる先はあの触媒?
これだけ大きな声なのに、決闘舞台の司会役も、観客席の賓客も誰も気づいていない?
そんなばかなことが。
《さあ、皆様ご覧ください!》
放送の実況に背を押され、点滅を繰り返す石へと男が手を伸ばし──
〝やめて、わたしに触れてはいけない。わたしが真言を委ねたシャオの訪れを待ちなさい。あなたがわたしに触れれば────〟
聞こえてきた声がぷつりと途絶えた。と同時。頭のてっぺんからつま先まで、髪の毛が逆立つほどの寒気が電流のごとく全身を駆けめぐった。
「──だめだぁぁぁっっ!」
気づいた時には、ネイトは最上段から声の限り絶叫していた。
直感ではなく、身体の細胞一つ一つの怯えで感じた。アレが、さっきまで自分とクルーエルが感じていた違和感の根源だと。
「ネイト君、どうしたの」
シャンテの疑問に答える余裕もないまま、ネイトは最上段から観客席を駆け下りた。
「それを、そいつを目覚めさせちゃだめだっ!」
肺から吐血するのではないかというほど、声を張り上げる。だが──
全ては、遅かった。
3
《っ......なんだ......?》
司会役の、生気を失ったような呆然とした声が観客席に伝わった。
「これは──」
汗ばむ手をなお握りしめ、ネイトは息を呑んだ。
会場の参加者には変化がない。触媒に触れた壇上の男も、何ら変わった様子はない。その目の前にある石が、一際強く発光したことを除いては。
だが、それだけだ。
石の表面に刻まれた鱗状の紋様。それが激しく光り輝いては消えていく。ただそれだけ。何かがその石から名詠されるというわけでも、石が動きだしたわけでもない。
......これだけで終わってくれた?
額に浮きでた冷たい汗を拭おうとした、その直前。
「二人とも、上っ!」
クルーエルの隣にしゃがんだままのシャンテの声が響き渡った。
上?
彼女が視線で示すのは天上。壇上にある触媒のちょうど真上。それも今まで見たこともないほど巨大な、さながら極光のごとく輝く門。
──名詠門?
いや、それだけならばまだ常識の範囲内だっただろう。ネイトやエイダ、そしてシャンテが息を呑んだのは、形成された名詠門の形だった。
通常の名詠門は美しい円を描く。
だが頭上のソレはもっと歪な、生々しく原始的な円。
「......蛇?」
観客席にいた誰かがぼんやりと呟く。そう、まるで──巨大な蛇がとぐろを巻いたような形。喩えるならば、おそらくそれが一番近い。
だがその環をろくに眺める間もなく。
「ちび君、シャンテ!」
真上を凝視したままエイダが後ずさった。
名詠門から、驟雨のごとく降ってくる何か。小型の竜、蛇、獅子、人型のシルエットに、常に形を変える流動的なものさえいる。それも百体を超える軍勢で。
「......あれが本当に名詠生物?」
エイダかシャンテか、誰かが呆然とした口調で呟いた。
不定の形状をした名詠生物。まるで共通のかたちをとらないソレらに、唯一共通しているのはその体色だった。赤、青、緑、黄、白。名詠五色が混然と混ざりあい、斑点のような模様を形成。目を凝らせば、そこに一部まるで透明な部分が混じっていることもわかる。
──空白名詠? そして、既存の五色まで?
だけど、なんて毒々しい色なんだろう。カインツの虹色とはまるでかけ離れた、五色がでたらめに混在した不協和音。まるで敵対しあう五色が、空白名詠の透明部分によって強制的に結合されたかのような混色だった。
「来るぞっ!」
エイダの声が厳しさを増した。
遥か頭上の名詠門から一斉に降りてくる奇妙な名詠生物たち。間違いない、あいつらはこの競闘宮目がけて落下している。
だがあれだけの数、どうすればいい?
触媒を持っているのはネシリスとシャンテの二人だけ。自分とエイダは触媒と祓戈を預けたまま。クルーエルにいたっては原因不明の目眩と発熱。まともに対抗できる人数が絶対的に不足している。
「エイダちゃん、ぼうっとしてないで、預けている祓戈を取ってきなさい。ネイト君はクルーエルさんを安全な場所へ。その後は観客の避難を誘導、急ぎなさいな」
一人落ちついた仕草で、胸元につけていたブローチをシャンテが取りはずす。
手のひらにそっと転がる緑柱石。
「シャンテさんは......」
「時間稼ぎ、というより先制パンチ。とりあえず向こうもやる気みたいだしね......あーあ、このブローチ高かったのに」
魔性の笑みを絶やさぬまま、歌后姫が艶やかな唇に指先をそえる。
「だけどまあ、そんなこと言ってる余裕もなさそうね。わたしって攻撃的な名詠って得意じゃないし、ここは競闘宮の最強名詠士さんに気張ってもらわないと困るんだけどな」







......逃げろ!
誰が言ったかはわからない。だが直感的に観客席の全員が感じ取っていた。遥か上空から飛来する未知の存在が、紛れもない災厄であると。
一人、また一人。足音は徐々に大きくなり......一分と経たず、観客席は逃げまどう者の悲鳴と足音に呑みこまれた。
その中で──
「エンジュに来てから驚くことばかりだな」
内心の苦笑を押し殺し、レフィスは飛来する名詠生物たちを見上げた。
客席めがけ急降下してくる名詠生物。その虚ろな瞳に輝くのは明らかな敵意の眼光。
五色が入り混じった上に、身体の一部が透明?
あの名詠生物がどんなカラクリなのか想像もつかない。だが今はまず、あの軍勢から生き残らなければ。
「レフィス、どうするのっ?」
隣に立つヘレンが叫ぶ。自分が披露会に参加するならわたしも──そう言ってきかなかった彼女。あの時は自分も口ぞえしてしまいヘレンも参加を許可されたが、それが失敗だった。足手まといという意味でなく、こんな危険なことになるのなら。
「静かに、あいつらが落下するまでまだ時間はある」
だがどうする? 触媒は受付に預けたままだ。
一番たやすいのは逃げるという選択肢。だがもし競闘宮の外までこの名詠生物が落下しているとすれば、たとえ競闘宮の外に逃げても同じこと。ならば!
「無茶をやるか」
競闘宮の観客席を覆う、くすんだ白壁。レフィスはそこに両手で触れた。
ぽつり、ぽつりと灰色に輝く壁面。......反応が遅すぎる。
「『Arzus』の属性で後罪がかかってるのか」
需要者の後罪──一度名詠に使用してしまうと、その触媒による二度目の名詠は難易度が跳ね上がる。言うなれば一つの触媒で名詠できるのは一回きり。
壁面に塗られた塗料が白と灰色の中間色だったゆえ、レフィスは灰色も名詠可能だろうと踏んだ。しかし競闘宮の構造物にはあらかじめ後罪がかけられていた。名詠式の暴発を防ぐため、公の建造物は意図的に後罪処理を施すことが多いのだ。
「まだ!?」
ヘレンの声はもはや悲鳴に近い。
「集中を乱すな、後罪の触媒で名詠するのが大変なのは知っているだろ」
小さな名詠門が開いていく。子供一人がようやく入れるほどの環。この程度の大きさではロクな名詠生物も詠べやしない。大物は無理だ、ならば!
混沌色の、人型をした名詠生物。その一体が、同色の鎗を構えてすぐ真上にまで急降下してくる。
──『Isa』──
名詠門をこじ開けるようにして現れる一体の有翼石像。
襲いかかる名詠生物、それを迎え撃つかたちで有翼石像もまた石の鎗を構える。
互いの鎗が交差、そして。
キィッィッン......乾いた音。相手の鎗で射ぬかれ、名詠されたばかりの有翼石像が灰色の煙を上げて還っていく。だがそれと同じタイミングで、混色の名詠生物も石鎗に貫かれ動きを止めていた。相討ちということか。
「案外あっけないな。あんな気味の悪い色だから、どんな強力な奴かと思った割には」
少なくとも、レフィスにとっては強がりのつもりではなかった。
ヨシュアからも教わったことのない未知の相手。襲いかかってきた時は肝を冷やしたが、いざ戦ってみれば自分の灰色名詠で十分対処できる相手だ。
Ris sia sophia,Egunis riris q-nemne
......なんだ?
一瞬、確かに〈讃来歌〉のようなものが聞こえた。
「レフィス、あっっ......あ、あれ!」
ヘレンの指さす先、石鎗に貫かれていた名詠生物が小刻みに動きだしたのだ。
ズッ......ズズッ......不快な音を響かせ、ゆっくりと自らに刺さった鎗を引き抜いてゆく。
カランッ。完全に引き抜かれ、地に落ちる石鎗。それもまた、先の有翼石像同様に煙を上げて還っていく。
残ったのは、まるで無傷な状態の謎の名詠生物。確かに石鎗で貫いた、なのにその体表にはまるで傷が残っていない。まさか、この数十秒で完全に再生した?
「......なるほど、不死身とはさすがに予想外だ」
脳という理解ではない。知覚という実体験で敵の本当の怖ろしさを感じた。
「れ......レフィス、また来る!」
敵の虚ろな視線が再度自分たちへと向けられる。
その鎗の矛先は自分ではなく、ヘレン。
「あ......ぁっ......」
鋭利な鎗を正面から直視し、蒼白となる彼女。と同時に、レフィスはほぞを噬んだ。自分が甘かった。先と同じ名詠をする余裕はない。かといって他の触媒はゼロ。
どうする、彼女を抱えて逃げる? それともまた名詠で──
「迷う必要があるのか?」
ピシリッ、何か硬いものに罅が入る亀裂音。
それをレフィスが聴いた時には、目の前の名詠生物は巨大な氷塊に封されていた。それも地上の一体だけでなく、空中をさまよっていたもう一体まで。
氷塊、いや天を衝くかのように高らかに伸びた氷壁は、もはや一つの塔を思わせる。
──氷結塔。
ここまで桁外れのサイズの氷塊。そんなことができるのは。
「叩き伏せる、俺ならそうするが」
青のインバネスコートを羽織る大柄の男。その両脇には、彼を守護するかたちで二匹の巨大な氷狼が付き従っていた。
「......ネシ......リ......?」
ヘレンのかすれ声を無視し、その名詠士が小さな麻布を放り投げてきた。受け取ったはずみにチャリッと音をたてる麻袋。中身は硬貨?
「競闘宮の覇者が、防衛戦に勝利するごとに受け取る記念銀貨だ。それなら灰色名詠にも使えるだろう」
つまり、これを触媒に使えと?
「ずいぶんと気前がいいな」
「レフィスだったな、それだけの労働はしてもらう」
視線だけでネシリスが頭上の名詠門を見上げる。
「あの名詠門の輝き、舞台の触媒の点滅と周期がまるで同じだ」
次に彼が示したのは観客席の最下段、決闘舞台の中央に設けられた台座だった。
既に舞台にいた司会も実況役も全て避難し、無人となった壇上。鱗状の模様が刻まれた触媒だけが、悠々と輝きを放っている。
「あの名詠門が閉じない限り、あの名詠生物たちは今も増え続けている。まずは根本から断つ必要があるらしい」
「それを手伝え、と」
「俺があの触媒を破壊する。その間、お前が囮役をやれ」
淡々と告げるその声にはまるで動じた様子がない。
この未知の名詠生物を相手に、それも無数ともいえる数を。
「それとお前も見ただろうが、こいつらはどれだけ破壊しても短時間で再生する。倒すことを目的とせず、やるなら動きを止めることを狙え。俺なら氷で閉ざす、シャンテは巨木の根で絡める方法を選択したらしい。お前なら学生決闘の再現だろうな」
火食い鳥を巨岩像で押さえつけたように相手の動きを止める、ただそれだけに全力集中。
それを達成しつつ、決闘舞台の敵陣を突破して触媒を破壊。そうすればこれ以上敵が増えることはなくなる。しかし──
「もしあの触媒を壊しても、こいつらがまだ無限の再生力をもっていたら?」
氷も木の根もしょせんは名詠で詠んだもの。術者の力量にもよるが、必ずいつかは還ってしまう。いつか束縛が解けた時どうすればいいのか。
「迷う必要があるのか?」
競闘宮の覇者の答えは、先とまるで同じだった。
「破壊する。何十回、何百回だろうと。相手が再生する気力もなくなるまでな。ただそれだけだ。違うか?」
「......いや」
思わずもれてしまった苦笑を、レフィスはあえて隠さなかった。
──なるほど、確かに最強の名詠士だ。
「ヘレンすまない、ここで隠れていてくれ。......すぐ戻る」
六奏『新薬の扉、詠う世界の祈りよ響け』
1
......なんで、また......この寒気がする、の......
脳を錆びついた斧で抉られるような痛みに、焼きごてを直接肌に押しつけられたような、灼ける熱。だけど身体の内側は、氷海に裸で投げこまれたような寒気がする。
いやだ......こんなの、なんで。
アマリリスが消えてから二ヶ月。もうこんなことはないと思ってたのに。
「......ーエルさん! ク......エルさん、どう......」
ずっと遠くから聞こえるネイトの声。
ネイトが遠くにいるのでなく、わたしの意識が勝手に遠ざかっていくような。
まさか、またアマリリスが──?
『......そう、まだ気づいていないのね。あの夜の幼生もまだ何も告げてないようだし』
遠ざかっていく周囲の音。
それとまるで対照的に、その声だけはどこまでも鮮明に聞こえてきた。
「......その声」
奥歯を嚙みしめ、クルーエルは落ちかける意識をぎりぎりのところでつなぎとめた。
『わたしのこと、覚えてくれている?』
風にそよぐようにゆれる緋色の髪に、深い海を想起させる色の双眸。豊艶といえるほど艶やかで起伏にとんだ曲線を描きながらも、決して扇情的と思わせない優しい肢体。
一糸まとわぬ姿で雪のように白くきめ細かい肌を晒す、長身の少女がそこにいた。
──アマリリス。自分と生き写しの真精。
「いったい、なにが楽しくて......こんなにわたしを痛めつけるの」
『それは違う』
違う? なにが違うというのだろう。
この熱も寒気も痛みも、全て本物じゃないか。
『わたしは、今のあなたの苦痛には何一つ関与していない』
「......うそよ。この頭痛も熱も、寒気もまるであの時と一緒だもの」
トレミア・アカデミーの図書管理棟から始まった、あの苦痛。
『そうね。確かにかつて、あなたにこの苦痛を与えたのはわたし。でもそれは、あなたを想ってのことだった。来るべき今この時のために』
わたしを想って......?
「人にこんなことして、どうしてそれがわたしのためだって言うの!」
『あの時あなたは昏睡に陥った。でも今はまだ、かろうじてネイトの声が聞こえているでしょう。周囲の音も、まだわずかながら聞こえている』
確かに事実ではあった。
本当にかすかだけど、さっきからまだネイトの声も聞こえている。
『わたしが与えた苦痛を経験していなければ、あなたは今ここで意識を失っていたはず。でも今はどう? 一度経験しているからこそ、かろうじて耐えることができている』
「そ、それは......」
『わたしがあなたに課した苦しみはそのためだった』
それは事実としてはそうだ。
でも、それが単なる結果論でないとどうやって証明できる?
「......それなら今の頭痛や熱は、今度こそいったい何が原因なの」
『〈ただそこに佇立する者〉との共鳴』
ミクヴェクス?
『わたしからは教えることができない。それに時間もないのでしょう?』
そうだ。でたらめに色を混ぜ合わせたような、あの奇怪な名詠生物。
あれが上空の名詠門から現れて──
『競演会のヒドラを覚えているかしら。真言を用いぬ者がミクヴァ鱗片に触れた場合、あれは単なる触媒としてしか作用しない』
競演会のヒドラも五色が入り混じっていた。しかしあの中に空白名詠は入りこんでいなかった。再生するような能力も持っていなかった。
『けれど今この時は違う。あなたと〈ただそこに佇立する者〉の不完全な共鳴により、ミクヴァ鱗片がひどく不安定になっている。今頭上にある名詠門は、空白名詠の力に目覚めたあなたが、真の調律者たる〈ただそこに佇立する者〉に近づきすぎたことが原因』
「......わたしのせい? そんな、そんなこと言われたって」
『歪んだ五色の名詠、そして空白名詠の力が強制的に結びつける醜い不協和音。原因となる空白名詠の力を閉ざさない限り、アレらは何度でも再生する』
無限に再生する名詠生物。
そんなの聞いたこともない。それは、いったいどうすれば。
『わたしに代わって』
「......え?」
あまりに唐突な提案にクルーエルは我が耳を疑った。
『わたしならアレを相手にできる』
髪の色も顔かたちも姿も、自分とまるで同じ姿の真精。それはつまり、わたしとアマリリスが入れ替わるということを意味するのでは。
「な、何を言ってるの。そもそもそんなことが──」
『聞いてクルーエル。わたしが代わると言っているのは、アレらをどうにかするという目的じゃない。それはあくまで付随的なもの』
混色の名詠生物を倒すことが本当の目的ではない。ではいったい何が。
『〈ただそこに佇立する者〉との共鳴に苦しむあなたを見るのはすごく辛いの。苦しいのでしょう? だから、わたしがその痛みも熱も寒気も、全部代わってあげる。あなたは少し休んでいなさい。終わったら、また起こしてあげるから』
......わたしの身を案じてくれてるの?
「なんで、変だよ、絶対おかしいよ!」
力いっぱい叫びたくても、痛みに朦朧とした状態では擦れ声が精一杯だった。
「ねえ、どうして。......前から気になってた。なんでわたしに、そんな優しく言葉をかけてくれるの? わたしがあなたの何だっていうの」
まるで友だちみたいに、ううん、それよりもっと親しく深い関係。
まるで姉妹みたいな言い方で。
『......だって、本当にそうなんだもの』
──え?
『我ながらおしゃべりが過ぎたわね。まあいいわ、気にしないで。それより時間が惜しい。今はまだ〈ただそこに佇立する者〉よりもわたしの方が、支配力において勝ってるから』
「......ごめんなさい」
アマリリスの言葉を遮るように、クルーエルはうつむいた。
「まだ事情がよくわかってないけど、わたし、やっぱりそれはできないよ」
『クルーエル......やっぱり、わたしを信じてはくれないの?』
音として伝わる声は変わりない。
だけど伝わってきた。その声の主が悲しげに萎れていることに。
「ううん、違うの。あなたのこと、信じてないわけじゃない。正直まだわからないけど、それでもあなたの気持ち伝わってきたもの」
『じゃあ、なぜ』
その問いかけに、クルーエルはぎゅっと唇の端を嚙みしめた。
「あなたが言ったことじゃない。この騒ぎはわたしのせいだって」
『そうとは言ってないわ。確かにあなたがミクヴァ鱗片に近づきすぎたことが原因だけど、かといってあなたに責められるべき咎があるわけじゃない』
「ううん、わたしが原因なら同じことでしょ?」
だから自分が頑張らなくちゃいけない。誰かに甘えるのはいつでもできる。もし誰かが手を差し伸べてくれるのだとしても、自分のやるべきことをやらないのは嫌だ。
『いえ、わかってない。このまま〈ただそこに佇立する者〉が目覚めれば......クルーエル、あなたが消──』
雑音。
無音の世界のどこかで、何かがひび割れた音がこだました。
アマリリスの言葉もなかばで遮断、クルーエルには届かなかった。なにか自分のことを言っていたということだけは伝わったのだが。
「え? ごめんなさい、声が良く聞こえなくて」
『......なんでもないわ』
目にかかる緋色の髪を横に払い、アマリリスがかすかにうつむく。
『クルーエル、あなた本当にわたしと代わる気はない?』
「ええ、わたしが強情なの知ってるでしょ?」
あえて意地悪っぽい笑顔でクルーエルは答えた。理由はない。ただ何となくこの相手が、そうやって自分が強がる方が安心すると思ったからだ。
『本当に呆れた子』
そして、それで正解だった。
彼女の声はさっきより少しだけ弾んでいたから。
『クルーエル、ネイトに礼を言いなさい』
その言葉は唐突だった。
『あなたという存在を支える何よりの柱が、あなたの心に宿るわたしでも黎明の神鳥でもなく、いつしかあのネイトという少年になっていた。そのことに』
「......うん、だからわたし自分で何とかしたいんだもん」
凱旋都市へ行く、そう決めた時から温めていた気持ち。
──彼の前で、わたしだって、女の子だって格好つけたい時がある。
『そう言うかもしれないとは思ってたわ。だから、わたしの真言の一端をあなたに──あなたに、わたしのとっておきの詠を教えてあげる』
自分の生き写しのような姿をした真精が、ほっそりと白い指先を伸ばす。その指先は自分の顔のすぐそばまで伸びて──
「あ、あの......何を」
『だいじょうぶ、怖がらないでクルーエル』
アマリリスの指先が自分の髪の一房にそっと触れる。
途端、割れるような頭の痛みがすっと消えた。ふるえが止まらないほどの寒気も、悶えるほどの熱までも。
「あ、あれ......」
『それはわたしの気まぐれ。ほら、早く行きなさい』
なびく緋色の髪を外套のようにひるがえし、アマリリスが背を向ける。
その声はわずかに、たった数秒前より微かにくぐもっていた。まるで何かを堪え忍ぶように、我慢するように。
〝その痛みも熱も寒気も全て代わってあげる〟
──まさか。
「アマリリス、あなた!」
『............』
その沈黙が逆に残酷なくらいはっきりと、自分の予感が正しいことを伝えてきた。
間違いない。どうやったかはわからないけど、今さっきまでのわたしの苦痛をアマリリスが全部引き受けたんだ。
「ねえ、なんでよ! なんで、わたしのためにそんな......」
『わたしからは教えられない。聞くなら、とぼけた夜の幼生からでも聞きなさい』
「でもそのままじゃあなたがっ!」
『わたしはあなたと違って我慢強いの。それに言ったでしょ、今はまだ〈ただそこに佇立する者〉よりわたしの方が強いって......でも、そうね。それもあと数時間が限界。だから、その間にやれるだけのことをやりなさい』
何が何だかわからない。
でも、とにかく時間がない。それだけは嫌になるくらい伝わってきた。

「......ごめんね」
『いまさら謝るくらいの覚悟だったの?』
「ち、違うよ!」
慌てて首を横に振る。いまさら謝るくらいの覚悟......そうだ、そんな簡単に譲っちゃうような気持ちじゃだめなんだ。それではこのアマリリスの好意も生かせない。
「見てて、わたしきっと頑張るから!」
『それでいい。あなたの道行きだもの、あなたが選びなさい。......でも、あなたのこれからの選択が、世界中の人々を巻きこむことだけは知っておいて』
そして──
2
キィィッィ......ン
鈴が鳴るような音をたて、混色の名詠生物が光の中に還っていく。小さな光の粒子と共に消滅し、再生する気配もない。
「......よしっ!」
消滅の光にまぶたを灼かれながらも、ネイトは懸命に目を見開いた。
──やっぱりだ、浸透者と同じで反唱なら通じる!
反唱に必要な触媒はない。その状況下でネイトが反唱として利用したのは、混色の名詠生物の身体を構成する透明部分、空白名詠による中核だった。
名詠生物の組成を制御する空白名詠の結晶。ならばそれは〈孵石〉と同様、全ての名詠色に使用できる触媒になるのでは。
そんな一縷の望みに賭けた夜色名詠の反唱が、功を奏した。
「だけど数が......」
消滅した一体から上空へと視線を移す。今の一体はどうにか不意をついて還せた。だが今のを見せてしまった以上、他の相手は当然警戒してくるだろう。
一方で、その間にも上空の名詠門からとめどなく敵は生まれ続けている。
「数を減らさないと!」
観客の大半が会場から外環層へと避難したのはいい。しかしそれは逆に、この決闘舞台の観客席に残る自分たちに敵の照準が集中することに他ならない。
とにかく数を減らすことが最優先。が、まともに通じるのは、空白名詠と対をなす夜色名詠だけ。他の名詠色では動きを封じるのが精一杯らしい。
「ネ......イト」
その声は、後ろで意識を失いかけているはずの少女のものだった。
「クルーエルさん? だ、だめです。動いちゃだめです!」
周囲の状況も忘れ、ネイトはクルーエルのそばによりそった。両手両膝を床についた状態から、彼女がゆっくりと起き上がったからだ。
「ごめんね、わたしが動けなかった間、キミが守ってくれたんでしょ」
「それはいいんです、そんなことより」
「ううん、わたしも手伝うよ。わたしにもできることがありそうだから」
落ちつききった表情で、クルーエルが観客席をゆっくり下っていく。触媒も何もない。まったくの手ぶら、無防備ともいえる状況で。
「クルーエルさん、何を......」
「ねえネイト、ちょっとだけ、お姫様を守る騎士の役をお願いしちゃっていいかな?」
まるで状況にそぐわぬ笑顔で、彼女がふわりと振り向いた。
──それはどういう意味?
が、考える時間は与えられなかった。
「できる、できない?」
くすりと微笑むクルーエルの姿に、ネイトは思わず息を呑んだ。
輝く緋色の長髪が風に舞い、まるで翼か天の羽衣であるかのようになびく光景。
風がやめばすぐに消えてしまう儚い光景なのはわかっている。だからこそ、それはあまりに幻想的な奇跡の瞬間だった。
......クルーエルさん、綺麗。
こんな場面だというのに、そんな気持ちが溢れてとまらない。
「ねえ、ネイト?」
「や、やります! やりますから!」
気づいた時には、ネイトは大きくうなずいていた。
「うん、いい返事。じゃあ、わたし少しだけ詠うからね。ちゃんと守ってて」
そう言って、クルーエルはそっと目を閉じて。
〈 アマリリス真言・大母新約篇奏──『全ての目覚める子供たち』 〉
En Se lu, Lu siaelmei hypes pheno
De peil,Ee dewl nec gfend
noi venesis xin,ilmei Zelahevhe ele peqqy
......これは、あの時の。
トレミア・アカデミーで聴いた、高熱に冒されながら彼女が奏でた詠。あの時は浸透者が実体化した。でも今回のこれは──
「......動きが止まってる」
観客席を見回し、ネイトは目を見開いた。
気づいた時には、混色の名詠生物までもがぴたりと動きを止めていた。それはさながら、生まれたばかりの赤子が母親の歌に聴き入っているかのように。
Lu nedia kyel EgunI,uc hiz getie-l-getiexeines wat
Lu vilis Ea tis,De kiss Ea lue, ende
vilis Ea elenis Iesfert recrey huda
そして、それだけではなかった。
「......名詠門が?」
上空にうっすらと輝く名詠門が──







Ea nepies phiaele noi heren, nevaliss
Lu milley pheno,dia peqxe elfa
De peil,Ee dewl nec zsary
......なんだ、この〈讃来歌〉は。
突如どこからともなく流れてきた旋律に、レフィスは周囲を見回した。
五色の詠のどれでもない、かといって灰色でもない。異色の名詠式、いや、まるで根幹から違う清澄な詩と旋律。それが聞こえる先は──
「......クルーエル?」
無人となった観客席という舞台で、ただ一人、両手を広げて詠う少女。そしてその背を守るようにして立つのはネイト。
「あいつら、どういうこと──」
変化が起きたのは、その時だった。ふと頭上に影が差し、その変化に目を奪われた。
あの歪で巨大な名詠門が、徐々に狭まっていくのだ。
En Zec phenotis clarlu hem Eec shez,
ende celaslin fel Zec nazal
物音一つ立てず、凍りついたように動きを止める名詠生物。さながら時の流れからも忘れられ、ひっそりと静まりかえる競闘宮。
その中で閉じていく天上の環。それを促すようにひっそりと流れる詠。
飛びぬけてこの〈讃来歌〉が美しいかと問われれば迷う。なのに心奪われて動けない。なぜだろうこの懐かしさ。初めて聴いたはずなのに。
大舞台の交響楽団による感動と興奮を与えるようなものでなく、これは赤子をなだめ安らぎを与える子守歌。人の感性ではなく、心の中のもっと深い場所へと沁みわたる音色。人が生まれて最初に聴く原初の旋律、その至高形。
そして、その詠が終詩を成したその後に──
Es E lis nediakyel orbie Neight
Ris sia sophia,Riris ele, Selah phenosia-s-orbie Co Lue-l
頭上を覆うように展開していた名詠門は、跡形もなく消滅していた。
「......名詠門が完全に閉じた、のか」
まさかこの詠で?
「それだけではないらしいな」
先を行くネシリスが無表情で見据える先。
氷結し転がった混色の名詠生物が数体。そのいずれもが煌めく光に包まれて還っていく。今までならこんなことはなかった。つまり再生効果が消滅?
名詠門が消えたからか、それともあの詠の効果か。
「考える必要があるのか?」
見透かしたようなネシリスの問いに、レフィスは首を横に振った。......そうだ、今はそれを気にする余裕などない。
「ああ、そうだな」
名詠門が閉じた今、あの名詠生物が増える心配はなくなった。が、その数はいまも驚異。一瞬の気のゆるみが命取りになる、その現状に変わりはない。
「ネシリス、観客席から決闘舞台への最短通路は?」
「最上段からの避難階段を経由、一階の三叉路へ合流する。ついてこい」







──詠。それに、これはクルーエルの声?
外環層の通路を全速力で駆けながらも、周囲を流れる旋律にエイダは耳をすませた。
「......クルーエル、治ったのか?」
だがつい数分前、彼女は突然倒れたばかり。それが〈讃来歌〉を詠えるまでに回復するとは考えにくい。さらに言えば、この外環層は決闘会場の音が響かない防音壁。それが、まるで壁をも浸透したかのごとく、はっきりとその詠が聞こえるなんて。
「あとでクルーエルにみっちり問い詰めないとな」
苦笑は一瞬。表情を引き締め、通路の角を折れ曲がる。と同時、詠とはまるで異なる、無数の人の足音と声が鼓膜を震わせた。
──しまった。
「ここは、まだこんな状況なのか......」
競闘宮、ロビー。そこは逃げ遅れた賓客と報道者たちで完全に埋めつくされていた。
ロビーの関係者に説明を求める者、知人や友人とはぐれた者、さらにはその説明に追われる競闘宮の役員たち。
「......祓戈が取りだせない」
悲鳴と怒声の入り混じる喧噪を前に、エイダは奥歯を嚙みしめた。
祓戈を預けたロビーは人波をかきわけるような密集度。さらにあの混乱具合、荷を取りだせるような状況ではない。......どうする、祓戈を回収しなければ話にならないのに。
リィィッィィィン
どこかすぐ近くで、硝子が砕け散ったような乾いた音色が響いた。
「なんだ!?」
背後に振り返った途端、眼前に迫る相手の重圧感に総毛立った。体高だけで成人女性の背丈ほどもありそうな、巨大な獅子の外見をした混色の名詠生物。
──決闘会場からここまで来たのか!
間近で対峙し、あらためてこの相手の異様さが浮かび上がる。
五色が奇妙な配分で混ざり合う、獅子の外見をした名詠生物。その頭部には眼がなく、異様に大きく開いた口からは、刃のような牙がぬらりと光を反射している。
「さてどうするかなっと......」
向かいあったまま、左肩を突き出すように半身の構えをとった。敵の正体、能力も未知。素手で捌けるほど易しい相手とも思えない。
互いの視線が交差する無音の対峙。
触れれば切れるほど張りつめた静寂と緊張、それを破ったのは唐突な一声だった。
「君、離れなさい!」
触媒を携えて近づいてくる名詠士が一人。加勢? よかった、どうにかなる。
そう思った刹那、エイダの視界に何かが飛びこんだ。
「──だめだ、後ろっ!」
「え?」
名詠士の呆けた声。その直後。背後に忍びよった巨大な熊の姿をした名詠生物、それが振り上げた腕により、名詠士は壁まで薙ぎ払われた。
「っ! 平気か!」
返事もなく、そのまま壁際にくずおれる名詠士。その手から触媒が転げ落ち、コトッ、という小さな音と共に床を転がっていく。
「......最悪な展開になったな」
熊、そして巨大な獅子の外見をした名詠生物。意識のない名詠士には目もくれず、二体が共に自分へと距離を詰めてくる。
ここは退く? いや、それもできない。背後に響くのはけたたましいほどの悲鳴と足音。後ろの全員が逃げるまでまだ時間がかかる。時間を稼ぐことは必須。
──『G i l l i s u』。
「祓名民に逃走は許されない、か。ったく、面倒な家系に生まれたもんだね」
祓戈の代わり、その眼光でもって相手を穿つ。不安を悟られるな。ただでさえ一対二。好機と見れば、相手もまた一気に畳みかけてくる。
じりじりと距離が詰まる。
獅子から伸びた影がエイダの影に触れた瞬間──相手が動いた。つんざくような風鳴り音を従え、巨大な口を開けて飛びかかってくる。
呼吸を止め、瞬きすらせずエイダは敵の爪に視線を集中させた。
──求められるのは薄氷の交差。
後ろに飛んで回避するのではなく、前に身体を進めることで敵の照準を外す。
肌をかすめる爪を横目に捉え、獅子とすれ違う。そのすれ違いざまに、エイダは名詠生物の腹部を全力で殴りつけた。
「......なにっ?」
生物の感触ではなかった。ぐにゃりと、まるでゴム鞠を殴ったような。生半可な物理的衝撃では牽制にもならない。名詠による対抗か、やはり反唱でなければ。
が、それを悔やむ間もなく。
腕を交差、熊が打ち下ろす腕を受けとめる姿勢をとった。
「っ!」
腕の骨が軋み、悲鳴。罅が入り、砕ける──その直前でエイダは身体を退いた。
否、吹き飛ばされたというのが近かった。空中を数メートル、壁際まで一気に飛ばされる。その着地地点に、獅子が先回りする姿がわずかに映った。
まずい!
空中で姿勢を戻そうとするも、だが吹き飛ばされた衝撃がそれを許さない。
自分の背後、獅子が再び鋭利な牙を剝き──
「祓名民に求められるは薄氷の交差」
声が聞こえた。
「薄紙一枚未満の、直撃に限りなく近い完全回避が理想。すなわち、敵が自分を切り裂いたと錯覚するほどの精度で捌け」
背後で獅子のうなり声。咆吼? 違う、これは悲鳴だ。
......あ。
着地し、振り返る。その時には既に、獅子は光の粒子となって還っていく寸前だった。
「──ってのは師匠の教えだが、それはあくまで一対一の時だろ。一対二、しかも祓戈なしでそんなの狙ってどうすんだよ。ったく、かわらねーなその無鉄砲ぶりは」
自分の横をすり抜け、目の前の熊へと気軽な歩調でいく一人の祓名民。
長身、限界まで引き絞った体型だというのが背中を見るだけでわかる。だぶついた麻色のズボンに半袖シャツ、黒獣皮で織られたベストという服装。どれも色褪せた、洒落っ気のかけらもない無骨なスタイルだ。
......その声、それに服装、体格。
「お、お前! なんで──」
続きは言葉に出せなかった。
熊の外見をした名詠生物が無音の咆吼。巨体に見合わぬ俊敏さで男に襲いかかり、振り上げた腕が男の肩を骨ごと打ち砕いた......エイダですら、一瞬そう見えた。
名詠生物が腕を振り下ろしたまま動きを止め、そして還っていく。
そう、この名詠生物は最後まで気づかなかった。自分の攻撃が、瞬きにも満たない刹那のタイミングで完全に躱されていたことに。
速さではない。静から動へと移る、体捌きの流麗さだけでそれは行われていた。
「おいおい、なんでお前まで呆けてんだよ」
男の声に、ようやくエイダは我に返った。
「あ......ア、アルヴィル......?」
「いょぉ、久しぶり。元気か?」
右手に持った鎗を肩に担ぎ、気楽な様子で左手を上げる彼。......何一つ変わってない、自分が最後に見たあの時から。
アルヴィル・ヘルヴェルント──祓名民の長老ルーファが自身最後の弟子と認めた男。
年齢が近いせいか性格が底抜けに明るいせいか、あるいはまた別の部分に惹かれたのか。自分にとっては、祓名民という閉塞した組織の中で唯一心許せる男だった。
「ほら、くれてやる」
無造作に彼が放り投げる鎗を反射的に摑んだ。
......これは、あたしの祓戈?
「質の悪い模造品だ。お前が派手に壊した祓戈を直した時にサイズ測ったからな。長さも重さも適当だから、自分の祓戈と信じて振るうと火傷するとだけ忠告しとくぜ」
適当? とんでもない。寸法、重量。握った感触もそうだ。慣れ親しんだ自分の祓戈とほぼ一致する。おそらくその誤差は長さ一ミリ、重さ一グラム未満の極小単位。
「それより何なんだよ、あのザマ。俺がいなかったらどうなってたかもわからないぜ」
祓戈を肩に担ぎ、アルヴィルは呆れ果てた表情だった。
「そ、それは......」
「それとも、自分は可憐な女の子だから、きっと愛しの恋人がどこからともなく助けに来てくれるはず。なぁんて甘い夢、見てたりしねーよな?」
──それは、自分が夢見てはいけないこと?
〝ねえ、女の子が男の子に守ってもらうのってどんな気分なの?〟
クルーエルとの会話の一端が、脳裏を焦がすほど熱く駆けめぐった。
「バカやろう! そ、そんなわけないだろ!」
自分でも理解できぬ感情に押されて叫んだ。なんだろう、このもどかしい感覚。恥ずかしさとやりきれなさと、自分でもよくわからない胸の苦しさ。
「祓名民ってのはな、他人に守ってもらうことなんざ期待しちゃダメなんだよ。お前は男に守ってもらうなんざ望むべきじゃない。少なくとも祓名民でいる間はな」
「しつこい、期待なんかしてないって言ってる!」
するとアルヴィルは、おどけたように肩をすくめ。
「そうか、そいつは残念」
「なに?」
「いや、今のはクラウスの旦那が言いそうなセリフを言ってみただけ。俺からすりゃ、そんな感じで夢見がちなお前は嫌いじゃないんだけどな」
──まぶたの上が、熱い。
顔中が真っ赤になっているのが自分でも嫌になるくらいわかった。
「人をおちょくるのもいい加減にしろっ!」
今度こそ、今度こそ我慢の限界だった。
「お前はいつもそうだ、あたしをからかってばっかり。それなのにあたしが何か言おうとするとすぐにどっかに隠れるんだ! 今まで何をしてた、ルフ爺だって親父だって......あたしだってずっと捜してたんだぞ!」

どれだけ、どれだけ気がかりだったか。
......心配かけたな、そんな一言だけでも口にしてほしかった。
「だけど悪ぃな、今ここで長話してる時間はねえんだよ」
くるりと彼が背を向ける。
「お、おい、アルヴィル!」
「明日の深夜二時ジャスト。外環層の四階、資料閲覧室に続く大通路だ。真実なんて格好いいもんじゃねえが、お前の知らない事実を教えてやる」
「......言ったな。逃げるなよ、今度こそ」
「それはいいんだけどよ、俺にかまうより先にやることがあるだろ」
──そんなことわかってる。
混色の名詠生物。外環層に入ってきたのは先の二体だけだったらしいが、決闘会場ではまだ無尽蔵に近い数が残っているはず。
「じゃあな、せいぜい死なない程度に頑張れよ。......ったく、ネシリスも目を光らせてるみたいだし、こりゃミクヴァ鱗片の回収は無理だな。だから姐さんを連れてこいって言ったのによ」
祓戈を背中に担いだまま、地下に続く通路へとアルヴィルは姿を消した。
3
「......すごい」
言葉を選ぼうとしても、ネイトにはそれ以上ふさわしい言葉が思いつかなかった。クルーエルの詠──何かを名詠したわけではないから〈讃来歌〉ではない。しかしただの詞と旋律の組み合わせでなかったことは確かだ。
とりわけ気になったのはその言語。
セラフェノ音語を構成する単語に加え、自分の知らぬ単語と文法が加わっていた。セラフェノ音語によく似た......いや、あるいは似ていながらも非なる異質の言語?
「クルーエルさん、今のどうやったんですか」
徐々に環をちぢめ、最後には完全に消失した頭上の名詠門。そればかりではない、決闘会場に降り立つ混色の名詠生物も、心なしか動きの統制が乱れているような。
「えっと、実はね、わたしもよくわからないの」
詠を終え、ふわりと髪をなびかせてクルーエルが振り返る。
「......わからないってどういうことですか?」
「そのままだよ。なんか理屈抜きに、ずっと前から知ってたような気がするの。それを、またアマリリスが教えてくれたっていうのかな」
自身返答に困ったという面持ちでクルーエルが宙を眺める。
「あ、その......ごめんね。全然答えになってなくて」
「い、いえ」
はにかむクルーエルに、ネイトは首を横に振った。アマリリス、まさかこのタイミングで聞く名前とは思わなかった。......だけど、まだそんなの考えられる状況じゃない。
三桁に及ぶであろう混色の名詠生物。それが十数体、徐々に自分たち二人に向けて包囲網をちぢめてくる。
「どうしよう、わたしたちまともな触媒ないもんね。......わたしは、ちょっと痛い思いすれば一回くらいなら詠べるけど。ネイトは?」
「いえ、僕もあることにはあるんです。だけど」
自分の足下をじっと見つめ、ネイトは小さく吐息をついた。そう、触媒はある。だけど絶対的に足りない。必要な大きさは、最低でも自分と同じかそれ以上。
頭上を仰ぐ。暗褐色の雲が不気味なほどの速さで千々に流れゆく天上。嵐でもやってくるのではないかと思うほど上空は風が強く、そして天候も崩れている。......だめだ、これでは陽が差すことはとうてい望めない。
ならばやはり、この包囲網を抜けて触媒を取りに行くしかない?
「──そう、それなら迷ってないで早く行きな!」
裂帛の叫び。それも自分の心中を見抜いたような声が響いたのはその時だった。
刹那、目の前まで迫ってきた包囲網の一角が崩壊するように割れた。次々と吹き飛ばされ、あるいは還っていく混色の名詠生物。
毒々しい色の光が立ちこめる中、それを払うように銀色の閃光が煌めいた。
「悪い、遅れた!」
自分の身長より長い鎗をかざし、祓名民の少女が叫ぶ。
「エイダさん!」
「ちび君、クルーエル、ロビーに預けた触媒は無理だ! 避難する人でいっぱい、とてもじゃないけど取りだせる状況じゃない。おまけにこいつらが何体か外環層まで入ってきてる。狭い通路でぶつかったら逃げられない!」
エイダからの報告に奥歯を嚙みしめた。
預けた触媒はだめ。ならやはり、使えそうな触媒は一つしか残されていない。
「二人とも、なんでもいいから触媒に使えそうなのを探せ、そうでなければ最上段の避難口から外に出ろ!」
眼前の名詠生物数体を牽制し、エイダが観客席の階段を駆け下りる。
「クルーエルさん、行きましょう」
が、彼女からの返事はなかった。
「......クルーエルさん?」
「ネイト、待って!」
クルーエルがじっと見つめるのは観客席の最上段だ。避難口の陰に身を潜めながらも、なぜかその場に留まったままの少女。
円周状の観客席の、ちょうど正面側。直線距離でもかなり距離があるため定かではないが、あの赤みがかった葡萄酒色の髪は......ヘレンさん?







ああもうっ、わたしのばか。
「......なんでさっさと逃げなかったんだろ」
呼吸すら殺し、ヘレンは避難口の陰に身をよせた。
とくん、とくん──自分の小さな鼓動すら怖い。競闘宮を蹂躙する、あの不気味な名詠生物に聞かれているような気がして。
賓客も司会も、全てが避難した観客席。残っているのは自分だけ......?
たかだか避難口からちょっと顔を出して会場を覗くだけ。それだけで様子がわかるのに、どうしてもそれができないでいた。
「できるわけ......ないよ」
もし会場を覗いて、すぐ目の前にあの不気味な名詠生物たちが密集していたらどうしよう。目が合ってしまったらどうする? そうでなくとも、顔を覗かせた途端に恐ろしい光景が広がっていたら。
たとえばレフィスやネイト、クルーエルたちが倒れていたら......ううん、知り合いじゃなくたって、大勢の人が血塗れで倒れていたらどうしよう。それが怖くてたまらない。
どれもこれも、思えば全てあの一言のせいだ。
〝その赤いハンカチ、大切にした方がいい。いざという時、きっとあなたの身を守ってくれるから〟
名も知らぬ少年、いや少女だろうか。あの謎の人物から告げられた謎めいた一言。それが気になって、レフィスと別れた後も観客席脇の避難口に隠れていたのだ。
「レフィスのうそつき、すぐ戻ってくるって言ったじゃない」
──カツッ
背後、すぐ近くで足音が響いた......レフィス?
反射的に振り向いた先。
「っ、お前......」
あろうことか、立っていたのはドレスエンの制服を着たあの男子生徒だった。
「くそっ、よりによってお前か」
自分を見るなり吐き捨てるように顔を歪めるその仕草。普段なら笑って無視できるはずなのに、今だけはそれが無性に腹だたしかった。
「な、なによ! あんたこそこんなとこで何して......あ、そっか、どうせあんたも途中であの名詠生物に見つかったんでしょ。逃げてこれただけでもマシだったわね」
「っせえよ! 触媒があればあんなヤツら──」
睨みつける彼の目が大きく見開いた。
「なによ、人のことジロジロ見ないで」
「お前......それ」
呆気にとられたような視線が示す先はヘレンの両手。それもヘレンの両手に固く握られた赤いハンカチだった。
「赤の触媒? なんでお前だけそんなもん持ってるんだよ」
「こ、これは、ただのハンカチとして持ってただけよ!」
その言葉にうそはない。単なるハンカチとして競闘宮に携帯し、それがそのまま警備員のチェックを通過してしまったのだ。
「テキトー吐かしてんじゃねえよ! ただのハンカチっつぅんなら、なんでそんな大事そうに抱えてやがるんだ」
「それは......」
〝その赤いハンカチ、大切にした方がいい。いざという時、きっとあなたの身を守ってくれるから〟
言えやしない。言ったところで信じてくれるわけがない。
「まあいい、貸せ」
「え?」
「貸せっつってんだよ! お前みたいな赤色名詠も使えない奴が持ってたってしょうがねえだろ。俺がそれで詠べばここから逃げだせるだろうが!」
貸す......それは、託すということ?
〝それをどう使うかはあなた次第〟
わたし次第。選択権はわたしにある。だけど、あの時あの人は──
〝あえて言うなら、託す相手を間違えないようにね〟
託す相手、でも間違えられるだけの選択肢がそもそも残ってないじゃないか。
レフィスは赤は使えないはず。それならレフィスと一緒に行ったネシリスさん? いえ、あの人が有名なのは青色名詠。全然わからないよ、いったい誰に託せばいいの。
「おい、早く渡せ、ここだっていつまで平気かわからねえんだよ!」
まさか、本当にこの男子生徒?
こんな傲慢で大ッ嫌いな奴に、わたしは守られなくちゃいけないの?
──理屈ではなく、こみ上げる感情が先に爆発した。
「だめ」
「あ?」
「いやだ! あんたなんかに絶対渡さないんだから!」
誰がこんな奴に、こんな奴に託すくらいなら、それこそ無茶を承知で自分が赤色名詠に挑戦した方が絶対マシだ!
「てめぇ、いい加減にしやがれ!」
「い、痛っ!」
男子生徒に突き飛ばされ、ヘレンは壁に背中から衝突した。ハンカチを両手で握りしめていたせいで、受け身もとれずに膝をつく。壁に手をついて起き上がろうとした矢先──
ぐねりと、壁の質感が変化した。
「え?」
まるでゴム鞠に手で触れたような触感。......あれ、この壁、こんな色だっけ。
灰色じみた白壁かと思っていたのに、今この壁は毒々しい色に染められたまだら模様。それも徐々に立体感をおびて浮き上がってくるような。
そう、まるで巨大な獅子のかたちに。
「壁の中を通り抜けてここまで......? 何なんだよこの化け物はっ!」
かすれ声を上げてドレスエンの生徒が後ずさる。
「うそ、でしょ」
自分の知る名詠式じゃない、その遥か範疇外にいる奇妙な名詠生物。それが自分の目の前にゆっくりと壁の中から現れた。
......あは、あはははは......やっぱりだ、いいことなんかこれっぽっちもない。こんなハンカチ、持ってたって不幸になるだけじゃないか。
「伏せて!」
......誰。
眼前で牙を剝いていた獅子目がけ、もう一体、真紅の獅子が躍りかかった。
獅子二体の咆吼が通路に響く。互いに爪を立て、相手を組み伏せようと唸り声を上げて猛り狂う。二体目の獅子は、ヘレンもジール名詠学舎で見た記憶があった。
──赤獅子。だけど誰が。
「ヘレン、平気!」
緋色の髪の少女が駆けてくる。
「クルーエル?」
「どうしたのヘレン、てっきりレフィスと一緒だと思ってたのに!」
「......ごめん、頭が混乱しちゃってて。でも、レフィスはネシリスさんと行動してるはず」
どうしてだっけ。確か、原因の触媒を破壊するって言っていた気がするけれど。
「そう、でもよかった。なんとか間に合ったみたいね」
表情をゆるめ、クルーエルが自分の左手の甲を右手でさする。
「っ! クルーエル、その傷どうしたの!」
左手の甲が赤く腫れ、その箇所にうっすらと血が滲んでいた。
「え、これ? うん、ちょっと名詠に使うものがなかったから」
クルーエルの手に滲んだ真っ赤な血。そして今の赤獅子。名詠学校の生徒ならば、そこから推測されることはただ一つ。
「あなた、まさか自分の血を触媒に使ったの」
「......う、うん」
「ばか、何やってるのよ!」
クルーエルの左手首を摑み、ヘレンは状況も忘れ金切り声を上げた。
「あなたね、血で名詠をするっていうのがどれだけ危険なことか知らないの! 遊び半分でそれを試して、悲惨な事故に遭った学生がどれだけいるのか。どの名詠学校でも教わる禁止事項のはずよ、学生は絶対やっちゃいけないって習ったでしょ!」
誤って動脈を傷つけて血が止まらなくなった例。
あるいは傷が浅くとも、出血時のショックで名詠が暴走した例。
かつて何度となく起きた悲劇であり、どれだけ注意を呼びかけても必ずどこかの名詠学校で起きてしまう事故だ。
「......だってヘレンが」
「だってじゃないわ! 本当に、それだけは赤色名詠の禁忌に近いの。そんなこと専攻者じゃないわたしだって知ってるわ!」
心の中で、張りつめていた何かがぷつりと切れた。
「クルーエル、あのさ......そこまでして助けてくれたのは嬉しいよ、だけどお願い、もう絶対にそんな危ないことしないで」
クルーエルの手を握り、ヘレンはその手の甲に赤い布を押しあてた。
「ヘレン......これ......?」
「わたしのハンカチ、汚れてないから平気よ。あんまり意味もないだろうけど、それでも止血用にあてておいた方がいいから」
〝その赤いハンカチ、大切にした方がいい。いざという時、きっとあなたの身を守ってくれるから〟
結局、あの言葉は半分だけは当たりだった。笑えない皮肉だ。わたしの身を守るのでなく、わたしのことを守る代わりに傷ついた子のために使うことになるんだなんて。
「ち、違うの。そうじゃないの!」
が、なぜかクルーエルは慌てたように首を振り。
「なんで......ヘレンはこんな赤いハンカチ持ってるの」
「警備員のチェックもれみたい。どうせわたしは赤色名詠は使えないし、コレだって役に立つんだったら使ってあげた方がいいものね」
「本当に、使ってもいいの?」
ためらいがちに見つめてくるクルーエルに、普段どおりの笑顔をつくろった。
「血がついちゃうのは気にしないで。どうせ赤だから目立たない──」
「ううん、違うの。この赤いハンカチ、わたしの名詠に使わせてもらっちゃだめかな」
「──え?」
唐突な彼女の申し出にヘレンは一瞬言葉に詰まった。
「わたしもこれ以上血で名詠するのは無理そうだし。だから、もう触媒がなくて困ってて......だめかな?」
「う、ううん、とんでもないよ。でも何を詠ぶつもり?」
するとクルーエルは、妙に悪戯っぽい笑顔で。
「えっとね、小さな赤い花」
花? この状況で?
「おい待てよ。そんな奴に名詠させて、しかも詠ぶのが花? ふざけるのも大概に──」
ドレスエンの生徒が詰めかけた時、誰かが避難路へと飛びこんできた。
「クルーエル、そっちは平気だった?」
息を切らせ、亜麻色の髪をしたボーイッシュな少女が駆けよってくる。
──エイダまで。だけど、その手に持った鎗はいったい何?
「うん、なんとか無事だよ。それとね」
その彼女に振り返り、クルーエルが器用に片目をつむる。
「ネイトに、触媒は用意してあげるから準備してって伝えて」
「あいよ、じゃあここは任せたから!」
つむじ風のような速さで観客席へとエイダが走っていく。
「......クルーエル、あなた何を詠ぶ気なの。それに触媒を用意するって」
「えへへ、まあ見てて」
彼女の手に巻かれた赤いハンカチが同色の輝きを放ちだす。小さな、本当に小さな名詠門。そこから生まれたのは、彼女が最初に告げたとおり一輪の緋色の花。
あれ、なんだっけこの花。小さい頃に植物図鑑で見た気がする。
ア......アマ......ええと、だめだ。すぐ喉元まで出かかってるのに思いだせないなんて。
「お前っ、貴重な触媒をこんなくだらねえことに」
ドレスエンの男子の怒鳴り声を、クルーエルの凜とした視線が制した。
「くだらなくないよ、ヘレンが貸してくれた物だもの。わたしだって自分にできる精一杯の名詠をするに決まってるじゃない」
「ならなんで──」
「あいにく、わたしの名詠はここからなの」
手元の花にクルーエルが小さく何かささやいた。
その微かな吐息の風にそよぐように、緋色の花弁が眩く輝いていく。
名詠門から現れる、さらに無数の緋色の花たち。花の楽園でもあるかのごとく、通路に緋色の風が吹き荒れる。
無数の花弁が風に溶け、それはいつしか、煌めく真紅の羽へと姿を変えていた。
......え、なにこの、綺麗な赤い羽根。
ただの赤い羽根ならヘレンにも分かる。だがこんなにも美しく燈える羽根の名詠は見たことがない。そして、そんな羽根を持つ名詠生物も同様に見たことが──
『それにしても、こんな狭い通路に詠びだされるのは窮屈ですね』
最初は、学生決闘で見た火食い鳥かと思った。でも違う。その大きさも二回り、美しさと優雅さにかけては比べものにならないほど、その名詠生物は飛びぬけていたからだ。
赤く燈える、幻想的な輝きを放つ真紅の巨鳥。
......うそ、だってこの名詠生物って、名詠士の中でも幻になってる──
「フェ......エ......ック」
喉がふるえて、ヘレンは声にならなかった。隣にいるドレスエンの生徒にいたっては、目を丸くしたままぼうっと口を開け、突っ立っているのがやっとらしい。
間違いない、黎明の神鳥だ。
『それでクルーエル、わたしはこの二人のお守りをしていればよいのですね?』
お......お......お守りぃっ?
「クルーエル? コレ、本当にあなたの名詠?」
「うん」
「......当然、真精なんだよね」
「そうだと思うけど」
あっさりうなずくクルーエル。けれど真精を、しかも黎明の神鳥をいとも簡単に?
そんなことができる生徒なんて聞いたこともない。
「でもクルーエル、あなたはどうするの。まさかあの不気味な名詠生物と戦う気?」
「ううん、わたしはネイトの手伝いだよ」
──ネイト。
小柄で、あのちょっと頼りなさそうな少年の手伝い?
「といっても、わたしが用意するのはこれくらいだけどね」
床にこぼれ落ちた花の花弁を一片すくい、クルーエルがそっと表情をほころばせる。
「なんかね、ネイトが明かりがほしいみたいなの。空が曇ってるから、代わりに競闘宮を照らすものが必要なんだって。だから赤色名詠の熱妖精がいいかなって」
熱妖精は赤色名詠の第三音階。持続する光源として、数ある名詠生物の中でも特に有名な部類に入る。
「無茶よ! いくら熱妖精でもせいぜい数メートルを明るくするぐらいでしょ。この競闘宮全体を照らすなんて、それこそ何十体いれば──」
「とりあえず二百体くらい詠んでみればいいかな」
「にひゃっ......!」
今度こそヘレンは絶句した。
そんな花びら一片で、できるわけがない。いや、たとえどれほど強力な触媒だったとしても、二百なんて数字は聞いたこともない。なのに彼女は、まるでそれができて当たり前という口調。
あなた本当に何者なの──そう訊ねようとした口が凍りついた。
「......クルーエル?」
いつのまにか彼女の表情は土気色だった。よく見れば額の汗も異様、あご先からも雫がしたたり落ちている。頰も熱っぽいし、目も熱を帯びたように腫れている。
「クルーエル、クルーエルってば!」
「平気だよ。ちょっと......慣れない真言を詠ったから疲れただけ」
避難口の壁にクルーエルがふらりと寄りかかる。
「ダメよ! ネイトの手伝いっていったって、そんな状態で──」
「ううん、わたしが、自分の意志でしたいって決めてることだから」
......昨晩、一緒の部屋で話していた時から小さな予感はあった。
一緒に話してて、ネイトの話題になるとクルーエルは妙に真剣で、それでいてムキになることがあった。でもそれは単なる同級生とか、そういった範疇に収まる程度のものだろう──そう思ってた。けれど。
「ずっと前からそうだもの。ネイトがトレミアに来た時から、それだけがわたしとネイトの約束だから」
でも違う。今のクルーエルの双眸は、それ以上に強い関係を瞳に映しだしている。
そう、まるで恋人を想う時のような。
まさか本当に彼女は、本気でネイトのことが──?
「......クルーエル、あなたもしかして、本当にネイトのことが」
「あはは、わたしにもよくわからないの。なんだろうね、こういう気持ち。わたしも困ってるんだ。でも嫌いじゃないのは確かだよ」
恥ずかしそうに、でも彼女はこの上なく嬉しそうな表情だった。
De xeph,clue-l-sophie pheno
一片の花弁が輝き、徐々にその光が強くなっていく。
避難口全体を照らし。
観客席へと届き。
最後に、競闘宮の決闘会場全てが光に包まれた。
競闘宮の頭上に輝く数十の、いや、数百にもおよぶ熱妖精によって。
......夢みたい、本当にこんなことが。
「で、でも! こうして競闘宮を照らすことにどんな意味があるのよ!」
「わたしも聞いてないの。でも、ネイトはやる気みたいだよ」
ネイトが......そういえば彼の名詠色はまだ聞いていなかった。
彼の専攻色は、何色なんだろう。







「ちび君、上!」
エイダの声にネイトが頭上を仰いだのは一瞬だった。太陽を直視するにも似た、痛いほどの眩しさにまぶたを閉じる。
何十、何百にも届く数の熱妖精。
その輝きに照らされ、観客席全体に真昼のような明るさがよみがえる。
「はい、行きます!」
観客席中段。最上段と下段をつなぐ踊り場で、ネイトはその場に片膝をついた。
そう、名詠に必要な触媒はここにある。
頭上の光源に照らされることで生まれた、踊り場に延々と伸びる自分自身の影が。
「これだけあれば......!」
はやる気持ちを抑えネイトは自らの影に両手で触れた。光の下に晒されるだけで消滅してしまう儚い夜色。だがこれこそが、自分の名詠を成すための理想の触媒。
──『Ezel』──
光を持たないはずの影。その影の中心に輝く夜色の名詠門。が、そこからはまだ何も生まれない。小さな名詠生物の一匹も。
......だめだ、このくらいの大きさの環じゃ足りない!
「ちび君、早くっ!」
離れた位置からエイダの怒号。
ただでさえ目立つ踊り場でしゃがみこむ。そんな無防備な状況を敵が見逃すはずがない。一体、二体、三体。敵意を剝きだしにした視線が集中するのを全身で感じる。
......早く、早く。それにもっと大きく!
焦りがつのる。学園で練習したものの何倍もの環。できるのか、できるとして間に合うのか。完成する前に潰されては全てが水泡に帰す。
ならば諦める? ここは逃げる? 逃げないまでも距離をおいて時間を稼ぐ?
脳裏に直接響く自分の声は、あらゆる生物が備える生存本能からの警告。
だがそれと共に──
〝なあ少年。お前もしかして、自分を過小評価し過ぎていないか〟
脳裏に幾重にも反響する、エンジュへ発つ前に伝えられたあの言葉。
それは百の言葉を重ねられるより重く、千の言葉を浴びせられるより痛かった。
〝少年、私はな、お前自身の決意が聞きたいんだ〟
〝お前は他人を信じるあまり相対的に自身を過小評価しているようだが、もうそろそろ自分を信じてみても悪くない〟
信じてくれる人がいる。
......クルーエルさんのために行くって決めたんじゃないか。
だったら何を迷う。この場で僕が、僕自身を信じるしかないじゃないか。今まで積み重ねてきたことを信じるしかない。決めたんだ、逃げないってっ!
──それがきっかけだったかはわからない。
けれど確かにその時。自分の中で、何かがカチリと音をたてて組み合わさった気がした。
鳴らずにいた柱時計が、動かないままだった心の秒針が。
今まで回りきらずにいた全ての歯車が、嚙み合った。
観客席の四方、そして上空。
全方位から混色の名詠生物が津波のように押しよせて──
お願い僕の名詠式。
もっと、もっともっと大きな名詠門でなきゃ足りないんだ、だから!
elmai xaln wos teouc xeoi clar,O soa valen lef karel
「──開放けぇっ!」
叫鳴。それに呼応するように夜色の環が波紋のように拡散した。
自らの影を越え、踊り場を包み、直径百メートルを越える巨大な円環を形成。そして同時に、混色の名詠生物のほぼ全数が夜色の円環内に収まった。
「通常の名詠門が......ここまで巨大に?」
観客席を覆う夜色の輝きに、遥か遠くから聞こえるヘレンの愕然とした呟き。
ここまでが名詠のための第一条件。
何かを詠びだすためのものではない。これは言うなれば、ただひたすら巨大な名詠門を詠びだすための名詠。
──そう、名詠生物じゃだめなんだ。
これだけの数の名詠生物に対抗するには、それこそ夜の真精などの強力な一体、あるいはこちらも数を揃えるかの二択。だがどちらも競闘宮のような建物内では活かせない。
ならばクルーエルのあの詠のように、別の要素を詠に組みこむ必要がある。
その要素が。
〝エイダさん、影絵ってわかりますか〟
〝うん、物を反対側から光で照らして、そのかたちを別の壁とかに映す遊びだろ〟
〝それを祓戈で頼みたいんです。名詠生物を反唱するつもりで僕の名詠門に祓戈を重ねてください。大事なのは、熱妖精の光で生まれるその影が、名詠門に触れるように〟
必要な情報は彼女へと伝えてある。あとは。
「エイダさん!」
「了解、任せときな!」
名詠門の核、すなわち自分の影目がけてエイダが祓戈を振り下ろした。キンッ、鋭い金属音を従え、踊り場の床に鎗の切っ先が突き刺さる。
鎗の切っ先が名詠門を穿った瞬間──観客席全体に展開する名詠門から、無数の何かが天上目がけて放射された。
O le hypn U pheno sias,ris meli lef keofie loar
それは、祓戈の切っ先を模った夜色の鎗だった。熱妖精に照らされた祓戈の影。それが夜色名詠の名詠門に投影、反射、増幅されて名詠された閃光。
数百、数千におよぶ夜色の鎗が、混色の名詠生物の足下から射ち上がる。
「......これは」
その光景を目の当たりにし、エイダが大きく目を見開いた。
天上へ向けて無数に放射される夜色の鎗。その切っ先に射貫かれたところで名詠生物に外傷はない。外傷もダメージもないまま、淡い光の粒を残して消えていくのだ。
「この鎗のかたちをした影が全部......反唱!?」
反唱の効果を付与した、祓戈の切っ先を模った閃光。
通常の反唱同様、触れなければ効果はない。だが観客席全体に展開した夜色の名詠門から幾百、幾千と、放射されるように名詠されれば回避する術は皆無。
反唱を受け一体、また一体。
またたく間に名詠生物がその数を減らしていく。
数百体の熱妖精が生みだす強力な光源。そこから生まれる触媒としての影と、投影用のエイダの祓戈。さらにはそれを増幅させ、名詠して射ちだすための巨大な名詠門。
数多の要素を組み合わせた複合的な夜色名詠式。
「......うまく......いった?」
名詠門から天上へと放射される夜色の閃光をネイトはじっと見つめた。
名詠の条件達成そのものが困難だった超大規模の反唱、失敗していればどうなっていたかはわからない。だが、それでもふしぎと失敗する気がしなかった。
──サリナルヴァさんにも、帰ったら教えてあげないと。
一体として残らず還っていった名詠生物たち。静寂の帳が降りた観客席で、ネイトとエイダの安堵の息だけがこだました。
「ふぅん、何するかと冷や冷やしたけど、ちび君も少しは成長したもんだねえ」
バシッ、と力いっぱいエイダに背中を叩かれた。
「......エイダさん痛いです」
「いいんだよ、こういう時はこれくらい力こめないと。でもね、クルーエルにもちゃんと礼言っておきなよ?」
エイダが親指を真上に立てる。
「──はい」
その先に、今なお燦々と競闘宮を照らす熱妖精たちの姿があった。
4
カッ......コツッ......
通路を支配する静寂を破るのは二人分の足音だった。
「まだか」
先を行く男の背に、レフィスは数分前と同じ質問を繰り返した。
「じきだ」
先とまるで変わらない返事に焦りだけがつのる。
──まさか、決闘舞台に続くこの通路まで入りこんでいるとはな。
前方、後方、そして真横の壁を凝視して進んでいく作業。この厚い壁の中から名詠生物が襲ってきた時は肝を冷やしたが、それは前を歩く名詠士に助けられるかたちになった。〈イ短調〉第二番、ネシリス。
今まで通路で遭遇した敵は十体を数えるが、そのほとんどをこの男一人で対処してしまっていた。実際、レフィスの出番は一度か二度。
──これが青の大特異点か。
名詠式においては千回に一度、万に一度の割合で、通常の個体を遥かに上回る性能を持つ超常個体が名詠される。本来はまったくの偶然の産物であるはずの特異個体。だがごくまれに、詠びだすもの全てが特異個体になる名詠士がいる。それが大特異点。
小さな氷の破片のはずが、通路をせき止めてしまうほどの氷塊に。第二音階名詠である小型精命の氷狼が、第一音階名詠の真精級の強さを持って名詠される。
......ヨシュア、やはりこの世界にはまだまだ俺の知らない怪物がいたよ。
すなわちこの男は、一般の名詠士が長大な〈讃来歌〉を用いて詠びだす真精を、ごく軽い気持ちで名詠した通常の名詠生物で相手にできてしまうのだ。
「静かだな」
通路の角を曲がる直前で、先を行くネシリスが唐突に足を止めた。
......なんだ、通路が眩しい?
ネシリスに続いてレフィスもまた通路の角を曲がり──
さぁっと、瞬く間に視界が開けた。学生決闘で一度は通過した入場門。その先には昨日とまるで変わらぬ光景が展開していた。
砂地でできた直径五十メートルの決闘舞台。
違うのは舞台中央に設置された台座、そして観客席の静かさだ。そう、あまりに静かな観客席。誰かの声も、動く影もほとんどない。
「名詠生物が......いない?」
どういうことだ。まさか競闘宮外に。いや、あれだけの数がこの短時間で一斉に移動するとは思えない。
「どうやら面倒な駆除作業はあらかた済んだらしいな」
「......なに?」
その一言に、レフィスは反射的にネシリスの視線をなぞった。
見上げる方向は観客席の踊り場。そこに亜麻色の髪をした小柄な少女が、自分たちに向けて気楽な様子で手を振っていた。......あれは確か、エイダ。
「クラウスという名を聞いて、まず誰を思い浮かべる?」
やおら、ネシリスがまるで突拍子もないことを訊いてきた。
クラウスという名は珍しいものではなく、どの街でも必ず一人はいるだろう。しかし幸か不幸か、自分にその名の知り合いはいない。思い浮かべたのは必然的に著名人だった。
「その名前で俺が知ってる男は祓名民の頭領だけだ」
「あの娘はそのクラウスの一人娘だ。エイダ・ユン=ジルシュヴェッサー、最年少で祓名民の最上級となる後名を与えられている」
「......彼女が?」
祓名民とは反唱にのみ特化した能力者だ。過酷という言葉では収まりきらぬ、身体への過負荷の限界に挑戦するような者たちばかり。求められる技量は、それこそ人間業をこえてようやく半人前だとも言われている。
「だがエイダだけというわけでもなさそうだがな」
その一言に、レフィスはあらためて周囲を見回した。なるほど、エイダ本人がいる観客席はともかく、自分たちの決闘舞台まで名詠生物が一掃されている説明がつかない。それこそ何か、広範囲にわたる名詠を使用したと考える方が妥当。
「まあ、これこそ悩む必要もなさそうだが」
エイダの隣にいる少年を見上げ、ネシリスが珍しくも苦笑の面持ちになる。
その視線の先──エイダに何かささやかれ、からかわれているらしき少年。神秘的な夜色の髪と瞳をした、まだ幼さの残る面だちをした......
「ネイト?」
ばかな、彼は自分同様に触媒を受付に預けていたはず。名詠しようにも触媒がなければ話にならないはずなのに。
「聞きたいことがあれば後で聞くんだな。今は」
決闘舞台の中心に配置された黒塗りの台座。そこにあるはずの触媒へと目を向けたその途端、ネシリスの言葉がぷつりと途切れた。
「......どういうことだ」
初めてだった、この名詠士の言葉に一抹の動揺が感じとれたのは。
破壊するはずの触媒。
台座に置かれたそれが既に跡形もなく砕け、崩れ落ちていたのだ。
「まさか、俺たちより先に誰かが砕いた?」
決闘舞台への入口は二つ。自分たちが入ってきた通路と、その正面に位置する通路。
自分たちより先、誰かがここに到着した可能性もゼロではない。
「あるいは自壊したかだな」
まるで砂の粒子のように細かく砕けた触媒。
光を浴びて輝くそれを、ネシリスは睨みつけるように見下ろしていた。
「まあいい、ひとまず目的は達した。俺たちも出るぞ......おそらく、競闘宮は数時間後には全面封鎖になる」
七奏・陽『夜 ─予兆─』
1
ネイトが宿舎に帰った時には、既に頭上はうっすらと星が瞬く時間になっていた。
「ネイト君、クルルお帰りなさい。遅かったから心配したんだよ!」
宿舎の玄関で、にこやかな笑顔と共にミオがパタパタと駆けてくる。
「はい、ミオさんも戻られてたんですね」
「とっくの昔だよ。アーマもね、ネイト君の部屋でずっと待ってるはずだよ」
部屋の方角を指さすミオ。
しかしそんな軽快な仕草もそこそこに、ミオはふと音量を絞った声で。
「ねえねえネイト君、今日競闘宮で何があったの!」
「......競闘宮で、ですか」
「うん、あたしがちょうど喫茶店の中にいた時だったらしいんだけど、競闘宮の真上にね、ものすごい数の名詠生物がいたんだって。競闘宮から逃げてきた人もいたみたいで大騒ぎになったんだから!」
小声でまくし立てるように続け、しかしミオの唇は次第にゆっくりと動きを止めて。
「......やっぱり、あの触媒?」
次のミオの声にはわずかな怯えがあった。
「──はい、でも何とか収まりました。エイダさんはシャンテさんと少し話してから帰るみたいで、ヘレンさんとレフィスさんもそろそろだと思います」
こと細かく伝えてもミオの不安を煽るだけ。いまだ多くが謎だが、今は事態が沈静化したことを強調した方がいい。あらかじめエイダたちとも決めていたことだ。
するとミオは、今度は隣のクルーエルに不安そうな顔を向け。
「ねえ、クルル左手どうしたの、ちょっと赤くなってるよ......まさか競闘宮で」
「ううん、さっき帰る途中に道路で転んじゃったの、でもかすり傷だから平気」
クルーエルの傷も同じこと。本当は血を触媒に利用したための傷だが、そんなことを伝えればますますミオが心配するに違いない。
「クルル......本当? 本当に?」
「もちろん、わたしもネイトもご覧のとおり元気でしょ?」
しばしミオは無言でクルーエルを見つめ──
「うんっ、信じる!......良かったよぉ、みんな帰ってくるのが遅かったから、あたし心配してたんだからね」
緊張の糸が切れ、笑顔のままミオが目の端をぬぐう。
「でも無事で良かったぁ。二人ともまっ黒だけどケガもなかったみたいだし、夜ご飯はみんなで乾杯しないとね!」
うんうんと一人元気にうなずくミオと対照的に。
......まっ黒?
彼女のなにげない一言に、ネイトはクルーエルと無言で顔を見合わせた。
なるほど、帰り道は暗がりのせいで気づかなかったが......
「ネイト、顔まっ黒だよ」
「クルーエルさんだって制服まっ黒です」
競闘宮の決闘舞台に舞い上がった土埃のせいだろう。あの後シャンテやネシリスと合流した時に指摘されなかったのは、つまり全員が同じような状況だったからなのだろう。
「ネイト君は顔を洗ってくること。クルルも着替えるかお風呂入ってきたら? エイダが帰るまでただ待ってるのはもったいないでしょ?」
笑顔のまま、怪しげな四本腕のわら人形をミオがぎゅっと握りしめる。彼女曰く、昨日の露店で買ったラッキーアイテムなのだとか。
「ミオさん、それ」
「ん? なあにネイト君?」
人形から腕が一本ポロリと取れたのだが、本人はまるで気づいてないらしい。教えるべきかどうか。数秒ほど迷ったものの──
「......ううん、なんでもないです」
嬉しそうに聞き返すミオに首を振り、ネイトは自分の部屋へと歩きだした。
2
「あー、疲れたっ!」
替えの制服を羽織ったままネイトは自室のベッドに倒れこんだ。
よく日に干した布団の匂いが心地よい。部屋に戻ってすぐ顔は洗ったし、髪についた埃も落とした。目をつむってこのまま朝まで寝てしまいたいくらいだ。
『遅かったな』
ベッド脇の小テーブルで丸くなっていたアーマが身を起こす。
「......すごい色々あった一日だったもん」
披露会での、あの何者かの声。思えばそれが予兆。
続くように会場で触媒が暴走。奇妙なかたちの名詠門から襲いかかってきたのは、名詠五色に空白が入り混じった未知の名詠生物たちだった。
結果、競闘宮は全面封鎖。触媒の暴走は沈静化したが、その原因を突き止めるまで立入り禁止だという。サリナルヴァへの報告はシャンテからすると伝えられたが、明日は自分たちも事情聴取に参加してほしいとのことだった。
「ヘレンさんにもね、帰る前に質問ぜめにされちゃって」
『夜色名詠のか』
「うん、あんまり答えられなかったけどね」
レフィスからも訊かれたが、彼はいくらか質問を絞っていた。逆に大変だったのは何も知らないヘレン。元々が好奇心旺盛な性格だからか、ネイトが答える前にまた新しい質問が飛んでくるほどだった。
『あまり不必要なことまで話さない方がいい。特に初対面に近い人間にはな』
「......うん」
枕に顔をよせたままうなずいた。アーマが話している最中だというのに眠気がひどい。
夕食もまだだというのに、このまま朝まで寝入ってしまいそうになるほどだ。
だが──
『夜色名詠について話す時、〈ただそこに佇立する者〉もまた聞いていることを忘れるな』
その一言に、おぼろげだった意識が瞬時に覚醒した。
ミクヴェクス。まただ、またその名前?
「アーマ、それって何かの名前?」
沈黙する名詠生物。その姿を間近で眺め──
それが決して訊いてはならぬ問いだったということに、ネイトは直感的に気づいた。
『何の名前、か。しいて言うなれば』
言葉なかばでアーマが口を閉じた。
代わりに聞こえてきたのは扉がノックされる音。
「ネイト、いる?」
「あれ。クルーエルさんはもうシャワー済んだんですか」
扉を開ければ、そこには替えの制服を着た彼女が立っていた。
しっとりと濡れた緋色の長髪に、ほのかに紅色に上気した頰。香水なのか洗髪料なのか、ふんわりと優しい匂いがほのかに香る。
「エイダに急かされたの、夕ご飯の時間だぞーって。あんまりだよね」
やれやれと腕を組み、クルーエルが小さく頰をふくらませる。
「そういえば食堂の時間決まってたんでしたっけ」
「うん、それで呼びにきたの。ミオがジールの二人を呼びに行ってて、エイダが人数分の席取ってくれてるはずだよ」
うなずき、乾ききらぬ自分の髪をクルーエルが手櫛でそっと梳る。
「でもホントは、ご飯なんて食べたい気分じゃないんだ。たぶんレフィスやヘレンもそうだと思うの。たった数時間前にあんなことがあったんだから」
「......僕もそうです」
謎の名詠門、それから生まれた混色の名詠生物。まだその詳しい原因もわからぬまま。いつ同じことが起きるかもわからない状況で、落ちつけという方が無茶なのだ。
「──あのね」
ふと、クルーエルの表情に影がさした。
「今さら白状するのもおかしいけど、わたし、凱旋都市に来るのちょっと楽しみだったの」
扉の端、通路と部屋の境界線に身体を半身ずつ置くようにクルーエルがよりかかる。
その双眸に、どこか乾いた寂しさを含ませて。
「大きな都市で、面白いお店や珍しい物がたくさんあるって聞いてたでしょ。もちろんサリナルヴァさんや学園長からの頼み事ではあったけど、楽しく観光もできればいいなって思ってた......でも、なかなか難しいんだね」
競演会。夏期合宿。楽しい行事や旅行のはずのものが、何度となく名詠式の事件に見舞われている。だからこそクルーエルは、せめて今回のエンジュにはわずかな期待をよせていたに違いない。
乾いた笑顔、そこから痛いくらい伝わる悲しげな想い。それをこらえるように唇を閉じる彼女を、どれだけ見つめていただろう。
「ええと、クルーエルさん」
ぐっと息を呑みこみ、ネイトは彼女を見上げた。
「今年の冬休み、今からもう予定って入っちゃってます?」
「ううん、まだ先の話だもん。予定どころかそんなの考えてもないよ」
「それなら一緒に旅行に行きませんか。僕、すごく素敵な場所を知ってるんです」
「......え」
ぽかんと、狐につままれたようにクルーエルが目を丸くした。
「旅行......わたしと、キミで?」
「はい、母さんと一緒に大陸を回っていた時に見つけた、とっておきの秘密の場所です。クルーエルさんがどこかに観光したいなら、絶対おすすめの場所があるから」
競演会も夏期合宿も、そして今回の旅行もだめだった。でもだからこそ、心から楽しめる旅行に行ってみたい。
うん、これならクルーエルさんもきっと元気を出してくれるよね。
「ちょ、ちょっと待ってネイト!」
しかしそんなネイトの思惑とは裏腹に、彼女は顔を真っ赤にして──
「あ、あのさ......気持ちは嬉しいけど、わたしたちまだ学生だよ? 二人きりで遠くに旅行なんて、それはちょっと早い気が」
「はい、冬休みなら列車の学生割引が使えるからお得ですし」
「ち、違うの! そういうことじゃなくて! その......ほら、年頃の......男の子と女の子が二人でっ......ああもう、こんなこと言わせないでってば!」
ええと、クルーエルさん、どうしてそんなに手をバタバタ振ってるんだろう。顔も、耳まで真っ赤になっちゃってるし。僕おかしなこと言ってないはずなのに。
「あの、都合が悪いなら無理しなくても」

「う、ううん。......そうだよね、キミがそんな不純なの言いだすわけないもんね。そもそも旅行なんて話を振ったのはわたしの方だし」
あわてていたかと思えば、今度は一人でウンウンとうなずいている。
......だめだ、今度ばかりはクルーエルさんが何を考えてるのかわからないや。
「うん。決めた、行く! せっかくキミが誘ってくれたんだもん!」
「え、そんな、今いきなり決めなくても平気ですよ?」
「いいのいいの! それより、約束だよ? キミの方こそ行けなくなりましたなんてダメだからね?」
妙に威勢のいい口調と共に、クルーエルが胸元で力強く腕組みしてみせる。
「は、はい。ええと場所なんですけど──」
「ううん、言わないで。せっかくなんだから冬休みまで楽しみにしてるよ。でも、期待していいんだね?」
「はい、すごく綺麗な場所です」
母と旅している最中、偶然見つけた秘密の場所。今まで誰にも教えたことのない自分だけのとっておき。でも、クルーエルさんにだけは教えてあげたい。
「そっかー、冬休みが楽しみだよ。帰ったら列車の予約したりしないとね。......えへへ、トレミアに帰るのが楽しみになっちゃった」
照れたように両手を後ろに回してはにかむ彼女。
──よかった、クルーエルさん嬉しそう。
「クルーエルさん、僕たちもそろそろ食堂行かないと」
「そうだね、みんなを待たせちゃ悪いもんね」
小さな足音を立てて通路を先に進むクルーエル。その足取りがはずんでいるように見えるのは、きっと気のせいではないはずだ。しかし──
違和感を覚えたのは、その時だった。
「──クルーエルさん! どうしたんですか!?」
「え、なに?」
振り返る彼女の素肌が、まるで海の水面のようにゆらゆらと......透けていた。
血色のいい肌も鮮やかな緋色の髪も、時折急に薄く透けてみえる。色が抜けたというより、まるで存在そのものが不安定に揺れているように。
「クルーエルさん、どうしたんですか。身体......」
「え、もしかしてまだ埃ついちゃってる? どこどこ?」
その場でくるりと一周、自分の全身を眺める彼女。なのに、それに気づいた様子は皆無。
「ねえネイト、どこ? おかしいなあ、エイダやミオは何も言わなかったんだよ」
......ミオさんとエイダさんは何も言ってない。つまりそう見えるのは僕だけ?
となると僕の幻覚?
「ご、ごめんなさい。僕の見間違いかも......」
「そう? よかった、いきなりネイトが大声だすからよっぽどかと思っちゃったよ」
背中に両手を回してはにかむ彼女。
「さ、食堂いこっか。ミオとエイダに怒られちゃうよ」
先を歩く彼女の背中を、ネイトはじっと追いかけた。外見、仕草は何一つ変わりない。歩き方も、微笑む顔もいつもと同じ。
なのになぜだろう......
そんなクルーエルの背中が、ゆれる緋色の髪が、ひどく弱々しく見えるのは。
まるでその背中が透けて、淡い光の中にふわりと消えてしまいそうに見えるのは。
「あの、クルーエルさん」
「ん、なに?」
普段と変わらない笑顔で彼女が振り返る。......そうだよね、クルーエルさんは普段と同じだもん。今のは僕の気のせいだよ。
「......一緒に、トレミア・アカデミーに帰りましょうね」
「あはは、どうしたのネイトってば、そんなに真剣な顔しちゃって。あ、わかった、さっきの旅行の話だね? 慌てなくてもだいじょうぶだよ、今から予約すれば列車もきっといい席が取れるはずだから」
彼女の無邪気な笑顔が、今だけはふしぎと切なかった。なんでだろう、じっと見つめることもできないくらい胸が苦しい。
「......はい」
ただ一言、そう答えるのがやっとだった。
3
ネイトが自分の部屋に戻った時には、アーマが先と変わらず小テーブル上に乗っていた。
『早かったな』
「......うん」
ベッドに腰かけ、ネイトは体重をかけて沈みこんだ。
力が入らない。食堂で出された食事がまるで喉をとおらなかった。ミオやエイダはおろか、他校のレフィスやヘレンからもそれを心配されたほどだ。
「アーマ、教えてほしいことがあるんだけど」
『小娘のことか』
その一言に、ネイトはベッドから跳ね起きた。
「......っ! アーマ、やっぱりクルーエルさんのこと知ってるの!?」
クルーエルの身体が透けて見えた現象、それはまるで空白名詠の浸透者のようだった。
何が起きているのかわからない。だがもしそれが名詠式に関わり合いがあるなら、名詠生物のアーマならもしやと思っていたが。
『今日、競闘宮で小娘が詠った詠があったな』
「聞こえてたの?」
『あの詠はアマリリスが小娘に授けたもの。アマリリスがそこまで動くということは、そうか......〈ただそこに佇立する者〉が目覚めるまでそこまで時間がないとはな』
アマリリス、そして〈ただそこに佇立する者〉。
切り離せない鎖。クルーエルにどこまでもついて回るその二つの名前。そう、ついさっきクルーエルが来る前、アーマはその名前を教えてくれようとしていた。
『〈ただそこに佇立する者〉とは最も旧い、忘れられた名前の一つだ。誰もが一度は教わり、時の経過と共に忘れていく名前。全ての大人が忘れた名前とでも言うべき名』
ぽつりぽつりと、水滴が葉を打つようにアーマの声が小さくこだました。
『その名前を受け入れるか、あるいはそれと対峙するか。お前の選択で小娘の道行きが、小娘の選択でお前の道行きが決定する』
......僕の選択でクルーエルさんの何かが決まる。
それと逆に、クルーエルさんの選択で僕の何かが決まる?
『一つ確かなことは、お前が小娘に見たものは決して幻覚ではないということだ。そしてあの症状は今も徐々に進んでいる。いずれミオの目からも見えるほどにな』
透けていく身体。
それはつまり、クルーエルさんが......消える?
「ど、どうしてなのさ! クルーエルさんがどうして!」
『言ったはずだ、〈ただそこに佇立する者〉が目覚めるからだと。......天秤だと思え、小娘の秤が沈めば、対極にあるもう一つが浮かびあがる。それが、お前と対の名前を持つ者の名詠式だ』
Neight、それはセラフェノ音語で夜明け。そしてそれと対になる名前は......Xeo。
シャオ、まさか、あの空白名詠を使うという謎の──
「......そんなの嫌だよ! いったいどうして!」
『ならば時を待て。その時がいつ来るかはいまだ決定されてない。明日か、あるいは一年後か。だが近いうち必ず、その名詠士はお前の前に現れる。ゆめゆめ忘れるな。その時にお前の選んだ詠が、小娘の道行きを決定することになる』
僕の詠が選択肢......?
『礼を言うのだな、小娘に』
アーマの告げてきたそれは聞き覚えのあるものだった。
エンジュを訪れる前、ケルベルクの仮眠室で聞かされた──その言葉の続き。
『お前の母親が教えるはずだった、お前の本当の名詠式。それをお前に伝えたのは、我でも虹色名詠士でもなく、あの小生意気な小娘だった』
母さんが教えてくれるはずだった僕の名詠式。それを、アーマでもカインツさんでもなく、クルーエルさんが教えてくれた?
......胸が苦しい。
息苦しさのような閉塞感ではなく、それは心の昂揚によるものだった。激しく燃え立つ代わりに、じわじわと胸の奥を温め育んでいく。そんな熱情。
きっと、アーマは何かすごく大切なことを教えてくれている。僕とクルーエルさんに関わるすごく大切なことを。
『話は終わりだ。ネイト、窓を開けてくれ』
にわかに、アーマが翼を羽ばたかせた。
『少し空を見たい。しばらく出るから先に寝ていろ』
夜の空気に同化するように、どこかへと羽ばたいていく名詠生物。その姿は凜としながらも寂しげだった。声をかけるのもためらってしまうほどに。
「......アーマ?」
姿の見えなくなった名詠生物の名前をぽつりと呟く。
しばしその夜を眺め──
思いだしたのは、シャンテから伝えられた虹色名詠士の言葉だった。
どことも知れぬ遥か離れた地にいるはずの彼の声で、その言葉がよみがえる。
〝大切な人を守りたいって理由が、ボクは一番憧れます。強い剣でなくていい。その代わり、自分の大切な人だけは絶対に守れる盾になりたかったですね〟
守れる盾になりたかった。
守ることに憧れていた。
「......カインツさん、僕、カインツさんの気持ちわかった気がします」
そう、大切な彼女はここにいる。まだ手遅れじゃない。
たとえシャオという名詠士が何を目的としていようと──
決めたんだ。
何があっても、クルーエルさんは僕が守るんだって。
七奏・月『夜 ─始音─』
凱旋都市エンジュ、その外れ。
夜の薄墨色と星明かりが入り混じった小部屋で──
「......ごめんねテシエラ」
窓沿いの椅子に座る少女が音もなく立ちあがった。
「なに、構わんさ。それよりアルヴィル、お前も手伝え」
「わーかってるって。包帯の長さを切ってそろえりゃいいんだろ」
黄砂色のマフラーを巻いた女性の視線を受け、部屋の隅で天井を眺めていた男が壁から身を起こす。
「ごめんねアルヴィル、集中の邪魔しちゃって」
「そんな大層なもんじゃねえよ。ていうか姫サンこっち向くなっての、......ったく、そこまで堂々とされるとこっちが恥ずかしくなる」
テシエラから渡された包帯に等間隔に鋏で切りこみをいれつつ、表情をしかめたアルヴィルがそっぽを向く。
「......テシエラ、そうなの?」
ゆれるカーテンの隙間からこぼれる月影に、一糸まとわぬ姿の少女が浮かび上がった。
「人それぞれだな。もっとも、私はそんなお嬢さんの性格が嫌いじゃないが」
その少女の素肌を丁寧に濡れタオルで拭きながら、テシエラと呼ばれた女性が笑う。
首先から肩、肩から背中。腕、胸、腹部へと降りていき、足先まで。全身を拭い終えた時には、そのタオルは真っ赤に染まりきっていた。
鮮血に染まったタオル。
出血性の不治の皮膚病──それが、この少女が長年負ってきた苦痛の枷だ。
「なあ姫サン、いつもより症状が重いんじゃないか」
「平気よ」
間髪入れず答える少女。それはもはや返事でなく条件反射なのだろう。抑揚も感情もない回答にアルヴィルが溜息をつく。
「ファウマ、肩から手首まで巻いていくから両手を水平に持ちあげろ」
テシエラの指示に無言で従う少女。その素肌へ、手慣れた手つきでテシエラが包帯を巻いていく。首から下の全身が包帯に覆われるまで、時間はそれほどかからなかった。
「テシエラはシャオと同じくらい上手ね。わたしの城の給仕の誰より上手」
「ま、ここには私よりよほど器用な奴がいるがな」
包帯とタオルを片づける片手間に、テシエラが背後にいる男を顎で指し示す。
「......勘弁してくれ、姐さんがいるときは姐さんに任せるって言ったろ」
「アルヴィル、わたしの世話はやっぱり嫌?」
小さく首を振るアルヴィルに、少女がわずかに表情を暗くした。
「ちげぇよ!......その、なんだ、タオルで拭いたり包帯巻くのは手間でもなんでもねえよ。ただ......そのな、素っ裸ってのはどうにもならねえだろ。その時にどうしてもイロイロ見えちまうのが問題なの」
「わたし、アルヴィルとテシエラになら、裸くらい見られても平気よ?」
血濡れた裸身を他人に晒す。
それは少女にとっては最も耐えがたき、他人には想像も及ばぬ辱め。しかしそれは同時に、少女なりの、ごく一握りの相手にのみ許す最大の信頼表現でもあった。
「それは光栄っちゃ光栄なんだけどな、俺の方が頭に焼きついて離れないから困るんだよ」
「テシエラとシャオは平気って言ってくれたけれど」
「姐さんは女だろ、シャオはいまだにどっちかわからんけど......まあシャオだからな。あの変人がうろたえてる姿なんか想像できやしねえよ」
後頭部を搔きむしり、アルヴィルが部屋の扉をじっと見据える。
「あらら、ひどい言われようだね」
アルヴィルが向くのとほぼ同時、音もなく小部屋の扉が開いた。
一筋の光も差しこまぬ暗い通路。そのよどんだ陰の中、ぼんやりと浮かび上がるように人影が部屋に入ってくる。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
光沢ある黒髪に優しさと憂いを秘めた黒瞳を持つ、少年とも少女ともわからない名詠士。
濡れたような艶やかさを持つ、形の良い唇。そこにうっすらと塗られた黒のルージュが神秘的な輝きを放っている。
「ファウマ、包帯が綺麗になってるね」
ざっと部屋の中を見回すシャオの視線がふと止まった。
「テシエラに巻いてもらったわ。......でもアルヴィルは嫌だって言うの」
「ああもうっ、わかったよ! 次があれば俺が当番だから、だからそんな落ちこむな!」

しゅんと下を向く少女の様子に、アルヴィルが諦めたように悲鳴を上げた。
「......ったく、ほら、シャオも笑ってないでなんか言ってやれ」
「いいじゃない、それほどファウマに信頼されてる証拠だよ」
ふて腐れて腕を組むアルヴィルを前に、シャオと呼ばれた人物が涼しげに微笑む。
と、そのシャオの様子に──
「そういえばシャオ、アルヴィルを連れて競闘宮に行って何をしてきた? 私はてっきりミクヴァ鱗片を奪ってくるとばかり思っていたが」
指先で琥珀のブローチを弄るテシエラが、にわかにその手を止めた。
「あの時の自分は目覚めかけた〈ただそこに佇立する者〉をなだめるので精一杯だったからね。それにあの場は大特異点がいた。彼もまたミクヴァ鱗片に目星をつけていたから、その出鼻をくじくことを優先した」
「アルヴィルからそれだけは聞いた、ミクヴァ鱗片を砕いたというのは本当か?」
「うん、あの場面ではそうするしか方法がなかった」
テシエラの問いを予想していたかのごとく、シャオの言葉は淀みがなかった。
「ミクヴァ鱗片をネシリスより先に回収すること自体は不可能でなかった。けれどアレが盗まれたとなると、当然エンジュを挙げての捜索となる。そうなると厄介。なら誰の目にも分かるように砕いてしまえば、もはやあの触媒は分析したくても手が出せなくなる。皆の注目が途切れた後にそれを回収する方が遥かに楽だ」
「でもよ、言われるように壊してみたけど、ああなっちまえばもう触媒には使えないんじゃないのか? そうすると困るのはこっちだろ?」
考えこむように宙を眺め、壁によりかかった姿勢のままアルヴィルが足を組む。
「Ris sia sophia,Egunis riris q-nemne......アルヴィルならわかるよね?」
競闘宮に氾濫した混色の名詠生物、それが再生する時に聞こえた〈讃来歌〉。
「再生......まさか、そういうことか?」
「ま、あとは行ってみて確かめてみるといいかもね」
物言いたげな視線で見つめるアルヴィルにシャオが肩をすくめてみせる。それから離れた場所で、包帯ずくめの少女がぼんやりと首をかしげる姿があった。
「ねえシャオ、とにかくソレを回収すればいいの?」
「そうだね。前にも話したけれど、クルーエル・ソフィネットという存在の力の源はアマリリス。しかしそのアマリリスの力は〈ただそこに佇立する者〉に由来する」
ファウマがうなずくのにあわせ、シャオがさらに言葉を続ける。
「つまりクルーエルが空白名詠を使うことが鍵。使えば使うほど〈ただそこに佇立する者〉の目覚めは早まる。それが今回、クルーエルの詠うアマリリス真言により決定的になった」
そう、名詠すべき対象は既に目覚めの時を待っている。
残るはその特有触媒、競闘宮に安置してあるあの触媒。
「あとはミクヴァ鱗片を手に入れることで名詠が完成。それで全ての名詠式、真精を含む全ての名詠生物、そしてセラフェノ音語がこの世界から一時的に消失する......さて焦る必要はないけど、ここは少し急ごうか」
「なあ大将、なぜ急ぐ? そもそも焦る必要のないよう、わざわざミクヴァ鱗片を昼間のうちに破壊したのだと思ったが」
目を閉じ黙していたテシエラがにわかに薄目を開ける。知的な青色の瞳には、いつしか怪しげに昂ぶる輝きが混じっていた。
「夜明けという名の例外がいる、彼なら気づく。そしてたぶん、大特異点もね」
花弁のかたちをした右手の火傷。かつて始まりの島で受けた癒えることのない傷を左手で覆い、シャオがそっと窓枠によりかかる。
「だからこそ、それぞれに相手をお願いするんだ。特にファウマ、身体の調子は?」
シャオを含める場の三人の視線が集中する。他ならぬシャオの隣、椅子に座ったままぼんやりと宙を見つめる少女へ。
その足下にいくつも付いた小さな血痕。テシエラが身体を拭いた際、床に落ちた血の痕だった。
「気にしないで。わたしが自分の意志で手伝いたいの」
包帯の上に衣服をまとい、壁にかかった日除け帽をファウマが手にする。
「そう、それなら自分は何も言わないよ......さて三人とも当初の相手とかわったけど、まあ何とかなるかな。まったく、あのお喋りは厄介な真似をしてくれた」
「あとはやってみてのお楽しみということか」
黄砂色のマフラーを巻き直し、まずテシエラが立ちあがる。
「テシエラは彼、アルヴィルは良かったね、クラウスよりだいぶ楽かもよ」
「どうかねえ」
コン、と床を打つアルヴィルの鎗。と同時。
カチリッ──短針が、新たな時を刻んだ音。ややあって、柱時計から鈍重な鐘の響きが伝わってくる。
「......時間か」
清澄な月明かりに目を細め、シャオはしばし窓の外の風景を眺めていた。
終奏『夜 ─微笑ムヨウニ─』
1
「アーマ、いる?」
明かりを消した暗がりの中、ネイトはベッドから半身を起こした。しかしいくら待てど、名を呼んだ相手からの返事はない。室内を見回してもそれと思しき姿もない。
「アーマ......まだ帰ってないんだ」
外に出てから既に数時間。宿舎の明かりが消え、エンジュ全体が寝静まる時間になってなお、夜色の名詠生物は帰ってきていなかった。
......なんだろうこの感覚、首の裏側がざわざわする。
肌で感じるほどの違和感、そして悪寒。
目が覚めたのはきっとそれが原因なのだろう。ならばその悪寒の原因は?──自問するまでもなく、思いあたるのはたった一つ。
〝やめて、愛しき子よ。わたしに触れるのはまだ早い。あなたでは、わたしに正しい目覚めを与えることはできません〟
競闘宮の決闘会場で確かに聞いた。男でも女でもない、性別という概念を感じさせないふしぎな声。そして声の方向は、あの触媒からだった。
通常なら触媒が声を出すという現象なんて信じない。だがそれを信じてしまう気にさせるほど、あの声、あの触媒は今も謎に満ちている。
──そして、僕はそれをまだ近くで見ていない。
そうする前に競闘宮は全面閉鎖処置がとられてしまった。あの触媒を間近で見たのは舞台にいた司会役の男、そして観客席の最前列にいた賓客ぐらい。
いや、まだいる。自分の知り合いにも、触媒をすぐ間近で見た人物が。
「......レフィスさんまだ起きてるかな」
はずみをつけ、ネイトはベッドから飛び降りた。
「すごい静か」
小さな夜光灯だけがぽつりぽつりと通路を照らす。薄暗い足下を確かめながら、ネイトは足音を殺すようにゆっくりと通路を歩いていった。
定められた消灯時間から既に二時間以上が経過。学生はもちろん、宿舎の関係者も寝静まった頃だろう。そんな中、自分が会おうとする人物が起きているかわからない。
「ジール名詠学舎だから、ここだよね」
部屋の前に掲示された校名を確認。昼間にヘレンから聞いた話では、レフィスは同校の上級生徒二人とでこの部屋を使用しているはず。
──トン。
心もち抑えた音で木造扉を叩いた。数秒、十数秒。扉の前で待っても返事はない。
......やっぱり寝ちゃってるよね。こんな時間だもの。
溜息をつきそうになるのをぐっと堪え、もう一度だけ扉を叩こうとする矢先。
「誰だ」
低く押し殺した声。だがそれはまぎれもなく。
「あ、レフィスさん。起きててくれたんですね! えっと、僕です!」
「......ネイトか?」
扉が半分ほど開き、ゆったりとした運動着姿のレフィスが顔を見せた。
彼が着ているのは渋い藍色をした長袖の運動着だ。左肩には校章を模ったと思しき刺繡。おそらくこれがジール名詠学舎の指定運動着なのだろう。
「......ごめんなさい、こんな遅くに」
「俺は今から寝るところだったから気にしなくていい。だけど話があるなら通路でだ、他の先輩二人はとっくに寝てる」
音もなく扉を閉め、レフィスが通路沿いの壁によりかかる。
「で、どうしたんだ」
「ええと、今日の競闘宮のことなんです」
競闘宮。その単語に彼の視線が鋭さを増した。
「あの不気味な名詠生物のことか。それならエンジュの関係者たちが徹夜で正体の解析にあたってると言っていた」
「いえ、それじゃないんです」
歪な名詠門から生まれた混色の名詠生物。あれは空白名詠を事前に知っている者なら多少は想像もつく。しかしその一方、アレだけはネイトにもまるでわからない。
「レフィスさんはあの時、台座に置かれた触媒から変な声なんて聞いてませんか?」
「変な声?」
訝しげな表情でレフィスが反復する。
「えっと、司会者の人とか周りの声じゃなくて、もっとぼんやりして、男の人なのか女の人なのかもわからないふしぎな声です」
そう、あえて何に近かったかと言われたら。
巨大化したアーマの声。音程こそ異なるが、声の質と響きがそれに酷似していた。
「すまない、俺は聞いてない。大騒ぎになる直前までヘレンと話してたし、聞き逃してたかもしれないな」
聞き逃す、それはおそらくありえない。なぜならネイトも会場でシャンテやクルーエルと話していたからだ。それでもなお、あの異質な声は鮮烈に聞こえてきた。
──つまり聞こえていたのは僕とクルーエルさんだけ?
いや、違う。おそらくはもう一人だけ。
〝シャオ、シャオはどこ? 近くにいるのでしょう?〟
あの声の主が捜していた名前。あの言葉がシャオという人物に向けられていたならば、当然その人物も聞いていたはず。
「その声が気になるのか」
「声と、あの触媒そのものです。レフィスさんも知ってると思うけど、アレは〈孵石〉に入っていたものと同じはずなんです」
でも何かが違う。〈孵石〉に入っていた時から明らかな変化が起きている。気がかりなのは、いったい何がいつ変化を与えたのか。
「僕たちは観客席にいたけど、レフィスさんは実際に台座のすぐそばで触媒を見てましたよね。その時の様子が知りたいんです」
「すまない、昼に説明したとおりだ。俺とネシリスが駆けつけた時には、粉々に砕け散っていた。勝手にそうなったのか、あるいは誰かがやったのかわからない」
「......そうですか」
それはレフィスから、そしてネシリスからも聞いている。復元のしようもないほどの崩壊。実質、あの触媒はなくなってしまったも同然だという。
「ネイト、そんなに気になるならいっそ見に行くか?」
──え。
彼の提案は唐突だった。
「俺もネシリスも、あの時はすぐに会場から引き上げざるをえなかった。だから触媒が破壊されたのを見ただけで、他はろくに確認できてない。もしかしたら見落としていたものもあるかもしれない」
競闘宮の会場は完全封鎖。つまり昼の事件が発生して以後、まだ調査の手も入ってない。誰があの触媒を破壊したのか、その痕跡が残ってる可能性はゼロではない。
「でも、こんな時間に?」
「この時間だからこそ俺も言ってるつもりだ。競闘宮は全面閉鎖、夜のこの時間を狙って忍びこまないかぎり簡単には入れない」
どうしよう。クルーエルやアーマに一言告げてから? いや、クルーエルはもう寝ているはずだし、アーマだっていつ帰るかわからない。
──迷ってる時間はない。







コンッ、カツン
窓に小石がぶつかった時のような、軽くて余韻を残さない音。
──コッ、カッ......
まただ、また聞こえてくる。
「誰?」
ぼんやりとしたまぶたをこすり、クルーエルはかぶっていた布団を押しのけた。
音の聞こえてくる窓へと歩く。月影に照らされ、淡い桃色のカーテンごしに透けるシルエットは──
「......なによ夜色トカゲ、こんな時間に」
一目でそれとわかる。
カーテンを開ければ案の定、窓硝子の向こうには夜色の名詠生物の姿が。
「いったいどうしたの、みんな寝てる時間よ」
『小娘、話がある。外へ来てほしい』
もう夜の一時を回っている。まず時間帯からして非常識。さらにいえば、昼の事件からくる疲労で全身鉛のように重いというのに。
「だからってわざわざこんな時間に?」
『今しか伝える時間が残されてない。我もさんざん迷ったのだがな』
──違和感。
時間がないという表現ならまだわかる。しかし時間が残されてないというのはどういうことだろう。あまりに切迫した言葉ではないか。
「......どういうこと?」
『お前とネイトに託したいことがある。ミオを起こさぬよう、そっと宿から出てこい』
この時、なぜこの名詠生物がミオという名を強調したのか。
もう一人のクラスメイトであるエイダの姿がないことに、クルーエルは最後まで気づかなかった。
2
昼の喧噪が噓のように、夜のエンジュは鼓膜が痛くなるほどしんと静まっていた。
昼間の競闘宮で起きた不可解な事件、そして天上にできた奇妙な名詠門。これはエンジュの人間のほぼ全員が目撃していた。加えて競闘宮の封鎖。周囲の住民も自主的に夜の活動を控えている──そんな夜だった。
「ヘレンさんには何も言わなくて平気なんですか」
「わざわざ言うほどのものじゃない。それに、あいつだってとっくに寝てるだろうし」
歩く足を止めず、普段と変わらぬ無表情でレフィスが答える。
張りつめた静寂を唯一破るのは隙間風。建物と建物の間を縫う、ひゅぅっとかん高い音をたてて通過する冷たい風だけだ。
「そういえば、なんでネイトはこんな時間まで制服なんだ」
「えっと、なんとなくこっちの方が落ちつくんです。さっき少し寝てた時は、今のレフィスさんみたいに運動着でしたけど」
「今まで寝てたのに途中で起きてきたわけか。よほど気になるんだな、あの触媒が」
「......はい」
小走りに近い早足で公道を進んでいく。複雑な網目模様となる公道の角を曲がり、背の高い建造物を次々と通過。やがて、さっと視界が開けた。
広大な敷地を有する大広場。
そしてその奥、エンジュでも桁違いに巨大な影が厳かにそびえ立っていた。
──競闘宮。
昼間の怪奇現象に対する安全措置のため、全ての者が例外なく立入り禁止となっている。
通常なら夜間でも光を絶やさないと聞いていたが、今は会場ほぼ全ての照明が落とされているらしい。
「警備の人がいるんですよね、きっと」
「まだ距離があるからここからじゃ見えないな。内部への立入りは警備員も許可されていないはずだから、内部に入ってしまえば楽なんだが」
封鎖というからには、当然バリケードを張っただけではないだろう。入口に数人の警備員が控えていると考えるのが妥当。
「そうね、どうしようかしら。ねえネシリス?」
背中越しに聞き覚えのある声を感じたのは、その時だった。
厚地の白毛皮のコートに、薄紅色のマフラーを羽織った若い女性。その隣、無言で佇むのは青のインバネスコートを羽織った大柄の男。
「シャンテさん、それにネシリスさん?」
「はぁーい、こんばんは」
ネシリスにぴたりと密着する恰好で、彼女が楽しげに左手を上げる。
「シャンテ、歩くのに邪魔だ」
「いいじゃないネシリス。それにほら、二人とも目を丸くしてるわよ。なんでわたしたちがいるのか、あなたから説明してあげるのが先でしょ」
密着するシャンテから諦めたように目を離し、ネシリスの視線が自分たちへ。
猛禽類を思わせる鋭利な眼光、こちらの思惑など全て見とおされているかのような錯覚を覚えるほどだ。
「おおかた昼の触媒が気になったというところか。偶然かはともかく、考えることは同じだな」
外灯からも離れた闇の中、ネシリスが懐から何かを投じた。小さな、子供の手に収まってしまうほどの小石。それが二つ。
「──これは」
受け取った物を眺め、レフィスの唇が小さくふるえた。
鱗のような模様が刻まれた小石。手のひら大の欠片だが〈孵石〉の触媒に間違いない。ドクン、ドクンと、まるで脈打つように瞬いている。
しかしなぜ二つも?
「ネシリスさん、これどうしたんですか」
「一つはサリナルヴァから資料として送られてきた。〈イ短調〉のメンバーには一人一つはこの欠片が配られている。もう一つは、昼間の式典で展示されたやつだ」
昼間の式典に展示された触媒。だがあれは、レフィスとネシリスが駆けつけた時には砕け散っていたはずでは。
「どういうことだ。昼間の触媒なら粉々に砕け散っていた。それは俺とあんたで確認したはず」
「──再生したのよ」
答えたのはシャンテ。今までのおどけた音色ではない。凜と澄みきった、歌后姫と謳われる彼女の声で。
「粉々に砕け散ったはずの触媒がより集まって、再度石のかたちに凝結した。ネシリスが競闘宮から持ち帰った時、これは一摑みの砂だった。それはわたしも見てるのよね。でもふしぎ、それが時間を経て、こうして石として再生したの」
「持ち帰ったのは一握りと言ったな。つまり決闘舞台に残った大部分も──」
「ええ、一つの巨大な触媒に再生している可能性があるわ」
小石を投げ返すレフィスに、シャンテが首を縦に振る。
......そっか、だからこの二人もそれが気になって。
「ネシリス、どうやら目的も同じみたいだし、この子たちも連れて行く?」
「自分の身に関して自分で責任をとれるのならな」
口早に告げ、ネシリスが肩で風をきるように歩を進めていく。
「自分の身?」
「様子がおかしい」
訊ねるレフィスに振り向きもせず、その名詠士の視線はあくまで前方を見据えていた。
──競闘宮の入口脇、横になったまま微動だにしない警備員四人。
寝ているのは呼吸の深さから容易に見て取れる。警備員全員が職務中に泥酔?
「あらら、ぐっすりおやすみね」
呆れたように溜息をつき、警備員の一人をつま先で突くシャンテ。それでもまるで起きる素振りはない。間違いなく通常の睡眠より深い。
「睡眠薬か、あるいはそれに似た作用を起こす毒粉か。だが四人という数を考えるなら、どちらなのか迷うこともないな。シャンテ、緑風妖精を出しておけ。毒粉が風に乗って来ると厄介だ」
ネシリスが指示するより先、彼女は既にコートから触媒を取りだしていた。
「......ネイト、奇妙だと思わないか」
「奇妙?」
「昼間、触媒を破壊しようとした時には既に破壊された後だった。今もこうして来てみれば、俺たちより先に誰かが侵入した形跡。一つ一つが、まるで見透かされたみたいに先回りされている」
レフィスの呟きに、ネイトはあえて頷くことをしなかった。
──軽い恐怖があった。
それに頷くことが、あたかも自分たちの先を予言してしまっているようで。
「迷うぐらいなら置いていく」
みしりと、先を行く名詠士からの一言が胸を抉った。まるで反論を寄せつけないほど的確で冷徹な指摘。
「さっきも言ったはずだ、自分の身に関しては自分で責任を負うことになると」
......さっきのネシリスさんの言葉はそういう意味だったんだ。
誰かに守ってもらう、そんな甘い考えは通用しない。ここから先に進むかどうか。その意志決定に他人の意見は存在しない。相談する相手も皆無。
「いえ、ついていきます」
先を行く大特異点の背中を見つめ、ネイトは拳を握りしめた。
〝一つ確かなことは、お前が小娘に見たものは決して幻覚ではないということだ〟
〝天秤だと思え、小娘の秤が沈めば、対極にあるもう一つが浮かびあがる〟
あの触媒にクルーエルを脅かす何かがある、もはやそのことに疑いはない。
──だからこそ、僕が何とかしなくちゃだめなんだ。
3
ほのかな薄緑色の非常灯に照らされ、ぼんやりと浮かびあがる通路。
静かで、暗く、そしてわずかに肌寒い。
「内部は警備員がいないんですね」
「そりゃあ全面立入り禁止だもの。例外は一切なし、わたしたちだってこっそり忍びこむつもりだったんだから。誰かは知らないけど、先に警備員さんを眠らせてくれて助かったわ。おかげで口実もできたし」
本気とも冗談ともとれる声音でシャンテが笑う。
警備員が倒れており、競闘宮内には何者かが侵入した痕跡。その不審人物を探るため、自分たちはやむなく追跡した──が、その不審人物は競闘宮のどこにいる?
「シャンテ、どうだ」
「二体目の緑風妖精で走査してるけど、まだ反応はないわね。音響蝶にもアタリは一つもひっかからないし」
彼女の周囲を飛び回る、緑色に輝く小さな蝶。
音響蝶が計四対、いずれも対になる蝶が競闘宮の各所に放たれ、怪しげな物音があればそれを伝えてくる仕掛け。
しかしいまだ反応がない。杞憂なのか、それとも──
「ま、警備員を眠らせてまで競闘宮に忍びこむ相手だもの。簡単に見つけちゃった方が気味が悪いわよね。さてさてネイト君......じゃなく、ここはレフィス君に訊こうかな」
唇に指先をあて、シャンテが口元を笑みのかたちにつり上げる。
「なんだ?」
「あなたならこの通路は歩いたはずよね」
競闘宮外環層一階、特別通路。
決闘に挑む名詠士、および関係者のみが行き来する道だ。学生決闘の参加生徒ならば皆がここをとおった経験がある。逆に観客席にしか行った経験のないネイトは、この通路を歩くのは初めてだ。
「一階のロビーから決闘舞台までつうじる経路ではこれが最短。じゃあ、わたしたちの先を行く何者かが待ち伏せている場合、どこに潜むと思う?」
「......この先の、三叉に分かれている箇所だな」
左が地下の控え室、中央が決闘舞台、右が観客席へと続く三叉路。この中央の道を進めば、もう決闘舞台はすぐ目の前だ。
「正解。そういうことよネイト君」
最大の警戒をもってあたれ、それが彼女からのメッセージ。
警戒、その必要性はネイトも承知している。けれど緑風妖精の目にも留まらず、周囲を浮遊する音響蝶の音探知にも引っかからない。これ以上どう警戒すればいい?
「──止まれ」
にわかに、先頭を行く名詠士が歩調を緩めた。
「シャンテ、確認するが、今も緑風妖精と音響蝶の探知は異常ないか」
「ええ、怪しげな物音はないわね......だけど、それがどうかしたの?」
「楽器のような音が聞こえる」
彼の言葉は本当だった。
まるで雪風が歌うような、微かなのに心地よい音色。
競闘宮全体に沁みわたるような、聞く者の気持ちを静める音色。しかし何の楽器だろう。打楽器でも弦楽器でもない。笛の類に似てはいるが、ネイトの知るどんな笛の音よりずっと優しい。
──あれ。
どこでだろう、つい最近、これによく似た音色を聞いたような。
〝今君が楽器だと思っている音色こそ、彼女の声。いや声ですらない、この回廊に聞こえているのは彼女の小さな小さな息づかい。彼女がただ息を吸って吐く──それだけでこの可憐な音色が生まれるんだ〟
......あの時だ。カインツに連れられ、北部の街フェルンを訪れたあの時。
でも待って。あの音色を奏でていたのは──
「何かくるぞ」
ネシリスが身構えたのはその時だった。
ざぁぁっ......
まず聞こえたのは土砂崩れを思わせる砂の音。
直後、右側の通路から津波のごとき大量の砂波が押しよせてきた。
「──痛っ!」
押しよせた砂が目に侵入、鋭い砂片が眼球にこびりつく。両目を閉じ、思わずネイトはその場にかがんだ。
「ありえない、室内で砂嵐っ?」
続くようにシャンテの悲鳴。バチバチと、火花にも似た音を上げて砂が肌に打ちつけられる。たかが砂粒のはずが、まるで鉄釘を投げつけられたような勢い。だがさらに圧倒的なのはその砂量。
通路を膝上まで埋めつくし、なお砂嵐の勢いが止まらない。
──このままじゃ全員押し流される。
「緑風妖精、吹き飛ばしなさい!」
砂が舞い上がる音を切り裂くシャンテの声。
直後、轟と唸る風が砂をさらに天井まで吹き上げた。天井に打ちつけられた砂が、そのまま後方の通路へと運ばれていく。
「平気? 目は?」
「ええ、何とか」
目に入った砂を払い落とし、ネイトは痛む目を懸命に開けた。視界が涙でぼやけるが、それも次第に収まっていく。
「......これ、黄砂ですか」
指先に付着していた砂粒をネイトはじっと見つめた。
母と大陸を回った時のこと、大陸の西端にある荒野の砂によく似ている。
「参ったわね。名詠生物を警戒してたんだけど、まさか砂の名詠だけでここまで派手にやられるなんて」
シャンテの言うとおり、確かに尋常でない量と勢いの砂嵐だった。名詠式で詠びだされたものなのは間違いないが、どれだけの技量があればこれほどのものが名詠できるのか。
「そんな状況分析をする余裕があるのか?」
前方だけを向いていたネシリスが、初めて自分たちへと振り向いていた。
いや──自分たちではなく、さらにその後ろ?
「してやられたな」
その言葉に振り返り。
「......レフィスさん?」
一番後ろを歩いていたはずのレフィスが、忽然と姿を消していた。
まさか今の砂に呑まれて流された?
「厄介ね。この三叉、どれに連れ去られたのかしら」
シャンテが見据えるのはあくまで中央の道。そう、まだあの音色は聞こえてくる。つまりこの先の決闘舞台に、この音を生みだす奏者が待っていることになる。
「ネイト、お前はここで待っていろ」
「え?」
「予定変更だ。俺とシャンテだけで中央の道を抜けて決闘舞台に出る」
「......どういうことですか」
ここまで来て待機?
「レフィスがどの道に連れ去られたかわからない。残された右か、あるいは左か。どちらにせよ、この合流ポイントで誰かが待機していた方がいい。俺たちかレフィスか、いずれかが戻ってきた時に残りの組に合流しにこい」
戦力を分散させるリスクを冒しても、この中継地点に情報伝達役を置くメリットを優先させる。それがネシリスの判断。
でも、もしいつまで経っても誰もここに戻ってこなかったら?
「三十分経って誰も戻らなければ、迷わず一人で競闘宮の外へ出ろ。サリナルヴァがケルベルクで待機している、あいつと連絡をとることだな」
頰を、冷たい汗が伝っていく。最強の名詠士と謳われるこの男がここまで念を押す。つまり、それだけの状況ということなのだ。
「......すぐ戻ってきてくださいね」
「そんな顔しないの。ほら、子供は元気で手を振るくらいじゃないと」
外向きに跳ねた髪を手櫛で梳き、シャンテが片目をつむってみせる。
「じゃ、また後で会いましょ」
その別れの言葉が全ての始まり──
ネイトにとって最も永い、そして途方もなく深く、凍てつく夜の始まりだった。
4
......寒いなあ。
薄暗い闇の中、ミオはぼんやりと目を開けた。あれ、なんで部屋に風が吹きこんでるんだろう。寝る前に窓は閉めたはずなのに。
「あー、もう、窓開けたのだれぇ? クルルぅ、それともエイダ?」
ベッドからもぞもぞと起き上がり、寝ぼけまなこで窓へと歩いていく。やっぱりだ、案の定、開けっ放しの窓とカーテン。
「だめだよぉ......ちゃんと開けたら閉めないとぉ......」
半分意識が夢の中。それでもかろうじて窓枠に手をかける。
「ねぇ......クルルぅ、だめだぁ......よぉ?」
返事はない。
「クルルぅ、ク......ルルさぁぁん、あたしのはなし、聞いてるぉ?」
窓枠の冷気に触れ、徐々に意識が覚醒していった。霞んでいた視界にもくっきりと線が入り、ものの形を描いていく。
「あれ、クルル?」
返事はない。もう一度念入りに目をこする。
「......エイダ?」
隣のベッドに寝ていたはずの友人二人の姿が、消えていた。







競闘宮外環層、四階。
指定された場所、指定された時刻で──
まず目についたのは、壁に無造作に立てかけてある長大な祓戈だった。
「よぉ。七分遅れか、お前にしちゃ時間に正確だな」
隠れもせず、その男は堂々と通路の真ん中に立っていた。
アルヴィル・ヘルヴェルント、将来を有望視された祓名民でありながら突然姿をくらました男。今なお彼の行方はわからない、そのはずだった。
「............」
「なんだ黙りこんで。ああ、お子様にはこの時間はちょっと遅いかもな」
「──アルヴィルっ!」
溜まっていた肺の呼気を、エイダは胸の鬱憤と共に吐きだした。
「なんでいつも、あたしばかりそんな目で、そんな口でからかうんだ。あたしはもう一人前の祓名民じゃないか、祓戈の到極者の称号だって持ってる! なのに──」
なのに、なんでこの男はいつもこうなんだ。
からかわれてばかり、子供扱いされてばかり。
「気に入らないか?」
「......わからない」
気に入らないんじゃない。むしろその逆だった。
閉鎖した祓名民の世界。真面目を絵に描いたような父親、母親。周囲の人間。
その中でただ一人、底抜けにバカで陽気で、眩しかった。親元から離れトレミア・アカデミーへと入学することを決めた時、最後まで別れが言いだせなかったのもこの男。そう、誰よりも心許せる相手のはずだった。なのに──
「......トレミア・アカデミーで、シャオって奴に会った」
「ああ、話は本人からも聞いてるぜ。『隠れてたつもりだったけどあっさり見つかっちゃった。彼女すごいんだね』ってな」
「アルヴィル、なんで祓名民をやめたんだ」
自分のように名詠学校に行くというのなら、名詠を学ぶためということでまだ目的はわかる。だが、シャオという得体の知れない人物に付きそう理由はわからない。
......悔しかった。
親しい人間を、誰かも知れない相手に奪われてしまったようで。
「やめたわけじゃねーよ、まあ理由を言ったら破門にはされそうだけどな」
「答えろ! なんで、シャオなんて奴にホイホイついていったんだ!」
どれだけ怒気をこめてもこの男は動じない。それを誰よりわかっていながらなお、胸の奥に猛る熱い何かを止められなかった。
「理由ね。知ってんだろ、俺はいちいち理由を言葉にしない主義なの、面倒だしバカだからな。理論武装した理由が聞きたいならシャオか姐さんにだな」
「......姐さん?」
「そそ、うちのリーダーがそのシャオって脳天気な奴な。それにワガママだけど寂しがり屋の姫サン、あと怒ると怖え姐さん。たった四人だけの寂しい一行さ。居心地は悪くねえけどな」
この男はもっぱらとぼけることを好み、噓を嫌う。それは自分が一番よく知っている。つまりシャオという名詠士の仲間は、アルヴィル以外にあと二人。
「アルヴィル、何をやろうとしてるんだ」
「──その前に。そういやお前、春から名詠学校行ってたよな。その時、疑問には思わなかったか? そもそも、どうして自分は名詠式なんてものが使えるのかってことをよ」
「そんなの考えたことすらないね」
人が呼吸をする時、息を吸って、吐く。それを常に意識している者がいるだろうか。
まばたき、呼吸、心臓の鼓動、血液の流れ。それを疑問に思わないのと同じように、名詠式が『在る』ということにエイダは疑問を持ったことはない。
「ま、そうだな。お前だけじゃなく大半の人間がそうだろうよ。......で、何を企んでるって話だけどな」
チャリッ──壁に立てかけていた祓戈をアルヴィルが摑む。
「ここで俺たちを止めなければ、お前の知る名詠式、それに名詠学校での友人の思い出も、名詠式にかかわる全てが消えちまうってのはどうだ?」







競闘宮外環層、避難路分岐点。
数メートル離れた距離に立つ相手の視線を、レフィスは正面から受けとめた。
「年の割に落ちついているな、上出来だ」
肩先までの赤銅色の髪に、深い青色の瞳を持つ女性が呟いた。
身体のラインをそのまま映しだすほど密着した黒シャツ一枚という軽装に、首元には黄砂色の長マフラーという一見矛盾した服装だ。
「単に、お前の言っている意味がわからないだけだ」
「そうじゃない、そう自己判断できる点が上出来だと言っているのさ」
くっくっと低い笑い声をもらすその女性。
「そうそう、年上の女という理解のされ方だけでは寂しいな。テシエラ・リ・ネフィケルラ、それが私の名だ。短い付きあいになるだろうが覚えておくといい」
「......価値観、法則、歴史、それに名詠式に関わる全ての人の記憶が再び殻へと還る、か。悪いが俺には興味がないな」
「興味がないわけではない。あまりに唐突で抽象的な宣告だったため、まだ理解がおよんでいない。そのため予感も想像もできないだけ、そうだろう?」
......空とぼけるのも無駄か。
見透かしたような宣言は、レフィスの心中をほぼ完全に捉えきっていた。
「そうだな、そうかもしれない。だがそれがどうした」
「ではこう言い換えよう。明日、お前の師であるヨシュアが遺した灰色名詠が消える。五色全ての名詠と同様にな。灰者の王もヨシュアとの記憶も、例外はない」
「──なんだと?」
頰が引きつるのが自分でもわかった。
「ほお、さすがに顔色が変わったな。つまらん無表情だけかと思えばなかなかどうして、動揺した表情も似合うじゃないか」
「......冗談も大概にしろ。五色の名詠全てが消えるなんてありえない」
「レフィスとやら、なぜそう言いきれる?」
「それは俺のセリフだ。どうして五色の名詠が消えるなんてことが平気で言える」
師より受け継いだ灰色名詠、それは自分の拠りどころそのものだ。何より信頼し何より誇りうる自分の名詠色。ミシュダルという先達によって灰色名詠の名が悪名に塗れようと、それだけは決して変わらない。
それが消える?
「〈ただそこに佇立する者〉の目覚めと共に、飛びたった世界は再び自らの殻へと還る。ただそれだけのこと、名詠式とてそれは例外ではない」
ミクヴェクス、それは名詠生物の名だろうか。ヨシュアから学んだ知識の中で該当する名詠生物は皆無。それどころか近い名の響きすら覚えがない。
「っと、これは私の言葉ではなく、シャオという奴の受け売りだがな」
「それも名詠式なのか」
素直に答えるわけがない、なかばそう高をくくっていたにもかかわらず。
「そうだな。調律者──ああ、今のお前の知識ならば真精という表現が妥当か。その特有触媒がこの競闘宮にある、と言えばわかるな?」
競闘宮の中にある触媒。今の自分なら、いやネイトやネシリス、シャンテだろうとまったく同じものを思いうかべるはず。
「......決闘舞台にあった触媒だな」
「そう、あの触媒の名はミクヴァ鱗片。お前も会場で目の当たりにしただろうが、あれには鱗に似た紋様が表面に刻まれている」
かつてヨシュアが見出し、そして〈孵石〉に封入した未知の触媒。かつてミシュダルからも聞かされた。それは表面に鱗のような模様がついた、透明感のある白い石だと。
「あの紋様は、細かく見れば全てセラフェノ音語の原型たるセラフェノ真言の文字列。それに刻まれた名こそが〈ただそこに佇立する者〉であり、その名を冠した名詠こそがミクヴェクス真言〈全ての約束された子供たち〉。私たちが求めるシャオの名詠式だ」
ミクヴェクス真言、全ての約束された子供たち。いずれも聞き覚えのない単語だ。
それにセラフェノ音語の原型? それだけ聞けば、まるでセラフェノ音語にはさらにその根源があるように思える。しかし──
「悪いな、俺は研究肌じゃない。そんなの探究しようとも思わない」
「そうか? それは残念だ」
吐き捨てるレフィスに、テシエラが演技じみた仕草で肩をすくめる。
「だが、それでもお前に一つ言っておく」
あくまでおどけた様子の相手へ、レフィスは押し殺した声で続けた。
「お前の言うことを信じる気はない。......だが千に一つ、億に一つの確率でそれが真実で、それによってヨシュアの遺した灰色名詠が消えるというのならば」
懐中にひそめていた銀色の硬貨を握りしめた。堅く握った拳の中、指先の隙間から溢れるようにこぼれる灰色の輝き。
「灰色名詠はヨシュア、そしてミシュダルが苦悩の果てに作り上げた悲願の結晶だ。お前らが誰であろうと関係ない。俺は、灰色名詠を守りとおす」
lefis──セラフェノ音語においてその単語が示すのは『子』。師であり養父であるヨシュアから授けられた、自分の最も大切な名前だ。
ヨシュアから受け継いだ名前、そして灰色名詠式。絶対に失うわけにはいかない。
「そう、それでいい」
ゆっくりと、テシエラの黄砂色のマフラーが発光していく。
黄金にも似た黄色の名詠門。
「覚悟を決めたのならかかってこい。だが私の名詠は性格が悪いぞ?」
ズッズズ......背後で何かが崩れていく音。巨岩によって構成された身体が崩壊し、細かい灰色の砂となって床に舞う。
自分が詠びだしていた灰色の小型精命、王に傅く子。
「性格が悪い? それで謙遜のつもりか、大概にしろ」
心中の動揺を悟られぬよう表情を保ち、レフィスは汗ばんだ拳を握り直した。
「テシエラといったな、何をした」
「何って、お前も見ていただろう? こいつで一撃加えただけだ」
あざけるように笑うテシエラの隣、腰ほどの高さを漂う黄色の発光体が一つ。
第二音階名詠に属する黄の小型精命。この名詠生物の一撃を受け、自分の小型精命は何の抵抗もできぬまま消え去った。
......そんなはずあるか。
学生決闘で証明したように、灰色名詠は特に頑丈な名詠生物が多い。とりわけこの小型精命はレフィスの切り札の一つ。並大抵の攻撃では倒せない。事実、赤の第二音階名詠である火食い鳥の攻撃にも耐えきった。そのはずが、たったの一撃で?
「......なるほど」
息を吐きだし、レフィスは唇の端を苦々しく歪めた。
性格が悪い? 否、そんな生やさしい言葉で括れるものではない。もっと凶悪、もっと異質な何かをこの女の名詠式は秘めている。
「どうやらまず、お前の名詠式の秘密を暴くことから始める必要がありそうだな」
「無難な判断だな。もっとも、それで私との差が埋まるとは思わないが」
「それを決めるのはお前じゃない」
抑揚なく吐き捨てる。が、相手の表情に変わりはなかった。
「はは、なるほど安心した。骨はありそうじゃないか」
わからない。灰色名詠はこの女にとっても未知のはず。なのになぜこうも平静を保てる。
こうして対峙していてなお得体が知れない。この女の器が測りきれない。
......すまないネイト、合流するのは手間取りそうだ。

「どうした? 例の触媒のある決闘舞台にたどり着きたいならせいぜい急げ。もっとも、万が一私の手をかいくぐれたとしても徒労に終わるがな」
「徒労、だと?」
「私の仲間も一人、決闘舞台に控えている。ただそれだけだ。だがな──」
くくっ。
絞った笑い声を通路に響かせ、テシエラはゆっくりと両手を広げた。
「私たちの三番手。そのお嬢さんは......底なしに強いぞ。私や他の仲間の誰よりな」







決闘会場へと続く通路。
靴裏が床の感覚と距離を覚えるほど、過去何度となくとおってきた道だった。
得体の知れない、だが気を許した途端に心奪われそうなほど透きとおった音色は止むことを知らない。誰が何を奏でているのか──だが、それも関係ない。
全てが今までと同じ。今までと同じように、自分にできることをするだけなのだから。
「シャンテ、顔色が悪いぞ」
隣を歩く同伴者へ、ネシリスは顔を向けることなく声をかけた。
「あら、あなたが心配してくれるなんて嬉しいわね」
艶やかな声。だが彼女はその言葉を否定しようとはしなかった。
「......少し昔のことを思いだしたの。わたしが名詠士になる前の、歌姫としてもてはやされてる時のこと。あなたが頻繁にわたしのお店に来てくれてた時のこと」
「もう忘れろ」
「忘れられないわ、でもいいの。覚悟はできてるから」
わずかに、ネシリスは横目でシャンテを盗み見た。
凜とした素顔。普段はおどけた自信家というヴェールに隠している、全ての不純物を取り払った後に残る彼女の素顔。
「迷わないなら、好きにしろ」
そして、ネシリスは決闘舞台へと足を踏み入れた。
──こんばんは──
聞こえていた音色が、止んだ。
旋律は消え、代わって響くのは至高の声。天上の鐘を思わせる、どんな人工的な訓練も及ばない自然の奇跡がそこにはあった。
「入口にいた警備員を眠らせたのはお前か」
「わたしじゃない。でも、わたしの知り合いがやったこと」
台座の取り払われた決闘舞台。
その中央に立つのは一人の少女だった。
口元以外を隠す巨大な日除け帽に、光沢ある青と白の絹糸で織り上げられた上質のドレス。しかしその淑女らしき装いと対照的に、ドレスからのぞく少女の肌は、痛々しいまでにびっしりと包帯に覆われていた。
「やっぱり貴女だったのね......ファウマ!」
魔性とも称えられる歌后姫の声が観客席まで轟いた。この時、もし観客席に観客がいれば悩んだだろう。この二人、どちらの声が上なのか。
だがその迷いは一瞬。次の瞬間には、全ての観客が同じ名を挙げることになる。
「......ごめんなさい、わたし人の名前と顔を覚えるのが苦手なの」
この、ファウマと呼ばれた少女の名を。
「ねえ、あなたがネシリス?」
「俺を知っているのか」
「ええ、シャオが言ってたの。この状況で三叉路の中央を選ぶのは当然、最も立場のある者。ならばあなたが来るのも当然だって、一番強くて一番場慣れしたあなたが」
少女の、帽子の陰に紛れた視線を確かに感じる。
「俺がここにいることとお前がここで待っていたこと、関係があるとは思えんな」
「あるわ、だってあなたより弱かったらこのミクヴァ鱗片を取られちゃうもの。だから、仲間の中で一番強いわたしがここにいるの」
少女の足下に、無造作に転がる昼間の触媒。大人でも一抱えはある巨大な石。砕けていたはずのそれが完全に再生していた。
「お前らの仲間が何人か知らないが、その中でお前が最も強いと?」
「うん。本当はテシエラがあなたと戦いたがってたんだけど、テシエラは......えっと、名前忘れちゃったけど灰色名詠の子の相手。だからわたしがあなたの相手」
──そのテシエラというのがレフィスを連れて行ったわけか。
先の砂嵐もおそらくそいつの仕業。残された黄砂から推測するに黄色名詠の詠い手。意図してのことか、この少女は自分の情報が流出することをまるで気にしてないらしい。
偽の情報による工作か、あるいは自分たちなど恐れるに足りずと踏んでいるのか。
「わたしが負ければこのミクヴァ鱗片はあなたの自由。だけどもしわたしが勝てば、あなたが昼間持ち去った一欠片を渡して」
ミクヴァ鱗片、それがこの触媒の名前なのだろう。なるほど、自分がその一部を偶然持ち帰ったがために、それを奪うため決闘舞台で待ち伏せていたというわけだ。
だが。
「幼稚だな」
「幼稚?」
ぽかんと、あっけにとられたような声で少女が反復する。
「発想が幼稚だ。勝負に勝った方が手に入れるのではなく、必要なものを手に入れた方が勝者だ。そうだろう」
「......ごめんなさい、わたし違いがわからない。でも一番手っ取り早いのは、わたしに勝って触媒を手に入れること。そうでしょ」
ミクヴァ鱗片を持ち帰るという使命だけが至上の目的。ただそれだけに拘るしかない、不器用な女。
──似ている、こいつと俺は。
「わたしに勝てばいいだけよ。それが一番わかりやすいでしょ?」
「そうだな、それに異論はない」
日除け帽の下、少女の口元が微笑んだ。
「話がつうじる人でうれしいな。......それじゃ、始めましょ?」
5
待ち続けていた。
途方もなく永い一秒。
一分が一時間、一時間が一日。いや、もしかすれば一年にも匹敵するほどに。
「......レフィスさん、シャンテさん、ネシリスさん」
中央の道から決闘舞台へ進んだ二人。そしてどの道に連れ去られたのかもわからないレフィス。捜しに行きたい、何度その衝動に駆られたことだろう。そのたびにネイトは壁に拳を打ちつけた。
......我慢しなくちゃだめだ。それがネシリスさんとの約束だもの。
今はただ、三人が戻ってくるのを待つしかない。一分一秒でも早く、三人の声と足音が聞こえてくるのを信じて。
だが、静寂を破ったのは声でも足音でもなく──
Yem ole , sariaquo ciel lef sic
Yem orza ,saria quo mofie olte
〈讃来歌〉?
......なんで、こんな誰もいないはずの通路に詠が聞こえるの。
elmei ilisyun hutia sm EgunI
noe , elmai onelan arma sm EgunI
自分の知らない声。どんどん、詠う声が大きくなっていく。
......つまり、詠っている人が近づいてきている?
xeoi loarbesti torn -l- kele
zeon lef kamyu da goen uc zarabellef nazarie Ies
yupa jes loarsis neckt univa-o- sis defeaquo somel mihhya
コツッ──
小さな、か細い足音が通路に響く。でも三叉路のどこから?
決闘舞台へ続く中央? 否。
砂嵐のやってきた右の通路? 否。
残された左の通路? それすら否。
「......まさか」
ゆっくりと、ネイトは背後を振り返った。
足音の方向は、自分たちがやってきた通路だったからだ。
O sia Sophia ,Yem ele dia quoririsia tis
薄暗い通路にぽつんと佇む人型の淀み。
陰や影とはまるで別種の、形容できない不可思議を伴った誰かがそこにいた。
O sia Sophia ,Riris ele , Selah pheno sias Orbie Risis
コツッ
詠と足音がそこで止まる。自分の、すぐ数メートル手前で。
「あなたと会うのを楽しみにしていた」
夜と同化するようで、だが決定的に何かが違う。そんな色のローブをまとう人物だった。
光沢ある漆黒の髪に、優しさと憂いを秘めた双眸。中性的な容貌に、神秘的な艶やかさを持つ唇。そこにうっすらと塗られた黒のルージュが、この暗さの中でもほのかな輝きを放っている。
「初めまして、ネイト・イェレミーアス」
にこりと、まさにそんな形容がふさわしいかのように、あまりに無垢な顔で微笑む名詠士。その笑顔を、そして〈讃来歌〉を聴いた時から確信できていた。
夜の名を持つ空白名詠の詠い手。
アマリリスが敵視していた人物。
名前も名詠式も、全てが自分と相反する存在。
......この人がシャオ。
「自己紹介は必要ないみたいだね。なら自己紹介の代わりに一つ問題を」
問題?
「そうだよ。全ては、最も原初の疑問から始まるべきなんだ。もし正解できたら、自分もあなたのどんな質問にも答えてあげる」
シャオが、ローブからほっそりとした手を差しだした。
そこには何も握られていない。
ただ、小さな小さな名詠門だけが光り輝いていた。
「名詠式において、名詠される対象が必ず通過するのがこの名詠門。ではネイト・イェレミーアス──この門の先に、いったい何があると思う?」
あとがき
今あとがきを書いている時期はまだ涼しげな初夏ですが、実際この本が刊行される頃には夏真っ盛りになっている気がします。......多分、自分は溶けてます。
この書きだし、去年の7月に刊行された三巻で書いたものを、ほとんどそのまま使ってみました。去年の自分と今年の自分、暑さに弱いのは相変わらずみたいです。
お久しぶりです、細音啓です。
黄昏色の詠使い七巻、手にとってくださってありがとうございます。
ここからお話は第二楽章。舞台もトレミア・アカデミーから、大陸中央部の大都市へ。新しい舞台、新しい人物たちをまじえ、物語は一気に佳境へ。今回はその始まりということもあり、第一楽章のあらすじなども巻頭に加えた仕様です。
ところで、第二楽章からはあらすじ以外にも『黄昏色の詠使い』で大きな出来事がありまして、物語的にも区切りの良いこの巻から文庫カバーが一新しました。
大小さまざまな変化がありますが、たとえば今回からイラストが全面じきになったり、『黄昏色の詠使い』のタイトルロゴが新しくなりました。このあとがきを書いてる時はまだ自分も見本を見ていないので、どんなものになるのかドキドキしてます。
他にも、カバーの袖にあった本の予告紹介が裏表紙の部分に印刷されています。本がビニルシートに包まれたままでも紹介が確認できる素敵仕様。でも、今までカバーの袖にあった紹介が消えたことで恐ろしいものが追加されました。
......そう、著者紹介。これに何時間迷ったことか。
ちなみに最初考えてた案では、「血液型はA型、星座はおとめ座です」などと書いて行を埋めようとしてました。一晩寝て冷静になった後、妙に恥ずかしくなってDeleteキーを連打したのが六月の終わりです。
とまあそれはさておき、ここでひとつおまけの話を──
この巻以降、本の表紙や目次に数行ずつ、セラフェノ真言の詞が綴られていきます。
実はこの詞を七巻から最終巻までつなげることで、これそのものが、『黄昏色の詠使い』の世界観だけど本編とはまた別の小さな歌物語になります。
もちろん日本語訳もサイトで順次ご紹介いたしますが、〈讃来歌〉などからセラフェノ音語&真言を解読されたという方がいましたら、ぜひ翻訳に挑戦してみてください。
本編と一緒に、こちらのおまけも楽しんでもらえるよう、がんばります。
さて、そのようなわけで、今回も多くの人に力を貸していただきました。
本編内容はもちろん、誤字脱字等のチェックまでお世話になりっぱなしの編集Kさん。
ますます素敵なイラストで『黄昏色』を彩ってくださる竹岡美穂さん、今回は特に他校の制服デザインや新たな重要人物も多く、大変だったことかと思います。
そして、この本を手にとってくださったあなた。日々、本当にありがとうございます。ブログへのコメントやお手紙、メールなど、どれも形式は違えど、その一つ一つに支えられている毎日です。
物語も第二楽章となり、いよいよ物語の根幹に関わる佳境に突入。
この巻も含め、ここから先は全てクライマックスとなるよう励んでまいりますので、今後ともお付き合いいただければ幸いです。
それでは、八巻でお会いできることを願いつつ。
二○○八年、六月のとある日の朝に 細音 啓
http://members.jcom.home.ne.jp/0445901901/(更新は......えっと、9月のどこかに)






黄昏色の詠使い
百億の星にリリスは祈り
細音 啓

富士見ファンタジア文庫
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口絵・本文イラスト 竹岡美穂


だいじょうぶ、ネイトのことを見ていたいだけなの。......もしわたしがこの世界からいなくなっちゃうとしても、その時こんな遠い場所にいるなんて嫌でしょ?
序奏 『微笑ムヨウニ』
凱旋都市エンジュ。
広大な大陸のほぼ中央に位置する、古くから交易の拠点として栄えた都市だ。教育、芸術、研究、そして名詠式研究の一大振興地でもある。
とりわけ名詠式の振興の象徴たるものが競闘宮。都市のほぼ中央に位置し、エンジュ最大の観光施設として観光客の訪れぬ日はないとされている。
競闘宮、名詠士が互いの技量をつくして戦う地。だがそこは現在、正体不明の名詠生物の襲撃を受けて無期封鎖となっている。
その内部。非常灯だけがほのかに点る通路、三叉路となった場所で──
「......いきなり何を言ってるの」
乾いた唇を、ネイトはかろうじて動かした。
夜色の髪に夜色の双眸を持つ少年。まだ幼なさの残る顔つきと体格。だがその声は警戒を孕んで震えていた。
「何って、ただ簡単な問題を一つ出しただけじゃない」
薄暗い通路のなか、対峙する黒法師がクスリと笑んだ。
光沢ある漆黒の髪に、鈍い光を放つ同色の双眸。小さく形の良い唇には、うっすらと塗られた黒のルージュがほのかな輝きを放っている。
──シャオ。
年齢、性別、目的はおろか、その名が本名かどうかすら確証はない。今目の前にいる人物は、全てが空白のままの存在だった。
「緊張して聞き逃した? ならもう一度だけ同じ質問をするよ」
黎色のローブから覗くのは、ほっそりとした左腕。
その手の平に浮かぶ小さな名詠門が瞬いた。
「名詠式において、名詠される対象が必ず通過するのがこの名詠門。ではネイト・イェレミーアス──この門の先に、いったい何があると思う?」
「何があるって......」
シャオの質問とはつまり、名詠生物がどこから生まれどこへ還るのかということだ。
人は名詠式を使う。
しかし実のところ、名詠式はいまだ謎に包まれている部分の方が多い。いつ誰が使い始めたのか。その言語となるセラフェノ音語はいつ生まれたのか。──世界中の研究者が今なお頭を悩ませる謎。シャオの質問もその一つ、いまだ解答は得られていない。
......なのに、名詠学校の単なる生徒の僕にそれを答えろと?
「ううん、あなたは知っている。自分でも知らないうちに、あなたはこの世界と名詠式をつなぐ大切な秘密を見つけたはずなんだ。なぜならイブマリーはそのために、あなたを拾い育てたんだから」
イブマリー。
唐突に告げられた名の衝撃は、驚愕より恐怖に近かった。
「なんで......母さんのことを知ってるの」
「お互い出会ったことはない。でも自分はイブマリーを知っている。知らないのはあなただけ。しかしどうしようね、話が進まないよ。弱ったな」
無垢な笑顔をたたえ、おどけたように黒法師がとぼけてみせる。
「なら当てずっぽうでいいから答えてみない? うん、むしろその方が自然かも」
「......僕は、そんなこと答えてる時間なんてない」
「クルーエルが気になるから?」
「っ!」
先を読まれ、言葉に詰まった。
......まただ、なぜ母さんだけじゃなくクルーエルさんのことまで。それも僕が言いたかったことを先読みして言ってくるなんて。
「知りたいんでしょう。真言のこと、〈ただそこに佇立する者〉のこと、クルーエルとアマリリスの関係のこと。だからこそ自分もあなたに問いかけているんだよ? あなたの答えで自分の答えも変わる。最初に言ったでしょ。自分の問いに正解できたら、自分もあなたのどんな質問にも答えてあげるって」
間違えることは許されない、シャオの言葉は暗にそう示している。
「慌てる必要はない、落ちついて考えて」
白くか細い自らの腕をシャオが再度ローブに隠す。と同時、膝を伝うわずかな衝撃にネイトは天井を見上げた。
「地震?」
いや、違う。地面の震動より先に一瞬、何かが崩れたような音が聞こえた気がする。
音の方向は......決闘舞台?
「始まったか」
偶然だろうか。
目の前の黒法師もまた同じように天井をじっと見つめていた。
「あなたと共に競闘宮へ来たネシリス。彼と、そして自分の仲間がぶつかったらしいね」
「......まさか決闘?」
「そんな大層なものじゃない。ほしい物を懸けて奪い合う、子供の小競り合いのようなもの。懸ける対象は察しがつくでしょ。そう、決闘舞台に放置されたままの触媒──ミクヴァ鱗片だ」
ミクヴァ鱗片。そう、それが最大の謎なんだ。
なぜあの触媒だけが特別なのか。単なる名詠式の触媒とは思えない。今わかっていることはただ一つ、ミクヴァ鱗片の何かがクルーエルを脅かしているということのみ。
......あの触媒は破壊しないといけないんだ。
「ネシリスのことを気にかけたり、クルーエルを気にかけたり。あなたも大変だね」
視線を見上げるシャオの笑みが一段と深まった。
「でも、他人を心配できるというのはとても素敵なこと。その優しさはあなただけの特別なものなのかもしれない。だからこそ、自分はあなたと話してみたかった。こうして二人きりで話せるのが楽しみだったんだ」

一奏 『付きそう者の決意は清く』
1
競闘宮、外環層四階──
子供なら十人並んで通れるほどの大通路の一角。わずかな非常灯に照らされ、金属製の鎗を持つ男女の姿がそこにはあった。
「ネシリスと姫サンの決闘か、勿体ねえな。あんなド派手な決闘に観客がいねえってのは」
決闘舞台側の窓へと振り向くのは長身瘦軀の男。麻色のズボンに黒獣皮のベストという出で立ちの祓名民──アルヴィル・ヘルヴェルント。
「決闘、ネシリスがか?」
アルヴィルに鎗の切っ先を向けたまま、エイダは言われるままを反芻した。
長身のアルヴィルと対照的にこちらは小柄な少女だ。日焼けした肌にボーイッシュな顔だちが薄闇の中でも見てとれる。
......ネシリスとアルヴィルの仲間が戦ってる?
「あ、でもダメだな。あのはた迷惑な姫サンが観客のことまで考えた名詠するとは思えねえし、仕方ないってか」
「姫サンてのがお前の仲間か」
「おうよ、色気のなさはお前と良い勝負のお嬢さんだ。世間知らずの寂しがり屋でな、逆におせっかい焼きの姐さんと仲がいいんだわこれが」
お嬢さん? まだ自分と同じくらいの歳の少女に聞こえるが。
「アルヴィル、どういうつもりだ」
「ん?」
「ネシリスの相手の女だ。女だからネシリスが手加減するなんてことありえないのは知ってるだろ」
ネシリスの戦いを観戦した人間で、その強さを疑う者などいない。長きに亘る競闘宮の歴史においてすら、あの男に対抗しうる名詠士がいたかどうか。
「おうよ、けど手加減どころか押されてるかもしれねえぞ?」
「......ありえない」
「世の中にはな、俺たちが普段見えてねえもんがたくさんあるんだよ。優れた意味でとんでもないってものから、見たくなくて目をそらしたくなるようなものまで。それこそ大陸を一周してみりゃよくわかる」
すっ。
アルヴィルの鎗先がこちらへと向けられる。
「お前が名詠学校に行ってる間な、俺は大陸を一人でぶらついてた。目に焼きつくようなすげえ壮大な滝とか絶壁とかな。逆にとんでもなく貧しい村や、寂れた街。そういうのを見て回ってた。......見たいもの以上に見たくないものを見てきた。んで、頭悪ィ俺なりに、色々考えさせられた」
頭が悪い。
彼の口癖だ、もっぱら自身を形容する時に好んで使う。
「そんなことしてるうち、たまたま同じようなことしてる風変わりな奴と知り合った。そいつがシャオ。初対面の俺にいきなり話しかけてきて、その日のうちに紹介されたのが姐さん。それからフェルンて地方に連れてかれてよ、そこで会ったのが、今ネシリスと派手にやってるだろう姫サンだった」







「......綺麗な光ね」
競闘宮の決闘舞台、包帯ずくめの少女──ファウマの声が響きわたる。
時刻としては深夜二時を回ったところだろう。天井開放型の舞台は、輝く灯火に煌々と照らされていた。
青のインバネスコートを着た名詠士、ネシリスが名詠した一体の光妖精。
青白く輝く光に照らされ、決闘舞台は白夜のように幻想的な雰囲気に包まれていた。
「ねえ、どうでもいいけど、そちらは二人? 観戦なのか相手なのかはっきりして」
日除け帽に白のドレス姿の少女がすっとこちらを指さした。
ミクヴァ鱗片──舞台の隅で発光を繰り返す巨大な触媒を懸けた決闘。その相手を求めるように指さすファウマを一瞥し、シャンテは肩にかかる髪を手ではらった。
「わたし、戦うのって得意じゃないの」
無言で、同じく無言のままのネシリスの背後へと移動する。
互いに口にしたこともない、決まり事。
ネシリスが戦うときは自分が見守る。自分が詠う時はネシリスが見届ける。
そう、だから今度はわたしが観客。
あの時と反対に──
たった一人の観客の前で、
たった一人の観客のために、
競闘宮の覇者は、決闘舞台の中央へと進んでいった。
「わたし、競闘宮って初めてなんだけど、一つ訊いていい?」
無言のままのネシリスへと、包帯ずくめの少女が首をかしげてみせる。
「いつも開始の合図はどうしてるの。審判が声で合図したりするの?」
「それもあるな、あいにく審判はこの場にいないが」
「それならこれがいいわ。綺麗でしょ?」
嬉しそうに声を弾ませ、ファウマが握っていた拳をひろげて前方へと突きだした。小さな手の平に転がる、直径数センチのガラス球。
ファウマがそれを頭上へ投げる。
数メートルの高さまで浮かびあがり、数秒と経たずに放物線を描いて落ちてくる。
──カツッ
ガラス玉が地表に衝突。それが合図。
ほぼ同瞬──ネシリスのサファイアが名詠光を放つまでに要した時間差は、合図から一秒の単位を切っていた。
青の第二音階、氷狼。凍てついた体表と凍れる牙を持つ、薄水色の名詠生物だ。
「......すごい、早い」
日除け帽の下、少女の口から驚愕の声がわずかに洩れた。
名詠士の決闘において常套とされるのが、相手の名詠を確認してから自分の名詠を決める『後攻型』の戦術だ。第一音階名詠に代表される長大な〈讃来歌〉を詠われたら、それを小技で潰す。逆に、もし相手が牽制で炎を放ってきた場合、赤色名詠士ならばそれを逆手に触媒として利用もできる。
そんな中、こうした常套を無視するのがネシリスだ。事実、不意を突かれたファウマは名詠はおろか、まだ手に触媒すら持っていない。
あっけない。シャンテが息をつくのを見透かすように──
「まどろっこしいのは嫌いなのね。わたしとあなた、似た者同士かも」
だらんと下げていた右手を、ファウマがふわりと持ちあげた。
「でも、ごめんなさい。わたしの名詠はあなたより二段階早い」
その言葉の意味をシャンテが理解するより先に──
目の前に、鮮血のように鮮やかな炎の津波が押し寄せていた。
息一つする時間もなく炎がネシリスを舐める。
「──ネシリスっ?」
反射的にシャンテは彼の名を叫んでいた。背後で見ていたシャンテすら、炎が名詠された瞬間が見えなかった。
ばかな、ファウマはいつ炎を名詠した?
気づいた時には名詠が終わって炎が迫っていた。競闘宮でネシリスの戦いを観戦することが多いが、そんなの今まで見たことない。そもそもあの少女、触媒すら手にしてなかったはずなのに。
......いえ、でも平気なはず。自分の知るあいつはこれくらいじゃ──
炎の渦の中、見覚えある男の影が浮かびあがる。
キッィィ......イッイイッ............ンッ
「え?」
炎の上げた悲鳴に、今度はファウマが声を上げる番だった。
炎が凍りつき、かん高い音を立てて破砕する。地面に散った氷を踏みつけ、何事もなかったかのようにネシリスと氷狼が立っていた。
「今の......防いじゃったんだ」
「炎、赤色名詠か。メッキが一つ剝がれたな」
一秒反応が遅れていたらどうなっていたかもわからない状況で、なお競闘宮の覇者は平然とした口調を崩さない。
「じゃあこれはどう?」
指揮棒をかざす指揮者のように、ファウマの白い指先が空で何かを描く。
その動きまでをシャンテが認識した時には既に、決闘舞台の壁際から、ネシリスを挟みこむかたちで巨大な二つの炎壁が迫っていた。
──またしても?
いったい、ファウマはいつ炎を名詠しているというんだ?
「変わった名詠だな」
流れるような仕草で、ネシリスがフラスコの触媒を振りまいた。
彼の真横に二つ、炎の熱波を遮るようにそびえる氷壁。大人でさえ簡単に押し潰されかねない重量の氷の塊が、今しも彼を呑みこもうとした炎壁を遮った。
「わたしの名詠を、目で見てから反応できるなんて」
驚愕の吐息が少女の唇からこぼれ、それは徐々に嘆息へと姿を変えていく。
「困ったな。思ってたよりずっと面倒くさそうな人」
「二度同じ手を使うのは失敗だったな」
宙に舞う火の粉を眺める競闘宮の覇者。そして──
「......もしかしてバレちゃったかしら」
「さあな」
帽子の下、はにかむように少女が笑う。それと共に、笑顔にはほど遠い無表情ながら、その男もまたわずかに唇の端をつり上げた。
......そういう男なのよね、あなたは。
どんな相手にも態度を変えず、どんな相手にも自分を貫く。
「わたしと初めて会った時もそうだったもんね」
胸に渦巻く想いを遡り、シャンテは背中を向けたままの相手にそっと呟いた。
本当に、あなたは変わらない。
あの夜。わたしが歌っていた酒場に、あなたが現れたその日から。
2
もうどれくらい前だろう。
わたし──シャンテ・イ・ソーマは、全てを見下していた時代があった。
集まる観客を見下し、ライバルの歌姫たちなんかに目もくれなかった。
次から次へと集まってくるファンの前では体面をつくろって、でも薄皮一枚下では鼻で笑って小馬鹿にしてた。自分以外の全ては無能で、馬鹿で、無様な負け犬。
だってそうでしょ?
わたしは、世界で誰より美しい声を持つ女だもの。
ほんのちょっと畏まって詩を朗読するだけで教師を黙らせることができた。歌を歌えばそれだけで周囲の大人は涙して拍手した。言葉にしなをつけてみせるだけで、周りのオトコなんか片っ端からわたしの物。
親も、周りの大人も、学生時代の同級生も、わたしの前では誰もが凡庸。
十五歳から歌姫として大陸を回り、一年後には天性の歌姫として名前も顔も知れ渡っていた。それも当然のこと、わたしは周りの凡人とは出来が違うんだから。
......そう、そんな幻想に酔っていた。
それが幻想だと気づいたきっかけは、もう何年前のことだろう。たまたま立ちよった都市の、とある酒場で歌を頼まれた時だった。







「──ふざけないでっ!」
小さな酒場に、あからさまに怒気を含んだ絶叫が響いた。
店の中央に設けられた、周りの床より一段高くなった舞台。そこに立つのは一人の女性だ。女性と言ってもまだ十代後半だろう。化粧ゆえ大人びた風となっているが、顔だちそのものは少女と呼んでも差し支えない。
鮮やかな碧色の髪に、女豹を思わせる金色に輝く瞳が印象的な歌姫だった。
「あんたよ、そこのあんた!......話聞いてるの!?」
演奏が止まり、興に乗っていた酒場が一瞬で静まりかえる。
それも当然だ。今の今までこの世ならぬ透きとおった歌声を披露していた歌姫が、歌を中断して舞台から降り、あろうことか大声で怒鳴りだしたのだから。
「このわたしが、歌姫のシャンテが歌ってやってるのよ! それを、まるっきり無視して......わたしなんかいないみたいに酒ばっかりあおって、挙げ句の果てには歌の最中に店を出ようと席を立つ?............ふざけるんじゃないわよっ!」
店の出口、背を向けていた男がゆっくりと振り返る。
その目の前へと、ヒールの音もけたたましく、シャンテは詰め寄った。
「俺に何か用か」
青のインバネスコートを羽織る大柄な男だった。目は鋭く、その表情は睨むこと以外を知らないとでも言わんばかりの強面。周りの男性より頭半分、女性のシャンテとは優に頭一つ以上背丈が違う。
「あんたね、何様のつもり? そもそもね、歌ってる最中からそうだったのよ。まるで歌を聴いてるそぶりもなかったし、退屈そうな表情で酒ばかり!」
「俺はこの店に酒を飲みにきただけだ。問題があるのか」
大の大人でもたじろぐような印象の大男を、シャンテは真っ向から見上げた。
「人が歌ってる時に席を立つなんて、いい歳してマナーってものも知らないの? 本来ならね、わたしはこんな寂れた店で歌うような小者じゃないの。普段わたしはね、あんたなんかが全財産はたいても入場できないような大演奏会の、その主役張ってるの。それがどうしてもって泣きつかれたから特別に歌ってやってるのよ。わかる? こんな機会でもない限り、あんたが一生聞けない歌を歌ってやってるの!」
たまたまこの都市──凱旋都市エンジュで公演があり、自分はそのためにやってきたのだ。今この店にいるのは単なるファンサービス、言ってしまえば慈善活動の一環である。
それを、わたしの厚意も知らないで。
「客が途中で去るということは、所詮その程度ということだ」
「......なっ!」
激昂が、理性を突き破った瞬間だった。
男の胸ぐらを摑み、無言で真下から睨み上げる。
「──あんたなんかに何がわかるっていうのよっ!」
「お前が臆病だということだけはな」
みしっ。そんな音と共に右手首に激痛が走った。
「い......痛っ! は、放しなさい!」
胸ぐらを摑み上げた手首を、男がさらに摑んできたのだ。それも、男でも悲鳴を上げるような力で締め上げるように。
「最低......男のくせに女に暴力? 本っ当に、あなた最低!」
ようやく解放された手首をさすり、男から一歩だけ後退する。
「今まで、お前にこうしてたてつく男はいなかったようだな」
「いるわけないでしょ。それに、わたしが臆病ってどういうことよ!」
「さあな」
表情一つ変えず男が背を向ける。
そのまま扉を押し開き、外灯の照らす外の歩道へ。
「......なに、あのわけわからない男」
口ににじむ苦い味に、奥歯を嚙みしめた。
小さな酒場とはいえ、こんな大衆の面前で。初めてだ、こんな屈辱。
「どうして、なんなのよアイツはっ!」
店の奥にある従業員用の更衣室。
出番を終えてすぐ、シャンテは拳を壁に打ちつけた。
「わたしの声も歌も誰にも負けないはずなのに......なのになんで、あんな誰かも知らない男に馬鹿にされなくちゃいけないの!」
舞台用の衣装を脱ぎ捨て、下着姿のまま怒声を洩らす。こんな......こんな屈辱あってたまるか。はらわたが煮えくり返るとはこのことだ。
「ちょっとあなた、アイツは店の常連なの?」
怯えたようにこちらを盗み見る女性店員を呼びつけた。明らかに自分より年上だが、そんなものはお構いなしだ。
「え......あ、ええと......」
「なんでもいいの。とにかく、あの男はこの店に来るんでしょ。わたし以外の歌手が呼ばれた時もあの男はあんななの?」
「い、いえ......ネシリス様は普段、このお店に歌を聴きにこられていますので」
「──それ、どういうこと」
つまり、わたし以外の歌手が歌う時はちゃんと最後まで聴いている?
ますますわからない。有象無象の素人歌手の方が好みだということ? いや、そんな簡単な理由じゃないはずだ。
「いえ、まって......ネシリス? 今、ネシリスって言ったの! まさか、あのネシリス?」
「は、はい。この都市にある競闘宮のお方です」
青の大特異点ネシリス。名詠士でないシャンテもその名は聞き覚えがあった。
ここ凱旋都市エンジュが誇る競闘宮で、突如現れた名詠士。一度として地に膝つくことなく覇者の地位に昇り詰めた男ではないか。
「うそ、あんな男が」
競闘宮の覇者だというのなら、それ相応に公的な舞台にも賓客として招かれているはず。大舞台での演奏会にも出席しているだろうし、それなりに耳は肥えているだろう。
だとすればますます合点がいかない。
「ねえ、あの男は明日もこの店に来る?」
「お、おそらくは......競闘宮での試合日以外はよくいらっしゃいますので」
「そう、わかったわ」
──きっと、自分が競闘宮の覇者だということでお高くとまっているんだろう。
ならばなおさらだ、その自尊心を粉々に踏みつけてやる。わたしの顔に泥を塗ってくれたお返し、たっぷりしてあげるんだから。







「ここ、いいかしら」
店の隅、照明のあたらぬ位置にある椅子に手をかけ、シャンテは微笑んだ。
テーブルの対面に座る男──青のインバネスコートを羽織る名詠士がふらりと視線を持ちあげる。
「席はどこも空いてるが」
「いいじゃない、どうせ相手もいないんでしょ?」
返事はない。
沈黙が答え、ではなかった。ネシリスの視線はもう既に自分を見てすらいなかった。
......わたしなんか興味がないってこと?
「あなた、ここの常連らしいわね。好みの歌手でもいるの?」
グラスを握る相手の腕に、シャンテは自らの二の腕をそっと絡ませた。
誘うような媚びた声音。まなざしも上目づかいにしっとりと。服装も、胸元が大きくひらいた露出の多いものをあえて選んでいる。
「ね、教えてよ」
──さ、洗いざらい吐きなさい。オトコなんてそんなものでしょ?
たった一つでいい、弱みを握りさえすればいいんだ。
なにせこの男は一身に注目を浴びる競闘宮の覇者。たった一つ噂を吹聴するだけでたちどころに話題は広まる。わたしをコケにした報いを倍にして返してやれる。
「邪魔だ」
その思惑が、絡ませた二の腕と共にあっさりと払いのけられた。
「────っ!」
なんで、なんでこいつだけ。
今までどんな観客だってわたしの声の虜にしてきたのに。男だってそう、わたしがこんな真似しなくたって、意味ありげに見つめるだけで向こうから寄ってきたのよ。
こいつだけ特別なんてありえないはずなのに......
表情を取りつくろうのも忘れて睨みつける。と。
「今日は歌わないのか」
唐突に、その男はそう訊いてきた。
なに、どうしたの突然。
──あ、そうか。なんだかんだいってもわたしの歌が気になって仕方ないってわけね。
「ええ、この店との約束は一日だけだもの。報酬もそれきり、わたしが歌う義理もないでしょ? でも、もしあなたがどうしても歌ってほしいというのなら考えてもいいわ」
「金にシビアだな」
グラスの液面を見つめたまま、ネシリスが独り言のように呟いた。
「金と依頼がなければ歌うことはないのか?」
「プロだから当然。あなただってそうでしょ、名誉ある競闘宮の偉大な覇者さん?」
むろん皮肉。言葉の抑揚から、この男もそれは容易に理解できるはず。
「素敵じゃない。あなたはこの大陸で向かうところ敵なしの名詠士。わたしも並ぶ者なき歌姫。選ばれた者同士、仲よくしましょ?」
さあ、わたしに気を許しなさい。
わたしに弱みを見せて。それにつけこんで無様にこきおろしてあげるから。
「本当にそうなのか?」
「......え」
覇者の言葉は、シャンテが予想した返事のどれともかけ離れたものだった。
「俺は本当に、大陸で敵のいない名詠士なのか? どうしてそう言いきれる」
「だって競闘宮で負けなしなんでしょ。それとも、あなたより強い名詠士に心当たりなんてあるの?」
「あいにく、まだお目にかかったことはないな」
「なに? それなのに不安なの? はっ、それこそあなたの言う臆病ってものじゃない」
見つめただけで赤子が泣きそうな強面で、なんて覇気のない。わたしを散々コケにして臆病者と言いながら、自分が一番の臆病者ではないか。
「俺は勝ちにも負けにも興味がない。目的もない。競闘宮しか行く先がなく、気づいたらそこで戦って、周囲から勝手に覇者と騒がれていただけだ」
「あら、やっぱり似た者同士じゃない」
自分もそうだ。自分の声を活かした仕事しか行き先がなく、気づいた時にはそこで歌って成功して、周囲から歌姫と褒め称えられていた。
「ならば一つ訊く。お前の声も、本当に世界で最も優れたものなのか」
「当然じゃない。それともあなた、心当たりがあるとでも?」
「知り合いに、一年を通して大陸中を旅して回るカインツという変わり者がいる。その男から聞いたことがあった。大陸北部にあるフェルンという城下街、その街に近い城の娘が、この世ならぬ天上の声を持っていた──と」
......なるほど。そう来たか。
この男はあくまで、わたしの声を認めないつもりなのだ。
「なに? わたしにそこに行けっての? 冗談じゃないわ、公演のスケジュールだって詰まってるし、そもそもわたし以上の声なんてありはしないもの」
「さあな」
勝手にしろ。そうとでも言いたげに彼がグラスを見つめる。
「......舐められたものね」
怒りにまかせて叫びたくなるのをこらえ、シャンテは椅子から立ちあがった。
「一月後よ。今日と同じ時間、この場所で待ってなさい。そのフェルンにいる娘とやらを連れてきて、あなたの前でどっちが上か直接比べさせてあげるから」







城下町フェルン。
その町に面した山の山頂で、シャンテの目指す城は初秋にもかかわらず雪化粧だった。
「へえ、こんな城も悪くないわね。素敵」
通路を真っすぐに進むかたわら、城内の雰囲気に苦笑する。
城内は暖房として薪がくべられ、コートもいらないほど暖かだ。加えて、室内の装飾も見事。頭上を彩るのは色鮮やかなシャンデリアに、天井の壁に直接描かれた大絵画。足下はといえば、自分の姿が映るくらい丁寧に磨かれた石材の床だった。その上には赤と白の絨毯が碁盤の目状に並べられ、埃一つすら落ちていない。
「......真っ赤な噓というわけではなかったのね」
事前に情報も集めたが、フェルンの住人から姫と称されるファウマ・フェリ・フォシルベル王女、彼女の声の清廉さは住民の誇りでもあるという。
「で、当のお姫様はこの先だったかしら」
真っすぐ伸びた通路をひたすらに突き進む。厚みのある絨毯で足音が消され、周囲は完全な無音。しんと静まりかえった城内は豪奢だが、どこかもの寂しい。
そんな思いを巡らした最中──
その『音』は唐突に聞こえてきた。
「なに......これ......」
どこか遠くから、笛と鈴が入り交じったような旋律が。
この古城のどこかで誰かが演奏? いや、何か違和感がある。今まで立ち会ったどんな演奏会で用いられていた楽器とも異なる音だ。
笛よりもか細く、優しく、心地よい。オカリナのような淡い音色で、だけどオカリナよりもっと澄んでいる。これは──
「まさか............うそ......」
一つ、たった一つだけ思いあたるものがあった。
おそらく自分以外、まず誰も気づかないだろう。自分だからこうして気づいた。
これは──人の声だ!
いいえ、声というのも正確ではなく......これは呼吸音。
息を吸って肺に送り込む。その肺から気管支、喉へと戻る際、本当に微かに声帯をふるわせる。それが、こんなにも淡い音を紡ぎだすなんて。
「う......うそっ、そんなことありえない......!」
大陸で最高の声を持つと言われていた自分ですら、ここまでには至らない。意識して訓練すれば可能かもしれないが、この先に座るファウマという娘は......おそらく、そんなこと意識してもいない。
「まさか、わたしがファウマに劣っているというの!?」
あのネシリスといういけ好かない男の言うとおり?
嫌だ、そんなの絶対認めない。
「っ......上等じゃない、それでこそよ!」
小刻みに笑う膝を叱咤し、眼前に見えてきた謁見室の扉へと手を伸ばす。
その直前だった。
──だれ? 謁見に来た人?──
閉じたままの扉を伝わり、その音は沁みわたるように伝わってきた。
伸ばしかけた手が、扉に触れる数ミリ手前で凍りついた。
この世のあらゆる楽器、否、鳥類のさえずりであろうと及ばない奇跡の音色。
......こんなことって。
理解した。何もかも。
なぜならその声は、シャンテが常に意識して出そうとしている、いわば自分の中での理想の声そのものだったから。
──ごめんなさい、わたし気分が良くないの。一時間後にまた来てちょうだい──
「......っ!」
頰を伝うものが涙であると悟る前に、シャンテは口元をおさえて通路を駆けだしていた。
人生で初めての、そして最大の敗北だった。
目の前が涙でゆがみ、何度転びかけたかも定かでない。
家族、教師、同級生、観客──脳裏で、今まで心の中で罵倒し続けてきた人間が次々と浮かんでは消えていく。たった一つ縋っていたものが、何より信頼する自分の声が、硝子のように砕けて散っていく。
......わたしは............馬鹿だ!
誰に向けてかもわからない嗚咽をもらし、シャンテは城の扉から走り出た。







もともと歌姫という職業柄、定住地があるわけでもない。
鈍器で殴られたように記憶も意識も真っ白になった状態で、フェルンからの列車の行き先を凱旋都市にしたのは、まさに条件反射としか言いようがない。
「飲めば酔えるなんて噓じゃない......こんな液体」
テーブルに突っ伏した状態で、目の前のグラスにゆれるアルコールをぼうっと眺める。
「無能......全部全部全部、役に立たないクズばっかり」
今まで稼いだ莫大な公演報酬、目の前のアルコール、誰とも知らない怪しい店で買った精神安定剤に睡眠薬。何をどれだけ消費しても、あのフェルンで聞いた声を忘れることはできなかった。
「いっそ......全部忘れられればいいのに............自分のことも、何もかも」
このまま酒場の床で大の字になって眠りはて、そのまま全部忘れられたらどれだけ楽になるだろう。
「あ、あの......お客さま」
「っさいわね、ほっといてって言ってるでしょ!」
物言いたげな店員の視線の先、店の入口に人影がぽつんと伸びていた。
「誰? 悪いけど、今日はわたし一人で借りきってるの。さっさと出ていって」
法外な値段で店を一日借りきった。
店員も、戸締まり役の一人を除いて全部帰らせた。実質、今夜はシャンテ一人のために店を開けているのだ。
「あのね! 今日は部外者はお断──」
席から立ち上がった姿勢で凍りつく。
青のインバネスコートを羽織った男が、全ての元凶とも言える男がそこにいた。
「......ネシリス?」
そんな馬鹿な、この男との約束は一ヶ月後。まだ一週間以上先の話のはずなのに。
「風の噂で、シャンテという歌姫が予定の公演を全て欠場することになったと聞いた」
「......へえ、偶然じゃない」
扉の前で立ったままの男へ、おぼろげな足どりで近づいていく。
「わたしもシャンテっていうの。職業は、歌姫だっただけど」
くすくすと、何の笑いかもわからない笑みが胸の奥から湧いてきた。怒りの炎は燃えつきて、残ったのはわずかな燃え殻──そんな乾いた笑み。
「フェルンに行ったのか」
「ええ、あなたの望みどおりにね。あなたの言ってた女にも会ったわ」
噓だった。
本当は、会う前に扉の前で逃げてきた。
「公演は」
「そんなの全部やめよ、やめ」
まぶたを伏せ、首を横に振る。
「......もうわかってるんでしょ? わたしもね、ただの負け犬だったの。わたし自身、わたしが見下してきた平凡な人間だったの。どう、笑っちゃうでしょ?」
手にしていたグラスが、指を伝って床で砕けた。
かん高いグラスの悲鳴が静まるその前に。
「笑いなさいよっ! さあ、声に出してわたしのこと笑いなさいよっ!」
天井を仰ぐ姿勢でシャンテは声の限り絶叫していた。
「笑えって言ってるでしょ! 一切合切、全部あなたの望んだとおりになったじゃない。ほら、黙ってないで何か言ったらどうなのよ! 言いなさいってば!」
喉が壊れるほど叫び続け──
「......なんで、なんでこんなことになっちゃうのよ」
その後に残ったのは、どうしようもないくらい苦くて熱い嗚咽だけ。
「......全部......全部、あなたのせいなんだからね......」
溢れでる呪詛の嗚咽をかみ潰し、這うように進んでいく。
「あなたと出会わなければ......わたしは、わたしのままでいられたのに......」
涙でかすんだ視界の向こう。ろくにテーブルも椅子も見えない曇った視界の中で、青のインバネスコートを着た男の影だけを目指して。
「あんな女のことも知らずに、わたしは最高の歌姫だって............自分を誤魔化していられたのに......」
拳を握り、腕を振り上げる。だが。
......あ、......あれ?
振り下ろした拳は空を切っただけだった。
相手のもとへたどり着く前に膝が落ち、なすすべなくその場に倒れ込む自分──おぼろげな意識のなか、まるで他人を見ているようにシャンテはそれを自覚した。
とさっ
倒れこむ前に、誰かが自分の身体を支えていた。
酒場の女性店員? じゃない。もっと大きくて包容力があって、あったかくて──
「......ネシ......リス?」
自分を支えていた相手が誰なのか理解した瞬間、シャンテは目を見開いた。
「ば、ばかっ! なんのつもりよ!」
彼は答えない。
「......どきなさい、今さら紳士ぶらないで!」
ゆらめきながらも、ネシリスの胸を突き飛ばすようにして立ちあがる。
──何をやってるんだわたしは。
一瞬たりとはいえ、こんな男の腕の中を心地よく感じてしまうなんて。
「歌姫だった、そう言ったな」
「言ったわ。もうあんなの廃業、でもあなたに関係ないでしょ」
「なら最後に一曲歌ってみろ、今この場で」
「────は?」
歌ってみろ?
散々わたしの歌の途中で退席し続けた男が、今さらどれだけ厚かましい口をきくんだ。
「どんな歌でもいい」
「あなた正真正銘の馬鹿? なんであなたの為に歌わなくちゃいけないのよ。わたしの歌を一人で貸しきりで聴くなんてね、あなたにはもったいなすぎるの! そんなに聴きたきゃね、このテーブルに山ほど金を積んでみせろってのよ!」
もし仮に、たとえそうしたとしてもお断りだが。
「プロとしての歌手は廃業と言ったはずだ」
「......っ!」
職でない、もはや素人の身分。ならば金はとれないと言いたいのか。
次から次へと、どこまでも癪に障ることを。
「放浪の詩人ユミエルの詩集『礼地祝誕』より、最終章第七節『哀乙女』」
ユミエルの哀乙女?
「......変わった趣味ね」
名前と詩集だけが残された、歴史書に載るような古い詩人の詩だ。新天地を目指す人々の希望を歌った物語形式の詩の中で、唯一悲哀に満ちた想いが綴られた一節でもある。
哀惜と後悔の念で織り上げるように紡がれた詞と、切なく張り裂けそうになる旋律の組み合わせ。シャンテの公演では滅多にリクエストされることのない詩である。
「俺なんかのリクエストは断じてご免か?」
「......いえ、気が変わったわ」
かすかな苦笑と共に首を振る。毒気を抜かれた気分だった。
──ホント馬鹿みたい。まさか、音楽だけは趣味がぴったり合うなんて。
公演が終わって一人で歩く夜の歩道。
いつも口ずさんでいる曲だった。
「途中退席なんてしたら、今度こそただじゃ済まさないからね」
「それはお前次第だな」
「上等よ、そこで黙って聴いてなさい」
わたしの引退の最後の観客がこいつだと言うのなら、それはそれで構わない。むしろ今までのように途中で席を立たれた方がさっぱり未練も断ち切れる。
店の中央、一段上がっただけの質素な舞台へ。
「あ、あの......ピアノの伴奏くらいならわたしが。たしか楽譜もあったはずなので」
気を利かせたつもりの店員へ、やんわりと断る意味合いでまなざしを送った。
「いらないわ、これは無伴奏のが慣れてるから」
帰り道、この歌を歌う時はいつもそうだった。伴奏なんてありはしない。
息を吸い、溜める。
詩を浮かべ、そして──
たった一人の観客の前で、
たった一人の観客のために、
歌皇后は、その澄んだ歌声を披露した。
わずか数分に過ぎない短い詩。
歌った、という感覚すらないままにその歌は終わった。
......終わったのね、全部。もの悲しげな内容の詩に自らも感化されたのか、最後の公演でありながらも驚くほど心の中は澄んでいた。
ふと顔を上げると、そこには青のインバネスコート姿の男。
「あらネシリス、途中退席しなかっ──」
それ以上言葉を紡げなかった。
「ネシリス......あなた、何を......」
聞こえてきたのは、手と手を重ねる音だった。
まぎれもない正真正銘の拍手。
それは、たった一人の観客からの拍手だった。
「──良い歌だった」
「なっ......何言ってんの! それは皮肉のつもり? 大概になさい!」
無言でネシリスが指をさす。
それは自分のすぐ後ろ。そこに、指先で涙を拭う女性店員の姿があった。
わからない、何がどうしたってのよ。
「あ、あのですね......ごめんなさい、ちょっと感動しちゃって......詩も声も、あんまり素敵だったから」
「......どういうこと」
「見てのとおりだ」
答えたのは競闘宮の覇者だった。
「初めてお前が驕りなく歌った結果がここにある」
──この男は何を言っているんだ。
「わたしはいつでも観客を見てたし、観客のために──」
「お前が見ていたのは、観客の瞳に映った自分の姿だ」
「......わ、わたしはっ!」
電流を流されたように身体がふるえ、そして硬直した。
「観客の瞳に映る自分の姿に酔って、観客を魅了する自分の声に酔っているだけの泥酔者。それが、俺があの晩見たお前だった」
否定は、できなかった。
観客を見下しているのは最初から自覚の上だったし、自分こそが優れた人間だと思っていたのも事実だったから。
「............ええ、そうよ」
唇を嚙みしめ、血の味を覚えながら声を振り絞った。
「そうよ! ずっとそうだった。わたしは生まれた時からこの声で、生まれた時からほかの子たちと違ってた! いい、最初にわたしを特別扱いしたのはわたしの親で、次に学校の教師、次に声楽界のお偉方よ。わたしは......どうすれば良かったっていうの!」
子供の頃から浴びるような喝采を受けてきた。シャンテちゃんすごいね、偉いね、そんなことばっかり言われて育ってきた。
──他人を愛しむ気持ちが芽生えるきっかけなんてどこにもなかった。
「今、わたしが一番許せないのはわたし自身。でもその次があなたよ、ネシリス」
わずかな余韻を置き去りに、ネシリスへと背中を向ける。
この男がもう少し早くわたしの前に現れていれば。どうしようもないところに来てしまう前に、今この時の言葉を言ってくれていたら、わたしは......
「どこへ行くつもりだ」
「さあ? お金だけはあるもの、少し早めの隠居生活かしら。時間を持てあましそうだから趣味も考えないとね」
「名詠式にしておけ」
「......は?」
趣味の話をしているのになぜ名詠式が出てくる。セラフェノ音語とかいう特殊言語に、五色の理論だっただろうか。趣味にするには敷居が高いことは子供だって知っている。
「お断りよ、なんでそんな七面倒くさいこと」
「名詠式は『名を詠う』ことから由来すると言われている。歌姫をやめたお前が、お前であり続けるにはそれが一番いい」
『Keinez』、『Ruguz』、『Surisuz』、『Beorc』、『Arzus』
名詠式に存在する五色の音色と、その讃美歌。
「詠うって、〈讃来歌〉だったかしら?」
「まずは理論だろうが、実戦までいけばお前の得意分野のはずだ」
「冗談。このわたしに、そこらの坊ちゃんお嬢ちゃんと交じって勉強をしろって?」
「独学でいい、俺もそうだった。人の二倍努力しても十年以上かかったがな」
「十年? あは、不器用な男ね」
............
......あれ。
いま、わたし笑ってた?
胸に手をあてる。とくんとくんと穏やかに聞こえる鼓動。たぶん、間違いない。今一瞬だけは何の邪気もなく、わたし本当に心の底から笑ってた。
この男と出会ってから今まで、こんな無邪気に笑えたの初めてだ。
「......十年て言ったわね」
にやりと唇をつり上げる。無邪気な笑みはいつしか姿を変え、それはどこか悪戯っぽく人なつこい笑みだった。
「いいわ、みてらっしゃい。わたしは独学で五年よ、それで名詠士とやらの資格を取ってあげるから」
「それは無理だ」
案の定あっさり否定するネシリスに、シャンテは人差し指を突きつけた。
「じゃあ懸けましょう。わたしが勝ったら、わたしの言うことを一つ聞く。どう?」
「好きにするんだな」
......懸けの結果は、わたしとあいつだけの秘密。
それがきっかけ。
ネシリスっていう、頑固で無愛想で鈍感な名詠士と出会ったきっかけだった。
3
......ネシリス。
肩幅の広いその背中をインバネスコート越しに見つめ、シャンテは唇を一文字に引きしめた。
決闘舞台で互いに向き合う姿勢のまま、機を窺うように対峙する彼とファウマ。
名前を呼びたい衝動に駆られながらもそれを胸の内に抑えつけた。
名を呼ぶことでネシリスの集中力が落ちることを心配しているわけではない。決闘舞台に立っている尋常の勝負。──それに水を差されることを、何よりネシリスが一番嫌っているからだ。
競闘宮の観客の歓声だって本当は邪魔。彼がそう言ったわけではない。ただ、誰より近くであいつを見ていればよくわかる。
「......一緒に仕事して、短くないもんね」
あいつが決闘舞台で戦っている間は、その名前を呼ばない──シャンテが自らに、自分だけに課した決め事。
自分が歌っている時は公演客は静かに歌を聴く。だからあいつが戦っている時は自分も静かに見届ける。絶対の信頼を以て。
あの女が相手だって、相手が誰だって同じだ。
ネシリスは絶対負けない。
間奏 『イ短調』
凱旋都市エンジュにて、競闘宮に混色の名詠生物が湧き返る怪現象が発生。
時は、それと同刻まで遡る──
季節を問わず咲き乱れる花々と香草。
それは陽が西天に差しかかる時刻のこと。強烈な陽ざし、そして草花の織りなす薫風が満ちる大庭園で。
「......やはり思うようにはいかないな」
自分の背丈より長大な鎗を軽々と片手に携え、一人の偉丈夫がゆっくりと振り返る。
成人男性より頭一つ半高い長身と、それに見合う強靭な肉体を誇る男だ。
「ティンカとルーファ師父は、エンジュ以外の主要都市を回って調査中。サリナルヴァは連絡中継と情報収集でケルベルク研究所から動けない」
クラウス・ユン=ジルシュヴェッサー。
数百を数える祓名民の頭領であり、同時に〈イ短調〉の創設者。たった一人で巨大な疾竜を送還したという、伝説じみた記録すら持つ人物である。
「まさか動ける人間が、私以外に一人とはな」
「よくあることです、皆さんお忙しい方々ばかりだから」
もう一つの声は、今まさにクラウスが振り返った先にある木製の古椅子からだった。
溜息じみたクラウスの声音と対照的に、こちらは飄々とした、聞く者にどこかとぼけた印象を与える声。
「〈イ短調〉の構成は祓名民が二人、名詠士が三人。残る六人は学者の系統だ。その中で、あの研究所副所長や女医のように、自ら先陣に出向く方が本来は珍しい。となれば十一人のメンバーでも、事態への対応にあたれる人員は実質七人。まあこんなことがあっても仕方ないです」
大仰に肩をすくめる彼。その仕草にともなって、金髪とも茶とも区別のつかない髪がさらさらとゆれる。
「あいにく、私が言いたいのはそれではないな」
そんな彼に、クラウスは自らの強面を無理やり笑みのかたちに作りかえてみせた。
「というと?」
「その動ける残りの一人が、お前だということが珍しいなと言っているんだ」
「あ、なるほど。それは確かに珍しいですね」
組んでいた足を組み替えることも忘れ、カインツは小さく噴きだした。
クラウスの反論に見事にやりこめられたことが半分。もう半分は、この偉丈夫が見せる不慣れなしたり顔があまりに似合っていたからだ。
「お前も運が悪いな。私の家に来た時に限ってこんな連絡が入るとは」
凱旋都市エンジュに待機しているはずのシャンテからサリナルヴァへ。そしてサリナルヴァからこの屋敷へ。
〝エンジュにて、件の触媒から奇怪な名詠生物が発生した。状況に応じ対応する〟
報告内容はひどく簡潔。だが背筋を凍らせるに足る内容。
「そういう時もあります。僕は面倒くさがりな面があるので、向こうから誘ってくれるくらいでちょうどいい」
枯れ草色のコートをひるがえしカインツが古椅子から立ちあがる。
カインツ・アーウィンケル──〈イ短調〉、その最終を飾る第十一番。史上ただ一人、五色全ての名詠色を制覇した虹色名詠士。
「まあ、お前らしい発想ではあるな」
カインツが立ちあがるのを確認し、クラウスもまた歩きだす。
そのつま先は庭園の門へ。
「それで、あの二人からの連絡は?」
「先に一度受けたきりだ、まだ後続の連絡がない。ネシリスとシャンテがここまで事態の沈静に手を焼く。どんな状況なのかあまり考えたくはないがな......いずれにせよ、ここから凱旋都市までは距離がある」
気がかりなのは後続の連絡が全くないということだ。
ネシリスとシャンテから事態鎮圧の報告がない......つまり凱旋都市の二人は、事態がまだ収束していないと判断した?
一波の段階で沈静化していれば問題ない。だがもしその一波すら、さらに巨大な第二波の予兆でしかないとすれば──
「カインツ、お前いつぞやキマイラ相手に骨を傷めたな。具合は?」
「おかげさまで経過も順調です。足手まといにはなるつもりはありません」
コートのポケットに両手を入れ、いつになく真剣なまなざしでカインツが返す。つまりこの虹色名詠士も同じことを予感しているのだ。さらなる第二波を。
「カインツ、お前ならいつと予想する」
第二波、その訪れの時は。
「きっと先輩が予想している時と同じですよ」
カインツが視線を正面から空へと持ちあげる。遥か彼方の空に映る、灰色に淀んだ奇妙な雲海。それは紛れもなく凱旋都市の方角だった。
「起こりうるとすれば、おそらく同日の夜。それも都市の住民が寝静まった深夜ですね」
そう、それが自分とカインツの推測。
──だからこその二人。
百の精鋭にも勝る、精鋭の極致。
異端長、転じ〈イ短調〉と称される会合の筆頭一番と、最終十一番。
二奏 『セラの庭園』
1
凱旋都市エンジュ、その公共宿舎の玄関で。
「......もう、まったく」
冷える肩をかかえ、クルーエルは眠気の残るまぶたをこすった。輝くほどに鮮やかな緋色の髪に、深い海を想起させる双眸。すらりとした長身の少女である。
「あのトカゲ、こんな時間になんの用なの」
この真夜中、とうに日付は切り替わっている頃だろう。ネイトの従える夜色名詠生物にたたき起こされたかと思えば、話したいことがあるからついてこいだなんて。
......コート、着てこようかな。
昼間はちょうど良かったが夜間はさすがに冷える。もともと季節の上では冬なのだ、持参してきたコートも部屋にある。
と、まさに踵を返そうとする間際、背後から聞き覚えのある声が。
『待たせたな』
振り返ったそこに、夜空と同化するような体色の名詠生物が翼を広げて浮いていた。
「......ねえ飛びトカゲ、いつもわたしの邪魔をするタイミング狙ってない?」
『すまない、悪気はないんだがな』
あれ?
どうしたんだろう、いつもなら反論して嚙みついてくるはずなのに。『トカゲではない、何度言えば──』みたいなセリフも予想してたのに。怒るどころか謝るなんて、拍子抜けしてこちらの方が調子が狂ってしまいそうだ。
普段と違う?
「あ、ええとさ......何かあったの?」
『さっきも言ったが、話したいことがある。ただ、ここでは場所が悪い』
アーマの言葉に辺りを見回した。......別に平気だよね。草木も眠る時刻と言うか、とうに深夜を回っている。ほかの建物の明かりも消えてるし、人影もない。
『ひらけた場所がいい。案内する』
宙に浮遊したまま、こちらの返事も待たずに前方へ飛んでいく。
「あなた、エンジュのこと詳しいの?」
『昼間ミオと一緒に歩いて回ったからな。......お前やネイトが、競闘宮で謎の名詠生物と戦っていた時だ。時間としては、ちょうどお前がアマリリスの声を聞いた時か』
「......待って」
静止の言葉と同時、クルーエルは自ら足を止めた。
「ねえ、なんでそんなの知ってるの。あなたに話してないでしょ」
競闘宮で混色の名詠生物が大量に発生した奇怪現象。
この名詠生物にそれを話した記憶はない。自分がネイトたちと一緒に競闘宮にいた時、この名詠生物はミオと共に買い物をしていた。そんな状況でなぜ。
そしてなによりアマリリスのことだ。
彼女の声はわたしだけに聞こえていたはずじゃないか。わたしがアマリリスの声を聞いたのも、話したのはネイトだけのはずなのに。
「ネイトから聞いたの?」
『いや』
「じゃあどうして」
『それを説明するために今向かっているところだ』
そう言われてしまえば返しようがない。
「わかったわ、じゃあ早く行きましょ。ちゃちゃっと済ませてね、わたし早く寝たいんだから」
『簡単に済めばいいんだがな』
こぼしかけた嘆息。残りの半分をクルーエルは無意識のうちに呑みこんでいた。
聞き慣れた名詠生物の声に、そうさせるだけの重みがあったから。
『我が話すのは、アマリリスが告げられなかった、小娘とアマリリスの関係だ。なぜ空白名詠の真精たるアマリリスが小娘にこだわるのか、気遣うのか。小娘に起きた高熱や目眩の原因もそこに絡んでいる』
「......何を知ってるの」
思えばそうだった。トカゲのような外見をしているが、この名詠生物は単なる名詠生物ではない。真精、いや真精よりも不可思議な何か。普段あまりに近すぎる場所にいるせいで気にも留めなくなっていたが。
『先に言っておこう。ネイトもまた同じ話を聞かされている。我がお前に話す内容と同じことを』
「......誰に」
『シャオ。調律者ミクヴェクスに託された願い──ミクヴェクス真言〈全ての約束された子供たち〉を持つ名詠士だ』
2
「あなたとずっとこうして話してみたかった。他人が言うにはね、自分とあなたは外見がよく似ているらしいよ?」
口元に笑みを浮かべ、シャオがじっとこちらを見つめてくる。観察? 否、目の前の相手の視線は、区分するならば紛れもなく好意のものだった。
「名詠門の先にあるもの、きっと察しがついているはず」
「............」
わずかに灯る非常灯をぽつりと見下ろし、ネイトは握る拳に力をこめた。
この質問に答えない限り前へは進めない。
ミクヴァ鱗片とクルーエル、そしてアマリリスの関係性を知ることもできない。
──あの時は、母さんはなんて言ってたっけ。
〝ねえ、名詠生物ってどこから来たの?〟
それは、名詠式というものを知ってまもなくのこと。人の言葉を解す名詠生物がふしぎで仕方なくて、母に尋ねたことがあった。
〝名詠門のその先よ〟
名詠門の先。
名詠式についてろくに知らなかった時、母の言葉の意味するものがわからなかった。
〝その先って......名詠生物が棲んでる場所があるの?〟
〝学校の試験ならそれで正解にしてもらえる。でもわたしに言わせれば、それは百点に限りなく近い零点〟
〝じゃあ、なに?〟
あの時母親は、自分の唇に指先をあててこう告げた。
〝簡単よ、それを知っているものを名詠すればいいの〟
〝......どんな名詠生物なら知ってるの?〟
〝周りをご覧なさい。案外、近くにいるかもしれないから〟
思いだせ。
あの時、自分と母とで暮らしていた時、すぐそばにいたのは──
「目つきが変わったね、もしかして答えが出たのかな」
「答えなんて僕は知らない。でも」
あの時の母の問い。昔の僕はわからなかった。そう、あまりに身近すぎてわからなかった。だけど競演会で一度は別れ、その寂しさを知ったからこそわかる。
いつも僕と母さんのそばにいた、夜色をした饒舌家の名詠生物。
「では、あらためて問おう。ネイト・イェレミーアス、名詠門の先には何がある?」
息を溜める。吐きだすのは声でも呼吸でもなく、もっと別のものだった。
「夜色名詠の真精がいるところ」
「......なるほど」
深い、深い深い吐息がシャオから洩れた。
「一つ訊きたいのだけど、もしそれが答えとするならば、『名詠生物がいるところ』と答えた方が包括的で確実なものだったんじゃないのかな? そうせず、あえて夜色名詠、それも真精に限定した理由はなに?」
「わからない......だけど、そんな気がするから」
「それでは零点だよ?」
口元に手をあて、シャオが苦笑を堪える仕草。
「うん、零点とそう言いたいけれど、皮肉なものだね。答えそのものは限りなく百点に近いなんて」
やはり間違っていなかった。あの時の母の言葉の通りだ。
「言ったよね、僕の質問に答えてくれるって」
なにを企んでいるのか。
ミクヴェクスとは、空白名詠とはいったい何なのか。
クルーエル、アマリリスとの関係は。
「そんなに気になってるんだね。......とても好いことだ」
外套の隙間から覗く右手。
その甲をこちらに向けながらシャオが続けた。
「さっきも言ったけど、自分はあなたと出会うのを本当に楽しみにしてたんだ。あなたになら全てを打ち明けられる。その上で友人になれるかもしれないって思ったから」
白くか細い手首のすぐ上、刻印のように刻まれた火傷の古傷。花のかたちの火傷に、今なお赤く腫れた甲。まるで真っ赤な花、そう──
「アマリリスみたい?」
「......え」
「その通りだもの。なぜならアマリリスをこの世界に名詠したのは自分だったから。この傷は、アマリリスが名詠者たる自分に対する反逆の証として刻んだもの」
この名詠士がアマリリスを?
空白名詠の真精アマリリスは、クルーエルが名詠したのではなかったというのか。
「でも......アマリリスはクルーエルさんに宿ってるって」
「そうだね、まずはそこから話してあげる。風の砕けた日というのを知っているかな」







競闘宮地下一階、備蓄庫。
巨大な荷が山と積まれた巨大な倉庫で、銀髪の青年──レフィスは聞いたばかりの言葉を繰り返した。
「風の砕けた日?」
「そうだ、風の生まれる島と呼ばれた島にて突如起きた大爆発。それが今言った、空白名詠の真精アマリリスによる仕業だった」
答えたのは赤銅色の髪をした女性。テシエラ・リ・ネフィケルラと名乗る黄色名詠の詠い手だ。真横に黄の小型精命を浮遊させたまま足を止め、名詠式の成りたちについて彼女は唐突に訊いてきた。
「......似たような話は聞いた覚えがある」
灰色名詠の同門ミシュダルから聞いてはいた。
師ヨシュアがその爆発を目撃し、原因を探るためその島におもむいたこと。だがその島でヨシュアは何かを目撃し、灰色名詠の真精灰者の王を失って戻ってきたという。
「その一連の仕業の主が空白名詠の真精アマリリスだ。風の砕けた日を引き起こしたのも、灰者の王を封律したのもな。言うなればお前の人生を変えた張本人というわけだ」
「空白名詠?」
「始まりの名詠。名詠式の源流にありながら、現在では使う者はシャオしかいない。言うなれば『大人が忘れた名詠式』。アマリリスはその真精ということになる」
「なら、今の俺には直接関係ないな」
「関係ない? ところがあるんだな、これが」
腕を組み、テシエラが愉快そうに肩をふるわせた。
「その空白名詠の真精アマリリスが、実はトレミア・アカデミーの生徒の一人クルーエル・ソフィネットに宿っているとしたらどうする?」
「クルーエル......あの赤い髪のか」
「そうとも、多少は興味が湧いてきたか」
人に真精が宿る?
それも自分の知る少女に?
「逆効果だな、そんな口から出任せの話に付きあう気はない」
「では、どの部分が出任せだと思う?」
「全部だ。人に真精が宿るなんて話、それになぜクルーエルなのかもわからない」
「ふむ......ではアマリリスについては真精という呼称を止め、調律者と呼ぶことにしよう。レフィス、お前も調律という言葉くらいは知っているな」
調律──楽器の音の高さを定まった規律に整えることだ。
どんなピアノの弾き手も鍵盤の音が狂っていたら演奏できない。音の乱れの修正、言うなれば演奏の大前提と言える。
「調律者、すなわち名詠式という楽器を存在させ、維持する者。名詠式をこの世の存在たらしめている守護者。その一体がアマリリスだ。私が先に真精と表現したのは、現段階でのお前の知識ではそれが一番近い概念だったからな」
「俺は、一つ一つの名詠色の真精がその色の支配者だと習ったぞ」
「坊や。この世界には、学校じゃ教えてくれないことがたくさんあるのさ」
青の瞳を爛々と輝かせ、その女性が床に足を打ち鳴らす。
「もっとも真精が支配者というのは間違ってない。なぜなら真精は、調律者によってそう存在するよう命令されたものだからだ」
「......信じられるか」
真精そのものが命令された存在?
あれだけ強大な存在に、どんな存在であれば命令が下せるというんだ。
「気持ちはわかる。この世界のどんな学者も知らない名詠式の根幹。なぜ名詠式はここまで人に利用されているのに、その仕組みが解明されてないかわかるか? 答えは簡単。なぜなら名詠式を創造した存在は、人に名詠式の成りたちをあえて隠していたからだ」
「名詠式が創造されたなんて話......俺は聞いたことがない」
名詠式の学者も学生も教師も、名詠式は自然にある法則としか思っていない。そもそも自然に存在する以外、どうすれば創造が可能なのかもわからない。
「理解は要らない、ただ暗記のように覚えておけ。今はそれで事足りる。──さて問題だレフィス、私の話をここまで聞いて、名詠式はいったい何者が創造したと思う?」
「......どう答えろって言うんだ」
「簡単なことさ、私が今さっき言ったばかりだ」
──調律者。
聞かされた言葉の中でそれらしいのはこれだけだ。
「そう。名詠式を支えることができるのは当然、名詠式を創造した存在だな。アマリリスも含めた調律者たち。はるか昔、名詠式は調律者によって創造された」
「......そんな存在が、なぜクルーエルに取り憑く必要がある」
名詠式の創造者が一介の少女に宿る。
その必要性がわからない。
「そうだな。ある意味、それが全ての始まりだったのさ。わたしたちにとっても、お前にとってもな」







「クルーエルにアマリリスが取り憑いたことが、全ての始まり?」
「そ。てか、俺はシャオの話をそのまま言ってるだけだけどな。詳しい説明しろって言われても上っ面しか言えねえのが悲しいわな」
あくまで素知らぬ風をよそおうアルヴィルへ、エイダは視線をいっそう細めた。
針のように細く、そして鋭く。
「......どういうことだ」
調律者。にわかに信じられる話ではないが、名詠式を創造した存在だという。そんな大層な存在がクルーエルになぜ宿る?
「取り憑くってのは正しくねえよ。シャオ曰く、『保護者の真似事』ってとこだ」
「なおさら訳がわからない」
「そうだな......お前、クルーエルってお嬢ちゃんと仲良いのか?」
「ああ、あの子は良い奴だからな」
大切な友人だと思ってる。少なくとも、そう訊ねられてもためらいなく頷けるくらい。
が。こちらが頷くなり、彼はまるで無防備に背を向けた。
「なら、やっぱやめた。お前には教えてやらね」
「──アルヴィル」
半眼で睨みつける。
背中を向けていてなお、こちらの視線を嫌でも感じとれるように。
「お前、本当のこと知らない方が幸せだぜ。知らないまま終わった方がいい」
「それはあたしが決める。さっさと話せ、何を知ってるんだ!」
通路に怒声が響き渡り、こだまと化す。十秒、二十秒という時の経過の中でそれが静まり、やがて静寂の帳が降りた時。
背を向けていたアルヴィルがゆっくりと振り返った。
「クルーエルってお嬢ちゃんは、人間だけど人間じゃない」
その言葉を理解するのにどれほどの時間を要しただろう。
......人間だけど人間じゃない?
こいつ、何を言ってるんだ?
「馬鹿げてる、じゃあ何だって言うんだ」
「『クルーエル・ソフィネットは人であり、また同時に調律者でもある』、アマリリスってのと同様にな。俺はシャオにそう聞いただけ。けどな、クルーエルって娘がどれだけ異様な名詠式の詠い手か、お前は直に見てるはずだぜ」
赤の第一音階、黎明の神鳥を自在に名詠。
触媒にまつわる後罪の制約を無視。
そしてこの競闘宮で見せた、赤の第三音階たる熱妖精の二百体同時名詠。
──このうちのどれ一つ取っても、おそらく真似できる名詠士は存在しない。
「それは確かに見た。だけどそれだけじゃ理由にならない。そんなんで人間じゃないだの調律者だの言われるってんならな、あたしに言わせりゃ虹色名詠士のカインツ様だって十分すぎるくらい調律者だ。違うか?」
一瞬きょとんと目を見開いたかと思えば、次にアルヴィルがしたことは自らの腹を抱えての大笑いだった。
「はっ、そう言われりゃそうなるわな! いやはや、まったく。へ理屈のようで正論だなおい」
「......つまり口からの出任せか?」
「いーや。だけど俺がここでどうこう言ったって、お前は信じやしないだろ?」
「信じないね」
この男は噓は言わない。言ったところを見たことがない。
だけど、クルーエルが人でなく名詠式を司る調律者だなんて、冗談にしても悪趣味が過ぎる。突然お前は人間じゃないなんて言われてみろ、誰だって動揺するに決まってる。
「あいにく、クルーエルは一緒にメシ食ってフロ入った友達なんだけど? どこをどう見れば人間じゃないなんて言えるんだか」
あの子は誰より良い子なんだ。他人思いで面倒見が良くて、優しい。
なのに、その友人が傷つくようなことをぬけぬけと──
「そうだな、俺もお前に証拠を提示できない」
「なら諦めるんだな」
「ま、それはシャオの仕事だからな」
「え?」
「なあシャオ、そろそろ姐さんのところも頃合いだろ。時間じゃねえか?」
虚空を見上げ、唐突にアルヴィルが声を上げた。
「アルヴィル......お前何を」
「とっておきの場所に連れてってやるよ。俺じゃなくシャオが、だけどな」
通路に点るわずかな非常灯が消えた。
そして──







「......信じない」
ただ一言、ネイトはそれだけ口にするだけで精一杯だった。
クルーエルさんが人でなく、アマリリスと同じ調律者?
「僕は、ずっとクルーエルさんと一緒にいたもの。クルーエルさんは普通の人だもん、僕が誰より知ってる!」
が、対峙する黒法師の表情に変化はなかった。
ただ淡々と、時に抑揚を利かせ、物語を読み聞かせるような口調でシャオが続ける。
「そう? ゆっくり考えていけば自ずとわかることだけどね。それにクルーエル・ソフィネットが調律者だとすれば、同じ調律者であるアマリリスが彼女に宿る理由も漠然と察しがつくんじゃないかな」
「理由?」
「そう。実はその理由にまつわる一連の流れこそが、この世界と名詠式にかつてない事象をもたらした全ての始まり」
濡れる黒瞳をシャオが細める。
さながら親愛の人間に接するように、その瞳は愛しげにゆれていた。
「ネイト、名詠式に対するあなたの姿勢はとても美しい。だから素敵な場所につれていってあげる。そこで全てを教えてあげる。全てを教えた上で、あなたとならわかりあえると信じているから」
薄暗い通路に光が射した。否、光が生まれた。
それはシャオから、黎色のローブからのぞくシャオの左手からだった。
「──名詠門?」
何かを詠びだす気か、まさか空白名詠の空白者?
「何も詠びださない名詠。言うなれば名詠門を詠びだすための名詠式。そう、あなたが昼間にやってみせたものと同じだよ。あなたは気づいていなかったけれど、あれこそが名詠式の根幹に迫る名詠だった」
......あの時の僕と同じ名詠?
でも何かが違う。この名詠門、まるで見つめるだけで吸いこまれそうな......人を酔わせる怪しげな輝きがある。
「ミクヴェクス真言を、真言でなくセラフェノ音語で詠った時。名詠式の調律は一時的にだが法則を乱し、不可逆な転送を可逆のものとする──わかりやすく言いかえると、本来なら一方通行のはずの名詠門を通し、その先にある世界への扉を開くことができるということだよ。すなわち新約の扉をね」
名詠門の先にある世界。
それはまさか。
「見せてあげる、名詠式に隠された秘密を」
赤から青、青から黄、黄から緑、緑から白へ。
右手に浮かぶ名詠門の色が次々と移り変わっていく。変化はその時だった。
「壁が......?」
自分たちのいる競闘宮の通路。その壁が消えていく。天井も、床も。色鮮やかな名詠門と対照的に、色と質感を失って透けていく。
自分とシャオを除く全てが消え、そして。
「ようこそ───────へ」
シャオの声と同時、名詠門が真昼の太陽のごとく輝き──
その光の中で、ネイトは意識を失った。

〝ネイト、目を開けなさい〟
......母さん?
頭に響いた声に意識が覚醒し、ネイトはゆっくりとまぶたを開けた。
「ここ......」
立ち上がり、ネイトは周囲を眺め回した。
──ここは、いったいどこ?
地面は、青白かった。
硬い地盤の上に目の細かい砂を敷き詰めたような地面。靴底で蹴ればざらっとした質感が残る。光もなしに自ら神秘的な青色に発光する砂。大陸のどこにも見たことがない。
そんな地表が延々と、視界の奥のさらにその先の地平線まで続いていた。
次に頭上を見つめる。
空は真っ黒い水を満たしたような色。それを背景に、どこまでも冷たく澄んだ極光が頭上を覆うように輝いている。
夜空? いや、違う。昼間とか夜とか、そんな概念を感じさせない色だ。
風が、髪をなでて通りすぎた。
それも、単純な空気の流れではない。
目に見えない何か。この空間を満たす不可思議な何か別のものが、風のように流動し、着ている制服をゆらしたのだ。
......なんだろう、空気じゃない。
空気より存在感があり、水よりも軽く澄んでいる。まるで空気と水の中間、気体と液体の境界線上にある流動体。手を伸ばしても摑もうとすれば、空虚なソレを確かに摑める。けれど摑んだそばから、指の隙間をくぐって逃げていく。
青白く神秘的に輝く地表。
夜空に似た、透明感のある黒い天球。そして極光。
空気のかわりに空間を埋めるのは、目に見えない不可思議な波動。
そして、もう一つネイトが気になったのは──
「......宝玉?」
自分の目の前、周囲、頭上。
この世界に無数に存在する、宝石のように煌めく浮遊球体だった。
Keinez、Ruguz、Surisuz、Beorc、Arzusの五色の球体。
成人男性より大きなものから、小石程度の大きさまで。大きさは千差万別だが、ほとんどのものが両手に収まるくらいの大きさだ。
ふわふわと、タンポポの綿毛のようにゆっくりと動く浮遊結晶。
綺麗だった。
宝石の輝きに似ているが、あれより儚く、まるで幻光。頭上に輝く浮遊結晶は、さながら夜空の星そのものだ。
「綺麗でしょ。アルヴィルは殺風景だって言って五分で飽きたみたいだけど」
巨大な浮遊結晶の陰からシャオが身を現した。
「......ここはどこ」
凱旋都市エンジュでないことは確かだ。ううん、こんな幻想的な光景、大陸のどこにもあるはずない。
これが、新約の扉を越えた先にあるという世界?
「穢歌の庭、赤き実のなる大樹、夢見る星々の都。どの呼び名も正しく、また意味を持つ。けれど、あえて今ここで名をつけるとすれば『セラの庭園』。全ての名詠が生まれ、そして還っていく空白の場所」
「『セラの庭園』......これが庭だってこと?」
「そうだよ。さしずめ、これが庭に咲く花の代わりかな。可愛らしいでしょ?」
目の前に浮かぶ浮遊結晶を指先でつつき、シャオが小さく笑う。
「でもこれら色とりどりの光結晶は全て、とある二つの意志の衝突の、力の余波が結晶化して生まれた物質。そのとある二つの意志とはミクヴェクス、そしてアマデウス」
ミクヴェクス、それは今まで自分が気になっていた名前だ。
しかしもう一つ、自分の知る名詠生物と同じ名前が確かにあった。
「アマデウス......まさかアーマのこと!?」
「いいや、あなたの知るアマデウスと自分の言うアマデウスは別物だ。広義では同じ存在を指すけれど、意図する意味が違う」
ますます意味がわからない。存在が同じなのに意図する意味が違う、そんなことがあるのだろうか。
「順を追って説明してあげる。アルヴィル、テシエラ、ファウマにも説明してあげたことだからね」
地に屈みこみ、シャオが足下の地表を指先で削ってみせた。青い輝きがさらさらと溶けるように宙に舞い、不可思議な波動に流されて飛んでいく。
「永遠より遠く、昨日より近い過去。この世界には、意志法則体とでも言うべき二つの存在があった。それぞれ、
Riris eleSelahphenosia-s-Miqveqs
Clar eleSelahphenosia-s-Armadeus
という名前の二体だ。名の持つ意味としてはそれぞれ
【ミクヴェクス ただそこに約束を願う者】
【アマデウス ただそこに歌を願う者】
となる」
「......今のが名前?」
普段自分たちがつける名前とまるで構成が異なっている。
今シャオが発した名は名前というより、セラフェノ音語の〈讃来歌〉に近い。
「そうだよ、だってセラフェノ音語とセラフェノ真言を創ったのがその二体だもの」
「アマデウスとミクヴェクスが?」
「そう、その言語にとある願いをこめてね」
目を細め、シャオが視線を頭上へと向ける。
「二つの意志法則体──後に名詠式を司る調律者同士の衝突、それが名詠式の始まりだった」







「私の話、少しは聞き入れる気になったか?」
「さあな」
手の平大の浮遊結晶を愛撫するテシエラに、レフィスはあえて無感動をよそおった。
「枯れてるな、こんな光景滅多にお目にかかれないんだ。もっと驚いてもいいだろうに」
挑発めいた言葉を受け流し周囲を一瞥する。
青白い地面。昼間も夜も関係なく暗い世界。そこに輝く無数の浮遊結晶。幻想的だがどこか寂しい世界が、地平線の先まで展開していた。
「......なるほど」
地面の砂を一摑み手に取る。この手触り......本物、幻覚や夢の類ではないらしい。
Riris eleSelahphenosia-s-Miqveqs【ミクヴェクス ただそこに約束を願う者】
Clar eleSelahphenosia-s-Armadeus【アマデウス ただそこに歌を願う者】
あらゆる教本に名前すら記載のない、名詠式を創造したという存在。
それだけ聞かされれば鼻で笑って済ますところだが、この世界を見せられた上ではそれも一定の信憑性が出てくる。
「さっきの話に戻るがな。その二つの意志法則体は同時に、我々の世界を見守る存在でもあったらしい。なにせ名詠式を創造するような存在だ、その力の恩恵は人に余りあると言っていい。守護というほど積極的ではないにしろな」
「アマデウスとミクヴェクスとやらがか?」
「そう。だが人にとっても意志法則体にとっても、そう都合よく事は進まなかった。──そうだな、たとえ話をしよう。一人の子をもうけた両親が何らかの理由で離婚するとき、親は自らの子の養育権を奪い合うものだ。父親が子と暮らすか、母親が子と暮らすか。お前ならどちらに子を育てる権利があると思う?」
「......何が言いたい」
「同じ現象が起きたんだよ。その二つの意志法則体と、私たちの世界の間でな」
テシエラの指先が頭上に向けられる。
昼とも夜ともつかない黒一色の空の、さらなる上空へ。
「二つの意志法則体は個にして全。半身にして完成体。あらゆる奇跡と可能性を行使できる力の代行者。で、お前もこうは思わないか? そんな大層なのが世界の守護者だとすれば、一体いれば十分だと」
一体で全てが間に合ってしまうのだから二体いる必要はない。いやむしろ、二体いれば混乱を招くかもしれない。
「どちらがこの世界の守護者となるかの争い。だが共に全能とも言うべき力の保持者、争ったところで決着がつくはずもない。──さて、ここで両親と子供の話に戻るが、レフィス、お前ならどうする? 両親と子供がそれぞれ納得のいく解決策を提示できるか?」
名詠式が生まれたのは調律者同士の衝突が原因と言っていた。
そして、この両親と子供のたとえ。
......なるほどな。
濃い、暗雲のように濃い思考の靄が、わずかに数センチだけ晴れてきた。
「どちらの親につくか子供に選ばせる、か?」
「お、早いじゃないか」
称賛のつもりなのだろう、テシエラが片目をつむってみせる。
「その通り。アマデウスとミクヴェクスの衝突は、どちらが子に選ばれるかという勝負に移行したのさ。選んだ子はもちろん、選ばれなかった片割れもそうすれば納得がいく。ほかならぬ愛する我が子の判断なのだからな」
では選ばせる方法はどうするか。
それこそが──







「......名詠式?」
ネイトの頰を、冷たい汗が伝っていった。
「そうだよ、それで正解。それが名詠式の始まりであり、最初の色たる空白名詠が生まれたきっかけ」
その様子を楽しげに眺め、シャオが天を仰ぐように両手を広げた。
「名詠式は自らの望むものを詠ぶ術。すなわち先に名詠された意志法則体こそが、人によって選ばれた方となる。これ以上簡単な決着はない......と言いたいけれど、そこに至るまでには問題があった。ミクヴェクスとアマデウスは名詠式をね、単に自分たちを詠びだすための道具にしたくはなかったんだ」
「どうして?」
「言ったでしょ、ミクヴェクスとアマデウスはこの世界を見守りたいんだ。もっと平たく言えば、愛している。誕生日や何かのお祝いでもね、親は何かにつけて理由を作っては子に贈り物をあげたくなるんだよ。それと同じさ、名詠式も子に与えるのならば、やはり自分たちからの贈り物として授けたかった」
アマデウス、その名が繰り返されるたびにアーマを想起してしまう。
役割を終えているにもかかわらず世界に留まろうとする、あの名詠生物を。
「名詠式は人に与える恩恵でならなくてはならない。だから空白名詠だけでなく、人に役立つものであるよう名詠式を設計した。名詠する対象を意志法則体に限定せず、自らが望むものならば、ある程度制限なしに詠びだせるようにね。そこで空白名詠から新たに五色の音色を分岐させた。今使われている基本五色の名詠だ」
調律者のミクヴェクスとアマデウスを詠ぶために名詠式が生まれ、まずそのために用意されたのが空白名詠。
その後、人に恩恵として与えられたものが五色の名詠。
「五色の名詠式を人に与えたまではいい。けれど同時に、空白名詠によって自分たちを名詠してもらわなくては世界の見守り手が決まらない。そのためにミクヴェクスとアマデウスは苦心した。苦心の理由は二つ、わかるかな?」
一つ目──調律者の存在はあくまで見守り見届ける、裏方のようなもの。表だって自らの存在を明かすことはできず、名詠式に名を出すことも許されない。
と同時に、まるで逆の条件が二つ目だ。
意志法則体が名詠されるには、その存在と名前を人に伝えなくてはならない。それも名詠適格者だけに限定して。
「この二つの条件を達成する方法が、『名詠式の完成された不完全性』。すなわち名詠式に意図的に組み込まれた矛盾箇所だった」
「矛盾箇所?」
......そんなものがあったというの?
名詠五色はそれぞれが完成された法則、名詠学校ではそう習う。ネイト自身それを鵜呑みにしたつもりはなかったが、自然とその常識に浸かっていたのは事実だ。
「頭を整理するつもりで、名詠式の代表的な特徴を頭に思いうかべてみて。四つか五つくらいあれば十分だから」
まず第一にセラフェノ音語、そしてそれに伴う〈讃来歌〉だ。
五色の色分け。
真精を含む無数の名詠生物。
名詠式に必要となる触媒。
思いうかべる順序は名詠士によって異なるが、選ぶ要素はほぼ同じはず。
「......でも」
一つ引っかかる。
シャオの言うように意志法則体が名詠式を設計したのなら、納得いかないことがある。
なぜ名詠式には触媒が必要で、〈讃来歌〉があって、セラフェノ音語を学ばなくてはいけなくて、さらに五色の音色に分割されている必要がある?
触媒も〈讃来歌〉もなく、セラフェノ音語もない方がはるかに敷居が低い。
五色の分岐もそうだ。五色に分けてしまわずに、どんな色の名詠対象だって名詠できる方が学ぶ側は楽に決まってる。名詠式が自分たち人に与えられた恩恵だというのなら、そう設計した方が親切ではないか。
「そう、それが名詠式の不完全性なんだ」
それを待っていたと言わんばかり、シャオの声がわずかに昂揚する。
「名詠式に無限の力を与えてしまえば、人はそもそも調律者なんか詠びだす必要を感じない。名詠式の力が有限だからこそ、より力のある存在を追い求める。誰だって初歩的な名詠生物より真精を望むようにね。そしてその望みは真精からさらに調律者へとたどり着く。同様に、名詠式にはあえて様々な制約が用意された。それが触媒であり、セラフェノ音語であり、五色の色わけだった」
「......制約って言ったって」
「ううん、あなたも知っている。だけど誰もがそれを在るもの、仕方ないものと考えてしまっているだけ。──まず触媒に組み込まれた不完全性、それが後罪だ」
後罪。
一度名詠に使用した触媒は二度と使えない。無理やり使うことはできるのだが、一度目のような効果は絶対に出せないとされている。
「もしあらゆる触媒がどんな色にも使用でき、何度でも使用可能ならどうなると思う?」
「......僕だったら、その触媒一個だけを大事に使う」
ほかの名詠士でもおそらく同じことを考える。
一つの触媒だけを延々と保有し、ほかの触媒を自分で調合しようとは思わない。何度でも使えてどんな色も詠びだせるならなおさらだ。その一個で事足りるなら、余分に持ったところでかさばるだけ。
と同時に、新種の触媒を調合したり探そうという気も起きないだろう。
「そのとおり。でもそれでは困る。なぜなら調律者となったミクヴェクスとアマデウスを詠びだすには、それ相応の力を持つ作用体が必要だった。それがミクヴァ鱗片──ミクヴェクスの力の一端を結晶化し、この世界にあらかじめ送りこんでいた真の触媒だ」
灰色名詠のミシュダルが、ミクヴァ鱗片の入った〈孵石〉を追い求めたように。
凱旋都市エンジュの自治機関が究極の触媒として誇ったように。
名詠士は強い効果を持つ触媒に惹かれ、探し求める。
「意志法則体が名詠されるにはミクヴァ鱗片が必要であり、人にその存在を気づかせる必要があった。そのために設定されたものが後罪という制約。後罪により触媒の使用は一度きり、さらに触媒とする物体によって効果が違うとなれば、人はより強力な、そして何度でも使用可能な触媒を探しに出る──ミクヴェクスたちの意図どおりにね。結果、人は究極の触媒を求めて必然的にミクヴァ鱗片へとたどり着くことになった」
これでミクヴェクスとアマデウスは、自分たちを詠びだすための触媒を名詠士に与えたことになる。
でもそれではまだ不十分。
「そう、たとえ名詠士が究極の触媒を手に入れたとしても、そもそも意志法則体なんていう名詠式の創造者を、そんな超越的な存在をわざわざ詠びだそうとはしないだろう。名詠自体に意味も理由もないのに、名詠士が難しい名詠に挑戦する利点はない」
......確かにそうだ。
ミシュダルのように絶対的な存在に魅せられた者でない限り、そんな強大なものを詠びだす気にはならない。未知の存在、巨大すぎる名詠生物を名詠しようとして名詠式が暴発するケースは日常でもよくあることだ。
経験豊富な名詠士ほど確実性を重視し、危険性を回避する。
なにより名詠式で詠びだされる名詠生物と、今自分たちが話している意志法則体とでは詠びだすスケールが違いすぎる。
「だからミクヴェクスとアマデウスはまず最初に、名詠式の創造者たる意志法則体としてではなく、名詠式を司る調律者として存在意義を切り替えた。
Riris eleSelahphenosia-s-Miqveqs【ミクヴェクス ただそこに約束を願う者】は自らを単なる〈ただそこに佇立する者〉という名に切り替えた。
Clar eleSelahphenosia-s-Armadeus【アマデウス ただそこに歌を願う者】もまた同様に、単に〈その意志に牙剝く者〉という名前にね」
「......でも、それだけじゃ無理だと思う」
名前を切り替え、存在を名詠式に符合させただけでは足りない。調律者そのものがあまりに大きすぎる存在。竜や巨人など、大型の名詠生物ですら躊躇することが少なくないというのに、調律者なんて詠びだす名詠士はまずいない。
「正論だ。だからこそ調律者たちは、自分たちと名詠生物の間に特別な中間層を用意した。それが真精、調律者の代わりに五色の支配者となるべき者を」
──ずっと前から気になっていた。
なぜ第一音階名詠の名詠生物だけが、真精という特別な敬称で呼ばれるのか。
なぜ第一音階名詠の真精だけが、必ず〈讃来歌〉が必要なのか。
......真精そのものが、名詠生物と調律者の間の架け橋だった?
「真精という特別な階級を用意することで、名詠士の意識には調律者に対しても安堵感が生まれる。『調律者? ああ、真精の王様みたいな奴ね』という慣れの意識がね。たとえばテシエラがレフィスにアマリリスを説明する時、空白名詠の調律者とは言わずにあえて空白名詠の真精と呼ぶよう言っておいた。それもこのことを踏まえてのことだった」
調律者を真精の類似品と認識させることで、調律者の名詠は抵抗感を失う。
真精の中でも巨大な存在だが、逆に言えばその程度。──真精というささいな薄膜を通して人にそう認識させ、未知の存在たる調律者への不安を取り除く。
......これが、名詠式の真のシステム。
「そして、最も大事なセラフェノ音語と〈讃来歌〉の関係だけど。実はこれだけは、わりと知られていることなんだよね。あなたの身近な人のなかにも」
はにかむように、どこか決まりの悪そうな面持ちでシャオが空とぼけてみせる。
初めてだった、この黒法師が微笑以外の表情を見せたのは。
「──え?」
それはどういうこと?
「トレミア・アカデミーのミラー教師。セラフェノ音語内に隠されたもう一つの言語──セラフェノ真言の存在に、彼はかなり早い段階でたどりついていた。もっとも、そこから先の分析には苦戦しているらしいけどね」
表情を普段の微笑に戻してシャオがその先を綴る。
「調律者が用意した言語は二つ。一つが、一般の名詠士が基本五色の名詠に使うために与えたセラフェノ音語。そしてもう一つが、調律者たちを詠びだすための〈讃来歌〉に必要な言語。これこそがセラフェノ真言」
「まさかそれって──」
昼間の映像が脳裏を灼き焦がすように駆けめぐり、ネイトは一歩後ずさった。
今はっきりと思いだした、競闘宮でクルーエルが詠ったあの〈讃来歌〉だ。
セラフェノ音語に酷似しながらも何かが違っていた。あの時彼女はそれをアマリリスから教えてもらったと言っていたが。
「Selah【セラ】,Ema【意志・力】,Laspha【主】,I【世界】などを代表に、セラフェノ音語においてはどんな状況でも大文字で表記される単語がある。これらはセラフェノ音語において極めて重要な単語ではあるけれど、大文字にする必要はまったくない。発音上は関係ないからね。過去の記録を遡ってもそんな慣習もない────これは、とある可能性を人に示唆するためのものだった」
光沢を放つ自らの唇に指先をあて、シャオは。
セラフェノ音語はその構築に際し、何者かのごく個人的な意向に強く影響されている。
「──全てはこの可能性を示唆するため。調律者たちの狙いは、適格者たる名詠士に自分たちの存在を知らしめること。セラフェノ音語はその役割の一端を担っていた」
......言いたいことはわかる。でも。
「でも、それだけで調律者の存在を感知しろというのは無理だと思う」
シャオの言葉に割りこむかたちで、ネイトは首を横に振った。
セラフェノ音語が何者かの意向を強く受けていることは推測できても、調律者の存在はそこに出てこない。
「そうだね、でも大切なことは『セラフェノ音語は何者かの思惑により構築されている可能性がある。では、その何者かとはいったい誰なんだ』程度の疑問でいいんだよ。そのささいな疑問を忘れずに抱え、名詠式の真実に迫れる名詠士。それこそがミクヴェクスとアマデウスが望んだ、自らを名詠するに足る器の持ち主なんだから」
「そんな人が......」
「いる、それもこの時代に」
いるわけない。そう言おうとする前に黒法師は断言した。
そして、ゆっくりと。
「詠えない名詠士」
「......カインツさん!?」
詠えない名詠士──彼の名声を妬む人間から裏で、今では公然とささやかれている異名。
名詠式の由縁たる〈讃来歌〉。だが虹色名詠士として五色の名詠を制覇した時以外、彼が詠う姿を見た者は皆無に等しい。それほどまでに彼は詠おうとしないのだ。
「ネイト、かの虹色名詠士と親しかったね。そんなあなたでも、一度でも彼が〈讃来歌〉を詠う姿を見たことはあった?」
答えは否だ。
競演会のあの事態の最中すら、彼が詠うことは一度としてなかった。
「カインツは詠えないんじゃなく詠わないんだ。彼が〈讃来歌〉を詠ったのは、虹色名詠士になる場面を含めてもほんの数回。プライベートにいたっては一度きり」
......一度きりのプライベート、それはもしかして。
Isa Ze emeshanei pel
sm celeU poweda lisya lor bestimuzel endekele-l-lovier
ufe lefwinclieda tisraqie huda Yer sheeme getie hyne U powe
エルファンド名詠学舎の卒業式で。
虹色名詠士が、かつて母に贈ったという未完成の虹色名詠。
「カインツ・アーウィンケルが〈讃来歌〉を詠わない理由は二つ。イブマリーの前以外で〈讃来歌〉を詠いたくないという個人的なもの。でももう一つ、名詠士としてカインツは詠いたくない理由があった。先に言ったセラフェノ音語に組みこまれていた調律者たちの意図。彼はそこに気づき、セラフェノ音語に対して疑念を持っていたんだ。セラフェノ音語が生まれた背景にね」
氷雪の風が吹き抜ける街、フェルン。
そこの宿舎で、彼は確かに言っていた。
〝名詠式は、いつ誰が最初に創造したのかな〟
〝この世界の歴史にまるで記載されていない、名詠式の成り立ち。セラフェノ音語もそうだ。誰が創造し、いつから用いられたかもわかっていない。なのにそれをボクらは当然のように使う。いつどこで、誰が創造したものかも分からないまま、確かめようとしない。まるで遥か過去から、それを知ることが禁忌とされているかのようにね〟
〝そしてこれは、クルーエルさんが残したとある一言に結びつく──大人は、大事なものを忘れてる。ボクはこの台詞をサリナルヴァを通じて聞いたんだけど、その時妙な違和感を感じた。大人は忘れているのではなく、何か大きな流れによって忘れさせられてしまったんじゃないかって〟
「名詠式に対するカインツの疑念が肥大化したのは、トレミア・アカデミーの競演会に参加した時。多くの生徒や教師の前で、ミクヴァ鱗片の封入された〈孵石〉から五色のヒドラ──Redgryum=Arkiel【盈るる嘖色の蛇】が孵化した光景を見た時だった。思いだしてごらん。あの時、何がおかしかったかを」
「おかしいこと?」
「そう、あの名詠生物が名詠されるのは、名詠式の原則に従うなら何かが矛盾していた」
名詠者がいる。あの学生だ。
触媒も〈孵石〉だからおかしくない。
......〈讃来歌〉は?
「まさか!」
「そう、水蛇は本来なら青の真精。それが五色の首を持つ強大な変異種として名詠された。ならばアレもまた第一音階名詠に属する真精であることは容易に想像つく」
真精に〈讃来歌〉は必須。だがあの五色のヒドラは偶発的に名詠されたもの。〈孵石〉を盗みだしたあの最上級生が、ヒドラの〈讃来歌〉を知っていたはずがない。
なのに五色のヒドラは生まれた。セラフェノ音語の〈讃来歌〉も用いずに。
名詠式の完全不完全性──名詠式に組みこまれている、人の意識と実際の現象の乖離。
その現象を直に体験することで、カインツは胸に抱えていた疑念を確信。名詠式の奥に秘められた調律者たちの存在を看破した。
「つまり、カインツさんが調律者を詠びだせる名詠士?」
「そう、と言いたいところだけれど」
うなずくそぶりをみせながら、その一歩手前でシャオが首を振るのを止めた。
「カインツは違う道を選んだ。ミクヴェクス、アマデウス。調律者たちを名詠のではなく、彼は自分の名詠を虹色に──調律者でなくイブマリーを選んだ。それはある意味、調律者たちの意図をも超えてしまったと言っていいかもしれない」
あの時、競演会で彼が見せた名詠は──
〝世界中の誰もがその眩しさにまぶたを閉じる。ただ光々しいからではない。誰もがその輝きを見て自然と悟ったからだ。この輝きは自分たちを祝福するものではない、と〟
〝この光が真に照らすのは唯一人〟
〝かつて一度として陽を浴びることのなかった少女のため〟
調律者たちが自分を名詠させるために創造した空白名詠でもなく、人に恩恵として授けた五色の名詠でもない。調律者たちの意識の外で生まれた新たなる名詠。
それがカインツの虹色名詠。
......やっぱり、あの人は本当にすごいんだ。
「そうだね。彼が成しえたものの難易度は、言葉では到底語ることができない。でももう一つあるんだよ。虹色名詠とほぼ同時期に完成した、この世界に生まれた奇跡の名詠式。いや、異端と言った方が適切かもしれない」
カインツの虹色名詠とほぼ同時期に完成。
異端の名詠。それはまさか......
〝ボクと勝負しないか?〟
「虹色名詠が空白名詠と根本から異なる色であるならば、こちらは空白名詠と根を一つにしながらも空白名詠と真逆の色の花を咲かせた名詠。空白名詠と真逆の、対峙する名詠。そう、あなたの夜色名詠がそれだ。ミクヴェクスとアマデウス、二体の調律者をも驚かせた想定外の名詠式」
......母さんの夜色名詠が、もう一つの想定外の名詠式。
夜色名詠が異端とされる本当の理由、ネイトはようやく悟った。
五色の名詠から外れているから異端なのではない。名詠式の源流たる空白名詠から外れているからこそ、夜色名詠は異端だったのだ。
が──
「けれどそれは、あなたとクルーエルにとって果たして望むべき結果だったかな?」
シャオの双眸に映る謎めいた輝きに、その想いは一瞬で霧散した。
「......どういうこと」
「順に話してあげる。ここでようやくアマリリス、そしてクルーエル・ソフィネットの存在が重要になってくるんだ」







「ふーん、ちび君の夜色名詠ってなかなか大したもんってことか」
苦笑は心の内側に留め、エイダは表情を引きしめた。
異端の名詠式と言えば身構えてしまいそうなものだが、今こうして身近に感じられるのは、転入してきたばかりのネイトがあまりに幼く、そして人なつこかったせいだろう。
「ま、その一方でそれを望まないヤツもいたらしいけどな」
鎗を肩先で担ぐ姿勢で、アルヴィル。
「それがクルーエルに宿ったアマリリスってわけか?」
「そうそう、お前も物わかりが良くなったじゃねえか」
「アルヴィル......あたしはな」
肺の呼気を溜め、一瞬で吐きだした。
「あたしは、今までの説明なんて説明されても嬉しくないんだよ。名詠式がどうして生まれたのかとか、名詠式にこめられた意図とか、そんなのあたしには関係ない! 調律者も何も知ったことか!」
あたしはあたしだ。
祓名民で、名詠学校の生徒で、そしてクルーエルの友人だ!
「あたしが一番気にしてるのはあの子のことなんだよ! クルーエルとアマリリスの話になるかと思えば、さっきから話題に出てるのはアマデウスとミクヴェクスって奴だけだ。同じ調律者のはずのアマリリスはどこいった! クルーエルが調律者だって言っておきながら、クルーエルのことだってまるで話に出てきてないじゃないか!」
名詠式のことより何より。
自分は、同じ学校の友達のことを気にしてやりたい。
「急くなよ。だけどよ、どのみちそれを知ったって忘れることになるぜ。アマリリスのこともクルーエルっていうお嬢ちゃんのことも」
「......どういうことだ」
返す言葉から威勢が消えた。
毒気を抜かれたわけではない、この男の言葉があまりに突拍子もなかったからだ。
「お前、今まで会ってきた人間て全員顔と名前覚えてるか?」
「は?」
「無理だよな、忘れちまう。俺だって無理だし、誰だってできやしない」
「アルヴィル......さっきから何言ってるんだ」
「昔の記憶一日一日のこと全部覚えてたらどうなるんだろうな。俺はきっと苦しいと思うぜ。忘れられるから救われるってこと、絶対あると思う」
独り言のように、そもそも鎗を構える自分すら眼中にないように、アルヴィルの視線はどこか遠くを見つめていた。
「でもな──もし、自分のことも他人のことも全部背負って記憶してる奴がいるとしたら、記憶するだけのために生まれた奴がいるとしたら、そいつは何が楽しくってこの世界にいるんだろうな」
緋奏 『百億の星にリリスは祈り』
1
そこは、自分の泊まる宿舎から歩いて数分にある公園だった。
誰一人いないもの静かな公園。噴水は水を止め、ブランコは静止したまま動きもしない。
静まった夜の公園に音はなく、ほのかな夜光灯だけがぼんやりと輝いていた。
そんな閑散とした空間で。
「わたしは──」
拳を握り、クルーエルはぐっと息を呑みこんだ。
「わたしは普通だよ」
『普通とは、何が普通なんだ』
その答えは目の前の木製のベンチからだった。ベンチに座り、自分を見上げる夜色の名詠生物。
「何って......全部だよ」
トレミア・アカデミーから離れて実家に帰れば、普通に暮らしている両親がいる。お金持ちの家なんかじゃなく、これといって有名な家系というわけでもない。
名詠学校の生徒として入学試験を受けて、平均より少し下くらいの順位で合格した。特別な成績なんかじゃない。授業だってそうだ。わからない宿題はミオに見せてもらったり、授業中もつい睡魔に負けてウトウトしちゃうこともある。
ミオやエイダ、サージェスなんかと仲が良くて、ネイトが気になるって言えばそれを良いようにからかわれて......そんな、周りの子と何一つ変わらない女の子だと思ってる。
調律者? 違う、わたしは普通の女の子だもの。
『小娘の名詠式についても普通と言えるか』
「......それは......」
『調律者が触媒に組みこんだ後罪という制限。それを打ち破り、幾度でも名詠式を行えるのは、同様に調律者の力を持つ存在のみ──そうは思わないか』
「だって、そんなのできちゃうだけだもん。仕方ないじゃない!」
公園でこの名詠生物からずっと話を聞いていたけど、もう限界だ。
わたしが人じゃなくて、むしろ名詠生物に近いだなんて、そんな突然にわけわからない話なんて聞きたくない。
『どこへ行く』
背を向ける自分に、背後からの声。
「帰る」
『帰るとは、どこへ帰る?』
「宿に決まってるでしょ。帰って寝るの。明日だって早いんだから」
もう明日には学園に戻れることになっている。
競闘宮のことは全部シャンテさんたちが引き受けてくれるって言ってるし、あとはお土産を買ってトレミアに帰りたい。
『そうか、ならそうするといい。時間を取らせたな』
「......引き留めないの?」
『我は選択肢を与えるだけだ。我とアマリリスの話を聞かないことを選択したとしても、小娘が自分の意志で選んだことならばな。いつぞやの競演会でもそうだったはずだ。もう忘れてるかもしれないがな』
競演会、迫る自分の番。
間近でミオやネイトの発表を見て、思いに耽っていた時のことだった──
〝自分だけ簡単な触媒を使い、簡単な名詠で済ます。いまお前はその息苦しさを感じている。他人の挑戦する姿と自分の姿を比べてな〟
〝再び殻に籠もるか、それとも外に出ようと足搔くか。その判断は自分でしろ〟
忘れるわけがない。
この夜色トカゲは偉そうなことばっかり言ってくれて、なのに決めるのはわたしに押しつけてくる奴だった。
「......ネイトに詠ばれて、少しは性格も改善したと思ってたわたしがバカだったわ」
『あいにく頑固なのは名詠者譲りでな』
翼をたたみ、ベンチの背もたれの部分へ器用にアーマが着地する。
わざわざ大きく溜息をつき、クルーエルもベンチの端に背を預けた。
『帰らないのか』
「わたしはこのベンチで座ってるだけ。あなたが話したいならご自由に!」
『小娘は変わったな』
「ええ、どうせ意地っ張りになったとか言う気でしょ。どうせわたしは──」
『少し羨ましい』
......羨ましい?
まるで似合わぬ単語を発した相手をまじまじと見つめた。
『我やイブマリーでなく、お前のように快活な人間の方がネイトには似合っているらしい。アレは母親に似て引っこみ思案だったが、最近は多少マシになった。誰かさんの影響がそれなりにあったのだろうさ』
「......誰かさんて、わたし?」
わたしがネイトに影響、そんなことあったっけ。確かに最初よりずっと頼もしくなったとは感じるけど、それはネイト自身の頑張りだと思っていた。
『知らぬは本人たちだけということだ。さて時間もない。先の話だが──』
「あのね、その前に一つ訊いていい」
真横を見つめる。
背もたれに立つその相手と、視線の高さはちょうど同じほどだった。
「調律者の中にアマデウスっていたでしょ。それは......あなたじゃないの?」
『根は同じだが、今はまるで違う存在だな』
「じゃあ、あなたは何なの」
前から疑問に思ってた。
名詠生物なのに、こいつだけはいつまでもこの世界に留まっている。
それもたぶん自分の意志で、自由に。
目を疑うくらい巨大な竜になったり、今のような小さい姿でいたり。
『それも、これから先を見ればわかる』
「見る? 聞くじゃな──」
......これは。
自分たちの座るベンチの周りが、ほのかな赤い光の渦に包まれた。
光の中、風に舞うように宙を踊る緋色の花弁。それはアマリリスの花弁だった。
花弁が集まって環を描き、自分のよく知るかたちを形成する。
「名詠門、どっ、どうしたの?」
『アマリリスから詠ばれているだけだ、何なら目をつむっていろ』
アーマの言葉が徐々に小さくなり、そして──


真っ黒い水を満たしたような、冷たく澱んだ空間だけがあった。
どこまでも澄んでいるのに何も見えず、ただ自分がそこに漂っている。手を伸ばしても空虚な何かを摑むだけ。その何かも、摑んだそばから指の隙間をくぐって逃げていく。
摑みたくても摑めない。何一つ触れることも、抱きしめることもできない。そんな限りなく不安で孤独な世界。
「ここって......」
一瞬周囲を眺め、クルーエルは胸元に手を添えた。
アマリリスに閉じこめられた時の世界だ。この真っ暗で寂しい世界。
『覚えているか』
肩に何かが乗った感触。ふしぎだ。真っ暗な空間なのに、この夜色の名詠生物の姿がはっきりと伝わってくる。
「......忘れるわけないよ。こんな悲しい場所」
『悲しい場所か』
アーマが繰り返す。その言葉を嚙みしめるように。
『その悲しい場所にアマリリスは、何千何万年と独りで耐えていた。本来この場所に置き去りにされていたはずのお前の代わりにな』
「......アマリリスがわたしに代わって?」
『アマリリスの記憶に耳を傾けろ、お前の全てがここにある』
目の前が、一瞬昼間のような眩しさに包まれた。
虚空の一角から、一条の淡い光が木洩れ日のようにそそぎこむ。雪のように白い光に照らされ、わずかながら周囲の様子が目に映った。
「......なに............これ」
カツッ──足先に触れたのは、おもちゃの木馬だった。
積み木。
絵本。
子供が遊ぶような玩具がいくつも転がっている。
『足下より前を見るんだな』
言われるままに顔を上げ──
その先に、十歳にも満たないであろう少女が立っていた。
緋色の髪の少女。身にまとう服もなく、まだ幼げな手足と白い素肌が光の下に露わになっている。感情をまるで映さぬ瞳に、大粒の涙だけが泉の水のように頰を濡らし、その頰を拭うこともなく少女は立っていた。
『あの娘、誰だと思う』
「誰って......」
あの緋色の髪、面影。あれはまるで──
『小娘、お前だ』
「うそ......だってわたし、こんな場所にいた記憶なんてないよ!」
『それは、アマリリスがお前の記憶を自分の記憶として背負っていたからだ。お前が記憶の重荷に苦しむことのないよう、自らの記憶としてここに閉じこめた。だからこそ、この世界の名は──アマリリス独界』
光が照らす先、とぼとぼと、もう一人の少女が歩いてきた。
光の当たる中心地に佇む幼い自分、それと酷似した姿の少女。手には小さな人形。
「あ、アマリリ......?」
振り返ると思った。けれど彼女は自分のすぐ横を通りすぎていく。無視じゃなく、本当に気づいていないかのように。
『言ったはずだ、これはアマリリスの記憶だと。過去既に在った光景の再現に過ぎない』
......そっか、このアマリリスにはわたしが見えてないんだ。
『クルーエル、そんなに泣いたら顔が腫れちゃうわ』
人形を手にしたまま、アマリリスは泣きながら立ちつくす少女へ。
少女からの返事はない。
小さく吐息をつき、アマリリスがその指先で少女の頰を拭ってやる。
『あのね、今日は人形を持ってきたの。気に入ってもらえるかしら』
少女の手を取り、愛らしい人形をその小さな手に握らせる。
「............」
とさっ
乾いた音を立て、人形が床に落ちる。
『......そう、そうよね。こんなものじゃ、あなたの苦痛は拭えないものね』
人形を床に座らせるアマリリスの表情は、悲愴。
「あ、あのさ?」
『なんだ』
「......もしかして床に置いてあった絵本とか積み木も』
『アマリリスが持ってきたものだ、お前のためにな』
──そんな。
「わ、わけわからないよ! なんでわたしがここにいて泣いてて、アマリリスが用意した玩具とかも全部床に捨てちゃうの!」
『見ていろ』
アーマの言葉が終わるより先、少女の身体が透けていく。
アマリリスが拭き取った目元から、また小さな雫が流れ落ちていた。
......あれは、どういうこと。少女に何が起きてるの。
『クルーエル、もう始まりの島に行く時が来たのね。これで589回目......』
少女が消え、床に涙の痕だけが残る。
それもまた風に溶けるように消滅し、光の中にはアマリリスだけが残っていた。
『愚かな蛇、愚かな竜、愚かな争い。わたしには止められない......待っててクルーエル、あなたを救ってくれる人を必ず見つけてあげるから』
背を向け、アマリリスもまた暗がりへと消えていく。
......わたしを救ってくれる人? それに、始まりの島って。
『追わなくていいのか』
「え?」
『アマリリスを追わなくていいのか?』
「っ! う、うん!」
まるで視界のきかない黒の空間を、ほとんど直感だけで追いかけた。
「ま、待って! わたし、あなたのこと────」
声が届かないとわかっていてなお、クルーエルは精一杯の力で叫んだ。
......なんだろう、この気持ち。
胸が苦しい。大声で泣きたい気分だった。
謝らなくちゃいけない気がする。何もかも知らないまま......ううん、きっと今もわからないままだけど、わたしずっとアマリリスの気持ちを誤解していた気がする。
「お願い、待っ────」
目の前が再び光に照らされた。
ほのかに薫る、草と花と土の匂い。
たった二メートル四方程度、そこには緋色の花が咲き乱れる小さな庭園があった。
『始まりは、愚かな竜と愚かな蛇の争いだったわ』
庭園に膝をつき、アマリリスが緋色の花々に語りかけていた。
『二つの名もなき意志法則体。
あえて言うならば、変遷者と不変者。
どちらが人の世界を見守るか。どちらが人に愛されるか。
審判を子自らに委ねるため、竜と蛇は、かつて互いが衝突した力の余波を利用して名詠式を構築した。構築した上で、名詠式に符合するよう互いに自らに名を与えたの。
それが
変遷者
Clar eleSelahphenosia-s-Armadeus【アマデウス ただそこに歌を願う者】
不変者
Riris eleSelahphenosia-s-Miqveqs【ミクヴェクス ただそこに約束を願う者】
変化と成長を好むアマデウスに対し、ミクヴェクスは永遠と完全を好む。
そのどちらもが、今で言う空白名詠の調律者。
五色の名詠式を人に与え、人に愛されることを望み続ける存在。
セラフェノ音語、触媒、五色の分岐。名詠式に組みこまれた制約をたどることで、人は自然に調律者の存在を知覚する。たどり着いた者が適格者であれば、調律者は自らを名詠するための真なる言語──セラフェノ真言と、それによる〈讃来歌〉を与えるわ。
アマデウス真言〈全ての歌を夢見る子供たち〉
ミクヴェクス真言〈全ての約束された子供たち〉
それがこの二つ。そして時は過ぎ......最初に調律者の存在を察知しミクヴァ鱗片を手に入れたのは、アマデウスの適格者だったわ。
アマデウスはその名詠士にアマデウス真言を授け、調律者アマデウスが名詠された。
......でも、話はこれで終わらなかった。
そう、悲劇はここから始まったの。終わらない悲劇の始まり』
手元の花を愛でるように撫でるアマリリス。
小さく長い、消え入るような吐息が彼女の口からこぼれおちた。
『調律者としての〈その意志に牙剝く者〉が名詠式を司る世界で。何百年という時が過ぎた頃、アマデウスとミクヴェクスは再び抗争を開始した。
人の名詠式の使い方が変化しつつあるというのが、その理由。
百年が過ぎ、千年が過ぎ......調律者が恩恵として与えた名詠式はいつしか争いの手段として用いられ、本来の道から外れかかっていたから。
自らの成長を好むアマデウスは、人が自らそれに気づくことを望んだの。自浄作用というほど大げさではないけれど、自分たちで見出すことを願った。
一方、完全を望むミクヴェクスは、名詠式の概念を組みかえることを提案した。それは名詠式に対する人の認識──名詠式は単なる見せ物に用いる道具、争いに用いる道具だという認識を消去し、もう一度新たな理想図を与えることを意味する。
......そして、二度目の争いが始まったわ。
今度はミクヴェクスの適格者が先に真言を詠い、ミクヴェクスが名詠された。
ミクヴェクスは人の意識の中から名詠式に関するものだけを消去し、新しい名詠式の概念を与えた。今度こそ人が、名詠式によって助けあい愛しあって生きられるように。
ミクヴェクスとアマデウスの抗争は、一度目はアマデウスの勝利、二度目はミクヴェクスの勝利で終わったわ。
......だけど、それで終わらなかった。
人は決して強くない。二度目の抗争に勝利したミクヴェクスから新たな名詠式の理想図を与えられても、数百年の後にはまたそれを争いに利用してしまったの。
結局、振り出しに戻ってしまった。
皮肉なものね......アマデウスとミクヴェクスどちらが勝とうとも、人は名詠式の使い方を誤ってしまうんだもの。そしてそのたびに二体は互いを非難し、もう一度名詠式の統制権を巡って争いを引き起こす。
調律者を名詠できる器の名詠士が現れるのが、おおよそ数百年に一度。つまり一度の争いに数百年を費やし、それがさらに何百回と続く。
でも、調律者たちは止まろうとしなかった。
なぜならこれは愛する人のためだから。
確かに、人が道を外れて名詠式を争いに使うのならば、道を示してやることも時として必要なことかもしれない。それは人にとっても決して悪いわけではないわ。
調律者たちの争いはあくまで人の認識の外で秘密裏に行われている。人に迷惑をかけることはないし、そもそもどちらの調律者を選ぶというのも、人の選択によって行われたものだから。その上で名詠式が正しい方向に行くのであれば、何も問題はない。
......そう、実のところミクヴェクスとアマデウスの争いというものは、人にも調律者たちにも、決して不幸なものではないの。
ミクヴェクスの願いにしてもそう。全ての子に完成された名詠式を与え、祝福することを約束する。それがミクヴェクス真言〈全ての約束された子供たち〉だから。
でもその中で......たった一人だけ、祝福から外された存在がいた。
それがクルーエル・ソフィネット。
わたしの姉であり、人でありながら調律者でもある可哀想な子』
「......わたしが......アマリリスの......姉?」
アマリリスから思わず目を背け、クルーエルは自らの肩に留まる名詠生物を凝視した。
それを気にしてもないかのように、夜色の名詠生物はただ淡々と。
『あのお喋りが、とうとうこの時までお前に伝えられなかったことだ』
「だ、だって、変だよ? わたしはお母さんもお父さんもいるよ? でも妹がいるなんて話聞いたことないもん!」
生き別れた姉妹がいるなんて話もない。
ネイトのように、わたしが孤児だったなんてこともないはずだ。なのに。
『人としての家族はお前の言ったとおりだろうな。だが今アマリリスが告げているのは、名詠式の調律者としての姉妹という意味だ』
「......そんなっ!」
いつしか、クルーエルは目の前の庭園のすぐそばまで歩みよっていた。
すぐそこにアマリリスが座ってる。
手を伸ばせば、自分と同じ緋色の髪に触れられるくらい近く。なのに、彼女の方は決してそれに気づいてはくれはしなかった。
......当たり前だ、これは過去の再現なのだから。
『ミクヴェクスが名詠された時。ミクヴェクスは人の意識の中から名詠式に関するものだけを消去し、新しい名詠式の理想図を与える。名詠式は単なる見せ物に用いる道具、争いに用いる道具だという認識を消去し、新しい活用方法を──でもこれには大きな欠点があったの。
記憶、思い出。それらは決して単体では存在しない。
だってそうでしょ?
名詠式の記憶と言ったって、ほかの友人との記憶と絡まりあうことがあるし、名詠学校で芽生えた恋だって名詠式の思い出の一つと言っていい。記憶というのは、全てが密接に絡まりあって互いを支えあう根のようなものだもの。
だから、名詠式に関する記憶だけを消去することはできない。できるとすれば、一度人の記憶の全てを消去し、そこから名詠式の絡まない記憶を戻してやることだけ。
だからミクヴェクスは、人の記憶を一度消去する前に、それまでの人の記憶を全てどこかに記録しておかねばならなかったの。名詠式の記憶ごと消した後、また人に戻してあげるために。
つまり、全ての人の全ての記憶と思い出を記録する存在が必要だった。
すなわち『残酷な純粋知性』。
だからミクヴェクスは自らの眼を分身として創り変え、世界に遣わした。その目で世界中の全ての事象を記録する、ミクヴェクスの分身を。
それは一人の少女。
......自らの役割に従い、少女は名を与えられたわ。
人として生まれるがため、セラフェノ音語でなく人の言語により受名した少女。
それこそが残酷な純粋知性──すなわちクルーエル・ソフィネット、この世に存在しうる最も残酷で憐れな名の少女』
ソフィア・オブ・クルーエルネット。
クルーエル・ソフィネット。
「......わたしの名前は............それじゃあ」
意識が遠くなる。と、その瞬間、肩に鋭い痛みがはしった。
『前を向け』
肩に留まっていたアーマが、その足の爪で引っ搔いたのだ。
『小娘、らしくないのではないのか?』
「............え」
『アマリリスがどんな心境で伝えているのか、察してやれ。お前にとっては何もかもが突然、アマリリスのことも信じきれないのもわかる。だが見てみろ。目の前のアマリリスは紛れもなく、お前を実の姉妹として慕っているはずだ』
......アーマ。
わたしを気遣ってくれているの?
『単に事実を言っただけだ』
その名詠生物がぷいと顔を背ける。
『だがな。妹が託そうとしていることを、姉が受けとめてやらないでどうする?』
「............」
無言で頰の内側を嚙みつぶした。
そうだ、昼間の競闘宮であの声を聴いた時。頭が割れるように痛くなって、身体が熱で動かなくて意識が消えかかっていた時。
アマリリスは言っていた。
〝〈ただそこに佇立する者〉との共鳴に苦しむあなたを見るのはすごく辛いの。苦しいのでしょう? だから、わたしがその痛みも熱も寒気も、全部代わってあげる。あなたは少し休んでいなさい。終わったら、また起こしてあげるから〟
〝なんで、変だよ、絶対おかしいよ!〟
あの時わたしにはわからなかった。
なんでアマリリスがあんなにも優しく声をかけてくれるのか。
〝ねえ、どうして。......前から気になってた。なんでわたしに、そんな優しく言葉をかけてくれるの? わたしがあなたの何だっていうの〟
まるで友だちみたいに、ううん、それよりもっと親しく深い関係。
まるで姉妹みたいな言い方で。
〝わたしからは教えられない。聞くなら、とぼけた夜の幼生にでも聞きなさい〟
......あれは、そういう意味だったの?
『人として生まれた残酷な純粋知性は、無意識の内に世界の全ての経過を記録していく。
一度役割を終えたとて、その身体は人として眠ることを許されず、ミクヴェクスの分身──つまり調律者として還っていく定めにあった。そして調律者として還った後、すぐまた人として世界に生まれ落ちることになる。
ミクヴェクスが名詠されるまで記録し続ける。
この記録に際し、残酷な純粋知性に自身の記憶、感情、自我は不要となる。これに先立って、ミクヴェクスは人の年齢に対し、生まれてから十年を『無垢なる感情の時』と定めた。
十歳までは人として生きながら、同時に残酷な純粋知性の機能を果たす。
けれどそれ以上になれば、クルーエル・ソフィネットとしての記憶と感情が成長しすぎ、記録体としての機能を阻害してしまう。
だから、人としてのクルーエルの記憶は十歳までしか許されなかった。
十歳までは人の家族に囲まれながら。十歳を迎えてからは自我を失い、世界の端の始まりの島で、独りで世界の事象を見届けるだけの存在になるの。
クルーエルは自らが保有する記憶、感情を忘れる。クルーエルに関わった人の記憶もまた、この段階でクルーエルに関する部分だけが消去される。
その象徴が赤の第一音階名詠の真精、黎明の神鳥ならぬ不死の神鳥。この真精はミクヴェクスがクルーエルに与えた翼。クルーエルを護り、同時に監視する存在でもある。
名詠式の中で、不死の神鳥が特に珍しいのはそれが理由。
なぜなら世界中でそれを名詠できるのはクルーエル・ソフィネットだけだから。不死の神鳥は何百年というスパンで幾度となく目撃例があるけれど、それらは全て生まれ落ちたクルーエルただ一人の名詠によるものだった。
こうしてミクヴェクスが名詠されるまで世界の事象を記録し、ミクヴェクスが名詠されれば、残酷な純粋知性は記録していた記憶を放出して消失。次の争いでアマデウスが勝てば、またこの世界に送りこまれることになる。
ミクヴェクス真言の願いは【あるべきものを、あるべき世界に】
それはすなわち、全ての子に完成された約束を与え祝福すること。
けれどこの『全ての子』という範疇に、クルーエルだけは入っていない。しょせんクルーエル・ソフィネットは、ミクヴェクスが現れるまでの代替者なのだから。
ミクヴェクスが人として残酷な純粋知性を遣わしたのは、偏に人を愛していたことの証。けれどミクヴェクスは、自らの一部である残酷な純粋知性を自身そのものと認識し、愛という器の外に置いた。
ミクヴェクスが名詠されるまで永遠に生を繰り返し、自我を得ては奪われることを繰り返す定め。愛した記憶も愛された記憶も奪われてしまう。ミクヴェクスが名詠されれば、全ての役目を終えてミクヴェクスの眼に戻り、存在の全てが消滅する。
......愚かなる竜と蛇の争いの結果生まれた、憐れな使い捨ての存在』
「それが......わたしなの?」
さっき見た、幼いわたしはあの時、立ちながら泣いていた。
〝そう、もう始まりの島に行く時が来たのね。これで589回目......〟
「ねえ、教えて......」
肩に留まる名詠生物を胸に抱き、クルーエルは力いっぱい抱きしめた。
「さっきのアマリリスが言ってたのは、そういうことなの!?」
『そうだ。小娘が見た光景は、調律者の争いが既に589回に達した後のものだ。一度の決着がつくまでに最低でも数百年。千年を数えることもあった。それが589回。もっとも小娘はそれを覚えていないはずだ。それを思いだすのは残酷な純粋知性としての役割に目覚め、自我を失ってからになる』
「......そんなのってないよ」
力を失った両手でアーマを手放し、クルーエルはその場にしゃがみこんだ。
どうして? うそ。きっと何かの悪い夢でも見てるだけだ。誰か......そう言って。
「そんなの......嫌だよ!」
ミクヴェクスというのが名詠されれば、ネイトのことも全部忘れてわたしの身体も記憶も消えちゃうってことでしょ?
彼がどんなにわたしの名前を呼んでも、わたしは返事を返すことだってできなくなる。ネイトもわたしの存在を忘れ、もう二度と巡り会うこともない。
そんなの、そんなの絶対嫌だ。
「ねえ......」
うつむいた顔を懸命に持ちあげ、クルーエルはその先の相手を見据えた。
『なんだ』
「わたし、十六歳だよ?......まだ、わたしはわたしの意識があるよね」
アマリリスの言葉が正しいならば、自分は十歳で自我を失うはず。でもわたしはちゃんとこうして自分のことを覚えてる。記憶も失っていない。
これはどういうことだろう。
『そうだ、それこそがアマリリスが懸けた一縷の望みの結果だ』
......アマリリス、そうだ。肝心の彼女はどうしたんだ?
今までの話はアマデウスとミクヴェクスの争いだけじゃないか。調律者であるはずのアマリリスはまったく出てきていない。
『小娘、ここからのことを心に留めておけ。アマリリスがどうしてお前の妹で、何を望んでいるのか、アマリリスが求めた真言はこの先にある。お前がお前でいられる可能性があるとすれば──』
アーマが見つめる先で、アマリリスが立ちあがっていた。
『アマデウスとミクヴェクスの争いが600回を超えた時──人の年月で換算するなら何万年という年月が経過した時、つまり残酷な純粋知性もまたそれだけの生を与えられた時のこと。
驚くべき変化が起きたわ。
人としての意識があるのは一生に数年だけど、それを何百回と繰り返すうち、残酷な純粋知性は人としての自我だけでなく、ミクヴェクスとは別に、孤立した調律者としての自我をその身に宿したの。
自我を与えられ、奪われ、人として愛した記憶も愛された記憶も忘れる──そんな鎖に繫がれた人形に、かりそめながらも確かな命が吹きこまれた瞬間だった』
アマリリスが泣いていた。
喜びか悲しみかもわからない。
自らの頰を伝うものを拭うこともなく、その少女は──
『生まれた自我は、厳密に言えばクルーエルの自我ではない。それは鎖に繫がれた彼女の、永久の苦痛の中で生みだした自己防衛の拒否反応が育ったものだった。
それがわたし。
クルーエルより分化した、クルーエルのもう一つの自我。クルーエルを守るためだけに生まれた名もなき存在。
調律者としての意識に目覚めたことで、わたしは自らに名を与えた。
この宣名儀礼により、わたしもまた名詠式の調律者となった。あくまでミクヴェクスが母体であることは変わらないけれど、ミクヴェクスが人の世界に名詠されていない間に限定すれば同等の力を行使できる。
受肉ならぬ受名。わたしがわたしに与えた名は二つ──
Armariris【その約束に牙剝く者】
clue-l-sophie neckt【緋色の背約者】
ミクヴェクス真言が〈全ての約束された子供たち〉であるというのなら、わたしはその約束に牙を剝く。
......母体たるミクヴェクスに背いてでも、わたしはクルーエルを助けたかった。
それはミクヴェクスからの解放。
調律者として生きるか人として生きるか、それを姉自身に選ばせてあげたかったから。
それがわたしの真言。
アマリリス真言〈全ての目覚める子供たち〉。
黎明と共に目覚め、どうか全ての子と共にクルーエルもまた歩いてほしい。
ミクヴェクスの覚めない夢を、どうか終わらせるために......
その願いの象徴が黎明の神鳥。
永遠の象徴たる不死の神鳥ではなく、クルーエルを黎明へと導くために』
ではわたしの黎明の神鳥も、アマリリスが贈ってくれたものだったの?
『あのお喋りが、お前の前ではどうしても伝えられなかったことだ』
「............」
......ずるいよ。
なんで、なんで面と向かって言ってくれなかったんだろう。
『人も調律者も決して強い心を持っているわけではない。小娘のほかにもう一つの自我があると知れば、小娘は困惑したはず。だから他人をよそおう必要があったのだろうな』
目の前に自分の望んだ人がいるのに、伝えたいことも伝えられない。
「わたしの前でさ......アマリリスはずっとそれを言いたくて我慢してたのかな」
言わなくてはいけないけれど、それを言ってわたしが傷つくのを知っていた。
だから今日この日まで、限界まで時を待つしかなかった。
わたしが、せめてその重みに耐えられる心の強さを持てるまで。
『渇望、その願いに飢えていたと言うべきだろうな』
「......わたし、アマリリスに謝らなくちゃいけないのかな」
目の前の小さな箱庭を見続けるのが辛かった。あの幼いアマリリスの横顔を眺める、ただそれだけで呼吸が苦しくなる。
『ならばこの記憶の先を見届けろ。それが何よりの応えになる』
「......わかってるよ」
そう、それしかないんだ。わたしが今できること。
『待ち続けたわ。百年、千年......無数の月日を数え、願い続けた。クルーエルをミクヴェクスから解放できる者が現れることを。
そしてアマデウスとミクヴェクスが669回目の争いに突入した時、この世界には空白名詠を凌駕する可能性を秘めた者が現れた。
カインツ・アーウィンケル──虹色名詠士。
調律者が設定した名詠式の不完全性の一つ、名詠五色の同時達成の不可という条件を打ち破っただけでなく、さらに五色でも空白でもない新たな輝きをもたらした男。
五色の名詠も空白名詠も、今まであった名詠式は全てアマデウスとミクヴェクスの衝突の内側で存在していた。けれど虹色は調律者の意志の外、二体の争いの外にある。
虹色は空白名詠と別に存在する、空白名詠に対抗しうる可能性。
だからこそあの輝きならクルーエルを照らし、救いだせるかもしれない。......わたしはそれに懸けるしかなかった。
でもその一方で、ミクヴェクスの適格者にシャオという存在が現れた。
シャオ、真なる敗者の王。
誰より強く澄んだ願いを持つ救世者。669回目の抗争期、まさにミクヴェクスが望んだ究極の器を持つ名詠士もまた、同時期に現れるという皮肉な現象が起きたの。
この時既に、アマデウスはある理由により適格者を持つことがなくなった。アマデウスとミクヴェクスの戦いでは、シャオを得たミクヴェクスが勝つことは必至。
だからこそ、カインツに望みを託すしかない。
......わたしは懸けにでた。
六年前、ちょうどクルーエルが十歳で自我を失う直前のこと。シャオは始まりの島に眠るミクヴァ鱗片にたどり着き、ミクヴェクスを名詠しようとした。
わたしが行った妨害は名詠門への強制介入。ミクヴェクスの代わりにわたしが名詠門を通してこの世界に名詠された。その時の力の暴発現象が風の砕けた日。
母体ミクヴェクスの名詠妨害、そして母体からの離脱によりわたしは力のほとんどを使い果たしたけれど、一定の成果はあった。
ミクヴェクスは再び眠りにつき、シャオはわたしを警戒して始まりの島を離れた。
そして何より、クルーエルの自我は失われず継続した。これは残酷な純粋知性としての彼女にとっては画期的なことでもある。
けれど、いずれ遠からぬうちミクヴェクスが目を覚ますのも時間の問題。焦る気持ちを抑え、わたしはカインツが虹色名詠を開花させる時を待った。
そして、今──』
目の前の光景──アマリリスの足下にある緋色の花が枯れ、地面が焦土と化していく。
「な、何が起きたの!」
『始まりの島の景色だろうな』
「......地面、焦げてる」
自分の足下にクルーエルはそっとしゃがみこんだ。
黒と茶が入り混じった焦土をなでる。ただの記憶とわかっていてなお、その土からは灼け焦げた残滓の臭いがした。
『風の砕けた日の余波らしい。名詠式を司る調律者に代わり、強制的に調律者が介入したんだ。あの小さな島が焦土になるどころか、世界に根づく名詠式の法則が狂ってもおかしくない出来事だった』
「それが今なの」
『いや、アマリリスがこの映像を残したのは三ヶ月前だ。だから、アマリリスの今というのも三ヶ月前のことになる』
今から三ヶ月前。
それは時期的に、灰色名詠のミシュダルが学園を襲った時期だろうか。
『意識を失った小娘を庇い、ネイトが学園にやってきた空白名詠の浸透者と戦った時だな。その時実のところ、目的は不明だがシャオも学園に姿を現していた。その一方で、アマリリスはあの男と出会っていた』
「あの男?」
前を見ろと言わんばかりに、トカゲは尖った顔を前に向けるだけ。
その先に、焦土の地に咲く緋色の花。
そして枯れ草色のコートを羽織った、見覚えのある男性が立っていた。
「......カインツさん?」
彼が見据えるのは、そのすぐ目の前。
足下に咲く花とまるで同じ緋色をした髪の少女がいた。
真っ白い素肌を惜しげもなくさらす彼女。衣服の代わり、風にそよぐ緋色の長髪が、さながら外套であるかのように少女の周囲を覆うようになびいていた。
「カインツ・アーウィンケル。あなたを──」
くすりと、微笑むように、懐かしむように少女が目を細める。
「あなたをずっと待っていた......〈始まりの女〉よりも、誰よりも」
......アマリリスがカインツさんと会っていたの?
三ヶ月前、わたしが意識を失っていた時に。
『アマリリスが望んだ邂逅の時......のはずだったんだがな』
『そう、わたしが何百何千年と待ち焦がれた瞬間のはずだった。
虹色名詠。その輝きは調律者を超え、クルーエルを照らす唯一の可能性だった。あの輝きならばクルーエルを救うことができたかもしれない。だけど、なんという皮肉だろう。
......わたしも、ミクヴェクスやアマデウスすら予想だにしなかった。
虹色名詠は空白名詠とは根本から異なる音色。だから空白名詠に対抗できる。
だけどもう一つ、こちらは空白名詠と根は同じにしながらも、空白名詠と真逆の性質を持つがゆえに空白名詠に対抗できる異端色が現れたの。
虹色を知る、枯れ草色の詠使い。
空白名詠に望まれた、夜色の詠使い。
そしてここにもう一人──
夜明けを願う、黄昏色の詠使い。
わたしの願いを無惨に打ち砕く、三番目の詠使いが現れてしまった』
虹色を知る、枯れ草色の詠使い。これは言うまでもなくカインツ。
空白名詠に望まれた、夜色の詠使い。これはおそらくシャオという名詠士。
そして三番目。
夜明けを願う、黄昏色の詠使い......これは誰のことだろう。
そもそもこの命名はおかしい気がする。だって黄昏は夜の始まり、夜明けは朝の始まりだ。黄昏と夜明けはまるで正反対の単語の組み合わせじゃないか。
「ねえ......」
『枯れ草色の少年と、夜色の少女。互いは勝負という名の再会の約束をかわし、別れた。だが自らの死期を知る少女はそれも許されず、少年と会う前に病に倒れた』
その話、ずっと前にどこかで聞いたことがある。
......あれは確か、競演会の時。この名詠生物の背に乗っていた時だったっけ。
『夜色名詠の始まりをもたらした少女。夜の始まりたる黄昏でありながら、少女は心のどこかで自分を照らしてくれる明かりを求めていた。黄昏はいつしか暗きXeo【夜】へといたる。それでもなお、奏でる旋律がいつかは夜を越えて夜明けにたどりつけることを願い──夜色の少女は、自らの子にNeight【夜明け】の名を授けた』
「三番目の詠使いって、それじゃあ」
『イブマリー・イェレミーアス、ネイトの母親だ』
ネイトのお母さん。
でもその人がアマリリスの願いを打ち砕くって......?
〝クルーエル・ソフィネットという少女。この子を救える可能性があるのはあなただけ。だからこそ、わたしはあなたを待っていた〟
焼け焦げた地面を背景に、アマリリスが虹色名詠士に語りかけていた。
過去の再現。
「これも、実際にあった光景なんだよね」
『そうだな、アマリリスがあの男に語りかけたことそのもの。つい三ヶ月前のことだ』
過去の映像の中、訝しげにカインツが表情をしかめる。
当たり前だ、この時の彼はまだ背景を理解していないのだから。
〝正確には、災厄ではない。でもこの子にとっては何よりの苦痛となる。その苦しみからこの子を解放できる人間を、わたしがそれを託せる人間をわたしはずっと探していた〟
でも、今こうして聞いていれば確かにわかる。
アマリリスの言葉が何を意味しているか。
〝そのためにわたしは、この島で全てを見続けていた。わたしは〈その約束に牙剝く者〉。そして同時に〈緋色の背約者〉でもある。そしてまた、この子にふさわしい相手を探すため全ての世界の事象と経過を記録する──すなわち残酷な純粋知性〟
唐突に、焦土の光景がぐにゃりと歪んだ。
虹色名詠士の姿、それに島の景色が霞んでいく。
映像が消え、そこにはついさっきまでの緋色の花の庭園、そしてアマリリスがその場に再び座りこんでいた。
「......どうして元に戻っちゃったの」
『アマリリスが言ったはずだ、イブマリーという存在がゆえにだとな』
『わたしは始まりの島で確かにカインツと接触できた。けど、それも徒労に終わったわ。
......いいえ、本当は彼を見た時からわかっていたの。
だってカインツの虹色名詠はあの時、競演会で、始まりの女を照らすために生まれたものだもの。
彼は外には決して見せないけれど、あの女もそれを認めないだろうけど、あの二人はそれだけ強い想いで繫がれていた。......わたしが入りこむ余地なんかないくらい。
あの時点で虹色名詠はイブマリーを照らすものと属性を決定させてしまい、これによってクルーエルに作用することはなくなった。
この瞬間、虹色名詠でクルーエルを解放するという計画も水泡に帰したの。
......たぶん、それは仕方がない。
わたしは始まりの女を否定はしない......だけど、本当は妬ましい。
なんであの女は、カインツと出会ってしまったのだろう。わたしもまた、虹色名詠の存在をずっと待っていたのに。なぜあの女はカインツと先に出会ってしまったのだろう。
だからわたしは、イブマリーの息子のネイトも認めたくなかった。
でも、ふしぎね。クルーエル自身も、それを見届けるカインツも始まりの女も、あの小さく弱いネイトのことを信じてる。
あの子に何があるのかしら。
夜色名詠の才能は始まりの女に遠く及ばない。ほかの名詠色が使えるわけでもなく、エイダ・ユン=ジルシュヴェッサーのように反唱に卓越しているわけでもない。
セラフェノ真言だって知らないから調律者すら詠べないのよ?
......いいえ。アマデウスを名詠したところで同じこと。
アマデウスを名詠したところで、人の名詠式の意識に対して憂いを持つミクヴェクスは諦めない。この何百年後かに自分が再び名詠される時を待ち、その時のために残酷な純粋知性を世界に送りこむことに変わりはないもの。
そんなどうしようもない状況で、何も持たないネイトという少年が、どうやってシャオに勝てるというの。668回という抗争を経て現れた、ミクヴェクスが待ち焦がれた存在がシャオなのに......。
あの名詠士はミクヴェクスが望んだ理想の器。そういう意味では、シャオの名詠により、本当に人は名詠式の理想図を手に入れるかもしれない。そうなればクルーエルはもう役目を終え、生まれることすらなくなる。
シャオはミクヴェクス真言を持っている。あとは触媒となるミクヴァ鱗片を手に入れれば全てが終わり、ミクヴェクスの名詠と共にクルーエルという存在は消滅する。
これが最初で最後のチャンスのはずだった......
なのに、なんで。
誰かわたしに教えて。わたしがあの少年にクルーエルを託せるって安心できるだけの理由があれば、わたしだって......』
──それは、あなたがどこまでも傍観者だからよ──
アマリリスが言葉を止め、顔を持ちあげていた。
無風のはずの空間でアマリリスの髪がそよぐ。本来吹かぬはずの風に乗ってやってきたのは、夜色の花弁だった。
「──これって」
ふわりと制服に付着したそれを、クルーエルはおそるおそる手に取った。
間違いない、黒薔薇。
......前にネイトがわたしにくれたものと同じだ。
ならばこれを名詠したのはネイト? ううん、そんなはずない。だってここにネイトがいるはずないもの。
だとすれば、これは──
『あら、こんなところにまで現れるなんて珍しいじゃない』
敵意にも似た鋭いものを含ませ、アマリリスが小さく笑う。
夜色の髪と夜色の双眸をした、制服姿の少女が立っていた。
2
緋色の髪の少女へと歩みよる、もう一人の少女。
ほっそりとした小柄な身体でありながら、その瞳は何より強く揺るぎない光を灯している。頑なで、生真面目で──ネイトにそっくりの瞳の色だった。
「......え、ま、待って! なんで!」
『ネイトの母親だ、容姿はカインツの記憶に合わせた学生時代のものだがな』
「そ、それもあるけど......なんであの人がここにいるの」
些細なこと。トカゲの表情を見る限りさも当然のような言いぶりだが、傍から見ていた自分にはあまりに突然の出来事だ。
『今ここにいるわけではない、あくまであれも過去の再現。無口がお喋りの前に現れたのも三ヶ月前のことだ』
「......だからって」
『無口なりに、無口ですませられない時もあるということだ』
そう告げる名詠生物の言葉には、苦笑にも似た響きが含まれていた。
『わたしが傍観者だからとは興味深いわね。聞かせてもらえるかしら』
言葉の端に剣呑なものを交え、緋色の少女が立ちあがる。
「そんな大した理由じゃないわ」
『へえ』
「あなたがほしいのはカインツではなく虹色名詠だったから。単純でしょ?」
その一言で、無口とお喋りが逆転した。
「あなたが始まりの島でカインツと会った時もそう、あなたはカインツではなく虹色名詠しか見ていなかった。アイツはそれがわからないほど馬鹿じゃないもの」
『............』
押し黙るアマリリス。
それと対照的に、夜色の少女は自らの横髪にそっと手を添えて。
「誰かを助けられるのは名詠式ではなく、その人を助けたいと心から願う人だけ。名詠式はその補助に過ぎない。あなたも本当はわかっているんでしょ?」
『それがネイトだというの、あんなに弱い人間が』
やがて、血を吐くような面持ちでアマリリスが呟いた。
「さあ、どうかしら」

『五色の既存名詠では空白名詠に勝てない。カインツの虹色名詠はもはやクルーエルに作用しない。夜色名詠だってアマデウス真言の適格者はあなたでしょ。......ネイトに何かが残ってるの?』
「わたしに訊かないで、それはあの子たちが見つけることだもの」
アマリリスの苦悶をあっさりと切り捨て、夜色の少女が小さく微笑む。
『あの子......たち? ネイトのほかに誰かがいるっていうの』
「クルーエルさん本人がいるじゃない」
......わたし?
ネイトの母親が口にした名に、クルーエルは目を瞬かせた。
と。
それと同時、目の前の少女二人の姿に霞がかかった。
「あ、あれ......」
『どうやらアマリリス独界も限界らしい。アマリリスの力が低下している』
「で、でもわたし──」
『ここから先は小娘が判断するしかあるまい』
......そんな。
目の前の映像はそこで途切れ、視界は再び黒一色へ。
......わたし......どうすればいいんだろ。
薄れゆく意識の中、クルーエルは目元を濡らす涙をぬぐった。
三奏 『決別』
1
「そういえば」
頭上に瞬く星──五色に煌めく浮遊結晶を眺めていたシャオが、ふと何かを思いだしたように手を打った。
「アマデウスとミクヴェクスの669回目の抗争期。この現代において、過去668回の抗争において例を見なかった名詠士が三人そろった......けれど、肝心なことを伝えていなかったね」
一人が虹色名詠士カインツ。
二人目が、自分の目の前にいるシャオ。
最後の三人目がイブマリー・イェレミーアス、ほかならぬ自分の母親。
いずれもこの黒法師から聞かされたことだ。
「さっきさらりと流してしまったけれど、この時代において調律者の一翼たるアマデウスが、とある理由により適格者を失ってしまったという話をしたよね」
「──」
無言でうなずいた。......聞き逃せるはずがない。
アマデウス、それは自分の知るアーマの別称と同じ名だ。あのアーマがそっくりそのまま調律者のアマデウスでないことは何となくわかる。けれど、それがそのまま無関係とはどうしても思えなかった。
「過去668回の抗争を経て、調律者アマデウスはわずかずつながら疲弊していた。変化と成長を好むアマデウスにとって、この先永遠に続くかもわからないミクヴェクスとの抗争が、自らの存在意義とまるで矛盾するものだったから。そんな中、今から十年前......いや、もう十一年前になるのかな。それは嵐の迫った日の真夜中だった」
風の吹くまま外套をなびかせ、シャオがその瞳を閉じた。
過去の情景を思いだすように。
「嵐の迫った日の真夜中、人知れぬ荒野で。当時十七歳の少女が、既存の五色いずれにもあてはまらない名詠式に挑んでいた。突風吹きすさぶ中、喉を嗄らし、雨に打たれながらも自らの〈讃来歌〉を詠っていた。嵐が迫ろうが関係ない。なぜなら彼女はそれ以上に時間が残されていなかったから」
十一年前。十七歳の少女。時間が残されていなかった。
その言葉から推測されることは。
「それ、まさか......っ!」
「突風に飛ばされた石に膝を打たれ、少女は仰向けに地に倒れた。背中に付着する泥の感触、顔には冷たい雨がふりそそぐ。少女はそれでも起き上がろうと目を開けて──」
一呼吸の余韻。
シャオのそれは、決して息継ぎのためだけではなかっただろう。
「天上を向いていた少女は、同じく自分を天上から見下ろしていた何者かと目が合うのを確かに感じた。そう、それが調律者アマデウスとイブマリーの邂逅だ」
「......待って、おかしいよ」
シャオの唇が閉じるのを見計らい、ネイトは。
「夜色名詠は、調律者の想定した名詠色じゃないんだよね。なのになんで、夜色名詠を目指す母さんのところに調律者のアマデウスが姿を現すの?」
「そう思うのも当然、だってこれはアマデウスにとっても予測外の事象だったから」
その質問すら予想の範疇。
シャオの微笑みがはっきりとそう告げてきた。
「そう、アマデウスはこの出会いを予期していなかった。なぜならアマデウスとイブマリーの波長共鳴度は、本来なら名詠式によってアマデウスを詠びだせるほど高いものではなかったから。簡単に言ってしまえば、あなたの母親はアマデウスにとっての本来の適格者ではなかった」
「じゃあ、どうして......」
「イブマリーがアマデウスを詠びだせたのは、彼女のそれを願う意志がアマデウスやミクヴェクスに通じる空白名詠とは別の名詠門を創りあげていたからだった」
名詠式の本質は願い。
名詠式を司る調律者だからこそ、その想いはさらに鮮明に届いたのかもしれない。
「アマデウスは惹かれたんだ、イブマリーの強い意志に。この娘に自らの真言を託してみたいと。だがあいにく彼女は空白名詠の適格者ではない。だからアマデウスは決意した。ならば空白名詠ではなく、この少女が自分を名詠するための新たなる名詠門を与えようと」
〝小さき娘、お前の名は〟
〝......イブマリー〟
〝お前は何を望んで我を詠ぶ?〟
〝約束を果たしたいの。......ずっとほったらかしの約束を〟
〝それが、お前の言う夜色名詠か〟
〝............〟
〝我の真言を与えよう。創りあげるがいい、お前の描く理想の名詠式を〟
「アマデウスの牙──Clar eleSelahphenosia-s-Armadeus【アマデウス ただそこに歌を願う者】の力の一端を結晶化した、ミクヴァ鱗片の対となる触媒の力により、少女は調律者としての力を得た。そしてアマデウスもまた空白名詠の調律者から立場を変え、夜色名詠の調律者になった。ミクヴェクスを母体とするクルーエルと同様だよ。アマデウスを母体とするもう一体の調律者、始まりの女が生まれた瞬間だった」
「......アマデウスの牙?」
「そう、調律者としてのアマデウスの名前は〈その意志に牙剝く者〉で、その牙のことを指す。競演会であなたが詠んだ真精の宣言、聞いたかな」
〝O she sairaqersonie Laspha──Armadeus。孤独な夜闇の娘に惹かれ、その正統な後継に誘われた。夜の名詠に従い、而して我はそれを世界に知らしめそう!〟
夜色名詠の調律者が〈その意志に牙剝く者〉。
その力の結晶がアマデウスの牙。
そしてもう一体、真精としての牙剝く者が存在する。
「多少複雑になるけれど、まず〈その意志に牙剝く者〉という名の調律者が存在する。もう一体の牙剝く者は同名であり根は同じものだけど、こちらは真精──調律者アマデウスの幼生になる。これがアーマと呼ばれる名詠生物だ。始まりの女の片翼を担う存在。だからこそ、始まりの女が名詠される時には必ず牙剝く者が現れる」
ふぅ......小さく息をこぼしてシャオが首をふる。
物語を朗読するように吟じていた黒法師は、そこでようやくまぶたを開けた。
「さ、これで自分の話はおしまい。静かに聴いてくれてありがとう。テシエラは興味深いって聞いてくれたけど、アルヴィルは途中で飽きたって怒りだすし、ファウマにいたっては途中から寝ちゃったくらいだからね」
「......それで」
「それでも何も、これでおしまいだよ。自分から告げることはもう空っぽだもの」
そんなはずがない。
まだ一番肝心なことが残ってるじゃないか。
「僕、ずっと気になってた。シャオって人が何を企んでいるのかって」
初めてその名前を聞いた時からそうだ。
ふしぎな繫がりを感じて、どんな相手なのかずっと気になっていた。
「企むなんて大げさだよ。ただ単にRiris eleSelahphenosia-s-Miqveqs【ミクヴェクス ただそこに約束を願う者】......あ、これは意志法則体としての名前だね。空白名詠の調律者としては〈ただそこに佇立する者〉、これを名詠したくて頑張っているだけだもの」
「それが名詠されるとどうなるの」
「さっき話した通りだよ。全ての人の記憶が一時的に失われ、その後に残酷な純粋知性の記録に従って復元される。結果、消滅するのは名詠式にからむ記憶だけになる」
名詠式にからむ記憶。つまり、僕が名詠学校に行ってた記憶も?
ミオやエイダと出会ったことも、教師の顔も名前も?
「いや、ミクヴェクス真言〈全ての約束された子供たち〉によって新しい名詠式の概念が約束されている。要は新しい名詠式の理想図が与えられるだけで、ほかは何も変わらない。今までどおり名詠学校にも通えるはずだ。あなたの友人のミオやエイダとの関係が崩れる可能性も低い」
「じゃあ、何が変わるっていうの!」
声を上げて叫ぶ。
予感があったからだ。何か、自分たちの最も大事なものを否定されてしまいそうな。
「名詠式に対する意識の在りよう、ただ一つこれだけが未発達の状態に戻る。大人から子供に戻る。調律者が与えた名詠式という道具を人が正しく使えるようになるために、もう一度最初からね」
............
......やっぱりだ。そんなのってないよ。
「じゃあ母さんとカインツさんはどうなるのさ」
名詠式に対する理解が初期化するのであれば、異端である母の夜色名詠は消え、彼の虹色も消える。残るのは空白名詠と五色の名詠だけ?
だとしたら、母と彼の残した足跡も、あの日の約束も──
「消える。ただしミクヴェクスが名詠された後でも、カインツが再び虹色名詠にたどり着くことは可能。ミクヴェクスが初期化するのはあくまで道具の使い方だけ。道具の一つである虹色名詠をもう一度創りだせるかどうか、それは本人の資質と努力次第だろうね。二人の足跡については不確定。けれど残酷な純粋知性の記憶修復によって、イブマリーとの記憶の中で名詠式に直接かかわらない記憶は与えられる。『イブマリーと大事な約束をした』ことまでは覚えているし、彼のイブマリーに対する想いが消えることはない。きっかけこそ名詠式ではあったけど、あの二人の記憶は名詠式だけではないから」
母とカインツの記憶は、名詠式に絡まないものである限り与えられる。虹色名詠もミクヴェクスが名詠された後でも生まれる可能性はある。
しかしシャオが言わなかった部分は──
「......夜色名詠は、母さんがもういないから消えるってことだね」
「あなたが創ればいいんだよ。イブマリーがいなくたって、夜色名詠の代替を創ることは可能。むろん彼女同様、どうしても夜色名詠をという強い願いがないと難しいという条件はつく」
ことさら言葉に窮した様子もなく、淡々とした口調でシャオが返す。
「勘違いしてしまいやすいけれど、ミクヴェクスは空白名詠と五色の名詠以外の名詠式を禁止しているわけではない。ただ人の名詠式の使い方が歪んできているから、それを直すために意識の在りようを原初に戻すだけ。在るべき姿でありさえすれば、新しい名詠色が生まれようとミクヴェクスはそれを祝福するよ」
「そんな勝手に決めないで」
奥歯を嚙みしめ、ネイトはじっと地面を見下ろした。
「なにが?」
「だって、今の名詠式の使い方が間違ってるなんて誰が決めたのさ! 学校の先生だって授業で真剣に教えてくれてるし、生徒だって頑張ってるもの」
日夜、名詠式の教本を読みふけるミオ。
担任のケイト教師だって夏の移動教室で、灰色名詠の名詠生物から身を挺して僕やエイダさんを庇ってくれた。
「それが間違ってるだなんて言わせないんだから!」
「言わないよ」
「え?」
......なんで、そんなあっさり。
間違ってるからやり直したいはずなんじゃなかったの?
「ネイト、やっぱりあなたは思った通りの人だった。そうやって他人のために本気で怒れるんだね」
自らの胸元に手をあてるシャオの笑みがいっそう深まった。
共感、慈しみ、憐れみ──そのいずれをも超えた、愛に限りなく近い笑みだった。
「本当にあなたは澄んでいる。騙すこと、騙されることも知らない子供のように純白。だからこそ、まだ世界が見えてない。穢れた部分も、人の心の弱さも知らないんだね」
「......何が言いたいの」
「自分は何も、名詠式に対して真剣に取り組んでいる人たちのことを間違ってるなんて言うつもりはないよ。今あなたが思いうかべたのはクラスメイトのミオやケイト教師でしょ? 彼女たちが名詠式に取り組む姿勢は美しい、自分も心からそう思う。......でも逆に、あなたが名詠式に対して良いイメージを持てるのは、あなたの周りにいる皆が偶然、あなたと同じで名詠式に真面目に取り組んでいたからじゃないかな?」
ミオやケイト教師、クルーエル。
そういった、名詠を真剣に学んでいる人間の方がむしろ少ないと?
「たとえば競演会の前日、あなたとクルーエルの前に現れた最上級生がいた。ほら、資料館から〈孵石〉を盗みだして五色のヒドラが生まれる発端を作った生徒。夜色名詠という注目を浴びそうな新入生に嫉妬し、さらにはその時に割って入ったカインツに復讐しようとしたあの姿勢。どう思う?」
「............それは。でも、それだってそれこそ少ない事例なんじゃないの!?」
「そう? つい二日前、あなたたちに喧嘩を売るような態度を見せたドレスエンの生徒もいたね。自分が名詠式に優れている、ただその理由だけであの傲慢で高圧的な態度を取っていた。トレミアにもドレスエンにも、そういう生徒が実はたくさんいる。名詠式を権利や権力の手段としか見てない人間が。──そして、その最たる例が競闘宮とも言える」
「......っ!」
競闘宮。
名詠士と名詠士が戦う地。名誉と莫大な報酬が渦巻く場。
「あなたが競闘宮に対して感じた違和感。本来はそれが正しい反応なんだ。名詠式が単なる娯楽の道具に成り果て、本義を失ってしまったことへの」
ネシリスとの、あの会話の一切れ──
〝ここは嫌いか?〟
〝嫌いって?......僕が、ですか?〟
〝競闘宮で名詠士が腕を競いあうのは、名詠士としての本分を外れていると思うか?〟
〝え、あ、あの〟
〝表情にそう書いてある〟
名詠式は、日常生活において数多くのことに役立つことができる。
寒冷地での赤色名詠の活躍、干害地での水の名詠。
運搬、伝達、救助、救援。
それだけではない。今は考えつかなくとも、名詠式はいくらでも可能性を秘めている。だから、名詠式に何を望むのか、まず自分で考えなくてはならない。
──自分は母親からそう教わってきたし、それが正しいと今でも思う。
それに比べ競闘宮は何の意味があるのか。名詠式で人と人が戦って何になるのか、それで誰かが救われるわけでもないというのに。
......言い返せない。確かにそう思っていたことだから。
「あなたの母親だってその犠牲者だ。かつてイブマリーが五色のいずれにもない夜色名詠を構築すると言った時、ほかの生徒や教師はそれを相手にもしなかった。手助けなんてもってのほか。──名詠式に対する人の意識というものは、それくらい脆弱になってしまった。それについてはミクヴェクスはおろかアマデウスも同じ認識を抱いてる」
「......だけどっ!」
「ねえネイト、あなたならわかるでしょ。あなたの母親のように、世間から除け者扱いされる名詠士を助けてあげたいと思わない? 名詠式が決闘に使われ、そこで誰かが傷つき、誰かが権力を振るい、争いに使われる。その意識に訴えたいと思わない?」
シャオの濡れる双眸はゆるがない。
微笑みながらも強く、静かでありながら鋭い──そんな瞳の色。
「......それを伝えるために、僕に会いに来たの?」
「そう、本当にそれだけのため。〈ただそこに佇立する者〉の真言はそれを可能とする。あなたならきっと理解してくれると思ったから」
噓ではない。言葉以上にその佇まいが伝えてくる。
きっとこの名詠士は、心の底からそれを願っているのだ。
......だけど。
「確かに、言われたことはすごく納得できるよ。競闘宮はまだ苦手だし、名詠式の使い方が間違ってる人だってたくさん見てきたもの」
「ありがとう、わかっ──」
「でも、やっぱり僕は賛成できない」
シャオの表情がほころぶその前に、ネイトは首を横に振った。
......やっぱり僕には賛成できない。賛成できない理由があるもの。
「それはなぜ?」
きょとんと、驚いたように目を見開くシャオ。
ネイトはその名詠士を正面から睨みつけた。
「やっぱり......母さんが夜色名詠を遺したって事実は大切にしたいから」
イブマリーという女性が自分の母親である認識は変わらないし、カインツとイブマリーの関係も揺るがない。虹色名詠も夜色名詠も、僕やカインツさんの努力次第でいくらでも創りなおせる可能性がある────それだけじゃだめなんだ。
「夜色名詠は母さんが創らないと意味がないよ。母さんは新しい名詠色だって申請なんかしなかったけど、僕がそれを覚えておきたいから」
母が遺し、僕が伝える。
夜色名詠はそういうものなんだ。
「たった一つの拘りと、世界中の人のためを想う願いを秤にかけるというの?」
「......僕の秤はそれ一つじゃない」
小さく、本当に小さく、ネイトは首を横に振った。
ここに来る前から決めていたことがある。母から託された事とは別。僕が自分で決めたこと、秤になんて載せられないくらい大切なものを背負ってる。
「ミクヴェクスの真言で名詠式に対する意識が変わって、たとえそれが世界中のみんなのためになるものだとしても........................」
そうだ、僕には耐えられない。
だって──
「その代償にクルーエルさんがいなくなるなんて、僕は絶対に嫌だ!」
残酷な純粋知性。
〈ただそこに佇立する者〉が名詠されるまでの使い捨ての存在。
人として生まれながら、人として愛した記憶も愛された記憶も全て奪われ、ただ他人の事象を記録するだけの人形。調律者が名詠されればその役目を終えれば消滅し、ミクヴェクスの眼としての役割に戻る。
それを聞かされた瞬間は衝撃だった。
「......僕、クルーエルさんのことをまるでわかっていなかったんだ」
閉じていた拳を広げ、頭上の昏い空を見つめる。
遠い遠い場所、離れた場所にいる彼女は今どうしているだろう。宿舎で休んでいるのだろうか。
......僕はクルーエルさんの辛さをまるで知らなかった。アマリリスがそれだけ彼女を守ろうとしながら、それをわかってあげられなかった。
だからこそ今は余計に強く感じる。
誰よりも、何よりも、今まで幾度となく思ったどんな瞬間よりも強く願う。
──クルーエルさんを助けてあげたい!
「クルーエルさんが今までそんなに大変な運命を背負ってきたのなら、なおさらのこと、クルーエルさんは誰より幸せにならなくちゃだめなんだ!」
彼女が消えることなんて望まない。
彼女は人として生きて、そして幸せにならなくちゃだめなんだ。
「それは違う。よく考えてみて、彼女はあくまで〈ただそこに佇立する者〉の器官の一つ。名詠式のシステムに組みこまれた存在だ。人と名詠式のために尽力することが何よりの存在意義。言うなればそれこそが幸せなんじゃないのかな?」
「違う! そんな役割に縛られて、きっとクルーエルさんは泣いてたはずだもの!」
「どうしてそう思う? いや、言い直そう。そう言いきれる根拠は何?」
あくまで優しく諭すような声の黒法師。
「わかるよ......だってそうじゃなきゃアマリリスが生まれるはずないもの。クルーエルさんが泣いてるのが嫌だから、アマリリスがクルーエルさんの心の中に宿ったんだよ」
今ならわかる。
アマリリスが、どれだけ辛い気持ちでクルーエルを見つめていたか。でもその事実を、母体たる〈ただそこに佇立する者〉だけが知らないのだ。
「ふしぎだね、なぜ彼女にそこまで肩入れするの? クルーエル・ソフィネットが空白名詠の力に目覚めたことは知っているはず。彼女の空白名詠の源はミクヴェクスだ。あなたの夜色名詠の力の源たるアマデウスとまるで正反対。相容れることもないし、いつ調律者同士の力の反発を招くかわからないのに」
「......そんなことないよ」
口元に乾いた笑みだけを浮かべ、ネイトはその相手を真正面から見つめ返した。
「僕はクルーエルさんと一緒にトレミアに帰りたい。それはきっとエイダさんも、ミオさんも、みんな同じはずだから」







「............」
「どうした黙りこくって」
「あたしさ、学校サボりたいなって時々思うんだ。苦手な講義とか面倒な課題とか、試験の日とかね。そんなんじゃなくたって、たとえば一日ずっと寝てたいとか、友達と遊んでたいとかさ。気持ちがだるいと身体も重くなるんだよね。でもさ......」
決まりのつかない苦笑と共に、おさまりの悪い髪をくしゃっとなで回す。
女らしくない、友人からも言われるエイダの癖だ。
「なんだかんだで、あたしってば今のガッコ気に入ってるんだ。センセも面白いし真面目だし、クラスには気のあう友達もいるしね」
「そいつはよかったじゃねえか、クラウスの旦那は大事な一人娘がってなもんで、内心気が気でなかったらしいけどな」
アルヴィルはその癖を咎めない。
昔からそうだった。こいつはあたしがどんなに無茶しても馬鹿やっても、それに笑って付きあってくれていた。だからあたしもそうだった、アルヴィルが何かするって時はいつだって一番に駆けつけた。
──だけど、今はそれじゃだめなんだ。
「親父にも言ったんだ。あたしは祓名民は続けるけど、名詠学校もやめたくないって」
肩で、背中で、全身で息を肺に送りこみ、溜める。
......あたしは、自分の選んだ道を往く!
「覚えとけアルヴィル! あたしがやめたくない名詠学校ってのはな、全員が揃ってなきゃだめなんだよ。クルーエルが消えちまうなんて絶対ご免だ!」
クルーエルは守る。
たとえそれが、最も親しかったこの男と相反する道であろうとも。
「だけどよ、あのお嬢ちゃんはもともと人間じゃないんだぜ? 名詠式の生みの親の、その半身みたいなもんだ。あのお嬢ちゃんはシャオに言わせるならな、お前が散々相手にしてきた名詠生物とか真精に限りなく近い存在なんだよ」
「んなことは一度聞けばわかる!......でも、違うんだ。あたしはもう十二分にクルーエルと関わっちゃったから」
何か決定的な思い出があったわけじゃない。
それでも一緒の教室で同じ時間を過ごすうち、無情に背を向けられるような、黙って見過ごせるような薄い間柄ではなくなっていた。
「同じクラスにいる奴なら誰だってそうさ。あたしがクルーエルを見放したなんて言えば、誰一人として許しちゃくれないに決まってる。サージェスだってケイト先生だって............何より、あたしがあたしを許せないっ!」
余分な呼気を吐きだし、鎗を握る手に力を送る。
「どけアルヴィル、シャオって奴が〈ただそこに佇立する者〉を名詠しようとしてんなら、あたしがそいつをぶん殴ってでも止めてやる!」
「悪ぃな、それは俺がさせねえよ」
目の前の男もまた、それは同じ。
輝く祓戈の先端が互いの胸元へと突きつけられる。
「お前があのクルーエルに入れこんでるのはわかったけどよ、俺だってシャオに賭けてみたいのさ。あいつに託してみたいものがあるんでな」
「交渉決裂ってことか」
「っつぅわけだ。────来な、腕が鈍ってないか見てやるよ」







「なあレフィス、お前にしても悪い話ではないと思うんだがな」
右手を突きだし、テシエラが誘うように手招きする。
「ミシュダルという狂犬がしでかした一連の騒ぎ。お前の同門にあたる男によって悪名に塗れた灰色名詠。〈ただそこに佇立する者〉が約束する新しい名詠式の概念の中で、ヨシュアから受け継いだ灰色名詠もやり直せばいい。違うか?」
「......そうだな、俺はずっとそれを夢見てた。だけど」
下唇を嚙み、レフィスは自らの言葉をなかばで潰した。
確かにそれは理想。決して叶わぬ願いだと思っていた。それが〈ただそこに佇立する者〉によって可能かもしれないという可能性に気づいた時は、正直気持ちが揺れた。
だが、唐突に気づいてしまった。
「でもそうしてしまえば、たぶん俺はヘレンと出会っていないだろ?」
ヘレンと出会ったのは、ミシュダルが〈孵石〉を追っていたからだ。ジール名詠学舎に転入したのもそこが狙われると思ったから。
ミシュダルがああも学園を襲撃しなかったらヘレンとは出会えなかった。
「ん? ああ、たしかジールの生徒だったな。なんだ、灰色名詠より女の方が大事か?」
「わからない。だけど、ヘレンは俺やヨシュアになかったものを持ってる気がする。そばにいれば教えてくれる気がする」
孤独だった老人に師事した自分。ジールに転入したはいいものの、雰囲気に乗れないまま戸惑っていた。そんな自分にヘレンは声をかけてくれた。
あの気持ちは忘れたくない。
「それに、クルーエルとも会ったからな。今さら知らないフリはできない」
触媒の披露会で現れた混色の名詠生物。あの襲撃の際、クルーエルに助けられたとヘレンから聞いた。彼女には借りができたままだった。
「いずれにせよ決闘舞台の触媒は叩き壊す。あんな物があるからミシュダルのような奴が現れるんだ」
ミシュダルが犯したことを人の記憶から消せなくたって、それはしょうがない。
だからせめて、あいつが壊したものを俺が埋める。
「好きにするといい。その前に私をどうにかできればの話だがな」
「......そうするつもりだ」
笑みを絶やさないテシエラに向け、レフィスは一歩近づいた。
2
「平行線か。クルーエル・ソフィネットを調律者としてみなすか人とみなすか。争点はそこにあると言いたいの?」
おもむろにシャオが首をかしげてみせる。気を害した風はなく、むしろその状況を楽しんでいるように。
「違う! たとえクルーエルさんがどうだって、クルーエルさんはクルーエルさんだもの。そんなの関係ない!」
「そうだと思った。あなたは人と名詠式の間に境界線を感じない人なんだね。......ネイト、やはりあなたは素敵だ。少し、二人きりで話さない?」
指を打ち鳴らす。
途端、視界の端で白い光が瞬いた。それも二箇所同時に。
「今の......」
慌ててネイトが振り返るも、その瞬きは一呼吸にも満たない刹那。わずかな余韻すら残さず、既に空向こうは昏い天球と極光が広がるだけだ。
「この『セラの庭園』だけど、実はこの場所には自分の仲間二人も来てたんだ。それぞれエイダとレフィスの二人を連れてね。その総勢四人を元の競闘宮に返しただけ。向こうはどうやっても説得が難しいようだから」
エイダとレフィス、あの二人もここに。
では今と同じ話をあの二人も?
「そう、でも今戻っていったから、『セラの庭園』に残っているのは自分たち二人だけ。ごく個人的に、やっぱりあなたに理解してもらいたいんだ。どのみち決闘場のミクヴァ鱗片は、ファウマとネシリスの戦いが終わるまでは回収できないからね」
ミクヴァ鱗片は何度破壊しても再生する。手っ取り早いのはミクヴァ鱗片を渡さないことだ。この黒法師より先に回収してしまえばいい。
「僕は話を聞く気なんかない、だから」
「ここから脱出させろ? それはダメ。そうしたらあなたはミクヴァ鱗片を取りに行く気でしょ?」
シャオが警戒の素振りを見せる。
だがそれは、ミクヴァ鱗片がなければ〈ただそこに佇立する者〉を詠べない、自らそう吐露しているようなもの。
「──出せなんて言わない」
「ではどうする気?」
いまだに何処ともわからない不可思議な空間。『セラの庭園』、名詠式の生まれた場所と言うが、自分たちの世界と名詠門で繫がっていることだけは確かだ。
──ならば脱出する方法はある。
鍵はシャオ自身が既に提示していた。
〝ミクヴェクス真言を、真言でなくセラフェノ音語で詠った時。名詠式の調律は一時的にだが法則を乱し、不可逆な転送を可逆のものとする〟
セラフェノ真言は調律者を詠ぶ〈讃来歌〉のための真なる言語。
一方で通常のセラフェノ音語は、五色の名詠のために与えられた簡易的言語。
だがどちらの言語であろうと、この空間と自分たちの世界をつなぐ扉を開くことには変わりない。つまりセラフェノ音語で名詠門を開けば、『セラの庭園』から帰還することができるはずなのだ。
エイダの祓戈と組み合わせた大規模名詠門、あれと同じ要領でやれば......
ベルトにつけた小さなポーチから、悟られぬよう触媒を取りだす。
──『Ezel』──
「自力で扉をこじ開ける気か、思ったより大胆な発想だね」
黒衣をひるがえし、シャオが一歩足を突きだす。だが遅い、今から何かを名詠するより先に自分の名詠が完成する。
elmai xaln wosteo uc xeoi clar,O soa valenlef karel
手の平大の名詠門がその環を一気に広げ──
唐突に、それが弾けたように消滅した。
「......え?」
どうして?
競闘宮でやった時は上手くいった。時間切れ? いや、そんなはずがない。
考えられるとすれば、この不可思議な世界の影響だ。名詠式が生まれた世界だと言うのなら、何か特殊な環境であってもおかしくない。
「ううん。この世界はむしろ自分たちの世界より安定している。さらに言うなれば、ここは調律者が衝突したEmaの余波──すなわち名詠式を起動させる力が直接流れこむ場所。調律者の存在する空白名詠と夜色名詠にとって、これ以上適した環境はない」
「じゃあどうし──」
硬直した。
シャオの手に、さっきまでの自分とまるで同じ大きさの名詠門が輝いていた。
「一つの対象につき存在する扉は常に一つ。それを利用し、開かれた名詠門に同色の名詠門をもう一つ重ねることで、名詠された対象は名詠式の法則と矛盾を来す。結果としては『セラの庭園』へと還ることになる」
「まさか......」
「これが反唱に隠された本当の理屈。『セラの庭園』が絡むのだから調律者は人に教えられない。調律者が人に授けたのは反唱という存在とその方法だけ。夜色名詠で空白名詠が還せるなら、空白名詠で夜色名詠が還せるのも理解できるはずだよ」
──僕が名詠した名詠門を反唱されたのか。
臍をかみ、ネイトはシャオを睨みつけた。
「......なんで、そんなにまでしてっ!」
「それなりの目的があるからだよ」
手に輝く名詠門が時間と共に消えていく。
粒となった光の跡を、シャオは目を細めて見つめていた。
「あなた以外の人に言えば笑われるか呆れられるかのどちらかだろうけどね......自分は、本当に名詠式が大切なものだと思ってる。たとえばそれが調律者から贈られたものだとか、そういうの抜きで心の底から思ってる。
名詠式をみんながみんなのために使えれば、どれだけたくさんの人を助けられるだろうかって。たとえば競闘宮にいる名詠士が、ミシュダルのような男が、ドレスエンで決闘の講義ばかり習っている生徒たちが、その名詠を人のために使う心の強さを持てる時が来れば────そう願うことは、愚かなことだと思う?」
「......ううん」
あまりに美しく純粋で、けれど壊れやすい夢。
それを願うことは、どれだけ強い意志が必要なことだろう。
「夢見事だと言う人の方が多い。でも自分は、一日たりとも願うことを欠かしたことはない。だってそれが名詠式だから。自分の心をかたちにして実現するための方法だから」
......そうか。
郷愁にも似たどこか懐かしい感覚。それをネイトは胸の奥に押しこんだ。
ようやくわかった。この人は......母さんとすごく近いんだ。
新しい名詠式を願うか、全ての人による全ての人のための名詠式を願うか。その違いはあるけれど、心の強さと純粋さが限りなく近い。
無理と言われようと他人から笑われようと、それに耐える強さを持っている。
「アマデウスは人の成長と可能性を重視し、人自らが自分の道を見出すことを求める。だけど時として、翼の折れた雛にそれを求めるのは残酷なことがある。誰かがその雛をそっと拾い、巣に戻してあげることも必要なんだ」
名詠式に対する歪んだ認識と価値観をぬぐい去り、新しい概念を与える。
それが雛を巣に戻すということ。
「ミクヴェクス真言はその可能性を秘めている。たとえ過去幾度となく失敗していたとしても、その可能性を信じたい。アルヴィル、テシエラ、ファウマ。自分を信じて手を貸してくれたのはたった三人、でも何よりも代え難い仲間だと思っている」
「でも、それなら僕たちだってそうだもの!」
エイダやミオ、学園に残る生徒や教師だってみんな同じ。クルーエルと共にいたいと心の底から願ってる。
「願う方向に正邪はない。だけど想いの強さと弱さは確かにある──名詠式は鏡であり鐘。磨けば磨くほど鮮やかに映し、強く叩けば大きく響く」
シャオが言わんとしていることを察し、ネイトはふるえる拳を堅く握りしめた。
「......僕たちの願いが弱いということ?」
「少なくとも現状のままでは、あなたは自分に及ばない。真言を持っているか持っていないかに関係なく」
「そんなの、やってみなくちゃわからないっ!」
いつだって、今までだってそうだった。求められている名詠と今できる名詠の乖離。その隙間を埋める努力だけは怠らなかった。
──絶対、シャオより先にミクヴァ鱗片を回収するんだ。
「僕の名詠門を妨害したってことは」
「うん、あのまま成功していたらあなたに戻られていただろうね。あと二秒くらい反唱が遅かったら危なかった」
臆面もなくシャオがうなずく。
「つまりこの場は、脱出口となる名詠門をあなたが名詠し、自分がそれを妨害するかたちになる。互いにすべきことがハッキリしていて良いじゃない」
目的の名詠門一つを守りきれば勝ち。ならば話は簡単だ、妨害できるような余裕を与えなければいい。汗ばむ手の平には墨色のガラス玉が二つ。それを手の感触で確認し、ネイトは後方に跳躍した。
シャオが接近する素振りを見せる、と同時。
青白く輝く地表、シャオの足下にネイトはガラス球を投げつけた。
──『Ezel』──
シャオを中心に、地表を漆黒の靄が急速に覆っていく。
上手くいった!
はやる胸の動悸を抑え、残るガラス球を持ち直す。霧が晴れるまで時間は余裕がある。その間向こうは自分がどこにいるのか摑めないはず。
今なら間に合......
綺麗な球だね。エンジュの骨董品店で買ったの?
ぞくっ。
かつて経験したことのない類の戦慄が背筋を伝わり、触媒を持つ手が凍りついた。
霧の中から聞こえてきたシャオの声。
......どうして、僕が手に持っている触媒がガラス球だとわかる? 光を呑みこむ、むせ返るような濃度の黒霧だ。数メートル先にいる自分の姿が見えるはずないのに。
──急がないと何かまずいっ!
途切れかけた集中を繫ぎ、脳裏に光輝く名詠門を描いた。触媒が淡い光を放ち、それが徐々に光の環を形成していく。
早く......早く......
焦る気持ちを堪えて名詠門の完成を待つ。手の平に生まれた小さな名詠門。あとはそれを自分が通れるだけの規模にまで拡張させれば──
にわかに、手に持っていた触媒が宙に浮いた。
「っ......え!?」
触媒が僕の手を離れて浮く? そんな、どうして......!
「ありがとう、良い子だね」
霧が晴れ、そこには平然と佇む黒法師。漆黒の外套から覗く右手へと、黒色の玉がふわりと着地した。
「ふふ、驚いた?」
シャオが自らの背後を視線で示す。その先に、目に見えない何かがいた。
消えつつある黒霧に混じりながらも朧気に輝く何か。まるでシャオを取り囲むか守っているかのように。
周囲に溶けこむ透ける身体。
「......空白者!」
空白名詠の名詠生物。空白の名を体現する半透明な身体を持つ名詠生物だ。その透きとおった身体と稀薄な存在感ゆえ、全神経を集中して注視しない限り気づけない。
シャオを護衛する名詠生物だというのは聞いていたが......
「そう、この世界に招待した時からこっそりあなたの後ろに控えさせていた。名詠を行おうとすればその触媒を奪う命令付きでね。あ、そんな慌てて周りを見回さなくてもいいよ、今ここにいるのはこの子だけだから」
臍をかむ。今のは自分の失態だ。シャオの話に気を取られるがあまり、空白者の存在にまるで注意を払っていなかった。
「言ったよ、〈ただそこに佇立する者〉は自らの眼を用いて残酷な純粋知性を生みだしたと。だからクルーエル・ソフィネットが存在する間、〈ただそこに佇立する者〉は眼に相当する感知に欠け、それを補うための名詠生物を生みだした。それが空白者」
......だから霧の中でも、自分の持っている触媒が手に取るように。
「ごめんね、それと隙を見てポーチにあった触媒も空白者に頼んだんだ」
シャオの外套がわずかに開く。
足下に音を立てて落ちていく黒曜石、黒真珠、黒の塗料。全て見覚えがある。予備としてネイトが持ってきていた触媒だ。
「触媒は空だね、どうする?」
「............」
応えぬまま、ネイトは地に膝をついた。
青白い地表に伸びる自らの影、それをなぞるように指先を重ねる。
まだこれが残ってる。正真正銘、最後の触媒が。
第一音階名詠のための特有触媒はない。ならばそれ以外で、自分のできる最も高位の名詠式を願う。
quo xeoi xaln,glim getie clarlef teo
meh lueiclar fo Loo
yehle io pegmihhya lefsiole xeo pelma elmeigetie doremren
vilis phanisis gfend,villis phanisis haul
O slin fel hypne,da sanclisie-l-xelie haul
「orbie clar【契約讃歌】......Goetia【小さき子供】の名詠?」
黒法師の表情に小さな亀裂が走った。
Isa daboema foton doremren
ife I she cookaLoo zo via
O evo Lears ── Lor bestiqhaon -c- getie = ende coola loar
影に生まれた名詠門を越え、濡れ羽色の翼を持つグリフォンが浮かびあがる。
夜の第二音階名詠に属する小型精命だ。
「なるほど。ケルベルク研究所での第一音階名詠──主たる牙剝く者を名詠した段階で、Goetia【小さき子供】からも認められていたわけだ」
外套をひるがえすと共に後方へ跳躍し、シャオが右手を天へと掲げる。
「なら、試しに一度だけ勝負させてみようか。空白者も第二音階名詠だから」
どのみち触媒はもうない。相手の足下にある触媒を取り返さなければ、帰還する方法がほかにない。
「さあ、お行き」
空間を軋ませ、地を滑るように空白者が迫る。その軌跡を追いかけてグリフォンが羽ばたき......
衝突の刹那、グリフォンの爪が空間の歪みを切り裂いた。
奇怪な悲鳴を上げ、その場に光の煙が立ち上る。この空間からさらに還る場所があるのか定かでないが、この場から消えたのは確実だ。
──勝った?
「ううん、相討ち」
シャオの言葉が告げるその先で。無傷で地表に降り立っていたはずのグリフォンが、光の粒子となって消えていく。
「......どうして」
「空白者は特段の自衛手段を持たないかわり、一つだけ特殊な力がある。それは自分が消える際、通常の消滅より巨大な名詠門を遺すこと。結果、近接していた名詠物を同時に送り還すことができる」
グリフォンはその名詠門に巻きこまれた。いや、相手は最初からそれを狙っていたのだ。自分が自分の影を触媒にすることまでを先読みした上で。
「正真正銘、これで触媒はなくなった。ようやく腰を据えて話ができるね」
一歩近づく黒法師。
それから逃げる方向へ、ネイトは一歩後ずさった。
「......どうしてシャオは」
「あ、初めて名前を呼んでくれた。それじゃあ今から、自分も『あなた』でなく『ネイト』って呼ぶことにしようか」
無邪気な、あまりに毒のない笑顔でシャオがはにかむ。
「なんでシャオはここに残ってるの。ミクヴァ鱗片を取りに行かずに」
「それは仲間に任せてある。自分の仲間二人もそれぞれ、エイダとレフィスを相手取って始めたらしい」
エイダは祓戈の到極者の資格を持つ生粋の祓名民。真精を相手にしてすらまるで引けを取らぬ技量、そして驚異的な胆力に何度助けられたことか。
レフィスも灰色名詠の詠い手だ。学生決闘で見せたあの強さは記憶に新しい。
共に、苦戦はあるかもしれないが負けることなど想像もできない。
......なのに、なぜだろう。
シャオの表情から一抹の揺るぎさえ感じとれないのは。
「あの二人では勝てないよ、アルヴィルとテシエラに。勝てない理由がある」
「勝てない理由?」
「そう。アルヴィルはエイダを理解しているけど、エイダはアルヴィルを理解しきれていない。テシエラはレフィス以上に灰色名詠のことを知っているけど、レフィスはその事実を知らない。だから勝てない、少なくとも初戦では絶対に」
3
競闘宮四階、閲覧室前大通路──
非常灯だけがぼんやりと点る薄闇。
その中を、閃光のごとく光と音を発して煌めく二条の刃が空を舞っていた。
ひゅんという刹那の風鳴り。それから瞬きにも満たない時間を挟み、耳障りな音を立てて鎗の切っ先が重なり合う。
祓戈の先端の宝石が輝き、そのわずかな明かりに照らされる二人の祓名民。
「──っと、アブねえ」
「くっ!」
闇の中、一対の足音が通路を駆けた。
続いて響く剣戟。
常人ならば目を凝らしても朧気な人の輪郭しか映らない。それほどに濃く、また稀薄な夜闇。それをこの祓名民たちは、さも真昼のような正確さで相手の動きを捉えていた。
単なる視力だけの感知ではない。そもそも反応してからでは間に合わぬ超速の劇。相手の足の運び、そしてわずかに響く鎗の風鳴りを頼りに、一瞬先の挙動を予測するのだ。
「夜目の訓練は怠ってないみたいだな」
「おかげさまで、女子学生は友達同士の夜更かしが大好きなんだよ!」
「はっ、そりゃ美容に悪いぜ!」
エイダの切っ先がアルヴィルの衣服の数ミリ先を掠めて過ぎる。
──またか。
詰む、その直前の一撃は難しくない。だが相手に届く一撃が繰り出せない。紙一重で距離を失うのだ。
アルヴィルは服にすら傷がない。
なのに自分はと言えば、小さな裂傷が既に五本の指に余るほど。
「どうした、やけに息が切れてるじゃねえか────よっ!」
通路の影の奥。飄々とした声と対照的、裂帛の勢いで鎗の先端が突きだされた。
「......っく!」
鎗を横に薙いでその先端をずらす。
否。ずらそうとした直後、エイダの鎗は空を切っただけだった。闇夜の先、突きだされていたはずのアルヴィルの鎗が途中で静止する。
──牽制!?
姿勢を崩したにも及ばない、足先に余分な負荷がかかっただけ。そんな一瞬の硬直の間を貫くようにアルヴィルの鎗が伸びる。
ギィッッッッン......
鎗の刃で止めようとすれば間に合わなかった。だからエイダは、鎗の刃でなく柄でそれを受けとめることを選択した。柄を握る指の数センチ横をアルヴィルの鎗が掠めていった。
狙いをわずかにでも違えていれば指はどうなっていただろう。
「お、すげえな。そういう際どいの俺できねえわ、怖くて無理」
「......相変わらず嫌な戦い方するじゃん」
アルヴィル・ヘルヴェルントの鎗は、さながらこの男の性格そのものだ。
名詠生物を相手に牽制は決して上策ではない。だから祓名民が重視するのは何より体捌きと祓戈の支配。なのにこの男と言えば、自らが死地であるほどにこういった牽制を混ぜてくる。祓名民の長老ルーファに言わせれば悪癖、だがそれでもアルヴィルを咎めるのを見たことがない。
認めざるをえないのだ、この男だけは。
「そういやお前、なんで祓戈の到極者になんて挑戦したんだ」
「あたしの方が聞きたいね、なんでお前は祓戈の到極者の名を取ろうとしないっ!」
柄を打ち下ろし、相手の鎗を地に弾く。
「エイダ・ユン=ジルシュヴェッサー、名乗れて満足か? それで何かが変わったか?」
「......だから、何が言いたいっ!」
「続きは俺に勝てたらな」
床すれすれを薙ぐ一撃を後方に跳躍して躱す。
──トン
背に硬い感触があった。壁?
「通路は鎗で戦うには狭いんだ、状況見ておけよ」
アルヴィルの声と同時、いやそれより早く聞こえてきたのは笛のように鋭い風切り音だった。......右か!
目で確認することも間に合わず、直感だけを頼りに鎗を振るう。ギンッッ──横殴りの衝撃に手が痺れ、危うく祓戈を落としかけた。
「なんだおい、防戦気味じゃねえか。前はもっとギラギラしてたぜ?」
「最近、頭を使ってみたくなってさ」
汗がしたたり落ちるのも構わず、エイダは唇の端を笑みのかたちにつり上げた。
──強い。視界が利かないとか場所が悪いとかに関係なく。
まずリーチが圧倒的に違う。長身に加え、あの手足の長さ。中途半端な距離で足を止めれば一方的に向こうの鎗だけが届く。かといって踏みこむには、あの鞭のようにしなる鎗の軌道をかいくぐらなければならない。
特にこの暗い通路ではそれが困難を極めるのだ。
「頭? ばーか、似合わねえよ」
「それじゃ、今から目ぇ見開いておきな」
反射的にアルヴィルが鎗を構える。それに構わず、エイダは自分の鎗で背後の壁を穿った。鎗の先端が狙い違わず、背後の扉の錠を打ち抜いた。
瞬間、アルヴィルの声に怪訝なものが混じった。
「扉っ?」
そう、自分の背にあったものは壁ではなく扉。
「年頃の女の子なら一度はやりたいんだよ、こういう室内での大乱闘!」
扉を背で押し、エイダは資料閲覧室へ突入した。
「大乱闘......ってな、そんな女はお前だけだってんだよ!」
それを追い、アルヴィルが部屋に足を踏み入れる。
その気配を察し────エイダは、室内の照明ボタンを押した。
室内を照らす天井の照明。これで競闘宮の外からも内部に誰かが侵入していることが丸わかりだが、もはや気にしていられない。
「っっ痛ぅ......っ!」
夜目に慣れた目に過度の光量を浴び、アルヴィルが数歩後ずさる。そこへ、畳みかける勢いで資料棚の本を投げつけた。
「なるほど、お前らしい頭の使い方ってわけか」
「友達に見られたら激怒されて説教喰らうだろうけどね!」
アルヴィルの鎗が本をことごとく打ち払う。花瓶が砕け、展示してあった写真が壁から落ちる。そこをさらに鎗で追撃。
一撃、二撃、三撃──軽い、だが相手の反撃を許さない連撃。
「いいじゃねえか、ようやくらしくなってきたんじゃねえの?」
が。男の祓名民の表情は崩れない。
これだけ動いていながら呼吸一つ乱してもいないのだ。
──そろそろ決着つけたいんだけどね。
体力が落ちたのは自分。それはエイダも自覚している。だからこそ、もとよりこの戦いは短期決戦と決めていた。
学園の講義で一日の半分が潰れ、そこに友人との交遊が入ってくる。鍛錬の質で補完して技量は落とさないでいても、鍛錬の絶対量が落ちれば体力が落ちるのは自明。
だからエイダは、追撃の手を止めぬままアルヴィルの右手へ回りこんだ。
資料の陳列された木製棚の陰へ。横幅、高さ共に二メートルほど。隠れる努力をするまでもなく、自分の姿は完全に棚の背後へと消える。
「おいおい、今さら隠れ──」
アルヴィルの言葉がなかばで途切れた。
気づいたのだ、今から自分が何をしようとしているか。
「てめっ......まさかっ!」
先の追撃でアルヴィルは部屋の隅まで移動している。逃げ場はない。それだけ自答し、エイダは陳列棚を猛烈な勢いで蹴りつけた。
............ギ......ィィィィィッッッッ............
ゆっくりと、陳列された資料を撒き散らしながら棚が前のめりに倒れていく。正面にいる祓名民に向けて。
「っち!」
舌打ちと共にアルヴィルが身をひるがえす気配。
逃げ道は一箇所──陳列棚の左へアルヴィルが身を躍らせたのを察知、勘だけを頼りにエイダは祓戈を突きだした。
ひたり。
その切っ先がアルヴィルの胸元の衣服を穿ち、素肌まで髪一本分のところで止まった。
「あたしの勝ちだ」
「............やるじゃねえか、おい」
降参とばかりにアルヴィルが祓戈を無造作に投げ捨てる。
「ちなみに言っておくけどよ、シャオはまだあの退屈な世界に残ってるぜ」
「......名詠門の先にあるとかいう空間か」
「ああ、お前の知り合いのネイトって奴と一緒にな」
ちび君か。
ならばどうにか帰ってくるのを待つしかあるまい。
「なら、かわりに訊きたいことがある。お前がさっき言ってた『あたしが祓戈の到極者になれて良かったか』っての、どういう意味だ」
「あー、あれね」
しばし考えるような仕草の後。
「言っただろ、俺に勝てたら教えてやるってな」
「......祓戈を自分から投げ捨てておいて言える台詞か」
胸元に鎗を突きつけた状況。この状況でなお、顎先を一筋の汗がしたたり落ちていくのをエイダは感じていた。
......なんでこいつ、こんな余裕の面構えなんだ。
「アルヴィル、黙ってないでさっさと答えろ!」
服を射貫く鎗をさらに奥へ、素肌に触れる限界まで突きつける。その時だった。
チャリッ
硬い金属音。
服を貫通した鎗の切っ先が、肌の前で何かに触れた。







競闘宮、地下一階。備蓄倉庫──
──『Isa』──
床に転がる銀貨を中心に灰色の光が環を描く。途切れそうなほどか細い光の筋が収束し、名詠門を形成。
石鎗を持つ二体の有翼石像が浮かびあがる。
「なんだ、さっきの小型精命よりだいぶ可愛いな」
からかい混じりの笑みと共に、テシエラが悠々とした歩調で距離を詰めてくる。
彼女の前を守るように浮遊するのは黄の小型精命。灰色名詠の第二音階たる小型精命、王に傅く子を一撃で破った名詠生物だ。
──いったいどんなカラクリだかな。
灰色名詠の中でも特に強靭な小型精命が一撃で還ってしまう。それは通常では考えにくい。何か秘密があるはずなのだ。
「まさか、この一体に降参とは言うまい?」
黄の小型精命が鈍重な速度で進んでくる。それを、空から有翼石像が迎え撃った。
左右から挟むかたちで石鎗を構え──それに応じるかのように、黄の小型精命の身体から服の繊維のように細い光が伸びた。
高圧電流を帯びた鞭さながらの触手。
──ジッ!
雷の鞭が虫の羽音にも似た音を響かせた。
一体、その雷鞭を受けて有翼石像が動きを止める。
「......やっぱりか」
一瞬触れられただけで消滅する灰色の名詠生物。王に傅く子が敗れたのは偶然ではない。この小型精命の強さが通常のものをはるかに上回っているのだ。視界の右隅で消滅した有翼石像。その左端では残る一体もまた石灰色の煙を上げて消えつつあった。
が、その名詠生物がもっていた石鎗はそこにない。
「威力は恐ろしいが精密な攻撃ができない。黄の小型精命の欠点だな」
レフィスが睨む先、石鎗によって地面に縫われたように張りつく黄の小型精命があった。
高電圧の触手が触れるのと同時、有翼石像の石鎗もまた相手に届いていたのだ。
「そうらしい、どうも名詠者の性格に似て大雑把なようだ」
意志の強さをそのまま現すかのような赤銅色の髪を手で梳き、やれやれといった表情でテシエラが腕を組む。
「ところでお前、アレは使わないのか」
「何のことだ」
「石竜子、灰色名詠の真骨頂のはずだが」
「......っ、なぜそれを!」
灰色名詠の最も凶悪な効果が石化。
その実、石化効果を有する名詠生物は灰色名詠の中でも数えるほどしかない。さらに言えば、扱いやすさと名詠条件を考えるなら代表は石竜子。まさにテシエラが告げたその通りである。
「さっきから何かがひっかかってた......が、そういうことか」
理由はわからない、だがこの相手は灰色名詠を知っているのだ。
通常の名詠士には初見のはずの灰色名詠。それなのに灰色の小型精命たる王に傅く子も有翼石像も、この女はまるで警戒する素振りがなかった。
まるで前から知っていたかのように。
「坊や、訊いているのは私だぞ?」
「......あれは俺の兄弟子にあたる男が作ったオリジナルだ、正規のものじゃない」
ミシュダルが見出し、そして最も得意としていた名詠だ。灰者ならぬ敗者の名詠。師であるヨシュアはそう言っていた。
「ああ、そういえばミシュダルは容赦なく使っていたな。......は、なるほど。灰色名詠の名を地に落とした男の名詠などまっぴらご免ということか」
「......お前、何者だ」
ミシュダルと自分の関係を知っている人間が外部にいる? そんなはずがない。
学生決闘の際にネイトたちに話しはしたが、当然この女はその場にいなかった。音響蝶で傍受していたようなことも考えられない。
「そうだな、返事がわりにいいものを見せてやろう」
含みのある口調で手を叩き、テシエラが懐中から取りだしたのは一枚の銀貨だった。
「お前ならこの〈讃来歌〉、知っているはずだな?」
そして彼女が詠ったものは──
loar dime , Hir qusi flusefeo nen rawa cley
sheza dime ,Hir qusi nazariefeo eza dawavir uc corne
solitie kaon ,writh lef eza ,lastis os fisaendehec mofy
arsei glio ,ovan ezis gliajes reive
「............噓だ」
全身を打ちのめされたような戦慄が走った。
この詞と音色は灰色名詠の第一音階名詠。他人が詠えるわけがない。
なぜならこの〈讃来歌〉はミシュダルの──
omunis via-c-univa ,Yer sis terapeg ezis , eza
zette yupa thesI neckt loerrn
Isa daboema foton doremren Ser lalemenent , clar lefilmei arsa
ミシュダルが有する、灰色名詠最強の一体。
灰者の王の右手たる真精、十二銀盤の王剣者の〈讃来歌〉に他ならない。
jes effectis qusifo Lastihyt , ectapeg sterei orza
miqvy O evoiaarsei tearl diselmei I ──stereiefflectis Ezehyt= ende arsa
完璧だった。
詞も、旋律も。
「まさか、本気で!?」
テシエラが銀貨を掲げ────
............
..................
何も起きなかった。
「......ふっ、ふは............あはははっ、冗談だ冗談! 私にそんなものが名詠できるわけないだろう。何をそんなに怯えているんだか」
あろうことか銀貨を放りだし、身体をくの字に曲げて彼女が笑いだしたのだ。
「っ! お前......っ!」
「いやはやどうして。青の大特異点はファウマに譲ったが、坊やは坊やで楽しいよ。なあレフィス、お前本当にヨシュアの言った通りの男だな」
「! 今......何と言った」
確かにこの女から自分の師の名前が出た。
「さあな、私に勝てればご褒美をくれてやらんでもないさ!」
テシエラの両の指から溢れるように生まれる黄色の花弁。それが宙でほどけるように崩れ、きらきらと輝く細かい粒子へと姿を変えた。
これは......まさかさっきの通路で見た。
──やばい!
背後にあった備蓄用の木箱の陰へ飛びこむ。それと同時、猛烈な勢いの黄砂が砂嵐となって木箱を叩いた。
室内で砂嵐。
常識では考えられない名詠だが、この密閉した空間では逃げる方法がない。動きを封じ視界さえ奪う。考えようによっては名詠生物より数段凶悪な名詠だ。
「だけど、何なんだこの砂は......」
木箱の陰に息をひそめ、レフィスは木箱を叩きつける砂を睨みつけた。
三叉路で襲われた時もそうだ。この尋常でない砂の量、そして勢い。黄色名詠には疎いがそれでも異常だとわかる。本当に単なる技量の問題だけなのか?
......考えてる暇はないか。
砂の勢いが徐々に弱まるのを確かめ、レフィスは懐から銀貨を取りだした。
──『Isa』──
備蓄倉庫を埋めつくす勢いの砂嵐へ、さらに大量の灰燼が正面から衝突した。黄砂と灰燼。互いに風に巻き上げられ、天井を伝って部屋を蹂躙する。
灰燼の流れに乗って木箱から飛びでた瞬間──
「っ!」
目の前に、十体を超える数の名詠生物がいた。
「その策、学生大会で見せたのは失敗だったな」
「......盗み見とは趣味が悪いな」
灰の渦で相手の視界を奪い、その隙をついて名詠する。確かに学生決闘でドレスエンの生徒相手に見せた策だが、まさかこの女がそれを観戦しているとは思わなかった。
「失礼だな、ちゃんと大将に頼んでチケットも手に入れたさ」
ヂヂヂ、と不快な音を発する黄色の発光体が迫る。
召電妖精。
周囲の目標物に手当たりしだい電流を放射する、好戦的な名詠生物だ。
形状は黄の小型精命に酷似。大きさは二回りほど小さいだろうか。羽音のような音が耳障りという理由であまり使われないが、黄の小型精命より動きが俊敏という長所がある。
「......こいつらもただの召電妖精じゃないな」
「お、さすがに警戒を覚えたか。学習能力がある人間は嫌いじゃないぞ」
琥珀の感触を楽しむ手を休め、テシエラが小さく笑む。
──どうする、灰の風が止めば召電妖精の大群に襲われて終わりだ。
灰燼が消えるまであと数十秒。いや十数秒かもしれない。それまでに自分も同数の名詠生物を詠ぶ? 同数ではおそらく勝てない。相手の召電妖精が通常のものでないことは明らか。確実に打ち勝つには、有翼石像ではおそらくその倍が必要になる。
「降参か?」
「............」
自分を守るように吹き上げる灰色の突風。目を閉じ、レフィスはその風の中に自らの手を差し入れた。
肌を擦る突風の中で拳を握る。
「自ら詠んだ灰を自ら摑む? 触媒の連弾消費か?」
今必要なものは、十体の名詠生物へ単体で立ち向かえる名詠生物。
レフィスの名詠においてそれはわずかに一体だけだ。
灰色名詠は最強の防衛色、ヨシュアからそう教わったことを象徴する名詠生物。
──描け、灰者の王の左を守る真精を。
loar twai,Hir qusi shantefeo nen dencalin cley
shaze twai,Hir qusi memorifeo seim corna
meh -l- ralpheideige, writh leforb, U virsefisa valen lef lucs
その詠は、あらゆる詠よりも静かで乾いた詠だった。
乾いた石、乾いた砂、荒れ果てた荒野と焼け跡の灰燼。何も与えることのないかわりに、決して奪われることもない──そんな旋律。
何も奪わず傷つけず、ただそこにいてその地を守るための音色。
arsei glio,ovan giris gliajes orza
omunis via-c- univa, Yersis tis girispeg ars
zette, elmeielis yun plie
Isa daboema foton doremren Ser la lemenentda memoria uc ars
「ミシュダルの十二銀盤の王剣者......?」
灰色の風に乗る灰色の旋律。その詠を耳にし、テシエラの表情が変わった。
「......いや、違う? それはいったい──」
jes efflectqusi fo Lastihyt,sanc pegsterei orza
miqvy O evoiadis U zormelmei I── stereiefflect Ezehyt= ende gil
灰色の風がやんだ。
動きを縛めていた風縛が消滅。前後左右、頭上から足下から。十体の召電妖精が不快な音と共にあらゆる方向から迫り......
その全てが、銀色に輝く盾によって弾かれた。
「......驚いた。それがお前の真精か」
盾によって弾かれた瞬間、光の粒子となって消えていく召電妖精。それに目もくれずテシエラが見つめる先はレフィス、そして主を守る銀色の真精だった。

体長は三メートルに届くだろう。細長い金属針を合わせ人型を成した形の真精だ。
両手に相当する部位は直接巨大な盾の形状になっている。そしてその周囲、真精を護るように宙に浮くのは十二にものぼる大小様々な盾だった。
──十二銀盤の王盾者。
ミシュダルの持つ真精と対となる、『盾』の名詠生物。と同時に、灰色名詠の構築者ヨシュアをして最強の防衛色と言わせた真精でもある。
パチ、パチパチ......
「形勢逆転、まあ及第点と言ったところか」
「......状況を見て物を言え」
気楽な様子で手を打ち鳴らす相手を睨みつけた。
「いやいや、そう言うな。案外、アルヴィルの奴も今頃負けてたら面白いなと考えてるのさ。戻ってきたらファウマと一緒にからかうネタになる」
「この期に及んでまだ強がりか......!」
真精を相手の前に突きつけた状況。ここから形勢をひっくり返す手段はほぼ残されていない。あるとすれば〈讃来歌〉を詠んでの真精名詠だが、そんな真似を見過ごすほど甘い対応で済ませる気はない。それはこの女とてわかっているはず。
なのに、なぜこいつの表情は余裕で満ちている?
「ああそうだ、坊や、良いことを教えてやろう。覚えておいて損はないぞ」
「......お断りだ。俺は」
「そう急くな、これは名詠士でなく人生の先達としてだから聞いておけ。むろん嫌がっても無理やり聞かせるつもりだがな」
床に残ったわずかな砂を手に摑み、その名詠士はまるで無防備な姿で近づいてきた。
間奏第二幕 『友達として』
「クルル......クルル? エイダっ、二人ともいないの? ね、ねえ......二人して脅かすなんてナシだよ? いきなり『わっ!』って出てきたらケイト先生に言いつけちゃうんだからね?」
宿舎の部屋に、自分の声と小さな息づかいだけがこだまする。
......うぅ、どうしちゃったのよ。
暗がりに足がふるえ出すのを懸命に堪え、金髪童顔の少女──ミオはおそるおそる周囲を見渡した。
真夜中にふと目を覚ましてみれば、部屋にいるはずのクラスメイトがいないのだ。
「クルル、エイダ......いなかったらいないって返事してくれると............あ、あはは......いなかったら返事もできないもんね、そうだよね..................え、へへ......」
部屋は静まったまま。
窓を閉めた室内は風の通る音すら聞こえない。
「......ホントにいないの?」
暗闇を手探りで進み、扉前の照明をつけた。
ベッドはおろか、室内をどう見渡しても友人二人の姿がない。
さらに言えばクルーエルとエイダのベッドには、彼女たちが着ていたはずの寝間着が折りたたんでおいてあった。寝間着の代わり、ベッドの脇に畳んでおいてあったはずの制服が消えている。
二人でどこかに出かけた......? ううん、だって二人とも凱旋都市は初めてのはず。見知った学園ならまだしも、こんな夜更けに出かけるような場所なんてないはずだ。
「......ネイト君なら知ってるかな」







誰もが寝静まる時刻、薄暗い通路は宿舎内とはいえ何か不気味なものがある。
視界を照らすのは、通路の壁に灯るこころもとない明かりだけ。足下すらおぼつかない通路を、壁に片手をつきながらミオは進んでいった。
「勢いで来ちゃったはいいけど......どうしよっかなぁ」
眉をしかめ、重苦しい溜息をこぼす。
今の自分の立場を冷静に考えれば考えるほど、これはまずい気がしてきた。
「こんな夜遅く、男の子の部屋に女の子が忍んで行くなんて............本の中の恋話ならドキドキで済むけど、実際あったらまずいよね」
誰かに見つかりでもしてみろ、問答無用で男女の不健全かつ不謹慎なソレ扱いだ。しかもネイトはまだその意味を理解してないに違いない。口裏を合わせてごまかすなんて発想も頭にないに決まってる。
「あー、もう! こういう時のためにクルルがお姉さんらしく前もって、ネイト君に的確な教育というかお勉強という名目で男女の............って、違う違う。今のはナシ! うん、あたし何も言ってないからね!」
ほのかに赤らんだ顔を勢いよく振り、ミオは手を振って歩みを速めた。
彼の部屋はもうすぐ目の前、突き当たりを左に曲がってすぐだ。ここまで来れば誰かに見つかることなんかないに違いない。
木の質感が残る通路の角を曲がる直前。前方の床に、薄暗がりに混じって何か黒いものが動いていた。
人影? うそ、こんな時間なのに誰か起きてたんだ!
顔を見られぬ前に逃げだそうとした矢先。目の前の人物が、見覚えある葡萄酒色の髪だと気づいた。
「............ミオ?」
「あれ、ヘレンちゃん?」
自分同様に制服姿のヘレン。
だがちょっと待て、ここはネイトが泊まっている部屋の前ではないか。こんな夜中、年頃の少女が年頃の男子の部屋の前にいる。それはつまり。
「ミオ、なんでこんな時間に起きてるの?」
「ヘレンちゃんこそ、ここネイト君の部屋だよね?」
まずは部屋の扉をじぃっと見つめ、次に互いに相手の顔をまじまじと見つめ──
「まさかミオ! ネイトとクルーエルの間に横入り!?」
「ヘレンちゃん、レフィス君という人がいながらネイト君を狙って!?」
「............」
「............」
はは、まさか。そんなのないない。ヘレンもどうやら同じことを考えたようで、気の抜けた表情でこちらを見つめ返してくる。
「でも本当にどうしたの、まさかミオと思わなかったからびっくりしたわよ。変な勘違いされたらどうしようって」
「あ、それあたしの台詞だよ! あたしだってびっくりしたんだから!」
どくんどくんと鼓動を続ける胸を押さえてうなずいた。まったく、互いに人騒がせにもほどがある。
「でもヘレンちゃんがいて良かったよ。ちょうど聞きたいことがあったの。えっと......クルルとエイダ知らない? 二人とも制服がなくて、あたしが寝てる間にどっかいっちゃったみたいなの」
と、目の前の彼女はぱちくりと目を瞬かせ。
「......あれ、実はわたしもなの。ミオ、レフィスのこと知らない?」
「レフィス君?」
銀髪の青年の姿を脳裏に描く。彼は確か......ジール名詠学舎の先輩男子二人と一緒の部屋だったはずだ。単に彼の部屋に行けばいいはずでは。
「それがさ、さっきのことなんだけど、こんな時間だってのに部屋の外がうるさかったの。足音が行ったり来たりするし、なんか小さな声で話してる囁き声も響いてるし。それでよく聞いてみれば、それがうちのガッコの先輩の声だったのよ」
通路ということを意識してるのだろう。周囲をしきりに見回しつつ、絞った声量でヘレンが続ける。
「どうしたんだろって思って通路に出たら、先輩がちょうど目の前にいて『レフィスがいないから探してた』って言うんだもん。......最初先輩たちったらさ、あいつがわたしと一緒に外出したんじゃないかって思ったらしいの。もちろんそんなわけないし、どうしたんだろってわたしも探してたわけ」
なるほど、それで彼と面識のあるネイトの部屋周辺も探していたということか。
「あ、それあたしも同じなの。クルルとエイダいないから、ネイト君なら知ってないかなって」
「いや......それがさ、わたしさっき迷惑覚悟でココ叩いてみたんだけど、返事なくて」
すぐ目の前、ネイトの部屋の扉をヘレンが指で指し示す。
「ちょっとあたしもいいかな。......おーい、ネイト君、夜中にごめんね」
コツ、コツ......トンッ......
徐々にノックの音を大きくしていく。確実に室内にも響いているはずなのに、扉の向こうからの返事はない。
......ネイト君もいないのかな。
「いないっぽいでしょ? わたしもそれが気になってさ」
宿に確実にいないのがクルーエルとエイダ、それにレフィス。クルーエルとエイダは制服がなかった、外に出ている可能性が高い。
扉向こうから返事がないことも含め、ネイトも同じく外出している可能性が高い。だとすればレフィスも一緒に同行していると考えるのが妥当だろうか。
「四人でどこかいっちゃったのかな」
「さあ、でも方向音痴のレフィスが一人でどこか行くってのは考えづらいのよ。ただでさえ初めて来た都市でしょ。こんな時間に外ほっつき歩くなら、誰かと一緒じゃないと不安だろうから」
「......うーん、クルルたちどうしたんだろ」
見知らぬ都市、それも真夜中に訳もなく外出する。自分の知るネイトやクルーエルはそんな真似をする性格じゃない。だとすればよほどの......それこそ、この時間でなければだめだという理由でもない限り。
「あー、でも気になる。だってなんか抜け駆けっていうかさ、うちらだけ仲間外れにされちゃった気分じゃん。ねえミオ!」
「う......うん。でもどこ行ったのかヘレンちゃんは予想つく?」
「まさか、それがサッパリだから悩んでるのよ」
頰を膨らませ、ヘレンがその場で腕を組む。
......まあ、わかってたらネイト君の部屋なんか来ないで一直線にそこ行くもんね。
しかしいやはや、まったくの手掛かりなしというのはさすがに厳しい。エンジュにある店や観光地で、真夜中に行くような場所。それも自分とヘレンには秘密にするようなものがあるだろうか。
そもそも今日にいたっては────あれれ?
「ん、ミオどうしたの?」
「いや、たぶんお店も観光場所も全部閉まってるんじゃないかなって思ったの。だって競闘宮であんなことがあったばっかりでしょ」
「......そうだったね。観光用のお土産屋も閉店になるって言われたわ」
宙を見上げるヘレンの表情がわずかに曇る。
そう、競闘宮の上空にできた奇妙な超巨大名詠門。そこから混色の名詠生物が襲いかかってきて、まだ十二時間経ったかどうかだ。
今だってエンジュの見識者が、徹夜で原因を解析しているはず。原因が判明するまで、住民は外出を控えるよう警告が出ている。当然そこらの店や観光場所も例外ではない。
事件の中心地であった競闘宮にいたっては無期封鎖が..................
............あれ。
「そうだ、競闘宮があるよ」
霞がかった思考が晴れ、思いうかんだのはエンジュを代表する闘技場。
「競闘宮? え、でもどうして?」
「ううん、確信なんかないの。でも可能性があるとしたらそこしかないと思う」
そもそも凱旋都市に来た理由を考えろ。
〈孵石〉に使用されていた触媒、それがここで展示されるからという理由だったはずではないか。それをどうするかまでは聞いてないが、だからこそ〈イ短調〉のシャンテやネシリスまでが駆りだされていたはずなんだ。
その競闘宮が封鎖となれば手が出せない。ならば深夜、それも人数を絞って内密に向かったというのは考えられない話じゃない。灰色名詠にかかわりのあるレフィスだって、ネイトやクルーエルに同行したとしてもおかしくないだろう。
「......ううん、きっとそこだよ。競闘宮しか考えられないもん!」
「ちょっ、ちょっとミオ。一人で納得してないでわかるように説明してよ!」
すたすたと歩きだそうとするや、ヘレンに肘を摑まれた。
「説明は後回し、ほらヘレンちゃんも準備しないと」

「へ......準備?」
「競闘宮に行く準備だよ、用意が出来たら宿の一階玄関で待っててね」
四奏 『せめてこの血の燃え尽きたその先に』
1
「あれ、もうテシエラたち帰ってきちゃったんだ。だからわたし言ったのに、説得したって意味ないわって」
決闘舞台の端、包帯ずくめの少女が、被る帽子をわずかに持ちあげた。小さく幼い瞳が見据えるのは決闘舞台でなく、競闘宮の内部。
......それはどういうこと?
わずかな胸の動揺を感じ、シャンテはそれをごまかすように胸元で腕を組んだ。
状況から見ればファウマの突然の独り言。だがしかし、なぜこの場面でそんな悠長なことを言っていられる余裕がある?
「ねえ、あなたは名詠式が生まれた理由ってなんだと思う?」
「さあな」
ファウマの唐突な問いに、吐き捨てるように応えたのはネシリスだ。ファウマの視線の直線上──左右に青の氷狼を従えたまま、こちらも傷らしい傷一つ負っていない。
いつ名詠したかもわからない、ファウマの異様な速度の赤色名詠。それをネシリスが無造作に躱してのける。その応酬は既に十回を数えただろうか。
不気味なのが、観戦者にさえ名詠門を視認させないファウマの名詠。カラクリはいまだ不明。しかし気づいた時には目の前に名詠生物が迫っている。迂闊に〈讃来歌〉など唱えることは愚の骨頂。それを逆手にとって瞬時に反撃を喰らいかねない。
「醒めてるのね、興味がないの?」
「考えたこともない」
応えるネシリスの背後、またも突然に生まれる炎の渦。
それを、両脇にいる氷狼の吐く青い吐息が防いだ。
「知りたいとは思わない?」
「無駄なことを知りたいとは思わないな」
攻めているのは包帯ずくめの少女。一方的とすら言って良い。
であると同時に、そのファウマも攻めあぐねているのが伝わってくる。ネシリスの死角をつくものの、紙一重でネシリスが感知し捌く。その繰り返し。詠びだす対象が全て特異となるネシリスの名詠式は、ファウマの名詠に先を取られてもなお、後手の防御を可能としていた。
不気味なまでの速さのファウマの名詠。それを寄せつけぬネシリスの強大な名詠。両者の天秤はまだ傾かない。いや、傾くことを許されないと喩えるべきか。
「無駄なの?」
「無駄だ」
「......うれしい、同感だわ」
帽子の下、かすかに覗く少女の唇が微笑んだ。
「調律者の争いの話をシャオがしてくれた時に思ったの。わたしはそんな難しい理屈要らないなって。アルヴィルと同じよ、わたしはシャオの手伝いがしたいだけ、それだけでいい。わたしの名詠式の意義はそれだけで十分なの」
だらんと下げていた両手をファウマが持ちあげた。見えぬ指揮棒でも携えるように左を小刻みに、そして右手を大きく振り上げる。
......が、それだけだった。
おかしい。何も変化がない?
炎の波か、あるいは名詠生物か。それとも両方か。それを覚悟してシャンテも身構えたが、どれだけ周囲を見回しても決闘舞台には何もない。不発?
「──盛大な観客、と言ったところか?」
ネシリスの呟きに視線を持ちあげ、そこでシャンテは自分の目を疑った。
............うそ。
炎を点した尾を逆立て、敵意をこめた琥珀色の瞳で見下ろす赤獅子。
燃える翼で宙を羽ばたき、折れ曲がった嘴から炎をこぼす火食い鳥。
強固な鱗、そしてその目に炎を宿した炎鱗の蜥蜴。
ルビーのように輝き、自らの周囲に焼けつく空気の対流を生みだす熱羽蝶。
火口を流れる溶岩を想起させる強い紅、一際巨大な体格を誇る赤岩像。
観客席を埋めるのは人でなく名詠生物。そのどれもが赤色名詠の第二音階、もしくは第三音階に相当する高位名詠生物だ。さらにシャンテが目を疑ったのはその数──一体ではなく、二体、種によっては三体いるものまで。
......ありえない、これほど多種大量の名詠を〈讃来歌〉なしで?
こんなの大特異点にも虹色にもできない芸当だ。なぜこんな少女がそれを?
「なるほど、珍しい名詠だな。今まで見たことがない」
「そんなことない、基本に忠実な名詠式よ。〈讃来歌〉だって詠ってるもの。というより、わたしの名詠は全部〈讃来歌〉を詠ってるわ。......でも」
なお表情を変えぬネシリスを前に、ファウマが小さく首をかしげた。
「困ったな、これだけ用意しても少なかった?」
「どうだろうな」
ネシリスが呟くと同時、観客席から十を超える名詠生物たちが一斉に飛び降りた。
照準は言うまでもない、青のインバネスコートを羽織った名詠士だ。
地に音もなく着地したのは赤獅子。続いて地を揺るがす轟音と共に着地したのは赤岩像、その肩には炎鱗の蜥蜴の姿がある。
頭上には熱羽蝶と火食い鳥が機を窺うように旋回。
「ネシリスっ!」
自分も加勢する?......いや、だめだ。それはしてはいけない。たとえどんな状況であろうとネシリスはそれを望まない。そういう不器用な男なんだ、あいつは。
「走れ」
両脇に控える二体の氷狼が、赤の軍勢へと駆けた。
腕を振り上げる赤岩像を避け、その背中を蹴って宙へ飛ぶ。炎鱗の蜥蜴の炎を浴び、だが氷狼はなお動きをとめない。宙を旋回する熱羽蝶を地に蹴り落とし、地に着地した瞬間には眼前の赤獅子へと飛びかかる。赤獅子、炎鱗の蜥蜴の攻撃を受けながらも両者を撃破、力を使い果たし消える間際、さらに赤岩像をも相討ちに巻きこんだ。
もう一体の氷狼もまた、臆することなく赤の軍勢へと飛びこんでいく。
「......その氷狼、優秀な子なのね」
その光景をじっと眺め、やがてファウマから溜息にも似た吐息がこぼれた。
大特異点が詠びだす名詠生物は全て超常個体。第二音階名詠の名詠生物の氷狼ならば真精に近い力を持つ。
──『Ruguz』──
ぽちゃん、ネシリスが地に撒いた青の溶液が地表に落下。
小粒の水飛沫が小さく跳ね、飛沫の軌跡がそのまま光り輝く環を形成する。深い青によって彩られた光の螺旋が幾重にも円を描き、そこから泉のように水があふれだす。
ブルーサファイアを思わせる半透明な身体を持つ、人型の妖精がそこにいた。
「水妖精? 青の小型精命だったかしら、でも水妖精は好戦的な名詠生物じゃなかったと思うけれど」
「好戦的か、そんな必要があるのか?」
ファウマの名詠生物が密集する箇所、そこへネシリスが指を差し向ける。
と同時、水妖精の足下の水が勢いよく跳ね上がった。
優に人の頭の高さを超えているだろう。噴水程度の水を操る水妖精も、超常個体の水量となればまるで壮大な滝、瀑布そのものだ。
「まさか......」
「流せ」
水妖精の津波が赤の名詠生物たちを薙ぎ払う。水の濁流に絡め取られ、赤岩像と火食い鳥、赤鱗の蜥蜴がまとめて消滅した。
「まいったわ、みんないなくなっちゃった」
再び静まる観客席をくるりと眺め回し、脱力したようにファウマが肩を落とす。
「テシエラと遊びで戦った時にわかったつもりだったけど、大特異点て本当に面倒ね......性能が特別なのって反則。わたしの名詠式なんてこんなに普通なのに」
普通? どういうこと。
そっけない少女の素振り、シャンテにはむしろそれが不気味に映った。
〈讃来歌〉を詠っている素振りなどないのに〈讃来歌〉を詠っているという。触媒を持ってすらいない、名詠門すら見せずにいつの間にか名詠が終わっている。
見てきたままで比べるなら、ファウマの名詠の異様さが際だっているではないか。
「まあ、しょうがないわよね。シャオからもあなたは強いって言われてたし。......疲れるけど、今の二倍くらい名詠すれば──」
「死にたいのか?」
「え?」
青の名詠士の一言で、ファウマの唇が言葉を紡ぐのを止めた。
「そのまま触媒を消費し続けて死にたいのか、と聞いている」
初めてだった。
沈黙を保っていたあの男が、自分からファウマに声をかけたのは。
「......ネシリス?」
「血、それがあの女が名詠に使っている触媒だ」
振り向きもせずネシリスが告げる。
「血だなんて......そんな、噓でしょ」
確かに自らの血は赤色名詠に使うことはできる。けれどあれだけの量の名詠だ、どれだけの血を消費するのか想像も及ばない。そもそも血なんて使わずとも、ルビーなり赤の塗料なり代替のきく触媒はいくらでも......
「......ばれちゃったんだ」
少女からこぼれたのは自嘲の笑みだった。
「なら、もういいかな。ホントは暑くてしょうがなかったの」
目深に被っていた帽子が宙に舞う。
鈍く輝く金髪。そして十二、三歳程度の面立ちをした少女の顔があらわになった。
......こんなに若い子だったの。
それが今まで、競闘宮の覇者と戦っていたのか。
──ぱさっ
上質の絹糸で織り上げられたドレスが、惜しげもなく地に投げ捨てられた。
「気持ちのいい風......最初からこうしてればよかった」
吹き抜けの決闘舞台から覗く夜空。それを、少女が抱き寄せるように仰ぐ。それだけならば絵画のモチーフにもなりそうな光景である。
だが少女の首から下は異様。首から下の身体は幾重にも包帯が巻かれ、両手首、両足にいたるまで素肌は一切覗けない。ここまでくればもはやそれは包帯ではなく、全身の自由を奪う拘束着。皮膚呼吸もままなるまい。
「ねえ、いつ気づいたの」
「自分の左肩を見るんだな」
包帯からわずかに滲む紅。それをきょとんとしたまなざしでファウマが見つめる。
「あれ、もう滲んじゃったんだ。ドレスにもついちゃってたのね」
まあいいか、よくあることだし──あっけらかんとした表情、そして言葉が如実にそう伝えてくる。驚く程のことではないと。
......よくあることですって?
そんな、なぜそうも平然としていられる。あれだけ堅く巻いた布から血が滲むほどの出血。立っていられるだけで奇跡に近いのではないのか?
「さ、再開しましょ」
「俺の質問に答えていないようだが」
少女は目をぱちくりと瞬かせ、そして。
「え......ああ、血を触媒に使ってるから? 普通使うようなものじゃないだろうってこと?......羨ましいな、そう考えられる人たちが」
包帯に覆われた手首をさすり、少女はそっとまぶたを閉じた。
「だって、触媒に血を使うのが危険て思ってる人たちはきっと、普段自分が死ぬことなんか考えてないんでしょ? わたしは......わたしやテシエラは毎日毎日、自分が生きるか死ぬかに怯えているのに」
2
「......お前、それ」
アルヴィルの服の胸元が小さく裂けたその先。
鈍色に輝く銀のネックレスを見つめたまま、エイダは唾を呑みこんだ。
「お前、まだそれ持ってたのか」
「ん? おいおい、まるでお前はなくしちまったって言い方だな」
指先の震えが鎗を伝わっていく。
......見間違えるはずがない。その安物の銀のネックレス。
ずっと昔、父親の旅に同行した際に露店で買ったものだ。一つは自分、そしてもう一つをこの男に渡した。組のアクセサリなど恋人でもない限り渡さない。そんな意味もわからなかった歳の話だ。後でその意味を知って、猛烈に恥ずかしくなった記憶がある。
昨日、エンジュの宿で──
〝ねえクルーエル、あいつ、まだ首にネックレスしてた? 銀色で、いかにも安物って感じのネックレス〟
〝えっと、うろ覚えだから自信ないけど、してたかもしれない〟
クルーエルから聞いてはいたが、まさか本当に......
い、いやだめだ!
今はそんなこと気に掛けてる場合じゃない。クルーエルのことが先なんだ。
「アルヴィル────何を笑ってる」
目を細め、エイダは目の前の祓名民を睨みつけた。
鎗を胸元に突きつけられ、なおこの男の不敵な笑みは消えていない。
「ん? ああ、お前も少しは女っぽくなったかな。いや、まだまだか? クラウスの旦那と一晩議論したいとこだなってな」
「子供扱いするな! そんな口、あたしに勝ってから言えっ!」
「それは............どうかね!」
ギィィンッ──短く、そして強い金属音が鳴り響いた。
「なっ!?」
腕に走る突発的な衝撃。痛みに似た振動が肩へと伝わる刹那、エイダは目を見開いた。
胸元に突きつけていた祓戈の先端が、地面に落ちていたアルヴィルの祓戈によって弾かれたのだ。
アルヴィルの両手は何も握っていないはずだった。なのになぜ祓戈が勝手に動く? それも、この男を守るようにあたしの祓戈を弾くだなんて!
「つま先で柄の先端を弾いて浮かせ、蹴り上げる。隠し芸に使えるぜ?」
「......簡単に言ってくれるな!」
膝から上は固定し、足首のバネだけで。それも自分にすら動きを悟らせぬほど静かに、かつ正確無比に鎗で鎗を弾く──思いついてすぐできる芸当ではないはずだ。
「おいおい、これでも毎日地道に練習してんだぜ?」
「......くっ!」
距離を詰めようとするより先、宙に浮いた祓戈をアルヴィルが摑んだ。
「休憩は終わりだ、再開ってか」







「さぁて、アルヴィルとお嬢さんの方はどうかな」
首に巻く黄砂色のマフラー、その感触を確かめるようにテシエラが首元を撫でる。
無造作に近づいてきて何をするかと思えば、この女がしたことは自分のマフラーを首下に巻き直したことだけだ。
「そのお嬢さんとやらが、決闘舞台に控えているという奴か」
自分の横に真精を配置させ、レフィスは相手の両手を盗み見た。......触媒らしき触媒は手に持っていない。まるで名詠を行う気がないとも思えるが。
「ん、まあそうだな。ちゃんとシャオの言いつけを守っていれば、今頃ネシリスと派手にやってるんじゃないか?」
「......正気か、相手はネシリスだぞ」
昼の競闘宮、共に行動したあの短期間だけで十二分に肌で感じた。
大特異点など二の次。あの男の強さはより頑強な地盤、すなわち名詠式とはまた異なる土壌に根を張ったものだ。
「わからないな、なぜお前がネシリスとやらない」
「わたしがネシリスとか? あの大男にこんなか弱い女をぶつけようなんて、中々いい趣味してるじゃないか。あの男は青の大特異点、仮にも競闘宮の覇者だがな」
おどけた様子で両手を広げ愉快そうに告げるテシエラへ、ただ一言。
「黄の大特異点」
「......ほう」
瞬きにも及ばない一瞬、テシエラの眼差しに鋭利な輝きがにじむ。それを縫い止めるように視線で追い、レフィスは絞った声量で続けた。
「それがお前の秘密だ、違うか?」
異様な攻撃性を持つ黄の小型精命、広大な砂漠のそれを思わせる砂嵐。
ネシリスの氷狼、そして天にも届く氷の塔。
──似ているのだ。ネシリスのそれが青ならば、この女の名詠はすなわち。
「正解、まあそろそろ読まれる頃とは思っていたが」
備蓄庫に二度目の拍手が鳴り響く。
その拍手は、十体の召電妖精を退けた時よりわずかながらも大きかった。
「しかしつまらない、もう少しお前の戸惑い顔も楽しみたかったんだがな」
はぐらかす気もないのか、テシエラがただ悠々と腕を組む。
「......その趣味の悪さも大特異点級というわけか?」
「アルヴィルにも言われたことがある。まったく、私はこんな良い女なのに」
「さあな、それより俺の質問にも答えてもらう」
なぜこの女が青の大特異点と戦わない?
あの男の強さは無類。それこそ黄の大特異点の力でなければ対抗する以前の問題だ。ミクヴァ鱗片を懸けての戦いならば、必勝の陣を敷くのが道理ではないか。
「お嬢さんが私以上の適任者だからな。ま、苦戦こそしても負けることはないだろうさ。シャオの言葉を借りれば必然の采配。ちょうど今の私とお前のようにな」
「......状況を見て物を言え」
「少し昔のことを思いだした。あんまりお嬢さんが暇だと言うんでな、軽い運動代わりにちょっと手合わせしたことがあった。その時の私とお前が、あの時のお嬢さんと私によく似ているよ。盤遊戯で言うところの詰み、あるいは投了直前か?」
自分の脇には真精が控え、いつでも指令に対応できる万全の体勢。一方、向こうに名詠生物はない。
これを詰みと言わずして何を詰みと言うのだ。
「通常の遊戯......そうだな、競闘宮の決闘であれば投了の条件は揃っている。だが良く考えてみろ。坊やは灰色名詠、そして私は黄の大特異点。そんな通常ありえない組み合わせの戦いだ。これは普通の遊戯か?」
「言葉遊びにしか聞こえないな」
間髪入れずに切り捨てる。だがその間、自分の頰を一筋の汗が伝っていくのをレフィスは感じていた。
「......お前のせいで、思いだしたくもないことを思いだした」
ケルベルク研究所支部。かつてあの場所で、ミシュダルと対峙した時もそうだった。
あの男の驕りを突いて一度は追いつめた。なのに......油断してたわけじゃない、にもかかわらず気づいた時には、逆に追いこまれていたのは俺だった。







「わたしの名詠はこれなの、あなたが大特異点であるように。それはきっと取り替えることのできないものでしょ?」
細い肩。風が触れるだけで折れそうな肩を、ファウマが自らの両手で触れる。
「血の触媒には限りがある」
「いいの、どうせいつか死ぬんだし」
少女の返事は言葉でなく微笑。
喜びと諦観、それに狂気が等しく入り混じった輝きが瞳に灯る。
「シャオはわたしに任せてくれた。それが嬉しい......だから負けない」
ぱさ。
先のドレスと同様、地に布が落ちるかすかな音が競闘宮を伝わった。
左手首の包帯がほどけ、左肩までの素肌があらわになる。黒く固まった血痕に、今なお鮮やかな紅の鮮血の痕──黒と赤の奇妙な色の融和が、少女の素肌に描かれていた。
「............っ!」
本能的にシャンテが口を手で覆う。直視し、次の瞬間にこみ上げてきたのは言いようもない嘔吐感。
火傷、裂傷、打撲。否、それらのどんなものともかけ離れた症状。......ありえない、どうすればこんな傷ができるというのよ。
「............」
ぽたっ
まだら模様の血の斑点から、一滴の触媒が伝って地に落ちた。地に付着した赤の飛沫が何本もの光の線を生み、それが絡まりあって真紅の名詠門を形成していく。
「さ、良い子だからおいで」
ファウマが名詠門に右手をかざす。その瞬間、一メートル足らずだった名詠門が一気に十倍近く拡張した。
微弱な揺れが決闘舞台を駆ける。
まるで何か巨大なものが現れる前兆であるかのように。
「真精?」
踊る大地に足の自由を奪われながらも、シャンテはその名詠門を凝視し続けた。
やっぱりだ、この女の名詠にはまだ秘密がある。触媒はわかったが〈讃来歌〉の謎が解けない。いつ詠っているというのだ。
──『Ruguz』──
ネシリスの指令を受けて氷狼が駆ける。真精が生まれる前にファウマを叩けばそれで終わり、相手の名詠が完成するのを待つ義理はない。
......Calra -l-Qhaonis Lecie【カルラ 血沸きたつ者】
ファウマの呟きと同時、氷の体表を持つ狼が突如真上に吹き飛んだ。
決闘舞台にはっきりと映る巨大な影。そして頭上を吹き荒れる突風......これは、翼の羽ばたき?
頭上を見上げたまま、まばたきも忘れシャンテはその場に凍りついた。
人の鮮血を思わせる、あまりに鮮やかな二対の紅翼を持つ竜。
通常、翼を持つ竜は四肢が小さく細く退化する。だがこの竜の四肢はどうだ、まるで獅子のそれのように逞しく、そしてその先は人の指のように物を摑む形状になっているではないか。
「......これは......どう?」
ファウマの声にわずかな疲労があった。唇も血色を失った土気色。自らの血を触媒として流し続けてきた代償だ。
「────」
ネシリスが指を打ち鳴らす。
宙を制圧する竜の真下、水妖精が膨大な量の水を打ち上げた。人であれば為す術なく押し流されるほどの水圧。だが竜の巨体は悠然と空に浮いたまま。
せいぜい人がシャワーを浴びた程度の感覚だろう、効くわけがない。それはほかならぬネシリスも知っているはず。
「何のつもり?」
ファウマの疑問に応えぬまま。
「やれ」
ネシリスの指令を受けて氷狼が動いた。
宙に吹き飛ばされた身を器用にひるがえし着地。水妖精が打ち上げる水飛沫の前で呼吸を蓄える。氷狼の吐いた吐息、そして水妖精の水飛沫が触れたその瞬間。
──氷結塔。
澄みきった音を立て、天に届く勢いで打ち上げられた水飛沫が氷結した。氷は徐々に天へ天へと登り、その先にいる竜の脚へ。
『────ッッッッッッッ!』
人の聴域を超えた咆吼がエンジュに轟いた。氷が竜の脚を、そして胴体に絡みつくように登っていく。
水妖精の水飛沫、そして氷狼の凍てつく吐息の混合技法。
対真精用、特に翼を持つ種に対してネシリスが編み出したものが氷結塔だ。氷が翼までを覆った時点で勝負は決まる。翼を封じてしまうことで、どんな飛行生物であろうと地への落下は免れない。
決まったか?
思わずシャンテが拳を握りしめ、指先に力を入れた刹那。
鮮血色の翼が燃え上がり、氷結塔の侵攻が止まった。
「この子、時間が経つごとにどんどん体温が上がっていくの。もうその氷柱じゃ止められない......惜しかったわね」
竜の尾が氷柱を薙ぎ払う。乾いた音を立て、青く輝く氷片が真冬の空に千々となって消えていった。と同時、水妖精と氷狼が力を使い果たして消えていく。
「わたしの勝ち。さ、ミクヴァ鱗片を渡して」
頭上の竜を見上げるネシリスへ、包帯を巻いた腕をファウマが差し伸べる。
が、彼は依然口を固く結んだままだった。
「────」
「どうしたの?」
「言ったはずだがな。勝った者が手に入れるのでなく、その触媒を手に入れた方が勝者なのだと」
それはもう聞いたわ。
口にそう出さないものの、少女が露骨に顔をしかめる。
「ほら早く。今ならこの子もまだ言うことを聞くわ。これ以上時間が経つと暴れだしちゃうから」
「なら、それをまず沈めるか」
「......え」
意図せぬ相手の言葉に少女が立ちつくす。
「シャンテ」
彼のその一言に、シャンテは慌てて後ずさった。
......アレを呼ぶ気だ。
「何を言っているの」
「二度答える必要があるのか?」
ぴちっ。
ネシリスの足下の水が小さく跳ねた。そう、水妖精によって詠びだされた大量の水の残滓だ。その大部分は水妖精と共に消え去ったが、今なお決闘舞台の床は雨が降ったように水浸しになっている。
コートが濡れるのも構わずネシリスがその場に屈みこむ。
氷片混じりの水に指先で触れ。
──『Ruguz』──
瞬間、決闘舞台が青い輝きに包まれた。
水だったものが氷へ、その氷がみるみるうちに氷柱へと成長していく。高さこそ氷結塔に及ばないが、数にして三十近い氷柱が結界のように決闘舞台を取り囲む。
宝石のように青く輝き、それでいて自らの顔が映るほど澄んだ断面の氷結晶。
「綺麗ね、氷の世界ってこんな感じなのかしら」
自分を取り囲む氷柱を怖れる様子もなくファウマが眺める。
「でもこれがどうしたの? てっきり〈讃来歌〉を詠って真精を名詠してくるかと思ったのに」
「詠う時間をお前が許すとは思えないな」
すぐ頭上に相手の真精が控えている。それを気にも留めず、氷柱に右手を乗せるネシリスの表情は平静そのもの。それに気づいたファウマの表情がわずかに歪む。
「......だから?」
「だから、気づかれないように詠うことにした。聞こえないか?」
「────」
ファウマの目が見開いた。
気づいたのだ、ネシリスがこれだけの数の氷柱を名詠した理由、そしてこの決闘舞台を流れる〈讃来歌〉に。
氷の世界に流れる旋律、それは。

......シッ............ピシッッ......リィィィィン......
それは、氷柱が罅入る小さな音色だった。
数十という氷の鐘が鳴り響き、さらに、互いに向き合った氷柱が音叉の役割を果たして共鳴。その音色が徐々に増幅され、そして澄んでいく。
真精を名詠する三重連縛──特定の触媒を用いて特有の〈讃来歌〉を詠い、その真名を授かることでしか真精は名詠できない。だが真精の中には、人の声帯による詠を嫌う種が存在する。その場合に用いられるのが無韻式と呼ばれる〈讃来歌〉だ。
炎が爆ぜる音、木の葉が舞うかすかな音、大海の潮騒。それら全てが、自然に満ちた音色が奏でる〈讃来歌〉となる。
自然環境に絡む音色がゆえに、決闘ではまず聞く機会のない旋律でもある。だがネシリスは、水妖精を出した時点で既にその布石を打っていた。
「氷柱を壊しなさい、今すぐ!」
我に返ったファウマの命を受けて竜が動きだす。だがその指令よりなお早く、深海を想起させる深い群青色の輝きが氷柱を照らした。
名詠門の輝きを氷柱がさらに増幅し反射。見る者全ての目を灼く輝きに、滑空する竜の動きが一瞬止まる。
その一瞬で、視界が白一色に染まった。
轟と唸る雪交じりの暴風が、観客席までも白く染めあげる。
「っ......暴風雪!?」
突風に煽られ、包帯ずくめの少女が決闘舞台の端──石の壁に背を密着させる。そうでなければ為す術なく宙に吹き上げられる。それほど凶悪な暴風だ。
全てを白に染めあげる暴風雪の中、決闘舞台の中央に何かがいた。
視界の奥、青錆色にぬめりと光る鱗がまず見えた。鱗に覆われた長い尾、否、その身体は全てが尾と言っても過言でなかった。胴の直径だけでシャンテの体長ほどあるだろう、全長はどれほどになるのか目測も及ばない。
「......やっぱり、アレなのね」
顔にふりかかる雪を手で庇い、シャンテは目を見開いた。
退化し、薄い皮膜に覆われた両眼。翼のかわりであるかのように、背中には魚類のそれに似た背びれ。全身真っ青な鱗の中で、大きく開かれた上顎と下顎から覗く巨大な牙は薄汚れた黄土色、口腔は深海さながらの深い青。
「大海蛇......さっき水と氷を詠んだのはそういうことだったのね」
暴風雪を避けるためファウマが地にしゃがみこむ。その視線が見つめる先に、踊り狂うように身を捩らせる真精がいた。
氷海の淀み、はるか海底に棲まう大海蛇。
暴風雪と共に地上に現れ、暴風雪と共に海へと帰る真精である。一定以下の気温でなければ名詠できず、かつ一定量の水がなければ生存もできない名詠生物。だが名詠条件を達成しさえすれば、暴君にも等しい力を行使できる。
「──あれを討って」
徐々に濃く、そして強さを増す氷混じりの嵐。その中心を指で指すファウマに、真紅の竜が燃えさかる翼を一際強く羽ばたかせた。
凍てつく寒風を意にも介さず、竜が雪の嵐へと身を躍らせる。少女の名詠した生物は徐々に体内の熱を上げていく真精だ。氷結塔を破った時よりもさらなる高温を宿した状態であるならば、いかなる暴風雪でもそう簡単に止まらない。
その直後。
「忘れたか?」
雪交じりの突風が奇声じみた咆吼を上げる中、ネシリスの声は聞こえてきた。
「この真精もまた特異個体だ」
白化。
吹き荒れる突風がより強く、氷の飛礫がさらに一回り大きさを増した。氷が吹きつけられる、そんな表現を超え──氷が津波となって決闘舞台を押し流す。
「緑風妖精!」
氷柱の陰に身を潜め、シャンテは自分の名詠生物を詠びだした。大気と同化するこの名詠生物ならば暴風雪を和らげられる。そうでなければ、いつこの氷柱ごと風で飛ばされてしまうかもわからない。
......なんて無茶苦茶な名詠なのよ。
ネシリスが真精を名詠することは滅多にない。だがなるほど、ネシリスが使わないわけだ。ただでさえ強力な真精、その超常個体となれば強大過ぎて扱いに困るのが道理。
──ピシリッ──
何かが凍てついた鈍い音。
その直後、競闘宮そのものを揺るがす轟音が鼓膜をつんざいた。
「痛っ!」
思わず耳元を抑えて屈みこむ。
地響き? いや、今のは何か超重量の物体が落下した感じだった。と同時、呼応するように暴風雪が弱まっていく。風が弱まり、視界を埋めつくす氷も次第に消えていく。
視界が晴れたその先で──
「............」
翼を氷に覆われ、観客席に落下した竜。
そしてそれを空虚な瞳で見つめる少女の姿があった。
「......終わったのね」
己の胸元に手を添え、シャンテは大きく息を吐きだした。冷たい氷混じりの空気が肺に染みわたる。二転三転した戦いだが結果としては当然。そもそも特異個体の真精に単体で勝てる真精などいるわけもない。
ただ一つだけ、あの包帯ずくめの少女の〈讃来歌〉の謎だけが最後まで解けなかったが、今こうして気にかけることでもないだろう。
「ファウマ、その触媒渡してもらうわよ」
膝をつきじっと地面を見つめる少女に声をかける。
「............」
返事は、沈黙。だがそれも当然だ。肩で息をしているのがここからでも見てとれる。もはや言葉を返す気力も残っているまい。
「確かにあなたは強いわ、それは本当。でももうお終い。それだけ血を触媒に消費して、さらに真精まで詠びだしたんだもん。これ以上は────」
「......赤詠............血っ......奏............」
「え?」
決闘会場に。
否、競闘宮に。
否、凱旋都市全域に。
── mis solitie Ymyfert xeleya quomuzel Lom , fisa ──
── O sia sophia , ovan muzel wincle ──
天上の響き。
小鳥のさえずりが、名工の手がける至高の楽器が、あらゆる自然の音色が。
全ての音色がひざまずく、王女ファウマ・フェリ・フォシルベルの奏でる奇跡の音色が響き渡った。







「地震?」
アルヴィルの鎗先を注視しながらも、エイダは足先で感じる震動に眉をひそめた。
競闘宮を揺るがす巨大な崩壊音が轟いたのがわずか数分前のこと。あれはまるで何かが落下したようだった。
だが今度はそれと違う。微弱な震動が継続し、そして徐々に大きくなっている。継続しながらもその震動の強さは不定。地震とも何かが違う。そもそもこの都市の地盤は安定していたはずだ。
......嫌な感じだ。
夏の競演会を思いだす。あの時〈孵石〉から生まれた五色のヒドラ、あれが生まれる直前もまた、今の地震のような揺れがあった。
何か、今まで見たこともない規格外の怪物が現れる。そんな悪寒。
「アルヴィル、お前──」
「......折れねえんだよ、あの負けず嫌いの姫さんは」
アルヴィルの口から洩れたのは、低く押し殺した擦れ声。そして同時に、その響きは今までにない棘を含んでいた。
「姫さん、姐さん、俺。シャオと知り合った順番だ。そっくりそのままシャオとかかわりが深い順番にもなる。シャオが頼まなくても自分から進みでて、血へど吐いて倒れるまで絶対折れない......そういう奴なのさ」
「この揺れ、お前の仲間の仕業ってことか?」
「十中八九そうじゃねえの? ただ、あんまりそうであってほしくはねえな。俺も姐さんも、本当はシャオもそう願ってる。姫さんは、本当はこんな場所で戦える身じゃねえ。黙ってたっていつ死ぬかもわからねえ重病の身だ」
錆びつき、折れ曲がった針金。
喩えるならばアルヴィルの声音はそれだった。
「重病人? お前、そんな奴をネシリスと!」
「言っただろ。そういう奴なんだよ、自分の命なんか二の次どころか三の次、自分の命を削る名詠式が自分の全て。自分の身を誰より知ってるあいつが選んだ道だ......この世の誰にもな............それを咎める権利なんてありはしねぇんだよっ!」
「アルヴィル?」
言いかけた言葉の続きをエイダは呑みこんだ。わからない......なんでアルヴィルは怒ってるんだ。その激情は誰に向けて、誰のためにあるのかわからない。
......あたしはまだ、アルヴィルの気持ちを理解してやれていないのか?
こんな場面だというのに、虚しさにも似た感情で呼吸が苦しい。
「アルヴィル、あたしは──」
「だからこそな、俺はあの姫さんは強いと思ってる。俺やお前みたいに風邪一つひいたことのない人間じゃ勝てねえよ。ただ生きる、そんな単純なことがどれだけ大変なことか、あの姫さんは知ってるからな」







「坊や、一つだけ覚えておくといい。これはこの先、お前が名詠士として生きていくだけでは何年経とうと学べぬことだ。そしてまた、お前の師ヨシュアとも関わりがある」
「............」
この期に及んで戯れ言を──言いかけたレフィスの言葉は無言の内に霧散した。それはもしかしたら、対峙する女の表情を見てしまったからかもしれない。
先までの、どこか相手を小馬鹿にするような笑みではない。深い知性と慈愛。敬虔とも言うべき粛とした趣を感じさせる静かな表情。
「この世で最も苦しく、その一方で人に最も認知されにくい努力は生きようとする努力だ。たとえば名詠士になるための弛まぬ修行、血の滲むような思いの苦学──これらはそれでも一定の成果として目に見える。結果がどうであれな」
「生きる努力なんて、人間なら全員がそうだ」
「そう、それが我々がしてしまいがちな驕りさ。そう言った抽象的な話をしているんではないんだよ坊や」
子を諭す母親の、おそらくは男性が決して到達できない領域。その強さ。
対峙する名詠士の瞳にはそれがあった。
「私が言っているのはな、生まれた時から重い病を患っている人間のことだ。半時間と服用時間をずらしてはならぬ内服薬、徹底された食事制限、自分の意志で起き上がることもままならない子供たち。私は......そういう子供たちを何人も見てきた」
天井だけを眺め、ただただ自分の言葉にのみ集中。そんな無防備とも言える恰好でその身を晒し、テシエラが続ける。
「そういった子供たちは常に死と戦っている。努力を怠れば死ぬ、そうならないための、命を繫ぎとめる努力──最も苦しく終わりのない、もはや努力という言葉では括れない何か。健康な身体に生まれてきた人間がつい忘れてしまうものだ。覚えておけ」
「......その話が、今ここで何の意味がある」
「私たちの仲間に、寂しがり屋で面倒くさがりで世間知らずのお嬢さんがいる。物心ついた時から不治の病に冒されたお嬢さんだ。出血性の皮膚病ゆえ、本来なら絶対安静を医者に言付けられている身のな」
天井を見つめていた彼女がゆっくりとレフィスに振り返る。そこには先までの、人を食ったような表情が戻っていた。
「そんな身体の、生きるだけで精一杯のお嬢さんが初めて自分で願ったのさ。自らの血濡れた名詠式で他人のために尽くしたいと」
「それが、ネシリスと戦うことだと言いたいのか?」
「名詠式は鏡であり鐘だ。磨けば磨くほど鮮やかに映し、強い想いで叩けば大きく響く。だからお嬢さんは強いのさ、この世の名詠士の誰よりな──それがファウマ・フェリ・フォシルベルの赤詠血奏。最も醜く、最も強い真精を宿した旋律だ」
3
しゅるり......
赤くまだら模様になった布がほどけ、肌をかすめて地に落ちていく。
首を覆っていた包帯がほどけ、両腕、胸元、腹部、両足。全身を覆うものが全て地に積もったその後に。
癖のある金髪の、一糸まとわぬ少女がそこにいた。
風が吹くだけで倒れるのではないかというか細い肢体。日光とは無縁の白い素肌は、その一枚下に血管が透けて見えるほど。
さぞや病的なまでに白い素肌。シャンテはそう思っていた。ネシリスもそれに近い予想はしていただろう。
だが──
「ファウマ............あなた、......それ......」
あらわになった少女の全身を目にし、シャンテは喉の奥が凍りついた。
血濡れた裸身。
全身いたる箇所に黒く固まった血糊がこびりつき、その上をいまだ乾ききらぬ緋色の鮮血が流れていく。血が凝固しないのではなく、あまりに傷が広く深いための出血。
首下から足先までの傷。裂傷より広く、抉るより醜い傷......どう猛な獣に襲われたとしてもああはなるまい。いったいどうすればあんな傷を負う?
「ん? うん、これは全部わたしが自分でつけた傷」
「......自分で?」
「痒くて搔きむしったの。一晩中痒くて搔きむしって......それを二十年くらい続けてればできあがり」
ぞくり、寒気とは違う何かがシャンテの背筋を撫でていった。
「ねえ、わたし何歳に見える?」
少女が見つめる先に、大海蛇を従える名詠士。
見た目通りならば十一、あるいは十二だ。まだ伸びきらぬ背丈。幼い顔だち。枯れ枝のように瘦せこけた肢体はいまだ女性らしさを感じさせない。
おそらくエンジュの人間が百人いれば九十人はそう答えるに違いない。残りの十人はそれより下の年齢を挙げるだろう。
だが、その前にファウマは何と言った? 二十年続けてきた?
「わたし今年二十一。もうとっくに成人の年齢も過ぎてるわ」
......二十一?
「そうは見えないな」
「正直なのね」
感情を映さぬ瞳でファウマがネシリスを見つめる。
「でも確かにその通りよ、わたしはまだ子を授かる身体にもなっていない。身体の成長は十歳そこそこで止まってる。この病に冒された身ではそれが限界だった」
つっ、と自らの胸元をファウマが撫でる。
「生まれた時から、わたしは不治の皮膚病に冒されていた。夜にすごく......どうしようもないくらい痒くなるの。でも痒いのは皮膚の下じゃなくて、もっと下の骨に近い部分。だからどんなに搔いても治まらない。血管も筋肉も抉って骨が見えたこともあったけど、そこまで抉っても治まらなかった」
撫でたそばから、ぽろぽろと何かが剝がれ落ちる。
凝固した血液の塊だった。
「朝が来れば痒みは消えて、かわりにその傷が痛みを持つの。夜は搔きむしって眠れなくて、昼間は痛みで意識が飛びそうになる............髪が背中につくとそれだけで痒いから、髪だって背中まで伸ばしたこともない。それが二十年。この身体だって、その睡眠不足とストレスが原因だって医者から言われたかしら」
全身を覆う包帯。それは出血を止めるためではない。おそらくは少女が身体を搔きむしった時、爪が皮膚を直接抉らないための苦肉の策。
「かつての王家という身分に生まれ、こんな声をもったせいで謁見者は後を絶たないわ。......わたしは今日を生きるだけで精一杯。放っておいてほしいのに。そう思ってた。でもね、そんなわたしにもシャオは声をかけてくれた。自分からわたしの包帯を替えてくれるなんて言ってくれたのはシャオが最初。だからわたしも手伝いたいの、シャオの描く理想の名詠式。それが〈全ての約束された子供たち〉で、ミクヴァ鱗片がその触媒であるならば、わたしの命を燃やしても守り通す。だから............」
少女が自らの身体を抱き締める。
肩に爪が食いこむほど強く堅く抱きしめ、そして。
「ごめんなさい。この名詠は、ただの火傷じゃ済まないわ」
......何を言っているんだ。
もう決着はついている。だってファウマの真精は既に観客席に落下して──
「......なっ......!」
竜の姿が消えていた。
いや、それだけならば還ったものと理解できる。シャンテが息を呑んだのは、竜が落下したと思しき場所──観客席の椅子十数席にわたり、真っ赤に溶けた溶岩のような液体が広がっていたからだ。
まるで、あの竜が自らの高熱で溶けて液状化したように。
ネシリスもまたそれを見つめたまま動かない。
「............」
ふらりとよろめくファウマを支えたのは一羽の火食い鳥だった。その翼に少女を背負い、火食い鳥が観客席へと少女を運ぶ。そう、液状化した真精の下へ。
「わたしの真精は、わたしの身体の悲鳴を好む。全身の骨の軋み、筋肉の収縮、血の流れ、皮膚を搔きむしる音。わたしの病にかかわる全ての苦痛の悲鳴がわたしの〈讃来歌〉。これがわたしの名詠式の秘密」
......ばかな、そんな無韻式の詠なんて聞いたことがない。
けれどもしそれが正しいならば、今までの圧倒的な速さの名詠も確かに説明がつく。
〝わたしの名詠はあなたより二段階早い〟
噴きだす血液を利用することで、触媒を切り替える必要がない。これで一段階。
そしてもう一段階。彼女の詠は自らの肉体の悲鳴。いわば、常に〈讃来歌〉を詠っているようなもの。それゆえあらためて〈讃来歌〉を詠う必要がない。
「先の真精が包帯ずくめのわたしの具現、でもこっちがわたしの......ありのままの姿の象徴。わたしそのもの」
血のように赤い溶岩に生まれた小さな気泡。一つ、二つ......気泡は徐々に数を増し、そして大きくなっていく。
こぽっ。
観客席に流れる溶岩、その中央部が盛り上がるように膨張した。
四枚の翼、巨大な四肢。現れた竜のシルエットの特徴は先の真精と酷似。だが、変化は次の瞬間に起きた。
四枚の翼の、うち一枚が音を立てて落下したのだ。
「......っ!」
シャンテが見ている前で変異は起きつつあった。
竜を覆っていたぶ厚い皮膚は爛れたように溶けだし、三枚となった翼もみるみるうちに陥没したような穴が開いていく。下顎も外れたように下がったまま戻らず、大きく開いた口からは血か溶岩かもわからない粘液があふれだす。
「......腐ってる?」
この竜、生きながらにして朽ち始めているんだ。
爛れた皮膚の一片が次々と落下していく。身体から剝がれた皮膚が観客席に触れた途端、その周囲数メートルに及ぶ観客席がじゅっという音を立てて溶けだした。白い煙が観客席に立ちこめる。
超高熱、それも凶悪なまでの酸性を帯びた体液。
......Calra -l- BediwsLeo Lecie【カルラ 悲しき赤病の冬姫】
竜が動いた。今にも崩れそうな身体でありながら、三枚の翼を打ち下ろして宙に浮かびあがる。そのままそれは大海蛇の遥か頭上へ。
触れた物全てを溶かす超高熱の腕を振り上げ、真紅の竜が大海蛇の頭上へと襲いかかる。
「迎え撃て」
ネシリスの声に動揺はない。......赤の他人であったならそう判断しただろう。だがシャンテには、それがかつてない緊張を孕んでいるものにしか聞こえなかった。
初めてだった、ネシリスのそんな声を聞いたのは。
「ネシリスッッ!」
彼の下に駆け寄ろうとするのを遮ったのは大海蛇の暴風雪。
極寒の風が超高熱の竜を迎え撃った。
氷の刃さながらの氷塊を受け、竜の翼がさらに一枚地に落ちる。それでもなお、氷雪に身を拘束されながらも竜の動きは止まらない。
動きを制限する風に合わせて身体の体勢を修正。粘性の体液を帯びた腕を振り上げる。
大海蛇の頭めがけ振り下ろした腕、それを大海蛇の尾が絡め取る。鱗を灼く高熱に、大蛇の声なき悲鳴が大気をふるわせた。
が──
「竜の......動きが止まった......?」
暴風雪が急速に竜の熱を奪っているのがシャンテからも見てとれた。竜がそれを拒もうと暴れようと、腕を絡め取られているため容易には動けない。
つまり、このまま長期戦に持ちこめば。
「両の腕を蝕む二体、両足を蝕むもう二体」
唸るような轟音と共に積もる雪の中。
届いたのは、氷雪よりも遥かに冷たいファウマの声。
「そして声帯に一体。カルラは五匹で一体を構成する真精。わたしの身体、五体の真精に呪われ続けている」
......うそ。
擦れて声が出なかった。
暴風雪によって千切れた竜の翼が、さっきと同じように自らの高熱で液状化していたのだ。見ている前でその液体が膨れあがり、そこから何かが生まれていく。
......同じだ、あの腐った真精が生まれた時と。
「まさかっ、噓でしょ!」
大海蛇、そしてネシリスの眼前で二匹目の竜が咆吼を上げた。
さらにその大海蛇のすぐ背後、二体目とも違う新たな竜の影が暴風雪に映る。脳裏をかすめる、観客席に落ちた最初の翼の光景。
「......あれからも一体増殖したっていうの」
暴風雪が徐々に勢いを失っていく。それはすなわち、三体の紅竜の熱量を浴びて大海蛇が限界に達しているということ。
それを悟った瞬間。
「──緑風妖精、わたしを守って!」
斜めに吹き荒れる暴風雪へシャンテは身を投げだしていた。
ネシリスが悪いんじゃない、弱いんじゃない。
あんな化け物相手にする方が無茶なんだ。これ以上は無理だ、大海蛇はもちろんのこと、竜の熱波にあれだけ近い場所にいて無事で済むわけがない。
「お願い、もうやめてっ!」
ミクヴァ鱗片はもういい。あの女やその仲間が何を企んでいようと知ったことか。
......わたしは、あんたがいなくちゃ嫌なんだ。
「だからお願い、ネシリスもう──」
その途端、視界が晴れた。
暴風雪の中心──大海蛇と、それを取り囲む三体の真紅の竜。
そしてその足下に、青のインバネスコートを羽織る名詠士が立っていた。
『────ッッッッッッッ!』
大海蛇が絶叫する中、竜の巨体が突如膨らんだ。
体内に熱を溜めこむ、その限界がきた。ほんの一瞬頭をかすめた悪寒。シャンテは、自らの直感が正しいことを本能的に理解した。
そしてその直後に何が起きうるかも明白だった。
熱膨張──その果てに竜そのものが一つの火薬庫と化し、そして。
「ネシッ......リッ──」
声が出なかった。
擦れ声? いいえ、きっと心の叫びにしかならなかったと思う。
竜の姿が真っ赤に輝き、そして──
三体の竜が、紅の閃光と共に破裂した。
全てが、暴風雪が、大海蛇が消し飛ぶのが見えた。
音と衝撃で意識が消える、その最中。
わたしはそれでも彼の名を呼んで、彼に向かって手を伸ばし............
〝あんたよ、そこのあんた!......話聞いてるの!?〟
聞こえたのは、過去の自分の声だった。
〝このわたしが、歌姫のシャンテが歌ってやってるのよ! それを、まるっきり無視して......わたしなんかいないみたいに酒ばっかりあおって、挙げ句の果てには歌の最中に店を出ようと席を立つ?............ふざけるんじゃないわよっ!〟
あの時、ネシリスと初めて出会った時のこと。
......そういえば、なぜ今わたしはこんなに、あいつのことが心配で堪らないんだろう。
あんな最低の出会い方をして、あんなに憎んでいたはずなのに。
それがファウマと出会って自分の愚かさを知って。打ち拉がれて、そんな時にまたあいつはやってきた。
あいつは......なんて言ったんだっけ?
〝なら最後に一曲歌ってみろ、今この場で〟
〝────は?〟
〝歌ってみろ、どんな歌でもいい〟
〝あなた正真正銘の馬鹿? なんであなたの為に歌わなくちゃいけないのよ。わたしの歌を一人で貸しきりで聴くなんてね、あなたにはもったいなすぎるの!〟
〝プロとしての歌手は廃業と言ったはずだ〟
〝......っ!〟
〝放浪の詩人ユミエルの詩集『礼地祝誕』より、最終章第七節『哀乙女』〟
〝......変わった趣味ね〟
そうだ、歌の趣味だけはなぜか一緒で、それがふしぎと可笑しかったんだっけ。
〝俺なんかのリクエストは断じてご免か?〟
............
「......おばかさん」
真っ白な視界の中で、シャンテはくすりと微笑んだ。
「わたし、あなたに歌を聴いてほしくて名詠士やってるのよ?」
消える意識、その遠い遠い先で。
青のインバネスコートを羽織った男が、自分へと振り返るのが確かに見えた。
緋奏第二幕 『最も永く、深く、冷たい夜の中で』
クルーエルが見上げた先にあるものは、夜空だった。
消え入りそうなほど小さく輝く星。トレミアより遠く小さく感じる──間違いない、凱旋都市エンジュの空だ。
「......戻ってきたんだよね」
『戻ってきたという結果は正しい。実際はアマリリス独界の空間が齟齬を来し、独界の自己修復過程で、我と小娘が弾きだされたという背景があるだろうがな』
目の前のベンチに座り翼を広げるアーマ。目を合わせるまでもなく、その夜色名詠生物の視線を肌に感じる。
「齟齬?」
『アマリリス独界を支えるアマリリスの力がそれだけ低下しているということだ。対極の〈ただそこに佇立する者〉が浮上しつつある』
「そう......そうだったよね」
あの寂しげな世界で聞かされた。
六年前、始まりの島で母体〈ただそこに佇立する者〉の名詠を妨害することの代償に、アマリリスは既にその力のほとんどを失ってしまったと。
「......でも、それは全てわたしのためだったんだよね」
さっきまで立て続けに難解な、それでいてあまりに唐突な話を聞かされてしまったせいで、感情のどこかが麻痺していたかもしれない。
それがこうして戻ってきて、頭の中で少しずつ整理ができてきて、ようやくその恐ろしさがわかってきた。
──わかってきた途端、どうしようもない寒気に身体がふるえだした。
「ねえ、あなたは全部知ってたの」
足がふるえて、なのに身体は硬直して動かない。目の前のベンチに座ることもできず、クルーエルは正面の名詠生物を見つめただけだった。
『いや......我が知ったのは競演会の後、この世界から一度還った後になる。むろんアマリリスと残酷な最終知性の存在そのものは知っていたが、それが誰とまでは感知していない。調律者であるアマデウスと我はあくまで別物だからな』
「ネイトに......話しちゃった?」
肩にかかる髪を一房手に取り、クルーエルはそれを見つめた。
緋色の髪。アマリリスと同じ色。じぶんの顔かたち、体つきだってそうだ。アマリリスと生き写し。鏡で映しだしたかのように酷似している。
アマリリスと何から何まで同じ──存在まで。
「わたしが......」
クルーエル・ソフィネットは人ではなく、人と調律者の中間。境界線上の存在。
それを彼が知ったら。
『我からは話していない。だがシャオという名詠士から聞かされているだろうな』
「......ネイトからどう思われちゃったのかな」
『小娘らしいな。自分のことをネイトがどう感じているか気にするのは何度目だ?』
「だって、だって仕方ないじゃない!」
嗚咽が洩れそうになる口元を押さえ、クルーエルはベンチの背に手をついた。もしここにベンチがなかったら、たぶん自分は地面に倒れただろう。
「だって......ネイトは名詠士だよ? わたしは............その逆なんでしょ?」
人と、そうでなき者。
ネイトは名詠する側で、むしろわたしは名詠される側。
こんなに遠い関係ってないよ。......きっとネイトだって、わたしなんかよりもっと普通の女の子を相手にしていた方が──
『ネイトがではなく、小娘自身はどうなんだ』
「............」
口元に手をあてたまま、クルーエルは下唇を嚙みしめた。
嗚咽にも似た衝動。
我慢して、我慢して、我慢して、我慢して我慢して我慢して。
「............いやだよ」
張りつめていたものが、その一瞬で一気に噴きだした。
心の底から、今まで望んだ何よりも純粋で、素直で、ごまかせない本音が。
「いや、そんなの絶対いやっ! ネイトのこともみんなのことも......忘れたくない」
〈ただそこに佇立する者〉が名詠された時、わたしはわたしでなくなってしまう。
あのアマリリス独界で見たように、記憶も意識も何もかもが空っぽになってこの世界から消滅する。ネイトだってわたしのことを忘れてしまうし、わたしもネイトのことを忘れてしまう。
そんなの耐えられない。
「......ずっと怖かったの。わたしの気持ちがなんなのかなって」
ううん、本当はわかっていたのかもしれない。知っていて、でもそれがネイトに知られるのが怖くて、自分の心も一緒にごまかし続けてきた。
でもそれも限界だ。
ネイトがわたしをどう思ってるかじゃなく、わたしはネイトのことが────
『いい加減、自分でもわかっているのだろう?』
「......うん」
わたし、ネイトのことがどうしようもなく好きなんだ。
最初は風変わりな転入生だなと思って、そこからちょっとした応援心が芽生えて......そこから先はわからない。いつがきっかけだったとか、たぶんそういうのはないと思う。
でも気づいた時には彼が──
転入生でなく、クラスメイトでなく、仲の良い男子生徒でもなく。どうしようもないくらい、一緒にいるだけで息が苦しくなるくらい大好きな人になってしまってた。
「わたしは......わたしでいられることって許されないの」
クルーエル・ソフィネットとして。
名詠学校に通う一生徒として、普通の女の子として、幸せになりたいって夢見ることはできないの?
『言ったはずだ。それはお前と、そしてネイト次第だと』
その一言に何か決定的な希望が含まれていたわけではない。
けれど、その一筋の光に誘われるようにクルーエルは頭を上げた。
「......方法があるの?」
『我がネイトに伝えたことは一つだけ。ネイトの選択で小娘が、小娘の選択でネイトの道行きが決まる。ただそれだ──』
突然、ベンチに座るアーマの姿が一瞬ぶれた。
続いて感じたのは足先のふるえ。微弱な、だけど背筋をざわつかせる奇妙なリズムを伴った鳴動だ。
地震じゃない。だけどこれは何?
『おおかた、ミクヴァ鱗片の奪い合いが激化してきたのだろうな』
ミクヴァ鱗片、つまり震源地は競闘宮の決闘舞台。
奪い合い......だとして争っているのはまさか。
『ネイト、エイダという祓名民の娘、それにレフィスという灰色名詠の詠い手。誰に強制されたわけでもないが、誰かさんを守るためという意志だけは共有しているらしい』
わたしのためにみんなが......。
『自分の出生の秘密を聞かされたネイトに自分がどう映ったか気になっていたようだが、わかったか? ネイトは母親似の頑固頭で不器用極まりない引っこみ思案だが、見初めた相手のことをそう簡単に見限る性格ではないということだ』
「......」
『だから、あとは小娘次第だ』
............この、ばかトカゲ。
「そんなの知ってるもん」
地面に貼りつくように重い足を持ちあげる。凍りついたように固く強ばった膝を曲げ、クルーエルは自分の見つめる方向へとつま先を向けた。
『どこへ行くと言いたいところだが、聞くまでもないか』
「みんなのところ」
競闘宮。
ここにいるより、せめて近くで。
『小娘、あの場にお前が行ったところで最早──』
「アーマ」
背後にいる名詠生物へ振り返る。
そういえば初めてだ。この名詠生物をちゃんと名前で呼んだのは。
「ありがとう、あなたなりにわたしのこと心配して言ってくれてるんだよね?」
『............』
常夜灯に照らされ、ゆらゆらと透けるようにゆらぐ自分の身体。
存在そのものが稀薄になっている。
〝クルーエルさん、どうしたんですか。身体......〟
〝え、もしかしてまだ埃ついちゃってる? どこどこ?〟
〝ご、ごめんなさい。僕の見間違いかも......〟
夕食前、ネイトが言いたかったのはきっとこのことだったのだろう。......そっか。ネイトは気づいてて、当のわたしだけが気づかなかったんだ。
時間がない。だから──
「だいじょうぶ、ネイトのことを見ていたいだけなの。......もしわたしがこの世界からいなくなっちゃうとしても、その時こんな遠い場所にいるなんて嫌でしょ?」
たとえわたしにできることがなかったとしても。
わたしは、彼のいる場所に行きたい。
『小娘、お前』
「ううん、わたしネイト信じてるよ。でもそれとは別に伝えたいことがあるの。信じているからこそ伝えたいことって、きっとあると思うから」
踵を返す。大きく息を吸うと、冷たい夜の空気が肺にしみこむのを感じる。
──うん、行こう。
沈黙する名詠生物を背に、クルーエルは夜のエンジュを歩きだした。







『仮にも夜の真精ともあろうものが、らしくないわね』
ベンチに残る名詠生物のその隣、真横に腰を下ろすかたちで少女が座る。
『言えなかったの、それとも言わなかったの? あなたが託された役割』
目にかかる緋色の前髪をそっと振り払う少女。その身体にまとう衣服はなく、足先まで伸びた緋色の髪が、さながら天衣のように少女の肢体を包んでいた。
『小娘にああ言われて、お前なら何か返せるか?』
『いいえ』
口元に寂しげな微笑をたたえ、アマリリスが首を横に振る。
『お前こそ小娘についていかないのか』
『あの場所にわたしが近づけば、それこそミクヴァ鱗片の孵化を早めてしまうもの。......もっともそれは、クルーエルが近づいても同じことだけど』
はずみをつけて少女がベンチから立ちあがる。
『アマデウスとミクヴェクスの永劫抗争を終わらせる、たぶん最初で最後の機会。クルーエルが選んだ人間が最善かどうかは今もわからない。だけどあの子が自ら望んで歩きだしたことだもの。選んだ結末がどうであれ、わたしはそれを祝福して受け入れる』
『強がりだな』
『あら、悪い?』
試すような視線で見下ろすアマリリスに、夜色の名詠生物はそっぽを向いたまま。
『弱音を吐く吐かないは別にして、弱音を吐ける相手というのは必要だ』
『......そうね、でも』
かすれた呼吸、アマリリスの唇を伝って洩れる。
『わたしは独りぼっちでいいの。姉さんが幸せになってくれるなら』
クルーエル・ソフィネットという名の少女。
それが残酷な純粋知性のまま終わるのか、
あるいは、願わくば、
Co Lue -l- Sophie Nett──旋律を息吹く少女として............
終奏 『交わり、そして更なる時の中心へ』
1
──『セラの庭園』。
青く輝く地表の砂が、世界を巡る不可思議な気流に煽られ飛んでいく。
「向こうは決着がついたようだね」
目の前に浮かぶ浮遊結晶へとシャオが手を伸ばす。
浮遊結晶に映るのは決闘舞台。三体の竜が中央の大海蛇を巻きこんで大爆発を起こし......浮遊結晶の映像は、今もまだその閃光を映しだすだけだ。
「エイダ・ユンはアルヴィルに勝てない、レフィスもまたテシエラには届かない。頼みの綱のネシリスは敗れた」
シャオが触れるやいなや、浮遊結晶は映像を失い、通常の輝きを取り戻す。
「......そんなことない」
ネイトが見つめる先は浮遊結晶ではなく、あくまで眼前の黒法師。
「エイダさんもレフィスさんもまだ戦ってる。──何より、僕は絶対諦めない」
「触媒がないのに?」
触媒は空白者に奪われ、今はシャオの足下に転がっている。力ずくで取り返そうとしたところで徒労。新しい空白者を名詠されて妨害されるだけだろう。
「それでも諦めない」
──脱出する方法はある。
触媒は奪われ、自分の影も既に触媒として使用してしまった状況で。
あと一回に限り、名詠する方法がある。
2
決闘舞台を観客席まで覆うのは血のように紅い煙。
強い酸性を帯び、付着するだけで皮膚を焦がす超高熱。三体の腐竜が自らの熱に耐えきれず膨張、破裂した後に残った煙だ。
「......お終いね」
疲労からくる目眩に歯を食いしばり、ファウマはふらりと立ちあがった。
霞む視界の中、紅い煙が晴れていく。
数十メートル離れた先に、青く輝く体表を持つ氷狼が二体佇んでいた。
一体の背に、つい数分前までその場に立っていたネシリス、そしてその背に付きそっていた女性の姿。うつぶせに倒れ、起き上がる気配はない。
「最後に避難するための名詠、まあ妥当かしら」
対面側の出口から駆けていく狼。それを追うことなくファウマはその場に膝をついた。「............最悪の気分」
疲労もあるが、それ以上に血を失ったことによる目眩がひどい。もとより覚悟していたことだが、その覚悟で症状が和らぐわけでもない。
「でも、いっか。シャオとの約束は果たしたし」
床に両手両膝をつき、四つん這いの恰好でファウマは面を上げた。
ミクヴァ鱗片は手に入れた。あとはシャオ、アルヴィル、テシエラがやってくるまでこれを守り通せば────......
「え......」
観客席の手すりに摑まり、ファウマは重いまぶたを懸命に見開いた。
触媒がない?
「そんな、すぐ下にあったはずなのに......!」
自分の真精を詠びだすために観客席へと移動したが、触媒はすぐ真下の地面に転がっていたはず。第三者の介入を警戒し、決闘中だって常に注意を払っていた。
つまりカルラを名詠するまではミクヴァ鱗片は存在し、カルラの破裂後に触媒が消えたことになる。あの破裂が巻きこんだ可能性もあるが、ミクヴァ鱗片は再生する機能を持っているとシャオは言っていた。つまり単なる破損等ではない。
「まさかっ────」
手すりから身を乗りだした。
見つめる先は、つい数十秒前に氷狼が消えた出口。そうだ、氷狼は二体いた。一体の背にネシリスと付きそいの女が乗っているのは確認した。
では、もう一体の背には何が乗っていた?
〝幼稚だな〟
〝幼稚?〟
〝発想が幼稚だ。勝負に勝った方が手に入れるのではなく、必要なものを手に入れた方が勝者だ。そうだろう〟
〝......ごめんなさい、わたし違いがわからない。でも一番手っ取り早いのは、わたしに勝って触媒を手に入れること。そうでしょ〟
あの時のネシリスの言葉。
「......そう、そういうことだったのね」
決闘で勝った方が手に入れる、競闘宮の覇者ならばそれが最も乗りやすい条件だと踏んだ上で、自分はそう提示したつもりだった。
だが実際はどうだ、あの男はそもそも勝負の土俵にすら入っていなかった。
結果として決闘には敗北したものの、あの男は付きそいの女と共に氷狼の背で逃走。さらにミクヴァ鱗片も奪っていった。
競闘宮の覇者らしく潔く敗北を認めるどころか、まるで真逆。
「あは......ははっ............あははははは」
笑いが止まらない。
あのシャオですら、競闘宮の覇者の本質を見誤っていたのだから。
なんて、なんて負けず嫌いな男だ!
シャオとは違う意味で、今まで出会ったどんな人間より強い。
自分との決闘に負け、人生初の敗北を喫しようとしていながら、それでもあの男はまるで動揺していなかった。竜の破裂に巻きこまれる寸前まで、あの男は保身でなく敵を出し抜く手段を計算していたのだ。
「悔しいな、決闘に勝って勝負に負けた気分」
ぎゅっと手すりを握りしめる。
「でも、負けず嫌いなのはわたしも一緒。......このまま勝ち逃げは許さない」
少女が唇を引きしめる。
音もなく、その両脇には二体の赤獅子が控えていた。
「追いなさい」
獅子が吠え、観客席から決闘舞台へと飛び降りる。
──これでいい。
当初の予定とは多少ずれはしたが、結果は変わらない。
ミクヴァ鱗片は取り戻す。







......あれ、わたしどうしたんだっけ。
身体全体をゆさぶる振動に、シャンテはぼんやりと片目を開けた。
暗い通路、足下に点るのは非常灯。そして見覚えのあるカーブ、壁。自分が毎日見ている光景がある。
競闘宮の外環層。場所からして決闘舞台を抜けてすぐ辺りか。
「あなたたち?」
手に触れるのは冷たい毛皮の感触。
無言で通路を駆ける氷狼、自分はその背中に乗っていた。
「そうだ、わたしどうしてこんな──」
よどんでいた意識が覚醒。上半身を持ちあげようとして、背中にかかる温かな重みにシャンテは振り返った。まず目に映ったのは青のコート。
「......ネシリス?」
自分にのしかかるように、自分を覆うように寄りかかる名詠士。
「っ! ちょ、ちょっと!」
氷狼の背から転落しそうになる彼を大慌てで支える。
右手をネシリスの肩、左手を背中に回して彼の姿勢を保とうとした瞬間、その左手の感触に違和感があった。衣服の感覚ではなく、それは──
「......な、なによこれ」
衣服の背中の部分がインバネスコートごと燃え落ち、露出した背中が真っ赤に腫れて爛れていた。......なんてひどい傷。傷がふさがるまで数週間、いや一ヶ月以上。治ったとしても痕が残ることは確実だろう。
そして、わたしを覆うように寄りかかっていたのは。
「まさか、あの爆発からわたしを庇って」
うそ......冗談でしょ。
あんな爆発の中で、自分のこと犠牲にしてわたしを庇ったっていうの?
「ネシリス......ねえ、返事しなさいよ、お願いだから返事しなさいってば!」
どうしてわたしなんかを!
わたしはただの......仕事上のパートナーなんじゃなかったの?
あなたいつも言ってるじゃない、わたしはあなたの邪魔ばっかりする女だって。
それがどうして、なぜこんな時に──
......る............必要が......ある、のか
前半分は聞こえなかった。
目をつむったままのネシリスからこぼれた言葉、それは自分の幻聴だろうか。
「............ばか、あなたやっぱりばかよ」
わたしを庇って傷ついて。脱出用に氷狼まで用意して。
そんな余裕があるなら、あの場面だってもしかしたら──
「最低......ほんとっ......に最低よ」
コートごとその身体を力いっぱい抱き寄せる。
彼の身体が落ちないように。彼の体温を感じられるように。
「女をっ、ね......泣かせる男なんて......サイテーよ。......みなさいよ、......わたしの、......わたしの声......自慢だったのに......ぐちゃぐちゃになっちゃったじゃない」
息を呑み、懸命に嗚咽を堪えた。
「ネシリス──」
伝えかけた気持ちの残りは、背後から迫る咆吼に搔き消された。
「な、なにっ!?」
後方、暗闇に覆われた通路の先で、ほのかに点る小さな炎がゆれた。
赤獅子の尾に点る炎、それも二つ。
「なっ......ど、どうして今さら二体も」
自分たちの真横にもう一体、氷狼が併走しているのにようやく気づいた。
その背には大人でも一抱えはあるだろう白い発光石。ミクヴァ鱗片......あいつら、これを取り返そうとしてるんだ。
自分たちを背負う氷狼と、全力で疾走する赤獅子。その距離が秒刻みで縮んでいく。
「──させないんだからっ!」
目元を拭いシャンテは唇を嚙みしめた。
ネシリスがこんな傷を負ってまで託した触媒だ、わたしが守りきらないでどうする。
競闘宮の披露会で現れた混色の名詠生物たち。あんなのを見れば誰だってわかる。この触媒はきっと、人間が扱うには大きすぎる存在なんだ。
ネシリスの代わりにわたしが棄てる。誰の目にも止まらぬ場所へ。
「お願い、わたしたちを下ろして!」
自分たちを運ぶ氷狼の耳元で力いっぱい叫んだ。
「......ネシリスはわたしが背負うわ。あなたは後ろのあいつらを食い止めて」
速度を落とした氷狼の背からネシリスを抱えて着地。シャンテがうなずくのを確認し、氷狼が後方の二体に向かって飛びかかる。
そしてもう一体、ミクヴァ鱗片を背に負う狼へ。
「あなたはわたしについてきて。いい、絶対それを落としちゃだめよ!」
背中を強ばらせ、太ももに力をこめる。自分より二回り大きい男の体重が背にのしかかり、肩と膝が悲鳴を上げた。
そこまでして背に負ってなお、ネシリスの足は地面についたまま。
「......っ............ぁ......」
嚙み締めた奥歯から声が洩れる。
「......これじゃ歩けるわけないか」
その場で履いていたヒール靴を脱ぎ捨てた。
これでいい。今必要なのは彼を運ぶ自分の身一つ。それ以外は必要ないんだ。邪魔なら服だって脱いでも構うもんか。
「ネシリスあんたね、わたしにここまでさせたんだから......責任取りなさいよ」
競闘宮の玄関をくぐる。
素足のまま、シャンテは夜の凱旋都市を歩きだした。
3
もう、どれだけ歩いただろう。
「......っ......ぁ、ぐ............」
吐息が苦悶の声になって喉の奥から洩れていく。
毛皮のコートはさっき脱ぎ捨て、今は肌が露出する薄着一枚。裸足で歩いたせいで足の裏はとうに傷だらけになっている。
──わたし、ばかよね。
どうしようもない自嘲の感情のまま、自然と唇が苦笑を描く。
ネシリスを背負うのは何も自分じゃなくてよかった。彼を運ぶ名詠生物だってある。そうすれば、ここまで無様な姿で夜の都市をぶらつかなくて済んだだろう。
触媒を持ち去るという意味でもそうだ。今は自分の足取りに狼が合わせるかたちになってしまっている。
だがそれでもなお、理詰めの計算を、単なる一時の感情が上回ってしまった。
「わたし......いつからこんな熱っぽい女になっちゃったんだろ」
自分が運びたかった。
彼を背負うのはわたしの役目。その肌に触れ、体温を感じていいのもわたしだけ。
「『シャンテ、歩くのに邪魔だ』、腕を絡めただけでいつもあなたはそう言うのよね。でも今だけは......許してくれるでしょ? そうよね?」
背中の男からの返事はない。
「あなたはいつもそうよ、無口で淡泊で。言葉でないと伝わらないっていつも言ってるでしょ。それが何よ......こんな時だけ恰好つけちゃって」
出会ったときからそうだった。
こいつは肝心なことに限っていつも黙ってるんだ。だから一緒に行動してても、物事の交渉役は全部わたし。取りまとめも打ち合わせも全部わたしがやっていた。
「わたしがいないとだめなんじゃない。あなた一人じゃろくに〈イ短調〉の仕事もできないってわかってるから......仕方なくついていってるんだからね」
そう、それが自分とこの男の暗黙の了解なのだ。
互いの仕事には口を出さない。互いに絶対の信頼を置いているから。
「でもね......わたし、今の関係嫌いじゃないの」
それはこれからも続くだろう。かたや歌姫、かたや競闘宮の覇者。傍目には変な取り合わせだと思われるけれど、自分たちはこれでいい。これがわたしたちの生き方なんだ。
と。
すぐ横で、氷狼が小さく唸った。
「え?」
何かを警戒するように背を縮め、いつでも動けるような体勢を取っている。
緊急医院までもうすぐだ。なぜこんな場所で立ち止まる?
ばさっ
真上から聞こえてきたのは鳥の羽ばたき。それも異様に大きい。鳩や鴉? 否、まるで鷲や鷹のように力強い風圧。
だが粉雪のように空から降ってきたのは、小さな紅い──
「火の粉......? これ......」
ネシリスを背負ったまま懸命に空を見上げる。
炎をまとう翼に、折れ曲がった醜い嘴。......見間違うはずがない。赤の小型精命を代表する名詠生物の一体だ。
火食い鳥......ファウマ、こいつまで追っ手に出したのか!
氷狼はミクヴァ鱗片、自分はネシリスを背負ってる。どちらかがこいつと戦う必要があるのは明白。だがどちらが戦う?
逡巡に費やした一瞬が罠だった。
脳裏で複雑に絡んだ糸をほどくより早く、火食い鳥の嘴から紅い炎が舌を出す。
狙いは氷狼ではなく自分。
......だめだ。ネシリスを背負ったままでは触媒も取りだせない。
「やめてっ! ネシリスには手を出さないで!」
言葉が、それも敵の言葉が通じるはずもない。それも承知でシャンテは叫んだ。
炎が嘴から溢れ、そして一気に解きはなたれた。
「っ!」
迫る炎からネシリスを地に逃がし、シャンテはその背でネシリスを庇う体勢を──
じゅっ......
炎がシャンテの背を炙る音──ではなく、それは炎が水の飛沫によって搔き消えた音だった。
......水?
状況の摑めぬシャンテに火食い鳥が追撃の体勢を取る。直後、その名詠生物は虚空から放たれた銀閃に翼を射貫かれた。
「あれは......」
常夜灯に煌めく銀色の鎗──祓戈。
反唱を専門に扱う祓名民の宝にして唯一の武器だ。だがシャンテが目を瞠ったのは別の理由がある。数多ある祓戈の中でも他より一回り以上長く、そして太い。あれだけ巨大な祓戈を操る祓名民、自分は一人しか思いあたらない。
「間一髪だったな。まったく、お前はもっと足を鍛えるべきだ」
一人は筋骨逞しい偉丈夫だった。真冬にもかかわらず亜麻色の薄着一枚という軽装。服を内側から押し上げる筋肉が夜目でもはっきりとわかる。
そしてもう一人。
「ボクに言わないでください、先輩が走るのが早すぎるんです」
枯れ草色のコートを羽織る、金とも茶とも区別のつかない髪をした若い名詠士。飄々とした表情ながら、その手には青色の宝石が握られていた。
〈イ短調〉の筆頭、祓名民の長たるクラウス・ユン・ジルシュヴェッサー。
そして第十一番、虹色の異名を持つ名詠士がそこにいた。
「クラウス、それにカインツ?」
「サリナルヴァを経由して連絡は受けた。......だが、これはどういうことだ」
クラウスの視線は自分の背中、背に大火傷を負ったネシリスへ。祓名民の長をして、その表情には隠しきれない動揺。それも当然だろう、この男がこんな傷を負った姿など過去に一度としてなかったのだから。
「ネシリスは......わたしを庇ったの。あれを守るために」
祓名民の長、そして虹色名詠士の視線が氷狼の背へ。
胎動するように発光を続ける巨大な白石。
「あれが披露会に展示されてた触媒、あれを渡しちゃいけないの......だからカインツ」
鉛のように重い身体に鞭を打ち、コートを羽織る名詠士へ。
「お願い、ファウマを!」
「......ファウマ?」
彼の眼差しに何かが宿る。
「そう、あのフェルンの城の王女。あの女が決闘舞台にいるの。ミクヴァ鱗片を狙ってる。......お願い............この触媒を守って!」
枯れ草色のコートの端を必死で摑む。
あの女の名詠は、自らの命の消費そのもの。だからこそ、祓名民じゃだめなんだ。同じ土俵、同じ条件。名詠士でなければあの女の意志と真精は砕けない。
「......その姿、シャンテさんも戦ったんですか」
無惨な自分の姿を目の当たりにしたせいだろう、カインツの表情が歪む。
靴は脱げ、素足は小さい傷だらけ。自慢のコートも脱ぎ捨て、服装は薄着一枚。それもあちこちが破け、上半身はほとんど下着だけに近い有り様だった。
「ううん、わたしはこいつを背負ってきただけ」
「彼を競闘宮からここまで運んだのはあなただったんですか。......素足になってまで」
小さく、本当に小さくうなずくのが精一杯だった。
だってわたしには、その程度しかできなかったから。
「ネシリスがわたしを庇ったの......だからわたしだってこれくらい。だって──だって......わたしと............こい......つは......」
仕事のパートナー?
そうだけど、だけどわたしにとってこいつは特別な──
「ネ......シリ、スは......」
胸の奥で何かが音を立てて途切れた。張りつめた緊張の糸が切れた音だと気づいた時には既に、頰から隠せない勢いの雫が伝っていた後だった。
「......カインツッッッッ!」
涙を拭うことも忘れてカインツの胸ぐらを摑みあげる。まるで力の入らない手で、それでもシャンテは死に物狂いでコートを握りしめた。
「あいつが......ネシリスが、こんな大けがを負ってまで守ったミクヴァ鱗片を守ってほしいの!」
......ネシリス、あなたは負けてない。自分のすべきことを果たしたんだもの。
あなたが一番なの、あなたがわたしの......一番。
だから今は、安心してお休みなさい。
あなたが守ったものはここにある。わたしの心の中に────
「あいつは......あいつは自分のすべきことをしたわ......だからお願い......次は、あなたがこれを継いで!」
4
〝ここは嫌いか?〟
〝嫌いって?......僕が、ですか?〟
〝競闘宮で名詠士が腕を競いあうのは、名詠士としての本分を外れていると思うか?〟
僕は今でも競闘宮は苦手だ。けれど──
「僕は、ネシリスさんはすごい人だと思う」
シャオのすぐ真横、決闘舞台を映していた浮遊結晶をネイトは見据えた。
あの映像が消える直前、本当に一瞬だがネシリスとシャンテの二人が見えた。竜の破裂に巻きこまれたシャンテをネシリスが押し倒し、その炎を背で受けた光景が。
〝世の中には、自分でもどうすることもできないまま、それでもその道を選ぶしかない人間がいる。俺のように不器用で惨めな人間がな〟
初めて会った時、彼はそう言っていた。
彼が固執しているのは競闘宮の覇者。そう思っていたけれど、それは違った。
あの人は最初から、競闘宮の覇者なんかに拘ってはいなかった。あんなに無口で何事にも興味なさそうな素振りをしていて──不器用なあの人が拘っていたのは、たぶんもっと大事な何か。
だからこそ彼は、自分より彼女を庇うことに一瞬の躊躇もなかった。
「そうだね。ファウマと彼は似ているかと思ったけれど、どうやら決定的な部分で異なるらしい。それが人の多様性なのかもしれないね」
浮遊結晶を愛でるように撫でながら、シャオ。
「でもどうしたのネイト? 随分いきなりだね」
「......うん、やっぱり今のままでいいと思う。名詠式の使い方だって、何もかも」
〈ただそこに佇立する者〉が介入しなくたっていい。
少なくとも今は、必要ない。
「今の場面を見たから? それは一時の感情、少し落ちついて考えてごらん」
「ううん、今の気持ちが静まるのを待つんじゃなくて、今の気持ちを忘れないために頑張らなくちゃいけないんだと思う」
深く、深く息を吸う。
僕の名詠式、もう一度だけ力を貸して。
quo xeoi xaln,glim getie clarlef teo
meh lueiclar fo Loo
yehle io pegmihhya lefsiole xeo pelma elmeigetie doremren
vilis phanisis gfend,villis phanisis haul
O slin fel hypne,da sanclisie-l-xelie haul
「Goetia【小さき子供】か、〈讃来歌〉だけ詠ったところで何の意味が......」
シャオの笑みが凍りつく。
ネイトの手元で輝きを放つ光の環。その名詠門は、ネイトが握るたった一枚の羽を中心に形成されていた。
「漆黒の羽......まさか、さっきのグリフォンの翼!?」
空白者と共に還った夜の小型精命。
それが消える直前、自分の足下に残していってくれた触媒だ。
Isa daboema foton doremren
ife I she cookaLoo zo via
O evo Lears── Lor besti bran-c- getie =ende ele effectis
漆黒の馬の嘶きと共に、馬を駆る漆黒の騎士が現れる。
「あいつの動きを止めて!」
指さす先に佇むシャオがコートをひるがえす。
「なるほど、やっぱり君の行動は読みきれないな......でもさっきと同じこと」
その左手に生まれる渦のごとき閃光。
そこから無形にして不定の何かが名詠される。
「おゆき」
鎗を持つ騎士目がけ空白者が一直線に向かっていく。シャオを妨害しようとする騎士をさらに妨害──狙うは先と同じ対消滅か。
と同時、ネイトは騎士とまるで逆の方向へ駆けた。シャオから離れる方向へ。
「ネイト、何を?」
シャオの声にも構わず──
「こっちへ!」
全力で駆ける足を止めず、ネイトは後方の騎士へと叫んだ。
空白者と騎士が衝突する。その刹那、騎士が鎗を向けた先は空白者でなくネイト。
「まさか......」
シャオの見ているその前で。
『小さき主に捧げよう』
騎士は、ネイトの走る方向へと自分の黒鎗を放った。
『セラの楽園』に風切り音が鳴り響く。投げ放たれた鎗は狙い違わず、ネイトの走る方角、およそ十メートル先の地表に突き刺さる。
黒鎗。
グリフォンの羽と同様、夜色名詠の触媒になりうるもの。すなわち、『セラの庭園』からの脱出手段。
「あの鎗を!」
シャオの命令を受けて空白者がその場で方角を切り替える。
──だが、遅いっ!
空白者が迫るその前に、誰より先に黒鎗を摑んだのはネイトだった。
自分の背丈ほどもある巨大な鎗。右手を伸ばして摑んだと同時、淡い輝きが黒鎗から溢れでる。この世界から脱出するための夜色の輝きが。
『小さき主よ往くがいい』
騎士の声に背を押され、そして──
elmai xaln wosteo uc xeoi clar,O soa valenlef karel
鎗を中心に展開した名詠門の輝きの中、ネイトは静かに目を閉じた。
......道は二つ。
〈ただそこに佇立する者〉を調律者とする空白の名詠に対抗できる二つの可能性。
一つ。空白名詠と異なり、調律者たちの意志の外で生まれた虹色名詠。
一つ。空白名詠の根を同じにしながらも真逆の名詠色、〈ただそこに佇立する者〉と同等の力を持つ〈その意志に牙剝く者〉を調律者とする夜色名詠。
だが──
カインツの虹色名詠はもはや彼女に作用しない。
夜色名詠にしたところで、自分はアマデウス真言はおろか、そもそもセラフェノ真言の言語体系すらわからない。
つまり、今の自分にはどちらの名詠も叶わない。
二つの可能性は共に潰え、そんなどうしようもない状態と知りながら。
「......譲れない」
心の中はふしぎなくらい澄んでいた。
自分のしたいこと、そして自分のするべきことが重なっていたから。
そう、たとえ相手が誰であろうと──名詠式の創造者の一体〈ただそこに佇立する者〉だろうと退くわけにはいかない。
〝......なあ少年。お前もしかして、自分を過小評価し過ぎていないか〟
凱旋都市に来る前、ケルベルク研究所を統率する副所長から告げられたあの言葉。
〝私はな、お前自身の決意が聞きたいんだ〟
〝お前は他人を信じるあまり相対的に自身を過小評価しているようだが、もうそろそろ自分を信じてみても悪くない〟
そう言われ、自分は頷いた。
そういうつもりで、その気持ちを決めて凱旋都市に来たじゃないか。
最初から、ここに来る時から決めていたことだ。
自分がやる、それはきっと自分にしかできないことだから。
「......絶対に譲れない」
方法はきっとある。
僕が彼女を守るって決めたんだ。エイダさんにもカインツさんにも、この役だけはアマリリスにも譲らない。
だから──
何よりも、誰よりも、今まで感じたどんな瞬間よりも強く願う。
......クルーエルさん。
僕のこと、最後まで見ていてください。
贈奏 『友達だから』
トレミア・アカデミー──大陸辺境の地にありながら、生徒数千五百人を数える大規模な専門学校である。
名詠式と呼ばれる特殊技法を学ぶための学園であり、そのための施設や教育水準も大陸中央部の名門校に劣らない。辺境という点を活かした広大な敷地には、自然豊かな山林までもがそのままの姿で残っている。
その一年生校舎の二階、とある教室で。
「ねえセンセー、今日ネイティとクルーエルとミオが休みだったんだけど、どうして?」
掃除当番の少女が箒を動かす手を休め、担任の教師に声をかけていた。
サージェス・オーフェリア、艶やかな黒髪にすらりと伸びた長身が特徴の少女だ。
「ネイト君は風邪よ、クルーエルとミオは食あたりって報告を受けてるわ」
若葉色のスーツを着こなしたケイト教師がさらりと答える。
「......ふーん」
あまりに模範解答的な返答に、サージェスはしばし天井を見上げ、自分と相部屋で生活している少女を思いうかべた。
「あとエイダもいないんだけど、まさかあの子まで同じ理由とか? あの子が風邪とか食あたりってちょっと信じられないんですけど」
「あら、エイダならサージェスの方が詳しいんじゃない?」
「ううん、それが部活の合宿から帰ってきたらもぬけの殻なんだもん。部屋の中見たらあの子の服とかなくなってたし」
エイダが風邪をひく可能性、それはペンギンが砂漠を横断する確率より低い。
食あたりだって同様だ。なにせ一年放置してあったヨーグルトを平気で食べたりする鉄の胃である。まず考えられない。
「エイダならご両親の実家に急用で帰省するんですって」
なぜか目を合わせようとしないケイト教師。
......どうも白々しい。
「そっかー、四人とも別の理由なんだ。あー安心した。ほら、ちび君やクルーエルにミオまで四人一斉に休むんだもん。四人とも同じ理由だったら怪しかったんだけど」
「あらやだ、何言ってるのよサージェス。まさか四人がこっそり、どこかに旅行にでも行ったと思ったかしら?」
口元に手をあててケイト教師が笑う。
だがしかし、そんな仕草普段は見たことがない。
「うーん、最初はそう思ったんだけど、風邪とかなら仕方ないよね」
「ええ、早く治るといいわね」
「うん。風邪と食あたりと帰省なんて別々の理由だもん、四人が学校に戻ってくる日時がまさか一緒だなんてことはないですよね、先生」
「......え?」
ピシリと、教師の表情が凍りついた。
「な、なななな、何言ってるのよサージェス? そんなことあ、あ、ああるはずが......」
──きた、やっぱりだ。
四人が休む理由までは考えてあったが、怪しまれぬよう学園に戻る日をばらすまでは指示していないに違いない。自然を装って四人の欠席事由を別々にしたのが運の尽きだ。
おおかた四人とも同じ場所へ、旅行か何かに出かけているのだろう。というより、それが怪しいと最初から思っていたのだ。
「ねえ、先生? わたし先生にじっくり聞きたいことが」
「あー、ごめんなさい、私ちょっと職員室で会議なの。......じゃ、後は掃除任せたわよ!」
「え......あ、ちょっ、先生? 先生ってばっ!」
追いかけようとするも、廊下を全力疾走する教師はあっという間に職員室の方角へ。
だめだ、なんて足の速さ。
「ほらオーマ、あんたも男子のクラス委員として追及するべきよ!」
教室の隅で箒を持つ男子生徒に向かって叫ぶ。
オーマ・ティンネル。鳶色の髪のやや背の高い生徒である。教師曰く食あたり中のクルーエルと共に、クラスの男子生徒をまとめるクラス委員だ。
「んー、確かにケイト先生怪しかったな。明日の朝のホームルームの時にでも聞いてみるか? 明日の朝くらいにはきっちり反論用意されてそうだけどな」
そう、それが問題なのだ。
本当なら今この場できっちり問い詰めておくべきだった。
「......まあいっか、四人が帰ってきたら一人一人尋問するから」
「よお、どうしてそんな気になるんだ? 別に俺らがかかわることじゃなくね?」
「心配だからに決まってるでしょ」
床に積もった埃をしばし見つめる。
......なんだろう、この感じ。ざわざわして落ちつかない。
「まあ先生が承知の上ならいいの。でもクラスのみんなに言えないような理由で欠席って何か考えられる? やましいとかじゃなくてさ、なんか不安なの」
「そうか? クルーエルは女子クラス委員だろ。ネイトもミオもおとなしい方だし、エイダはああだけど、事故起こすようなメンバーじゃないだろ」
「それはそうなんだけどね......なんか今回は嫌な感じなのよ。女の勘?」
違和感のきっかけは相部屋の友人。
エイダが自分に何も告げず外出、そんなの今までなかった。
疑問はそこから始まって、翌朝登校してみればクルーエルにネイト、ミオまでいない。そのことに教師も言葉を濁すばかり。
......何も知らされないのが嫌なんじゃない。それだけのことに自分たちのクラスメイトが関わっているかもしれないという、その不安が嫌なんだ。
「はー、女の勘ね。まあそれはさておきだ、つぅか俺に言わせりゃクルーエルもいいけど、お前が女子のクラス委員やった方が適任て感じがしてきたんだけどな」
にやにやと、からかい混じりの口調の男子クラス委員。そんな彼に向かって、サージェスは溜息と共に手を振ってみせた。
「ヤよ、あんな堅苦しいの。そういうのガラじゃないし」
「じゃ、どうしてそんな気にしてんだ?」
「友達だからに決まってるでしょ。教室から四人も抜けちゃったら寂しいじゃん」
「やっぱお前、適任......痛っ!」
苦笑を隠そうともしないオーマの頭を軽く小突いてやる。
でもなんでだろう、一向に気分が晴れないのは。
「......あーあ、早く帰ってこないかな」
「ま、土産なんかいらないから早く帰って来いよってとこか」
埃をちり取りで回収し終え、手持ちぶさたになったオーマが腕を組む。
「そゆこと」
窓を開け、サージェスは身体半分ほど身を乗りだした。自分たちの教室は二階。手を滑らせでもしたら一息に地面まで落下しかねない体勢だ。
「おい、危ないっての」
「......ごめん、でもそんな気分なのよ」
渦を巻くような曇天を眺め、サージェスは深く溜息をついた。
......何をしてるかはわからないけど、四人が無事に帰ってきますように。
あとがき
今年は夏が長いと思ったのに、急に寒くなってしまって慌てて毛布を引っ張り出しました。夏かと思ったら秋、秋かと思ったらあっという間に冬です。寒がりの自分には辛い季節です。(良い点はお鍋が美味しいこと?)
さてさて時節柄、年末の大掃除でもしようと思ったところ、部屋に入りきらない本とか音楽CDの山の前でいきなり挫折しました。
一人暮らしの我が家は狭く、本棚もないのが難点。普段は押入に入れて、日頃から読む分は部屋の隅に山と積んでます。
積めぬけど、積んでみせようホトトギス──みたいなことをしつつ、いつその山が崩れるか不安です。
お久しぶりです、細音啓です。
この巻から手に取ってくださった方がいましたら、初めまして、細音啓です。
一巻が昨年の一月ですから、この八巻目で本シリーズも丸二年間。目をグルグル回しながらの二年でしたので、もう二年経ってしまったんだなという感覚です。
と同時に、ようやくここまで来れたんだとも考えてみました。単純な巻の数字でなく、主に本編の内容の面で。
──と、遅ればせながら、『黄昏色の詠使い
』を手にとってくださってありがとうございます。七巻の後書きで宣言してしまったこともあり、まずはクライマックス第一弾目という気概で臨んだ巻でしたが、いかがでしたでしょうか。
この巻はネイトとクルーエルの物語としても、また黄昏色の詠使いという世界の上でも、とても大切な巻。自身そうなるよう願って書いた巻であり、お読みくださった方に少しでもそう感じて頂ける内容になっていれば幸いです。
ようやく......という言葉が正しいかはわかりませんが、ネイトとクルーエル、そして二人を取りまく流れも、ようやく大きな渦の中心までたどり着いた気がします。
あらゆる局面で山場を迎え大変な状況になりつつありますが、最後まで、二人のことを応援して頂けるようお願いいたします。
◆ 話題は変わって、七巻と八巻の間の四ヶ月の間に
七巻が八月で八巻が十二月。その間に季節は秋を越えて冬に突入です。
どうも自分は敏感体質というか季節の移り変わりに弱いようで、秋はブタクサの花粉にさんざん悩まされました。この本が刊行される頃には、冷たい北風に喉をやられている頃かもしれません。......うぅ。秋も冬も季節の趣は良いのだけど、こればかりは何とかならないかなあ。
と、なんだかんだでドタバタしているうちに、九月に受けた健康診断結果が返ってきました。今年は通勤の間に毎日四十分歩いたおかげか、去年より全体的に数値が改善。社会人になってまだあまり経たないけれど、大学生時代よりスコアが良くなったものもあってビックリです。
この調子で頑張れればいいなあ。頑張らないと。
◆ 海外の黄昏色の詠使い
そうそう、お伝えする機会になかなか恵まれなかったのですが、『黄昏色の詠使い』が中国語に翻訳され、海外で出版して頂いています。
刊行先は台湾。表記は『黄昏色的詠使』──ほとんど日本語と同じです。サブタイトル『イヴは夜明けに微笑んで』は『夏娃在黎明時微笑』、こちらは日本語の感覚で読み取るのは少し大変かもしれません。でも作中でも出てくる『黎明』という単語や『微笑』という単語が、こうしてサブタイトルに使われているのは何だか嬉しい気がします。
ちなみに、ネイトやイブマリー、クルーエルと言ったカタカナ表記は漢字の当て字になっているのですが、セラフェノ音語は日本同様のスペル表記になっていて、これまた嬉しかったです。
そんな中、海外の方からメールでファンレターをいただきました。お手紙には必ずお返事を出すと心に決めてはいたのですが、さすがに「自分の分からない言語で来たらどうしよう」と内心焦っていたり。幸い、今まできたものは英語で書かれていたので、何とかお返事できている......はず。お返事の英訳に際しては、同じ職場のS君にお世話になりました。ありがとうございます。
しかしその件でふと疑問。
もし仮に『黄昏色の詠使い』が英語圏外で翻訳されて、その外国当地の言語でお手紙を頂いたら............まずはその言語を勉強してからでないとお返事が。もっとも、今のところその予定はなく、何だかほっとしたような悲しいような気分です。
末尾になりまして恐縮ですが、『黄昏色の詠使い』の翻訳にあたっては本当にたくさんの人にお世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます。
さて、そろそろページが少なくなってきたようです。ここからは毎巻と変わらぬご挨拶になってしまいますが──
まずは編集Kさん。八巻の内容から誤字脱字の指摘まで、今回も本当にありがとうございます。今までKさんの緻密な読みこみとご指摘があったからこそ、黄昏はこうして、ずっと温めていた通りのかたちで歩いてこれました。
素敵なイラストで本書を彩ってくださった竹岡美穂さん。お忙しいスケジュールの中、ますます美麗なイラストを描いてくださって本当にありがとうございます。そして『このライトノベルがすごい2009』イラストレーター部門一位、おめでとうございます。
そして家族の皆。心配かけてばかりで申し訳ないです。日々、一番近いところで支えてもらっていることを実感してます。
最後に、何より、この本を手に取ってくださったあなた。本当に温かい応援を頂き、ありがとうございます。ご報告になりますが、宝島社様から十一月に刊行された『このライトノベルがすごい2009』にて本シリーズが十一位に選ばれました。去年同様びっくりするほどの高順位でした。今後もこの応援に応えられるよう頑張ります!
最後に、『黄昏色の詠使い』の物語全体の構成について少し──
第一楽章『始音』が一巻から五巻の五話構成でした。
幕間劇が六巻。
そして今の第二楽章は、七巻から次の九巻までの三話構成を予定しています。
次の九巻目が第二楽章『微笑ムヨウニ、君泣イテ』のクライマックスになりますので、ご期待ください。
ネイトとクルーエル、そしてイブマリーとカインツ。今の子供たちとかつての子供たち。彼らがたどる物語の一つの終わりまで、あと二話。
どうか最後まで、彼らの道行きを応援していただけますように。
それでは、来年、また九巻でお会いできることを願いつつ。
二○○八年末、とある日の夕べに
細音 啓
http://members2.jcom.home.ne.jp/0445901901/(更新、二○○九年の一月中に何とか......)






黄昏色の詠使い
ソフィア、詠と絆と涙を抱いて
細音 啓

富士見ファンタジア文庫
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また、ご覧になるリーディングシステムにより、表示の差が認められることがあります。
口絵・本文イラスト 竹岡美穂


......ネイト、お願いがあるの。
たぶん、すごく自分勝手で無茶なお願い。
でもどうしても言っておきたいの。
あのね、わたし────
序奏 『忘れもの』
「ケイト、まだ書類の整理か?」
コツッ──背後に響いた足音に、若草色のスーツを着た女性教師が振り返った。まばゆい黄金の髪に柔らかな面だち。ケイト・レオスウェリ──教師補から教師になってまもない新任教師だ。
「......ミラー先生こそ、今日は宿直ですか」
「ああ。職員室の明かりがついてたから誰かと思えば」
椅子に座ったままのケイトへと、眼鏡をかけた男性教師が肩をすくめた。研究者を思わせる白衣の印象そのままに、言葉の端々からもどこか知的なものを感じさせる。
名詠式専修学校トレミア・アカデミー。
二人がいるのはその総務棟二階にある職員室だ。昼間の講義はおろか放課後の部活もとうに終わり、生徒も教師も自宅で夕食を終えている時刻。宿直のミラーからすれば、この時間までケイトが残っている理由が気になるのも当然だろう。
「ごめんなさい、見回りの仕事を増やしてしまって」
口元の微苦笑を手で隠し、ケイトはもう片方の手を机上のティーポットへと伸ばした。
「おわびと言ってはなんですけど、温かいお茶でもいかがです?」
「いや、悪いが遠慮しておくよ」
おや珍しい。
ティーポットを手にした状態で首をかしげていると。
「さっき眠気覚ましにゼッセルと紅茶の銘柄当て勝負をしてたんだが、その時についつい飲み過ぎた。......お互い勝負でムキになって、カップ二十杯ずつ」
「本当に仲が良いんですね」
「やめてくれ」
決まりの悪そうな顔でミラーが首を振る。
ゼッセルも学園の男性教師だ。ミラーとは幼等部からの付きあいで、就職先まで同じ。腐れ縁と書いて幼なじみと読む仲らしい。
「ところで、その書類は?」
「これですか。これは────」
隣の席にミラーが腰かける。言葉で答えるかわり、ケイトは山と積もった紙束を彼の前へと押しやった。
「試験の解答ですよ。......もう三ヶ月以上前のものですけど」
束の一番上にある解答用紙、そこに綴られた生徒の名前を一瞥するや、ミラーの表情がわずかに曇った。
「これは────あの時の、クルーエル・ソフィネットのか」
「ええ」
忘れもしない。
夏期休暇が終わってすぐの模擬試験。その最中で、ケイトが担任する生徒の一人、クルーエルという名の少女が突如倒れたのだ。
彼女は意識不明の状態に陥り、一時は生死の境をさまよったとされている。
その時、彼女が倒れる直前まで書いていた解答が────
問六
人工触媒と自然触媒の効果の同一点、および相違点についての帰納的論証を提示したツァルシア・イン・アシュガルト教授の実験が行われた時期、またその実験場所を述べ、実験場所がそこで行われたことについての理由を個人的見解と社会的見解を対比させながら述べなさい。
解答六
《実験時期》 gohre-l-het 1,119,549,261
《実験場所》 shantelopia-l-net 715,372,453 shantelocia-net 211,806,011
《社会的見解》 記録対象外
《個人的見解》 記録対象外
いったい、これはどういう意味だったのだろう。
謎の文字と膨大な桁の数字の羅列。それに『記録対象外』という単語。残りの問題にも全て同じような解答が記述されている。生徒がうんうん唸って出した解答ではなく、まるで巨大な辞書か歴史書から切り抜いて貼りつけたような文字の羅列だ。
「今だから言いますけど、これを見た時は寒気がしました。......あの子が、いったいどうしてこんな不可思議なことを書いたのかって。いくら気を失う直前で朦朧としてたって......こんな解答って......」
ティーカップを持つ右手がふるえている。それを左手でぎゅっと握り、ケイトはカップの端に唇をつけた。
「すまないな、俺も仕事の合間に考えてはいるんだが。なかなか解読まで行き着かない」
「......あ、いえ。ごめんなさい、そんなつもりじゃなくて──ただ、その......」
苦笑するミラーにケイトは慌てて手を振った。そう、かつてこの解答を相談した相手もミラーだった。その時判明したこと。それが──この解答用紙の言語は名詠式に使われるセラフェノ音語に近いものの、まるで別の言語である可能性が高いということだ。
どんな書物にも記載のない未知の言語。
それをなぜクルーエルという少女が知っていたのか。本人に尋ねようとは思いながら、ケイト自身言いだせずに今もこうして一人で考えるありさまだ。
「しかしまあ、それを言ったら名詠式もそうか」
机に両肘をついてミラーが微苦笑。
「セラフェノ音語だって同じだ。いつ誰が作ったかもわからない、そんな言語。それを俺たちは、さも当然のように使ってる」
「あの......でも、いつそれが生まれたかなんて、むしろそれが厳密にわかっていることの方が世の中には少ないんじゃないですか?」
今こうして机に置いてある鉛筆もインクペンも、はじめに作ったのは誰なのだろう。自分たちはそんな単純なことも気にかけることがない。
「そうだな......そうかもしれない」
すると、彼はふっと表情をやわらげた。
「いつもそうさ、俺たちは見過ごして忘れてばっかりだ。昔の同級生の顔も名前も」
「わたしなんか三日前の夕食だって思いだせません」
鞄から水色の手帳を取りだし、ケイトは三日前の頁を開いてみた。もちろん夕食なんてとりとめのないものなどメモしているはずもない。
きっとそういうものなんだ。
忘れていく。時間が経つにつれて。少しずつ、本当に少しずつ。あんまり少しずつだから、本人もそれに気づくことができないくらい。
「時々思うんです。きっとあと十年後には、今わたしが担当している生徒の半分くらいは、わたしの名前と顔も忘れてしまうんだろうなって」
ああ、あの先生誰だっけ。自分の先生だったのは覚えてるけど──そんな感じで。ふと卒業アルバムを開いた時に、ああケイト先生だ、って思いだす。
そしてまた、アルバムを閉じた翌日には忘れてしまう。
「......そうかもしれないな」
先輩教師は、否定しなかった。
「学生はこれからも覚えることがたくさんある。今必要なものを覚えようとして、古いものから忘れていくのは、きっと仕方ないことなんだ」
「だから余計に思うんです。せめて今だけは、わたしの名前を覚えていてもらいたいなって」
担任教師だからではなく、一緒に『今』を過ごす人として。
そうして覚えていてもらうために、自分は何ができるんだろう。
「......そういえばあちらの方はどうですか」
「凱旋都市の方は、昼間に連絡があったきりと聞いている」
大陸中央部に位置する凱旋都市エンジュ。その都市に四人の学生が派遣されている。四人ともがケイトの担当する生徒たちだった。
ネイト、クルーエル、ミオ、エイダ。
帰ってくる予定は明日。
今晩さえ過ぎれば──
「それが気になってたのか?」
「今日は眠れそうにないくらい......そんなこと言ったら、やっぱり変ですか?」
いや──何か懐かしいものを見たかのように目を細め、彼は続けた。
「いいじゃないか、そんな君の背中を見て育つ学生は幸せだと思う」
「......恰好つけたいだけですよ」
照れ隠しに、ケイトは湯気の立つティーポットに手をそえた。
「ところで、しつこいですけど......実はお茶が余ってしまいそうで」
その教師はしばし迷ったような素振りの後、
「一杯だけ淹れてくれ」
彼らしい簡潔な言葉で、そう答えた。
一奏 『選択、そして分岐』
1
目を開けた先に、小さく瞬く星の海が広がっていた。
──夜空?
「ここ......は」
背中にあたるのは硬く冷たい感触。
今の今まで、路面の上で仰向けに転がっていた──ネイトがそれに気づいたのは、その状態から上半身を起こした後だった。
視界を揺らす目眩に歯を食いしばり、鉛のように重い両足を叱咤して立ちあがる。
「......シャオは?」
周囲に人影はない。
目に映るのは、闇夜にうっすらと影を落とす巨大な建造物。そして淡い光を放つ街灯。ここ数日で見慣れた凱旋都市エンジュの街並みだ。
──よかった。
どうにかあの名詠士より先に、『セラの庭園』からこの世界に戻ってこれたらしい。
実際の時間のずれはわからないが、自分の感覚ではほんの数十秒。その数十秒前まで、ネイトは『セラの庭園』と呼ばれる別世界に引きこまれていた。青く輝く砂がちりばめられた地表に、極光の輝く黒の天球。色鮮やかな光の結晶が宙を浮遊し、何かの波動が風のように流動する。そんな幻想的な世界。
そこに自分を連れこんだのがシャオと名乗る空白名詠の詠い手だ。軟禁に近い状況からかろうじて脱出したはいいが──
「なんで......競闘宮の入口に戻ってるなんて、そんなことって......」
わからないことが一つある、それが帰還先の位置だ。
『セラの庭園』に閉じこめられる前は競闘宮内部の三叉路に立っていた。あの場所から脱出したんだから、戻ってくる時の場所も当初の三叉路だと思ってた。
そのはずが、実際に倒れていた場所は競闘宮の外。
「これもシャオが?」
自分に『セラの庭園』から逃げられた時のため、こちらの世界につながる名詠門の発生先をあらかじめ設定しておく。発生先を三叉路でなく競闘宮の外にすることで、決闘舞台にあるミクヴァ鱗片へとたどり着く時間を稼ぐことができる。
そんなことができるのかは定かでないが、あの名詠士なら何ができてもふしぎでない。
「──急がないと」
胸の中の空気を一度全て吐きだし、ネイトは競闘宮の入口へと駆けた。
RiriseleSelahphenosia-s-Miqveqs【ミクヴェクス ただそこに約束を願う者】
かつては名詠式そのものの創造者たる意志法則体であり、今は空白名詠の調律者〈ただそこに佇立する者〉と謳われる存在。
そのミクヴェクスを名詠する鍵は二つ。シャオの〈讃来歌〉であるミクヴェクス真言〈全ての約束された子供たち〉、そして決闘舞台に安置してあるミクヴァ鱗片だ。
ミクヴァ鱗片をシャオが手に入れればミクヴェクスが名詠される。ミクヴェクスが名詠されれば、ミクヴェクスから分化した存在であるクルーエルが消えてしまう。
残酷な純粋知性。
ミクヴェクスの眼から分化した、人と調律者の中間の存在。『ただ記憶する』だけで一生を終え、何十回何百回とかりそめの命を与えられてきた少女。
「......絶対にさせるもんか」
奥歯を嚙みしめ、競闘宮の入口をくぐる。
言いようもない違和感があったのは、その時だった。
足が止まった。
「......なに、これ......なんでこんな......静かなの」
静か。
沈静と喩えるしかないほどに、静かだった。
草木も眠る深夜。そして人の立ち入りが禁止された今の競闘宮。本来は静かでない方が不自然だ。が、ネイトが感じたのはそういった単なる静けさではない。
風の動きがまるでない。埃一つ、塵一つ舞うことのない──まるで時が止まったような空間が競闘宮の内部に広がっている。そんな気がしてならないのだ。
嵐の前の静けさのように。
──静寂が競闘宮を包んでいる。いや、競闘宮から凱旋都市全体に広がりつつある。
つぅっ。
冷たい汗が首筋を伝っていく。
ここにいるだけで息が苦しくなる。引き返したい。そう感じさせる何かが渦巻いている。
「......負ける......もんかっ!」
一歩、ネイトは足を前に踏みだした。
2
時間は、半刻ほど前に遡る。
エンジュ公共宿舎、その玄関先で。
癖のある金髪をした幼げな少女がひっそりと地面を見つめていた。上着はクリーム色のフード付き防寒コート、その首もとからは白地の制服が覗いている。
宿舎の街灯の明かりに触れ、吐いた息が白く輝く。それをぼうっと見つめ──
「ミオ、おまたせ!」
背後からかかった声に、金髪の少女が弾かれたように振り向いた。
葡萄酒色の髪をした少女。こちらも制服の上にココア色のコートを羽織っている。幼げな顔だちのミオと対照的に、快活で行動的な印象の女子生徒だ。
「お、ヘレンちゃん準備できた?」
「ばっちりよ、でも遅れちゃってごめん。行く場所が行く場所だし、支度に時間かかっちゃって」
急ぎ足で二人の少女が歩を進める。
──目的地は競闘宮。
「レフィス、本当にあんな場所にいるのかな。......だって今は全面封鎖でしょ? 中に入るんだったら監視の人に見つからないようにしなくちゃいけないのに」
「だって、もうあそこくらいしか考えられないもん」
自分の言葉を自らに言い聞かせるつもりでミオは足を速めた。
こんな夜中にネイトやクルーエル、エイダが自分に内緒で出かけるような場所。そんなの競闘宮以外にない。たぶん三人が目指してるのは、競闘宮に安置された触媒だ。アレがどれだけ凶悪で危険な触媒か、ミオはトレミア・アカデミーで直接目にしている。触媒の暴走。それがこの大都市で起きればたちどころに大惨事となる。
「......まあ、ミオがそこまで言うならわたしも信じるけど。ったくレフィスめ、なんで人に心配かけることばっかりするのかな」
口を尖らせる彼女をしばし見つめ、
「ねえねえ。ヘレンちゃんは、やっぱりレフィス君のことが好きなの?」
ミオが何となくそう訊ねた途端、隣を歩く彼女が真後ろの方向に飛び跳ねた。
「~~~なっっっ、ななな......何を突然言いだすの!?」
「え? だってほら、あたしはネイト君にクルルにエイダはずっと友達だから捜しに行くんだよね。でもヘレンちゃんにとってはさ、レフィス君はつい少し前に知りあった転入生でしょ。捜すのだって男の先輩二人に任せればいいのに、こんな夜に自分から捜しに行くなんてよっぽど──」
「ち、違うって! ほ、ほら......ええと、えっと......あいつが方向音痴なのは知ってるから、それでその......」
足を止めたままあたふたと手をふるヘレン。本当は彼女の方が一つ年上なのだが、今の姿は同い年どころかそれよりずっと下に見える。
「ふーん、それで? それで?」
「っと、その......だから............って、み~~~お~~~?」
「あはは、ヘレンちゃんそんな怖い顔しないで。レフィス君も怖がっちゃうぞ?」
真横から覗きこんでくるヘレン。睨みつけるような表情がまた可笑しくて、ミオは噴きだしそうになるのを必死でこらえた。
「ごめんね~。ヘレンちゃんてばクルルみたいで、つい聞きたくなっただけなの」
「もう......ん? ところでクルーエルみたいって?」
再び隣に立つ彼女へ、ミオは指先を空へと向けて。
「クルルね、凱旋都市に来る前に同級生の男の子から告白されたんだって。ほら、クルルってばあたしから見ても綺麗だし可愛いし、男の子からも人気あるの。でもいつも告白されては断っちゃうみたい」
「へえ、何だかもったいない気もするけどね」
「本人は『まだお付き合いの仕方がよくわからない』って言うんだけど、それって半分正解で、半分ハズレだと思うの」
ハズレハズレ──空へと向けた指先を小さく横にふって、
「クルルはきっとね、もう大好きな子がいるんだよ。本当はずっとその子にそれを言いたくて、でも恥ずかしいから、向こうから言ってくれるのを待ってる気がする」
「つまり両思いってやつ?」
「そうそう、きっとそうなの。もう半分くらい公認カップルなのに、あとちょっとのところで止まっちゃってるのがクルルなの」
「見てる分には歯がゆいなあ。......今度クルーエルに聞いてみよっかな。その幸せなオトコノコは誰なのよって」
「いやいや、ていうかヘレンちゃんもすごくよく知って────」
彼の名を口にする前に、
......Calra-l-BediwsLeoLecie【カルラ 悲しき赤病の冬姫】
どこか遠くから、鈴を転がすような声。
同時。
夜空の一箇所が真っ赤に染まった。
「痛っ!」
閃光めいた輝きに目を焼かれ、ミオは反射的に顔をそらした。
輝きは一瞬。だがその輝きが消えるより先に、今度は目の前の視界がぶれた。
ズンッとのしかかるような地鳴り、そして爆発音。鼓膜だけでなく頰の表面がビリビリと痛む。それほど音の津波は強く、そして強烈に押し寄せてきた。
「ば、爆発? うそでしょ......エンジュで、しかもこんな夜中に!?」
必死の表情で目を見開くのはヘレン。
閃光と爆発音は正面の空から。つまり自分たちが向かおうとしている方向だ。
「......競闘宮だよ」
「競闘宮? ちょっ、ちょっとミオってば冗談はやめてよ! だってあそこ、レフィスたちがいるかもしれないんでしょ」
──やっぱり予感は間違ってなかった。ネイトたちは競闘宮にいる。
そして競闘宮で何かがあった。否、その何かは今も続いているかもしれない。
「ヘレンちゃん、爆発の前に何か聞こえなかった? カルラ......なんとかって」
「あ、あれ......ミオも? わたし空耳かと思ってた」
驚いた表情でヘレンが眼を丸くする。
「空耳なんかじゃないよ。だって──」
発音から推測するしかないが、あれは名詠式の〈讃来歌〉に酷似していた。
つまり競闘宮で誰かが何かを名詠したに違いない。
それだけでいい。今はそれだけわかれば十分だ。
ネイトやクルーエル、エイダが夜中に宿舎を抜けだした。唯一考えられる行き先は、謎の触媒が安置してあるはずの競闘宮。そしてまさにその方向、この爆発。そして何者かが名詠式を使用したと思しき〈讃来歌〉。
それだけ重なれば、ネイトたちが競闘宮にいると確信するには十分すぎる。
「ヘレンちゃん、行こう!」
一度大きく深呼吸し、ミオは夜のエンジュを走りだした。
3
コツッ──
乾いた靴音が無音の通路に響きわたる。苔色に光る非常灯だけが床を照らす競闘宮。静寂に包まれた空気の中を、ネイトは一人で歩いていた。
一歩、また一歩。
この薄暗い空間に、シャオが名詠生物を待機させている可能性も零ではない。一刻も早く決闘舞台にたどり着かなくてはならないが、無闇に音を立てればその名詠生物にも見つかってしまう。名詠用の触媒がない今の状態では打つ手がない。
無音の空間に自分の足音すら溶けこませ──
見覚えのある三叉路を前にし、ネイトは小さく吐息をこぼした。
「......戻ってこれた」
そう、シャオによって『セラの庭園』へ連れて行かれる直前までいた場所だ。

左右が競闘宮の二階と地下へ。そして正面が決闘舞台に続いているはず。エイダとレフィスもそれぞれ競闘宮のどこかにいるはずだが、今は決闘舞台のミクヴァ鱗片を回収することを優先しなければ。
「うん、行こう」
自身に言い聞かせるつもりで口にし、足を踏みだす。
──カチッ
途端、頭上から降りそそぐ明かりに通路全体が照らされた。
「えっ! ......な、なにが?」
今のは誰かが照明のスイッチを押した音だ。けれどこの競闘宮は完全封鎖のはず。警備員ですらあくまで入口の外で見張るだけ。それこそ無断侵入を知ったうえの自分やシャオ以外、競闘宮に人が立ちいるはずがないのに。
ツッ──......カツッッ............
足音が徐々に近づいてくる。
まさかシャオ? いや、あの黒法師ならば人目を嫌って照明は控えるはず。ならば誰がこの明かりを。
カツッ。足音が、すぐ目の前の角で響いた。
「っ!」
反射的に身構える。
そして。
「やあ、久しぶり」
通路から現れたのは、枯れ草色のコートを羽織った男性だった。
「慌ててきてみれば......なかなか大変なことになってるみたいだね」
頭上の照明に照らされ、金とも茶ともつかない髪が揺れる。端整な顔だちながら、はにかむようなごまかすような、そんな捉えどころのない表情をした名詠士。
「カインツさん?」
それは、ネイトがまったく予想だにしていなかった人物だった。そもそもなぜここに。本当に彼なのか、一瞬他人のそら似と思ったほどだ。
「ところで、照明つけてしまったけどかまわないよね」
「え......あ、照明はまずいです! 今ここって封鎖されてるから!」
もし彼が凱旋都市に来たばかりなら昼間の騒ぎも知らないはず。競闘宮の上空に現れた無数の名詠生物、その急襲を受けて競闘宮は封鎖されたのだ。
「ここに来るとき、四階の明かりが点いてたよ」
「四階の明かり......」
考えられるのはレフィスかエイダだ。何らかの理由、それこそ自分たちの存在が外部の人間からもわかってしまうことを覚悟した上で。
「まあそれに、今は些細なことを気にしている場合でもなさそうだしね」
彼に続き、人も背に乗せられるであろう巨体の氷狼が姿を見せた。その背に乗っているのは人ではなく、胎動するように点滅する巨大な白い石──蛇の鱗にも似た紋様のついた触媒だ。
「ミクヴァ鱗片!? どうして......カインツさんが?」
わけがわからない。
ミクヴァ鱗片は決闘舞台にあるはず。なのになぜ虹色名詠士が持っていて、それを氷狼が運んでいるのか。さらにいえば、なぜ決闘舞台の方向へ運んでいるのか。
「シャンテから事情は聞いてるよ。この石が騒ぎの元らしいね」
「だけど、なんでそれをわざわざ決闘舞台に──」
点滅を繰り返す触媒を指さし、彼をじっと見上げた。
「カインツさん、それは壊......ううん、だめだ、どっか遠くに捨てなくちゃだめなんです。誰にも見つからない場所に。それがあるとクルーエルさんが──」
「クルーエルさんが?」
カインツが怪訝そうに眉をつりあげる。
おそらく彼が聞いているのはミクヴァ鱗片の表面的な話だけ。ミクヴァ鱗片とミクヴェクス、ミクヴェクスとクルーエルの関係までは知るべくもない。
「説明してる時間がないけど、その石がクルーエルさんを苦しめてるのは確かなんです。だから早く、シャオが戻らないうちに!」
「シャンテからもこの石を処分しろと言われたよ。でも、それは解決策になるのかな」
「それは......」
「君がそう言うなら、ボクはすぐにでもこれを人目のつかない場所に埋めてもいい。だけどそうしたって、いつ再び見つかってしまうかもわからないだろ?」
カインツの言葉に、あの黒法師の微笑がさっと脳裏をかすめていく。
地面に埋めようと海に沈めようと関係ない──相手はシャオ、どこに隠そうとしても見つけられてしまう。そんな悪寒に背筋が凍った。
「いつまた見つかってしまうだろう。そんな不安に怯えて生活していくつもりかい?」
「......ほかに方法がないんです。この触媒は砕いたって再生するから」
「それはシャンテからも聞いたよ。だからこの触媒を完全に消し去るには、この触媒を一番良く知っている相手から聞くのがいいのかなって思うのさ」
ミクヴァ鱗片を最も知っている相手。
それは自分やレフィスでなく、シャオとその仲間たち。
「決闘舞台に心当たりがいるんでね。彼女に訊いてみるとするよ」
彼は笑っていなかった。
鋭い、明確な緊張を交えた視線。
「寂しがりやのお姫さまがボクを待ってるらしい。......勝負の続きさ。勝った方がこの触媒を手に入れるっていう勝負のね」
彼がここまで来た理由、ネイトはようやく悟った。
シャンテとネシリスのかわりに戦おうとしているのだ、彼は。
「で、でも......」
もちろんカインツの凄さは知っている。歴史上ただ一人五色の名詠を制覇した名詠士。シャオの弁を借りるなら、調律者アマデウスとミクヴェクスの想像すら超えた名詠。それが彼の虹色名詠だという。
けれどそれは、あくまで名詠式としての格の高みであって、決闘の強さではない。彼は戦いに特化した名詠士ではないのだ。競闘宮で最強とも謳われていた青の大特異点が敗れた今、いくらカインツでも分が──
「間違いなく勝てないだろうね」
あろうことか、ほかならぬ彼自身が真っ先に首肯してみせた。
「青の大特異点を打ち負かすような名詠式か......。ボクはもともと決闘向きの名詠なんて練習したことがないし、決闘そのものだってほとんど経験がない。いや、そんなこと関係なしに勝ち目は薄いだろうね。何もボクじゃなくたって、彼が勝てないなら世界中の名詠士一人として勝ち目がない」
「そんな......それじゃあどうして──」
なぜ彼は負けるとわかっていて決闘舞台に。
「あのプライドの高い歌姫に泣いて頼まれたから、かな。さすがに断れないし、いっそ派手に負けてくるくらいはしようかなと思ってたんだけど............そうか、困ったな」
言葉なかばで口をつぐむ彼は、いつになく鋭利なまなざしをたたえていた。
「もう一度聞くけど、この石が相手に渡ると、君とクルーエルさんにとってまずいことがあるんだね?」
「──はい」
おごそかな口調の彼へ、その視線を見つめ返した。
そう、その触媒は絶対シャオには渡せない。もしも彼がわざわざ負けるとわかって決闘舞台に行くのなら、せめてミクヴァ鱗片だけでも僕が守り通す。
それだけの覚悟をこめてうなずいた。
「なるほど......それはボクが軽率なことを言ってしまったな。シャンテから多少は事情も聞いたつもりだったけど、そこまで事態は深刻だったのか」
しばし虚空を見上げ、彼が小さく息をつく。
そして。
「この触媒、ボクを信じて預けてくれないかな」
「......え?」
「学園での競演会を思いだすね。五色のヒドラが現れた時のこと覚えてるかい」
〝ここは引き受ける。行くんだ〟
無数とも言える三つ首の獣の群れ。彼がそれを食い止めている間に、ネイトはアーマを従えてホールへと向かった。ホールの人間に危機を知らせるために。
「シャンテからも頼まれていたことだけど、やっぱりこれはボクが引き受けた方がいい。こうして何かを懸けた時の駆け引きは大人の方が得意だと思うしね」
「でも......」
「だいじょうぶ、負けると言ったのは訂正するから。君がそれだけ心配するくらいの理由があるなら、ボクだって少しは頑張るさ」
器用に片目をつむり、おどけるような仕草の彼。決して強がりではない、それは他人に心強さを与えてくれる表情で──けれど、だからこそ訊きたいことがあった。
「......カインツさんはどうして」
僕とクルーエルさんのために、どうしてそこまでしてくれるんだろう。
同級生のミオやエイダならまだわかる。けれど世界に名を知られた虹色名詠士が、自分たちのためにそこまで気に掛けてくれるなんて。
「恰好つけたいから。いつもならそんな感じで答えるところだけど」
天井の壁を越えた、どこか遠い遠い場所を彼はじっと眺め、
「大切な誰かを失うのは、辛いことだよ」
──彼のその一言が全ての答えだった。
〝わたしの家系、代々からだが弱いの。みんな早死にしてる。わたしのお母さんも、わたしを生んですぐ死んじゃった。わたしもきっとそう〟
「出会った時からそう聞いていたはずなのに、それなのに、彼女のそばにいてあげられなかった。ボクはそれを本当に後悔してる。......同じ思いをしてほしくない。君が彼女の名詠を継いでいるならなおさらね」
気づいた時には、自分の右肩に彼の手があった。
「クルーエルさんが大変なんだろ? ボクは状況がつかめてないけど、それならやっぱり、君は君にしかできないことをするべきじゃないかな。クルーエルさんの事情がわからないけど、たとえば彼女のそばにいてあげるとかね。もし明確なものが君の中にあるのなら、ミクヴァ鱗片を気にかける役くらいは替わってあげられそうだから」
君はもっと大事なことができるはず、彼の視線がそう言っている。
クルーエルが危機にある。ならばミクヴァ鱗片は仲間に任せ、自分は彼女を助けるためのより本質的なものに集中しなくてはいけないと。
──言葉が出なかった。
突然の申し出に対する驚き、そして感謝の気持ちをどう表せばいいのかわからない。エイダやレフィスと同様に、彼女を助けるために力を貸してくれると言ってくれているのだ、虹色名詠士が。
「決めるのは君自身だ。どうする?」
「............」
それは競闘宮に入る直前、青の大特異点から告げられた言葉とも酷似していた。
〝迷うくらいなら置いていく〟
単に厳しいだけの言葉ではない。自分を対等な人間として扱ってくれたからこそ、彼は判断を僕自身に委ねてくれた。そして今、他ならぬ虹色名詠士が、僕を一人の名詠士として認めてくれている。
ならば迷うことはない。
「ミクヴァ鱗片をお願いします。......僕、ここでやらなくちゃいけないことがあるから」
雑念を振り払ってネイトは首を横に振った。
やらなくちゃいけないことが残ってる。僕にしかできないことが。
「昔の君だったら、もう少し迷っていたかもしれないね」
彼がかすかに笑う。
人なつこい、心の底からそれを歓迎するような笑み。
「──本当に大きくなった」
コートのポケットに手を入れたまま、枯れ草色の名詠士は身をひるがえした。







氷狼を従え、決闘舞台へと歩いていく虹色名詠士。
小さくなっていく背を見送り、ネイトもまた彼に背を向けた。
......これでいいんだ。
自分は虹色名詠士ではない。五色の名詠も虹色名詠だって使えない。
使えるのは夜色名詠のみ。
だけど、夜色名詠にしかできないこともきっとある。僕にしかできないことが。
「それはもしかして、自分をここで食い止めるという意味?」
「ほかに何があるのさ」
瞬きすらせず、ネイトは正面の相手を睨みつけた。
照明に照らされた通路、いつからそこにいたのか。影が浮かびあがったような印象の黒法師が音もなく佇んでいた。
黎色のローブに身を包んだ名詠士──シャオ。
ローブと同色の髪と瞳、穏やかとすら言える顔だちは少年にも少女にも見える。口元には優しげな笑み。かたちの良い唇に塗られた黒のルージュは怪しく輝き、その双眸はしっとりと濡れてゆれている。
「......絶対戻ってくるって思ってた」
標的がいないのならば『セラの庭園』に留まる理由はない。ミクヴァ鱗片を手に入れるため必ず戻ってくるはず。それは火を見るより明らかだった。
「競闘宮でファウマとカインツが戦う間、今度はあなたが自分を食い止める──なるほど、少し前とまるで立場が逆になったみたいだ」
両手をローブに隠したまま、むしろその状況を楽しむようにシャオが微笑む。
「でもね、自分は二人の戦いに手を出すつもりはないよ」
「......信じられない」
ミクヴァ鱗片を手に入れる。その目的に徹するなら、一番楽な方法は決闘舞台の二人が戦っている隙をついて回収することだ。
それをこの名詠士が狙わない理由なんて──
「理由ならある。なぜならそれがファウマの望みだから」
......望み?
「そうだよ」
その場にひっそりと佇んだまま薄暗闇色の名詠士が首肯する。
「カインツと戦う役に、ファウマは自分の意志で手を挙げた。だからそれを尊重しなくちゃいけないんだ」
血奏 『始まりに炎あり』
その日わたしは、始原の真精の声を聴いた──
1
......わたし、ファウマ・フェリ・フォシルベルが生まれたのは今から二十一年前。
大陸で最も寒い街の一つとして知られる城下町フェルン。その街を統べる旧王族の娘としてだった。
家族は父親と母親、そして妹が一人。ほかには給仕役の女性が城に数人。
家族はわたしと同じで、旧王族という肩書きはあまり好きでないらしい。妹もそれが嫌で城を飛びだし、今はどこかの学舎で何の学問ともわからないものを勉強していると聞いた。両親も妹も特に何かが優れているわけではないし、変わっているわけでもない。
わたしだけに、全身を蝕む皮膚の病があった。生まれた時はそこまで酷くはなかったらしい。けれど年齢を重ねるごとに、症状はどんどん悪化していった。
そして、まるでその病と引き替えであるかのように、わたしの声帯には、この世のものならぬ清麗な響きの声が宿っていた。
──けど、そんな声なんてどうでも良かった。
夜に全身が熱を帯び、搔きむしり、朝にその傷が痛みを持つ。
搔きむしる爪がこれ以上傷を増やさぬよう、医者からは全身を包帯で覆ってしまうよう告げられた。────その日わたしは、自分の部屋にある鏡を全てベランダから投げ捨てた。窓も曇り硝子。包帯だらけの自分なんて見たくなかった。
その時からだっただろうか、わたしが一人で自室に籠もり、親とも顔を合わせなくなったのは。食事も包帯の替えも給仕任せ。両親にすら断りなく部屋に入るなと伝えた。
......それは結局、わたしの悲鳴を両親に聞かせたくなかったからだ。
毎晩、全身にねっとりと絡みつく痒みと痛み。歯を食いしばって耐えた。
泣き顔を見せるのは嫌い。
だから、自分の口に布を嚙ませて、無理やりにも嗚咽を消した。
けれど身体のストレスはいつしか限界に達し────
十歳を少し過ぎた頃。
とある夜、わたしは極度のストレスと疲労で意識を失った。
『素敵な音色』
声が聞こえたのは、その時だった。
霞を通して響くような朧気な声。
......だれ?
『Calra────お前の身体の悲鳴に巣くう者』
カルラ、声の主はそう答えた。
セラフェノ音語においてcalraは血を意味する。そう知るのは、この邂逅より少しだけ先の話だ。
『真精と呼ばれる存在、真精と名付けられた存在』
......真精?
『調律者より定められた一つの事項──すなわちCalraをもって真精の原型とする』
そして声は続けた。
『Calraは始まりの炎であり熱であり、全てに替わる赤き血である。私のために流す血の代償に、私もまたお前のために血を流す。力、悪意、敵意、剣、憎しみ、悲しみ、妬み、──いかなる害もお前に触れることは許されない』
......わたしが、Calraのために流す血の代償?
それはまさか。
『そう、お前の病の半分はCalraが理由。私の熱がお前に宿り、お前の身体に痛みをほどこす。その美しい悲鳴が私を呼び覚ます。何よりも深い繫がりがそこにある──全てはお前を愛しているからこそ』
......そうだったのね。
わたしがこんなにも苦しんでいるのは、こいつが原因だったのか。
『愛する者よ、Calraを憎む?』
......ええ、八つ裂きにしてやりたいくらい。
『それもまた当然。だが約束しよう、お前はお前自身の意志で私の力を願う。だから私もまた、お前のために歓んで血を流そう』
......そんなのあるわけが。
『いずれ知る。調律者に選ばれた者の訪れを待つといい。その名詠士は真なる敗者の王。お前に生きる目的を与えてくれる』
......生きる目的?
『その時まで、Calraはしばし眠りにつく』
Calraの声を聴いたのはそれが最初。
そして、それが最後だった。
2
目が醒めた時、わたしのベッドの脇には一体の赤獅子が名詠されていた。
血を触媒に、自らの肉体の悲鳴を無韻の〈讃来歌〉とする──わたしの名詠式が発現した瞬間だった。
それから、どれだけの月日が流れただろう。
数日、数ヶ月、数年?
Calraの声も予言も忘れた頃。わたしの部屋に一人の黒法師が現れた。
「初めまして。驚かせちゃったかな」
黒髪黒目、少年か少女かもわからない顔だちで、その人物は微笑んでいた。
いつ部屋に入ってきたのかもわからない。気づいた時にはベッドのすぐ横に立っていた。
普段なら警戒していただろう。だがその黒法師の瞳はあまりに──初対面のわたしが見とれてしまうほどに綺麗で、しっとりと濡れてゆれていた。
「あなたは?」
「自分の名はシャオ、あなたと話をしてみたかったんだ」
大陸有数の観光名所から始まって、辺境の村の地方料理。初めて聞く地方の風習に、愉快な物語まで。世界中の全てを知っているのではと思うほどシャオは物知りだった。
訊けば、本当に世界中を旅していたのだという。
シャオは、自分からは決して旅の理由を告げなかった。だから訊いたのはわたし。
その名詠士は照れたそぶりもみせず、恥ずかしがるようなこともなく、誰より堂々と、そして凜とした口調で教えてくれた。
「名詠式でたくさんの人が幸せになれたら、素敵じゃないかな」
──その一言は、胸が痛くなるくらい鮮烈だった。
わたしは、わたしの身体をこんなにしたCalraを恨むことしかしなかった。だからこそ与えられた名詠式も憎んでいたし、名詠式で人を幸せにするなんて発想が頭になかった。
「......羨ましいな、そんなこと考えられる人が」
「ねえ、ファウマ」
シャオが、漆黒のローブからすっと右手を差しだした。
「素敵じゃない。羨ましく思えるということは、そう願う気持ちがあなたの中でもまだ消えてないという何よりの証だよ」
......わたしが......わたしもそう願ってる?
同じ夢を見ることが......許されるの。
何かが頰を伝っていく。
温かいしずくが頰を伝い、こぼれ、胸元の包帯をそっと濡らした。
──ようやく、ようやく見つけた。わたしの生きる理由。生きたいと思える理由。
同じ夢を追いかけて、同じ夢を見てみたい。
シャオの描く世界が始まる瞬間を見てみたい。
そしてその日、わたしはカルラを受け入れた。
けれど、ああっ......
これは何という運命の皮肉なんだろう──
あの虹色名詠士がわたしの城を訪れたのは、その二日後のことだった。
3
「やあ、初めまして」
どこかシャオを彷彿とさせる挨拶と共に、彼が片手を上げて会釈する。
金髪とも茶髪ともつかない髪をゆらせ、いたずらっぽい笑顔を浮かべる人なつこい名詠士。枯れ草色のコートを羽織り、自分のいるベッドにのんきな歩調で近づいてくる。
「突然呼びだしてごめんなさい。城の給仕たちがね、あの虹色名詠士が城下町に来てるって話してたの」
「いや、どうせあてのない旅なので。それに旅先の偶然に身を任せる方が、ボクの性分にはあってるみたいだから」
天幕ゆえこちらの姿は見えるはずがない。それでもふしぎと、直接顔と顔を合わせているような親近感がわいてくる。
「こんな寒い場所まで、目的もなく?」
「あえて言うなら、その『こんな寒い場所』の寒さを体験するのが目的かな。何かと物好きな性分なので」
......この男がカインツ。
世界で最高の名詠士。名詠式で彼にできないことはないとも噂される男だ。
虹色名詠士──カルラの声を聞き名詠式に目覚めてからずっと、わたしはその単語に対して憧れに近いものを抱いていた。
とある願い。
ずっとずっと、それこそシャオと出会う前から望み続けたことが一つある。
ほかの名詠士には誰一人頼めないこと。だけどこの虹色名詠士なら、それを万に一つでも叶えてくれるかもしれない。だからカインツ・アーウィンケルがこの地を訪れていると聞いて、わたしは急いで彼をこの城に呼びつけた。
けれど──
「なにか?」
「......いえ、何でもないわ」
薄布越しにわたしは首を振った。
心から待ち望んでいた言葉。それがどうしても言えなかった。
......なんて、残酷な葛藤なんだ。
シャオの友人でいたい、そしてその力になって協力すること。
ずっと思い描いていた、虹色名詠士に対して渇望し続けた希望。
それはまさに、火と水のように相容れないものだったの。
どちらか一つしか選べない。
どちらも心の底から願い続けてきた願い。
──今、わたしはカインツをどう見なせばいいんだろう。
ミクヴァ鱗片を争う敵としてか。
あるいは、望み続けたわたしの願いを叶えてくれる憧れの名詠士としてか。
......あの時からずっと答えが出せずにいた。
だからこそ今、競闘宮の決闘舞台でわたしは待つ。
胸に抱えた矛盾する二つの願い。
心の内から張り裂けそうになる葛藤に、せめて自分なりの決着を見出すために。
二奏 『吼える世界』
1
小さな星をちりばめた夜空を、鮮血色の閃光が駆けぬけた。
まっ黒なキャンバスに突然赤い花が咲いた、そんな不自然な輝き。自然ではまずありえない色の輝きだ。
「今の......?」
凱旋都市エンジュの大通り。物静かな路地で足を止め、一人の少女が頭上の輝きを見つめる。背中まで伸ばした色鮮やかな緋色の髪、そして深海を思わせる深い青の双眸。すらりと伸びた長身に白の制服が映える少女だった。
が、見上げて数秒も経たずして。
「っっっ!」
少女──クルーエルは、遅れてやってきた地鳴りと轟音に呑みこまれた。
ィィッ......ッッン......
音の衝撃波を受け、周囲の家屋という家屋の窓が悲鳴を上げる。
「......なっっ......んなの......!」
建物の壁に手をつき、あわやというところで姿勢を持ち直した。
地鳴りで身体のバランスが崩れたところに、立て続けに音の津波だ。中には今ので窓硝子が割れた家屋もあるらしい。それほどの轟音だった。
「あれって......競闘宮の方向だよね」
壁に手をついたまま、おそるおそるクルーエルは視線を上空へ。真っ赤な閃光は既に光の痕すら残さず消え、夜空は一瞬前までの暗さを浮かべるばかり。
──火事なんかじゃない。まるであれは、火薬が炸裂したような光と音だったもん。
競闘宮、その中心である決闘舞台にミクヴァ鱗片がある。
調律者ミクヴェクスを名詠するための唯一の触媒。
〝ネイト、エイダという祓名民の娘、それにレフィスという灰色名詠の詠い手。誰に強制されたわけでもないが、誰かさんを守るためという意志だけは共有しているらしい〟
あの夜色の名詠生物が言っていた。
ネイトが、みんなが、あの場所で戦っている。
「......行かなくちゃ」
みんながいるのに、当のわたしがあの場にいないでどうするんだ。
〝小娘、あの場にお前が行ったところで最早──〟
「わかってるよ、そんなこと......」
苦々しく唇を嚙みしめた。
ネイトがわたしに何も告げずに競闘宮に向かったのはなぜだ。......わたしに内緒で、わたしのことを案じてくれていたからじゃないか。
だからネイトは、きっと自分が競闘宮に向かうことを喜ばない。
でも、それでも行かなくちゃいけない。
「だって──」
何の前ぶれもなく、壁に寄りかかっていた手が滑った。
「っ......ぁ......痛ぅ」
地面に四つん這いに手をつき、かろうじて頭から転倒することは免れた。
──今の、まさか。
おそるおそる、壁に寄りかかっていた右手に目を向ける。
「あ......ははっ、は」
やっぱりだ。今のは手が滑ったんじゃない。
右手の手首から先が、まるで陽炎のようにぼんやりと揺らいでいた。自分の手が壁をすり抜けたから、結果的に滑ったように思っただけだ。
......もう、こんなにも時間がない。
本当にわたしが消えてしまう? 今だってそんな実感ほとんどない。
まるでまどろみの中のような漠然とした不安。だがそれすら、胸に沸きかえるまったく別の思いの渦へと消えていく。
「ネイト......」
なぜだろう。こんな場面なのに、自分が消えるかどうかの瀬戸際なのに。
あの夜色の少年の顔しか思いうかばない。
どんな想いより切なくて、胸が苦しくてしかたない。
誰よりも何よりも、ネイトと会って話がしたい。本当に他愛のない世間話でいい。
それがきっと、わたしの────
「わたし、キミのところに行きたいの......行きたいよ」
瞳の端ににじむ雫を手でそっとぬぐいとる。
何かに導かれるように、何かを求めるように、クルーエルは歩きだした。
2
直径五十メートルほどの円形空間。
硬い地面の上には目の細かい砂がまんべんなく敷かれている。周囲を見渡せば、そこには高さ五メートルほどの石壁が舞台にそって立っている。石壁の上からがちょうど観客席の最前列。そこから階段状に観客席が続く。五メートルある石壁は、決闘の飛び火が観客席に届かないための配慮とのことらしい。
──それが競闘宮の決闘舞台。
「そういえば、ここに来るのは久しぶりだよ」
頭上で輝く熱妖精。その光に照らされた決闘舞台を見回し、カインツは肩をすくめておどけてみせた。
「最初ここまでの通路もわからなくて照明を勝手につけてしまったんだけど、怒られないかなって今さら心配になってきた。ここ、今は完全封鎖中なんだって?」
「......少し意外」
真正面、離れた石壁に寄りかかる少女が身を起こす。が──身を起こした途端、少女はふらりと体勢を崩して再び石壁に寄りかかった。
「競闘宮、あなたなら毎年のように来てると思った」
「決闘舞台に来たのって実は二回目なんだ」
いまだ見慣れない周囲の光景を眺め、
「ボクが虹色名詠士と呼ばれるようになった頃かな。好奇心旺盛な方々が、当時のボクの試合を熱望してね。こちらの意志に関係なく対戦が組まれたことがあった。一度目はその下見に来た時だったかな」
「それなら実際の対戦で二回目。今回が三回目でしょ?」
「ボクが腹痛で棄権、不戦敗。だからボクの競闘宮での戦績は〇勝一敗、負け越しだ」
あの日が最後。
決闘舞台に上がることはもう決してない。そう思っていた。
「昔、君の城でも話した覚えがあるけどね」
「ああ、そういえばそんなこと聞いたかも。そんなに前じゃないわよね」
彼女の言うとおりせいぜい一、二年以内のどこかだろう。
そのわずかな年月を隔て、まさかこの場所で、よりによって彼女と対峙することになるなんて欠片も思っていなかった。
「気になるわよね、当然」
「何がだい?」
「わたしが────」
何かを言いかけた少女がたじろぎ、口を閉じる。
やがて、とぎれとぎれにこぼした言葉は。
「カインツ......わたしが自分の意志で選んでここにいるとしてよ、わたしは何を望んで、この場所であなたを待っていたと思う?」
「それがね、今もよくわからないままだった。ボクには君が、名詠式の決闘をしたくてたまらないタイプの人間には見えないから」
「............」
押し黙る彼女へ、カインツはゆっくりと言葉を重ねた。
「ネシリスは命に別状はないみたいだった。今は病院で手当てを受けてるよ」
「......どうしてわたしにそれを教えるの?」
「彼の容態、君も気になってたんじゃないかと思ってさ」
彼女の瞳が、困惑するかのようにゆれた。
わずかな溜息をともなって──
「決闘って嫌い......勝っても負けても、こんなにも心が空っぽになる」
彼女はそれを否定しようとはしなかった。
「なおさらわからないよ。決闘相手に対してそこまで心を痛めながら、そこまでして君が決闘舞台にいる理由」
「さっきわたしから訊いたじゃない。どうしてだと思う?」
「状況だけで言うなら、このミクヴァ鱗片とかいう触媒を求めるためかな」
目を伏せるファウマを見据え、カインツは思うままを告げた。
と共に、背後の氷狼に視線で合図。背に乗せた巨大な触媒を地に降ろし、その名詠生物は光の粒に包まれ消えていった。
「そうね。それは間違ってないわ。一つはシャオの仲間として。でもね、もう一つあるの。わたしの個人的な、あなたに対する嫉妬とわがままで」
「......言われて困ることを言うんだね」
他人から嫉妬されるようなものが自分にあるかと言われれば、カインツはないと答えるつもりだ。それは学生の時から、虹色名詠士になっても変わることがない。
なぜなら虹色名詠士と言われたその後も──自分が心の底から対等な関係で、本当に近い距離で話すことができたのは『彼女』だけだったのだから。
「わたし可笑しいこと言った?」
内心の苦笑が表面に出てしまっていたのだろう。ファウマがふしぎそうなまなざしと共に首をかしげる。
「いや、少し物思いにふけってただけさ」
枯れ草色のコートの端を抱き寄せる。
自分が虹色名詠士になる前にもらった贈り物、今も手元に残っているのはこれだけだ。もう十年以上になるだろう。形状も崩れはじめ、色もだいぶ褪せてきた。
「......カインツ、初めてわたしと会った時のこと覚えてるかしら」
「宿で休んでいたら城の人に声をかけられた時のことだね」
忘れもしない。
謁見の間の扉を越えた先、天幕ごしに響く彼女の声。今でこそ平然と聞いているが、初めて耳にした時はあまりの美しさに気が遠くなる思いがした。
「............」
長い、長い沈黙の後。
「......あの時、わたしがどんな気持ちで虹色名詠士を待っていたと思う?」
苦い物でも含んだような表情のファウマが、ややあって視線を地に向けた。
決闘舞台で交わされる会話とは思えない問いだった。答えに見合うものも思いつかないまま時間だけが過ぎ──
「わたしね、自分の気持ちに決着をつけたいの」
「決着?」
「うん。そうしないとわたしの心が二つに裂けちゃいそうなんだもん」
うつむいていたままの少女が顔を持ちあげ、そのまま天井の先の夜空へ。
穏やかな、しかしその奥に冷めやらぬ何かが混じった声で。
「シャオの仲間としてあなたと戦わなくちゃいけない気持ち。それともう一つ、わたしが虹色名詠士としてのあなたにすがろうとしている小さな希望。......両方は選べないとわかっているのに、まだ片方を捨てられずにいる......でも、もう限界なの。これ以上迷うのは耐えられない。この葛藤から解放されたくて、わたしはここにいるんだと思う」
「ボクにすがるって......君がかい?」
決闘舞台に彼女がいるのはミクヴァ鱗片を奪い返すためかと思っていた。むろんそれは理由の一つ。しかしその一方で、彼女が虹色名詠士に対して抱いている希望?
今まで彼女の城を訪れた時でさえ、そんなことは一度として聞かなかった。
「ファウマどういうことだい。君は、ボクに何かを望んで決闘舞台に?」
「言わせないで」
口元をきゅっと引きしめ、彼女が首を横に振り払う。
それはまるで雑念を振り払うかのように。
「わたしの本心を知れば、あなたは絶対わたしと戦わなくなってしまう。わたしの気持ちが迷ったままで終息してしまう。それだけは嫌。わたしは......どんな終わり方だろうと、あなたと戦って、自分の気持ちに決着をつけたいの」
胸にあてていた手を、ファウマがふわりと頭上へ持ちあげる。
「だけど──」
「......余計な前奏だったわね。始めましょう」







時は半刻ほど遡る──
競闘宮四階、資料閲覧室。
建物全体を包む微弱な揺れ。それが静まったと思えば、その後には巨大な破裂音。意識が危うく飛びかけるほど巨大な音の津波に煽られ、部屋に展示してあった資料が次々と床に落ちていく。
まるで地震、それも猛烈な横揺れと縦揺れが同時に襲ってきたようだった。
それが──
「......静まった?」
壁に片手をつき、エイダは資料閲覧室の天井を見上げた。
壁や天井からは今も破片がパラパラと落下している。が、それはあくまでさっきの揺れの余韻に過ぎない。四階全体が飛び跳ねるような揺れはもう姿形もない。
けれど、さっきの破裂音は何なんだ。
火薬の炸裂? 半端な規模ではなかった。あれだけの音と地鳴りを生む量の火薬、そもそもなぜそんなものを用意する必要がある。
「ったく、ありゃファウマだな」
片手に祓戈を持ち、アルヴィルは残る手で片耳を押さえていた。
「あーあ、しょうもねえな。やる時はやるって言えっての。おかげで鼓膜破れるとこだったじゃねえか」
「ファウマ?」
「言っただろ、ネシリスと戦ってるお姫さんだって」
そう告げるアルヴィルの表情にはわずかな余裕。
「大方、ネシリスの真精相手に姫さんの真精が破裂したんだろうな。俺も一度しか見たことがねえけど、姫さんの真精の必勝パターンだ──まあつまり、決闘舞台は決着ってこと」
まさかあのネシリスが? 負けた?
「信じらんねえって表情だな」
「当たり前だ」
動揺を誘う罠かもしれない。祓名民らしからぬ策だが、だからこそアルヴィルなら嬉々として使ってくることは考えられる。
「んでまあ、どうするよ?」
「............」
無言のままゆらりと重心を左足に乗せ────一呼吸も待たず、エイダは床を蹴った。
凝縮した空気が破裂したような跳躍音、アルヴィルとの距離が瞬時に零になる。
ギッッッィッィィィィィィィィィ............
祓戈と祓戈。金属製の鎗の先端同士がぶつかり、悲鳴を上げる。
「どうするか? そんなの最初に言ったはずだ、シャオって奴をぶん殴る!」
シャオが狙っているミクヴァ鱗片を奪う。
ネシリスが勝ったのならそれでいいし、万が一本当に敗北したのなら、なおさら決闘舞台に急ぐ必要がある。
「やっぱそうなるよな、ま、お前にゃそれがお似合いだ!」
こちらの鎗を上に弾き、アルヴィルの鎗が視界の端から斜めに振り下ろされた。
後方に跳躍。が、床に着地した右足がずるりと滑った。
────写真?
前の震動で、壁に掲示してあった資料が床に散乱。その一枚が、たまたまエイダの跳躍した地点にあったのだ。
「状況把握に問題ありってか、おい!」
崩れた体勢目がけ迫る刃。
床を転がっての回避は可能、だが背後の床に何が散乱してるかわからない。鋭いピンや硝子の破片が散らばる床を転がるよりは────
回避という選択肢を頭からぬぐい去り、エイダは自分の鎗を頭上に掲げた。
ギンッ、鎗の先端と鎗の柄が重なる鈍い音。
刃を柄で受けとめる。もし祓戈の柄が木製であれば、そのまま柄をへし折られていただろう。祓戈の強度を信じていなければできない芸当だ。
「へえ、その一方で捌きのセンスは抜群か。それだけは俺から見ても大したもんだ。野生の獣もビックリ、なんて身体のバネしてるんだかね」
苦笑がわりのアルヴィルの口笛。
「けど、ちょっとばかし大切なモンが欠けてんじゃねえの」
柄を通じて感じる鎗の重みが増した。じりじりと、徐々に重さを増してこちらの柄を押してくる。
膂力の差。男女の腕力の違い。エイダがそれを脳裏に浮かべた直後。
「お前、呼吸上がってるぜ?」
「──っ! そんなことは────」
にわかに、迫ってくる鎗の重みが消えた。
押しこんでくる鎗を自ら引き、アルヴィルが音もなく後方に跳び下がる。
「今のな、力をこめるのだって別にさっきと変わらねえぜ?」
「だから何が言いたいっ!」
──噓。
本当はわかっていた。彼の鎗が強さを増したのではなく、自分が落ちたのだと。
筋肉に疲労が蓄積すれば、発揮できる筋力も自ずと低下する。
今押し負けたのはそのせいなのだ。
「まあ何ていうか、アレだ。技量が落ちてないのはご立派。だけど体力が落ちてるのはいただけないな。いわば祓名民とかそういう以前の問題ってこと」
鎗の柄で自らの肩を叩くアルヴィル。
「そういやさっき、俺に勝てたら訊きたいことがあるって言ってたな」
〝かわりに訊きたいことがある。お前がさっき言ってた『あたしが祓戈の到極者になれて良かったか』っての、どういう意味だ〟
〝言っただろ、俺に勝てたら教えてやるってな〟
「......だからなんだ」
「じゃあ俺も一つ要求するぜ」
彼が言ったのは、本当に短い一言だった。
「俺が勝ったら、お前、名詠学校を辞めろ」
「──っ、......どういう意味だ!」
「そのままの意味だ、俺が勝ったら名詠学校なんて辞めろ」
彼の表情は先と変わらない。人を食ったような笑みのままだ。
それでいて、その声はまるで笑っていなかった。
「お前さ、名詠学校に一年近く通って、『あたしはこれを身につけました!』って誇れるものが一つでもあったか?」
「......それは............」
「名詠学校で何一つ習得しちゃいねえ。それなのに、祓名民として血ヘド吐いてまで身につけたものは消えていく一方。ギラギラ目を光らせる動物みたいな勘も、バカがつくくらいの底なしの体力も。さっきお前が床の写真踏んで足滑らせたの見て確信した。......アレはねえよな。少なくとも、一年前のお前なら絶対アレはねえわ」
床に落ちた落下物を踏んでしまう場所には跳ばない。もしやむをえず踏んだとしても、そのせいで滑ることはない。万に一つ億に一つ滑ったとしても、そのまま器用に体勢を整えることはできていた。
──アルヴィルはそう言っているのだ。
「それは......お前の買いかぶりだ」
「そうか? 俺以外の誰かに聞いてもいいぜ、なんならクラウスの旦那でもいい」
両手をいっぱいに広げ、まるで無防備な恰好で彼は続けた。
「わかったか。結局、お前は名詠学校なんてものに通うことで、お前の一番すげえ部分を台なしにしちまってんだよ」
それは侮蔑でなく、嘲りでなく、動揺を誘う言葉の罠でもなく。
心からそれを嘆き、悲しみ、諭す口調。
けれど、だからこそ耐えられなかった。
「そんなザマじゃお前の守りたいものなんて」
「──っっだまれぇぇぇえっっ!」
胸の中に吐き気をもよおし、それを無理やり飲み下す。
喉の奥で感じたのは血の味だった。
「あたしが......自分が選んだことだ。お前に言われる筋合いなんかない!」
「だから言ってんだろ。それが嫌なら俺に勝つんだな」
口を閉じ、唇を嚙みしめる。
祓戈だけに意識を集中し、エイダは目の前の相手へと駆けた。







競闘宮、地下倉庫──
「......爆発?」
眼前の相手を意識内にとどめ、銀髪の青年──レフィスは足を伝う震動に顔をしかめた。
床から伝わる微弱な揺れ。しかし地下倉庫にいる自分たちにまで届く衝撃だ。おそらく地上では、あの何倍という衝撃の波が暴れ回ったに違いない。
「なるほど、派手にぶつかったらしいな」
床から伝わる震動をむしろ楽しむかのように、赤銅色の髪をした女性が首元のマフラーを手で愛でる。
テシエラ・リ・ネフィケルラ、黄の大特異点となる名詠士。
「今の爆発音、ああ、お嬢さんとネシリスは決着か」
「......今の爆発がどうして決着に結びつく?」
「お姉さんは物知りだからさ。坊やも赤色名詠でちょっとした爆発は見たことがあっても、これだけの規模のものは初めてか?」
口元で笑い声を押し殺し、テシエラが愉しげに腕を組む。
「さてアルヴィルはエイダという娘と久方の再会を楽しんでる頃だろうし......乱入して冷やかすか、それとも後でからかうか。しかし問題はシャオだな。『セラの庭園』から戻ってきたかわからん。......やれやれ、私だけでも決闘舞台に向かうべきか」
決闘舞台。ミクヴェクスを名詠するためのミクヴァ鱗片が安置してある場所だ。
もともとレフィスもネイトたちとそこに向かうのが目的である。それをこのテシエラに妨害され、この地下倉庫で戦うはめになったのだ。
「お前が決闘舞台に向かう? 俺をわざわざこんな場所まで連れこんでおいてか」
「そうそう。悪いが、坊やを連れて行く気はないぞ? 決闘舞台にまで来られて騒がれては面倒だからな」
「......お前こそ、状況を考えて物を言え」
自分の背後には灰色名詠の真精──十二銀盤の王盾者。
対して、この女は一体の名詠生物も連れていない。触媒も、残っているのは首元に巻いた黄砂色のマフラーだけだ。
それに今さら名詠生物を詠んだところで何になる。いくら黄の大特異点とて、真精でなければ灰色名詠の真精には及ぶまい。かといって真精を名詠するための長大な〈讃来歌〉を見逃すつもりはない。
「ん? ああ、このマフラーを警戒してるのか。まあ確かに黄砂色だし、黄色名詠の触媒にはなるな。......あいにくこれは昔からの愛用品でな、とっくの昔に触媒に使った代物さ。後罪でガチガチに縛られて、もはやろくな名詠などできやしない」
首元のマフラーを撫でる仕草に変わりはない。
「せっかくだが、俺はそれを信じられるほどお人好しじゃない」
「それなら実際に名詠してみせようか?」
首元のマフラーから零れる金色の輝き。小さな光の粒が光の糸を、その糸が織りなして絡みあい、煌めく光の環を形成する。
「ちっ!」
名詠門が開く予兆を前に、レフィスは反射的に後ずさった。
──『Surisuz』──
ジッ......ジジ............ジッジジッ......
光の扉から、小さな雷光が無数にほとばしる。
紛れもなく稲妻そのもの。が、その雷光はいつまで経っても消滅せず、名詠門が消えても宙を浮遊したままだ。
「......擬光虫?」
「詳しいな、さすがヨシュアに師事しただけのことはある。黄色名詠のこんな下っ端名詠生物まで見抜くか」
不敵な笑みを浮かべる黄の大特異点。ふと、その肩に雷光が着地した。だが当の彼女に感電した素振りはない。それどころか指先で雷光を突いてみせる。
そう、それは雷光に擬態した羽虫の群れだった。
擬光虫と呼ばれる名詠生物。発光器官を背中一帯に有し、羽を震わせて電気に似た音を発生させる。
ただそれだけの擬態生物だ。触れても雷のように感電することもなく、たとえば音響鳥のように音を伝播する機能もない。名詠難易度も低く、下から二番目。第四音階名詠に位置する。
「ペン先か、あるいは指先でも、尖ったものを向けるとそこに飛び乗る習性があるらしい。可愛いだろ?」
「それで時間稼ぎのつもりなら、俺はさっさと決闘舞台に行くまでだ」
この女をここで止めろ──背後の真精にそう指示するより早く。
「悲しいな、これでも私の切り札なのに」
......切り札?
動揺を誘うものだとわかっていてなお、身体が反射的に硬直した。
周囲を飛びかい、雷光と雷鳴に似た光と音を撒き散らすだけの名詠生物。間違ってもこの擬光虫が本物の雷を撃ちだしたという話はない。まったく無害の生物のはず。
「そうか、ヨシュアも私のことはお前に言っていないんだったな。巡り会いに身を委ねる。変わらないなあの老人は」
「......お前、いったいヨシュアの何なんだ」
自分の師と目の前の女は、自分の知らない縁がある。灰色名詠について浅からぬ知識を有していることからもそれは想像つくが。
「あいにくと、お姉さんは物知りだがタダで教えるほど優しくないのさ」
つっ──と彼女が両の人差し指を突きだした。
そのまま彼女の指先が虚空を滑る。上下左右、指揮者が振るう指揮棒のように。その指先を擬光虫が追い、光の軌跡を残す。
それはさながら金色に輝く指揮棒。
......なんだ?
思わずその光景を見つめ──
「擬光虫そのものに意味はない。大事なのはこの黄金色の輝きと、擬光虫が奏でる稲妻の響きだ」
──ジッッッィィッッッ──
「羽音が?」
擬光虫の羽音が、徐々に大きくなっていた。
それと共に、テシエラの指先もまた動きを変える。不規則な動きから、まるで巨大な円を描くように。それに誘われ、擬光虫が描く軌跡もまた美しい環を模っていく。
......まさか。
「そう、今から現れる名詠生物は真精。その〈讃来歌〉は無韻──稲妻や電流の音色に導かれ、そこから詠びだされる真精もまた雷鳴の化身となる」
名詠門。まだ開ききらぬ扉を無理やりこじ開けるように、その奥で何かが蠢いた。
いななくように聞こえるのは獰猛な羽ばたき音。
「黄の大特異点、その象徴をご覧あれ──とでも言ってみようか」
輝く名詠門のその先に、なお強く輝く『何か』がそこにいた。
3
「そういえば気になっていたことがあるんだ。ネイト、あなた自身のことで」
ネイトの無言を肯定と解し、シャオは両手を差しだす仕草と共に。
「虹色を知る、枯れ草色の詠使い
空白名詠に望まれた、夜色の詠使い
夜明けを願う、黄昏色の詠使い
空白より目覚める、真なる緋色の詠使い
この四人。順に、誰のことかわかるかな」
黎色のローブから両手を出し、まるで子を迎え入れる親のようだった。
「......四人?」
胸の内で、ネイトはシャオの言葉を復唱した。
虹色を知る、枯れ草色の詠使い。これはカインツ。
空白名詠に望まれた、夜色の詠使い。目の前のシャオに他なるまい。
夜明けを願う、黄昏色の詠使い。紛れもなく自分の母イブマリーだ。
空白より生まれし、真なる緋色の詠使い──これは......
「そう、クルーエル・ソフィネット。彼女を含め、この四人は全て自らの『色』を持っている。単純な名詠色という意味でなく、自らの旋律を知り、自らの音色を名詠する。だからこそ、その四人には四人だけの真言がある」
「......だから何なのさ」
「ねえネイト、あなたはいったい何色の詠使いになりたいの?」
稚児にもわかる大きな仕草でシャオは首をかしげ、
「器と呼んでもさしつかえない。──夜色? それは単なる名詠色であって、あなたの器ではない。夜色はシャオの器だもの。同様に、夜の始まりである黄昏色もイブマリーの器に他ならず、あなたの器はそれではない」
曖昧かつ抽象的。
そのはずなのに、その言葉は鋭利な牙さながらに飛んできた。
「夜色の真精アマデウス。その〈讃来歌〉をイブマリーから受け継いで名詠できたことは誇るべきこと。でもあなたはまだ、自分一人で第一音階名詠を詠いあげたことはない。あなたの隣には常にクルーエルがいた」
事実としてはその通りだ。
彼女がいたから、彼女が支えてくれたからここまでこれた。
それは決して悪いことじゃないはずだ。
「良い悪いではなく、むしろ幸か不幸かと問うべきだろうね。──では、クルーエルがいなくなった時、あなたは一人で何ができる?」
「......クルーエルさんが消えるって言いたいの」
ミクヴェクスが名詠され、残酷な純粋知性としての役割を終えて、記憶も感情も失って消滅すると。
「彼女の足音が聞こえない? 彼女は自らの道行きを決めたんだよ......けど、まずいな。ミクヴェクスの目覚めが不完全なうちに彼女が接触すると、最悪────」
「......何を言ってるのかわからない」
「予定変更ということだよ。どうやら今すぐにでも、ミクヴァ鱗片を回収しないとまずいみたいだからね」
焦りではない。だがシャオの表情は不安と呼ぶに似たものを感じさせた。
つまり、今ここでそれを妨害することができれば?
「──いかせない」
右手を水平に掲げ、動きだそうとする黒法師を牽制する。
「ファウマとカインツの戦いに邪魔は入れさせないと?」
「カインツさんは約束してくれた。ミクヴァ鱗片を守ってくれるって」
だから、僕がここでシャオを止める。
それで彼女を守ることができるなら何にかえても。
「そう......世界を覆う雛の鳴き声が、あなたにはまだ聞こえていないんだね」
ザザァッ──無風のはずの通路に風が過ぎる。
否。それは風でなく、匂いも形もない無色透明の流動体。まだ記憶に新しい──『セラの庭園』に満ちていた波動そのものだった。
「『セラの庭園』に満ちる波──かつて二体の意志法則体が衝突した力の余波であり、今は名詠式を維持する力。これが空白名詠の触媒」
流れる波動を受け、シャオのまとう黎色のローブがふわりとそよぐ。
「ネイト、あなたはもう触媒がないのでしょ? 夜色名詠が使えないからこそ、決闘舞台に行かず残っていたようにも見える」
言い返さない。まぎれもない事実だったから。
空白者に奪われた触媒は、『セラの庭園』を脱出する際にそのまま置いてきてしまった。
「......そうだね。でも」
シャオの背後に生まれる輝き。そこから現れる空白の名詠生物をじっと凝視する。
空白者──直接の攻撃手段も自衛手段も持たないかわり、自らが消滅する際、巨大な名詠門を開いて周囲の名詠生物を巻きこむ特性を持つ。
「考えたんだ。今ここに空白者がいるのって、実はものすごい──」
拳を握りしめ、眼前に迫る空白者を睨みつけた。逃げるという選択を捨て、その場でぐっと踏みとどまる。
対し、シャオはそれを訝しむように目を細め。
「ものすごい......何が言いたいの......?」
「機会なんじゃないかって!」
言い終えるより早く、ネイトは空白者に向かって駆けた。
なにしろ相手の身体は不可視に近い。匂いもなければ影もないのだ。距離感が正確に摑めない。だから、ひたすら勘に任せて走る。目の前の空間、特に歪みの大きい部分目がけて拳を振り上げる。
みしっ──目の前の空間が揺らいだと感じた瞬間、肩と背中に猛烈な重みが襲いかかった。空白者が覆い被さるようにのし掛かってきたのだ。
自分の何倍もあろうかという重量。背中、肩、膝が一斉に悲鳴を上げる。
「良い子だね、そのまま彼を押さえておいて」
自らの名詠生物にそう告げ、その横を通りすぎる黒法師。
「......どこ......行くつ、もり?」
視線は空白者に向けたまま、嚙みしめた口からネイトはかろうじて声にした。
「決闘舞台。ネイト、ここで待っててもらうよ」
「だ......め、行かせ......ない」
「その状態で?」
シャオはもはや振り向くことさえない。だから、ネイトはその背中に向けて、
「──この状態だからこそ機会なんだ」
「────?」
振り向く名詠士に、今まで堅く閉じていた拳を開いてみせる。
その手の平に転がるのは小さな黒色の破片。
『セラの庭園』から脱出する時に用いた触媒は、黒騎士から預かった黒鎗。これはその鎗の刃先の一部だ。一度名詠に使用してしまった以上、これを触媒にして強力な名詠を行うことはできまい。
しかし名詠対象を送り返す反唱ならば話は別だ。
反唱は相手の身体に直接触れることが前提。もしこれが、たとえば全身高熱の炎鱗の蜥蜴や鋭い爪を持った赤獅子ならば反唱は困難を極めるだろう。
だが目の前にいるのは、こうして相手にのし掛かるしかない空白者。ならばただ相手に拳をあてるだけ。いくら空白者が不可視の存在だろうと、今こうして相手からのし掛かってきているのだから位置の特定も何もない。
ただ頑なに、目の前の相手だけを見据え────
「..................っ!」
押し潰す勢いで迫る名詠生物へ、ネイトは自分の拳を突き立てた。
──『Nussis』──
ピシッッ
硝子に罅の入るような音。次にそれが砕ける甲高い音が通路に響く。光の粒子が渦を巻いて一点に収束。名詠生物が消えていく前兆だ。
......だけど、まだだ!
空白者の特性は、それが消える際に名詠門を開くこと。
幾本もの光の軌跡が螺旋を描く。空白名詠の名詠門。それが開いている瞬間は、この世界と『セラの庭園』が繫がっているということになる。つまり──
まぶたを閉じ、ネイトは右手をそのまま名詠門に押しこんだ。
......どこだ、どこにある?
名詠門が開いてる時間は瞬きにも等しい刹那。門に手を入れるとほぼ同時、ネイトはその手を再び引いた。時間にして一秒を切る動作。
「ネイト、何を?」
「────これがほしかったんだ」
反唱の反動で赤く腫れた右手を掲げる。
その手を開くと同時、夜色の何かがいくつも床目がけて落下した。
黒の塗料、黒真珠の欠片、黒曜石。『セラの庭園』でシャオに奪われ、そしてそのまま置き去りにしてあった夜色名詠用の触媒たち。
「なるほど、空白者の特性を逆に利用されたか。『セラの庭園』に残してきた触媒を、空白者の名詠門を経由して取り戻されるとは思わなかった」
床に落ちた触媒をしばし見つめるシャオの双眸がゆれる。その濡れた瞳に映った色は、憧憬と悲しみが入り混じった感情だった。
「本当に、人の出会いはふしぎだね。もしあなたがクルーエルと出会わず、かわりに自分と出会っていたなら............こうして対峙するんじゃなくて、もっともっと素敵な関係でいられたかもしれない。今この時ほどそれを強く感じた瞬間はないよ」
目を伏せる名詠士。
その唇からこぼれた嘆息は、今までで最も大きく長いものだった。
「けれど仕方ない。それが他ならぬあなたの決めたことならば、自分もそれを受け入れよう。ミクヴァ鱗片の回収は、ファウマに負担をかけてしまうけれど」
「カインツさんは──」
「ミクヴァ鱗片を渡さないって約束した? けれど、こうも言っていなかったかな。ネシリスが勝てない相手に自分が勝てるわけがないって」
それはまさに、他ならぬカインツが認めていたこと。
けれど──
言いかけたものを呑みこみ、ネイトはあえて言葉を心中に押しとどめた。
「さて、そろそろ始まってる頃かな」
決闘舞台ではないどこかを眺め、シャオはにわかに口をつぐんだ。
4
赤色名詠。
色としての象徴は炎と血であるとされている。
一般に使われる触媒は塗料、決闘では炎であることが多い。名詠色の特徴としては攻撃的な名詠生物が多いということだ。高熱を宿した名詠生物が多く存在し、決闘では最も有利な色とされる。
定石とされる対抗策は二つ。
一つ、自分もまた赤色名詠で対抗する方法。
そしてもう一つが、対抗色の青色名詠をぶつける方法だ。
カインツが選んだ選択肢は後者。手元にそのための触媒も忍ばせていた。
そう、そこまで盤石の警戒をもってなお──ファウマの名詠がいつ発動したのか、その瞬間が見切れなかった。
「カインツ、ぼうっとしてると大火傷よ?」
鮮血を思わせる、作り物めいたほどに赤い炎の壁。
瞬きはしていなかった。
なのに、気づいた時には既に炎の壁が迫っていた。
「っ!」
握る青のブローチが光を放つ。
......間に合え!
懇願にも近い心の叫びと共に、そのアクセサリを地面に投げつけた。群青色の輝きが名詠門を彩り、泉のごとく水が噴きだす。水のカーテンが、鼻先に触れるほど迫った炎の壁を遮断した。ジュッという音を立て、赤の壁と青の壁が対消滅して水蒸気へ。
安堵の息をつく、その前に。
巨大な腕を振り上げる赤岩像の姿が視界に飛びこんできた。
──さっきの炎の壁の背後に隠れていたのか!
名詠式? 一瞬脳裏を過ぎった思考は即座に捨てた。それでは間に合わない。
コートをひるがえすように後方へ跳躍。溶岩色の巨腕が地面を穿ち、今まで立っていた場所に亀裂が走る。
──『Keinez』──
コートに忍ばせた触媒から人工ルビーを取りだし、カインツは赤岩像目がけ投げつけた。カツッ。岩肌の巨人にルビーが触れたと同時、そこから洩れる光が名詠生物を照らしだす。
人の二倍近い巨体を持つ赤岩像。名詠光の輝きから現れたものは、それと全く同じ造形をした赤岩像だ。地響きを立て、二体の巨人が殴り合う。互いに相手を組み伏せようと組み合ったまま動きを止め──その力を使い果たし、消滅するのも同時だった。
「かろうじて対処したみたいだけど」
決闘舞台、壁際によりかかったままの少女が顔を持ちあげる。
「今のね、まったく同じことネシリスにも試してみたの」
「どうだった?」
「あっさり。立ってる場所から一歩も動かないで潰されたわ。それと比べると、カインツはちょっと鈍くさいかも」
「......あいにく反論の余地なしだね」
少女の仕草一つ一つを凝視したままうなずく。
ファウマの名詠式は、自らの血を触媒にした超高速の赤色名詠。目でその起動を捉えるのは不可能に近い──〈イ短調〉のシャンテからそう知らされ、それなりに覚悟しておいてこれだ。前情報なしならば今ので勝敗が決まっていたかもわからない。
「まあ、あなたは別に強いから有名になったわけじゃないだろうし。競闘宮に入りびたって決闘に慣れてるってわけでもないからしょうがないか」
「それも反論できないな」
「......ねえ、悔しくないの」
「何が?」
少女が寄りかかっていた壁から身を起こす。一糸まとわぬ細身の、いまだ血がふきだし続ける傷だらけの身体を見せつけるように。
「こんな、わたしみたいな年下の女に言われっぱなし。なのに言い返すことも言い訳もしようとしない。あなたは世界で最高の虹色名詠士なんでしょ......悔しくないの?」
「難しいことを訊くんだね」
表情に出さぬまでも、声だけで苦笑する。
「そうだな......虹色名詠士って呼び名に、今はあまり固執してないからかな」
「じゃあどんな呼び名がいいの?」
「枯れ草色の──」
羽織るコートのポケットに両手を入れた恰好で、カインツは小さく笑った。
まるで、とっておきの謎かけでも出そうとする子供のように。
「枯れ草色の詠使い。これなんか素敵だね」
「......偶然ね、シャオも似たようなことを言ってたわ。あなたは『虹色を知る、枯れ草色の詠使い』だって」
枯れ枝のように細い指先を少女が向ける。カインツでなく、カインツの羽織るコートに向けて。
「そのコート、ずいぶん大事そうにしてるわね。虹色名詠士なら服の一枚や二枚、いくらでも好きな物を買えるんじゃないの」
「あいにく、同じ物が売ってても意味が違うんだ」
「......イブマリーという女?」
少女の口からこぼれた言葉には、今までにない棘が含まれていた。
「シャオが言ってたの。この世界には、名詠式を創造した調律者すら予想していなかった名詠士が三人現れたんだって。一人はシャオで、一人はあなた、三人目がイブマリーっていう女だって......それで、あなたとイブマリーは知り合いだって教えてもらった」
否定するには短く、肯定するには長すぎる余韻。
そんな沈黙の時間を挟み、再び少女が口を開いた。
「カインツ、次のは少しだけ強いわよ」
ぽたっ
まだら模様の血の斑点から、一滴の触媒が伝って地に落ちる。地に付着した赤の飛沫が何本もの光の線を生み、絡まりあって真紅の名詠門を形成していく。
「────」
無言で、じっと地面を見据えたままファウマが名詠門に右手をかざす。その瞬間、一メートル足らずだった名詠門が一気に十倍近く拡張した。
......Calra-l-QhaonisLecie【カルラ 血沸きたつ者】
地表の名詠門をこじあけるように、まず巨大な腕が光の環を突き破って現れた。
獅子のそれを思わせるほど逞しく発達した真紅の腕。それだけで十メートルはあろう巨大な両腕が現れ、次に出現したのは二対の紅翼。血に染まっているかのように表面はぬらりと光沢を放ち、そして燃え立つように蒸気を放っている。
腕が現れ、翼が現れ──名詠門から現れつつあるそれは真紅の竜だった。
「さっきの話だけど」
地から這い上がる竜などそしらぬ風に、ファウマが淡々と続ける。
「イブマリーって女はあなたの知り合い?」
「同級生だよ」
「でも死んじゃったんでしょ?」
「そうだね、もうこの世界にはいない」
「......そう」
表情こそ変わらぬまま、その声はわずかにくぐもっていた。
「あのね......きっと、その女は幸せだと思う。そうしてずっと想ってもらってるんだもん。......変な意味じゃなくて、純粋に羨ましいな、そういうの」
両腕をだらりと下げ、少女は、
「けれど、だからこそ確かめたいの」
決闘舞台に上がる者のそれでなく、フェルンの城で謁見者を迎え入れる王女の表情になっていた。
「あなたの虹色名詠が、本当にわたしの待ち望んでいたとおりの虹色なのかどうか。わたしはそれを確かめたい」
三奏 『分岐、そして集い』
1
エンジュ夜間病院──
エンジュの中央部にほど近いブロックに設置された病棟だ。エンジュの医者が一年を通して交代制で配置される公的な施設である。
「......ひとまずは安心というところか」
冷たい壁に背を預け、亜麻色の髪を短く切りそろえた男が天井を見上げた。
真冬の時季、さらにこの深夜。凍てつく寒さにもかかわらず上半身は薄布のシャツ一枚という偉丈夫だ。
そのシャツを内側を押し上げる筋肉が遠目からもわかる。脂肪はおろか余計な筋肉すらも削ぎ落とした肉体。筋骨逞しい大男──でありながら、その身のこなしは鈍重どころかむしろ鋭利な刃物を思わせる。
クラウス=ユン・ジルシュヴェッサー。名詠式の技法『反唱』に特化した者たち、祓名民。その何百という数の祓名民の長を担う男だ。
「お待たせ」
背中にかかった声に、クラウスは天井に向けていた視線を通路へと戻した。
ほっそりとした細身の女性。まだ二十代中頃だろう。
鮮やかな碧色の髪に、女豹を思わせる金色に輝く瞳が印象的な女性だ。活発的な顔だちと対照的に、患者が着る白衣を肩に羽織った姿はひどく弱々しい。もっとも彼女は患者でなく、羽織る白衣は単に防寒用として病院の物を借りただけだ。なにせ彼女は、この病院に来るまで下着姿も同然という恰好だったのだから。
「シャンテ、お前も休んでいろ」
が、シャンテと呼ばれた女性は言葉もなく、クラウスの隣にある長椅子に無言で腰かけただけだった。
「あまりそんな気分じゃないの」
「その薄着では風邪をひく」
「あら、それはシャツ一枚のあなたには言われたくないわね」
シャンテの微苦笑。その口元からこぼれた吐息が虚空に混じり、小さく白い蒸気に変わる。
「ネシリスの容態は?」
「ひとまず手当ては終わったわ。......ひどい火傷だったけど命に別状はないし、意識も明日のうちには戻るだろうって言われた」
そう答えるシャンテの表情も多少は落ちついただろうか。それだけ横目で確認し、クラウスは寄りかかっていた壁から身を起こした。
「行くの?」
「カインツだけに任せるわけにもいくまい」
競闘宮。一人で先行しているはずの虹色名詠士の顔を思いうかべる。
「話を整理するが、競闘宮の決闘舞台に設置してあった触媒が一連の騒ぎの原因。それを狙って競闘宮に忍びこんだ連中がいて、カインツはその連中の一人と交戦中。さらに競闘宮には名詠士見習いの学生も一緒にいる」
首を鳴らし、腕を組む。
どうも競闘宮にいたのはシャンテとネシリスだけではないらしい。学生、それも自分の娘エイダ、その学友のネイトという少年。そして灰色名詠を使うレフィスという少年も同行していたというのだ。
「ええ......本当はその子たちも一緒に退避させたかったんだけど。......ネイト君は三叉路にいなかったし、灰色名詠の子もどこに連れ去られたかわからなくて」
「さておき、その学生たちの無事の確認が先決だな」
「お願いね」
背を向けて歩きだす。そのタイミングでシャンテに再び呼び止められた。
「でも気をつけて。競闘宮にいる連中、たぶん三人か四人だと思うけど......一人一人が一癖ある相手だと思った方がいいわ」
競闘宮の覇者であるネシリスが敗れるほどの赤色名詠の詠い手。そして尋常でない規模の砂嵐を操る黄色名詠の詠い手がいることも確認済み。さらに──
「もう一つ確認するが、その中にアルヴィルという祓名民もいたんだな」
「祓名民かどうかはわからないけど、確かに連中の一人がアルヴィルって名前を出したわ」
〝調律者の争いの話をシャオがしてくれた時に思ったの。わたしはそんな難しい理屈要らないなって。アルヴィルと同じよ、わたしはシャオの手伝いがしたいだけ〟
先の名詠士二人、そしてアルヴィルという男。
それらを統率するのがシャオという人物。
「事情はおおよそ摑んだ。お前はネシリスのそばにいてやれ」
「......ええ」
うなずくかわりに彼女がそっと目を閉じる。その姿に背を向け、病院の出口へとつま先を向けた。
尖塔を中心としたエンジュの街並み。
天へと届くような建物の隙間を縫って走る真冬の風。甲高い音を立てて過ぎる突風だが、大陸中央なのでまだ気温は安定している方だろう。
「そういえばエンジュに来るのは久しいな」
病院の入口で預けた祓戈を左手に提げ、クラウスはわずかに視線を持ちあげた。
冷たい夜空。
周りの人間、たとえば虹色名詠士などはコートを着なければ風邪をひきますと言っていたが、火照った自分の身体にはむしろ丁度いいくらいだ。
「......アルヴィル」
長身瘦軀、黒ベストを羽織った祓名民の名だった。
祓名民のかつての長老ルーファに見込まれ、直々に師事した男。奔放な性格ゆえか、ルーファ老の鎗とはまた違う自分の型を早々に描いていた節がある。
腕は確か。そして何より、自分の娘が誰より懐いていた男だった。だからこそクラウスはアルヴィルを自分の部屋に招き、とある話を持ちかけたことがあった。
〝いや、旦那、そいつぁ......ちょっと俺にはでかすぎる話じゃないすか? なによりアイツが、まだそういうこと考えるトシじゃねえ〟
〝勇み足とは自覚しているよ。だが考えておいてほしい。返事もしばらくは保留でいい〟
思えば、あの時の答えを聞く前にアルヴィルは姿を消した。
なぜ自分に、そして娘にも告げず行方をくらましたのか。いずれにせよ、アルヴィルの行動が娘にも強く影響していることは確かだった。
娘は、まだアルヴィルに拘っている。
そしてその男が競闘宮にいる。場合によっては自分の敵として。
「......わからないことだらけだな、この歳で」
街灯が照らす通路をひたすらに直進──ふと、細い路地と合流する大通りでクラウスは足を止めた。
足音が二人分、近づいてくるような。
「ね、ねえミオってば! こんな狭い道よりおっきな道の方が」
「ダイジョーブ! こっちの方が絶対近道だから! あたしを信用しなさい!」
「でもこんな暗い道なのに......ミオ怖くないの?」
「えへへ、あたしミステリー研究会所属だもん」
「......トレミア・アカデミーって変わった活動があるのね」
暗がりの中、まず映ったのは金髪童顔の小柄な少女だった。
その後ろを恐る恐るついていくのは葡萄酒色の髪をした快活そうな少女だ。こちらは身長も平均よりやや上といったところか。どちらもコートを着た真冬の恰好ではあるのだが、クラウスが気に留めたのは、コートの隙間から見える制服だ。
「......あの白制服?」
暗がりの中、少女たちの服装をじっと凝視した。
金髪の少女が着ている白制服のデザイン。なかばコートに隠れてはいるが、襟もとに名詠専攻色を示す緑の線が確かに見える。あれは娘が通うトレミア・アカデミーのデザインだ。あの学園の生徒がどうして、しかもこんな夜中に歩いているのか。
「お、おい、そこの──二人の──」
どう声をかけていいかもわからず、クラウスはとにかく声を張り上げた。
同時、ぴたりと少女たちの動きが止まる。どうもこちらの存在には気づいていなかったらしい。
二人が振り返り、そして同時に。
『で、でで......でっ、出たァァァァァァァッッ!?』
「......でた?」
『しゃっっ、しゃべったぁぁぁっ!?』
「ちょ、ちょっと君たち? そんな──」
大声で悲鳴を上げ、ずざざざと音を立てて二人が建物の壁際まで跳び下がる。
「あ、あわわっ......へ、ヘレンちゃんどうしよう! あたし、今までこんな怖い岩巨人モドキ見たことないよ!」
「ミ、ミオのばか! やっぱりわたしが言ったとおりじゃない、こんな暗い道危ないって! 見なさいこのデカブツのむっつり顔、赤獅子だって絞め落とせそうな大胸筋! 間違いない、こいつ悪人よ! わたしたちを捕まえてイロイロする気なんだ!」
「い、イロイロっ!?......どどど、どういう意味なのヘレンちゃん!」
「......あの、君たち、夜中に大声は周りの迷惑──」
「静かにしろですって!? やっぱりそうね、声を出して助けを求められたら困るってことでしょ。そんな脅しには乗らないんだから! 目的はなに、お金? それとも──」
「......あー、その、なんだ............」
関わらない方が良さそうだ。
無言で立ち去ろうとする矢先、金髪の少女が叫んだ一言で状況が変わった。
「へ、ヘレンちゃん、どうしよう! このままじゃあたしたち、競闘宮に着く前に一巻の終わりだよ!」
「だめよミオ、諦めちゃだめ。とにかく今は──」
......競闘宮?
そういえばシャンテとネシリスに同行していたのは学生二人と聞いていた。そしてこの女子生徒たちも競闘宮へ向かおうとしている。それはつまり。
「......君たち、ネイトとレフィスという学生の知り合いか?」
『え?』
その名に、騒ぎ立てていた少女二人が静まった。
──アタリか。
「あれ......なんでネイト君のことを」
おどおどした表情ながらも金髪の少女が顔を持ちあげる。
「あいにくと時間がない。歩きながらの説明になるのは許してくれ」
少女たちを視線でうながし、クラウスは競闘宮へとつま先を向けた。
「それに私も聞きたいことがある。どうやら君たちも、私の知らない情報を持っているらしいからな」
2
『......ごめんなさい。まさかエイダのパパさんだなんてつゆ知らず』
「よく言われる。その件は気にしないでくれ」
『岩巨人モドキだの悪人だの、見た目で判断しちゃって本当に本当にごめんなさい』
「......反省は良いとして、別に繰り返す必要はないんだがな」
しゅんとうなだれる少女たち。対し、前を見つめたままクラウスは歩く速度を速めた。
──時間は食ったが、それに見合う情報ではあったか。
「あの......それで、本当にネシリスさんが大けがを............」
「今はシャンテがつきそって手当てを受けている。競闘宮には虹色が先に向かったが、今の状況を聞くに一人で行かせたのは軽率だったかもしれないな」
金髪の少女がミオ、そして葡萄酒色の髪の少女がヘレン。二人の話では、競闘宮にいるであろう学生は全部で四人だという。
まずネイトとレフィス。これはシャンテの話とも一致する。
が、ここからシャンテの報告と食い違うのだ。
彼女たちの話では娘、そしてクルーエルという少女も競闘宮に向かったはずだという。しかしシャンテが共に行動したのはネイトとレフィスの二人だけだった。
「繰り返すが、エイダとクルーエルという少女も競闘宮に?」
「は、はい。......部屋からいなくなってて寝間着もベッドにあったし、たぶん間違いないと思います」
なぜ情報が食い違う。
考えられるのはエイダとクルーエルの組が、ネイトとレフィスの組とは別行動で競闘宮に向かったという可能性ぐらいだが。
「でも本当に別行動だとすると、ネイト君たちとクルルの組は出発した時間はもちろん、競闘宮に向かった目的も違うってことですよね」
「......そうなるな」
ミオという少女を見下ろし、クラウスはわずかにその目を細めた。彼女は今、口にしていなかったこちらの思考を推測した上で会話を合わせたのだ。
──内面的な雰囲気と対照的に、聡い子だ。
「たぶんネイト君、競闘宮の触媒の正体を確かめるつもりだと思うんです。......あの触媒のことすごく気にしてたみたいだから。クルルに何も言わないで競闘宮に行ったのは、きっと、クルルを危険なことに巻きこみたくなかったからじゃないかなって」
「サリナルヴァからもその話は聞いている。筋は合うな」
エンジュで披露される新触媒について、その判断をシャンテとネシリス、および夜色名詠の少年に任せる──それがケルベルク研究所の筆頭研究者の判断だった。
「でもさミオ、そうするとエイダとクルーエルは競闘宮に別の理由があって向かったってことでしょ。こんな時間に競闘宮に行く理由があの二人にあるの?」
ヘレンと言ったか。
この少女の疑問も至極当然のものだろう。
「娘については父親に心当たりがある......私事だろうな」
そう、あの場所にはアルヴィルがいる。だとすればエイダが競闘宮に向かった理由は、あの男と会うため。その一択にほぼ絞られる。
しかし、なおさらわからない。
クルーエルという少女が、友人たちにも打ち明けずに宿を出た理由はいったい何だ?
エイダがそうであるように彼女にも相応の理由があるはず。なのに、それがまるで見えてこないのだ。
「それこそ何か、彼女だけの理由がないと説明つかないが」
「......クルル」
うつむくミオの肩に手を乗せる。
「その友人の安全の確保が最重要だ。混乱は避けたい、私の指示には従ってほしい」
二人がうなずくのを横目で捉え、クラウスは先行して通路を曲がった。
さっと視界が広がる。
広大な敷地を有する大広場。その奥に、エンジュでも桁違いに巨大な影がひっそりと、そして厳かにそびえ立っていた。
競闘宮。シャンテの話では昼間から完全封鎖になっているはずのそれが──
「......明かりが点いてる?」
呆然とした口調でヘレンが目を見開いた。
「内部に誰かがいるのは確実だな。あれは四階......資料閲覧室か」
数百メートル離れていても祓名民は夜目が利く。
「エイダかクルーエルのどちらかがいる可能性が高いな」
「え、どうしてそこまで」
「簡単な推測だ」
カインツが向かったのは決闘舞台。つまりカインツではない。
さらに、シャンテからは一階の三叉路で敵の襲撃を受けたと報告された。一階の襲撃を受けたのはネイトとレフィス。その状況でわざわざ四階まで移動する理由は考えにくい。
ならば、それとは別の行動を取っているエイダかクルーエルのどちらかだ。
「クルーエルという子が、わざわざ今夜を選んで四階の資料閲覧室に行く可能性は?」
「......わからないです」
「なら、まずはそこをあたってみるか」
意識せぬうちに左手の祓戈を握り直す。
その直後。
視界が突然にブレた。
「え......き、きゃっ......な、何この............地震!?」
ミオ、ヘレンが体勢を崩して地面にしゃがみこむ。
震動で街灯が点滅を繰り返し、建物の外壁がぱらぱらと崩れていく。地面の蓋をひっくり返したような、まるで地中で巨人が暴れているような震動だ。
「無理して立ちあがるな」
背後の二人を後目に、クラウスが見据えたのは競闘宮の中心だった。決闘舞台、開放型の天井から立ち上るのは血のように赤い炎。
名詠式の炎? ならば今の震動も巨大な真精か何かが?
「......状況が悪い方に変わったな。すまないが君たちはここで待っていてくれ」
予想していた反論はなかった。
彼女たちも察したのだ。この事態の異常さを。
「......みんなをお願いします」
それは少女のどちらが告げた言葉だっただろう。金髪童顔の少女か、葡萄酒色の髪をした少女か。
否。それはきっと、二人が共に言った言葉に違いない。
「全力をつくす」
ただ一言そう告げて。
祓名民の首領は競闘宮へと駆けだした。
あの場所で何が起きている。
......いや。いったい何が起きようとしている?
四奏 『それは一瞬の虹のように ─枯れ草色の─』
1
広大な大陸の中央部にある大都市、凱旋都市エンジュ。
凱旋都市の中央に位置する競闘宮。
競闘宮の中心にある決闘舞台。
世界の中心とも言うべき地で、その『石』は微弱な鼓動を始めていた。
まるで雛が殻を破る、その前兆であるかのように──
......なんだ、この震動?
触媒を握りしめた体勢でカインツは動きを止めた。
膝を伝って感じる奇怪な揺れ。足下を凝視しても原因などわからない。
ファウマの名詠門からは、徐々に這いずり浮かびあがる真紅の竜。最初はこの真精が現れるための余波が地を揺るがしているかとも考えた。
......けど違う。こいつじゃない。
巨大な真精が名詠される時に伴う鳴動は確かにある。だがこれは違う。そんな局所的なものではなく、まるで世界中が震えているようではないか。
奇妙な震え。どこだ? おそらく震源地はものすごく近い。間違いなくエンジュのどこか。いや、競闘宮のどこかだ。
決闘舞台を隈なく横目でなぞり、その一端でカインツは目を見開いた。
透明感のある白い巨大な石。蛇の鱗のような紋様が浮かびあがり、それが胎動しているかのごとく点滅している。
──あの触媒か!
「よそ見してる余裕なんてあるの?」
が、カインツの意識はなかば強制的に正面へと戻された。
「......まずはこいつを何とかしろってことか」
舞台に響きわたる咆吼を上げ、真紅の竜が巨体を浮かべる。
「ミクヴァ鱗片を気にするのはわたしに勝ってからね」
ファウマが右手を掲げる。竜が息を溜め、その胸部が風船のように膨張した。
吐息──灼熱の炎か毒ガスか、あるいは酸か。
名詠生物の吐息で考えられる可能性は主にこの三択。炎であれば水で、毒ガスであれば緑風妖精などの風で、酸であれば物理的な障壁で防ぐ。それが常套。
だがこの竜の吐息は未知。
予想して障壁を張ったとして、外した時はそれが致命傷。赤色名詠の竜ということを考慮すれば可能性としては炎の線が濃厚。どうする、それにかけるのか?
「カインツ、迷うっていうのは最悪の選択肢じゃない?」
同時、竜が真っ赤な口腔を開けた。
──悩む時間はない。
それを悟った瞬間、五つの宝石を握りしめた。
赤、青、黄、緑、白。五色に煌めく宝石が同時に光を放つ。
「それは......?」
ファウマの声に混じる緊張。
──『Heckt』──
竜の口から吹き荒れる炎の嵐。カインツが照準ではなく、決闘舞台そのものを焼き焦がす勢いの熱風が決闘舞台を支配する。
その炎が決闘舞台の地表を舐める瞬間、鏡に反射したかのように弾かれた。
夜空を赤く染める無数の火の粉。それに混じり、きらきらと輝く虹色の粒子が風に流されていく。
「......虹色名詠?」
自らの肩に降り積もる虹色の鱗粉。それを指ですくい取り、じっと観察するようにファウマが見つめる。
「一応そうなるかな」
肩の鱗粉をはらい、カインツは自分の周囲を舞う名詠生物に目をやった。
それは三体からなる虹色の蝶。幼児ほどの大きさの蝶が宙を舞う度、その七色の羽から同色の鱗粉がさらさらと降り積もる。竜の炎はこの鱗粉に弾かれたのだ。
「炎を弾く鱗粉か、珍しいわね」
粉雪のように溶けて消滅する鱗粉、そして虹色の蝶たち。
「......でも納得いかないな」
赤色名詠の少女は、もはやその名詠生物など見ていなかった。
「こんなのができるなら、最初の炎だって今と同じ要領で防いでれば良かったじゃない。わざわざ青色名詠で水膜を作る必要はなかった」
「そうかもしれないね」
カツツッ。握っていた五つの宝石がすべり落ち、地面を走るように転がっていく。
どうせ一度使った触媒だ、二度はない。
地に落ちた触媒を、ファウマは睨みつけるように見下ろしていた。
「虹色名詠、出し惜しみのつもり?」
「好きこのんで惜しんでるわけじゃないさ。けどね......」
新たに五つの宝石を取りだし、カインツはじっとそれを凝視した。
......虹色名詠はこんな決闘のために使うものじゃない。
この名詠色は、イブマリーとの約束を果たすためのものだから。
虹色名詠士という称号、それは名詠五色を全て制覇したことに起因する。しかしそれとはまるで別の、既存の五色とは違う本当の意味での虹色名詠式──
〝あの日あの時。イブマリーと誓った虹色は、そんなものじゃない〟
〝誓いはまだ果たされていない。ボクはまだ、キミに本当の虹色名詠を見せてない〟
それはトレミア・アカデミーの競演会で、彼女がいたから成しえたことだ。
だからこそ虹色名詠というのは自分の中でも特別な思いがある。それを安易に使ってしまえば、イブマリーとの約束の名詠式という意味も薄れてしまう気がするのだ。
「──だめ、出し惜しみは許さない」
剣を突き刺すように鋭い彼女の視線。
まるで自分の胸の内を全て知っているかのような。
「言ったでしょ。わたしは自分の気持ちに決着をつけるつもりでここに来てるの。虹色名詠を使わないあなたと戦っても意味がない」
「......なぜそこまで虹色名詠にこだわるんだい」
これがミクヴァ鱗片を懸けた決闘であるとは彼女の方から言ったことだ。なのに彼女の言い方では、あたかも勝敗すら二の次で、虹色名詠以外に決着はありえないと聞こえてしまう。なぜそこまで。
「さっき言ってたね、君がボクに何か望んでいることがあるって。それと関係があることなのかい」
だが、いつまで待っても返事はやってこなかった。
「............」
「ファウマ?」
少女は答えない、のではなかった。
血塗れの彼女は目の前で、
「............わた............し............は、......」
微笑んだまま膝に地をつき、そのままうつぶせに倒れていった。







──『Ezel』──
手にした黒曜石が光を放つ。
ほのかな暖色に照らされた通路に差す夜色の輝き。点でしかない光の粒子が繫ぎ合わさって線を描き、線を織りなして軌跡を描く。真円の軌跡から生まれる一際強い名詠光。
音もなく、夜色の毛並みをもった何かが降り立った。
黒の猟犬。
ネイトの肩ほどもある体高の、流線型を思わせるシャープな姿の名詠生物だ。
「あいつを捕まえて!」
指さす先は黒法師。
微笑をたたえたままのシャオめがけ猟犬が走る。距離にして十メートル弱。一瞬のうちに猟犬の爪が届く距離だ。
「猟犬か。走るのは得意みたいだけど動きは単調だね」
シャオと猟犬の中間地点、猟犬の前に立ちふさがる空間の歪み。
空白者。ほぼ完全な無色無臭ゆえ、猟犬の鼻にも探知はできない。つまり猟犬は空白者の妨害を躱せない。
が──
覆い被さるように腕を広げた空間の歪み。空白者に衝突する寸前、夜色の名詠生物はくるりと斜めに、横壁を蹴って跳躍した。
空白者の腕をすり抜けてその後方に着地。勢いを殺さぬまま背後の名詠士に迫る。
「......空白者の位置を正確に?」
シャオの双眸が猟犬の首元を見つめる。
犬型の名詠生物の首もと、まるで首輪のように一体化し隠れ潜む名詠生物がそこにいた。
夜色の蝙蝠。
「なるほど、蝙蝠の超音波なら空白者の位置を摑める。その情報を猟犬が──嗅覚の猟犬と聴覚の蝙蝠。面白い組み合わせだ」
シャオから感嘆の吐息。
直後、猟犬がシャオのローブに食らいついた。
──捕まえた!?
「とっておきの手品、見せてあげようか」
シャオがくすりと微笑み、そして......
ローブに食らいつくはずの爪と牙が空を裂き、猟犬が勢い余って壁に突き当たった。
夜色の名詠士が光の泡に包まれ消滅、猟犬の牙がすり抜けたのだ。
シャオが消えた?
「うそ......そんな」
どこを見渡しても黎色のローブの切れ端すらない。
空白者のように透明に? いや、ならば猟犬の鼻か蝙蝠の超音波探知に引っかかるはずだ。なのに二体の名詠生物もシャオの位置が捕捉できずうろたえている。
「手品......?」
考えろ、シャオは手品と言った。ならば当然仕掛けがある。それもおそらく空白名詠に絡んだカラクリだ。まず黒の猟犬で一度はシャオに迫ってたことを考えるなら、あの瞬間にシャオが別の名詠生物を詠んだとは考えにくい。
けど、だとしたらどんな方法で──
前方をくまなく睨みつけた直後、背後で誰かの苦笑の吐息。
「ねえ、そんなに悩まなくても教えてあげるよ?」
背中に誰かが密着する重みと体温。
つぅ──首筋を生暖かいものがなぞっていった。
「っ!」
「あ......指先で触っただけだったんだけど、くすぐったかった?」
振り返ったすぐ目の前、手を伸ばせば触れるほどの距離にシャオがいた。
声をかけられるまで気配はなかった。今、どこから現れた?
「必要なのは逆転の発想だよ。何かを名詠するんじゃなく、むしろ還す発想。それに空白名詠が関わっているというのは正解だけどね」
還す。
すなわちそれは名詠物を『セラの庭園』に戻すということ?
「そう。最初にネイトが『セラの庭園』から戻った時、その位置は三叉路でなく競闘宮の入口だったのを覚えてるかな。あれはもちろん自分がそう設定した。万が一あなたに先に戻られちゃったら、三叉路からは決闘舞台まですぐだからね」
......やっぱりシャオの仕掛けたことだったのか。
それはつまり、『セラの庭園』から名詠門を通してこちらの世界へ戻る時、発生する名詠門の位置調整ができるということだ。自分にそれを仕掛けたように、シャオは自らそれを利用した。
「猟犬が飛びかかる寸前に『セラの庭園』に逃げこんで、もう一度ここに戻る時、僕の背後に回る位置へ名詠門の出現場所を設定した......?」
結果として他人からはあたかも瞬間移動したように見える。
事実上、この名詠士を捕縛することが不可能に近いという示唆でもあった。
「正解。といってもある程度の縛りはある。距離や精度、時間の制約を考えればあまり便利とは言えないよ。もともと人の身で行える名詠式には限度がある」
限度がある。その箇所だけを不自然なほどシャオが強調してみせた。
「そう、人には有限性が存在する。たとえばその象徴が、今まさにカインツと戦っているであろう少女かもしれない......ファウマ、自分の身体のことを君が一番知っているはずだろうに」
シャオがわずかに頭上を見上げる。
言いようもない憤りを感じさせる、そんな口調で。
「でも、それが君の選んだ選択肢なんだね」
2
決闘の最中、何の前ぶれもなく少女が地面にくずおれる。
一瞬、それは何かの冗談かと思った。
「......ファウ......マ?」
返事はない。
その瞬間、カインツは頭上の竜の存在すら忘れ彼女のもとへ──
「......来......な、............来ない......でっっっっっ!」
それを、ほかならぬファウマの絶叫が拒絶した。
「わす......忘れた......の、今は決、闘......なの!」
いつ名詠したのか、彼女の隣には一体の赤獅子が控えていた。それにかろうじて摑まり、よじ登るようにして彼女が再び立ちあがる。
「けど、君が」
「──来ないでって言ってるでしょ!」
ファウマが腕を振り上げ、それを合図に竜が再び業火を撒き散らした。
「っつ、!」
飛び退く余裕すらないまま、ベルトに固定したポーチへと手を伸ばす。
硝子の容器、青の溶液がちゃぽんと音を立てて地面に染みる。直後、現れた氷の壁が竜の炎を遮った。
炎が止み、氷壁が溶け、目の前には肩で息をする少女が一人。
「まだ......勝負はついてない。わたし、生きてるもん」
血を触媒とする、命を削る名詠式。
カインツはシャンテからそう聞いていた。
けれど、ファウマが自分の血を触媒にする理由までは聞いてない。
......理由なんてどうでもいい。
「もういいファウマ。やめるんだ、これ以上名詠を続けたら君は──」
「死んじゃう? だから何?」
にこりと口の端をつり上げる彼女、今度こそカインツは言葉を返せなかった。
「......そんなに、そこまでしてこの触媒が必要なのかい」
押し殺した声は独り言だったかもわからない。
胸の奥、怒りにも似た激情が生まれる感覚。命よりもなお触媒を求める少女の貪欲────ではなく、そこまで人の心を蝕む触媒の存在そのものに。
「そうね。それはわたしの大事な理由の一つ。でもね、さっきも言ったでしょ。わたしはわたしの気持ちに決着をつけたくてここにいる。そのためには、あなたが虹色名詠を使うことが必要なの」
伏せた少女の表情からは何も読み取れない。
しかしその言葉だけは、何度も何度も繰り返されたものだった。
「......ボクの名詠?」
返事のかわり、少女が向けた言葉の相手は頭上の竜。
「やりなさい」
咆吼と共に竜が急降下。その風圧だけで砂埃が舞い、浮き上がった砂がコートを叩く。
閉じた目の中にも食いこむ砂嵐。息すら止め、手の感覚だけを頼りに再び触媒へと手を伸ばした。
──『Beorc』──
轟と唸る風を、さらに緑色の風圧が押さえつけた。
緑風妖精。シャンテが得意とする緑の第二音階に属する小型精命だ。
風と風がぶつかり、つぶし合う悲鳴の中、少女の澄んだ声は聞こえてきた。
「カインツ、わたしは......あなたに憧れているって言ったけど、その反面、ものすごく憎いって思う時がある」
今までの血を吐くような声ではない。
鳥の声も、どんな名工の楽器も敵わない自然の奇蹟。天上の鐘──史上最も美しいとされるファウマ・フェリ・フォシルベルの声だった。
「あなたは虹色名詠士なんて呼び名に執着がないって言うけど、わたしはそうは思わない。あなたが虹色名詠を使えるただ一人の名詠士であることに変わりはないもの」
赤獅子に寄りそったまま少女が再び手をかざす。
吼える風鳴りを従え、真紅の竜が吐息を溜める。
その中で──
「こんな惨めな赤色名詠しか残っていないわたしとは違う。あなたには本当にたくさんの可能性があって、そしてあなたはそれができる名詠士。............なのに、あなたはイブマリーという女のことしか見ていないっ!」
竜の三度目の炎。
それを弾いたのは先と同じ虹色の蝶、その鱗粉だった。
先にも見せた虹色名詠。
だが、それを見つめる少女はゆっくりと首を横に振る。
「あなたが虹色名詠を自ら制限する理由、それは彼女のための名詠だから大切にしたいという思いでしょ。それはわかるわ。でもね、だからといってそんなみすぼらしい虹色名詠じゃわたしには勝てない。何より、わたし自身が納得できないの。わたしがどんな気持ちであなたを城に呼んだと思う? わたしがあなたに言いたくて言いたくて言いたくて......でも言えなかった願いは、その程度の虹色名詠では叶わないものなのよ!」
竜が観客席に着地する。
その巨体とは不釣り合いなほど、その着地は静かだった。
「......お願いカインツ、あなたの虹色名詠を見せて」
まるで、少女の声を遮らないためとでもいうように。
「わたしがずっと望み続けた『ある願い』、それはあなたの虹色名詠でもやはり叶わぬものなのか──わたしはそれだけが知りたいの。願いが実際に叶うことは望んでない。......けれどこのまま中途半端に夢を引きずるよりは、いっそ叶わぬことと悟りたい。叶わぬ望みだったと諦めて納得したいの」
フェルンの王女を背に乗せ、赤獅子が壁を蹴って観客席によじ登る。
最前列の手すりに摑まり、血を失い蒼白の表情ながらも王女はその場に立ちあがった。
──叶うかどうかも不明確な期待。
──けれどこのまま永遠に夢を見続けるよりは、いっそ叶わぬと悟って諦めたい。
──そして、その判断を下すものが虹色名詠?
「......本当にどういうことだいファウマ、君はボクに何を────」
周囲に立ち上る炎、そしてふき出る汗。髪を濡らすそれを手でぬぐい、カインツは目の前の彼女へ一歩だけ近づいた。
一城の王女であり、競闘宮の覇者を超える名詠を操り、この世ならぬ澄んだ声を持つ彼女が、それ以上に望んでいること? ......わからない。わからないけれど、彼女が自身の全てを懸けて何かを伝えようとしていることだけは伝わってくる。
「言わせないで。そう言ったでしょ」
最後の皮肉であるかのように、少女が小さく表情をやわらげた。
「今はもう、あなたにわたしの望みを告げようとは思わない。お願いしようとは思わない。わたしはシャオの仲間として、あなたの敵としてここにいるんだもの」
手すりからも手を放し、彼女は、
「せめて、あなたの虹色名詠でわたしの矛盾する気持ちに決着をつけさせて。わたしにあの日の夢を諦めさせて!......その代償に、わたしもあなたに詠を聴かせてあげる。わたしの、たった一つの詠」
両手を広げ、静かにその場でまぶたを閉じた。
終奏が、近づいていた。
3
──リィィッイイィィィッッンッ、ッッ
高い、高い、金属同士が奏でる高音域の音色。何も知らぬ者が聴けばハンドベルの演奏とも錯覚しただろう。
人の顔が映るほど磨き上げられた鎗が振るわれ、そして重なる衝突音。
衝突の瞬間は一秒の単位を優に切る。それが立て続けに連続で続くがため、それは音で終わらず旋律として続くのだ。
「いいねえ、顔はカッカしてても鎗は冷静。俺、お前のそういうトコ嫌いじゃないぜ」
防戦、ただひたすらに守備に徹するのは男の祓名民。
斜めから打ち下ろすように、下から抉るように、横から払うように、瞬きすら許さない銀光を紙一重で見切り捌いていた。
「どの口がそう言う!」
アルヴィルの鎗を弾き、ガラ空きの肩へ祓戈をエイダは振るった。
手加減はない。当たれば骨折は免れない。が、それもアルヴィルの体捌きだけで空を切る。──そこまではエイダも予想の上だった。
空を切った祓戈の刃を寝かせ横に薙ぐ。背後に壁、正面にエイダの鎗、逃げ場はない。
「うぉ、アブなっ?」
ギンッ!──迫る祓戈がアルヴィルの衣服に触れるかどうかの瀬戸際で、アルヴィルの鎗の柄がエイダの鎗の柄を下から叩いた。
鎗先が上に逸れ、鎗先が穿ったのはアルヴィルのすぐ真上の壁。
「......悪くはねえな、あくまで一般的な水準ならの話」
「黙れっ!」
鎗の柄を床につきエイダは動きを止めた。
──呼吸が、もう隠しきれないほどに荒れていた。
悔しかった。自分の体力の低下を指摘され、そしてそれを否定できないことが。
「アルヴィル」
「ん?」
「何で......あたしが名詠学校に行ったことにそこまで反対するのさ。あたしが選んだこと......昔のお前なら絶対、反対しなかった」
どんないたずらをしても、どんな馬鹿をやっても、父親に叱られた時も目上の人間からたしなめられた時も、この男だけは笑ってた。「お前のそういうトコ、嫌いじゃないぜ」、そう言ってくれていた。
なのになぜあんなことを──
〝俺が勝ったら、お前、名詠学校を辞めろ〟
何が変わってしまったんだろう。
アルヴィルの性格は、たぶん変わってない。自分だって変わってない。
......変わったのは二人の距離?
「さあねえ、どっちつかずのお前が見てられねえからじゃねえの?」
「名詠学校と祓名民、......両方はだめなのか」
「ばーか」
目の前に、アルヴィルの鎗先があった。
「なっ......!」
ジンッ、と響く鈍い音。大振りで振り下ろされた鎗を柄の中央で受けとめる。──痛い。
その衝撃は振動よりも純粋な痛みに近く、鎗を支える両手に激痛をもたらした。
「そんな泣きそうな目で俺に訊くな。それがダメだって言ってんだよ」
「泣いてなんかないっ!」
「......どうやら、お子様にでもわかるような説明が必要らしいな」
鎗から感じる力がふっと消えた。
上から叩きつける鎗を引き、アルヴィルが数メートル後方に着地する。
「いいか。結局お前は、祓名民の世界に依存したままなんだよ。名詠学校つぅのもうわべだけだ」
「何を根拠に──」
「なら、なんで俺の台詞一つ一つにそんな過剰に反応する?」
ピシリッ
何かがひび割れた音をエイダは聞いていた。それは身体の内。無数の欠片になって胸を突き刺すように。
「俺が名詠学校をやめろなんて言ったから? そんなのどうでもいいじゃねえか、冷静に『お前には関係ないね』の一言で捨てればよかった。なのにお前は激昂して、あげくの果ては『名詠学校と祓名民、......両方はだめなのか』なんて俺に再度意見を求めた」
「それは......っ!」
「祓名民としても、お前は俺に依存してる」
指をさすまでもないと言いたげに、アルヴィルがじっと見据える先は──
「お前が使ってるその祓戈さ、一度壊れたんだよな」
その一言で、この男が何を言わんとしているかエイダは悟った。
ケルベルク研究所支部、灰色名詠の真精と戦った時に砕けた祓戈。それを直したのは、ほかならぬこの男。そう、修復した祓戈だけを残し、この男は突如姿をくらました。
「さてここで問題。もし俺が今ここでお前とこうして一戦交えることを想定して、お前の祓戈を修復する時に少しばかり細工してたら? たとえば、亀裂をそのまま放置しておいてたりな」
「......なっっ!」
反射的に視線は鎗の柄を向いていた。
鎗先から柄まで外傷はない。振るったときの弾性も前と変わりない。
細工?
──そんなはずはない。幼少の頃から、それこそ寝るとき以外ずっと触れてきた自分の祓戈だ。たとえ一グラムの異常であろうと握るだけで察知できる。
「ま、噓だけどな」
「......お前、いい加減に!」
「今な、一瞬だけ自分の祓戈を疑っただろ。死に物狂いで覚えた鎗の感覚より、お前は俺の作り話を一瞬でも信じたわけだ────違うか?」
「......ちがう......あたしは!」
あたしは......そんなつもりじゃ......
「お前は何でもなんて八方美人じゃねえんだよ。──構えな」
すっ。
その祓名民が鎗を腰だめに引き、構える。
名手が弓を引き、標的へと狙いを定める雰囲気さながらに。
「どちらか一個選べ。祓名民か、名詠学校かをな」
下を向いた彼の表情は見えない。それでもなお、彼の首元にかかった銀色のネックレスは照明を浴びてきらきらと輝いて──
銀色のアクセサリ。
......親父の旅に同行した時、せがんで露店で買ったんだっけ。
たくさんある物の中から組の物をわざわざ選んだ。なんとなく、アルヴィルとお揃いなら嬉しい──ただそれだけの子供心。それが、恋人用の組のアクセサリだったことを後から知って、猛烈に恥ずかしくなった記憶がある。
〝アルヴィル、お前、まだそれ持ってたのか〟
〝ん? おいおい、まるでお前はなくしちまったって言い方だな〟
過去の彼との思い出をよみがえらせるには、たったそれだけで十分だった。
......いやだ。
二つに一つ、本当にそれしかないの?
そんなの選べるわけがない。だって......名詠学校でできた友達は本当に大切で────それに、あたしは......この男のことも............
......あたしは......こいつのことが............今だって......
その瞬間、視界が真っ暗になった。
何もかもわからないまま、持っていた祓戈を振り上げて。
振り上げたまま、それを振り下ろす力も入らずに──
カランッ
気づいたときには、持っていたはずの祓戈が手からすべり落ち、エイダは床に膝をついていた。
何かが頰を伝っていく。
......あたし......泣いてるの?
悲しくて泣いてるはずなのに、涙の理由さえわからない。
「一太刀も振ることなく戦意喪失ね。なんつぅか、もう目が当てられないくらい末期だな」
うつむいたままで姿は見えずとも、アルヴィルの声だけは一方的に響いていた。
「どうも俺の見当違いだったな。名詠学校をやめろってのは撤回。もうそんなことどうでもよくなっちまった。......お前さ、やめるのは名詠学校じゃなく祓名民の方だわ」
「............」
「名詠学校がいいなら好きにすればいいさ。けどよ、もう祓戈は持つな。自分の鎗を放り投げて泣きだすなんてザマ、そんなか弱いお嬢さん気質じゃ誰一人守れねえ。守られる側になっちまったんだよ、お前は」
祓名民をやめる。
物心ついた時から持っていた祓戈を捨て、祓戈の到極者の称号を捨て、そしてその行き着く先に──
「もう、俺のことも忘れろ」
言葉が返せない。
涙が涸れても喉が痙攣して言葉にならない。ただひたすらに唇を嚙みしめて。
「俺が言いたいのはそれだけだ、じゃあな」
感情の余韻すら見せずアルヴィルが踵を返す。唇を嚙みしめたままその背を見つめ──
奥歯を嚙みしめ、苦い味を感じながら。
半開きの拳を、エイダは床に思いきり叩きつけた。
「......ける......な」

「ん?」
「ふざけ......るな」
床に両膝をつけた恰好で、それでも脇に落ちていた祓戈を握りしめる。
「あたしは......確かに泣き虫になっちまったかもしれない。......それは認めてもいい。でも、......それのどこが悪いんだ」
学園でたくさんの涙を見てきた。部活の試合で負けた生徒が流す悔し涙、誰かが怒って泣きだす場面もあった。だけど逆に、試合に勝った生徒の喜びの涙も、みんなで大笑いしすぎて涙が出る場面も同じくらい見てきた。
涙は弱さ。祓名民としてそう教わってきた自分に、どれだけまぶしかったことか。
「ここが名詠学校なら正論だろうけどな、今この場で俺に通用する類の正論じゃねえよ」
アルヴィルは振り返らない。
物言わぬおごそかな背中だけがそこにある。
「俺に何か言いたいんなら俺に勝ってからだ。ま、少なくとも今のお前には負ける気がしねえけどな」
「アルヴィル! あたしは──」
「出直してきな。今この場なら何百回やっても結果は同じだ」
祓戈をだらりと提げ、瘦軀の祓名民は部屋の出口へと靴音を響かせた。
「自分がどうしたいのか腹据えて考えてみろ、答えがでない限り俺には勝てねえよ」







競闘宮、地下倉庫。
薄暗いはずの倉庫が、目も眩む黄金の輝きに包まれた。
「......これが......?」
その光を直視すれば失明する。そう思わせるだけの光の渦の中で、右腕で目を覆いながらもレフィスは正面の名詠生物を睨みつけた。
黄金の光の中心。
その輝きは、一体の名詠生物が放つものだった。
ジ......ジッッ、ッジッッイ......ッィィイイッッッ......
その鳥が翼をゆっくりと打ち下ろすたび、黄金の羽毛が宙に舞う。
粉雪のように細かい羽毛、その一つ一つから雷光が弾け、放出される。両翼を広げれば優に大人三人以上、全長七メートルはあるだろう。それは翡翠色の眼と嘴、そして黄金の翼を持つ巨鳥だった。
遥か高度の雷雲の中に生息し、自らの体内に稲妻を宿す名詠生物──
「雷鳥......!」
黄色名詠の真精の一体。実物を見るのはレフィスも初めてだ。
「説明が要らないというのは楽でいい。さて、正真正銘、大将の駒同士で勝負と行こうじゃないか」
テシエラが指を打ち鳴らし、それと共に巨鳥が鳴いた。
鳥のさえずりと呼ぶにはあまりに強く鋭い、聴く者の鼓膜を破るために生まれたような怪音。それを聴くだけで髪が逆立つような悪寒が走った。
......とんだ怪物だ。
当初、レフィスは目の前の名詠生物を雷鳥だとは思わなかった。
判別に時間がかかったのはその大きさだ。書物での知識では、雷鳥は翼を広げても四メートル程度と聞いている。だがこいつはその二倍近い。テシエラは黄の大特異点。彼女が詠びだす名詠生物は全て特異個体になるという。まさか真精までも特異個体だとは思っていなかった。
しかしその一方で。
「──納得いかないな」
「ん?」
倉庫を圧迫する巨大な雷鳥ではなく、レフィスが指さしたのは彼女が手にする黄砂色のマフラーだ。
「その触媒が後罪で使えなくなってるというのなら、なんでそんなものをこの場で触媒に選んだのかわからない。別ので良かったじゃないか」
「固執だよ。馴染んだ物を使うのが一番安心できる」
手にしたマフラーを首に引っかけ、当人が指先でその端をつまんでみせる。
「だいぶ繊維がほどけているがまだ綺麗な色合いだろ? 昔は同色のローブも持っていたんだが、あいにくそれは譲ってしまってな。今はこれだけを大切にしてるのさ」
「ローブだけをか?」
「そう、ヨシュアという年老いた名詠士にだ」
──ヨシュア?
「おや? そういえば偶然だな。お前の師である老人も確かそんな名前だったか?」
自らの唇に指先をあて、おどけるようにテシエラが首をかしげてみせる。
「......ふざけるな」
喉の奥に沸きたつ激情をかろうじて呑みこみ、レフィスは師の姿を思いうかべた。
自分と別れた、あの大雨の日──
〝レフィス、お前は......私のようにはなるな。私やミシュダルのようにはな〟
嵐の日、雨に視界を奪われた状況で、師と別れることだけに頭がいってしまっていた。だからこそ師の着ていた服が何色かなんてまるで気にも留めていなかった。
だが思いだせ。
あの時ヨシュアがまとっていた物はまさに、テシエラのマフラーと同じ色をしたローブではなかったか?
「どうして......なんで......ヨシュアがお前のローブを!」
「そういう仲だったのさ。ま、あれを渡したのは餞別のためだがな」
大きく肩をすくめ、テシエラはあくまで空とぼけた口調を崩さない。
「私とヨシュアの目指す結論は同じ──だがそのための方法は異なっていた。ヨシュアは灰者の王を選び、私は〈ただそこに佇立する者〉を選んだ。ただそれだけのことだ」
そして今──小さくそう呟き、テシエラが片手を振り上げた。
その真上には黄の真精。
「レフィス、お前の真精は護りに秀でた名詠生物なんだろう?」
テシエラが見据えるのは自分の横に並ぶ『盾』の真精、十二銀盤の王盾者。
「競闘宮でお前が学生決闘を戦う姿を見た時から楽しみだった。ヨシュアに師事したお前の真精を見るのがな」
「......俺からすればとんだ迷惑だ」
「そうか? お前も興味があると思うんだがな。果たしてお前の真精は、本当に最強の盾なのか。ヨシュアの言葉は正しかったのか」
大小様々な十二の盾を持ち、ほぼ絶対に近い防衛力を誇る。......自らの真精をレフィスはそう信じている。どんな名詠生物の攻撃だろうと、今までこの十二重の盾を突破したものはない。
最強の盾だと信じている。
なのに、それでも不安は尽きない。どれだけ自身に言い聞かせても、じわじわと滲み出る錆として胸の中を侵食していく。
......もし仮に、自分の真精が最強の盾だとしても。
「撃ち倒せ」
テシエラの指令。
雷鳥の両翼が昂ぶりと共に震え、余波として生まれた放電が室内を駆けめぐる。
......もしも、相手の雷鳥もまた最強の戈であったとしたら?
黄金の光が、室内を遍く呑みこんだ。
この地下倉庫とて決して狭くはない。にもかかわらずその鳥から溢れる放電は、一瞬にして室内を蹂躙した。
雷鳥の翼から無数に枝分かれした雷が放たれる。
鞭のように唸る雷光に、銀色の真精が銀色の盾を突きだした。まず周囲を浮遊する十二の盾が防げる限りを。残りの稲妻を両手の盾で。
銀光と雷光。互いの光が触れた瞬間、その反応光にレフィスは瞼を焼かれた。
眩しさに耐えきれず目を閉じる刹那、レフィスは見てしまった。
銀色の盾が雷撃に耐えたのは、瞬きにも満たない一瞬。
──ほとばしる雷撃に食い破られ、自分の真精が持つ盾のことごとくが砕け散った。
「......なっ!」
盾を砕いた雷光が弾け、その飛沫が真精そして自分目がけ飛来し────
躱す。そんな思考を巡らせる間もないまま、感じたのは電流が身体を駆けめぐる猛烈な激痛だった。
......そ、............んな......
全身に無数の針を突き刺されたような痛みの中。
絶対の盾と信じて疑わなかった灰色の真精が、その場に膝をつき、灰色の煙を上げて還っていく姿がぼんやりと目に焼きついていた。
............どうなったんだ。
目を開けるより前に、頰に冷たい壁のような感触。
地下倉庫にうつぶせに倒れている。そう自覚したのは、皮肉にも。
「お、これは予想外。もう目が醒めたのか?」
倉庫の出口、今まさに決闘舞台へ向かおうとしているらしきテシエラの声だった。
「やれやれ、血気盛んな坊やには少しばかり雷が足りなかったらしいな」
振り返る表情は呆れ笑い。
「そして一つはっきりした。やはり坊やはミシュダルに及ばない」
......今、この女は何と言った。
「まさ......か、ミシュダルとも」
「昔のことさ。大将があいつに興味を持ってたんでな。私とアルヴィルで声をかけてみて、その時に激しくやらかした。ヨシュアの名前で釣ってみようとしたんだが、坊やと違って逆効果だったらしい」
首を鳴らし、彼女は黄砂色のマフラーを手元で弄りながら、
「あの男と比べて坊やはヌルいのさ。名詠式の技術、呼吸。挙げれば色々あるだろうが、何より灰色名詠への執念がない。ねっとりと絡みつくような盲愛がない。坊やはヨシュアから学んだことをただ丁寧に再現しているだけ。それでは私に届かない──ヨシュアの灰色名詠をただ再現するだけではな」
「......知っ、たようなことを言ってくれるな......」
「そうとも、私は坊や以上にヨシュアのことを知っているからな」
自分よりも前からヨシュアと旧知の仲。それも、自らのローブを与えるほど近しい関係にある二人。互いに共通の何かを目指していながらも、ヨシュアは灰者の王を、この女は〈ただそこに佇立する者〉を選び──そこで決裂した。
「お......前、本っ当に誰だ」
「言ったはずだがな。お姉さんは物知りだけど、タダで物を教えるほど善人じゃないのさ。あいにく、私がヨシュアの娘だとかそんな展開ではないのが残念だがな」
「......勝っ、手に......行か」
全身を蝕む激痛は治まるどころかより強く。声を上げることすら痛みが付きまとう。
それでもうつぶせの状態から四つん這いへ。四つん這いから立ちあがろうとした瞬間、糸が切れたように手足の力が消え、レフィスは再び床にくずおれた。
「この短時間で目が醒めたのは立派、まだ起き上がろうとする気力も悪くない。だが身体は正直だな」
首元にマフラーを巻き直し、テシエラがくるりと背中を向ける。そのつま先の方向は倉庫の出口へ。
「......くっ......そ......」
為す術なく、床に倒れたまま唇を嚙みしめた。
このままあの女を決闘舞台に行かせてしまうのか?
ネイトの案じていたミクヴァ鱗片をみすみす奪われてしまう。ヨシュアとあの女の因縁も確かめることもできないままに。
カツッ......ツッッ......
倉庫からテシエラが姿を消す。通路に彼女の靴音が響き。
カツッ。一際大きい足音を最後に、突如としてそれは聞こえなくなった。
それはつまり、テシエラが足を止めたということ?
「......この詠は............まさかあのお嬢さん、カルラを一日で二度......?」
足音にかわり、響いてきたのはテシエラの呟きだった。
驚愕、そして何かに対する明確な怒りを交えた声。どちらもレフィスの前では決して見せなかった感情だ。
「やめろファウマ! それ以上名詠を行えばお前が────」
この場にいない誰かに向けてテシエラが叫ぶ。
......何だ? いったい何が。
自由の利かない全身で、それでも首だけを持ちあげて状況を確かめようと──
ぞくっ。
頭の天辺から足のつま先まで、全身、体験したことのない種の寒気に粟立った。
それは詠。
あまりに冷たく、悲しい音色で。
あまりに美しく、澄みきった少女の声で。
あまりに粛々と、そして凜とした詞と旋律の〈讃来歌〉。
......こんな詠が。
違う。自分の知る〈讃来歌〉とあまりに違う。
誰が詠っているのかすらわからぬまま、レフィスはその詠をただ聴くほかなかった。
4
「君の詠?」
通常の〈讃来歌〉を用いないファウマの名詠式。
シャンテからもこの少女が詠ったという情報はなかったはずだ。
「わたしがカルラから教わった名詠式には詞も旋律もなかった。でもそれじゃ寂しかった......わたしだって、詠えるような時が来るのをずっと待ってた」
彼女の視線は遥か頭上へ。
「だからね、毎日少しずつ考えてたわ。疼きで眠れない夜の、わたしの唯一の楽しみだった。本気で詠うのはこれが最初............そして、きっと最後」
そして、少女は両手を広げて夜空を仰ぎ──
lu hecr-yubel phiakis nelar
Seclubemissinyulis-Ye-ckt-leyaEc ind
決して声量のある方ではない。
決して歌そのものが上手いというわけでもない。
それでもなお、その詠は──
deus Se ema sis yuty,sis lishe?
biexinves reinmi lihitaltlass
arma Selah,mille-s-diaphenoria Se hecemaelepeq Es
かつて競闘宮で響いたどんな〈讃来歌〉とも異なる何かを持っていた。
それは悲しみであり、
切望であり、
それゆえに美しいと感じてしまいそうになるほどの儚さだった。
hizymyet r-dim ucelmei pheno,hec r-yubel-Ye-
hizymyhec leyaKyel Phi lishe,hec hem-Ye-
Miqs,van nazallefCalraele
......こんな詠があっていいのか。
無意識のうち、カインツは両の拳を握りしめていた。
詠に魅了されたわけではない。むしろ逆。聴けば聴くほど、心の内が醒めていくのを感じるほどだ。
「こんな詠......」
名詠式は自らの望むものを、詠い、招くもの。
なのに、この詠には温もりも希望もない。
つまりこの詠も名詠式も、彼女が本来望むものであるはずがないのだ。
なのに、なぜ彼女はこんな詠を自ら奏でる?
「ファウマやめるんだ。......そんな詠、願っちゃいけない」
虹色名詠士と呼ばれたカインツですら初めてだった。
名詠式というものが、こんなにも悲しく思えたのは。
lu hecr-yubelole kis nelar
Is geenmissinlass-Ye-soliaSecelen
だが、それでもなお少女の詠は止まらない。
競闘宮の観客席、その最前列の手すりに身体を預けたまま──
目をつむり、
両手を広げ、
空を仰ぎ、
血濡れた素肌を隠そうともせず、
ただ静かに、自分の詠を口ずさみ──
deus Se ema sis coda,sis nepies?
biexin vesharpmi lihitalt lass
こぽっ。
観客席前段。紅の竜が自らの高熱で溶けて残った血色の液体。その表面に小さな気泡が生まれた。
一つ、二つ、三つ。
気泡が徐々に数を増し、そして大きくなっていく。
arma Selah,mille-s-diaphenoria
Se hecemadiapeq Es
気泡のその後に、まるで湖面から何かが浮かびあがるように、血色の液体の表面から何かが這い上がってきた。
まず最初に見えたのは巨大な腕。
真紅の鱗は溶けたように剝がれ、剝きだしの筋繊維の隙間からは黄土色の骨が見えた。二対の翼はぼろぼろに穴が空き、もはや飛ぶことすら叶うまい。頰の肉は削がれ、大きく開かれた下顎からは溶岩にも似た何かが滴り続けている。
それは腐りかけの、今にも朽ち果てるのではと思える竜だった。
「......これが」
シャンテの言っていた朽ちかけの竜。ネシリスの真精である大海蛇すら及ばなかった、ファウマの本当の真精。
hizymyet r-dim ucelmeipheno,hec r-lihit
hizymyhec leyalishe Es,hec tyna
咆吼と呼ぶにはあまりに奇怪な叫びを上げる真紅の竜。
そして。
......Miqs,van nazallefCalraele
少女は、手すりに向かって寄りかかった。
否。寄りかかるではなく、それはまるで息絶え倒れるかのごとく。
「ファウマ!?」
「......こ......ない、............で」
自分が走り寄るのを拒むように、ファウマの手が弱々しく手すりを摑んだ。持ちあげた顔に、さっきまでの凜とした雰囲気はない。小刻みにふるえる声で。
「聞きな......、っ......さっ......カ......イン」
歯を食いしばり、吐きだすように彼女が言葉を絞りだす。
「わたしのカルラは、自らを始原の真精と名乗ったわ。最古にして最強の真精、どんな五色の名詠も大特異点も勝てるはずがないの。そうよ、たとえあなたの虹色名詠でだって、どんな名詠式だって......わたしからカルラを取り除けるはずが──はず、が────」
......取り除く?
ファウマが言いよどんだ言葉に、カインツの脳裏を一瞬だけ違和感がかすめていった。
取り除く。そんな単語は名詠式においてはまず使われないからだ。
今のような決闘ならばその名詠生物を倒す、あるいは還す、と表現するのが普通。
取り除くとはいったい。
「ファウマ?」
「............あ......」
我に返ったように口を開け、彼女は寂しげな笑顔で首を横に振った。
「ううん......何でもない............気にしないで、わたしとあなたは敵同士だもん」
瞬きしたはずみにこぼれた涙を手の甲でぬぐい、
「ごめんね、こんな中途半端な女で」
その直後、糸が切れたように少女はその場にくずおれて、そして──
一滴の、涙が、地に跳ねた。
──その時カインツは、ファウマの内なる叫びを聴いた。
それは涙が地表に落ちる音。彼女が手の甲でぬぐった拍子、たった一つこぼれた雫。
そして、ばらばらだった疑問の欠片が一つになった。
「......ファウマ、君は」
観客席の手すりの陰、意識すら失い倒れた少女を再び見つめる。
命を削る名詠式を使い続けた一人の名詠士。
彼女が戦う理由はミクヴァ鱗片を守るため。だからこそ決闘舞台で自分を待っていた。
なのに彼女は気を失う直前まで、敵であるはずの自分の虹色名詠にこだわっていた。
彼女が最後の最後まで執着していた、その本当の理由は──
「そうか......」
ゆっくりと視線を上に持ちあげる。
倒れたファウマと対照的、観客席で仁王だちになる真紅の竜へ。
「お前が」
ぼろぼろに崩れた鱗と翼、表皮からしたたり落ちる赤い体液。脈動する筋繊維の下、見え隠れする黄土色の骨。それはまるで、ファウマの病の末期を暗示するように。
原因不明と言われ、どんな医者にも治せなかった彼女の病気。なるほど治せないわけだ。なぜなら──
「お前が、彼女の病気の元凶だったのか」
彼女の力の源であり、同時に彼女の苦しみの根本。
今ようやくわかった。彼女が最後まで伝えられずにいた願い。それは──
......ファウマ、君は、ボクに助けを求めていたのかい?
物心ついた頃からの病だと彼女は言っていた。医者からは不治の病と宣告され、なかば見放された状態で幾年も。想像を絶する苦痛。彼女の血塗れの素肌を一度見るだけでそれは伝わってくる。
そう、本当なら苦痛の根源たる真精なんて憎くて堪らないはずなのだ。
けれど彼女は、シャオという名詠士の力になるために自らカルラを受け入れた。
病に冒されたぼろぼろの身体でエンジュまで遠征し、命を削る名詠式を使い、それでも彼女は一言も──
自分の病が辛いとは言わなかった。
自分の病が苦しいとは言わなかった。
気丈に頑なに、救いを求める弱音を隠し続けてきた。
けれど頰から零れるしずくが、隠そうとしても隠しきれない、溢れる彼女の心の叫びを何より強く教えてくれた。
〝......カインツ、初めてわたしと会った時のこと覚えてるかしら〟
〝......あの時、わたしがどんな気持ちで虹色名詠士を待っていたと思う?〟
決闘舞台で最初に顔を合わせた時、彼女はそう言っていた。虹色名詠が見たいと。
だけど違う。彼女が何より伝えたくて、それでも伝えられずにいたこと。それはその言葉の先にこそあったはずなのだ。
医者にも見放された、誰にも手の施しようのない彼女の病。
だが、これが彼女に宿る真精の仕業だというのなら────
〝カインツ、あなたの虹色名詠なら、わたしの真精を取り除くことができますか〟
〝あなたの虹色名詠なら、わたしを......この病から解放してくれますか〟
──彼女はずっとそう叫びたくてたまらなかったはずなんだ。
けれど、それは叶わなかった。
彼女はシャオの仲間として、自分と対峙する選択肢を選んでしまったから。
〝ごめんね、こんな中途半端な女で〟
敵として振る舞うことを選んでおきながら、それでもずっと昔からの願いである、病からの解放という夢も捨てきれなかった。敵として非情に徹することもできず、対戦者を傷つけたことにも心を痛め、その一方で、誰より助けを求めたいのにそれを自分に言う勇気も出せない。
そんな板挟みにあることを彼女が一番よく知っていた。だからこそ彼女は、自分自身の気持ちに決着をつけるためここにいた──
「はっ......、ははっ......は............なんだろうね、この気持ち」
額に手を当ててカインツは笑った。
「虹色名詠か......」
彼女に指摘されたとおりだ。
イブマリーとの約束の名詠式。自分とイブマリーにとって特別なものだからこそ、その約束以外で虹色名詠を使うことはどんな状況でも極力避けてきた。
──けれど今だけは、本当にそれで終わっていいのか?
夜色名詠の少年からミクヴァ鱗片を預かった上で自分はここにいる。預かった者として、あの触媒を守り通す責務がある。それがここにいる理由だ。
しかし同時に、何かが胸の内で訴えかける。
もしこの戦いに一時的に勝利したとしても、ファウマの身を助けることができなければ、それは理想の結果と言えるのか?
〝願いが実際に叶うことは望んでない。......このまま中途半端に夢を引きずるならば、いっそ叶わぬことと悟りたい。叶わぬ望みだったと諦めて納得したい〟
「......そんな納得なんて違う。もっと別の選択肢があるはずなんだ」
ファウマが望みを失う終わり方でなく、彼女が救われるような選択肢──
最古にして最大の真精、朽ちゆく腐敗の竜カルラ。今ある五色の名詠では、ファウマからカルラを引き剝がすだけの力はない。
だからこそ彼女は、虹色名詠に最後の望みを抱いていた。
〝あなたの虹色名詠なら、わたしを......この病から解放してくれますか〟
「......ねえ、本当にふしぎだよ」
ここにはいない誰かに向け、カインツは空を仰ぎ見た。
かつて虹色名詠は、自分と『彼女』の二人きりの約束のはずだった。それが今、はじめは二人だけの他愛もない約束だったものが、こうして他者からの憧憬になっている。
「ボク自身、自分の名詠式でどれだけのことができるかなんて、たぶんこれっぽっちもわかってない。けどね──」
目の前に、自分にすがりたい一心で待ち望んでいた少女が倒れてる。
淡い期待を抱きながら、それを伝える勇気が出せなかった本当に弱い少女が。
「ここでファウマを助けられないのは、やっぱり違う気がする。このまま見て見ぬふりをするのは......したくないんだ」
かつて自分は、病床のイブマリーのそばにいてやることができなかった。彼女に会いたくて世界中を旅したのに、探しだすことも、そして看病してやることもできなかった。
そして今ここに、全身を蝕む奇病に冒されて地に倒れたファウマがいる。
自らの命よりもなお自らの名詠式を選んだ二人の少女。
共に、出会ったきっかけは虹色名詠。
「......なにも君とファウマを重ねて見ているわけじゃない。ただ、あの時と同じ後悔だけはしたくないから」
今、かつての悔恨の再現とも言える状況が立ちはだかっている。
決して望まぬ境遇を背負い、自らが朽ち果てる時をただ待つだけの少女。
「あの時は何もできなかったけど、何もできなかった悔しさがあるからこそ現在のボクがあるんだと思う。だから──」
子供の自分になくて大人の自分にあるもの。
大人になることでたった一つ得たもの、それが虹色に輝く名詠式なのだから。
「現在のボクならきっと何かができるはずなんだ」
ファウマの身体を蝕むものがカルラという真精ならば。
そして、虹色名詠で彼女を助けられる可能性があるというのなら。
「......君以外の人のために、ボクの勝手な気持ちで詠うことを」
詠えない名詠士。
詠う相手のいない名詠士。
あの日からずっと、もう詠うことはないと思ってた。
「ねえ、君は許してくれるかい」
竜の咆吼が突風となり髪をゆらした。
猛烈な地響きを立てて観客席を闊歩するカルラ。
直立したその大きさは十メートル近い。だがなお刮目すべきはそれが纏う狂気性。高熱、強酸の体液を撒き散らしながら無言で近づいてくる姿は、冬の冷気よりなお鋭く背中を凍らせる。
その相手に、カインツは自ら足を前へ進めた。
決闘舞台の中央、すなわち観客席にいる真精から最も目だつ場所へ。
始原の真精。暴走する名詠生物を前にしてなお、その瞳に怖れはなかった。
「いつか必ず謝るよ。だけど今だけは──」
虹色名詠は、たった一人の少女と約束を誓ったことで始まった。
それから時を経て、とある学園の競演会で。
虹色の光が福音のごとく世界を包み、そして彼女と一瞬の再会を果たした──それはあの日あの瞬間のためだけの、カインツですら二度できるかわからない特別な名詠式。
けれど、必要なものはそれではない。
今必要なものは約束でも何でもなく、もっと単純に、助けを求めている者に応えられる虹色名詠──願わくば、彼女を助けられる名詠式。
「今だけは見守っててくれるかな。イブマリー」
無人の観客席。目撃する者も記録に残す者もいない競闘宮で。
それでも確かに、その場には。
かつて夜色の少女が生涯ただ一人想いを寄せた、約束の少年がそこにいた。
〝......ばか。いちいちわたしのことなんか気にかけて。らしくない〟
それは、小さな小さな笑い声。
〝そう、そうやっていつもどおり飄々と構えてればいいの。コートに手でも突っこんで、本気か冗談かもわからない空とぼけた顔で──そして、自分の信じることをやればいい。それがわたしの知ってるカインツなんだから〟
Te shanispelcela-Ye-soa
eis qo,elmeiphenoet xissferm lef I
詠えない名詠士。
セラフェノ音語はいつ、誰が創造したのか──その謎に疑問を持つがゆえ、今まで〈讃来歌〉を進んで詠うことはためらわれた。それは今も大差ない。
そのはずなのに、詠は自然と溢れていった。そう、自分の命を削り続けて意識を失ったファウマには、もはやそれ以外にいかなるものも届かないのだから。
Uhwet pilekyelmissis-l-Eguniselen,fears
phiasluenazyupeqhuda
eisevhekis eyenlosh
観客席の椅子をなぎ倒し、腐りかけの竜が空を舞う。大小無数の穴が空いた翼を羽ばたかせる姿はあまりに不恰好で、それは浮遊でなく跳躍としか呼べないものだった。
地面に亀裂を生みながらも竜が決闘舞台に着地する。側面の石壁は砕け、竜の体液が触れた部分が酸に侵食されて溶けていく。
口蓋から、身体の表皮から、いたる箇所から滴り落ちる竜の体液。それが地面の亀裂に注ぎ、侵食し、決闘舞台はまたたく間に赤い湖に姿を変えた。
触れただけでその身を灼く酸の海。
ォォォ......ッッォォォ......
竜が吼えると同時、その体液が意志あるかのように破裂した。決闘舞台の端で溜まっていた赤の体液が氾濫し、津波のごとく膨れあがって決闘舞台を蹂躙する。
津波が襲う標的は舞台中央──枯れ草色のコートを羽織った名詠士。
破裂した飛沫が火の粉のように、氾濫した高熱の体液が津波のように押し寄せる。
じゅっ......ううぅうっっ......。
酸性を帯びた超高熱の体液が舞台の地面を溶かす。しかしその場所に、枯れ草色の名詠士の姿はなかった。
標的を見失った竜が舞台を見下ろす。が、やはり名詠士の姿はどこにもない。
竜が頭を持ちあげた、その時。
viefa quo,missin roo,ferm lef I
tih-l-Iesis yahe,vandelis kamyu etele Miqs
詠は決闘舞台でなく観客席の最後尾列──
競闘宮で最も高い位置、舞台を踏み抜く竜を見下ろす場所にカインツは立っていた。
その上空には彼を運んだ巨鳥。
虹色の翼を持つ名詠生物が羽ばたいていた。
mihaskislishe-di-elfa
PhiE yumxedelisclaruc getiearsic
その〈讃来歌〉は終わらない。
階段同士をつなぐ踊り場に立ち、腕は力を抜いたように下げた恰好で。ただ両の拳を握りしめ、カインツは目を閉じていた。
......Calra-l-BediwsLeoLecie【カルラ 悲しき赤病の冬姫】
体液を吐きだす竜の口が、先の咆吼と明らかに異なる種の「言葉」を吐きだした。
自らの名を宣言する真精。
直後、ぶつっっ、と何かがへし折れた音が決闘舞台にこだました。
竜の背中に生えた二対の翼が根本からちぎれ、落下。
砂の地面に墜落した途端、酸が地面を焼く音と強烈な腐臭を撒き散らし、どろりと液状化して真紅の水たまりを作りだす。
翼を失った真精、その前後左右に生まれた血色の泉。
こぽっ──その表面に再び気泡が浮かびあがった。
Te shanispelcela-Ye-soa
bieevhe Is,yum edelnoixearchuda
無数の気泡と共に、血色の泉の水面が小刻みに震えだす。震えは徐々に大きくなり──
ごぽっ。
赤い水面を突き破り、真紅の巨腕が姿を見せた。
真紅の鱗が剝がれ落ちた腕、そして翼、頭部。それも四つの泉からまったく同時、共時するかたちで真紅の名詠生物が現れる。
翼を失った最初の一体──その前後左右に真紅の竜がさらに四体。
直径五十メートルからなる決闘舞台は、五体の真精によって占められた。
昂ぶる蒸気が汽笛を鳴らすがごとく、五体の真精が同時に吼える。五体がそれぞれ別の音階──それは歪んだ不協和音からなる五重奏。
決闘舞台の砂地を巻き上げ、観客席の椅子を震わせる音の波。
「............」
コートを伝わる咆吼の震動を受け、カインツもまたまぶたをあけた。
見下ろす先は決闘舞台。十の視線と真っ向から対峙する。
カルラ──五体にして一体を構成する真精。一体につき一箇所、両手両足そして声帯。少女の身体に巣くい、その身にいたましき熱と疼きを宿す。
観客席上部の名詠士、決闘舞台の真精。互いの視線が捻れるように絡み合う。......が、視線の交叉は一瞬だけだった。
五体の竜が目を閉じ、その場で凍りついたように動きを止めたのだ。
この場にシャンテがいたならば心から恐怖していただろう。なぜならそれは、この竜が体内の高熱を解放し破裂する前兆なのだから。
Telmayehlesyudanoi missinelen,sfreiciel
kyel raqishuda,kei tes luebloz-Ye-miel
noeelmeiphenoet xiss,Uhwkis r-delis uzclar
決闘舞台に佇立する五体の竜、その巨体が一秒のずれもなく同時に膨張した。
時間が経つごとに体内の熱が高まっていく特性。その熱が竜の身体に耐えきれる限界を超えた時、何が起きる?
熱膨張、そして破裂。超高熱かつ酸性の体液、そして吹き荒れる熱波。青の大特異点として名詠された大海蛇の暴風雪でさえ三体分の破裂を抑えられなかった。ならばそれがこの状況、五体分ならばどうなるか。
にもかかわらず。
そんな状況を誰より間近で、誰より察していながらも、枯れ草色の詠使いは自らの詠を中断しようとはしなかった。
viefa quo,missin roo,fel ferm
tih-l-Iesis yahe,vanSophitIs riss loar
〝ボクと勝負しないか?〟
〝君が夜色名詠を完成させる前にボクは五色を究める。あと二十年、いや、十年以内にやってみせる。だから君も約束してくれ。君が生きてるうちに夜色名詠を完成させてボクに見せるって〟
......ボクは────虹色名詠士になれたのかな。
見上げたそこには夜空があった。開放型の天井からのぞく小さな夜。
「願わくば、イブマリー」
コートのポケットに入れたままだった右手を引き抜く。
右手に握った色とりどりの宝石。極彩色に輝くその色が等しく混じりあい、融和。
その手には既に、虹色の輝きをした何かがあった。
xinkislishe-di-elfa
vangetiephesleyaPhi Eswincle clar
紅の竜が閃光となり、破裂した。
血色の光が奔流となって押し寄せ、決闘舞台と観客席を瞬時に紅に染め上げる。それに続くかたちで猛烈な熱波、そして意識ごと吹き飛ばす音の衝撃波。
決闘舞台の石壁が砕け、ボルトで固定していたはずの観客席が落ち葉のように吹き飛んでいくその中心で──
「君の下まで届きますように」
カインツは、右手の輝きを夜空目がけて頭上に掲げた。
Rissia sophia,Heckt ele,Selah phenosia-s-HecktLaspha







......あれ......あたたかい?
身体を包むほのかな暖かみに触れ、ファウマはかすかに顔を持ちあげた。
なんだろう。この光、何色だろう。赤に緑に青、黄に白。暖色も寒色も全部が綺麗に重なって織り合わさって............
......虹色?
気を失ってどれほど経つかもわからない。状況も摑めぬまま半開きの瞳で手すりを探し、観客席の最前列でふらふらと立ちあがって──
目の前の世界が、虹色の雪を浴びてきらきらと輝いていた。
七色に光る雪の結晶。
決闘舞台、観客席へと降り積もり、開放天井を伝わって屋外の世界までも。
まるで大きな大きな虹の中に入ったように。これ以上ないほど強い極彩色のはずなのに、どれだけ長い間見つめても不快どころか心地よい。
雪の結晶が肌にふれ、小さな雫となって溶けていく。それは暖かい雪だった。
「ああっ......」
言葉にもならない声が胸の奥から生まれていく。
『......綺麗......』
それは自分の声ではない。
決闘舞台の五体の竜。それが全く同時に、消え入りそうな声で呟いたものだった。
『......あた......たかい......』
突然に、中央にいた一体が膝を突く。
連鎖するように次々と。
──そんな、うそ............こんなことって。
カルラの激昂が鎮まっていく? 始原の真精。その力の巨大さゆえ、名詠者である自分にまで熱病として余波を与えるほどの存在が。
『............』
凍りついた雪が陽の光を浴びて溶ける光景さながらに、紅の竜の身体からほのかな赤い光の粒が空に向かって上っていく。
カルラが還っていく。
それも抵抗するどころか、自らそれを望んでいるように。にわかに信じられる光景ではない。けれど、それをふしぎと思わせないだけの安らぎがこの光には満ちていた。
五体の真精が消え、静まりかえる決闘舞台。
それと共に、溢れる虹色の光も少しずつ夜空の中へ吸いこまれるように──
「あ......」
天に帰っていく光へとファウマは必死で手を伸ばした。
「ま......っって......まだっ......」
あの輝きをまだ見ていたい。
あの温もりをまだ感じていたい、全てを忘れて温もりの中に身体を浸していたい。
「お願い、もう少しだけ......っ!」
最前列の落下防止用として設置された手すり、そこから身を乗りだしてもまだ届かない。
摑めなくていい、せめて指先だけでも触れられたのなら────ふわふわと風に乗る光の粒子に、確かに触れたその瞬間。
ファウマは観客席から転がり落ちた。
............あ。
身体が言うことをきかない。観客席から下まで何メートルあるんだっけ......たぶん落ちたら怪我じゃすまないだろう。でも落下してるのに指一本動かせなくて、ただただ硬い砂地が近づいてくるのが見えるだけで............
目を閉じる寸前、枯れ草色の何かが見えた。
「っと!」
地表に激突する寸前、自分の身体がふわりと浮いた。
「びっくりしたよ、いくら何でも観客席から落ちるなんて」
「カインツ?」
目の前、本当にすぐ近くに彼の顔。はにかみながらの苦笑。抱きとめてくれたのだと気づくより、彼のそんな表情の方から目が離せなかった。
「......あれは」
「ん?」
──なんて綺麗な名詠式。
そう告げるのがふしぎと恥ずかしくて、わざと空とぼけることを選んだ。
「あれが虹色名詠?」
「それはボクじゃなく君が決めることかもね」
「......なんで虹色名詠式が『Heckt』なの?」
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』
五色の名詠式で用いられる単語は音色によって決まっている。
カインツが虹色の蝶を名詠した時から気になっていた。あの時彼は、
──『Heckt』──
その単語を、虹色名詠の起動に用いていた。
セラフェノ音語における『Heckt』とは、本来なら『Neckt』と共に否定を意味する言葉。
「否定......するのが虹色名詠なの?」
あの虹色の輝きが何を否定するのかファウマには納得いかなかったのだ。
否定という言葉に良いイメージを持つ者は少ないだろう。それが虹色名詠の煌めきと符合するとは思えない。
「似合わないかな? ずっと前から、虹色名詠には『Heckt』を使おうって考えてたんだけど」
「逆に訊きたいくらい。どうしてそれが似合うだなんて」
言いかけておきながら、ファウマは言葉なかばで口をつぐんだ。
枯れ草色のコートを羽織った名詠士が、まるで子供がとびきりの発見を大人に報告するような笑顔でこう言ったから。
「否定の否定は、強い肯定だよ?」
できないはずがない。
五色の名詠を制覇なんてできない────そんなはずがない。
虹色名詠なんてできない────そんなわけがない。
不可能と呼ばれる領域、名詠式の限界。その突破。カインツ・アーウィンケルが十年以上も前から思い描いていた夢を、ファウマはようやく理解した。
......だから、そんな単語を。
虹色名詠が否定するものは肯定ではない。人の成長を止めてしまう否定という意識そのものなのだ。それを願う彼だからこそ、虹色名詠もまた彼を選んだ............
「......なによそれ、ほんと子供みたいな発想」
「やっぱり似合わないかな」
「............」
素直に言うこともできなくて、顔をそらすのが精一杯だった。
「降ろしても平気かい」
こくんとうなずくと、彼はそっと自分を砂地に降ろしてくれた。
......あれ?
しかし彼はと言えば、自分を降ろして手持ちぶさたになった後も、いつになく決まり悪そうに視線をそらしたままだ。自分が見上げてもそっぽを向いたまま。
「カインツ?」
「今になって言うのもなんだけど、何か着てもらえるとありがたいな」
ふと、コートを羽織った彼と自分を比べ──今さらながら、ファウマは自分が素肌を晒したままのあられもない姿であることを思いだした。でも、それが何だろう。戦う前だって、彼が決闘舞台に現れた時から自分は服も包帯も脱いだ状態だったのに。
「? わたしさっきと同じ姿だけど?」
「いや......さっきはお互い距離があったから。今は距離が近くて......その、やっぱり良くないよ。お互いに」
「わたしは見られても平気」
「......わかったよ、ボクの負けだ。お願いするから服を着てくれないかな」
彼が視線で示すのは地べたに座る自分の真横、ネシリスとの戦いの際に地面に脱ぎ捨てた薄絹の衣装だ。
素肌の上に直接上着を着る感触に顔をしかめつつ、それでも服の袖に腕を通していく。乾ききらぬ血糊が服に張りつき、薄絹の裏地から表へと染みこんで......
............
......そっか。
今一度自分の素肌を眺め、ファウマはカインツに悟られぬように息をついた。
病の原因たるカルラが消えたとて自分の傷が劇的に治るわけではない。病症が改善に向かうかどうか、それはきっと、これからの自分次第なのだろう。
だからこそ気がかりだったものは自分の身体より、むしろ──そう、わたしを受けとめた時、彼のコートだって......
「カインツ、あ、あの。ええと」
「ん?」
振り向く彼を正面から眺め、ファウマは思わず息を止めた。
枯れ草色のコートの肩から腕の部分にかけ、生々しい血の痕がべっとりと付着していた。ほかでもない、落下する自分を受けとめた際の血痕だ。
どれだけ丁寧に洗っても完全に落ちることはないだろう。自分の衣服で何度となく経験したことだ。そもそも彼の着ているコート自体、水洗いなんてできるものかどうかもわからない。もしかしたら、もうずっとそのままで......
「そのコート......替えは......ないのよね。貰いものなのよね」
「君が気にすることじゃない。ボクがしたことだから」
はにかむ表情を微笑へと移し、カインツはおどけたように首を振っただけだった。
「それより、アレはもういいかな」
彼が横目で見据える先に、大人が抱えるほどあろう巨大な白い石。
ミクヴァ鱗片──先の戦いでも、あの触媒だけはまるで無傷のまま安置されていた。
「......守れなかったわたしが悪いんだもん。好きにして」
カルラも消えた。それにもう身体が動かない。シャオたちにも心配されているだろう。自分が負けたことを責めるより、あの三人はわたしの身体のことを気にかける。そういう仲間なんだ、あいつらは。だからこそ自分も何かしたくて、そのためにエンジュまでやってきた。......でも最後の最後で負けた。完敗だった。
「カインツはミクヴァ鱗片をどうするの」
「あいにくのところボクは事情を摑めてないんでね。とりあえずは一緒に来てる〈イ短調〉の先輩に預けることになるかな」
「でも預け──」
預けただけじゃ解決になりはしない。
そう言いかけた言葉は、喉の奥に溜まった血の味と混ざって消えた。
......そうか、カインツは知らないんだ。
調律者アマデウスとミクヴェクスの争い。セラフェノ真言。セラの庭園。彼はその背景を知らぬまま争いの渦中に飛びこんだ、いわば調律者たちさえ予期せぬ来訪者。
彼は知らない。この触媒がどれだけ大事なものなのか。過去どれだけ多くの名詠士が、この触媒を巡って争ったか。彼のミクヴァ鱗片に対する意識はきっと、暴走の危険を孕んだ正体不明の触媒、その程度のものなのだ。
「聞いてカインツ、あの点滅してる石はただの触媒じゃ」
反対側の入口の脇に置かれたままのミクヴァ鱗片を指さして。
「......え?」
指さしたまま、ファウマは自分の目を疑った。
ミクヴァ鱗片はその表面に鱗に似た紋様のある石だ。その紋様がぼんやりと光を放って点滅し、あたかもそれが脈動するように動いて見えるというのが最大の特徴である。
そのはずが......紋様の脈動が止まっていた。
光を放つこともなく、河岸に落ちている白石と何ら変わらないようにひっそりと。
「触媒の動きが止まった?」
カインツすら目を細めミクヴァ鱗片を睨みつけている。
これはいったい──
異変は、その直後にやってきた。
五奏 『殻より目覚めるもの』
1
競闘宮、三叉路。
ごっ! という音と同時、その衝撃波はやってきた。床が抜けおちたような感覚に足の自由を奪われ、ネイトは間近の壁に手をついた。
壁の装飾が次々と剝がれ、天井の照明も地震の影響で点滅を繰り返す。遠くで何かが割れた音、おそらくどこかで照明が落下したのだろう。
──この揺れは誰かの名詠式?
かつて競演会で五色のヒドラが生まれた時、その前兆で似た震動があった。しかし今度のものはあまりに長く、そして規模が常軌を逸している。
「始まったか」
シャオの口から洩れる嘆息。
競闘宮全体が怯えたように震える中、その黒法師だけは壁に寄りかかることもなく、まるで別の空間に立っているかのように平然と佇立していた。
しかし今までと一つ異なる点は、その表情に苦々しい歪みが混じっていたことだ。
「これも......」
「自分の仕業? いや、これは自分にとっても想定の外だよ。正確に言うならば、可能性としては考えていたけれど、あまり歓迎したくない事象だった」
自分の耳を疑った。
この名詠士ですら歓迎したくない事象、そんなものがあるなんて。
「想定外の要因は二つ。他ならぬあなたとクルーエルだ」
作り物めいた白い人差し指を天井へ伸ばすシャオ。
「一つ目。まずミクヴァ鱗片の奪取の際、まさかあなたがここまで粘るとは思わなかった。『セラの庭園』から帰還され、さらには庭園に置いてきた自分の触媒まで回収された。これによって自分がミクヴァ鱗片に触れるタイミングがずれてしまったからね。ミクヴェクスの名詠、つまり孵化のタイミングに狂いが生じた......これはミクヴェクスの名詠を良しとしないあなたにとっては好都合と言える。しかしこれ自体は些末であり、この震動の直接の要因ではない。本当の要因はもう片方だ」
二つ目──そのつぶやきと共に、シャオが二本目の指を天井へと向ける。
「原因はクルーエル・ソフィネットなんだよ。アマリリスの守護によって十歳以降も自らの自我と記憶を保つことで、残酷な純粋知性は思わぬ方向に進化を遂げた。つまり調律者としての成長。これによってクルーエルはミクヴェクスを無意識のうちに拒絶しはじめた。......アマリリスのもくろみは半分成功したが、唯一の誤算は、その拒絶があまりに強すぎたことだ」
「......どういうこと」
クルーエルがミクヴェクスを拒絶するまでに成長した。それは彼女が残酷な純粋知性という役目から抜けだすには悪いことではない気がする。拒絶が強すぎるなんて表現、なぜそれがアマリリスの誤算になりうるのか。
「ミクヴァ鱗片は、そんなクルーエルの接近に対して一種の抗体反応を生じてしまっている。これはかつて風の生まれる島で、アマリリスがミクヴェクスの名詠に介入し、かわりに自らがこの世界に生まれたことに起因する。ネイト、覚えているでしょ? その時に何が起きたのか」
風の生まれる島、そして風の砕けた日。
かつてシャオがミクヴェクスを名詠する時にアマリリスが行った介入。それにより自らがミクヴェクスのかわりにこの世界に名詠された。この時、アマリリスとミクヴェクスという調律者同士の対立が大爆発──島一つを焦土に変える災厄を巻き起こした。
「まさか......」
頰を冷たいものが伝っていく。
「そう、今ここで風の砕けた日が再び起きようとしている。かつてはアマリリスとミクヴェクスの対立だったが、今回はクルーエル本人とミクヴァ鱗片。その拒絶反応が力として外部に発生したものが風の砕けた日。特に今度のものは二度目、かつてのものより規模が小さいとは思わない方がいい」
名詠式を司る調律者同士の反発。それがこの競闘宮を中心に起きればどうなるか。
競闘宮、凱旋都市を焦土に変えてもまだ不十分。その余波だけで周囲の都市も瓦礫に埋まることもありうる。
シャオはそう言っているのだ。
「そんな......」
「助かりたい? それなら簡単だ、爆発の直前に知り合いを連れて『セラの庭園』に逃げこめばいい」
「──ふざけるなっ!」
鳴動を続ける大地。力ずくで鎮めるつもりでネイトは床を踏みつけた。
シャオの提示した選択は、自分たちが助かるという点では間違っていない。けれど。
「......ほかの人たちはどうなるのさ」
「もちろん爆発に巻きこまれる。ではどうする? 仮にあなたと自分が今からエンジュの人間を避難させるとして、どうあがいても一割の救出すら間に合わない。残り九割、そしてエンジュ以外の都市の人は?」
「............やっぱり」
思った通りだった。この名詠士もそれを承知した上で──自分がシャオの案を拒否するなんてことは最初から知っていた。それは選択肢を与えるようで、実際は選択肢などなき提示。
「みんなが助かる方法は......」
「一つだけある」
そう告げるシャオの表情は微笑だった。
「そしてネイト、これはあなたとクルーエルで決めるといい」







競闘宮、四階資料閲覧室。
じゃりっ......細分化した硝子。踏み砕かれ、さらに小さな粒子となる音が響く。
止むことを知らぬ鳴動を足先に感じながらも、クラウスは平然と歩を進めていった。
揺れる足下と対照的に、部屋の内部は驚くほど静かだった。
展示してある資料のことごとくが壁から落下し、木製棚も大半が床に倒れている。既に行き着くところまで行った後なのだ。
「シャオに合流しようと思った矢先にこれだもんな、......よお旦那、ごぶさた」
そんな状況で、瘦軀の祓名民はまるで気楽な様子で鎗を掲げていた。
「久しぶりだなアルヴィル」
祓戈を右手に携えたまま、歩調を変えずに距離を詰める。視線はその男でなく、床に膝をつき、今まさに立ちあがろうとしていた少女。
「......親父?」
亜麻色の髪、赤銅色に日焼けした少女が顔を持ちあげた。
──まぶたの周りがわずかに腫れていた。
エイダ。夏に会ってから二、三ヶ月ぶりか。まさかこんな場所、こんな時に出会うとは思っていなかったが。
「さあて色々きまずいよな、どうするべきか」
「アルヴィル、聞きたいことがいくつかある......わかっているな」
娘がここまで感情を露わにして泣きはらすのは父親の記憶にない。物理的な痛みや苦しみで泣く娘ではない。鎗で一戦交えたようだが外傷もなきに等しい。ならばもっと別の何か──
そこまで思考を巡らせながら、クラウスは一度その思考を遮断した。
父親は二の次。今は別の役目がある。
「祓名民を抜けて何をしていた。この真夜中、競闘宮に忍びこむことと無関係ではないだろう?」
「何をしてたかってぇと、まあ大陸を回ってきたかな。旦那の若い頃の真似事みたいなもんだ。なかなか面白い奴らとも会えたし、俺にしては有意義な感じだったぜ」
「その面白い奴らというのがお前の仲間か」
「まあそうだな──っと、旦那の愛娘が置いてけぼりだぜ。コイツには俺以外のこと話してないんで、旦那から話してやらないと伝わらないんじゃねえの?」
視界の端、自分の真横に近い位置で小さな物音。それが何を意味するかを悟り、クラウスはあえて振り向かなかった。
「......どういうことだ親父。それに、なんで親父がここにいる」
鎗の柄を支えにエイダが立ちあがっていた。
「競闘宮で起きた昼間の騒ぎ、あの段階でシャンテから報告があった。カインツと共に駆けつけてみれば、どうも昼間の騒ぎの原因になった触媒を狙う連中がいるらしいな。......ミクヴァ鱗片と言ったか」
「やーれやれ、あの虹色名詠士も来てるとはね」
祓戈の柄で床をトンと叩き、アルヴィルが天井に向かって溜息。
「姫さんもさすがに二戦は厳しいか。姐さんも長期戦やれる身体じゃないし、どうしたもんかね。我らがリーダーにいたっては、そもそも戦うなんて気があるのかないのか」
「リーダーとやらはどこにいる?」
「残念、俺も知らないんだ。まあ二つに一つってとこか。姫さんが守ってるミクヴァ鱗片を手に入れるっつぅんなら決闘舞台。あとは......『ネイトに興味があるんだ』って前々から言ってたし、そいつの相手じゃねえの?」
空とぼけた風にアルヴィルが首を振る。
が、おそらく噓ではあるまい。
「で、逆に訊くけど旦那は何しに来たんだ? 決闘舞台の触媒を取り戻しにでも来たってか。──いや、それならこんなとこ来ねえよな。おおかたミクヴァ鱗片については虹色名詠士に任せて、旦那は愛娘ほか残りの救助ってとこか。それなら俺相手に時間食ってる場合じゃないんじゃねえの?」
「それをお前から言われるとは心外だな」
「いや、俺も少し事情が変わってきた」
アルヴィルの鎗先が天井から足下へ。カツッ──足下を穿つ小さな一撃。
「こればっかりは本心で言うけど......旦那、この揺れはちっとヤバイぜ」
「知っているなら話してもらおう」
「俺もシャオからちっとしか聞いてないけど、あいにく事態は最悪ってやつだ。俺らがどうにかできる範疇じゃあなくなった。......一時間後なのか数分後なのか、ってのはわからねえけど」
「だから、何がだ」
「ん? まあ簡単なことだよ旦那」
床に転がった時計を一瞥し苦笑する祓名民。
そして。
「競闘宮どころか凱旋都市が吹き飛ぶ。それこそ跡形なくな」
2
地面をひっくり返したような揺れは、何の前触れもなくやってきた。
「地震?」
エンジュの街路を駆ける足を止め、クルーエルはその場に片手をついてしゃがみこんだ。
最初は建物の壁に寄りそうことも考えたが、その壁すらパラパラと小さな破片が剝がれていく。街灯も砕けたのか、甲高い音と共に周囲の明かりすら消えてしまったほどだ。
......まだ止まない?
直下型の地震かと思ったがどうも様子がおかしい。まさかこれも、アマリリスから教えてもらったミクヴェクスに関係がある?
「でも、行かな──」
立ちあがろうとした途端、頭の中を揺さぶるような震動に目眩を起こした。
......だめだ、とてもじゃないけど走れるような揺れじゃない。
足下を伝わる震動に指先まで震わせながら、それでも制服のポケットから緋色の花を取りだした。
Miscross,En ludeusSec lube leya
緋色の花からこぼれる光の粒子。光の粒子がさらに無数の花弁に姿を変え、その無数の花弁がさらに無数の羽根へ。赤く燈える無数の羽根が周囲を包み──
『............』
周囲を襲う揺れなど気にも留めず、黎明の神鳥は優雅に地表へと降り立った。
なのに、なんでだろう。その瞳は言葉にできない悲しさに濡れているような。
「あ、あの......もしかして詠んじゃまずかったかな」
『あなたが背負う真実の枷。あなたの分身となる妹から聞きましたか?』
わたしの妹。
それが誰を指すかを察し、胸の奥がとくんと跳ねた。
「......うん」
『その上で競闘宮に行くつもり? 行くからには相応の覚悟が必要です』
何も考えず、ただ条件反射のまま首肯しようとして。
『最も愛しき者との別れ。それをも心に留めておきなさい』
寒気が背筋を過ぎり、両手の指先までも凍りつかせた。
『妹から聞きましたね。今夜あなたの選択が、夜明けの名を持つ少年の道行きを決めることになると』
忘れやしない。昼間の、触媒披露会の時だ。
頭痛と吐き気で意識を失った時、アマリリスが現れて──
〝あなたの道行きだもの、あなたが選びなさい。......でも、あなたのこれからの選択が、世界中の人々を巻きこむことだけは知っておいて〟
その時が、もうそんな近くに迫ってる......?
ひゅぅっ。
吹き荒ぶ寒風が首筋に触り、クルーエルは反射的に身体を縮ませた。
黎明の神鳥が空を滑走する高度は建物のさらに上空だ。天を衝くような尖塔が密集したエンジュでは建物の間を抜けるのは危険だし、かといって街路すれすれを飛ぶのも障害物の関係で難しい。
『寒いですか』
「......がまん、できるよ」
寒さで歯の根が合わない。爪の先が食いこむくらい両手を握りしめ、かろうじてそれだけ言葉にできた。
『すぐ着きます』
眼下の風景が流れるように過ぎていく。
......この地震、どれだけ被害が出てるんだろう。
星明かりしかきかない闇夜、さらにこの高度ゆえ確認することも難しい。唯一わかるのがエンジュの街灯だ。夜でも悠々と歩けるはずの街路の明かり、今は半分程度だろうか。小刻みに点滅してるのも見てとれる。街灯そのものがひしゃげたのか、あるいは地下の配線が断ち切られたのか。
『高度を下げます、背を低くしていてください』
もう目で確認できるほどの距離に競闘宮の巨大な影。その周囲は公園も兼ねた広場。黎明の神鳥が高度を下げたのも、飛行を遮る障害物がないためだろう。
巨鳥の翼が風を切る鋭い音を聞きながら──
......ミオ?
急速に近づいていく地上。
自分たちの進行方向にあたる広場の端で、芝生にしゃがみこんでいる少女が二人。夜光灯の光に照らされるのは金髪童顔の女子生徒、そしてそのすぐそばには葡萄酒色の髪の少女の姿も。
「......ヘレンまで?」
すぐにはその光景が信じられなかった。何よりタイミングが良すぎる。前の地震で目が覚めたとしても、それからここまでにいたる時間が早すぎるのだ。
「お願い、ミオのところに降りて! 話したいことがあるの!」
『あの二人ですね』
黎明の神鳥が高度をさらに下げ、二人の表情が肉眼でもはっきり確認できた。
「ミオ!」
喉から振り絞ったつもりなのに、声のほとんどは周囲の突風にさらわれた。それでも金髪の少女がゆっくりと振り向き──直後、大きく目を見開いて身体を硬直させた。
「......クルル?」
「どうしたのミオ、こんな場所で!」
まだ浮遊中の黎明の神鳥から地面へと飛び降りる。それを待っていたように今度はヘレンが慌てて駆け寄ってきた。
「え、ちょ、ちょっと待ってクルーエル! あなた競闘宮にいたんじゃないの? なんで一人でこんなとこにいるのよ?」
......どういう意味だろう。
「わたしが競闘宮にいるってどういうこと?」
つまり二人は、わたしが競闘宮にいると思ったからここに?
それもわたしが競闘宮に誰かと一緒にいるかのような言いぶりで......
「......あれ、もしかしてあたしたち、すごい誤解してた?」
自分の頭をこつんと叩き、ミオが額に手をあてて目を閉じる。
「えっと、とにかくクルルはここにいるんだよね。それならネイト君、エイダ、レフィス君が競闘宮に残ってて、ほかにはカイ様とエイダのお父さんが競闘宮に──」
カイ様。
虹色名詠士を敬愛してやまない彼女が彼の名前を口にする時の愛称だ。
しかしそのおかげでますます頭の中が──
「およ、やっぱりクルル知らない? えっとね」
「......待ってミオ、時間がないの!」
興奮した口調でまくしたてるミオへ首を横に振って遮った。──猶予はありません。脇に控えた黎明の神鳥の視線がそう伝えてきたからだ。
「今はとにかく......ええと、競闘宮に残ってるのはネイトにエイダにレフィスに、あとカインツさんとエイダのお父さん。この五人で全員?」
「たぶんそのはず.........」
──それだけわかれば十分だ。
ミオが首肯するや、クルーエルは黎明の神鳥の背に飛び乗った。
「って、クルルどうする気!?」
「ミオとヘレンはここから逃げて。わたし、みんなを見つけてくるから」
この揺れはたぶん収まらない。そんな気がする。
競闘宮に安置されたミクヴァ鱗片が揺れの根源。それを断ち切らない限り。
「......何それ。全っ然、理屈通ってないわ!」
途端、今まで溜めこんでいた息をヘレンが一気に吐きだした。
「わたしだってレフィスを捜しにきたし、ミオだってネイトにエイダ、それにあなたを捜しに来てたのよ。それなのに今さら避難? それもあなたに任せて? そんなの──」
怒っているんじゃない。彼女は心の底から案じているのだ。レフィスも、そして他校の生徒であるわたしやみんなを。
......ありがとう。そして、心配かけてごめんなさい。
「この地震、わたしが原因なの」
ヘレンとミオが共に、そして同時に言葉を失った。
その背後、黎明の神鳥が何かを訴えかけるように首を持ちあげる。が、クルーエルはそれをまなざしだけで静かに制した。
「だからわたしが責任とらなくちゃいけないの」
競闘宮でネイトたちがミクヴァ鱗片を懸けて戦っている。
ううん......彼らだけじゃない。
きっと、ずっと前からあったことなんだ。ミクヴァ鱗片を巡って誰かが傷ついて誰かを傷つけて──調律者から生まれた自分だってその責任の一端があるはずなのに、わたしは何も覚えてない。
......そんなのもう嫌だ。
この地震がミクヴァ鱗片の胎動だと言うのなら──それで競闘宮が崩壊する前に、わたしがみんなを助けなくちゃいけない責任があるはずだから。
「......クルル、それどういうこと」
かすれた声でミオ。
彼女の瞳が何を告げようとしているかもわからないまま、クルーエルは、
「ううん、気にしないで。......だいじょうぶだよ、みんな連れて戻るから。わたしには黎明の神鳥がいるもん。だから二人は安全なここで待ってて」
「──うそ」
ミオだった。
「クルル、今、責任て言葉使ったよね。わたしが責任とるって......言ったよ。まるでクルルが悪いことしたみたいな言い方だった」
両手を胸元に添えて、それは何かに祈るような恰好で。
「クルルは悪いことなんかしてないよ?............なのに......お願い、ほんとのこと教えて。なんだか......嫌なの。............行かないで......あたし、すごく......怖い。クルルがそのままどこか行っちゃいそうで」
その言葉は温かで、それだけで思わず甘えそうになるくらい心地よくて──
「............」
だからこそ、クルーエルは返事をせずに彼女に背を向けた。
「クルル!」
「だいじょうぶ。みんなは絶対助けるから」
──行って。
巨鳥の背を手でさする。それを合図に、黎明の神鳥はミオとヘレンを置き去って翼を羽ばたかせた。
「......クル......っ!............しは............なん............」
後ろでミオが何かを叫んでいる。泣き叫ぶように。
振り向きたい、振り返って応えたい。嗚咽にも似た衝動に歯を食いしばり、クルーエルは前だけをじっと見据えていた。
『空を飛んだままわたしが内部に入るのは難しいようですね』
競闘宮の扉へ巨鳥が嘴を向ける。
玄関ホールの入口は高さ三メートルほどだろう。だがあいにく横幅がない。黎明の神鳥が翼を広げたまま入るのは無理がある。
「上から決闘舞台の天井を伝ってみて。天井が開いてるはずだから、そこからなら決闘舞台に入れるはず。わたしは建物の内部を見て回るから」
『では、わたしは決闘舞台とやらに人がいればそれを外に連れ出しましょう』
「──それが終わったらミオのそばにいてあげて」
『............』
押し黙る名詠生物。
聞こえなかったはずがない。けれど、その返事はいつもより遅れてやってきた。
『本来ならあなたのそばに控えることが至上の責務なのですが............わかりました、そのようにいたしましょう』
「......ごめんね」
『クルーエル、最後に一つ』
入口の脇へと着地する間際、ふと巨鳥は虚空で翼をとめた。声をさえぎる翼の羽ばたき音すら静める。それは、この真精なりの最大の配慮だったに違いない。
そう、それだけのことを言おうとしている──その意志が流れるように伝わってきた。
『今のあなたは、過去わたしとアマリリスが見てきたいつの時代のあなたより笑顔にあふれている』
「......え?」
こんな時にこの真精は何を言ってるんだろう。
もっと何か別の、脅しみたいな怖いことを言われると思ってた。
けれどその神鳥の口調は本当に優しくて、まるで誰かを祝福するように──
『──あなたの選択は正しかった。本当に良き少年と巡り会ったと思います』
その言の葉は慈愛に満ちていた。
『彼との出会いに感謝なさい。あなたの全てが彼の詠に息吹を与え、育み、そして、あの少年の詠ならばあるいは』
あるいは......?
『託し、委ね、そして信じなさい。夜色と空白。本来ならば決して交わるはずのないあなたたちが互いに振り返ったという奇蹟、そして共に歩いてきた軌跡を』
3
凱旋都市エンジュ郊外、公園の片隅で──
『良いのか』
「何が?」
『小娘と直接言葉を交わさずにこのままで。......これが最後の機会かも知れないということ、わかってるだろう?』
会話は、塗装の剝がれた古いベンチからだった。
『小娘のこと、お前はクルーエルとしか言っていなかったな』
声の一つはベンチの端、そこに翼をたたんで留まる夜色の名詠生物。
「わたしに、本人に面と向かって『姉さん』なんて叫ばせたいの?」
声のもう一つはベンチの中央。
そこに足を揃えて座る、緋色の長髪をたなびかせた少女だった。真冬の夜更け、寒風が過ぎる中、その少女は一糸まとわぬ姿で己の身を夜空の下にさらしていた。
緋色の髪に深い海色の瞳、細身の長身ながら女性らしい起伏に富んだ曲線を描く肢体──全てがクルーエル・ソフィネットに生き写しの少女。
「わたしに『妹』なんて呼び名は要らない。他人行儀に『アマリリス』でいい」
地表を揺るがす震動は収まるどころか激しさを増すばかり。ベンチが軋み、無人のブランコが揺れるのも気にも留めず、緋色の髪の調律者が見つめる先は、クルーエルが走っていった街路だった。
「あなたこそ、じっとしてないで動きなさい。あなたが姉さんに追いつかなくちゃ、そもそもあなたの役割を果たせないでしょうに」
『ああ、そうだな』
たたんでいた翼を広げ、トカゲに似た名詠生物が不恰好な仕草で宙に浮く。
「わたしが競闘宮まで飛ばす?」
『飛びトカゲらしく、最後くらい心地よく飛んでいきたいものだな』
夜色飛びトカゲ。
クルーエルがつけた、クルーエルしか言わない呼び名。
「意外ね、その名前気に入ったんだ?」
『そう見えるか?』
「ええ、とっても」
少女の唇にほんの一瞬の笑み。
それを自らぬぐい去り、アマリリスが木製のベンチから立ちあがる。
『お前はどうする』
「......エンジュでわたしにできることは終わったわ。今のわたしの力なんて本当に絞りかす。これじゃエンジュの人間を避難させることもできそうにないし」
『それで?』
「わたしなりに、ここ以外の場所でもう少しだけあがいてみる。無様にね」
少女の髪が風にふわりとなびき──
風が収まった時には、その姿は公園から消えていた。
『......さてと、我も急ぐか』
その光景を感慨なさげに見つめ、アーマは鼻先を空へと向けた。
『飛びトカゲか......そういえば、我も小娘のことをクルーエルと呼んだことはなかったな。お互い様か』
風の砕けた日まで、あと十三分──
4
「もう一度言おうか?」
中性的な顔には微笑。
その一方で、言葉には何一つ感情らしいものを含ませないままシャオが続ける。
「かつてアマリリスの妨害を経験したミクヴァ鱗片は、接近するクルーエル・ソフィネットの波長をアマリリスと誤認している。対するクルーエルもまた、独立した調律者として無意識のうちにミクヴェクスを拒絶している。この反発が目に見えるかたちで暴走したものが風の砕けた日だ」
かつて風の生まれる島と呼ばれる地で起きた大爆発。
島一つを焦土に変えた災厄が、今度はこの大都市の中央で起きる。それも前より遥かに強力なエネルギーを伴って。
「この状況で風の砕けた日を回避する方法が一つだけある。そしてネイト、これはあなたとクルーエルで共に決めるといい」
「決める?」
思ってもみなかった言葉。平静をよそおいながらもネイトはそれを反復した。
......決めるとはどういうことだろう。
必要なのは風の砕けた日を回避する方法だ。「知りたい」という要求に対し「お前が決めろ」では意味が通らない。
「あなたはいつだって思考が表情に出るんだね」
競闘宮を地盤から揺るがす震動の最中ですら、その黒法師は微笑を絶やさない。
「そんなことより、時間がないのなら早くその方法を──」
「それはだめ。決めるのはあなただ。風の砕けた日を止めるにはどうすればいいか、自分で解を見出してごらん」
「......っ!」
反論の余地はなかった。
もはや言い争って言葉を重ねる時間すら残っていないのだから。
......考えろ。どうすれば風の砕けた日を止められる?
最初に風の砕けた日が起きたのは今から六年前だ。
シャオがミクヴァ鱗片を携えミクヴェクスを名詠しようとした時、そこにアマリリスが介入した。その時はアマリリスとミクヴェクスの対立が風の砕けた日を巻き起こした。
しかし今回のそれにはアマリリスもミクヴェクスも関与していない。
シャオが言うには、クルーエルが自らの自我と記憶を宿したまま十歳を過ぎ、成長しすぎたことが最大の要因。独立した調律者として目覚めた彼女はミクヴェクスを無意識のうちに拒絶し、ミクヴァ鱗片もそんなクルーエルを拒絶しようとしている。
互いの意志の対立が、二度目の風の砕けた日を巻き起こす。
つまり......対立が原因ならば、その片方がなくなれば............?
そう、ミクヴァ鱗片かクルーエルのどちらかが────
〝あなたとクルーエルで決めるといい〟
頭の中を、先の言葉が何千回と過ぎっては消えていく。
「まさ......か......!」
「そう、簡単なことだ。クルーエルが自らミクヴェクスの眼としてミクヴェクスへと回帰すればいい。この世界から彼女が消滅することで力の対立は消える」
「待って......どうしてそっちになるのさ!」
なぜシャオは、彼女が消えることをまず考える?
この理屈が正しいなら、ミクヴァ鱗片が消えたって風の砕けた日は回避できるはずだ。
「ミクヴァ鱗片は不滅。何度砕いたところで再生するのは覚えがあるでしょう?」
砂になるまで砕いても一夜に復活する触媒。
自分だけではない。シャンテにネシリス、レフィスもこの目で見た現象だ。
「仮にもこの世界の名詠式を統率する意志法則体が、自らの力の一部を具現化した物質だ。ミクヴァ鱗片が消滅するのは〈ただそこに佇立する者〉が自らそう願わない限りありえない。つまり人が正しく名詠式を使えるようになった後のことだ」
ミクヴァ鱗片は消えない。
だから残された方──クルーエルが消えるしかない。
それを言いたいがため、この名詠士はすぐには解を与えなかったのだ。
「ふざけるなっ! そんなの......絶対間違ってる!」
──認めたくなかった。
この災厄を止めるためにクルーエルが犠牲になるということ。
そして、そんな選択しかもはや残ってないことを。
「では、この凱旋都市にいる者は全て風の砕けた日に巻きこまれるよ。わかっているね、これは憶測でも、そしてもはや警鐘でもない」
単なる事実。すぐ数分後に迫った事実。
「......そ......んっ......な......」
強烈なたちくらみに襲われ、ネイトはその場の壁に寄りかかった。
渇いた喉の奥は、もはや血の味すら感じなかった。
「繰り返そう、決めるのはあなたとクルーエルだ」
風の砕けた日まで、あと十一分──
終奏 『微笑ムヨウニ、君泣イテ』
1
カラカラと音を立て、うずたかく積もった瓦礫が崩れていく。
「............カインツ?」
瓦礫に両足を縫い止められるように挟まれ、身体がろくに動かない。地面に仰向けに倒れたまま、ファウマは首だけを横にして彼の名を呼んだ。
「......カイ......ンツ?」
地面にうずくまったまま彼は微動だにしない。
──最初は、何が起きたかわからなかった。
競闘宮そのものを軋ませる震動に耐えきれず、決闘舞台の石壁が崩壊したのだ。
ネシリスの真精の冷気、ファウマの真精カルラの熱爆発も一因だろう。観客を飛び火から守るために設置された高さ五メートルの石壁、その一部が崩壊。大小様々な瓦礫が頭上から降りそそぎ、自分とカインツを呑みこんだ。
瓦礫に押し潰される。それを覚悟した直後だった。
──自分は虹色名詠士に押し倒された。
結果、瓦礫の石片は自分の足を縫い止めるように挟んだだけで済んだ。けれど。
「カインツ......カインツ? ちょっと......うそでしょ」
自分を庇って頭部から瓦礫を浴びた男の名を呼び続けた。
カインツ一人なら瓦礫からだって逃げられた。
なのに自分を庇って......
「カインツ......返事......し、て......返事しなさいよ! ねえってば!」
「────っ」
やおら、うずくまったままの彼の肩がわずかに動いた。
「カインツ?」
「────ああ、ごめん。少しぼうっとしてたみたいだ」
ゆっくりと彼が顔を持ちあげる。瞳は泳いでない、焦点もはっきりしている。そのことに安堵の息をついた拍子。
「カインツだめ! 動かないでっ!」
つっ────彼の額から鼻先、鼻先から顎へ、真っ赤な何かが伝っていった。
「そんな......大げさな。こ、れくら......いで倒れて......君の、がひ......い怪、我」
はにかんだような笑顔は変わらない。が、彼の言葉は徐々に遅く、そして急速に明瞭さを失っていきつつあった。
「何言ってるの! わたしの血は皮膚、あなたのは──」
彼は受けた部位が危険すぎる。
尖った石片を頭部に受けた出血、そしてさっきの短時間の昏倒......無事なわけがないのだ。おそらく今も、意識が途切れるかどうかの境界線上に彼はいる。
虹色名詠士とて人間。傷が深ければ血を流すし、傷が悪化すれば死に至る。
「やめて! カインツ、じっとしてて......お願い」
立ちあがろうとする彼。それをファウマは声を限りに押し止めた。
──声に嗚咽が混じった。
「......心配性だね」
溜息とも笑い声ともつかない息をつき、彼がその場に再びしゃがみこむ。制止の言葉に従ったのではなく、血を急速に失ったことによる目眩なのだろう。
「......やっぱりただの地震じゃないな。ファウマ?」
何か知っていないか。突き刺すような彼の視線は正面のミクヴァ鱗片へ。
一度は光を失って鼓動を止めていた石が、かつてより光を増して輝き始めていた。
「それは──」
反射的にファウマは視線をそらした。
......シャオから断片的には聞いている。〈ただそこに佇立する者〉の分身でもある残酷な純粋知性が、ミクヴァ鱗片と拒絶反応を起こす可能性があると。無論その可能性は限りなく低いし、たとえそれが起きても爆発前にミクヴァ鱗片を手に入れて〈ただそこに佇立する者〉を名詠すればそれで終わり──そのはずだった。
しかし自分は敗れ、シャオもネイトという相手にどうも粘られているらしい。
このままではミクヴァ鱗片を起爆点にし、エンジュを巻きこむ爆発が起きる。が、ファウマが聞かされたことはそこまでだ。
「わたしも......知らないの」
止める方法はシャオなら知っているかも──それはファウマには言えなかった。
もしそう言ってしまえば、カインツは重傷の身体を押してでもシャオを捜しに行く。意識が途切れかけた状態で、足下もおぼつかずに、それでも行こうとする。
......今のカインツにそんな無理はさせられない。
このまま大爆発が起きれば誰も助からない。けど、それでも彼にそんな無茶をさせたくなかった。矛盾?......かもしれないけれど、両方とも紛れもない本心だった。
「カインツ、そんなに心配しないで」
せめて精一杯の笑顔を取りつくろった。たとえそれが作り笑いにしか映らなくても。
「だいじょうぶよ、じきこの揺れも収まるわ。だから──」
あざ笑うかのように。
ミクヴァ鱗片を中心に、衝撃波にも酷似した震動が競闘宮を揺るがした。
──ピシッ──
足下側の方向。つまり観客席側で何かが歪み、ひび割れる音。
......まさか。
蜘蛛の巣状の亀裂が、崩壊せずに残っていた石壁に走っていた。
ビッ......ッ......ゆっくり、亀が地を這うような緩慢さで亀裂が深くなっていく。それは同時に、自分とカインツの周囲を覆うように広がっていき──
なのに一番石壁に近い場所にいるカインツは、まだ背を向けたまま。
まさかまた意識が?
「............っ」
ようやく彼が背後の異常へと顔を向ける。が、それはファウマから見ても明らかに遅すぎた。
「だ......め、逃げてっぇええええぇえっっ!」
石壁が崩壊した。無数の土砂、瓦礫をともなって、頭上五メートル──見上げるほどの高度から落石さながらに彼へ迫る。
「......い、嫌っ!──────やめてぇええぇええええっっ!」
自分はこの瓦礫に押し潰されていい。わたしみたいな女はどうでもいい。
だけど彼は違う。彼は虹色名詠士......ううん、虹色名詠士だからじゃない。そういう理屈抜きで、彼は生きていなくちゃいけない人間なんだ。
お願い誰か............人でも名詠生物でも......どんな奇蹟でも何でもいい、彼を助けて!
『──綺麗な声』
彼の頭上を襲う瓦礫が、赤い突風に吹き飛ばされた。
一陣の風が過ぎったその後に、ひらひらと舞うのは緋色に燈える無数の羽根。
「......え......」
枯れ草色の名詠士を抱きかかえる体勢で、輝く巨鳥がその翼で彼を護っていた。
煌めく赤い羽根を持った神秘的な名詠生物。
──黎明の神鳥。
赤色名詠を極めたファウマでさえ本物を見るのは初めてだ。
カインツの名詠? いや、そんな余裕はなかったはず。
『初めまして、素敵な声の少女』
真精が自分に向けて翼を折る。まるで人の会釈さながらに。
「君は......ということは彼女が?」
『あなたとも、こうして顔を合わせるのは初めてですね。至高き色の名詠士よ』
カインツの表情も驚愕ではあるが、それは黎明の神鳥を初めてみたという類のものではない。巨鳥の方も彼も、まるで互いに相手のことを知っていたかのような雰囲気だ。
『しかし丁寧に挨拶を交わす時間はないようです。決闘舞台もそろそろ危険です。今の石壁だけでなく、天井にも亀裂が入っていました』
「けれど......あの触媒がまだ」
『アレは、もはやこの場でどうにかできるものではありません。今はここから去ることを優先させましょう』
首と翼で器用に彼を背に乗せ、真精が再びこちらへ嘴を向けた。
『貴女はどうします?』
......そう、お見通しなのね。
自分がシャオの仲間であること。この決闘舞台でミクヴァ鱗片を守ると誓ったこと。もしこの場を離れれば、自分はシャオとの約束を守れなかったことになる。それを知っているからこそ、この真精は問うている。
今、わたしが決闘舞台を離れてもシャオは怒らないだろう。「ファウマ、早く手当てを受けなくちゃだめだよ」と、心からわたしの身を案じた上で言ってくれる。
──だけど、わたしだって意地がある。
「わたしは」
「もちろん彼女もだ。ボクからお願いする、乗せてあげてくれ」
カインツだった。
「──カインツ、わたしはあなたの敵なの。わたしはここで」
「ボクが君を助けたい。それじゃ理由にならないかな」
臆面もなく告げる彼の目はただただ純朴だった。
「............」
......そっか、そうなんだ。
きっとこの男の中で、わたしは既に『シャオの仲間』ではないのだろう。ミクヴァ鱗片を懸けて対立したことすらもはや頭になくて、戦う前の、フェルンの古城で出会っていた時のファウマ・フェリ・フォシルベルとして受け入れてくれている。ついさっきまで、わたしは感情任せにああもカインツを執拗に責めたてたのに──
まるで昨日喧嘩した子供が次の日には仲直りしているような、まぶしい純真さ。敵として意地を張ろうとしている自分の行為そのものが、まるで無意味だった。
......わたしの負けなのね。何もかも。
『いずれにせよ、あなた方は二人とも手当てが必要なのではないですか?』
「............」
──お願いするわ。
目で促すより先、黎明の神鳥が足下の瓦礫を取り除いてくれていた。
『では行きましょう』
翼を広げる神鳥へ、ふと背中に乗るカインツが待ったをかけた。
「一ついいかな。君が彼女のそばを離れているということは、彼女は既に安全な場所へ?」
彼女──黎明の神鳥の名詠者のことを指すのだろうが、そういえばその名詠士はどこにいる? 通常、真精が名詠者を離れることは考えにくい。この地震ならなおさら、名詠者としても自分の名詠生物を手元に残しておきたくなるはずなのに。
『......彼女はまだ競闘宮に残っています』
「なんだって?」
彼が露骨に表情をゆがませた。
「そんな、じゃあなぜ君は彼女を離れて」
『彼女が選んだことです。......きっと一人であの少年を捜したいのでしょうね。二人きりで伝えたいことがあるはずですから』
風の砕けた日まで、あと八分──
2
競闘宮、一階ロビー。
「......昨日はあんなにたくさん人がいたのに」
足を止め、クルーエルは暗がりに包まれたロビーを見回した。
自分の知ってる昼間の競闘宮とは空気が違う。照明がない、人の活気がない。そういったことによる寂しさではなく、もっと異質──まるで巨大な生物の体内にいるような。
「ネイト、どこ! エイダ? レフィス?」
叫んだ名前がホールに反響し、奥の闇に吸いこまれるように消えていく。
......それなら。
しんと静まりかえるのを待たず、クルーエルは制服のポケットから赤の塗料を取りだした。こんな......初心者向けの触媒を愛用するわたしが、調律者の分身だなんて......
──『Keinez』──
自分の前後左右に四体の熱妖精。ちらちらと揺れる炎が周囲十メートルほどを照らす。が、ホール一帯に自分の捜す学生たちの姿はない。
ホールにいないなら、次にみんながいる可能性のある場所はどこだ?
一番可能性の高い場所は決闘舞台だが、それは黎明の神鳥に任せた。なら自分はそれ以外の場所を当たった方がいいはずだ。
最上階から順に潰していく? いや、そんな悠長な時間はない。ネイト、エイダ、レフィス。虹色名詠士と祓名民の長も含めれば五人。彼らがいる場所をぎりぎりまで絞った上で捜す必要がある。時間を無駄に費やせば競闘宮の方が先に崩壊する。
「......そういえば」
とある光景が脳裏に浮かびあがった。
黎明の神鳥に乗っている時のことだ。競闘宮の四階か五階、東側の方向でなぜか照明が点灯していた気がする。
──誰かがそこにいるってことだよね。
走りだそうと足に力をこめた直後。唐突に、複数の足音が近づいてきた。
誰かがホールに近づいてきてる。
──味方ばかりとは限らない。それを思いだし、クルーエルは背筋を強ばらせた。
シャオという名詠士の一味である可能性も考えられる。赤の塗料を手に握りしめたまま、熱妖精の光を頼りに、足音の方向を凝視して。
「クルーエルっ!?」
暗がりの中、赤銅色に日焼けした少女が祓戈を携えて現れた。
その姿に思わず胸をなでおろした。
「エイダ?──良かった、心配してたんだからね!」
彼女に続き、そのすぐ後には祓名民の長。その背には銀髪の青年が負ぶわれていた。
「......クルー......エル、か」
顔を持ちあげるのも苦痛らしく、力ない仕草でレフィスが目を見開いた。
全身麻酔を受けたように微動だにできない彼。が、よく見ればエイダの運動着も無数の裂け目があった。赤く腫れた裂傷も見てとれる。
アーマが言っていたことだ。
競闘宮で、自分を守るために戦っているのはネイトだけではないと。
......二人ともわたしのために。
「エイダ、目のところ......?」
まるで涙の痕のように、彼女のまぶたのまわりが小さく腫れていた。
「ん、あ、これは......別に大したことじゃないよ。元々はあたしの蒔いた種だし」
苦笑と自嘲が入り混じった笑み。
それを隠すように彼女が横顔を向ける。
「エイダ、レフィス、本当にごめんね......わたし、迷惑かけちゃったね」
祓戈を持った友人を、力いっぱい抱きしめた。
こんなことでしか気持ちを表せない。それがこんなにも辛いことだったなんて。
「クルーエル、あんた自分のこと......?」
「......うん、聞いた。エイダもレフィスも......わたしのこと知ってるんだよね」
二人が無言で目を伏せる。
〈ただそこに佇立する者〉、ミクヴァ鱗片、そして残酷な純粋知性。
二人は既にその関係を知らされている。二人が言葉に迷ったのは、うなずくことで自分が傷つくのではという可能性を案じてのことなのだろう。
「クルーエル......あたしから言えたことじゃないけど、その話は後回しにしよう。今は競闘宮から出ないとまずいらしい」
「まずい?」
「ミクヴァ鱗片が爆発を起こす。アルヴィルという男の話だがな」
答えたのは祓名民の長。
「......ミクヴァ鱗片が爆発?」
反復した途端に軽い目眩を覚えた。
なんだろうこの感覚。......わたし、それを知ってる。ずっと前に視たことあるような。
「──問題はネイトだ」
クラウスに支えられ、ふらりとレフィスが立ちあがる。
「俺があいつと別れたのは決闘舞台前の三叉路だった。けど今このホールに戻ってくる時、いるはずの三叉路に姿がなかった。シャオとかいう名詠士の姿もだ」
ネイトだけが行方不明?
「ちび君だけでも先に避難した可能性もあるからホールまで来たんだけど、クルーエルはちび君のこと見てない?」
「......ううん、わたしも捜してたの」
競闘宮の外にはいない。いるのはミオとヘレンだけだった。
かといって最初にいたはずの三叉路にも姿がなく、レフィスやエイダとも別行動をしていた。となれば残る可能性はただ一つ。つまり祓名民の長がレフィスを救出しに三叉路へ向かった時、ネイトは既にどこかへ向かった後だった。
ではどこへ?
──決闘舞台。そこしか考えられない。
「ちび君、一人でミクヴァ鱗片を止める気か!?」
エイダのその呟きがきっかけかはわからない。
けれどその瞬間、
──ネイト!
クルーエルは、何かに導かれるように通路を駆けだしていた。
「待て!」
クラウスの怒号を浴び、ゆっくりと振り返る。
「決闘舞台にはカインツがいる。この異常な揺れだ、あいつだって当然それに気づいているはず。君の捜す少年が決闘舞台に向かったならあいつに任せれば問題ない」
今この時、この場面でなければ。あるいは自分が当事者でなければ、それはとても筋の通った理屈に聞こえたに違いない。
けれど、それを知った上でもうなずくことはできなかった。
「それじゃだめなんです」
訝しげな表情のままの祓名民の長へ、クルーエルは小さく笑んだ。
「彼に伝えたいことがあるんです。今この時じゃないと、たぶんもう二度と伝えられないことだから」
「クルーエル」
レフィスが何かを言おうとする前に、彼に向かってホールの入口を指さした。
「ヘレンが心配して待ってるよ。行って安心させてあげて」
「......あいつが?」
「うん、心配でここまで来たみたい」
心配してここまで来てくれる人がいる。ただそれだけで、レフィスは幸せだと思う。
だからわたしも捜しに行く、わたしが一番会いたい彼を。
「だけど、あんた一人に行かせるわけには──」
「だいじょうぶ、いざとなれば黎明の神鳥だって詠べるのはエイダも知ってるでしょ?」
むろん詠べるはずもない。あの真精は既に手元を離れているのだから。
噓をついたつもりはない。
本当に大事なこと、それは、たった一体の真精が詠べるかどうかじゃないからだ。
沈黙。
どれだけ続いていただろう。先に目をそらしたのは彼女の方だった。
「────わかったよ。あたしの負け、行ってきな」
「エイダ!?」
娘の発言に露骨に顔をしかめる父親へ、沈黙を保っていた青年がたった一言続けた。
「俺からも頼む」
沈黙する祓名民の長。
その視線を逸らすことも跳ね返すこともせず、クルーエルはただそれを受け──
そして微笑み返した。
「............」
やおら、その祓名民が無言で背を向けた。その意味を悟ったエイダが意味深に片目をつむり、レフィスと共に踵を返す。
......ありがとう、本当に。
ホールを越えて出口へと姿を消す三人を見送り、クルーエルもまた踵を返した。まるで永遠に続いているかのような暗い通路を見据え、表情を引きしめる。
「頑張らないと」
黎明の神鳥もいない。ネイトに会いに行くために、ここからは一人で進まなくちゃいけない道のりが続くんだから。
『つれないな、せっかく我が付きそってやろうと駆けつけたのに』
ふと、左肩にわずかな重み。
いつここまで来たのだろう。ホールを覆う薄闇の色と似ているようでどこか違う、そんな夜色の名詠生物が自分の肩に留まっていた。
......アーマ?
『決闘舞台に残っていた虹色名詠士は黎明の神鳥が避難させた。決闘舞台には今、ネイト一人しかいない』
自分にだけ聞こえるよう絞った声でそう告げてくる。
「一人?」
『ミクヴァ鱗片を止めようとしているのさ。誰かさんを守るためにな』
3
競闘宮、決闘舞台前の三叉路──
「力の歪みが限界を超えるまで、そうだね、あと五分もないだろうね。いよいよ秒刻みで迫ってきてる」
ぱらぱらとこぼれる天井の破片を眺めるシャオ。
その名詠士の吐息がかかるほどの距離までネイトは歩を進めていった。
「......シャオはどうする気なのさ」
「ん? 自分は一介の名詠士だもの。何か特別な奇蹟が起こせるわけじゃない。だから自分のすることは、ただあなたを見てるだけ」
このまま風の砕けた日を待つか。
その要因となるミクヴァ鱗片かクルーエルの消滅を願うか。
──考えるまでもない。
ミクヴァ鱗片を破壊する。決して再生なんかできないくらい。
「強情だね。しかしそれで気がすむのならば試してみるのも悪くない。どのみちあと数分で全てがわかるのだから」
シャオが黒衣をはためかせる。通路の中央から壁際へ寄りかかるように。
「決闘舞台の二人を黎明の神鳥が連れだしたのは僥倖だね。たった一人あの場所で、気のむくままやってごらん」
できるわけがない。そう含ませた言葉に反駁しようとする衝動を嚙みつぶした。
......やるしかないんだ。
微笑のままの黒法師に背を向け、三叉路の中央目がけ駆ける。
狭い通路、よどんだ空間をひた走る。時間にすれば十秒程度だろう。直線を走り終えた途端、さぁっと、扉を開けたように視界が一気に広がった。
決闘舞台。
直径五十メートルの砂地の舞台。周囲には高さ五メートルの石壁が設けられ、その上にはすり鉢状に観客席が広がっている。
しかしその観客席は一部が酸で溶けたように爛れ、石壁はいたるところが崩れ落ち、砂地には巨大な質量が落下したとしか思えない陥没がいくつもある。
ミクヴァ鱗片を懸けた戦い。
それがどれだけ凄惨を極めたか、この傷痕からも容易に想像がついた。
無人の決闘舞台。傷痕だらけの地。
ただ一つ、まるで素知らぬ風に鳴動を繰り返す触媒があった。
大人が一抱えするほどの巨大な石。表面にある鱗状の紋様が、まるで血管が脈動するように瞬いている。異様──昼間見たときよりなお強く、まるで今にも石の表面が割れて何かが現れそうな不気味さだ。
「............」
息を吐き、一歩、また一歩、ミクヴァ鱗片へと慎重に歩を進めていく。
シャオの弁を借りるなら風の砕けた日まであと五分。逆に捉えれば五分は猶予があるということだ。どんなに細分化しても再生する触媒。ならば砕かずに消滅させればいい。
時間も、そのための方法にも心当たりがある。
「反唱なら──」
ミクヴァ鱗片は〈ただそこに佇立する者〉の力を結晶化したもの。この物質そのものが空白名詠の属性を得ている。ならば空白名詠の名詠生物同様に、夜色名詠の反唱が効く可能性が高いのだ。
......絶対、成功させる。
右手に黒曜石の欠片を握りしめ、白く輝く石へと全力で走る。
「還れ!」
右手を振り上げ、脈動する岩の中心へと拳を叩きつけた。岩でなく、何か巨大な生物の鱗を殴ったような感触が伝わってくる。
──『Nussis』──
その瞬間。
おやめなさい
岩の放つ無色の輝きが障壁となって、右手の夜色の輝きをはじき返した。
......みしっ。
何かが歪んだその音が鼓膜を通じてでなく、右手の骨を伝わって脳に響く。
「......あっ............ぐっっっあっっっっっ!」
──な......今の......なに?
空白名詠の名詠光が、夜色名詠の反唱を拒絶した?
〝仮にもこの世界の名詠式を統率する意志法則体が、自らの力の一部を具現化した物質だ。ミクヴァ鱗片が消滅するのは〈ただそこに佇立する者〉が自らそう願わない限りありえない〟
......そういうことだったのか。
シャオの言葉の意味を、今、身をもって思い知らされた。
単に再生するだけではない。このミクヴァ鱗片もまた名詠式の絶対的な法則なのだ。さしずめ『ミクヴァ鱗片は名詠式によるいかなる影響も受けつけない』──名詠式の創造者がそう設定した絶対の法則。
だから名詠式では破壊できず、反唱に対しても絶対的な防衛機能を持っている。夜色名詠を拒絶するこの障壁を打ち抜くには、それこそ名詠式の創造者に名詠式で挑まなければならない。
......そんなのが......できるというの?
名詠式のもう一体の創造者、夜色名詠の調律者でもある〈その意志に牙剝く者〉ならば可能かもしれない。しかし決定的なものが足りない。セラフェノ音語で夜色名詠の真精は名詠できても、夜色名詠の調律者はセラフェノ真言でなければ名詠できない。そのセラフェノ真言が自分にはまるでわからないのだ。
──風の砕けた日まで、あと四分。
「はっ......あ......ははっ......はは、はっっ」
もはや乾いた笑いしかでてこない。
「まだ......四分もある......!」
自らを叱咤し、激痛の走る右手を限界まで固く握りしめた。
鉄の壁を叩いたような衝撃に骨の髄まで痛む。障壁の光を浴びて右手首までが真っ赤に腫れ上がった、そんな拳。だけど......だいじょうぶ。まだ指先の感覚は残ってる。
「......そうだよ。この時を待ってたんだから」
これさえ、この瞬間さえ成功させればクルーエルを助けられる。あの障壁を一センチで良い、それだけでも抜けられれば......!
「そのために......ここまで来たんだっ!」
右手を振り上げ、ミクヴァ鱗片へと拳を突き立て──
さらに強まった障壁の衝撃を全身に受け、ネイトは遥か後方まで吹き飛ばされ、なす術なく地面を転がった。
風の砕けた日まで、あと二分と三十秒。







コンッ............コンッ
乾いた音だけを残し、クルーエルは三叉に分岐した道の中央を進んでいった。
──この先の決闘舞台にネイトがいる。
なぜだろう、そう考えただけで胸が苦しい。
『最後に、本当に最後の忠告をしておく』
声は、肩先に留まる名詠生物のものだった。
『この先に待っている光景は、決して小娘にとって良いものではないぞ』
「良いものでなくたっていいの。これから良いものにすればいいんだから」
『......強情だな』
肩に留まったアーマが息を吐く。溜息と苦笑と、他にも様々な感情が混じった吐息。
はやる動悸を抑えて歩を進める。
徐々に狭くなる通路の向こうに、わずかに明るい光が見えて──
『通路の陰に隠れたまま、顔だけを覗かせてみろ』
言われるまま決闘舞台を覗き──
十メートルほど先に、夜色の髪の少年が倒れていた。
「ネイ──っ!」
途端、肩に留まる名詠生物の爪が肩先に食いこんだ。
『静かに。見ていろ』
「見ていろって......ネイトがっ!」
うつぶせに横たわるネイトの手がかすかに動いた。
地面に膝を突き、両手で身体を支え、焦点の合わない瞳のまま立ちあがる。
......ネイト、何を......してるの?
思った矢先、その少年が左手をぎゅっと握りしめる。左手の隙間からこぼれる淡い光は夜の輝き。少年が走る先、巨大な白い石が無色の光を放っては胎動を繰り返す。
ネイトが拳を振り上げ──
その直後だった。
触媒の光が一瞬だけ何十倍も強まり、まるで光の壁のような障壁を構成したのだ。その光に触れるやいなや、突風さながらの衝撃波がネイトの身体を打ちつけた。
遥か後方、石壁の間際まで吹き飛ばされて横たわる。
それでもなお起き上がり、少年が拳を握る。よろよろと、走ると喩えるにはあまりにおぼつかない足取りでミクヴァ鱗片へと向かい──そして、先と同様に拒絶されて後方へと吹き飛ばされる。
「ね、ねえ......」
喉の奥がふるえて声にならない。
『そうだ、お前が最初に見た光景。ネイトが倒れていた理由だ』
アーマが答える間すら、少年は一度として止まらなかった。
何度でも何度でも。真っ赤に腫れ上がった左拳と右拳を交互に構え、ミクヴァ鱗片へと向かい、そして弾かれる。
エイダの父親が言っていた。もうすぐあの触媒が大爆発を起こすと。
「まさか本当に、一人であれを止めるためなの......?」
『大爆発を止めるためというのは正確ではない。言ったはずだ、小娘、お前を助けるためだと』
......わたしを助けるため。
胸の動悸が痛みに変わった瞬間だった。
『今世界中で起きてる揺れの原因、それは小娘が見ているあの触媒だ。しかしなぜ、あの触媒がああも怯えているかわかるか』
──あの触媒が怯えてる?
つまりこの揺れは、あの石が怯えて震えているから?
『ミクヴァ鱗片はミクヴェクスの力の一端。いわばミクヴェクスの器官の一部だ。そして今この凱旋都市には、同じミクヴェクスから生まれた存在ながら、ミクヴェクスに本能的に抗おうとする存在がいる。アレが拒絶反応を示しているのはそれが理由だ』
ミクヴェクスから生まれた存在......
と同時に、ミクヴェクスに本能的に抗おうとしている存在。
〝驚くべき変化が起きたわ。
人としての意識があるのは一生に数年だけど、それを何百回と繰り返すうち、残酷な純粋知性は人としての自我だけでなく、ミクヴェクスとは別に、孤立した調律者としての自我をその身に宿したの。
自我を与えられ、奪われ、人として愛した記憶も愛された記憶も忘れる──そんな鎖に繫がれた人形に、かりそめながらも確かな命が吹きこまれた瞬間だった〟
もはや考えるまでもなかった。
......わたしのことだ。
『そうだ、あのミクヴァ鱗片と小娘は、自らの意志に関係なく互いを拒絶する関係にある。ちょうどかつてのアマリリスとミクヴェクスのように』
「で、......でも、待って! それってつまり」
この地震も、じき起こるという大爆発も、そして何より......ネイトがあんなになってまで傷ついて、それでも諦めない理由は全て──
『小娘にある』
......うそ、うそよ。
そう思いたくて、だけど、そう自分をごまかすには胸の痛みがあまりに強すぎた。
『風の砕けた日を防ぐにはミクヴァ鱗片と小娘の拒絶を止めるしかない。ネイトが選んだのはミクヴァ鱗片を反唱で消滅させる方法だ。片方が消滅することで対立は消え、この揺れも、その後の風の砕けた日も免れる』
......だけど、それができない。
何となくわかる。それは古い古い記憶の欠片にある知識──人の身で、人の名詠式でミクヴァ鱗片を消滅させることはできない。
『あの触媒は〈ただそこに佇立する者〉の守護の下にある。名詠式の創造者がこの世界に送りこんだ結晶だ。反唱などできるものではない。もっとも、ネイトが一番それを良く知っているんだろうがな』
無理とわかっていて、それでも退けない。
............キミは、なんでそんなに頑張れるの。
自分にとって良い光景ではないと言われた時から......いいえ、その前から覚悟してたつもりだった。だけど目の前の光景はあまりにも切なくて、苦しくて、痛々しくて──
「......爆発を止める方法は──」
あと一分、もしかしたら数十秒。
たったそれだけ先の未来で、凱旋都市が一瞬にして瓦礫に変わる。
『方法は』
言いかけて、にもかかわらず肩先の名詠生物が言いよどむ。
──方法を知るには、そんなわずかな所作で十分だった。
「......あはは、なーんだ、そんな簡単なことでいいのね」
本当に、何よりわかりやすい方法があるじゃないか。
わかった瞬間、ふしぎと可笑しくたまらなくなった。
『クルーエル、お前──』
「あら、何よ飛びトカゲ。今さら名前で呼んじゃって、らしくないんじゃない?」
『............』
肩先のトカゲを指先でつつき、クルーエルはいたずらっぽい笑顔で言った。
『小娘。それしかないとはいえ、本当に良いのか』
うん──
視線は再び、夜色の少年へと向いていた。
「いいの、わたしはそれでいいの。みんなには怒られちゃうかもしれないけど」
『ならば我も付きあおう』
「え?」
『小娘にばかり負担を押しつけるのも気が引けるのでな。最後に、お前の口からネイトに一言伝えられるだけの時間くらいは作ってやる』
4
......身体が動かない。
皮膚が剝けて真っ赤になった両手、もはや感覚すら残っていなかった。
「......いやだ」
このまま何もできずに終わるなんて絶対嫌だ。
かすんだ瞳に映るのは、おぼろげな視界の中でも一際光を放つ巨大な触媒。うつぶせに倒れたまま、ネイトはそれをじっと睨みつけていた。
こんなにも近い距離に、手を伸ばせば届くくらいの距離に全ての元凶がある。
その距離が────海よりも空よりも、天上に輝く星よりも遠いことを知った。それはきっと、空にうかぶ百億の星をわたり歩くよりも遠い距離。
〝ねえネイト、あなたはいったい何色の詠使いになりたいの〟
〝夜色の真精アマデウス。その〈讃来歌〉をイブマリーから受け継いで名詠できたことは誇るべきこと。でもあなたはまだ、自分一人で第一音階名詠を詠いあげたことはない。あなたの隣には常にクルーエルがいた〟
〝──では、クルーエルがいなくなった時、あなたは一人で何ができる?〟
忘れもしない。シャオにそう言われ、まだ一時間と経っていなかった。
「僕に......できること......」
母から夜色名詠を受け継いで、それこそ寝る間も惜しんで名詠式を勉強してきた。
何のために? それすらわからなかったけど、今ははっきりと言える。誰に対しても胸を張れる理由がある。
──クルーエルさんを助けたい。
だから、それがある限り絶対諦めないって決めたじゃないか。
「......時間は......?」
時間の流れすらわからない。風の砕けた日までまだ何分か猶予があるのか、それとも数秒後に迫っているのか。
「......まっ......だ......あ、る」
まだ時間はある、そう信じるしかない。
感覚のない指先でなく、肘を支えに膝を立て、小刻みに震える膝で立ち上がる。
──カランッ
握力のなくなった指から触媒が落下。それを拾わず、ネイトは新しい黒曜石を取りだした。拾うためにしゃがんでしまえば、きっとそのまま倒れてしまうから。
「......っ......」
おぼろげな視界の中で、輝きを放つ触媒の光を目指して走る。
その時だった。
視界にあふれる光が数十倍に膨れあがった。
それと共に、今の今まで地を揺るがしていた震動すらぴたりと止まる。
「うそ......」
風の砕けた日。それを知らせる時針が、まさにその時を刻んでいた。
超高音域、何千枚もの金属板をすりあわせたような音が決闘舞台にこだまする。
光が決闘舞台の天井を伝い、
凱旋都市を覆いつくし、
凱旋都市を超えて大陸の隅々をも照らしだす。
溢れた光が世界を染め、もはや光を光として認識できないほどの輝きに満ちていく。
......そんな、......そんなのって............
もう止められないの?
誰も、誰一人助けられないなんて、それなら──
......それなら人の名詠式は、いったい何のためにあるの............?
光の中心点──ミクヴァ鱗片の眼前で、まぶたを閉じても耐えられないほどの光に意識すら途切れ──
詠は、そんな瞬間に聞こえてきた。
En Se etreincornisclar
velharp ririsnoi elmei bediws,Uhw kistinnylef hypnetesmeli
光が、止まった。
聴覚の限界で鳴り響くミクヴァ鱗片の悲鳴も、水を打ったように静まりかえる。
かわりに、目の前を包んだのは優しげな緋色のまぶしさだった。
「──ネイト」
すぐ目の前に立つ少女の姿、最初は幻覚とすら思えた。
輝く緋色の髪をした長身の少女。
......クルーエルさん?
声が出なかった。全ての音が止まった世界で、ただ彼女と彼女の声だけが──
「まったく、キミは最後までわたしに心配かけたがるんだね?」
Ec phenor-iselnoi eleniskamyu,nefitUhzyulis──
Ris sia sophia,De elmeinett,yehlevalensterastury Kyel-fes
Ris sia sophia,De cluenett,shelaelmei-l-phenodioKyel-fes
「ほら、もう。こんなに手、ボロボロにしちゃって......」
両手を腰にあて、怒るような仕草の彼女。その瞳は自分の両手。痛みの感覚すら消えた真っ赤な手を見つめていた。
......あ、......あの......僕は............
「いいよ言わなくて」
くすりと、口元に手をあててクルーエルが微笑む。
「その気持ちだけで十分すぎるくらい嬉しいの。本当だよ?」
それだけで、まぶたの上が熱くなった。何も成し遂げてないのに、あたかもそれが、彼女の笑顔を見るのが目的だったような心地さえ感じてしまうのはなぜだろう。
「──最初にわたしたちが出会った時のこと、覚えてる?」
忘れもしない、トレミア・アカデミーに転入してきた時のこと。
道に迷った自分とアーマ、道案内してくれた。
「あれが夏だったから......ふしぎだよね、まだ一年も経ってないんだよ? わたしたちが会ってから。競演会も夏休みの合宿も、もう、ずっとずっと前のことに思えるけどさ」
言いながら、彼女が一つ一つ指を折っていく。それら全てのことを思い返すように。
本当に、心の底から楽しそうに。
「ありがとう。一緒に学校に通ってたのはたった半年とちょっとだけど、キミがいたからすごく楽しかった。欲をいえば、もうちょっとキミの名詠式の練習にも付きあってあげたかったけど。でも、いっか。キミは十分立派になったと思う。一人でもちゃんと、何でもこなせそうだし」
......クルーエルさん?
......なんで、なんで、そんなこと突然言うの?
......まるで──まるで──────
「あの子にね、教えてもらったの。わたしの秘密。わたしがどうして生まれたのか、何のために生まれたのか」
あの子?
「わたしの妹に」
周囲を覆う緋色の光。
それは風に踊る、無数のアマリリスの花びらだった。
mehgetielishe,mehmutisevhe,Ahw edel noiEgunIlinsy
SeraclaryehleRio
Sera,vanbie clard-l-ele phaSec lihit
「ネイトも全部聞いたんでしょ?」
全て彼女は知っていた。自分がシャオに聞かされたことも。
「これも知ってるよね──あの白く光る石、このままだと大爆発を起こすんだって。凱旋都市がなくなっちゃうくらいの大きな爆発」
知ってる。知ってるからこそ、止めるために決闘舞台までやってきた。風の砕けた日を止める方法はミクヴァ鱗片を消滅させるしかないから──
「もう一つあるよ?」
............
............え?
「わたしとあの触媒が互いに互いを拒絶してるんでしょ? 片方が無理なら、もう片方がいなくなればいいの。それでこの爆発は止められる」
もう片方。
それは、つまり。
「わたしが消えればいいの。わたしが〈ただそこに佇立する者〉を受け入れて、その眼として還れば」
「──────っっ!」
張り叫んだ声はもはや声ですらなく、それは一つの音だった。
「クルーエルさん、お願い、そんなこと言わないで! だって......そうしたら!」
残酷な純粋知性。
自我をなくし、純粋なる調律者として、人の世界を記憶していくだけの存在に。
そこに自らの記憶は存在しない。
学園で一緒に過ごした記憶も何もかも、無駄なものとして消滅する。
「そんなの間違ってる! 絶対違う!」
風の砕けた日が起きれば凱旋都市が焦土と化す。エンジュの住人を守るために他に方法がないとしても、一人が身を投げだして犠牲になるなんて間違ってる。
「みんなのためにクルーエルさんが悲しいことになるなんて、僕は──」
「みんなのため?......ううん、違うよ」
どことなくぎこちなさそうに、気恥ずかしそうに。
彼女は照れ笑いを隠すように、こう言った。
キミを、助けたいから
「............」
......クルーエルさん。そんな、そんな答えずるいよ。
......僕は何て答えればいいの。
Ao/De OrbieClar,nemneSescolinhypne
Ec pheno,sterisphenoyumyulisfelSec nuel,ende
Sewyumr-vequs noishadiliskaon lefsolitis xin
「わたし、人と名詠生物の間にいるんだって。だから飛びトカゲに教えてもらったの。わたしが妹と同じ調律者になる方法。......あ、もちろんこれはわたしが頼んだんだからね。あいつを怒らないで」
飛びトカゲ。
......アーマ?
眩しい光の中にいる彼女の肩、そこに夜色の名詠生物が留まっていた。
「姉妹でも、わたしはアマリリスと違うの。自分の力だけじゃ還れない。だから名詠式で触媒って言われてる物の力を借りる必要があるんだって。それもミクヴァ鱗片と同等の力を持った触媒」
ミクヴァ鱗片と同等の触媒?
そんなものあるはずがない。なぜならミクヴァ鱗片は名詠式の創造者である〈ただそこに佇立する者〉の力を結晶化したものだから。
そんなものに対抗できるものがどこにあるというのだ。
「アマデウスの牙──名詠式のもう一体の創造者の〈その意志に牙剝く者〉が、ミクヴァ鱗片同様に自らの力を結晶化したもの。それがあればいいの」
その単語には聞き覚えがあった。
三叉路でシャオから聞かされた内容に、その単語が含まれていたような。
〝アマデウスの牙──ClareleSelahphenosia-s-Armadeus【アマデウス ただそこに歌を願う者】の力の一端を結晶化した、ミクヴァ鱗片の対となる触媒の力により、少女は調律者としての力を得た。そしてアマデウスもまた空白名詠の調律者から立場を変え、夜色名詠の調律者になった〟
シャオから聞かされた夜色名詠の創造譚。
「でも! そうだとしてもそれは夜色名詠ができた時に母さんが持ってたはず! それがエンジュに都合よく落ちてるなんて偶然が──ぐう、ぜ......、......」
クルーエルが見つめる先を目で追いかけ、ネイトは言葉を失った。
彼女が見つめるのは自分の肩に留まる名詠生物。
アーマと呼ばれる真精。
母が夜色名詠を創りあげた時から連れていた名詠生物。他の名詠生物と違い、自分の意志でいつまでもこの世界に留まることが許された──名詠式の法則から外れた存在。
「......アーマ?」
疑問に思ったことは確かにあった。けれど、長い時間を共に過ごすうち、いつしか疑問は疑問にすら思わなくなっていた。
アーマがこの世界に留まる様子。
それはまるで、ミクヴァ鱗片がこの世界に留まり続ける様子に酷似して────
『我がこの世界に留まっていた理由は二つある。一つは、イブマリーのかわりにお前の成長を見届けること。もう一つが』
ぽつりぽつりと、子に教え聞かすような口調だった。
『お前が夜色名詠を自分のものにした時、アマデウスの牙として、いつの日かお前の力になるため。その条件は、お前が第一音階名詠を二度成しえたことで満たされた』
一度目の第一音階名詠、それは競演会の時だ。この時アーマは一度還っていった。
しかし二度目、それはケルベルク研究所でだ。あの後アーマは還るどころか、今この時まで自分と一緒にいてくれた。
......一緒にいてくれたのは僕を見届けるためでなく、僕の力になるため?
「でもごめんね。キミのかわり、わたしがコイツの力を貸してもらうことになっちゃった。なんていうかさ、こんな飛びトカゲに頼るなんて自分でも悲しくなっちゃうけど」
指先でアーマをつつき、クルーエルが大げさに溜息をついてみせた。
『減らず口を』
「いいの、ほら、そろそろ時間なんでしょ」
あまりに自然に、彼女が自分に向かって背を向ける。肩にアーマを乗せたまま、すたすたと、まるで何ともないようにミクヴァ鱗片へと近づいていく。
「────ただいま」
その瞬間、彼女は透きとおったように光の壁を潜り抜けた。
自分がどれだけあがいても指先一つ侵入を許さなかった障壁が、まるで長い間待ち焦がれていた者を受け入れるように。
......クルーエ......ルさん......?
ぱさっ。足下に、今まで彼女が身につけていた衣類が落下する。外観だけでなく、もはやその存在すら稀薄になって──
「お別れだね、ネイト。辛いこと頼んじゃうけど、ミオに謝っておいてくれるかな」
背を向けていた彼女が振り返る。
一糸まとわぬその身体は蜃気楼のようにゆらゆらと揺らぎ、透けていた。
Sewele sisxeph-Ye-clarria Eeo,nefitelmeiphenodelis Seo
wasKirisreh jas,vanEc yumaiflis......
......そんな。
......うそ、......いや......行かないで。クルーエルさんもアーマも......
二人がいないなんて......そんなの......
「ほら、そんな顔しないの。わたしはキミと会えて本当にうれしかったんだよ?」
とびきりの笑顔をうかべ、彼女が声に出して笑う。
どこまでも明るく、澄んだ笑顔で。
──そう見えた、けれど。
『小娘』
「......わかってるよ、時間がないんでしょ」
彼女がすっと姿勢をただす。
「ネイト、お願いがあるの」
お願い?
こんな時、こんな場面で、彼女は僕に何を。
「たぶん、すごく自分勝手で無茶なお願い。あのね、わたし」
胸元に手をあて、クルーエルは一度小さく息を吸って。
──その時彼女から言われた言葉を、その瞬間を、僕は絶対忘れない。
わたし、キミのこと大好きみたい。どうしようもないくらい大好きみたい。
彼女は、微笑んでいた。
届かないと知りながら、それでも抱擁を求めるように両手を伸ばしていた。
「............っ............」
返すべき言葉がうかばない。それが、どんなにもどかしいことかを知った。
声が出ない。それが、どんなに辛いことなのかを知った。
「あはっ、ごめんねいきなり。......わたしずるいよね、キミの気持ちなんかまるっきり無視でこんな恥ずかしい告白しちゃって。でも、どうしても言いたかったの。もしこの瞬間、世界中の誰を選べるとしても、わたしはキミに言いたいの」
......ぽちゃん
それは彼女の頰を伝い、顎先からこぼれ地に落ちた水滴の音。
涙?
それを見たとき、ネイトは、彼女の心の声を確かに聴いた。
──クルーエルさん、もしかして本当は。
「あ、ご、ごめんね......こんな時に」
慌ててクルーエルが涙をぬぐう。
その拍子、また隠しきれないしずくが一滴、二滴。ぽちゃんと音を立て、地面に小さな泉をつくる。
「ど、どうしよう? あ、はは......困っちゃったね」
彼女は心の底から微笑んでいる。そう思ってた。
だけど違う。確かに彼女の微笑みもうそじゃない。けど同時に、彼女は本当は────
その少女は 微笑むように泣いていた。
胸の奥が熱い。それを感じた瞬間、
「クルーエルさんっ、僕──っ!」
おぼつかない足取りで、それでも力の限り地面を踏みしめていた。
ようやく、ようやくわかった。
彼女が本当に求めてて、だけど口にできなかった本当の願い。世界中の誰より、僕に何を願っているのか。
「助けに行きます! 絶対、クルーエルさんのこと助けに行きますから!」
〝......ネイト、お願いがあるの〟
〝たぶん、すごく自分勝手で無茶なお願い。あのね、わたし〟
──自分勝手で無茶な願いだとはわかってる、だけど、それでも。
──わたし、キミが助けに来てくれるのを信じてる。
微笑むように泣いていた本当の理由。そうだ、彼女だってみんなと別れるのが辛くないはずがないんだから。
「だから、信じて待っててください!」
わずかな静寂、そして。
応えたのは彼女でなく、その肩に留まる名詠生物だった。
『小娘、だから言っただろう? 隠したところで変わらんと。お前はうそをつくのが下手だからな』
「............」
からかうようなその言いぶりに、それでも少女は無言だった。
応えられるはずがない。目の前の少女は手を口元にあてて、胸の奥からこみあげる嗚咽を堪えるので精一杯だったのだから。
「......っ、ばっ............ばっ、か......ネイトのばか......わた、わたしが......どん、な気......持ちで」
両目の端に大粒のしずく。
けれど、今度こそクルーエルは微笑んでいた。
「......わたし信じちゃうよ? 本気にしちゃっても......いいの?」
「──信じてください」
ElmasiaRisiseleSelahphenoria
Miqu,clue-l-solitismis cela
少女の身体が徐々に光の粒へと変わっていく。
何度も何度も目にした、名詠生物が還っていく光景。身体を支える両足が消え、胸元までが消滅し、この世界から消えていく最後の最後の瞬間まで。
少女は目をつむったまま微笑みを絶やさず──
それを見守る少年は、両拳を握り、目からこぼれおちそうになるものを堪えていた。
Ris siasophia,leide-lis,clue-l-sophieneckt rein──Kyel-fesSophitelevelxeph
止まっていた光が動き、凍っていた音が再び流れだし、
目の前の世界全てが光に包まれる中──
ネイトは、光の洪水に包まれて意識を失った。
握った拳だけ、何か大事なものを守るように固く閉じたまま。


間奏 『荒野を往くもの』
......カラ......カラン......ッ
赤く灼けた軽石が風にさらわれ、起伏の激しい坂を駆け上がるように転がっていく。
かつては火山地帯であったという荒野。噴火の際に山が崩れ、今ではどこまでも続く丘陵、遥か彼方には森林地帯が見えるだけ。
整備された道などなき道。
砂利と軽石、まばらに生えた名もなき草だけが彩る街道に、一人分の足音が響く。
......ズッ......ズズッッ......ズ............
足を引きずるような、地に縫い止められた歩行。
「大した災厄だな。凱旋都市からこれほど離れた俺の牢獄にまで光が届いた。凱旋都市、その歴史も遺産も全てが瓦礫の下か」
押し殺した笑いが風に乗る。
一呼吸分の笑いが徐々に弱く、擦れ、笑いが笑いですらなくなったその後に。
「だが、それでも人は生きていく」
その男は歩みを止め、頭上に展開する夜空を仰いだ。
「好い夜だ。本当に好い風だ。そうは思わないか、なあ?」
荒野にいるのはその男ただ一人。
だが彼は、まるで返事が来るのを当然とばかりに夜を見続ける。
やがて風がやみ、転がっていた軽石が止まり、静寂が荒野に満ちていく。
『それは、わたしに同意を求めているの?』
声は、虚空から唐突に現れた。
まだ若い。十代の少女の声だった。
「お前以外に誰がいる?」
くっくっと口の端を歪め、男が再び歩きだす。
「愉しいな。お前の声を聞くと、クルーエルという娘を思いださずにはいられない。もっとも声だけでなく、姿形までまるで同じとは恐れ入ったがな」
『......最低限の説明はしたはずよ』
「もちろん、だからこそ愉しいのさ。名詠式を司る......調律者サマだったか? そんな大層な存在が、わざわざ獄中の俺を連れ出すとはな」
みしっ。
音が響くほどに左拳を握り、その感触を確かめるように手の平を開いていく。
──その男に右腕はなかった。
「もう一度あの学園に足を運ぶことになるとは思わなかった」
『嫌なの?』
「まさか、嬉しくてたまらんよ。あの鼻タレの小僧がどう変わったか楽しみで仕方ない。まるで我が子の成長を見届ける父親のような心境さ」
『それはどちらを指すの。レフィス? それとも──』
しばしの沈黙の後。
「両方だ」
口早に呟き、その男は足を速めた。
「さて、明日中には着きたいものだな。お前も時間がないんだろう?」
少女の声は聞こえない。
が、男に気分を害した様子はなく、むしろそれすら楽しんでいるようだった。
「......ヨシュア、少しだけ、お前に胸を張ることができそうだ」
独り言に応じる者はこの場にいない。
それでもなお──男は地を踏みしめ、一歩、また一歩、目的の地へ歩き続けた。
序奏 『夜明け前』
1
......ミオ、
............ミオってば!......
......だれ?
肩に触れる誰かの手。その感触に少しずつ意識が覚醒していく。
「あ、良かった! ちゃんと無事みたい!」
耳元で聞こえる声がさっと鮮明さを増した。まぶたを開けたそこに、互いの鼻と鼻が重なるほど間近に少女の顔が。
日焼けした肌に亜麻色の髪、ボーイッシュな面だちが特徴的な少女だ。
「エイダ......? あ、あれ、どうし............っ!」
状況も摑めないまま跳ね起きるや、軽い目眩に襲われた。
「ほら慌てなさんなって、落ちついて。どうせあんたで最後だから」
「......あたしで最後?」
目をこすり、あらためて周囲を眺めてみた。
エイダの顔の背後──そこにはさっきまで見ていたのとまるで同じ星空。依然暗い空の様子から、気を失っていたのは本当に一時間たらずかもしれない。しかし問題は、なぜ自分が気を失っていたかだ。気づけば地面の揺れも収まっている。
「ミオそっちじゃない。こっちこっち、よく見てみな」
エイダが指さすのは向かって右手。
......あれ?
周囲の景観が一転していた。エンジュ特有の尖塔も、正面の視界を埋めつくす競闘宮の巨大な影もない。暗がりで細かい造形までは把握できないが、見えるのは長方形状の建物がいくつか。家屋にしては窓が大きく、形もやけに単純だ。
でもなんでだろう、前に視たことあるような気がする。それもごくごく最近、というよりつい数日前まで──
「......校舎?」
それもただの校舎じゃない。これは、
「そそ、トレミア・アカデミーの校舎だよ」
......この友人は何を言ってるんだろう。
「エイダってばどうしたの? 確かにこれすっごく似てるけど、あたしたちエンジュに来てるんだよ。トレミアに帰るのは明日なわけで............って、ちょっとエイダ、痛い痛い! 首折れちゃう、折れちゃうってば!」
言い終えるより早く彼女に顔を両手で挟まれた。抵抗するもむなしく、そのまま強制的にぐいっと後ろを向かされて──
トレミア・アカデミーの正門。
見知った校章と学園名が刻まれた石柱がそこにはあった。
............うそ。
「信じる気になった?」
「なにが......どうなってるの」
間違いない、本当にトレミア・アカデミーの敷地内だ。それも正門を抜けてすぐにある一年生校舎の目の前だった。
気を失っている間に凱旋都市から学園に移動していた?
そんな馬鹿な。かたや大陸北部の辺境にあるこの学園、かたや大陸中央部に位置する凱旋都市。どれほどの距離があるというのだ。
「しつこいけど落ちつきなって、とにかく順番に話すから」
その言葉に奇妙な違和感を覚えた。
この友人も一緒の出来事に遭遇したはず。なぜこうも冷静なんだろう?
「エイダ、まるで全部知ってるみたいな言い方」
「ん、ホントのところあたしも頭の整理しきれてないけどね」
口元に手をあて、彼女はふと横顔を向けた。
「順に言うとさ、みんなの中であたしとレフィスが最初に目を覚ましたの。まあ、二人ともちび君に起こしてもらったんだけどね。それであたしが親父を起こして、親父がみんなを起こしてる間に............あたしとレフィスで、ちび君から話を聞いてた」
「ネイト君が? それにレフィス君て、どうして?」
誰より先に目を覚ましていたのがネイトなのも気になるし、他校のレフィスがトレミアにいる理由だってわからない。
いや、本当に追及すべきは。
「ネイト君なら知ってるって、どうして?」
「それは──」
続きを告げようとしたエイダの唇が止まった。
「ミオ、エイダ!」
自分たちの背後に足音。振り向くより先、ミオは近づいてくる人物が誰だか悟った。
四月に入学して以来、自分たちの教室を担任する教師。
「ケイト先生?」
夜間でも目につく金髪が眩しい、新米の女性教師だ。慌てて走ってきたらしく、肩で息をしているのが遠くからでも察しがついた。その後ろには眼鏡をした知的な男性──ミラー教師。彼はたしか最上級生の教室を担当していたはずだ。
そして、さらにすぐ後ろにはレフィスとヘレンの姿まで。
「エイダ、何がどうなってるの!......帰ってくるのはそもそも明日のはずだし、それに」
「あー待ってセンセ、いっぺんに聞かれるとダメ。あたしだって混乱しちゃいそうなんだから。......まず、あの二人は?」
あの二人?
ミオが内心首をかしげる間もなく、エイダの問いにミラー教師がすらすらと。
「カインツと、あと一緒にいた少女は医務室だ。......どちらも相当な重傷だった。明日すぐにでも精密検査が必要になる。今はクラウス氏が付きそって、医療機関に運ぶ手続きも済んだ。まったく、楽な当直かと思えばこんな夜更けにこの大騒ぎとはな」
「あ、なるほど。だから親父がいないわけね。──了解。つまりこの場にいるメンバーが、凱旋都市から学園に来た全員とひとまず考えちゃおう。その方がわかりやすい」
周囲を一周ぐるりと見回して手を打つエイダ。
「......エイダ、ちょっと待って」
「ん?」
目を丸くする彼女の前で、今一度、ミオは周囲を眺めてみた。
学生はレフィスとヘレン、エイダ、そして今この場にいないがネイトもだ。
大人はエイダの父親、そして虹色名詠士。
共通点──あの時の競闘宮に集まっていた顔ぶれが、そっくりそのまま当てはまる。
「あのさエイダ、これって競闘宮にいた人たちだよね」
「そう、それも説明しようと思ってたんだけど。どうかしたの?」
「......一人足りないよ」
一人、自分の一番良く知った友人の姿がない。名前すら出てきてない。
「クルルはどうしたの? ねえエイダってば、なんでさっきからクルルの名前も出てないの!」
背中に嫌な寒気があった。
まるでクルーエルだけが意図的に外されている、そんな気がしたのだ。
「ちょ、ちょっとエイダっ! なんで黙っちゃうのよ!?」
押し黙る友人の肩を摑み、声の限り叫んだ。
思えばレフィスもだ。エイダと一緒にネイトから事情を聞かされたという彼もまた、エイダと同じように口を閉じて......まるで、まるで、何かを懸命に堪えるように。
「クルーエルは──────だ」
え?
空耳か、エイダの冗談かと思った。
「......エイダ......なにを......言、っ、言って......る......の?」
全身から力が抜けて、まず最初に膝が折れた。
......そんな......そんなことって............あるわけが......
──クルルが、消滅した?
2
黒一色に塗り固められた空。だんだんと青と白が混じっていくのがわかる。
窓の向こうからは鳥の鳴き声。
徐々に、トレミア・アカデミーに朝が近づいていた。
──あたしが鎗の朝練する時に聴く声だから、もう五時くらいか。
「あんた具合はどうなの? テシエラって奴にこっぴどくやられたんでしょ」
水滴のついた窓枠から離れ、エイダは室内へと振り向いた。
「......お互い様だ」
テーブルに両肘をつく恰好で椅子に座るレフィス。競闘宮にいた時はろくに身体が動かないようだったが、今はある程度は回復したらしい。
「そういえば聞き忘れてたけど、ここはどこなんだ?」
「トレミア・アカデミーの総務棟。一階......てのはわかってるか、その職員控え室ってとこ。控え室ってか休憩室だね」
ソファーに給湯室、テーブル、椅子。
それらを物珍しそうに眺める彼。
「俺のジール名詠学舎はこんな部屋なかった。本当に辺境の学園か? 敷地も相当あるみたいだし、こんなにでかい総務棟も見たことない」
「敷地はでかいけど半分自然のままってやつ。校庭の裏にはいきなり野山があるくらいだからね。野生動物もそれなりにいるから研究にはもってこいなんじゃない?」
それきり、会話が途切れた。
「あのさ──」
「聞きたいことが──」
まったく同時に口を開き、互いに苦笑の表情をうかべる。
「いいよそっちからで、見知らぬガッコに来たばっかで何もわからないだろうし」
「俺の方はそんな大したことじゃないんだけどな」
机に片肘をつき、どこか気恥ずかしげな表情を隠すように青年がそっぽを向く。
「ヘレンとミオはどうなったのか......その......気になった」
この場にいるのは自分とレフィスだけだ。共にいた二人は教師に連れられて別行動。夜が明けても連絡がない、彼にしてみれば気になるところなのだろう。
「二人ともうちの先生がそばについてるし、職員室じゃない? 事情聴取ってつもりはないだろうね。それならあたしかあんたに訊くはずだもん」
「そうなると」
「うん、単に二人がそれだけ動揺してたからだと思う......いや、あたしも落ちついたつもりで全然そうじゃなかったんだ」
今になって後悔の念が胸に渦巻いてしかたない。
──全て、ネイトから聞かされたままを話してしまったのだ。
詳細とまでいかないが、クルーエルが光の粒子になって消えてしまったこと。そしてそれが全て、自分たちを含む凱旋都市の人間を守る唯一の手段であったことまで。
「特にミオだね。あの子に話すとき、たとえば『クルーエルは誰かに連れ去られた』で良かったはずだもん......それを......」
ミオにいたっては言葉一つ話せない状況に陥ってしまった。軽いショック状態ゆえ、それを不安に思って教師がそばについているのだろう。
──なぜ、あの場面で気が回らなかったんだ。
「あの場面、気をきかせようなんて欲を出す方が無理だ。あんな土壇場で作り話を考えようと思ってもボロが出るに決まってる。たぶん、俺でも同じことを喋ってた」
「ちび君に聞かされた通りに、か......」
わからないのはネイトだ。
自分とレフィスを起こし事情を説明した後、一人でどこかに姿を消した。
本当の意味で全てを知ってるはずの彼がいないのだ。今もミラー教師が彼を捜しているはずだが、見つけたという話はない。
かわりに入ってきた情報といえば──
「そういや親父から聞いた話なんだけどさ......凱旋都市は壊滅だってさ。競闘宮も家も何もかも瓦礫の下だって」
結局、アルヴィルの言ったことは本当だった。
あの猛烈な揺れと共に目も眩むような光が満ちて──その光が瞬いたかと思った時には、この大陸から凱旋都市は消えていた。
「......助かったのは俺たちだけなのか?」
「ところが違うんだ。こっからがふしぎなんだけど、トレミアに来たのはあたしらだけだけど、エンジュの人は全員エンジュの外に避難してたらしい」
「避難? あの短時間で全員が?」
「ううん、それが全員あたしらと同じなんだって。気を失って、気づいたらエンジュに近い街道に倒れてたみたい。みんなそれが逆に怖くて、今はエンジュに一番近い都市に逃げこんでるらしいけどね」
気を失って、気づいたら遥かに離れた場所にいた。これが一人なら気のせいとも疑うが、凱旋都市の全ての住民が体験したとなれば迂闊に否定することもできない。現象が本当に起きたのか、本当だとすればどのように。それすらいまだわからないままだというが。
「俺たちを起こした時、ネイトが気になること言っていたな」
ぼんやりとした瞳をレフィスが天井へと向ける。
〝風の砕けた日は最小限に留めたけど、完全には止められなかったんです。だから僕たちをここに飛ばしたのはクルーエルさんだと思います......たぶん、シャオがやったように『セラの庭園』を経由して〟
──『セラの庭園』を経由、気になるのはこの箇所だ。
「レフィス、あんたもあの場所に行ったんだよね?」
名詠式の生まれ、そして還る世界。そう聞かされた。
夜のような天球に、青白く輝く砂が地表を覆った世界。宝石のような五色の結晶が宙を浮遊し、空には極光が輝いていた。
「ああ、シャオとかいう連中のリーダーがそうしたらしい。俺の意志に関係なくほとんど強制的だったな」
「一つ訊きたいんだけど、あそこから戻ってきた時の場所は同じだった? それとも全然別の場所に移動させられてたとかってことはなかった?」
「──それは」
「祓名民の癖で、位置把握だけは怠らないようにしてるのよ。でさ、あたしがアルヴィルと一緒に戻された時、足半分だけ位置がずれてて身体の向きも数度違ってた。それがずっと気になってたんだ」
一つ確かなことは、『セラの庭園』に繫がる道が名詠門であるということだ。
自分が感じた位置のズレ──それは『セラの庭園』に連れられた時と戻る時で、名詠門の発生位置がわずかに異なっていたからに違いない。
「もしだよ、『セラの庭園』から戻る時、こっち側の世界のどこに名詠門を発生させるかを指定できるなら──」
「俺たちもエンジュの人間も一人残さず『セラの庭園』に連れられて、そこからこちら側のどこに戻るか指定されていた、か......確かにそう考えれば説明はつく......だけど何だろうな、このもどかしさ」
レフィスが言いよどんだ理由は察しがつく。
それは、今まで自分たちが知る名詠式とあまりにかけ離れているからだ。
それが名詠式で実現可能かどうかの議論ではない。それが、人の名詠式で測れる容量を遥かに超えてしまっていて、──そして何より、それをやったのが自分たちの知る少女だということだ。
「......ネイトはああ言ってたけど、本当にクルーエルで間違いないのか」
「たぶんね、そう思えるだけの理由もあるし」
自分やミオ、ネイトのトレミア・アカデミーの学友。
ヘレンとレフィスのジール組。
虹色名詠士に自分の父親。
──トレミアに移動していた全員が、クルーエルと面識がある。
「あたしらはトレミアで、他の人たちはそこらへんの街道でしょ。......我らがクラス委員らしいじゃない。全員トレミアに移すとトレミアが一杯だもんね。きっと土壇場で頭が回らなくて、みんなをどこに移動させればいいのかも慌てて決めたんだよ」
奥歯を嚙みしめ、泣き面にしかならないものを無理やり苦笑に変えた。
......本当に、クルーエルらしい発想だ。
「名詠式を創造し司る調律者か──本当に、俺たちのできる名詠式とはまるで桁が違うことをあっさりしてみせるんだな」
「クルーエルが怖くなった?」
「......わからない。でもたぶん逆だと思う」
言葉を探すようにしばし宙を見つめていたが、彼はふと視線をテーブルに戻し、
「俺たちは彼女のおかげで助かったんだろ。それは忘れちゃいけない」
「わかってるじゃん」
肘をつく彼の拳へ、エイダは自分の拳をコツンとぶつけた。
「......けど、今はどうなってるんだ? ミクヴァ鱗片を狙ってた奴らがどこに行ったのかも、そもそもミクヴァ鱗片がどうなったのかもわからない」
そう、そこが問題なのだ。
間近にあった椅子を引き寄せ、その背に両手をかけてもたれかかる。
「それはあたしも気になってる。だけど〈ただそこに佇立する者〉が名詠されたって感じはしないんだよね」
〈ただそこに佇立する者〉──名詠されることで既存の名詠式を全て消去し、新しい概念を与える調律者と聞いている。その際、名詠式にかかわる人の記憶が一度全て消去される。その消去された記憶を保管する筺が残酷な純粋知性。つまりクルーエルだ。
役割が終われば残酷な純粋知性は消滅し、ミクヴェクスの『眼』に戻る。
そうなればクルーエルも、そして自分たちも、互いに互いの存在を忘れてしまう。
「あたしたちがあの子のこと覚えてるってことは......まだ〈ただそこに佇立する者〉は名詠されてないんだよね」
だけど、現にクルーエルはこの世界から消滅してしまった。もう彼女を助ける手だてはないのか。あるとしてもいつまでに何をしなくてはならないのか。
「ネイトを捜した方が良さそうだな」
「......だね」
クルーエルと最後まで一緒だったあの少年。
クルーエルが最後まで共にいることを選んだのが、彼だった。
信じたい──彼なら何かを知っていると。
「どうする、別行動した方が効率がいいか?」
「そりゃそうだけど、今日って普通にガッコある日なのが問題なの」
壁にかかった時計を横目で眺める。
「何も知らない生徒がそろそろ登校する時間なのよ。それを、まるで違う制服着た生徒が校内を歩き回ってたら気になって仕方ないもん。あんたも周りからジロジロ見られて怪しまれたら嫌でしょ? あ、それとも──」
テーブル越しに彼の顔を覗きこみ、
「......なんだその気味の悪い笑顔」
「えっへっへ、もしかしてレフィス君は、あたしよりヘレンと一緒だった方が良かったかなぁ? ごめんねぇ、あたしとしたことが気がきかな──」
「さて行くか」
「ちょ、ちょっと? なにその冷たい反応! てか、こんな時だからこそ場を和ませようと思ったのに、何か言ってくれないとあたしの方が悲しいんだけど!?」
控え室の扉へ向かうレフィスを慌てて追いかける。
「......つまんないの。ちび君ならクルーエルの名前を出せばすぐ顔が真っ赤になるのに」
「ネイトはそれが嫌で姿を消したのかもな」
「だ、か、ら、違うっての!」
扉を開けようとした矢先。
ガチャリと音を立て、手を伸ばした先のドアノブが勝手に回った。
「エイダ、いるっ!」
艶やかな黒髪を伸ばした長身の少女だった。
「お? サージェス、なんであたしがここにいるってわかったの?」
「ケイト先生にね、あんたがここにいるから連れてこいって言われたの。あんたなら理由知ってるかもしれないからって。ほら早く、学園長室に来なさいだって!」
言い終えるや、サージェスに手を引かれエイダは通路に連れ出された。
「ま、待ってってば! 理由って何の理由? あたしこれからちび君を──」
「あんた、もしかしてまだ気づいてないの?」
「だから何の理由?」
「......あんたには説明するより見せた方が早いわ。触媒持ってる?」
「そりゃあるけど」
ポケットから白の塗料チューブを取りだして見せた。
エイダの専攻色は『Arzus』。それゆえ触媒には同色の白い素材が必要となる。
「それ使って何か名詠してみな。白いちっちゃな石でも何でもいいから」
「えー、何だってこんな時にそんな」
「いいから、ほら早くやんなさい。急いでるんでしょ?」
......まったくもう。レフィスも隣で困ってるってのに。
指先に塗料を付着させ、白い小石を思いうかべた。
──『Arzus』──
塗料が白く淡い光の粒を放ち、それが寄りそって真円に近い名詠門を形成。輝く門から小さな小石が............出てこなかった。
何も名詠されないまま、硝子が砕けたような音だけを残して名詠門が消滅する。
「あ、あれれ。あたしとしたことがおっかしいな。これくらいさすがに」
「そうじゃないの。みんなできないのよ」
「みんなって?」
「だ、か、ら、ウチも先生も学園長も!......みんな、名詠式ができないの」
一時間後。
『五色の名詠式が起動しない』
大陸の名だたる名詠研究機関が連名で、異例の報告を公表した。
『原因、対処法、いずれも不明。これにかかる情報、見解を広く求める。情報の提供先については臨時の────』







ケルベルク研究所保養区、療養施設。
「で、これはどういうことなのか説明してもらえないかな」
真っ赤なヒールで床を踏みつけ、白衣姿の女性研究者が腕を組む。深い緑の髪をした長身の女性だ。切れ長の瞳は知的というより鋭いの一言につきるだろう。
サリナルヴァ・エンドコート。大陸を代表する研究機関の統率者は、目の前で横たわる少女をじっと見下ろした。
ファウマ・フェリ・フォシルベル。カインツと共に学園で倒れているのを医務室に運ばれ、そこからケルベルクまで転送されてきた。
「............」
「競闘宮の触媒を狙っていた連中。お前がその仲間の一人というのは聞いている。お前ならこの状況、前もって知っていたんじゃないか?」
白いシーツ、白いベッド。そこに横たわる少女もまた全身に白い包帯を巻いていた。
まだまともに話などできる容態ではないのは承知の上だ。しかしそれを押してもなお、今は情報が必要だった。
──五色の名詠式が一切使えない。
原因も対処法も全て不明、あらゆる文献も参考にならない異様な現象。
「......空白名詠」
天井を向いたまま少女がぽつりと呟いた。
「空白名詠というのは知ってる? 知らないならこの話はここでおしまいなんだけど」
「ミシュダルという男に関わったおかげでな。空白者というのには覚えがある」
無表情な少女の顔に、微かな笑みが過ぎった。
「ならいいわ......たぶん、この現象は空白名詠の調律者が起こしたもの」
「調律者か、聞き慣れない言葉だな」
「名詠式を司る存在。そのうちの一体〈ただそこに佇立する者〉は、名詠式の概念を新しいものにしたがってる。既存の名詠式と取り替えるのだから、古いのは捨てる必要があるでしょ? 五色の名詠式が使えなくなったのはその第一段階────だと思う」
天井を向いて目をつむり、口だけを動かす彼女。
その仕草はまるで稚児、まどろむ子供の寝言を想起させるものだった。
「語尾が弱々しいな。シャオという名詠士から聞いたんじゃなかったのか」
「シャオは言ってなかった。全部わたしの想像。もしかしたらシャオにも予想外のことがあったのかしらね。たとえばミクヴァ鱗片を手に入れたはいいけど、〈ただそこに佇立する者〉を名詠したくてもできない理由が発生したとか」
「さてどうかな。単にお前が聞かされていなかった可能性もあるわけだ」
「ないわね」
閉じていた少女のまぶたが唐突に開いた。
「シャオは仲間に全部教えてくれた。教えてくれないのは本人の性別くらいよ」
顔に出そうになる苦笑。咳払いし、サリナルヴァは胸の内に押しとどめた。
......なるほど。こんな重体の身とはいえ、なおシャオという名詠士への信頼は揺るがないというわけだ。
「しかしずいぶんあっさり口を開いたな。いいのか?」
「どうせわたしの想像だもの」
そうして見つめる窓に映る景色の、そのさらに奥。
凱旋都市の方角を、彼女はどこか寂しそうな瞳で見つめていた。
「それに、わたしはやっぱりシャオが勝つと思う。シャオはもう『塔』を登ってるはずだから」
3
トレミア・アカデミー総務棟、教師控え室。
「......一日、終わっちゃうんだ」
茜色の空に灰色が混じり、灰色の中に黒が混じっていく。
大陸中央部の凱旋都市と比べ、トレミア・アカデミーは冬の訪れが早い。小さく吐いた息が窓硝子に触れては白くにごる。
──一日が、いつもの四分の一くらいの感覚だ。
体内時計はまだ正午ほど、壁にかかった時計は夕刻を過ぎて夜へ。そのあまりの差に溜息をつく気にもなれず、エイダはただじっと秒針の動きを眺めていた。
「でもさ、あたしら控え室で時間潰してて正解だったかもね。職員室もそうだけど、大陸中の研究所が大騒ぎだってさ。下手すりゃそれに巻きこまれて質問責めにされるところだったんじゃない?......そりゃそっか、突然に名詠式が使えなくなったんだから」
トレミアも講義は中止。部活の規制まではされなかったが、この事態に部活動に明けくれるような生徒はいないらしい。
「レフィス、あんたどうするの」
「......俺か」
明るい室内と暗い窓の向こう。窓硝子に映るのは背後の光景だ。
硝子に映る世界で、銀髪の青年は朝とまるで同じ姿勢でテーブルに両肘をついていた。彼が見下ろすのはすぐ真下、──テーブルに転がる灰色名詠の触媒だ。
五色の名詠同様、灰色名詠もまた起動しない。
「ジールから連絡来たんでしょ、ひとまずヘレンと一緒に戻って来いって」
逡巡ともとれる間を置いて、
「エンジュの、ちょうど競闘宮のあった場所らしいな」
彼が立ちあがる気配が床を伝って感じられた。
「雲の高度すら超えて伸びる、天を衝くほどに高い夜色の塔。......本当にそんなものがエンジュに建っていたのか?」
「親父のツテからの情報だから間違いないんじゃない?」
地上と天を結ぶようにして建つ夜色の塔。
エンジュへの先遣隊が発見し、その情報が入ったのが今日の昼過ぎ。それから父親を経由してエイダに伝わったのが夕方だ。目撃自体は今日の早朝──つまり五色の名詠式が消えたのと同時刻。偶然の一致にしてはできすぎている。
「......俺は、まだジールに帰るつもりはない」
独り言にも似た言葉に混じる苦い棘。
「やることが残ってる。クルーエルのもそうだし、師のことだってまだ俺の中で納得できてないんだ。......あの女にもう一度会って確かめたい」
「きついこと訊くけど、名詠式使えないんでしょ? それでも行く勇気ある?」
「土壇場になれば逃げの一手でも構わない。それでも何もしないよりマシだ」
真横から聞こえてくる彼の声、顔を向けることはしなかった。窓に反射する自分のすぐ隣に、長身の青年が映っていたからだ。
「そっちはどうするんだ」
「あたし?......あたしか」
伏せたままの顔を持ちあげる。
窓に映る自分の顔。あの時の涙の痕はもう消えた。けれど──
「......ボロボロに負けたのは、あんたよりむしろあたしの方だったんだ」
〝出直してきな。今この場なら何百回やっても結果は同じだ〟
〝自分がどうしたいのか腹据えて考えてみろ、答えがでない限り俺には勝てねえよ〟
祓名民としての技量以上に精神的な心の強さが違う。
今の自分には見えていないものが、きっとアルヴィルには見えている。技量以上に隔たれた差、目に見えることのない距離。一晩を経てようやく受け入れられた。
「その割には落ちついてるように俺には見えるな」
「......そうだね。あたし自身が意外なくらいだよ」
ふしぎな気分だった。
クルーエルを助けなくてはという焦り、アルヴィルへの対抗心。
無数の感情が入り交じった状態で、あの時は、自分とアルヴィルの差をがむしゃらに否定していた。けれど昨夜それを受け入れた途端、小さな胸の痛みと引き替えに、ふっと呼吸が楽になったのだ。胸のつかえがとれたように。
「あたしもさ、もう一度あいつに会ってきっちり片を付けたいんだ」
決別か、あるいは再び前のような関係に戻るのかはわからない。
だけど──
「あんたは聞けなかったことを聞きにいくため。あたしは......あの時、自分が言えなかったことを言いに行こうと思ってる」
アルヴィルに向けるかつての自分の想い。そして今の自分の想い。
口にするだけの勇気が持てなかった。
──その勇気を出さなくちゃいけない。
伝えるべきことを伝えにいく。
そしてそれが、結果としてクルーエルを助けることにも繫がると思うから。
「って、強がってみたけどさ......ホント言うと、あたしの中でもまだ迷ってる部分が残ってるんだ......出発、一晩待っててもらえるかな」
「明日の朝までか。それで本当に平気なのか?」
「しょうがないの」
隣に並び立つレフィスへ、エイダは小さく苦笑した。
「それ以上延ばせない。これは何があってもだよ」
出発は明日の早朝。これは絶対に外せない。何が起きるにしろ時間が迫っているのは確かだろうから。
「正直さ、さっきまで途方に暮れてたわけよ。何かしたくても『どこで』『何を』すればいいのかすらわかんないならお手上げだもん」
つぅっ──曇った硝子を指先でなぞりながら、
「でも、塔なんてものが建ったのはあたしらにとっちゃ幸運だよ。『何を』すればいいのかわからなくても、『どこで』っていう部分だけはハッキリしたんだから」
凱旋都市にそびえ立つ天へと伸びる塔。
シャオ、そして二人の仲間の行方もそこだろう。
「動けるのは俺とお前、......問題は」
「ちび君だね」
夜色の少年を脳裏にうかべ、エイダはそっと瞳を閉じた。
そう、『どこで』ということがわかっても『何を』という最後の欠片が足りない。
それを埋められるのは、きっと彼だけなんだ。空白名詠と対を成す夜色名詠、そのたった一人の詠い手なのだから。
「ネイトの場所は?」
「先生からは聞いてない。どこに行ったのか先生もわからないんだって。男子寮の自分の部屋にもいないみたいだし............こんなときに」
けれど責められない。目の前で彼女が消えたところを見たのが彼ならば、心に一番深い傷を負ったのも彼なのだ。
「明日までに立ち直れっていう方が無理か」
「最悪、あたしら二人だね。〈イ短調〉も出払っちゃって動ける人員は零。......ヘレンとミオには内緒だよ」
シャオ、テシエラ、アルヴィル。敵の人員は三人。数の上でも......いや、そうでなくてもネイトにはいてほしかったが。
「......ちび君のばか、なんでこんな時に」
「本当に? 本当にそう思っているのか?」
それは室内ではなく──
「アレがどこぞの物陰に隠れてめそめそ泣き腫らしている? そう思っているのなら、お前らなんぞより俺の方が遥かにあの小僧を理解しているらしい」
控え室の扉のさらに向こう。
低く押し殺した声。生徒ではない、教師でもない。学園にいる人間が出す声とは一線を画す、暗く濁った沼地のような声音。
ズッッズズズ......何かを引きずるような独特の足音。
「好い夜じゃないか。なあ?」
──この声は?
「貴様っ!」
それが誰かを理解した瞬間、エイダは反射的に祓戈を持って扉へと構えていた。
忘れもしない。トレミア・アカデミー、そしてケルベルクで何度となく対峙した相手のものだったから。
「......お前」
レフィスの声が嗄れていた。緊張にふるえる様が如実に伝わるほどに。
当然だ。なぜならこの青年にとって、扉の奥にいる男は──
「この狭い通路で素敵な再会というわけにはいかないだろう? 外へ来い、ちょうど好い風が吹いている」
総務棟前、広場──
肉を通過し骨の髄に染みこむ、そんな凍てついた風の吹く場所で。
「まったく、今日は本当に素晴らしい日だ。そうは思わないか?」
皺だらけの装束に頭からつま先まで全てを覆い、その名詠士は寒空を仰ぐように立っていた。
「そういえば思いだしたよ」
男のそれには構わず、エイダは祓戈を握る力を強めた。
「浸透者とかいう見えない奴に襲われたの、ちょうどこの場所だったね。今さら現れて何の用だ──────ミシュダル」
招かれざる灰色名詠の闖入者。
幾度となく相まみえた末、ケルベルク研究所本部でネイトが敗者の王を倒して決着。少なくともエイダはそう思っていた。
もうこの男が自分たちの前に現れることはないだろうと。
「警戒心と敵対心、怒りと不安と......まあそんなところか。実に結構、俺のような人間に突きつけるにはふさわしい感情だ。お前はどうだレフィス」
顔を覆うフード越しに伝わる、ミシュダルの粘つく視線。その眼光を正面から受け、銀髪の青年がしばしの間をあけてうなずいた。
「......あいにく、俺もあんたに対して気を許すつもりはない」
「好い答えだ」
すり潰すような笑いを洩らし、ミシュダルが肩をふるわせる。
「あいにくあたしらは長話できるほど暇じゃない。......何をしたいのかさっさと言いな、復讐ってんならこの場で──」
「物騒だなエイダ=ユン・ジルシュヴェッサー。それと比べるなら......やれやれ、あの小僧はもう少し静かだった」
あの小僧。
「夜色名詠のネイトだったか。ついさっきアレと会ってきた。せいぜい一、二分だがな」
「......ちび君と?」
いったいどこで。教師が捜しても見つけられなかった彼を、この男が?
いや、今はそれより。
「貴様っ、ちび君をどうした! まさか......」
闇夜の中、わずかな光を浴びて輝く鎗の先端。
それを突きつけられてなお、旅装束の名詠士は口元の笑みを絶やさない。
「俺があいつに復讐? そう考えるのなら滑稽だな。俺はあいつに一言伝えて、あいつも一言だけ俺に返してきた。それだけだ、あまりにつまらん反応だった。くだらん、本当に面白味がない。小娘を失って途方に暮れているかと思って来てみれば」
「......話が見えない」
クルーエルを失ったことをこの男が知っている理由も謎。しかしそれ以上に、ミシュダルがネイトに対し描いている感情の色がわからない。この男の今までの行動を考えれば、ほぼ確実に復讐のつもりで現れたと予想したのだが。
それが、たった一言で終わり?
それに──ネイトがこの男に自分から返事をした?
「しかし残念だ。もしあいつが絶望してたのならば盛大に罵倒した挙げ句、胸ぐら摑んでからかうつもりだったんだがな」
「待ちな......それどういう意味だ」
ミシュダルの言い方はまるで反語──
彼は絶望してなんかない。むしろその逆だと、自分たちに教えてくれているような言い方じゃないか。
「あの小僧は落ちこむどころか、最初から小娘を取り戻すことしか考えてないようだぞ? それも馬鹿がつくほどに強情に、愚直にな」
ネイトはショックを受けているだろう。レフィスも自分も教師たちも皆そう考えていた。
けれど実際はまるでその逆で──
......ちび君は諦めてない?
「つまらん、あいつは思考が表情に出る。伝わってきた。俺みたいな敗者がどれだけはやし立てたところで詮なきことだと」
敗者、自らをそう称す男は忌々しげに舌打ちし、そして。
「だから一目見て一言伝えて、それで終わり。......本当につまらん、小娘を失って曲がった成長に走るかと思ってみれば、あの小僧、いつぞやよりさらに頑固にまっすぐ道を歩く気らしい............本当に呆れた、呆れた小僧だよあいつは」
4
朝の陽光が正午を過ぎて夕焼けへと変わり、茜色の陽もまた濃紺と灰色が混ざり、次第に濃く、そして深い薄墨色を練っていく。
夜。
そう呼ばれる時間帯になったことにネイトが気づいたのは、つむっていたまぶたを開いても視界の暗さが変わらなかったからだ。
「............」
朝も昼も飛ばして、夜になっていた。
丸一日食事をとっていない。一滴の水分も補給していない。今もなお、食事も水分も欲しいとは感じなかった。かわりに身体が熱い。さながら火を経ず身体の内側が燈える感覚。自分でもふしぎなほど心の中は静かで、また心地よかった。
「......あれ」
膝を抱えた姿勢で、ネイトはふと目を瞬かせた。
そういえばさっき誰かに話しかけられた気がする。その時は考えるのに集中しすぎたせいでほとんど上の空だったけど、あの人は誰だっただろう。
男の人の声、生徒じゃないし教師でもなかった。でもどこかで会った気がする声。
──それもきっと、すごく優しい人だ。
〝『僕は大事なものを見つけたから』──あの時、お前は俺にそう言った。ならば、このまま引き下がるつもりはあるまいな?〟
〝お前が俺に言った言葉を証明してみせろ、お前だけの名詠式で〟
僕は何て答えただろう。別のことに集中しすぎてろくに考えることもできなかったけど、それでも一言くらいは返した記憶がある。
一分、あるいはそれにも満たない邂逅だった。
〝好い夜だ、あの日ケルベルクで見た時よりも〟
たったそれだけを残し、その誰かは立ち去った。
古びた木製のベンチの上、膝を抱えた姿勢のまま頭上を仰ぐ。光源のほとんどない広場で、吐いた息がぼんやりと濁るのだけが見てとれた。
「......こんなとこにいたのに、見つけてくれたんだ」
学園の学生寮から一年生校舎へと続く道。そこから先へと進んだ奥にある、錆びついた鉄柵。そこをさらに進んだ場所には広場......かつては校庭であったものの一角だ。
雑草が伸び、あたりには砂利が転がった校庭。その奥には木造の学舎がある。トレミアが建設される前、この地にあった名詠学校だ。廃校となった今も学園長の意向で残してあるが、老朽化のため立ち入りは禁止されている。
──かつてエルファンド名詠学舎と呼ばれていた名詠学校。
「本当に静か」
隠れていたつもりはない。ただ誰もいない場所、それも耳が痛くなるほどの静寂の中で、極限まで研ぎ澄ませた思考で考えたいことがあっただけだ。
「顔を上げたということは、それが終わったと考えていいのかしら」
声は自分のすぐ隣。自分の座る長椅子のすぐ真横からだった。
「昨日の深夜から今の今まで。待ちくたびれたわ......ふしぎね、待つのはあんなに慣れてたはずだったのに」
何よりもまっさきに、煌めく緋色の髪が視界に飛びこんできた。
深い海を思わせる双眸に優しげな顔のライン。すらりと伸びた背丈、かつ女性らしい豊艶さをそなえたシルエット。
──誰より『彼女』に酷似した少女がそこにいた。
「あら、もしかして姉さんと勘違いした? やっぱりこの姿は誤解されるかしら?」
ふっと息を吐くように彼女が笑う。まるで泣き笑いのような表情で。
「アマリ......リス?」
調律者〈ただそこに佇立する者〉に牙を剝いた、空白名詠のもう一体の調律者。
クルーエルの分身にして、彼女を守り続けた守護者。
名前と存在だけは知っていたけれど、まさか今ここに現れるなんて。それに......ここまで容姿が似てるなんて。
「当たり前でしょ、姉妹なんだから」
白磁さながらの白肌を隠す長髪をそっと撫でる少女。
「......僕を待ってたの?」
「姉さんが伝えたセラフェノ真言──理解は済んだようね。時間としては本当にギリギリだったけど」
セラフェノ真言。
調律者を名詠する〈讃来歌〉に必要不可欠となる、名詠式にまつわる真の言語だ。
Ris siasophia,leide-lis,clue-l-sophieneckt rein──Kyel-fesSophitelevelxeph......
「あの時クルーエルさんが詠ってたのが真言だったんだね」
「......正直驚いたわ。まさかあの場面、姉さんの詠を一字一句覚えていたなんて」
彼女が残した詠を文法と単語に細分化。自分の知るセラフェノ音語と対比することでその構成を一つ一つ推測していく。何百回という仮定と過程の循環。限りなく正確に、限りなく忠実に。
最後に現れたものは──いかなる不純物も混じらぬ、完全なるセラフェノ真言。
昨夜から今の今まで、ネイトがたった一人で明けくれていたことだ。
「クルーエルさんは......」
「あなたが見た通りよ」
前髪をはらう調律者。そこからは睨みつけるような横顔がのぞいていた。
「あなたを助けるために自分からミクヴェクスの器官に戻ることを選択し、消滅した。残酷な純粋知性──ミクヴェクスの眼としてね。そんな状況よ、もうわたしの力をもってしてもどうしようもないわ」
乾いた笑みを張りつかせ、長椅子に座ったまま空を仰ぐアマリリス。
「わかるでしょ? もうお終いなの、調律者の力でもどうしようもないんだから、人がこの期に及んで何をしたところで......だからあきら──」
「──僕がいる」
顔を合わせようとしない彼女の真横で、それでも彼女の顔をじっと見つめた。
最後まで言わせる気は、なかった。
「世界中のみんなが諦めても僕は諦めない」
──僕が諦めない限りクルーエルさんは助かる道がある。......母さんもアーマも、きっとそのために僕に名詠式を教えてくれたんだから。
夜色名詠を教えてくれた母は言っていた。
〝これはあなたのための名詠式。だからネイト、あなただけに教えてあげる〟
アーマは言っていた。
〝お前の選択で小娘の道行きが、小娘の選択でお前の道行きが決定する〟
「助けて、それでどうするの」
人を小馬鹿にする笑みをもらす調律者。
嘲笑、クルーエルが絶対にしないことだった。
けれど──
「人と調律者の境界線上に立つ存在。人としても調律者としても不完全な姉さんを、赤の他人のあなたが救えるとでも本気で考えてるの? だとしたら」
「もういいよ」
彼女の言葉をさえぎり、ネイトは目を伏せたまま首を横にふった。
「もういい......そんな、辛いこと一人で背負おうなんて思わないで」
「何を言っ──」
「......噓をつくときの声、クルーエルさんにそっくりなんだね」
はっと目を見開き、そして、アマリリスは口を閉じて小さく身体をふるわせた。その仕草もまた、クルーエルが涙をこらえる姿を想起させるには十分だった。
「......わたしは、あなたを認めたくなかった」
長椅子に腰かけたままアマリリスが目をつむる。
「わたしは本当に臆病者。半分は、あなたに姉さんは助けられないと思ってたから。もう半分は............姉さんをあなたに取られた気がして、それが辛かった」
「──うん」
兄妹のいないネイトにもそれは感じられた。
今までのアマリリスの行動を見ていればわかる。
クルーエルの前で、彼女は絶対に妹としては振る舞わなかった。だけど今この言葉こそ、彼女がどうしてもクルーエルに伝えたかったことなんだ。
「......本気で、姉さんを助けようなんて夢を信じてるの」
口にすることもうなずくこともしない。ただ静かに、その青い双眸を見つめ返すだけ。それだけで全てが伝わるとわかっていたから。
「......〈ただそこに佇立する者〉はまだ名詠されてない。つまり姉さんは残酷な純粋知性としての役割を終えてないということになる。まだ姉さんとしての自我は残ってるはずよ。もっとも、それもどれだけ保つかわからないけれど」
「シャオはどこにいるの」
「凱旋都市があった場所に、天へと伸びる一つの塔が建ってるわ。『セラの塔』──この世界に『セラの庭園』が顕現した姿と考えなさい。本来それは調律者である〈その意志に牙剝く者〉か〈ただそこに佇立する者〉が名詠された後に顕現するものだけど、今は塔だけが生まれた状態。シャオの名詠は完成していない」
頭の片隅にこびりついて離れなかった疑念がまさにそれだ。
ミクヴァ鱗片を手にした状態で、なぜシャオは〈ただそこに佇立する者〉を名詠していないのか。
「シャオから聞いたでしょう。〈ただそこに佇立する者〉が名詠式の概念を組み替えるには、その前に全ての人が持っていた名詠式の記憶が必要になる。つまり姉さんが残酷な純粋知性として記録していた記憶の部分。それが欠けてるの。だからシャオは名詠式を行えないでいる」
「でもクルーエルさんがミクヴェクスの下に戻った......んだよね。それならクルーエルさんの記憶だって」
「姉さんの記憶を持ってるのはわたし。わたしが姉さんの記憶を預かってるの」
音もなくアマリリスが立ちあがり、そして。
「立って、手を出して」
「え?」
「姉さんの大事な心の結晶、落とさないようにね」
ぽちゃん。
アマリリスの指先から一滴の滴が落下し、手の平の中心で跳ねた。
──これって。
水滴が凝固し、涙のかたちを模った透明な結晶。
「残酷な純粋知性としての記録であると同時に、まぎれもなく姉さんの記憶。この学園で過ごしたあなたとの想い出も、全てがそれに詰まってる。......イメージがわかないなら、『クルーエルの記憶を詠び戻す名詠式』に必要となる触媒と考えなさい」
アマリリスがまぶたを閉じて息をつく。
と同時、彼女の身体がほのかな紅色に包まれた。
「『セラの塔』は『セラの庭園』が顕現した姿。その最上階は『セラの庭園』の最奥へと繫がってるわ。全ての名詠式の生まれる泉、すなわち調律者はそこにいる。本来なら人の身では決して辿りつけない場所だけど、あの塔が顕現してる間のみ、人は塔を通じて庭園の最奥へと往くことができるわ」
彼女の姿が次第に薄く、おぼろげになっていく。
その身体を包む紅色の光は、他ならぬ彼女の身体から生まれた光の粒だった。
「待って! どこへ──」
「どこへ? もうどこへも行かない。......わたしにもうすべきこともないし、そのための力も残ってないもん」
存在を存在として維持する力も残っていない。
名詠生物が還るのとは違う。
彼女のそれは、調律者としての力そのものが消滅することを意味していた。
「だめだっ、消えないで!」
消えていく彼女の手首を必死で摑む。力を入れればすり抜けてしまいそうなほど稀薄になった彼女の腕は、それでもふしぎと温かかった。
「どうして? わたしは自分の生まれた役目を終えたわ」
「......クルーエルさんと一緒にいたいとは思わないの?」
クルーエルのためでなく、彼女が自分の望みとして共にいる。
そう願ったっていいはずだ。ううん、そうあるべきなんだ。
「いいえ、わたしはクルーエルの自己防衛心が育ったものだもの。姉さんの幸せだけが望み、それ以外にわたしが望むものはない」
「......なんで、それならわかってあげないのさ!」
「え?」
「クルーエルさんのことを想ってるなら、なおさらあなたは消えちゃだめなんだ! もし妹が消えたなんて知ったらクルーエルさんはどう思う!」
想いが堰を切ったように溢れ、ネイトはただ感情の動かすまま彼女へと詰め寄った。
奇をてらう言葉も想いの丈を表現する言葉も知らない。それでも何か言いたくて、言わなきゃいけない気がして。
「なんで......なんであなたは、自分のことをそんなにつまんないものだって決めつけるのさ。......そんな悲しいこと言わないで」
瞬間、アマリリスの姿が突然に大きくなって視界を埋めて──
............え?
アマリリスに抱きしめられたのだと気づいたのは、自分が彼女と同じ紅色の光に包まれた後だった。
小さな、本当に消え入りそうなほど微かな声で。
「......ありがとう」
肉声ではなく、触れる身体と身体の熱を通じてそれは伝わってきた。
「ありがとう、こんなわたしにまで............その気持ちだけで十分」
抱擁は一瞬。
肩と背中を抱えるように抱きしめた手を自ら離し、アマリリスが一歩後ずさる。
「もしかして、夜の真精から何か受け取らなかった?」
「......これ?」
促されるまま、ネイトは右の拳をそっと開いた。
艶やかな夜色の光沢を放つ結晶。ちょうど自分の手の平に収まるくらいの大きさで、先端は尖った刃物のような形状。まるで巨大な生物の牙を思わせる。
風の砕けた日の瞬間、一瞬だけ聞こえたのはアーマの声。そうしてトレミア・アカデミーに転移し、気づいた時には両手で抱えるように握りしめていた。
「アマデウスの牙の欠片。あの小さな真精なりの餞別ね」
「......これが?」
ミクヴァ鱗片と並ぶ、名詠式における究極の触媒。
「手を出して」
先と同じように、アマリリスの指先からこぼれる小さな水滴。
透明の水滴が手の平に落下してできた小さな小さな泉。その水面へと、緋色の何かが浮かびあがってくる。
それはアマリリスの花。今にも咲く直前のつぼみだった。
「わたしからも餞別。アマリリスの真言〈全ての目覚める子供たち〉──大した力は残っていないけど、眠りについた子を起こすくらいはできるはず」
「こんなに......」
両手で支える三つの結晶をじっと眺めた。
花を模った緋色の結晶──それはアマリリスから託された真言。
牙を模った夜色の結晶──それはアーマから託された最後の触媒。
涙を模った透明の結晶──それはクルーエルの記憶。
「決して忘れないで。その結晶たちはただの『物』じゃない。全てが他に代えがたき夢。この世界に生きる全ての子供たちの夢がこめられている。全てに意味があるとともに、全てが揃ってはじめて意味をなす。あなたはそれだけの願いを託されているの」
「......うん」
本当に大きなものを託されている。
──忘れないように、落とさないように、抱きしめて進まなくちゃいけないんだ。
「そう。そしてその願いを抱え、あなたは詠わなければならない」
詠。
実はそれだけが不安だった。
セラフェノ真言は察しがついた。だけど何を詠えばいいのか。
「あら、今さら迷う必要もないでしょう?」
光の粒子と消えながら、アマリリスがくすりと微笑む。
初めてだった。
そして、その笑みは限りなく優しく、限りなく澄んでいて──
「あなたは何色の名詠士になりたいの」
──シャオもまた、同じことを言っていた。
〝ねえネイト、あなたはいったい何色の詠使いになりたいの〟
〝虹色を知る、枯れ草色の詠使い
空白名詠に望まれた、夜色の詠使い
夜明けを願う、黄昏色の詠使い
空白より目覚める、真なる緋色の詠使い〟
〝この四人は全て自らの『色』を持っている。単純な名詠色という意味でなく、自らの旋律を知り、自らの音色を名詠する。だからこそ、その四人には四人だけの真言がある〟
「......僕は」
両手に転がる三つの夢の結晶を、もう一度だけじっと見つめる。
全ての始まりは〈その意志に牙剝く者〉と〈ただそこに佇立する者〉の争い。
そこから生まれた空白名詠、五色の名詠。
そして夜色名詠、虹色名詠。
──でも違う。
必要なのはきっと、その全ての音色の先にあるものだから。
永遠に続く蛇と竜の争いに終止符を打ち、そして彼女を助けだすための音色。
それは。
「そう、それは本来ならば夜色と虹色が見出すはずだった、夜色と虹色が合わさって初めて生まれる夜明け色の輝き──それこそがミクヴェクスの鎖からクルーエルを解き放ち、残酷な純粋知性という人形にCo lue-l-Sophie Nett【旋律を息吹く少女】という新たな命を息吹かせる」
母さんとカインツさん。
二人が見出すはずだったものの......続き?
「かつての子供たちが描いた夢の軌跡を、今の子供たちが受け継がなければならないの」
ほっそりとした両手を彼女が伸ばし──
頰に触れる。光の粒子になった指先にはもはや温もりすら残っていない。
わかっている。......わかっているけど、その光景が決闘舞台で見た彼女の姿とあまりにそっくりで──
「ほら、泣かないって決めたんでしょ」
「......泣いてないよ」
目に浮かぶしずくを光の指先がはらい、輝くしずくが落ちていく。
「ばかね、本当に。わたしみたいなのが消えるくらいで泣くなんて」
「だって......もう会えないんでしょ」
「ええ」
もはや彼女は存在そのものを繫ぎとめる力すら残っていない。かりに彼女の存在が何らかのかたちで残ったとしても、この世界に名詠されることもない。こうして誰かと言葉をかわすことはもはや──
それが、力の全てを自分の姉のために使いつくした彼女の選択。
「もう会うことはできないけれど、それでもあなたのことは覚えてる」
その言葉にネイトは顔を持ちあげた。
光の粒子と消えながら、アマリリスがくすりと微笑む。
彼女が見せた微笑みは、
その笑みは限りなく優しく、限りなく澄んでいて──
「ありがとう......もう二度と巡り会えない人と調律者たちだけど、それでもあなたと会えたことは忘れない。姉さんをこんなにも愛してくれたこと、そして同じ優しさをわたしにもわけてくれたこと。............夜明け色の詠使いよ、どうか姉さんと幸せに」
夜明け色の詠使い。
その言葉はまるで、乾いた花に水を与えるように心の中へ。
「......夜明け色の」
「そう。ネイト、あなたは黄昏に愛された夜明け色の詠使い。全ての夜明けを夢見る子供たちと共に、あなたが姉さんを解放してあげて」
そして少女は、少女であった緋色の光は......音もなく夜の空へと上っていった。
ありがとう──
こちらこそ、ありがとう──
それは、どちらが言った言葉だったのだろう。
別れの言葉は必要ない。
互いに感謝の意だけを相手に伝え、少年はその場に一人立っていた。
──夜明け色の詠使い。
彼女から与えられた名を口ずさみ、ネイトは静かに歩きだした。


あとがき
つい最近のことですが、ふと、中学校に入りたての頃を思いだしました。歌や楽器、そういった音楽そのものに初めて興味を持った時のことです。
自分が音楽に興味を持ったのは中学二年生の時、友人の弾くピアノがきっかけでした。
それまで音楽はそれほど興味がなかったんですね。というのも、まず楽譜が読めない。楽譜が読めないから楽器も演奏できなくて、みんなが演奏してる時に自分だけ取り残された感がありました。授業もいつだって「早く終わらないかな」と考えていたくらい。
それを変えてくれたのが、とある友人でした。
普段その友人はどちらかというとボンヤリ系で、脳天気。それがピアノを前にした途端、別人のように生き生きし始める。激しくも繊細な演奏。普段あんなに脳天気な彼にこんな一面があるのかと衝撃を受けました。
彼のようにピアノを弾けたらどんなに素敵だろう。彼の演奏を真横で見て、心の底からそう思いました。
そこから先は、音楽の先生やその友人から楽譜の読み方を教わり、ピアノのかわりに古いキーボードを引っ張りだしての練習です。
楽譜が読めないうちはメトロノームも意味をなさず、弾きたい曲のCDを毎日何時間も聴いて音のタイミングを完全に覚えてしまうという方法でした。楽譜がなくてもCDと同じように音とタイミングが合えばいいはず──という発想です(実際は、ピアノアレンジ用のテキストだと多少違ったりするみたいですが)。
彼は母親がピアノの先生をしていたため、小学生の頃からピアノを習っていたそうです。
彼にとっては母親が音楽の先生だったわけですが、細音に音楽の面白さを教えてくれた先生は、紛れもなくその友人だったと思います。彼と出会わなければ音楽を好きになることはなかったし、そうでなければ、もしかしたら『黄昏色の詠使い』も生まれてこなかったかもしれません。
そう考えるたび懐かしくて、心の中で彼に「ありがとう」とこっそり呟くことも。......面と向かってお礼を言うのは、恥ずかしくて今もできないけれど(笑)。
今、そう振り返って感じることですが──
人を成長させる要因というのはたくさんあるかと思いますが、その中でもやっぱり、良き出会いというものはとりわけ大切なんだなと感じます。単に教科書を開いているだけでは得られない「きっかけ」があるんだなあと。
さてさて遅れてしまいましたが、お久しぶりです。細音啓です。
『黄昏色の詠使い
』、手にとってくださいまして本当にありがとうございます。
第二楽章の終わりにふさわしい内容をと願って書き上げた今作でしたが、それを感じていただけるものになっていれば幸いです。
その一方で、自分としてはもうここまで来たのかと思う反面、ようやくここまで来たんだなと、ふしぎと空を仰ぎたくなるような気持ちです。
あと一冊。
『黄昏色の詠使い』というタイトルのお話は、次でひとまずの区切りがつきます。
一巻で生まれた出会いが、物語の終わりにどんな願いを結ぶのか。カインツとイブマリー、そこから続くネイトやクルーエルが、一巻での出会いをきっかけとして、少しずつ成長していって......そして最後にどんな世界を描くのか。
つくづく、ふしぎです。ずっと前から温めていた物語のはずなのに、いざ最後となるとこんなに緊張するんだと自分でも驚いています。
──と同時に、こうして最後まで書けることに感謝を。
いよいよ終楽章、最後の巻となるわけですが。
差し迫った時を示す言葉で、時に「泣いても笑ってもこれが最後だから」という言葉を聞きます。けれど今ここでは、あえてその言葉は使いません。
これが最後だからこそ──
『黄昏色の詠使い』の世界の人物たちが、そしてこうして手にとってくださる方が、誰もが笑って終われる物語でありますように。
それでは、
終楽章であり最終巻。
『黄昏色の詠使い
夜明け色の詠使い』でお会いできることを願いつつ。
二〇〇九年二月初旬、とある日の夜に
細音 啓





黄昏色の詠使い
夜明け色の詠使い
細音 啓

富士見ファンタジア文庫
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口絵・本文イラスト 竹岡美穂


不安? ううん。
キミのこと信じてたよ。──ずっと、ずっと最初から。
夜奏 『あなたは夜明けに微笑んで』
窓ガラスを通した世界。
透きとおるように遠く感じる夜空があった。
「......もう一年になるんだ。早いや」
自嘲じみた笑みを浮かべ、エイダはテーブル前の椅子に腰を下ろした。赤銅色に日焼けした肌と亜麻色の髪、小柄でボーイッシュな顔だちの少女だ。
「祓名民が嫌で親父とケンカ。それから家を飛び出して......もう一年か」
トレミア・アカデミー。
大陸辺境の地にありながら、生徒数千五百人を数える大規模な専修学校である。
その総務棟一階、教師控え室。本来なら教師の団欒の場であるはずが、今はエイダ以外に誰一人として姿はない。それも当然──壁掛けの時計が指す時刻は、早朝とすら呼べない夜。日の出だってまだ一、二時間は先だろう。
自分の呼吸すら聞こえないほどの沈黙。
ただ一つ、時計の秒針が時を刻む音だけが響く部屋で。
「外に出たせいで冷えちゃったかな」
ふと身体を小刻みにふるわせ、エイダは半袖からのぞく自分の二の腕をさすった。
日焼けした肌のその下で、全身の筋肉が寒さで強ばっているのがわかる。真冬の季節、冬服を取りだすのが面倒という理由から夏服で頑張ってきたけれど、じっとしてるとさすがに肌寒い。
「──寒がりか」
その単語に、脳裏をよぎったのは瘦軀の祓名民の顔だった。
「あいつも、あい変わらず寒がりなのかな」
......アルヴィル。
この真冬にもかかわらず、あの男はだぶついた麻色のズボンにシャツ、その上には黒獣皮のベストという軽装だった。そのベストも夏用に通気性を重視したものであり、冬の寒風を考慮したものではない。
ずっと前からそうだった。あんな瘦せた身体で人一倍寒がりのくせに。
あれは、いつの頃のやりとりだっただろう──
〝ひ......、さ、さみぃ! やべぇ......おい、凍る! 寒くて死ぬっ!〟
〝寒いなら上着もってくればいいじゃん。そんな薄着して鎗振りまわすんだもん〟
〝ばか、これは俺のスタイルだから譲れないの。もっとマシな案頼む〟
〝なら筋肉つければいいよ、うちの親父シャツ一枚でピンピンしてる〟
〝俺に旦那みたく鍛えろってのか? 似合わねーのわかってんだろ!......っつ寒ぅっ! よ、よぉ......ちょっと休憩しようぜ。寒くて死んじまう〟
「バカはどっちなんだかね」
窓に映る自分の姿、エイダはあえて目をそらした。
そこに映る自分はきっと可笑しそうに笑ってる。それがわかっていたからだ。
......結局そうなんだ。
......あたしは今も、あいつとの思い出に焦がれてる。
やり直したい。心の底で、昔の自分がそう願ってる。だからこそ──
〝どちらか一個選べ。祓名民か、名詠学校かをな〟
競闘宮で告げられ、自分は答えることができなかった。答えることでもう片方を失ってしまうことが怖くて、どうしても口にすることができなかった。
「......あたし手先器用じゃないんだけどな、細々したのって性に合わないし」
テーブルの上に置いていた小箱に、エイダは両手をそっと乗せた。黒い布で表面を覆った小箱。蓋の縁にはいかにも安物めいた色の金細工が施してある。
開けたそこには、綿に包まれた銀色の首飾り。けれど銀色の鎖は途中でいくつにも砕け、細かい破片も含めれば十個近くに分断されていた。
「つけて走って......落とした時に壊れちゃったんだよね」
アルヴィルの分と組で買ったものだ。
自分の分を壊してしまったこと、アルヴィルにはどうしても告げられなかった。
言えば、手先の器用なあの男なら直せるかもしれない。けれど思い出の品を壊してしまったことを告げるのが怖くて......結局何年も隠しとおしてきたのだ。
「......ずっと壊れたままだったもんね」
小さな破片をつまんではテーブルに置いていく。その作業が終わらぬうちに、
──トン──
扉がノックされる音。この時間にここへ来る相手......おそらくレフィスだろう。
「開いてるよ」
音もなく扉が開く。
予想していた銀髪の青年の姿はなく、入ってきた人物は誰もが目を瞠るほど筋骨逞しい大男だった。真冬の夜明け前、この寒さの中ですら上着はシャツ一枚という偉丈夫だ。
「って、なんだ親父か。カイ様とかと一緒にケルベルク行ったんじゃ?」
クラウス・ユン=ジルシュヴェッサー。見慣れた父親の姿に溜息をついた。
「医術は門外だからな。私が付きそったところで周りの人間が怖がるだけだから来るなと言われたよ......サリナルヴァのやつめ」
「否定できないね」
肩をふるわせ、父親に悟られない程度に微苦笑。
「探したぞ。最初は女子寮にいるとばかり思ってたんだがな、寮の管理人からお前が帰った記録がないと言われた時は正直弱った」
「そりゃあたしの部屋は友達と相部屋だもん。あたしがこんな徹夜で起きてたらサージェスだって気になるでしょ。あの子まで眠れなくなったら可哀想じゃん」
まくし立てる勢いでそこまで告げて、エイダはテーブルに片肘をついた。
「で、こんな時間に何の用? 親父が忙しいのはわかってるけど、あたしだって──」
「アルヴィルのことだ」
父親の口から出た名前に、肘をついた手が一瞬ふるえた。
「......アルヴィルの、具体的に何のこと」
「アルヴィルに会いに行く気か?」
「勝手に決めつけんなっての。どうしてそう思う」
睨みつけるように見上げる。するとその偉丈夫は、部屋の隅を指で示してみせた。
自分の背後にたてかけてあるのは、鈍色の光沢をもった銀色の鎗。
「お前にしては祓戈の手入れが丁寧だからな」
「......いつも綺麗だよ」
祓戈の汚れを乾いた布で拭き取る。それはエイダにとって手入れ以上に──精神を集中させる儀式としての役割が大きいものだ。
そして、普段より手入れに時間をかけていたのも事実。
「いつ発つ気だ」
父親の口調は確信しきったものだ。
──全部お見通しってことなのね。
「夜が明けたらすぐ。先に言っとくけど、反対されたって行くからね」
「いや」
「まさか一緒に連れてけって?」
「そうしたいのも山々だが、あいにく身動きが取れない身でな」
「じゃあなにさ」
出発まであと数時間。集中するべき時間をいつまでも妨害されるわけにはいかないのだ。いいかげん言葉の応酬にも倦んできたところに。
「アルヴィルに伝えておいてくれ」
父親から投げ渡されたのは一枚の紙片。テスト用紙ほどの大きさの紙を、手の平に収まるまで折りたたんであるものだ。
「ん? これに何か書いてあるってこと?」
「今は荷物の中にでもしまっておけ。お前がアルヴィルに勝てたら思いだせばいい。私からはそれだけだ」
「ふーん、まあそれくらいなら」
紙の中身が何なのか、それは気にならなかった。今はとにかく、目の前に集中しなければならないことが残ってるから。
「......言い忘れてた、あと一つ」
扉のノブに手を伸ばそうとした父親が、その姿勢のまま動きを止めた。
「なに? まだ言──」
「無事に帰ってこい」
「............」
あまりに単純であまりに明確な言葉だったからこそ、一瞬、誰に向けての言葉かわからなかった。けれどそれは、口数も少なく気の利いたことも喋れない父親らしい──
「なーに言ってんだか」
父親がこの部屋に入ってきて初めて、エイダは自然に笑うことができた。
「誰の娘だと思ってんの。あたしを信用なさいって」
「ああ、そうだったな」
「そうそう、わかったらさっさと出て行く。あたしも忙しいし親父だって寝てないんだろ。少しは休んでなって」
父親の背を押して無理やり部屋から追いだした。
「さて、と」
再び椅子に座り直し、テーブルの上に置かれた首飾りをじっと見つめる。
......負けない、だけじゃだめなんだ。
勝たなくちゃいけない。アルヴィルにも、そして昔の自分にも。
「────」
目をつむり、息を吐く。
再び静まった室内で、エイダは一人心を静めた。
日の出まで、あと一時間。
トレミア・アカデミー、総務棟に面した舗装路で。
吹きすさぶ寒風に身をさらし、銀髪の青年──レフィスは、いまだ日の見えぬ空をじっと見上げていた。
「ミシュダル、あんたは」
白くにごる吐息を凍てつく風がさらっていく。
足先から凍りつくような寒さなのに、身体の芯が取り憑かれたように熱かった。
「......俺のためにここまで来てくれたっていうのか」
思い返すまでもない。
灰色名詠の兄弟子にあたる男と出会って、まだ数時間とたっていないのだから。







時は、遡る──
頭上からは吹き下ろす冷気、地上からは吹き上げる寒風。
枯れ葉の粉塵が狂ったように舞い乱れるなかで。
「なおさらわからないな」
緊張にふるえる手を握りしめ、レフィスは目の前の男をにらみ返した。
「ほう?」
色褪せた旅人服に頭までを包み隠した男、そのフードの下には粘り着くような笑みが張りついている。ミシュダル──レフィスの師ヨシュアと共に灰色名詠を構築した名詠士。理論の構成を師が行い、その理論の実践を担当していたのがこの男だ。
実質、灰色名詠の全ての名詠を操る男と言って過言ではない。
「俺はまだ単純な話しかしていないが、何がわからない?」
「お前がここにいる理由だ」
凱旋都市でレフィスはシャンテから聞いていた。彼女の話では、ミシュダルは捕まり取り調べを受けていたはずなのだ。その監視下を抜けだし、多くの目に留まる危険を覚悟してまでここに現れたのはなぜだ。しかも、自分がまさにこの学園にやって来たというタイミング。偶然にしてはできすぎている。
「野暮用だよ。と言っても、話すには邪魔がいるな──そこの祓名民の娘」
ミシュダルが顔を向けた先、自分の隣に立つエイダがぴくりと反応した。そう、自分と彼女が総務棟の室内にいたところに、この男が現れたのだ。
「せっかく感動の再会なんだ、邪魔者は先の部屋にでも戻るがいいさ」
「そう言われてあたしが引き下がると思う? お前が何やらかしてくれたか考えてみろってんだ」
祓名民の鎗を握りしめたままエイダが返す。
「なるほど、もし今この時でなければ正論。だがエイダ・ユン=ジルシュヴェッサー、お前こそ今の状況が見えてない。俺がいかに無力か考えてみろ」
「......どういう意味だ」
「五色の名詠、そして灰色名詠がこの世界から消え去った。その状況で名詠士に何ができるのかと訊いているだけさ。今の俺はお前にとって臆する価値すらない。俺がここでレフィスに、あるいは学園に何か仕掛けることができると思うか?」
エイダが口をつぐむ。
彼女が態度に示すように、ミシュダルの言葉には相応に信憑性があった。
だから。
「エイダ、悪いけど先に部屋に戻っててくれないか。俺は心配ない」
彼女にだけ伝わるよう声を抑えて告げた。
「でもな、あたしだってこいつには」
「頼む......気になるんだ」
視線はミシュダルに向けたまま、レフィスは再度うなずいた。
「灰色名詠が使えないのは間違いない。それは俺も自分で試してみてわかってる。だから、あいつが何かできるとも思えない。それに」
──今までのあいつじゃない。
少なくとも、自分がケルベルク研究所支部で相まみえた時のミシュダルじゃない。何かが違う、そんな気がする。
「......一つだけ。何かあればすぐさっきの部屋に来てあたしを呼ぶこと」
そばに立っていたはずの少女の気配がふっと消える。
それを目で追うより先、聞こえてきたのはミシュダルの押し殺した笑い声だった。
「案外あっさり消え失せたな。あの娘も別の用でもあると見える」
アルヴィルという祓名民と交えるための準備がエイダにも残っている。鎗の手入れもあるが、何より──そのために心を研ぎ澄ませる瞑想の時間が必要。
レフィスがエイダを行かせた最大の理由がそれだ。
「そうだな。だからこそ俺とお前だけで話がしたい」
「俺がわざわざ脱獄してまでここに来た理由か?......そうだな」
顎の先に手をのせ、演技とわかる仕草で考えるふりをする灰色の名詠士。
「ひよっこ二人がどれだけ成長したか気になった、と言えば満足か?」
二人。......一人が俺だとしてもあと一人は?
考えるまでもない。自分以外にこの男と因縁のある人間はネイトしか思いうかばない。
「一人には既に会ってきた。クルーエルとかいう小娘を失って、さぞ歪んだ成長をするかと思えば、逆にますますまっすぐになった小僧だ。それに比べお前はどうだ、レフィス」
「......俺?」
「そう、お前だよ」
フードに隠れた男の表情から笑みが消えた。
「テシエラという黄の大特異点に惨敗を喫しながら、もう一度、あろうことか無為無策で挑みに行く? 一朝一夕で縮められる差でないこと、もっとも身に染みて感じたはずのお前がか?」
「──っ、なんでそれを!」
テシエラと戦ってからまだ数日と経過していない。なぜあの場にいなかったはずの男が、それも獄中にいながらそこまでの情報を。
「答えろミシュダル、誰からその話を聞いた!」
「誰からだと? そんなくだらんことを気にするより、お前自身の愚考をどうにかするんだな。格上の実力者相手に無策で挑もうとする滑稽な冗談を」
合間の呼吸すら惜しむように、ミシュダルの言葉に終わりはなかった。
「さらに言えば灰色名詠が消滅した状態でどうやって? とりあえずもう一度行ってみよう? 何とかなるかもしれない? だめならその時考える?────強がるのも大概にしろこの若造が!」
「っ、......っ!」
激情に身体を硬直させ、それでもレフィスは奥歯を嚙みしめて堪えることを選んだ。
ミシュダルのそれは嘲笑ではなかった。
怒り、それも大人が子供を諭すような怒りの口調だったからだ。
「......じゃあどうしろってんだ。名詠式が使えないからって、使えたところで黄の大特異点には勝てないからって、それで諦めろだなんて言う気か」
「なぜ限界をそこに設定する?」
淡々と、平坦な口調でミシュダルは続けた。
「消えた灰色名詠を復活させ、あの女に勝つ方法を模索する。それだけで済む話だ」
「......そんな都合のいい理屈」
「そうだ、これはもとより不可能にも見える話。そんな希望などない空言。だがな、俺もヨシュアも、灰色名詠の詠い手は誰しもそんな絶望を一度は経験しているんだよ。お前だけがぬるま湯に浸かったまま。だから勝てない」
それは、競闘宮でテシエラから告げられた言葉とも似たものだった。
〝あの男と比べて坊やはヌルいのさ。名詠式の技術、呼吸。挙げれば色々あるだろうが、何より灰色名詠への執念がない。ねっとりと絡みつくような盲愛がない〟
事実、レフィスは勝てなかった。テシエラにもこの男にも。
「......それで、あんたはそれを皮肉りたくてここまで来たってのか」
「────」
沈黙を答えとするかわり、ミシュダルがすっと左手を前に突きだした。
銀色にも似た灰色の光に包まれ、頭上へと向けた手の平。その数センチ上を浮遊する灰色の球形結晶。見覚えがある。『セラの庭園』で見た五色の浮遊結晶そのものだ。
ただし色だけが五色でなく、白が濁ったような灰色で。
「俺をここに連れてきたのはアマリリスと名乗る存在さ。クルーエルとやらによく似た姿の......調律者サマだったか? そう、ヨシュアが風の生まれる島で出会い、そして灰者の王を封律したという張本人だ」
アマリリス──ミクヴェクスに離反し、クルーエルを守護していたという存在だ。言われてみれば、クルーエルが消滅した時はその事実が大きすぎ、アマリリスがどうなったかまでは意識が及んでいなかった。
そのアマリリスが......調律者がミシュダルをここに連れてきた?
それはどうして?
「俺自身も疑問だった。なぜそんな大層な存在が、ちっぽけな老人に過ぎぬヨシュアの生みだした灰色名詠、そしてその真精を封律したのか。──だが実際は逆だった、その調律者サマは封律したのでなく守っていたのさ。アマリリスが自分の力で囲いこむことで、灰色名詠はミクヴェクスの影響を最小限に抑えられる。つまり五色の名詠式が消えた時も、灰者の王はアマリリスという究極の守護の下、保護されていたわけだ」
真精が各色の支配者。つまり真精さえいればその色の名詠式は保たれる。
ならば真精が復活すれば、その名詠色もまた──
「まさか......ミシュダル、あんたが持ってるのは............」
「そう、アマリリスが自らの守護によって保護していた灰者の王だ。こいつを解放することで、灰色名詠は一時的ながらも復活する────っ!」
ミシュダルの拳が震えたのは一瞬。
刹那、灰色の結晶は音を立てて千々に砕け散った。
リッ......ッィィィィッッッ............ッッッ......ッ............
ハンドベルの演奏を思わせる音色を奏で、結晶が光の粒へと姿を変える。
「これで灰色名詠はしばしの時、使えるはずだ。あの小僧の夜色名詠はもとより生きているらしいな。お前、そして祓名民の娘と合わせて戦力は三人。十分だろう?」
「待て......待ってくれ!」
背を向けるミシュダルへ、声を振り絞った。
喉が渇いて張りつくせいでまともに声がでない。棒立ちになったまま足すら動かせず、せめて届かぬ手をその背中へと伸ばして。
「あんた、そのためにここまで来たっていうのか......俺のために、どうして!」
「思い上がるな、名詠式がなくなって困るのは俺もだからだ」
「────噓だ!」
果てなき夜を突き破る思いでレフィスは吼えた。
本当にそうなのならば、わざわざ自分の前で灰色名詠を復活させる必要はない。脱獄したその場で済ませてしまえばよかった話だ。
「敗者の気まぐれだ。そう言っておけば満足か?」
「ミシュダル!」
「......好い風が吹いてきたじゃないか。なあレフィス」
フードの覆いの下の笑みは、誰に向けてのものだったのだろう。
レフィスが答えを見つける前に──
灰色名詠の先達は、夜の闇へと姿を消した。







「......灰色名詠の詠い手は誰もが一度、希望を失ってる。だから敗者の名詠式。──絶対的な真精にすがろうとする心の弱さ、か」
自分の手の平を見つめ、レフィスは数時間前の言葉を反芻した。
灰色名詠が使える。いつまで保つかわからないが無駄にはできない。
「──無駄にはしないよ」
はるかな東天、薄墨色に塗りつぶされた空にかかるわずかな紅。
日の出とも言えない光の欠片。それを確かに目で捉え、レフィスは踵を返した。
日の出まで、あと半刻。
遠い遠い地平線、その先にかかる紅い日射し。それが段々と白んでくる頃。
神秘的な夜色の髪と瞳をした少年が、総務棟の二階通路を歩いていた。中性的な顔だちに、ほっそりとした体格、伸びきらぬ背丈。歳にすればまだ十代前半だろう。
人影はおろか物音一つ聞こえない沈黙の通路を、たった一人、ネイトは足音を響かせて歩いていた。
──意識が怖いくらい澄んでいる。
一晩、食事はおろか水分、睡眠すらとっていないというのに。早朝の冷たい空気よりもなお、胸の内側で湧きあがる熱情に心が研ぎ澄まされていくのを感じる。
カツッ......人気のまるでない通路に響くネイトの足音。
それと逆の方向からもう一つ、コッという小刻みな足音が聞こえてきた。足音は折り重なるように響き、そして通路の角で交叉して──
「......ネイト?」
「あれ、ヘレンさん?」
葡萄酒色の髪をした少女へと、ネイトは小さく会釈した。
「おはようございますヘレンさん。あ、そういえば──」
が、ネイトが言い終える前に彼女がさっと顔色を変えて。
「ちょっと! ネイトってば今までどうしちゃってたのよ!」
「どうしてたって、何がですか?」
「何って、今までどこいたの! ここの先生たちも君のことずっと探してて、見つからなくて心配してたんだから!」
「あ、ごめんなさい......でもどうして僕のことを」
「だって、それはクルーエルが────」
大声でまくし立てていたものの、我に返った表情で彼女がはっと口を閉じる。
「......だって、ほら......クルーエルがあんなことになって」
ぼそぼそと言葉を濁しながらも、そう言ったヘレンの方が、目を瞬かせて驚いたようなまなざしに。
「............あれ、でも......ネイト?......ごめん、何て言えばいいかわからないから失礼なこと言っちゃうかもだけど、......元気なんだね」
クルーエルのことで自分がショックを受けているのではないか。彼女はそれを気にかけてくれていたのだろう。
呆けた表情のヘレンに、ネイトは大きくうなずいた。
「平気です。落ちこんでられないから」
「それって?」
「もちろんクルーエルさんを助けに行くつもりです」
「......そっか、そうだよね。クルーエルを..................え?」
目を見開いた表情で、ヘレンがその場に凍りつく。
数秒、何か考えこむように彼女は宙を見上げ──
「ど、どどっ、どういうことよ! クルーエルって......だって......消えちゃったんでしょ。もうこの世界にいないってエイダとレフィスが......」
「細かいことは説明しづらいんですけど、とにかく何とかします」
「......君が?」
「はい。でもその前に、ミオさんの様子も気になってて」
クルーエルが最後まで気に懸けていたのがミオだった。──出発まで時間がない。だからこそ、学園を発つ前にせめて一言告げておきたかったのだ。
「ミオさんも職員室に?」
視線をヘレンから、彼女の歩いてきた方向の通路へ。
その先にある両開きの扉。他の部屋と違い、あの職員室だけは照明がついている。
「ネイト、あのね」
職員室へ爪先を向けようとして、ネイトはそのなかばで足をとめた。ためらいがちな仕草ながらも、ヘレンがそっと首を横に振っていたからだ。
「ミオだけど、職員室にいないの」
その表情には、今まで彼女が見せたことのない暗い影が落ちていた。
「え? どうして......」
「教えられることは教えられるけど、君が行っても話ができるかはわからないと思う」
こちらの返事も待たずにヘレンが廊下を歩きだす。その方向は総務棟の出口の方向だ。
──ついてきて。彼女の背中がそう言っていた。
「ミオはまだ、落ちついて話ができる状態じゃないの」







トレミア・アカデミー、学生寮。
女子寮の一階通路を歩きながら、ぽつりぽつりとヘレンが教えてくれた。
「エイダとレフィスからわたしたちも話を聞かされたけど、一番おっきなショックを受けたのがミオだったの。ケイト先生だっけ、担任の先生がずっとそばにいたんだけど、ほとんど放心状態で返事もろくにできなくて......」
「──そうだったんですか」
ヘレンの後をなぞるように歩き、ネイトはそっとうなずいた。
クルーエルの身に起きたこと。自分やエイダ、レフィスはその背後にある事情を知っている。けれどミオはクルーエルの出生の秘密を知らぬまま、クルーエルがどうなったかという結果だけを知ってしまった。
......僕がミオさんの立場だったら、やっぱり同じショックを受けてたのかな。
「ケイト先生もさすがにずっと徹夜だったし、別の先生に引き継ぐことになったの。だけど引き継ぎの時にね、わたしや先生が目を離した隙にミオが走っていっちゃって......」
「向かったのが女子寮だったんですね」
螺旋型の階段を上り、二階のとある部屋の前でヘレンが足を止めた。
扉につけられた名前は、クルーエル・ソフィネット。
「ここ、クルーエルさんの部屋?」
「うん......『クルルがいなくなったなんて信じない!』って。......ミオってクルーエルの部屋によく泊まってたの? 合鍵も渡されてたみたいね。それで実際にこの部屋に入って、クルーエルが本当に戻ってないってわかったら、もうそこで動く気力もなくなっちゃったの。内側から鍵もかけちゃって......明るくなったら寮の管理人さんから合鍵をもらって、今度はちゃんと医務室の先生が付きそう予定になってるんだけど」
「......そうだったんですね」
扉の名札をしばし凝視し、ネイトは隣の彼女に顔を向けた。
「僕、ミオさんと話がしたいんです。いいですか?」
「それは構わないけど......でもね」
小さく肩を落としたままヘレンが扉をノックする。いくら待っても返事はない。
──ほら、無反応なの。彼女が小さく溜息。
扉の先を穴が開くほど見つめ、ネイトはうなずいた。
「ごめんなさい、ミオさんと二人きりにさせてもらっていいですか」
自分以外の人影がない通路。
耳が痛くなるほどの静けさを感じながら、ネイトはそっと扉を叩いた。
──トン、トン......トン。
小刻みに三回。徐々に大きく打たれた音が通路に冷たく浸透していく。
扉の内側から返事はない。物音一つさえ。
「ミオさん」
深く深く息を吸いこみ、ネイトはゆっくりと息を吐きだした。
「僕です。ミオさんに伝えたいことがあって来ました......聞いてもらえませんか」
それきり自分も口をつぐむ。
どれほど静寂の時が流れただろう。気の遠くなるような時間を隔て──
扉の奥で、小さな物音。
そして。
「......ネイト君?」
消え入りそうなほど弱々しいミオの声が確かに聞こえた。
ギィッ。
わずかに開いた扉の隙間から、幼げな顔だちの少女が顔をのぞかせた。
くしゃくしゃの金髪、真っ赤に腫れ上がったまぶた。制服も皺だらけで......何よりその疲労感の浮きでた表情は、痛々しいくらい悲壮感に満ちていた。
「......ごめんね、こんなぐしゃぐしゃな恰好で」
まぶたのまわりをこするミオ。
「いえ。僕の方こそ謝らなくちゃ──」
それは、何に対する謝罪だったのだろう。クルーエルの事情を隠していたことか。あるいは無理やり話をしに来たことか。自分でもわからないままネイトは頭を垂れた。
「あの」
「クルルのこと、でしょ」
押し殺した低い声がミオの唇からこぼれた。
「ごめんなさい。説明もちゃんとしないままで」
「ううん、違うの。たぶんネイト君が心配してくれてることと、あたしが思ってることは違うの」
......違う?
クルーエルがこの世界から消滅した。それを聞いたからミオはショックを受けている。ヘレンはそう言っていたしネイトもそう考えていた。ケイト教師もそのつもりで付きそっていたはずなのに。
「クルルがいなくなっちゃった......ていうのは、ホントはまだ実感がないの。だってあんまり突然だったんだもん。まだあたしの中で現実味がなくて、悲しいとかそういう段階じゃないんだ」
弱々しい、何かが歪んだ笑みを浮かべるミオ。
「じゃあ──」
「......エンジュで地震が起きた時、あたし、黎明の神鳥に乗ってたクルルを見たの。どうしたのって聞いたら、クルルね、この地震はわたしのせいなの。だからわたしが責任とらなくちゃって言ったの......クルル、すごく悲しそうだった」
引きつった表情から洩れるのは、たどたどしい自嘲の告白だった。
「あの時からいやな感じはしてたの。────なのに!」
ふらりと倒れかけるミオを慌てて抱える。肩にかかる重みを感じた瞬間、ミオが何に対して苦しんでいるのかをネイトは知った。
「......なのに、あたしは止められなかった──あたしが............クルルを止めなくちゃいけなかったのに!」
〝クルルは悪いことなんかしてないよ?............なのに......お願い、ほんとのこと教えて。なんだか......嫌なの。............行かないで......あたし、すごく......怖い。クルルがそのままどこか行っちゃいそうで〟
クルーエルが戻ってこないのではという予感があった。もう二度と会えないのではという虫の知らせを感じながらも、クルーエルを行かせてしまった。
少女は、それを自分の重荷として感じてしまっていたのだ。
「ミオさんの責任じゃないです」
「......だって! そんなこと言われたってもう遅いんでしょ! クルルは名詠生物みたいに消えちゃって、もう二度と会えないんでしょ!」
「確かにそうです」
「じゃあやっぱり──」
金切り声を上げようとするミオの目を、正面からネイトは見つめた。
「でも、まだ終わってない。クルーエルさんを助けることはできるはずです」
「..................え?」
ぽかんと、呆気にとられた表情のミオ。
それは喜びの感情ではなく、まだその意味を理解しきれてない表情で。
「クルーエルさんは帰ってきます」
「......うそ、ネイト君。そんなうそやめてよ」
「うそじゃないです。僕はそれを言うために来たんですから」
目をそらそうとするミオの肩をぎゅっと握り、ネイトはミオの顔をじっと見つめた。
「クルーエルさんが消える直前、僕、クルーエルさんと約束しました。絶対助けに行くから待っててくださいって。クルーエルさんもうなずいてくれました」
「............」
「だから信じてください。ミオさんも元気出して、ね?」
日の照らすミオを見つめ──ふと、ネイトは思いだしたように振り向いた。
通路に差しこむ、冬の朝特有の澄んだ白い日射し。
夜明けが訪れていた。
「ごめんなさい、僕もう行かなくちゃ」
「行くって、どこへ?」
「クルーエルさんを助けにです。凱旋都市の跡地で僕を待ってる人がいるから」
シャオ──夜色の外套を羽織った黒法師。あの名詠士は必ずそこにいる。僕が来るのを待ってる。
ミオに背を向け、靴音を響かせた直後。
「ま......まっ......て」
変化があったのはその時だった。
弱々しいながらも、ミオに肩を摑まれた。
「......本当に、クルルを助けられるの?」
「助けます」
迷わなかった。
できないかもしれない、失敗するかもしれない。そんな弱音に甘えていられる時間は、もうとっくに過ぎてしまったのだから。
「............あの......それ、なら......」
肩を摑む彼女の手に力がこもる。
「......あたしに、お手伝いできることないかな。......どんなことでもいいの。準備の手伝いでもいいし............見送るだけは、いやだから」
笑顔はまだ見えない。
けれどミオは唇を嚙みしめて、たしかに自分の足でその場に立っていた。
「でもミオさん、まだ体調が」
「う、ううん! こんなの平気。だからお願い、何でも言って!」
懇願のまなざしで見つめる金髪の少女に、ネイトは小さく笑んだ。
「ミオさんにしかできないこと、きっとあると思うんです」
「............」
「それが何かまでは僕にもわからないけど、絶対あります。でも、ミオさんにしかできないことだからこそ、それはミオさんにしかわからないと思うんです。だから──」
最後まで言い切ることなく、あえて言葉の途中で口をつぐんだ。自分が伝えたいこと、これだけできっとわかってくれるはずだから。
「......そう、だよね」
まぶたのまわりを擦りながら、ミオが顔をあげた。
「何も考えないで言われるままのことしたって、それは本当のお手伝いにはならないよね。何したいか自分で考えないといけないんだよね......ネイト君の言うとおりだと思う」
小さな両の手で握り拳をつくり、ミオはこくんとうなずいた。
「うん。あたし、自分で考えてみる。......ネイト君、まだもう少しだけ時間ある?」
「はい。僕もまだ話したい人がいるんです。最後にその人と話してから出発したいなって」
「......あたしの知ってる人?」
きょとんと目を丸くする少女。
「もちろん、よく知ってる人だと思いますよ」
そんなミオへ、ネイトはおどけた口調と共にうなずいた。
──そう。
あの人にだけは、全部話しておかなくちゃいけないから。







ケルベルク研究所保養区、療養施設。
「おいカインツ、生きてるか」
患者用にあてがわれた部屋。その扉を蹴り壊すように開き、白衣姿の女性が室内にずかずかと入ってきた。
サリナルヴァ・エンドコート。切れ長の瞳と濃緑色の髪をした女性研究者だ。若くしてここケルベルク研究所を統率する職位にある。
そんな彼女の闖入に、カインツはベッドから上半身を起こした姿勢で。
「患者の部屋に入ってくる時は静かにとか、そもそもまだ鳥の声も聞こえない早朝なのにとか、そういうものを考慮して頂けるとありがたいですね」
「よしよし、意識は鮮明。返答も正常。朝の検診は異常なし、と」
「......聞いてないですね」
診療録らしきものにメモを書きこむ彼女に、溜息。
──でもまあ、それもまた良しか。
木製のコテージさながらの室内。木の質感の残る天井を見上げ、カインツは肺の空気を吐きだした。昨日の早朝からこうして丸一日身動きも取れず寝かされたまま。この部屋の眺めにもそろそろ退屈してきたところだ。
「しかし良かったな。とりあえず検査でも問題は見つからなかったらしい。瓦礫を後頭部に受けたらしいが、自分の石頭に感謝しろ。むしろ寝ぼけた頭の活にちょうどいい」
「......まあいいですけれど」
苦笑の面持ちで自らの衣服を眺め、そこでカインツは視線を止めた。
「なんだ、患者用の白衣は嫌いか」
「そういうわけではないけど、普段着ているものがないと寂しいですね」
クローゼットに掛けてある自分のコートを目で示し、肩をすくめてみせる。
「それよりありがとうございます、クリーニングまでお願いしちゃって」
「ちゃんと診療代金に追加してあるから気にするな。それよりあの血の痕......あれは取れんかもしれんぞ」
枯れ草色のコートに付着した濃い紅。
決闘舞台にて、ファウマを抱きとめた時に付いた血痕だ。
「ああ、それは────」
言い終えるより先に。
ドン、という物々しい音を立て、サリナルヴァが黒鞄をテーブルの上に放り投げた。何が入ってるのかは知るよしもないが、相当に重量のあるものだろう。鞄を受けとめたテーブルが軋み、その悲鳴がここまで伝わってくるほどだ。
「取り急ぎというやつだ。名詠式が使えたなら音響鳥で済むんだが。まったく、いざこいつで代用するとなるとやっぱり不便極まりないな。なにしろ重い」
「......なんの件でしょう」
「お前に早朝から面会者だ。と言っても、本人は離れた場所にいるから声だけだがな」
鍵の取りつけられた黒鞄を開く彼女。
口を開けた鞄の内側は真紅の布地。そこに入っていたものは、一抱えはある黒塗りの機器だった。──サリナルヴァが気まぐれに作ったという通信機だ。手の平程度の物もあるが、あれは雑音が混じることが多いと聞く。まともに使用するには、最低でも目の前の大きさの機器が必要ということらしい。
「......ボク宛てですか?」
誰だろう。思いつくまま挙げるなら〈イ短調〉の面々を思いうかべるところだ。が、たぶん違う。もし〈イ短調〉ならばサリナルヴァから間接的に話を通せば済むことだ。自分に直接話を寄こすということは、もっと別の誰か────
「やれやれ、お前も忙しいな」
腕を組み苦笑するサリナルヴァのすぐ目の前、テーブルに置かれた機器のランプが点灯。わずかな時間差を置いて、拡声器が無機質な雑音を吐きだす。
その雑音の合間に聞こえてきた声は。
『カインツさん? あの......ええと、僕です......』
......その声は。
上半身だけを起こした状態で、カインツは心もち姿勢を正した。
ネイト──競闘宮で別れた夜色の少年の声だったから。
「良かった。君も無事だったんだね」
トレミアの総務棟にも通信施設があったはず。それを利用してのことだろう。
『......はい。でもクルーエルさんが』
「話、おおよそだけは聞いてるよ」
緋色の髪の少女。理屈までは知るべくもないが、凱旋都市の人間、そして自分を含む競闘宮の人間を助けるために犠牲になった──そう聞いている。
誰かを助けるために犠牲となった少女。それを目の当たりにしたはずなのだ。なのに、少年の声からは哀惜の念が粒ほども感じられなかった。
......迷いがない?
そしてその彼が、あえてこの早朝に自分へと言葉を寄せる理由。
「それだけの理由があるんだね」
少年の答えは、本当に単純で短い一言だった。
『僕、クルーエルさんのこと助けに行きます』
部屋の隅、まぶたを閉じていたサリナルヴァが片目を開けた。
「それで」
『それだけです......それだけ、どうしてもカインツさんに伝えておきたくて』
「────」
目を閉じ、カインツは小さく小さく笑んだ。
「その言葉を聞いて安心したよ」
患者用の白衣に身を包み、空っぽの手を握りしめる。
「そうだね、それは君がやらなくちゃいけない。たとえばボクや、君の学校の教師──そんな大人がするべきものじゃない。君の大切な人は君自身が助けなくちゃいけない」
......大きくなった。
彼の声を聞いて、心の底からそう思う。
もう自分や彼女が、彼を後ろから見守る必要はないのだと。
「私からも一言、いいかな」
サリナルヴァだった。
「ネイト、お前とクルーエルを凱旋都市に向かわせたのは、もとはと言えば私の采配だ。クルーエルについても責任の一端がある。本来なら私が責任をとって赴くはずのものだが、カインツの言うとおり、お前は自分でクルーエルを助けたい。そうだな?」
『──はい』
「わかった、ならば」
少年の応えに、サリナルヴァが不敵な笑みのかたちに唇をつりあげる。それが彼女なりの最大の敬意。それを知るのはカインツを含め一握りの知人だけだろう。
「思いっきり暴れてこい。どうせエイダも行くだろうからアレにも伝えておけ。どれだけ生傷を増やしても構わん。どれだけ重傷の身だろうと、とにかくクルーエルを連れて帰ってこい。あとは、どんな傷を負って帰ろうが責任もって面倒見てやる。──以上だ」
サリナルヴァの宣言とほぼ同時、機器のランプがぼんやりと光を失っていく。
通信の遮断──機器の故障か、あるいは相手側の不手際か。おそらく後者。学園の通信機器を使用することに、あの少年が手慣れていなかっただけだろう。
でも、十分だ。
十分すぎるだけの言葉を交わせた。
「......いい男になったな。さてさて、何があの少年を変えたのやら」
「さあどうでしょう」
愉快げに喉を鳴らす彼女に肩をすくめ、カインツは窓の外を眺めた。
「もしかしたら、昔のボクと同じものかな」
4
太陽光を浴びて白くにごる空気。
人影のない学園の舗装路をネイトは歩いていた。
吐く息が靄になり、朝の冷気の中へと溶けていく。一年生校舎を通りすぎ、正門から延びる大通路を進んでいく。
そして、石造りの正門。その両脇からは人影が二つ伸びていた。
「おいっす、ちび君おはよ。ちゃんと朝メシ食べた?」
長大な鎗を布で巻き、片手でそれを持ちあげる少女の姿。
「俺たちは準備できた。いつでも出発できる」
正門によりかかっていた銀髪の青年。
エイダ、そしてレフィス。二人に向けてネイトはうなずいた。
「ちび君、後ろの二人にも挨拶はすませた?」
いたずらっぽい笑顔で後ろを指さすエイダ。彼女の仕草に後ろを振り向いて──
幼げな顔だちをした金髪の少女と、葡萄酒色の髪をした少女がそこにいた。
「......行くの?」
どこか寂しげな瞳でヘレンが問う先は、同じジール名詠学舎の制服を着た青年だった。
「すぐ帰ってくるさ。心配いらない」
「......信じていいんだよね?」
「ああ」
レフィスがうなずくのをじっとヘレンが見つめ。
「うん。わかった、待ってるから!」
影の落ちた表情から一転し、彼女が勢いよく首肯した。
「それならネイトもエイダも、レフィスをお願いね。こいつ方向音痴だから一人じゃ帰ってこれないだろうし。面倒見てあげて!」
「......だそうだ」
ヘレンのしたり顔に、こちらは苦笑でレフィスが溜息。
「ネイト君」
とん、と控えめに肩を叩かれた。
ミオだ。目元に残っていた疲労の痕、今は少しだけ落ちついていた。
「あたしね、考えてみたの。クルルがいなくなっちゃって......ネイト君たちが助けに行って。それじゃあ、残ってるあたしにできることって何なのかなって」
彼女のそれは、ついさっき交わした言葉の続きだった。
黙って先を促すと、ミオは一度大きく深呼吸し、そして。
「あたし──クルルがいなくなっちゃったこと、クラスのみんなに教えようと思う」
きっと大騒ぎになる。
それを危惧した教師たちから、他言を固く禁止されていたはず。
けれど、ネイトはただ黙って先をうながした。そんなことミオは当然知っている。知った上で、考えて考えて考えた末に、彼女はその結論にいたったのだろうから。
「きっとみんな驚くよね......何が何だかわからないだろうし、やっぱり心配すると思う。でもあたし、やっぱりみんなでお祈りしたいの。この気持ちが届きますようにって。あたし一人だけじゃなくて、みんなで応援しなくちゃいけないと思う。だから......」
自分の胸に手をあて、ミオは。
「頑張ってね。あたしもここで頑張るから」
笑顔だった。
いま自分にできる精一杯の笑顔で、ミオは自分たちの出発を飾ってくれた。
「──僕も、頑張ります」
何て応えればいいだろう。
自分の気持ちを素直に表す言葉もわからないけれど。
「すぐ帰ってきます。必ず、そろって帰ってきますから。クルーエルさんも一緒に」
手に持っていた外套を広げる。
肩に引っかけるようにして羽織り、ネイトはその場で踵を返した。
ふわりとなびく外套の裾。
夜明けの空を想わせる、透けるような蒼と白のグラデーション──
それは夜明け色のローブだった。
〝プレゼント。キミのローブもだいぶ汚れちゃったみたいだからね〟
〝夜色名詠が元々暗い感じの色なんだから、さっぱりした色の服を着た方がコントラストが綺麗だと思うよ──いつかまた、あの夜色飛びトカゲを肩に乗せた時もね〟
競演会が終わって迎えた終業式の日のこと。
一年生校舎の屋上でクルーエルからもらった外套だ。何だか照れくさくて、だからこそ、着る時はしかるべき時を選んで着ようと思ってた。
──きっと、今がその時だから。
夜明け色の外套を肩にまとい、少年は歩きだした。
ただまっすぐ、夜明けの方角へ。
空奏 『そしてシャオの礼讃来たり』
その塔の内部は、幾千幾万の音に満ちていた。
さざ波の音、火の爆ぜる音、木の葉が舞う音、鳥の鳴き声、風鳴り、そして大地の鼓動。
命の音色が時に混ざりあい、時に単独で響きわたる。
その奏でに混じり──
「よおシャオ、そういや俺らどこ目がけて上ってんだ。この塔終わりがねえぞ」
その空間の中では異質とも思える、男の暢気な声がこだました。
「頂上だよ。そこに『セラの庭園』の最奥につながる扉があり、それを越えた先に調律者が待ってる」
少年か少女かもわからない中性的な声が返す。声の表面は若いのに、その本質は何百年と生きた大樹を思わせる。そんな声。
「それは前に聞いたって。俺が言ってんのは、いつまで上るのかってことだ」
「もうちょっとかな」
「......数時間前にも同じこと言ってたよな」
「アルヴィルなら平気だよ。それよりテシエラだね、体調は?」
中性的な声が問いかけ、その数呼吸後に。
「頃合いになったら適度に休むさ」
さばさばと応える三番目の声。
最初の二人の声と違い、こちらは重みのきいた女性のものだった。
「無理すんなよ姐さん、焦ることじゃねえんだから」
「無理するなときたか。それはお前に言われたくないな」
「俺? 俺はいつだって──」
「お前、祓名民の頭領から縁談を持ちかけられてたんだろ。エイダだったか。あの娘との婚約話はどうなったんだ?」
一瞬、塔そのものまでもがしんと静まり返った。
静寂がじわりと広がるなか。
「............おーいシャオ、誰がこの姐さんに話したか知らねえか」
「ふふ、まあいいじゃない」
男の溜息に続き、シャオと呼ばれた者からは笑い声。
「......うちのリーダーはプライベートもへったくれもねえな。縁談? んなのは破談だろ破談。俺ぁ祓名民だって勝手に抜けだした男だぜ。そんな話、もう旦那も忘れてるさ」
「その話、エイダという娘は知らないのか?」
「ああ。クラウスの旦那との内輪話だ。......んな話、アイツの前でできるかっての」
「もったいないな。次代の頭領の座が約束されたも同然の話だろうに」
楽しげに抑揚を混じらせる女性に対し、男の声には鈍く尖った棘があった。
「こっちに味方って腹据えたからな。もう後戻りはできねえし、する気もねえよ。そうじゃなきゃ、ぶっ倒れるまで気張ったファウマの姫さんに顔向けできねえ」
口早にそこまで告げて、再び男の口調が暢気なものに戻ったようだった。
「それに姐さんこそいいのか。ヨシュアって奴から、レフィスと会った時は面倒をかけるって頼まれてたんだろ」
「............おい大将、誰がこの阿呆に話したか知らないか」
「ふふ、まあいいじゃない」
女性の溜息、そしてまたも小さな笑い声。
「まったく口の軽い......レフィスについて? ちゃんと相手をしてやってるさ。ヨシュアのやり方と私のやり方は違うが、まあ構わないだろう。私は私のやり方を信じてここにいる。お前と同意見なのがつまらんが、意地を張るべき時くらいは心得ているさ」
コツ......ツッ......
塔にこだまする三つの足音。それを伴奏がわりに。
「それよりシャオ、私も気になっていたことがあるんだが」
「なんだい?」
「調律者の二体、〈ただそこに佇立する者〉と〈その意志に牙剝く者〉。その二体の勝負の原則は、どちらが先に人の世界に名詠されるか──だったな」
「そうだね、そしてそれは今も変わってない」
「同時だったらどうなるんだ」
ざわめく音が満ちる空間で──
テシエラの声もまたその音色の中に溶けていく。
「まったく同時。一秒一瞬の差もない、まさに同瞬。その時、私たちの世界には調律者が二体現れるのか。それとも......それが気になった」
コツ────
それを最後に、三つの足音はまったく同時に沈黙した。
「かつて668回の抗争において、まったくの同時というのは例がない。実際に起きてみないとわからないけれど、ただし......」
一拍の空白を隔てて響くシャオの声。
「こと今回に限ってならば答えは明確。試すまでもなく結果は見えてるよ」
「で、どうなるんだ大将」
「──ふふ」
「いや、そこはふふじゃねえだろ」
呆れかえったアルヴィルの指摘に、テシエラが続けて嘆息を合わせる。
「......まったく。うちの大将はこれだから困る」
「いいじゃない。もうじきわかる」
塔にこだまする小さな笑い声。
塔に響く吐息は大気にまぎれ、いつしか塔を循環する風そのものになっていた。
「ネイト、早くおいで。あなたの最後の答えを聴くために待ってるから」
塔の内部、五色に光る輝きに照らされて──
夜色の外套をまとう名詠士はしっとりと微笑んだ。

真奏 『全ての歌を夢見る子供たちの塔』
1
大陸を行き来する横断列車。
車輪の震動にきしむ窓枠に肘をつき、ネイトは外の風景をぼんやりと眺めていた。
うなる風の音、移り変わる窓向こうの景色。まだ記憶に新しい──数日前、凱旋都市に向かう列車から見た眺めとまるで変わらない光景だ。
「いやーすごいね。席空きまくり。どの車両行ってもあたしたちの貸し切りだよ」
前方車両の扉が勢いよく開いた。
癖のある髪を手で押さえ、エイダが足早に歩いてくる。
「ちび君もそんな端っこの席座ってないで、あっちの車両にもっと良い席あったよ?」
「ううん、平気です。窓の景色がよく見えるのがこっちだから」
吐息で白くにごった窓。ネイトはその指先でつっとなでた。
「それに......なんか、噓みたいに静かだなって」
名詠式がこの世界から消滅して、わずか一日。
その一日で、学園の外の世界は既に混乱の最中にあった。名詠学校は大半が臨時の休校措置。名だたる研究機関も原因究明に追われ、報告を公開するどころかまとめるにもいたっていない。
そしてその混乱は、大陸中の交通機関にも例外なく押し寄せて──
「これが最後の列車なのに、やっぱりエンジュに行く人って僕たちだけみたいですね」
そう、朝一番であるこの列車が今日最後の便なのだ。この便を最後に列車は運休、それ以降はいつ再開するかもわからない。しかし、混み合ってるかと思って慌てて来てみれば、駅を見回しても乗客らしい人影はほとんどなかった。
「んまあ、割と妥当じゃない? 風の砕けた日だっけ? エンジュが一晩で瓦礫の山だもん。原因知らない人たちから見れば、いつ再発するかもわからない謎の大爆発ときた。そんなとこに行く物好きなんてあたしらくらいだし」
「でも、名詠式が使えなくなったら列車くらいしか移動方法ないですよね?......もっと混んでるかと思ったのに、駅も全然人がいなかったし............」
「──それくらい混乱してるってことなんだろうな」
対面の席、足を組んだ姿勢で目をつむっていたレフィスが顔をあげた。
「名詠式が消えて、その原因なんて誰も知りようがない。何をしていいかもわからないから、誰も迂闊には動けないんだと思う」
「てか、あたしらだって駅員からずいぶんジロジロ見られてたもんね。いやー危なかった、レフィスがいてよかった。素敵な保護者のおかげで助かったよ」
「......誰が保護者だ」
仏頂面でエイダをにらみ、レフィスが口を尖らせる。
「だってほら、あたしとちび君だけだったら絶対怪しまれて声かけられてたよ。年端もいかない女の子と男の子。あたしらたぶん高等部の生徒にも見られてないもんね」
にやにやと笑うエイダ。かたや、むすっとした表情でレフィスが口をつぐむ。腕組みして窓へと顔を向け──ふと、彼がそのままの姿勢で動きを止めた。
「そういえばネイト、さっきまで手に握ってたのは?」
「あれですか。あれは......ええと」
羽織っていた外套の内側に手を入れると、指先に触れる硬い感触。それが三つ。
「これのことですか」
手の平に転がる三つの破片。
涙と牙と花、それぞれのかたちを模った色とりどりの結晶だ。
「触媒みたいだけど、その赤いのとか透明な石は?」
「単なる触媒じゃないんです。......全部、本当に大切なものだから」
涙を模った透明の結晶、それはクルーエルの記憶が宿ったものだという。
牙を模った夜色の結晶、それは夜色の名詠生物から託された最後の触媒。
花を模った緋色の結晶、それはアマリリスから託された真言。
落とさぬようそっと外套の中に三つの欠片を戻す。
......シャオにも、そしてミクヴェクスにも渡しちゃいけない。
アマリリスは言っていた、これはあらゆる子供たちの願いが結晶のかたちをとったもの。この願いの結晶たちが意味を持つ時が必ず訪れる、と。
「っと。ちび君ちび君、ほらあっち」
ネイトが応えるより先、エイダが隣の席に腰を下ろした。
進行方向の左手、窓の方向を指さして。
「見えたよ」
薄いガラスを通して見る世界、その地平線の果てに。
高度を上げた日に向けて伸びる夜色の塔。
エイダに言われなければ当分気づかなかっただろう。まだ視界の端、針のように細いシルエットでしかないのだから。
──どくん。
胸の奥が跳ねた。緊張でも喜びでも興奮でもない、まるで胸の鼓動のリズムが塔と共鳴したかのような感覚だ。『セラの塔』、それは名詠門の先にある世界──『セラの庭園』がこの世界に顕現した姿だという。
「こんなに離れてるのに頂上が見えないのか......本当にとんでもない塔だな」
呆れ半分、苦笑半分。そんな溜息がレフィスの口元からこぼれた。
......あの塔の頂上にシャオがいる。
そして、そのさらなる先に調律者が待っている。クルーエルを助けるには、名詠式の創造主に直接挑まなくてはならないのだ。
「あと一時間もかからないだろうね。少し早いけど準備した方がいいよ」
肩先をつついてくるエイダ。彼女が言うように、かつてエンジュの駅舎があった場所は、列車の線路と共に瓦礫の下だ。この列車が走る区間も、正確にはエンジュの一つ前の駅舎まで。そこから先は瓦礫の道を歩かなくてはならない。
「ちび君、平気?」
「──はい」
窓枠に置いていた左手を、膝の上で右手に重ねる。
自分の呼吸と自分の胸の鼓動を感じながら、ネイトはその場で目を閉じた。
2
凱旋都市エンジュ跡地──
黒く焦げた地表。
踏めばざらっとした感触を残し、まるで雪のように崩れていく。
あれだけ美しく舗装されたタイルは、一枚残らず爆風にはぎ取られていた。硬い地面はそこになく、砂漠の丘陵を歩いているような不安定な感覚だ。
カラ......ンッ。どこかで瓦礫の転がる音。小さな瓦礫が周囲の瓦礫を巻きこんでは崩れ、またどこかで乾いた音を響かせる。
天を衝くように伸びる建物が消えた跡地。
風をさえぎるもののない荒野となった地で、冷たい風がむせび泣く。
「瓦礫、踏まないよう気をつけないとな。かなり尖ったものもあるみたいだし」
言葉どおり、隣を歩くレフィスの視線は己の足下。
「そうそう。あんたたち気をつけなよ。ここまで来てケガしましたなんて勘弁だからね」
一人、十メートルほど先を行くエイダが振り返る。小さく首肯し、エイダの歩く道をそのままネイトは辿っていった。
足下に意識を集中し、時折顔を上げてエイダの歩く行程を確認する。
鋭い破片を踏みぬけば容易に靴底を貫通する。──細心の注意でもって周囲を確認し、言葉もかわさず進んでいく。延々と。
その時間に終わりが見えたのは、足下に巨大な黒い影が落ちたからだった。
天を衝く夜色の塔。
視界を埋めつくすほど巨大な黒の線が、果てしなく空へ空へと伸びていた。
「......本当に大きい」
無意識のうちに言葉がもれていた。
塔の幅だけで視界に収まりきらない。高さは、もう真上を見つめても終わりが見えないほどだ。それが湾曲もせず、ただまっすぐ上空へと伸びている。雲を突き抜け、人の視力の限界を超え、おそらくは本当に限りなく高く。
「あれ、でもちょっと......ねえちび君もレフィスも、これどうすんの」
祓戈を肩先に結わえ、エイダが顔をしかめて塔を指さした。
「この塔って入口なさそうだけど、これどうやって内部に入るの?」
そう、目の前の塔には何もないのだ。
入るための入口も換気のための窓もない。それどころか塔を構成する石材の継ぎ目すら皆無。いや、おそらく石材ですらないのだろう。夜空を凍らせて塔のかたちに凝縮したもの──喩えるならばそれが一番近い。
......でもシャオは塔の内部にいるはずなんだ。
入口は必ずある。それも、たぶんすごく簡単なところに。そうでなければ建てる意味がそもそもないはずだから。
「────」
透明感のある漆黒の壁をじっと見据え、ネイトは塔の直前まで足を進めてみた。
「あ、ちょっと......ちび君!」
「この壁、もしかして」
黒い壁の表面を指先でなぞる。
......ぽちゃん。
指で触れた瞬間、壁の表面がさざめいた。
まるで水面に指で触れた時のように、波紋が円を描いて広がっていく。
──やっぱりだ。
「エイダさん。この塔、最初から開きっぱなしなんです。たぶんどこからでも入れる」
「......どういうことだ」
怪訝な顔つきのレフィスの目の前で、ネイトは右腕を壁に向かって突きだした。
ちゃぷん。
水が跳ねるような音を立て、右腕が壁の中に沈みこんだ。
「──ネイトっ!?」
「平気......だと思います。ほら」
沈みこんだ右腕を引き抜いてみせる。腕には何も異常はない。制服に黒い色が付着するくらいは覚悟していたから、ネイト自身も拍子抜けするくらいだ。
「壁じゃなくて、なんか真っ黒い水みたいな感触でした」
「......で、要はその真っ黒い水の中を泳ぐか突っきるかしろってことね。ちょっと気持ち悪いけど、他に入り方なさそうだしなあ。あんたは、レフィス?」
露骨に顔をしかめながらも、エイダが祓戈をぎゅっと握りしめる。
その横に並ぶレフィスが首肯するのを横目に、ネイトは再び正面の塔を見上げた。
......クルーエルさん。辛い思いさせちゃってごめんなさい。
......今、行きますから。
「じゃあ、行きましょう」
ネイトは夜色の塔に手を触れ、そして──

そこは、全ての色と全ての音がひしめきあう空間だった。
......光?
「............」
眩しいほどの光量を感じ、ネイトは固く閉じていたまぶたを開けた。
塔の内部全体が、燦々たる輝きに満ちていた。
赤から青、青から緑、緑から黄、黄から白。マーブル模様に移り変わる光。そしてその光に照らされ、足下も周囲の空間も、全てがまるで虹色に輝いている。
あらゆる色の宝石が埋まった渓谷にいる、そんな印象だ。
「これが塔の内部?」
振り返っても黒い壁などまるで見当たらない。
黒い壁をすり抜けた──と思った瞬間にはここに立っていた。『セラの庭園』が顕現した姿と聞いていたから、てっきり内部は真っ暗かと予想していたけれど、蓋を開けてみればまるで別物。あの浮遊結晶もなければ、白く輝く地表もない。
それに、なんだろう。足下からふしぎな音も聞こえる。
キッィィィィ......ンッという高く澄んだ音。さながら氷が割れる時のような。
「ねえねえ、ちび君こっち来てみなよ。こっち何かが燃えてる音がするよ。バチバチって、火の粉が爆ぜるみたいな」
顔を上げれば、十メートルほど離れた右手側にエイダの姿。
「こっちは滝の音だ......水なんてこれっぽっちもないのに」
こちらはレフィス。エイダと対照的に、彼は左手側に立っていた。
「ネイト、そっちは?」
「僕のところは氷が割れる音です。流氷の中にいるみたいな音......」
自分の周囲のどこにも氷なんて欠片もない。けれど聞こえてくる。足下、マーブル模様に輝くふしぎな床の下から。コツッ、試しに床を蹴ってみても硬い感触が返ってくるだけ。氷の音はするけれど、氷を踏んだ感触とはほど遠い。
「世界中のあらゆる音がここに集まってる。何となくだけどそんな気がします」
何か根拠があるわけじゃない。ただ、自分たちの常識が通用する世界でないことは確実。この塔そのものが別の世界なのだ。
塔という扉を通じて、別の────光と音の幻想世界につながっている。
「......いやはや。退屈しなさそうで何より」
抜き身の祓戈をエイダが携える。
その横で、レフィスが灰色名詠用の触媒を握りしめていた。
「ネイト、もう行くんだろ」
「──はい」
正面、五色が入り混じった階段をネイトは見据えた。
ただまっすぐ、緩やかな勾配をもって伸びている階段。どこまで続いているのか、階段の先が点のようにかすむほど遠くまで続いていることだけは事実だ。
外から見た時、この塔の幅は数百メートル。だがこの階段の全長は優にそれを超えている。まっすぐ伸びているのだから、途中で階段が塔を突き破っているはずなのに、その様子も見当たらない。
......光が勝手に動いてる?
五色の光が、鏡もない虚空で突然に屈折しているのがわかる。まるで自分の意志でこの空間を踊り、走っているように。そのせいで距離感すらつかめない。
──でも、必ず頂上に続いてるはずなんだ。
果てなく続いている階段に向かって、ネイトは足を進めた。
3
カツッ......ツッ......
五色に輝く階段、靴を通して伝わる感触は石。五色に輝く大理石で階段を作れば、きっとこれに似たものが出来上がるのだろう。
「ねえちび君、今どれくらい歩いたっけ」
ふと、背中をツンツンとエイダにつつかれた。
「......エイダさん、鎗でつつかないで」
「いいじゃん鎗のお尻側なんだから。あたしだって尖ってる方でつつこうとは思わないよ。で、どれくらい」
「えっと二百段ずつ数えてたんですけど、十回超えたくらいから数えるのやめました。レフィスさんは?」
すると彼も苦笑を浮かべ、何かを思いだすように頭上を見つめた。
「俺は三百段くらいで数えるのが面倒になった。ただ、三百まで数える時間と今までの時間を比べても相当歩いてると思う。その証拠に......」
彼が意味ありげな視線を背後に向け、それを追いかけるようにネイトも振り向いた。
──上ってきた階段の最下段が、はるか下にかすんで見えなかった。
「今さらだけど足滑らせたら大変だね。真後ろに転ぶならいいけど、横に転んだら下まで一直線だもん......あー、だめ。これはあたしでもちょっぴり怖い」
階段の脇から下を覗きこみ、エイダがやんわりと顔をしかめた。
「そう言われると......」
今まで意識していなかったが、この高度で階段の横に柵がないというのはちょっとした肝試しだ。石階段の幅は二メートルほど。中央を歩いていればまず問題ないが、足を滑らせて転落すれば数百メートル下の地表まで落下する。
試しにエイダを真似て、階段の真横から下を覗きこみ......
「これ......落ちたら助からないですよね」
足下からふるえる寒気に、ネイトは背をふるわせた。まるで腐りかけの吊り橋の上に立っている心境だ。それに上るごとに、なんだか風も強くなってきた気がする。
『セラの庭園』で感じた、あのふしぎな波動。風と水の中間を思わせる流動体が、時として突風さながらに吹き荒れる。
だが本当の問題は、そこまで上ってなお階段に終わりが見えないことだ。
「休める場所があれば一息つきたいと思ったけど、さすがにここじゃあね。しょうがない。行くんでしょ?」
後ろ頭をかくエイダにうなずき、ネイトはつま先を正面に向けた。
大海の潮騒、凍える猛吹雪の音。
したたり落ちる雨と水滴の音色。
さらには水飛沫を上げてうなる瀑布の響き。
周囲に満ちる音が、塔を上るにつれて少しずつ姿を変えていく。
木枯らしに草がそよぐ音、鳥の声、虫の音。どれほど変化したかもわからない、そしてどれほど歩いたかもわからない。その中で──
「......あれ。二人とも」
背後を歩くエイダの足音がぴたりとやんだ。振り向く先、彼女が足を止めてじっと階段の先を見上げていた。
「あれは............なんかさ、階段終わったみたいだよ」
「えっ!」
弾かれたように正面へと振り返る。たしかに、まだはるか彼方の光景ではあるが、階段が途中で切れているような。
「そう言われてみればそう見えるけど、実際行ってみないとわからないな」
目を細めたままレフィスが足を進める。半信半疑ながらも、彼の歩調は先よりもわずかに弾んでいる気がした。
「あ、待ってレフィスさん」
慌ててその背中を追いかける。
駆け上る勢いで塔の階段を上り続け──ネイトの目からもはっきりと、階段が途切れているのが見えた。階段の先は水平の床が広がっているらしい。
「あれが頂上?」
「......どうでしょう」
自分の真上を見つめ、ネイトはエイダへの返答をにごした。
たしかに階段は一度終わっている。それは間違いない。けれど頭上に広がる空間は、まだまだ見果てぬ高さがある。それが引っかかるのだ。
「でも休憩──」
休憩くらいはできそうです。
その言葉の残りが、突然に響く砂嵐の音に搔き消された。
──砂嵐の音? おかしい。
さっき草原に響く虫の音に変わったばかり。音の変化が早すぎる。
それに今回はやけに音が強い。会話を阻害するくらい強い音なんて初めてだ。
「違う、これは......あいつの............っ!」
レフィスの声が鼓膜にふれた途端、弛みかけていた緊張感が一瞬で全身を駆けめぐった。
手の平に付着した小さな粒、レフィスがそれを睨みつけるように見つめていたからだ。彼の手に付着していたものは──目の細かい黄砂。
「ネイト、エイダ、これは本物の砂嵐だ!」
同時。
ざぁぁっぁぁ......
階段が切れた場所から、真っ黄色な砂塵が猛烈な勢いで吹き降りてきた。
──しゃがんで目を閉じろ!
レフィスの言葉に従ったわけではない。言葉の意味を理解するより先、脳裏をよぎった直感のままネイトはその場で身を屈めた。片手を床に、もう片手で顔を守る。襲ってくる風圧と砂の衝撃に身を強ばらせ......
その砂嵐は、いつまで経ってもやってこなかった。
「......消えた?」
自分たちに襲いかかる刹那、砂嵐がふわりと虚空に溶けたのだ。津波のような砂塵も突風も消え、心地よい微風が残るだけ。
その風に乗るように。
「あれだけやって脅かすだけとか姐さんやっぱ性格悪──っ痛!......姐さん、足踏んでる。踏んでるってば!」
「ふむ、大将が『今は名詠式が安定しない』と言っていたが。まずまずか」
石段の先、聞こえてきたのは人の声だった。
声は二人分。......でも違う、シャオの声は混じってない。
階段を上りきったそこに、今までとはまるで違う、無機質な灰褐色の平野が広がっていた。
ざらっとした土の感触、そして砂埃の臭い。まるでここだけ現実の世界に戻ってきた、そんな錯覚に陥りそうになる。
「来るとはわかってたけどよ、待つ分にはずいぶん退屈だったぜ」
黒獣皮のベストを羽織る瘦軀の男、その手には自らの背丈より長い鎗が握られている。
そしてもう一人、無言ながら口元に剣呑な笑みを浮かべる女性。こちらは首元に巻いた黄砂色のマフラーを指先で弄っていた。
「意外だね、アルヴィル」
エイダが一歩前へと進む。
「シャオって奴のお伴じゃないんだ? いいのかい黒幕一人にしちゃって」
「ああ、別にこの塔で何かが襲ってくるとかはないらしいんでな。それに姐さんもあんま体調良くないし、これ以上身体に負担かけるよりここで待ってる方が楽ってね」
「......体調?」
小さく手を振りながら応える祓名民。それに眉をしかめたのはエイダでなく、その隣に立つレフィスだった。
「身体に負担をかけるよりって──テシエラ、どういうことだ」
レフィスが睨みつけるのは無言のままの女性。
女性は口を開けない。かわりに眉をしかめたのはやはりアルヴィルだった。
「おい姐さん? 自分の身体のこと、まだあの兄ちゃんに言っ────痛っ、姐さん、足踏んでる! 踏んでるってば!」
「......わざと踏んでるんだ、この阿呆」
アルヴィルの足を踵で踏みつける片手間に、テシエラと呼ばれた女性が大きく溜息。
「そこの坊や、ネイトといったか」
彼女が自分の背後を顎で指し示す。
灰褐色の平野が百メートルほど続いたその先──平野は再び途切れ、そこには光り輝く石段が再び頭上へと伸びていた。
......やっぱり、まだここが果てじゃなかった。
悠久を思わせる階段、この場所ですらその踊り場に過ぎないのだろう。
「大将からの伝言だ。『一番上で待ってるよ』、だとさ」
「────」
対峙する二人、シャオの仲間であるのは間違いない。
なのに互いに泰然とした面持ちを崩さず、まるで動く様子がないのはなぜ? あたかも、そのまま二人を突っきって階段を進んでしまえるような......
「ちび君、先行ってていいよ」
ぽんと右肩を叩かれた。そこにはエイダの見慣れた笑顔。
「......エイダさん?」
「俺もエイダも、最初からこのつもりでついてきた」
左に並び立つのはレフィス。
「クルーエルを助けるために来たはいいけど──もう時間がないんだろ? だから行け、お前が行かなかったらここまで来た意味がない」
「そゆこと。どうせあたしも空白名詠の反唱って使えないしね。そばについてたって役に立てないし」
......でも。
「そんな寂しそうな顔しないの。すぐ追いつくから。ほら、気合い入れな!」
「痛っ!」
バシッという音が聞こえたと思ったのは、背中が腫れるほど叩かれた後だった。
「──行けっ!」
声は二つ、けれど聞こえたのは一回。
美しいまでに重なり合った唱和。今この時でなければ聞き惚れていただろう。迷いそうになる思いを振りきって、余韻が消えるその前にネイトは走りだした。
「────」
前に立つアルヴィル、テシエラ。
二人の挙動に注意を払いながらも最短の距離を走り抜ける。砂と泥が固まりあったような地表を抜け、その端から続くのは煌めきの階段。
シャオ。
夜色の瞳をした名詠士の姿だけを思い描き、ネイトは階段を駆け上がった。
ここは頂上ではない。それでも、すぐそこまで来てる。手を伸ばせば届くくらい、もう目の前にまで。
緊張とも昂揚とも違う胸のざわめきがそう告げていた。







遠ざかる少年の背中、そして足音。
ネイトが階段へと駆ける姿を横目に、エイダは正面の祓名民へと向き直った。
「いいのかいアルヴィル」
「ん、何がだ?」
試すような口調のアルヴィル。
戦うべきその男をひたと見据え、エイダは鎗の先端を突きつけた。
「ちび君は、今度こそ勝つよ。あのシャオってヤツにだって」
「そう。それは私たちも関心があるんだな」
アルヴィルの隣、無言で佇んでいたテシエラが視線を上げる。好戦的な笑みと対照的、その瞳に知的な輝きを灯らせて。
「あの小さな坊やがはたしてシャオの高みに辿りつけるのか、なぜシャオがああも気に留めていたのか。私にはどうしても腑に落ちなかった。特にレフィス、お前があの坊やと会ったのは凱旋都市が最初だったんだろう?」
周囲の視線がレフィスへと向けられる。
「そうだな、俺は......ネイトと長い付き合いがあるわけじゃない。でも」
数秒の静寂を隔て──やがて、絡みつく視線を払うためであるかのように、レフィスは無言で首を振った。
「ふしぎと力を貸してやりたくなる。あいつはそんな気にさせる奴だから」
「そういうこと」
レフィスの返答に応えるかたちで、エイダは祓戈の刃先を二人に向けた。
あとは信じよう。
クルーエルが自ら選んだ彼のことを。
「頭数もそろってる。ちょうどいいじゃん」
自分とレフィス。対する相手はアルヴィルとテシエラ。
どちらも名詠士と祓名民の組み合わせ。経験という点で向こうに軍配が上がるだろうが、この場では決して悪くない。
──ていうか、むしろ願ってもない状況だよね。
自分もレフィスも、おそらく単体では相手に及ばない。最初から不利は承知の上。ならばその天秤をひっくり返すには何か、相手の不意を突く要素を加重する必要がある。一対一より二対二、大多数が入り乱れた方がそういった小技を仕掛けやすい。
「二対二ねえ。ところで姐さん、誰かと組んで決闘ってのは?」
首をかしげるアルヴィルに、隣に立つ名詠士はさも平然とした面持ちで。
「まったくない」
「......おいおい、姐さん」
「気にするな。どうせやることは変わらないだろ? もともと私やファウマの名詠式は、相手が一人だろうと二人だろうと変わらない」
光を反射する金貨が一枚、テシエラの指先を転がっていく。
──『Surisuz』──
金貨の光に混じり、絡みつくように生まれる名詠光。髪ほどの細さでしかない光の糸が、球を作るように立体的な円をかたどっていく。
全身まだら模様をした黄色の獅子。
「硫黄獣か」
現れた獣を前に、エイダは自分の祓戈を軽く握った。
毒性の吐息を持つ名詠生物だ。その毒を吸えば呼吸に異常をきたすとされる。とはいえ、それさえ注意すれば怖れることはない。毒息の最大射程も、過去の訓練で数ミリ単位で身体に叩きこんでいる。
......だけど、この違和感は何なんだ?
目の前の硫黄獣は体高だけで自分の肩ほどもある。かつて硫黄獣と対峙した記憶では、それより一回りか二回りは小さかった覚えがあるのに。
そこから導き出されるものは──
「エイダ、そいつは!」
レフィスが叫ぶ間もなく、獅子の胸部が風船のように膨れあがった。毒の吐息を溜めて周囲に撒き散らす、その予兆。
──大特異点か?
射程をぎりぎりで外して回避、二度目が来る前に叩く。──九割方描いていたその手順を一から崩し、エイダは獅子まで一気に距離を詰めた。特異個体となった硫黄獣の毒息が及ぶ範囲が未知である以上、毒息を吐かれる前に潰す!
膨張した胸部の気体が喉を通過し、硫黄獣が口を開けた。
──間に合え!
その頭部目がけ祓戈を全力で振り下ろす。
鎗の柄を通じて伝わる硬い音。直後に立ち上る光の粒子。煙のような粒子に覆われ、硫黄獣がその場で動きを止めて還っていく。
間に合った。エイダが安堵の息をつくより先に。
「いいや、間に合わなかったようだぞ」
黄の名詠士の足下、わずかな砂地に咲きほこる無数の花。この塔の内部に花?......さっきまであんなの咲いてなかったはずなのに。
「アルヴィル」
「了解っと」
一閃、アルヴィルの鎗が通過。
鎌鼬さながらの風圧が薙ぎ、無数の花びらが宙に舞う。
相手の名詠はまだ終わらない。浮遊する花弁のさらなる上空、黄土色の皮膚をした名詠生物が現れる。
黄色の小竜、翼をもった小型の異形竜だ。
竜に分類されながらも牙と爪を持たない種族。もともと人の子供程度の大きさしかなく、大特異点として名詠された目の前の個体も外見上の大差はない。
「黄色の小竜?」
なぜこの場面で。あんなものを詠びだしても脅威とはほど遠い。
そしてアルヴィルが薙いだ花。あれだって......
............いや。
目をこらす。黄色の小竜の正面にきらきらと輝く黄金の粉末。よく見れば空中の花弁から零れているではないか。
「......花粉?」
競闘宮の入口で警備員が眠らされていた光景が頭を過ぎる。そういえば黄色名詠には、強烈な眠気を誘う花があったはず。
たしかその匂いのもとは────まさか──っ!
「レフィスっ!」
喉を嗄らせてエイダは叫んだ。
背後は振り返らない。一瞬の時間の浪費すら惜しみ、テシエラとその頭上に浮かぶ黄色の小竜へと駆ける。まずい、これを喰らったら二人まとめて──
背中に走る悪寒。
それをそのままなぞるがごとく、黄色の名詠生物が翼を羽ばたかせる。
きらきらと光る淡い色の花粉が宙に舞う。刹那、翼の突風で頭上から叩きつけるように花粉の雨が降ってくる。一呼吸でも吸いこめばたちまち意識を失う催眠粉だ。
「伏せろ!」
レフィスの声はその直後にやってきた。
──『Isa』──
ざぁぁっ。豪雨にも似たざわめきをともなった灰燼の風。むせ返るほどの濃度の灰が花粉の風を押し流す。
......あぶなかった。ギリギリ間に合ったか。
「良いタイミングだね。助かったよ」
「すまない、俺の方こそ言われるまで気づかなかった」
並び立つレフィスの両手には新たな触媒。
その一部始終を傍観し、アルヴィルがふっと息をはいた。
「おいおい、なんだ姐さん、あっさりかわされちまったぜ?」
「そうだな。きっとお前が花を散らすのが遅かったんだ。ま、慣れない小細工にしてはまずまずか」
こともなげにそう呟き、赤銅色の前髪を横にはらうテシエラ。
......よく言うよ。
手に滲んだ汗をぬぐい、エイダは正面の相手を凝視した。
またたく間にまったく別種の名詠を三回。大特異点だからではなく、単純に名詠士としての技量が恐ろしい。これだけの女がその実力を隠して在野に潜んでいた、まずその事実だけでも驚愕に値するほどだ。
「テシエラ、一つ訊きたい」
そう告げるレフィスの視線は正面、黄の大特異点へ。
「なんだ? 質問にもよるが、お姉さんの年齢を聞こうなんて野暮な真似、隣の阿呆だけで間に合ってるぞ」
空とぼける彼女を睨んだまま、レフィスが指さしたのはその足下だった。
灰色の風にあてられ、ぱらぱらと地面へ散った無数の花弁。
「お前が黄色名詠を使える理由。五色の名詠は使えなくなったはずじゃないのか」
「お、そういえばまだ話してなかったか。......どこまで話したか。そうそう、『セラの庭園』に連れていった時、ここが名詠式の生まれた場所だという説明まではしたかな」
ひらひらと降る黄色の花びらを手ですくい、テシエラがそれをじっと見つめる。
「五色の名詠式が使えなくなった理由は単純だ。調律者の目覚めに呼応し、調律者を伴わない名詠式──つまりは『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』の五色。これらの名詠は全て『セラの庭園』に還ることになる。言い換えれば、『セラの庭園』と繫がっているこの塔に向けて五色の名詠式が収束し、そしてこの頂上を経由して調律者の下に還りつつあるというのが今の状況。だからこそ、塔の外の世界では名詠式が作用しないことになる」
今一度、エイダは果てのない天井を見上げた。
......あの女が言うのが本当なら、あの光は。
極彩色の光、どこからともなくあふれてくる。このまばゆい光は全て、塔に収束した五色の名詠式が姿を変えたものなのだろう。その影響を受けているからこそ、今まで上ってきた石階段も五色に輝いているに違いない。
「塔の内側に五色の名詠式が集まっているわけだから、この塔の内側にいる名詠士ならば五色の名詠式は使用できる。考えれば当たり前の理屈だろう?」
「......アマリリスが封律した灰者の王を復活させずとも、この塔の内部ならば灰色名詠も使えることになっていたわけか?」
「可愛いな坊や、理解が早いのはそれだけで美徳だよ。ま、言ってみれば無用な儀式か。とはいえアマリリスもそれは最初から承知の上。だからこそ、あえてその儀式の意味を問われれば......灰者の王を解放したことで、理論的には灰者の王の名詠が可能になったことか。っと、これはわれらが大将の受け売りだがな」
──つまり、この塔の内部なら自分にも白色名詠が使えることになる。
胸元に添えていた手を下ろし、エイダは目の前の相手を凝視した。
「ま、そんなしちめんどくさい理屈なんて祓名民にはどうでもいいけどな」
ひゅんと音を立てて唸るアルヴィルの長鎗。
「そんな長話するために来たわけじゃないんだろ? 見せてみろよ」
「言われなくても」
隣立つレフィスにこっそり目配せ。
地を踏む足の重心を移動し、身体が地に這うほどの前傾姿勢へ移行する。
「──そのために来たんだ」
エイダは、祓戈を握りしめた。
真奏 『百億の星に少女は祈り』
静かだった。
扉はもちろん窓もぴしゃりと閉めきった部屋。冬の寒さを日射しが中和して、室内は温かくも寒くもない。空気の流れまでもが停滞している気がするのは、たぶんそのせいなのだろう。
「......休憩室みたいな場所なのかな」
淀んだ空気を入れ替えたい。そんな衝動に駆られ、ヘレンは大きく息を吸いこんだ。
自分がいるのは総務棟の一階、教師控え室という場所らしい。
つい直前までいたのは二階の職員室。けれど昼間は見知らぬ教師も多いし、違う制服を着ているから嫌でも目立つ。そんな息苦しさを感じていたところで、名前も知らない男性教師がこの部屋を勧めてくれたのだ。
〝よぉ、ヘレンだっけか。ミラーからちょっと話を聞いたぜ。てか、話は突然だけどよ、一人で職員室にいると肩凝らないか?〟
赤と橙のまだら模様のシャツ姿、そんな派手な服装の教師だった。
他校の生徒である自分に、まるで友人に話しかけるように気さくな口調で──
〝俺も教師だけど......いやーやっぱさ、俺が学生の時も職員室って苦手だったわけ。俺とミラーとエンネの三人でバカやって叱られた記憶しかないしな。そんなわけで気持ちはわかる。──うん、よーくわかるぜ。状況は違うだろうけど、さっきから見てるとお前も居づらそうだったし〟
〝少し一人でいたいなら、階段降りてすぐの部屋が空いてるぜ。ソファーとかもあるし、ポットで湯沸かして茶でも飲んで休んでなって。ああ、あと茶葉の入った容器の隣くらいかな、蓋に『エンネ』って書かれたクッキーの箱があると思う。腹へったら勝手に開けて食べとけ。あいつ冬場で体重が落ちにくいとか嘆いてたからちょうどいいだろ〟
「......この学校、いい先生がいるんだなぁ」
テーブルの上、白湯の入ったカップの縁に指先で触れた。
自分が入れたわけではない。部屋に入った時から誰かが用意してくれたものだった。
「これも、きっとあの先生なんだよね」
あのやんちゃな表情とひょうきんな物言い。教師という一般イメージとかけ離れているけれど、その反面、生徒の心情を親身になって心配してくれる人なんだろう。
名前を聞いておけばよかったと思う。うん、あとでミオにでも訊ねてみよう。
──トン。
にわかに、ドアが控えめにノックされた。
「ヘレンちゃん、いる」
「ミオ?」
扉を開け、癖のある金髪をした少女が姿をのぞかせる。
「あ、いたいた! 探したよー、職員室で待ってるはずがいないんだもん」
「あ......そうだよね、ごめんなさい。男の先生にここで休んでろって言われたの。でもミオの方こそ──」
ネイトたち三人が発つのを見送って、それから。
登校するクラスメイトにクルーエルのことを伝えに行ってくる。そう残してミオが一年生校舎へと向かって、まだ一時間ほどしかたってない。
「うん、みんなには伝えたいこと伝えたの。だから一度ヘレンちゃんのとこに戻ろうかなって。それで探してたの」
テーブルの向かい側に腰かける彼女。
そんな友人の姿をヘレンはこっそりと凝視した。
......いつものミオ、だよね。
クルーエルが帰らないという知らせにあれほど苦しみ、受け答えもできないくらいボロボロだった。今は顔色も良くなって、口調も表情もいつもの彼女だ。
......本当に、こんな早く立ち直れたんだ。
〝ヘレンさんごめんなさい、ミオさんと二人きりにさせてもらっていいですか〟
女子寮で自分が去った後、ミオを励ましたのはネイトだった。
そういえば、クルーエルがネイトに好意を寄せているという話も最初はふしぎだった。
クルーエルと出会ったのは凱旋都市だけど、彼女が良い子で魅力的だというのは同性である自分にもすごく伝わってきた。彼女に好意を持つ男子生徒も大勢いるに違いない。けれどその中ですら、クルーエルはネイトを選んだ。
でも振り返ってみれば、ミオを立ち直らせたのも彼だ。それは教師にも自分にもできなかったこと。それに人見知りしがちなレフィスもそう、ネイトには心を開いてる節がある。
「......ネイトってすごいんだね」
「うん?」
「だってわたしより年下なのに、あんなにみんなから信頼されてる」
すると、ミオは返事より先ににっこりと笑んで。
「あはは。でもね、ネイト君も最初はひどかったんだよ。最初に会った時、ネイト君たら男子寮の場所がわからなくて道に迷ってたんだから。ほんとに困った顔してキョロキョロあたりを見回してね。おまけに夏なのに真っ黒い地味なローブ着ちゃって」
テーブルに頰杖をついていたミオが、そう言って小さく吹きだした。
懐かしい思い出を思いだすように。
「......そうなの?」
「そうだよ~。そして記念すべき登校一日目、みんなの前で名詠失敗しちゃって実験室がススだらけ。その日はずっとしょぼくれてたなあ。みんな声もかけづらそうだったよ」
「うそ......なんか、信じられないくらいね」
ミオが告げたこと、すぐには信じられなかった。
だって、それではネイトはいかにも普通の少年じゃないか。クルーエルが好意を寄せ、エイダやレフィスからも信頼されている彼のイメージとはかけ離れてる。
「あたしやエイダも、ネイト君の第一印象ってそんなに恰好いいもんじゃないよ。それはクルルも同じだと思う。普通、『あいつは頼りない奴だ』って思われちゃうと、なかなか払拭するの大変じゃない?......でもね、ネイト君は頑張ったの。もちろん本人に『名誉挽回してやるんだ!』なんて気持ち、これっぽっちもなさそうだったけどね」
どこか遠くを見つめたままミオが続ける。
まるで、古いアルバムを読み返すようなまなざしで。
「クルルが倒れた時、あたしにクルルを任せて一人で名詠生物と戦ったこととかさ。ケルベルクの病院に運ばれたクルルに会いたくて、学校飛び出したりね」
そう、ヘレンが知っているネイトはそっちなのだ。
競闘宮が正体不明の名詠生物で沸きかえった時、一人で何十という数の名詠生物を反唱してみせた時の彼。
ミオが言うように、ネイトだって最初から全てができたわけじゃない。そこに至るまで、あの少年はどれだけの積み重ねを要してきたのだろう。
「ところでさ、ヘレンちゃんもレフィス君についていきたかったんじゃないの?」
「え......ま、まあ少しだけ。でもわたしが行っても足手まといになりそうだし、それにうまく言えないけど──アイツ生き生きしてたから心配いらないかなって」
首の裏側がむずがゆい。
なんとも言えない恥ずかしさに耐えかねて、ヘレンはミオから視線をそらした。
「ジール名詠学舎に来てすぐのアイツは、あんなに活動的じゃなかったはずなの。ああ、人見知りしそうだって一目でわかるくらい。だけど今のアイツは......なんて言うのかな、ようやくネイトっていう気の合う男友達を見つけた感じ。それを邪魔したくないから」
「おぉっ、大人だね!」
「......からかわないの。ミオの方こそどうなのよ」
じろっと睨みつける。
対して、テーブルの向かいに座るミオはあっけらかんとした面持ちで。
「あたしは待ってるだけだよ。みんなと一緒に、クルルが帰ってくるのを信じるの」
「ならクラスの友達と一緒にいなくていいの? わたしのこと気にしてくれるのは嬉しいけど、みんなで一緒にお祈りするんでしょ」
すると金髪の友人は、ふと何かを考えるように視線を宙に泳がせて──
「キリエはお料理、サージェスは部屋掃除、先生は講義ノート作りに行ったとこだよ」
料理、部屋掃除、講義ノート? 全部てんでんバラバラだ。
「あれ......でも、それじゃあお祈りなんて──」
「うん、みんなバラバラ。でもそれでいいの。みんな一番自分らしい応援で、ネイト君にクルルにエイダ、レフィス君が戻ってくるのをお祈りするんだから」
みんながバラバラに違う応援。それってどういうことだろう。
首をかしげていると、ミオがとびきりの笑顔で教えてくれた。
「あのね、エイダと相部屋のサージェスって子はね、エイダが出かける前に支度で部屋散らかしていったからその掃除。戻ってきた時には疲れてるだろうし、エイダが戻ってすぐ寝られるように綺麗にしてあげるんだって」
「......もしかして、それがさっき言った部屋掃除?」
「ね? ちゃんとした応援でしょ」
楽しげなまなざしでミオが続ける。
「キリエって子は料理研究会なんだけど、クルルが好きなお菓子たくさん作ってあげるって、クラスの女の子何人かと調理室だよ。ケイト先生は、みんなが凱旋都市に行ってる間の講義ノート作ってるみたい」
「......クラスの男子は?」
「男子は教室の片づけと、みんなが戻ってきた時の打ち上げの準備。でも面白いんだよ、準備しながらね、『諸君、我々は、我らのクルーエルをいかにしてネイトから奪い返すべきか!』って真剣に討論してたんだから」
心から可笑しそうに、お腹に手をあててミオが笑む。
本当に楽しそうに口にする彼女の瞳、きらきらと輝くしずくがこぼれる。悲しいからじゃない。クルーエルが帰ってくることを心から信じているからこその涙なのだろう。
だからこそ、ヘレンはもう一度だけ聞きたかった。
「......ミオはどういう応援をするの」
「うーん。あたしは特にすごいことできないから、普通にお祈りするくらいかな」
応えた拍子にこぼれた涙。
それを指先でさっとぬぐい、ミオが天井をじっと見上げる。そんな彼女へと──
「あのね、わたしもそれできるかな」
「もっちろん! あたしだってそのつもりでヘレンちゃん探してたんだから!」
「......うん」
言葉にこそ出さなかったけれど、一番すごいのはきっと、目の前の女の子なんだろう。
だって彼女の呼びかけで、クラスのみんながこんなにも真剣に動くのだから。
そう、こんなに多くの人が待ってる。だから──
「ヘレンちゃん。どうしたの? ぼうっとしちゃって」
ふしぎそうにミオに見つめられ、ヘレンはそっとうなずいた。
「......ううん。でもわたしね、クルーエル帰ってくる気がする」
「もー、今さらそんな当たり前のこと言わないでってば!」
ぎゅっと握り拳を作ってみせ、そしてミオは、
「ネイト君はね、約束を守る男の子なんだから」
真奏 『新約の扉、汝ミクヴァへ挑む者』
1
『セラの塔』中位層──
極彩色に輝く石段を上った先にある、灰褐色の平原。
草木は一本として生えず、ただ砂と石と泥が混ざって固まっただけの硬い地盤。見渡すかぎり広がる平原は終わりが見えず、ただ一つ、さらに上部へと続く石段が見えるだけ。
乾いた地表を風が撫で、砂嵐としてたたきつける。
ひゅぅと響く甲高い突風に混じって、
──『Isa』──
短く、余韻も残さず拡がる声。
地面にしゃがみこむ体勢で、レフィスが触れたのは地面に積もった灰だった。テシエラの花粉を流した灰燼の風、それが降り積もったものだ。
「飛べ!」
彼の指示そのままにエイダは地を蹴って上空へ。
同時に、灰褐色の大地が銀色に輝いた。
ミシッ。
結晶が凝固するのにも似た大地の悲鳴をともない、鋭利な灰色の岩が地盤の下から現れた。平らな地面から草木のように浮かびあがる灰色の巨岩。跳躍が遅れていれば灰色の岩に閉じこめられていたか、立ち位置によっては足を潰されていただろう。
「おいアルヴィル、そっちは平気か」
足下から伸びる鋭利な巨岩。浮遊する黄色の小竜の首に摑まり、上空から見下ろすテシエラが愉しげに告げる先で。
「平気じゃねえよ! ったく、いきなり岩が地面から浮かびあがってくるなんてな」
言葉と対照的に、突き出た岩へ飛び移るアルヴィルに動揺はない。むしろ状況を楽しんでいる余裕の笑みすらある。
──さてと。
比較的平らな岩盤に着地し、エイダは周囲を見回した。自分の背後の岩、その物陰に隠れるかたちでレフィス。相手二人はというと、自分から十メートルほど離れた岩の上にアルヴィル。その真上には黄色の小竜に摑まった黄の大特異点。
──ここまでは計画どおり。
あとは黄の大特異点が黄色の小竜から降りてくれば......
「姐さん、自分だけ空中に逃げるのずるくね?」
「そう言うな、お前のように飛んだり跳ねたりは面倒なんだ。──坊や、周囲を自分の名詠色に染めるのは結構だが、じゃっかん冗長すぎやしないか? 私が言えたものではないが、こんな小細工の経験などないだろうに」
黄色の小竜に摑まっていた手を離し、テシエラがアルヴィルの隣の岩に着地する。それにともない、役目を終えた黄の名詠生物が消えていく。
──いいよ、いつでもやりな。
鎗先で足下の岩を打つ。それが自分の合図。
──『Isa』──
レフィスの隠れた岩陰からこぼれる名詠光。
銀色にきらめく光の粒がふわりと浮き上がって............それだけだった。光が虚空に溶ける。名詠門が砕ける音が岩の隙間にこだまし、それすらほどけるように消えてしまってなお、灰色の名詠生物は現れなかった。
「────なんだ?」
テシエラの表情に走ったのは余裕でなく、何かを警戒した張りつめた覚悟。
岩陰に隠れて姿を現さないレフィス。そして名詠光だけを残して何も生まれない名詠。
通常なら名詠式の失敗と判断する。だが、灰色名詠の青年がこの土壇場でこんな初歩的なミスを犯すはずがない。誰よりテシエラ本人がそれを知っているからこそ、この不可思議な状況に合理的な判断が下せない。
そこから生まれるものは一抹の不安。
灰色の巨岩に囲まれた空間はしんと静まり、やがて──
カリッ
何かが岩を引っ搔くかすかな音、最も早くそれに反応したのはアルヴィルだった。
「姐さん動くな!」
銀閃。
テシエラが反応するのも待たず、疾風さながらの刃が彼女の足をかすめて過ぎる。アルヴィルの祓戈が薙ぎ払った岩肌。そこに、岩肌とまるで同色の何かがいた。
「──なに」
テシエラが目を見開く先に、アルヴィルの鎗に払われて宙に吹き飛んだ名詠生物。
それは巨岩の岩肌に擬態した石竜子だった。
「石竜子か!」
テシエラ、アルヴィルの表情に走る緊張感。
灰色名詠の詠い手たるミシュダルが、もっとも得意とする名詠生物だ。その爪に触れた箇所を、人、名詠生物問わず石化させる能力を持つ。
「周囲を巨岩で取り囲んだのは──そうか、最初から石竜子を擬態させるつもりで。悪くないな、面白い」
愉しげに辺りを見回すテシエラの周囲、それを取り囲む石竜子はすでに十体近い。
「姐さん感心してる場合じゃねえんじゃねえの」
響きわたる鎗の咆吼。と同時、テシエラの足下にまで迫っていた二体が断末魔を上げて還っていく。瘦軀の祓名民がふるう鎗の先端、組みこまれている白の宝石が輝いていた。
「アルヴィル、あんたさすがに知ってるわけね」
「灰色名詠には『Arzus』で反唱ってことか? なら姐さんからとっくにな」
さすがに強い。
次から次へと岩陰から現れる石竜子。それをこともなげに、目を瞠る精密さでアルヴィルの祓戈が弾いていく。石竜子が跳躍する際に発するわずかな足音、それを察知してからアルヴィルが反応する速度は十分の一秒を優に切る。だが真に恐るべきは、それを可能にするだけの集中力。
──まあここまでは予想の内だけどね。
もっとも巨大な岩の上で息を溜め、エイダはじっと時を待った。
「ていうか姐さんも手伝えっての。俺ばっか働いてねえか」
「............」
「ん、姐さん?」
「......違う。こいつらは!」
宙に吹き飛んだ石竜子を食い入るように見つめる黄の大特異点。
そして彼女は唐突に叫んだ。
「アルヴィル、こいつらは石化能力の石竜子じゃない! ただ灰色をしてるトカゲだ!」
「はぁ?」
「本命はもっと別の......」
──『Isa』──
地が轟いた。
灰色の小型精命、王に傅く子。
巨岩を人のかたちに接合した巨岩像が、棒立ちになる二人へと襲いかかる。
「こいつか」
テシエラの手に転がる金貨が輝きを増した。
──『Surisuz』──
黄の小型精命。
大特異点によって生まれたものは、エイダが知る通常のサイズを二回りは上回っていた。ただでさえ強力な電撃を発する名詠生物、ならばその威力もどれだけのものなのか。
青白く輝く触手が巨岩像へと伸びる。
ジッ、耳障りな音をざわつかせる触手が巨岩像を撃ち......その一撃だけで巨岩像の動きが止まった。
「坊や、本命にしては情けないな。てっきりお前の真精くらい来るかと思ったが」
「あいにくここからだ」
動きを止めた巨岩像が巨岩の塊さながらに倒れていく。
倒れる方向は、今まさに現れた黄の小型精命。
「ちっ!」
テシエラが後方に跳躍。だが黄の小型精命は岩の雪崩に呑みこまれた。
────今だ!
「動けっ!」
エイダの怒号に応え、今まで乗っていた巨岩が立ちあがった。
「まさか、こいつまで岩に擬態させていたのか!」
手元の触媒も名詠生物も尽きたテシエラが叫ぶ。
そう。最初にレフィスが名詠した一体がこの王に傅く子。それを巨岩に擬態させる。相手の名詠が尽きるまで、エイダはその上で待機していたというわけだ。
無防備なテシエラに王に傅く子がかぶさるように迫り、エイダはその肩先からはるか上空まで跳んだ。祓戈を頭上へかかげ、
「──アルヴィルッッッ!」
はるかな高度から落下する勢いそのままに、鎗を全力で振り下ろした。







ケルベルク研究所保養区、療養施設。
「............」
カーテンの隙間をぬって差しこむ木漏れ日。まぶたを灼くまぶしい日射しに堪えきれず、ファウマはベッドの上で上半身を起こした。
身体中が激しく痛む。筋肉の痛みではない。きっと体中の血管という血管がボロボロになってしまった後遺症なのだろう。治るかどうかもわからない。
包帯の途切れた手首から先をまじまじと見つめる。
日焼けとは無縁の、まさに病的に白い肌。日にかざせば透けて血管が見えるほどだ。
「......でも、わたし生きてるんだ」
手首に指先をふれる、確かに感じる小さな小さな脈拍。
決闘舞台に上がった時は自分の命なんて惜しくないと思ってた。
なのに、わたしは......生きてることにほっとしてるの?
こんな世界でも──シャオが変えたくてたまらない世界でも──わたしは、ここで生きていることにほっとしてるの?
「シャオ......」
自分の友人でもある名詠士は、どうしているだろうか。
そしてそれに付きそっているアルヴィルとテシエラはどうしているだろうか。
『セラの塔』。
そこは世界のあらゆる音という音が集まる場所だという。
......上りたかったな。そして聴きたかった。世界中の全ての声を。
心残りと言えばそれくらい。けれど、それを口にはできない。わたしはそこにたどり着く前に力つきたのだから。そしてそこに上る者は、たどり着けなかった者の全てを背負って上らなくてはならない。
そう、だからシャオは真なる敗者の王なのだ。シャオはそれだけの優しさと、強さと、そして願いを持っている。
けれど同時に──きっと今、シャオを止めようと塔を上っている者もまた、同様の優しさと強さと、そして願いを持っている。
「ネイトか......」
冬のフェルン、自分の城の謁見室に現れた夜色の少年。
あの時わたしは、ネイトという人物そのものではなく、カインツが連れてきた少年という意味で興味を持っていた。
〝ねえ、そこのあなた。あなたの名前は?〟
〝ネイトっていいます。ネイト・イェレミーアスです〟
〝そう。年齢は?〟
〝十三歳です〟
〝ネイト、あなたの好きな色を教えて。あと、あなたの好きな言葉も〟
〝好きな色? 言葉もですか? え、えっと......色は......なんだろ〟
〝それからあなたの好きな場所も教えて。好きな花は? 好きな草は? 好きな動物は? 好きな食べ物は? 好きな歌は? 好きな本は? 好きな季節は?〟
〝え、ちょっ、ちょっと待ってください!......ごめんなさい、あんまり一度にたくさん言われても答えきれません〟
〝答えられないものは答えなくていいわ。それならネイト、あなた好きな人はいる?〟
最後の問いにだけ、彼ははっきりと答えた覚えがある。
「......シャオ、ネイト。あなたたち何から何まで反対なのね」
きっと避けられない。
二つの願いがぶつかって、片方は消えるしかない。
どちらも譲れない願いだからこそ、融和するということはありえない。それを知っているからこそアルヴィルとテシエラがついている。
「本当は勝つことを応援するべきなんだろうけど............シャオ、アルヴィル、テシエラ......わたしね、あなたたちが無事でいてくれることが一番嬉しい」
そしてそう願う者は、きっとネイトの側にもいることだろう。
なんて、なんて深い溝。見るも痛々しい傷痕のごとき、断絶された人の絆。全ての終わったその後も、この絆はやはり傷ついたままなのか。
今はそれだけが────







ギンッ!──鎗の刃先が何かに食いこむ感触があった。
「......悪くねえな」
金属の重なる硬い音。それに続くのはアルヴィルの声だった。
「体重とか力とかの問題じゃねえ。気持ちと身体がきちんと嚙み合ってねえとコレは打てねえ」
強靭な金属で加工された自分の鎗を見つめる瘦軀の男。その柄の中心近くまでエイダの鎗が食いこんでいた。エイダ自身、惜しみなくふるった全力の一撃だ。切断にこそいたらなかったが、アルヴィルの鎗の強度は格段に落ちる。
「......半分じゃ自慢にならないけどね」
後方の岩に着地し、エイダは痺れの残る右手を見つめた。
全力の一撃。アルヴィルの鎗を真ん中から切断する直前まで追いこんだ。
けれど。
──逆に言えば、そこまで追いこんでいながら、アルヴィルの鎗は折れなかった。
まるで彼の心の強さを暗示しているかのように。
「で、そっちは? 姐さん」
アルヴィルが振り返るのに重なるタイミングで、地響きを立てて王に傅く子が崩れていく。灰色の砂となって消えていく名詠生物のその先で。
「小手先の小細工と高をくくるのは無粋だったな。なかなかどうして、上々だ」
テシエラ、そして彼女の周囲を守るように浮遊する召電妖精。
二体目の王に傅く子を見てから名詠できる時間はなかった。この女もまた、巨岩の物陰に自分の配下を潜ませていたに違いない。
「で、結論として──二対二では面倒くさい」
それがこの女なりの称賛。そうエイダが悟ったのは、先の睡眠花さながらの危険な笑みをテシエラが浮かべていたからだ。
今まではしょせん前座。剣呑な言葉遣いがそう伝えてくる。
「アルヴィル、割れ」
「あいよ。きっちり半分だっけ?」
「これだけ広ければお互い半分でいいだろう。なんなら六、四でお前に六をくれてやる」
「んじゃ半分ね」
──何を話してる?
エイダ、そしてレフィスが疑念を口にしようとした刹那。
「はっ!」
裂帛の気勢をあげ、アルヴィルが自らの足下の地表を鎗で抉った。
一直線、地表に走る傷痕はちょうどアルヴィルとレフィスを隔てる位置。そしてその傷痕を延長すれば、まさに自分とレフィスを分断する線になる。
......まさか。
ふと思考をかすめた予感。
アルヴィルの行動、そしてテシエラの「割れ」という合図。けれど、いくら何でもそんなことが起きるだなんて──
ピシリッ
聞き慣れた音。それは名詠生物が反唱で還っていく際の、崩壊音だった。灰褐色の地表に光の線が走り、俄然、地響きと共に地盤が震えだす。
「まさか、本当に!?」
エイダの見ているその前で地面が砕け、灰褐色の平原が真っ二つに裂かれていく。それも卵の殻に亀裂が入るようにあっさりと。
きっかけは......アルヴィルの鎗の一撃?
「エイダ!」
突然の名指しに我に返った。二つに砕けたうちの一つ──レフィスとテシエラが乗った側の地盤が、自分とアルヴィルの立つ地盤からみるみるうちに離れていく。
「レフィス!」
彼に向かって手を伸ばすことはしなかった。距離を目測するまでもない、既に跳躍で追いつける隔たりではなかったからだ。
「おー、我ながら大したもんだってか」
離れゆく地盤を平然と眺め、アルヴィルが口笛まで吹いてみせる。
「......今のどうやったんだ」
「種明かししちまうとな、単に地面の一部を反唱しただけだ」
地表を鎗の柄でつつく青年。
「この塔自体が、言っちまえば調律者の名詠式で生まれた存在。この平原も含めてな。そんなもんだから、この塔はミクヴァ鱗片同様に反唱を嫌う。だから地面を反唱で引っ搔いてやれば拒絶反応を起こすわけ。ってのがリーダーの説明な」
反唱した箇所が砕け、この上部へ続く階段に近づくことを拒む。実際、ネイトが上っていった階段はレフィスたち側の地盤だ。
「......ふーん」
「なんだおい、せっかく説明してやったのに反応弱いな」
「うん、あんたがすごいわけじゃないってわかって安心したよ。本当に鎗で地面を割りましたなんて言われたら、さすがにどうしようかって思ってたんだ」
大げさに肩をすくめてみせ、エイダは自分の足下を祓戈の柄で叩いた。
「つまんねー反応だな。相方と分断されて慌てるかと思ったんだけどな」
「あたしが? どうして?」
「だってお前」
アルヴィルが続けるその前に。
「あたしもレフィスも、二対二で押しきれるなんてハナから思っちゃいないよ。さっきまではお互い様子見だろ。あたしはね、あんたと二人っきりで話したくてここに来たの」
「へえ? じゃあなんで最初から一対一でやろうって言わなかったんだ」
「ばーか」
にやりと、エイダは唇の端をつりあげた。
切なさともどかしさ、そしてこの身ごと焦がすような哀惜を胸裏に隠して。
「二人きりのデートに行きたいって年下の女から言わせる気?」
レフィスと事前にこれだけは決めていた。
互いに惨敗を喫した身。ならば次は絶対、向こうから折れさせる。二対二はこちらの不利、一対一に移ろう──相手からそう言わせたかったのだ。
「はっ! そりゃまた乙女心なことで」
「でもね............あたしは、あんたとそういう関係になってもいいかなって思ってた」
瞬間。
おどけたままだったアルヴィルの表情に、何かが走った。
それに気づかぬふりをしたまま──
「たとえばだけど......自分からそういう風に声をかけてもよかったって思ってる」
大きく息を吐きだし、エイダは自分の足下を見つめた。
小刻みにふるえる自分の足。......初めてだった。今まで培ってきたどんな勇気とも違う勇気。それを振り絞ることが、どれだけ胸を痛ませるのかを感じたのは。
「──考えられる時間なんて一日きりだったけど、それでもあたしなりに死に物狂いで考えたんだ。あんたがあたしに言ったことへの答え」
〝どちらか一個選べ。祓名民か、名詠学校かをな〟
〝自分がどうしたいのか腹据えて考えてみろ、答えがでない限り俺には勝てねえよ〟
「......あたし、あんたに憧れてたんだと思う。周りの人間の中であんただけは自由で、あたしの馬鹿につきあってくれてた」
言葉を詰まらせてしまいそうになるたび、頰の内側を嚙んで堪えた。
指先が震えてしまいそうになるたび、力いっぱい鎗を握りしめた。
「全部、過去形だな」
「............そうだよ。それは全部、昔のあたしだもん」
決別の言葉。
どれだけ、その一言を告げるのが辛かっただろう。
「──まずまずってとこか」
顔をあげた。
アルヴィルの表情は変わらない。けれどその口調は今までにない優しさを含んでいた。懐かしい......憧れる彼としての口調。
「そこまではいい。だが肝心のことを言ってないぜ?」
「ああ、そうだね」
口元を引きしめる。
余韻すら残さぬ鋭利な口調でエイダは告げた。
「あたしは、名詠学校の生徒としてクルーエルを助けたい」
「そうか」
「けど、あんたと戦うのは祓名民としてだ」
「......それじゃあこの前とどう違うんだ?」
「本当にわからない? あたしの心構えが違うんだ」
一瞬、アルヴィルが狐につままれたような面持ちで口を閉じる。ここまで正面から聞きかえされることは予想していなかったのだろう。
「ああ、わからねえな」
「あたしは............あんたに、あたしのこと認めてもらいたいんだよ!」
がむしゃらに背伸びして彼に対抗しようとしていた競闘宮の時。
それとは違う。
今は、何一つ飾らない裸の自分を見せてやりたかった。
「あんたがいてくれたから、あたしは今までやってこれた。それを見てもらいたいんだ、親父でもルフ爺でもなく────大好きだったあんたに!」
張り叫んだわけでもない。
絶叫したわけでもない。
けれどその声はいつまでも、残響として二人だけの平原にこだました。
「だから、それがあんたとあたしの勝負だ」
「そんな一方的な勝負、俺に乗れってか」
「女に誘われて断るほど落ちぶれちゃいないだろ?」
きょとんとした表情の後、彼が小さく吹きだした。
「はっ、ばーか。お子様のくせに一丁前に女ときたか。......はっ、はは............面白えなおい! クラウスの旦那がここにいたら目を丸くするぜ」
「いい女になっただろ?」
「確かに、今のお前は悪くねぇ。俺の知ってる、祓名民だけのカチコチなお前じゃねえからな。それが名詠学校で身につけた度量ってんなら上々だ」
手首の回しだけで鎗をふるい、アルヴィルが天に向けていた鎗先を水平にもどす。
「ようやくできたじゃねえか、心構えはたしかに一人前、もうガキ扱いはしねぇよ」
アルヴィルの表情は今までにないほど穏やかで、そして──
一人前。
そう言ってくれたのは、これが初めてだった。
「あとはその気迫にふさわしい重みが、きちんと鎗に乗ってるかどうかだな」
「そうさ。あたしはそれを見せに来たんだ」
姿勢を低く、足先に体重をかける。
鎗を握る指先にこめた力は軽く、視線はただ一人──目の前の男だけを見つめ、
「行くよアルヴィル、これが最後だ」
エイダは走った。







地表を覆う巨岩はとうに消え、何一つない平原が広がるばかり。
「ここに来る前、ミシュダルと会った」
地に残る灰を風がさらっていく。
髪に付着したそれを手で払いながら、レフィスはテシエラへと告げた。
「灰者の王の継承か」
「そんな恰好いいもんじゃない。俺はただ、頭ごなしに怒鳴られただけだ......そして言い返せなかった。あいつが、俺に対して本気で怒ってくれてたから」
自らに対する自嘲と、他者への嘲笑。
あの男がそれ以外の感情を見せたのは初めてだった。
「あんたの言うとおりだった。俺は今でもミシュダルに辿りつけてなかった。灰色名詠にこだわる理由の重みが違うんだなって心の底から思った」
「ふむ。だとすれば坊やは何のためにここにいて、灰色名詠で戦っているのかな」
「......今はもう、別にあんたと師の関係を知りたいとも思わない。だけど──」
今一度、硬い地表を踏みしめる。
「やり残してたんだ。俺は、ヨシュアと違う方法でヨシュアを超えなくちゃだめなんだ」
「ならば見せてみろ」
黄砂色のマフラーを首からだらりと垂らすテシエラ。固く握られた右手に触媒を隠していることは確実だが、ここからでは何を持っているかわからない。
......けど、マフラーに触れていないということは、雷鳥はまだ名詠しないのか?
テシエラの真精は、低級の名詠生物である擬光虫から連携して名詠される。とはいえ、今回もあのマフラーを触媒に使うと断定するのはまだ危険。
──とにかく有利な状況に持ちこまないと。
地にかがみ、灰褐色の地表に手で触れる。
──『Isa』──
地表に生まれる銀色の円。
土が盛り上がり、灰色の巨岩が浮かびあがっていく。草木一本として生えていない平原が、またたく間に巨岩の転がる岩石地帯へと姿を変える。
「お、さっきの面倒な地形か」
地面から盛り上がる岩の合間にテシエラが身を隠す。
灰色の岩石に覆われた周囲。周囲を自分の名詠色に塗りつぶすことの利点は大きい。岩肌に擬態した石竜子、岩そのものに擬態する王に傅く子など。展開を有利にすることは二対二の前哨戦でも証明済みだ。
「しかし残念。お姉さんも似たような名詠を持っているんだな」
にわかに、テシエラが固く握っていた手をゆるめた。開かれた指の隙間から、さらさらとこぼれる金色の粒子。
「砂金?」
「ハズレ。光が当たっているからそう見えるが......これは私の故郷の砂だよ」
黄砂色のマフラーと同色の黄砂。
浮き上がった灰色の巨岩、その上にテシエラの砂が少しずつ積もっていく。
──『Surisuz』──
瞬間、地表に落ちた砂が爆発したように膨れあがった。
「......なんだ?」
岩肌の上に砂が積もり、それが加速度的に量を増していくのだ。
最初はぱらぱらと降る程度の砂量。それがみるみる間に岩の下部を覆い、上部までを呑みこみ、岩が砂に埋まっていく。豪雪地帯に雪が何メートルも積もる光景さながらに。
「まさか──」
「そう。坊やの巨岩を私の砂が塗り替えているのさ。灰色の世界を黄色にな」
灰色の巨岩を埋めつくす黄砂。
「っ......させるかっ!」
妨害のための名詠を脳裏に浮かべて触媒を取りだし──
直後、絡みつく何かに足をとられ、レフィスはその場に膝をついた。
それは足首までを埋めた砂。
「......もうここまで」
目を疑った。自分が立っているのは最も大きな岩だ。高さだけで成人男性の身長ほどはある。この高さまで砂に埋もれてしまうなんて。
そのわずかな逡巡の間に、周囲は一転して黄砂に埋めつくされていた。
「足下を見ないとすくわれる。文字通りステキな教訓になったじゃないか」
ざぁっ......
テシエラがその砂を手ですくってみせる。その足下に巨岩はなく、見渡す限り黄色の砂に埋めつくされていた。灰色の巨岩は砂の下。もはや影もかたちもない。
「とんでもない力業だな」
自分たちの周囲およそ二十メートルほどか。砂地の感触を確かめるため、一度大きく踏みこんだ。ざっ──乾いた音とともにつま先が半分ほどめりこんだ。
......これじゃ走るのも難しいか。
力をこめるほど沈みこんでいく。まるで砂漠で決闘しているような心境だ。
「懐かしいな、私とヨシュアで訪れたのも砂漠だった。何年も前のことだがな」
やおら屈みこみ、テシエラが砂漠の表面を手でそっと愛撫する。
「............」
「どうした? 気にならないのか?」
「お前に勝てば教えてくれるんだろ。だから今は訊かない」
「わかってきたじゃないか」
その名詠士の笑みが深まり、同時に砂をさする手が止まる。
砂の表面から立ち上るのは名詠門の輝き。黄金色の光の渦が巻きあがり、歪み一つない真円を描く。
──『Surisuz』──
乾いた音をしたがえて名詠門が砕ける。
何が出てくる? 考えられるのは黄砂に擬態する名詠生物だ。わずかな動きでも見落とさないように名詠門の痕を凝視して──
「......何も出てこない?」
「砂に擬態した名詠生物が出てくると思ったか? あいにくと、そのままお前の真似事をするのもつまらないだろ」
砂の表面になお手を触れた姿勢で、黄の名詠士は。
「私が名詠したのは砂に擬態するのではなく、砂の中に潜る名詠生物だ」
砂の中に潜る。
つまり敵駒はすでに名詠されていて砂の中、だとすれば浮上する場所は......
──やばいっ!
駆けめぐる悪寒に全身から汗が噴きだした。足をとられることを覚悟して砂を蹴る。体勢を崩しながらも後方へ跳び下がった。
ざぁぁぁっ!
一瞬前まで立っていた足場が盛り上がり、砂と同色の蛇が飛びだした。
──『Isa』──
黄色の蛇と灰色の蛇がからまりあい、互いに牙を胴体に突き立てた姿で動きを止める。
その二体の蛇を押しのけ、次に砂中から現れたのは硫黄獣。
「......こいつもか!」
硫黄の毒息を撒き散らす名詠生物。......なるほど。この足場の悪い状況、毒息の射程から逃げることそのものが難しい。まさに砂漠の決闘に適した能力だ。
灰燼の詰まったフラスコを地に叩きつける。
「行け!」
ひび割れた容器から巻きあがる灰を摑み、レフィスは眼前の獅子へと投げつけた。
灰が銀色に輝き、そこから生まれる名詠生物。
巨岩で構成された岩人形──王に傅く子。自分の最も得意とする名詠であり、灰色名詠で第二音階名詠に位置する強力な名詠生物だ。
硫黄獣が息を吐きだす。
周囲の砂が巻きあがるその内側、黄色の気体が獅子を中心に拡がっていく。
だが。
「押さえつけろ」
レフィスの命そのままに王に傅く子が砂漠を蹂躙する。灰と砂の入り混じった粉塵を蹴り上げ、硫黄に包まれた獅子をその巨体で押しつける。
「なるほど、硫黄獣の毒息はお前の巨岩像には効果が薄いと。これは私の方が名詠を誤ったかな」
微苦笑をうかべ溜息をつく彼女。
「ならどうする」
右手に銀貨を握り、テシエラを睨みつける。
まだだ。まだこの女は全力を出してない。
「そうだな、そろそろいこうか」
つと、その目の色が如実に変わった。剣のように鋭いという表現は不的確。それは砂中に潜んで牙を隠す獣の眼光。
「............」
すぅっ。
テシエラが無言で右手を振り上げるその背後、膨大な量の砂が吹き上がった。
盛り上がる砂。
先の大蛇や硫黄獣の比ではない。あれを子供が作る砂山だとすれば、これは砂漠の巨大な丘陵そのものだ。
「Geek【狂者】──黄色名詠の巨岩像だ。坊やの岩と違ってこっちは砂だがな」
砂という砂をふるわせる雄叫びが響く。
雄叫びの主は、砂そのものが凝固した名詠生物だった。
テシエラが子供に見えるほどの巨体。特異個体として名詠された砂の巨人、大きさは四メートル以上。王に傅く子をさらに一回り上回る体格だ。
「坊や、まだ行くぞ?」
テシエラの両手からこぼれるのは黄色の花びらだ。
ひらひらと不規則な軌道で舞い降りる花弁、その一つ一つが地に落ちる前に光となり、小さな輝きの円環を形づくる。
──『Surisuz』──
ヂヂヂと不快な音を発する黄色の発光体。それが五つ。
召電妖精、競闘宮でも彼女が使用した名詠生物だ。周囲の目標物に手当たりしだい電流を放射する好戦的な名詠生物。黄の小型精命より威力は落ちるが、複数体の名詠がしやすいことが強みだ。
五体の召電妖精、その後ろに黄色の巨岩像。
「物量で押す気か」
「それが黄色名詠の基本だからな。なにせこの色、強力なものほど鈍重で扱いづらい」
背後の砂巨人を決まり悪そうに示すテシエラ。
だがたしかにそうなのだ。硫黄獣、黄の小型精命に代表されるように、黄色の名詠生物は『自分を中心に攻撃を撒き散らす』型が多い。総じて動きが鈍いのだ。
......それを逆手に取れる名詠なら。
「たぶんお前は、ヨシュアの名詠を全部知ってるんだろ。だからいつも俺の名詠を先読みして、それを試すような名詠ばかりだ」
「ばれたか」
舌を出しておどける彼女の前で、レフィスは銀貨を握りしめた。
「だから俺が使うのはミシュダルの名詠式だ。これは絶対お前も知らない。ミシュダルだって一度も決闘で使わなかったはずだからな」
「ほう?」
──『Isa』──
光の粒が螺旋状の環を描き、その中心に銀色の影が現れる。
人のかたちをした銀色の何かがそこにいた。
体長二メートルほど。細長い金属針を合わせ人型をなしたような形状だ。両手に相当する部位からは、直接銀色の剣が生えている。名詠式で詠びだされる既存の名詠種とは違う、灰色の名詠生物たちとも風を異にする外観。
「それはミシュダルの王剣者? いや......違う? 周囲の剣がない?」
ミシュダルの真精に酷似した名詠生物。
だがその身体は真精よりわずかに細く、両手の剣も細身の刀身。何より王剣者の中心を浮遊する守護剣たちがいない。
「RehEffectis【双剣者】。王剣者の代替品みたいな小型精命だ。王剣者を名詠できるミシュダルには必要ないからミシュダルは使わなかったけど、こいつは」
すっ。浮遊する召電妖精、そしてその先にいる狂者を指し示す。
「──灰色名詠でも最速の一体だ」
その瞬間。
黄砂色の地平線を、銀の閃光が駆けぬけた。
砂に残るのはわずかな一本の線。
その小型精命は走らない。まるで氷上を滑るように砂上を滑走、一瞬で距離を詰める。
「......なるほど」
テシエラの声に混じる狼狽。
放電のざわめきと共に動きだす召電妖精。しかしその雷撃は、残像を残して滑走する双剣者の前にことごとく空を切った。特異個体の攻撃とて、威力こそ恐ろしいが当たらなければ意味がない。特に特異個体の多くは体格も通常より大きい。動きも鈍る。大特異点の唯一の弱点だ。
銀閃──銀色の名詠生物が疾走した背後、打ち払われ地に落ちる召電妖精たち。残るはテシエラの横に控える砂巨人のみ。
「突破」
「迎撃」
両手の剣をかざす双剣者。こぶしを振り上げる狂者。
両者が接触した瞬間、銀色に輝く砂が宙を舞った。
銀色の煙を上げて還っていく双剣者。身体を構成する砂が崩れ、やはり黄煙を上げて消滅する狂者。
「相討ちか」
消えていく二体を見据え、レフィスは安堵の息をついた。一体でテシエラの名詠生物を六体。相手の弱点を突いたとはいえ、奇跡にも近い数字と言える。
「............」
その一方、テシエラは無言で頭上を眺めたまま。
──なんだ、さっきから何かがおかしい?
レフィスが脳裏の疑念を確信したのはその時だった。
普段のこの女なら、「大したもんだよ坊や」とでも言ってくるはず。それに時折、名詠と名詠の間がひどく時間が空くのも妙だ。本気で物量で勝負する気なら、この女はもっと桁違いの波状攻撃ができるはず。
「............ふぅ」
やがて、長い長い吐息が彼女の口をついてでた。
それは隠しきれぬ疲労の吐息。
「テシエラ、あんた──」
〝ああ、別にこの塔で何かが襲ってくるとかはないらしいんでな。それに姐さんもあんま体調良くないし、これ以上身体に負担かけるよりここで待ってる方が楽ってね〟
〝おい姐さん? 自分の身体のこと、まだあの兄ちゃんに言っ──〟
思いあたるのはアルヴィルという祓名民の言葉。
「あんたまさか──」
「......ん? お前まさか、私が持病か何か持っているなどと勘違いしてないか」
頭上を見上げる姿勢から、思いだしたように彼女が視線を戻した。
「あれだけ無駄に長い階段上ってくれば誰だって疲れるさ。あの体力バカと一緒にされては困るな」
首元のマフラーの端を手に搦めとる彼女。
後罪に縛りつけられた触媒が少しずつ、少しずつ光を増していく。
──アレを詠ぶ気だ。
黄の大特異点が従える、自身最強の真精。
「ただ、さすがに時間を消費したのは事実だ。お互いここらで決めようじゃないか。最強の駒同士での勝負。勝った方が仲間のもとへ行ける。単純明快なルールだ」
「......そうだな」
ここで終わりじゃない。ネイトはきっと、もっともっと大きな存在と戦っている。だから負けられない。この先へ進むためにも。
地に残った一握の灰をその手に摑み、レフィスもまた〈讃来歌〉を口ずさんだ。
願うものはただ一つ、灰色名詠の主たる──







二つに切り裂かれた大地。
灰褐色の平原。風すらやんだ静寂で、終わらぬ剣戟だけが嘶きを上げていた。
ギンッ!
砂埃に混じる澄んだ衝突音。余韻が消えぬうちに二度、三度。
「はっ!」
足下すれすれを薙ぐアルヴィルの一撃。それをかわし、エイダは上空から突き降ろすかたちで鎗を突き立てた。
身体をねじってかわす相手。それを追って距離を詰める。続けざまに手首を返して追い打ちの横薙ぎ。さらに斜め下から変則的に振り上げる。
ギッ──エイダの刃の峰を叩いたのは、アルヴィルの鎗の柄だ。
「ほらよ、返すぜ」
刃の流れそのままに受け流し、柄を顎先目がけて振り上げる彼の一撃。
「ちっ......」
首の位置をずらしてエイダが回避。その一瞬、視界がブレた刹那を逃さずアルヴィルが鎗をぐるんと一回転。その鎗先が胸元に迫る。
避ける? 鎗で防ぐ?
否。
そのいずれをも可能性から切り離し、エイダは前へと飛びだした。
──ざくっ。
胸元で何かが擦れた感覚。痛覚か触覚か、あるいは聴覚か。脳に送られる信号を無視し、鎗の先端を突き返した。
「なっ......?」
よもや反撃が来るとは予想していなかったのだろう。アルヴィルがまともに顔色を変えて飛び退いた。
距離およそ五メートル。
いつでも詰められる距離、だがそれは同時に、相手の領域に飛びこむことを意味する。
互いに踏みこむ呼吸を見計らいつつ──
「............」
エイダは自分の胸元をちらりと確認し、そして苦笑した。
「なあアルヴィル、ずいぶんなトコ狙ってくれるじゃん? これわざとか?」
制服の胸元。
リボンタイと制服が綺麗に横一線に裂かれ、その下、胸元の肌がわずかだがあらわになっていた。生地の切れ目からも、胸の小さなふくらみがかすかにのぞいている。
「やらしい奴」
「ばーか。そういうセリフはな、もっと色気つけてから考えな」
そのくせ、表情はどこかきまり悪そうな彼の苦笑。
......そういう時だけはごまかせない不器用さんだよね、あんたは。
「なんだおい、その気持ち悪い笑い」
「いや──なんか正々堂々じゃないなって思っただけさ」
「へえ、正々堂々じゃないってか。そりゃどういうこった?」
アルヴィルに気を悪くした様子はない。むしろその逆、好奇心すら感じさせる表情でその意味を訊いていた。
「そうさ。だってこの戦いの理由だって、喋ってるのはあたしだけ。あんたは何も喋ってない。隠しっぱなしだ」
自分の裸の心を全て見せた。
けれどアルヴィルはまだ、自身のことは何一つ語ってない。
「アルヴィルは、あたしのことどう思ってる?」
「さあねえ、今はとりあえず敵だろ」
「だとしたら──あんたはどうして、いつまでもその首飾りをしてるんだ」
左手に鎗を持ち替え、エイダは右手でアルヴィルの胸元を指さした。
黒獣皮のベスト、その上にゆれる銀色の首飾り。
かつての自分からの贈り物。
「そういやお前はしてないな。どうした?」
「少し前に壊れた。あたしじゃ直せないし、今は箱の中に置いてある」
「そうかい」
短く呟く彼。その表情に揺らぎは見えない。──今はまだ。
「それより、あんたはあたしの質問一個にもまともに答えられないの?」
自分のことを敵だと言いながら、自分の贈った首飾りをいつまでもつけている矛盾。
平原が、水を打ったように静まりかえる。
絡みつく互いの視線を受けとめるだけの時間が刻々と流れ──
「......そうだな。俺にもよくわからねえな」
隠しきれない彼の溜息。首をふり、アルヴィルが後ろ頭をかきむしった。
「やれやれ困ったな、そればっかは俺でも答えに迷うとこだわ」
「じゃあ、さっき言ったことは本当?」
「さっき?」
「うん」
怪訝そうな顔つきのアルヴィルの前で、エイダは笑った。
「今のあたしは悪くないって」
一瞬ぽかんとした表情で、けれど途中ではっと気づいたように顔を上げ──
「ああ、そういや言ったな。今のお前は悪かねぇ。それだけは本当だ」
彼の目の色は、懐かしさすら感じるほど穏やかだった。
「......ありがとう」
心に生まれた感情、エイダは隠そうとは思わなかった。
......ありがとう。
それだけわかれば十分だ。
「なんだ? 急にしおらしくなったな」
「そうじゃない。これで終わりにしようってこと」
ひゅん。唸りを上げて鎗を回し、左手から右手に持ち替える。
左手で切り裂かれた白のリボンタイをほどく。その下で胸元がのぞいてしまうが、それでいい。このリボンが必要なんだ。
「そのリボンを投げないってことは......何かを名詠するって腹か?」
「そうだよ。言っただろ、あんたに認めてもらいたいって。あたしは祓名民としても名詠学校の生徒としても、あんたに認めてもらいたい。だから」
リボンタイを握りしめる。固く、固く。
右手に祓戈、左手に白の触媒。
「あたしはこの両方で勝つ」
「......いいぜ。祓名民で培ったものを犠牲にしてまで、お前の選んだ名詠学校で何を手に入れたか、見せてみな」
隔たれた二人の間隔。
風も音も、何もかもが静まった。
二人を隔てる空間には何もない? 否、二人の間に流れるものは──
O togaWem millmo,HIr shoulda orapeg ilmerigiris endezorm
──O pelmaLoo nehhe,Hir yunda ora pegilmei celeende zorm
ole shan ilis,peg loar,peg kei Hir et,univa sm hid
──karla shan mihas,peg omni,peg elen,Hir qusifo roo xin
Hir be qusiGillisuxshao elesm thes,neckt ele
──tis elequsiGillisu peg micidremren
空を切り、楽曲にも似た調べを鎗が奏でる。
二人の鎗使いたちが奏でるものは、祓名民に伝わる祀歌だった。
Lor be se Gillisu feoolfey coriende olte
──Lor be se Gillisu feoeffecta coriende olte
lipps hypnecooka,fifsia-c-ect-c-elepeg Gill,jes qusigiris
──dis lucshypne,syuda-c-tania-c-tissinpegGill,jes qusi giris
赴戦讃歌と凱旋讃歌。
かたや、新たな祓名民の旅立ちを謳う祝福の歌。
かたや、勝利と凱旋を祈る決意の歌。
leide necktele smYem hypne,reivezayxuylostasiaYem nehhe
──leidezarabelarcsm Yemhypne,orza wosdifea felYeo
O la Laspha,Wem shelzo hearsalipps smcley
──O la Laspha,arsicie Wemlihit zoevoiaYem tis
合唱と呼ばれる概念にはほど遠い。
互いの歌に互いの歌を重ねただけの無骨な連奏。
そもそも二つの歌を重ねるという儀式自体、祓名民には存在しないのだから。
......だけど、だからこそ意味がある。
Isa O ora,sterei Ies,sterei dacookadoremren
──Isa O ora,ilmei Ies,stereitissindoremren
そう、そんな無骨な歌にアルヴィルが合わせてくれた。
それは彼が──あたしを認めてくれたことを意味しているのだから。
Jes nehhequsi Ies,arsei spil,Seo lamiqvy virgia
──Jes nehhequsi dio,nefis slin,Seo lamiqvy evoia
だからこそ負けられない。
アルヴィルの前で無様な姿は見せられないからこそ、アルヴィルには負けられない。
祓名民として、そして名詠士の端くれとして。
そして......昔も今もこの男に想いを寄せる者として。
bekwistYem nehheolfey bestiGillshuvesher
──bekwistYem tisolfey bestiGillshuvesher
右手で鎗を構え、左手には純白のリボンタイ。
そして──
エイダは駆けた。時同じく、アルヴィルも。
それは奇妙な既視感だった。
互いに敵のはずなのに、
延々と続く平原で、互いに互いを求めて走りよるそれは、
まるで、互いに抱擁を求める恋人の姿そのものだったから。
一瞬に過ぎない時間の経過で、全てが決まる──
互いに鎗をふりかぶる。
一瞬速いのはアルヴィルだった。左手にリボンタイを持っているぶん、身体の半身だけで祓戈を制御する必要のあるエイダが遅れる。
だがそれは共に自明の理。
鎗を振りかぶりながら、アルヴィルが見つめるのはリボンタイ。
〝さあ、とっておき見せてくれるんだろ?〟
彼の笑みがそう言っている。
だから。
──『Arzus』──
リボンタイが輝き、小さな小さな名詠門を描きだす。
そこから生まれたものは一瞬の閃光。
二人の中心点で煌々と光を放つ白光だった。
〝目潰しか?〟
アルヴィルの視線が訝しむように歪み、だがそれは一瞬で白紙に戻る。
彼もまた気づいたのだ。
もし目潰しのつもりなら、光は二人の中央など照らさない。アルヴィルの目元に飛んでアルヴィルの目だけを照らさなければ意味がない。
〝じゃあ何──〟
再びエイダを見つめ、アルヴィルの目が見開いた。
エイダの鎗でもなく、左手のリボンタイでもなく、エイダの顔でもない。
彼が見つめていたのはエイダの胸元。
裂けてあらわになった胸元に──
名詠された光を浴びてきらきらと輝く、あの日二人でつけた銀色の首飾り。
この塔へとおもむく前夜、必死に修復した思い出。
制服の胸元を裂かれたのは偶然だとしても、最初からエイダはリボンタイを外すつもりだった。一つは触媒として利用するため。
もう一つの理由は、胸元に飾ったこの首飾りで、もう一度彼に訴えかけるため。
自分ではどうしても元通りに直せなくて、一晩かけて接着剤で出鱈目にくっつけただけの粗雑な首飾り。けれどそれでも──
〝あんたは、あたしのことどう思ってるんだ〟
エイダは、アルヴィルが自分に隠している気持ちを聞きたかったのだ。
そして──
彼の動きが、止まった。
..................てめぇ、そりゃ反則だろ。
......何が、壊して直せないから置いてきた、だぁ?
......んなの見せられて............
その一瞬は二人にとって本当に永く、永く、永く。
今まででもっとも永く、互いを見つめ合っていた瞬間だったかもしれない。
やがて──
ふっ、と息を吐き、アルヴィルが静かにまぶたを閉じた。その口元に、堪えきれない微笑をたたえたままで。
......大したもんだ。ガキっぽい見た目は何も変わってねえのによ。
......お前、あの頃よりずっといい女になってるぜ。
............なあ旦那?
時が動きだす。
アルヴィルの胴体を、エイダの鎗が猛烈な勢いで打ち据えた。
カランッ。
アルヴィルの手から祓戈がすべり落ちる。
だが本人はそれでも倒れない。
腹部に手をあてて彼が訊いてきたものは、
「......てめぇ............さっき俺のことやらしいだなんて抜かしてくれたのは」
「ああ、さっきのこと?」
わざと、意地悪っぽい笑顔でエイダは返した。
「そう言っときゃ、あんた、あたしの胸元から目をそらすだろ? この作戦の前に首飾り見つかったら、こんなこっぱずかしい用意したのが台なしじゃん」
きょとんと目を丸くして、しかしすぐ、アルヴィルは深い深い溜息をついた。
「......はっ......はは......確かに、てめぇみたいな色気のない女にしては妙な......セリフだと思った......ぜ」
「でも嬉しかった。これは本当」
「ばかやろう、人の腹思いっきり殴っておいて言えるセリフじゃねえよ」
ふっ、と笑み、アルヴィルは地面にくずおれた。
「............俺の、負けだ。完敗だよちくしょうが」
2
真っ二つに砕けた地盤。
今は遠くに隔たれた対岸をテシエラが指さした。
「アルヴィルのところ、もう決着がついているかもわからんな。気になるか?」
そんな彼女と対照的に、レフィスは対岸の様子を見ようとはしなかった。
「気にしたこともない。別のこと考えたまま勝てる相手じゃないからな」
「それは光栄だ」
黄砂色のマフラーを握りしめる彼女。その左手を中心に金色の名詠門が形成される。
──『Surisuz』──
ジッ......ジジ............
光の扉を越えてほとばしる小さな雷光。
輝きの残像を残し宙を浮遊する無数の稲妻、それがテシエラの指先にとまった。
「擬光虫か」
「そう。何度見ても可愛い奴らだろ?」
稲妻に似た光と羽音を持つ名詠生物。その輝きと雷鳴さながらの羽音により、荒れ狂う強大な真精が導かれてやってくる。
テシエラの指先が虚空に滑らかな円を描き、それを追って擬光虫もまた宙に光の痕を残していた。不規則な動きから、巨大な円を描くように。擬光虫の描く軌跡が徐々に美しい環を模っていく。
「────」
輝く金色の名詠門を見据え、レフィスは砂上に残る灰を摑んだ。
loar twai,Hir qusishante feonen dencalin cley
shaze twai,Hir qusimemori feoseim corna
ジッッ......ジジジジジッ......ィィッ......!
輝く名詠門、まだ開ききらぬ扉の向こう。
飛び交う擬光虫の羽音よりなお強い、まぎれもない本物の放電音が伝わってくる。
meh-l-ralpheideige,writh leforb,U virsefisa valenlef lucs
arsei glio,ovan girisglia jesorza
omunis via-c- univa,Yer sistis girispeg ars
やがて、扉をこじ開けるように一対の翼が現れた。
金色に輝く羽毛。その翼がふるえるたびに小さな稲妻がほとばしる。
人の胴体よりも巨大な翼。その翼と翼のちょうど中央。猛禽類を思わせる鋭利な嘴が、名詠門を突き破って姿を現す。
zette,elmei elisyun plie
Isa daboema fotondoremren Ser lalemenent damemoria uc ars
jes efflectqusi foLastihyt,sanc pegsterei orza
咆吼。
もはや文字で形容できぬ超高音の轟きが、砂漠の砂をふるわせる。
miqvyO evoia disU zorm elmei I──sterei efflectEzehyt =ende gil
十二からなる銀色の盾。
大小様々な護りの象徴が、レフィスを覆うように虚空に展開した。
盾の中央には銀色の身体をした真精。体長は三メートルに届くだろう。細長い金属針を合わせて人型を成したかたちの名詠生物だ。
「おや、灰者の王はどうした」
そう告げるテシエラの頭上には巨鳥の影。
雷鳥──はるかな高度の雷雲に住み、その全身に稲妻を宿す名詠生物だった。
十二銀盤の王盾者ですら防げない圧倒的な破壊力。何一つ抵抗できぬまま惨敗を喫したのは、わずか数日前のことだ。
「その真精では及ばぬこと、わかっているんだろう?」
「......そうだな」
隣にたたずむ名詠生物を見上げた。我が身を盾にかえて王を守る従者──それが自分の真精だ。けれどこれでは黄の大特異点には及ばない。
灰色名詠の最強の真精、灰者の王でなければ。
〝灰者の王だ。こいつを解放することで、灰色名詠は一時的ながらも復活する〟
......ミシュダル。
......俺がこの場にいられるのは、あんたのおかげなんだろうな。
あとは自分の覚悟次第。灰色名詠の主を名詠するための最大の課題、それは。
「テシエラ、あんた知ってるんだろ」
「何をだ」
「灰者の王に必要な特有触媒をだ」
あらゆる真精の中で、おそらくはもっとも残酷な触媒。あのミシュダルをして、『灰者の王』ならぬ『敗者の王』と言わせしめた理由がここにある。
「お前の師から聞いた。まだ灰色名詠が完成していなかった頃の話だがな」
返すテシエラの声は、今までにない重みと棘を含んでいた。
そう、灰者の王を名詠するために必要な特有触媒は──
「もっとも愛しい者を石化させた、その石像。それが灰者の王を詠びだす唯一の触媒だ。かつて私はそう聞いた」
「......俺もミシュダルから聞かされた」
聞いた直後、衝撃で何一つ言えなくなった。
自分の目指した名詠がそこまで残酷な名詠だと思わなかった。と同時に、ミシュダルやヨシュアがなぜ〈孵石〉を作り、求めていたか──その本当の理由を知った。
あの二人もまた同じ悩みを持ったのだ。
灰色名詠にあれだけ執着する二人ですら、やはりその触媒だけは耐えられなかった。
だからこそ別の手段、究極の触媒であるミクヴァ鱗片にすがったのだ。
「言っただろう。坊やに灰者の王が名詠できるとは思えないと」
「............」
テシエラの言葉にレフィスは反論しようとはしなかった。
ミシュダルが追い求めた〈孵石〉はもはやない。
もっとも愛しい者を石化させた石像──それも論外だ。もともと自分に本当の意味での家族はない。愛しい者も同様だ。
......いや、いるとすれば──
ジール名詠学舎で出会った、あの葡萄酒色の髪の少女。
転入し、そして競闘宮での学生決闘。そして今も。
〝......行くの?〟
〝すぐ帰ってくるさ。心配いらない〟
〝......信じていいんだよね?〟
〝ああ〟
〝うん。わかった、待ってるから!
それならネイトもエイダも、レフィスをお願いね。こいつ方向音痴だから一人じゃ帰ってこれないだろうし。面倒見てあげて!〟
ふしぎだった。自分が今もジール名詠学舎の生徒であることが。
名詠学校に転入した目的はミシュダルの狂気を止めるため。それが終息した今、もう名詠学校に用はない。......そのはずなのに。
──俺は今も、ヘレンのいる名詠学校にとどまっている。
「坊や、ずいぶんと愉しそうな笑みを浮かべているが。可笑しいことがあったか?」
「......いや。今だけは方向音痴にならずにすみそうだと思っただけさ」
隠しきれぬ苦笑そのままに首をふった。
きっと今だけは迷わない。進むべき道がこんなにはっきり見えてるんだから。
「で、レフィス。お前はそれに対してどうするつもりだ?」
「決まってる。俺だってそんなバカげた触媒こっちから願い下げだ。──言っただろ。俺は、ヨシュアと別の方法でヨシュアを超える」
手元に小さな銀貨。表面には競闘宮の図が刻まれている。
覇者から受け取った銀貨、その最後の一枚。
──『Isa』──
右肩に、灰色の蜥蜴が飛び乗った。通常の蜥蜴にしては手足が長く、その爪も鋭い。
「石竜子か」
「ああ。こっちは本物だ。石化効果持ちのな」
爪で引っ搔かれるか、あるいは嚙みつかれることでその部位が石化する。
石化。灰色名詠の象徴とも言える付属効果である。だからこそ灰者の王の特有触媒もまた、それにちなんだものになったのだろう。
「......俺も最初は疑わなかった。もっとも愛しい者が石化した石像なんてものが触媒なのは、灰色名詠と灰者の王が、他人の犠牲の上に成りたつものだからだって」
「違うとでも言うのか?」
「ああ、むしろその逆なんだと思う。灰者の王が伝えたかったことは、その名詠に他者の犠牲を用いるのではなくて──」
肩にのった石竜子を見つめた。
主の命を待つ名詠生物へと、レフィスはただ一言。
「やれ」
びくっと石竜子が身じろいだ。
主の命を理解していながらも、それを拒絶するように首をふったのだ。
「......いいんだ、頼む」
二度の指令。
石竜子がためらいを見せたのは一瞬。その直後、迷いを振りきるようにその名詠生物はレフィスの右肩を爪で切り裂いた。
「────なっ!?」
テシエラが目を見開いた。
「レフィス、お前いったい何を!」
「......わかったんだよ。灰者の王が伝えたいことは、他人を犠牲にして名詠を完成させることじゃない。その逆、全てを尽くして他人を救ってみせろってことなんだって」
パリッ......ッィッ......
石化していく右肩、右肘、指先までが灰色になった自分の腕。
重く硬く、感触までも消えた右腕を左手で支えながら。
「いいか、俺に愛しい奴なんていないんだ。だから──俺にとって一番大事な人間はあくまで俺自身だ!」
自分のもっとも愛しい者が石化した、その石像。
条件を満たすにはこれしかない。他人を犠牲にしない方法は。
〝......好い風が吹いてきたじゃないか。なあレフィス〟
──これでいいんだろ、ミシュダル?
今は誇りに思う、これはあんたが託してくれた名詠だ。
「だからさっさと出てこい、灰者の王!」
石化した右腕に小さな名詠門が刻まれた、その直後。きらびやかな音を立て、十二銀盤の王盾者の盾が全て砕け散った。
銀色の光の中へと王盾者が浮かびあがり、それもまた光の渦へと還っていく。
「これは............!」
銀光に照らされ、テシエラもまた頭上を仰ぎ見る。
巨大な、目を疑うほどに巨大な影がそこにあった。
灰者の王。
それは人を模した彫像に似た真精だ。
人が理想の美を追い求めてするような、あの端整で麗しき顔だち。そのモチーフは聖衣を纏った聖人。頭の上には茨の冠。胸から下は、身体もその衣も半身像のように綺麗に消失していた。
「──驚いた、もう坊やとは呼べないな」
それを見上げるテシエラは微笑。
「ならば、私も全力で相手をするのが礼儀だな」
彼女の頭上。
機を待ち続けていた雷鳥が歓喜の咆吼を上げる。黄金の羽毛一つ一つが輝き、そこからほとばしる無数の放電。
風が生まれ、砂が吹き荒れ、光と音が稲妻一色に染まっていく。
通常の性能をはるかに上回る個体として名詠された雷鳥。
一方の灰者の王とて灰色名詠の真精。真精という階級は雷鳥と変わらない。
あとは信じるしかない。
師、そしてミシュダルが追い求めた名詠式を。
──倒せ!
レフィスが手を振り上げ、テシエラは手を振り下ろす。
雷鳴と咆吼、そしてほとばしる雷光。稲妻の化身となった雷鳥が、宙を切り裂くようにつき進む。
灰者の王もまた銀光を身に宿し、周囲には輝く十二の剣と十二の盾。
その全てが雷鳥を迎え撃つ陣形をとった。
黄金の閃光、かたや銀色の輝き。
二体の真精が衝突した瞬間、突き刺す強烈な光線に目を灼かれ、思わずまぶたを閉じそうになる。
「......見届けるんだ」
今この光で目が見えなくなったとしても、この戦いだけは──
十二の守護剣が雷鳥を迎え撃つように展開。その剣の半数以上をまとめて雷撃で撃ち落とし、稲妻の真精が突き進む。
と同時、雷撃をかわした剣もまた雷鳥の翼に突き刺さる。
が、それでも巨鳥は止まらない。大特異点である黄の真精もまた怪物なのだ。陣を組む十二の盾をもはじき飛ばし、奇怪な咆吼を上げて灰者の王へと一直線に突進する。
衝突。続く音の津波に、意識が消し飛んだ。
一瞬の、本当に閃光のように短い一瞬で全てが終わった。
......どうなったんだ。
意識が飛んだのはせいぜい瞬き程度の時間のはず。その一瞬の間に、上空は灰色の霧がかかっていた。灰者の王の灰だとは思うが、それが何を意味するかはわからない。
灰の霧がやがて晴れ──
そこには、衝突したまま動きを止めた二体の真精がいた。
時間が止まったかのように動かない。
否、十二の剣に翼を射貫かれた雷鳥がみぶるいした。翼から放電の光が失われ、かわって金色の光の粒が立ち上っていく。名詠生物が還っていく前兆だ。
......勝ったのか?
石化したままの右手を抱え、二体の行方をがむしゃらに見上げ続ける。
しかし──
やがて、灰者の王からも生まれる銀色の輝き。煙状の光に覆われ、まず頭部にあった茨の冠が消えていく。次に頭部、肩、そして上半身が。
二体の真精が消えたのはまったくの同時だった。
つまり相討ち。
「いや──」
とさっ
誰かが砂漠に倒れこむ音だった。
「テシエラ?」
「まったく、やれやれと言ったところだな」
目を疑った。
足下の砂漠目がけ、彼女が仰向けに倒れこんでいたのだ。髪に衣服。そこかしこに黄砂がつくのもまるで気にしないように。
「お姉さんの負けさ。......疲れた」
目をつむり、彼女は微苦笑のまま深く呼吸を繰り返すだけだった。
「あんた......やっぱり身体」
アルヴィルが言っていたとおり、やはり何かが身体を蝕んでいるに違いない。
あの時テシエラは否定していたが。
「私のは後遺症さ。ファウマのお嬢さんほど重症ではないがな」
「後遺症?」
「そう、犯人はこいつだよ」
目を閉じたまま腕を動かし、足下の砂をぽんぽんと彼女が叩いてみせる。
──砂?
「私が生まれたのは、大陸の西端にある砂漠の地だった。砂漠のオアシス周辺にひっそり暮らす辺境の地さ」
ぽつりぽつりと、通り雨が訪れる前兆のように。
彼女の口調は、まるで降り始める雨を想起させるものだった。
「そこは外部からの交流はほとんどない。なぜなら砂漠の砂に含まれる鉱石が、人の身体には毒なんだそうだ。呼吸で知らず知らず吸いこんで体内に溜まる。だからその地の人間は、砂を吸いこまないようローブで身体を覆い、口元をマフラーで隠す」
自分の首元に巻いたマフラーを愛しげになで、テシエラは笑っていた。
「......誰か、家族ごと引っ越すって言いだす奴はいなかったのか」
「生活のためさ。その地の鉱石は有毒だが、同時に非常に希少な金属でもある。私の村はそれで生計を立てていた。たとえ身体に有害と知っていたとしても。だが──お前の言いたいこともわかる。私がそうだったからな」
横たわった姿勢で、彼女が自分の左胸に手をあてる。
「知ってるか? 毒がもっとも凝縮されて溜まるのは大人でなく、母親の乳を受けて育つ赤子だそうだ。............私は、五人兄妹の末子として生まれた。成人したのは私だけさ。兄妹がいたことを親は隠していたが、まあよくある話、些細なことからそれを知ってしまった。......衝撃だったよ」
自分がそれだけの犠牲の上に生かされているということ。
毎日それとなく見てきた名もなき墓標、それが自分の兄妹のものであったこと。
「全てが恐ろしくなって食事も喉を通らなくなった。おかしなもんさ、毒で誰かが倒れるなんて、あの村では珍しくないってわかってたのに......わかっていてなお、私には耐えられなかった。............まるで自分が、自分より先に生まれた四人を犠牲にして生きている気がしたよ。一種の錯乱状態で村を飛びだして、あてもないまま放浪して、名も知らない荒野に行き着いた。その頃には生きる希望も尽きていた。────そこで出会ったのが」
「......ヨシュアか」
「荒野で行き倒れて、意識を戻した時には小さなテントに寝かされていた。笑顔を作るのが苦手なんだろうな、そんな印象の老人だった。お察しのとおり、お前の師のことさ」
──似てる、俺の境遇と。
救われようのない状況で老人に手を差し伸べられた。自分は孤児として。彼女は絶望に打ちひしがれた者として。
「あとはまあ、私が一方的に老人から話を聞いただけさ。なぜこんな荒野に老人が一人でいるのか。そこから始まって灰色名詠のことを聞いた。朝方から次の明け方までかかったかな。単にヨシュアについてなら、私よりお前の方が知っているんじゃないか?」
ミシュダルは最愛の女性を。
ヨシュアは最愛の娘を、それぞれ失った過去がある。
最愛の人間を失った悲しみ──それが灰色名詠のきっかけだ。
「私がなかば自暴自棄になっていたのに、老人はその悲しみを名詠式に打ちこむことで克服しようとしていた。灰者の王など夢のまた夢だった頃の話だ......だからこそ、夢を見るという行為自体がなによりまぶしかった覚えがある。体調が回復してすぐ、私はヨシュアに灰色名詠の完成を手伝わせてくれと頼んだ。もしそのままいったら、私はお前を苛める姉弟子になってただろうな」
「......ぞっとしないな」
「そうか? それはそれで愉しそうなんだがな」
唇から小さな笑い声をもらし、テシエラが自分の手を頭上に掲げる。
「結論から言って、またそこでも老人に諭されたよ。私には大特異点という別の道がある。灰色名詠につきあってそれを埋もれさせてはいけない、と。......あとは私のつまらない奮闘記さ。都市の薬を買って故郷に持ち帰ったり、村を有毒な砂埃から守ろうとして干ばつにも強い植物を村の周囲に植えたり──シャオに出会うまでそれの繰り返しだ」
シャオ。
彼女の唇からこぼれた名前。レフィスがわずかに眉をつり上げるのを知ってか知らずか、テシエラの声音もまたわずかに小さくなっていった。
「シャオが私の村を訪れたのはいつだっけかな。医者でもないのに医者以上のことを知っていて、毒を矯める──身体に溜まった鉱毒を出す薬の煎じ方を教えてくれた。それもごく身近に生える植物を材料にだ」
空白の名詠士について、横たわる女性はそれ以上を語ろうとはしなかった。
けれど間違いない。それがテシエラとシャオの邂逅なのだろう。
「レフィス、お前も上る気か?」
閉じていた彼女の瞳が開かれる。
その視線の先、今も煌々ときらめく五色の石段が続いていた。
頭上をいくら睨んでも、その終わりはまだ見えない。
「シャオは強いぞ? 私はまだ、あれより強い心を持った人間を見たことがない」
名詠式の創造者にして、今は名詠式の法則を司る調律者。その一体であるミクヴェクスをして理想と言わせしめた──空白名詠の詠い手。
いや、そんなことを言うまでもなく、この女を付き従えたという事実だけで十分だ。それだけで、シャオという器の大きさが容易に想像できる。
でも──
「俺も上る。けど、それは見守るためだ。助太刀しようとは思わない」
たとえ相手がどれほどの者だろうと、レフィスは手を出さないと決めていた。
それはきっと、ネイト自身が望んでいないことだから。
「......そうか」
かつての名残なのだろう。
黄砂色のマフラーを口元にあて、そして、テシエラは再びまぶたを閉じた。
──マフラーの生地の端に、子供のような微笑みを浮かべたままで。
「あの少年もまた、お前に信頼されるくらい強い少年なんだな」







「そういやさ......」
アルヴィルが割った地盤の断面を覗きこみ、エイダは呆れ顔で振り返った。
「上に行く階段ないんだけど、あたしどうすりゃいいの?」
「しばらくすりゃ割れたのも戻るんだとさ。それまで待つんだな」
何食わぬ顔で応えるアルヴィル。
飄々とした口調は変わらずも、地面に伏したまま動く素振りは今もなかった。
「腹だっけ、もしかして割と痛めた?」
「やった本人が言うセリフかよ......っ痛ぅ!......こりゃアバラいったか」
仰向けに倒れて顔をしかめながら、ふしぎとアルヴィルの声は弾んでいた。
「あんた身体細いもんね。やっぱりもっと筋肉つけたら」
「旦那と比べるなっての。俺が普通、お前の親父がやりすぎなの」
......親父。
そういえば、学園を発つときに何か言われてたっけ。
「そうだ。親父といえば、なんか変なの預かってきてた。あんたに伝えてくれって」
「俺に?」
怪訝そうに顔をしかめるアルヴィルを後目に、エイダは制服のポケットから紙の切れ端を取りだした。折りたたんである紙を開き、その紙面に目を通し──
「えーと、『例の話、私はまだ破談したとは思っていない。寛大な処置により拳骨十発で許してやるから帰ってこい』......なにこれ、例の話って?」
「............あの旦那。この場面でまだ娘の縁談を持ちだすかフツー?」
ぼそぼそと、独り言のように呟くアルヴィル。
「ん、アルヴィルなんか言ったか」
「お前にゃまだ早い話だから気にすんな」
「そう言われると余計気になるんだけど? いいから教えてよ」
「うっせぇ、早いったら早いんだよ」
仰向けから身体を横にそらし、彼はそっぽを向いてしまった。腹部が痛むはずなのに無理やり身体を動かすあたり、よっぽど聞かれたくない話なのだろうか。
「......よぉ」
「なに?」
「レフィスって奴と合流したら、やっぱシャオんとこ行くのか?」
何かを心に秘めて問いかける口調ではなかった。
純粋で素朴なアルヴィルの問いかけに。
「あたしはシャオのとこに行くんじゃなくて、ちび君のとこに行くだけ」
「行ってどうすんだ」
「レフィスと一緒に応援じゃない? あとはちび君がやることだもん」
きっとレフィスも同じことを言うだろう。
自分たちがやれることはそれだけなのだと。
「......我らがリーダーはよ、腕っ節が強いわけでもねえし、名詠式が強いわけでもねえ。だけど俺にはどうしても、シャオが負ける姿が想像できねえ」
アルヴィル、テシエラ、ファウマ。
いずれも屈指の精鋭たちを、ただその人格だけで引き連れてきた統率者。
「同じだね」
裂けたリボンタイを胸元に留めなおし、地に差していた祓戈を引き抜いた。
「あたしらの可愛いリーダーも、腕っ節が強いわけでも名詠式が強いわけでもないよ。だけどね、あたしにはちび君が負ける姿が想像できない」
自分もレフィスもミオも、そしてクルーエルも。
ただ出会っただけの者たちが、こんなにも応援したくなるひたむきさがある。
──だから、今度こそネイトは負けない。
「......信頼してるんだな」
「当然じゃない」
足を伝う微動に振り向く。
はるか彼方、分断されていた対岸が徐々に近づいてくるのが見えた。
その岸に、立っているのは銀髪の青年の方だった。
「......安心したぜ。俺だけ負けてたら姐さんに何て言われるか」
「ばか」
鎗の柄でアルヴィルの肘をつつき、エイダは彼に背を向けた。
「じゃ、行くね」
「......ああ。俺らのかわりに見届けてくれや」
「あとで話してあげるよ」
小さなウィンクを一つ残し、エイダはレフィスの待つ石段へと歩いていった。
真奏 『黄昏に愛された者よ、歌と絆と涙を継いで』
始まりは、いつだったのだろう。
愚かな竜と愚かな蛇の争い。
名詠式の誕生。
空白名詠、五色の名詠、そして残酷な純粋知性。
夜色名詠、虹色名詠。
どれもが始まりと呼ぶにふさわしく、だからこそ、どれも絶対の始まりと呼ぶには及ばない。だからこそ自分にとっての始まりは──
〝だいじょうぶ。わたしも一緒にいてあげる。一緒に詠んであげるよ〟
夜明け色のローブをひるがえし、ネイトは上部へと続く石段を駆け上がった。
走って、走って、走って。
息が切れたらその場で休み、息が戻ったらまた駆け上がる。
何回。否、何十回と続く循環だった。煌めく石段をただ駆け上る。終わりの見えぬ道を走り続けるそれは、体力以上に精神力を摩耗させた。
「......この音」
その中で、ネイトが聴いていたのは塔に響く音だった。
世界中の全ての音が集まる場所。今『セラの塔』に満ちる音、それは赤子の泣き声だった。赤子の泣き声と、そして懐かしい鼓動。命のリズムを宿した音色。
──塔の終わりが近い。
この赤子の泣き声が最後。直感、けれど自分にもふしぎなくらい自信があった。
〝〈ただそこに佇立する者〉はまだ名詠されてない。つまり姉さんは残酷な純粋知性としての役割を終えてないということになる。まだ姉さんとしての自我は残ってるはずよ。もっとも、それもどれだけ保つかわからないけれど〟
時間がない。
終わりなき階段を見上げ、そこに必ず終わりがあることを信じて足を進め──
ふっ、と。塔に満ちる音が消滅した。
「光が......?」
それだけではない。今まで明るかった頭上もみるみる間に光を失い、周囲は黒一色で塗りつぶされたように暗くなった。
ひゅぅっ──
風、それも氷海に投げこまれたかと錯覚するほど寒い風。
「......なんでこんなに急に」
無風の空間に風が吹き、周囲の温度が下がり、頭上の輝きも急に消えた。
何より、今まで聞こえていた音が一切ない。耳が痛くなるほどの静寂、胸の鼓動すら心許ない。そんな沈黙が塔全体を支配している。
どれ一つとっても、今までなかった現象だ。
まさか〈ただそこに佇立する者〉が名詠されてしまった?
〝それはね、あなたがこの塔の最深部に到達したからだよ〟
声。
安らぎと静けさをまとう響き。少年とも少女とも思える中性的なそれは──
「......シャオ?」
どこにいるんだ。
目の前の階段を見上げるも、黒煙のようなもやが覆うばかり。自分の真横は空虚な空間が拡がるだけだ。真後ろを振り返っても、眼下の階段に誰かがいる気配はない。
〝まずは、お疲れさまネイト。走りっぱなしで疲れたでしょ? あなたの足音、最上段までずっと響いてきたよ〟
「......この場所は?」
今まで上ってきた塔とは空気が違う。
上ってきた経過の場所が色と光に満ちた世界なら、目の前のここは、まるでそれが生まれる前の世界。
〝その認識はとても正確だね。ここは塔のもっとも高い区域、『セラの庭園』の最深部と直結している。つまり調律者の住まう家の玄関みたいな場所だ。あとは呼び鈴を鳴らせば玄関から出てきてくれることになる〟
呼び鈴。つまり名詠式であり〈讃来歌〉だ。
「──させない!」
〈ただそこに佇立する者〉の名詠には欠けているものがある。
残酷な純粋知性としてのクルーエルの記憶。アマリリスから託されたものだ。これを自分が守っている限り〈ただそこに佇立する者〉は名詠できない。
〝そう、慌てたよ。まさか残酷な純粋知性の記憶が、丸ごとアマリリスに譲渡されていたなんて。今のままでは〈ただそこに佇立する者〉が名詠できない。──正確には、詠びだしたところで意味をなさない。でもね、ネイトとしてもソレをいつまでも持っているつもりはないんでしょう?〟
〝肉体は精神の影響を受ける。肉体のないクルーエル・ソフィネットの場合、存在そのものと言い換えられる。実体のない調律者が記憶を失うことは自我の欠損につながる。自我の欠損はすなわち、クルーエルにとっては存在の消滅にも等しいことだから〟
アマリリスからも聞かされたことだ。
時間がない。クルーエルとしての記憶が欠如したままでは、ミクヴェクスが名詠されずとも、その存在が徐々に摩耗してしまうと。
「......何が言いたいの」
〝出会った時からずっと言ってきたことの続き。こうしていがみ合う関係でなく、自分とあなたはもっと素敵な関係になれると思う。......今まで互いにミクヴァ鱗片をめぐって対立してきた。けれど自分たちは、そろそろ仲直りしてもいいと思うんだ〟
「それは、〈ただそこに佇立する者〉が勝利することに協力しろって意味?」
アマリリスから託された、彼女の記憶を渡すということ。
〝そう。〈その意志に牙剝く者〉と〈ただそこに佇立する者〉の争いに、今度こそ終止符を打たなくてはいけないんだ。これ以上この愚かな争いで、自分とあなたのように、誰かと誰かが争うことのないように〟
〝この争いが続けば、残酷な純粋知性としてクルーエル・ソフィネットが再びこの世界に送りこまれる。あなたの言う、記憶も自由も奪われた人形──その苦しみを彼女が受け続けること、あなたも望んでいないでしょう? だから終わりにしよう〟
「......なんて、言えばいいのかな」
どうしようもない切なさと怒りと、やるせなさ。
胸の奥からあふれて、空っぽの感情を満たしていくのがわかった。
「言いたいこと、すごくよくわかるよ。クルーエルさんにこれ以上辛い想いをさせたくないし、調律者同士の争いなんか終わらせたいっていうのは、僕も思ってることだもの」
シャオの言うとおり、もしもこんな場所で会わなかったのならば、自分たちは友達になれていたかもしれない。
一つ、たった一つの......相違がなかったのならば。
「でもそれは、どっちの調律者に勝たせるとかの話じゃない」
見上げる階段。
視界を遮るもやの先に、ひやりと感じる誰かのまなざし。
「ありがとう、シャオは友達になろうってずっと誘ってくれてたよね。それが噓じゃないっていう気持ちは伝わってきたし、すごく嬉しかった」
友達になれたことだろう。たった一つの......気持ちの相違さえなかったのなら。
──けれど、僕はこの気持ちだけは裏切れない。
「でも、ごめん。僕はやっぱりクルーエルさんを助けたい」
〝ネイト......もう気は変わらない? これが最後だよ〟
答えのかわり、ネイトが選んだものは沈黙だった。
「......そう。残念だけど、しょうがないことかもしれないね。ならば互いに、自分の選んだ道を進むとしよう」
シャオの声量が増した。おぼろげだった発音すら明瞭に。
近い。ものすごく近い場所にあの名詠士がいる。
確信をも超えた、絶対とも呼ぶべき予感。
「シャオ、いるんでしょ」
「うん。あなたの目の前にね」
見上げた階段。
夜色の粒子が浮遊していた場所が晴れた先に、終わりがあった。
特別な祭壇や飾りがあるわけではない。極彩色の階段が虚空で途切れ、そこに数メートル四方の床が広がるだけ。
──終わりにしよう。今、この時で決着を。
何の余韻も感情も含まない塔の終点。
その頂上に、黎色の外套をゆらすようにたたずむ名詠士が立っていた。
艶やかな黒髪に濡れる双眸。ほっそりとした身体つきであることが外套ごしにも伝わってくる。少年とも少女ともつかない顔だちで、眼下の石段に立つ自分を見据え──
シャオ。
もう言葉は交わさない。互いに目を合わせた瞬間こそが、きっと────
目の前の名詠士が微笑み、そして外套をはためかせた瞬間。
ネイトとシャオは、まったく同時に詠の詠唱を開始した。
Ulma Ivis sheonrien-c-soa
──O Ricole wi,pile noimyizis egic
elmei Iesnixe velclar rissIvis sheon
──O Ricshel wi,cross Kyel solitlef Miqis I
シャオへと続く最後の石段を見上げ、ネイトは全力で駆け上がった。
その場にいるだけで寒気を感じる冷気が渦巻く空間。けれどその一方で、肩に羽織った夜明け色の外套にはたしかな温かみがあった。
──まだ足は動く......走れる。
目の前にある塔の頂点。そしてシャオの立つあの場所まで。
自分とシャオを隔てる決意の差。それがきっと、今の自分たちの距離なのだから。
ris-iasophia,ria elmeipheno necdelis Ecpheno
──clar dackt,mihasr-madel,elmei valenlihit velyulis
Sera,Sew elerein wasciel
──Sera,Sew eleslin Kyelcielis cley
Wi Ecgiridisqhaon ectawas missisruy,ravience bran
──xeoi loarkisflan-l-keen,Uhw kishiz tinnylef ririsende Zalah
〝さ、おいでネイト。自分はここにいる〟
憂いを灯らせたシャオの瞳がゆれ、小さな小さな微笑を描く。
手を階下へと差し伸べるその仕草は──まるで恋人を我が家に招き入れるように。
〝ファウマが言っていたよ。自分とあなたは何から何まで対照的なんだって〟
詠を口ずさみながらも、シャオの言葉はふしぎと明確に伝わってきた。
涙を帯びたように濡れる双眸。見ているだけで意識を奪われそうになるほど透きとおったシャオの瞳が、心の調べを伝えてくる。
bie evhekis shazlef elen,yuks lefzarabel
──kamis wirer-gorn ucnazarie rei
bekwist,Uhw kis mehelvine-l-xeoikei fertsink I
──yupa hizloar neccross-Ye-yulisnoi missisciel
〝なるほど、セラフェノ真言は手に入れたんだね〟
シャオのそれに応えぬまま、ネイトはただ階段を上り、そして詠い続けた。
手に入れた?......ううん、違うよ。
セラフェノ真言。調律者を名詠するために必要となる言語。であると同時に、シャオの〈讃来歌〉に対抗するのになくてはならない要素である。
......僕が手に入れたわけじゃない。
......これは、クルーエルさんから託されたものだから。
決闘舞台で光に包まれ消える最後の瞬間まで、彼女が自分の全てを代償に伝えてくれたもの。
Ulma xissyu xixiclef getiexeo
──O hypneSec yahe,ria olefert etdackt stery
Kyel oltelef xeo,van mehlementvalen leya
──O idenSec virse,ria elmeivalen
Ris siasophia,Sez emayehle mihaslef veiz, arma,qhaon
──O killsSec haul,ria mihasr-madelzayxus
右手に携えた夜色の結晶を、今一度ぎゅっと握りしめた。
アマデウスの牙。ミクヴァ鱗片と並ぶ究極の触媒であり、〈その意志に牙剝く者〉を名詠するための触媒だ。
wi mille-l-pelmapheno
──wi mille-l-pilepheno
mehnes DewiEz r-lihit uc I
──wi E kiss hiz qelno,nifit elmeI iden
右手に携えた触媒から光がこぼれる。
周囲の闇とは似ていながらも非である、淡い優しささえ感じる光の粒子たち。
手からこぼれる光が身体を包む。わずかな温かみすら感じる輝き。と同時に、シャオの左手にもまた、淡く輝く白い光が灯っていた。
──ミクヴァ鱗片の輝き。
人が抱えるほどだった大きさのものが、今は手の平に隠せるほどにまで圧縮されていた。
牙のかたちをしたアマデウスの触媒。
対し、シャオの持つミクヴァ鱗片は卵を想起させる形状になっていた。
詠は互いに終詩を予感させ、
その手には、調律者の名を冠する究極の触媒。
それだけを心に留め、ネイトは──
wi pelnispheno,E yumevoia-Ye-elelah Ema
──ris-ia sophia,Sew eledia Kyelririsislaphia
......あとは信じよう。
寂しく悲しい音色。
だがこの空間に響くものは、ただ悲しみの感情だけではない。
寂々たる音の中に美しさがあり、凍える音の中にすら愛おしみがある。
凍みいった夜の帳に輝く星の瞬きがあるように、黒一色に塗りつぶされた画布と一線を画すその音色。
それは夜色名詠式と名付けられた詠だった。
......母さん、アーマ。
......ありがとう。そして、僕は信じていいんだよね。
自分の学んできた名詠式が、大切な人を助けられるということを。
煌々たる光を生む極彩色の石段。眩しさに彩られた道の、その最後の一段を駆け上る。
背を向けていたシャオが振り返り──
そしてネイトは、詠の終詩を紡いだ。
U siaSophit,Clar ele,Selah phenosia-sOrbie Clar
O siaSophit,Riris ele,Selah phenosia-sOrbie Risis
〝ネイト〟
〝お前なら、この終わりなき抗争を────〟
......アーマ?
ひんやりと、骨の髄まで凍みる冷たさが頰にふれた。
......あ......っ............
......僕......どうし、たんだっけ......
頰を突き刺すような冷気に触れ、ネイトはぼんやりとまぶたを開ける。目の前には白い床。うっすらと覚醒していく意識と共に、冷たい床の上に倒れていることに気づいた。
「──痛っ!」
立ちあがった途端、前頭部から後頭部へと流れるように痛みが走った。
......なんだろう。気持ち悪い。
目眩。嘔吐感。それだけではとうてい形容しえぬ違和感。自分の腕も身体も、着ている服も何一つ変わらない。けれどなんだろう、この変な感覚。
強いて言うならば疎外感。
周りから自分だけが孤立した時のような。かつて母と旅をして回った時、見慣れぬ都市や見慣れぬ人間に対して感じたあの感覚だ。
「そうだ、シャオは────っ!」
振り向いた姿勢のまま、ネイトは息を呑んだ。
あの輝く石段が消失していたのだ。自分があれほど時間をかけて上ってきた、その事実ごと消えてしまったかのように。
「ここは......頂上だよね」
さっきまでシャオが立っていた場所だ。
せいぜい二メートル四方の白い床。自分を乗せた一部分だけが虚空に浮いている。
床の端から恐る恐る下を眺め、再び息が止まった。
何も見えない。
どこまでも深く永く、冷たい黒一色の世界が真下に広がっているだけだった。
「......まさか、本当に何もない?」
懐中から硬貨を取りだし、床の切れた空間にそれを落とした。
......ひゅっっ......っっぅ............ぅぅぅぅ......
口笛のような音を残し、黒の世界へと硬貨が落下していく。
硬貨が見えなくなって十秒......二十秒......いつまで待てど、硬貨が地面らしきものに触れた衝突音は響かなかった。
まさかシャオもここから転落した?
一瞬脳裏をかすめた疑念だが、ネイトは即座に首をふった。ありえない。そんな軽率な行動をとる相手ではないはずだ。
「......何が」
記憶の淵をたどる。思いだせ、自分が意識を失うその直前の出来事を──
自分とシャオの〈讃来歌〉。
シャオはミクヴェクス真言。
そして自分は夜色名詠の第一音階名詠を詠った。
なのに何も起きていない。あの場面で両方が名詠に失敗したとは考えにくい。ならば最低でも一つ、先に完成した名詠が発動しているはずなのに。
「......僕は、たしかに詠い終えてた」
終詩まで紡いだ記憶がたしかにある。
ならば自分の名詠したものがここにいなければ────
同時だったのです、あなたとシャオの名詠式が完成した瞬間が。
空間がふるえた。
音の波でも空気の波でも、光や熱の波でもない。
鼓膜や目、触感。どの感覚野にも触れない何かが、胸の奥に直接響いた。そうとしか喩えようのない波動。
「──だれ?」
床の端すれすれに立ち、ネイトは眼下の世界を凝視した。
黒一色の世界に浮遊する床。そしてその上に立っている自分。
声は、その真下からやってきた。
億分の一秒......いえ、あらゆる『時』の単位を用いても区分できぬ、まったくの同時。
完全なる詠の連鎖。
完全なる詠の共鳴。
人の身には決して再現できぬであろう、それは奇跡とも言うべき現象でした。
ギチッ。
空間が軋んだ音を立てた瞬間、足下の床が大きくブレた。
「っ!」
床にしゃがみこみ、転落しそうになるのをがむしゃらに耐える。
浮遊する床がひっくり返りそうになるほどの縦揺れだった。競闘宮で体験した地震の類ではなく、さながら大海の大波の揺れ。
「......この空間全体が、たわんでる?」
目の前の空間を大海とするならばこの歪みは波、その水面に浮かぶ一切れの木片がこの床で、かろうじてそれに摑まっている人間が自分。
そしてこの揺れはまるで。
何か途方もなく巨大なモノが、海の底から浮かびあがってくるような──
「まさか......」
はるか下、眺めるだけで意識が吸いこまれそうなほどの下。靄がかかったようだった黒の光景に、ぼうっと白い何かが映った。その瞬間──
ぞくっ。
痛みにも近い寒気が全身を走った。悪寒ではない。恐怖とも違う。そんなありきたりの概念と一線を画す、より高次で形容しかねる類の寒気だ。切り立った渓谷から漠々たる瀑布を眺めるような──畏怖にも通じる感情。
そして、真下に広がっていた黒の世界が真っ白に塗りつぶされた。
......来る!
とてつもない、途方もない何か。
『それ』はネイトの立つ床の真下から、そして一気にはるか頭上まで浮上した。
乳白色に近く、それでいて透明感のある白光。
ミクヴァ鱗片の輝きと同色の光。それもそのはずだ、ミクヴァ鱗片は文字どおり鱗。目の前にいるソレは、その鱗が何億と集合した本体なのだから。
「............」
首筋の寒気を自覚しながらも、ネイトは眼前の相手を睨みつけた。
「──ミクヴェクス」
はじめまして、と言いましょうか。優しき子。
〈ただそこに佇立する者〉。
名詠式を創造した二体の調律者のうちの一体。
......アマリリスの言ってたとおりだ。
愚かなる竜が〈その意志に牙剝く者〉であり、愚かなる蛇が〈ただそこに佇立する者〉。
そして目の前にいる存在は、まさに自分の知る『蛇』の外見そのものだった。
白夜色に輝く始まりの蛇。
肌はほぼ全ての鱗が逆立ち、後頭部には二本の突起。蛇らしい巨大な口はあるが牙はなく、頭部には眼に相当する部位が欠如していた。
何より、巨大。
ネイトが見上げているのはその頭部だけだ。
頭部だけで目の前の視界全体を埋めてしまう蛇。その首から下は、彼方の空間からどこまでもどこまでも続いてる。そしておそらく、その身体に終わりはない。
──それにしても、なんて......なんて存在なんだろう。
呼吸すら忘れ、ネイトは目の前の相手を見上げた。緊張しているという自覚はない、それなのに唇がみるみる乾いていくのがわかる。
森厳にして気高く、重厚ながらも美しい。
さながらその存在自体が、犯しがたき絶対の聖域。
私は今まで、その時代の中でもっとも澄んだ願いを持つ名詠士に会い、そして私を名詠するためのミクヴェクス真言を与えてきました。
けれど、どの子もまた、私を前にして少なからず恐怖していたようです。
私を前にして平然と微笑むことができたのはシャオだけでした。
そう。それなのに──
蛇が小さく頭部をゆらす。
それはまるで、人が首をかしげる所作に酷似していた。
ネイト、よりによってなぜあなたが、
空白名詠の名詠士ではないあなたが微笑んでいるの?
「......笑ってるわけじゃないよ。でも、会えて嬉しいのは本当」
爪先が食いこむほど拳を握り、指先に残るふるえを打ち消した。
「誰よりもあなたと話がしたかったから。僕とあなただけで」
そういえばシャオはどうしたんだろう。
ミクヴェクスと一緒に現れるかと思っていたのだけど。
シャオは既に眠っています。
あなた以外の、この世界の全ての子と共に。
この世界で起きているのはあなただけ。
「......僕だけ?」
『シャオの名詠とあなたの名詠、互いに完成の瞬間が同時だった。全てはそれから起こった現象です』
自らが発する白夜色の光とともに、蛇が初めて自らの『声』を発した。
白く輝く、白夜色の声を。
『あなたが夜色名詠で詠ったものは第一音階名詠。あなたたちが真精と呼ぶ名詠生物の名詠でした。一方でシャオの名詠式はミクヴェクス真言。すなわち私を名詠する詠です。これにより、私とこの世界を結ぶ扉が開きました』
「──なんとなくわかったよ。シャオから聞いた覚えがある」
完全を望むミクヴェクスは、名詠式の概念を組みかえることを提案したという。
それは名詠式に対する人の認識──名詠式は自己に都合のいい道具に過ぎないという認識を消去し、もう一度新たな理想図を与えること。そのためにはその前段階、人の記憶から名詠式に関するものを消去することが必要になる。
そしてミクヴェクスはここにいる。
つまり、世界は既にその段階に入っているのだ。
「ここはもう、僕たちが上ってきた塔の中じゃないんだね」
『そう。塔は既に役目を終えて消滅しました』
目が覚めた時点で、ここは塔の中ではなかった。
おそらくはこの世界そのものが──
『あなたの前ではこの姿こそしていますが、私自身が一つの世界だと考えなさい。あなたと、あなたの立つ小さな床だけが眠りを逃れた空間。それ以外の全て──あなたの知る世界は、一時的に私というさらなる世界の内側で眠っている』
「......起きてるのが僕だけってことは、残るのは僕だけってこと?」
『皆、私が塗り替えたこの世界で夢を見ています。しかしあなただけがいまだ眠らないまま。あなたを含め全ての子が眠りにつかないかぎり、私の願いは達成できない』
おだやかな、まるで眠りを誘うほどに穏やかな声だった。
『そう、本来ならシャオの名詠式が完成した時点で、あなたもまた眠りにつくはずだった。そして私は名詠式の新たな概念を全ての子に与える。その上で、あなたが持つ残酷な純粋知性の記憶によって、全ての子に自分の記憶を戻してやるはずだった』
「でも、僕はまだ起きてる」
『それはあなたの名詠した真精の力です。〈その意志に牙剝く者〉の幼生体──あなたがアーマと呼ぶ存在ですね。私の力を完全に拒絶することはできないながらも、あなたを私の影響から遠ざけた』
......ありがとう。
......母さん、そしてアーマ。
僕は間違っていなかった。母から学んだ夜色名詠式。そして共にいてくれた名詠生物が、自分をこの最後の場まで導いてくれたのだから。
『一つお訊きします。なぜ〈その意志に牙剝く者〉でなく、その幼生だったのですか』
ミクヴェクスが鎌首を持ちあげた。
その行為に威嚇の意味はない。おそらくは、自分をより高い位置で見つめるために。
『あなたが持つアマデウスの牙。それはあらゆる名詠を可能とする理想の触媒。私に対抗できるのは〈その意志に牙剝く者〉しかいないこと、知っていたでしょう? なのになぜ、あの場面であなたが詠んだものはその幼生体だったのですか。アレでは私に及ばないことも察しがついたでしょうに』
アーマはあくまで〈その意志に牙剝く者〉の幼生に過ぎない。
それを承知でなお、ネイトがこの場面で選んだのは幼生の方だった。
「〈その意志に牙剝く者〉を詠べるのは、アマデウス真言を持ってる母さんだけでしょ」
『そうです。しかしあなたが習得した真言、そしてアマデウスの牙の力を合わせれば万に一つでも詠べるかも──とは考えなかったのですか? もし成功していれば』
......ううん。
吐息とともに、ネイトは首を大きく横にふった。
「どのみちシャオと同時だったなら意味がない」
〈その意志に牙剝く者〉。
〈ただそこに佇立する者〉。
その勝敗は、どちらが先にこの世界に名詠されるかで決まる。それがもし、二体の名詠がまったく同時に完成していた時には何が起きるのか。
──今は、その答えが見えていた。
「同時に名詠されたらあなたが勝つ。そうなんでしょ?」
『............』
沈黙する白夜色の蛇。
『......そう。既にあなたは、その結論にたどり着いていたのですね』
ミクヴェクスは、それを否定しようとはしなかった。
『そのとおりです。竜と蛇、あなたとシャオが詠を完成させたあの場面。もし同時に名詠されていたら、この世界に顕現していたのはやはり私でした。その差は、もうおわかりかと思いますが、始まりの女と残酷な純粋知性にあります』
夜色名詠の調律者である竜は力の一端を始まりの女に譲渡し、対する蛇は、自らの器官の一部から残酷な純粋知性を生みだした。
だが今、残酷な純粋知性であるクルーエルは、ミクヴェクスの器官に戻っている。
対して始まりの女は、竜と独立した存在で在り続けている。
夜色名詠と空白名詠全体の力は拮抗していても、始まりの女の分だけ竜単体の力が分断されている。だから、同時に名詠された場合は蛇が勝つ。
「でも違うんだ。僕がアマデウス真言に頼らない理由はもっと単純」
『何が違うのですか』
真上から降りそそぐミクヴェクスの視線。
気を緩めれば意識ごと眠りに誘われる重圧を、ネイトはその視線だけで拒絶した。
「僕は最初から、〈その意志に牙剝く者〉を名詠して力を借りる気なんてなかった」
アマリリスが言っていた。
愚かな竜と愚かな蛇。
終わらない抗争、ゆえに苦しむクルーエルという少女。
「クルーエルさんを助けるのにそんなの要らない。母さんやアーマが教えてくれた名詠と、みんなから託されたものがあれば十分だから」
『そう、それもまた疑問だった。なぜあなたが残酷な純粋知性にこだわるのか』
ぐっと蛇が首を近づけた。
見られている。否、覗かれている。表情も心の内も、感情も記憶も何もかも。
『アレと呼ぶのも変ですが、アレはもとより私の器官。役目を終えれば私のもとに帰還するのが正しい在り方。なのになぜあなたは、それを私から引き剝がそうとするの?』
「違うよ」
『今の説明で、何か誤っている部分があるとは思えませんが』
「僕が助けたいのはクルーエルさんだ、残酷な純粋知性なんかじゃない」
『............』
一呼吸にも満たない刹那の空隙。
静寂とも言えぬ沈黙を隔て、蛇が厳かに告げてくる。
『たしかに残酷な純粋知性には、十歳を過ぎるまで人として成長するよう定めました。でもそれは、人と触れあうことが目的ではないのですよ? あくまで器としての成長を促すためですから』
「それが最初の目的じゃなくたって同じことだよ。僕やミオさん、一緒に来てたエイダさんだって、学校でクルーエルさんとの思い出があるんだから」
『そうだとして、そのクルーエルの人格は何を元に形成したと思いますか?』
──答えなかった。
あまりに残酷な帰結がそこに待っているからだ。
『人としてのクルーエルの人格もまた、私の意識を種にして芽吹いたものです』
「......そうだね。それはあなたの声を聴いた時からわかってる」
受け入れがたき現実に、ネイトは奥歯を嚙みしめた。
ミクヴェクスの声、それはクルーエルの声に限りなく近いものだったから。
彼女の声に年齢と重み、深みを加えたものがミクヴェクスの声。その事実はたしかに、彼女の母体がミクヴェクスであると感じさせるには十分だった。
けれど──
『あなたがクルーエルを愛していたというのなら、どうか母体のことも受け入れてください。私の描く世界を信じ、あなたの持つ残酷な純粋知性の記憶を渡して』
「............一つ訊いていい?」
固く閉じていた口をひらく。
「どうしてクルーエルさんもアマリリスも、あなたに反発していたんだと思う?」
アマリリスが自らの存在を賭して、風の生まれる島で名詠を妨害した理由。
競闘宮で、クルーエルが無意識のうちにミクヴァ鱗片に反発した理由。
なぜ二人が母体に反発していたのか。
『それは、残酷な純粋知性が人と調律者の境界に立つ存在だからです。その葛藤から生まれた歪みは、クルーエルが成長していくごとに深まっていく。──だからこそ私は、十歳を過ぎた時点で常にアレの自我と記憶を消去する必要があった』
「............」
『どうしました』
「────よかった」
まぶたを閉じ、ネイトはその場で安堵の息をついた。
心の奥、最後まで靄のかかっていた部分が澄んでいくのを感じる。
『よかった?』
「うん。やっぱりあなたはクルーエルさんじゃない。それがわかった。だからよかったって言ったの」
ほんの少しの懐かしさ、ほんの少しの安堵。
混色を映す瞳で蛇を見つめる。
「ホントはね、あなたがクルーエルさんの記憶や自我の一部を持ってたらどうしようって思ってたんだ。あなたが母体だって聞いてたからその可能性は考えてて、そうしたらクルーエルさんの自我を持つあなたと戦いながら、クルーエルさんを助けなくちゃいけないのかなって考えてた。けど、違った」
今の答えを聞いて確信できた。
名詠式を司る圧倒的な存在たる調律者たち、そのどちらにつくこともない。
僕は最後まで、たった一人の女の子の味方にいてあげられる。
「あなたは最初から、クルーエルさんのことを自分の器官としか見なしていない。だからクルーエルさんの感情も記憶も放置したままなんだ」
シャオと対峙したのと同じ理由。
たった一つ、自分が絶対に譲れない部分。その相違。
「さっきの、二人があなたに反発した理由はね──クルーエルさんは、今までずっと生きてきたんだよ。たしかにあなたから生まれた子供かもしれない。けどね、クルーエルさんはもう、あなたから自立できるくらい成長してたんだ」
人としても調律者としても中途半端な存在かもしれない。永い、永い、途方もない年月。終わらない鎖に繫がれているだけの人形同然の存在だったかもしれない。
けれど、そんな中でだって。
──立派に巣立つことができるくらい、いつしか彼女は人として成長していた。
アマリリスはそれを知っていた。
そしてその願いを託す相手を、ずっと探してた。
「あなただけがそれを認めようとしないで繫ぎとめてる。だから僕が、あなたから二人を解放する。クルーエルさんだけじゃない、アマリリスも一緒に」
『あなたの夜色名詠にそんな特別な力はありません。たとえ〈その意志に牙剝く者〉を名詠したところで同じ。同等の力を持つがゆえ、私と残酷な純粋知性の関係について直接干渉する権利は竜にもないからです』
「クルーエルさんを助けるのに、〈その意志に牙剝く者〉は使わない」
『それはどういう意味でしょう?』
......そう。......これでいいんだよね。
母さん、カインツさん、そして──アマリリス。
〝名詠とは自分を詠ぶためのもの。私はそう思ってるの。自分の心をかたちにして詠びだすことが本当の名詠式だと思ってる。だからこそ、とても難しい。結局私は、最後まで口に出すことができなかったから〟
僕を拾い、育て、そして名をつけてくれた母。
〝彼女のそばにいてあげられなかった。ボクはそれを本当に後悔してる。......同じ思いをしてほしくない〟
道行きを示してくれた虹色名詠士。
〝ありがとう......もう二度と巡り会えない人と調律者たちだけど、それでもあなたと会えたことは忘れない。姉さんをこんなにも愛してくれたこと、そして同じ優しさをわたしにもわけてくれたこと〟
そして、僕を信じて託してくれたアマリリス。
全ての人たちに向けて、今この時だからこそ声にして言わなくちゃいけない。
「僕は」
ネイトは向かい合う巨大な存在を見つめ、そして。
「クルーエルさんを助けるための──僕は、夜明け色の詠使いだから」
『夜明け色の詠?......夜色名詠でも虹色名詠でもない、新たな名詠をこの場で詠い上げるつもり?』
「違うよ。これは新しい色なんかじゃない」
肩にかかった夜明け色のローブに手をふれる。
「この色はきっと、一番最初にあったはずの色なんだ。──クルーエルさんは言ってたよ。『大人は大切なことを忘れてる』って」
子供の巣立ちを遮る大人。
愚かな竜と愚かな蛇が、抗争の間に忘れてしまった音色がきっとある。
始原にして未だ閉じたまま、埃をかぶったままの楽譜。
一番初めにあったはずなのに、誰もが忘れてしまっている音色が。
『そのような旋律、あなた一人で紡げるというのですか』
「そのためにクルーエルさんと一緒に詠うんだ」
右手をそっと開く。
ふわりと手の平に浮かぶのは、本当に小さな黒の花。
黒薔薇の花弁。
──『Ezel』──
赤とも青ともつかない、深い暗色の輝きが生まれた。
花びら一枚一枚から生まれたか細い光の筋。それが幾重にも重なり、結び、真円に近い環を描いていく。
夜色の名詠門。しかし開かれた扉からは何一つ生まれる気配がなかった。
『知っているでしょう? 私と竜の戦いは、どちらが先に名詠されるかで決まると。それはどちらかがこの世界に名詠された時点で、あなたたちの世界を互いに覆いつくしてしまうから。空白名詠の世界で包んだことで、あなたの名詠門が続く先は夜色名詠が作動する世界ではなく、私が眠らせている世界の内側です』
名詠門自体は動く。だが要である名詠門の先に続く場所が、ミクヴェクスの覆う眠りの世界へと強制的に連結されてしまっている。つまり名詠式で何かを名詠しようとしても、それが生まれる場所はミクヴェクスという世界の内側。
「でも、名詠門はちゃんと作用する」
名詠式自体はまだ生きている。既存のものを消去したくても、自分がクルーエルの記憶を持っている限り、ミクヴェクスはまだそれを行えないでいる。
『そう。ですがこの世界ではもはや、あなたが詠べるものはありません。たとえ残酷な純粋知性の記憶を触媒に用いたところでクルーエルは名詠ません』
「それでもこの扉の先は、あなたの覆う世界に続いてるんでしょ?」
徐々に狭まっていく光の扉。
この名詠門の先がミクヴェクスの覆う世界に繫がっている。
ならば彼女がいる場所も──
『──まさか』
ミクヴェクスの声に初めて生まれる狼狽。
『あなたは、自分から眠れる世界に飛びこむつもり?』
皮肉にも、それはシャオが教えてくれたことだった。
何も詠びださない名詠式。言うなれば名詠門をこの世界に招くためだけの名詠式。それこそが名詠式の根幹に迫る名詠なのだと。
......今はその意味がわかる。
名詠式の真の姿。それは名詠門を通じて詠ぶことじゃない。きっと人は、名詠門を通じて会いに行くことができるはずなんだ。そう、大切な人の待つ場所へ。
「クルーエルさんに約束したんだ」
今にも消えかける光の円環を、高々と頭上へ掲げた。
「僕の方から助けに行くって」
elmai xalnwos teo ucxeoi clar,O soa valenlef karel
その瞬間。
消えかけた光の環が命を吹き返した。
光の一粒一粒が強さを増し、環を描く光の筋が輝きを増し、そしてその扉がまたたく間に何倍もの大きさに拡張。
手を伸ばして触れられるほど近い頭上に、煌々と輝く名詠門がよみがえる。
──行こう。クルーエルさんが待ってるところへ。
頭上に煌めく名詠門へと手を伸ばし、そして。
ネイトは、光の扉を越えた。

終奏 『夜明け色の詠使い』
1
まぶたを開いた先には、どこまでも続く夜空があった。
目の前、手を伸ばせば星の光に手が届く。
そして気づく。
自分が──夜空の中に浮かんでいるのだと。
「ここが──」
息を止め、瞬きすら忘れ、ネイトは自分の立つ空間を仰ぎ見た。
光沢を感じるほど透明感のある黒。
遠浅の海のように透く輝く夜色の世界がそこにあった。
......これが、クルーエルさんの眠っている世界。
星の海が広がり、その一粒一粒が瞬いている。彼方には極光がカーテンのように揺れ、今なお新しい光と輝きが生まれ続けていた。
宝石ですら羨むであろう輝きと、それを彩る透い夜色。対照的な二つが神秘的なまでに調和した世界。自分の知る知識では──宇宙。しかしその言葉すら、この世界を喩えるにはほど遠い。神秘性の質が違うのだ。
頭上、前後左右、足下のさらに下まで広がる空間。否、広がり続ける空間。
そして自分は、その世界の中心に立っていた。下には悠久に続く夜色の世界が広がるばかり。にもかかわらず、足下には硬い感触がたしかにある。
「────」
白夜色に輝く硬い床。
その床は前方へと広がり、弧を描くように湾曲しながら上へ上へと伸びている。
白夜色に輝く螺旋状の階段。
ネイトは、その最下層に立っていた。
まさか、自ら私の世界の内側に飛びこんでくるとは思いませんでした。
拡声器を介して聞くようなおぼろげな声。
クルーエルを想わせつつも、だが決定的に異なるミクヴェクスの声音。
「この階段は、あなたが作ったの?」
作ったわけではありません。
これはこの世界の創造と同時に生まれた副産物。
目の前の螺旋階段がこの世界を支える柱。私という象徴が具現化したものです。
螺旋を描いて上へと続く白夜色の階段。それは自然と、白夜色の蛇がとぐろを巻いている姿を想起させるものだった。
自分のいる場所は最下層。つまり蛇の尾の末端だ。
そしてシャオは言っていた。
残酷な純粋知性だった時のクルーエルは、ミクヴェクスの眼から生まれたと。言うまでもなく眼は頭部にある。つまり、この階段を上りきった頂上に彼女がいる──
ネイト、あなたに上りきれますか?
目測すら及ばない規模の螺旋階段。螺旋の弧を一周するだけでトレミア・アカデミーの校庭が丸々入ってしまうだろう。それがかぎりなく上へ、何百何千、数えきれないほど連なっている。
「......上るよ」
塔を上り、シャオの待つ頂上へ行き着いた。それは全てミクヴェクスと対峙するため。
そして今、ようやくクルーエルと同じ世界に行き着いた。
そうですね。
けれどあなたが『セラの塔』を上った時には、あなたのそばを守る面々がいました。
だからこそあなたはシャオの場所までたどり着いた。
それが、今はどうですか?
見回すまでもない。
一緒にいたエイダやレフィスの姿はここにない。
聞かされたばかりだ。
自分以外の全ての人間が、既にこの世界でクルーエルと同様に眠っているのだと。
名詠式に関する記憶を消去される直前の、最後の夢を見ているのだと。
あなたと塔を上った面々もまた、この世界のはるか下で眠っている。
あなたの知る全ての者もまた、この世界のはるか下で夢を見続けている。
それでもなお──
あなた一人で、私という世界そのものを上りきれますか。
一緒に塔を上ったエイダやレフィスはいない。学園で待つミオもいない。
この眠り続ける世界で、たった一人という孤独。けれど──彼女はもっともっと永い間、その孤独に耐えていたはずなんだ。
「こんな寂しい場所に、クルーエルさんを置いていけないもん」
両手を広げ、一度大きく息を吐いた。
「一人だって僕は上る」
そう......
ならば私は、あなたのその歩みを見届けることといたしましょう。
声が強さを増した。
強く、大きく鞭のようにうねる声。
厳格にして尊大な、名詠式を生みだした者としての声。
この眠れる世界はあなたの歩みを良しとしない。
均衡を正すため、この世界そのものが齟齬因子を排除しようと動きだす。
言うなれば、あなたはこれから、全ての名詠式と敵対しなくてはならない。
白夜色の螺旋階段。
クルーエルに続く道であり、同時に名詠式の終末へと続く道。
これがその最後の道行き。
だからこそ。さあ、あなたの想いの強さを私に見せて。
もしもあなたが、私や竜の描いた名詠式を超えられるのならば────
声が消え入るように夜に溶け、最後に残ったのは余韻だけ。
「......でも、一つだけわかったよ」
ミクヴェクスは見届けるという言葉を使った。調律者として、きっと蛇も確かめたかったに違いない。自らが見守ってきた子たちの道行きを。そして、自らが生みだした名詠式の行き着く音色を。
だから、ネイトは螺旋の階段へと足を進めた。
まだ見ぬ果て、彼女の待つ場所へ。
2
──しゃん、......しゃん......──
靴と階段の間でふしぎな音色が鳴り響く。
鈴の音か、あるいはトライアングルか。しかしここに鳴り響いている音は、金属楽器に特有の突き刺すような強さがない。もっと柔らかく、耳に優しい響き。
......階段が歌ってるの?
湾曲するゆるやかな勾配を見上げ、ネイトは耳を傾けた。
『セラの塔』は世界中の音色を集める。一方この螺旋階段は、自ら生きた音色を生みだしていた。きっと、この階段も生きているのだ。星明かりも極光も必要とせず、白夜色の階段は自らが神秘的に発光していた。
「こういう場面じゃなかったら、きっと見とれてたかも。ね、エイダさ────......」
共に塔を上ってきた友人の名を思わず呼びかけ、慌てて首をふる。
......そうだ、今は僕だけなんだ。
逡巡を振り払うつもりで、一心不乱に駆け上る。
階段を一段飛ばしで駆け上がるたび、胸元にしまった結晶たちが小さく踊る。
──使い道がわからない残りの二つ。
涙を模した結晶がクルーエルの記憶。
花を模した結晶はアマリリスの詠を宿したものだという。
使い道がいまだ不明瞭。既に使うべき時を逃したのでは、そんな不安が胸にざわつく。
「でも、とにかく持っていかないと......!」
唯一使い道の明らかな夜色の結晶。牙のかたちをした結晶を握りしめ、ひた走る。
白夜色の蛇は自らの内側に名詠式を封律したと言っていた。ならば今この、蛇の世界の内側ならば名詠式が使えるはず。
そう、それだけが唯一の救いにして鍵なのだから。
途端、視界の端に何かが生まれた。
ひゅぅ──風切り音の方向へと反射的に目を向ける。
はるか上部の螺旋階段から、飛び降りるように降ってくる黒い点。それも一つや二つじゃない。五......いやそれ以上。
ばさっ。
羽ばたき音が聞こえた瞬間、降ってくるそれの姿が鮮明になった。
翼を持つ緑色の名詠生物。そして鋭い爪と牙。だが何よりの特徴は、獅子、雄山羊、ドラゴンという三つの首を持っているということだ。
「三つ首の獣?」
足を止め、頭上から襲ってくる相手へと身構える。
獅子、雄山羊、ドラゴン。三つの表情に浮かぶものは紛れもない敵意。間違いない、この名詠生物は自分に襲いかかるために降ってきたのだ。
「......まさか」
均衡を正すため、この世界そのものが齟齬因子を排除しようと動きだす。
言うなれば、あなたはこれから、全ての名詠式と敵対しなくてはならない。
白夜色の蛇の残した言葉。
単なる脅しでないことはわかってた。けれどこんなに早く......
立て続けに、目の前の階段に着地したのは光の黄色球体。人の膝程度の位置を浮遊しながらゆっくりとこちらに近づいてくる。
「黄の小型精命!」
階段の上部を駆け下りてくるのは、炎鱗の蜥蜴と赤獅子の群れ。さらに空中を見れば、二体の白馬──有翼馬と一角馬が昂ぶった嘶きを上げている。
「有翼馬も一角馬も......普段はあんなに温厚なのに」
ようやく知った。
全ての名詠式と敵対するということは、全ての名詠生物を敵にするということなのだ。それもたった一人で。
それがどれだけ絶望的な状況か、考えるより先に背筋が凍った。
後ろに退こうとした刹那。
かさっ。
振り向いた先、自分が上がってきた階段を這い上がってくる灰色の石竜子。
「灰色名詠まで......」
奥歯を嚙みしめ、その場にかろうじて踏みとどまった。
頭上は三つ首の獣と黄の小型精命。左右から挟みうちのかたちで有翼馬と一角馬。階段の下からは石竜子。そして階段の上部からは赤色の名詠生物の軍勢。
完全に囲まれた、そう悟った瞬間。
──急げっ!
「お願い、力を貸して......」
包囲の輪が縮まりきるより先、ネイトは牙状の触媒を握りしめた。
──『Ezel』──
頭上に煌めく夜色の環が生まれ、そこから音もなく同色の名詠生物が着地する。
体高だけで大人の肩ほどもある黒の猟犬。その背に飛び乗った。
「行って!」
瞬間、猛烈な勢いで黒の猟犬が疾走した。
背後の黄の小型精命と石竜子を一瞬で振りきり、一角馬と有翼馬の体当たりを紙一重で回避。速度を落とさぬまま、上へと続く階段を駆け上がる。
「とにかく避けて進んで!」
首元に摑まるネイトに、黒の猟犬が小さくうなずいた。
もとより一人でこの数量は無謀。
目の前の軍勢ですら恐らく第一波。時間を浪費すれば第二、第三の軍勢が波と押し寄せてくる。今はまだ見当たらないが、真精が敵に回ることすら覚悟しなければ。
「......あとは」
すぐ目の前の階段まで下りてくる赤獅子、そして炎鱗の蜥蜴。自分たちは螺旋階段を上り、相手は下る。衝突は避けられない。
炎鱗の蜥蜴の炎の距離。赤獅子の俊敏性。......だめだ、躱しきれない。
「お願い、二メートルでいいの。僕を乗せたまま跳べる?」
無茶だとはわかってる。自分を乗せて全速力で走り、さらに頭上や横から迫る有翼馬たちを躱し続けている。その上で負担を課すのは自らの首を絞めるも同然。
それでもなお、自分を乗せる猟犬が速度を上げた。主の命に応えるための助走であることが伝わるほど力強く。
......ありがとう。
迫る赤い壁を見据え、ネイトは夜色の触媒を掲げた。
「三秒後に跳躍! 一、────二、────」
ぐん、と身体に一瞬負荷がかかり、身体がふわりと浮いた。
猟犬が跳んだ直後、赤色の名詠生物たちも身構えた。炎鱗の蜥蜴が首を上げ、赤獅子もまた跳び上がるために身体を縮める。
赤獅子が脚に力をこめた刹那、ネイトは地に向かって黒曜石を投げつけた。
カツッ、床に黒曜石が触れた瞬間。
──『Ezel』──
黒曜石を中心に、むせ返るほど高密度な夜色の霧が局所的に発生。赤獅子、炎鱗の蜥蜴、そして背後に迫っていた三つ首の獣を霧が呑みこむ。
黒の猟犬が霧を飛び越え、地に着地したのはまさに同時だった。
「行って!」
霧に呑まれ視界を失った軍勢を後に、自分を乗せた猟犬が階段を駆ける。
「これで全部抜い────」
直後、形容できない違和感がつま先から頭までを一気に呑みこんだ。螺旋階段の歌声。しゃん、しゃんと鳴り響く、あの鈴のような音が止んでいたのだ。
......なんだろう。嫌な予感がする。
疑問が確信に変わったのは、階下から響く別の音が届いた時だった。
ピシッ......ィッッッッ......!
何かに亀裂が入る音。立て続けに、今度は何かが砕けていく音。それも徐々に大きく、そして近づいてくるような。
「まさか......」
ふと思いあたった最悪の悪寒に駆られ、弾かれたように振り向いた。
眼下の階段が、崩れ落ちていた。
一番下、自分が最初に立っていた地点から音を立てて崩れだしたのだ。
ブロックを崩すように連鎖的に進む崩壊。
ついさっきまでいた場所まで崩壊は押し寄せ──その場に留まっていた石竜子や炎鱗の蜥蜴が、次々と真下に向けて落下していく。断末魔の叫びを上げながら点のごとく小さくなり、やがて夜色の空間に紛れて見えなくなった。
無数の名詠生物を落下させながら、それでも階段の崩壊は止まらない。すぐ下の段にまで崩壊の亀裂が迫り──
......まずい!
「全速力で走って! このままじゃ僕たちも危ない!」
猟犬の背に向かって声のかぎり叫ぶ。夜色の名詠生物が姿勢を低くして疾走。流れるように階段を駆け上がり、助走を経てまさに最高速度へと達した直後──
横殴りの衝撃に、ネイトは猟犬ごと吹き飛ばされた。
「......っ!」
硬い階段に身体を打ちつけられ、それでもかろうじて立ちあがる。
否──立ちあがろうとした途端、身体が自分の意志とは無関係に、立ちあがったのだ。
まるで何者かに羽交い締めにされたかのように。
......え、どうし......て......
......身体が............動かない?
視界の端、夜色の空間がゆらめいた。
極光の光がもたらす揺らぎじゃない。この揺らめきはどこかで──
「空白者!?」
人の目では知覚できない透明な躰を持つ名詠生物。その巨体で相手を直接押さえこむしかない相手だが、不可視の躰ゆえ接近されるまでまず気づけない。
最悪なタイミングだ。たった数十段先まで階段の崩壊が目の前で迫っているのに。
「............こんな......ところで」
羽交い締めにされた姿勢で、それでも無理やり身体をねじった。
身体の内側でみしりと聞こえる右肩の悲鳴。関節の可動限界を超え、筋肉の繊維が音を立てて潰れていく。
──たとえ肩が使えなくなってもいい。
──そんなのを怖がってたらクルーエルさんは助けられない。
肩に走る激痛を必死に堪え、右手の拳を空白者に押しつけた。
「僕は............負け......ない............!」
──『Nussis』──
すぐ背後からの光に目を灼かれながらも、ふっと身体の戒めがほどけた。
「っ......ぁ......っ......痛ぅ......」
激痛で右肩が上がらない。喉を押さえつけられたせいで呼吸もままならない。
なかば呼吸すら自由にならない状況で、右肩を押さえた恰好でネイトは歩きだした。
よろよろと、おぼつかない足取りで。
「......早く行かないと......」
ピシッ──ぞっとするほど近い場所で聞こえる崩壊音。見れば、数メートル後方の階段までが遥か下に落下していた。
......だめだ、歩いてたら間に合わない。
quo xeoixaln,glim getie clarlef teo
meh lueiclar fo Loo
yehle iopeg mihhyalef siole xeo pelma elmeigetiedoremren
空白者が潜んでいるとわかった今、階段を行くのは危険が過ぎる。
ならば自分も空を行く必要がある。
vilisphanisisgfend,villisphanisishaul
O slin felhypne,da sanclisie-l-xeliehaul
Isa daboema fotondoremren
ife Ishe cookaLoo zo via
O evo Lears ─Lor bestiqhaon-c- getie =ende coola loar
影に生まれた名詠門を潜り抜け、濡れ羽色の翼を持つグリフォンが現れる。
夜色名詠で第二音階名詠に属する小型精命。第一音階名詠の真精を除き、ネイトが従えるものの中ではもっとも強大な名詠生物だ。
「お願い、乗せていってほしいんだ」
無言でグリフォンが翼を下ろし、乗りやすいように背を空ける。
ピシッ
足下の床に亀裂が入ったのと同時、グリフォンがふわりと宙に浮く。
『間一髪だな』
「うん......」
なんだろう。なんだかすごく......懐かしい感じがする。
自分の味方でいてくれる相手と会話できる。それがどれだけ励まされることかを悟った。そして同時に──気の遠くなる螺旋階段を上り、あらゆる名詠生物が牙を剝いて襲ってくる。それがこんなにも心を摩耗させるなんて。
「痛っ!」
気がわずかにゆるんだ瞬間、右肩の激痛がよみがえった。
『無茶をしたか』
「......平気だよ」
平静をよそおう反面、激痛で声を出すのも辛かった。
──だけど無茶したかいはあったはず。
曲がりくねった螺旋階段を自力で上るより、翼を借りて空を疾走した方が数段早い。みるみるうちに高度が上がり、自分と猟犬が上ってきた箇所はもうはるか下だ。
「......こんなに」
通過していく階段を見下ろし、あらためて身震いした。
上部へ行けば行くほど名詠生物の軍勢は増大する一方だ。青色名詠の水妖精、赤色名詠からは赤岩像。一際大きい白い竜はおそらく真精だろう。さらには競闘宮で見た、混色の名詠生物まで混じっている。
『信じていた名詠式そのものが最後にして最大の敵となる。辛いか?』
「......辛いよ。覚悟してたよりずっと辛い。でもね」
グリフォンの背を左手でさすり、ネイトははにかんだ。
「後悔はしないと思う。今もそうだし、この後も」
『好い応えだ』
翼を大きく打ち振るわせ、グリフォンが首を持ちあげる。
『来るぞ』
──もう次が?
頭上を仰ぎ、ネイトは唇を嚙みしめた。階段側ばかりを警戒し、自分たちのいる宙はまるで気に懸けていなかったことが仇になった。
炎の吐息を嘴から洩らすのは火食い鳥。その周囲を過ぎる緑色の風は緑風妖精。さらに背後には石鎗を持った有翼石像、その肩にはやはり同色の石竜子が止まっている。
その軍勢の連なる先、何か巨大なモノが蠢いた。
退化した腕の代わりに巨大な翼を羽ばたかせる緑色の竜。
「────疾竜!?」
うすうす予感はしていたが、とうとう宙を駆ける真精まで。
第二音階名詠の名詠生物を中心とする十数体の襲撃。その背後に控えるは緑の真精。
捌ききれる量じゃない。
「遠回りしてもいいんだ、何とか回避できない?」
『小さき主を抱えての身では厳しいだろう』
グリフォンが虚空で翼を止めた。
『ならば取るべきこと、わかっているな』
「......うん」
すっ、と、その場に静止した名詠生物の上で立ちあがる。
『面目ない』
「ううん、ありがとう。ここまで来れただけでもすごく助かったよ」
背を撫でてやり、そして。
「ごめん、大変な役をお願いしちゃって」
『むしろ光栄。──行け』
その声に背を押され、ネイトはグリフォンの背から飛び降りた。唸る風の音。糸のように細かった階段がまたたく間に巨大化していく。
「っ!」
右肩を押さえたまま着地。衝撃に痺れた足に鞭を打ち、その場ですぐに立ちあがった。
──よし、周囲に名詠生物はいない。
グリフォンの背から確認したかぎり、階段の崩壊もここに達するまでは時間がある。
「......とにかく行かないと」
奇怪な悲鳴が聞こえるのを後にする。螺旋階段から離れた場所でグリフォンが囮役に徹している。それを無駄にしてはだめだ。
もう一度あの猟犬を......いや、だめだ。片腕がろくに使えない。残る片腕で名詠生物の背にしがみつくのは難しい。猟犬でなくても、たとえば黒馬でも同じことだろう。
ここからは自分の足だけで進まなくては。
──『Ezel』──
「あとはキミだけが頼りだね」
夜色の蝙蝠に指示を出し、ネイトは目の前の階段を駆けた。
連綿と続く螺旋の連鎖。『セラの塔』が直進だったぶん、円を描くこの勾配はただ走るだけでも足に負担がかかる。
塔も含めれば、もうどれだけ走っただろう。
周囲に満ちる音は自分の足音と呼吸音、そしてドクンと響く胸の鼓動だけだ。
......なんだろう、熱い。
自分の胸に手をやる。感情の昂ぶりとはまた別、直接的な熱を持った何か。
熱を発生していたのは、花を模った結晶だった。緋色の結晶が輝き、ほのかな熱をもって発色している。まるで花のつぼみが開く前兆。
「アマリリスが......咲こうとしてる?」
その思考を妨害するように、突如、頭上の蝙蝠が飛行経路を乱した。
名詠生物の超音波が何かを探知した兆候。だが回避行動を取る蝙蝠と対照に、その周囲に他の名詠生物の姿はない。つまり、蝙蝠が察知した相手は──
二体目の空白者!
牙の結晶を握り、蝙蝠の影が落ちている場所へ拳を突きだした。
何かが拳に触れる感触。
──『Nussis』──
硝子が砕けるにも似た音。光の渦が現れ、それもまた終息するように閉じていく。
わずかに空白者の咆吼だけが余韻に残る。
胸をなで下ろそうとした矢先、足下に伝わるわずかな物音。
かさっ。勾配の段差に隠れ、身を潜めていた石竜子が飛びかかってきた。
「──っ!」
頰をかすめる石化の爪に身をひるがえす。後方に着地する灰色の名詠生物に背を向け、ネイトは呼吸も惜しんでその横を駆け抜けた。
......危なかった、爪の風圧がまだ頰に残ってる。
『屈め!』
彼方から伝わるグリフォンの怒声。いつにない厳しさを孕んだ声に、頭上を確認するより先に身体が動いた。階段の前方へと身を投げだす。まったく同時、轟と唸る風音が背中をこするように過ぎていった。
ズッ。床に何かが突き刺さる鈍い音。
「......有翼石像」
石鎗を持った動く石像が、突き刺さった己の鎗を引き抜いた。グリフォンが注意を惹きつけていた内の一体、先の名詠式の光を察知されたのだろう。
もはや対峙するだけの余裕もない。時間も、そして体力も限界に近い。
──『Ezel』──
鎗を振りかざす名詠生物の足下目がけ、ネイトは黒真珠の欠片を投げつけた。
二度目の黒煙。濛々と膨れあがる夜色の煙に巻きこまれ、有翼石像が対象を見失う。
......よし。
息をととのえ、さらに上へと駆け上がる。
その瞬間だった。
──トン
............
..................え?
小さな、可愛らしいほどに小さな音。
それが鼓膜に響いた時には、ネイトは螺旋階段から突き飛ばされていた。
急転する視界の端、黒煙の中から突き出ているのは有翼石像の鎗先。鎗の柄で薙ぎ払われたことに気づいたのは、螺旋階段から足を踏み外した後だった。
「────っ......く......!」
反射的に伸ばしたのは、利き腕である右手。
指先が階段の縁に引っかかった途端、右肩から背中に激痛が奔った。宙ぶらりの体勢で、かろうじて右手の指先だけで落下を免れる。
懸垂の要領で身体を持ちあげようとして──
............そんな。
......腕が......動かせない?
顎先を冷たい汗が伝っていく。
肩の激痛に、普段なら難なく動かせるはずの右腕にまるで力が入らなかった。動かせるのは指先だけ。だがそれも次第に力を失っていくのがわかる。
このまま仮に名詠生物に襲われなくても、その先に待つものは──
............このまま落下する?
はるか真下。
どこまでも続く夜色の空間。その下に悠然と広がるものはおそらく、ミクヴェクスの覆う眠れる世界。
......あそこに落ちたら、もう戻れない。
......落ちたら、僕まで目を覚まさなくなる。
ただ一人眠りから逃れていた自分まで眠ってしまえば、クルーエルを助けられる人間はもういない。残酷な純粋知性としての彼女の記憶がミクヴェクスに渡り、全ての名詠式が根本から生まれ変わる。──クルーエル自身の完全な消滅と引き替えに。
......早く......身体を持ちあ......げ......
............何してるのさ、僕の身体でしょ。
......お願い............動いて......よ。
歯を食いしばり、激痛の中で身体を持ちあげる。
──が、それも数センチが限界だった。
左腕も階段の縁に届かないまま、再び少しずつ指先が階段の縁を滑っていく。
「っ......ぁ......!」
食いしばった唇から洩れる声は、苦悶でなく嗚咽だった。
......なんで。
......ここまで来て............なのに、あと少しなのに............
............何もできないの?......そんなの────
──いやだ。
絶対、絶対いやだ。
諦めたくない。ここで諦めたら......僕を信じてくれた全ての人を裏切ることになる。
だから────
僕は......諦めない!
そして、少女の声が聞こえたのはその時だった。
〝......ありがとう〟
〝ありがとう、こんなわたしにまで............その気持ちだけで十分〟
それはここに来る前の、緋色の少女の声だった。
「──アマリリス?」
肉声ではなく、胸に入れていた花の結晶。その緋色の熱と光で伝わってきた。
〝もう会うことはできないけれど、それでもあなたのことは覚えてる〟
〝ありがとう......もう二度と巡り会えない人と調律者たちだけど、それでもあなたと会えたことは忘れない〟
緋色の輝きがまぶたを灼いた。
「花が」
胸に入れていたはずの花の結晶が、ふわりと宙に浮かんでいた。つぼみであったはずの結晶。それが少しずつ花弁を開き──
「......咲いた?」
いつしかそれは結晶ではなく、本物の緋色の花になっていた。
開花したアマリリスの花びらが光を放つ。
花びら一枚一枚が炎を宿したように燈え、輝き、静かな旋律を息吹いていく。
〝クルーエル、ネイトに礼を言いなさい〟
〝あなたという存在を支える何よりの柱が、あなたの心に宿るわたしでも黎明の神鳥でもなく、いつしかあのネイトという少年になっていた。そのことに〟
〝わたしの真言の一端を──あなたに、わたしのとっておきの詠を教えてあげる〟
その花から聞こえてきたそれは。
「アマリリスの......記憶?」
それじゃあ、アマリリスが託してくれたものは......彼女が彼女として生きてきた思い出そのものだったんだ。
〝わたしが姉さんに伝えたとっておきの詠。それは──〟
〈アマリリス真言・大母新約篇奏──『全ての目覚める子供たち』〉
En Se lu,Lu siaelmei hypespheno
De peil,Ee dewl nec gfend
......これは、あの時の。
忘れやしない。競闘宮で混色の名詠生物が現れた時、クルーエルが奏でた詠だ。

澄んだ音色を超えた優しさ。
美しさを超えた愛おしみ。
母親が子供に聴かせるような、慈愛に満ちた祈りの詠。
「......なんて綺麗な詠」
一度目の衝撃を上回るほど、あらためてその旋律の優しさが心に沁みる。
こんな状況ですら、その音色に聴き入ってしまうほどだ。
......だけど。
......手が............もう力が............
階段の縁から指が滑っていき、最後まで引っかかっていた爪の先までもが縁から剝がれ、────ネイトは螺旋階段から虚空へと落下した。
......クル......エ......
............
......
「は~い、ネイト君みっけ!」
階段の縁から剝がれた自分の手を、別の誰かがぎゅっと摑んだ。
............え。
......だれ?
逆光で顔が見えないけれど、でもたしかに聞き覚えのある声だ。
ただ、白夜色の光に照らされ、くせのある金髪が視界に入って──
「ネイト君、ちょっとネイト君てば! 早く上がってきてって! あたし一人じゃ支えるの大変なんだから!」
......ミオさん?
「うんうん、ほら早く上がってきてってば」
のほほんとした表情でうなずくのは、トレミア・アカデミーで別れたはずのミオだった。そして、今はミクヴェクスの眠れる世界で夢を見ているはずの。
「......え」
「ほら早く、早くしないとあたしも落ちちゃう!」
「え、あ、は、はい!」
ミオの手を支えに左手で階段の縁を摑み、身体を持ちあげた。
けれど自分が助かったことより、目の前にいる彼女は──?
「よいしょ! はー、よかったねネイト君、危機一髪だね。......うっわー何ここ、下が見えないよ! 落ちたらどうなっちゃうの!?」
階段の端から下を眺めては悲鳴を上げるミオ。制服もトレミア・アカデミーのものだし、口調や性格なんかも一緒。間違いなく本物の彼女だ。
「......ミオさん、どうしてここに」
「あたしもわかんない。気づいたらここにいたの。そしたらネイト君が階段から落ちそうにしてるんだもん。......んー、でもたしか」
頰に指先をあて、考える素振りでうなずくミオ。
「なんかね、トレミアにいた時に急に眠くなったと思ったんだけど──夢の中で呼ばれた気がして。誰かわからないけど、なんかすごく大事なことがある気がして......」
夢の中で誰かに呼ばれた?
それは、どういうことだろう。
noi venesisxin,ilmei Zelahevhe elepeqqy
Lu nedia kyelEgunI,uc hizgetie-l-getiexeines wat
「ね......ネイト君、後ろ!」
突如、ミオが顔を蒼白にして金切り声。
......まさか!
振り返ってすぐ、目に映ったのは有翼石像の石鎗だった。詠びだした黒煙は時間と共に消え、視力を戻した有翼石像がすぐ背後まで。
「しまっ............」
視界一杯に有翼石像の石鎗が伸びて──
「はいはーい、よそ見しちゃだめじゃん」
その石鎗が、対方向から伸びた銀色の鎗に弾かれた。不意の一撃に鎗を落とした名詠生物目がけ、亜麻色の髪の少女が駆ける。
キンッ──硬い音と銀閃が響き、その瞬間には有翼石像が動きを止めていた。
「やれやれ、誰かにたたき起こされたと思って来てみれば」
銀色の煙を上げる名詠生物を前に、いたずらっぽい笑顔で振り返る彼女。
日焼けした肌にボーイッシュな顔だち。そして何より、自分の背丈より長い銀色の鎗を軽々と操るその姿は。
「お待たせ、ちび君」
「エイダさん!?」
ミオに続き彼女まで。でも、どうしてここに。
ミクヴェクスが言うには、誰もがこの世界で眠りに陥っていたはずなのに。
......まさか。
今ここに流れてるアマリリスの詠って────
Lu vilisEa tis,De kissEa lue,ende
vilis Eaelenis Iesfert recreyhuda
そうだ。
あの時、アマリリスから花の結晶を託された時に告げられたものは。
〝わたしからも餞別〟
〝アマリリスの真言〈全ての目覚める子供たち〉──大した力は残っていないけど、眠りについた子を起こすくらいはできるはず〟
全ての目覚める子供たち。
眠りについた子を、再び起こすための目覚めの詠。
......それが意味するものは、つまり。
再び顔を上げた時──
目の前に広がる光景に、今まで堪えていたものが一気に噴きだした。
「ほらちび君、泣くなっての」
「......泣いて......なんか、ないです」
エイダに背を叩かれ、ネイトは小さく首を振った。
頰を何かが伝っていく。目の前が、ゆれる涙のせいでかすんで見えなかった。
そこには──
「ちょっ......な、ナニよこれ! ウチらなんでこんなとこいるの! こらオーマ、腰抜かしてないで説明しなさい」
「ば、ばか言ってんじゃねえよ! 一般庶民の俺がわかるわけねえじゃねえか。と、とりあえずだな......よし、とりあえずこの階段歩いてみようぜ」
「いいね、冒険だね! あ、ネイティだ。おーい、ネイティも一緒においで!」
あわてふためく男子生徒と、長身黒髪の少女が近づいてくる。
......サージェスさん、オーマさんまで。
そしてその後ろには、教室のみんなの姿。
そう。自分とクルーエルのクラスメイト全員が、立っていた。
Ea nepiesphia elenoi heren,nevaliss
Lu milleypheno,dia peqxeelfa
「ネイト君、あ、アレあれ!」
ミオが指さす方向、空中から降りてくる黄色の小竜。
その狙いは自分やミオでなく、その背後、大勢で固まっているクラスメイトへ。
まずい!
「サージェスさん、オーマさん、離れ──」
──『Ruguz』──
階段の端に輝く青い名詠門。
サージェスたち目がけ降下していた黄色の小竜が、階段の端から生まれた氷壁に衝突し、夜色の虚空へと落下していく。
誰の名詠だろう。
振り返ったそこには──
「こらオーマ、遊んでないで全員いるか点呼なさい! クラス委員でしょ!」
眩い金髪をゆらす、若葉色のスーツを着た教師が立っていた。
「え、ちょ......ケイト先生、こんな時にっすか?」
「こんな時だからやるんです。サージェス、女子の点呼お願いね」
ケイト教師が、立っていた。
さらにケイト教師が立つ背後では──
赤、青、白。それぞれの名詠色を示すコートをまとった三人の教師の姿があった。
「ゼッセル、控え室に置いてた私のクッキー、食べたのあなたでしょ!」
「ち、ちげえって。俺じゃないっての......」
「噓おっしゃい。あの隠し場所知ってるのあなたくらいなんだから!」
「いや、だからさ、腹すかせてたジール名詠学舎の生徒がいてさ。お前、冬場で体重落ちにくいとかぼやいてたじゃん。だからあれくらいやってもいいかなって」
「......まさかとは思うけど、その体重うんぬんまでその子に話してないわよね?」
「..................やべ、急用思いだした!」
白夜色の階段をひたすら駆け下りる赤色名詠の教師と、
「ぜっせるぅうううう!? あなた今日という今日は! ミラー、捕まえるの手伝って!」
追いかける白色名詠の教師。そして。
「エンネ。......走って、少しは体重落とせるといいな」
その二人を前に、溜息を洩らす青色名詠の教師がいた。
ゼッセル先生、ミラー先生、エンネ先生。
学園の教師たち。
──なんでだろう、本当にふしぎ。
まだ何かしてくれたわけじゃないのに、ただそこにいてくれるだけで心強い。
かつてあの三人の教師もまた、母と同じ教室で学ぶ級友だったという。それが今、彼らは自分の通う学園の教師として、こんなにも勇気をくれている。
......本当に、みんなが。
De peil,Ee dewlnec zsary
En Zecpheno tisclar lu hemEec shez,
ゴッ......ゴゴッ............
稲妻が轟くような低い地鳴り。螺旋階段そのものが、何かに怯えるように小刻みに震えだした。
「ケイト先生、下!」
エイダの怒号に教師、そして生徒の誰もが声を失った。
短距離走ができるほどの幅を持つ螺旋階段。それが糸のように細く見える巨体の怪物が地鳴りと共に上がってきたからだ。
『Keinez』・『Ruguz』・『Surisuz』・『Beorc』・『Arzus』。
不自然なほど鮮やかな五つの首を持つヒドラ。一つの首だけで真精一体分の大きさはあろう、規格外の巨大を誇る名詠生物。
まさか。
「......あの時のヒドラ」
全身にのしかかるような重圧に汗が噴きだす。額に浮きでた大粒の滴をぬぐい、ネイトは眼下の怪物を睨みつけた。トレミア・アカデミーの競演会で生まれた五色のヒドラ。それが一歩、また一歩近づくたび、螺旋階段に亀裂が走る。
そうか。さっきまで階段を崩壊に追いこんでいた元凶は──
「さてどうしよっか。ちび君?」
「............」
ヒドラを見据え、言葉に詰まった。
あの時とまるで同じ怪物だとしたら、今ここでアレを押さえるのは至難。ならば全員でさらに階段の上部へ避難する? 否、この人数でそれは難しい。いずれ追いつかれることは目に見えている。
......いったいどうしたら。
「やあ少年、なかなか面白いことになってるじゃないか」
カツッ
真紅のヒールを床に打ちつけ、白衣をひるがえす女性研究者。
ケルベルク研究所に残っていたはずの彼女は──
「誰かの詠に呼ばれてきたと思ったら、まさかこんな楽しい空間があるとはな。名詠式の秘密を根底から覆す事実だぞこれは、研究者冥利に尽きる」
「......サリナルヴァさん?」
「五色の首を持ったヒドラとは珍しい、生け捕りで研究室に直行だな」
濃緑色の前髪を手で梳いて、彼女が顎で階段の上部を指し示す。
「急いでるんだろ? アレは私たちに任せて、さっさと上に行ったらどうだ」
私......たち?
「そうそう、ああいう派手なのを相手にするの悪くないじゃない。華があって」
肩にぽんと手が乗せられた。
振り向くまでもない。背中ごしに聞こえたその声は、あらゆる楽器より澄んだ自然の奇跡のような魔性の響きで──
「キミも、少しだけ大人の顔になったかな?」
肩先で外向きに跳ねた碧色の髪に、女豹を思わせる大粒の瞳。白毛皮のコートを羽織った歌后姫が、器用に片目をつむっていた。
「お待たせ、私たちも手伝わせてね。ちょっとは名誉も挽回したいじゃない?」
「......シャンテさん」
彼女だけではない。シャンテがくすりと肩をすくめる脇に、青のインバネスコートを羽織った寡黙な男の後ろ姿まで。
......ネシリスさん。
......あんな大けがをしてたはずなのに............来てくれたんだ。
「あ、あの! ネシリスさん、僕──」
ゆっくりと青の大特異点が振り向いた。
「......僕、ネシリスさんにお礼が言いたくて」
「俺は何もしていない。俺が何かする時は、俺のためにする時だけだ」
その時、ネイトは本当に珍しいものを見た気がした。
不器用で無骨で、誰より寡黙なその男が、小さく小さく笑ってみせたのだ。
「だからお前も、自分で進め。俺が言いたいのはそれだけだ」
たった一言。
けれどその一言は、競闘宮の覇者が自分だけに贈ってくれた言葉。
「──はい」
「では、わたくしからも一つだけ。ネイト君?」
ネシリスの陰からしずしずと出てきた白衣の女性が、控えめな仕草で階下を指さす。
「ああいう大人になってはいけませんよ」
〈イ短調〉の女性医ティンカが指さすその先で──
「ほう、あれがお前の苦戦したという怪物か。......ふん、あんなの単なるデカブツじゃろ。あんなのに手を焼くとはお前も焼きが回ったな」
「バカ言え。あの時はちっとばかし腰痛を患っていただけだ」
「ほほぅ、では見せてもらおうか。ちょうどアレの首は五つある。どちらが多く仕留められるか勝負といこう」
「良いだろう、積年の決着を今ここで────」
祓戈を携えるルーファ老。
隣にはトレミア・アカデミーのゼア学園長。
そして二人の口論を弱り顔で眺める、祓名民の頭領の姿があった。
「生涯を通した喧嘩仲間もいいですが、クルーエルさんとあなたには似合いませんから」
口元を隠してしっとりと笑う女性医。
「そうそう。私とネシリスみたいな大人の関係になりなさい」
「......シャンテ、腕に抱きつくな。動くのに邪魔だ」
「いいじゃない。ほらネイト君、ここは任せてお行きなさい?」
意味ありげにこちらへウィンクするシャンテ。
彼女に小さく会釈し、ネイトは〈イ短調〉の面々に背を向けた。
ende celaslin felZec nazal
Es E lisnedia kyelorbie Neigt
「ネイト君、あれ!」
ミオが指さすのは階段の上部。段差の道を滑るがごとく疾走する銀色の名詠生物。
その周囲には十二の守護剣。
「......灰色名詠の真精?」
まずい、今からではアレに対抗できる名詠が......間に合わない!
超高速で迫る銀色の真精。
十二からなる大小様々な剣があらゆる角度から迫り──
──ギンッ!
美しいとすら感じる反射音。
飛来する剣のことごとくが、十二からなる銀色の盾に弾かれた。
「すまないネイト、遅れた」
「ネイト君おまたせ」
ジール名詠学舎の制服を着た銀髪の青年。その後ろに隠れるように佇むのは、同じく制服姿をした葡萄酒色の髪の少女だ。
「レフィスさん、......ヘレンさんまで」
「俺たちだけじゃない」
そう言ってレフィスが指さす先は十二銀盤の王剣者。今まさに襲ってきた真精が、凍りついたように動きを止めていた。その身体に、十二からなる銀色の剣が刺さっている。
自らの守護剣ではない。突き刺さった剣の脇に、まったく無傷の真精がもう一体。
そう、十二銀盤の王剣者は二体いた。
......信じられない。だってこの真精は灰色名詠。
そう、ネイトの知るかぎり、この真精を名詠できる人間はわずかに一人。
「しょせんは虚像の真精か。多少は遊べるかと思って来てみれば......くだらん」
皺だらけの旅人装束に身を包んだ名詠士。
恋人と同時に自らの右腕を失ったその男は、自分に背を向けるように立っていた。
──背を向けようと見間違えるはずがない。
その声、佇まい、何よりあの灰色名詠。
ミシュダル。学園で、ケルベルクで、幾度となく対峙した名詠士。
......まさか、僕を助けてくれるために?
「何を呆けている?」
背を向けたまま、かつての敗者は押し殺した声で告げてきた。
「目障りだ────さっさとどこにでも行くがいいさ」
「......あの、ありがとうございます!」
返事はない。けれど、どうしても伝えたかった。
目の前の男に。
そして、ここに集う全ての人間に。
Ris sia sophia,Riris ele,Selah pheno sia-s-orbieCo Lue-l
......クルーエルさん、見てますか。
こんなに、こんなにたくさんの人が集まってくれたんです。
学園の友達も、先生も、知りあいも──そして、あれだけ憎んでたはずの人も。
僕と。
そしてクルーエルさんの力になってくれるために。
「ネイト君、ここで止まってちゃだめなんでしょ?」
ミオが指さすのは果てなく伸びる螺旋の道の、さらに先だった。
「あと少しだってあたしも思う。だから頑張って!」
今ならわかる。
ミクヴェクスの眠りを打ち破るきっかけはアマリリスの詠。だけど本当に大事なものは、きっとクルーエルが積み重ねてきた絆そのもの。
ここにいる人たちは、自分の意志でここに来てくれた。
アマリリスの詠の呼びかけに応えて来てくれた。
何か特別なことをするためじゃない。
──たった一人の女の子を助けるために。
「ミクヴェクス、どこかで見てるんでしょ」
胸に手をあて、ネイトは小さく呟いた。
「これが、クルーエルさんが生きてきた証なんだよ」
残酷な純粋知性という存在では決して生まれなかった証。
ここに集う全ての人間が、彼女が人として繫いできた絆そのもの。
だから。
「僕は、僕の信じる詠を紡ぎにいくよ」
そう。全ての──
──全ての夜明けを夢見る子供たちと共に。
3
走って、走って、走り続け──
にわかに、ネイトは顔をあげた。
......螺旋の階段の終わりが近い。
名詠生物の襲撃がぷつりと途切れたことが理由? 否、そう感じさせたのは、上部から微風にさらわれてきた幽かな音色。
......なんだろう、すごく懐かしい。
子守歌のような、風のざわめきにも似た郷愁が溶けこんだ旋律だ。
音の始まる場所が近い。
だから、この円環を象徴する階段も終わりが近い。
──きっと待ってくれている。
そしてそこには、自分を待っている者が二人いるはずだった。
アマリリスの詠に応え集った者たち。自分とクルーエルが出会ってきた全ての人たちがここにいるというのなら、きっとあと二人。
......一番大事な二人が残ってるから。
こくんと喉を鳴らし、ネイトは自分の進むべき道を見つめた。
待たせちゃいけない。
一分でも一秒でも早く。それが、あの二人への感謝の気持ちと信じて。
走って、走って、走り続け──
どれだけ走り続けたことだろう。
見上げる先で、螺旋状の道が途切れていた。
扇状に幅を広げていく道。
ぽっかりと途切れた階段の最上部に、二人分の影が伸びていた。
透きとおった夜色の世界の中、星明かりを浴びて佇む二人。
──今までたくさんの人と会ってきた。
──でもきっと、僕とクルーエルさんにとっても、この二人こそが。
白夜色の道。
その終端に佇むのは一人の男性、そして一人の少女だった。
ゆっくりと、向かって右側に立つ男性が振り向いた。
仕草に合わせてゆれる枯れ草色のコート。
「やあ、大変だったみたいだね」
おどけた口調ではにかむ彼。
金とも茶ともつかない髪が静かにゆれる。
「......やっぱり、待っていてくれたんですね」
段上の男性を見上げ、ネイトもまたはにかんだ。
虹色名詠士、カインツ・アーウィンケルが立っていた。
「ありがとうございます」
「礼を言われるほどじゃない。どうせボクも彼女と話があったからね」
彼が見つめるその先に──
濡れ羽色の髪をした少女。見知らぬ制服を着ているが、その服からもほっそりとした体つきが容易に見てとれた。折れそうなほどか細い手足。
なのにふしぎと、その背中は見ている者に強い意志を感じさせる。
......僕は、この人を知っている。
少女は語らない。頑なに背を向けているばかり。
「......母さん......ですよね......」
言葉が出てこない。
「......あの、僕......本当は母さんにたくさん言いたかったことがあるんです。でも──」
詰まりそうになる言葉を、必死で口にした。
今しか伝える時間が残ってないのだから。
「僕、行かなくちゃいけないから。クルーエルさんを助けに行かなくちゃいけないから」
「──大きくなったのね」
自分の記憶にある母親の姿でなくても、その声は、紛れもない母のものだった。
「もう、わたしが教えられることは何もないかな」
振り向かないけれど伝わってくる。
少しだけ嬉しそうに。
少しだけ悲しそうに、母は言った。
「......そんなこと」
「アーマがね、嬉しそうに言ってたわ。本当に逞しくなったって」
アーマがそんなことを?
「僕......アーマに褒められたことってほとんど覚えてない」
「そういうものよ」
くすりと、背中ごしに伝わる小さな笑み。
母が片手を頭上へ掲げる。
──Ris siaSophia,U Sez ludia rissEc qhaon──
不意に、羽織る夜明け色の外套が大きくゆれた。
木枯らしを思わせる突風が吹き荒れ、カインツのコートと母の黒髪を巻き上げる。
「この子がね、あなたを連れて行く役は自分がやるってきかないの」
濡れ羽色の少女の頭上、夜そのものを具現化した名詠生物が飛んでいた。
何よりも大きく雄々しく、尊大で優雅。
夜色名詠を象徴する竜が、逆巻く風を従えて着地する。
「......アーマ?」
『早く乗れ。小娘が待っている』
普段と変わらない尊大な物言い。
けれどその口調は、どこか照れたように小さく弾んでいた。







「......行っちゃったね。いいのかい」
夜色の少年を乗せた竜が小さくなる姿を見送り、カインツは隣の少女に振り向いた。
「本当はもっとかけたい言葉もあったんだろ?」
「冗談。この姿で親らしくふるまえって言うの」
踵を床につけたまま、つま先だけをくるりと回転。素朴なスカートをふわりと浮かばせ、ほっそりとした少女が振り返る。
「こんな姿であの子に会えないもん。だから、あれでよかった。わたしにとってもあの子にとってもね」
イブマリー。
それはカインツが最後に見た、エルファンドで別れる直前の姿だった。
......君の頰が赤くなってるのは、言わない方がいいんだろうな。
「何? その笑い」
「なんでもないさ」
口元の苦笑を隠そうともせず、カインツは首を横にふってごまかした。
「君も大変だね。彼の前では親として、ボクの前ではボクの知る君として」
「女ってそういうものよ。男にはわからないでしょうけど」
艶やかな色合いをみせる黒髪を手で梳いて、彼女が意味深に笑ってみせる。
「ところで、この先ってどうなると思う? あの子がクルーエルさんを助けられたとして。その後に」
「まるで何かが起きるような言い方だね」
「逆よ。場合によっては......逆に、何も起きなくなるかもしれない。名詠式そのものが本当に消えてしまうかもしれない。残ったとしても、今のものとはまるで別のものになるかもしれない」
淡々と、けれど彼女の言葉は小さく小さくふるえていた。
「〈ただそこに佇立する者〉からクルーエルさんを解き放った時、調律者に起きる影響はわたしたちの計算や予想の及ぶものじゃない。たとえば五色の名詠、それに夜色名詠も、使えなくなるかもしれない。──言ってること、わかる?」
イブマリーとこうして会話を重ねられること。
それが、この場この時で最後かもしれない。
「......そうだね。だけどその時は」
「その時は?」
試すような言い方で、彼女は微笑んでいた。
とびっきりの謎かけに、とびっきりの回答を待つ子供のように。
──そう。彼女は何も、これが最後の別れだと言っているのではない。
彼女が本当に求めている答えは。
「必ず会いに行くよ。たとえ今ある扉がなくなったとしても」
新しい約束があればいい。
あの日あの時、学園でかわした時と同じように。
「あら。それはどうやってかしら」
「さあ、でも何とかできると思う。そんな気がするから」
次の瞬間。
口元に手をあてていた彼女が、堪えきれない様子で噴きだした。
「ばか......でも、あなたらしいわ。何も考えてないのにその自信。前から何一つ変わってないのね」
「でも、だからいいんだろ?」
「ええ。本当に」
か細い指で自らまぶたを彼女がはらう。
嬉し涙をぬぐうように。
「むしろ難しい方がいいじゃない。会えた時の感動が盛り上がる」
「そうね。誰かさんの名詠は、不可能を否定するための名詠だものね」
目元をぬぐっていた指先を離したその後に。
イブマリーの視線は、夜色の竜が飛び立った先をじっと見据えていた。
「あとは──」
「うん、ボクらはここで見守るだけだろうね」
突風にコートをさらした姿で、カインツもまたその方向をじっと見つめた。
──見守ろう。
──かつて同じ想いを抱いた大人として、今、同じ想いを追いかける子供たちを。







「............」
夜色の竜の背に摑まる腕に、ネイトはじっと力をこめた。
『どうした』
「──なんでもないよ」
本当は、嬉しかった。
もう一度アーマに会えて。もう二度と会えないんじゃないかって思ってた。
同時に、心の底から勇気づけられた。
これほどたくさんの応援に支えられているのだと。
「アーマ、ありがとう」
『なんだ急に』
「ううん......でも言いたかったの」
今までずっと一緒にいて、言いそびれていた言葉。
だから言っておきたかった。
ここから先を、最後まで見届けてもらうために。
『そうだな、これで最後だ』
アーマが首をあげた先、夜色に透ける空間のはるか向こう──
白夜色の光を放射する、卵の形状をした結晶が虚空に静止していた。
完全なる原型。
完全なるミクヴァ鱗片。
競闘宮で見た時よりさらに大きい。あの時は乳白色だったものが、今は〈ただそこに佇立する者〉と同様の白夜色へと、少しずつ色が移り変わっている。
はるか彼方から眺めるそれは、まるで巨大な卵だった。
白夜色の螺旋階段も、下を支える床もない。
ただただ虚空に浮遊──否、静止していた。流れる時すら止まっているかのように。
そう。
自ら光を放つ触媒の完成形であり、
内部に眠る子を守り続ける卵であり、
残酷な純粋知性として、永遠に彼女を縛り続ける鎖であるもの。
──クルーエルさんが囚われている場所。
「アーマ、急いで」
竜が一際大きく翼を羽ばたかせた。
加速。目を開けるのも辛い風圧にまぶたが痛い。夜明け色の外套が大きく波打ち、あわやその背中から吹き飛ばされそうになる。
気づいた時には、竜と自分は、虚空に静止する結晶のさらなる上空に浮かんでいた。
「......クルーエルさんっ!」
喉が嗄れて血の味がするほどに、叫ぶ。
声が音の波となって夜色の空間を渡り、たしかにミクヴァ鱗片の殻に触れる。
だけど、それきりだった。
内部に囚われているはずの彼女から返事はない。
『小娘もまた眠っているのさ。お前が先に出会ってきた者たちと同様にな』
けれどたった一つ違いがある。
今の彼女にはアマリリスの詠さえ届かない。
『いま小娘が見ている夢は、ひどく孤独な夢だ。自分以外誰も現れない、自分一人がいるだけの寂しい夢。──今まで、それを起こそうとした者はいなかった』
だからこそアマリリスは探していた。
自分のかわりに、クルーエルを起こすことができる者を。
『お前が起こしてやれ』
無言で、ネイトは真下を見据えた。
竜の背から眺める眼下。はるか先に見える白夜色の卵。囚われの檻。
......クルーエルさん。
しずくを模した透明な結晶を握りしめた。激痛の走る右手、握った感触すら定かでないくらい痛いけれど、手の平に握った結晶の温かみだけは伝わってきた。
アマリリスから託された、クルーエルの人としての心の証明。
......見てくれてますか。
......たくさんの人が、僕たちが帰るのを待ってます。
だから────
──一緒に、帰りましょう。みんなが待ってる場所に。
竜の背を蹴ってネイトは飛んだ。
身体が浮かび、外套が踊るようにたなびいた。
眼下に映るは輝きの触媒。
白夜色の結晶に向かって落下していく。轟とうなる風音が耳元で騒ぎ、落下の風圧が締めつけるように身体を叩く。
ゆらめく極光と星光。周囲の視界が流れるように移り変わっていくなかで、点のように小さかったミクヴァ鱗片との距離が縮まっていく。
はるか眼下では点でしかなかったものが、徐々に大きさを増していく。
点ほどの大きさだったものがまたたく間に肥大化し、視界を埋めていく。
と同時に、クルーエルとの隔たれた距離が縮まっていく感覚がたしかにあった。
「......あと少し」
すぐそこに、手を伸ばした先にミクヴァ鱗片の外殻があった。......手を伸ばせば、閉じこめられたクルーエルさんに手が届く──
その距離に到達した瞬間。
ミクヴァ鱗片から光の奔流が湧き上がり、障壁のごとく立ち塞がった。
「──あの時の」
決闘舞台で見た、ミクヴァ鱗片の拒絶反応。
優しい輝きながら茨のように鋭く突き刺さり、淡い色ながら超高熱を有した光。決闘舞台であの光から受けた傷は癒えるどころか、まだ両手に激しい痛みとして残ってる。
直視すればその場で視力を失うであろう極限の光域。
まぶたを閉じてすら眩しさに気が遠くなるほどの光、光、光。
......違う、これはもう光じゃない。
......もっと別の、光のその先にある何かなんだ。
あの時、決闘舞台ではどうしても超えることのできなかった光の障壁。
もはや何色かもわからない輝きを正面から浴び、それだけで意識が遠く────
「でも。歩ける」
大いなる輝きの中、ネイトは両目を見開いた。
──歩ける。
脳が眩しさを感じるよりも前に、一歩、足を前へと踏みだす。
それに応じるかたちで光が強さを増し、障壁がさらに強固なものとなる。
けれど、今は進めた。
一歩、また一歩。彼女が囚われた白夜色の檻に向かって進むことができた。
卵形の結晶が、焦るように光を強める。浴びるだけで気を失う輝きが津波のごとく押し寄せ、その場の空間ごと押し流す勢いで夜色の世界を薙ぎ払う。
けれど、その光が過ぎ去った後にもなお──
ネイトはその場に立っていた。まぶたを閉じることもなく。ただ彼女がいる場所だけを見据えていた。
「......もう、そんな悲しい光には負けない」
語りかけるように告げる。
──そう。今はどんなに眩しくたって、どんなに暗くたって迷わない。
夜の世界。どんな夜の道だって歩いていける。
「クルーエルさん──」
しずくを握ったまま、右手をわずかに振り上げる。
〝わたし、キミのこと大好きみたい。どうしようもないくらい大好きみたい〟
「僕、あの時応えられなくてごめんなさい」
嬉しかったのと、突然だったのと、思いもよらなかったのと。
全部が切り離せないくらい絡まって、言葉にならなかった。
「でも、今は、応えられます」
〝あはっ、ごめんねいきなり。......わたしずるいよね、キミの気持ちなんかまるっきり無視でこんな恥ずかしい告白しちゃって。でも、どうしても言いたかったの。もしこの瞬間、世界中の誰を選べるとしても、わたしはキミに言いたいの〟
クルーエルさん......僕は────
時同じくして──
ミオが、祈るように両手を組んだ。
それを見たエイダが、励ますように鎗を掲げた。
レフィスが続けて右手を振り上げ、ヘレンがその後に従った。
シャンテが祝うように歌い、ネシリスが鼓舞するようにコートをはためかせた。
クラスメイトが、教師が、〈イ短調〉が、願うように胸に手をあてた。
枯れ草色の名詠士と夜色の少女が、見守るように頭上を仰いだ。
その場の誰もが、
ただ一つのことを願い、
ただ一つのことのために心を重ねた。
そう。心はここにある。
そしてその全てを代表して──
「僕も、クルーエルさんのこと大好きです」
ネイトは微笑んだ。
とびきりの笑顔で彼女を迎えるために。
かつてケルベルクでも同じことを伝えたことがある。
けれど、眠る彼女を前に唇を重ねた時は泣くことしかできなかった。
今──
ネイトは微笑むことができた。
それが彼女のための、愛のかたちであると信じているから。
振り上げた拳を、ミクヴァ鱗片目がけて振り下ろした。
白夜色の殻を拳が叩く。
......リッッ......ッッィィィッィッ......ッッ......ンッッ......
鮮やかな、金属の鳴音とも打楽器とも違うふしぎな音色。
懐かしい音、広がっていく。
遠くへ、はるか遠くへ。
そしてその音色が、小さく小さくなって消えたその後に。
何かが、音を立ててひび割れた。







暗い、光の一筋すら差さない空間に少女はいた。
冷たくも温かくもない、停滞した時の中。よどんだ水の中に浮かんでいた。
......わたしは......
............わたしは......だれだっけ............
返事をどれだけ求めても応えは返ってこない。
手を伸ばしても何も摑めない。手を握り返してくれる者もいない。
そんな限りなく透く引き伸ばされた『寂しい』という感情だけが、かろうじて自我と呼べるものだった。
......わたしの......なまえ......どこにわすれてきちゃったんだろう......
............わたしのこころ......どこに......おいてきちゃったんだろう......
不安定に漂いながら、身体を丸め、膝を両手で抱きかかえる。
膝にあたまをつけ、分断された思考の欠片で必死に思いだしたものは──
......ネイ......ト............
............ネイト?......それがわたしの、なまえ......だっけ?............
......ちがうきがする......
............でも、それは............たいせつな......なまえ............
声が出せない。音というものを忘れてしまったから。
音を忘れ、自分の名すら忘れ、それでもたった一つ覚えていた名前。
だから少女は、彼の名を心の中で必死に繰り返した。
......ネイト............
............どこに......いるの............
......だけど......
......ああっ......っ............もう............
かすかに残っている感情の欠片。
それすら昏い空間に溶け、消えていくのがわかる。
............やめて............
......おねがい、これだけは............
たった一つ覚えてる名前を守りたくて、自らの胸と肩を抱きしめる。
何もかも忘れて思いだせないけれど。
これだけは忘れやしない。忘れたくない。
だって、だって、最後まで覚えてた名前だよ。一番大事な名前のはずだもの。
だからこの名前の人は──
きっとわたしの、わたしの────一番大切な────
「姉さん」
ふっと、視界に紅が走った。
温かい緋色の灯火が昏い世界をくまなく照らし、その先に少女の姿が浮かぶ。
緋色の花が踊る祝宴のなか、歩いてくる少女がいた。
身体にまとう衣服のかわりに、鮮やかな緋色の長髪が、まるでそれ自身が最上の天衣であるかのように、身体の各所を優しく覆っていた。
......あ、あれ............
......あたまが............
脳が揺れるような感覚に嘔吐感すらわきおこる。
頭が痛い。
でも、なぜだろう。何かが、頭の中で何かを......思いだしそうな。
それにわたしを姉さんと呼ぶこの子は──
「わたしのことはいいの。わたしは、姉さんに伝えたいことを伝えに来ただけだから」
少女が微笑み、両手を広げる。
小鳥が、自分の翼を精一杯広げるように。
「あのね、彼が約束を守ってくれたの」
──彼?
彼って誰だろう。
「あら、それは姉さんが一番よく知ってるはずよ」
胸がちくりと痛んだ。
何かが突き刺さる痛みじゃない。
まるで、何かが胸の奥で生まれる痛み。
ッ......ピシッ............ィィッッ............
昏い空間に光の筋が走り、そこから空間が割れていく。
光の線でしかなかったものが徐々に広がる。何もなかったはずの虚空に、いつしか真円に近い光の傷痕が生まれていた。
──いいえ。目の前のそれは傷痕でなく、まるで光の扉のようで。
「さ、姉さん立ちあがって」
......立ちあがる?
......それはなんのために。
「この扉へは、姉さんが自分の意志で歩かなくちゃいけないの。自分の気持ちで歩くことを決意してほしいの」
......でも
......ここは昏いけど、温かいよ。
......あの扉の先は......わたしにはまぶしすぎるよ。
「まぶしいと感じるのはここが昏すぎるからよ。さあ目を開けて」
......だって。
......それに、あの先が寒かったら、いやだよ。
「そうね。きっとあの扉の先はここより寒いことでしょう」
......そんなのいやだよ。
......寒い場所になんか行きたくないもん。
「でもね。あの扉の先には、姉さんを抱きしめて温めてくれる人が待ってるわ」
............
............わたしを......抱きしめて......?
「ええ。それもとっておきの笑顔でね」
緋色の少女に手を取られ、よろよろと立ちあがった。
おぼつかない足取りを支えられ、少しずつ扉の方へ歩いていく。
ふらふらと、時に体勢を崩しながら、時に立ち止まりそうになりながら。
それでも光の扉のすぐ前まで来て──
ふと、振り返る。
緋色の髪の少女は、自分よりだいぶ後ろに立っていた。
......あれ。
......あなたは、行かないの。
「わたしはここで姉さんを見届けるのが役目だもの。ここから先、姉さんを幸せにするのは彼だけの特権」
ふしぎな言葉だった。
彼。彼とは本当に誰だろう。
「その扉をくぐれば思いだすわ............じゃあね、姉さん」
促されるままに扉に手をふれる。
冷たい風が髪をゆらす。けれど決して不快な風じゃない。
......これなら、行ってみてもいいかな。
小さな勇気を抱いて輝きの境界へ。
身体が門をくぐりぬけた、その瞬間──
......そうだ、わたしの名前は。
......わたしは。
全てを思いだした。
「──────アマリリスっ!」
扉から振り返ったそこに、先と同じ姿の少女が......
自分とまったく同じ姿をした妹が立っていた。
「......うれしい。わたしの名前も思いだしてくれたんだ」
微笑をうかべ目をつむるアマリリス。
「だめ、なんでそんなところに立ってるの! あなただって一緒に──」
声のかぎりクルーエルは叫んだ。
はじめてだった。こんなに必死に、怒りを感じるくらいのもどかしさは。
「早く、扉が──」
光の扉が狭まっていく。
なのに目の前の少女はゆっくりと首を横にふって。
「わたしは......姉さんと一緒には行けないわ。わたしは人じゃないもの」
「そんなっ! そんなの関係ないよ、わたし、あなたに──」
誰より永く自分を守っていてくれていた。
誰より近い位置で自分のことを案じてくれていた。
なのにわたしは、そんな妹に何もしてやれてない。そんなの絶対いやだ。
「わたしは姉さんが幸せになってくれるならそれでいい」
「いやっ! そんなの絶対いや!」
光の扉から戻ろうと手を伸ばす。
それがかなわぬことと知りながら、歯を食いしばってアマリリスへと手を伸ばす。
「......いや......だよ............絶対、絶対っ............」
お願い、何かないの。
人として生きることを選んだわたしが、別の世界に存在する妹にしてあげられること。
たった一つでいい。
姉妹として、姉としてせめて何か一つ。
「それじゃあ一つだけお願いしていいかしら」
「なに? なんでも言って!」
「............詠が聴きたいの」
一瞬恥ずかしそうに口ごもったものの、アマリリスは自分の胸に手をあてて。
「SophiteleEnde」
セラフェノ音語からなる小さなフレーズ。
訳すならば、さしずめ『心はここに、そして──』。
「始まりの詠よ。夜明けの真言とでも言うべきかしら。まだ誰も聴いたことのない詞と旋律。それを聴きたいの」
妹がはじめて自分に言ってくれた「お願い」だ。
何でもしてやりたい。どんなことでも聞いてやりたい。だけど──
「......ごめんなさい。わたし、その詠を知らないの」
歌詞も旋律も。
詠の名前すら初めて聞いたばかりだ。
「知らなくて当たり前。だってこれは、今から姉さんが紡ぐ詠だもん」
「わたしが?」
「うん。姉さんと、あと彼。二人でね」
アマリリスが片目をつむる。
「どんな遠い場所に離れてたって届くものがあるわ。そうでしょ?」
そういえば、初めてかもしれない。
いつも悲しそうな表情のアマリリスが、自分の前で微笑んでくれたのは。
見せかけの笑顔じゃない。だから──
「──う、うんっ!」
力いっぱいうなずいた。
「ぜったい、絶対だよ。わたし......頑張るから!」
「ええ。それじゃあね、姉さん。いつかどこかで、また──」
控えめに、どこか気恥ずかしそうに手を振る緋色の少女。
そんな妹に伝わるように、クルーエルもまた手を振った。
目の端にたまったしずく。
手を振った拍子に、頰を伝って流れていった。
そして光の扉は消えて──







シッ............ピシリッ............ィ......ッ............
白夜色の殻に亀裂が生まれ、その傷から殻が少しずつ割れていく。卵を思わせる形状の結晶から一枚、二枚、小さな破片が剝がれ落ちていく。
砕けた無数の破片が宙に浮遊する中央に。
ゆりかごで眠る赤子のように、ほっそりとした身体を丸めて眠る少女がいた。
鮮やかな緋色の髪をした少女。
彼女を抱え、ネイトは夜色の竜の背に降り立った。
──声をかけてやれ。
アーマの視線に促され、じっと彼女の顔を見つめる。
......なんだろう。もう何年も会ってないような、そんな懐かしい感覚だ。
「おかえりなさい、クルーエルさん」
顔にかかった前髪をそっとのけ、どれだけ彼女を見つめていただろう。
やがて、彼女がかすかに身体をふるわせた。
そしてゆっくり......ゆっくり目を開けて......
「............ネイ......ト?」
──ぼくの名前。
──クルーエルさんが?
その瞬間、頭の中が真っ白になって、
気づいた時にはネイトは彼女をぎゅっと抱きしめていた。
「クルーエルさん!......良かった、僕のこと覚えてくれてたんですね!」
「ちょっ......ちょっとネイト......あの、すこし......苦しいな?」
「──え......」
何やら苦しそうな彼女の声。
そういえば、嬉しさのあまり思いっきり力をこめて抱きしめてる気がする。
「......女の子を抱きしめる時は、もう少し優しくね」
「あっ......ご、ごめんなさい」
慌てて手を離し、ネイトはクルーエルから跳び下がった。
と──
「たとえばこんな感じだよ?」
ふわりと、緋色の髪が顔をくすぐった。
跳び退いた自分のかわり、今度は彼女から抱きしめられた。そう気づいたのは、彼女の顔が目の前にあったからだ。
たしかな温かみと、腕に抱かれているというふしぎな安心感。
それは今まで感じたことのないくらい、本当に優しい抱擁だった。
......ネイト、ありがとう。わたし............

「......クルーエルさん?」
「..................信じてた......けど............すごく、怖かった............」
顔をこちらの肩に押しつけて、彼女がぎゅっと力をこめる。
彼女の声に小さな嗚咽。
「──はい」
だから、ネイトも彼女の肩をぎゅっと抱きしめた。
本当に細い肩。冷たくふるえている肩を、せめて自分の想いが伝わるように。
「だいじょうぶです。もう二度と、クルーエルさんを怖い目には遭わせませんから」
「......うん」
彼女を抱きしめる手を離し、自分の羽織る外套を彼女の肩へ。
『小娘、ネイトも。やるべきことが残っているのだろう?』
宙に旋回を続けたまま、竜が顔を向けてくる。
やらなければならないこと。
そう、ここまで自分たちを導いてくれた全ての人が待っていること。
「──そうだね。クルーエルさん」
「うん」
すっ、とクルーエルが立ちあがる。
〝そう、それは本来ならば夜色と虹色が見出すはずだった、夜色と虹色が合わさって初めて生まれる夜明け色の輝き──〟
〝かつての子供たちが描いた夢の軌跡を、今の子供たちが受け継がなければならないの〟
......アマリリスとの約束だから。
『今さらできないなどとは言うまいな?』
「言わないよ」
茶化す口ぶりのアーマにネイトは苦笑で返した。
「だって、これはみんなに対するお礼でもあるんだから」
「わたしも......妹に届くように頑張るね」
少しだけ照れくさそうにクルーエルがうなずく。
初めてだった。彼女がアマリリスのことを妹と呼んだのは。
──よかったね、きっと今のも聴こえてたでしょ。
はるか遠い場所にいるアマリリスに向け、ネイトは心の内だけで語りかけた。
『眠ったままの者を起こしてやれ、全ての人間に聞こえるようにな』
「うん」
クルーエルに目配せし、互いに背中合わせに寄りそった。
かすかに感じる互いの鼓動と体温。
ただそれだけで伝わってくる。開始の合図は必要はないと。
心を静め、そして──
En Sew lucornis clar
──DeaNeightissheonrien-c-soa
ネイトは、
クルーエルは、
二人だけの詠を紡いだ。
それは遠く遠く、はるかに離れた全ての者のもとへ──







白夜色に輝く螺旋階段の、中程の階層で。
「......あれ」
最初に、その旋律に気づいたのはミオだった。
始まりは静か。風鳴りとも錯覚してしまうほど静かな奏で。
けれど聞こえてくる。少しずつ大きく、少しずつ胸に響くその音色が。
ves shelayuma noiilmei lishe,Uhw kistinny lefsophit tesriris
──risneoles io,ris stericgetie-l-lementIveia,Ee nes
Deris bietinny kisgetie-l-clueshantehaul I
──Deris bieeche kismehwarbis-l-xeoiymy sink I
詠の音色は変わらない。
なのに少しずつ音が大きくなっているように感じるのは、まさか──
......しゃん............しゃん............
螺旋階段から聞こえる旋律が、その詠に合わせて踊るように。
ううん、それだけじゃない。
この夜色の世界そのものが、聞こえてくる詠を反響させては増幅していた。
まるで一緒に歌っているように。
懐かしくもあり新しくもあり、聴くほどに胸を温かく満たすその音色。
それにこの声、優しく聞き覚えのある歌声は──
Ris siasophia,De elmeiIes,miqvy yehleriss missiszarabel
──Ris siasophia,De elmeilue,miqvy haularsic valenmis-la
Ris siasophia,De Nightisnett,co ekmailue la-lan
──hiz claryum leyaKyel elmeineolesphenonoi-roo-xin
わかった瞬間、胸に何かがこみあげてきた。
「クルルっ! みんな────これクルルとネイト君の声だよ!」
周りのクラスメイト、教師、その場の全員に向かってミオは声を張り上げた。
力いっぱい。
踊るように、目に涙をためて、喜びの声を力のかぎり張り上げた。
二人の奏でるこれは、いったい何色の詠なのだろう。
ネイトの夜色名詠に欠けていた優しさがあり、クルーエルの名詠にはなかった切なさと深さを持つ音色。
それはまるで、黄昏から夜へ、夜を越えて夜明けへ向かう喜びで──
「──そっか」
目の端の涙をぬぐう。
ぬぐってもぬぐっても、後から後からしずくがあふれて止まらない。
良かった。本当に、本当に良かった。
......クルル。
......ネイト君、頑張ったんだね。
meh getielishe,meh elfaevhe,Ahw edelnoi xearcruy linsy
──riris ele.meh ole tesvalen,ende elmeicornmille noihiz Uls
「あれ、この声......」
隣にいる黒髪の少女へ、オーマはその肩をツンツンとつついた。
「ちょっとー......オーマ! なにすんのよ、いま点呼で忙しいのに!」
「ああ、わりぃわりぃ。でもよ──」
口を尖らすサージェスに、オーマは頭上を指さした。
「なんか聞き覚えのある声だなって思ってさ」
「ん?」
我に返ったサージェスは口を閉じ、耳を澄ますように顔をあげた。
Sera,clar yehleRio
──Sera,nefit Ezzsary noivi-phia
Sera,van bieclard-l-ele phaSec lihit
──Sera,De Sez ristis noeUls ria Ec
「お。これネイティとクルーエルじゃん。......まったく心配かけて」
腰に手をあて、サージェスは深々と息をついた。
──本当に、トモダチに心配かけさせる友人を持つと苦労する。
ふと、自分たちのすぐ後ろでは。
「みんな────これクルルとネイト君の声だよ!」
いち早くこの詠に気づいたミオが、自分のことのように嬉しそうに飛び跳ねていた。
「ミオってば。あーあ、あんなに飛び回っちゃって」
子供のように走り回るミオを眺め、サージェスは思わず噴きだした。
......でもこれで、またみんなで馬鹿騒ぎができるに違いない。このふしぎな世界のどこにいるかわからないけど、二人ともきっと元気だ。心配いらない。
だって。この詠は──
涙が出そうになるくらい切ないのに、
だけど心がふるえるくらい優しくて、
初めて聴いた旋律なのに、
ずっと前から知ってるような懐かしさにあふれてる。
こんなすごい詠を紡げるんだもの。二人ともきっと心配いらない。
......伝わってきた。それだけわかれば十分だ。
「だから、早く帰ってきなさいよ」
まぶたを閉じ、サージェスは小さく微笑んだ。
Oo/ Deleide leftih Ies,nemne SesEc pel
──Dea,xiss yuxixic lefgetie xeo
その音色は終わらない。
輝く極光や星明かりと共に世界を巡り、夜色の大気に深々と沁みていく。
ミオたちクラスメイトの列の最後尾で──
祓戈を手に構えた姿勢のまま、エイダはその旋律を聴いていた。
〈讃来歌〉の合奏?
どこから聞こえてくるのか。いったいどんな名詠式なのか。そんな疑問は全て──誰が詠っているかを悟った瞬間に泡と消えた。
「......そっか、ちび君やったか」
転入して初めて会った時の彼。
まだあどけなく、頼りなかった頃の少年が。
──クルーエル、あんた大したもんだよ。奥手なわりに、オトコを選ぶ目は抜群だったんだから。
苦笑を押し殺し、螺旋階段の端から眼下をのぞく。そこには顔なじみである〈イ短調〉たちの姿があった。どうやら下も落ちついたらしい。
「さて、とりあえずあたしは休憩っと」
コツッ。構えていた鎗を床につけ、エイダは螺旋階段の脇に腰を下ろした。
「......なあアルヴィル」
あの男もまた、この世界のどこかにいるのだろう。
「この詠を聴けばわかるだろ。ちび君がシャオに負けなかった理由」
steras yahe,steris evheyum yulisfel Secnuel, nevaliss
──De yehleio rissmissis lue,Ye-gilimelmeistericmihas,ende
「......まったく、いい年した大人なのに嫉妬しそう」
苦笑の笑みを隠すつもりでシャンテは首を振った。右手に持っていた翡翠のブローチはコートのポケットへ。
肺の中に溜まっていた空気を吐いて、深呼吸。
そのすぐ眼前──
螺旋階段そのものを揺るがし襲ってきた五色のヒドラが、動きを止めていた。
その五本の頭部、十の瞳から激昂の色が消えていく。
「こんな獰猛な怪物も詠で静められるものなのね」
ふしぎな詠だ。
涼やかなのに心を熱くし、それでいて心の昂ぶりを静めてくれる。
抱きしめたいほどに愛しく優しい──
初めて聞いた音色のはずなのに、聴いていて涙が出そうになる。そういえば、音楽を聴いて最後に涙を流したのは、もうどれだけ前のことだろう。
......まったく。競闘宮での一件以来、立て続けにとんでもないことばかりじゃない。
後ろ頭を搔こうとして、ふとシャンテはその手をとめた。
......でも、まあ。
......これだから名詠式は面白いんだけどね?
「出番を取られて残念だったわね、ネシリス。せっかく白熱してたのに」
「────」
肩をすくめるだけで無言を保つ青の大特異点。
「あ、ほら、拗ねないの」
その腕に寄りそい、シャンテは自分の腕をぎゅっとからめた。
「シャンテ、動けない。邪魔だ」
「いいじゃない。たまには二人で音楽鑑賞も悪くないわ。せっかくとびきりの詠が流れてるんだから」
「............」
Sew d-elesoul noibis phia,nevaliss
──De phiofel hypne,lishe-l-Isiselmei nett
「......いい詠だな」
その場にただぼうっと立ちすくみ、レフィスは流れる音に耳を傾けていた。
胸のうちに浸透していく温かみ。
灰色名詠を学んできた自分にとって、〈讃来歌〉の役割とは、戦いのための道具でしかなかった。
けれどそれは違う──〈讃来歌〉の真価はもっともっと深いところにある。
そのことを教えてくれる慈愛の旋律。
「あんたも、そう思うだろ」
自分やヘレンからも離れた階上に、旅人装束をまとう男が立っていた。
Oo/ DeNeighissheon,pelma Sesyuty lue
──emacoola-s-klussolitis Eo,Uhw kisshan lefyumieNeight
「......心躍る音色を、か」
疼く右肩に左手を添えて、ミシュダルはその詠を復唱していた。
自分でも気づかぬうちの行動だった。
──夜明けの詠か。俺には似合わないな。
フードの下、誰にも悟られぬ程度に苦笑した。
乾いた砂のような旋律を紡ぎ、寂しい荒野さながらの歌詞を描く灰色名詠。
灰色の詠にどっぷりと身を浸しすぎたせいで、夜明けの詠がどれだけまぶしいことか。
理性のかわりに狂気。
孤独の代償に強さを選んでしまった自分には、似合うまい。
「......レイン、お前なら喜びそうな詠だがな」
かつて自分の隣にいた思い人。
あの底抜けに明るい彼女なら、きっと似合うことだろう。
だから──
彼女のために、彼女の分までこの詠を聴くことは悪くない。
uc lotastes elfaevhe,shie-laEn meitisSes xeolef xeo
──van hizlotas teselfa evhe,neo metisroos-l-Ecphia
「素敵な詠だね。詞も旋律も、素直にそう思うよ」
イブマリーの肩に手を置き、カインツは周囲に流れる旋律に身をゆだねていた。
「まあ悪くはないわね。及第点」
「厳しいんだね」
「わたしが名詠式を教えてアーマがずっとついてたんだもの。当然よ」
──なるほど、まったくだ。
苦笑をかくす気もなく肩をすくめる。
それを知ってか知らずか、彼女の声はしずくを含んだように濡れていた。
「でも......嬉しくもあり、悔しくもあるわね。結局わたしやアーマが何年もかけて教えたことより、クルーエルさんがあの子に伝えたことの方がはるかに大きかった」
「それだけいい出会いだったわけだ」
「......そうね」
どこか遠くを眺めていた彼女が、ふと顔をあげた。
「そろそろ時間かしら」
彼女の視線をそのままなぞり──自分の羽織るコートが、淡い夜明けの光に包まれていることに気づいた。
ピッ......シッ............ィッ............
閉鎖した夜色の空間の各所から亀裂音。
頭上、前後左右、あらゆる方角で空間に裂け目が走っていく。固く凍りついた氷に罅が入る光景を想起させ、亀裂が止めどなく展開していく。

亀裂の向こう、淡い白と青が調和した夜明け色の光があふれ────
「〈ただそこに佇立する者〉の覆う世界が消える時間......世界がもとの姿に戻る時間がきたみたい。目覚めの時間よ」
「そうだね......」
全てが元に戻る。
眠っている世界が目覚め、今ここにある世界が消える。
と同時に、これで彼女とは何度目の別れになるのだろう。何度同じ光景を目にしても、胸を切り裂くような切なさは変わらない。
「そういえば、今回は珍しいね」
「なにが?」
コートのすぐ横に立つ彼女が、ふしぎそうな瞳で見上げてくる。
「いや......その、なんていうのかな......君がこんな近くにというか、寄りそうというか」
「............」
しばらく黙っていたかと思いきや。
「──たまたまよ」
言うなり、彼女がすたすたと離れていってしまった。
「......言わなきゃ良かったよ」
「後悔は先には来ないのよ」
そう告げる彼女は、したり顔で微笑んでいた。
「じゃあ、またね──」
彼女の別れの言葉に、カインツはそっと口元をやわらげた。
初めてだった。
彼女の方から、再会を思わせるような言葉を告げてきたのは。
......でも、君本人は、きっと気づいてないんだよね。
「なによ、その怪しい笑み」
「ううん。なんでもない。またね、イブマリー」
「ええ。いつかどこかで、また」
......そう。
......悲しいことじゃない。
だって、想いはここにある。それさえなくさなければ、きっとまた会えるから。







Sew ele diaKyel Neightriss Eo noihiz phiamilleelmei ole
──wi mille-l-pelmapheno,Deris Ilihit Eccross
Sew eledia xeineswat wasIsis tis,-Ye-emnexeines elen
──De Ri risIs-Ye-sophia Se,was hizlaphia ectaririsis loar
世界を照らす夜明けの光。
星明かりが消え、極光の灯が隠れ、夜を具現化した世界が消えていく。
かわりに──
夜色の竜が疾走する空の下には、緑の大地があった。
冬の季節を越え、春の訪れを待つ花の芽が。氷混じりの河のせせらぎ、そこには既に、一足早く咲いた薄紅色の花びらが漂っていた。
〝ネイト......ありがとう〟
背中ごしに伝わるほのかな感覚。
振り向いたネイトの前に、クルーエルもまたこちらへと振り返っていた。
〝本当にありがとう。あの時の約束、本当に守ってくれたんだね。今になってようやく実感がわいてきたの............わたし〟
──そんなこと、ないです。
首を横に振った。本当はもっと早く助けられれば良かった。
ううん、そもそもこんな目に彼女を遭わせないよう守れたら、それが一番だったはずなんだ。そうだったら、こんなに不安な思いをさせることなんかなかったのに。
〝不安? ううん〟
にこやかに笑う彼女が、そっと顔を近づけて。
互いの髪がふれ、鼻先がふれ、そして──
〝キミのこと信じてたよ。──ずっと、ずっと最初から〟
唇が重なったのは一瞬。
触れたという感触すらないくらいのわずかな瞬間。
けれど、互いの気持ちを伝えるには十分すぎるくらいの一瞬で。
それはまるで、流れる夜明けの詠に息づいた──
その旋律の最後を飾る一小節そのものであろう、歌うような口づけだった。
〝ネイト......〟
彼女の差しだした両手。
その意を察し、ネイトは自分の両手を重ねた。
触れる指先。温もりも想いも何もかもが────
Sophit ele,ende
──Sophit ele,ende
互いに両手を重ねたまま。
緋色の少女は、夜色の少年は、詠の終詩を織りなした。
Ris siasophia,Riris ele,elmei Selahphenosia-s─Co lue-l-Sophienett
Ris siasophia,Neight ele,elmei Kyelsriss Selahcela-s─Sophitele Ende

贈奏 『いつかどこかで、またきっと』
親愛なるヘレン・スフレニクトール様
お元気でしょうか。
こちらはだいぶ春らしくなって、学園のまわりにある木々も色づき始めたようです。
温かいからついウトウト。
時々、授業中でも危なくなって、そのたびにミオに起こしてもらったり。
そうそう、二年生に進級してもクラスは変わらないそうです。
そのかわり、制服の襟に刻んである学年の線が一本増えて、わたしの場合は赤の線が二本。変化といえばそれくらいです。だから気分も一年生から抜けきれなくて、昨日も間違えて一年生校舎に行ってしまいました。
そんなわたしですが、新入生を迎える側になるのかと思うと少し緊張します。
ケイト先生からは「一年生の見本になるように」と言われるけど、うーん、どうすれば見本になれるのかな?......ふふ、わからないなりに頑張りますね。
ところで話題は変わりますが、例のお話、ケイト先生から聞きました。
ジール名詠学舎とトレミアが姉妹校の協定を結ぶと聞いてビックリ。
学生同士の交流会も予定されているみたいだから、一番に手を上げたいと思います。夏くらいには実現するらしいので、今度はわたしたちからヘレン、それにレフィス君に会いに行きますね。
あれ、大変。もう手紙に書ききれなくなってしまいました。お話ししたいことがまだたくさんあるけれど......うん、それはまた、お会いした時の楽しみにとっておきます。
それでは、また近いうちに。
クルーエル・ソフィネット
1
「......こんな感じでいいのかな」
手元の手紙をじっと眺めつつ、クルーエルは握っていたペンを机に置いた。なんだか取りとめのない内容になってしまったけれど、まあかまわないだろう。
「うん、そうよ。大事なのは気持ちだもんね!」
空色の手紙を丁寧にたたみ、白い封筒に詰める。
赤い花を模ったシールで封をして完成。あとは投函するだけだ。
「──だいぶ時間かかっちゃったなあ」
壁に掛かった時計は、既に早朝の時刻を指している。
真夜中に思いたってペンと手紙を取りだしたはいいものの、たったこれだけの文を書くのに丸々一晩かかってしまった。
......う......少し眠いかも。
部屋の明かりは机上の小さな照明だけ。
女子寮、うす暗い自室をふらふらとさまよい歩く。
進級にあわせて二年生用の部屋に引っ越したばかり、いまだに自室の中身を覚えきれていないのだ。部屋の構造は前と同じだが、いっそのことと部屋の模様替えをしたのが裏目に出た。
......もう、夜は明けたかな。
眠気の残る目を手でこすり、反対側の手で窓のカーテンを引く。
その瞬間。
さっと差しこんできた眩しい日射しに、眠気が一気に吹き飛んだ。
「......すごい、あかるい!」
まだ薄暗いかとばかり思ってたのに、とんでもない。
白と蒼の鮮やかなグラデーションを映す上空。そこには綿のようにふわりとした雲が楽しそうに浮かんでいる。
夜はいずこかに姿を消し、窓の向こうに展開するのは夜明けの色彩。
それも抜群の快晴だった。
「ミオ、ほら見て! すごく綺麗な空だから!」
自分のベッドに飛んでいき、そこに寝ている友人を揺り起こす。
「ほら起きてってば! ミオ!」
「......う~ん、あたしもう......食べれないよ......むにゃ......」
「なに寝ぼけてるのよ。ほら、起きなさいー、朝ですよ?」
しばらく揺すってみたものの、友人は毛布に頭からくるまって寝ぼけるばかり。やれやれ、もったいないなあ、せっかく綺麗な空なのに。
渋々ながら、クルーエルは一足先に制服に着替えることにした。
「......あれ。クルルってばもう着替えてるの?」
制服の袖に手を通していると、毛布の中からミオの声。
よくよく見れば、金髪童顔の少女が毛布から首だけを出している。
「うん。今日はちょっと予定があって」
「ふ~ん、......そっか、がんばって」
とろんとした目つきでミオがにっこりと。
「クルル、今日は食堂の特製ケーキ抽選券の配布日だもんね。先頭に並んで抽選券もらって、また最後尾に並び直す作戦だね」
「......そんなことしません!」
「えへへ、食べ過ぎて横に育つと、さすがのネイト君もショックだよ~?」
「だ、か、ら、違うよ!」
慌てて両手を振るも、ミオは既に聞いていなかった。
布団の中に頭ごと潜りこみ、どうやらまたしても夢の中らしい。
「──まあ、いっか。ミオ、わたし先にガッコ行ってるからね。朝ご飯はテーブルの上に置いてあるから」
「うんうん。じゃあ学校でね~」
毛布から手だけを出す彼女。
──まったくもう。これじゃあどっちが家主なのかわからない。
胸の前で腕を組み、苦笑混じりの溜息を一つ。
「じゃ、行ってくるね」
──でもまあ、いっか。
わたしはわたしの予定があるもの。
そう、今日は久しぶりに、彼と二人っきりで────
2
大陸北部の街、フェルン。
万年雪の残る山岳地帯、その麓に発達した街である。
作物の育たぬ瘦せた土地と厳しい寒気。もとより暮らす者もわずかだが、観光と鉱石でかろうじて生計が成りたっている。そんな小さな街だ。
その街を抜けて連峰の方向へ。
麓からでは見渡せないが、山の頂上付近には小さな古城が建っている。
今でもフェルンに来た旅行客の多くが訪れるという。その理由は古城の観光、そして城に住むフェルンの王女に謁見するためだ。
ファウマ・フェリ・フォシルベル。
自然の奇跡が生んだとしか考えられぬ、天上の鈴を想起させる声。彼女を知る者からは、世界でもっとも澄んだ声とも称される。
そのフェルンの城で──
ひゅぅっっ......
鋭いうなり声を上げて過ぎ去っていく寒風に身をさらし、ファウマは謁見室の脇にあるバルコニーに立っていた。
雪の積もる床に素足で立ち、凍りついた手すりへ素手で摑まる王女。
白銀一色のバルコニーに、真っ白な素肌の少女。その光景にはふしぎな調和があった。
何かをするわけでもない。
眼下に展開する広大な景色を見るわけでもなく、かといって何か考えごとをしている様子もないまま、ファウマはただじっとその場に佇立し──
「ファウマ、じっとしてると風邪をひくよ?」
ファウマが首だけを横に向ける。
純白の雪が降り積もるバルコニーに、漆黒の外套を羽織った名詠士が立っていた。
少年か少女かもわからないその人物。光沢ある黒の髪をゆらし、その双眸は艶やかな雰囲気を保ったまま濡れている。
唇には夜色のルージュが塗られ、その表情は常に微笑をたたえている。
いつから、そしてどのようにここに現れたのか。が、ファウマの表情に変化はなかった。それが当然であるかのように。
「シャオ、久しぶりね。元気だった?」
「相変わらずというくらいかな。君は──」
布一枚まとっていない姿を恥ずかしげもなく晒す少女。
対する黒法師もまた、それを気にした風もなく彼女の姿をじっと眺め、そして。
「前より具合が良くなったみたいだね」
「......うん」
少女は、かつて巻いていた包帯を一切巻いていなかった。
病的なまでに白い肌。その表面に残っていた数えきれぬ傷痕と、止まることを知らぬ出血。そのどちらもが、以前と比べれば幾分落ちついているようだった。
「この頃ね、ちょっとだけ寝られるようになったの。......前はあんなに痒くて痛くて眠れなかったのに、自分でも噓みたい」
ファウマが自らの肌を指先でなぞってみせる。
自分の身体に巣くっていた真精が消え、少しずつ病も改善に向かっていた。
「虹色名詠士に感謝しなくちゃね」
「でも、わたし、どうやってそれを伝えていいのかわからない」
「そればかりは自分で考えないとね」
にこりと笑む漆黒の名詠士。
「......うん」
それを境に、会話が途切れた。
雪混じりの風が吹きつけるベランダに、白の少女と黒の名詠士。
二人とも微動だにしない。ただ互いを見つめるばかり。
「そういえば──」
沈黙を破ったのはシャオだった。
「ここで何をしてたの?」
「あなたを待ってた。そろそろ来てくれるかなって思ってたから」
風になびく横髪を手で払う少女。
「自分を?」
「うん、聞きたいことがあったから」
手すりから身を乗りだし、ファウマが見つめる先は雪を被った針葉樹林。
「この世界で、名詠式はどうなったのかなって」
「人の視点から見た上では何一つ変わってないだろうね」
「......ふぅん」
はるか遠くを眺めたまま、ファウマは眉をつりあげた。シャオが言葉に含ませた意味は何だろう。人以外の視点で、名詠式に変化があったかのような口ぶりだ。
「一つ言えることは──自らの眼であった残酷な純粋知性が独立したことで、ミクヴェクスは自分の理想とする名詠式を具現化できなくなった」
〈ただそこに佇立する者〉として名詠式の概念を再構築する。そのための器官であった残酷な純粋知性が人として飛び立ったがため、もはや名詠式の概念は組み直せない。
「ええと......もう一方だった〈その意志に牙剝く者〉の勝ちになるの?」
「それがね、そういうわけでもないんだ」
「どうして?」
片方が戦えなくなったのだ。
ならば残りの側の勝利と言ったっていいはずなのに。
「詳しく知りたいなら、直接この子に聞いてごらん」
この子?
シャオが自分の肩を指さす先──
漆黒の外套に積もった雪。それが突然にぐらりと蠢いた。
雪を払い、シャオの肩上で妖艶な動きを見せるそれは、一匹の小さな蛇だった。
白夜色の蛇。
......まさか目の前にいるソレは。
「〈ただそこに佇立する者〉と意識の深奥で繫がった幼生体。本人曰く、〈その意志に牙剝く者〉の真似事だそうだよ」
──つまり、今わたしの前にいるそれが、そのまま。
『初めまして、小さき娘』
鎌首をもたげていた蛇が、にわかにその首を折ってうなずいた。
人が会釈をするのに酷似した恰好で。
「......あなたがミクヴェクス? ずいぶん可愛らしい大きさね」
『大きさは、単に夜の幼生に合わせただけですから』
夜の幼生。それが何を意味するか、ファウマに心当たりはない。
けれど大した意味ではないのだろう。もとより自分とて、目の前のソレがミクヴェクスの真の姿とは思っていない。
「ところで聞かせてもらえるかしら。さっきの件──蛇と竜は、名詠式のかたちを巡って争っていたんでしょ」
『結論から言って、戦う必要がなくなったからとでも申しましょうか』
「残酷な純粋知性が消えたから?」
『いいえ。それは実のところ、大した問題ではありません』
......問題ではない?
思惑を超えた蛇の言葉に、ファウマは言葉につまった。
いったいどうして。
『私や竜に本来の姿というものはありません。意志法則体として普遍的、流動的に存在するがゆえ、力を制限する筐がない』
シャオの肩先、名詠式の創造者が首をあげる。
純白の粉雪のなかで、なおも白夜色の輝きは失われていなかった。
『言い直しますと、人の用いる不可能という概念が私にはないのです。たとえば自らの眼を復元し、そこから残酷な純粋知性をもう一つ生みだすことも』
「つまり現状は変わっていないのね」
ただ、今まで残酷な純粋知性であった存在が人として生まれ落ちただけ。
竜と蛇の抗争は終わらない。
............
......そのはずなのに。
争う必要がなくなった理由はなんだったのだろう。
『私と竜は、別に仲が悪いわけではないのですよ?』
「そうなの?」
何百年、何千年。あるいはもっともっと永い対立。
それだけ互いの溝も深いと思っていた。
『お互い対等な間柄ですから。名詠式という画板に描く理想像も同じ。ただそこにたどり着くまでの過程のみ、互いの意見が異なっていただけの話です。その相違ですら、互いに意思疎通を欠かしたことはありません』
「じゃあどうして、争いをやめるの」
『人じみたことを言いますが......私も、夢を見たくなりました』
バルコニーから眼下の光景を眺めるミクヴェクス。
その仕草はどこか愛しげで、女性的な優しさに満ちていた。
『私と竜は、名詠式を人に与えし理想の贈り物にしたかった。だからこそ名詠式があらぬことに用いられるのを見たくなかった。────だから私は、名詠式に対する人の意識を変えたくて、名詠式そのものの概念をもう一度初期化したかった』
「それはシャオから聞いたわ」
一方で竜は、人の自浄努力──人自らが名詠式の在り方を正すことを見守ろうとしたという。
名詠式を憂うという点で共通の意識を持ちながら、願う手段の相違が対立を生んだ。
『そうです。そしてシャオに呼びかけ、あと少しで私の理想が世界に満ちる──その直前で、黄昏に愛された夜色の少年がそれを拒んだ』
ネイトという少年。
かつて自分の下を訪れた時は、ああも幼い印象でしかなかったあの少年が。
『......本当にふしぎな少年です』
蛇が頭上を見上げ、そして。
『今まで私の理想に敵対した名詠士は、必ず竜の力を頼った。だからこそ続く私と竜の対立──しかしあの少年だけは違う。彼は調律者の力を借りようとせず、人の絆だけで私に訴えた。そして私という世界の果てまで行き着き、残酷な純粋知性でしかなかった存在を、自らの愛する者として昇華させた......人の力だけで調律者の壁を越えた。............いいえ、越えてくれた』
人に与えし理想の贈り物、それが名詠式。
そして、まさに人だけの力で人を助けだした。それも名詠式を創った創造者から。
それはつまり──
『そう。私や竜が、かつて名詠式を創造した時に描いた理想。それを何より体現したのがあの少年だった。詠を愛し、詠に愛された者の姿がそこにあった』
名詠式を誰より大事に思う者。
そして、その名詠式で愛する者を守り抜いた者。
『だからこそ、私もまた夢を見たくなった。あの少年が愛した世界なのだから、私が......いいえ、調律者が名詠式を創った時に願ったものは、もしかしたら既にこの世界に芽吹いているのかもしれないと』
白夜色の蛇が眼下を見つめる。
真っ白に、何層も何層も積もった凍える深雪。けれどその下にもまた、春を夢見て眠る花の芽があるかもしれない。
『だから、私も見守ってみたくなりました。竜が幼生をこの世界に授けたように、私もまたこの幼生という姿を用いて』
「............そうだったのね」
夜色の少年が求めたものはただ単に、自分の愛する少女を助けること。
ただそれだけ。それだけを純粋に、一途に、誰よりも強く願い続けた。その一念がシャオを、そして名詠式の創造者たちを凌駕したのだ。
──ふと、視線をもとに戻した。
蛇を肩に乗せ、変わらぬ微笑のままの名詠士へ。
「シャオはどうするの」
「しばらくこの子のお伴をしようかな。自分も興味がある。あの詠の行きつく世界の姿を。──あれを聴いた者としてね」
あの日、世界中の誰もが聴いた。
ネイトという少年とクルーエルという少女の織りなした二重奏。
「そうね......あえて言えば、シャオが負けた理由がそれだと思うの」
名詠式は自分の望むものを詠ぶもの。だから、二人で一つの詠を紡ぐためには、二人でたった一つの願い、一つの想いを共有しなくてはならない。
思い描く音一つ、歌詞一つ違えてはならない。
それを、互いの意志を重ねることだけで全て調和させることの難しさ。不可能──そう思われてるから、名詠式での合唱は想定されることすらない。
だけどネイトには、自分の心に全てを重ねてくれる少女がいた。
そしてクルーエルには、自分の想い全てを受け入れてくれる少年がいた。
「たしかにあなたはとても高貴な願いを持っていたわ。けれど──」
いと高き願いを持つ者としての孤独。
シャオには、自分の詠を共に紡いでくれる相手がいなかった。それが唯一、ネイトにあってシャオに欠けていたものなのだろう。
「......そうだね。そうかもしれない」
シャオがくすりと笑う。
普段と変わらぬ微笑。けれど、わずかにその声が湿っているようにも思えた。
「ねえシャオ──」
「ん?」
「そういえばテシエラとアルヴィルは?」
あの二人だから元気にやっていると思うけど、今どこで何をしてるんだろう。
「アルヴィルは祓名民の修行のやり直し。と言っても、祓名民の首領の庭園で草むしりの刑だけどね。テシエラは相変わらずの風来坊。いずれフェルンにも顔を出すって言ってたから」
「......そう」
「二人ともそれなりに忙しいみたい。やることがあるのはいいことだろうね」
言って、シャオが身をひるがえす。
それが何を意味するか。その単純な仕草だけで理解できた。
「もう出発しちゃうの」
「うん。旅立ちは早い方がいい。今は心のおもむくままに」
肩に白夜色の蛇を連れ、シャオが横顔だけ振り向いた。
「それじゃあねファウマ。いつかどこかで、また──」
「ええ。次に来る時は、その暑そうな外套を脱いできてね。わたし、とびきり素敵な服を用意しておくから」
「......楽しみにしてるよ」
風が、吹いた。
手すりに積もった雪が舞い上がる。ベランダだけ吹雪がきたような白一色に。視界を粉雪がさえぎったその一瞬後。
ファウマが目を開けた時には、目の前からシャオの姿は消えていた。
「......春の訪れか」
顔にあたるまぶしい陽光。目の上に手をかざし、ファウマは目を細めた。
──みんな、それぞれの道を歩きだしていく。
調律者である〈ただそこに佇立する者〉も〈その意志に牙剝く者〉も。
アルヴィル、テシエラ、それにシャオ。
三人と一緒だった時間は本当に短い一時。だけどそれは本当に価値ある一時で、自分が自分としていられた時間。
と同時に気づかされた。このままではいけないと。
「......わたしも頑張らないと」
小さな自分の手の平を握り、ファウマは胸を広げて朝陽を仰いだ。
まずは、自分の病を少しでも治したい。その上で少しずつ体力もつけて。
そしたら自分も外に出て、アルヴィルやテシエラのところに行ってみたい。自分が行ったらきっと驚くことだろう。
そしたら次に、シャオを追いかけて大陸中を回って......
うん、やりたいことはたくさんある。
だから今は、ゆっくりゆっくり、自分の描く道を歩いていこう。
──この世界に、生きていることに感謝しながら。
3
夜明けの空。
青い陽光を背に受けて、ネイトはその場にじっと立っていた。
学園がほこる広大な敷地の一端。一年生校舎から学生寮へ続く道を、さらに脇へ進んだ先にある場所だ。
背の高い草や花が無秩序に生えた荒れ地。奥には錆びた鉄製の柵があり、生徒が立ち入らぬよう周囲をぐるりと囲っている。その鉄柵の先に見えるのは古い木造校舎だった。
かつてはエルファンド名詠学舎と言われた校舎。
ネイトが立っているのは、校庭の端にあたる場所だった。
校庭といえど遊具は全て撤去され、今では古びた木製のベンチが残っているばかり。
「......まだかな」
ぽつりと呟く声は、冷たさの残る風にさらわれた。
冬がどこかへ立ち去る時、持ち帰ることを忘れた冷気の残滓。
右手に一欠片の黒曜石。
もう何度、この触媒を使ったことだろう。その硬い感触も、今では自分の手にすっかりなじんでしまった。
と──
背中の方向で小刻みな足音。誰かが走っているような。
「ネイト、おまたせ!」
振り向けば、そこにはいつもどおりの彼女がいた。
涼しげな陽光を受けて鮮やかに輝く緋色の長髪。すらりと伸びた長身を白の制服で包み、優しげに微笑む少女。
クルーエル・ソフィネットが立っていた。
「おはよ、ごめんね! ヘレンちゃんに手紙書いて、ここに来る前に投函しようって寄り道しちゃったの」
申し訳なさそうに息つく彼女。
「ううん、時間どおりだと思います。むしろ僕が早く来すぎちゃっただけだから」
早朝の待ち合わせ。
朝早く起きて名詠式の練習というのがネイトの日課なのだが、その練習にクルーエルも行きたいと言ってきたのがつい昨日のことだった。
「そうなの? どれくらい前からネイト来てたの?」
「ええと......一時間くらい前かな」
「そんなに? なんだ、それなら教えてくれればいいのに。わたし一晩中起きてたから」
鞄を後ろ手に、はにかむような彼女。
「え、それじゃあクルーエルさん徹夜?」
「うん。あ、でも平気だよ、ちゃんと目も覚めてるから!」
クルーエルが嬉しそうに握り拳を作ってみせる。
その言葉のとおり、たしかに眠そうな様子は感じない。
「でも平気ですか、体調が悪いとか」
「ううん違う違う!......違うの」
ベンチの上に鞄を置いて、クルーエルがわずかに頰を朱に染めた。
「ええと......なんだろ......なんだか緊張しちゃって」
「緊張って、名詠式の練習をですか?」
「ううん────だってほら」
なぜか用心深く周囲を眺め回し、ほっとした面持ちでクルーエルが息をつく。
「キミと二人っきりで話すのって、実はすごく久しぶりだもん」
その言葉を自分でも胸の中で繰り返し、
「──そういえば、最近そうでしたよね」
クルーエルの言葉の意味がなんとなくわかった。
あの時、彼女と一緒に学園に戻ってから。
「まずは......ええと、よくわからない打ち上げでしたっけ」
ミオ主催の『クルルお帰り会』。
それが夜通し続いた翌日、数日間学園を離れた分の補習レポート。
さらに待っていたかのように続いたのが冬期末試験だ。それも何とか乗りきって、ようやく冬休みになったかと思えば......
「あの......ごめんね。二人っきりで行くって約束してたのに」
「あ、そ、そんなことないです! ほら、みんなで行っても楽しかったから!」
しょんぼりと肩を落とす彼女。対し、ネイトは慌てて両手をふった。
〝一緒に旅行に行きませんか。僕、すごく素敵な場所を知ってるんです〟
〝母さんと一緒に大陸を回っていた時に見つけた、とっておきの秘密の場所です。クルーエルさんがどこかに観光したいなら、絶対おすすめの場所があるから〟
凱旋都市エンジュで約束した旅行の話だ。
冬休みで予定をこっそり立てていたとある日。クルーエルの部屋に遊びに来ていたエイダとミオが、テーブルに置いてあった旅行案内を見てしまい────
結果、次の日にはクラスメイト全員で旅行に行くことが決定していた。しかも二人が予定した場所とはまるで違う観光地に。
そして、そんな冬休みが終わった後は二年生への進級だ。
校舎替え、寮の部屋替え。新しい教本の用意に、より高度な講義の受講。目が回るような慌ただしさで一日一日が過ぎていった。
その煩雑な日々に、ようやく終わりが見えたのが昨日だった。
「だから、二人っきりでいる時間て本当に久しぶりなんだよ」
「......そうですね、本当に」
ふわりと薫る心地よい風に、ネイトは空を見上げた。
そんな姿を見て──
「ネイト、少しだけ背、伸びたね」
クルーエルが楽しげな様子で教えてくれた。
「え、ホントですか!」
「うん。ほら、ちょっとこっち来て」
おいでおいでと彼女が手招き。
言われるまま、彼女の隣に並んで立ってみる。けれど自分の目線はやっぱり彼女の首下あたりで──
「あれ、ごめんネイト。やっぱり変わらないかも」
「......くるーえるさーん?」
並び立った姿勢のまま、じぃっと彼女の瞳を見上げた。
......やっぱり変わらないのかな。
今は男子寮で寝てるであろうアーマからも、『相変わらず背は伸びんな』と言われ続けてしまっている。そろそろ言い返してみたいのだけれど。
「ふふ、だいじょうぶよ。今日ガッコが終わったら身長測ってみようか。きっと少し伸びてるはずだから」
楽しそうに微笑み、彼女はそっと手を差し出してきた。
「でもわたしは別に、今のネイトのままでもいいよ?」
「......僕は、もうちょっと伸びた方が嬉しいです」
その手を、ネイトはそっと握りしめた。
温かい、そしてそれ以上に、なんか心がほっとする。
「そう? でもほら、女の子の方が背が高いとわたしの方から──」
手を握りしめたまま、クルーエルがそっと唇を近づけて。
ほのかに紅を帯びた唇と唇が、重なった。
「えへへ、やっぱり二人きりでも緊張しちゃうね」
唇以上に頰を赤らめる彼女。その姿に思わず見とれてしまいそうで。
......だ、だめ、ぼうっとしちゃだめなんだから!
「そ、そういえばクルーエルさん────」
照れ隠しのつもりでネイトは必死に場つなぎの話題を探し......
「今年の競演会、またカインツさん来てくれるそうですよ」
「え、本当?」
「はい。今はまたいろいろと歩き回ってるそうですけど、夏にはトレミアにも寄ってくれるって」
「そっか......それじゃあ、その時にわたしもちゃんとお礼言いたいな。カインツさんも助けてくれたんでしょ」
そうなのだ。
この世界に戻ってきた場所は全員同じだったのに、一番最初に姿を消したのが彼だった。
〝いい詠だったよ。あとは二人で仲よくね〟
片目をつむってコートをひるがえす虹色名詠士。
それが最後に見た彼の姿だった。
ところがつい昨夜、自室に入ってきた音響鳥から聞こえてきた彼の声。
「カインツさんも元気そうでした。今はネシリスさんたちと合流して、凱旋都市の復興のお手伝いをしてるんだそうです」
「そっか、それならいいの。また会えるなら」
ベンチに置いたままの鞄から、クルーエルが名詠式に使う触媒を取りだした。
日を浴びて輝くそれは──緋色の花びら。
その花はきっと、彼女の妹と同じ名前のものだろう。
......アマリリス、きっとどこかで見てるんでしょ?
「結局、名詠式って何だったんだろうね」
見上げれば。
緋色の花びらを手の平に載せ、クルーエルがじっとそれを見つめていた。
「この世界でまだ名詠式が消えずに残ってくれてる。それって、まだわたしたちが名詠式を必要としてるからなんだよね。......だとしたら、たとえばわたし、妹に胸を張るには、どういう使い方をすればいいのかな」
「────前に、母さんからも同じこと訊かれたことがありました」
「答えは?」
ネイトは首を横に振った。
あの時の自分は、答えられなかった。
「......ええと」
視界の半分でクルーエル、もう半分で空を眺めながら。
「僕は、あんまり大きな意味って考えたことないんです」
シャオのように具体的な理想は持ってない。
母と虹色名詠士のように、名詠式で交わした長年の誓いというものもない。
「でも僕は、名詠式があって良かったって心から思ってるんです」
「それは......どうして?」
上目づかいに訊ねる彼女へ。
「だって」
両手を広げ、ネイトは言った。
「クルーエルさん、一緒に詠ってくれたじゃないですか」
一緒に心を重ねてくれる人を見つけた。そしてその人が消えてしまう危機に陥った時、それから助けることができたのも、名詠式だった。
二人で一緒に詠うという理想。
二人で一緒に詠を奏でるという約束。
──自分たちの理想も約束も、そこに全部詰まってた。
「前にも言ったかもしれないけど、僕はクルーエルさんの名詠式好きですよ。見てるだけで綺麗だし、楽しいし」
アマリリスだってそう言うだろう。そうでなければ、自分の全てを賭してまでクルーエルを助けようなんてしないはずなんだから。
「だから、今までどおりでいいと思うんです。クルーエルさんの名詠式は、僕が初めて会った時からずっと────クルーエルさんそのものだったから」
アマリリスが愛し、守り続けた詠。
黎明の神鳥が愛し、慕い続けた詠。
それがクルーエルの紡ぐ詠であり、彼女をそのまま音色に表したものなのだから。
「............うん」
緋色の花をじっと見つめ、クルーエルがうなずいた。
「そうだよね、わたしの名詠式はわたし自身だもん......頑張らないとね。ケイト先生にも、二年生になったんだし、新入生のお手本になるようにって」
「そうですよ」
涼やかな陽光を仰ぎ見る。
そう──
見慣れた学校の、見慣れた景色。それでもその風景は、少しずつ色を変えつつある。
冬から春へ。
ついこの前に転入したばかりかと思っていたのに、季節は足早に巡っていく。
二年生に進級して、そして今この時も時間は流れていく。
少しずつ少しずつ。けれど、振り返れば遥かに過ぎ去ってしまうほどの速さで。
それを感じた瞬間。
風が、吹いた。
......あ。
ふと薫る風には、微かに秋の枯れ草色が混ざっていた。
訪れる春でもなく、過ぎ去った冬でもない。
それよりずっとずっと前の季節。
枯れ草色の、今は過ぎ去ってしまった秋色の思い出。
──ねえ母さん。
──母さんも、カインツさんとこの場所を歩いたことがありますか。
目の前に、枯れ草色のコートを羽織る少年と、その隣を、恥ずかしそうに彼から少しだけ距離を置いて歩く少女の姿が見えた気がした。
きっと、遠い昔、二人も同じ場所を歩いていたのだろう。
「ネイト?」
ふしぎそうな瞳でクルーエルが首をかしげる。
「......僕、ようやく母さんとの約束を果たせた気がします」
またたきをした次の瞬間、その二人の幻はすっと消えてしまった。
──もう、わたしたちを追わなくていい。母がそう言っている、そんな気がする。
二人が歩いた道を、ここから先は僕たちが歩いていかなくちゃいけないのだから。
......そうですよね、母さん、カインツさん。
ようやく母との約束が全部守れた。だから──
「あの、......クルーエルさん!」
「なに? あらたまっちゃって」
「僕、クルーエルさんのこと絶対守りますから!」
瞬間、それを聞いた彼女が小さく飛び跳ねた。
「え、ど、どうしちゃったのいきなり! それって......どういう......」
「その......ええと......急に言いたくなっちゃって。特に何かあるわけじゃないですけど」
「──ああ、なんだ。びっくりしたよ。わたしてっきり、また怖い目に遭うのかなって」
胸に手をあてて彼女が小さく息をつく。
ほっとしたような表情。
「あ、ごめんなさい。逆に驚かせちゃいました?」
「ううん。いいよ、嬉しいから。............じゃあ、次はわたしから聞いてもいい?」
「はい、何ですか」
すると彼女は姿勢をただし、胸に手をあてて──
「............」
「クルーエルさん?」
あれ、どうしたんだろう。
よくよく見れば、胸に手をあてたままクルーエルの顔がみるみる真っ赤になって。
「や、やっぱりダメ! いまのナシ!」
「え、どうしてです?」
だって──消え入りそうな声でそう呟いて、クルーエルはさっと顔をそらしてしまった。
「......その......恥ずかしくて............言えないよ」
「そんなことないです」
そんなクルーエルの横に回りこみ、ネイトは彼女の目をじっと見つめた。
「僕、ちゃんと聞きますから」
「......笑ったりしない?............返事も、してくれる?」
「笑いません。ちゃんと返事だってしますから」
「や、約束だよ?──それじゃあ、いいんだね。言うよ?」
緋色の髪をなびかせて。
彼女は恥ずかしそうに、けれど本当に嬉しそうにこう言った。
「......あのね、ネイト」
いつか、みんながこの学校を卒業した先も、
いつか、みんなが自分の道に向かって別々に歩きだしたその後も、
わたしたちは......ずっと一緒だよ?
わたしとキミはずっと一緒に、幸せに歩いていけるよね?
......そう。
ずっと心に決めていた。
母との約束を果たして胸を真っ白にした後は、今度こそ、自分の一番大切な人と一番大切な約束をしようって。
どんな約束であったって守ってみせるって────
だから──
ゆっくりと、彼女に伝わるようにうなずいた。
勇気を出す必要はなかった。
ただ自分の気持ちそのままに、うなずいた。
「......ありがとう」
目の前の少女が、濡れるまぶたを指先でおさえる姿。
──わたし、キミと会えて本当によかった。
夜色の少年のところへ、緋色の髪の少女がゆっくりと歩いていく。
どちらが先に手を差しだしたのだろう。
互いに両手を広げ、互いに歩を進め......
少年と少女は、優しくお互いを抱きしめあった。
青く輝く陽が煌々と照らす、その学園で。
どこからともなく。
あの日、世界中の誰もが聴いた、夜明け色の詠が流れていた。
いつまでも、ずっといつまでも。
そう。だから、
いつかどこかで、またきっと────


あとがき
このあとがきを終えれば、ひとまず『黄昏色の詠使い』における自分の役目は終わりになります。残すところあと八頁少々、どうか最後までお付き合いください。
お久しぶりです、細音啓です。
『黄昏色の詠使いX』、手にとって頂きありがとうございます。
詠も物語も世界観も、最終話を飾るにふさわしいものをと思って積み上げてきたつもりなのですが、それを少しでも感じて頂けるものになっていれば幸いです。
最後だから苦労談の一つでもと思っていたのですが、やはりこうして最後まで来ると、苦しかったことは忘れてしまうからふしぎです。
──今、振り返ってみて。
幸いにも物語を書き続けられて、その間、担当編集の方からは常々、「黄昏色は幸せな作品です」と言われていました。読者の方が口づてで広めてくださったり、時にはウェブで紹介してくださったり、書店の店員さんが手製POPを作ってくださったり──そうした応援がとても多く、この力が編集部にも届きやすかったそうです。
そして何より、一巻目を手にしてくれた方が最後まで応援してくださったこと。
そういった全ての支えによって、こうして物語を続けられました。この場を借りてお礼申し上げます。本当にありがとうございます。
さて。せっかくですので、ここから先は時系列順に振り返ってのお話を。
◆構想──始まりに『名前』あり
『イヴは夜明けに微笑んで』にて新人賞を頂いたのが、今からもう三年半前になります。
構想自体はそれより前だったのですが、ひらめいたキッカケは、細音にしては珍しくもタイトルが先にあって、それから物語がついてきたという形です。
「夜色召喚術士」──最初は本当にシンプルなタイトルだけを思いついて、「でも召喚って何だろう。単なる召喚じゃ味気ないし......」、というところから名詠式が生まれ、登場人物たちが生まれ......という具合。
名前を詠ぶから名詠式。「夜色召喚術士」という『名前』から、そういった全ての世界観と物語が生まれたという──今作については、まさにその名詠式を体現した関係になっている気がして、ちょっとふしぎな縁がある気がします。
◆詠使い
苦労話がないという最初の話と矛盾するようですが、とにかく最後まで繊細な調整が必要だったものが「詠」でした。いつも締切間際まで悩んで、それを原稿の校正時にまた直したり......いわゆる「呪文」にも「歌」にも染めず、両者の中間くらいに仕上げようと心がけてみましたが、一つでも気に入ってくださった詠があれば幸いです。
というわけで、代表的な三人の詠について、少しだけ裏話ぽいことを。
・イブマリー、『始まりの詠』
とにかく一番にお目見えする〈讃来歌〉です。最初に作ったのもこの詠で、物語の方向性を決定づけた詠でもあります。「さあ、生まれ落ちた子よ。世界があなたを望むのならば~」という、〈讃来歌〉の共通詞もこの時に生まれました。
今では多くの名詠士が使っていますが、あの共通詞はそういう意味で、世界中の誰よりイブマリーのためのものかもしれません。
・クルーエル、『人として詠うということ』
イブマリーに続き二番目に出てくる詠が、クルーエルの詠です。
クルーエルについては一つのテーマがあって、それが「『人』としての成長」でした。
一巻当初は名詠式の勉強に乗り気でなかった少女が、少しずつ変わっていく──そんな姿を描きたくて、詠のフレーズもそれを反映させています。
五巻(第一楽章ラスト)、九巻(第二楽章ラスト)、十巻(第三楽章)。各楽章の最後には必ずクルーエルの詠が流れますが、この詞の内容が、第二楽章時は第一楽章を、第三楽章時は第二楽章の詞の内容を受けたものになっています。
楽章が進む事に、クルーエルの詠も成長していく。そんなイメージです。
・ネイト、『Sophit eleEnde』
一巻の三番目に登場する詠が、ネイトの詠です。
そんなネイトについては、イブマリーの詠を継承しつつ、徐々に自分の色を見せていきたいなと。蝙蝠やら黒馬、黒薔薇など、一番たくさんの詠を考えたのがネイトでした。小さな詠を積み重ね、やがて自分の名詠式を探して歩いていくようなイメージで。
イブマリーの詠から始まる「さあ生まれ落ちた子よ、世界があなたを望むのならば~」という〈讃来歌〉の共通詞に対し、ネイトの最後の詠だけは次のようになっています。
──「さあ生まれ目覚めた子よ、世界があなたを望むのだから」
もしかしたら、これこそが彼の見出した詠の象徴なのかも。
◆セラフェノ言語(セラフェノ音語、セラフェノ真言)
詠を作る際、やはり気を使ったものがセラフェノ音語とセラフェノ真言です。
解読することで色々と面白いことが見えるこの言語ですが、ウェブやブログ等で解読に挑戦してくださった方がたくさんいらっしゃって、そのお礼に、このあとがきでセラフェノ真言の設定資料を付けようとも考えたのですが......それはあえて考え直しました。
というのも──またごく近いうち、セラフェノ言語の資料をおまけとして添付できるであろう小説を書けそうだから。その時まで、もう少しだけ温めておこうと思います。
(今は、『緋色の少女の贈奏』での訳語公開ということで)
......さて。そろそろ、あとがきの残りも短くなってきました。
ページが残っているうちに、ここまでたくさんの力をお借りした方にお礼を。
竹岡美穂さん──最後まで素敵なイラスト、本当にありがとうございました。本当に、イラストの力にどれだけ助けられたことか。無茶なお願いばかりする迷惑な作家ですが、また是非、一緒にお仕事をさせて頂けたらと願っています。
編集Kさん──竹岡さんと引き合わせてくださったこと、受賞時からずっとご尽力頂いたこと。ここまで来れたのは、やはりKさんの力が大きいと思います。本当にありがとうございます。そして、新シリーズも引き続きよろしくお願いいたします。
そして全ての方へ──最後までネイトとクルーエル、イブマリーやカインツたちの歩みを見守って頂き、本当にありがとうございました。もちろん「黄昏」の世界はこれで終わりというわけでなく、ネイトやクルーエルの物語もまた、色々とドタバタがあるような気がします。いつかどこかで、また、ふとネイトたちの姿を見かけましたら、「お、元気にしてるんだ」と思って頂ければうれしいです。
◆この先のこと
本シリーズ後の物語について。ひとまずの区切りまでたどり着いた「黄昏」から舞台を移し、次なる物語は「楽園」をめぐる少年と少女の物語を考えています。
「黄昏」の四巻が刊行される前後くらいから、それと並行して世界観を構築し始めていた物語がありました。構想段階から考えると丸二年くらいでしょうか。
それでは、少しだけそちらのご紹介を──

◆そして物語は「楽園」へ
ようこそ。穢歌の庭に堕ち、そして浮遊大陸へと昇り帰った者よ。
千年、凍てついた楽園がお前を待っていた。
舞台は、ただ一つ人が住まう地である浮遊大陸オービエ・クレア。
その浮遊大陸の高度一万メートル下には『穢歌の庭』と呼ばれる「氷結の鏡面世界」が存在し、人は穢歌の庭の侵攻に怯えながら暮らしていた。
これはそんな世界をめぐる──結界を支える少女と、双剣使いの少年の物語。







『氷結鏡界のエデン 楽園幻想』
2009年、9月19日(土)刊行。
同日売のドラゴンマガジンにて短編掲載。
この本の刊行が2009年8月ですので、実は来月刊行なんです。
イラストは、カスカベアキラさんにお引き受け頂きました。
ちなみに、完全新シリーズではありますが、ここまで黄昏を読んでくださった方なら、「これ、もしかして」とワクワクしてもらえる要素があったりするかもしれません。(あとかきでも触れたアレの箇所とか、色々と面白いことに)
世界観、物語、登場人物、そして種々の独自要素──「黄昏」の長所を伸ばしつつ、足りなかった要素を加えられる作品にできればなと思います。ここからまた頑張っていきますので、どうか引き続き応援して頂ければと願っています。
さて。黄昏の裏話もスペシャルサンクスも、次回作の予告も済みました。本当に、これがお別れの挨拶になってしまいます。それでは......
『黄昏色の詠使い』を最後までお読み頂き、本当にありがとうございます。ネイトやクルーエル、そして物語の全ての登場人物たちに代わり、この場でお礼申し上げます。
願わくば来月、また『氷結鏡界のエデン』でお会いできますように。
二○○九年六月上旬、暑い風の吹く夜に
細音 啓

特別付録
カラーイラストセレクション





本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
富士見ファンタジア文庫
黄昏色の詠使い イヴは夜明けに微笑んで
平成19年1月25日 初版発行
黄昏色の詩使いⅡ 奏でる少女の道行きは
平成19年5月25日 初版発行
黄昏色の詩使いⅢ アマデウスの詩、謳え敗者の王
平成19年7月25日 初版発行
黄昏色の詠使いⅣ 踊る世界、イヴの調律
平成19年11月25日 初版発行
黄昏色の詠使いⅤ 全ての歌を夢見る子供たち
平成20年2月25日 初版発行
黄昏色の詠使いⅥ そしてシャオの福音来たり
平成20年4月25日 初版発行
黄昏色の詠使いⅦ 新約の扉、汝ミクヴァの洗礼よ
平成20年8月25日 初版発行
黄昏色の詠使いⅧ 百億の星にリリスは祈り
平成20年12月25日 初版発行
黄昏色の詠使いⅨ ソフィア、詠と絆と涙を抱いて
平成21年3月25日 初版発行
黄昏色の詠使いⅩ 夜明け色の詠使い
平成21年8月25日 初版発行
【全巻セット】
黄昏色の詠使い
全10巻セット〈豪華特典版〉
細音 啓

平成26年6月5日 発行
発行者 佐藤 忍
発行所 株式会社KADOKAWA
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
03-3238-8745(営業)
http://www.kadokawa.co.jp/
企画・編集 富士見書房
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